母は現在84歳。父が亡くなったあと、ひとりで暮らしています。
母の20歳くらいの頃の写真を見ると、大柄な女性という印象があります。ところがその数年後の母のウエディングドレスの写真はとても痩せていて、ウエストなど両手で掴んだら、両手の指先がついてしまいそうに細いのでした。
私が子どもの頃、母は大柄ではあったけれど太ってはいませんでした。若い頃から母はお洒落な人でした。
そんな母がダイエットに成功した記憶があります。私が十代の終わりの頃だったので母は四十代半ばだったと思います。子どもに手がかからなくなってから始めた仕事が楽しくて仕方のない頃で、従来のお洒落魂にも火がついて、ある時ピンクのパーティドレスを着ることになって、頑張って食事の量を減らし、おそらく20kgほど減量したと思います。その時の母は色黒のミイラのようでした。
それから6年か7年後、母は動けないほど巨漢になりました。一緒に旅行したときも、少し歩くだけでふぅふぅ肩で息をして、あまりにも歩くのがつらいからと、観光スポットに着いてもひとり車の中で待っていました。
さすがの母もこれではいけないと、人づてに聞いた健康法を試したりして、少しずつ体重を落としていったと思います。あの頃はわずか5cmの段を降りるだけで膝が痛むと嘆いていました。
しかしその後、私が三十代の初めですから母は五十代の後半、つまり今の私とほぼ同年代の頃、母は糖尿病になりました。糖尿病と言われる前に、母と2人で旅行したことがありました。その時のことは今でも鮮明に憶えています。
母は四六時中モノを口に運んでいました。はたで見ていてもつらくなるほど、ひたすら食べていました。食事が終わってからもお菓子の袋を抱えて食べ続け、ホテルのトイレで吐いていました。わが母ながらあまりに見苦しく、私は嫌気がさし、トイレに助けにいかなかったことも覚えています。
それから間も無く、母は糖尿病と診断されました。母は頭をハンマーで殴られたようにショックを受け、その日から食品交換表と首っぴきの、秤が手放せない生活になりました。あんな無茶苦茶な食生活をしていて病気にならない方がおかしいのであって、私はといえばそれでショックを受けている母を不思議に感じていました。
しかし、母はあまりのショックのせいか、とにかく忠実に医師の指導を守り、みるみるうちに体重を落とし、半分くらいになりました。ぼんやりとした記憶ですが、1日当たり1,200kcalの食事療法だったと思います。よくサツマイモを蒸してオヤツにしていたこと、食べたことのなかった納豆を毎日食べるようになったことなどを覚えています。
「思ったよりずっと食べられるわ」「お腹も減らないわ」「もうお菓子は一生分食べたから、あとの人生はファッションを楽しむことに専念するわ」などという母のセリフもよく覚えています。
初めの数年は大学病院に通って、毎月医師の目の前で体重計にのるという診察もあり、厳格な食事療法は続いていましたが、HbA1cが通常の範囲になり、服薬の必要もなくなったので、近所の医院に転院させられました。
近所の医院は、体重測定もなく、時々血液検査をする程度で、そろそろと、母の間食は復活することになります。相変わらず秤で食事の量を1gの単位まで厳密に計り、納豆は40gでなくてはならず、たまたま40gの納豆が売り切れの時には、45gの納豆は買わずに40gの納豆を求めて別のスーパーまで出かけていきました。でも、厳密に計算された食事のあと、袋菓子を抱えるようになってしまったのです。
母は、再び太り始めました。もうあの巨漢のようにはなりませんでしたが、おそらく、100kgから60kgになって、80kgになったのではないかと思います。
タグ: 母親