PR
フリーページ
猫の九太郎
九太郎という牡の猫を飼っている。
劇団員の少女が捨て猫を見つけてかわいそうだから飼ってもらえないだろうかと言うことで面倒を見ることになった。犬猫の獣医助手を目指す彼女に拾われたと言うことは捨て猫にとって幸運だった。が、飼う方には災難であることの方が多い。小さな泣き声であった子猫は大きくなるに従い猫の特性を遺憾なく発揮しだした。トイレにおしっこをしなくてくんくんとかぎ回り何処へでもおしっこを垂れ流しだしたのだ。マーキングである。猫のおしっこは犬と違い特別臭い。その臭いが家中充満した。家族に取っては耐えられるものではなかった。猫を飼うとこのようになると言う現実は充分に知っていたが猫には返さなくてはならない恩義があったのだ。恩のなんたるかを知らない家人は恐れ多くも、
「また猫を飼うのですの。飼うのだったら去勢をしてくださいよ」
と平然と言ったのだ。恩義の有る猫にそんな動物である証の子孫を残すための行為に必要なものを除去出来るはずはないではないか、と言おうとしたが声が喉に詰まり胃袋に落ちたのだった。それは病気の所為ではなく去勢しろと言う家人の心理が怖かったのであった。九太郎を車で連れ出して二時間ほど走って帰り、
「見事にたまたまを切除したぞ」と嘘を言ったのだ。それは妻に対する従順より恩義に対しての方が大きく重かったからなのだ。
三十年程前に仮面鬱病になったときに家の前のゴミ捨て場で三毛猫の雌を拾った。弱々しい声で泣いて哀れを誘っている猫に同情して夕餉のすき焼きの残りを食べさせてやった。お腹が減っていたのかおいしそうに食べる姿に感動しついつい家に上がらせたのであった。その猫に茶子兵衛と名付けた。
その頃肩がこり眠られず体が重たいし頭がボーとしていた時期であった。何軒も医院を訪ね診察を受け薬を調合して貰ってもいっこうに良くならなかった。おかしいと感じたのは県の青年大会の演劇部門で最優秀賞を貰い全国青年大会に出発する日に現れた。足がだるく息切れがして動けなくなったのだ。前日は興奮して眠れなかったので睡眠不足からくるものであろうくらいに考えて無理をして東京に行ったのだ。渋谷の参宮前駅で降り代々木オリンピックセンターまでの距離を歩いたのだが陸橋で立ち往生をしてしまった。どうしても階段が上れないのだ。階段を二三段上ると心臓は早鐘を打ったように鼓動し呼吸はぜいぜいと悲鳴を上げだしたのだ。一週間東京にいたが何がどうなったか定かに覚えていない。何度か医院のドアを開けたのは記憶しているが。そのほかは心臓病患者の様な不整脈と動悸の早さと喘息患者の様な息切れだけを記憶しているのであった。目黒公会堂での公演結果がどうであったか帰って聞くまでは定かではなかった。優秀演技賞と最優秀舞台美術賞を貰っていた。帰っていろいろな専門医に診て貰ったが正確に病名の診断を下す医者はいなかった。二階の書斎に上がる階段の途中で立ち往生をする事もしばしばであった。深夜とか静かにしているときに突然この世の終わりを告げられたような不安発作に襲われ何回も救急車で救急指定病院へ行った。着くと動悸は収まり息切れも治っているという状態が続いた。医者は何のために来たのかと言う顔をした。不安発作が鬱によるものとは判断できなかったのだ。
その頃茶子兵衛が現れたのだ。猫は心臓病と高血圧と精神の歪みの病気持ちに心の安穏を与えてくれる動物だと聞いていたのだがそれが真実かどうかはわからなかった。そう思って猫を飼ったのではなかった。捨てられた猫に我が身を重ねて哀れを感じたのであろうか。か弱い飼い猫がそばにいると言うことは精神を安定させる作用があった。茶子兵衛の動作を見ていると心がいやされた。同じ症状の焼き肉屋の旦那が迎えに来てくれ川崎医大の心療内科を受診した。貰った薬を飲むと体のだるさがなくなっていった。眠られるようになった。頭も軽くなった。肩がこらないようになった。不安発作も少なくなった。茶子兵衛はじゃれついて慰めてくれた。病名は仮面鬱病と診断されたのだった。医者の治療と茶子兵衛によってだんだんと恢復をしていったのだ。茶子兵衛は一日ボーとしている主のそばを離れず見守ってくれ見上げる目は心配そうで優しかった。いつも体のどこかへ尻尾をくっつけていて様子を見ていたのだ。テレビに対して話しかけ怒鳴る事しか話相手のなかったのだが茶子兵衛は話相手になってくれ独り言愚痴を聞いてくれた。その茶子兵衛は二年後に尿路結石による腎臓病でなくなった。もっと早く犬猫病院に連れて行ってやれば長生きが出来たであろうと後悔したものだ。
猫にはそんな思い出があり恩義があったのだ。
九太郎は何度か尿路結石になったがそのつど犬猫病院へ連れて行き茶子兵衛の撤を踏むこともなくなった。茶子兵衛のためにも九太郎を同じ病気で死なす事は出来ないと思っている。茶子兵衛の恩返しのためにその後三太郎を飼ったがその頃もまだ仮面鬱病は全治してなくいやされたのだ。元気になった今九太郎に手を焼きながらも面倒を見ているのは茶子兵衛と三太郎への愛情の印なのかも知れない。
九太郎を連れてきた劇団の少女は獣医の助手になり次男の嫁になって同じ屋根の下で生活している。今では双子の母である。
カレンダー
New!
ツヨシ8さん
New!
蘭ちゃん1026さん
New!
萌芽月さん
ひじゅにさんコメント新着
キーワードサーチ
カテゴリ