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3月29日に死刑囚3名の刑執行が行われた。死刑執行の再開をわたしは支持する。代案は、刑法に 「無期懲役」 でなく 「終身刑」 を導入することだが、死刑ではなく終身刑とするためにどれほどカネがかかるか議論して国会で決めてもらいたい。事務方が検討を重ねて準備した死刑執行の命令書に今回ようやく署名した小川敏夫法相の判断はまっとうで、その点はおおいに評価するのだけれど、同日法務省で行われた記者会見の発言には違和感がある。産経新聞3月30日付31面によれば、小川敏夫法相の発言として「刑罰権は国民にあると思っている。世論調査でも死刑は大半の国民が支持しており、裁判員裁判でも死刑が支持されている」とある。すっと読んでしまいそうになるが、じつは恐ろしいことを言っている。もし 「国民」 に刑罰権があるのなら、わたしが小沢一郎氏に対して刑罰を下す権利も存在するか?天誅!だって、わたしも 「国民」 だから。「国民に刑罰権がある」 状態とは、どんな具合か。徳川時代に、仇討(あだう)ちが法制化されていましたな。そういう状態を指す。近代法制ではもはや仇討ちは認められない。「国民」 が一時的に持っていた 「仇討ち」 という刑罰権を、国家が取り上げたわけだ。国民にはもはや刑罰権はない。国民は刑罰権を国家に対して厳粛に信託したのである。刑罰権は、国家の独占物であり、だからこそ国家はこれを厳粛に扱わなければならない。小川敏夫法相に 「刑罰権は国民にあると思っている」 と言わせた法務官僚は、そういう基礎の基礎がわかっていないようだ。法務官僚は、国家として議論の矢おもてに立ちたくないものだから、「刑罰権は国民にある」と法相に言わせて議論を煙に巻こうとした。この不誠実はゆるせない。
Mar 31, 2012
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手話の動作の録画を手の形と位置で分類して、手話動作じたいを辞典のように検索できるようにすることを考えたひとがいる。SLinto Dictionary みんなで作るたった一つの手話辞典 というサイトをご覧ください。手の指で作る型を19に分類し、手の位置は9つに分類し、それぞれにキーボード上のキーをあてがう。シフトキーを押せば左手、シフトキーを押さなければ右手を表現するというわけ。このシステムを使えば、理屈のうえでは右手の指の型と位置だけで 19 × 9 = 171 に手話動作を分類できるから、動作を “検索” するのには十分使える簡易システムだ。日経夕刊 平成24年3月28日9面のコラム「フォーカス」に、立ち上げ人の大木洵人(おおき・じゅんと)さんの紹介が出ていた。24歳の青年だ。まずは日本語、英語など7言語の手話のウェブ上の録画辞典をつくり、ゆくゆくは126言語まで広げようと考えているという。これがあると、手話を比較言語学することもできそう。おもしろい! 展開が楽しみです。
Mar 29, 2012
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3月8日に引き続いて、3月22日の夜公演を観た。2週間のあいだに、ぐっと進化。舞台の神さまの降臨を感じたね。(3月8日公演の感想 パワーアップした 「ジキル & ハイド」 @ 日生劇場 エマの存在を深めた笹本玲奈さん) 何よりうれしかったのは、ジキルの婚約者エマの父を演じる中嶋しゅうさんの歌が、心を打つ 「語り」 になったこと。俳優・中嶋しゅうさんのことをぼくは尊敬している。平成20年10月の市村正親さん主演の 「キーン」 では、付き人サロモン役としていい味を出していたし、平成21年11月の 「ヘンリー6世」 のグロスター公は悪役ながら凛としてあっぱれだった。その中嶋しゅうさんの3月8日の舞台は、歌の出来が散々で、浮いていた。このかたにミュージカルをさせたのは酷だと思った。それが、3月22日の舞台では、歌の部分も地声で力強く語り、それがたまたまメロディーに乗っていたという具合で、娘エマに歌い掛ける中嶋しゅうさんのことばに、ぼくは涙を流してしまった。歌詞の文末、通常ならメロディーに合わせて 「心配だぁぁぁ」 のように伸ばすところも、「心配だッ」 と、あえて切ることで、歌が語りになった。*そして濱田めぐみさんの娼婦ルーシー・ハリスが、ふっきれた。3月8日の舞台のルーシーは、どことなく “いい子ちゃん” が残っていた。つまり、濱田めぐみの理性が残りすぎていたんだね。3月22日のルーシーは、娼館の女としての図太さが身について、だからこそ、ときに恥らうルーシーにドキッとさせられる。マルシアさんのルーシーに、ぐっと近づいた。石丸幹二さんのジキルも躍動が増した。ジキルそのひとが既にして持っている二面性がにおいだした。ジキルは単なる善人坊っちゃんではなくて、高ぶって我知らず激するし、とんでもないことをやらかしそうな危なっかしさがあるほうがいい。3月22日のジキルは、そういう複雑な人物として立ちあらわれた。吉野圭吾さんのアターソンも、練れてきた。3月8日には、劇前半のアターソンがチャラっとしていて、吉野圭吾さん流の怪演がにおった。3月22日のアターソンは、誠実な友人としてのイメージで統一され、ルーシーに 「早く逃げろ」 と語る切迫も納得の出来だった。*3月22日には、石丸幹二・吉野圭吾・塩田明弘さんによるアフタートークがあった。指揮者の塩田さんは石丸幹二さんのことを 「マルちゃん」 と呼んでいた。石丸 「演技は毎日変わりますよ。吉野君との掛け合いも、そのときの2人の気持ちに従ってやっている感じ。最近感じるんですが、ジキルとハイドだけじゃなくて、プラス・アルファのもう1人が加わって、3人になっちゃってるんです。芝居をやっているうちに、だんだんと出てくる。とくに最後のところ、エマの首を絞めながら瞬時にジキルになったりハイドになったりしているところなど、ジキルという人格とハイドという人格だけじゃなくて、その双方を見ている更に別の人格がいる」塩田 「最期は、ジキルとして死ぬんだよね」石丸 「そうです。ハイドになって死ぬとしたら、悲しすぎる」吉野 「もしもハイドのまま死ぬんだったら、もう1度ピストルを撃ってジキルに戻させますよ」吉野圭吾さんによると、ピストルがたまに不発のときがあるらしい。3月8日にはジキルが結婚披露宴でハイドと化してからの時間がずいぶん長くなっていて、てっきり演出が変わったのだと思っていたが、3月22日には展開がスピーディーで、5年前の舞台どおりだった。たぶん、3月8日にはピストルが不発で、それを取り繕うために想定外の動きが舞台上で行われていたのだろう。吉野 「もしも全発鳴らなかったら、ぜったい口で言いますよ、パーンパーン! って。だって、そうしないとハイドが死なないでしょ」塩田 「あそこは、パーンと銃声が鳴ったところで音楽を始めなきゃいけないから、意外とタイヘンなんだよ。今日はピッタリ合ったけど、たまにズレるとショックだね」石丸さんの歌い間違いも話題に。塩田 「作詞してるよね」石丸 「イメージがその場でことばになって出てくることがあるんですよ」塩田 「歌詞を間違っているように聞こえないからすごい」石丸 「湧き上がる何かがそれを言わせてる。そのとき何かが降りてきてるんです」ミュージカル 「ジキル & ハイド」 は、日生劇場で3月28日まで上演。その後、4月には大阪と名古屋で。
Mar 24, 2012
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3月23日 (金) まで開催の多摩美の卒業修了展に「きょうは楽しい卒展だ!」 とルンルンしながら行ったわけですが、学部・油画の不出来にいきなり落ち込んでしまいました。グラフィックデザイン、工藝・彫刻でだいぶ気分は盛り返した感じ。◆ Kamaruddin Mohd Iqtekhar さん (修士・グラフィックデザイン)新聞用に開発した、読みやすさを維持しつつ紙面を2割がた節約できるサンセリフ書体 “News Reader” のパネル展示。これは、辞書にも使えそう。世の中の景色を変えられるといいですね。◆ 石井絢子さん (学部・グラフィックデザイン)「マクドナルドのクーポン広告」。広告ビラが紙細工の用紙になっていて、「折り紙・切り紙でハンバーガーの紙細工をつくって店にもっていくと、ハンバーガーが半額になるよ」 という仕掛け。くちゅくちゅ丸めただけでミニハンバーガーをつくっちゃうヴァージョンもいいね。◆ 坂之上正久さん (学部・グラフィックデザイン)「新潮文庫の新聞広告」。本をいとおしむ愛を感じる。モノとしての文庫本を接写し、そこに小さな人物イラストを重ねて文庫本をまるで物語の舞台にした。そしてコピーが2行。本が読みたい! という気分をかきたてる、いいデザイン。◆ 本田菜津美(なつみ)さん (修士・彫刻)腕時計の部品を組み立ててカブト虫に。サイズからいっても、彫刻というより工藝の範疇といえるかもしれません。去年2月にコレド日本橋で別作品を見て注目していました。魅惑の目をしたうつくしい女性であることを今回、写真で見て知りました。そのままモデルになれそうな。活躍を期待しています。<他の作家の紹介がつづきます。とりあえずここまででアップします。>
Mar 22, 2012
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平成23年に 『群像』 誌に連載された文藝評論。なんと著者の苅部 直(かるべ・ただし)さんは昭和40年生まれの東大法学部教授、専門は日本政治思想史ときた。多才なひとだ。安部公房の小説 『榎本武揚』 についての評論のなかで、日本政治思想史の造詣を披瀝して≪戊辰戦争が始まって薩長の「官軍」が江戸に迫ったとき、勝海舟は英国公使を巧みに利用して無血入城を薩摩に確約させた≫と書いてある (71頁)。安部公房から話がそれるが、江戸の無血開城に英国公使がからんでいたとは初めて知ることでびっくり。世間では総じて、勝海舟と西郷隆盛の腹藝だけで全てが実現したかのような言われ方だが、考えてみれば勝海舟側に強力な交渉材料と裏保証者がなければ、そう簡単にことは実現しなかったろう。英国公使がどのようにかかわったか、もっと詳しいことをぼくも勉強しなければ。*安部公房が 『旅』 誌・昭和29年2月号に掲載のエッセー 「瀋陽十七年」 で、こんなことを書いているという。鋭い!≪支配民族の特徴はたとえばいま日本にいるアメリカ人であるが、その土地の人間を人間としてよりも、植物や風景のように見るということだ。つまり土地の人間は風物の一部なのである。(中略)これは相手を見失うばかりでなく、同時に自分をも見失っているのだが、その点にはめったに気づこうとしないのだから、やっかいだ。≫あと、昭和53年のインタヴュー 「都市への回路」 で安部さんはこんなことを言っていて、これまた鋭い。斜(はす)に見ることを知っていたから、いつまでも古びないひとなのである。≪祭りというものは、けっこう権力の規制のテクニックとして有効に機能しているものなんだよ。裏側から見れば、祭りが人心の爆発、燃焼の代行をしているわけだ。≫ところでぼくは自称 「安部公房ファン」 で、『壁』 や 『他人の顔』 は再読三読し、『箱男』 や 『密会』 も読んでいるけれど、本書で取り上げられた作品のうち 『笑う月』 『燃えつきた地図』 『榎本武揚』 『第四間氷期』 『けものたちは故郷をめざす』 は読んでいない。いまこそ、読まないとね!
Mar 20, 2012
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「シャンタラム」 とは、主人公のオーストラリア人がボンベイで得た名だ。単なるヴァイオレンス小説ではない。ぼくのしらないボンベイのスラムの喧騒をかくも愛情こめてリアルに描けるものかと驚嘆させる上巻、痛々しさの極まる中巻、怒濤のアフガニスタン戦と謎解きの下巻まで、伏線をはりめぐらし、印象深いことばの結晶をちりばめてある。登場人物たちと再会したいと、そんな思いを残す読了感。映画 「ドラゴンタトゥーの女」 を観たときも、『シャンタラム』 の世界のヴェールが心にただよった。≪光とは神が宇宙に、私たちに、語りかける手段なのかもしれない。≫ボンベイのマフィアの頭目、アブデル・カーデル・ハーンが言う (下巻145頁)。≪愛とは自分以外の真実を情熱的に探すことだからだ。…あらゆる愛の行為――心が真実を捜し求める瞬間――は宇宙的な善の一部であり、神、あるいは私たちが神と呼ぶものの一部だ。≫(下巻164頁)≪運って、運命が待ちくたびれたときにめぐってくるものよ。≫珠玉のことばがあふれる魅惑の女性、カーラ・サーラネンのつぶやき (下巻514頁)。
Mar 18, 2012
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組織とは、バラバラの現実を偽善という糊でくっつけ合わせたものかもしれないが。とにかく会社にいてこの歳になると 「偽善」 というものにあきあきしていて、偽善の臭いを嗅ぐと心がさわぐ。金属ナトリウムに水をかけたようになる。横浜市営地下鉄が、全国で唯一、「全席優先席」 という看板をかかげているらしい。平成15年12月以来。ところが老人や妊婦さんから「席を譲ってもらえないじゃないの」という苦情があり、今年平成24年夏に 「最優先席」 (仮称) を設けるそうだ。そのための導入準備費用が約400万円だとさ。横浜市交通局が平成24年度予算案に計上した。日本経済新聞の3月6日夕刊14面に報道記事が出ていた。8年前に 「全席優先席」 なるものを発想した横浜市交通局の人物はおそらく 「べき論」 好きのとんでもない坊ちゃまだ。メリハリというものを知らない、現実から遊離した、宇宙人みたいなひとだろう。全席優先席というスローガンは、つまるところ「からだの弱いひとには席を譲りましょう」とモラルを説くポスターを駅構内に貼りまくるのと同じだ。車掌にうるさい車内マナーアナウンスをさせているのかもしれないが。優先席というのは、携帯電話の電源を切るエリアであり、ふつうに元気な乗客に坐るとき一抹のためらいを与えるエリア。そういうメリハリが必要なのが世の中の現実だ。で、けっきょく横浜市交通局も優先席を設けることにしたわけだが、振り上げたこぶしの下ろしどころとして 「優先席」 では具合がわるいのか、「最優先席」 という名前にするんだとさ。ほかの席も依然として 「優先席」 なのです、ということらしい。まつわりついてくるようなネチっこい偽善を感じる。偽善が組織をふりまわす。おそらく 「全席優先席」 というスローガンが非現実的なきれいごとであることは組織のなかでもささやかれつつ、これを言い出したエライひとが消えてくれるまで看板を下ろせなかったんだろうね。そういうイヤらしい構図が見え見えなんだな。
Mar 16, 2012
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スティーヴンソンの原作をあらためて読むと、ジキル博士は生来が善人のかたまりではなく、表向きは謹厳な学究者として生きつつ実は 「歓楽を好む性癖が人一倍つよかった」。もともと自分のそんな二面性に悩んでいたから、人間性の悪のみを抽出して取り除くという研究を発想したわけだ。ジキル博士がただの善人だったら、あの悪魔的な研究は始まらなかった。ミュージカルは短時間のうちにストーリーを収めなければならないから、舞台のジキル博士はもっぱら痴呆の父を救うために精神を分離する研究を始めるという設定だ。*ジキル & ハイド役は、平成13年の初演以来 鹿賀丈史さんの当たり役だった。鹿賀さんは、そこにいるだけで二面性がにおうから、じつはスティーヴンソンの原作の設定にぴたりとはまる人だった。この役を引き継いだ石丸幹二さんが受けたプレッシャーは想像を超えたものだったと思う。石丸さんは自分の内面を見つめつくし、鹿賀さんが紡いだジキル & ハイド像とはまったく別の、石丸さんならではのジキル & ハイドを演じた。二面性がかすかに臭うジキル博士から飛び出した鹿賀さんのハイドは、獣性のかたまりとして咆哮し徘徊した。ときに激情するが外見つるりとした善人のジキル博士から飛び出した石丸さんのハイドは、端正さを残すがゆえに存在そのものが哀しい。鹿賀さんのハイドの獣性、石丸さんのハイドの哀しさ。ともに、演劇のみごとな到達点。見つめる観客の心をうちふるえさせる。*笹本玲奈さんが 「ジキル & ハイド」 に出演すると知ったとき、てっきり娼婦ルーシー・ハリス役を演じるものと思った。5年前に日生劇場で見たマルシアさんのルーシーは、いまでも目を閉じるとくっきりとよみがえる。ルーシーが歌う A New Life は、かけがいのない つかのまの よろこびであるがゆえに、せつなく、ぼくの大好きなナンバーだ。笹本さんがそれを歌うのだと。ところが、演じるのはジキル博士のフィアンセであるエマ・カルー嬢だ。じつは、かなりがっかりしたのである。ただの箱入り娘、おぼこ娘の役じゃないか。3月8日の舞台を見て、エマ・カルー像が根本から変わった。エマが、かくもだいじな役だったとは。笹本さんのエマのかげりなき微笑には、世間のあらゆる冷笑・嘲笑・偏見をものともせず一途にジキル博士を愛しぬく凛とした強さがある。地道で深い役作りがあってはじめて生まれる、たおやなか美しさと折れることのない強さの共存。*<ここからネタばれあり>5年のときを経ての五演となった日生劇場の舞台は、舞台美術がいっそう精緻になり、モダンな切れ味のある照明がアクセントをつけた。舞台奥からせりだして現れるジキル博士の研究室は、秘密基地のような凄み。娼館は たとえて言えば、百年のうごめきの垢がしみついた洞窟のおもむきだ。劇の展開としては、最後の結婚披露パーティーのシーンが大幅に変わっていた。5年前の演出では、獣性を抑えきったはずのジキル博士からハイドが飛び出してから、友人アターソンがこれを撃つまでが、スピーディーな展開だった。ところが今回はここにじっくりと時間をかけていた。舞台のテンポを変えたことによって、亡くなったジキルを抱き上げていとおしむ妻エマ・カルーのけだかさの表現にも十分な時間が与えられた。3月22日の夜に、さらに進化した 「ジキル & ハイド」 を観る予定。ミュージカル 「ジキル & ハイド」 は、日生劇場で3月28日まで上演。その後、4月には大阪と名古屋で。
Mar 9, 2012
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武蔵美の視覚伝達デザイン学科は、多摩美でいえばうちの娘が通う情報デザイン学科のようなところだ。陣内利博(じんのうち・としひろ)教授のゼミは、ひとりひとりの発想が生き生きしていて、うちの娘もこのゼミで学んでいたら人生さらに変わったかも……とさえ思った。その卒業制作展を見た。アートのセンスを社会につなげる、開かれた思考がすがすがしい。◆ 大森 誠さん 「CHA!」:樹脂棒やワイヤでつくった規則的な手作り立体。驚いたことに、ひとつひとつの作品の所定の部位を動かすと、知恵の輪か手品道具のようにきれいに変態する。そのまま商品化できそうなおもしろさ。ひとつひとつの変わり身のパターンは大森さんの発見ではなく、ものの本に書いてあるものらしいが、そういう 「動く立体」 の “変態” パターンを分類科学したところが大森さんの新機軸。もともと武蔵美には彫刻学科に入ってから学科を移ったのだという。手作り立体を器用につくるこまめさは、彫刻出身の面目躍如だ。くりくりと動くパターンのコンピューター画像など、ちょいと工夫すれば魅力的な PC 壁紙として商品化できそうだ。◆ 安川紗也加 「浮世Ation」:「海老蔵」 など、寫樂の大首絵5枚をそれぞれ十数秒のアニメにした。寫樂が描いたポーズは歌舞伎の型の最終形、決まり手だが、そこに至る一連の所作がある。歌舞伎役者なら誰もが からだで覚えている型だ。それをアニメにした。寫樂の絵が原点だが、さらに歌舞伎のビデオを何度も見て研究したり、じっさいに歌舞伎役者さんに会って所作をやってもらったりと、取材を重ねて映像作品に仕上げた。わたしも自分の娘には「部屋にこもっていないで取材をして刺激を受けないといいものは作れない」と言って、そのたびに娘にムッとされているのだが (だから最近はもう言わないが) 、そういう基本を安川紗也加さんは しっかり だいじにしている。惜しむらくは、アニメそのものの動きは ややぎこちなく感じられる。しかし、この発想を生かして何人かで協同して 「大首絵ビデオクリップ」 をつくり、たとえば浮世絵展のロビーないし途中の休憩場所のPCで流せば、おもしろいことになる。観覧者の脳は確実に刺激を受け、大首絵の実物を前にしたとき、寫樂が切り取った瞬間に動を感じようとするだろう。受容者の脳の回路を組み替える。これこそが、アートの本質だとぼくは思っている。◆ 山村里美 「はたらくおじさん ―ガス管工事―」:引き込むちからがあるアニメ。道路のアスファルト剥がしに始まるガス管取替え工事を、丹念に取材して動画にした。絵は素朴で、動きのパターンも単純で、いわゆるアート作品っぽくはないが、工事の 「所作の型」 を追究したという点では安川紗也加さんの 「浮世Ation」 に共通するところがある。ガス会社のひとがご覧になったとき「あ、これは研修用につかえる」と言葉が出たそうだ。◆ 谷田 望さん 「おもひで師 ~3.11写真救済の軌跡~」:写真への愛の究極を写真で撮り、取材記録を自費出版のフリーペーパーにした。津波で流されて泥によごれた写真を洗って、もとの持ち主へ返す活動を取材した。洗浄枚数100万枚、返還枚数40万枚という数字に、静かな感動を覚え、感動にふるえた。谷田さんの写真ひとつひとつが、いい。現場に踏み込み にこやかに密着しようとするたましいと、それを支える技がある。「武蔵野美術大学 視覚伝達デザイン学科 2011年度 陣内ゼミ卒業制作展 <複眼思考2012>」 は、3月10日まで 「アートスペース kimura ASK?」 (京橋三丁目6-5) で開催。3月9日午後4時からは各学生による作品説明会がある。
Mar 8, 2012
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平成22年12月以来1年と3ヶ月、地元・足立区の劇団 「ドラマランド七味とんがらし」 に所属して指導を受けてきたのですが、わたしの演劇愛の哲学が主宰と相容れず、3月6日に脱退しました。主宰の山下光治・山下芳子ご夫妻には、ことばに張りをもたせるにはどうすればいいのか、演劇ならではのからだの動かし方など、多くのことを教わりました。ほとんど無料奉仕で、芝居のパワーの湧きどころを教えていただいたこと、心から感謝しております。気さくな劇団員たちは50~60代の女性が主で、それぞれに一藝に秀でた、しっかりとした持ち味のある人たちでした。よきカンパニーだったと思います。平成23年には足立区の公共施設で5月3日 演劇 「隣人たち」 (ナチスの大佐役で出演)10月9日 ポエムとマイムのパフォーマンス11月29日 ぴりからナイト (詩や歌のパフォーマンス)と、3つのイベントに出させてもらいました。まことに商社マンらしからぬ贅沢をさせてもらったわけです。昨年末からは、4月21日の上演にむけて演劇 「あけぼの荘の人びと」 の練習を毎週火曜日夜に続けていたわけですが、わたしと主宰との決定的な対立は未就学児の入場を制限するかどうかという点だったのですね。<泉 幸男の主張>・ 子供向けの演劇ならいざ知らず今回の劇は、意表をついた虚構満載で動きも少なく、大人向けであることが明らか。時間も約1時間と長く、子供の我慢の限界を超える。幼稚園児以下は入場をご遠慮いただく、要すれば未就学児入場禁止とすべきである。・ 3月4日の足立区竹ノ塚での狂言公演 (これも山下光治・芳子主宰らがプロデュースした) では、乳幼児の入場制限をしなかったばかりに、乳児1名、幼児2名が上演中に何度も騒ぎ、しかも非常識な親はホールをなかなか出ようとせず乳幼児が騒ぐに任せて、他の観客に大いに迷惑をかけた。・ 同じことが4月21日にも起こると予想される。狂言のように伝統的様式に則った演劇は、様式に支えられているがゆえに乳幼児の大騒ぎにも辛うじて堪えられるが、4月21日の出し物は現代喜劇であり、乳幼児に騒がれると観客としては辛い。一気に想像の世界が冷めて白けてしまう。・ 最上の演劇空間を観客に提供しようとするのが演劇人の基本中の基本であるべきだ。マナーを知らないごく少数の人びとによって大多数の人びとが迷惑を蒙るようなことがあってはならない。・ 劇場は、演劇を見るマナーを教育する場でもあらねばならぬ。演劇は役者と観客から成り立つのであり、観客のレベルの向上もまた演劇の向上には欠かせぬものである。・ 乳幼児を連れた親のわがままを許して劇場へ入場させるのは、絶対に受け入れがたい偽善である。<山下光治・山下芳子さんの主張>・ 乳幼児の入場制限など、もってのほかである。乳幼児こそ、小中学生や大人にはない感受性をもっており、演劇に反応し共鳴する。我々は乳幼児にこそ演劇を見てほしいと考えている。泉さんの主張は根本的に間違っている。・ 乳幼児が騒ぐのは、芝居が下手だからだ。所詮、我々の劇は村芝居である。それが嫌なら他の劇団に行けばいい。・ 乳幼児が騒いでも、周りの人たちが何とかとりなすものである。観客にはいろいろな人たちがいるのであり、乳幼児が騒いでも気にしない人たちもいる。・ 狂言公演の後、何人もに意見を求めたが、乳幼児の入場制限を求める意見はなかった。(注: 泉のアンケート記述を除いては、ということだろうが。)わたしは年に50本以上も芝居を見るから、やはり演劇は観る側の立場で考える。客席の迷惑行為が許せないし、よい客席環境を確保するのが興行者側の責任だと強く信じている。いっぽう、山下主宰らはやはり舞台の上の人なのである。他の人たちの演劇を観客として観ることは少なく、もっぱら演ずる側の人。客席が多少ざわついても、それに負けるようじゃ演劇人の名折れよと、まぁ、そういう意気だろう。この差は大きい。わたしも50代、山下夫妻はさらに年上であり、ともに人生哲学の基本を確立した者どうしだ。その根幹にかかわるところで説得しようとしても無理だ。しかも、山下夫妻が間違っているわけではない。山下夫妻のような考え方もあってよいのだ。当然ながら、わたしのような考え方があってもよい。世の中に抽象画も具象画も、ともにあってよいのと同じこと。*3月6日夜に乳幼児入場制限を主宰に提案するとき、提案が受け入れられないなら劇団を脱退しようと覚悟を決めていた。「足立区の施設を使わせてもらうから入場制限は無理だ」みたいな反論だったら「そこをもう一押ししてみませんか」ということにもなろう。しかし、乳幼児を入場させること自体に意義を見出していると言われては、哲学の対立は決定的だ。「いま練習中の劇を降りたら、さすがにご迷惑がかかるでしょうから、劇の公演が終わったら直ちに止めさせていただきます」と言ったら「いや、許すよ、止めていいよ」と主宰の答えがあったので、これさいわいと「長い間、お世話になりました。皆さん、どうもありがとうございました」と深く頭を下げて、即座にその場を去った。その日の練習はあと1時間のこっていたが。劇団 「ドラマランド七味とんがらし」 に二度と近づくことはないだろう。いまは、うじうじ迷うことなく即座に決断を下せた自分がすがすがしく思える。*わたしの主張の原点は、平成20年4月12日に新国立劇場でミュージカル「SEMPO」を見たときの体験にある。平成20年4月13日のブログ<必見>「SEMPO 日本のシンドラー杉原千畝物語」 のコメント欄に追記してあるが、こんな状況であった:≪幼児入場を許した興行主 「ライズ・プロデュース」の不手際 公演じたいはよかったのですが、4月12日夜の部では前から8列目右手に2歳にみたぬ幼児をかかえた女性がいて、とんだ目に遭いました。公演中、幼児がことばにならぬ声や泣き声を発して、その席から数十メートル離れていたわたしの席にも聞こえました。千名をこえる劇場ホールに響き渡った。最初は 「あれ、まさか?」 と思い、2度目は 「ひょっとして舞台でつかう赤ん坊が楽屋で騒いでるのかね?」と思い、3度目で主催者への怒りに変わりました。とにかく幼児を外に出してもらわないと……と思い、まず問題の女性の席の番号を確認。(この女性は確信犯でしょうから、直接交渉は別のトラブルになる。)劇場の係に苦情を言うとたらい回しにされ、4人目でプロダクションの 「社長」が登場。社長は、幼児トラブル発生を全く知らず、わたしは「学齢に達しない子供を大人の劇の上演会場に入場を許したのは興行主として非常識。ここに1万円札を上げるから、女性に渡して帰ってもらってほしい」と言って、1万円札を出しました。(もちろん、1万円札は丁重に返された。)横で別の観劇者が「わたしも同感です。いつ泣き出されるかと思うと、クライマックスでも集中できなかった……」係の女性が来て「何人ものかたが8列45番の席の方のことで苦情をおっしゃっています」社長殿が男性社員を連れてホールに入っていったので、それを追うことはせず、さぁてお手並み拝見、と思いましたが……。けっきょく、きれいごとが勝ったらしく、第2幕でも幼児は2度騒ぎました。入場料を返し 「(あとで公演のDVDも送るから) とにかく帰宅してほしい」と断固たる処置をとるのが興行主たるもののマナーだったと思います。なお、新国立劇場は会場を貸しただけで興行そのものへの責任はありません。念のため。(Apr 15, 2008 08:05:47 AM)≫
Mar 7, 2012
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「警鐘」 と 「現実」平成元年~23年のIPCCの予測値に対する、地球表面温度上昇の実際値IPCC (Intergovernmental Panel on Climate Change 気候変動に関する政府間パネル) は、地球温暖化が急速に進むであろうと予測値を発表してきた。しかし現実の温度上昇はそれを大幅に下回るものだったではないかと、各界の科学者16名が連名で問題提起した 『ウォールストリート・ジャーナル』 紙、平成24年2月21日号掲載のグラフ。
Mar 4, 2012
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中国のネット検索規制は、どういう単語にいつからいつまでどんなかたちで網掛けしているのか、淡々とリストアップした労作があれば1冊1万円でも買いたい。ネット検索規制は、ゆるめてみせることもあるらしい。最近では、 6・4事件の際に失脚させられた “趙紫陽” と当時の改革派制作のドキュメンタリーの題名 “河殤” のネット検索が部分解禁となったと、香港のニュース雑誌 『亜洲週刊』 3月4日号9頁の記事が伝えている。日本のネット環境にいるぼくは検証できないが 『亜洲週刊』 によれば、“趙紫陽” で検索すると簡潔な人物紹介や病死を伝える限られた無難なサイトはヒットするが、都合の悪いサイトはシャットアウトされているという。だからあくまで 「部分解禁」。部分解禁前はどうだったか。“趙紫陽” で検索すると、結果が出てこないだけでなく、とつぜんネット接続が数分のあいだ切れたものだと。(これも 『亜洲週刊』 の受け売り。ぼくは体験したことがないので。)こういう “高度敏感的詞語 (高度にセンシティブな用語 = やばい語) ” が “敏感” (=ぴりぴり) の域を離脱するのを中国語で “脱敏” というそうで。“有人分析,趙紫陽正処於部分 「脱敏」 (脱離敏感) 状態。”【泉による和訳】 「趙紫陽」 はいま部分的にネット規制解除状態になった、という見方もある。いずれにせよ、ネット規制が続くかぎり中国に駐在したいとはまったく思わないんだなぁ。ロシアはどうなんだろ。モスクワに駐在したいと、会社には希望を出しているのですが。
Mar 4, 2012
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