フィデルがキューバ革命の社会主義的性格を宣言
Granma、2024年4月16日、Enrique Villuendas Calleyro(PCC思想局員)
キューバ共産党
1925年8月16日に、最初のキューバ共産党が、ハバナの現在フベルト・デ・ブランク劇場がある場所に存在していた本部に設立された。4つの共産主義者グループの代表者と招待者は20名に満たなかった。創設者のなかで、キューバ革命者党の組織でホセ・マルティに同伴したカルロス・バリーニョ・ロペスや、同世代やその後の世代に大きな影響を与えたフリオ・アントニオ・メジャは、つねに特別な形で思い起こされる。
この党ははげしく迫害された。選出された事務総長(ホセ・ミゲル・ペレス)は、スペイン人であるという口実で国外追放された。メンバー数名(うちバリーニョは、翌年死亡した)は逮捕された。この組織の存在の大半は非合法か半非合法な状態にあった。迫害や課せられた禁止から逃れるため、名称を何度も変更した。
その党員たちは、自己犠牲や誠実さ、大義への献身によって、高い名声を享受していた。ヘスス・メネンデスやアラセリオ・イグレシアスといった労働者階級の殉教者たちは、共産主義者だった。労働組合幹部のラサロ・ペニャや、重要な知識人であるフアン・マリネージョやカルロス・ラファエル・ロドリーゲスらもそうだった。その宣伝活動(ラジオ放送ミル・ディエス、新聞オイ、書籍パンフ販売配布)によって思想を流布した。 (1)
フィデル・カストロ・ルス最高司令官の歴史的功績のひとつは、この党は、いかにその闘争が正当であったとしても、支配的な体制を変革する革命を指導することはできないと理解していたことだった。長年にわたる反共産主義のプロパガンダは、幅広い住民セクターのなかに偏見を刻み、これを政治的に孤立させることに成功していた。
そのためフィデルは、バティスタ政府の狡猾なクーデターのあと、新たな組織を設立することに専念し、それが「7月26日革命運動」として結実し、専制政治の打倒に中心的役割を果たした。
1959年1月1日の勝利のあと、生まれたばかりのキューバ革命を転覆しようとするヤンキー帝国主義との早々の対決や深刻な階級闘争のさなか、フィデルは独裁政権と戦った3つの革命勢力、人民社会主義党(PSP、当時は旧共産党が名乗っていた略称)、3月13日革命指導部、7月26日革命運動、のあいだで統一をはかることに力を注いだ。
これはゆっくりとした、粘り強い過程となり、「統合革命組織」(ORI)の創設につながった。これの正式な式典はなかったし、1日で起きたわけでもなかった。ORIは、闘争のまさに嵐のさなか、フィデルを筆頭とするキューバ革命の主要指導者たちの唯一の意思の結果であった。
1962年3月、最高司令官はORIの取り組みに浸透していたセクト主義の逸脱を非難した。そのときから、大衆にもっとも重要な役割を与え、その内部から、組織を構成するために、模範的労働者を選ぶという、国際共産主義運動における独創的で前例のない方法を通じて、基礎からの党建設の過程が始まった。これは武装機関においても実施された。党組織はキューバ社会主義革命統一党(PURSC)という名称を名乗った。
1965年の9月30日から10月3日までのあいだ、各県・各地域・各下部組織におけるPURSCの指導者たちとの重要な会合がおこなわれた。10月1日、党の中央委員会と政治局が正式に設立され、10月3日に発表された。この日は、党の公式機関紙となる新たなメディア「グランマ」への新聞「オイ」と「レボルシオン」の合併が発表され、フィデルはチェの別れの手紙を読んだ。また、この1965年10月3日は、フィデルが述べたように、「きのうのわれわれではなく、きょうのわれわれ、そして明日のわれわれ」を示すために、「キューバ共産党」という党名への変更が満場一致で承認された。
フィデルは数年後これを次のように要約した。「この党はキューバ革命自体の賜物である。革命はみなに党ををもたらし、いま党は革命を前進させている」。(2)
それでは1965年10月3日を党創設日として特定すべきであろうか? 当初、中央委員会書記局はそのように取り扱った。1973年2月17日に「1965年10月3日という日をPCC創設の正式な日として」みなすという決定をした(3) 。これは、現在の名称になったのがそのときからである、ということに、間違いなく、影響を受けたものである。
党員の一部は、独裁と戦った各組織に属していた。PSPの創設は1925年にさかのぼり、他の組織は1950年代であった。PCCはその合併の賜物であったのだから、党への加入年代として何日をとるべきか? 誰がその創設者としてみなされるべきか? 第一回PCC総会の中央準備委員会は、1975年11月11日にこのテーマを分析した。
この会議の議事録には、「われらの党の設立日として適用されるべき日付に関する問題が検討され、なされた提案のなかから、われらの革命の社会主義的性格が宣言された日である1961年4月16日が全員一致で承認された」、と記されている。(4)
この歴史的な日以降、党における創設者たちの年功が計上されはじめた。第一回総会では、党員の経歴において、いつPSPやM26.7や革命指導部に加入していたかを反映させることが、党規約で承認された。(5)
1981年2月6日、中央委員会書記局は、党の創設日のテーマに再度取り組んだ。党創設者たちの年功を、1961年4月16日以降PCCの党員としてみなしているが、書記局の決定(1973年の上記会議)は同機関の公式設立日を1965年10月3日と定めている、という矛盾が存在していた。
この矛盾は1981年2月6日の会合でフィデルによって指摘された。党員の経歴が、その属すべき組織よりも古いのはありえなかった。1961年4月以前から「統一指導部である、組織された党はあった」、と回想された。以前の書記局の決定は破棄され、「キューバ共産党の正式な創設日として、1961年4月16日を承認する」と決定された。(6)
こうして、キューバ革命の社会主義的性格が宣言された日の象徴性が承認され、ヒロンで戦った人びとは、社会主義の旗のもとですでに戦っていた。
フィデルは何度もこのテーマに言及し、第一回党大会の基調報告で次のように述べている。「すでに以前から下部組織および指導部での統合過程は始まっていたが、4月16日の宣言とヒロンでの栄光ある勝利のあと、祖国と社会主義防衛において戦い、たくさんの血を流した、われら労働者階級の英雄主義によって固められた、すべての革命家たちと労働国民の緊密な団結のなかで、われらの党は実際に誕生した」。(7)
4月16日は、全国で、党幹部と労働者たちへの慎ましい称賛がおこなわれる。最近の3回の党大会はちょうどこの日に始まっている。この日は共産主義党員がわがものにできる日である。そのための理由はあまりある。党はキューバ革命の魂であり続ける。(8)
注:
(1)このテーマに関する熱心な研究は、書籍「最初のキューバ共産党 その戦術と戦略 1925-1935」(エディトリアル・オリエンテ刊
(2) ハバナ県PCC決算総会での演説、1974年3月20日
(3) ヘスス・モンタネー・オロペーサによる書記局への通信、1980年11月15日。PCC中央資料館
(4) 1975年11月11日付の第一回党大会中央準備委員会会合議事録。PCC中央資料館
(5) 第13条「キューバ共産党の結成に参加したいかなる革命組織への加入日は、党員の個人党歴に記録される」。PCC規約。キューバ共産党第一回党大会。報告書。
(6) PCC中央資料館。採択された決議のフォトコピー。
(7)第一回党大会への基調報告。党大会報告書。
(8) 党の歴史のひじょうに完全な研究は、書籍「キューバ国家の魂」エルビス・R・ロドリーゲス・ナランホ、エンリケ・M・アゲーロ共著(カサ・エディトリアル・ベルデ・オリーボ刊、2014年)
キューバTV(2024年4月16日)
¿Cuál es la fecha de fundación del Partido Comunista de Cuba?
https://www.granma.cu/cuba/2024-04-16/cual-es-la-fecha-de-fundacion-del-partido-comunista-de-cuba-16-04-2024-02-04-51