ペドロ・ホセ・ロドリゲス
Juventud Rebelde、2021年2月13日、Benigno Dequinta、Norland Rosendo記者
彼は8歳のとき、第4回国民学校大会において10歳から13歳のカテゴリーのチームでデビューし、9歳のときにはすでに、本人より年長の選手たちのチームの3番打者だったが、のちにエリート大会で認められる強打者として抜きんでていた。
自身初のセリエ・ナシオナル(1973-74年)では、新人選手としての最多本塁打11本を記録した。この記録を同名の息子が第40期に15本塁打で破ったことは彼の誇りである。
チェイートが打席に向かうと球場全体がお祭り騒ぎになり、彼をはじめアントニオ・ムニョスやエクトル・オリベーラが属した「オレンジ・クラッシャー」の時代には、この3人を抑えることを達成した投手は、自分がキューバで最も幸せな男だと感じることができた、と語られている。
彼は常に、自身の情熱はボールが飛ぶのを見ることだと言っており、打率よりも本塁打を追い求め、2ストライクになってもスイングをコンパクトにはしなかった。
彼は5つの選手権連続で本塁打王だった。その1年目は、1976-77年のセリエ・ナシオナルでアスーカネロスのユニフォームを着て9本塁打を放ったときだった。1977年の選抜シリーズではラス・ビジャスで16本塁打を記録した。その翌年のセリエ・ナシオナルではシエンフエゴスで13本塁打を打ち活躍を続けた。ベストはまだそれからだった。1978年の選抜シリーズではシリーズ記録となる28本塁打を放ち、1978-79年のセリエ・ナシオナルでの19本塁打で連続本塁打王の記録を締めくくった。
彼は一度もセリエ・ナシオナルでは王者にならなかったが、少なからずの人が3Aレベルと考えていた選抜リーグでラス・ビジャスと栄冠に輝いている(1978年、83年、85年)。
ペドロ・ホセは、彼を野球のグラウンドから遠ざけた懲戒がもしなかったとしたら、500本塁打に近づいていたことだろう。特筆すべきことは、キューバでは誰も、リナーレスもキンデランでさえも、本塁打に対する三振の割合は彼より多い。チェイートの三振は本塁打の1.5倍である。
キューバリーグでの289本塁打のなかで、1978年にラティーノアメリカーノ球場でのピナール・デル・リオとのプレーオフで偉大な投手ロヘリオ・ガルシアから放った1本はいまだ語り継がれている。
チェイートはここキューバで本塁打の王様だったが、海外の大会でもその足跡を残した。とりわけ1978年のメデジンでの中米カリブ選手権では10試合で15本塁打を放ち、2試合連続で3本塁打を記録した。そのうちの1試合は、キューバ代表チームがプエルトリコに31対2で勝った有名な試合だった。
ペドロ・ホセは死んだ。「ミスターホームラン」の伝説は残る。
キューバTV(2021年2月13日)
キューバTV ペドロ・ホセ・ロドリゲス インタビューPART1(2014年)
キューバTV ペドロ・ホセ・ロドリゲス インタビューPART2(2014年)
キューバTV ペドロ・ホセ・ロドリゲス インタビュー(1999年)
キューバTV ペドロ・ホセ・ロドリゲス引退式(1992年)
El jonrón está de luto: ha muerto Cheíto
http://www.juventudrebelde.cu/deportes/2021-02-13/el-jonron-esta-de-luto-ha-muerto-cheito