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従来の車と異なりこのハイブリッド車はCVTと言って歯車を用いるATと異なる無段変速の方式なので坂道発進の際、ブレーキパッドからアクセルに足を移した時に若干バックすることがあるそうだ。 そんなことが二度この間に経験した。 すぐに前進への力が働いたからその後の運転には支障はなかった。 でもその感覚はしばらく残った。 操作説明書で坂道発進の際、一瞬ブレーキが作動し前進への力が働いたときそれが解除されるとあったから、早のみこみして自動的にそうなるのと誤解していた。
2013年05月31日
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昨日、一ヶ月点検を受けた。どこも異常はなかったそうだ。 この間の走行距離は404kmである。すっかり新車の運転に慣れることができた。 ハイブリッド車の操作説明書を一通りは読んで見ている。ディスプレーメーターのアイコンをすべて覚えたつもりだったが誤解しているものが販売店での保守担当者との会話でわかった。それは車を示すアイコンの下側にスリップを表す様(スリップ表示灯 逆S字2つ)なデザインを賦したものがある。 これは坂道発進の時有効なものだそうだ。
2013年05月30日
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「もてなし」と言う言葉に丁寧語の接頭辞「お」を付加するだけで上のように言葉の意味の広がりが見られる。 表なし、裏なしの心で謙虚に対象者を歓待し、説明対象目的物への再訪がなされれば、それはもう「おもてなし」の行為が理解されその実行者の気持ちも晴れやかに満たされると思う。 それは有料、無料の区別なしである。おもてなしを受けた人がその行為に対して感謝するために行えるのは「ありがとう、又来ますよ」の一言でよい。 その報酬が次のおもてなしをするための原動力に変わる。内心、「・・して良かったな」と思えるのである。
2013年05月29日
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誠意を込めてガイドしているし、そのための知識の補充も研鑽も怠っていない。もっと言えば研究さえ行っている。 もっとうまくガイドできればとの思いがそのそこにあるからなのだ。 「おもてなし」は判字文(はんじもん)の様だが実は「表なし」なのである。表面面(ひょうめんづら)だけではなく心の底から歓待しそれこそ、心の表も裏もなしに喜んでもらえることがうれしいと言う仏教で言う「利他行」と言う精神で行うのが必要であると思う。 それもそれを意識することなく純粋に行えればそれが相手に抵抗なく受けてもらえる様になるだろう。
2013年05月28日
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病院を指すホスピタルと語源が同じだそうだ。 博物館ボランティアの研修でも必ず行われる。 その内容はどこも似たり寄ったりだが要は気持ちよく受け容れ、丁寧に応対し、気持ちよくお帰り頂くのがその精神の発露だと言う。 でもそれを実践して行くのは結構難しい。 まずそれを意識しないで行うことがだ。 観光ボランティアを始めた頃、それを結構意識して行動していた。近頃はそれが念頭から離れることはないものの強く意識することはなくなった。 自信を持って観光ガイドすることができているし、それなりの評価も頂いている。
2013年05月27日
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小説と少し違うのはこの点だ。小説ではもうちと前進している印象がもてた。実はもう一つフェイントがあるのが映画ではあかされるのものあるがそれはここでは述べない。 それでも総体的にそんな内容を許容した高知県庁を評価したくなるのだ。 さて現時点で民放の放送で京都の老舗旅館を舞台にした番組があり、ここでも「おもてなし」がテーマとなっている。 私は観光ボランティアをここ数年以上行っているから常に頭を離れないのはこの「おもてなし」である。 英語ではホスピタリティと言う。
2013年05月26日
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先日、映画「県庁おもてなし課」を見た。 名にしおう今をときめく作家・有川浩氏の同名の小説の実写化作品(映画)だ。 ほぼ原作どおり再現されていて満足した。20年ほど前に高知県を旅した。その時行った先々の風景がスクリーンと重なって見えた。内容はカタチは作ったが実質が伴なっていなかった組織が一人の人物のアドバイスで組織の論理に阻まれながらも多少の組織内意識改革と少しの前進傾向が見られ始めると言うもので根本的な歩みはこれからというものだ。
2013年05月25日
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その国会議員が憲法が保障している基本的人権を無視する発言を擁護するのはあり得ないだろう。彼も上に上げた如く政治家を辞め発言しない人間になるのが良い。その方が本来の職業である小説家としての評価が残り全き人として記録されるだろう。それでよいと私は思う。多くの分野にわたる評価を一個人が求めるべきではないと思う。もちろんマルチな才能を開花し、その能力の伸長をさせてきている人はこの限りではない。時代によりその時代が求める規範はかわる。しかし、絶対の真理というものは確実に存在する。それは仏教でいう八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定)である。これについてはよく自分で吟味してみてほしい。
2013年05月24日
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しかるにもう一人の共同代表である人がそれは事実であると擁護し、なおかつ強弁しているのはその人自身が言っているように暴走老人であるのは疑いない。たわいない問題であれば暴走する発言はジョークとして受け取り、笑って見過ごせるが、事が基本的人権に関わることになると看過できない。戦時の軍の横暴、戦後の政府の政策の犠牲となった女性の痛みを当時生きていた人間であるならばそれを反省し、その痛みの重さを共有する立場であろう。まして憲法を守ると言うことを誓わされている特別公務員である国会議員でもあるのである。
2013年05月23日
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、その存立が問われかねない状況に現在なっていることへの焦りがあるとも言われている。ワンフレーズの発言でその小気味よさをかっこよいと支持された体験が忘れられないのであろうか。 一部の支持者には受けるだろうが賢明なその他の有権者には尊敬おく能わざる人としてそのレッテルを貼られることを理解できないのだろうか。 常識人であることが発言する人の最低限の資格要件であると思う。言ってしまったことは取り戻せない。しかし周囲の反応、発言の対象となった人からの反論を聴いて反省することはできるだろう。
2013年05月22日
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漁師が船の燃費が嵩んで赤字で操業しているとニュースで伝えている。 仕事を続けるためにはその赤字を補填する為、補助金を求め、集会を東京の日比谷野外ホールで開いたと言う。円高で燃費が安い際には彼らはどうしていたのかと問いたくなるのは私だけでないだろう。利益が上がっていた時期にはその一部でも社会に還元したのだろうか? そんなニュースは絶えて聞いたことがない。自然に発生したものを漁業権という権利を主張してそれ以外のものには魚を捕らせないと言うものもある。彼らは円安になると決まって騒ぎ出す。
2013年05月21日
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人間の本能の暴走を押さえるのが近代人としての大事な要素であるとされている。開放的とされているがタブーとなっている問題はしっかり把握してるのが常識人と見なされ評価される。 それができないのならその規範に縛れれない自由人に戻るべきだと思う。だからといって野放図に人権を無視した発言をしてよいとは言えない。 むしろ人間をやめるか、それができなければ人権の本質をもう一度学び直し、それを守るための方法を模索すべきだろう。そもそも彼はなぜあの発言をする必要があったのだろうか? 彼が共同代表をする政治団体の国民の支持率がこの半年の間に急速に低下し、
2013年05月20日
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発言するには物事の善し悪しを判断し、その発言が与える影響を勘案しなければならない。これは影響力のある人、ない人であるかどうかにかかわらず絶対必要なことである。まして発言の怖さを熟知していることで成り立つ仕事を前職とし、なおかつその資格を保持している人がする発言ではない。人権を擁護する側の立場にいる人でもあろう。人の痛みを理解し、人権を重んじることでその仕事が成り立つと言ってよい資格をほじしている人がである。あの発言は彼の品性を自身で貶めるだけでなくその属する団体が同一視されることになりかねない。
2013年05月19日
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別にそういうつもりで言ったわけではないのにそうとられてしまうことがある。あとで反芻してその言葉が妙に頭に残っていて、よく考えて見ると世間の常識から逸脱していることがわかりあわてたと言うことがないだろうか? 昨日のニュースで流れた某政治団体の共同代表となっている過激発言で有名な男の発言はそれと同様だろうか。 私にはとてもそうとは思えない。 文字で書かれた歴史を解釈し、その時代の空気をよく理解しないで観念的に直截的に捉まえた事象と結びつけ短絡的にその是非を検討しないで発言したのだろう。
2013年05月19日
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それが単純にうれしい。もう一つ単純なことだが私の選んだ車の色はブラックである。 ブラックマイカという色は私が物心付いた頃の車は黒塗りの車と言って特別な人が乗る高級車の代名詞だった。ブラックフォーマルと言う言葉があるように非日常の時用いる服を見ればああそうかと頷けられるだろう。この色の自動車は道を走っていると結構見るようになった。これまたある意味で時代を解し、時代に同化できていると言うことになろう。 ただ家計は火の車になってしまった。 しばらく節約をせねばなるまい。
2013年05月18日
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そのときにこれまでの結果が確認できる。楽しみだ。 カタログデータではリッターあたり30kmを大分超えて表示されている。ネットではその半分程度だと書き込みをされているのを見た。今の感じではもっとよい数字が望めるだろう。 楽しみは他にもある。どこの駐車場に止めてもお友達に会えることだ。先輩のハイブリッド車とともにどこでも逢える。人によりその状況は好ましくないと感じるだろうが私はそうではない。それは特別な存在でないと言うことが心によいのかも知れない。世間ではもはやありふれた存在のハイブリッド車、それが我が家にやっとやって来た。
2013年05月17日
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ガソリンのメーターゲージは納車時、ちょうど満タンの半分を表示していた。ゲージは4つが点りこの2週間でその一つが消えた状態である。もうそろそろもう一つが消えそうだと思うがその兆候は見られない。ガソリンタンクの容量は同排気量の従来車よりも10%ほど小さい。エコ運転に徹しているからだろう。 いずれにしても低燃費を売り物にしているこのハイブリッド車、頼もしい存在であることは確からしい。あと2つゲージが減り1つになったらガソリンを入れる時だと操作説明書に書かれていた。
2013年05月16日
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それに体が慣れるまで今までかかった。初めて車を買った際には数日もかからずものにできた。 それが倍以上かかった。 年月の長さを思うと感慨深いものもある。 そして、長い年月で車が変わっているのがわかった。 それに変わったところが未だある。たばこに火をつけるライターがない。 当然だが吸い殻を入れる引き出しもない。私はハナからタバコを嗜まないのでその引き出しを高速代のコインいれ代わりにしていた。ダッシュボードに引き出しと呼べるものは一切ない。DIYの店のカー用品コーナーでコインケースを調達しなければならない。
2013年05月15日
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この2週間が習熟運転の期間だったともいえるだろう。 体がしっくりくる位置にシート位置を調節し、ハンドルの高さの調整、そのテレスコピッツ機能によりハンドルの位置も定まった。やっと自分の体の延長になったと言えるだろう。これで車も我が家の一員となった。 そうそう旧車はニュートラルの位置からエンジンがかかったが新車はそうはいかずパーキングの位置をしっかりキープしてブレーキをしっかり践んでいないとReadyのアイコンが点らず発車できない。きちっとした手順を踏まないと車が発車できない。
2013年05月14日
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。車の向きが進行したい方向と違っていたので私の契約している駐車スペースへバックで入れた後、当日の目的地へ向かった。デジタルメーターは発車時10kmを表示していた。 車の習熟運転をせず、納車当日いきなり初運転だったので超が付くほど慎重に運転した。 納車即事故ではあまりにかっこわるいからだ。とはいえ免許取得以来当初を除き軽い事故をも何十年もしていない。その実績と常なる安全運転励行の意識の継続でその日は無事に帰宅した。 もちろんそれから本日に至るまで無事故である。あと何台、新車に乗り換えることができるだろうか?
2013年05月13日
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もっとも縁石に半分のりあげてセールス氏が駐車してため横にも車はいなかった。もちろん車の後ろも遙かに別の車も存在してなかった。ここは落ち着きが肝心とハラをくくり、感情が収まるのを待って今度はしっかりパーキングの位置にレバーを戻したのを確認した後再びキーをターンした。 今度はブレーキをしっかり践んでいたからReady のアイコンが点った。ブレーキを静かに解き放すとふんわりと前進し始めた。あうアクセルに足を直ちに移し軽く踏み込むとデジタルメーターの数字が大きくなっていた。
2013年05月12日
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それが事実だったかどうか確かめようもないしその気ないので縁起を担ぐわけではないが友引と言うことで了承することにした。キーを差し込みターンしたらPの字が入ったメーターディスプレー上のアイコンが点った。操作説明書を読んでいないので、定番通りブレーキを践んでニュートラルの位置からパーキングの位置にシフトレバーを戻しブレーキをしっかり踏み込みキーをターンしたらいきなりバックした。そうパーキングの位置からバックの位置へずれていたのだ。 その瞬間に体が反応し強くブレーキを踏み込んだため事なきを得た。
2013年05月11日
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エンジンキーを差し込んでブレーキをしっかり踏み込んでいないとそれがかからない。この表現は相応しくないかもしれない。エンジンを回すわけではないから点火するためにキーを回してと言うわけではないからだ。納車されてすぐ運転したものだからその操作を受けずに運転しようとしたのだ。セールス氏もその説明をせずに私の旧車で帰ったのだ。実は納車希望日がその前日だったのだが何分そのセールス氏が販売店でその日は店番に当たっていると言うことで私の自宅への納車は不可と言ったのだった。
2013年05月10日
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先月の末長年愛した車の代わりに新車が我が家にやってきた。時代への対応を考えハイブリッド車にした。と言ってもそんなに高級車ではない。完全な電気自動車が手に入る価格になってきた時期にそれを狙うこともできたが充電スタンドのことを考え、それを手に入れる機会は次回に回すことにした。これまでミニバンに乗っていたので低さを売り物にした今回の車は着座位置が極端に低く感じる。言葉通りコンパクトカーなので取り回しは楽だが2週間たった現在ようやくその操作に慣れた感がある。発車する際は電気モーターが作用するから拍子抜けするほど静かだ。 非公開日記
2013年05月09日
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不景気が長く世を支配していたこともあって猛烈な勢いでアナログテレビに置き換わって行ったらしい。だからどれほどデジタル放送用の増設チューナーが取り付けられたか報じられたかわからない。 画面が横長になり、画面の画素密度が高まったことにより、また走査線がなくなったことも相俟って画面が鮮明になった。 アナログテレビでは走査線の存在により、画面の対角線の長さの5倍の距離が視聴するのに必要だとされた。 実際、30cmの距離で見るとまさに画面が作られてゆく過程が理解できたモノだ。その本数は525本とされていたが実際にはその半分だったと言われていた。
2013年05月08日
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2011年のテレビのデジタル化は国民に多大なる負担をさせるモノであったと言うことは周知の事実である。 電波の切り替えによるチューナーの増設には本当に困る人や難視聴地域の人々には多少の補助があったようだがその詳細を私はよく知らない。 予定されたハイビジョンの画素を面積比半分にし、普及の度を高めるようにした。 策戦はまんまと当たり、その価格もどんどん低下していった。 半分の画素でもそれ以前(30万画素)の3倍強の105万画素であるから購買能力のある人々はそれを購入した。
2013年05月07日
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非為政者がそれに気づいたときにはすでにその制度が幾重にも厳重に確立されている。そして、少しの抵抗がお目こぼし、ガス抜きと言うことで許されると言うことがあるくらいになるのである。それが卑小ジャーナリズムとして成立し一部の輩の金儲けの対象ともなる。 それを喜ぶ者もいるのも皮相だが事実としてある。それは時として過激に為政者を批判しているように見えることがある。 しかしそれはいわゆる”許された”範囲内に留まるモノで、たいした影響力を持つに至らない。 そこまで莫迦ではないのである。
2013年05月06日
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それが大多数の利益にかなうモノになれば言うことはないのだ。 しかし歴史的事実とされるものを観察するにつれ、特定の大多数を自認する側の都合の良いように制度は変成されていくのだ。それは大多数の無関心、無意識によるものが多い。 その変成に気づいている人々もいるにはいるはずだ。で、あってもその人達はそのの頭角していく過程で特定の大多数を自認する側に巧みに取り込まれていることがあるはずだからわかっていても立場を守るためにそれができなくなってる可能性があるだろう。 非為政者がそれに気づいたときにはすでにその制度が幾重にも厳重に確立されている。
2013年05月05日
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だから時代と言うそこから逃れられない制約の中で生きるしかなかった。そしてそれまでの思考の産物の中から選択するしかなかったのである。ある者はそれを極めたことに満足して終わる者がいる。他方ではそれに満足できずその思考の枠から逸脱し、少し異なる思考をするようになる者もいる。 あるいはホンの偶然により、あるいは外部的刺激により全くそれまでの思考の仕方と異なる思考法をとる者も出現する場合がある。それがその時代の思考とかけ離れたモノである時、為政者や既得権を保持するものにより異端とされ、排撃されることになる。
2013年05月04日
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電子仮想空間でコミュニケーションが可能になるつい最近までスタンダードの”常識”が得られる、又は押しつけられるのは公教育と呼ばれる場であった。その人が属する時代の価値観によりそれが規定され、いわゆる公共の福祉という曖昧な概念に究極されるモノに縛られるのも確かである。 そんな中で本当に正しいこと、すなわち”善”、あるいは”真”と言った概念、その全く正しいとする”真理”に到達するまでには相当の時間を有する。 あるいは到達するのは不可能であるとするのが一般的な者の思考であろう。
2013年05月03日
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ある時代に規範とされたモノの考え方からその距離の長さはあるにしろそれから全く逃れることは不能である。しかしそれが時代を経てくると緩慢ではあるが変化してくるようである。但しそれはいわゆるその外部から影響を受けない限りそうなのである。外部から刺激を受けた場合、変化を受容するか、拒否するかの選択をすることになる。それは自己の意思の強さ、外部意思の強さとのかね合いによりその度合いが異なることは言うまでもない。 聊か思考の度合いが大きくなりすぎた。今時のテーマは個々人の意思決定に至る過程上の問題である。
2013年05月02日
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世の中にもの申したいことがあるとしよう。しかし若年でその経験がない場合、もしくは相当の年齢に達していてもそういう訓練を受けていない、又はそれまでそんなことを考えた経験がない場合はどうするのかと暫時考えた。そして浮かんだのが些少ながらもそれまでにスタンダードであると信じ込まされた”常識”というものに基準をもとめるであろうということである。その”常識”というのはあくまでもその人を囲む環境のたまものと言っても良いものであろう。それは時代によって左右されるモノであることは言うまでもない。
2013年05月01日
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