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井上陽水の「紅白歌合戦」出演が内定した、とスポーツ紙が報じている。陽水はこれまで「恥ずかしい」という理由で断ってきたといわれる。たしかにサングラスをかけるタイプには2種類あって、1つは威圧を加える男女に多い。強さを誇張したいからなのだが、近寄りたくないタイプだ。もう1つは、恥ずかしがり屋である。他人から目をじっとみつめられると、目をそらすタイプがいる。好きな人にみつめられたら、思わず目を伏せたり、モジモジするものだ。これによって、自分が好かれているかをテストすることもできる。それはともかく、目を見られるのが恥ずかしくて、サングラスをかける人も、意外に多いものだ。井上陽水もそうなのだろう。彼の癖毛にサングラスをかけはじめたスタイルは、1974年ではないかといわれているが、実はその頃から彼の実力が発揮されている。くわしいことは省くが、彼が運命的に激変し、それが上昇していったきっかけは3つある。まず第一は、大学受験に失敗したことだ。彼の生家は福岡県の歯科医であり、彼は父のあとを継ぐべく、九州歯科大を受験したが、3度不合格となってしまった。だが、この失敗があったからこそ、歌手の井上陽水が生まれたのだ。ここが人生の面白いところで、「失敗は成功の母」ともなるのである。第二は「陽水」という本名の漢字を芸名に使ったときだ。芸能界というのは、大体において本名を嫌い、事務所はすぐ芸名を用意する。陽水の場合もそうだった。もともと井上は「いのうえあきみです」といっていたらしい。本名は「陽水」と書いて「あきみ」と読む。この「あきみ」が井上の魁偉(かいい)な容貌に似つかわしくなかったので、いくつかの芸名が用意されたのだが、あるときプロデューサーから「名前はどういう字を書くのだ?」と聞かれて、「陽水」と書くと、「そんないい名前だったのか!」と驚かれたらしい。ここで吉田拓郎に対する歌手として「拓郎と陽水」の2強時代となったのだ。この名前をつけた両親にいくら感謝しても、足りないくらいだろう。第三のきっかけは、文壇に彼のファンをつくったことだった。たまたま五木寛之が彼の生家の近くの出身だったが、井上の家系は、明治の社会主義者であり、大逆事件で死刑になった幸徳秋水(こうとくしゅうすい)とつながっていると書いたことも、大きなプラスになった。これが事実かどうかはわからないが、安保闘争時代だけに学生にうけたことは間違いない。人間は、一つのきっかけで大きな運をつかむのはむずかしい。小さい運であれば一つでも上昇するが、大きく羽ばたくとなると、陽水のように、三つくらいは必要となる。この三つのきっかけのつくり方は、次回この稿で説明しよう。あなたも大運をつかもうではないか!
2009/11/17
お知らせです! V6が出演するTBSの深夜番組「新知識階級クマグス」に、「口説きのクマグス」として、櫻井先生がゲストで招かれました。放映は11月20日 深夜24:40~ですが、本日6日の放映では、その予告がチラッと出るらしいです。伝説の編集長とは別の顔(?)の櫻井先生を、お楽しみください。収録時のエピソードは、櫻井先生のブログ「櫻井秀勲の目」をご覧ください。http://ameblo.jp/sakuweb/entry-10370812650.html
2009/11/06
本当に思いがけないことで、記憶が甦えることがある。最初は「週刊新潮」が報道したものかと思うが、スポーツ紙もそれを大きく取り上げた。それは酒井法子が「千葉県大網白里町」に住んでいるという記事だった。いま現在、彼女は全マスコミをふり切って、どこに住んでいるかを隠しきっている。これは珍しいケースで、もしかすると新聞、テレビ、週刊誌の「調査能力」は不況のため、格段に落ちてしまったのかもしれない。それは別として、この「千葉県大網白里町」は私にとって懐かしい匂いのする町で、太平洋戦争終結の前夜、4年間にわたって住んだところなのだ。私はその半生を通じて、自分でも「すごいな」と思ってしまうのは、常にタイミングよく、時代の波頭にぶつかってきたことなのだ。今回の「大網白里町」報道は、時代の波頭と何の関係もないが、しかし、仮に私が現在週刊誌の編集長であれば、他社の報道を、はるかに引き離すことができるだろう。この町がどういう雰囲気を漂わせた土地なのか、手に取るごとく知っているからだ。1人の人間にとって、自分だけの話題をもつことは、予想以上に大切だ。それは確実に運命に変化をもたらす。たとえば編集会議で「のりピーの潜伏先は大網白里町ってところらしいぞ」と、デスクが話したとき、「そこなら、私が4年間、疎開で住んでいました」といったらどうだろう?これによって、注目されることは、いくらでもあるものなのだ。私は長年、週刊誌の編集長を務めてきたが、世の中に出て有名になったり、あるいは出世コースに乗った人のほとんどは、その人ならではの実話をもっていたように思う。それこそ、時代の波頭の白いしぶきを浴びた人たちなのだ。日本経済新聞朝刊の連載「私の履歴書」を読んでいると、「へえ、この人があの事件の黒幕だったのか!」「この人があの大事業の提案者だったのか?」と驚くことが多い。朝日新聞に連載されている瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」を読んでいても、実に大勢の人物と多くの事件に出会っている。だからこそ、いま作家の頂点に立っている、と私は信じてる。もし、有名になりたければ、奇縁を結び続けることだ。いや、奇縁かどうかは別として、人でも場所でも事件でもいいから、できるだけ興味をもって、「その場に立つ」ことだ。私はかつて公娼制度の廃止の日、わざわざ吉原の赤線に行っている。1957年3月31日のことだが、当時26歳だった。明日から吉原はなくなる、という前日にその場に駆けつけたということは、「歴史的立場にいた」ことを意味するし、いまになってみれば、そんな人はめったにいない。これは一つの例に過ぎないが、運命というものは、時代の転換点の現場に立つ人には、必ず有利に働くように思う。そんな記憶の小箱を一つでも多く、持っていくことをすすめたい。
2009/11/01
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