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アボジの初七日の日。引越し・・・。そう、私たち夫婦とワンコ2匹は、11月7日から同居を始めたのであります。同居のメンバーは、と言えば。上の義姉とその子供2人(中2、小5)。下の義姉。義兄。そして・・・なぜかオンマ・・・。それに私たち2人とワンコ2匹が加わって、さぞかしゴチャゴチャした暮らしをしているんだろうと思いきや、これが以外に広々としているんです。理由その1:物を捨てたりせず、そのくせ、飾るものも無いくせにヘンテコリンな飾り棚を買ったりして、いろんなものを置きたがるのが韓国人ですが、うちのシテグにはそれが無い。確かに食べ物のストックは多い。が、飾り系、インテリア系の物が無い。唯一飾ってあるのが、下の義姉が可愛がっている熱帯魚ぐらいのものだ。テレビ台や本棚などは、もともとこのアパートを借りたときから付いていたものだけど、変にゴチャゴチャしたアールデコ風とか猫足とか、そんなんじゃないので、助かっている。理由その2:家族が8人と2匹でも、広々と暮らせる理由として、やはり大きいのが、家のサイズだろう。このアパートは65坪もありやがる・・。平均的な日本の一軒屋よりも広いぐらいだ。部屋は4部屋。(本当はリビングの一部を部屋に改造して、5部屋作ることができる。)そのうちの何と2部屋をうちらが使っている。私たち以外の家族は、リビングと主寝室、それに続く小さめの部屋を使って主に生活し、私たちふたりは、あてがわれた2部屋のうち、大きい方をリビング代わりにして、そこでテレビを見たりネットをしたりして、寝るときだけ、もうひとつの小さい部屋に行っている。昼間はみんな外に出るので、私は一人。食事は、オンマがしてくれるので、私は何もしない。掃除も、ほとんど義姉らがしてくれるので、私は自分たちの部屋とその前の廊下のみ掃除機をかければいい(あと、ワンコの毛が玄関に落ちるので、玄関も時々・・)。あら、結構楽じゃない?そう、確かに思ってたよりは同居は楽だ。でも、やっぱり、自分の家という感じではない。下宿という言葉がぴったり来るような気がする・・。それに、日本の場合、いくら同居していても、若夫婦の部屋にズカズカと他の家族が入ってくることは無いだろう。ここにはそれがある。ウチラの部屋で、義姉がテレビを見ていたりする。ウチラの部屋にオンマが来て、『あ~、手が痛い。ミョヌリ(嫁)ヤ~、ちょっと揉んでおくれ』と言ったりする。ウチラの寝室で、義兄が見合い相手と親密な電話をしていたりする。あー、ここはやっぱり韓国なんだなぁ・・。プライバシーって言葉はこの国には無いんだぁ・・。
2005年11月29日
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11月3日最終日とは、文字通り、最終日です。アボジの遺体は、この日荼毘に付され肉体はなくなってしまうのです。朝、9時半。甥っ子、姪っ子を連れて葬儀場に到着。アボジに最後のチョルをしたあと、しばらくしてから葬儀場に向かうバスに乗りました。遺体はバスのお腹の部分に安置されて、私と一緒に葬儀場に向かいました。遺族の中の、男性(うちの場合、義兄と旦那)はバスの最前列に乗り、あとの遺族はその後ろあたりに乗りました。向かった葬儀場は、イルサンから少し行った所にありました。名前は覚えてません。そこで、予約の時間まで1時間ほど待ち、とうとうアボジと最後の別れです。窓が付いた小部屋の中から、火葬用の大きな釜に入れられていくアボジを見て、みんな大泣きでした。私も泣きました。釜のふたが閉じられた後も、しばらくみんなで泣いていました。すると、誰かが私の肩を軽く叩いたので、振り向くと親戚のオジサンでした。オジサンは私の手を取り、近くのソファーまで連れて行き、座って休んでいなさいと言ってくれました。妊婦さんが、そんなに悲しんじゃいけない。泣いてもどうしようもないんだから、もう泣くのはやめなさいと言って、その場に私を残してどこかに行ってしまいました。私もしばらく泣いて、ある意味すっきりとしたので、頭によぎるのは、『おいおい、義理の父が火葬されてるって言うのに、嫁がこんな所で座っててもいいのかよ・・』ってことでした。態度はでかくても、義理の家族とタメ口で話しても、回りから見れば嫁は嫁。やっぱり、みんなのところに行こうと立ち上がると、さっきのオジサンがまたやって来て、あんたはここに座ってなさい、ホラ、コレでも飲んで!ときな粉を溶かしたようなあったかい飲み物を差し出してくれました。さっき、私を残してどこかに行ったのは、これを取ってくるためだったのか・・。今まで、韓国人はベタベタしてて、何にでも干渉してきてウザイと思っていたけど、こういうときに、私みたいな立場の人間にも気を使ってくれる人っていいなーとしみじみ思いました。さて、火葬を始めて1時間ちょっと経ったころ、アボジの遺骨が出てきました。日本のおじいちゃんのお葬式のときは、確か遺族全員で遺骨を箸で拾って、骨壷の中に入れたのを覚えていますが、こちらでは係りの人が全てを任されているようで、私たちは窓越しにその作業を見ているだけでした。その後、アボジの遺骨と共に再び葬儀場まで戻り、そこで解散しました。アボジの遺骨(灰ですが)は、アボジの祖父母のお墓の土の上にまかれました。それを撒いたのは旦那です。結婚していない息子は、その場に行ってはいけないそうなので、義兄は別の場所で待っていたそうです。いろんな仕来りがあるんだなぁ・・。その日はまだ明るいうちにアパートに戻りました。アパートでは、毎週恒例の市場が来ており、甥っ子姪っ子と一緒にトッポッキ、ティギム、スンデを買って帰りました。その後、しばらくしてまた小腹がすいたので、姪っ子に頼んで、ピザの注文をしてもらいました。そうするうちに9時近くになり、義姉たちや旦那が戻ってきました。しばらくみんなで喋った後、義姉たちは甥っ子姪っ子を連れて帰って行き、アパートには旦那と私とワンコ達だけになりました。しばらく旦那と喋ってなかったので、何だか変な気分。次の日は、朝早くお寺に行かなければいけないので、朝5時起きです。その日は久しぶりに旦那と一緒に寝ました。旦那が『アボジが亡くなったなんて、信じられないなー。本当に亡くなったのかなー?』と言ってきたので、こういうときは何にも言わないほうがいいだろうと思い黙っていると、『どう思う?』と意見を求められたので、仕方なく『今は実感がわかないかも知れないけど、亡くなったのは本当だよ。でも、最期に苦しまなくて本当に良かったと思うよ。』答えました。旦那も、『そうだねぇ』としみじみと言って、3分後には盛大なイビキを掻きながら眠りにつきました。これが、私の3日葬体験です。いろんな地方によって、細かい風習もさまざまだろうと思いますが、いざと言うときの為に、簡単な流れを知っておくのもいいかも知れません。
2005年11月26日
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11月2日前日の帰り際に、今日は10時半までに来ればいいと言われたので、アボジのお葬式中なのにも関わらず、朝起きたのは8時半・・。前日預かった姪っ子甥っ子たちは、7時半に起きたらしく、私が起きたときには出かける準備まで全て終えていた・・。それから、ワンコの散歩に行って、シャワーを浴び、できるだけ黒っぽい服に着替えてアパートを出たのは10時。(お腹が出ているため、妊婦用のジーパンしか穿けなかったから、仕方なく下はジーパンで行く。お葬式なのにね。)途中、コンビニでお菓子やジュースなどを買い込む。お葬式のご飯はあまりおいしくないし、小部屋で1日中ボケーっとするのもつまらないので、何かつまめる物でもあったらいいなぁと思い大量に買う。それと、お葬式では、なぜか飲み物がコーラ、ソーダ、水、コーヒーしかなくて、妊婦がこんなのばっかり飲めるか!という感じだったので、レモン系の飲み物も自分用に買う。葬儀場に着いたのは10時25分。ギリギリ。オンマや義姉たちは、例の白い韓服を着ている。『あ、ヨピコ来たの。コレ、着なさい』と私用の白い韓服を渡される。四苦八苦しながら着ていると、姪っ子が手伝ってくれた。何とか着れたのはいいけど、中に着た茶色のTシャツが透けて見えるし、ジーパンもチマの下から出ている。これでいいのか?と思って、義姉たちを見たらみんな似たようなものだった。あとは、小さな白いリボンをつけたピンを髪に留めて、お腹の辺りに白い紐を結んで完成。これが韓国女性の葬式ファッションなんだろうなぁ・・。さて、朝から何も食べてなかったので、早速食事を摂ることにする。いつものメニューだけど仕方が無い。隣のテーブルでは、おじさん達が花札の合間の休憩をとっている。韓国ではお葬式のときに、本当に花札をするんだなぁ・・と驚いた。しかも夜を徹して。あとで、旦那にも、花札したの?と聞いたら、『バカ。父親が死んだのに、花札するやつがどこにいる!』と返された。そうか、遺族はしちゃいけないんだな。オンマは相も変わらず、チョルをする人を見て『アイゴー!』と号泣している。でも、チョルが終わると、『うちの長男にいい女の子はいないかねー』と弔問客に聞いて回っている。自分の旦那の葬式なのに、すごい営業努力だと思った。確かに、お葬式の時は遠い親戚も来るから、見合い話が舞い込む絶好のチャンスだと言えるけど・・・。その営業努力の甲斐あってか、お葬式中に3人の女性とのお見合い話を取り付けたらしい。旦那は葬儀場に泊ったので、タオルや靴下などの替えを持って行ったけど、お葬式中はできるだけ体を洗わない方がいいんだそうだ。モチロン昔の迷信だけど、本人がそうしたいならそうすればいいと思った。私の半径1メートル以内に近づかない限りは・・。小部屋はとても暑くて、私たち(私、義姉2人、甥っ子姪っ子、そしてなぜか旦那)は2度ほど外に涼みに行った。外は寒いぐらいだったけど、サウナのような小部屋に比べたら快適だった。病院の売店でアイスを買って、外で食べて、しばらく休憩してまた小部屋に戻った。弔問客の種類(近い親戚とか、とても親しい友人とか)によっては、私も祭壇のある部屋に出なければいけなかった。弔問客はまず祭壇に向かって3回チョルをする。その間、遺族は立ったままそれを見ている。その後、弔問客は遺族の男連中(うちの場合は、義兄と旦那)にも1回チョルをする。そのとき、男連中は同時にその弔問客に向かってチョルを1回する。遺族の女連中はと言うと、その間、ずっと立ったままそれを見ていればいい。なので、遺族の男連中は弔問客のチョルを全て受けなければならない。おちおち休んでもいられない。とても疲れる仕事だ。2日目は何事もなく終わった。葬儀場を出たのは夜7時半ごろ。一応、出る前に軽くご飯は食べたけど、義姉たちに『夜、これで何か食べなさい』と5万ウォンほどもらったので、アパートに着いてから甥っ子と姪っ子にお腹がすいてないか聞いてみた。すると、少しすいているとのことだったので、私お勧めのBBQチキンを注文することにする。注文の電話は姪っ子にしてもらった。こういうときネイティブがいると助かる。3日目はいよいよアボジを荼毘に伏す日。本当は葬儀場を9時に出発の予定だったのが、予定が変わったらしく、11時出発になったので、明日はちょっと早いけど9時半ぐらいに来なさいと義姉に言われた。9時半って早いですか・・?私にとってはとてもありがたかったけど・・。
2005年11月23日
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11月1日韓国ではお葬式は3日間、ぶっ通しで行われる。その1日目は、とりもなおさず、故人が亡くなった当日である。(亡くなった時間によっては、次の日が1日目になったりするのかな・・?)つまり、日本で言うところの『お通夜』にあたる。アボジはイルサンのミョンジ病院というところで息を引き取った。そこは、地元のキンポからは遠いので、キンポのウリ病院というところに移すことになった。ウリ病院から救急車が来てくれて、アボジの遺体はそれに乗って、キンポに帰ってきた。(ちなみに、救急車の使用料は7万ウォン。)そして、それまで10日間入院していたミョンジ病院を出るときに、義兄が入院費を支払った。特別室だったので、1泊13万ウォン!ウリ病院に到着すると、アボジの遺体はすぐに付属の葬儀場にある遺体安置室に運ばれた。そこで、白い服を着たアボジの胸元に1万ウォン札を何枚か入れた。これは、あの世でのお小遣いということだろうか、それとも三途の川の通行料なんだろうか。そして、その後、妊婦だからという理由で遺体安置室の外に出された私は、中で何が行われていたのかはわからない。20分ぐらいの間外にいて、その後、『チョルをするからヨピコも入って』という義姉に連れられて、横たわっているアボジの前で全員でチョルをした。そんなときはモチロン、私を除いた全員は号泣である。その後、お葬式の事務的な手続きに移る。祭壇に飾る花はいくらのにするか。オンマを始めとする遺族の名前を全部書き出す。お葬式が終わった後、遺体はどうするのか。火葬の場合、どこでするのか。故人の写真はどれを使うか。などなど。そんな諸々の手続きが済むと、あとはしばらく時間が空く。その間も、オンマや義兄は仕出しの注文をしたり、親族に電話をしたりしていたけど・・。そうしているうちに、親戚やドンネのおじさんおばさん連中がどっと押し寄せ、その中の『こういう行事のしきたりに、なぜか異常なほど詳しいおじさん』が私たち遺族を仕切り始めた。私たちは、そのおじさんの言うままに、一人一人祭壇の前でチョルをしたり、盃を線香の上でくるくる回したりしていた。(その際、義兄と旦那は葬儀場で貸してくれる喪服(黒のスーツ)に身を包み、それ以外の遺族は、朝、病院に駆けつけたままの普段着。)私は、妊婦と言うことで、奥の小部屋で休むことを許される。その小部屋には、私と、旦那の甥っ子姪っ子しかいなかったので、堂々とゴロゴロする。時々、親戚のおばちゃんたちが入って来るので、その度に起き上がっていたけど、みんな私が妊婦だということを知っているので、『いいから、いいから、寝ときなさい!』と強く言われ、仕方が無いからまたゴロゴロする・・というのを繰り返していた。その小部屋は小さ過ぎるのが災いしてか、オンドルが異常なまでに効き、私、甥っ子、姪っ子の3人はアボジのお葬式の最中だというのに、何度も夢の世界へ引きずられて行った。そして、オンマが隣の部屋で『アイゴーーー!!!』と泣き叫ぶ声で目が覚めると、『寝ちゃいかん!』と自分に渇を入れてみるんだけど、数分後にはまた夢の中・・・・。でもやはり驚いたのは、旦那が小部屋に入ってきて、いびきをかきながら寝たとき。いくら、その日の睡眠時間が2時間だったとは言え、自分の父親のお葬式の最中によくもそこまで・・と呆れる。でも、故人の息子は、弔問客が来てチョルをしてくれるときには必ずその場にいなければいけない。盛大にいびきをかきながら熟睡していた旦那だけど、弔問客が来るとすぐに飛び起きて、何食わぬ顔をして祭壇の横に座っていた。午後になると、ドンネのおばさんたちが仕出しの料理を出してくれた。メニューは、ユッケジャン、各種ジョン、ミッパンチャンなど・・。ジョンしか食べれなかった・・。お昼になると、ワンコのことが気がかりでしょうがなかった。韓国のお葬式なんて初めてな上に、亡くなったのはアボジである。今日はうちに帰れるのかどうか・・、それすらもわからない。それどころか、3日間、ここで寝泊りなんてことになったら・・。30分でも家に帰れたら、ササッと散歩に連れて行って、ワンコのトイレを掃除することができるのにと考え、抜けるタイミングを見計らっていた。本格的に弔問客が押し寄せるのは5時過ぎと聞いていたので、できるだけ早いうちに抜け出したかった。さすがに、『ワンコが心配なのでちょっと様子を見に行ってきます』とは言いにくいので、義姉が『ヨピコ、体大丈夫?きつくない?』と聞いてくれたときにすかさず、『おなかが痛いから、ちょっとうちに帰って薬飲んで来ていい?』とつらそうに言ってみた。(実際、硬いオンドルの上で数時間座ったり寝転んだりを繰り返していると、腰とおなかにすごい負担が来る。)義姉はすぐに『そうね、そうしなさい。』と言ってくれたから助かった。その後すぐにオンマにも一応了解を取り、旦那の車で一路アパートへと向かった。当初は30分で全てを・・と考えていたけど、もしかしたら今日はもうワンコに会えないかも・・と一人で感傷に浸ってしまい、別れを惜しむうちにアパートに帰って45分が経過していた。アボジのお葬式を途中で抜けれることだけでも大目にみてもらってるのに、その上遅れたら大変だと思い、心を鬼にしてアパートを後にする。葬儀場を出て、戻って来たのは1時間半後。義姉に、『今帰った』と報告すると、『あら、早かったのね!』と驚かれる。なんだ、もうちょっといればよかった・・と後悔。そのうち、5時を過ぎると、弔問客がひっきりなしに来るようになる。私が驚いたのは、オンマのメリハリの利いた号泣だった。私たちと話をしているときは、うっすらと笑顔さえ浮かべる余裕すらあったのに、弔問客がチョルをすると、『アイゴー!アイゴー!!』と大号泣だった。そして、その弔問客が帰ると、また通常のオンマに戻る。とても不思議だったので、『もしかしたらウソ泣きかも・・』と疑って、大号泣の真っ最中にオンマの顔を覗いてみたら、本当に涙を流している。やっぱり、正真正銘の大号泣だった。弔問客の花札でにぎやかになった7時ごろ、義姉らの口から願ってもない言葉が飛び出した。『もう、疲れただろうから、ヨピコはアパートに帰りなさい。犬もいるし。』『えっ!!いいの?!』とりあえず、何度か聞き返してみたけど、やっぱり私が妊婦ということで、体に気を使ってくれているんだろうか、とてもありがたかった。上の義姉に、甥っ子と姪っ子も一緒にアパートに連れて帰って、泊まらせてくれないだろうかって言われたけど、そのくらいのこと、朝飯前である。『うん、いいよ』と二つ返事でOKして、その日はそのままうちにつれて帰った。一応、『明日は7時ぐらいまでに来ればいい?』とかなり早めの時間を指定してみたら、『明日は○×○×(←聞き取れなかった)があるから、それが終わってから来た方がいいから、10時半までに来ればいいよ。』と言われた。マジ?そんなにゆっくりしていいの?とかなり心配だったけど、旦那の『本当は12時ぐらいに来ればいいんだけど、一応ちょっと早めにってことで10時半って言ってるんだから、いいのいいの。ゆっくり来いよ。』の言葉に安堵する。その後、葬儀場でお昼ご飯とまったく同じメニューの晩御飯を食べ、甥っ子姪っ子、私の3人で帰宅。3日葬の1日目はこのようにして終わりました。
2005年11月19日
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11月1日 明け方 アボジが亡くなりました。その日の深夜までアボジに付いていた旦那がアパートに帰って来たのは午前3時半。それから少しだけ寝て朝6時半過ぎに、アボジに付いていた義兄からの電話で飛び起きました。『アボジが息をしていない!!!』旦那と私は、とりあえず速攻で着替えてアボジの病院に向かいました。病院に着いて、エレベーターに乗り込むと偶然、オンマや義姉たちが乗っていました。みんなでアボジの病室に行くと、そこにはベッドの上で息絶えているアボジがいました。私を除いた全員が泣いていました。私も泣こうと思えば泣けましたが、無理に泣く必要は無いと思ったので、黙っていました。私はただ、『アボジが解放されてよかった』とだけ思いました。中期の肺がんと申告されてから2年と少しの間、いろんな病気を併発しながら、つらい治療に耐えて、最後は自力で起き上がることもできずにいたアボジが、やっと楽になれたんだと感じました。いろんな癌の中で、最期の痛みが一番激しいとされる肺がんを患いながらも、寝たまま息を引き取ることができたということが、とてもありがたいと感じました。病室に先生が来て、アボジの死亡を確認したのが7時半でした。それから、アボジの遺体を旦那の実家がある金浦の病院に移しました。韓国では、病院に葬儀場があるので、そこでアボジの三日葬を行いました。三日葬のことは後日書きます。
2005年11月16日
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