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早稲田運命学研究会は、櫻井秀勲会長の下、運命学を学び、人生を切り拓く一助にしたいと思い、行動する人たちの会として、このたび発足いたしました。この2月25日は魚座の新月でしたが、一粒万倍日で、その日に植えた一粒の籾は、万倍にも実るとされています。この早稲田運命学研究会もそれにあやかろうと、この日を発足の日と致しました。ところで、櫻井先は、『運命は35歳で決まる』などの、運命にまつわるご著書は数多く、すべてロングセラーになっています。なぜ、先生が「運命」に開眼したのかは、今後の勉強会などでお話しいただく機会もあるでしょう。先生は、運命を知ることは、自分を知ることだとおっしゃっています。それを知りさえすれば、自分が望む人生を手に入れやすくなるともいわれます。その自分を知る方法......運命の見方を皆さんと一緒に学んでいけたら幸いです。http://w-unmei.com(早稲田運命学会 事務局)
2009/02/26
五味康祐夫妻が驚いたのは、大学を卒業して、わずか3ヵ月の男が、とりあえず薄茶を、礼儀に則って喫したからだった。もし、光文社の社長夫人から、茶室に招かれていなかったら、私は目を白黒させる以外なかったろう。なにしろ、茶の湯など、それまで見たこともなかったからである。私はつくづくと、運命は連環する、と思った。これはいい運だけでなく、悪い運もつづくのではないか?現在、麻生首相が苦境に立っている。最初は漢字が読めない首相だと、ひやかされただけだったが、その後次々と悪い面が出てきたと思ったら、とうとう、中川財務相の酔っぱらい事件まで起こってしまった。これは、明らかに悪運の連環だろう。自民党としても、安倍、福田と2代つづいて首相の座を投げ出したが、3度目も、目前に迫ってきている。これも連環だ。反対に、私のように、講談社から子会社に回されたことで、よい連環がつづくようなこともあるのだ。五味康祐と親しい仲になったのは、たったこの1回の対面だった。この頃の五味は貧乏のどん底にあり、夫人は大阪からもってきた着物を、ほとんど質屋に入れていた時期だった。芥川賞の受賞を、ラジオと新聞が報道したが、まっ先にお祝いにかけつけたのは、この質屋の主人だった。「そんなエライ人とは、まったく思っていなかった」と、主人は正直に話したという。
2009/02/20
私が芥川賞作家、五味康祐と親しくなれたのも、実は運命の不思議がある。私の大学は東京外国語大学だが、専攻はロシア語だった。卒論はプーシキンという詩人論だが、このプーシキンは、妻の不倫問題で相手の男と決闘し、その傷がもとで死んだのだった。このことから私は剣の戦いに興味を抱き、日本の歴史小説、時代小説を耽読していたため、五味康祐ばかりでなく、同じ芥川賞作家の、松本清張とも親しくなるチャンスをえたのだった。さらにおもしろいことに、私は光文社の社長夫人のお宅で、大学4年時に、抹茶の席に連なったことがあった。このとき、この出版社に入るとは思っていなかったが、ひょんな縁で、若い女性たちのお茶の席で、社長夫人から正式な飲み方を教わったのだった。私は卒業時に、講談社に合格した。と思っていたら、3月末になって、なんと野間社長から呼ばれて、肋膜(ろくまく)であることを告げられ、子会社の光文社に行け、と命じられたのだ。光文社とは、あの社長夫人から、お茶の飲み方を教えられた出版社ではないか! これが運命の不思議と思わずに、いられようか。さらに、初めて五味康祐のお宅に伺ったとき、なんと五味夫人と本人から、抹茶の接待を受けたのだ。五味康祐は31歳、私は22歳である。互いにそんな若さでありながら、初対面では、抹茶をたてられ、それを頂くという場面になったのだ。そして今度は、五味夫妻が、私の頂き方を見て驚く番だった。
2009/02/07
クリスマスの宵だった。東京・神田の道すじには、折からの細かい雪に見舞われて、寒々しい光景だった。まだ戦争の傷跡も癒えない1951年(昭和26年)のことである。その道をやせこけた、ひょろひょろの青年が歩いてきたが、ふと流れ出る音楽に足を止めた。 クリスマスソングとは、まったく無関係のヴィオラの音だった。レコード社という看板が目についた。青年はそのまま、レコード店のガラス戸にもたれかかるように、その音に聴き入っていた。「ヴィオラ・ダ・モーレ」である。しばらくして、そこの店主が、ガラス戸の人影に気づいた。しかし、その人影は動かない。「どうしたんだろう?」と店主が外に出てみると、なんと、1人の青年が涙を流しているではないか。「さあ、寒いから中に入りなさい」この青年こそ、翌年、文芸誌「新潮」に取り上げられ、さらに芥川賞を受賞した「喪神」の作者、五味康祐だった。このとき30歳になったが、「ヴィオラ・ダ・モーレ」の旋律に、涙が止まらなかった。彼はこのとき、魂を空に飛ばして聴き入っていたのだ。貧しくて、クリスマスというのに、妻と一緒に食事もできなかった。しかし、この旋律から彼は、作品の構想をえたのだった。このレコード社の前を通りかかったのも偶然なら、彼の好きな曲が聞こえてきたも偶然だった。しかし「運命の瞬間」とは、そういうものなのだ。もし、五味がこのとき、この道を通らなかったら、芥川賞が生まれただろうか?さらには、私が彼と知り合うこともなかったろう。そしてもう一歩進めるならば、彼から手相や人相の基礎を教わることもなかったろうし、この研究会もなかった。●早稲田運命学研究会http://w-unmei.com
2009/02/01
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