幼稚園、小学校、中学校と11年間続いた給食も、高校生になるとなくなりました。私の通っていた高校では各自お弁当を持参するか、朝のうちにクラスの厚生係にパンを注文することになっていました。
母にとってお弁当というのはなぜかハレの日感覚で、とても毎朝3時起きして作ることなどできないとのことでした。そこで私は毎朝母から数百円だか千円だかの現金をもらうことになりました。ぼんやりとした記憶では、学校までの往復のバス代とパン代で伊藤博文の肖像のついた千円札1枚だったように思います。
お昼は仲のいい子どうしで机を寄せ合って食べました。女子はほとんど全員お弁当でした。可愛いらしいナプキンに包んで持ってきている子が多く、お箸ではなくて当時はまだ「うさこちゃん」と呼ばれていたミッフィーの絵のついた子ども用のフォークを持ってきている子もいました。
お弁当の中身も可愛らしいものが多く、定番のそぼろ弁当にしても、卵とひき肉に茹でたさやいんげんを細かく刻んで3色にし、さらにプチトマトやカラフルなポテトサラダを添え、別容器にうさぎ耳のリンゴをいれているというようなものでした。
大人っぽくていつも斜に構えているような友人のお弁当もなかなかファンシーでした。彼女は「うちの母親は専業主婦で暇だから、こんなことくらいしかすることないのよ〜」などと照れ隠しなのか、やらせてあげているかのような言い方をしていました。
厚生係は、みんなからパン屋さんと呼ばれていました。実際に厚生係の仕事はパンの注文取りだけでした。パンを注文するのはもっぱら男子で、運動部の子は、お弁当を2個持ってきた上にパンを何個も買っていました。女子でパンを買う子は、大抵何かの理由がありました。おばあちゃんの具合が良くないのでお母さんが田舎に帰っているとか、リフォーム中でお台所が使えないとかです。
私は大抵毎朝2個か3個パンを買っていました。玉子を挟んだコッペパンが好きでした。その頃の私にとってパンを買うことなんて恥ずかしくも寂しくも何ともないことでした。けれども今、こうして思い出しながら書いていると、そういう風に記憶されているということは、母親にお弁当を作ってもらえない自分のことを、多少なりとも恥ずかしく寂しいことだと感じていたのでしょう。
当時の私にとっては、寂しいなどということよりも、みんなのお母さんが毎日できるようなことを、なぜ自分の母だけできないのか、そちらの方が不思議でした。母のヘンテコリンの完璧主義のせいなのか、あるいは家事能力の低さなのかわかりませんが、そもそも母の中には、手作りのものはおいしい、だから子どもには手作りのものを食べさせたいという思い、というよりそのような概念そのものがなかったように思います。
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2017年11月10日
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