2006年02月24日
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童門 冬二著  『「風度」の人間学』  2000  (株)徳間書店  p.91

超能力というものを信じるか信じないかは別として、そのような「念」というものになんらかの力があることは確かだと思う。
それが主観的というか主体にかかわるのであれば、その効果は大きくなる。
「病は気から」といわれるように、思い込みは主体の調子を左右する。

ぼくの父はすごく気が小さくて、ふだん結構怒りっぽい割には、体に不調があるとちょっとしたことでも一気に気弱になる。
そこですぐに医者に行くのであるが、医者に行きなぜ不調なのか原因がわかると一気に元気なる。
実はぼくもそういうことが良くある。
ぼくの場合、原因がわからなくとも、医者に行ったということだけで気休めになるのだ。

これと同じというのもなんだけど、ウソというものも、本人が信じ込めば、すくなくとも本人にとっては真実となる。

だから、よくできたガセには説得力があるものだ。
時々、本当の真実の方がうそっぽく聞こえることだってある。

情報社会の今日、ガセによる情報操作は日常茶飯事となりつつある。
特にネットによる情報は正直なところ信憑性に欠けているものが多い。
よく言えばそれだけ思考の幅が広がっていると取ることも可能ではあるが、自分の拠所を見つけることができない人にとっては危険な思想となる可能性が大きい。
それだけ個人に対しての責任が問われるのである。

ただ、この場合はちょいと様相が異なってくる。
自分からウソとわかって吹聴し、それを自分でも信じ込んでしまうのだ。
はじめからウソだとばれてしまうのは困るが、ウソかどうかの判断が他人にとって不可能な場合には自分で信じ込んでしまうことはウソの信憑性を増すには非常に有効な手段ではある。
ウソをついた人の「念」が周りの人々を誘惑する。
そうなると冷静な判断すらおぼつかなくなってしまうのではなかろうか。


そう、だから自分が行動するきっかけ作りの手段として思い込みが意図的に使われるのであればさほど問題ではないと思う。
いやそれどころか、この本で紹介されているように、思い込んだ方が相手に対しても説得力がでてきて、しかもそのおかげで万事が好転していくなんてこともよくあることだ。
「ウソも方便」とはまさにこの手のウソだろう。
ただ、やはりそうは言っても高次の目的達成という名目以外でウソをつくのは問題となるだろう。
また、高次の目的達成という大義名分があったとしても、自分のついたウソに対して最後まで責任を取る姿勢は忘れないで欲しい。






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最終更新日  2006年02月26日 22時21分31秒
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