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(どの集団にも問題者は一定割合いる) つい最近、報道された「セクハラサイコロ」の教師ではないが、新聞、テレビが「こんなひどい先生がいた」「ひどい警察官がいた」と大々的に報道し、その度に、校長や警察署長が頭を下げて謝罪するというシーンが頻繁に見られる。 確かに教師や警察官に、「この人、どうなっているのか」とか、「勘違いだよ」と思える人がいることは事実だが、それは超一流の会社の社員や、国会議員、官僚にも一定数、問題者はいるのと同じで、別に教師や警察官に特に異常者が多い訳ではない。 では、どうして、こうも頻繁に教師や警察官の不祥事、問題が報道されるのかと、少し詳しく見てみると、そこに、現在の日本の病巣が見えてきて、教師や警察官はむしろ被害者だと言える状況が浮かんでくる。(忘れ物の罰でスクワット100回) 家族の一員が通っている中学校で、子供が家の夕飯時に、足が筋肉痛で立ったり座ったりがきついという話をした。理由を聞いてみると、教師が忘れ物をした生徒に、100回のスクワットをさせたのだという。それでなくても運動不足の今の子供にとって、連続100回のスクワットは筋肉痛は当然、中には足を痛める者も出ることさえ考えられる。 その話を聞いて、筆者の当初の感想は「そんなことをマスコミが聞いたら、すぐに原稿にして、その教師は大問題になるのではないか」というものだった。 しかし、少し話を聞いて見ると、クラスで生徒の忘れ物が非常に多く、教師は何回も注意をしていた。それでも、忘れ物は減らない。教師は「今度忘れ物をしたら、罰でスクワット100回をさせる」と宣言をしたが、忘れ物は依然として多く、遂に、忘れてきた生徒にスクワットをさせたというのだ。 筆者がスクワットをした生徒が何人いたかと聞くと、「20人」だという。クラスの生徒は35人である。つまり、3分の2の生徒は何回言っても、忘れ物がなくならないので、遂にスクワットを命じて、体で痛さを覚えさせたのだ。ここまで聞くと、スクワット100回を命じた教師は教育的見地で行ったものであり、筆者は納得した。 しかし、同時に、何回も指導し注意しても、クラスの3分の2の生徒が忘れ物をしてくるという状態はすさまじい。そして、この話をもし、新聞、テレビがかぎつけたら、前後の事情を聞かず、「暴力教師、20人の生徒に魔のスクワット100回」と大々的に報道するだろうと感じた。(授業が成り立たなくなっている公立の小中学校) 今、授業参観などで、公立の小中学校に行ってみると、わかるが、教師が授業をしていても、教師の方を見て、おとなしく話を聞いている生徒は3分の1である。多くの生徒は隣や後ろの生徒と話をして、教師の話を聞いていない。それだけでなく、数人の生徒は席から立って歩き回っている。 これは特に荒れている学校ではなく、平均的な学校でこうである。現在東京では、中学校では、自分が通う学校を選べるようになっていて、少し意識が高い親は少しでも荒れていない学校、問題が少ない学校を探して、子供をその学校に入れようとするので、評判のよい学校は競争が激しい。 そんな問題のある子供は教師が注意をすればよいではないかと思う人もいると思うが、注意ができないのだ。筆者もそういう光景を何回か見たが、授業中に歩き回っている生徒を教師や、参観に来た他の親が注意すると、その歩き回っている子の親が注意した人間に、猛烈に食ってかかってくる。 「自分の子供は自由に育てている。それを邪魔にするな」というのだ。自由というのは、自分の自由だけでなく、他の人にも自由があり、自分の子供が自由勝手にすることで、他の多くの子供の自由が奪われているという発想が、こうした親にはない。自由には義務や思いやりが必然的について来るという簡単なことが理解できないのだ。(毎日夜9時、10時まで勤務する教師) 東京の公立の中学校の教師などの話を聞くと、教師が学校を出て帰路に着くのは、平均して夜の9時、10時だという。また、夏休みなど長期の休みはほとんど毎日、学校に通常の日のように出勤しているという。 我々が子供の頃という大昔でなくても、20年くらい前までの学校では、教師は夕方には帰れたし、長期休暇はほとんどが休みで、教師は給料は安いが自分の時間が多くとれるのでということで、教師になる人が結構いた。しかし、今は全く違うのだ。 どうしてかと思って、現在の学校関係者に話を聞くと、教師の時間の7割くらいは、親とのやりとりにとられるという。とにかく、今の生徒の親は信じられないことを次々に要求してくるという。 例えば、クラス替えになった。その結果を聞いて、多くの親が、「自分の子供はこのクラスに入れたかったのに、違った。おかしい。変えてほしい」と言ってくる。また、クラス内の席順でも、席順が決まると、「自分の子供を○○さんの隣にしたのはとんでもない。席を変えてくれ」というようなことを言ってくる。 学芸会で自分の子供の役が気に入らないから、主役をさせろとか、運動会での役割を変えろなど、とにかく、何かある度に学校の教師に苦情、注文をつけてくる。 東京の都立高校の入試は内申点と、試験の結果が5対5で評価される。そして、中学での成績は昔と違って今は絶対評価なので、成績が良ければ、全員にでも5の評価をつけることができる。 そこで、親の要求がきつい学校では、3年生のクラスになると、校内の試験問題を極端にやさしくして、多くの生徒に5をとらせるようにする。それでも、できないので、2とか、3とかつく子供がいる。そうすると、その親が成績に下駄を履かせて、2、3を4、5にするように求めてくるのだ。 大学入学時に教員になろうと思って、教員資格をとれる大学やそのコースに進んだ大学生が、教育実習で、そうした現場を見て、教師になることを止める者が多い。企業の採用面接で話をしていて、教師になるつもりだったが、止めたという学生は本当に多い。(刑事事件以外の事案対応を求められる警察) 警察官もよくマスコミの槍玉にあがる。その多くは、自分の子供のことなどで、警察に相談に行ったが、満足な対応がしてもらえない内に、子供が殺されたとか、大怪我をさせられたというようなことである。 しかし、警察関係者と話をすると、現代の日本人は何かあると、とにかく何でも警察に言ってくる。サルが山から下りてきて、暴れているということでも警察だし、娘が変な男と付き合っていて、別れさせたいという話でも、全部警察に対応を求めてくる。 犯罪者を取り締まるのは警察の役割だが、犯罪ではない事案にまで、警察は役割を求められるのだ。自分も娘が変な男と付き合っているので別れさせたいという話は犯罪ではない。だから、警察は「民事不介入」で介入できない。しかし、恋人同士の間で喧嘩や傷害が起きると、親は「あんなに何回もお願いしていたのに、警察は対応してくれなかった。娘が死んだり、怪我をしたのは警察のせい」となって、マスコミに訴えるのだ。 少し前、ある女子大生が交際していた男性と別れようとして、別れられず、逃げ回っている内に、男が頭に来て、その女子大生を殺したという事件があった。この時も、その女子大生の両親は、「何回も訴えたのに警察は対応してくれなかったので、娘は死んだ。警察に殺されたのだ」とマスコミに訴え、マスコミもそういうトーンで報道した。 ヤクザな男と付き合い、高価なプレゼントをもらったり、高いレストランで食事をしていたら、おかしいと思って、注意するのが親の役目だし、そもそも男性の見方、選び方を教えるのが親である。そうした教育をきちんとしてこなかった自分を恥じるという発想が今の親世代にはないのだ。 男女の交際の話は難しい。第三者にとって、本当に別れたいと思って必死なのか、付き合いの中での痴話喧嘩で、しばらくして、また、熱々になるのか見極めがつかない。 筆者も女性から、付き合っている男性と別れたいと真剣に相談を受け、アドバイスをしたことが何回もあるが、その多くの女性が、別れたいと言っていた男性とよりを戻し、熱々になっている。 別れたいと言って、男性の問題点や欠点を嫌というほど聞かされたので、別れ方を伝授し、例えば、ギャンブル好きだというので、「ギャンブル好きの人はほとんどが一生治らないよ」と言って、別れるように薦めた。でも、よりを戻し、熱々になると、「あの人のひどいことを言われた」と今度はこちらを責めてくるのだ。(マスコミ利用の仕方も知っている親子たち) 今の小中高大学生の親の世代は、とにかく、ディマンディングである。自分が何をして、何をしないといけないと思う以前に、他人に何かを要求する。そして、その要求がいれられないとなると、猛烈に抗議をする。更に、どう訴えたらマスコミが取り上げるかの智恵もあるので、マスコミを利用したりする。 明らかに、不等な要求をしているので、学校や警察が対応は無理というと、「マスコミがこれを知ったら、大変ですよ」というような脅しも平気で口にする。 こうしたモンスターペアレンツが一部ではなく、急拡大している。そして、その親の行動を見て、不等な要求に対応しなかった学校や警察がマスコミに袋叩きに遭っているのを子供は見ている。その子供たちは、そこから、どうつけば、学校や警察は叩かれ、頭を下げるかを習っていくのだ。 こうした子供が今、大学生となり、就職面接などに出てきて、同じ態度で接してくるのだ。面接官の言葉尻をつかまえて文句を言い、ネットに書いたり、大学に訴えたりする。大学は対応をしないと、今度は自分たちが攻撃されるのを知っているので、企業にクレームを言う。 言われれば、企業も事なかれ主義者が幹部なので、頭を下げる。コンプライアンスというアメリカから入ってきた、訳のわかったようなわらかないことで、現場の採用担当者は振り回されるので、余計本音を言わなくなる。結果、大学生は実情を知らないので、就職活動がうまくいかないという悪循環となるのだ。
2010.10.30
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(70円台目前の時) ここ数日、仕事が忙しく、このブログを書く時間がとれなかったが、その間に色々なことがあった。気になる話はまた、別の機会に書くとして、今日は円高問題を少し書くこととする。 この欄でずっと書いているように、円高は政府日銀が初期にもっと適切な対応をしていれば、こんな極端な円高になることはなかった。しかし、何もしない民主党政権を見透かすように、世界の為替投資家が円買いを推進し、80円を突破して、70円台になることは時間も問題となってきた。 市場に任せるなどというバカな発言は、今の時代を知らない人の言葉である。今はどこの国も政府がどういう行動をしたら、自国に有利になるかということを考え、優秀な頭脳の人をその戦略、戦術を作り、実行させる担当者として置いている。(アメリカ政府はドル安誘導政策) ドル安はアメリカ経済の弱さの表れという解説をする人がいる。確かにアメリカは色々問題を抱えているし、アメリカが1強でいた時代は終わりつつあることは事実である。しかし、今のドル安がそれだけで起きている訳ではない。 政府が意図的にドル安政策を打ち出し、そのターゲットのために、次々と対策を打っているというのが、今のアメリカである。かつてレーガン大統領の時代のように、ドルは誇りであり、ドルは高くないといけないという発想は今のオバマにはない。 どうしたら、自国に有利かだけで行動をしている。アメリカは世界最強の金融、ITでは、リーマンショックのマイナスを乗り越え、強さを復活させた。しかし、メーカー部分ではまだ、企業は立ち直っていない。ドル安はこのメーカー支援という意味では大きい意味を持っている。ドル安にすれば、お得だとの思いから、ドルを買う人も増えてくるという思いもある。(韓国企業躍進の蔭にウォン安誘導) あまり言われていないが、サムソンやLG、現代などが世界的に強くなってきて、日本企業を脅かし、追い越し出した中、韓国の通貨ウォンは対円に対して、極端なウォン安である。そして、これは韓国政府がウォン安になるように、強力な為替介入をしているためだという。 日本人は韓国企業というと、まだ、日本企業よりも下というイメージの人が多いが、実態はまったく違う。今、世界一の電機メーカ―はサムソンである。サムソンの携帯電話は北欧のノキアに次いで、世界2位であり、ヨーロッパでは猛烈な勢いで伸びている。 チリの鉱山落盤事故の際に、閉じ込められた人と家族をつなぐ携帯メールのやりとりがあったが、その携帯はサムソンのものだった。LGも頑張っていて、世界のエアコンの1位の会社はLGである。2位はパナソニックだが、吸収した三洋を加えても、LGの半分の規模である。 アメリカ人が今一番買いたい車はホンダでも、トヨタでもない。現代の車である。アメリカに行くと、現代の自動車が目立つようになっている。韓国は人口が日本の半分の国である。輸出で金を稼ぐことが必須である。だから、大統領が自ら、世界の大型商談に出かけ、決まりかかっていた日本企業に勝って、契約を勝ち取ったりしている。その際に、ウォン安は大きな武器なのである。(輸出で稼いできた日本) 世界の色々な国が政府主導で、自国通貨安で輸出ドライブをかけている中で、日本だけが本当にドンキホーテである。国をどうするとか、どういう方向に持っていくというプランがまったくないし、局面局面での適切な対応もない。 しかし、ここまで来てしまうと、円高をどうするというようなことを言っても仕方がないレベルまで来てしまった。とすれば、これを機会に、日本をどう変えるかを考える時だと思う。 日本企業は戦後、無資源国だから、製品を海外に輸出して生活するしかないということで、輸出中心の国作りをしてきた。自動車、電機、かつては、造船、繊維もそうだったが、頂点の企業を支える下請け企業が多数存在し、海外から輸入した原材料を、日本国内で加工して、安くて良質の製品を作り、海外に輸出して、利益を得てきた。 総合商社という世界の例のないビジネスモデルも、こうした製造企業を支援するために出来たものであり、日本が世界の生産基地であったからこそ、原材料の買い付けと、出来上がった商品の海外での販売に、総合商社の役割があったのである。メーカーが海外に支店網をもたなくても、かつては商社が代わりの機能を果たしてくれたのである。 輸出と輸入の差額が年間約10兆円で、高度成長時代からバブル時代にかけて、いや、つい数年前まで、これで日本は生活をしてきたのである。(アメリカで稼いで立ち直った日本) 2000年のITバブルの崩壊で、世界がIT不況になり、日本も2003年の株価が底になり、失業率も大きく跳ね上がった。しかし、2001年に首相に就任した小泉氏は、構造改革、自由化とともに、為替市場に大幅介入して円安誘導を行い、不動産バブルだったアメリカへの輸出で、この経済危機を乗り切る施策をとった。 これが次第に効果をあげ、年間50兆円規模だった輸出は2007年には80兆円と、30兆円も増えた。多くの日本企業がアメリカに大量の輸出をして、バブル時代を上回る史上空前の好決算となったのである。 電機、自動車だけでなく、製薬業界ですら、武田薬品が利益の7割をアメリカから稼ぐなど、まさにアメリカに集中輸出をしたのである。世界の目も、日本はやっと小泉政権になって、世界のルールの下で行動する国になった」と判断し、外人が日本の株を買い、株が大幅上昇した。 小泉氏を「アメリカの忠実なポチ」と酷評する評論家、学者もいたが、アメリカで大いに稼ぐのだから、アメリカからノーと言われないように、友好関係を構築するのは当然の行為で、アメリカの反応もわからずに、基地の問題をこじらせ、それが尖閣問題につながるようにしてしまった民主党政権よりは余程賢い行為だったのだ。 しかし、小泉氏が政権を去り、民主党が小沢一郎氏の指導で、与党が過半数割の参議院で政府に何もさせないという戦略に出たために、自民党政権は日銀総裁、副総裁を決めることができずに立ち往生するなど、何もできなくなり、マスコミの大合唱もあり、国民は民主党政権を選択した。結果は、この1年間の混乱が示している。(農業自給、海外資産の有効活用) 翻って、日本は本当に輸出で年間10兆円稼がないとやっていけない国なのかということを再度考える必要があるのではないか。戦後の教育では、資源がない国だから、工業製品の輸出で儲けるしかないと教えられてきた。だが、最近、そうではないという、色々なデータが出てきている。 たとえば、農水省は、「日本の農業は弱く、保護しないといけない」といい続け、多額の補助金を農家に注ぎ込んできた。しかし、最近の専門家のデータだと、日本は世界で4位の農業国家であり、国土に、これだけ緑が多く、農業資源が豊かな国はないという。現に、青森のりんごや日本の米、牛肉は輸出で海外に出て行くようになり、好評である。 農水省は食糧自給率を40%と公表しているが、これは、役人が世界の先進国が使っていないカロリーベースという基準を使って低く計算したものであり、実際は日本の食糧自給率は70%である。これだけ、崩壊したような農業で、7割も自給しているのである。きちんとした農政をすれば、食糧の自給も難しくはないのだ。 また、戦後の経済発展で、日本の海外純資産は200兆円になったというデータがある。これを海外の有能は専門家に任せて運用してもらい、年間5%で運用してもらえば、10兆円の利子がつくことになる。必死になって、製造業の輸出で稼がないといけないという悲壮感で取り組む必要も薄らいでくる。 円高になると、資金を海外投資をするという点でも有利になる。100数十兆円と言われる年金資金も、マイナスを出して資金を減らすような役人管理ではなく、有能な投資家に任せれば、これも5%で回せば、7、8兆円のリターンになる。(中小企業は脱下請けの時) 大手の製造企業の下請けで生活してきた中小企業は、大手企業からの値下げ要求に耐えられなくなってきて、廃業や縮小が相次いでいるという。でも、これも、日本の構造を変える時期に来ていると考えるべきなのではないか。 大手の自動車メーカーは半年に1回、下請企業に納入製品の値下げを要求してくるという。それも、交渉ではなく、ファックスで通告だけだという。トヨタが始め、今はどこの会社も同じようなことをしているという。 そこまでされて、仕事を続ける意味があるのか。そう考え、廃業する会社が増えているのだという。勿論、大きな転換期にには、政府の資金的な援助などは不可欠である。子供手当てなどではなく、こうしたことにこそ、政府が大々的に資金援助をして、仕事の転換を図るべきである。クリントン大統領が製造業から金融やITに労働者を政府の資金援助で転換させたように。
2010.10.18
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(事実を確認せずに、嘘を再三いう大学教授) テレビのよく出ている大学教授、政治家、評論家には、二言目には「小泉政権が格差を拡大し、日本を駄目にした」という人が多い。慶應大学の金子勝教授などはその筆頭で、まったく関係ない話題の時でも、「そうなったのは小泉政権が原因を作ったのです」と今でも言う。 朝日新聞が始めた、「小泉政権は格差を拡大し、福祉をカットし、日本を破壊した」というキャンペーンにも近いPR行動は、「嘘でも百回言っていれば、本当になる」の例えのように、今でも多くの人が使うようになり、タクシーに乗っても、運転手がそのフレーズを言う。マスコミの怖さである。 小泉純一郎という人を好きか嫌いかは別として、政治家は結果で評価しないといけない。そして、結果を見るときに、風評ではなく、事実を見て、それに基づいて議論をしないといけない。二言目には「小泉が」という金子教授などは論外である。あれだけいい加減なことを言う人を慶應はよく恥ずかしくもなく、教授のままでしておくものだと思う。(「小泉は格差を縮小した」が事実) 小泉政権は2001年から2006年の間の5年余りである。経済政策は何か策を打ってから結果が出るまでに、1年くらいのタイムラグがあるので、彼や彼の政権が取った策が経済に効果が出た時期は2002年から2007年くらいと見るのが妥当である。 2000年はミレニアムとか言われ、1990年代の後半からITバブルが膨れ上がり、2000年を迎えるとともに、ITバブルが破裂した。ここから、世界各国でIT不況が始まる。日本も例外ではなく、株価も下落を始め、失業率もどんどん上昇していった。 小泉政権は郵貯の民営化などの代表されるように、規制緩和と民営化できるものは官から民へ移行することにし、どんどん経済や国の体制を変えていった。彼や彼のブレーンである竹中平蔵氏は「世界の常識から外れた場所にいる日本を世界の常識が通用する国に」しようと努力した。 その施策の結果どうなったか。数字、データだけを下に話をすると、2003年を底に経済は立ち直り、株価は小泉治世下で2倍になった。失業率は半減した。「小泉は格差を拡大した」という金子教授や朝日新聞の言っていることは本当かと調べると、彼の治世下では、貧富の格差を示す、ジニ係数は1980年代からずっと拡大していたのが、小泉政権下では、縮小した。「小泉は格差を縮小した」が事実である。(議論の根拠を揺るがす食糧自給率の話) 日本人は誰かが何かを言うと、事実を確認しないで、それを引用し、多くの人がその話をする内に、嘘が事実のように伝承されることになるという傾向がある。幕末の志士、阪本竜馬がいつまでも寝小便の癖が直らず、弱虫だったという話は、司馬遼太郎氏が書いた小説の中で使われ、それがあたかも事実のように、多くの人が使いだし、国民の間に定着している。 データをしっかり、確認した話をしないと、とんでもない話になる。違う分野の話だが、農水省は二言目には、日本の農業は弱体で、保護が必要を言い続けてきた。そして、それを言う大きな根拠として、食糧の自給率40%がある。何回も言われているので、多くの日本人が日本の食糧自給率は40%だと記憶している。 でも、実際はといえば、日本の食糧自給率は66~68%である。およそ7割は自給なのである。この30%近いさは何かと言えば、農水省は農業が大変だを言うために、食糧自給率を計算する基準をそれまでの「金額ベース」から「カロリーベース」に変えた。 いきなり、変えると文句を言われるので、しばらくの間は、2つの計算方法を併記し、その内に、カロリーベースだけを書くようにするという周到な計算で、今はカロリーベースだけになった。 世界各国がカロリーベースで計算しているなら、基準の変更もよいだろう。しかし、主要先進国のほとんどの国が金額ベースを採用し、カロリーベースを採用しているのは、日本と韓国だけである。 百歩譲って、カロリーベースでも、単純にカロリーベースだけなら、まだ許される。農水省はカロリーベースを導入するだけでなく、独自の判断基準を入れたのである。それは家畜などは、エサが国産ならよいが輸入品なら、自給率が大きく下がるという計算方法である。その結果卵の自給率は10%となり、豚の自給率は5%になってしまった。エサを考えずに計算すると、カロリーベースでも、卵は95%、豚は54%の自給率である。(事実を詰めて議論をしないと、また、戦争への道) 阪本竜馬の子供の時はどうであったかは、別に寝小便をいつまでしていたかいないかで、日本が変わる訳ではない。しかし、食糧自給率の問題は、議論する根拠がまったく違うものとなり、議論が逆の結論に至る恐れすらある、データの改ざんに近い話である。 日本人は、なぜ、こうも事実を見ようしたり、自分でデータを確認することをせずに、他人が言うことを簡単に信用し、引用したり、孫引きをしたりするのであろうか。 筆者は、それは太平洋戦争の突入する前、軍部の力が強くなってきて、アメリカと戦ったら、勝てないという常識がどんどん後ろに追いやられ、事実を前提としない、蛮勇が大手を振り出した時からのことのように思える。 その傾向は、戦争に負けた時にも、続き、敗戦を終戦と言い換えた。そして、自分たちが被害者に変わり、戦争になぜ突入したのか、そして、どうして負けたのかという真摯な議論、反省はどこかに閉じ込め、「日本人が核の被害者」になることで、「戦争は悲惨なもの」という極めて抽象的な話になり、なぜ、どうしてという議論が消えてしまった。 事実関係をきちんと認め、なぜ、そうなったか、その影響はなどをきちんと詰めないでいると、歴史から何も学ばず、また、同じようなことが起きたときに、日本人は同じ過ちをする危険性が大である。(大きな事実誤認を訂正もしないテレビ) マスコミが事実関係を詰めることをしない傾向は特にテレビに強い。テレビは報道番組でも、ジャーナリストではなく、芸能人が司会をしているケースが少なくない。 芸能人が悪いというのではなく、少し要領がよく、頭の回転がよい人でも、基本的な知識、認識がしっかりしていないと、ゲストが何か言った時に、その場で、誤りを是正できない。関口宏の口癖のように「難しい問題ですね。皆さんもよく考えてください」で終わってします。 欧米のマスコミなら、事実と違うことをテレビに出た教授や政治家、ジャーナリストが言えば、それはテレビ局に抗議の電話やメールの殺到となり、訂正して、お詫びしないといけないことになるから、芸能人を少なくても報道番組の司会には使わない。 事実関係をきっちり調べ、事実を元に議論をすれば、少なくても、大きく間違える政策決定はしないし、国民もそれを理解すれば、例え、自分にとって厳しい内容でも、受け入れる用意があると思うが、それすらも行われていないのが、今の日本である。 日本経済、企業が、そして、国が大きな岐路に立っているときに、様々な問題について、事実をきちんと調べ、その事実の基づいて議論をし、対策を決定していくという過程がない、今の日本の将来に大いに不安を感じる。
2010.10.12
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厚生労働省の局長の逮捕に関連する検察の捜査の過程で、証拠データの改ざんをきっかけに、検察批判が厳しくなってきている。そして、それにともない、捜査の可視化を弁護士やジャーナリストが更に強く主張している。そして、小沢一郎氏に対する検察審査会の決定を機会に、当然とするマスコミと検察ファッショだと書く一部週刊誌の報道がある。(懸念される検察の弱体化) まず、厚生労働省の局長逮捕をめぐる捜査での検察の捜査の話だが、この問題で発言をする人の多くが検察に権力を与えすぎだとか、検察の強さを弱めるべきとかいうような話をしているが、筆者はまったく別の見方をする。 それは検察の弱体化である。筆者が警察、検察を担当して取材していた時代には、検察の幹部は、高検の次席検事、検事長はもとより、地検の幹部もすべて東大法学部出身者で占められていた。それが今は、問題になっている前田主任検事も、その上層部の部長なども非東大である。 高検の次席検事や検事長の異動が時々、新聞に掲載されるが、その人たちの経歴を見ると、数年前から東大卒の人は極めて少なくなり、ほとんどが私立大学卒業者である。学歴がすべてではなく、東大出身だから優秀というつもりはないが、検察という組織が優秀な頭脳集団から敬遠されているということは事実である。 これは、司法試験の合格した人の進路希望でもはっきりしていて、弁護士や裁判官の志望者は多いものの、検察官志望者は少ないという。今回の大阪地検特捜部の問題で、検察離れは更に進むものと思われる。 なぜ、東大出身者が検察を敬遠するかと言うと、弁護士や裁判官に比べて上司からの指示が強く、上下関係の中で仕事をしないといけないことを嫌ってのことだという。 それでなくても、キャリア官僚と言われる中央官庁の役所への就職でも、天下りが厳しくなったり、仕事の上での権限の縮小で、かつては東大生が圧倒的だった職場に東大出身者の割合が大きく減少している。 中央官庁のキャリア組の問題はともかく、時の権力とも戦い、首相や大臣、大企業の社長でも、罪を犯した場合、逮捕するという組織のこの弱体化は大きな問題で、てこ入れが必要だと筆者は考える。(取り調べ可視化は弁護士倫理規定強化が前提) 大阪地検特捜部をめぐる今回の問題をきっかけに、捜査の可視化の議論がやかましい。可視化を主張する人たちは、アメリカなどでは取り調べの可視化は当然であり、逮捕された容疑者は弁護士が来るまで黙止をすることができることなどをあげている。 確かのアメリカでは、容疑者捜査では、取り調べのビデオ収録はごく日常的に行われている。取り調べの状況などについて弁護士が色々主張でも、容疑者の人権は守られている面は強い。 だが、日本とアメリカと大きな違うがある点がある。それは弁護士の倫理規定である。容疑者が本当に犯人であることを弁護士が知った場合や容疑者に不利な情報を得た場合でも、日本の弁護士はそれを隠し、無罪を主張する人が多い。 しかし、アメリカで弁護士がそれをすれば、弁護士はその資格を失う。被疑者の弁護を仕事としているが、それ以前に、犯罪に対しての真実追究が大前提であり、たとえ、依頼者の容疑者に不利な情報でも、それを知った場合には、それを隠してはいけないということである。 ましてや、容疑者に事実と違うような証言を指導したりしては絶対いけない。こうした弁護士に対する厳しい倫理規定に加えて、アメリカでは、キリスト教の信者が圧倒的だとこともあって、人間の行動は常に神に見られているという意識が強い。 だから、嘘をつくことや、知っている情報を隠すことは、弁護士に限らず、倫理的に許されないと多くの人が思っている。だから、自分の家族にとって不利な情報、証言でも、それを隠すと多くの人が良心の呵責に苦しむのである。 日本はこうした宗教による真実を言うことの大切さも、弁護士の倫理規定も厳しくないから、弁護士は容疑者が犯人で、当初の取り調べで、犯罪を認める供述をしていても、弁護士が犯罪を否認する助言をきっかけに、容疑者も否認に転じるということが多く見られる。筆者は捜査の可視化は弁護士の倫理規定の強化とセットの話だと思う。だが、可視化に反対したり、慎重な立場の人でも、誰もこれを言わない。不思議な国である。(検察審査会の必要性) 小沢一郎氏の問題をきっかけに検察審査会のことが大きな話題になってきた。検察審査会は、起訴してしかるべき容疑者を検察が起訴しない場合に、起訴すべきだという異議申し立てをし、検察の行動をチェックすることが役割である。 こうした役割が必要なのは、日本の検察は120%自信がない事案しか起訴しないという伝統があるからである。起訴した事案が無罪になると恥という発想から、ほぼ犯人に間違いないと思える場合や、罪に問える場合でも、120%自信がないと起訴しない。 だから、世間の常識の基準で、当然罪に問われるべきと思われる事案でも、不起訴や起訴猶予にしてしまうことがしばしばある。最近の例では、酔っぱらって電車のホームで、他の人に抱きつき、抱きつかれた人が線路に転落し、電車に轢かれて死亡したという事件があったが、この容疑者は起訴されなかった。故意の犯罪性がないということが理由だ。 筆者は、これなどは明らかの検察の越権行為であると思う。この容疑者に情状酌量の余地があるかないかは裁判所が判断することで、検察が判断することではない。警察や検察は犯罪があった時には、逮捕、起訴することが仕事である。 この事案では、裁判所で情状酌量から軽い刑で終わってもよいと思うが、人が死んだことへの行為は故意があるないに関係なく犯罪である。それを検察が起訴しないというのは、それこそ犯罪である。(検察審査会批判は法律に唾するもの) 検察審査会という組織は以前からあり、検察が起訴しなかった事案に起訴すべきという決定を何回もしていた。しかし、検察は相変わらず、120%主義を貫いているので、検察審査会の決定を無視してきた。それだと、審査会の意味がなくなるので、規定が修正され、今回の小沢氏の事案のように、二度起訴相当という決定を検察審査会がすれば、強制起訴というように規則が変わった。 この規則改正で、兵庫県明石市の花火大会で多くの死傷者が出た事件や、100人を越える死者を出したJR西日本福知山線での電車脱線転覆事件などで、検察の不起訴をおかしいとして審査会が起訴相当を議決し、強制起訴が行われた。 筆者は今回の小沢氏の事案をもとに、検察ファッショだと主張する民主党国会議員や一部のマスコミ、ジャーナリストの姿勢を筆者は極めておかしいと思う。 疑わしいものは、裁判で白黒をつけるのが、民主国家である。それを法律で決まられた組織が起訴相当と判断をした時に、その決定がおかしいと言い出したら、それは法治国家でなくなる。こうした発言をする人は法律を理解しない人である。 実情に合わない憲法を改正せずに、解釈改憲で戦後60年やってきた日本の実情が、法律は無視してよいもの、勝手に解釈してよいものという風潮を作ってしまった。 法律は悪法でも守るのが国民の義務である。そして、実情に合わない法律は速やかに改正する、これも近代民主主義国家である。解釈改憲をずっとしてきて、現状に合わない法律をずっと持ち続けてきた日本は、結果として、法律を無視する国民、国家を作ってしまったと言える。 加えて今回の騒動では、マスコミが小沢支持と反小沢の論調が紙面を踊っている。特に小沢支持を打ち出している週刊誌などは、反小沢を打ち出すことで、雑誌が売れることを狙っている。マイナーの雑誌なら、わからなくもないが、大手の出版社が出している雑誌がこうした行為に出ること自体、日本のモラルの低下が激しいことの表れである。
2010.10.10
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(8月内定出しは問題の悪化) 大学生の新卒採用選考の早期化の問題が叫ばれ、国立大学協会が経団連などの申し入れを再三行い、それを受けて、総合商社は2013年4月入社の学生採用選考から、内定は8月以降にするという決定をした。 これに対して、大学側や文部科学省は歓迎の意向を示し、他業界にも協力の要請を行っている。現状は、大学生の内定は多くの大企業は4月中心に行われており、4ヶ月程遅くなることになる。しかし、これは事態の改善ではなく、むしろ問題点を大きくしたことである。 企業には本音と建前がある。「8月から内定を出す」ことが採用活動全体が遅くなることになるなら、改善かもしれない。しかし、実態はまったく違う。国立大学協会や文部科学省が何かを言いそれに対応しないといけなくなると企業は表面は従うが、実務は内に潜ることになる。(3年の夏から始まる就職活動) 現在の採用のスケジュールを説明すると、大学生が就職活動をする上で、不可欠のリクナビのインターンシップ、セミナー情報のオ―プンは大学3年の6月である。そして、大学3年生がこれをみて、3年の夏から秋にかけて、インターンシップ、セミナーに参加する。 インターンシップは企業の実情を見て、体験してくださいというもので、文系の学生だと、1日コースや2日コースが通常だが、理系の院生対象は1日コースの会社もあるが、1週間、2週間コースが多い。セミナーは企業、業界を知って下さい、就職活動のアドバイスなどを行う。 3年生の10月1日になると、採用説明会や選考の各社の情報を掲載したリクナビがオープンし、それを見て、学生は予約を行っていく。そして、11月から会社説明会が始まっていき、選考を行って、早い会社は12月、1月に内定を出す。 数年前までは、採用選考の中心期間は、研究職な技術的な仕事をする理系の院生向けが11月から1月にかけて、文系の学生は2月、3月で、内定出しは理系の院生は11月から1月、文系の学生は、2月から4月という感じだった。 それが、国立大学協会の申し入れなどで、現在は大手企業は公式の選考は4月からという建前になり、内定出しは理系、文系ともに4月からゴールデンウイーク明けに集中する。だが、これはあくまで建前は、実態はまったく異なる。(リクルーター制度などの別ルート) 企業の採用選考は公式の説明会と選考だけで行うものではない。かつては銀行だけだったが、今は大手のメーカーも多く使っているリクルーター制度というのがある。これは、若手社員が自分の出身大学の後輩の学生を中心に学生にコンタクトをとり、リクルーターが人事に代わり、採用選考を行うのである。 会社は公式には4月まで選考活動を自粛するという建前になっているので、12月くらいから、3月くらいの間にかけて、リクルーターが活動する。リクルーターになる若手社員は、その期間、仕事はしないで、リクルーター活動に専念する。優秀な学生を多く集めることが彼らの仕事であり、賞与などにも反映する。当然、学生との飲食も会社の費用で行う。 学生はリクルーターに3回会い、合格点だと、次は人事の部課長に会うことになり、それで問題がないと、次は最終面接である。つまり、ほとんどの採用選考はリクルーターが行い、3月末に人事の管理職が会い、4月1日から4月中旬にかけての最終選考は形だけという感じである。 リクルーターが接触してくるのは、東大、京大、一橋、早稲田、慶應、上智という上位大学中心で、筆者が今年面接した一橋大学のある男性は、会社の公式説明会には1回も参加していなかったが、多くの会社のリクルーターが接触してきて、4月時点で5社の内定を得ていた。 関西の私立のトップ大学である関学、同志社大学の学生では、4月1日に就職活動を終えてリクルートスースを脱ぐ学生が多くいる。銀行などはリクルーターが実質選考をしていて、4月1日に最終面接を受け、その日に合格の連絡をもらうからである。(特定大学生向け懇親会やインターンシップでの選考) 企業の裏の採用選考はリクルーター制度だけでない。特定大学の学生だけに連絡をして、「○○大学生向け企業懇親会」というのが開催される。連絡をもらった学生が行くと、自分の大学の先輩社員が多くいて、懇談をする。そして、それが実質選考で、それで先輩社員がよい点数をつければ、次は最終前くらいの選考過程というような仕組みである。 上記、インターンシップも、企業は採用選考にはまったく関係ないとは建前で言っているが、実質は採用選考そのものである。有名企業、人気企業のインターンシップには多くの学生が殺到し、インターンシップのための選考が行われる。ある会社の人事担当者は「当社は採用選考に合格するよりも、インターシップの選考に合格する方が難しい」と言うくらいである。 理系の院生の場合、社内体験は1週間、長い会社だと2週間位になる。テーマを与えられ、それを研究し、その結果を発表する。研究者としての能力と、人間そのものを会社はばっちり知ることになる。30分や1時間の面接よりも、濃密に学生を理解できる。 インターンシップでよい成績をあげた学生には、企業から12月から3月くらいにかけて連絡が来る。「君はインターンの成績がよかったけど、当社を受ける気がないか」という連絡である。あると答えると、人事の部課長が面談をしてくれる。それで問題がないと、次は最終面接で、ほぼ問題なく合格となる。 つまり、国立大学協会や文部科学省が文句を言えば、言うほど、大企業の採用は水面下に潜り巧妙になっていく。実質選考は従来と変わらない時期に行われているのである。(8月内定出し決定は大企業のエゴ) ということは、内定出しが8月以降になれば、上記のような、リクルーターやインターンシップ、特定大学生のための懇親会が水面下でどんどんより、派手に、巧妙に行われることになるのは必至である。 理由は簡単である。優秀な学生は限られていて、どこの企業も少数の優秀な学生を採りたいので、時期が遅くなりましたからと言って、採用活動そのものを遅くしたりしないからだ。そして、考えればわかることで、多くのリクルーターや長期のインターンシップなどができるのは、大手企業に限られている。 大手は金と人にあかしてこうしたことを行い、表面上は「当社は規則を守って自粛をしています」という顔をする。これに対して、金や人がそんなに余裕がある訳ではない、中堅、中小企業は公式ルートでの採用しかできないので、優秀な学生の採用活動に大きな支障が出て来る。 そして、何よりも、内定出しが8月以降になると、3年の夏のインターンシップから始まる就職活動は1年間に及ぶことになる。採用期間の短縮化と謳った内定出しの8月以降という話は、逆に学生の就職活動の長期化につながるのである。(採用活動の短期化は簡単) 筆者はずっと言い続けているが、企業の採用活動、学生の就職活動を短期にすることはまったく難しくない。ポイントは2つ。1つは大学側が企業に本音を言わせることである。今は本音が言えない環境だから、本音と建前が存在し、学生がこれに振り回さされることになる。 筆者が就職活動をしていた時期は、学生は大学の推薦を受けないと、企業の採用選考に応募できなかった。それぞれの大学が、企業ごとの推薦枠をいうのを持っていて、その推薦枠に合わせて学生に推薦を出していた。 推薦を得た学生は大学の推薦書と大学3年間の成績証明書、そして、自分の履歴書を企業に郵送し、企業はこれで書類審査をする。書類審査で合格した学生は一次選考は試験である。これに合格したら、面接で面接は2,3回で終了し、就職活動は2,3週間で終わった。 当然優秀な大学は多くの推薦枠を持ち、偏差値が高くない大学は学年トップとかスポーツで全国優勝というような学生でないと、超大企業に推薦はできなかった。これは当たり前のことである。超大企業、人気企業には優秀な学生が集中するから、その他大学の学生が応募しても、余程のことがない限り合格などしない。 だから、中位、下位の大学は超大企業には、学年で首席だからとか、TOEICが900点以上だからというようなことで推薦をして、企業もそういう学生はきちんと採用選考に加えていた。互いに社会常識で行動していた。だから、超大手の企業だからと言って、何万人が応募するという今の時代のバカげた現象はなかった。 今は、中位から下位の大学が、こうしたことに差別だということを言うから、企業はこうした本音の行為ができなくなっている。でも、学生の立場に立てば、中位、下位の大学の学生でも誰もかも受けされろということと、本当に優秀な学生だけ受けさせてくださいというのと、どちらが親切かは考えれば自明のことである。(できない学生を落第させることが就職健全化の早道) もう1つの方法は、大学と企業の意見調整などしないでも、大学だけが行動すれば、できる。それは授業参加を厳しくチェックし、成績が悪い学生を落第させていくことである。 今の大学の学生は本当に勉強していない。それで卒業できてしまう。成績は惨憺たるものである。勉強ではなく、大学に遊びに行っているからだ。この学生に普通に点数をつければ、上位大学でも、間違いなく3割の学生は落第する。 卒業間際の2月、3月にならないと、3分の1の学生は卒業できるかどうかわからないとなれば、企業は怖くて、採用活動を早期などしない。就職戦線は1か月の短期集中で終わる。学生にも企業にも大学にもハッピーである。
2010.10.09
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(父や祖父の戦争行為に若者は責任があるかという放送) 先日、NHKの教育テレビで、外国の著名な教授が日本のある大学で講義をしていた様子が長時間放送されていた。しばらくその様子を見ていて、愕然とした。 戦争責任の話をしていて、若者世代は、自分の父や祖父の時代の戦争加害について、責任はあるかどうかという議論である。そうしたテーマをとりあげ、公共のテレビで長時間放送すること自体、違和感を感じる。 こうしたテーマは短時間でイエス、ノーが言える話でなく、当時の歴史的な背景や、当事者の国がそれぞれ何を考え、何をしたかということの詳しい検索をしないと、議論ができないからだ。(イエス、ノーが単純に言えない話) 簡単な話、普段の生活で、AさんがBさんを殴ったとする。殴ったこと自体は悪いが、殴る前に、BさんがAさんに散々嫌がらせをしていたとしたら、刑法的にも情状酌量の余地があるのは、自明の理である。 これは国家間の争いでも同じである。日本が太平洋戦争に突入するように、どんどんアメリカが日本を追い込んで行ったというのは当時のアメリカ政府高官の書簡、「ハルノート」などから明らかである。しかし、今の若者は「ハルノート」という言葉さえ知らない人がほとんどである。 当時のルーズベルト大統領が日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていて、それに故意に対策をとらずに意図的に日本軍の攻撃を受け、4,5千人の死者を出し、戦争に参加すべきではないという意見が強かった世論を変えて、参戦したということも明らかになっている。 戦争が起きそうな時は、互いに様々な駆け引きを行い、権謀術数を駆使して、自国に有利になるようにありとあらゆる事をする。それが外交であり、国際政治である。 アメリカが日本の広島に原爆を投下する前に、アメリカ本土で、アメリカの軍隊の上に原爆を投下して、被害の程度を調べたということがあり、それで被爆した元米軍兵士がアメリカという国を訴えていて、その話は本にもなり、映画にもなった。戦争とは勝つためには、自国民の犠牲さえいとわない。そういうものである。(「日本が悪」だと教えてきた戦後教育) 戦後の日本は、極東裁判で、戦時の軍隊の首脳、当時の政府首脳が戦争責任を問われ、死刑になったことをきっかけに、「日本が加害者で、アジア、世界に迷惑をかけた。日本は悪いことをやった」という意識が蔓延し、教育現場でも、その通り教えて来た。 でも、これは世界的に見て、異常なことである。メキシコに口実を作って戦争をしかけ、日本全体の面積よりも遥かに広大な領土を攻めとったアメリカで、「メキシコ侵略」などとは1行も書かず、むしろ、正義の戦いだったと教え、ヒーローまで登場させている。 アメリカは当時、独立王国だったハワイにも口実を作って攻め、自国領にしてしまった。フランスとドイツや、イギリスとフランスは過去の歴史で何回も戦い、領土をとったり、とられたりしてきた。でも、歴史の教科書で、それを「自分の国が悪かった」とは教えていない。 日本が過去の歴史で、常に正しかった訳ではないので、そういうつもりは全くないが、その一方で、今言われていることで、事実とは違うとか、その話は前提がまったく違うという話はいくつもある。 国というものは、その歴史と民族に誇りを持ち、国民に誇りを持たせるための神話、ヒーローなどを作り、国民に教えるのが当然で、現在の日本のように、「この国は悪いことをしました。あなたたちの父親たちは間違えていたのです」などと教える国は、歴史上初めてと言える。(天安門事件の時の中国人留学生の反論) 中国で天安門事件が起きた時に、アメリカでは、「中国は人権を軽んじる非民主主義国家で許すことはできない」という意見が高まり、アメリカにいる中国人、特に大学に留学している人間は誰かれとなく、アメリカ人から議論を吹きかけられた。 当時、中国は若手官僚を多くアメリカに留学させていて、その官僚たちが、アメリカ人学生や教授から猛烈な議論をしかけられた。その時、留学していた中国人たちはどう応対したか。彼らは「今の中国は発展途上で、成熟した民主主義国のアメリカとは違います。今の中国で、アメリカ的なの民主主義と取り入れると、国は大混乱になり、収拾がつかなくなります。途上国が短期間に急成長するためには、強いリーダーシップが必要なのです。何年か後には、我が国もアメリカのような民主主義国家になっているでしょう」と異口同音に答えた。 そして、国民一人当たりのGDPの比較や建国の混乱の歴史などをアメリカ人に説明した。初めの内はそれでも納得せずに、再反論するアメリカ人は多かったが、中国人が一枚岩のように同じ主張をデータ、数字などを示しながら、何かとなく説明していく内にアメリカ人たちからは「納得はしないが、理解はできる」という反応になり、天安門事件の話題は出ることがなくなっていった。 この話を聞いた時に、今の日本で同じようなことが起きた時に、日本人はどう反応するだろうかと考えた。99%以上の確率で、ほとんどの日本人はひたすら自国を恥じ、謝罪をしまくるだろうと思った。そして、日本人と日本人がしたことのひどさが事実として、アメリカ人の心に定着していったであろうと。(優れた先人の話などをもっと教える) 戦後、何回となく、右翼的な人たちや一部の自民党の代議士から、愛国心教育の必要性が叫ばれ、その度に、左翼の人たちから猛烈な反対が出て、うやむやになってきた。 こうした話の時に、筆者はいつも思った。愛国心などという話をしないでも、偉大な日本人の先人の話や、歴史的な出来事などを学校や家庭でしっかり教えていけば、愛国心などとあえて言いださなくても、自然の日本と日本人、自国の領土などを愛し、大事にしていく国民が育っていくと。 筆者が子供の時には、どこの小学校にも、二宮金次郎の銅像が立ち、彼の話を聞かされた。学校で野口英世の人生も聞かされたし、楠正成などの話は映画や本でよく紹介されていた。また、国の歴史や自然を歌う多くの童謡、唱歌を教えられた。 しかし、今学校には金次郎の銅像はないし、童謡、唱歌も教えない。日本の誇るべき歴史は何も教えていない。こんなことで、国を愛し、いざ、外国に国が攻められたときに、国や人々を守ろうという意識など生まれる訳がない。(国と国の議論は反論し、自己主張をするもの) 過去の歴史に対して、批判と反省は勿論、大切である。しかし、国としての謝罪などは、公式には一度きちんとすれば、よく、何回も何回も謝るものではない。そして、主張すべき点はきちんと主張し、相手が言うおかしな点はきちんと反論するものである。 議論は相互で意見、主張を言い合うものである。それを言われ放しで引くから、相手はそれまでの議論は100%自分の主張が正しかったということで、そこを境界線としての議論を始める。おかしな主張も反論をしないから、正当になってしまうのである。そして、何回も謝るから相手も、それなら、何々で譲れという態度になってくるのだ。 冒頭のNHKの番組で、そうした話を延々と放送するテレビ局の姿勢に大いなる疑問を感じたが、それ以上に、質問に答える大学生のほとんどの人が、「日本人として、罪の意識を引き継ぎ、謝罪の気持ちを持ち続けないといけない」という趣旨の話をしていたことに大きな衝撃を覚えた。 優秀な若者の多くが、自国と自国の先輩に罪の意識を感じているなら、自国愛など生まれるはずがない。戦後の日本の教育はこうした若者と大量に生産していたのである。 だから、尖閣列島で、100%不当に言いがかりをつけられても、穏便に話し合いで解決などという世界常識では考えられない反応となってくるのである。国防をアメリカに依存し、長らく属国状態にになってきた歴史がそうした国民意識を生んできたのである。 国という体をなしていない状態の日本に将来はない。国とは何か、他国に蹂躙されれば、どうしたことになるのか。何は譲り、何は絶対譲ってはいけないか、きちんと考え、教えていく教育が今こそ必要である。
2010.10.05
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(求人の方が求職者よりも多い事実) 10月1日は今の大学生の就職活動に中心的な役割をするリクナビがオープンする日である。そして、それとともに、マスコミも大学生の就職活動の話を多く報道するようになってきた。 しかし、新聞もテレビも最近のマスコミの論調は、「大学生の多くが就職できない」「可哀想な若者を何とかしろ」であり、いかに大学生の就職が大変かを嫌という程報道している。 だが、これは事実と全く違う。大学生で就職を希望する学生は44万人。これに対して、大卒者を採用したいという企業の採用希望者数は72万人である。つまり、企業を選びさえしなければ、全員が就職できるのである。それをマスコミが就職は大変だというトーンで報道し続けるので、大学生は必要以上に危機感を持ち、必要以上に早くから活動をすることになる。(役人に簡単に利用されるクラブの記者) 役所は「4割の大学卒業者が就職できない」というニュースレリースを流す。そして、新聞社、テレビ局がその通り、それを報道する。それが事実かどうかの検証もしないで。記者クラブ制度の弊害で、記者はクラブの椅子に座っているだけで、ニュースレリースを受け取り、出勤したという証明の原稿をもらえる。だから、実際に関係者にあたって、その情報が本当かどうかなどという余分なことはしない。 では、役所がどうして、間違った情報、嘘の情報を流すかと言えば、それは、大変だというニュースレリースを流して、それが世の中の常識になると、次に役人がすることは、「だから、対策をしないといけない」という論理になり、予算を要求するのである。できれば、対策のための組織も作りたいと要求する。大変だ、大変だという話の薬が効いていれば、予算は元より、組織の要求も通る。 役人のこの手法は常套手段である。「日本の食糧自給率は40%」というのは、今では多くの日本人が信じている。しかし、実際は70%である。でも、それを知っている人はほんのわずかで、ほとんどの日本人が4割だと信じている。農水省の役人が流したニュースレリースを記者クラブの記者が書き続け、テレビなどでも盛んに孫引き状態で何回も言われる内に、嘘が本当になってしまったのである。(権益拡大のために、基準まで変える役人) 食糧自給率は世界の先進国の基準は金額ベースであり、日本もかつては金額ベースで計算をし、70%という数字を農水省自体が言っていた。それが、ある日突然に、金額ベースをカロリーベースに切り替えた。その結果、日本の食糧自給率は40%に大きくダウンした。 そこで、農水省の役人がしたことは、「大変だ。日本の食を守れ」という掛け声とともに、補助金を多く獲得し、農家にばらまいたのである。金が多く流れれば、そこに人も組織も必要になり、役所の権限拡大、権益拡大になる。そして、彼らの思うように実際なった。だが、それでどうなったかと言えば、保護されればされるほど、対象もものは弱くなる。結果、日本の農業はより弱くなったのである。 役人は自分が担当している対象のことでも、その対象関係者のためによかれと思って対策を立て、行動をしていると、多くの人が思っているかもしれないが、彼らの頭にあるのは、対象者の育成ではなく、自分たちの権益拡大でしかない。(危機感を煽るのではなく、落ちつかせることが必要) 大学生の就職問題でも同じである。騒げば騒ぐほど、大学生は恐怖感に煽られ、危機感を持つ。その結果、必要以上に神経質になり、鬱になる人も出てくる。むしろ、大学生を落ちつかせ、「大丈夫、求人の方が多く、求職者は就職できる」と言ってあげることの方がどれだけ親切かわからないのだが、そんなことにはお構いなく、危機感をどんどん煽っている。 今の大学生はある意味では本当に可哀想である。大学、親、役所の犠牲者になってしまっている。まず、大学である。大学は次年度の受験者のより多くの獲得のために、就職では、少しでも有名企業に入るように学生の尻を叩く。本来なら、その学生の実力に応じたアドバイスをしないといけないのに、平気で、絶対無理な企業を受けるように指導する。 「そんなことをしたって、受かる訳ないでしょう」と大学関係者に言うと、彼らからの反応は「無理なのはわかっていますが、千人受ければ、間違えて1人くらい受かるでしょう」というものである。学生を人間として見ていない。心情も考えていないのだ。(最悪な国立大学協会の申し入れ) 大学の就職部(最近ではキャリアセンターとか言うが)だけでなく、一番愚かなのは、国立大学協会である。ここが、「青田刈りは止めろ」と経団連に厳しく申し入れをする。その結果何が起きるかと言えば、就職活動時期の異常な長期化と、企業の表と裏の使い分けである。 今の大学生は3年の夏から就職活動を始める。ほとんどの大学生が就職をするにあたって使うサイトである、リクナビでは、3年生および、院の1年生向けのセミナー、インターンシップの情報を6月から掲載する。 それを見て、企業の日程を予約などして、実際は夏または9月から就職活動を始めるのだ。リクルートの調査では、インターンシップ、セミナー参加者は就職活動をする学生の半分である。少しやる気のある学生はこの時期から活動開始である。 国立大学協会がどうのこうの言わなかった時は、企業の研究や開発などの仕事を志望する大学院生対象の企業の選考は大学院修士1年の秋から12月までだった。年を越えると、あせり、遅くても1月には終わらせるという状態だった。 学部生は、説明会は11月から1、2月まであり、4月には内定が出ていた。企業の採用担当者にとっても、院生と学部生の時期が異なるのは好都合で、半年で採用活動をほとんど終えていた。(実態をまったく知らない国立大学協会の幹部) ところが、国立大学協会が強く申し入れた結果、院生の採用内定を出す時期が3月から4月にずれるようになってしまった。つまり、秋から活動して本来なら、年内に終えていた就職活動が半年かかるようになってしまったのである。 セミナー、インターンシップもかつては理系の院生対象がほとんどだったのが、今は文系の学部制も参加が当たり前になり、学部生も夏から活動をするようになった。現実に、9月にセミナーをして、他社のセミナーも受けているか聞くと、既に5、6社のものを受けていると答える学生が珍しくない。 それでなくても、半年以上の長丁場になってきていた就職活動が、今年は国立大学協会の申し入れを受けて、経団連は、内定出しを夏以降にするように会員企業の言い、守らせるようにすると言いだした。こうなると、大学生は完全に1年間、就職活動に縛られることになる。 採用活動を長くしていて、時々、気の毒な学生に会う。それは自分の担当教授が、国立大学協会の申し入れ通りに就職活動をするように学生に厳しく言い、学生が就職活動に出ることができなくなることだ。そして、その結果、企業の選考のピークに活動できず、結局、どこの内定もとれないという学生が出ることである。理系の院生に多く、毎年何人もこうした学生に会う。 文系の学部生と違って、理系の院生にとって、教授は絶対的な権力者で、逆らうことはできない。院の教室はメンバーが数人で、文系の学部生のように、授業に出ていてもいなくても、わからないのとは違う。頭の固い大学の教授は自分の大学の学生の将来の道を閉ざしてしまっているのだ。(本音が言えなくなったことが状況を悪化させた) 筆者が就職活動をしたのは、遥か昔だが、筆者の就職活動は2週間だった。それで、何にも問題がなく、就職先を決めた。当時は、大学関係者も企業の担当者も本音が言えた。 当時はリクナビなどなく、就職情報は新聞情報がメインだった。今でも覚えているが、総合商社の採用担当の常務が、「当社に入社するのは、早慶で優の数が7割以上ないと無理」と発言し、それが新聞に載った。本音である。当時は企業の担当者は本音が言えたのだ。 だから、受けても受からない人は受けなかった。大学ごとに有名企業に対しては、学生の推薦枠があり、その枠の範囲で、学生を推薦した。推薦された学生は、大学の推薦書と大学3年間の成績証明書を提出し、まずは書類審査である。それで受かった学生には連絡があり、まずは試験である。 今でも覚えているが、慶應大学の大教室で試験があった。そして、その試験で、採用枠の4倍までに学生を絞り、数回の面接をして、合格者を決めた。学生は一番最初に内定を得た企業に入ることが義務付けられ、内定が出たら、それが第一志望であろうとなかろうと、就職活動を止めないといけなかった。だから、2週間で終わるのである。 なおかつ、当時は、4年の7月1日が採用活動の解禁だったが、初日の1日に何社もが試験を実施した。筆者はマスコミ志望だったが、朝日、読売、毎日、日経、NHKが同じ日の試験だった。だから、かけもちなどできない。筆者の知人で、読売新聞にどうしても入りたいと思った男は、東京と大阪の読売を受け、東京の人間だったが、受かった大阪採用となった。 今、企業の採用担当者が、「うちに合格するには、早慶以上でないと無理」などと言おうものなら、マーチや日東駒専の大学から総攻撃を受けるので、絶対本音を言わない。でも、その本音を言えない現状が、絶対受からない学生に無駄に何社も受けさせるという膨大な無駄をさせているのだ。(実情を知らない親の間違った助言) 今の学生にとって不幸なもう1つのことは、親の時代と今とが大きく異なってしまい、親の常識がまったく通じないにもかかわらず、親がよかれと思ってのことなのだろうが、間違えて指導をしていることである。 今の大学生の親、特に母親の世代は自分が高校の時、大学に行く人は、1、2割だった。だから、大学に行く人はエリートで、大学に行く人は大手上場企業に概ね就職していた。母親に、その意識がある。だから、大学に行ったわが子は一流企業に就職して当然だと思っている。 しかし、今の大学進学率は5割である。当然、頭脳労働ではなく、肉体動労をしないといけない就職先に就職する学生も少なくない。今の言葉で言えば、ガテン系企業への就職である。大学生の、中でも自分の大学の偏差値が高くなく、自分も成績がよくなかった者は、それを覚悟している。 だが、そうした就職や、事務系や営業でも、中堅企業に就職先を決めようとすると、親、中でも母親が、「大学に行ったのに、どうして、NTTや新日鉄に行かないの?」という話をして、子供の決断に反対し、混乱を与えるのである。本当に今の大学生は可哀想である。
2010.10.04
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消費者金融大手の武富士が会社更生法を申請して、事実上倒産をした。新聞やテレビの報道は、これで、過払い金の返還がカットされることだけを心配して報じている。しかし、この倒産劇は予想されたことであり、法律の常道を踏みにじった法律で起こされた倒産劇と言える。(悪徳借主と悪徳業者の殴り合い) 消費者金融も企業金融もそうだが、マスコミの報道はまったく事実と大きく異なる。世の中には、どんな業界もそうだが、優良業者もいれば、悪徳業者もいる。優良顧客もいれば、悪徳顧客もいる。 マスコミがサラ金問題として大々的に報じた話は、専門家に言わせると、悪徳業者と悪徳利用者の殴り合いである。消費者金融でも、カードでのキャッシングでもそうだが、利用者には、初めから返すつもりがなくて借りる人が結構いる。 当然、業者は何回も返済を迫り、それでも借主が返そうとしないので、きつい言葉になり、乱暴な口調になったりする。すると、悪徳借主は、「脅迫された。警察に訴える」という。こうした利用者には、まともな業者は貸さなくなるので、当然、質の悪い業者に行くようになる。質の悪い業者は取りたてもきついし、言葉もきつい。 悪徳借主は、自分がきついことを言っているのを棚上げにしておいて、悪徳業者がきつい言葉をガンガン言っている部分だけを録音して、それをマスコミに報道させる。ここに、消費者金融業者、企業金融業者はすべて悪であるという図式ができあがっていく。 普通に消費者金融や企業金融を借りて、普通に返している個人や会社の経営者、または、普通の両金融業者に聞くと、利用者の大方は普通に借りて、普通に返しているし、業者もテレビで散々放送されたような暴力団まがいのやりとりはしない。(年利ではなく、1カ月借りるのだ) よく高すぎる金利の話が出てくる。年利、40%、30%の金利など払える訳がないではないかという話である。しかし、これもまともな業者や利用者に聞くと、年間で貸したり、借りたりしていない。健全な借主や貸し手は、1カ月、10日という感じで貸し借りをしている。 法人なら、原材料を仕入れて製品を作り販売しても、法人相手だと入金は1カ月後になる。資金の余裕があるところはよいが、それがないと、帳簿上は利益が出ていても、金が回らなくなる。そこで、1カ月間、企業金融業者に金を借りるのである。 100万円借りて、月3%なら、利子は3万円である。これくらいの利子を払っても、充分元はとれるので、1カ月借りる。そして、販売先の法人から支払いがあった時に、清算する。日本には資金の余裕がない中小企業が全体の99%だから、これは中小企業には欠かせない存在となり、この業界が急成長したのである。 個人もそうである。賞与まで1カ月、2週間ある。でも、今友達の誕生日なので、プレゼントをしたい。そこで消費者金融を利用する。10万円借りても、1カ月なら、3千円である。痛くも痒くもない。だから、気軽に借りられるということで、消費者金融は急成長した。(弱者には金を貸さない銀行の補完) 銀行がこうした役割をしてくれれば、消費者金融も企業金融もその業界が急成長をすることはなかった。でも、銀行は個人なら大企業に勤めているとか、自宅ももっているとかしないと、金を貸してくれない状態が続いた。法人でも基盤の弱い中小零細業者には金は貸さない。 ここに、消費者金融業者や企業金融業者と、銀行の住み分けができたのである。日本の銀行は資金の借主の質を見分ける力はない。アメリカでは、これから会社を作ろうとする人間が、起業のアイデアを持って銀行を訪問すると、その話を聞いてくれる。そして、アイデアがよければ、融資をしてくれる。 でも、日本の銀行にはそんな発想はない。自宅があるか、信用ある会社に勤めるているか、預金はあるかと言ったような、誰でも判断できる基準で人間を採点し、それで、融資をするかしないか電卓で計算したようにして、決めるのだ。質で相手も見るという習慣も能力もないし、アイデアを判断する力もない。(消費者金融業者を熱く見ていた人たち) だが、消費者金融や企業金融業界がどんどん大きくなってくると、銀行には複雑な思いが出てきた。消費者金融、企業金融業者はその資金を銀行から借りる。超低金利時代が続いているので、借りる金利は2、3%である。これが、消費者金融、企業金融業者に渡ると、企業や個人に貸す金利は年間では、30%になる。実際は月利で3%なのだが、銀行は年利で考える。 そして、自分たちが得るべき利得を消費者金融、企業金融業者にとられているように思いになってくる。それなら、自分たちも消費者金融、企業金融をやろうと思い銀行も出てきた。しかし、悲しいことにノウハウも、人を見る目もない。悪徳利用者に借りられ、踏み倒され、大きな焦げ付きを作った。 巨額の焦げ付きを出し、その業務からの撤退や縮小をした銀行が考えたことは、それなら、消費者金融、企業金融の会社を丸ごと手に入れることである。だが、こうした業者はほとんどがオーナー経営者で彼らは巨利を得ているので、売るつもりはない。 銀行以外に、消費者金融、企業金融業者に興味を持つ存在があった。それは弁護士たちである。消費者金融、企業金融のトラブルの多くは悪徳業者と悪徳借主の争いである。しかし、中には、通常の借主が入ってくる予定の金が入ってこず、返せなくなるケースもある。ギャンブルに凝り、金を借りて、泥沼にはまっていく人もいる。 そういう人たちから相談を受け、話を詳しく聞くと、年利が3割、4割だという。そして、借りた金は支払っているのに、まだ、借金が残っているなどという話を聞くと、弁護士はこれはおかしいと思い始める。実際は家の銀行ローンでも、借りた金の2、3倍は返さないといけないので、金利は大きいのだが、そうした引いた発想はなく、目先で困っている人に対する思いだけが強くなる。 弁護士の報酬は定額型もあるが、勝ち取った金額に対する成功報酬型の仕事の仕方もある。特に企業などを訴えて勝訴した場合などは、成功報酬型で、弁護士は巨額の資金が手に入る。かつて、薬害のスモン訴訟などでは、弁護士報酬が数10億単位になった。こうした経験がある弁護士などは、消費者金融、企業金融の問題を担当すれば、大きな金が手に入ることを嗅覚で感じるようになってきた。(悪のイメージ定着) こうして、消費者金融、企業金融業界を熱い思いで見る集団ができてきて、彼らは、互いの利害が一致したので、共同を歩調をとることになったのである。まずは、業者がいかにひどいかということのPRに乗り出すことになった。マスコミにひどいケースを取材させた。テレビにはうってつけの話で、ひどい業者と、その取りたてにあう弱い被害者が連日のようにテレビで流れされるようになった。 ここで、消費者金融、企業金融業者側に不幸だったことは、経営者の多くがオーナーで、しかも、巨利を得る仕事を見つけ、創業して、現実に莫大な資金を稼いだので、油断慢心をし、自分たちを虎視眈々と狙っている人間の存在に気がつかず、むしろ攻撃の口実を与えるような行動をする人がいたことである。 かくて、消費者金融、企業金融業者は悪という観念が定着した。そして、金利の上限を定めた法律が2つあり、その高い方の金利で金を貸した業者はその差額を返還しろという、近代国家ではあり得ないことになった。これが過払い金の返還である。(合法だった行為で裁かれる業者) 消費者金融、企業金融の業者は違法で高い金利をとっていたのではない。法律に則って金を貸し、借りる側もそれを納得して、金を借り、金利を払っていた。それを2つの法律の差分は払わなくてよいだけでなく、過去に支払った高い法律に基づく利子も返還要求ができるようになった。 金利が高い法律が改正になったとしても、近代法治国家の常識では過去の貸し借りについては、有効で、改正した法律は過去に及ばないというのが当然のことである。後で法律を作り、それで過去のことを裁いたら、極端に言えば、合法的な行為がある日突然、違法になり、そのことで、いつ死刑になるかもしれない危険性があるということである。そんな危険極まりないことはあってはならないが、それを裁判所が認めたのである。 本当にひどい被害に遭った人の救済はまだわかる。しかし、本人も納得して、かつて利子を払い、文句も言っていない人に、弁護士事務所や、それを仕事にしている業者がアプローチして、「あなたも何百万円返ってくる」と囁きだしたのである。(優良顧客は難民に) 過払いは、経理上処理が終わったものについて、過去に遡って請求されるので、会社は今後、どれくらい金が必要は見当がつかない。それだけでなく、弁護士集団は、そも消費者金融、企業金融は悪だという発想で、年収に3割までしか借りられないというような法律まで作った。 業者はその結果、収入は大きく減り、出て行く過払い金は膨れ上がるばかりで、会社として存続していくことが無理になり、倒産するしかなかったのである。 武富士の倒産は象徴的である。他の大手は、銀行の要求に屈して、オーナーが会社を銀行に譲った。しかし、武富士はこれを拒んだので倒産に追い込まれたのだ。 業者の話はともかく、一連の法律改正などで、優良、正常に借りていた人たち、企業が金を借りられなくなってきた。そのニーズを誰がカバーするか。待ち構えるのは、より悪質なマチ金業者である。これから先、かつてのサラ金騒動よりも、より過酷な残酷物語が出てくるだろう。それは、銀行、弁護士、裁判官が責任を負う話である。
2010.10.01
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