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世界でも有数の高齢者として知られていた人が実は30年あまり 前に死亡していて、その家族が年金を30年もの間、不正に受け取っていたということが報道されている。不正受給額は2000万円を越えるという。 財政がパンク状態なのに、年金や手当の支給の現場には緊張感がなく不正受給はとても多い。この問題が発覚した時に、不正がわからなかったのかという質問に対して、「本人が誰にも会いたくないと言っていると家族が言うので、何十年も会っていない」と区役所の担当者は答えている。正に役人に発想である。国民の血税を預かっているという意識がない。 (高齢者対象に、5年に1回は巡回は当然) 生活保護を受けている人がその金でパチンコをして遊んでいるなど不正受給の話が出ると、テレビのコメンテーターや役所の人が決まっていうのは、不正は本のわずかだということと、人を疑ってかかる訳にはいかないということである。しかし、筆者はだから、不正受給が広がり、今回のような30年もの間、死んだ人の家族に税金から金を払うということが起きるのだと言いたい。 毎年行かなくてよい。5年に1回は一定以上の高齢者には役所が巡回して会い、健康状態を確認し、必要な記念品を贈るなどの対応をするのは当然であると思う。金は渡しています。でも、実態は知りません。それは仕事ではない。尊敬もしていない。 今回、足立の人がパンドラの箱を開けたので、同じ手口がどんどん出て来ると思うし、既に同じ手口で不正受給している人がいるかもしれない。 団塊の世代が定年退職するようになり、大量な人が年金生活に突入し始めた。この時期だからこそ、年金問題というのは一日も早く、抜本的な改革が大切だと思う。 (まずは、年金に対する意識を変えること) 年金改革で一番先にしないといけないことは、年金に対する考え方を変えることである。JALが経営危機になり、会社の再生のために、企業年金の減額の方針を会社が打ち出した時に、OBから、「当然の権利を削れなんて、とんでもない」という反発が出た。筆者はこの意識を変えることがまず大事だと思う。 今の70歳代、80歳代の人がもらっている年金は、厚生年金でも、企業年金でも、今もらっている金額は当然の権利ではない。自分が拠出、積立てした金額の何倍のものを受け取っている。つまり何分の一は当然の権利だが、大半は当然の権利ではなく、恩恵なのである。ならば、全額を当然もらう権利があるのではない。 国がまずしないといけないことは、こうした事実を国民がしっかり認識するキャンペーンをし、受け取ることを当然とするのではなく、感謝の気持を持つようにすることである。そして、財政難などの時には、年金の減額もあるということを徹底させることである。 (資産、年収による減額、支給停止) 今の日本では、資産が何十億円もっていようと、年収がいくらあろうと、70歳などの一定年齢になると、年金が自動支給になる。まず、この考えを改めることだ。金があまっている人に、財政がパンク状態の国が年金を支払うことはない。 現にイギリスでは、自分が頑張って成功したと思える人は年金の返上を宣言する。年金を返上することが人生の成功者の記であり、返上宣言は誇りを持って言うことなのである。 これに対して、日本はまったく違う発想である。筆者の知人で、有名なある経営者が「自分は70歳を過ぎても、収入が結構あるし、資産もあるので、年金は要らない」と言ったら、官庁の幹部が飛んできて、「1人でも例外を作ると制度が崩壊します。是非収めてください」と言って、強引に受け取らせたというのである。 筆者は年齢が何歳であろうと、一定年収以上の収入がある人は少なくても厚生年金、国民年金、共済年金は停止したり、減額するという法律を作るべきだと思う。当然、一定金額以上の企業年金をもらっている人は厚生年金の支給は停止になる。資産も同様である。自分が住む家以外に1億円を越える不動産資産や金融資産を所有する人も年金の支払者から除外するのだ。 なぜ1億円かと言えば、1億円をずっととりくずしていっても、1年間に500万円使って、20年かかるのである。勤労者の定年後の平均余命は、統計的に言えば、20年を切っている。だから、住まいがある人は1億円あれば、その後の生活は対応できるのである。 (支給例外を作ると、手間・費用がかかるという嘘) こういう話をすると、いつも出て来る官僚の反論は、そんなことをしても浮く費用はたかが知れているし、手間が大変で、逆に費用がかかるというものだ。同じ論法で、子供手当も、高校の教育費無料化も、年収が何千万あろうと何億あろうと、支給された。 これは真っ赤な嘘である。市役所(区役所)は住民の所得を補足している。だから、住民税を課すことができるのだ。そのデータは課は別でも役所の中にある。同じ役所の中で、しかもコンピューターにあるデータを相互利用し、活用することに、多くの費用がかかるということ自体、役人が仕事をさぼっていることの証明でしかない。 もう1つ、必ず、役人や学者がする反論が、所得制限などや少しの節約をしても、浮く金はたかが知れていますというのがある。これもまったく間違いだ。金額の多い少ないではなく、モラルの問題なのである。 国会議員の特権的な議員年金制度が廃止されたのも、議員の歳費を月割にしろという話も、それで浮く費用など、国全体の赤字からすれば、たかが知れている。しかしそれを率先してしないと、多くの国民が消費税の導入など新しい痛みに賛成はしない。だから、大岡政談の「三方一両損」が受けるのである。 (まずは基礎年金の統一を) 今年金は、会社勤めの人が入る厚生年金、商店主などの自営業者が入る国民年金、そして、役人が入る共済年金の3つがある。この3つの統合で国民に年金受取で差がないようにしようという話は大分前から出ているが、役人と、その労働組合が猛反対して、統合の見通しは立っていない。 世界的に見ると、国家が財政赤字になって、厳しい状態になると、今のギリシャではないが、まず、するのが、公務員の給料、賞与、年金のカットである。それは、財政赤字の大きな原因に公務員がいるという認識をどこの国でもするからである。 筆者は3つは単純統一ではなく、基礎年金の部分をまず、すみやかに統合すべきであると考える。ここは3つの年金でもほとんど差がなく、統一が比較的簡単にできるからである。そして、厚生年金や共済年金の2階建て、3階建ての部分は、それぞれの財政状況を見て、支給額の見直しをすべきであると考える。公務員は財政赤字なのだから、年金の半減などは当然である。 (自分の年金は自分で貯める方式に) そして、1日も早く、今の現役世代が払っている金から年金を受け取る制度ではなく、自分が支払った拠出は、自分名義で蓄えられ、それを自分が受け取るという制度に切り替えるべきである。その原資は年金積立金はもとより、国有財産の売却、1400兆円と言われる個人金融資産への課税などで賄うのである。 これは何回も金がかかるのではない。切り替えに1回大きな金がかかるだけである。こうすれば、年金を例えば、5年しか積み立てていない人でも、自分の積み立てた金は受け取れるようになり、30年積立てたが、何年か足りなくて、年金がまったく受け取れないというようなバカな話はなくなる。 資産の売却の話だが、東京の中心にあれだけ広大な土地を東大が持つ必要はまったくないし、都心の一等地に公務員宿舎がある必要もない。天皇のお住まいは元々京都であり、今でも御所の用地は広大な土地がそのまま管理されている。天皇は元々の住まいである京都に御帰りいただけば、皇居という広大な用地が再利用でき、そこからの収入は計り知れない。こんなことを書くと、右翼と称する人から攻撃されそうだが、国民の痛みを一番感じ、心を痛めている天皇陛下は多分、賛成されると思う。
2010.07.31
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選挙で落選したまま職にとどまっている千葉法務大臣が署名 して、2人の死刑囚が処刑されたことで、新聞、テレビがまた死刑問題をとりあげている。こうした問題が起きると、マスコミは難しい問題なので、皆さんで考えましょうというトーンで対立する双方の意見を紹介するという姿勢でずっと来ている。 (難問が解決できないのは、する習慣がなかっただけ) しかし、筆者がずっと書いているように、日本の難問と言われる問題は、そのほとんどについて、解決策が既に見つかっている。それにもかかわらず、実行されない理由は2つある。 1つは、現在の制度で恩恵を被っていて、現在の制度が変更されると、損をする人がいて、その少数だが、強行に反対する人が大声で反対するので、自分にとって別に得になる訳でもない消極的賛成者が引っ込んでしまうことである。 2つ目の理由は、西欧だと、子供の時から、議論をすれば、必ず勝ち負けが出て、負けた方は、勝った人の考えに従うという考え方が身についているが、日本は議論が起きると、第三者が「まあまあまあ」と言って、間に入り、つき詰めた議論をしないで、うやむやにする習慣が身についていて、ものごとを論理的に処理するやり方を議会でも、行政でもしてこなかったのである。 日本が経済大国で、日の出の勢いの時は、ばらまく金があり、社会党のような反対勢力にも、顔を立てる飴玉を出す余裕があったが、今の財政難の時代にはそれはないし、日本人も少なくても、学校教育で、西欧合理主義を教わり始めて、百年は経つので、もうそろそろ、議論で勝った方の意見を負けた方が認めるということをしないといけない時代になっていると思う。 (国民の8割が支持する死刑制度存続) 死刑問題は、国民の8割が死刑を支持している。その一方で、世界的に見れば、死刑を継続している国が80数カ国なのに対して、廃止した国が100カ国を越え、人権団体などから、日本での死刑の廃止を求める声が強くなっているとともに、宗教家や弁護士などからも、廃止を訴えることがあり、意見が対立しているということである。 そういう状況の中で、死刑に消極的な人が法務大臣になると、死刑の執行命令に署名をしないので、死刑囚が死刑を執行されないまま、大量に存在するという異常な事態になっている。 刑事訴訟法では、死刑が確定した人は6カ月以内に、死刑を執行しないといけなくなっている。それを実行しない法務大臣は法律違反者であり、法律を守ることの番人である大臣としては失格である。心情的に、死刑に反対する人は法務大臣を引き受けてはいけない。話があった時に、断ればよいだけのことだ。それを引き受けて、サインをしないので問題が大きくなるのだ。 (終身刑プラス、合算での判決の導入) 客観的なデータとして言えば、殺人などの凶悪犯罪を犯す人の再犯率は8割くらいで、その人が人間として悔い改め、社会復帰をする可能性は極めて少ない。殺人、女性暴行、強盗などの事案は再犯性が高いのであり、何人も殺した人間を社会復帰させるというのは現実的ではない。 アメリカなどでは、殺人者、女性暴行者などは、社会復帰した後、その人が住む周辺住民には、そういう人が近くに住んでいるという情報が公開されたりしている。他の人が警戒をするためである。しかし、日本でそれを実行しようとすれば、人権家たちが猛反対するだろうし、もし、法案が通っても、朝日新聞などは猛反対の原稿を書き続けるだろうし、現実的ではない。 しかし、では、解決策はないかと言えば、ある。簡単である。死刑の次に重い刑が無期懲役な日本の制度を改革して、終身刑を導入すれば、よいのである。恩赦や特赦の対象にならないで、一生刑務所から出られないようにすれば、被害者の家族の心情にも配慮できるし、普通の人が再犯におびえることもない。 日本の刑法では、人が複数の犯罪を犯した時に、その中で、一番重い犯罪で裁判を行い、それを中心に判決を言い渡すという発想に立っている。これに対して、アメリカでは複数のそれぞれの犯罪で刑を言い渡し、合計する。だから、終身刑プラス百年というような判決になるのだ。日本も、この考え方に立てば、悪質犯、重大事件犯は明確になる。 (発想の転換が必要) また、日本では、2人以上殺さないと死刑にならないという非常にバカげた慣習がある。しかも、2人は大人でないといけない。光市での母子殺人事件で、土間に叩きつけられて殺された赤ちゃんは0.5人と勘定され、容疑者は死刑ではない判決を受けたので、被害者の夫がおかしいと訴え続けた。 日本の官僚、裁判官など、東大法学部出身者を中心とする人たちの発想には、量はあって質はないのである。例え、殺した人が1人でも残忍であれば、死刑の判決は当然と思うが、個々の判断を認めない考えなのだ。これは、人を信用せず、ルール、原則で縛るという典型的な発想である。これもなくさないといけない。量だけでなく、質で判決を言い渡すという発想に変えるのである。 死刑を廃止した場合、終身刑の人は一生刑務所から出られない。今現在、過去の法務大臣の怠慢で、死刑判決を受けながら、死刑になっていない死刑囚は既に100人を越えている。死刑がなくなれば、終身刑の人はどんどんたまって行き、あっという間に数百人になるだろう。 となると、この人たちをどうするかという問題が起きて来る。筆者の考えでは、離島とか地方の辺鄙な場所に、終身刑犯専用の刑務所を作る。一生刑務所から出られないのだから、長く、そこにいることになり、その経費もバカにならない。そこで、その刑務所にいる囚人は、自分の生活費は自分で稼ぐようにするのだ。 アメリカの刑務所では、刑務所、囚人の増加とともに、経費の増大が問題になり、刑務所の民間委託が増えている。そして、その一環で、歯ブラシ1つでも有料となってきていて、囚人は自分で作業を行い、その収入で、自分が必要とする経費を自分で出すようにするのである。 (死刑廃止論者が具体案を作る努力を) 筆者の考える細部は、筆者の考えであり、別のアイデアがあるかもしれない。要は死刑をなくすなら、絶対、刑務所から出られない終身犯という制度を作り、囚人は自活をするということだけである。 死刑廃止問題で、いつも不思議に思うのは、死刑廃止を声高に言う人に限って、それでは、死刑廃止の実現に向けて、死刑存続論者が納得できる対案を出そうとしないことである。これをみていると、死刑廃止論者は、格好、ポーズで死刑廃止を言っているだけで、本気で死刑廃止を実現しようと思っていないように感じられる。 筆者は基本的に、死刑存続論者である。凶悪犯罪者を取材で、何人も取材してきた。その体験からすると、絶対社会復帰は無理という人は結構いる。しかし、もし死刑を廃止しないとするなら、その時には、上に書いたような条件を整備しないと、筆者だけでなく、多くの死刑存続論者を納得させることはできない。それを廃止論者は真剣に考えるべきである。具体案は簡単にできるそれをしないのは、死刑反対論者の怠慢である。
2010.07.29
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(盛んな政府の地デジキャンペーン) 政府が予定しているテレビの地デジ化まで、1年を切り、総務省はあの手この手の地デジキャンペーンをしている。それをまた、総務省の命令で、各テレビ局が報道している。 既に地デジでテレビを見ている人はご存じないと思うが、これまでのアナログテレビで画面を見ると、1日に何回も「今見ているアナログ放送は来年で放送終了」というスーパーが流れる。 ただ、ス-パーが流れるのではなく、テレビの画面に枠を作り、見える画面を小さくして、周囲に「地デジにしないと、テレビが見ることができなくなる」と、危機感を煽る文字を配置している。見ていて、とても見苦しいし、邪魔である。 総務省の発表では、テレビを既に地デジ化した世帯は83%だという。しかし、今のなりふり構わずのキャンペーン状況をみると、筆者はこの数字は嘘だと思う。 身の回りにいる人たちと話をしても、地デジに切り替えたという人がほとんどという感じではない。第一、それだけ多くの人が地デジに切り替えたのなら、そこまでしつこく、スーパーやキャンペーンをする必要はないはずである。 先日、テレビのクイズ番組で、ある有名タレントが、東京キー局のテレビ朝日のチャンネルを10と言って、同じ出演者に、「嫌だ、あなたはまだ地デジ化が終わっていないの。地デジでは5チャンネルでしょう」と言われるというシーンがあった。 また、今回地デジ化キャンペーンを依頼され、メインキャラクタ-になった有名タレントが、「自分はこれまでアナログでTVを見ていたが、メインキャラクターに登用されたので、それを機会に、切り替えた」と話をしていた。テレビを主な活躍の場とする、有名タレントでこうである。 記者時代に、役所が発表するデータや数字をもとに多くの原稿を書いた経験があるが、その時でも、おかしいと思うことは少なくなかったし、後になって、やはり、あれは嘘とか、国民を誘導するための話というのが多かった。 体験から言うと、役人は自分たちが、こうしたいという方向に国民の世論をもっていくために、データのある部分を極端に誇張して話を作ることは珍しくない。今の少子高齢化で大変だという話についても、筆者は役人の増税のための世論作りの臭いを感じさえする。 (電波の開放がなぜ行われないか) それはともかく、地デジ化とは何かという、そもそもの議論があまりマスコミで報道されない。許認可権を持たれて、首根っこを押さえられているテレビ局は仕方がないとして、新聞、雑誌はもっとこの問題の本質を報道すべきであると思う。 政府の大義名分は、アナログからデジタルにすることで、電波をより効率的使え、有限なる資源である電波のよりよい活用のためにもデジタル化が必要だということである。そして、世界の主要国でもデジタル化が進んでいることが、自分たちがやっていることの正当性の証明であるような話を総務省、政府は言っている。 デジタル化が進んだ他の国と日本との間に大きく異なることが2つある。1つは地デジか先進国のアメリカでは、電波の開放ということが行われた。ビジネスなどで電波を利用したいと希望する人は多い。しかし、電波利用が開始した当初に利用権を与えられたテレビ局、ラジオ局、消防、警察、航空などが既に使っていて、他業者が入り込む余地がなかった。 それがデジタル化で、使える電波域が増え、アメリカではその利用可能になった電波について、オークションが行われ、新規に仕事で電波を利用できる人が増えた。しかし、日本の総務省はこの電波の開放については、消極的で、ほとんど何もしていない・ (CSが進んでいない国での強行は異常) 2つ目はアメリカでテレビを見ている人の圧倒的に多数の人は、ケーブルテレビ(CS)を見ているということである。その結果、一般の視聴者は地デジ化で何もする必要がない。従来のテレビ機器でデジタル放送が見ることができるようになった。つまり、ほとんどの国民は負担ゼロでデジタルに切り替わったのだ。 そのアメリカでも、ケーブルテレビ(CS)ではなく、テレビを見ている人も結構いたので、アナログからデジタルへの変更には慎重で、時期を延期するなどの措置をとっている。 翻って、日本ではケーブルテレビ(CS)でテレビを見ている所帯は1割にも行かない。つまり、ほとんどの国民は自己負担で、テレビ受像機やアンテナを取り替えないといけない。つまり、国民の大きな負担を強いての地デジ化である。明らかにこれは政策としておかしい。 最近、有識者が地デジ化対策が遅れているので、1年後の切り替えは延期すべきであるとの提言をしたが、総務大臣はすぐに記者会見で、延期はしないと述べた。 地デジ化が一番遅れているのは、実は東京を中心とする首都圏である。これはマンション生活をする人が多く、そのマンションのビルとしての地デジ化が進まないのだ。 デジタルの電波は方向性が強い。大都会には大きな建物が多く建っている。その中で、きちんとデジタルで電波を各視聴者に届けるための工事が結構大変なのである。 (何のための地デジ化) 海外と大きく異なる環境の中で、無理して地デジ化を強行しようとするのはなぜか。一説には、家電業界が不況で、新しい大きな需要を生む製品を欲していて、それに地デジ化が大きな役割を果たしたという話がある。あり得る話だが、そうだとするなら、政府はどこを見て政策をしているのかと言いたい。 一番の当事者であるテレビ局は、総務省が監督官庁であるので、キャンペーンに付き合っているが、彼らも実は被害者である。地デジ化に要する経費は、日本全体で1兆円を超すと言われる。テレビ局がその多くを負担するが、彼らにはデジタル化のメリットはほとんどない。不況でCM収入が減っているテレビ局は大変である。 テレビ局で唯一、メリットを享受するのはNHKである。アナログ放送には、そんな機能はないが、デジタルになると、視聴者が受信料を払っているかどうかチェックできる機能がついていて、受信料契約をしていない人には、契約をしてくださいという表示が画面一杯に出る。こういうのを見ると、推進者に1人にNHKがいたのかと感じる。
2010.07.28
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最近、就職の超氷河期で女子学生が自分が合格するために、一緒 に受けている他の女子学生を殺すという小説を読んだ。その中で、作者は今のような厳しい状況を作ったのは、政治家、官僚たちで、自分たちは被害者と訴えている。 これはマスコミがそう報道するから、多くの人、特に就職で苦労している学生は、そう思うようになったのかもしれないが、全くもって、事実と違う。採用を10年以上やっている担当者として言えば、「不況だから就職でないのではない、企業が採りたい学生が本当にいない」のである。 (日本が経済大国になったには誰のおかげか) まず、マスコミが報道したり、今の民主党政権の議員がよくいう「自民党政権時代に、自民党の政治家や官僚が好き勝手や、間違いを多くしたので、今のどうしようもない日本ができあがり、多くの日本人が苦労している」という発想、認識は間違いである。 戦後、日本が奇跡の復興をしたのは、戦後の日本の政治家、官僚が頑張り、適切な行動をとってきたからである。政治で言えば、マスコミや東大の学長など多くの学者が、共産圏の国家まで含めた全世界の国との講和を求めて、全面講和を主張したのに対して、吉田、岸という首相は、「米ソが冷戦で対決している中で、全面講和は絵空事」と断じて、自由陣営との講和に踏み切って、米軍占領を脱出して、敗戦から独立国となった。 戦争に負けた日本が占領状態から独立する時に、米軍は沖縄を返さなかった。沖縄を除いての独立だった。その後、佐藤首相など日本の政府が粘り強く交渉して、沖縄を返還させた。戦争で負けた領土は、平和裏の交渉では返らないという常識を覆しての返還である。今、沖縄では基地問題で反発が強いが、佐藤首相たちの粘りがなければ、占領下で、文句も言えなかったのである。 貧しい日本を一日も早く脱出しようと、10年間で国民の所得を倍にするというスローガンを打ち出し、自ら、外国に行って、「トランジスターのセールスマン」とバカにされながら、日本製品の売り込みをして、所得倍増計画をその通り実現した池田首相など、もっと歴史で教えないといけない。 (戦後の繁栄の再現は無理) 今の日本が苦しんでいるのは、戦後、50年以上繁栄し、経済的には、世界のどこよりも繁栄を謳歌してきた日本の経済モデルが時代に合わなくなってきたからである。一流と言われてきた経済が、三流に転落したのである。つまり、政治や官僚ではなく、企業経営者と国民が間違えたのである。 そして、50年以上にわたって、繁栄を謳歌してきて、平和ボケした国民は、「なぜ、あの繁栄がなくなったのだ」として、政治家や官僚を批判しているのである。「あの繁栄が異常だったのであり、あの繁栄は二度と来ない」という認識から、日本を変える努力しないといけないのは、国民自身なのである。 戦後の日本が成功したのは、日本人の勤勉さと、工夫する努力を生かし、政治家、官僚が日本を世界の生産工場にして、日本で作った製品を世界に供給するというモデルを作りあげたことにある。でも、それは日本人が真面目で、器用で、低賃金だったからできたことである。今、中国がそれにとって代わっている。賃金が日本の10分の1の国と競争して勝てる訳がないのだ。 (えり好みをする学生) 学生の就職の話に戻すと、何回も言っているが、不況で就職難だから、学生の職がないのではない。企業が欲しい学生が本当に圧倒的に少ないのだ。だから、数少ない欲しい人材には何社もが内定を出して争奪戦になるのに対して、どうしようもない学生は1社も内定が取れないのだ。 今の大学生の親の世代は、特に母親の大学進学率は1割位だった。だから、大学に進学することはイコール、大企業に就職できるという認識が親にある。しかし、今の時代は5割の人が大学に行く。いくら、子供の数が減っても、就職希望者は今の大学生の親の世代よりも圧倒的に多いのだということを知らないといけない。 本来の意味である、大卒の仕事、世間でいう総合職の仕事は仕事の1割位のもので、大学を出ても、体を使っての仕事をしてもよいという認識さえすれば、就職口はいくらでもある。それを自分は大学に行ったのだから、大企業でないとだめ、オフィスでの仕事でないとだめというようなことを言うから仕事がないのだ。 冒頭に書いた小説でも、なかなか就職できない主人公の女子学生を心配して親など周囲が、知人からの話をもってくるシーンが書かれている。しかし、主人公の女子学生は「東京以外に本社がある会社は嫌」「小さな会社は嫌」とそれらの話を当然のように蹴っている。 (いない自分の頭で考え、チャレンジするタイプ) 学生の数が減り、団塊の世代の大量定年で本来は企業は学生の争奪戦になって当たり前なのである。しかし、採用面接で学生と接すると、採用したくないという学生が圧倒的である。 企業が欲しい人材は、自分の頭で考え、状況変化に機敏に対応でき、チャレンジする人である。でも、今、こういう学生は本当に少ない。大学が東大、京大、早稲田、慶應の学生でも、こうした学生を見つけるのは至難の業である。 子供の時から、親や教師、塾の講師に言われて、その通り実行し、高校、大学とよい学校に入れた。でも、自分で考え、行動しろと言われると、自分が何もないので、どうしてよいかわからずに、まごまごしてしまう。だから、入社しても、ウツになる人が多い。 また、今のグローバル時代には、世界で通用する人材でないといけないが、学生と話をしていると、本当に内向きで、世界の他の企業の社員と競争しないといけないという発想がない。だから、楽天、ユニクロその他、多くの会社で、新規採用の7割は外国人にするというような話が出てくるのだ。 (ほとんどの学生が就職できているという事実) まず事実認識から言えば、7月1日現在の4年生大学生の就職内定率は日経ディスコによれば、68.7%で、決して悪くない。大学生の2割の人は好不況に関係なく就職しない。つまり、就職希望者は8割である。7月1日現在、内定が取れていない人は1割しかいないということである。 マスコミが超氷河期と煽るので、必要以上に学生が危機感を持ち、あせっている。しかし、実態は、就職できない人の多くは、えり好みをしている人、なぜ自分が内定が出ないか理解し、発想の切り替えができない人である。これができれば、就職口などいくらでもある。
2010.07.27
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(歴史的な大記録もほとんど無視) 大相撲は白鵬の3場所連続全勝優勝、全勝優勝7回という記録を残して終わった。ただ、場所前、場所中、場所が終わってからも、ずっと、野球賭博がらみの報道が中心で、白鵬の記録など霞んでしまった。 3場所連続の全勝優勝は近代相撲では初めてのことだし、全勝優勝7回というのは、戦前に活躍した伝説の大横綱である双葉山の8回に次ぐ、2位タイの記録で、大鵬や千代の富士に並ぶ大記録である。本来なら、大きく報道されて当然の内容だが、新聞、テレビは小さな扱いである。 ところで、力士の野球賭博問題とは何なのか。 (マスコミの煽りと暴走) きっかけは週刊新潮の報道である。その内容は、琴光喜が野球賭博をして、勝った金を受け取ろうと請求したら、仲介役の元力士から、逆に「大関が野球賭博をしていることを知られたら大変だろう」と恐喝され、数百万円単位の金を脅し取られ、更に、1億円からの金を恐喝されていると報道したことが発端だ。 この報道をきっかけに、新聞、テレビ、雑誌が「国技の相撲取が賭博をやるのはけしからん」というトーンでの報道が始まり、お定まりのコースで、新聞社、テレビ局、通信社の特ダネ合戦のなり、マスコミの暴走、人民裁判が始まった。 そして、野球だけでなく、力士が仲間内で花札をしていたことや、後援者やファンとの会合で会食をした時に、食事をともにした10数人に会食参加者に暴力団関係者がいたことや、暴力団関係者が役員をしている会社から、地方場所の部屋用のスペースを借りたということまでもがバッシングの対象になった。 マスコミの報道を冷静に見ると、力士が賭博をしていることがけしからん。神聖な国技を伝承する人間がそんなことをしてよいのかという、訳のわからない魔女狩り的なトーンでの報道が目立つ。 (賭博、賭け事をするのは日常的) まず、日本人のほとんどの人が賭博をしている。宝くじも賭博だし、競輪、競馬、競艇も賭博である。ゴルフをする人のほとんどが、一緒にコースを回る人と金額の多寡は別として、賭けをして、終了後、現金の授受をしている。会社などで、高校野球が始まると、優勝チームを争うトトカルチョをしている例は珍しくない。 パチンコも立派な賭博である。パチンコ業界の年間売上高は自動車業界を上回り、日本での最大産業である。ウイークデーの朝にパチンコ店の前を通ると、開店を待って、若い人や中年者などの男女が何人も行列を作っている状態である。 それだけ、国民の中に賭博が日常化しているなかで、なぜ、今回、相撲だけがこれだけ大騒ぎになっているのだろうか、冷静に考えてみないといけない。 (相撲は神事か?) まず、相撲の今回の問題を議論する時に、マスコミやそれに出て来る人が二言目に言うのが、「相撲は伝統国技」「相撲は神事」という言葉である。本当に多くの日本人がそう思っているのだろうか。 それだったら、テレビの視聴率が高くてもよいはずだし、力士のなり手に日本人の若者が多くいてよいはずである。朝青竜の暴行問題の時も、同じ議論があったが、それまで相撲にほとんど関心がなかった人までもが、「伝統の国技」というようなことを言いだした。 原因はどうしてか。マスコミがそう報道するからである。多くの国民は色々なことの実態を知らない。だから、マスコミの報道に大きく影響される。それだけにマスコミの報道は慎重にならないといけないし、対立する両方の意見を紹介しないといけないのだが、今のマスコミはそういうようになっていない。 (国民が実態を知らない暴力団) 暴力団というと、ほとんどの国民は会ったこともないので、ただ、パンチパーマで、黒いスーツやサングラスのイメージで、怖い人たち、悪い人たちという印象である。だが、前にも書いたが、日本の上場企業の内、100社位が何らかの関係で、暴力団の影響下にある。そして、多くの暴力団幹部は、会ってみると、普通の人と区別はつかない。 かつて、警察は、名称は、暴力団だろうが、やくざだろうが、的屋だろうが、そうした人たちと、つかず離れずの関係を作ってきた。世の中には人がやりたがらない仕事はあるし、どうしようもない人を野放しにするよりは、そういう集団で管理してもらう方が社会全体としては、問題が起きないと考えたのだ。 だから、事件などが起きると、やくざ、暴力団の世界に流れる情報が貴重で、警察官がそれを得て、犯人逮捕などということがいくらでもあった。住み分けがあったのだ。やくざはやくざで、「素人の人には迷惑をかけてはいけない」と仲間内を厳しく取り締まったりした。 (リークの怖さ) ところが、今から20年位前から、天下り先を拡大し、勢力を大きくしようとしていた警察組織が、やくざを暴力団として排除することを決め、その分野での利権獲得に乗り出し、やくざの締め出しを図った。そこで、両者の凄まじい争いが始まったのだ。 こうした流れで、今回の相撲界の野球賭博報道を見ていると、筆者はその裏に警察官僚の思惑を感じざるを得ない。 賭博罪での逮捕、検挙は原則、現行犯である。そういう意味では、力士の相撲賭博での立件は難しい。そこで、マスコミにリークして、原稿を書かせた。それで騒ぎを大きくさせ、少し鎮静化してきたら、第二弾で千代大海の話を更にリークした。 筆者も記者経験者なので、そうした体験が何回もあるが、一生懸命取材をして、他社が知らない特ダネをとり、報道をして誇らしげにしていたら、その報道は実は政治家、官僚、経営者が世間の動向、反応を見るためのリークで、結果的に利用されたということである。今回の週刊新潮はその感がする。 (理事長は警察・検察官僚の天下り先に?) 断っておくが、筆者は賭け事が好きではない。競輪、競馬、競艇はしたことがないし、宝くじも買わない。パチンコもしない。胴元が国であるか、会社であるかは別として、宝くじなどは売り上げの55%を国がとってしまっている。詐欺以外の何ものでもないと思っている。競輪、競馬でトータルとして、金を儲けたという人も聞いたことがない。 また、仕事でやくざ、暴力団の人を取材したことは何回もある。どうしようもなく、困った時に、頼まないといけないことは生涯に1回くらいあるかもしれないが、できることなら、付き合いたくない人たちである。 ただ、今回の大相撲の野球賭博騒動を見ていると、結果として、検察幹部OBが理事長代行になり、今の流れで行くと、理事長にスライドしそうな雰囲気である。そうなると、相撲協会の理事長ポストは警察、検察官僚の天下り先になってしまうのではないか。長年の官僚取材の体験から、そんなことを感じる。 (相撲は興業) 筆者は相撲は別に好きでも嫌いでもない。ただ、神事だとか言われると、言っている人を信用できない。戦後、相撲協会はつぶれそうになった。国民がもう過去のものと考えたからだ。それを救ったのは、NHKのテレビ中継である。そして、栃錦、若乃花(先代)、大鵬、柏戸などの人気者が出て、盛り返した。そして、若乃花、貴乃花などが出たし、朝青竜が出て、今日の状態になったのだ。 基本は格闘技であり、興業である。そして、引退して親方になれれば、生涯賃金は、他のプロスポーツとひけをとらない位の金額を稼げるスポーツである。だから、外国人が多く出稼ぎに来るのだし、行儀がよくなかったが、朝青竜が人気があったのだ。 今のように、これを機会に、もっと倫理的になれ、道徳的になれというようなことを力士に言い続け、バッシングを続けていると、結果として、相撲は面白くなくなり、誰も相撲を見なくなってしまう。そうすれば、折角、利権を手に入れかかっている警察、検察官僚にも損である。 もうそろそろ、今回の騒動に幕引きの時だと思う。警察、検察の幹部がそう判断して、騒ぎを終息方向にもっていくことは近いと思う。その時に、今、魔女狩りをしているマスコミは、今度は警察の無力ぶりを叩くのであろうか。
2010.07.26
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(フランスは家族手当で子供が増えたのではない) 民主党政権の公約の目玉の1つが少子化対策で子供に手当を出すことだ。厚生労働省はこれと、母親だけでなく父親も育児休暇をとることが少子化対策の重要なカギとして、父親の育児休業をとるように推進している。 子供手当、育児手当、児童手当、家族手当、名称は何でもよいが、こうした手当てを国や地方自治体が出すことが当然で、世界の流れだと民主党の議員は言う。 しかし、本当に世界の流れで、本当に決めてとなる対策になるのだろうか。今の日本は世界の主要な国の中で、一番財政状態が悪いことは周知の事実である。金に余裕があるなら、ばらまきもよいが、そうでないなら、費用対効果でもっと有効なことを実行すべきだと筆者は考える。 よく例として、フランスが家族手当をだすなど積極的に少子化対策を実行したので、出生率が増えたという。しかし、同じような対策をとっているドイツでは、家族手当などの少子化対策で、出生率は上がっていない。 フランスがとった対策は色々あるが、専門家が一番効果があったと考えているのが、税金対策である。これは、出産可能年齢の男女が一緒に生活をすると、どちらか一方の税金が半分になるという制度である。 税金が半分になるというのは大きい。それなら、一緒に生活しようということになる。男女が一緒に生活するのだから、嫌いな人間同士はない。同じ屋根の下に男女が一緒に生活すれば、赤ん坊はできる確率は高い。 フランスでは生まれる赤ん坊のおよそ半分が結婚をしていない男女の間で生まれている。フランスの次期大統領の有力候補のロワイヤル女史は同じ政党の幹部との間で、2人の子供を生んでいるが、結婚はしていない。 (法律も事情も異なる日本) ただ、これだけを日本で導入しても、フランスと同じ効果が出ないだろう。フランスでは、結婚をした男女の間でできた子供と結婚をしない男女の間でできた子供という差がなく、どちらも同じ扱いである。しかし、日本では嗣子と庶子という法律的にも、財産相続上でも、大きな差が明確に存在する。 この法律や制度を変えないと、税金を半分にしても、子供は増えないだろうし、万一、増えたら、差別される子供が可哀想である。 民主党のように、家族手当や子供手当の支給に熱心な人はテレビなどに出て、よく、「それは世界の常識です。世界基準です」とよく言う。でも、こういう人が今度は金融や会社経営などで、グローバリゼーションの話が出て来ると、「なぜ、アメリカに追随しないといけないのか。日本には日本に合ったやり方があるでしょう」とよく言う。 つまり、自分に都合がよい時は外国にまねろと言い、都合が悪くなると、日本式にしろと言うのだ。筆者はこうしたダブルスタンダ-ドを使う人は、人間として信用ができないと思う。 逆に、経済や企業経営は否応なく、急速に世界統一基準に進んでいっている。そうしない会社は世界競争に取り残されるからである。楽天だけでなく、日本を代表する大企業が採用の7割、3分の2を外国人にするという方針を打ち出しているのも、まさに世界統一化に合わせるためである。 一方で、家族問題は少子化や家族の話は国よって、考え方、習慣、文化が違うので、すぐに世界統一基準とはいかない。こちらは逆に国の個性、習慣をじっくり見た上で、対策をとることが必要である。 (少子化は悪くない) まず、そも、少子化がいけないことかという議論からしないといけない。少子化が問題となっている最大の理由は、若者が払った年金拠出金を年寄りが年金として受け取っているので、若者が少なくなると、年金制度が崩壊するということである。しかし、これは、アメリカの401Kのように、自分が積み立てた年金の金は自分が受け取るという形に直せば、若者が減るということの最大の問題点はなくなる。 そもそも、今の70歳代、80歳代の人は、自分で年金用として、積み立てた総額の何倍もの金を年金としてもらっている。そして、その65歳を越える年寄りが1400兆円の個人金融資産の3分の2を持っている。老人は貧しいというのはマスコミが作った神話で年寄りの平均像は豊かなのである。 豊かな個人金融資産、そして、年金支払いのために積み立ててある100兆円を越える資金を使って、年金を自己積み立て分をもらうというように制度改革を実施することは不可能ではない。こうすれば、年金問題、少子化問題の重大さが小さくなってくる。 年金問題を取り除くと、少子化対策にそんなに釈迦力になる必要はなくなってくる。先進国はどこでも、少子化である。豊かになり、女性も生活力がもて、自由も楽しみも知った若者は、結婚して多くの子供を持とうという意欲が減ってくるのは、日本だけでなく政界のトレンドである。 江戸時代の日本の人口は3千万人で、経済は自給自足で、当時、日本は世界一と言われる豊かさだった。女性の識字率も世界一だった。明治維新後でも、昭和の時代、戦争に突入するまで、日本人の人口は6千万人だった。それで、国際連盟の常任理事国で、世界トップクラスの大国だったのである。 (世界の主要国は人口は日本の半分位) 少子化を恐れるもう1つの理由は、少子化になると、自動車や家電業界がものが売れなくなり、経済が大変だという危機意識をもっていることがある。 しかし、ここでも過去はともかく、今の日本は、自動車でも家電でも世界をリードする立場からずり落ち始めている。世界の鉄鋼の生産の半分は中国が作り、造船でも世界の6割を中国が作る時代である。自動車や家電業界も、中国やインド、韓国に海外では市場を奪われているし、日本国内でも市場を奪われる時代が来てもおかしくない。 人口3百万人のニュージーランドや5百万人のスウェーデンは極端としても、隣の韓国も、ドイツも、フランスも、イギリスも日本の半分位の人口しかない。別に人口が半分になっても、国が沈没する訳ではない。 (女性と赤ん坊に一番やさしいのは雇用差別禁止法) 「仕事と育児が両立できないから、子供は産まない」という人はいないことはない。しかし、少数派である。それでも、対策が必要だとするなら、兆単位の金をばらまいての子供手当、家族手当ではなく、もっとやることがあるように思う。 一番、簡単で、国が金を使わずに、効果をあげる方法がある。それは、アメリカが実施しているように、「雇用差別を禁止する法律」を作ることである。 これができると、人種、年齢、性別、学歴、結婚の有無、子供の有無に関係なく、企業は能力で人を雇わないといけなくなる。この最大のメリットは、子供ができた時に、母親が務めを辞めて、育児に専念できることである。赤ん坊は0歳から2歳位までの間に脳の基本ができると言われており、その時期に母親が常時そばにいることは子供にとっても、重要なことなのである。 今、出産しても、会社を辞められない最大の理由は、一度辞めると、再就職先がないことである。でも、雇用差別を禁止する法律ができれば、3年、5年育児に専念していた女性が仕事を再開したいと言った時、男性や、独身の女性と能力で比べて、優秀であれば、雇わないといけなくなる。 一度、会社を辞めても、また、能力があれば、仕事ができるのであれば、自分のスキルを磨きたいために、学校に行き直すこともできるし、育児でも、それこそ、男性でも、育児休業ではなく、会社を一度辞めて、再就職もできるようになる。 女性の地位の向上を真剣に考え、行動している人の間では、この雇用差別を禁止する法律の制定が一番効果があるということは認識されている。でも、そうした動きにならない。理由は簡単で、日本の女性問題を担当している厚生労働省の担当者は、問題なく育児休業がとれ、十分休んで復帰しても不利ではなく、民間企業の女性社員がなぜ、育児休業をとれないか理解できないからである。
2010.07.24
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(「日本の政治家は先進国の平均値」) 大分前の話だが、当時人気があった番組、久米宏が司会をしていた「ニュースステーション」で、日本の政治の話を色々したことがある。 ある日のゲストは、ハーバード大学のジェラルド・カーチス教授だった。久米宏が「日本の政治家は本当に問題で、『経済一流、政治二流』ですね」と言った時、カーチス教授は「政治が二流なら国民も二流です。政治家は国民を映す鏡です」と発言した。 そして、カーチス教授は続けて、次のように述べた。「欧米各国の政治家を見て、色々分析もしているが、先進国の中で、日本の政治家が他国に比べて劣っているとは思わない。より抜きんでているとは思わないが、平均点はとれていると思う」 カーチス教授は「代議士誕生」という本まで書き、日本で政治家がいかに国会議員になっていくかという過程を克明に密着取材したことで知られる、日本の政治事情に詳しい教授である。 (マスコミが作った「政治は二流」という言葉) 日本では、ずっと、「経済一流、政治二流」と言われ、続けてきた。そして、大臣が一年くらいで交代するのに行政が問題なく運営されるのは、東大卒の優秀な官僚がいるからで、大臣不在でも行政は問題なく回るのだと言われてきた。 本当にそうだろうか。長年、官僚、政治家、経営者を記者として取材してきた者として、政治家が官僚や経営者に比べて劣るとは全く思わない。官僚が日本を食い物にしてきたことは、今は周知の事実である。経済も苦悩している。その一方で、優秀でバランス感覚を持っていたり、日本の現状、将来を憂慮している政治家は多くいる。 では、なぜ、そうした言葉が定着し、信じられているのであろうか。筆者は最大の犯人はマスコミにあると思う。 日本の新聞は、江戸時代の瓦版の流れを汲んでいる。瓦版は真実も書いたが、かなりいい加減なことを書いていたし、誰かに依頼されて、人を攻撃したり陥れたりする記事も多く書いた。 明治時代になると、瓦版を前身とする新聞は、維新で権力の座に着く抗争で敗れた人間が、自分が敗れた相手を攻撃するためのものとして、誕生していった。そうした経緯もあるので、新聞は常に時の政権を攻撃した。 政権批判はそれが、是々非々で行われるなら問題はなく、逆に権力者のチェックという意味で、重要な役割を果たす。しかし、日本の新聞は政府を攻撃し、もてあました政府が甘い懐柔策を示すと、簡単にそれに乗り、尾を振って、権力の座についていくということをしたのだ。 (下請けの人が作るテレビ) こうしたことを見ると、日本の新聞はいかにいい加減であったかがわかる。だから、太平洋戦争に突入する時も、突入した後も、朝日新聞がその代表であるように、新聞は権力に媚び、過激に国民をあじって、国民に多大の迷惑をかけた。 戦後になってテレビが登場するが、日本ではテレビ局は役所の組織の一部がテレビ局化したNHKは別として、それ以外の局は、新聞社が新しい利権として、その権利を買い、設立した。 そのテレビは映像の強さで国民の人気を集めていくが、高給を得ている正社員は仕事をせず、下請け会社の人や契約で働く人が、異常に安い報酬で出来高ベースで仕事をしている。このために、異常なあおり方で報道し、視聴率さえとれれば勝ちという価値観の中にあるので、放送内容がよりいびつになってきている。 日本の地上波のテレビ局が流す番組は、先進国の中で一番レベルがひどいと、世界のメディアの関係者が言うくらいお粗末な内容になっているのは、そうした体質から来るのである。 (政治家にたかる有権者) 政治家の生活について述べると、マスコミはすぐ、政治と金という話を書き、政治家を攻撃する。政治家には今の小沢一郎のように、蓄財のために政治家をしていると言われても仕方がないような人もいるが、多くはそうではない。 日本ではとにかく、政治に金がかかりすぎるのだ。その最大の理由は有権者である。有権者は政治家、国会議員でも、県会、市会議員でも、とにかく、自分が投票した人の、交通事故のもみ消し、就職の斡旋、利権の口聞きなどを求めて来る。 天下国家を論じようにも、有権者がそれを許さないのだ。国会議員は結婚式など冠婚葬祭に出席することは当たり前というのが今の日本社会で、政治家は時間と金を有権者に大きく奪われているのである。 (大問題な小選挙区制度はマスコミが推進) 中選挙区時代には、一定の票をとれば、ライバルがいても当選できたので、まだ、対応のしようがあったが、今の小選挙区制度では、勝つか負けるかしかない。大都市を除いて、勝つのは1人だけなので、どんな無理なことを求める有権者の票も重要になってくる。 国会議員を県会議員、市会議員なみの活動をしないといけないようにした小選挙区制度はどうして成立したか。マスコミが小選挙区制度になれば、政治が大きくよくなると、大宣伝して成立したのである。 そして、小選挙区制度のマイナス点が指摘されるようになってくると、マスコミやそこに登場する知識人と称する評論家、大学教授、弁護士などは、またぞろ、選挙制度の改革を言いだしたり、政治家がお粗末だということに理由を見出そうとしている。 (政治家を育てる方法) 国を思い、国ための働く政治家をもっと増やすにはどうしたらよいか。方法はいくつかある。1つは、現在、1年か1年半に1回というように、頻繁に国政選挙をするというバカげた制度を変えることである。 参議院を廃止するか、残すなら各業界、団体の代表者で構成し、国民の選挙ではなくすれば、国政選挙は衆議院だけになる。そして、任期4年にもかかわらず、これまで2年半に1回行われてきた選挙を、解散をなくし、任期通り、4年ごとの選挙とするのである。こうすれば、政治家は政治に集中することができる。これだけで、政治は大きく変わる。 そして、選挙は中選挙区制度に戻すことである。中選挙区制度の問題点として散々マスコミが書いてきたのは派閥である。同じ選挙区から同じ党の候補者が立候補して当選するので、派閥が生まれる。その派閥はけしからんとマスコミがずっと書いてきた。 しかし、派閥はよい面もあった。先輩が後輩を指導し育てた。派閥の中で人望がないと、リーダーにはなれず、リーダー学を学ぶ場でもあった。派閥ごとの勉強会も頻繁に行われ、政治家が国政の課題、対策を勉強することができた。 小選挙区制度にしたことの最大の問題点は、党の幹事長が権力と資金を握り、小沢一郎のような独裁者を生む構造を作ってしまったことである。海外でも小選挙区制度になると、多種多様な民意を反映しないとして、二大政党以外の小政党、つまり右か左かではなく、それ以外の声がいかに大切かということが論じられるようになってきた。 現在の小選挙区制度は、反対派を説得するために、比例代表という訳のわからない制度を併用したので、個人の得票が1万あまりで当選する人がいる一方で、40万票とっても、落選するという人が出るなど、いびつになっている。中選挙区に戻せばばかげた比例制度などなくなる。 政治家の手足を縛り、自由に活動できなくし、かつ、常に批判だけをし、まったく建設的ではないマスコミ対応に消耗している政治家を叩いてばかりいても、何も生れはしない。
2010.07.22
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(多く報道されるゴミ屋敷、犬猫屋敷) 自分の家に大量のごみを貯め込んでいて、周辺の住民に悪臭などの被害を与えている人がよく報道される。また、同じような話で、自宅の多くの犬猫を飼って、悪臭や鳴き声で迷惑をかけている人がいる。また、カラスや野良犬、野良猫に餌をやり、多くのカラスや犬猫を集めて、近所に被害を与えている人がいる。 こうした人の話は、映像になることもあって、懲りない位にテレビで頻繁に取り上げられている。しかし、テレビは散々取り上げるが、面白がっているだけで、それを根本的に解決しようという発想がない。だから、付け足しのように、その地区の市役所や区役所の担当者に、「注意、指導はしているのですが、言うことを聞いてくれないのです」という話を放送している。 こうした事案は、別にどこかの町だけに起きているのではなく、今は日本全国で起きている。それでいて、行政はごく一部の市や町が条例を作って取り締まろうとしているだけでは、ほとんどの行政は何もしようとしていない。「指導はしているのですが」とか、「注意はしているのですが」というのは、何もしていないということを言っているのと同じである。(法律の制定で防止) この問題の解決は非常に簡単である。迷惑防止法を作ればよいだけである。原因がゴミでも、ペットでも、カラスの餌やりでも何でもよい。周辺の多くの人に被害を与える行為を禁止し、違反者は逮捕され、刑務所に行かないといけないという法律を作ればよいのである。 では、なぜ、こんな簡単なことができないのか。そういう問いかけでよく出てくるのは、個人の自由を束縛する法律には賛成できないという人権派弁護士など法律関係者の意見である。しかし、多くの人が迷惑を被っていることを放置する方がよほど、「非人権派」である。 また、よく出る議論で、違反の一律の基準を作るのは難しいという話である。これもまったく対策が難しくない。迷惑というのは主観的な問題である。迷惑を受けたと多くの人が感じれば、それは迷惑なのだという法律を作り、その基準はその市や町から無作為に選ばれた住民に、それこそ裁判員になってもらい、現地をみてもらい、それが迷惑にあたるかどうか判断してもらうのである。 市や町の条例では弱く、強制力があまりないことを違反者は知っているので、タカをくくって、直そうとはしない。しかし、これが法律となって、違反者は罰金刑だけでなく、禁固や懲役刑があるとなれば、ほとんどの人は違反行為は止める。 迷惑行為をする人の多くが、そうした行為をすることで他人に振り返ってほしいとか、自分の存在を認めてほしいという甘ったれの感情から出ていると、学者は分析する。でも、厳しい処罰があれば、甘えなど消えてしまう。 住民から選ばれた代表が判断するというよいなことを言うと一番、反対するのは、東大出の官僚である。彼らは、法律、ルールは自分が作るものであって、その権利を誰かに渡したくないと思っているし、基準も自分たちが作るのが当然だと思っている。 でも、アメリカの裁判では、選ばれた陪審員の判断で、賠償額が天文学的なったり、無罪になったりする。陪審員同士の議論はあっても、統一ルールや基準がある訳ではない。また、アメリカには悪質なケースには「懲罰的な賠償」を課すという発想があって、賠償額も非常に大きなものになる。アメリカ人ができることを日本人ができない訳がない。(不作為の罪の制定を) 迷惑防止法が策定できない最大の理由は何か。筆者は理由は2つであると考える。1つは、役所側にとって、特に中央官庁の役人にとって、何のメリットもないからである。 役人というのは、自分の利害に関係ある法律は本当に早く作る。しかし、自分に何の得にもならない法律は、それで国民がどれだけ困っていても、動こうとはしない。 筆者はずっと言い続けているが、外国でもあるような、「不作為の罪」を日本でもきちんと作り、責任ある立場にある役人、政治家が正当な理由なく、その行動をとらなかった場合、刑務所に入るという法律を作るべきと考える。 それをどこまで適用し、どうなったら有罪で、どこまでは無罪かは、裁判で決めればよいのである。少なくても、権力ある人が何もしないことは罪だという概念を法律に取り入れることが重要なのである。(政治、行政を駄目にしている国民) 迷惑防止法のような法律が成立しない2つ目の理由は、国民、住民が法律、憲法で認められた様々な手段を講じて政治家を動かす行動をとらないことである。 例えば、県知事、市長が多くの住民の考えと違う行動をとった時に、リコール請求活動をすれば、それが成功するかどうかは別として、知事や市長は慌てて、対策をとろうとする。でも、こうした行動をほとんどの日本人はとらない。 国民や住民がそうしたことで立ち上がれば、役人や政治家に緊張感が出てくる。そうしたら、もっと住民の方に顔を向けた行動に出るようになる。 役人や政治家をあがめ、文句を言おうとしない国民が政治や行政をだめにしているのである。「誰が国会議員になっても一緒」というようなことを言う人は、自分がもっている権限の強さを知らないだけのことである。
2010.07.21
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(根本思想がない改革は成功しない) 公務員制度改革は自民党も民主党も掲げながら、一向に進まない。特に民主党は「官=行政の徹底的な無駄の排除」を訴え、大衆受けする「事業見直し」までやっているが、公務員制度改革は自民党時代よりも大きく後退している。 ずっと書いているように労組が支持母体の民主党に公務員制度改革は無理だと思う。参議院議員選挙で、一定の支持を獲得した「みんなの党」に期待がかかるが、数の削減だけ言っていて、どこをどうという思想がない。これでは公務員制度改革はできない。 公務員制度改革は難しいとよく言うが、それは嘘である。これまでの改革がうまくいかなかったのは、本質をついたものがなく、数合わせ、僅かな数の削減というようなことで終わってきたからである。 公務員制度を改革しようとする時に、根本の思想が大切である。それは公務員を「身分」から「職業」に転換させることである。「公務員が身分?」と驚く人がいると思うが、身分なのである。 (法律で守られている身分) 身分を守っているものが2つある。1つは法律で身分が保証されていて、殺人事件や大きな横領でもしない限り、首にはならないということである。普通の会社なら、成績があがらないと、事実上解雇とか、会社を辞めないといけないことはいくらでもあるが、公務員にはこれがない。 だから、どんなに無能でも、ひどい行政をしても首にならないのだ。この身分保証はどこから来ると言えば、2つある。1つは歴史的に、日本の官僚は政治家よりも身分が上で、給料も権限も多かったということである。 江戸時代の老中、若年寄、勘定奉行などの幕府の要職は官僚である。徳川家康、秀忠の親子は、幕府の要職には、徳川譜代の重臣を据え、石高はそれほど大きくないが、権限を与え、政治を行わせた。自分よりも遥かに石高の高い大大名が異論を言っても、通らず、官僚である幕府の要職にいる人間の方が強く、国を管理していたのである。 ところが、平和な時代が続き、譜代の重臣たちやその子供たちが戦さなどでの試練、切磋琢磨や能力の見極めがなくなってくると、その家に生まれた者は親の要職と同じような重職を継ぐようになり、幕府はどんどん無能化していったのである。 明治維新後の政府では、大久保や西郷、伊藤博文、山県有朋などは下級武士の出身で、庶民の生活や苦しみを知っていた。その人が政府の要人になり、天皇と協議をして、政治を行っていったので、大きな改革ができた。 これら維新の重臣たちは自分たちの後継者作りを考え、現在の東大などを作った。つまり、政府の中心官僚の育成学校として、帝大ができたのである。ところが、ここの入ってくるのが、どうしても、親が身分の高い人ということになり、身分が固定していった。 育ちがよく、苦労をしないで育ち、かつ、大きな試練もあまり体験しないこれらの後継者は、庶民感覚からどんどん離れていき、混乱していった。それに不満を持つ、貧しい家の出身者も多くいる軍部との間での対立が大きくなり、ついには、無能が政府がコントロールできずに、軍部官僚が暴走し、破滅の戦争へと突入していったのである。 (スト権がないことの代償の大きさ) こうした流れを脈々を受け継いでいる日本の戦後の官僚たちは、戦後になっても、身分は政治家よりも上だった。吉田内閣で、佐藤、池田という官僚の局長、次官クラスが政治家になることを吉田に要請された時に、「身分も給料も下がる」と言ったのは有名な話である。 この流れを助長したのが、戦後、政府が公務員のスト権をなくしたことである。公務員からスト権をとりあげる見返りが身分の保証であった。スト権がない代わり、給料は毎年見直して上げていく、犯罪でも犯さない限り解雇されないということになったのである。 日本の公務員からスト権を取り上げたのは、戦後、公務員の組合の力が強く、かつ、社会党、共産党の強力な地盤で、スト権を与えると、政治の大きな影響を与えるということを時の政府が恐れたからである。そして、その見返りが身分保証だったのである。 しかし、スト権がないことについては、長くILO(国際労働機関)から、是正を強く求められていて、世界の常識からは逸脱している。公務員にスト権、労働争議権を回復させることは重要である。ただ、この時に必ず、身分を保証している現在の法律を改正しないといけない。 (身分を保証している試験制度) 公務員が職業ではなく身分にしてしまっているもう1つの大きな原因が公務員試験である。エリートの国家公務員になるためには、上級公務員試験に合格しないといけない。これはかなり難しい試験だが、これに合格した人は優秀な人で、イコール、仕事もできる人という間違った観念ができあがってしまっている。 公務員試験制度は中国の科挙の名残だが、科挙は失敗だったのが、歴史の教訓である。理由は簡単で、難しい試験に受かって公務員になってきた人は、自分に絶対的な自信を持ち、受かっていない人の言うことを聞かなくなる。しかし、試験に受かる人は勉強バカというような人が多く、世の中の実態を知らない。 だから、前例にこだわり、改革や時代に合わせてことをしようとすることにとても抵抗する。時として、改革をしようとすると、世の中の実態を知らないのだから、トンでもないことを始め、国民に大きな迷惑をかけることになる。 上級公務員には、勿論、法律や経済などの専門知識を必要とする部署は確かにある。企業で法務担当者が必要なようにである。しかし、これが全員である必要はない。これからの公務員はむしろ、時代を読み、新しいアイデアを出せる人が求められている。 従来の上級公務員試験で合格させる人を全体の1割位にして、彼らはエリートではなく、企業の法務担当者のように、法律を作ったり、何か問題が起きた時のチェックをする担当者とすべきである。この発想の転換ができれば、上級試験に受かった人=優秀という間違った認識がなくなり、公務員制度改革が容易になる。 (幹部は政治任命制に) 公務員を「身分」から「職業」に変える仕上げは、大臣に幹部の任命権を与えることである。官僚が政治家の言うことを聞かないのは、逆らっても首にならず、大学の成績だけで出世していける、今の時代では考えられないような仕組みになっているからである。 これを変えて、局長、審議官、部長クラスはもとより、局の筆頭課長クラスの任命権を政治家に与えるようにすれば、官僚は政治家の言うことを聞くようになる。これで官僚は暴走しなくなる。 課長というと、企業の権限のない課長を想像するが、国家公務員の課長クラスは、企業の課長よりも遥かに大きな権限を持っている。課長全体でなくてもよいが、少なくても、筆頭課長は政治任命にすべきである。 また、国家官僚は省庁ごとの採用である。これが省庁間の軋轢、権力闘争や、無駄な省庁間のダブリを生んでいる。前から言われていることだが、採用を人事院に一本化することがまず重要である。そして、配置された省庁で仕事をした後、課長に昇進する時は、別の省庁に行く。更に、局長になる時にも、平時代や課長時代と異なる役所でないといけないというルールを作ることである。 こうすれば、役所の局長クラスの幹部は少なくても3つの省庁を経験しており、役所の間の無駄、権力争いは大いに少なくなる。現実に、財務省の局長クラスが防衛省などの局長や次官に異動しており、難しいことではない。 (天下りをなくす方法) 最後の公務員制度改革できちんとしないといけないのは天下りの問題である。天下りはなぜあるかと言えば、同期のトップを走っている人間が局長や次官になると、その他の人間はその役所を辞めないといけないという慣習が天下りを生んでいる。 また、エリート公務員は若い時に給料が安く、同じ年齢で民間大企業に行った人に比べると年収は半分とか、3分の2くらいである。この不足分を天下り後に、取り戻しているのである。 天下りを単にけしからんと言っても、この根本を解決しないと、天下りはなくならない。これも解決は簡単である。定年制度を民間企業と同じに60歳とか、65歳として、自発的なものはともかく、役所の都合での早期退職をなくし、同期や後輩が出世しても、辞めずに、職にとどまるようにすればよいのである。 また、全体の給料水準の見直しをすることである。ただ全員の給料を上げるのではなく、能力評価制度を採り入れ、優秀な人間、仕事をした人間には多く払い、仕事をしなかった人間、できない人間には減らすというようにするのだ。(文中ーーローマ数字が表記できず、また、1種ではおかしいので、上級公務員という旧の表記としました)
2010.07.19
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(改正臓器移植法の骨子は2つ) 改正臓器移植法が施行されたことにともない、多くの新聞、テレビなどのマスコミが臓器移植の話の特集を組み、かなりの時間やスペースを割いて、報道している。 しかし、その報道の仕方は、賛成派、反対派の両方の意見を紹介し、取材したという記者、リポーターが「難しい問題です。考えさせられてしまいます」というばかりで、多くの国民の誤解と混乱を与えるものでしかない。 今回の改正のポイントは2つで、1つは、臓器提供が15歳以下の人からも可能になったことである。これまでの日本の移植では、提供者(ドナー)は15歳以上ということになっていたために、15歳以下、特に子供への移植が事実上できなく、死を待つか、多額の費用を支払って海外に行って受けるしかなかったのが、可能になったことである。 もう1つの改正点は、提供者が脳死になった時に、事前に、提供の意思表示がない場合、親の判断で提供ができるということである。日本では、海外と異なり、ほとんどの人が脳死の時に、臓器を提供するか、または拒否するかという意思表示をしていない。このため、提供が進まないという事情があるための措置である。 (WHOの圧力で成立した改正法) 日本では、今回の改正ではなく、当初の臓器移植法案の審議でも、もめにもめ、法案がいつまでも成立せず、難産の末、やっとできあがった。その時、反対派を説得する1つの材料になったのが、子供を提供者にしないということだった。しかし、このために、子供への提供が非常に難しくなり、移植を待てずに死んでいく子供が多くなるということにつながった。 今回の改正法でも、議論が紛糾し、成立が非常に難しい状態が続いた。しかし、WHOからの1つのメッセージで、それまで紛糾していた国会がぱっとまとまり、改正法案が成立したのである。 WHOのメッセージは簡単である。日本では、国内での移植が難しいので、海外に出て移植を受ける人が多く、いわば、金で外国人の臓器と、機会を買うということになり、それは駄目で、自国内でしっかり提供者が出る仕組を作りなさいうことを言ったのである。 では、WHOはなぜ、そんな勧告をしたのだろうか。まず、どこの国も臓器が余っている訳ではなく、順番待ちの人がいる。それを海外から来て、金を出して優先してもらうというのはおかしいということである。 また、臓器をヤミで売買する組織があり、日本のように金で外国の臓器を買うかのような行動は、そうした組織を助長しかねないということが次の点である。 そして、何よりも、最大のポイントは、「日本はいつまでも、世界の常識から逸脱したことをやっているのだ。いい加減にしろ」といういらだちである。 (「脳死=人の死」は世界常識) 世界各国が密接に結びつきあった現在では、主要国の1つが、世界とまったく異なった基準で運営されると、他の国に大きな影響が出るので、国際機関はあまりに非常識なことは是正しろと勧告してくる。 今回の参議院選挙の後、すかさず、IMFが消費税の段階的、速やかなアップをし、少なくても15%程度にすることを勧告してきたことなどは正にこれであり、「あなた一カ国のことではないのですよ」ということを言われる時代なのである。 臓器移植について、WHOや世界の医療関係者が日本にいら立っているかと言えば、その議論が世界よりも、40年も遅れているということなのである。 人の死は昔はどこの国も心臓死だった。それが医学の進歩で脳の仕組み、心臓の意味などがわかってきて、1960年代に死についての議論が盛んになってきた。そして、アメリカのハーバート大学が人の死は脳死であり、脳死の判定基準はこういうものだという、いわゆるハーバート基準を作った。 これを受けて、1968年に、オーストラリアのシドニーで開かれた世界医師会総会で、「死に関する声明」であるシドニー宣言が出て、世界の医療関係者が「人の死=脳死」ということを採択したのである。 医療技術の最先端を言っているアメリカでは、1970年代に、大統領の諮問委員会を作り、死についての国をあげての議論をした。この委員会は医療関係者だけでなく、法律家、宗教家、政治家、社会学者など多くの分野から人が出て、マスコミを通しては勿論、全米各地で討論会を開催して、死についての議論をした。 そして、この国をあげて、一般国民を巻き込んでの議論の結果、法律家も宗教家も「人の死は脳死」という結論となったのである。これが1981年のことである。今から30年程前のことだ。 これを受けて、世界の各国でも同じような議論をして、「脳死=人の死」という世界の常識が欧米だけでなく、中東、中国を含むアジアにも定着したのである。 (議論を混迷させるマスコミの取り上げ方) 日本で臓器移植問題が議論される時に、アメリカの大統領委員会のような徹底した議論をせず、事実誤認の話がまかり通ることが、混乱の最大の原因で、それを更に拡大しているのが、マスコミである。 臓器移植に反対する人のポイントは2つである。1つは脳死から生き返ることはあり、脳死=人の死とは認められないということ。2つ目は、今回のような改正法案が通ると、死んだ後に勝手に臓器が取り出され、大変になるということである。 これは2つとも完全に間違っているのだが、それをマスコミが大々的にとりあげるので、何も事情がわからない一般の人は、そうかと思って不安になり、話がややこしくなってしまうのである。 まず、脳死から人間が生き返ることはあり得ない。脳死から生き返ったということを言い、NHKにその例の患者を示して、大きくとりあげられた、ある大学教授がいる。このNHKの番組はその後も、臓器移植の議論の時に、反対派の論拠としてよく使われた。 しかし、そのことはNHK、また、その他のマスコミは一切報道していないが、このことが医学会で取り上げられ、この大学教授は、「脳死からの生還などあり得ない。おかしい」という質問にまともに答えられず、「自分は脳死から生き返ったとは言っていない。NHKに勝手のそう取り上げられた」と発言して、NHKの番組の内容を否定したのだ。 (脳死からの生還はあり得ない) 人間の体は全体が一度に死ぬ訳ではない。早く死ぬ場所もあるし、心臓が止まった後もしばらく生きている組織もある。死人の髪の毛が伸びることがあるということなどは報告されている。 かつての「心臓死=人の死」が否定された理由は簡単である。医療の発達で、人工呼吸器が出現し、進歩してきたので、その人が死んだ後も、人工呼吸器を動かしていれば、体に血液と酸素は運ばれ、それで体は温かさを保つことができるようになったのである。 しかし、死者にいつまでも、人工呼吸器をつけておくのは死者に対する冒涜でもあり、そのために、何人もの医療関係者がそれに従事しないといけない不合理さが言われ、死と判定された場合は、人工呼吸器を止めるのが世界の常識となった。 人工呼吸器で左右される心臓死と異なり、脳死の定義は明確であるし、医学的に判定できる。脳死になると、脳が溶け始める。そして、体は血液や酸素が行く場所と行かない場所が出てくるので、医療関係者が体を見ればわかる。 脳死から生き返ったという話は、先のNHKで取り上げられた日本の例もそうだが、きちんとした脳死判定を行わず、「脳死に近い状態」を「脳死」と判定したに過ぎない。 (1つのルールで縛ろうとする愚) 反対派が言っているもう1つの論拠である、意思に反して、勝手に臓器が取り出されるという話も本当にナンセンスである。 臓器移植のルールは、死後、臓器を他人にあげる自由、あげない自由。他人からもらう自由、もらわない自由の4つの自由が大原則である。 人間には、それぞれ、意見や主義主張がある。だから、臓器を提供してもよいと思う人もいるし、提供したくない人もいる。もらう側も、もらっても生きたいという人もいれば、そこまでして、生きたくないという人もいる。 それを、1つのルールで縛ろうとするのが、反対派の人の発想法で、他人の行動を規制する権限があなたにありますかと、筆者は言いたい。 あげたくない人、自分の臓器を死後、取り出してほしくない人は、「ノー」の意思を明確に表示すればよいだけである。成人だと、運転免許書の裏に意思表示をすることができるようになっている。 未成年の人については、それこそ、反対派が「提供拒否カード」のようなものを作り、それを普及させれば、自分の意思に反して、死後、臓器が取られるという心配はなくなる。反対をするだけでなく、こうした具体的な行動に出る方が意見が違っても余程尊敬できるが、日本では反対する人は声だけ発するが、行動は起こさない。
2010.07.18
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(負けて当然の民主党政権運営) 参議院議員選挙が終わり、その総括や分析をマスコミが盛んにやっているが、その多くが「衆議院と参議院のねじれ」を言い、国会運営は難しく、今のような厳しい状況の中で国会が機能しなくなったら大変だというものである。 しかし、筆者はそうは思わない。国民は結構バランス感覚をもっている。衆議院で自民党にお灸をすえ、民主党に勝たせるのがよいが、勝たせすぎた。そして、政権をとった民主党は、傲慢、横暴、公約破り、無能さを示すことの連続である。 脱官僚を言っていたのに、官僚の中の官僚である財務省の実力者である元事務次官を郵政会社の社長に任命した。しかも、公約では半分に減らすとしていた郵貯の預金限度額を逆の倍増という法案を衆議院で強行採決した。これ1だけでも、即退場のレッドカードものである。 そして、このこと以外でもそうだが、問題が起きた時に、「法律に違反していないから問題ない」「現状も問題は自民党が作り上げてきたもので、自民党に批判されたくない」「与党になって、事態の深刻さ、実情が初めてわかった」という詭弁に終始し、まったくの反省がないし、襟を正す姿勢がない。 普天間の問題もそうだが、この9カ月の民主党の政権運営はお粗末の極みである。運営慣れしていないから、もう少し時間をあげるべきということを言う人がいうが、これは時間の問題ではなく、考え方の問題であり、民主党政権のファッショ、傲慢、独裁を国民が感じたのである。 だから、マスコミは「ねじれが大変」と散々言うが、筆者は逆に国民は賢い選択をし、民主党に強行採決をさせないという選択をさせたのだと考えるのが正しい選択で、マスコミ報道はピントがずれていると思う。 (民主党には4つのグループ) 前にも書いたが、民主党政権の中心にいる人たちは4つのグループである。マスコミはリーダーの下に、小沢派が何人、鳩山派が何人と報道しているが、そうした表面の話ではなく、本質の話である。 その1つ目は労働組合の委員長、書記長のOBである。当然、公務員系の組合は力が強いので、この人たちが大きな力を持っている間は、公務員制度改革などできない。民主党が公約に反して、公務員制度改革を自民党よりも後戻りさせたのがそのよい証拠である。 2つ目のグループは若手官僚OBである。以前は官僚をしていて政治を目指す人は自民党で立候補した。しかし、自民党の世襲化が進み、野心のある若手官僚が自民党から立候補が難しくなり、民主党で国会議員になったのである。 彼らは理屈では自民党を批判し、民主党のよさをアピールするが、国会議員になれるのなら、自民党でも民主党でもどちらでもよいのである。国よくしたいという思いがある人も勿論あるが、権力志向、上方志向が非常に強い人たちである。 3つ目が弁護士である。数は膨大にいる訳ではないが、それぞれの問題のキーパーソンが弁護士、法律の専門家である。弁護士は一般のイメージでは弱者の味方である。 しかし、実際に弁護士と付き合ってみるとわかるが、人間として首を傾げる人が多い。現実に依頼者の金を横領したり、犯人とはっきりわかっている人間に智恵をつけて、犯行を否定させ、無罪にさせるなどしている。 また、最近では消費者金融の過払い金の回収で、依頼者との間で金の取り合いのトラブルが多発している。彼らは法律を知っていることをよいことに、すれすれの行為をし、倫理を無視し、法律だけでうまく世の中を渡ろうという人が少なからずいる。 (金権体質そのものの小沢グループ) 4つ目が小沢一郎グループである。自民党の中でも一番悪い金権体質をそのまま持ち、引き継いだ人間のグループであり、金と恐喝で票の取りまとめをして、先の衆議院議員選挙では、多くの議員を当選させた。 民主党の他の3つのグループが政治の世界の事情に疎いので、政治のダーティーな部分に詳しく、何でもやることができる小沢グループは、民主党の中でどんどん勢力を拡大してきた。 小沢一郎は田中角栄の流れを汲んでいる。ただ、田中角栄や金丸信と大きく違うところがある。それは、田中角栄が人の心を理解し、引き付ける魅力があり、国をどういう方向に持っていこうというビジョンもあったのに、小沢一郎にはそれがなく、結果として自身の蓄財にだけ熱心だったということが明らかになった。 田中角栄はロッキード事件で、マスコミのバッシングの中で無残な晩年を送った。しかし、最近の研究では、これは、アメリカが言うことを聞かない田中角栄を追い落とすために意識的に仕組んだ罠だったという説が有力になりつつある。 昭和40年の東京五輪後の不況時に大不況が来て、金融会社が危機を迎えた時に、当時、大蔵大臣だった角栄は、瞬時に決断し、渋る日銀総裁を押しのけて、日銀特別融資を実行して救済するなど、多くの実績も残している。個人的に会っても、とても魅力にある人だった。 田中角栄は成功して目白御殿を造ったが、書生に両隣の家の前の掃除や雪かきを命じるなど、人の心を理解する人だった。しかし、小沢一郎は、どれだけ長年仕えてきた人でも、少し苦言を呈すると、翌日から携帯電話がつながらなくなり、人間関係を切るという人で人間としてまったく信用できない。 (厄介な存在、松下政経塾出身者) そして、これに松下政経塾出身者が論客として加わっている。松下政経塾の出身者は自民党にも、その他の政党にもいるが、筆者は極めて厄介な存在で、決してよいものではないと考えている。 ご存じのように、松下政経塾は、故松下幸之助氏が政治家の現状に絶望し、より志の高い政治家を育成しようとして、私財を出して作った塾である。だから、初めは彼が自ら教壇に立った。 しかし、集まった人たちの言動を見て、松下氏はがっかりし、その後、教壇に立たなくなる。具体的なエピソードがある。それは、当初、松下氏は集まった塾生に、まず人間としての心がけが大切だとして、塾の中のトイレの掃除を求めた。 これに対して、塾生から大ブーイングが起きた。自分たちは地盤、看板がないが、政治家になりたいと思って集まった人たちで、そんなマナーや心掛けよりも、どうやって政治家になれるかを教えてほしくて集まっているのであり、「トイレ掃除は時間の無駄」と拒否をしたのである。 そうした人たちだから、弁は立つ。頭はよいかもしれない。でも、権力志向が強く、人間としてはどうかという人が結構見受けられる。 (民意を理解でいないマスコミ) 以上の5つの集団が民主党を形作っている。これを理解すれば、民主党が政権をとってからの、9カ月間の行動は概ね納得がいく。 多くの国民は、勿論、そうした細かなことなどは知らないが、それでも、何かおかしいと思い、参議院でも過半数を与党がとると、極めて危険と判断し、今回の選挙で民主党を負かせて、ねじれを誕生させたのである。国民の智恵である。 それを理解しないで、「ねじれは大変」と報道するマスコミは、高給にあぐらをかき、本当の国民目線で仕事をしていないことを露呈したのが、今回の選挙結果の報道だと言える。
2010.07.17
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(大きな政府は弱者救済が基本) 民主党は去年の衆議院議員選挙の際には、公務員の削減など小さな政府の政策も入れこんでいたが、子供手当ての実施など大きな政府の発想も入っていて、何をやりたいかがはっきりしない。 ただ、主要議員がテレビなどに出てきて、話をする内容は基本的には、大きな政府の立場だと思われる。しかし、国民が1年前の選挙で民主党を選んだのは自民党にノーと言ったからであり、大きな政府を支持したからではないという事実はしっかり認識しないといけない。 好き嫌いは別として、現在の政府運営には大きな政府にして、政府が国民生活の多くに関与してくるという考え方と、政府はできるだけ小さくして、国民は自由に生活を送るようにするという考え方の2つがある。 大きな政府の代表が北欧のスウェーデンで、税金と社会保険料を含むと、国民は国や地方自治体に年収の75%を徴収される。稼ぎの4分の1しか手元に残らないのである。 その代わり、政府や自治体や医療や教育、年金にその金を使い、いざという時に、国民は安心して病気になったり、老後を送ることができる。 ヨーロッパはスウェーデン程ではないが、ドイツもフランスも、その他の先進国は同じ発想に立っている。この根底は社会民主主義の考えである。 つまり、資本主義の自由競争はよくて、国は発展したが、弱者は取り残される。共産主義や社会主義には賛成できないが、その弱者救済の考えを取り入れようという考えである。 だから、子供手当などという発想が出てくるし、年収が高い家の子供でも、教育の無償化というような話になる。医療も、年収に関係なく、無料または安く受けることができるのである。 ただ、大きな政府には大きなマイナス点がある。それはどうしてもコストがかかりすぎることである。だから、税金が高くなるのである。年収のかなりの部分を持っていかれ、なおかつ、日本の消費税にあたる、付加価値税で更に多くの税金をとられている。(大きな政府は怠け者を生む欠点) 小さな政府の考え方は大きな政府にすると、怠ける者、働かない者が、政府や自治体に依存するようになり、それは真面目に働く人の足を引っ張ることになるというのである。 小さな政府を支持する人たちは、そもそも人間は真面目に働き、自分のことは自分でするのが原則であり、大きな政府は、システム的に人間を怠け者にするダメが制度だというように考える。 現実に日本でも、生活保護を受けている人がその金で昼間からパチンコをしているというような例が少なからず見受けられ、小さな政府支持者の言っていることはある面では事実である。 小さな政府の問題点は、それでは、努力しても、どうしようもない弱者はどうするかということである。 小さな政府の代表的な国はアメリカだが、アメリカでは、教会が大きな力を持っていて、また、活動も活発であり、弱者救済を行っている。 また、豊かになった者は社会還元が当然という思想があり、寄付や社会貢献などが活発に行われている。アメリカの俳優などが、アフリカやアジアの恵まれない子供を養子にして、引き取るなどということが、スタンド・プレーではなく、当然のように行われているのは、こうした発想からである。(日本にはそのまま適用は無理) 小さな政府、大きな政府、それぞれによいところと、問題点がある。日本で最大の問題点は、国民に小さな政府、大きな政府の概要、コスト、問題点を示して、どちらを選ぶか、選択を迫るということをしていないことである。 今の若い人は、日本が強く、ハッピーだった時代を経験していないので、大きな政府の方がよいと思う人も多いと思う。北欧のなどの例が紹介され、安心ということをレポーターが言うので、より、そう思う人がいるかと思う。 ただ、北欧のシステムをそのまま日本に導入するのは無理がある。スウェーデンは人口5百万人の国である。日本で言えば、兵庫県1県の人口である。これだと、国民は政府の施策の細かな点にも目が届くし、問題が起きれば、反対の意思表示が簡単にできる。人口が1億2500万人いる日本だと、そうはいかない。 また、欧米には、「権力者は腐敗しやすいもので、国民は監視する」という前提がある。また、「不作為の罪」という罪がある。これは、権力をもっている政治家や官僚が、その時、しないといけないことをしなかった時に、罪に問われるというものである。 だから、エイズ騒ぎの時に、非加熱製剤を放置して、血友病患者の多くの人がエイズにかかった時に、フランスでは、厚生大臣が刑務所に入ることになった。これに対して、日本では、厚生省の担当課長が罪に問われたが、裁判で無罪となった。(役人監視システムが必要) 日本の役人は自分たちは間違ったことはしないという前提に立っていて、絶対間違いを認めない。また、前例主義に立っているので、これまでやってきたことにこだわり、これまでやってきたことと違うことをすることには、大きく抵抗する。国民が役人のすることを厳しくチェックするという伝統もない。 大きな政府は役人がすることが増える。彼らの裁量も大きくなる。そうなれば、かつての道路公団や国鉄のように、凄まじい無駄、好き勝手が起き、結局そのツケは国民に回ってくる。 大きな政府にするためには、「不作為の罪」を成立させること、そして、「行政裁判所」のような組織を作り、行政のしたことで、国民や住民が被害を受けたり、受け取るべき便宜を得られなかった時に、賠償を要求できるシステムがないと、とんでもなくなる。役人が好き勝手やりだすのは目に見えている。
2010.07.16
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(何でも集めて川から海に流す発想) ゲリラ豪雨と言われる大雨で、各地で土砂崩れや冠水などが相次いでいる。テレビなどでその映像が毎日のように報道されているが、「天災なので、どうしようもない」というトーンである。そうであろうか。 ゲリラ豪雨は確かに異常気象によるものであり、想定以上の現象が起きていることは事実である。しかし、戦後、建設省や農水省が実行してきた行政の間違い、安易な考えが被害を大きくさせているように思う。 大雨で各地で河川が氾濫しているが、戦後の治水で何をやってきたかというと、道路はアスファルトで固め、雨や水を自然で道路や土地に吸い込ませることをさせなくしてしまった。 そして、家の屋根に降る雨も、道路に降る雨も全部、下水路に集め、河川にまとめて海に流すという前提に立って、すべての水を海に流すという設計に立って、行政を行ってきた。 下水管の設計は時間雨量50ミリを前提にしていて、雨がそれを越えると、下水管の処理能力を越えるので、雨水が逆流し、道路などが水浸しになる。 数年前に、東京の皇居から中央区、江東区を走る永代通りが冠水して50センチほどになり、車が通れなくなり、商店は水浸しになったことがある。 この時に、官僚のトップクラスの人に、下水管の太さを50ミリにしたのが間違いで、もっと太い管に設計し直すべきではないかと聞いたことがある。 その時、この人が言ったのは、「50ミリと100ミリとでは、費用が何%か違うのです。全国でこれを集計すると、金額で大きな差になります。時間雨量100ミリを越えることは滅多にないので、50ミリにしています。100ミリを越えるのは何十年に1回なので、その時は我慢してもらうしかありません」ということであった。(雨水を敷地の土に流す工夫を) しかし、ここ数年の河川の氾濫は、時間雨量50ミリを越えたから起きた訳ではない。50ミリ程以下でも氾濫が起きているのだ。 その原因は、下水から川に流れ込む雨水の量を半分くらいと計算していたのが、今は道路のアスファルト化が進み、ビルや家屋でも、土の部分が大幅に減ってコンクリート化が進み、ほとんどの雨水が下水管に流れるようになってしまった。だから、50ミリで氾濫が起きてしまうのである。 道路でも、ビルでも、敷地に雨水を吸収し、下水管にではなく、敷地の土に浸み込ますシステムがあれば、今回のような都市部での河川の氾濫は起きていないのである。 現実に、九州の福岡市では、市が補助金を出して、各家庭の屋根からの雨水を下水管に流すのではなく、敷地内の雨水を集めるマスを作って、雨水を敷地の土の中に流す工事を推奨し、市が補助金を出すということをしている。 こうしたことを、市単位ではなく、全国レベルで行っていけば、河川の氾濫は大幅に減少する。官僚組織は過去にやってきたことを前提として、これからの行政を行っていくという癖がある。過去と違うことを実行することには、とても消極的である。自分たちの先輩を否定することになるからであり、過去の失政を認めることになるからである。(官僚を使いこなすこと) 政治が官僚を指導し、うまく使うというのは、こうした官僚の行動パターンを理解し、政治家が自分が責任をとるから、智恵を出せと言い、これまでやってきたと違う施策を考えさせることである。田中角栄が官僚に人気があったのは、彼が「俺が責任をとる」と明言したからである。 しかし、今の民主党政権は、官僚を排除したので、官僚がそっぽを向き、政治家に情報が入ってこなくなった。国会での答弁も助けてもらえなくなり、慌てて官僚にすり寄った結果が、消費税の発言となったのである。「無視・排除」と「すり寄り」これが鳩山前首相と菅現首相の行動である。政治がうまく行く訳がない。 自民党政権については、多くの失敗、問題点もあった。しかし、末期の麻生、福田、安倍の3人は別として、それ以前の首相は、少なくても、民主党よりは官僚をもっとうまく使い、うまい政治を行ってきた。だから、日本が世界第二位の経済大国になったのである。 「族議員」というのは利権とからめて報道され、問題だけが言われるが、現実は、自民党は各部会ごとに、頻繁に勉強会を開き、当選10年を越える議員は、各省庁の官僚よりも行政に詳しくなり、官僚と政治家が同じレベルの知識、経験を持って議論し、よりよい案を作って行くというシステムだったのである。 勿論、利権がからんだケースもありはしたが、システムとしてはよくできたもので、それをマスコミが「族議員」=「利権」=「汚職」という図式化で報道し、壊してしまった方が国政運営上大問題であるのである。(山間地の問題) 雨の問題に話を戻すと、都会地は別として、地方での土石流や土砂崩れは天災で仕方がないかと言うと、これも、天災の部分も勿論あるが、ここでも、行政の失敗が多くある。 山間地の道路が崩壊した時に、道路の工事の仕方が杜撰で、しないといけないことをしていないことが発覚したケースがいくつも見つかっている。 公共工事については、それを請け負っている業者と色々話をする機会があるが、びっくりするような手抜き工事が行われている。公共工事は慣れ合いであり、検査はきちんと行われていないのだ。 また、がけ崩れで民家に土砂が流れ込むという話も、崖地の下では家の建設を認めないとか、森林地の管理が今はほとんど行われていないので、これをしっかりし直すということで、大分軽減できる。 現在でも、こんな所に建物を建てて大丈夫がと思えるところに家や建築物が立っている光景をよく目にする。こうした建築物の工事ができないように、安全に関するものは厳しく規制することが必要である。 欧米では、自然の管理は人間か神から委任されたものであり、人間の勝手にしてはいけないという考え方が基本にある。そうした考えが種の保存などにもつながり、反捕鯨などにつながっていくのである。 この考えを100%是認する必要はないが、少し前までの日本では、もっと自然を恐れ、対策をどうするかという人間の智恵があった。しかし、今の日本は何でもありで、こうした発想がほとんど消えてしまった。もう一度、見直す必要があるのではないか。
2010.07.15
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(政権をとったら、言い訳に終始) 参議院議員選挙で大敗した民主党だが、首相だけでなく、党の幹事長以下、役員も誰も責任をとらないことを決めた。それだけでなく、選挙で落選した千葉法務大臣も、そのまま職にとどまるという。 筆者は何かあった時に、政党だけでなく、会社や学校の責任者が辞めるという日本式の考え方は、基本的に好きではない。辞めることで禊が済んだという感じで、前と後で、何も変わらないというのが日本でよくあるパターンである。 第一、多くの従業員がいる会社で、社長は何もかも知っている訳ではないし、学校でも、校長が末端の生徒のことを把握している訳ではない。 しかし、社長や校長、政党の代表者というのは、全体の責任者であり、それだけの権限や給料ももらっているのであり、何かあって責任をとるというのであれば、代表者がそれを行うしかない。 今回の民主党の場合、責任をとらない、ケジメをつけない理由として、「鳩山さんが首相が続けていたら、もっと負けていた。よくここで食い止めたのだ」とか、「枝野幹事長は1か月前に就任したのであり、仕組みは全部小沢さんがしたのであり、責任を言うのは気の毒だ」というようなことが言われる。 しかし、選挙で落選した大臣を続投させるということに至っては、論理もへ理屈もない。単に、大臣を変えると、他もいじれと言われる、それが嫌だからと言うだけにすぎない。通常は続投を言われても、少なくても落選した大臣は自ら固辞して、辞任するものなのに、千葉さんにはそれもない。(辞めないことが前提の言い訳) しかし、この行動パターンはこの9カ月の間、民主党政権がずっと続けていたパターンで、その延長上の行動でしかない。鳩山前首相が、沖縄の基地問題で、「国外、最低でも県外」と言っていたのを、「安全保障の重要さの認識が足りなかった」と言い訳をし、「党として公約したのではないから」というように言い訳をしたのとまったく一緒である。 自民党政権時代に、日銀の総裁、副総裁の人事で、参議院で過半数を持つ民主党を中心とする野党が、「大蔵省OBだから駄目。官僚の天下りはNo 」と言って何人も拒否権を発動し続けたにもかかわらず、政権をとると、官僚の中の官僚と言われる、大蔵省元事務次官、斉藤氏を郵政会社のトップに据えた。そして、言い訳として、「民間の組織にしばらくいたので、官僚ではない」と言った。 菅総理になってからでも、側近で、大臣になった議員が経費で秘書の女性の下着を買ったことなどが明らかになっても、「法律には違反していない」と言って、大臣辞職もさせなかった。(問答無用の軍部の怖さに通じる) 前にも書いたが、民主党に感じる怖さは、法律の専門家、弁護士集団の怖さである。彼らがいつも言うことは、「法律には違反していないから」である。法律に違反していないなら、何をしてもよいのかということである。 世の中には、法律以外に、常識とか、マナーというものがある。慣習ということもある。民主党の怖さは、法律に違反していないということで、この常識、マナー、慣習をすべて否定してしまったいることである。 筆者は参議院選挙の投票日の二、三日前に、与党の過半数割れをさせないと大変だと書いたが、その理由はこれである。もし、参議院で与党が過半数を獲得していたら、「法律には違反していない」という論法で、ルールや常識を壊し、乱暴、傲慢な行動に出ていたと思う。この怖さは、戦争時代の軍部の怖さである。話し合いをせず、問答無用という怖さである。 民主党は野党時代には、こうした問答無用という態度はなく、選挙で負けたり、偽メール事件など非難される問題が起きたら、党首が辞任していた。野党時代は常識的な行動だった。それが与党になって権力を握った途端に、国会の運営でも、人事でも、問題の処理でも、すべて強引、傲慢になった。そこに、非常に怖さを感じるのだ。(ねじれはよいこと) 参議院で民主党など与党が過半数割れをして、衆議院とのねじれが起き、政治が停滞して大変という報道が新聞、テレビで盛んに言われている。しかし、筆者は今の民主党だと、ねじれで、初めて、他党の言い分を聞くことになり、やっとまともになると考える。過半数を越えていたら、信じられないような大暴動だったと思う。 世界の政治の世界ではねじれはごく、一般的に起きることである。アメリカの大統領が国会では少数派で、多数の野党とのやりとりで苦労するようなことは、映画などでもよく描かれている。欧州でも、第一党が過半数をとれず、複数の政党で連立政権というのは珍しくない。 連立だから、少数与党だから、逆に政権運営がうまく行くのである。無茶なことを言ったり、行動したりする政党は、次の選挙で、選挙民の厳しい審判を受けることになる。 今回、国民新党が1つも議席がとれなかったのは、その現れである。郵貯の民営化の逆行や社長の官僚OBの大物登用、預け入れ限度額の大幅な増額など、誰が見てもおかしいと思う行動への批判が自分に返ってきただけである。(地方で負けたのは公共事業費大幅削減から) 今回の参議院選挙では、民主党は都会では勝ち、地方で負けた。マスコミは消費税が地方ほど影響が大きかったからと書いている。それはゼロではないと思う。しかし、筆者はそれ以外に大きな理由があったと思う。それは公共事業だ。 民主党は「箱物から福祉へ」ということを言って、公共事業を大幅に削った。公共事業を削ることが財政再建の大きな手段の1つとして、小泉政権でも公共事業費は削られた。 しかし、地方はこれと言う産業がないので、公共事業の大きく依存している。その影響を考え、あの小泉元首相でさえ、公共事業費の削減は1年間7%に抑えた。これに対して、民主党政権は、何と1年で18%削ったのである。地方は干上がってしまう。その反発が大きかったのではないだろうか。(格差の原因は) マスコミやTVによく出る学者は、二言目には、「格差を作ったのは小泉政権」と言い、それを引用する人が多いが、まったく認識が間違っている。 格差は小泉政権以前から拡大していた。筆者が中学、高校時代は公立の中学校で勉強に頑張れば、都道府県で一番と言われる高校に入れ、そこで真面目に勉強すれば、塾などに行かずに東大に入れた。だから、貧しい東大生がたくさんいた。早稲田大学では貧乏人はまったく珍しくなかった。 それが、美濃部都政時代に、都立高校をガタガタにするひどい施策をして、都立の高校からは東大に入ることはほとんど無理というようにしてしまい、その動きが全国に広がった。今は東大生の父親の平均年収は1300万円。親が豊かでないと東大に入れない時代になった。 早慶、関西の関学、同志社の学生の父親の平均年収も1000万円を越えている。同じ理由である。格差の1つの例だが、こうしたことは小泉政権が起こしたことではない。 資本主義が長く続けば、格差は広がるものである。努力の差、能力の差、そして、親の力の差が代々のどんどん広がり、格差は広がるのは当然で、それが嫌なら、資本主義を止めないといけない。 資本主義でありながら、恵まれない人をどうするかというのが国や自治体の対策である。でも、これは自分がいくら努力しても、無理という人への救済であって、努力してこなかった人、勝手にやってきて、その結果、ひどい状態になっている人まで税金で何とかしろというのは違う。(北欧の真似はできない) その線引きが、今の世の中はきちんとしていないので、議論がごちゃごちゃになり、生活補助金でパチンコを朝からするというような人を多く作ってしまっているのである。 被保護の家庭には現金ではなく、バウチャーという券を配り、その目的だけに使えるようにすれば、パチンコ代に消えることはなくなる。豊かな家庭にまで、これだけ苦しい財政から、高校の無料化をするという発想は、格差是正にはなにもならない。 そんなことよりも、公立の中学、高校の本格的に立て直しをすれば、貧乏人でも東大、京大に行けるようになり、10年後には格差是正につながっていく。ばらまきではなく、必要なところに、ピンポイントで税金を使うのが、今の時代のあるべき姿である。 別の機会に、詳しく書くが、民主党が目指している大きな政府は官僚天国につながり、国民には大きなツケを残すだけである。人口が500万人くらいで、政府のすることを厳しく監視する体制ができている北欧の国と、人口が1億2千万人で、官僚が好き勝手なことをしていて、国民監視システムがほとんどない日本とは事情がまったく違うのだ。
2010.07.13
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(TVに民主党議員だけが出演) 参議院議員の選挙は民主党の惨敗で終わった。事前にある程度、予想されたこととは言え、マスコミの予想よりも更に3議席程少ない獲得議席だった。 過去の9ヶ月の政権運営の混迷、乱暴さ、傲慢さからすれば、当然の結果だと言えるが、選挙結果を報道するテレビの報道を見ていて、明らかに民主党偏重の報道が見られ、報道の中立性はどこへ行ったのかと首を傾げざるを得ない。 具体的には、選挙結果がほぼ出揃った夜中の0時半頃から始まったテレビ朝日の報道番組には、民主党の主要議員が3人出演し、他の政党はそれぞれ1人づつだった。 また、投票日翌朝のワイド番組はほとんどの局で、民主党の主要議員はずっと出ていて、自党の主張、言い訳をし続けているのが目立った。他の政党はほとんど出ず、出ても短時間とか、中継という形であった。 衆議院で過半数を持っているのに、テレビの政党討論などでは、8対1という構図だと不公平ということを民主党はよく口にしていて、選挙途中の議員の議論でも同じような光景を何回か見た。 でも、それはおかしい。自民党が過半数を得ていた時も、また、3分の2の議席を持っていた時期でも、政党討論の時、自民党議員は1人で、他の多くの野党に対応していた。「政権党は具体的な政策運営をしているのであり、批判されるのは当然。6対1でも、7対1でも仕方ない」これが自民党の対応だったが、民主党には、その姿勢はまったく見られない。(労働組合幹部、元官僚、弁護士が作る民主党) 1年前に、自民党が敗れて、民主党が政権をとった時に、マスコミは「歴史的な政権交代」と散々報道した。それだけでなく、自民党末期の時期に、マスコミは自民党の問題点、細かなお粗末さを大きく報道し、国民に自民党の駄目ぶりを大々的に報道した。 自民党が負け、民主党が政権与党になった最大の理由は、このマスコミの報道にあったのではないかと筆者は考える。勿論、自民党にお粗末さ、問題点は多くあった。しかし、民主党にも同様に多くの問題点もある。自民党の問題点、首相が漢字の読み間違いをしたというような些細なことを細かく報道することは明らかに公平さを欠いていたとしか言いようがない。 今回の参議院議員の開票の様子の報道を見ていて、気がついた人も多いと思うが、現在の民主党の議員はどういう人たちで構成されているかと言えば、圧倒的に多いのが労働組合の幹部OBである。旧社会党は社民党に引き継がれ、消えそうな状態と言うが、実態は最大の支持基盤である労組の票は民主党に引き継がれているのである。 労組関係以外では、TVによく出て、論客と言われるような民主党の議員には、官僚OBが多い。更に、弁護士が異常な位に多い。官僚OBも弁護士も、討論などの時の姿勢は、多く持っている情報や、法律の知識、議論の強さなどで、相手の言うことを聞かず、徹底的に論破するというものである。 民主党が政権をとった後、郵政の民営化見直し法案の審議をほとんど行わず、強行採決したことや、言っていたこととまったく異なって、官僚の頂点に君臨してきた旧大蔵省事務次官の齋藤氏を郵政会社の社長に就任させたこと、問題を起こした官僚、幹部に責任をとらさず、問答無用で押し切った姿勢などはこういうところから出ていると筆者は感じる。 一般の国民には、弁護士は弱者の味方で、強きをくじき、弱きを助けるというイメージがあるが、公私ともに、嫌という程弁護士と付き合った体験から言うと、白を黒と言い、法律違反すれすれで、相手を追い詰めて行くタイプの人が多い。 訴訟社会であるアメリカには多くの弁護士がいて、よく話題になるが、アメリカの弁護士には、非常に厳しい倫理が義務づけられている。例えば、自分が弁護を引き受けた事件の被告が犯人であったり、法律違反をしていることを知ったら、それを公表しないといけない。 また、被告が自分の有利になるために嘘を言うことを弁護士が勧めたら、弁護士は資格剥奪である。日本では、こうした規則はないので、明らかに犯行をした被告に嘘を言ったり、自分に有利な発言をするように勧めることなど日常茶飯事である。その何でもありのやり方を政治の世界に持ち込まれては大変だ。 問題の多い、労働組合の幹部OB、元官僚、弁護士が中心にいて、そこに、金権体質の自民党田中派直系の小沢一郎グループが加わってできている。それで、よい政治ができるというのだろうか。(間違いだらけのマスコミ誘導) 筆者自身もマスコミ出身だから、マスコミの世界の裏側の事はよく知っているが、ここしばらくの間、マスコミを強く主張して世論を動かして、実現したことは、そのほとんどが間違いである。「派閥政治をなくさなくては」とか、「二大政党制にしないといけないから」として、マスコミの大合唱で小選挙区制度が導入されたが、結果は、国会議員が天下国家のことを考えるのではなく、自分の選挙区を中心に考える市会議員化である。 また、小選挙区制は党が議員の生殺与奪の権をもつため、民主党の小沢一郎前幹事長のような、自分の言うことを聞かない議員には党の金を渡さないとか、公認しないという独裁者を生んだ。 二大政党制がよいのは、同じくらいの規模の政党が健全な政権交代ができ、アメリカやイギリスなどで行われているからとマスコミは言うが、イギリスでは二大政党だけでは、国民の様々な意見やニーズを吸収できないとその他の政党が力を持ち出している。 また、ドイツやイタリアなどでは多くの政党がいて、それが必要に応じて連立を組むというのはごく普通に行われている。二大政党制が優れた制度だということなど言えない。 ただ、今回の参議院議員の選挙結果をみると、それだけマスコミが肩入れした民主党政権が大きく負けた。国民はバカではないのである。
2010.07.12
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(賭け事をしたことがない人はいるか) 大相撲の力士が野球賭博をしたとして、琴光喜と大嶽親方が解雇された他、多くの力士が謹慎処分となり、NHKもテレビ中継を中止するなど大騒ぎである。そして、横綱、白鵬が他の力士と花札をしたことまで問題視し、本人に謝罪させている。 新聞やテレビも連日のように、この問題を伝え、相撲業界の体質改善の必要性を訴えている。その時に必ず出てくるのが、「伝統ある国技だから」という話である。そして、賭けた金が暴力団の資金源になっていて、反社会的だというのだ。 しかし、この報道を見ていて、筆者は大いなる違和感を感じる。まず、殺人や暴行などの誰が考えても、あってはならないことと、他の人に大きな被害を与えるものではない賭博は大きく違うという視点がないということである。 法律に違反しているからけしからんという人もいるかもしれないが、普通の日本人で、賭け事をしたことがない人はまずいないと思う。ゴルフをする人は、そのほとんどが一緒に回る人と金をかける。「チョコレート」という言い方をするが、金額はそれほど大きくないにしても、金を賭けており、法律違反である。 また、高校野球や、今回のようなワールドサッカーなどに対して、家庭や職場で、賭けをすることが日常茶飯事のように行われている。何かについて、その結果に対して、金を賭けて争うというのはいわば、生活に根差していることなのである。 新聞、テレビで識者ということで、今回の相撲の野球賭博を批判している人で、これまでに賭け事をしたことがないという人がいたら、お目にかかりたいと言いたい。(官の賭け事は正しく、民は不正?) 江戸時代には、すべての賭博が禁止され、厳しく取り締まられた。しかし、戦後の日本では、国や地方自治体が主催する競馬、競輪、競艇という賭博は堂々と認められ、民間の賭け事は一切禁止されている。宝くじも公営だということで認められ、年間に1兆円の金を集めている。 賭け事は集めた金の内、胴元がいくら取り、金を出した参加者にどれくらい還元するかということで、搾取の度合いが決まるが、競馬などの賭け事で、政府や地方自治体の官が取るのは25%、宝くじに至っては、実に55%の金を国民から官が巻き上げている。やくざもしないような「あこぎ」さである。 民間で行っているものとして、パチンコが唯一、認められている。パチンコは戦争で主人を失い、生活が大変な母子家庭の母親を支援するという名目で、現金交換が認められ、賭け事にもかかわらず、認められた。 パチンコ業界の売上高は最高時には年間30兆円にも及んだ。近年、少し売上高が落ちてきたが、それでも、23兆円ほどあり、日本を代表する自動車産業に匹敵する大産業である。 こうしたものを認めておいて、どうして、個人が花札をしたり、野球賭博をしたらいけないのか。論理が矛盾する。外国では、ラスベガスではないが、民間企業が経営する賭け事、賭博が認められている。日本では、これが認められないので、アンダーグラウンドで賭け事、賭博が行われることになり、そこにやくざを絡んでくるのである。 民間で唯一、公認されていたパチンコ業界も、警察が実態を把握しようと、玉の販売を機械でチェックするシステムを導入するよう業界を指導し、販売のためのカード導入をした。そして、それをチェックするための機関を作り、警察OBが多く天下りしている。 つまり、官のすることはよいが、民がすることは全部だめということが如実に出ているのが、今回の騒ぎの根幹にあるように思う。そも、今回の相撲の野球賭博は、週刊新潮がすっぱ抜いたものだが、これも、警察からのリークであるのは、関係者の間では常識である。(国技という規定はない) 相撲の野球賭博の話で、よく出てくる話に、「国技」「伝統スポーツ」だからという話がある。朝青龍が相撲界を引退しないといけなくなった、知人を殴ったという話の時も、「国技」ということがよく言われた。 これも、大いに違和感がある。元々、相撲は国技ではない。国技だという認定はどこにもないし、国が決定したという事実もない。国技というなら、もっと国民に愛され、国費が投入され、場所の中継も現在の10数%というような視聴率でなく、2倍、3倍の人が見ておかしくないはずである。 相撲は基本的に興業であり、戦いである。現在、行われているような、優等生でないといけないということで、力士を規制していくと、スポーツとしての面白さはなくなり、やがて、消えていくことにつながるのは必至である。興業には悪役は必要だし、強い個性の人が必要である。 相撲は元々、全国の興業を行う時に、地元の有力者、顔役などが引き受けて行われてきた。やくざとの付き合いは長く、特に問題はなく過ごされてきた。それに最近になって、関係を断てと言われて、戸惑うのは当然である。 昔、歌手の美空ひばりの興業を山口組が取り仕切っているということが大きな社会問題となり、ひばりはテレビやラジオに出演ができない。公演が実施できないという騒ぎになったことがある。これも相撲と一緒で、昔は歌手の興業も、地元の顔役が取り仕切っていたのである。(暴力団と警察の権力争い) そも暴力団とか、やくざとは何であろうか。警察は暴力団の撲滅を掲げて、社会の諸々のことから、やくざを切り離そうとしている。そして、暴力団が大きな問題組織だと、マスコミを通してPRしてきた。マスコミは警察の言う通り、報道してきた。 しかし、どの社会でもそうだが、社会の落ちこぼれはいる。まともに正業につけない人を集め、指導し、問題をおこないように管理してきたのが、やくざである。だから、清水の次郎長や、国定忠治が英雄や顔役として存在したのである。 昔、犯罪が起きると、警察はやくざ、顔役に情報を求めた。やくざの世界では、誰がその犯罪に関与したかという情報があり、やくざはそれを提供して、犯人の逮捕に協力することは少なくなかった。二十年くらい前まで、ごく普通に行われていたことである。 それが、二十年くらい前から、警察庁が「暴力団撲滅」を言いだし、マスコミを通じて大キャンペーンを始めた。 自分で店を持つとわかるが、やくざがおしぼりや割り箸などを買ってくれないかと言ってくる。決して押しつけではなく、非常に低姿勢でである。料金も普通の業者と変わらない。そして、これを買うと、店の客が問題の人で、トラブルを起こした時に連絡すれば、すぐ来てくれて、収めてくれた。 しかし、警察はこうしたものを買うのは駄目と強く言って、指導した。でも、問題の客はいる。問題が起きた時に、警察に連絡しても、警察は余程大事にならないと来てくれない。庶民感覚からすると、警察と暴力団が権力争いをしていて、周囲の人はそれに振り回されているように感じる。 やくざや暴力団というと、短く髪を刈った、一見すぐそれとわかる人たちというイメージがあるが、実際は、そういう人もいるが、多くはそうではない。 一般には知られていないが、現在、上場している企業のかなりの会社が事実上、やくざに支配されている。今から10年前で50社はあると言われた。今、その倍はあると予想される。今のやくざは経済やくざであり、一見ではわからない。 筆者はやくざや暴力団を擁護するものでもないし、よいというつもりもない。なくてすむなら、ないに越したことはない集団である。しかし、世の中には必要悪というものはある。そして、かつてのように、警察がやくざとつかず離れずの関係で、暗黙の協力関係、住み分けがあっておかしくないと思う。警察が天下り先確保のためにそうした関係を壊した結果、逆の大きなトラブルが起きている、そう思うのである。(財団を止めるべき時) 相撲の話に戻すと、相撲をそも財団法人にしていることがおかしい。プロレスや野球のように、普通の民間経営とし、興業として、場所を開くべきである。税制優遇がないのであれば、「国技だから」とか、「公益法人だから」ということを言われないですむ。 そうすれば、検察官庁OBが理事長代行を務めるというような変なことは起きない。 最近、落語や講談を聞いていて、昔に比べてまったく面白くない。三遊亭円楽の弟子、楽太郎が円楽を継いだ。襲名公演を聞いたが、面白くない。一生懸命、勉強して、話をしているのだが、味がまったくない。かつての落語家や講談師は独特の味があったが、それがないのだ。 理由は簡単である。昔の落語家や講談師、歌手や俳優もそうだが、結構、ハチャメチャな生活をしていた。だから、そこから、独特の味が出てきたのである。でも、今の人が、マスコミに管理され、何かあると、すぐ叩かれるので、品行方正になっていく。だから、味が出ないのだ。 社会の人々には、それぞれの役割や分担があるはずである。一律の規則、ルールで仕切っていき、それから外れると、バッシングをするという今の世の中は、面白くない。
2010.07.11
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後、数日で参議院議員選挙である。筆者は基本的には今の参議院なら無い方がよいという無用論者である。参議院選挙が3年に1回あり、衆議院選挙が実際には2年半に1回選挙があるから、10年先、20年先を見通した国家戦略などが立てられないのである。 しかし、すぐには、参議院はなくならないから、現状を前堤に話をしないといけない。今回の参議院選挙で、与党が非改選組を入れて、過半数まで届くか微妙で、最近の新聞報道では、少し届かないかという予想である。 与党が過半数割れすることが予想通りとするなら、それは国民の賢い選択であると、筆者は考える。(歴史的政権交代は、マスコミの嘘) 民主党を語る時に、特に新聞、テレビは、長年続いた自民党政権からの歴史的な政権交代という。そして、民主党支持者は、民主党政権の過去1年弱の混迷やお粗末さを見ても、「歴史的な政権交代であり、慣れないのだから、もう少し、時間を与えないと」と言う。 そうであろうか。まず、戦後の政権は、ずっと自民党が政権を握り続けた訳ではない。戦後、片山内閣で社会党が政権をとったことある。また、細川政権では、自民党以外の多くの政党が連立で政権を握った。 また、小沢一郎も、鳩山前首相も、その他の幹部の多くが、長く、自民党で議員を務めていた。「政権慣れがしていないので、時間をあげないと駄目」という論は事実を無視する話である。(野党の要求を取り入れてきた自民党) そして、自民党政権時代でも、自民党が独裁で何でも決めていた訳ではなく、自分の半分くらいしか議席がない最大野党、社会党と話し合いをし、社会党の主張を取り入れ、妥協しながら政権運営をしてきた。 福祉や年金が問題だらけというが、世界的にも優れたモデルと言われる国民皆健康保険制度も、国民の課税最低限度額も、他の先進国の2倍くらいまで税金を払わなくてよいような制度になっているのも、自民党中心の政策運営に、社会党や近年では公明党の意見を取り入れてきたからである。「年金は自民党がガタガタにした」と民主党は宣伝し、マスコミもそれに乗って報道しているが、真面目に定年まで勤めた人は、今、月額20万円を越える厚生年金を受け取っている。 筆者の親戚の人は小学校卒業で、中小企業の工場で、定年まで働いたが、月額22万円程の厚生年金を得て、月に2回旅行に行っている。40年間、真面目に仕事をしてきた人は家を買い、貯金を持ち、年金で問題なく生活しているのだ。 つまり、自民党は長く政権の座にいたが、実は柔軟に野党や他の政党の主張を取り入れ、様々な制度を実現してきたのである。自民党には問題はたくさんあったが、戦後、日本が奇跡の復興をなしとげる中で、自民党の果たした役割は大きかったのである。(独裁、傲慢な民主党の政策運営) これに対して、民主党はどうであったか。自民党政権の末期、参議院で自民党が過半数割れが起きた時、民主党のやり方は、自民党の主張はすべて退け、一切の妥協をしなかった。自民党のお粗末さもあったが、自民党政権が身動きがとれなくなったのは、民主党のこのやり方のためだったのである。 そして、今度は自分が政権をとった後はどうだったか。鳩山前首相や小沢前幹事長が政治と金の問題が大揺れしても、何も説明せず、国会での一切の審査も拒否し、押しきった。 その他の政治家で、中井国家公安委員長が、議員宿舎に交際中の女性を寝泊りさせていることが指摘されたり、その他の議員や大臣が、事務所経費を不正に申告している問題が明るみに出ても、辞任したり、陳謝は一切なく、「法的に問題ない」という言葉で、居直ったままである。 一番ひどい話が郵政問題で、小泉郵政改革の時に、千時間を越える時間を議論にあてたのに、たった1日、6時間で、しかも、民主党の公約とはまったく逆の方向の改革法案を強行採決したのである。 郵政のトップに財務省の元事務次官という官僚組織の最高権力者を据え、郵貯の預け入れ限度額を倍にするなど信じられない暴挙である。当時、国民新党の亀井大臣が強硬に実現を迫ったというように解説されたが、最近の分析では震源地は民主党、小沢一郎であるという話である。 今回の郵パック問題は起こるべきして起きたのである。国民目線がない官僚が、現場の実情を無視して、強行したことが混乱の原因である。それなのに、原口総務大臣は、「民営化の問題が出た」と発言した。あいた口が塞がらない。 圧倒的な議席を持っていた時代の自民党でも、こんな乱暴なことはしていない。逆に自民党は野党の意見をかなりとり入れていた。民主党にはまったく、そうした姿勢がなく、独裁的であり、傲慢である。(民主党に謙虚さを求めるために過半数割れを) 先日、9党の代表者で、テレビで議論をしようという話があった時に、菅首相は、「8対1で、責められるばかりで不公平だから」と言って、出席を断った。でも、自民党時代のことを思い出してほしい。自民党は6対1でも、7対1でも、出演を断ることはしなかった。 国会で、問題、不手際を責められた前原国土交通相は「今問題が噴出しているのは、自民党政権のツケで、そうしたあなたたちから、言われたくない」と傲然と言い切った。 この論法で行くと、前政権の党は何も発言できないことになって、議論など成り立たなくなる。絶対言ってはいけない発言である。 こうした民主党が国民新党を入れても、今回の参議院議員選挙で過半数を獲得したら、それこそ、傲慢に、他党の言い分などまったく聞かず、暴走をするのは目に見えている。 公約を次々に破ってきて、それも、「思ったほど金がなかった」とか、「不況で税収が集まらないから」という言い訳に終始し、謝罪や修正説明は一切なしである。 今の民主党に一番必要なことは、「謙虚さ」である。他党の主張も聞き、議論をし、入れるべき主張は採用することである。それを実現させるための方策は簡単である。今回の参議院選挙で、与党を過半数割れさせることである。 そうなると、独裁は通らなくなる。協議、妥協は不可欠になってくる。政策ごとのパーシャル連合も出てくるだろう。でも、それはより、国民目線に近くなることである。 過半数割れで、民主党の党内がもめ、9月の党代表選挙に向けて、党内論争、抗争が起きるかもしれない。でも、それは、逆に民主党という政党がよく見えてきて、国民にとってはよいことだと、筆者は考える。
2010.07.08
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(「奇跡」の好況は二度と来ない) 現在、日本で行われている議論は、「今の日本は不況で大変だ。かつての好況の時のようになるように、政府がもっと対策をとるべきだ」ということが中心である。 しかし、筆者はここに最大の問題があるように思う。新聞やTVに出てきて、「政府がもっと対策をしっかりしろ」という発言をしている人は、50歳代、60歳代の人が中心で、彼らの話は、「かつての高度成長時代やバブル時代のような好調な時代に戻せ」といことである。 戦後の日本の高度成長時代は、世界から「奇跡の復興」と言われた。「奇跡」は滅多に起きないから、奇跡なのである。奇跡をもう一度というのは土台無理である。 バブル時代は、東京にマイホームを持っている人なら、誰でも1億円以上の資産家になったという異常な時代で、日本人全体が「ゼニの異常さ」に酔っぱらった時代で、これも、再現などありえないし、あってほしくない。 20歳代は30歳代前半の若い人は、ものごころついた時から日本は下降で、日本のよい時代はほとんど知らない。だから、年配世代より、より現実的で、かつ、悲観的である。 若い人と話をして、将来の夢はと聞くと、「幸せな家庭を築くこと」という答が圧倒的である。年配者からすると、なんて小さい、小市民的と感じるようなことだが、今の若者には、それが難しい達成目標なのである。(日本が世界の工場には二度とならない) そうした若者に、50歳代、60歳代、70歳代の人が、日本がバラ色だった時代の話をして、「政府が駄目だから、今のようになったので、政府がもっとしっかり経済対策を打てば、日本はよくなる」という話をして、民主党政権が誕生したが、事態はもっと悪くなっただけである。 今の日本に閉塞感は、政府の失政、無策で起きたのではない。政府が万一びっくりするような素晴らしい施策をしたとしても、50歳代、60歳代、70歳代の人が考えるような好況は二度と起きない。 理由は簡単だ。日本を取り囲む環境、条件が変わったのだ。それを認識しないで、過去の成功を二度というようなことを言っている50歳代、60歳代の話は、没落した大地主が良かった時代の夢をもう一度と言っているのと同じで、害悪こそあれ、何の役にも立たない。 高度成長時代など、日本が絶頂時代は、日本が世界の生産工場となって、日本の製品を世界に輸出し、世界の他の国も歓迎してそれを買ってくれた時代である。当時の日本は欧米の人が考えたアイデアを日本人の勤勉さ、工夫でより良いものに作り直し、そして、低賃金で製造して海外に売っていたのである。 しかし、現在の日本は不況だ、不況だというが、ドル換算では、世界トップクラスの高給国家になった。欧米は知的財産権の保護の観点からアイデアを簡単に出してくれなくなった。日本人もかつてのように勤勉ではなくなってきた。工夫も少なくなってきた。これで、かつての奇跡の再現などあり得ない。(年寄り、女性にもっと働いてもらおう) 世界の生産工場ではなくなった日本はどうすれば、国民はより豊かになれるか。かつての経済の規模が小さな時代は、輸出で儲けるウエートはとても大きかった。しかし、今の日本では輸出の依存度は小さく、圧倒的に国民の内需中心の国家である。 それなら、輸出振興ではなく、もっと内需が増えるような施策に力を入れないといけない。高齢者が増えて、現役世代が減ったというが、それなら、もっと年配世代に働いてもらえばよい。 新幹線で出張などしていると、元気一杯の60歳代の団体が旅行に行くのとよく出会う。今の60歳代は本当に元気である。元気な世代に年金を払うのではなく、もっと働いてもらうのだ。筆者も仕事を辞めれば、年金がフルに出る年だが、現役で仕事している。まだ、数年は現役で働ける体力、知力はある。 そして、今、勤労年齢の半分以上の人が働いていない女性たちの就労をもっと促進して、一家の収入を増やすことだ。女性が働く環境対策とて、保育所などの充実などの対策を政府や地方自治体がもっとすればよいのである。 待機者が多いのに、なぜ、保育所が増えないか。理由は簡単だ。作れば作るだけ、地方自治体が赤字になるからだ。介護もそうだ。ニーズが多いのに、なぜ人手が不足するのか。それは労働がきついのに、給料が安く、労働環境が悪いからである。 こうしたいわばサービス系の仕事の価格を役人が決めると、必ずと言ってよいほど、実態に合わない価格設定をする。だから、本当に必要な人がそのサービスを受けられないのだ。 保育所も公営ではなく、もっと民間に門戸を広げ、価格も自由に設定できるようにすれば、価格は少し高いが満足なサービスを受けたいという人は集まってくる。政府や自治体の関与は安全面、衛生面などのチェックに限定すべきである。(農業、漁業、林業で雇用吸収を) 中国、インド、ブラジルなどの発展途上から先進国の仲間入りをしようとする国が経済発展をしてくると、何が起きるかと言えば、まずは食糧需給のひっ迫である。これまでは、金さえ出せば、世界中から何でも買えたのが、次第に、競争が激しくなり、価格が高騰し、高い金を出しても買えなくなってきつつある。 日本には、それこそ、戦後の農政の失敗で、放置された広い農地や山林がある。周囲は海に囲まれている。今は栽培漁業が盛んになってきたが、こうしたことに政府がもっと力を入れ、農業、漁業、林業で働く人を増やしていけば、失業問題など解消できる。 ただ、学校教育で、もっと仕事、労働について、きちんと教えないといけない。それこそ、政府の出番である。日本の学校では教えないといけない肝心なことを教えていない。宗教などそのよい例である。宗教を学問として、きちんと教えないから、世界での宗教対立の意味もわからないし「契約」の意味も理解できない。 「汝の隣人を愛せよ」とは、近所、隣の人、外国の人と仲良くしましょうということではない。「隣人」とは嫌な奴、価値観が違う人たち、そうした人たちといかに付き合っていくか、よく考え、工夫しようということである。 軍隊をなくして、話し合い、外交で交渉すれば、外国がわかってくれるというドンキホートではなく、いざという時は、戦の準備をきちんとして、戦うこともちらつかせながら、ギリギリの駆け引きをして、境界の線引きをし、ルールを取り決めていくということである。 働くということも、きちんと教えないといけない。大学に5割の人が進学する時代である。大学に行って人にすべて、サラリーマン、ホワイトカラーの就職先があるはずがない。自分の適性、能力、分をきちんと教え、超大企業への就職はあり得ないということをきちんと説明すれば、7人に1人が就職浪人などということは起きない。 不況で就職できないのではない。大学に行ったのだから、大企業に就職して当然と思う学生やその親と、質の悪い学生は採用できないという企業の価値観のギャップが大量の就職難民を生んでいるのである。
2010.07.06
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(ほとんど議論されない国のあるべき姿) 後1週間で参議院議員選挙で、消費税や福祉対策、景気対策などの議論が盛んに行われている。だが、一番議論をしないといけない肝心なことがほとんど議論されていないように、筆者には思える。 一番大切なこと、それは将来の日本をどういう方向にもっていくかということ、そして、その中で、老、壮、青の負担や分担をどうするかということである。 景気や福祉対策が常に政府のやるべきことの上位に挙げられる。しかし、景気対策は実は政府が行って、成功したことはほとんどないというのが歴史的な事実である。 学校の授業で成功例として習う、アメリカのルーズベルト大統領のテネシー川流域の公共事業も、その後の検証では、あまり効果がなかったというのが定説である。 政府がしてはいけないことをした結果、回復期にあった景気の足を引っ張った例として、橋本内閣での消費税の3%から5%への引き上げがあるが、このように、今のタイミングでしないでほしいということをしないようにするのが、期待されることである。(少子化対策は本当に必要か) 少子化対策が必要だとして、民主党政権はこども手当を支払い始めた。子供の数が減って、少子高齢化が進むので、何とかしないといけないということからの発想である。 しかし、子供が減ることが本当にそんなにいけないことなのだろうか。子供が減ることの悪い理由として、一番言われることが、若い人が減ると、現役世代が給料から支払う年金拠出が減り、お年寄りを支えられないから、少子化は駄目だということである。 だが、今の日本のように、自分が積み立てた金ではなく、今の若い世代が支払っている年金拠出から、お年寄り世代が年金を受け取るのではなく、自分が積み立てたものを自分が受け取るという欧米の様式に変えれば、別に子供が減っても、年金がパンクしたりしない。 大体、現在年金をもらっている70歳代の人たちは自分が積み立てた金の何倍のものを年金として受け取っている一方で、今の現役世代は自分の積み立てた金の何割しか年金として受け取れない。この制度自体まったくおかしく、若者がおかしいと声高に叫ばないことが筆者には理解できない。(あるべき人口数は?) 今の日本は人口1億2千5百万人である。しかし、自給自足をしていた江戸時代は人口は3千万人であり、昭和の時代でも6千万人だった。江戸時代は、水戸黄門などの時代劇映画で貧しく辛い時代と描かれているが、実際は当時の1人あたりのGDPは世界一という計算もあり、豊かな国だったというのが定説である。 若者が減ると、労働人口が減るという話もあるが、60歳定年を止めて、70歳まで働くようにすればよいし、半分も活用されていない女性を労働人口として活用するようにすれば、総人口は減っても労働人口は減らない。 人口が減ることが大変だというPRは、現状の女性は半分も働かず、男性も60歳や60数歳で仕事を辞めるという前提に立っているからの話で、その前提を変えれば、状況は一変する。 老人は貧しく、年金もパンクしている。だから、福祉の抜本改革をしないといけない。今までの政府は無茶苦茶をしていた。これは民主党の主張で、それで政権交代が起きた。 しかし、本当にそうであろうか。老人は貧しくない。個人金融資産、1400兆円の3分の2は65歳以上の人が持っている。年金も、自営業やきちんと年金を支払ってこずに、まともに年金がもらえない老人を描いて、大変さを煽っているが、9割以上の人は、まともに年金を拠出し、きちんと年金をもらって、生活をしている。 過去のどんな経緯があろうと、現在、まともに年金を受け取れず、生活ができない人は、国や地方自治体が対策をとらないといけないが、それは全体のほんの一部で、その人たちが過半ではないのだ。しかし、マスコミがあたかも、過半のような描き方、報道をするので、消費者の財布が更にしまり、ものを買わずに貯蓄に向かうというマスコミ発のデフレが起きているのである。 高福祉国家として、よく例に出てくるスウェーデンは人口5百万人の国である。ニュージーランドは日本から北海道を取り除いた広さに、人口3百万人の人が住んでいて、何も問題はない。日本の隣の韓国の人口は日本の半分である。でも、最近の韓国の躍進は目覚ましい。日本が人口を今の水準に維持しないといけない理由はない。(福祉の内容の総点検が必要) 現在、例えば医療費は年間30兆円かかっていて、毎年、1兆円づつ増えている。でも、この30兆円をきちんと点検すれば、削ることができる内容が多くある。 医療費と計算されている金額の多くが宿泊や食事に関する費用である。また、絶対助からない末期がんの患者に、1年間に3千万円の治療をしたというような例も報告されている。 医師はよく、「人の命は地球よりも重いので、何をおいても助けないといけない」とよく言うが、絶対助からない人に無理やり延命治療をすることに、疑問を投げかける人は少なくない。本当に人道的な立場ではなく、治療例としての実験として対応している医師も少なくないというのが医療関係者の本音である。 日本の病院の3分の2が赤字である。その一方で、大学病院へ行けば、患者は長蛇の列である。大学病院でなくても、少し腕のよい病院は患者が殺到している。それで、3分の2の病院が赤字というのは理由があるのである。 日本は病院の役割分担がきちんとできていない。地域で普段接している人たちを診るクリニックと、専門的な治療をする大学病院や大病院の役割がごちゃごちゃで、誰でも、どこでも行けるので、行く必要がない人が大学病院などに殺到している。 また、国民皆保険はよいが、ドラッグストアで薬を買うよりも病院に行って薬をもらう方が安くつくので、皆、安易に病院に行く。一定年齢以上になれば、体の何か所かに持病や不具合が出てくる。本来なら、どんな薬を手に入れて飲めばよいかわかっているのだが、先生と話をして、安い薬をもらえるので、ドラッグストアでなく、病院に行くということになる。 病院に行く回数が増えると、保険料が上がるというアメリカの保険制度の全体とは言わないが、ある部分を活用して、用もなく頻繁に病院に行く人には、保険料を上げるという対策だってとることができる。 病院の経営が赤字の理由に1つに高額な機械の購入がある。日本は病院や医師の絶対数が不足しているとよく言うが、対人口比ではそんなことはない。日本は病院が乱立し、しかも、どこの病院も高額な医療機器を購入するので、経営が圧迫されているというデータもある。 全体をきちんと調査、把握すれば、無駄な部分が多く、同じ金でもっと色々なことができる。 介護が必要な人、寝たきりの人を個々の家庭で面倒をみて、介護保険などで対応するという今のスタイルではなく、もっと、多くの人の輪で、対応するというスタイルにすれば、費用も少なくて済み、家族の負担も大きく軽減してくる。(高齢者は自分たちのことは自分たちで) 筆者自身、60歳代半ばである。同じ学年の人は皆、年金をもらって、余生を暮らしている。筆者自身はまだ、働いていて厚生年金は停止状態である。 そういうこともあって、介護や年金生活などの現状も多く見る。その時に、いつも感じるのは、今の60歳代、70歳代、80歳代の人たちのわがまま、勝手さ、人生設計プランのなさである。 中卒でも、高卒でも、大卒でも、筆者と同じか、それ以上の人たちは、まともの仕事をしてきていれば、マイホームを持ち、月額20万円前後の厚生年金を得ていて、貯金も数千万円ももっている。上場企業にずっと勤務していた人は、その上に月額3、40万円の企業年金をもらっている。 経営破綻した日本航空の議論の時に、企業年金の減額が大きな話になったが、厚生年金と企業年金合わせて、月額5、60万円もらっているのを、3割くらい削ってほしいと会社が言ったのに対して、定年退職者は猛反対した。「自分たちが積み立てたもので、当然の権利だ」として。 でも、これは嘘だ。今、70歳代の人が厚生年金でも、企業年金でも、自分が積み立てたものは、もらっている金額の3分の1以下である。それで、20歳代で一生懸命働いている若者の年収の倍以上の年金を受け取るのが当然と思うこと自体異常である。 筆者は企業年金で一定金額以上もらっている人に厚生年金は支払いを停止すべきだと考える。また、資産が一定以上ある人への厚生年金の支払いも不要である。 そして、今の高齢者の老後の面倒、介護、医療などは、現在、高齢者がもっている多額の個人金融資産に課税して徴収し、それを原資として、施設を作るなどして、より効率的なサービスが行えるようにすれば、高齢化社会だから、福祉の費用が爆発的に増えるという不安はなくなってくる。 高齢者は自分たちの世代で、自分たちのことは始末し、若い世代が後で支払わないといけないツケを残してはいけないと思う。そうした意味で、福祉の全面見直しなしに、単に充実を叫ぶ政党は若者にとっては、大きな負担を更に課そうとしている敵なのだということを若者は是非知ってほしいと思う。
2010.07.04
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(迷走する消費税議論) 菅首相の消費税発言から消費税論議が始まったが、税制問題は難しい問題ではない。ずっと以前から、税収不足を解決する方法は簡単だと言われてきている。 にも、かかわらず、議論が迷走するのは基礎となる数字を前提に話し合いをしていないからである。また、いくつかの政党は消費税の増税に反対する論拠として、例えば防衛費の削減で対応できるなどという本当にトンチンカンな話をしている。 GDPの1%以下という世界でも信じられないくらい低い水準で、金額でも4兆7千億円ほどである。更に過去5、6年間、毎年減額されている防衛費を、更に削るという話は、国民をごまかしているとしか言えない話である。 こういう政党はそれでいて、日米安保や米軍の駐留に反対している。では、外国から侵略された時に、どうやって国や国民を守るというのだ。 永世中立国のスイスでは、国民は定期的に軍事訓練が義務づけられているし、行ってみればわかるが、国のいたるところに核攻撃などの備えるシェルターが備えられている。 もう1つの中立国、スウェーデンは、知る人ぞ知る、軍需産業大国で、多くの兵器を製造し、輸出している。スェーデンが考え出した近代兵器も多く、その近代兵器で軍隊が装備されていて、攻められた時の備えもしっかりしている。(大きく減っている所得税、法人税) 防衛問題の議論はさておいて、話を税金に戻すと、税収の主要なものは3つ。1つは個人が支払う所得税、2つは企業が支払う法人税、3つは消費税である。 個人が払う所得税は現在、12兆6千億円程だが、ピーク時には2倍以上の26兆7千億円あった。企業が支払う法人税は現在6兆円で、これはピーク時には、現在の3倍の19兆円あった。消費税は9兆6千億円ほどである。 これでわかるように、企業も個人も支払う税金が大きく減ってきている。政治家や官僚の国家運営が下手だったということがあったとしても、これなら、国と地方自治体の借金が1千兆円を超えたと言われるのは当然である。 国や地方自治体に大きな借金があり、個人の金融資産がそれを上回る1400兆円と言われるくらいの金額があるということは、結果的に国とみれば、戦後の国と個人の配分が間違えていたということに他ならない。(所得税は薄く広く) 所得税だが、日本はこれも世界に例がないくらい、最低課税所得が高く設定されている。つまり、所得税を支払わない人がとても多いということである。 こうなった理由は簡単で、かつては社会党、ここしばらくは公明党が、選挙への人気取り対策として、課税最低限の引き上げを要求していて、自民党が重要法案などを通すために、その要求を飲んできたからである。 所得が高い人には高い税率をかけるという累進課税の考え方は、税で所得の再配分をするという発想の下に行われているが、日本では、金を稼ぐことは何か罪悪であるかのような意見があり、誰かが猛烈に稼ぐと、思いっきり足を引っ張る風潮がある。 法律に違反してはいけないが、自己努力で多くの収入を稼いだことに対して、バッシングをするのは間違いである。そして、日本人として、日本で生活する以上、収入の多寡に関係なく、全員が税負担をするということがあるべき姿であると思う。 個人の所得に例外なく10%の所得税をかける。そして、所得の高い人、年収1500万円を超える人は20%、3千万円を超える人は30%というくらいに3段階での税にして、全員に所得税をかけると、所得税からの税収は30兆円位になる。 所得の低い人への対策は税制を複雑にするのではなく、福祉対策で、安く住める住宅への入居で支出削減を支援するなどの方法ですればよい。税制を複雑にするのは、財務省、国税庁などが国民にわかりにくくして、自分たちが勝手に色々なことを好き勝手にしようという思惑が見えてしまう。(法人税もすべての企業から) 法人税の減税が大きな議論になっている。確かに企業の法人税率は高い。しかし、これはきちんと税金を払っている会社の話である。こうした企業の税率を国際競争のために引き下げないといけないのは事実である。 現在、きちんと利益をあげて、税金を納めている会社にとっては、利益の半分を税金で持っていかれる感じである。これは国際競争という上で、かなり厳しい。会社には、この他に、社会保険料の会社負担が重くのしかかっている。社会保険料の負担は支払い賃金の10%を超えている。 このように、真面目に税金や社会保険料を支払っている会社がある一方で、日本では、大企業での税金を払わない企業が多く存在する。すべての法人から税金を徴収すれば、ここでも大きな税収増となる。 企業の利益(経常利益)に10~20%の税金をかける。儲けている企業は今よりも大きく減税になるので、前向きの投資がどんどんできる資金ができる。 問題は赤字企業である。赤字の中小零細企業に更に法人税をかけるのは現実的でないが、大企業は赤字でも一定金額を税金として納めることを制度化すれば、企業からの税収は大きく増える。 考え方は、大企業(売上高1千億円以上、または、従業員5百人以上の会社)は赤字でも、売上高の1%を法人税として支払うというものである。 売上高1千億円で10億円、1兆円の企業なら百億円である。赤字でこれだけの税金を払うのは大変だという意見もあると思うが、黒字の時に1年分の法人税対策積立金を無税で認め、合計で3年分まで無税扱いにするとすればよい。 日本企業の売上高経常利益率は平均で、4、5%。大企業だと、7、8%から10%あるから、黒字の決算の時に、赤字の時のための積立は難しくない。(消費税は借金の返済のために) こうした考え方をすれば、法人税収と所得税収がそれぞれ30兆円位。消費税収が9兆5千億円あるので、主要な3つの税収で70兆円ほどになり、今年度のような民主党のバラまき政策のようなことをしなければ、他の税収もあり、税収で支出を賄うというプライマリーバランスということは達成可能である。 消費税を福祉にあてるというのが何となくコンセンサスになりつつあるが、筆者はこれは筋が違うと思う。この議論は昔、福祉を多く要求する社会党に対して、福祉を増やすなら、消費税を上げないといけないということで、福祉に一定の歯止めをしたい自民党、官僚のバランスの上から出てきた話である。 だが、消費税はそうではなく、過去の国の借金の返済のために使うべきもので、借金が一定以下になったら、税率を下げ、また増えたら、消費税を上げるという発想で、国債の乱発を防ぐ意味での歯止めにするのが筋だと思う。 よく言われるように、国には借金もあるが、資産もある。7百兆円とか言われる。この一部の売却、支出の見直しをした上で、消費税を国の借金の返済のためにというようにすれば、消費税について、国民のコンセンサスができると思う。 では、福祉はどうするか。それは、今の65歳以上の高齢者が持つ個人金融資産を充てるべきである。上記のように、現在の日本は国や地方自治体に膨大な借金ができた一方で、高齢者に世界に例のない資産が積みあがっている。これは、基本的な配分を間違えたためである。 マスコミの報道では、高齢者は貧しいというイメージだが、実際は多くのお年寄りは豊かで、資産も貯金も多くもっている。これを同世代の貧しい人対策にあててもらい、新しいシステム作りの資金にしてもらうのである。 具体的には、また別の機会に詳しく書きたいと思うが、資産税という制度での徴収などが考えられる。また、介護も個々の家で、嫁や娘、息子が対応するのではなく、風光明媚で、地価が安く、過疎のガ進む地方に施設を作り、まとめて面倒をみるという抜本的な対策をするのである。 入居者は一生面倒を見てもらえる代わりに、死亡すれば、資産は国の収入になり、それで回していくというものである。その施設では、体の元気な人はできる作業をして、給料で働く人を極力減らし、全体の経費を減らすようにするのである。 この施設に入らない人には、介護保険も適用しないとする。従って、豊かで、家族に面倒をみてもらったり、特別の施設で過ごしたい人は、自分の金でどうぞという自由は残すのだ。
2010.07.02
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