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図書館で『鉄の文化誌』という本を、手にしたのです。先日、『森の仕事と木遣り唄』という本でたたら製鉄について読んだところである。森との関わりが深い製鉄は、まあ個人的なツボなので、この本をチョイスしたのです。【鉄の文化誌】島立利貞著、星雲社、2001年刊<「BOOK」データベース>より人類が鉄を発見してから5000年。鉄の歴史は人類発達の歴史である。そしてこれからの未来の発展にどのように関係し、役立っていくのであろうか。【目次】第1章 古墳時代(地球は鉄の星/ヒッタイトの鉄器/古代の製鉄炉 ほか)/第2章 中世(レン炉/低シャフト炉/たたら吹き製鉄法 ほか)/第3章 近世(高炉/鉄と炭素/高炉の西漸 ほか)<読む前の大使寸評>先日、『森の仕事と木遣り唄』という本でたたら製鉄について読んだところである。森との関わりが深い製鉄は、まあ個人的なツボなので、この本をチョイスしたのです。rakuten鉄の文化誌紙本著色隅屋鉄山絵巻たたら製鉄のルーツについて見てみましょう。p58~60<たたら吹き製鉄法のルーツ> わが国古来の、砂鉄を原料とする「たたら吹き製鉄法」は、もともと何処から伝えられた方法であろうか。そのルーツは何であろうか。俵国一は、その著『明治時代に於ける古来の砂鉄製錬法(たたら吹き製鉄法)』の末尾に、付記として次のように誌している。「古来の製鉄技術は如何なる経路を辿りて発達し、または由来せしか審らかならざるは既に述べたるが如し。いま、ここに著者の見聞せし範囲に於いて、東洋諸国に近年まで稼動し、或いは現に作業中なる製鉄法の大要を述べて、識者の参考に資せんとす。 朝鮮に於いて、砂鉄を採掘したるを聞かず、また、これが製鉄法も本邦古来のものと全然異なれりと聞く。 満州国及び支邦国の北部または中部に於いても、さきに述べたるが如く同一の状態にあり、然るに原田斧太郎氏の好意を以って、福建省古田県辺の写真を得しに、その方法は本邦古来のものと趣を異にするも、これに使用する原料は、何れの時代より施行せしや明らかならざるも、鉄穴を洗い山小鉄(山地産砂鉄)を採集しおれり。第三図は福建省寧徳県石堂村に於ける精洗場の写真にして本邦中国地方に存在せしものと相類似せり。なお、第48図は同上の製鉄炉を示す写真なり。 仏領印度支邦(現カンボジア)のカンボジー王国コンポントム県プノンデック(現プノンペン)鉄山に於ける製鉄法の概要を、大正15年製鉄所技師山岡武氏の好意により知るを得たり」 と述べ、中国福建省古田県辺りに、砂鉄製錬法が、珍しいことにいまも行なわれていると写真を副えて説明している。また、カンボジアの、プノンペン郊外に於いて行なわれている製鉄法を説明し、その原料は砂鉄とは別種であるが、鉄鉱石を砕いたものを用い、「たたら吹き製鉄法」との類似を強調している。 次に井塚政義(名古屋栄養短大教授、技術文明史)の研究によれば、「アジア内陸のモンスーン亜熱帯圏を核地域とする砂鉄冶金技術の一つの流れは、北越から雲南を経て中国の江南から呉・楚へのびる大陸系譜となっていて、伝承的にも有名な楚の名剣を生み、また特異の文化を築き、呉・楚地方を種子島との地理的位置の関係、その上、種子島の海岸に豊富な砂鉄(浜小鉄)と森林を考えると、『砂鉄製鉄技術が呉・楚から九州南部に直接伝播した』際にその受容地として、まず種子島が、しかも極めて貴重な橋頭堡としての役割を果たしたことを認めるべきである」と述べ、さらに、「砂鉄冶金技術のもう一つの流れは、印度支邦半島からインドネシア諸島に向かい、ニュージーランドへと南遷する海洋系譜に当たっては、まず最初に種子島に上陸したと考えるのが、自然である」と誌している。 以上のように、「たたら吹き製鉄法」、即ち砂鉄冶金技術のルーツは東南アジアにあり、東方への伝播の途中で、大陸・海洋の両系に分かれ、大陸系は中国の江南、呉・楚の地を通過し、東支邦海を渡り、種子島に到着した。 一方の海洋系は印度支邦に渡り、南下した流れが、やがて再び種子島に回帰し到着した。種子島からさらに北上し、砂鉄の豊富な中国地方に至ったというのである。ウーム 製鉄の伝播ルートが稲作の伝播ルートと一致しているのが興味深いのである。この本では伝播の経由地として種子島を強調しているが、それだけの遺跡、遺物があるのだろうか?『鉄の文化誌』1『森の仕事と木遣り唄』2:たたら製鉄
2018.01.31
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図書館で『鉄の文化誌』という本を、手にしたのです。先日、『森の仕事と木遣り唄』という本でたたら製鉄について読んだところである。森との関わりが深い製鉄は、まあ個人的なツボなので、この本をチョイスしたのです。【鉄の文化誌】島立利貞著、星雲社、2001年刊<「BOOK」データベース>より人類が鉄を発見してから5000年。鉄の歴史は人類発達の歴史である。そしてこれからの未来の発展にどのように関係し、役立っていくのであろうか。【目次】第1章 古墳時代(地球は鉄の星/ヒッタイトの鉄器/古代の製鉄炉 ほか)/第2章 中世(レン炉/低シャフト炉/たたら吹き製鉄法 ほか)/第3章 近世(高炉/鉄と炭素/高炉の西漸 ほか)<読む前の大使寸評>先日、『森の仕事と木遣り唄』という本でたたら製鉄について読んだところである。森との関わりが深い製鉄は、まあ個人的なツボなので、この本をチョイスしたのです。rakuten鉄の文化誌第1図たたら吹き先ず、日本の「たたら吹き製鉄法」を、見てみましょう。p49~56<たたら吹き製鉄法> 俵国一(東京大学工学部教授、鉄冶金学)は明治31、32年に島根県価谷炉と鳥取県砥波炉を訪ね、わが国の伝統的製鉄法「たたら吹き製鉄法」の実際に稼動するところを見学し、経験を積んだ職長から詳細に説明を受け、図入りの見聞録を残した。 その記録『明治時代に於ける古来の砂鉄製錬法(たたら吹き製鉄法)』にしたがって、その製鉄法をみることにする。 このように、俵の記録は明治時代のものではあるが、「たたら吹き製鉄法」自体は鎌倉時代には、既に製鉄法として確立しており、その後大正時代までの長いあいだ、大綱にはほとんど変化がなかったと考えられるので、この小節を中世の中にいれることにした。 しかし、この「たたら吹き製鉄法」は、日本ではおよそ古墳時代から行われていたと考えられている。一、「たたら」とは「踏みふいご」のことである。第1図のように、6人ないし10人踏み動かすふいごが使われていた。 その後(元禄時代)に改良されて2人で踏む「天秤ふいご」ができ、俵が見学したときにはこの「天秤ふいご」が使われていた。 また、たたら吹き製鉄法は、古くは「野だたら」といって、野外に炉を築き使っていた。恐らく、ふいごの勢いが強いとき、火の粉が高く上がり、屋根の下では火災の危険があったからであろう。 しかし、江戸時代のある時期から屋根の高い作業小屋を建て、「高殿(たたら)」と呼んでいた。二、たたら吹き製鉄法で使う炉は、洋式浴槽に似た直方体で、およそ長さ3m、幅0.7m、高さ1.2m、厚さ12cmほどである。粘土で作り、土台を深く掘り乾燥させた。炉底には木呂と呼ぶ送風管を埋め、炉の左右に1基ずつ置いたたたらから送風した。 炉は、操業するたびに大きく寝食されるので、操業のたびに築き直された。(中略) また「たたら吹き製鉄法」は石見、出雲、伯耆、美作等の山陰地方で特に盛んに行われてきた製鉄法であるが、この地方には製鉄業を家業として長く営んできた、有名な5家がある。 それは、田部、糸原、桜井、ト蔵、近藤の5家である。それぞれ「たたら吹き製鉄業」を営むために、必要な木炭を作る広大な山林を所有し、多数の労働者を抱える地方財閥であった。5家はそれぞれ戦国時代の英雄豪傑の子孫であったと伝えられている。 例えば、江戸時代に、糸原家の山林は3千町歩(1町歩は約1ヘクタール)で、あった。田部家2万4千町歩、桜井家3千4百町歩、近藤家5千4百町歩であったと伝えられている。 また、炭を焼くために樹木を伐採すると、直ぐに植林し、次にそなえた。この地方は夏期は高温多湿で、樹木の生育に適した気候であって、30~40年を1サイクルとして利用されていた。 しかし、その森林育成の建て前は常に厳密に守られていたわけではないようである。18世紀に入った頃から鉄の需要が急速に伸び、生産が増加していた。当時、鉄はほとんど大阪に送られ販売されていたが、正徳4年(1714年)に202万貫、天明元年(1781年)には300万貫が送られたと、急速な増産の記録が残っている。 このように18世紀には製鉄業は増産時代を迎えており、その頃になると植林の従来の建て前が厳密に守られていたかどうかは分からない。『森の仕事と木遣り唄』2:たたら製鉄
2018.01.31
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図書館で『小説新潮(2017年6月号)』という月刊雑誌を手にしたのです。宮部みゆき・作家生活30周年大特集と銘打っているが・・・彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。【小説新潮(2017年6月号)】雑誌、新潮社、2017年刊<商品の説明>より特報!宮部みゆき・作家生活30周年 未収録作品、インタビュー他<読む前の大使寸評>彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。amazon小説新潮(2017年6月号)宮部みゆき特集からはなれて、連載エッセイの一つを、見てみましょう。p373~375<漱石を知っていますか:阿刀田高> だが、閑話休題、ここではまず作品そのものを、そのストーリーを少しく追いかけてみよう。 は上・中・下の三部から成っている。すなわち「先生と私」、「両親と私」そして「先生と遺書」の三つである。すでにこのエッセイで紹介したとにこれを加えて、後期三部作と呼ばれているが(因みに言えばが前期三部作である)この三つは小説の構造としてよく似ている。含まれている思案の共通性はそれぞれややこしいが、姿は共通している。 最後のほうの一章にこそ作品の力点があり、前のほうは、その前座のようなエピソードとなっていること、この印象が似かよっている。なにしろ大病の苦中での執筆であり、―もっとうまくまとめたら、よかったんじゃないの― と言いたくなるところがないでもないが、その点は、ドン、ピシャリ、構造的にわるくない。弱点もあるが、まあ、いい。上・中・下の三部は、まさしく下にこそ作品の要素が凝縮されているが、そして、―もう少しこの先がほしいな― とも思うが、上から中、中から下、現在の構造が読む人の心を誘い、高ぶらせ、作者のモチーフを明らかにしているのも本当だ。滑らかに読めて、間然するところがない。漱石にはを執筆する直前には、もっと別な構想があったらしいが、結果として示されたものは、ミステリアスであり、さながら大きな渦がうねりながら焦点へと収斂されていくように美事であり、読みやすい。 晩年の代表作として・・・いや、すべての中の代表作といて親しまれていることは充分に納得できる。このあたりがやとおおいに異なるところだろう。 まず作品は、“私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と言いたくなる。筆を採っても心持ちは同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。 私は先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという葉書を受取ったので、私は多少の金を工面して、出かける事にした。ところが私が鎌倉に着いて三日とたたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った” という事情で、作品の中心人物なる“私”は夏の鎌倉・由比ガ浜あたりでただ独り無聊をかこつこととなる。海浜を少し離れたところまで泳ぎに出ると、同じように独り水泳ぎを楽しんでいる年長者を見つけて、―どういう人なのかな― と気にかけ、好奇心を募らせ、言葉を交わし、少しずつ親しくなり、この人を“先生”と呼ぶようになる。“先生”も東京に住んでいることから、「これから折々お宅へうかがってもよござんすか」 と尋ね、「ええ、いらっしゃい」 と運命的なよしみが始まる、という事情であった。 余計なことかもしれないが、小説家にとって、主要な登場人物をどう出会わせるか、これは思いのほか苦心するポイントなのだ。公園のベンチに座っていると、女がハンカチを落として去っていき、追いかけて「あの、もし・・・」では、ばからしい。編集者に叱られ、読者に笑われる。月並みではつまらないし、わざとらしいのも困る。ウン 文芸雑誌をくまなく読むことはこれまでなかったが、けっこう読みどころがあるじゃない♪・・・それだけ暇になったのかも知れないが。『小説新潮(2017年6月号)』1:ミステリーの「参考資料」『小説新潮(2017年6月号)』2:作家・宮部みゆき誕生『小説新潮(2017年6月号)』3:近著『荒神』
2018.01.31
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図書館で『退屈な読書』という本を、手にしたのです。先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。【退屈な読書】高橋源一郎著、朝日新聞社、1999年刊<「BOOK」データベース>より死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。<読む前の大使寸評>先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。amazon退屈な読書「もののけ姫」と少年少女に関するエッセイを、見てみましょう。p144~146<「もののけ姫」あるいは万人の感動> 宮崎駿の新作「もののけ姫」は当然のことながら予約を入れ、公開早々見にいった。「ナウシカ」も「ラピュタ」も「トトロ」もそうやって見た。宮崎教の信者としては当然の行為であろう。 予告編が終わり、「もののけ姫」がはじまるとあちこちから拍手が起こった。レース前のファンファーレが鳴るだけで拍手がわく最近のG1レースの競馬場のようだ。思わず、わたしまで拍手しそうになった。 さて、もちろん「もののけ姫」はたいへん感動的であった。北の地の果てに住む若者アシタカは勇気があり、山犬に育てられた少女サンは美しく健気で、自然を代表する荒ぶる神々たちには人間と戦う理由があり、またエボシ御前を代表とする人間たちにも森を切り拓き自然を破壊する理由がある。 悪も善も純度100%どころかせいぜい30%がいいところでジコ坊のように善悪の彼岸のような登場人物も現れ、シシ神は滅び、その結果自然は甦るが、それは太古のそれとは異なる人間化された自然なのだというメッセージのあたりでマルクスを思い出してしまうのはわたしが古い人間だからだろうか。 そういうわけで、一度映画を見たら頭にしみついてしまう主題歌をできるかぎりの高温を駆使して歌いながら(♪はりつめた弓の ふるえる弦よ 月の光にざわめく おまえの心♪)帰途についた。家に帰っても興奮はさめやらず、ああいうのを万人が感動する映画というのだろうか、それにしても万人が感動するといっても中には感動しない人もいるだろうに、あっさり感動してしまう自分は万人さんなのだなあと考えていると眠れなくなった。 電気をつけて机に向かうと、『豚の死なない日』(ロバート・ニュートン・ベック著)があった。帯によれば「全米150万人が感動した大ロングセラー」で「第43回青少年読書感想文全国コンクール課題図書」なのである。なにを隠そう、わたしは必ず「課題図書」を読むことにしている。感動的なものが多いからだ。わたしは「もののけ姫」の余韻にひたりつつ『豚の死なない日』を読んだ。 主人公は12歳の少年で、貧しい家に育って家の仕事を助け、お父さんは病気気味で、唯一心を許していたペットの豚を生活のために殺さなければならないのである。おお・・・これって、豚を鹿に替えると『小鹿物語』そのものではないかと思ったが、そんなことで感動の量が減るはずもなく、クライマックスの豚のピンキーを殺すシーンでは絶対泣くだろうと思っていたらほんとうに全米150万人と共に泣いてしまったのだった。 それにしても『豚の死なない日』や「もののけ姫」はなぜそれほどまでに万人を感動させるのか。 第一に考えられるのは、どちらも無垢な動物が可哀そうな目にあうからである。それを見て、無垢な少年少女が傷つくからである。 もしかしたら、それは遠い昔、人が自然に対して無力だった頃、荒ぶる神さまを宥めるため動物を殺して差し出したことを無意識のうちに思い出させるからだろうか。そして、もう一つ気づかれるべきなのはこういう物語で主人公の初年少女がたいてい肉体労働に従事していることだろう。 自然を失った人間が唯一自然と交感できるのは労働を通してなのだと書いたのはやはりマルクスだった。労働は厳しいが、そこには失われた自然の痕跡があることを人に思い出させるはずではないか・・・かつて肉体労働を十年やり現在は精神労働(?)に従事しているわたしはそう思うのである。 少年少女には「心の教育」より労働の機会が必要なのかもしれませんね。ウン 厚生労働省や文部科学省のお役人たちに読み聞かせたいようなエッセイでした♪『退屈な読書』1:関川夏生の「二葉亭四迷の明治四十一年」『退屈な読書』2:日本語に関するエッセイ『もっとも危険な読書』1:料理の哲人・島田雅彦『もっとも危険な読書』2:関川夏生の「かたち」『もっとも危険な読書』3:老人力あたり
2018.01.30
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図書館で『退屈な読書』という本を、手にしたのです。先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。【退屈な読書】高橋源一郎著、朝日新聞社、1999年刊<「BOOK」データベース>より死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。<読む前の大使寸評>先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。amazon退屈な読書日本語に関するエッセイを、見てみましょう。p177~179<人生のすべては母国語のなかにある> 「過剰に情緒的文芸的だった1960年代という時代をどうにかこうにかやり過ごした身としては、片岡義男の文体と書き言葉は衝撃だった。しかし、当時はまだ細々と生き残っていた『文壇』と文壇的センスは、うかつにも片岡義男という日本語表現上の事件に気づくことなく黙殺した。かえすがえすも惜しむべきことである」と関川夏央は書いている。 片岡義男は心理描写を排した極度にシンプルな言葉づかいの、不思議な乾いた抒情を感じさせる小説で多くの読者を得た。彼の小説は日本文学の中にまったく類を見ないものであったが、ほとんど論じられたことがなかった。それはなぜだったろう。「売れる」エンタテインメント文学としてはなから批評の対象にされなかったからだろうか。あるいは、作品の核にある未知の何かが「文壇」的批評を怯えさせ、無意識のうちに遠ざけられたからだろうか。 だが、謎は謎のまま残り、時だけが流れた。そして、片岡義男は六百頁を超える巨大な評論『日本語の外へ』(筑摩書房)を持ってぼくたちの前に姿を現したのである。 ぼくは『日本語の外へ』を読みながら、1997年は片岡義男のこの本と加藤典洋の『敗戦後論』(講談社)の二冊の出現によって画期的な年として記憶されることになるだろうと思った。この二冊は「戦後」という特殊な字空間を、他人の歴史ではなくそこに生きる者として解き明かそうとし、ついにそのことに成功したからである。 『日本語の外へ』の白眉は後半の第二部「日本語」だ。第一部で「アメリカ」という文化を語った片岡義男は、第二部で英語と比較しつつ日本語の本質に激しく迫ってゆく。「戦後」の、いや現在の日本のすべての問題の根源には日本語が横たわっているからだ。「言葉はものすごく不自然なものだ。そして、その不自然さにおいて、まさにそれは人間のものだ。・・・。そしてこのようにして身につけた複雑なルールを、その精緻さのままに駆使できるようになった言葉つまり母国語は、その人のすべてだ。その人という、そのようにしてそこにそうある存在、そしてその人がこうありたいと思う願望などすべては、その人が身につけた母国語のなかにある」 すべての言語はそれぞれの美点と歪みを持つ。だから、日本語のなかで生きるぼくたちは、日本語という歪みを通してしか考えられない、そう、日本語の歪みの中でしか生きられない。「戦後」という時空間は、実はその「歪み」そのものなのである。では、ぼくたちはついにその「歪み」から自由になることはないのだろうか。 そんなことはない、と作者はいう。「歪み」を知り、そのことを熟知した上で「歪み」を駆使しながら、日本語の外へ出ていくことによってのみ、ぼくたちは「歪み」から自由になることができる、と作者は言う。「僕の背後のぜんたいから、非常に明るい光が射して僕の全身をかすめてとおり越し、前方に向けて走り去って消えた。ほんの一瞬の、しかし強力に明るいその光に対して、子供は子供らしく反応した。誰かうしろから懐中電灯を照らしたのだ、と僕は思った。僕は振り返った。道を歩いている人はひとりもいなかった」 1945年、8月6日、午前8時13、4分頃、片岡義男は岩国の自宅の近くで鮮烈な光を浴びる。それは広島に投下された原爆のせん光だった。 政治とも「戦後」ともいちばん遠いと思われた片岡義男の肉声をようやくぼくたちはいま聞こうとしている。ウン 母国語を愛しむ片岡義男さんがいいではないか♪ 文科省の官僚は判ってないだろうけど。『退屈な読書』1:関川夏生の「二葉亭四迷の明治四十一年」『もっとも危険な読書』1:料理の哲人・島田雅彦『もっとも危険な読書』2:関川夏生の「かたち」『もっとも危険な読書』3:老人力あたり
2018.01.30
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図書館で『退屈な読書』という本を、手にしたのです。先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。【退屈な読書】高橋源一郎著、朝日新聞社、1999年刊<「BOOK」データベース>より死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。<読む前の大使寸評>先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。amazon退屈な読書関川夏央のあたり、見てみましょう。p60~62<関川夏央と我らが「隣人」四迷> 93年から95年にかけて、わたしは雑誌「文学界」の頁を開くのを楽しみにしていた。関川夏央の「窓外雨蕭々」が連載されていたからである。以前も以後も、わたしは文芸誌の連載を楽しんで読んだ覚えはない。 その「窓外雨蕭々」に手を入れて成ったのが『二葉亭四迷の明治四十一年』(文芸春秋)である。 すでに関川夏央には、ようやく完結した大作にして途方もない傑作『「坊っちゃん」の時代』がある。そこで、関川は明治とその時代に生きた文学者の姿に目を凝らした。関川のとった方法は、歴史上の名前を生きる人格として蘇らせることであった。作品は作家によって書かれる。時代は個人によって生きられる。 関川は、その簡明な真理を自らの作品の中で証明してみせた。伊藤整が『日本文壇史』(講談社文芸文庫)でとった方法もそれであったし、およそ優れた歴史書や批評は、そのように書かれていたはずである。 『二葉亭四迷の明治四十一年』は歴史書であり、また物語でもある。歴史書でありかつ物語であることは決して不可能ではない。鴎外森林太郎はすでに百年前にそのことを証明している。 関川夏央は明治への偏愛を折に触れて告白している。その理由は何であろうか。それが、アナクロニズムに発するものでないことは明白である。 また、わたしも明治への、あるいは明治期に生きた作家たちへの共感と関心が薄れたことは一度もない。それは、彼らが活き活きしていると感じられるからである。90年以上も以前に生きた人間たちが「生きている」と感じられるのはなぜであろう。考えてみれば、それは奇妙なことではないか。30年で1世代、数年前の流行がたちまち廃れ、夏のファッションが秋には忘れられることを私たちは知っている。ならば、自分の記憶として覚えている人間などとうに死滅してしまった遠い時代のことなど、私たちになんの関係があるというのか。 たとえば、漱石夏目金之助の『明暗』を読む時、驚愕するのは、その会話が古びていないことである。いや、現代に書かれる小説のどれほどに、『明暗』ほど読者を刺激してやまない会話が書かれているか。 人は、漱石が古びぬのはそこに「不易の真理」を描いたからという。紫式部や芭蕉は「不易の真理」を描いたから、いまでも読むことができる。しかし、『明暗』が面白いのは、「不易」だからではない。漱石が、わたしたちの「隣人」だからではないか。紫式部や芭蕉は「偉人」ではあっても「隣人」たりえぬのである。ウーム 『二葉亭四迷の明治四十一年』は難しそうだから、『「坊っちゃん」の時代』を先に読んでみるか♪『もっとも危険な読書』1:料理の哲人・島田雅彦『もっとも危険な読書』2:関川夏生の「かたち」『もっとも危険な読書』3:老人力あたり
2018.01.30
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図書館で『森の仕事と木遣り唄』という本を手にしたのです。林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。【森の仕事と木遣り唄】山村基毅著、晶文社、2001年刊<「BOOK」データベース>より東京・木場、木曽、熊野、高知、京都、飯能、和歌山、日田、広島、岡山、北海道…失われた唄を探して各地を訪ね歩く。山に分け入って、伐採や集材や運搬の実際を見、炭焼きに汗し、古老の話に耳を傾ける。それは、培われた技能や知恵を掘り起こし、人々が山や森や木とどう関わってきたかを丹念に熱く描きだすこととなった。私たちが得たもの失ったものとは?日本の林業の営みをとおして、唄うことの心性と働くことの意味を深く問う、渾身のルポルタージュ。<読む前の大使寸評>林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。amazon森の仕事と木遣り唄「第11章 生きる修羅」で、岡山での伐出作業あたりを見てみましょう。p263~267<第11章 生きる修羅> 終戦になり、実家に帰る。 食糧事情は極端に悪化していた。すぐにでもはたらかなければならない。ちょうど和歌山県の新宮で材木商をやっている人が、岡山のほうが仕事量がある、と人夫を連れて来ていた。人を介して、そこで働かせてもらうことにする。 人夫はすべて和歌山県の人間である。そのなかに地元出身の中葉さんが入る。新宮から来た親方は、和歌山では指折りの仕事師であったらしい。作業はすべて木材の搬出である。とにかく、いろいろな技術を駆使し、伐った木材を見事に出していった。 搬出の技術については、和歌山県の人たちと地元では雲泥の差がある、と中葉さんは思った。まず、彼らの架ける「修羅」というものをまったく見たことがなかった。ましてや架線などは、聞いたこともない。この地では、ほとんど木馬を使った搬出だったのである。 彼らは、手際よく修羅を組んで、木材を出した。 中葉さんが、その和歌山県から来た親方の元で働いたのは1年半の間である。その親方は、さらに1年半ほど加茂町にいて、地元へと戻っていった。 今でも、仕事の要領の良いことを「メッコオがきく」と言っているが、以前に登場した熊野出身の辻本さんが「メッコがきく」と表現していたのを覚えているだろうか、これは紀州のあたりの方言である。 親方の元を離れた中葉さんは、今度は自分が親方となり、中葉組を作って、伐出仕事を請け負うことになった。雇い入れるのは、地元の人たちである。 最初は搬出のみであった。いわゆる「出し」だ。伐採は杣の役割である。 当時、伐出と杣との作業は、チェーンソーが導入されるまでは別の職種と考えられていたことは先にも述べた。これに、現地での木挽き作業が加わることもある。そのどれもが、熟練の技術を必用とし、職人的な技でもって木に対していたのである。中葉さんが仕事をはじめたころは、まだそのような区分が截然としていた。 とにかく、組を作ったといっても、中葉さんに「出し」の経験が豊富なわけではない。前についた親方の仕事ぶりを記憶に留めておき、それを参考にしながら出しを行なった。 とくに修羅については、何度か架けた経験はあったものの、それでも体で覚えているほどではなかった。失敗を繰り返して、自ら考え考え作りつづけていった。ここでいう失敗とは、あくまで伐出を終えてから気づくことである。修羅を組むとき、まず地形を見て、どのような形のものを形成するかを考える。最適の組み方が頭に浮かぶ。その設計図に沿って、修羅を組み立てていく。(中略) 戦前から昭和20年代にかけて、この地でも線路の枕木を多く搬出した。 主にクリの木である。宇治さんは、それらは「スリッパ」と呼ばれていたと記憶している。何で、ですか、と訊ねても、さあな、と答えるだけだ。「汽車の履くスリッパだからじゃねえか」「そりゃ、理屈に合わんわ」と中葉さん。「ほかに、どんな理由がある?」 と、議論したものの、正解はつかめない。これは宿題だ。 やがてチェーンソーが入ってきて、中葉さんも伐採から搬出までを請け負うことになる。杣と伐出作業の一体化である。 この地方でのチェーンソーの導入は、それほど早くはなかったようだ。ほかの地方で使っているという噂を耳にしたときにも、まだ見たことがなかったという。当時の金額で30万円もしたそうだから、簡単に購入することもできなかったのだろう。 だいたい十人の組で1台、その程度の購入比率である。だから、購入してからも、チェーンソーはあくまで根元を伐ることだけに使用し、玉切りと呼ぶ、一定の長さに切断する作業は、相変わらずノコギリを使っていた。 ただ、ここで杣という専門職は急激に姿を消していく。 請け合いの方法は、すべての作業に対して幾らというかたちである。親方は、人夫を何人使い、搬出するのにワイヤーなどの材料費も含めて幾らかかるか、そのような計算を行い、収支が合うなら、それで引き受けることになる。 里を離れた山の中に飯場を作って作業に当たることもあった。このときは、食費は個人持ちとなった。飯場の建物は事業主が建てる。山師にしてみれば、いわゆる「アゴ、アシ付き」ではなく「アシ」だけ付いていたのである。しかし、飯場に入って作業を行なうと、作業量は格段に増える。それはそうだろう。通う手間が省け、おまけに娯楽とてない空間である。多少の怠け者であっても、働く以外にすることがないのだ。誰でも仕事量が2割ほどアップしたのではないか、という。それなら食費を払ってもお釣りがくる計算で、むしろ望むところなのである。『森の仕事と木遣り唄』3:隻腕の育林家『森の仕事と木遣り唄』2:たたら製鉄『森の仕事と木遣り唄』1:炭焼きを訪ねて
2018.01.29
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図書館で『小説新潮(2017年6月号)』という月刊雑誌を手にしたのです。宮部みゆき・作家生活30周年大特集と銘打っているが・・・彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。【小説新潮(2017年6月号)】雑誌、新潮社、2017年刊<商品の説明>より特報!宮部みゆき・作家生活30周年 未収録作品、インタビュー他<読む前の大使寸評>彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。amazon小説新潮(2017年6月号)超ロングインタビュー(21世紀編)で、近著『荒神』を、見てみましょう。p82~84<『荒神』の怪物は「大魔神」の子孫>Q:時代は江戸・元禄期の東北南部。隣り合い、争そいの絶えない二つの藩が舞台です。この二つの藩の関係は、何かモデルがあるのか、あるいは何かのメタファーなのか、いろいろ想像を逞しくしてしまいます。宮部:小学生の頃だと思うんですが、教科書で「最後の授業」というのを読みませんでしたか。Q:ああ、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」宮部:あの作品の舞台になった、フランスとドイツの間で、取ったりとられたりしていたアルザス地方。あれが頭にあったんですよ。この二つの藩は、最近また関心が高まっている地政学的な条件から逃れられないというイメージです。Q:『荒神』の舞台のモデルが、アルザス地方だったというのは初耳ですね(笑)。で、問題の怪獣ですが、どのようにして造形されていったんでしょうか。宮部:まず、正しい生き物ではない。自然から出てきたものではない。呪物なんですよ。それを端的に表すために、そもそも目という器官がない。人間とは意思が通わないというふうにしようと考えたんです。そして、一番最後に退治される時に、あの形態になることも最初から決めていました。Q:人間相手に暴れまわって、火炎放射器みたいに火を放つ。宮部:火を燃やすことは決めていたんですが、怪獣がシャーッと吐き出す液を可燃性にすればいいんだと途中で気付いて、あんなことに。その結果、ものすごいカタストロフを何度も起こすことになって、読者の皆さん、朝からこんなものを読ませてすみません(笑)。Q:でも去年、例の映画「シン・ゴジラ」を観た時に、『荒神』を思い出しませんでしたか。途中の形態変化なんて特に。宮部:「シン・ゴジラ」最高でした!映画館で3回観ましたけど、もっと観たかったです。このごろはブルーレイでまた見直していますが…『荒神』のことは考えなかったなあ。Q:もともとおやりになりたかった「大魔神」との共通点も、当然ながら多い。宮部:大魔神も迫害される側の祈りに応えて現れるんですが、破壊を始めると、悪人を退治するだけでは止まらなくなる。それを乙女の涙で止めたり、子供の祈りで止めたり、私はいわゆる「文学的資産」は持ち合わせていないけれども、「サブカル的資産」は持っているということですかね。要するに、サブカルの蓄積の中からいろんなものを取り出して、作品を書いているという。Q:「サブカル的資産」というのは、宮部作品にとってのひとつのキーワードかもしれませんね。でも、毎朝カタストロフが訪れる連載小説、読者の反応はどうだったんですか。宮部:それが意外なことに、とてもいい反響をいただきました。投書欄にも、「毎朝楽しみに読んでいます」というお便りが来たりして、安心しました。でもね、『荒神』の連載で何より素晴らしかったのは、漫画家のこうの史代さんに挿絵を描いていただけたことですよ。Q:「この世界の片隅で」で話題のこうのさんですね。宮部:担当編集者さんから挙がってきた挿絵画家の候補に入っていたんですが、最初は「いや、無理だろう」と思いました。でも、ダメ元でお願いしてみたら、お受けいただけてね。『小説新潮(2017年6月号)』1:ミステリーの「参考資料」『小説新潮(2017年6月号)』2:作家・宮部みゆき誕生
2018.01.29
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図書館で『エスケイプ/アブセント』という本を手にしたのです。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実ってか・・・『逃亡くそたわけ』のような短篇なんだろうか?とにかくロードムービー風のフェイクといえば、絲山さんの十八番だもんね♪【エスケイプ/アブセント】絲山秋子著、新潮社、2006年刊<出版社>より闘争と逃走にあけくれ、20年を棒に振った「おれ」。だが人生は、まだたっぷりと残っている。旅に出た京都で始まった長屋の教会での居候暮らし。あやしげな西洋坊主バンジャマンと、遅れすぎた活動家だった「おれ」。そして「あいつ」。必死に生きることは、祈りに似ている。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実を描く傑作小説。<読む前の大使寸評>フェイクな日々にこそ宿る人生の真実ってか・・・『逃亡くそたわけ』のような短篇なんだろうか?とにかくロードムービー風のフェイクといえば、絲山さんの十八番だもんね♪shinchoshaエスケイプ/アブセント小説の飛ばし読みになるけど、「エスケイプ」の続きを、ちょっとだけ見てみましょう。遅れすぎた活動家は東京を出て、今、京都に滞在しています。p47~52<エスケイプ> ホテルに一度寄って風呂を浴びた。さっぱりとりりしい男になった。 よし、昨日の西洋坊主のとこでも行くか。おれは四つに折ったプリントを取り出した。七条壬生川上ガル、二筋目東入ルって。タクシーに乗って言えばばっちりだろうがおれには壬生って字が読めないのだ。とほほ。 それってどこよ。七条大宮のそばとか言ってたな。ぼさーと待ってるより探して歩いた方が早い。頭の中に再現する狂ったペンギンと一緒におれは混迷の路地へ入り込む。 夕闇が迫ってくる。それがまた似合うんだな、この町並みに。開け放した窓の台所からは魚を焼くにおいや、まな板の上で野菜やら漬物やらをトントン切る音とかが聞こえてきそうだ。茶の間ではオヤジがビール飲みながら1回表ワンナウトランナーニ塁、とかを見てるんだろう。ああ、このおれでさえ郷愁をそそられるような古い景色だ。おれのおやじはV9時代巨人ファンだった。このへんに来たらきっと阪神ファンにぼこぼこにされるんだろう。 だけどそれは、あくまでも気配だけで、実際には妙にひっそりしていやがるんだ。人気がないわけじゃない。あるんだけど、静かだ。 京都って、碁盤の目じゃなかったのか。このへんって、あみだくじみてえになってんだけど。教会らしいものなんてどこにも見えやしない。なんか、三親等以外散歩禁止みたいな閉鎖性を感じるよ。用事もなしに歩くようなとこじゃない。すごい古さだ。すごい狭さだ。戦争で焼けてないってこーゆーことなのか。東京の下町にはこんなところないもんなあ。 うわ、未だに長屋なんてあるんだ。と、思ったらそこに白い十字架のマークが出ていた。ここかあ? ここだ。立派な木の表札にぶっとい毛筆で書いてある。まるで寺みたいだ。「ベニヤミン教会」 引戸を開けていいものかどうかためらった。 けれど、ほかに行き場もない。 おれは引戸をとんとん叩いて、「神父」と呼びかけた。「神父さん」「バンジャマン神父」 小坂と書かれた表札のかかった向かいの家の戸が開いたんで、おれは思わず身をひいた。くちゃくちゃのばあさんが、よろよろっと出てくると、「そんなちっさい声で呼んだかて聞こえしまへんえ」 とおれに言い、そしてニワトリが時を告げるような声で、「番ちゃあん!」と叫んだ。「出といでーな! お客さん来たはりますえ!」 そしてまた向かいの家にひっこんだ。ごそごそと出てくる気配がして、引戸が開いた。神父がおれの眼の前に立った。小太りだと思ってたけれど、背はおれと同じくらいある。「江崎ちゃん」「ちゃんって言うなよ」「ここは教会だからさ。俺の家にして君の家」 全てを理解した、という顔をした。や、そんな全てを理解されちゃおれとしては困るんだが、非常に。(中略)「神父は何人?」 「フランス系日本人。父が日本人で母がフランス人」「帰化したんだ」「帰化ってんじゃなくて、生れはトゥールーズだけど中学からはこっちだから。国籍を選べたんだよ」「ああ、なるほど」 「だから『はひへほ』も発音できる」「なにそれ」「ふつう、フランス人は発音できないんだ。『ハリス』は『アリス』としか言えない」「へえ、そんなもんなんだ」 神父は法衣の上から腕をぼりぼりかいた。蚊にでも刺されたんだろう。「君、神様信じてないだろ」「信じてないね」「じゃあ何を信じる?」 革命…なんて言えない今更なおれだ。『エスケイプ/アブセント』1この本も絲山秋子ミニブームR10に収めておくものとします。
2018.01.29
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図書館で『森の仕事と木遣り唄』という本を手にしたのです。林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。【森の仕事と木遣り唄】山村基毅著、晶文社、2001年刊<「BOOK」データベース>より東京・木場、木曽、熊野、高知、京都、飯能、和歌山、日田、広島、岡山、北海道…失われた唄を探して各地を訪ね歩く。山に分け入って、伐採や集材や運搬の実際を見、炭焼きに汗し、古老の話に耳を傾ける。それは、培われた技能や知恵を掘り起こし、人々が山や森や木とどう関わってきたかを丹念に熱く描きだすこととなった。私たちが得たもの失ったものとは?日本の林業の営みをとおして、唄うことの心性と働くことの意味を深く問う、渾身のルポルタージュ。<読む前の大使寸評>林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。amazon森の仕事と木遣り唄「第6章 隻腕の育林家」で、戦後の営林あたりを見てみましょう。p130~135<第6章 隻腕の育林家> 中国の僻地を行軍していく。若い公文さんにとっても苦行の毎日であった。 終戦の前年、所属していた部隊が総攻撃を受けた。爆弾が飛来し、直立して指令を与えていた小隊長は即死する。 公文さんは屈んでいたため、命は助かった。ほんのちょっとした姿勢の違いが命運を分けたのだ。 しかし…公文さんとて、無事ではなかった、 そう、左腕を失ってしまったのだ。 負傷兵として病院へ入れられ、そして帰郷となる。 隻腕となると、仕事は限られてくる。農業は無理だと判断した。林業に従事しようとしても、伐採から搬出までを行なうのは無理である。町へ出て働くことも考えないではなっかったが、できるだけ地元で働きたかった。 とにかく、代々つづけてきた農林業をつづけていくことにした。公文さんは、考える。田畑を売り、その金で山林を購入する。人を雇って伐採を行なったこともあるし、その際に皆伐も、拡大造林も試したこともある。 戦中の全国における伐採量に関してはあまり言及されることがないが、統計を眺めていると、1941(昭和16)年から44(昭和19)年までの立木伐採材積は圧倒的な量である。この時期に1億立方メートルを越えており、それ以後、この大台に乗ったことはない。 この戦中には及ばないものの戦後の復興期、伐採量は増えつづけていく。もちろん、そうしなければ住む家とてままならないのだから、やむをえないことではある。統計を眺めてみると、立木伐採材積は国有林で1964(昭和39)年に戦後のピークを迎え、民有林では51(昭和26)年に急増し、横這いの状態で61(昭和36)年あたりまで推移していく。 現在の立木伐採材積はおよそ3600万立方メートル、つまり戦後のピークの半分ということになる。これを見ると、まず民有林が先に木材の枯渇に陥ったことが判る。名だたる林業地では伐期にあたる材木が不足してきて、そういった土地の林業家が木材の買い付けに歩き回る事態が現出した。私じしん、和歌山県の林業家が、自らの山の木では足りなくなり、九州へ、そして高知へと木材の買い付けに走った話を聞いていた この過伐の次に来るのが植林の奨励期である。とにかくスギ、あるいはヒノキを植えることが良しとされ、それまで雑木林だったところまで皆伐してスギ、ヒノキを植えていったのだ。これもまた、仕方のない部分もなくはない。何しろ戦中にあれだけの量を伐っておきながら、とくに戦争末期には人工造林・天然造林合わせても、伐採面積の半分程度しか造林が行なわれていなかったのである。 伐る量も多い、そのまま植林もせずに放置されている山も多い、それが終戦直後の山の状態であった。そこに復興のために木材需要が増える。植林を奨励せざるをえないのは確かである。 針葉樹の造林面積が、戦前で最も多かった1942(昭和17)年の実績を越えるのは53(昭和28)年である。その2年前から30万ヘクタールを越え、61(昭和36)年の39万ヘクタールをピークとして、、71(昭和46)年の30万ヘクタール台を維持しつづける。ちなみに、現在(平成10年)の造林面積は国有林、民有林の再造林、拡大造林を合わせても約4万ヘクタールほどである。これが、先にも述べた日本林業の戦後史である。 植えた木は、4、50年も経つと高く売れるのだ、そんな思いが林業家たちの頭を占めていたのだろう。ひたすら造林地が広がっていく。まるで工業生産品を製造していくかのように、競って造林を行なう。 だが、公文さんは、そのような林業施策には、どうしてもなじめないものを感じていた。(中略) 拡大造林が国の方針として打ち出されるが、仮に伐る量と同等の植林が行なわれたとしても、伐期に当たる木材が存在しない空白の期間が生れてくるのは必至であった。戦争末期から昭和20年代までの過伐は、木材成長量を無視して行なわれていたのだから。 戦後すぐに南洋材の輸入がはじめられるが、実際に大きな転換点となったのは1957(昭和32)年の木材に関する輸入自由化であろう。ここからアメリカ、カナダからの木材が入れられるようになる。この輸入自由化の影響は、じつに数十年経ったあとに日本林業に打撃を与えるのだが、まだこの当時はそのことを肌で感じとる者はいなかった。なにしろ1ドル360円を超える時代である。おまけに、当時の人件費は今ほど高くはない。いくら木材輸入の自由化がなされたといっても、外材は国産材に比べて決して安いものではなかった。 まだまだ「業」としての林業は盛況であった。いや、もしかしたら、この輸入自由化がはじまってからの十年間ほどが、林業と林業家たちにとっての蜜月時代であったかもしれない。 公文さんは、このような状況を間近に見ていた。 そして、このままでは確実に林業が、森林が衰退していく、という予感を抱いた。かといって、指をくわえて眺めているわけにもいかない。自身が林業家なのだから、何か手立てを考えなくてはいけない。 林業家としての仕事を育林に絞ることにした。 これは片腕を失くしたことも影響している。つまり、搬出などを伴う山の仕事は両腕を使うためにどうしても厳しい。が、育林、とくに苗を育てることなら可能ではないかと思ったのだ。 公文さんの頭の中に「林業とは質の良い品種を、より安く」という基本理念が形作られていたことも理由の一つである。工業生産のように大量に材を出していくのではなく、1本1本の質を高めていき、そのことで林業経営も成り立たせていくべきではないか、ということだ。 そして、それは決して刹那的なものであってはならない。次の時代へと連なる力を蓄えつつ供給できなければ林業はつづけていけないのだ、と。 そのためにはどうすればよいか・・・行き着いた先が、苗であった。良質の苗を育てることによって、良質の材を採ることができる。さらには、そういった品種を効率的に生み出すことで、材木の価格も安くおさえられる。 公文さんが育林に本腰を入れたのは、1955(昭和30)年ごろであった。 まず、自宅の裏山に苗畑を作り、そこで苗を育てはじめた。基本はスギ苗である。ウーム 林業といえば、人の年齢を超えるロングスパンの営林、グローバリズム、お役所のミスリードが重なって、今の窮状が現出しているわけで・・・つまりは、日本人の知恵が足りなかった証左ではないか、と思うのだが。『森の仕事と木遣り唄』2:たたら製鉄『森の仕事と木遣り唄』1:炭焼きを訪ねて
2018.01.28
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図書館で『それぞれの韓国そして朝鮮』という本を手にしたのです。なんか、いちど借りたような本だと思いながら借りたが・・・帰って調べると、やはり借りるのは3度目でした。(イカン イカン)【それぞれの韓国そして朝鮮】姜尚中著、角川学芸出版、2007年刊<「BOOK」データベース>より姜尚中が民族を越えた多様な「共生」のあり方を探る。【対談者】・筑紫哲也さん・雅ーmiyaviさん・澤地久枝さん・浜美枝さん・梁英姫さん・リービ英雄さん・磯崎新さん・中井信介さん・井筒和幸さん・黒田福美さん<読む前の大使寸評>なんか、いちど借りたような本だと思いながら借りたが・・・帰って調べると、やはり借りるのは3度目でした。(イカン イカン)『それぞれの韓国そして朝鮮』2澤地久枝さんとの対談あたりを見てみましょう。<歴史は私に公平だった>よりp65~70姜:敗戦になったときに、澤地さんのお宅に朝鮮半島出身の中年の男性がいたとうかがいました。澤地:その人は、日本の女の人と結婚した床屋のKさんです。父がいつもそこで散髪したという縁。暴動にあって、住むところがなくなったとこぼされたので、「うちへ来い」と言って父が連れて来たのです。父はいつもそうやって人を連れて来るのが好きな人でした。 日本人の妻と、おっぱいを飲んでいる男の子との3人が居候になっていたんです。そのあと私たちは満鉄の社宅を追い出されて、父が就職を世話した人の家に身を寄せたのですが、Kさん一家も連れてゆき、3家族が、1部屋ずつの狭いところに住んでいました。姜:それは大変でしたね。澤地:話は飛びますが、戦争が終わったとたんに一部の朝鮮の人は威張りはじめたわけです。その床屋さんは、韓国名は知りませんが、近藤という名前を名乗っていて、全然ロシア語なんかできなかったはずなのです。でも、ソ連の将校の散髪をして、「こんにちは」とか「ありがとう」というロシア語を覚えたのです。生きていく知恵として逞しいともいえます。 そんな居候生活の中、ある日突然、中国の公安がドアを蹴破って入ってきて、バーンと拳銃を撃ったんですよ。父も私たちも両手をあげました。なぜなのかわからなかったんですが、近藤という人が強〇事件を起こしている、と言うのです。吉林にいた日本の女の人たちを強〇して歩いた、というんです。被害にあったっという女の人の中には、私の知っている人もいた。調書の中に、そおう書かれていたという噂を聞きました。 私たちがもともとの家を追われて、居候した家の居候だった人が、そういう事件を起こしたんです。近藤さんが釈放になったとき、父は、「」と言ったのです。そうしたら、捨て台詞に、「」と言って出て行った。姜:うーん、そんなことが…。澤地:でもね、近藤さんの奥さんには、こんなことをしてもらった記憶があります。私が開拓団へ動員で行き1ヵ月泊り込みで働いて帰ってきたとき、頭がしらみだらけだったのです。しらみは水銀軟膏か何かで死んだけれど、卵をいっぱい産んでいるわけです。卵は死んでも毛からとれないんです。近藤さんの奥さんは膝枕で、1個ずつとってくれました。私は彼女に対して悪い気持ちなんか全然ないのです。でも、そういう人と別れられない人だと思う。頼りなくて、生活力のなさそうな人だった。姜:その後はどうなったんですか。澤地:わからない。私たちはその後、さらに追われて、旧日本軍兵舎の難民生活になったから、何の消息も知らないのです。姜:そうすると、そのとき敗戦という事態の中で運命がいろいろ変わっていったんですね。澤地:まさに、私の上を通過したのです。でも、私は幸いなことに、だから朝鮮の人は嫌い、というふうにはならなかったんですね。女学校のクラスメートにも朝鮮籍の人はいたし、台湾の人もいた。満州国の大臣の孫もいたし。私は4歳くらいから他民族の中にいたわけですよ。中国人の子どもたちと一緒に遊んでいた。誰に対しても、偏見などないのです。それを、私はとても幸せだったと思う。 日本が負けた後に、父のところで仕事をしていた朝鮮出身の畳屋さんが、年末に、「あなたたちは餅もつけないだろう。これは朝鮮の餅です」と言って、ちょうどパンみたいなお餅を持って来てくれた。当時は日本人に近づいたっていいことなんか何もないわけですよ。でも、そういうふうにとっても親切にされているから、トータルとして朝鮮の人は嫌いという気持にならずにsんだ。それはとてもよかったことだと思います。 ロシアの将校に、サーベルを突きつけられて、レ〇プの寸前までいったことがあります。でもその後に、とってもいい補助憲兵がうちに遊びに来るようになった。イワンというんですけどね。だから、ロシア人一般にも私は何とか偏見を持たずにすんだ。歴史というものが私に対してとても公平だったとしみじみ思います。いいことも悪いことも見せてくれたのです。 中国共産党軍(八路軍)が内戦で戦況が悪くなって、北へ移動するとき、軍隊がロータリーに集結していて、私はそこを通らなければ家族のところへ帰れない、ということがあったんです。そのとき、私は口笛一つ吹かれないで、軍隊の中を通ることができました。八路軍にひどい目にあったという日本人もいるけれど、私は、この軍隊はちゃんとしているな、と子ども心にそう思った。15歳ぐらいでしたが。『それぞれの韓国そして朝鮮』3:「血と骨」と「パッチギ!」あたりを追加『それぞれの韓国そして朝鮮』2:黒田福美さんとの対談姜尚中さんの対談集:リービ英雄さんとの対談、井筒監督との対談
2018.01.28
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図書館に予約していた『福岡ハカセの本棚』という本を、待つこと2日という最速でゲットしたのです。なんか、いちど借りたような本だと思いながら予約したのだが・・・よく調べてみると、やはり借りるのは2度目でした。(イカン イカン)【福岡ハカセの本棚】福岡伸一著、メディアファクトリー、2012年刊<「BOOK」データベース>より科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。【目次】第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身<読む前の大使寸評>なんか、いちど借りたような本だと思いながら予約したのだが・・・よく調べてみると、やはり借りるのは2度目でした。(イカン イカン)<図書館予約:(1/23予約、1/25受取)>rakuten福岡ハカセの本棚人間の免疫システムあたりを、見てみましょう。p126~129<「過剰さを用意する」という戦略> 生物の体にある複雑で精妙な組織は、なぜ未完成の段階で淘汰されずに進化することができたのか。ダーウィニズム最大の弱点とされるこの問題が、最近、進化発生学という新しい学問から解き明かされようとしています。2008年に出版された『ダーウィンのジレンマを解く』の著者マーク・W・カーシュナーは、ハーバード大学システム生物学部門の教授。本書で、これまでの進化論を超える新たな理論を述べています。 この問題を解く最初の鍵は、おそらく次のような言葉に要約されます。「生物の脳や免疫システムの発生には共通の原理がある。それは過剰さを用意することである」。 人間の免疫システムを見てみましょう。私たちの体にはウィルスや細菌が侵入したらただちに攻撃できるよう、あらかじめ100万種ぐらいの抗体をつくる準備がされています。 抗体もタンパク質なので、それに対応する遺伝子があるはずです。しかし、ヒトゲノムにコードされている遺伝子はせいぜい2万3000種しかありません。 実は抗体をつくる遺伝子はいくつかのユニットからなり、それが順列組み合わせによって再集合することで膨大な抗体をつくり出せるようになっているのです。 たとえばA,B,Cの各ユニットに、それぞれ50種類の遺伝子が用意されているとします。遺伝子の数はトータル150でも、A,B,Cの組み合わせを使えば、50×50×50=12万5000種類の抗体がつくれます。このように膨大な組み合わせが胎児期に準備されるのですが、以後、その人の免疫システムが何にどのように反応するようになるかは、置かれた環境によって決まります。 これと同じことは神経系にもいえます。脳内の回路も、初めは非常に複雑なものとして与えられ、そこから環境や外的刺激によって強化されるものと削り取られるものが決まっていきます。つまり、生命は、初めに余剰分も含めた雑多な可能性、言い換えれば「過剰さ」を用意しており、それをどう使うかは周囲との相互作用に委ねられているわけです。ちょうど大きな石膏の塊を渡して、後は環境に合わせて勝手に彫ってください、というようなものです。 世代が変われば環境も変わります。しかし、生命は、毎回同じ過剰さを用意することで、基本的にはどのような環境にも適応できるよう、あらかじめつくられています。その「過剰さ」の中には、重複性も含めたある種の余裕が温存されているわけです。この理論に従えば、ダーウィニズムが示すように、毎回必ず自然淘汰の網目をくぐったギリギリの素材が親から子へ手渡されるというビジョンは崩れます。親から子へ遺伝するのは、「過剰さを用意する」という性質そのものです。 大きくいえば、これがこの新しい理論の核心です。ウン この『ダーウィンのジレンマを解く』という本を図書館に予約しようかと思うけど、収蔵しているかなあ?『福岡ハカセの本棚』2:自然界に共通したパターンp59~61『福岡ハカセの本棚』1:村上春樹の魅力p180~182、カズオ・イシグロp204~206
2018.01.27
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図書館に予約していた『福岡ハカセの本棚』という本を、待つこと2日という最速でゲットしたのです。なんか、いちど借りたような本だと思いながら予約したのだが・・・よく調べてみると、やはり借りるのは2度目でした。(イカン イカン)【福岡ハカセの本棚】福岡伸一著、メディアファクトリー、2012年刊<「BOOK」データベース>より科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。【目次】第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身<読む前の大使寸評>なんか、いちど借りたような本だと思いながら予約したのだが・・・よく調べてみると、やはり借りるのは2度目でした。(イカン イカン)<図書館予約:(1/23予約、1/25受取)>rakuten福岡ハカセの本棚自然界に共通したパターンあたりを、見てみましょう。p59~61<「かたち」を貫く共通原理> 巻き貝。ヘビのとぐろ。羊の角。私は自然の中にある渦巻きをいつも気に留めていました。それだけでなく、渦巻き模様のハンカチ、渦巻き型のボタン、そんなものまで集めました。一度それが気になりだすと、すべてを収集し、枚挙せずにいられない。マップラバーの性です。 自分が渦巻き型に惹かれた理由を、いまならば、それが動的な生命の象徴だから、と説明できます。しかし、その頃は理由など思いつきませんでした。それらはただ、様々な場所に偶然の一致のように現れる、気になるパターンでしかなかったのです。 けれども、私と同じようなことに心惹かれ、なおかつそれを真摯に追求する人々がいます。フィリップ・ボール『かたち』『流れ』『枝分かれ』は、自然界に共通したパターンが現れるのは決して偶然ではないと教えてくれます。著者は科学誌『ネイチャー』のエディターなども務めるフリーランスのサイエンスライター。3冊共通のサブタイトルは「自然が創り出す美しいパターン」。 この3部作が最新の研究成果をもとに明らかにするのは、自然の中に繰り返し現れるパターンには共通した構造構築原理が働いているということです。たとえば、『かたち』。先ほどアンモナイトのような巻き貝がどのようにできるかを説明しましたが、ある一定の角度で制御される運動を「等角運動」と呼びます。この運動による成長は、羊の角やカリフラワーの頭花など様々なものに見られます。 それらは、中心から引いた直線と回転していく線との交点の間隔が中心から離れるにしたがって広くなる「対数らせん」という図形に置き換えられ、数学の方程式で記述することができます。おお 「対数らせん」やないけ♪・・・対数らせんについては、『ウニはすごい バッタもすごい』3に詳しい説明が見られます。『福岡ハカセの本棚』1:村上春樹の魅力p180~182、カズオ・イシグロp204~206
2018.01.27
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図書館で『森の仕事と木遣り唄』という本を手にしたのです。林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。【森の仕事と木遣り唄】山村基毅著、晶文社、2001年刊<「BOOK」データベース>より東京・木場、木曽、熊野、高知、京都、飯能、和歌山、日田、広島、岡山、北海道…失われた唄を探して各地を訪ね歩く。山に分け入って、伐採や集材や運搬の実際を見、炭焼きに汗し、古老の話に耳を傾ける。それは、培われた技能や知恵を掘り起こし、人々が山や森や木とどう関わってきたかを丹念に熱く描きだすこととなった。私たちが得たもの失ったものとは?日本の林業の営みをとおして、唄うことの心性と働くことの意味を深く問う、渾身のルポルタージュ。<読む前の大使寸評>林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。amazon森の仕事と木遣り唄「第8章 炭焼きを訪ねて」で、たたら製鉄にふれたあたりを見てみましょう。p179~183<第8章 炭焼きを訪ねて> 『砂の器』にも、亀嵩が算盤の産地であることが紹介されているが、今も亀嵩を中心に雲州算盤の小さな工場がたくさん並んでいる。 この亀嵩駅の隣が、私が訪れようとしている出雲横田駅である。「たたら製鉄を理解するには、昔の農家の生活習慣も判っていないといけないですよ」 横田町在住の郷土史家の高橋一郎氏に、そういわれた。そう、私は出雲の「たたら」に関して知りたくて、話を聞きにいったのである。 辞書には「たたら」とは足で踏んで空気を送る大型の鞴(フイゴ)のこと、とある。「たたらを踏む」とは、ここから来ている言葉である。ちなみに「代わり番こ」というのも、この「たたら」の作業者「番子」から来ているのだが、それはまた別の話。 大型の鞴をたたらと呼ぶのは確かだが、一般的にはこの大型鞴を使った製鉄、つまりは「たたら製鉄」そのものも単に「たたら」と呼んでいる。大型の鞴「たたら」を使用する作業とは、製鉄がほとんどだったのであろう。 この砂鉄を使った製鉄法の中心が、たたら製鉄なのである。 山陰地方は、とくに鳥取から島根にかけて、たたら製鉄の本場であった。資料を読むかぎり、今では、その残滓のみが所々に見かけられるだけ、とある。資料館のようなところに模型はあるらしいが、実際の製法に関しては資料によって想像し、理解しなければならない。私は想像力に乏しいのか、資料を読んでも、どうにもたたらの姿をつかめずに苦しんでいた。なんとか実際に現物を見ることができないか、そう考えていたときに、中国新聞の島津邦弘氏から横田町に住む郷土史家、高橋一郎氏を紹介されたのである。 以下、高橋氏の講義に、多少とも私の学習したことを交えて説明してみる。 出雲地方には、中世まで一般には「野たたら」といわれる、より原始的な製鉄法が存在していた。これは自家製の鉄器具を作るぐらいの規模である。山や川から砂鉄を取ってきて、小さなたたら炉に入れ、その上から炭を入れ、火を熾す。すると、砂鉄は熔けて銑鉄といわれる塊になる。これを村の鍛治屋にもっていき預ける。鍛治屋は、銑を脱炭して農機具、鍋、包丁まで作ったのである。この銑鉄と、そこから出る鉄屑をさらに鋳直して製品を作ることで村の鍛治屋は生計を立てていた。だから、文部省唱歌にある『村の鍛治屋』は決して特殊な職業を歌ったものではなく、当時としてはごく普通の風景を歌ったものにすぎないことが判るのだ。農作業とは切り離せない職業として鍛治屋が存在し、「しばしも休まず槌打つ響き」が聞こえていたのである。 つまり、近世に入るまでは、このような小規模のたたらが一般的であり、かつ、これは日本各地に見られた状況のようである。それゆえに出雲地方が「古代から」製鉄の本場だというのは大きな間違いだというのが高橋氏の説である。 なぜ出雲地方が「古代から」製鉄の本場だと捉えられたか、については、もちろん郷土自慢の心性が大きく作用はしているが、ここには八股のオロチの伝説があり、三種の神器となる剣も登場するためでもある。それゆえに出雲地方のたたら製鉄を古代にまでさかのぼって考えがちなのだが、どうもそうではないらしい。まさに製鉄の本場となるには、もう一段階技術革新がなされなければならないのである。 野たたらは、一家で行なうこともあったし、寄り合いで何軒かが一緒に行なうこともあった。これには、当時の鉄器の貴重さも考え合わせねばならないだろう。使い捨てなどはもってのほか、新製品にしてもなかなか手には入らない。多くは鋳造のし直し、いわゆるリサイクル、再生産されて使われたのである。 この自給たたらが、永代たたら(高橋氏は「企業たたら」と呼ぶ)といわれる大規模製鉄に変化するのは江戸時代も半ばになってからである。 永代たたらの興りには、砂鉄の収集法の変容が関係してくる。野たたらの場合、規模からいっても、実際に使用される砂鉄はそれほど大量なものではない。個人が山や川で集めてくる量で十分に間に合っていた。が、ここに鉄穴流しという方法が登場する。これは、山の斜面を削り、その土砂を人工の川に流し込む。川には何段階かに堰が作られ、その堰ごとに土砂を沈殿させ、さらに先へと流してやる。と、砂鉄だけが最後の溜まり場まで行き着くという方法だ。この方式によって大量の砂鉄を採取することができるようになり、製鉄の規模はかくだんに大きくなった。 ここから、たたら製鉄のシステムが作り上げられていくのである。そして、製鉄を生業とする者たちが多く登場しはじめる。 大規模な製鉄が行なわれるようになるには、当然人手が必用であった。また、資力も必要であった。大地主、山林地主が、その根幹を担うことになる。とくに享保年間には松江藩が、鉄師の勝手な操業を禁止し、9人の鉄師に土地の製鉄を委託することになる。このときに受託した家々が、明治以降の有数の山林地主、たとえば田部氏や絲原氏となるわけである。 絲原家のたたら製鉄について見てみると、相当にシステム化された組織であることが判る。大きく鉄方、山方、地方、納戸方に分けられ、さらにその下に職員、労働者が組織される。地方は主に田畑関係で、いわゆる中作、小作へとつながる。納戸方は家の仕事を主にこなす。鉄方が、いわば製鉄部門を受け持ち、手代の下に山配、村下(「むらげ」と呼び、製鉄の技師長のこと)、そして作業員がいる。山方も手代の下に山番がいて、山子と呼ばれる炭焼き作業員がいるのである。 この鉄方と山方が連関しながら、たたら製鉄を行なっていたのである。ウン モンスーン気候に包まれた日本では、企業たたら用に木炭を生産しても山が再生できたようですね♪ そこが大陸とちがう点かも。『森の仕事と木遣り唄』1
2018.01.27
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図書館で『それぞれの韓国そして朝鮮』という本を手にしたのです。なんか、いちど借りたような本だと思いながら借りたが・・・帰って調べると、やはり借りるのは3度目でした。(イカン イカン)【それぞれの韓国そして朝鮮】姜尚中著、角川学芸出版、2007年刊<「BOOK」データベース>より姜尚中が民族を越えた多様な「共生」のあり方を探る。【対談者】・筑紫哲也さん・雅ーmiyaviさん・澤地久枝さん・浜美枝さん・梁英姫さん・リービ英雄さん・磯崎新さん・中井信介さん・井筒和幸さん・黒田福美さん<読む前の大使寸評>なんか、いちど借りたような本だと思いながら借りたが・・・帰って調べると、やはり借りるのは3度目でした。(イカン イカン)『それぞれの韓国そして朝鮮』2「血と骨」と「パッチギ!」あたりを見てみましょう。<「血と骨」への違和感>よりp210~212井筒:それより、日韓併合という想像を絶することが行なわれてから、日本はどういう植民地政策をとって、そして日本は戦争中どういう時代で、国民は軍部の動きを知らされていなくて、庶民はどうしていたのか、特に大阪・生野区の在日庶民は、どうしてたのかを、描いていく。そうすれば、日本人と済州島人の交流で、何かしら、おもしろい話がいっぱいあったはずなんです。そこをきちんと描き、解放というところまで前半を押していってくれたら、少しでも、希望が持てる「血と骨」になったかもしれないですね。姜:僕もそう思いました。井筒:そこがないわけです。あるいは歴史的必然として、祖国の解放には至ったのに、戦後また在日の人には別のことが始まるんです。そこをどう乗り越えていくのかということを、映画の中で突きつけながら、メッセージを発してくれれば、それはそれでおもしろいエンターテインメントの映画になったと思うんです。残念だけど、憂鬱でした。姜:「パッチギ!」を観たときは、すごく自分の身体にさわやかな風が入ってきて、なおかつジーンとしたものを感じてしまったんです。社会学者である宮台真司さんが、珍しく、最高傑作だと言っていました。「血と骨」を撮った崔監督に、「パッチギ!」を観てもらえばいいんでしょうね。井筒:いや、崔さんも観てくれたやろな。たしかに、違います。姜:殴りあっているし、血も出ているけれど、相手を亡き者にする、ゼロにするということはないですから。井筒:そんなことは、おおよそ、ないですよ。僕の暴力概念の範疇に、それはないです。姜:暴力の描き方を見てみると、決して残酷と感じなかった。どこか手加減している。井筒:相手を殺しちまえなんて、あり得ないですから。姜:ただ「パッチギ!」を観終わった後、映画はとても楽しかったのに、現実に戻ってみると、やるせなさを感じたんです。やるせないのは、たぶん日本の若者だけではなく、在日の若者もやるせない。もっともっとみんながわかりあいたいのに、らかりあえない。いったい何があるんだろうという、やっるせなさです。 国際政治というと、心情論とは切り離されて、論じられていますが、根幹にあるのは、わかりあいたいということで、在日の人も、日本の人も、どこかで感じていたと思うんです。アメリカンニューシネマあたりを、再度見てみましょう。<アメリカンニューシネマが起爆剤に>よりp218~223姜:高校のときから、映画監督になりたいと思いはじめたということですか。井筒:僕は奈良高校に入ったんです。親が教師になれということで、その道に進むのなら、奈良高校がいいということだったんです。でも、結局映画ばかり観ていて、ちょうどその頃、アメリカのニューシネマ、アメリカの新しい文化が入ってきたんです。姜:「イージー・ライダー」とか。井筒:そうです。「真夜中のカーボーイ」などですね。映画というのは、これだって思ったんです。加山雄三がエレキギターをチャラチャラン鳴らしているものじゃないんだと、映像というものは。こう意気込んで、オートバイで行くんだけれど、南部の閉鎖主義の中で殺されてしまう。その殺されてしまうところがかっこいいんだと、あれこそ映画なんだと。殺されたいんだ我々はって、当時はね。こういう感覚をいまだに大事にしたいって思っています。僕の場合、アメリカのニューシネマが起爆剤になっているんです。姜:助監督からスタートされているわけですか。井筒:そんな時期全然なかったですね。「イージー・ライダー」や「真夜中のカーボーイ」を観てしまったんですから、監督も助監督もないだろう。造反有理、すぐに撮れるだろうって、そう大胆にも思ってしまったんです。17,8歳だったわけですが、子どもでも、日本映画のつまらなさとかメッセージのなさというものを感じとっていました。庶民のたわいない話ばかりやっていたわけです。 ですから、そういういわゆる、業界に身を投じようなんていう気は、さらさらなかったですね。やるんだったら、自分たちでつくろうと思ったわけです。まさに「パッチギ!」の主人公のように、歌を歌いたいから歌うんだみたいなところがあったんです。今の若い子たちと感覚的には近いものがあると思います。今の子たちも、ダンスをやりたいからダンスする。たとえば高円寺の駅裏でダンスの練習をしているわけでしょう。要するにやりたいことをやる、それを最初に始めた世代なのかもしれません。 その頃影響を受けたのが、劇作家の寺山修司さんで、「書を捨てて街に出よう」とアジられた。街を歩いていれば、何かにあたるよというわけで、何かイデオロギーを超えたおかしさ、そういうものに出くわした世代でした。姜:井筒さんの映画を観ていると、形式にとらわれていないなということを感じてしまうのは、そのせいですか。井筒:たしかにないですね。基本も何も習っていないからです。姜:日本の場合、どこまでが素晴らしいのか、よくわからないのですが、様式美というのがありますね。小津安二郎監督の作品などがそうですが、たとえば「東京物語」とか、僕はいいなと感じてしまうのですが。井筒:ハハハ。僕、「東京物語」には意義あり!なんです。「東京物語」に出てくるお母さん、お父さんは、非常に感じのいい、いたわりあう老夫婦でしょう。それなのに、あの二人から、あんなつっけんどんな子どもたちが生まれるというのが、理解できないんです。それを「東京という都会」のせいにしているような気がするんです。尾道の善人な老夫婦がタライ回しにされる、あんな子たちに育てたわけでもないのに、ということは、東京はモンスターシティなのかということでしょう。僕はそういうふうに感じてしまったんです。姜:いつ頃観られたんですか。井筒:いつ頃だろう。高校を出た頃ですか。京都の京一会館という、名画ばかり上映している映画館があって、そこで観たんです。どうもいやな、図式的だなって。(中略)姜:今活字がパワーを失っているし、活字離れも進んでいる。映像で表現できる人たちというのは、大変な面もあるのでしょうが、幸せな人たちじゃないかなって思っているのですが。井筒:そうでもないですよ。映像というのはバカにされがちなんです。享楽物であり、時間潰しであるとね。ことにアメリカが一番バカにしていると思います。映画として最初にスタートした国にもかかわらず。アメリカ映画の現状を見れば、それは明らかでしょう。 そのアメリカだって、70年代の後半まで、たとえばアメリカ内部のこと、テキサスはこんなところだとか、こんな人たちがいるとか、ジョージアは今こんなことがあって、白人と黒人の対立が根深く続いている、悲劇もある、でも頑張って生きているんですよという映像が撮られていたんです。こういう自分たちの文化や風土、人を見てくださいというのが映画だと思うんです。 しかし80年代に入り、83年からでしたか、ブロックバスター映画が公開され、商業主義、拝金主義が出てきて、こういった映画はなくなってしまいました。アメリカは、文化を売るんじゃなくて、要はコカコーラの世界、戯画化された文明を映像化しているだけなんです。悪い人間が来たら、何十人でも撃ち殺すでしょう。誰かが必ず復讐に立ち上がるでしょう。そんなどうでもいいことを、押し付けていくんです。 そして、得体の知れないリベンジ大会。自分の中に飲み込んで、反省し、そして消化させていく、落ち着く、落ち着こうとする、こういった本来あるべき過程がまったくない成り行きのリベンジの仕方です。知性のかけらもない映画ばっかり。姜:今のアメリカ映画は、人種問題などないがごときでしょう。たしかに有色人種が主人公になっている映画は多いけれど、それでは人種問題は、70年代に解決されたのかというと、そうではないわけでしょう。井筒:でもそういう映画でないと、2億何千万人の暇潰しとしか映画をとらえていない国民性にはアピールできない、土曜の夜に観に来ない、ということのようなんです。たまにあっても、俺はいったい誰だろうみたいな自分探しだけのもの。姜:そういえば、最近アメリカ映画って観なくなりましたね。井筒:そうでしょう。ウン 大使にとって、アメリカ映画といえば「イージー・ライダー」や「真夜中のカーボーイ」などのアメリカンニューシネマであり、それと「ブレードランナー」など日本では作れないレベルのSF作品でしょうね。…で、今のハリウッド作品は原則として観ないことにしているわけです。『それぞれの韓国そして朝鮮』2:黒田福美さんとの対談姜尚中さんの対談集:リービ英雄さんとの対談、井筒監督との対談
2018.01.26
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図書館で『森の仕事と木遣り唄』という本を手にしたのです。林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。【森の仕事と木遣り唄】山村基毅著、晶文社、2001年刊<「BOOK」データベース>より東京・木場、木曽、熊野、高知、京都、飯能、和歌山、日田、広島、岡山、北海道…失われた唄を探して各地を訪ね歩く。山に分け入って、伐採や集材や運搬の実際を見、炭焼きに汗し、古老の話に耳を傾ける。それは、培われた技能や知恵を掘り起こし、人々が山や森や木とどう関わってきたかを丹念に熱く描きだすこととなった。私たちが得たもの失ったものとは?日本の林業の営みをとおして、唄うことの心性と働くことの意味を深く問う、渾身のルポルタージュ。<読む前の大使寸評>林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。amazon森の仕事と木遣り唄「第8章 炭焼きを訪ねて」の冒頭あたりを見てみましょう。p175~178<第8章 炭焼きを訪ねて>木遣り唄と森の仕事との関連を追いつづけるにつれて、私のうちには、森林と人々との結びつきを改めて確認したい、という要求も芽生えてきた。(中略) いま、私は木炭について語ろうと考えている。 炭である。 北海道、東京、和歌山、そして島根…いくつもの山に分け入り、煙たなびく炭焼きの小屋を訪れた。そこでは、確かに、木々と人間とが直に触れ合い、言葉を交わすようにして付き合う姿があった。そして、いつの間にか私たちが「産業」として捉えてしまっていた山の仕事を、「生業」の段階で留めている人々がいた。 その端緒は、やはり京都の四手井綱英さんのところで開かれた。 あるとき、雑談に交じってこんなことを聞かれた。――里山という言葉は、四手井さんが作られたと聞きましたが。 「もっと前に使っていた人がおったかもしれんが、まだ聞いたことがない」――里山の消失もそうですが、戦後の林業というのは、やはり森林の活用が一辺倒になっていった歴史なんでしょうか。 「炭はあの時分最も便利な燃料やったんです。それが使われなくなったのは大きいわね。農業の肥料が全部化学肥料になってしまったことも原因としてあるかもしれん。ただ、これは林業家のやった政策やないですからね。ほかからの力で変わってしまった。山村民というのは、たいてい炭焼いてましたが、炭焼きは山持ちやないですわな。他人の山から原木を買うて、炭焼いておった」――現金収入になった?「そう、山から定期的にお金が入るのは、製炭が一番良いんですね。製炭か、柴でもいいですわね。そういうものが、みな、なくなった。林業というものは、もともとは財産の保有法だったんですね。普通、大山持ちというのは、下の田畑ももっとったんです。東北の山形あたりだと非常にはっきりしてますが、明治の初めに商業資本が発達して、雑貨屋みたいなもんが発達するわけです。造り酒屋とかね。そうすると、農民は、そっから物を買わなならん。農民の生産品も、そこを通じて外に出ていく。そういう山持ちが各村に何軒かある。となると、農民はそこに借金がたまるばかりになる。 借金たまると、最初に『山』を手放すわけです。で、そういう家に山林が集中して行く。それでも借金がつづくと、農地も手放して、農地が集中していくわけですね。最後には家屋敷まで手放さなならんなくなる。と、村全体が、その家の支配下になる。ついに農民は何にもないから出ていくかというと、山持ちは出ていかれると困るわけです。せっかく取った田畑も山林も維持経営ができなくなる。だから、農民の最低の生活は保障するわけです。村中の家、田畑、山林、全部持ってたような大山持ちが山形あたりにはたくさんいましたよ。紀州あたりでもそうだったと思いますね」――そういう土地では炭焼きが盛んですものね。「商業資本家に隷属して、焼き子をやっていけたわけです。焼いた炭を全部その家に持っていく。そして、生活必需品をもろうて帰ってくる。みんな本当は赤字ですわ。秋田あたりでは、昭和初期に自力更生というのをやったんです。京大の農業経済学者の主張で、全国的に農民の自力更生を謳った。たとえば、農村工業を起こす。ロクロをやらしたり、炭も商業資本と焼き子の関係を断ち切って、木炭倉庫というのを作りましてね、役人が収支計算するようにした。全部、郵便貯金にした。そこで初めて炭焼いたら儲かるということを知りよったのです。それまでは炭焼いたら食えることは知っていたけど、金が残るとは思うとらへん。これが私らが営林局に入ったころですわ。生活必需品は購買部を作ってね。それがのちに農協やとか森林組合やとかになっていくわけです」 高度経済成長のただなか、日本の燃料事情は石油、ガスへと移行していく。この燃料革命と呼ばれる変革期に、木炭は消費者によって、そして生産者によって切り捨てられる。戦前の木炭生産のピークは1940(昭和15)年で269万9千トン、戦後は57(昭和32)年の222万2532トンである。数字を上げたところで生産量を理解することは難しいが、流通に流れる15キロ詰めの木炭(これを1俵という)に換算すると、57年はじつに約1億5千万俵になるといえば多少は像を描けるだろうか。さらに現在(平成10年)の生産量が2万7千トンだから180万俵。戦後のピーク時のほぼ83分の1の生産量になる。 生産量が減ることは、そのまま従事者の減少も意味する。1957年の木炭生産者42万3821人に比して、1990年には約1万1千人になっている。こちらは38分の1である。ウーム 燃料革命によって木炭産業が消滅していく様がすさまじいですね。とにかく全国の家庭の炊事場で柴、木炭からガスに転換したのだから、まさに燃料革命だったわけだけど。
2018.01.26
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図書館で『エルニーニョ』という本を手にしたのです。奇しくも、同じ日に借りた絲山秋子の『エスケイプ/アブセント』とよく似た短篇小説である。漂泊願望あるいは逃亡願望があるのかなあ?♪【エルニーニョ】中島京子著、講談社、2010年刊<「BOOK」データベース>より女子大生・瑛は、恋人から逃れて、南の町のホテルにたどり着いた。そこで、ホテルの部屋の電話機に残されたメッセージを聞く。「とても簡単なのですぐわかります。市電に乗って湖前で降ります。とてもいいところです。ボート乗り場に十時でいいですか?待ってます」そして、瑛とニノは出会った。ニノもまた、何者かから逃げているらしい。追っ手から追いつめられ、離ればなれになってしまう二人。直木賞受賞第一作。21歳の女子大生・瑛と7歳の少年・ニノ、逃げたくて、会いたい二人の約束の物語。<読む前の大使寸評>奇しくも、同じ日に借りた絲山秋子の『エスケイプ/アブセント』とよく似た短篇小説である。漂泊願望あるいは逃亡願望があるのかなあ?♪amazonエルニーニョエルニーニョとラニーニョという気候的な言葉とこの小説の奇妙な関係が気になるので、そのあたりを、見てみましょう。(とにかくイラチなもので)p194~197 エルニーニョがもたらす海水温の変化は、その海域の大気の温度も変化させる。すると気圧が変化して大気の流れを変えてしまい、天候をも変えてしまう。エルニーニョは、こうして世界中に波及する。この大気と気圧の変動は、もともとエルニーニョとは別物として観測されていて、「南方振動」と呼ばれている。 研究が進むと、エルニーニョと南方振動には密接な関係があることがわかって、「エルニーニョ・南方振動(ENSO)」という言葉も生れた。 エルニーニョに対して、ラニーニャ(女の子)と呼ばれるのは、太平洋東部赤道近くの海水温が、エルニーニョとは逆に低くなる現象のことを言い、エルニーニョとラニーニャは交互にやってくる。一般に、エルニーニョが来る夏は、極東の日本は冷夏、ラニーニャが来れば猛暑と言われている。 小さな男の子エルニーニョは、このようにして世界中の気候を撹乱する。 いったいこの小さな男の子がどうして発生するのか、世界はまだ解明に至っていない。 灰色の男はホテル・コモリ1階のロビー、信楽焼の狸の隣、雑誌やスポーツ新聞、年代の不明なガイドブックなどが雑然と投げ出されている、染みなのか模様なのかわからない班がついた別珍のソファに腰掛けた。部屋では座るところもなく話もできないので、ロビーに行ってはどうかと、フロントの老人が提案したときは、ホテル・コモリにそんなものがあったかと瑛(てる)はいぶかったのだが、乱雑な雑誌類を片づければたしかに、座るところがないわけではなかった。 瑛と灰色は向かい合って座った。 老人が食器をかたかた言わせながら珈琲を運んできた。「あなた、なんだってあの子を連れて逃げてるんですか」 灰色はとても草臥れた表情をしていたが、悪人のようには見えなかった。ただ、とてもとても疲れていて、ニノと瑛の行動に腹を立ててもいるようだった。「ニノは外国に行きたくないんです。灰色…」 瑛は口ごもって、名刺に目を落とした。高松、という苗字が目に入った。「高松さんにつかまると、外国に行かなくちゃならないから、それが嫌だから逃げてるんだと、ニノは言っていました」 高松灰色は渋面を作り、ネクタイを緩めて体をソファに預け、ふて腐れたように斜め横を向いた。中年男がふて腐れる様子を見るのは珍しかったので、瑛はしばらく無遠慮に眺めた。 フロントに戻った老人も好奇心を抑えられずに身を乗り出して聞き耳を立てる。 やがてゆっくりと、高松灰色は口を開いた。「何度もあの子には話してるんですけどもね。よくわかるように、噛み砕いて、丁寧に話しているんですけどもね」 そう言ってからまたしばらく黙って、不愉快な顔をして腕を回した。おもむろにもう一度話し始めたときは、まっすぐ瑛の目を見た。「あの子には、国籍がないんです」 瑛は、言葉の意味が取れずに顔をしかめる。 コクセキ。コクセキ。コクセキ?「国籍を、持っていないんです」「そんな人、いるんですか?」 瑛は思わずそう口に出した。「います」 高松灰色は憮然として言い、フロントの老人は口をひん曲げ、瑛は目を見開いて灰色を見つめ直した。この本も中島京子の世界R5に収めておくものとします。
2018.01.26
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図書館で『小説新潮(2017年6月号)』という月刊雑誌を手にしたのです。宮部みゆき・作家生活30周年大特集と銘打っているが・・・彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。【小説新潮(2017年6月号)】雑誌、新潮社、2017年刊<商品の説明>より特報!宮部みゆき・作家生活30周年 未収録作品、インタビュー他<読む前の大使寸評>彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。amazon小説新潮(2017年6月号)冒頭の超ロングインタビューの続きを、見てみましょう。p21~<作家・宮部みゆき誕生>Q:オール読物推理小説新人賞の受賞後、生活環境は変わりましたか。宮部:小説教室の皆さんと最初に文学賞に応募し始めてから、ここまでで4年くらいは経っていると思いますが、最初はまったく引っかからなかった。そのうち第何次候補に残って細かい活字で雑誌に名前が載る。さらに先まで進むと太い活字で名前が載る。それをみんなが喜んでくれて、奢ってもらう(笑)。そんな感じで楽しくやっていたんです。Q:各社の編集者から連絡や仕事の依頼はありましたか。宮部:はい。さっきの講談社の林さんのほかにも、東京創元社の戸川安宜さんが会いに来て下さって、書き下ろしのお話をいただきました。それが初めての単行本『パーフェクト・ブルー』になるわけです。Q:専業作家になる気運が高まってきた。宮部:そのころ法律事務所も先生のお仕事が忙しくなってきたので、私が中途半端に居座っても申し訳ないと思い、事情を説明して辞めさせていただきました。「頑張りなさいよ」と送り出していただいて。Q:やっぱり恵まれた職場だ。宮部:ただ、フリーの速記者は固定給があるわけじゃないので、自宅近所の会社に、時間給で勤めました。そうしたらここもまた、とてもいい職場でね。結局ここに2年お世話になりましたかね。その後、88年に長篇の新人賞に応募するために辞め、速記の仕事も休んで、完全に作家専業となりました。<『魔術はささやく』で本格デビュー>Q:89年に『魔術はささやく』で、第2回「日本推理サスペンス大賞」を受賞。『パーフェクト・ブルー』に続く、長篇小説第2弾となります。この賞は日本テレビの主催で、新潮社が協力という形で関わっており、我々にとっても縁が深いのですが、当時は初の賞金1千万円の賞として知られていました。 第1回から乃南アサさん、第3回から高村薫さん、第6回から天童荒太さんと、ビッグネームを輩出しています。宮部:講談社の林さんから「ミステリー作家として立つなら、やはり江戸川乱歩賞に挑戦なさい」と勧められたんですが、乱歩賞は本格ミステリーの登竜門であって、私のような作風には合わないんじゃないかと感じていたんです。 今でも私の自己認識は、サスペンスとホラーの作家ですからね。ちょうどそこへ、推理サスペンス大賞が出来たので、渡りに舟とばかりに応募しました。Q:我々もいくつかのミステリー新人賞に関わっていますが、こんな応募作が来るのなら、何の苦労もありません(笑)。たしか応募時は、タイトルが違っていたとか。宮部:最初は「魔法の男」で出したんですが、受賞が決まった後、当時の小説新潮の編集長、校條さんが「地味だし、もっとキャッチーなタイトルにしましょう」と、「魔術はささやく」とつけてくれたんです。Q:確かに、かなり印象が違いますね。宮部:応募した当時、気持の上ではすごく楽だったんです。新潮社では宮辺尚さんが担当になって下さっていて、「落ちても本にできるかもしれない」と言われていたし、東京創元社の戸川さんからも「もし落ちて新潮社が出さなければ、うちで出してあげるよ」と。Q:まあ、すでにプロですからね。この作品には、「恋人商法」とか「サブリミナル広告」とか、当時の最新トピックスであった題材がプロットに取り入れられていますが、執筆される際に苦労されたことはありましたか。宮部:…この頃のこと、全部忘れちゃってます(笑)。ずいぶん前のことですが、日本推理作家協会で『ミステリーの書き方』という本を、会員総出で作りました。その中の「プロットの作り方」というお題が私に振られて、北上次郎さんが聞き手になって下さった。そのテキストが『魔術はささやく』だったんですが、北上さんが「プロットはこのように組み立てた」という仮説を組んできて下さったのに、「いや、考えてませんでした」「いや、そこまでは」の連続で、北上さん、だんだん焦ってきちゃって、「だってさ、これ伏線だよね。これ後ろで回収してるでしょ。それ計算してなきゃ書けないじゃん」(笑)。Q:イライラしてこられた(笑)。宮部:「いやあ、書いているうちにそうなっちゃったんですよ」なんて誤魔化してね。私も「私にプロットの立て方なんてお題を振ったのが間違いですよ」と八つ当たり(笑)。ウン 出版業界の裏話とか、ミステリーの書き方とか・・・有益なお話しでおました♪ところで、このインタビューには、「小説新潮」のヨイショ・スタンスもあるわけで・・・出版業界のシビアな裏話としては出版流通の壁がお奨めです。『小説新潮(2017年6月号)』1
2018.01.25
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図書館で『小説新潮(2017年6月号)』という月刊雑誌を手にしたのです。宮部みゆき・作家生活30周年大特集と銘打っているが・・・彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。【小説新潮(2017年6月号)】雑誌、新潮社、2017年刊<商品の説明>より特報!宮部みゆき・作家生活30周年 未収録作品、インタビュー他<読む前の大使寸評>彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。amazon小説新潮(2017年6月号)冒頭の超ロングインタビューの一部を、見てみましょう。p16~19<立ち止まって振り返る30年の道のり>Q:今日は宮部さんの30年の作家生活を、お書きになられた作品を拠り所にしてたどってみる、というのが大きなテーマです。基本的な流れとしては、主要な長編作品を時系列に沿って取り上げ、その作品を構想されたきっかけなどを、ご自身のお言葉で語っていただきます。宮部:はい、よろしくお願いします。Q:取り上げる作品は、『魔術はささやく』『火車』『蒲生邸事件』『理由』『摸倣犯』『ブレイブ・ストーリー』『名もなき毒』『孤宿の人』『おそろし三島屋変調百物語事始』『ソロモンの偽証』『荒神』の11作。全体として30年の実像が明らかになればしめたものです。長丁場を乗り切っていただくために、お茶やお菓子を山ほどご用意しました。宮部:ほんと、テーブルいっぱいのおやつ(笑)。今日は私にとってもいい機会だと思うので、しっかりとお話しいたします。Q:めったにない機会ですので、いわゆる「デビュー前史」についてもお伺いしたいと思います。宮部:承知いたしました。Q:ちょっとストレートすぎる質問かもしれませんが、宮部さんはそもそも、小さい頃から文章を書くのが得意だったんですか。宮部:ぜーんぜん。私、小学校の時、読書感想文の書き直しをさせられましたから。Q:宮部みゆきに書き直しを命じる先生がいるとは(笑)。宮部:いま思えば、読書感想文ではなくて、作品の紹介文になっていたんでしょうね。で、それは私たちの世代に求められていた、正しい読書感想文ではなかった。先生に「まるで本の広告じゃないか」と言われて書き直し(笑)。その本のキャッチコピーを考えたり、内容を紹介したりね。Q:小学生にして、現在務めておられる新聞書評委員の仕事を先取りしていたわけですね(笑)。その後の中学、高校時代は、小説を書かれていたりはしなかったんですか。宮部:していません。文芸部でもなかったし、同人雑誌にもまったく関わっていませんでしたから。ただ、高校1、2年の時の担任と、国語の先生に、「文章のセンスがある」「そちらの方面の仕事に就いてもいいんじゃないか」と言っていただいたことがあるんです。ただ、もうその頃には私、速記者になりたいと思っていたもので。Q:すでに高校時代にですか。それは何か、きっかけがあったんでしょうか。宮部:もう忘れてしまいましたが、新聞や雑誌か何かで読んだか、テレビのドキュメンタリー番組で見たかして、「あ、この仕事いいな」と感じたんだと思います。Q:高校を卒業後、すぐに速記の道に進まれたのですか。宮部:いいえ。最初の2年間は、普通のOLをしてたんです。そこでお給料をもらいながら夜間の速記学校に通って、1級速記士の試験に合格しました。で、その後に法律事務所に移りました。Q:西新宿の法律事務所ですね。お仕事の内容はどんなものでしたか。宮部:弁護士として独立されたばかりの若い先生の事務所で、先生もいろいろと地固めされている段階だったらしく、そんなに忙しくない。ほとんどの時間は電話番でした。先生も「本を読んでいてもいいし、何か勉強してても構わないから」とおっしゃっていて、とてもいい環境でした。Q:それは1980年代の前半ですね。宮部:21歳からですから、81年から86年までの5年間です。<最初に買ったミステリーの「参考資料」とは>Q:先日の「新潮」(2017年5月号)での、津村記久子さんとの対談に立ち会っていて印象的だったのが、母さまが大の映画好きで、それが宮部さんの「物語好き」を育んだという発言でした。宮部:そうですね。いろいろと刺激を受けました。例えば小学校の夏休みに、「ヒッチコックっていう監督の映画が面白いから見てごらん」と言われて。それがあの「鳥」だったわけですが(笑)。Q:当時の宮部さんの周囲に存在したもののうち、のちに作家になることに一番の影響を与えたものは何だったんでしょうか。宮部:やはり映画ですね。津村さんとの対談でもお話ししたのですが、作家になる前に読んでいた小説は、7対3とか8対2の割合で、圧倒的に国内作品よりも海外の翻訳ミステリーの割合が高かった。でも映画と小説、どちらにより影響を受けたかと考えると、これは7対3くらいで映画なんです。Q:かなり意外なお話ですね。宮部:この間、古い本を整理していたら出てきてわらっちゃったんですが、最初にミステリーを書こうと思った時に買ってきた参考資料、いったい何だったと思いますか。Q:うーん、見当がつきません。宮部:ヒッチコックとトリュフォーの『映画術』なんですよ。Q:えっ、あの晶文社から出ている?宮部:十代の頃から翻訳ミステリーを読んで、そのうち読むだけではなく自分で書いてみたくなって習作を始めて、今度は国内の作家を猛然と読み始めた。でも、初めて「小説を書いてみよう」と思った時に、お昼ご飯を1週間立ち食いソバにしなきゃいけないくらい高かったけど、買ってきたのは『映画術』だったんです。いっぱい付箋を立ててて、やたらにラインマーカーを引いていて、もうボロボロなんですけどね。でも今思うと、ずいぶんピントがずれた参考資料ですよね(笑)。Q:確かにユニークなチョイスかと。おいくつの時でしたか。宮部:23歳です。Q:その『映画術』、実際にご自分でミステリーをお書きになる際に、役立ちましたか。宮部:いやあ、もう細かいことは忘れてしまいっましたね。でも、ひとつだけはっきり記憶しているのが、「ショック」と「サスペンス」についての有名な1節です。「ショック」というのは、観客にいろいろな情報を伏せておいて、いきなりドカンと露わにすれば与えられる。一方で「サスペンス」というのは、登場人物は知らないが、観客には情報が与えられている。例えば、このテーブルの裏に爆弾が仕掛けられている。それを登場人物は知らないが、映画の観客は知っている…という状態を作らないと、「サスペンス」は生じない。 だから情報の開示の方法と、開示していく順番が大切なんだということを、ヒッチおじさんがおっしゃっているんです。それはたぶん、すごく参考になったんだと思います。ウーム「サスペンス」の真髄を『映画術』という本から学んだのか・・・参考になりまんな♪
2018.01.25
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<図書館大好き280>今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「女性作家」でしょうか♪<市立図書館>・エルニーニョ・エスケイプ/アブセント・小説新潮(2017年6月号)宮部みゆき特集・福岡ハカセの本棚<大学図書館>・森の仕事と木遣り唄図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【エルニーニョ】中島京子著、講談社、2010年刊<「BOOK」データベース>より女子大生・瑛は、恋人から逃れて、南の町のホテルにたどり着いた。そこで、ホテルの部屋の電話機に残されたメッセージを聞く。「とても簡単なのですぐわかります。市電に乗って湖前で降ります。とてもいいところです。ボート乗り場に十時でいいですか?待ってます」そして、瑛とニノは出会った。ニノもまた、何者かから逃げているらしい。追っ手から追いつめられ、離ればなれになってしまう二人。直木賞受賞第一作。21歳の女子大生・瑛と7歳の少年・ニノ、逃げたくて、会いたい二人の約束の物語。<読む前の大使寸評>奇しくも、同じ日に借りた絲山秋子の『エスケイプ/アブセント』とよく似た短篇小説である。漂泊願望あるいは逃亡願望があるのかなあ?♪amazonエルニーニョ【エスケイプ/アブセント】絲山秋子著、新潮社、2006年刊<出版社>より闘争と逃走にあけくれ、20年を棒に振った「おれ」。だが人生は、まだたっぷりと残っている。旅に出た京都で始まった長屋の教会での居候暮らし。あやしげな西洋坊主バンジャマンと、遅れすぎた活動家だった「おれ」。そして「あいつ」。必死に生きることは、祈りに似ている。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実を描く傑作小説。<読む前の大使寸評>フェイクな日々にこそ宿る人生の真実ってか・・・『逃亡くそたわけ』のような短篇なんだろうか?とにかくロードムービー風のフェイクといえば、絲山さんの十八番だもんね♪shinchoshaエスケイプ/アブセント【小説新潮(2017年6月号)】雑誌、新潮社、2017年刊<商品の説明>より特報!宮部みゆき・作家生活30周年 未収録作品、インタビュー他<読む前の大使寸評>彼女の作品は分厚いので、たぶんまだ読んでいないけど、もうそろそろ読んでみる頃かと、まずはこの雑誌を読んでみようと思ったわけです。amazon小説新潮(2017年6月号)【福岡ハカセの本棚】福岡伸一著、メディアファクトリー、2012年刊<「BOOK」データベース>より科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。【目次】第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(1/23予約、1/25受取予定)>rakuten福岡ハカセの本棚【森の仕事と木遣り唄】山村基毅著、晶文社、2001年刊<「BOOK」データベース>より東京・木場、木曽、熊野、高知、京都、飯能、和歌山、日田、広島、岡山、北海道…失われた唄を探して各地を訪ね歩く。山に分け入って、伐採や集材や運搬の実際を見、炭焼きに汗し、古老の話に耳を傾ける。それは、培われた技能や知恵を掘り起こし、人々が山や森や木とどう関わってきたかを丹念に熱く描きだすこととなった。私たちが得たもの失ったものとは?日本の林業の営みをとおして、唄うことの心性と働くことの意味を深く問う、渾身のルポルタージュ。<読む前の大使寸評>林業や炭焼きは大使のツボなんで、チョイスしたわけです。実際にこの分野で活動するには、手遅れというか歳をとりすぎた感もあるわけですが。amazon森の仕事と木遣り唄<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き279
2018.01.24
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図書館で『エスケイプ/アブセント』という本を手にしたのです。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実ってか・・・『逃亡くそたわけ』のような短篇なんだろうか?とにかくロードムービー風のフェイクといえば、絲山さんの十八番だもんね♪【エスケイプ/アブセント】絲山秋子著、新潮社、2006年刊<出版社>より闘争と逃走にあけくれ、20年を棒に振った「おれ」。だが人生は、まだたっぷりと残っている。旅に出た京都で始まった長屋の教会での居候暮らし。あやしげな西洋坊主バンジャマンと、遅れすぎた活動家だった「おれ」。そして「あいつ」。必死に生きることは、祈りに似ている。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実を描く傑作小説。<読む前の大使寸評>フェイクな日々にこそ宿る人生の真実ってか・・・『逃亡くそたわけ』のような短篇なんだろうか?とにかくロードムービー風のフェイクといえば、絲山さんの十八番だもんね♪shinchoshaエスケイプ/アブセント「エスケイプ」の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p10~13<エスケイプ> タバコと一緒で、始めるのは簡単でやめるのは大変だった。 何しろおれなんか、字だってまともに書けないからね。一応大学には入ったはずなんだが、やめたときにはゲバ字しか書かなくなってたからな。もう今更ふつーの会社なんか入れるわけないし、万一入れたとしたってまた組合闘争とかになっちゃうわけだし、もう40にしておれってなに! って思ったよ。 不惑だなんてそんなの人生50年の時代、2006年の江崎正臣40歳は惑い惑い惑いまくりよ。ここ数年特に、活動をやめようやめようと思いながらやめられなかった。 てゆーかなんで40なんかになっちゃったかね。ずっと25でも別に全然よかったんだけど。やだやだ、最近妙に疲れやすいし、物忘れするし。まあずっと不規則で不健康な生活してきたからなあ。 そもそも住んでたのが事務所みたいなところだからね。あんまり多くは言えないけれど、おれは大学のときの下宿を出てから20年というもの、ずっとソファで寝てきたんだ。拘置所といくつかの潜伏先を除けばね。あのソファは、はっきり言ってくさい。 日はとうに暮れていたので、とりあえずおれは銭湯に行った。ここのタイル絵を見るのも、お世話になったケロリンの洗面器を使うのも最後だし、なんとなく身ぎれいにしておきたい感じがしたんだ。おれはいつもより丹念に体を洗い、熱い湯にアゴまでつかった。ぐっぱいケロリン。もう来ないぜ。 そりゃあいい気分だったぜ。自由を勝ち取ろうなんて言うのをやめた瞬間自由になっちまったんだもの。 脳みそまで洗っちゃった気分だ。 さて、そろそろ徘徊するぞ。できれば今日中に移動したい。(中略) てくてく歩いているとき、おれはいつも思い出す。昔NHKで見た、狂ったペンギンのことを。そいつは南極の沿岸に住んでいたのに、あるとき取材班の目の前で、南に向かって歩き出したのだ。極点に向かって。何度取材班が抱き上げて海際に戻してやってもそいつは胸をふくらませ、確信を持って南に向かって歩き出す。食い物もない不毛の大地を。 死ぬまで歩くのだ。全く狂っている。だけど、狂気というのはときに、とてつもなくリアルであることをおれは知った。たった一羽の狂ったペンギンの前で、NHK取材班は完全に無力だった。 それから何年もたって、おれが人類の歴史を考えるたびに、あのペンギンがおれの脳内に復活し、極点に向かって歩き出すのだった。たった一人の狂った…ハイル!ハイル!…待ってろよおいらがいますぐ革命起こしてやるからな…なんてね。あーくだらねー、おれはこんなふうに脳みそを浪費してきたんだ。さてと東京駅。着いた着いた。この本も絲山秋子ミニブームR10に収めておくものとします。
2018.01.24
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図書館で『本の運命』という本を、手にしたのです。本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。【本の運命】井上ひさし著、文藝春秋、1997年刊<「BOOK」データベース>より本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。<読む前の大使寸評>本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。rakuten本の運命井上さんの情報整理術を見てみましょう。p58~62■整理するから忘れるのです 「この件についてもっと詳しく書いてあった本があったんだけどな」といった思いをしたことは誰にもあるでしょう。ところが、これが出てこないんですね(笑)。 情報をどうやって整理するか、というのはほんとうに難しくて、僕もあらゆる方法を試しました。 一番最初に採用したのは、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』、京大式カードに「1件1枚」を原則にあらゆるデータを書きつけておくというやつです。僕もこれはずいぶんやりました。スチール製カードボックスを買い込んで、毎日せっせとカードをつくってはそこに貯えていた。 ところがこのやり方にも問題があって、項目の立て方をうまくやらないと、結局そのカードがどこにいったのかわからなくなってしまう。さらに間違って変なところに入れたりすると、その情報はそれっきり消えてしまう。 有能な秘書か助手がいて、毎日きちっと整理してくれているなら別ですが、フツーの人間にはそんなゼイタクは望めません。一人でこれをやっていると、いつの間にかカードがごっそり団体で迷子になってしまうんですね。 結局、ずいぶん失敗をした末に、たどり着いたのは「書き抜き帳」です。 やや大きめの手帳を用意して、本でも新聞でもなんでも、これは大事だと思うことは書き抜いていく。その日、自分の目に触れて、「ウン?」と思ったことを、ただ順番にずーっと書いていくだけなんです。あとで参照できるように、出典とか頁数とかも書いておきます。 そんな手帳が、1年にそうですね、5、6冊になりますか。それに番号さえ振っておけば、不思議に「あれは3冊目のあの辺にあったかな」ってわかるんです。 手が覚えているんですね。ただ、文章をそのまま写してるだけなんですが、それが一番いい記憶法だということがわかりました。 最近は、ワープロとかコンピュータがありますから、機械で抜き書きするということもできます。僕もやってみましたが、それじゃダメです。記憶に残らないんです。やっぱり時間は掛かりますけど(といっても、そんなに大した時間が掛かるわけじゃないですから)、全部手書きで写すのが一番ですね。 1例ですけど、これは「父と暮らせば」という芝居を書いたときに読んだ本の書き抜きですね。広島の原爆について、いろんな本を読んで、大事なところをこうやって控えていくわけです。 あとで本を書く時、これをまたバーッと読んでいく。するっと、意外に、書かなかった他のこともこまかく再現されてくる。また1種の「知的日録」になるという長所もあります。 これが僕の究極の整理法です。ずいぶんと原始的だけど、手で写していくということが一番確実なんですね。だから「超整理法」の逆です。整理するから忘れる(笑)。整理なぞしてやるものかと決心して、ただただ自分の生活時間に合わせて、分類などしないで写していく。これだと情報はなくならない。 つまり、情報のポケットを一つだけにする。そしてそのポケットの中身を単純に時間順に並べる。このとき妙な整理をするから、逆に不整理が始まっちゃうんですね(笑)。もっともこの方法も、「自分の生活時間に沿って整理する」という整理法かもしえませんね。 この書き抜き帳方式の最大の欠点は、手帖を落としたらどうするか、ということなんですが、そのときは運がなかったとあきらめるしかありません(笑)。『本の運命』1:個人で図書館を作った『本の運命』2:読書に関するグッドアイデア
2018.01.24
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図書館に予約していた『ウニはすごい バッタもすごい』という本を、待つこと5ヶ月でゲットしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい 「第5章 ナマコ王国」から棘皮動物を、見てみましょう。p211~214<棘皮動物はちょっとだけ動く> 動物は大別して2種類、すばやく動くもの(運動指向型動物)と、専守防衛のもの(防御指向型動物)に分けられるだろう。 運動指向型のものは、足に自信がある。脊椎動物がこの代表。発達した四肢やヒレがあり、すばやく動く。また発達した眼をはじめとする感覚器官をもち、敏感に餌の存在を感じてすばやくそこに向かい、他に先んじて確保する。敵の存在も敏感に感じてすばやく逃げる。それを可能にする感覚器官が発達し、感覚器官がとらえた情報をすばやく的確に処理する神経系も発達している。ただし体の防御はそれほど発達していない。重い鎧で身を守っていたらすばやくは動けないからである。頼るのは逃げ足の速さ。ところが、より速くなろうと筋肉を発達させれば、捕食者の目には、よりおいしい餌に見えてくるわけで、余計に狙われる心配もふえることになる。 防御指向型の動物は逆で、サンゴ・フジツボ・固着性の貝がその代表。立派な殻で身を守っており、逃げることも餌を探して歩くこともしない。そのため、運動器官・感覚器官・神経系は発達していない。 棘皮動物は以上二つのどちらとも違い、ちょっとだけ動く動物である。これは動物としてはまことにめずらしい。キャッチ結合組織が軟らかい時には、体はある程度のしなやかさをもち、のそのそとではあるが運動可能である。キャッチ結合組織*が硬くなると防御指向型に匹敵する良い防御をもつことができる。 運動指向型の動物が餌にしようと思っても、手間と危険を伴うためにとても手に負えないとあきらめるような餌(たとえば藻類や貝やサンゴ)でも、棘皮動物には良い防御があるため、食べ歩くことが可能になる。防御指向型のものは、流れに乗ってくる有機物の粒子(フジツボや貝の場合)や、光(サンゴの場合)のような、向こうからやって来るものしか餌にできないのに対し、棘皮動物は、のそのそとではあれ、動くことができるから、向こうからやって来ないものでも餌にできる(ただし逃げ足の遅いものに限る)。 さかんに動く動物と、まったく動かない動物との間で、ちょっとだけ動く生活をしているのが棘皮動物である。ちょっとだけ動ければ、どちらの動物も手に入れることができなかった餌を独占できる。いわば「隙間産業」で身を立てているのが棘皮動物。他と競い合うことなく、平和裏に天国の暮らしを実現してしまったのが彼らであり、それも「小さな骨片がキャッチ結合組織でつづり合わされた」類い稀な支持系を開発したおかげだった。*【注記】:ガンガゼの棘のところでも述べたが、キャッチ結合組織の際だった特色は、硬さが神経の支配を受けていること。ガンガゼ同様、ナマコも体に影が落ちると、皮を硬くして身構える。ナマコもウニも眼という視覚専門の感覚器官をもっていないが、体表に分布している神経が光や影を感じることができる。『ウニはすごい バッタもすごい』1:昆虫の骨格『ウニはすごい バッタもすごい』2:昆虫と水の関係『ウニはすごい バッタもすごい』3:巻貝の構造『ウニはすごい バッタもすごい』4:飛翔の仕組み『ゾウの時間 ネズミの時間』1:生物界には車輪がない『ゾウの時間 ネズミの時間』2:クチクラの外骨格
2018.01.23
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図書館で『ヨコオ論タダノリ』という本を、手にしたのです。いろんな人と交流している横尾さんであるが・・・荒俣さんともお友だちだったようで、ええでぇ♪【ヨコオ論タダノリ】荒俣宏著、平凡社、2002年刊<「BOOK」データベース>より奇才・荒俣宏が教える横尾忠則を20倍楽しむ方法!作品の細部に分け入り、郷里・西脇を訪ね一緒に甘いものを食べ、博物学・図像学の知識を総動員する-五感+第六感を全開にして書き上げた、世界初の横尾論。<読む前の大使寸評>いろんな人と交流している横尾さんであるが・・・荒俣さんともお友だちだったようで、ええでぇ♪rakutenヨコオ論タダノリ「夢枕三」夢について見てみましょう。荒俣さんはここでは横尾さんそちのけで、縦横無尽に語っていますp151~154<夢枕の使い方指南> 横尾忠則さんから『夢枕』について何か書け、といわれて、夢の本をいろいろと読み比べながら無い知恵を絞ることにしたあ。でも、いきなりフロイトに入門するのも癪だと思い、ちょっと斜めから物色を始めた。それやこれやで、ハブロック・エリス著『夢の世界』を、古い岩波文庫で読んでいたら、さすがにフロイトの夢判断が世にあらわれたのと同時代の人の発想だ、と思わせる記述にたくさんぶつかった。 どのあたりが、さすがと思わせる発想、かというと、夢と感覚刺激との因果関係を必死にみつけだしたがっていることである。たとえば、エリスは眠っているあいだに巨大なゴキブリ状の虫が掌に来てとまり、もそもそと動かれるところを夢に見た。起きてみると、手首が蚊に刺されている。また、ホテルの最上階にある部屋に泊まった夢というのもある。疲れ切って登り終え、内にはいると、かなり寒い。メイドがベッドメーキングの最中で、「こんな高いところにある寒い部屋に、よくこれたわね。勇敢ですわ」と声をかけてきた、という夢。目覚めると、体が布団から出ており、冷え切っていた。 ハブロック・エリスは、フロイトのように医者ではない。むしろ患者である。女性に恥毛があるということを知ったショックで不能になったというエピソードの持ち主である。当然、夢を見るほうの立場から研究しているから、夢を「不快のタネ」と感じている。フロイトのように原罪だの性衝動だのと、不快感をつき抜けた彼方にある衝動や苦悩までは、とても考えが回らない。むしろ、夢に出てくるビジョンや音や臭いや運動感や感触に徹底的にこだわるのだ。 エリスによれば、こうした夢=不快の観点に立ってみると、そこに結ばれる夢のうち、圧倒的に多く登場するのが、視覚像すなわち見える夢である。つづいて聴覚像が25%前後の夢にあらわれ、触覚像が8%、運動感はずっと減って5%、嗅覚像や味覚像は滅多に出てこないのだそうな。 仮に不快感が夢を引き起こすとすれば、眠っている自分にその不快感を払えないことが、なによりも大きなストレスの原因となる。その結果、夢の中で動きまわる実感といえる運動感が、グッと低い値しか出てこないのだと思う。そこで、たわむれに横尾忠則さんの42の夢について、そこにあらわれる感覚像をチェックしてみた。 夢の絵日記だから視覚像が100%に達するのは当然として、おもしろいことに運動感(走りまわったり、落下したり、グルグル回されたり)の比率が5割を軽く越えていた。不快と夢との関係を追いつづけた世紀末人ハブロック・エリスの検証と、まるっきり違っている。横尾さんは夢に金縛りにされていないのである。 ならば、横尾さんが精通しているに違いない『明恵上人夢記』との関連を調べてやろう、という気になって、読んでいたら、これまた変なことに気づいた。明恵の夢のパターンは、だいたい一定していて、読誦したり修業したりしているうちに疲れて「熟眠」することから夢を見るのである。おまけに、夢はぜんぶ心地よい。 おいしい馳走を食べたり、歩きよい舗装道路を歩いたり、大孔雀王を見たり、また上師らと楽しくおしゃべりしたり、すごいのになると、多くの人の乗り合わせた筏が瀧に落ちる夢にあって、明恵ひとりは足を踏ん張って立っていると、筏が瀧壷に落下しても水中に放りだされることなく、自分だけを乗せて浅瀬に無事到着してしまったりする。また、美女に秋波を送られる幻を見たりもする。案外に俗っぽい。 また、6、7人の伴を連れて、ある人の家へ行こうとしたところ、道がウンコの山に覆われていた夢という、匂いたつような変な夢もある。同行の人たちとともに、このウンコの山に「箸を浸した」というから、やっぱり喜んでウンコと遊んだのだろう。 つまり、明恵の夢は、ぜんたいに快楽なのである。たいへんにおもしろい現象だと思った。この快さを象徴するのが、水や湯につかる夢なのである。明恵は、夢の中でやたらと湯にはいり、水を浴びる。横尾忠則の夢絵日記を読み返したら、横尾さんの夢にも風呂にはいるシーンが次々にでてきて驚かされた。しかし、快楽一方かといえば、決してそうではなく、一種の不安感や恐怖にも満たされている。 では横尾さんの夢絵日記とは、いったいどういう性質のものなのだろうか。神やUFOや聖人や宇宙人がしばしば夢枕に立つところから、明恵に近いともいえるが、それではあまりにもピッタリしすぎる。だいいち、解説の必要もなくなる。そこで夢絵を長いこと眺めつづけてから、ひとつの鍵穴に合い鍵を試してみようかという気持になってきた。そもそも夢についての絵日記を、横尾さんから見せられたときから気になっていたのである。 それは、どの絵にも「眠る人」が描かれていることだった。夢絵では例外なく、横尾さんが眠っている。夢を見ている本人が、夢の中に出てくるのだ。しかも同時に、黒子のように正体を隠した「霊体」の横尾さんもいる。どう考えても、同じ空間で対面できるわけもない「自分」同士が、顔を突き合わせているではないか。 おまけに、1枚ずつ仔細に絵を眺めてみると、二人の横尾さんは夢の中での出来ごとに対し、まったく異なった行動をとっているのである。眠る横尾さんは、まことに気ままで身勝手なところから、夢の光景をみつめている。空の上だったり、岩のうしろだったり、バスの屋根だったり!そして「眠る横尾さん」は、目を閉じることによって、夢をみつめるのである。『ヨコオ論タダノリ』1この本も横尾忠則の世界R3に収めておくものとします。
2018.01.23
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図書館で『「在中二世」が見た日中戦争』という本を、手にしたのです。戦争を見聞きした世代が絶えようとしている昨今であるが・・・日中戦争時、青島の日本租界ですごした著者の少年時代が、興味深いのです。【「在中二世」が見た日中戦争】若槻泰雄著、芙蓉書房出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より満州事変から太平洋戦争までの激動の時代、「外地」に住む少年が見たものは…?学校生活、軍国主義教育の浸透、中国人・欧米人との関わり、日本軍の蛮行、天皇制への疑問、日本人のアイデンティティなど、歯に衣きせぬ筆致で「大人の論理」を徹底的に批判する。<読む前の大使寸評>戦争を見聞きした世代が絶えようとしている昨今であるが・・・日中戦争時、青島の日本租界ですごした著者の少年時代が、興味深いのです。amazon「在中二世」が見た日中戦争「第二部 盧溝橋事件から真珠湾攻撃まで」から、語り口をちょっとだけ見てみましょう。p115~121■半年ぶりの帰青 昭和13年(1938)4月、私は東京から日本軍占領下の青島に帰ってきて、「青島日本中学校」の2年生に編入された。まだ全員が復学していないとみえ、生徒数は少し減少し、逆に新しい若い先生2、3人増えていた。中国で勤めていれば召集されないという噂を聞いたことがあるが、昭和15、6年頃までは、大陸の第1線で職についているものに対しては別に教師に限らず、そういう配慮があったらしい。 事実、青島に住んでいる日本人たちには、真実か建て前かは別として、「大陸の第1線」的気分が少しはあったような気がする。これは盧溝橋事件以後に限らず、それ以前からあったことで、明治以来の日本の基本的国策である「海外発展」、「大陸政策」の前衛を担っているという自負のようなものがあったのだろう。 半年ぶりの市街には破壊の跡はまったく見られず昔のままだったが、前よりいくらか静かなような気もした。日本との断交で経済活動は沈滞し、日本軍の占領下で暮らすのをいやがって脱出した中国人が少なくなかったためだろう。事実、市長以下の市政府の高官や名士たちもほとんど姿を消していたし、私の家の周囲にも2、3軒、住民が変わってしまった中国人の家があった。 市街は一見被害は免れたとはいっても、日本人の中には、盗難、破壊といった被害を受けた人もいたようだ。私の家は、父が古くから付き合いのあったドイツ人に管理を頼んであったので無事にすんだが、父が自慢していた清朝王室が使っていたと称する硯はなくなっていた、とのことだ。大事なものだからわざわざ地下室の石炭倉庫の中に隠しておいたのが裏目に出て、石炭をちょっと失敬しようとしたボーイにでもとられたのだろう。中国人の使用人の大部分はそのまま残っていたが、やめてしまった者もいた。 市内の被害が軽微だったのに比べ、郊外にある日本の紡績工場は、ところどころに煉瓦の壁を残すだけで、屋根も機械も跡かたもなくなり、文字通り「瓦礫の山」ではなく、「瓦礫の平地」と化していた。私は二つの工場を見に行ったが、こういった状況はどこの会社の工場も同じだったという。日本軍の上陸も迫ったと見られた前年12月、市当局の命令により、爆破放火されたとのことだった。確かにこれほど徹底した破壊は、中学生の目にも、単に暴徒の襲撃ではないように感じられた。 町は静かであまり変わっていないと書いたが、やがて、急速に変わってくるようになった。何も青島だけではなく、日本全体、さらには日本軍の占領下の地域はどこでも、戦争の進展とともに変化していったのであろうが、それに加えて、私自身が未熟な少年から、少しは観察眼や考察力をもつ年齢に達したことも大きく影響していたに違いない。 青島の状態、そして私の内外の状況は、様変わりしてきたのである。平和な時代は去り、動乱の時代が始まった。■もう中国ではなくなった青島 決定的な変化の第一は言うまでもなく、青島の権力者が変わったということである。青島はもう中国ではなく、日本軍の占領地であった。「市政府」という中国の役所はなくなり、その大きな建物は「海軍陸戦隊本部」となって、国民政府の「晴天白日旗」に代わって「軍艦旗」がひるがえっていた。 玄関にぶらぶらと立っていたカーキ色の制服を着た中国人巡警は姿を消し、紺色の制服に紺色の戦闘帽をかぶり、帯剣を腰にして小銃を握った陸戦隊員二名が厳然と立っているようになった。 治安が確立したためだろうか、日本軍の兵隊も武装していない姿を多く見かけるようになったし、海軍と陸軍のトラックがスピードをあげて町の中を走っていた。もともと自動車の少ない静かな道路だったから、走り回る紺色(海軍)と国防色(陸軍)のトラックはよく目立った。 済南を経て、膠済線から青島に向かう陸軍の占領部隊と、東シナ海から直接上陸する海軍陸戦隊がどんな関係だったのかなど、その時は考えもしなかったが、戦後、「戦史」を読んでみたら、いろいろな疑問が生じ、特に、利用すべき公共建築物の接収については両者の間で一悶着あったことを知った。 日本軍の権力の下に、中国側の自治組織として「治安維持会」なるものが設けられ、その看板のかかった建物の前には、昔ながらの巡警が立っていた。この治安維持会というのは、占領後も居残っていた「親日派」と目される地方名士を集めて結成した行政機関で、実質上、日本軍があやつっている軍政の下請け機関といったものだ。日本軍がいつもよくやる「傀儡政権」のもう一つ下の段階といったところである。 治安維持会が入っている古びた建物は、民家としては少し大きめな程度だから、これを見ただけでも権威がありそうには見えなかった。■行儀の悪い新来日本人 日本軍の占領とともに、私たちのように事変前から住んでいた者が帰ってきただけでなく、新来の人々によって日本人人口は増加していった。日本政府が占領地に作った国策会社や新たに進出してきた日本資本の会社社員、それに占領地ではどこでも見られる「一旗組」もやってきたようだった。 「一旗組」というのは、「ひとはた揚げる」からきている言葉であろうが、「新しく事業をおこす」「意欲をもって新しい運命を切り開く」という本来の意味ではなく、悪い印象に使われていた。占領下、軍の権威を利用して、あるいは軍に取り入って、経済的、社会的混乱に乗じ、一稼ぎ、荒稼ぎしようとする人たちのことを指し、遠く明治以来、日本の大陸進出とともにしばしば使われていた言葉のようで、小さい頃からよく聞いたものだ。 この時から4年後、日本軍が南方緒地域を占領した際、日本政府は「シナにおける経験上」南方への日本人の新規渡航を厳しく制限した。ということは、中国には多くの一旗組や大陸ゴロといった部類の日本人が流れこんだことを証明していることになる。(中略)■町の品格は落ちて「日本並」に 道路を歩いていて特に気がついたのは、その種の店の看板だけでなく、一般に広告や看板が多くなってきたことである。事変前の青島特別市長の沈鴻烈は「公園と道路の市長」といわれていたそうだから、ドイツ時代の伝統を継いで、町の美観には相当気をつかい、街頭の広告などは厳しく規制していたらしいが、今や、町並みは雑然とした雰囲気に変わってきたのである。 従来は見かけたことのない電柱広告が現れたと思うと、それは急速に広がっていって、この傾向に拍車がかかったように思われる。電柱広告が日本軍占領後に生れたものだと、ほぼ確信をもって言えるのは、その2年前に日本に初めて旅行したとき、電柱広告を見て、こんなものがあるのかと、へんに感心した記憶があるからだ。 日本軍の占領下で、町の品格は確実に「日本並」に落ちていった。何も道路上の看板だけでなく、日本人は空地をどんどんつぶしていったのである。以前から、商店街の建造物は密着して建てられていたが、住宅地では、今いうところの建蔽率は、おそらく20%程度、多くとも30%以下だったに違いない。せせこましい所に住みなれた日本人の行政官にしてみれば、そんな状態はもったいないと思ったのであろう。 新しく市街を造るのとちがい、従来の市街地の空地に建物を造るのなら、道路や上下水道などの資本投下も不要で簡単にできる。そこで空地はもとより、家の庭をつぶしてそこに家を建てるようになったわけだ。1937年、日本軍の動向をネットで見てみましょう。(なお、このサイトは中国政府のヒモがついているので、割引いて読む必要があります)海軍の青島への単独突入より日本軍は、上海、南京の戦局が一段落すると、今度は青島への攻撃を計画。しかし、青島地上戦の責任者である陸軍司令部が「陸海軍提携方針の下、華北地方所属部隊の青島西方への攻撃を待って、海軍とともにこれを占領すべし」との考えを固持したため、先延ばしされていた。日本海軍司令部と現地第四艦隊は、情勢から判断すれば、現在青島における中国兵力は少なく、海軍は単独でこれを処理できるため、これ以上作戦開始を遅らせるべきではないと考えていた。そして、陸海軍の意見は平行線のまま、日本第四艦隊豊田副武司令官により、海軍単独での青島突入が提議される。12月23日、日本陸軍が黄河を渡り、青島への攻撃態勢を整える中、海軍は歩みを速め、海上勢力の優勢を利用し素早く青島入りし、先に占拠を遂げた。陸海軍は、青島侵略の過程で互いに先を争う結果となった。1938年1月7日、日本大本営海軍部は、「中国方面艦隊」長官に対し、「現任務を遂行するため、時期を見て青島を占拠すべし」という大海令を発した。これにより、日本第四艦隊は攻撃日を1月10日に決めた。『「在中二世」が見た日中戦争』1
2018.01.23
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図書館で『本の運命』という本を、手にしたのです。本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。【本の運命】井上ひさし著、文藝春秋、1997年刊<「BOOK」データベース>より本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。<読む前の大使寸評>本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。rakuten本の運命井上さんの読書に関するグッドアイデアを見てみましょう。p64~68■本はゆっくり読むと、速く読める どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると、自然に速くなるんですね。最初いいかげんに読んでいると、いつまでたってもわからないし、速くはならない。でも、本の基本的なことが頭に入ってくると、もう自然に、えっというぐらいに速く読めるようになるんです。 僕は速読法というのはあんまり信用いていないんです。明日までになにか書かなければいけなくて、そのためにはこの本だけはちゃんと読んでおかなくては、というときに、なぜかどんどん頭に入ってくるでしょ。ですからこっち側の意識の持ちようもあると思うんです。 推理小説でも普通の小説でも、それから専門書でもなんでも、この読み方をします。そうすると、書いている人の癖もわかってくるんですね。「アッこの人は結論はおしまいで出すな」といったことがわかる。そうなれば、飛ばし読みしても大丈夫ということもわかる。まあ、飛ばさなくてもどんどん速くなるから心配はいりませんが。 いずれにしても、「速く読むにはゆっくり読み出す」。これはぜひ、試してみてください。■ノリと鋏は読書の必需品 その次も、ちょっと大胆です。 「その七、栞(しおり)は1本とは限らない」 僕は、なぜ本に栞ひもが1本しかついてないのか不思議なんですね。本を読んでいて、「アッこのページはあとでまた見なくちゃいけない」ということはよくあるでしょう。注の多い本なんかだと、ぜったい2本は栞がいりますね。でも、最近の文庫なんかは、栞ひもがないものも多いでしょう。だったら、自分で作っちゃえばいいというわけです。 まず、こうやって、カバーを表紙に糊でくっつけちゃうんです。カバーって大事なんですけど、すぐ外れたりして邪魔っけでしょう。だから、この方法は、カバーが落ちないための防止法にもなる。 表紙とカバーをくっつける時に、背中の部分にタコ糸を挟んで、一緒にくっつければ、ハイ、もう出来上がり。普通のヤマト糊で充分です。こうすれば、本によって3本とか、10本とか、何本でもお好きなだけ栞を殖やすことができます。 ただ、あんまり増やすのも考えもので、僕なんかもうやけになって20本ぐらい付けて、栞がこんがらがってわけが分からなくなっちゃってるのもありますけれど(笑)。ウン 本とアナログ的に付き合ってきた井上さんが偲ばれますね♪これらのグッドアイデアは、デジタル本が増えてきた今でも廃れることはないでしょうね。『本の運命』1
2018.01.22
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図書館で『本の運命』という本を、手にしたのです。本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。【本の運命】井上ひさし著、文藝春秋、1997年刊<「BOOK」データベース>より本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。<読む前の大使寸評>本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。rakuten本の運命井上さんは個人で図書館を作ったようですが、本との交流を見てみましょう。それらの本は半生かかって集めたそうで…我ら凡人には真似ができません。p178~182■96冊から13万冊 図書館に行くと、本が輝いています。僕の家にあった時は、本の山の中で下積みの下積みになっていたわけでしょう。掘り出していくと、同じ本が何冊も出てきたりして(笑)。 それが本棚にちゃんと収まってずらっと並ぶと、たしかに本が喜んでるんですね。やはり本というのは、必用な人の手に取られることが一番幸せなんです。 石川淳さんが「本は市塵に返せ」とおっしゃっています。「本は町の塵の中に戻しなさい。収集家が個人的にしまっておくのは、本を知らない人のやることで、本は絶えず人の手に取ってもらうことで生きていくんだ」と書いていらっしゃる。 その通りだと思いました。僕のところで山積みになったまま死んでいた本が、いま図書館の広い書棚に並んで、読者を待っている。そのときの本の表情は、やっぱり輝いてるんですよ。 そして、本と読者が出会っている姿にはいつも心を打たれます。勉強に来てる高校生が、ひょっと書棚の前に立って目にとまった1冊を抜き出して、勉強そっちのけで読んだりしてる。それが彼にとって、運命的な出会いになるかもしれないと思うと、「あ、本がほんとに生きてるな」と感動します。 半生かかって集めた本が、もう一度生れかわって新しい運命を生き、ひとに新しい運命を与える…。子供の頃、96冊しかない本にガッカリした図書館が、いま13万冊の本で埋まっている。いま考えると僕は、昔、自分が夢みたことを実現するために生きていたような気もするんです。だから96冊から13万冊への半生だったわけですね(笑)。 ■本は滅びるのか? 近頃さかんに、「本が読まれなくなった」と言われます。一方で、コンピュータや、CD-ROM、電子ブックといったものが登場して、活字はいずれ消えていく運命ではないかとまで言う人もいます。本当にそうでしょうか? 本屋さんも、ずいぶん変わりました。どの本屋さんに行っても、同じような本がならんでいる。配本が合理的というか、どこも同じようになってきたんでしょうね。しかも、雑誌やマンガ、実用書ばかりで、古典や小説、詩といったものはちょっとしか置いてない。戯曲集などは皆無です。そうなると、欲しい本を手に入れるには、大きな本屋さんに行ったほうが早い。そうやっていま、町の本屋さんがどんどん潰れていって、大きな書店だけが生き残っている。 いま、日本では1年に5万種の本が出版されているんだそうです。1日に百数十冊出るわけです。もちろん町の本屋さんが、それを全部カバーすることはできません。取次から送ってくる本を並べるだけで精一杯ということになってしまう。 昔は、本屋さんのご主人の考えで、本を選んで並べることができた。お客さんの好みもわかってますから、「あの人なら、こういう本が好きに違いない」とか、「あのお客さんに、これを読ませたい」とか考えながら、本屋のオヤジさんは仕入れをした。魚屋さんが「あそこの家はこれ好きだよ」っていうのと同じようなお客さんとの関係が、本屋さんにもあったんですね。 でも、いまはそんな本屋さんは、ほとんどなくなりました。ですから、書棚の一番上をグルッと眺めて…、という僕のような本の買い方はできなくなった。それが残念ですね。大きな本屋さんもいいけれど、いつも込んでいて立ち読みに向かない。以前は、たいていの小説は立ち読みですっかり読み切ってしまったものですが。ところで、紙の本をめぐる環境であるが・・・上記の本屋さん、大きな書店、図書館、アマゾンと、本の入手方法は多様であり、本屋のオヤジさんの悩みは尽きないようですね。
2018.01.22
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図書館で『私の貧乏物語』という本を、手にしたのです。日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。【私の貧乏物語】岩波書店編、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より非正規雇用比率が四割を越え、セーフティネットが手薄なまま多くの人たちが貧困や孤立にあえぐ日本。いま、希望とは?そして生きていくための支えとは?笑い、怒り、涙、出会い、気づき、覚悟、提言…各界の三六人による各人各様の「貧乏物語」からそのヒントをさぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。rakuten私の貧乏物語内沢旬子さんの貧乏物語を、見てみましょう。p30~35<貯金の鬼> 100万円を貯める。それだけを考えるようにした。100万円貯まったら、自分は自由になる。実家という牢獄から出ることができる。会社というきわめて居心地の悪い組織からも離れ、片道切符でシベリア鉄道に乗って、行方不明になるのだ。 自由は、お金で買える。24歳の時、私は本気でそう思っていた。真の自由、となれば購えるものではないことも、もちろんわかってはいたけれど、そんなkのは机上の論理。現在自分が置かれた不自由な状況を解決するものは、お金。お金しかなかった。 両親は私が未熟であることを理由に自宅に縛り付け干渉し続け、何かをしようとすれば激しく否定された。抗議をすれば、今も養われている立場に変わりはないとはねつけられるのであるから、養われない立場になって好き勝手に暮らそうとするのはごく自然の論理というもの。 1ヵ月の基本給14万8000円。実家に2万円を入れた残りのほとんどを、私は貯金に回した。利率の良い会社の財形に6万円、さらに百貨店の積み立てに月に5000円。12ヵ月後には6万5000円の優待券がもらえたので、これで服代を賄った。残りは10万円貯まるたびに郵貯の定額貯金に回した。こちらも利率が5%ほどだったろうか。 バブルと呼ばれたこの時代に、私が味わった唯一の「景気の良い」ことは、この利率の良さだけである。もし1000万円持っていたら、どれだけお金を殖やすことができるのだろう。電卓を叩いてため息をついたものだ。 鎌倉の新興住宅地にあった実家の価格は、たった45坪の敷地のしょぼい木造住宅だというのに、1億円に届くかという上昇ぶりだった。購入価格はその10分の1くらいだったのだから、売ったらものすごい儲けになるはずなのだけど、売ってしまったら新しく住む場所を確保しなければならず・・・どうにも動きようがない。 結局、この時代の恩恵は、余分な資産を蓄えた人にはあったのかもしれないけれど、ごく普通の生活をギリギリで送る者たちにとっては、6万円が6万5000円になるくらいの見返りしかなく、家賃や不動産価格の高騰に苦しめられていたように思う。 しかしギリギリでもマイナスに転じない環境下にいた自分は、経済的にはまだ恵まれていたといえよう。私が通った大学のキャンパスは、渋谷にあったにもかかわらず、バブル期特有の華やかさも、あのバッグを買わねばという妙な同調圧力もなかった。そしてどういうわけか、私が顔を出していたサークルに集う学生たちは、仕送りが十分ではなくてカツカツの暮らしをしている人が多かった。(中略) 土日は遊ぶとお金がかかるし、家にもいたくなかったため、恩師の友人が教える大学の授業を聞きに行き、残りの時間は喫茶店でアルバイトをした。時給は700円くらいだったろうか。会社の仕事は営業経理で、楽しさも面白さもまるでわからない、苦行のような業務内容だった。しかも前任者が帳簿を合わせずにめちゃくちゃにして辞めていったため、入社して半年間は毎日3時間以上残業していた。それでも月の手取りは、アルバイトを合わせて20万円を超えることはなかった。 衝撃だったのは、会社の先輩女性の手取りを聞いたときだった。勤続何年だったろうか、30半ばにして、30万円に達していなかった。 横浜郊外で、バスとトイレが別の、女性が住んで安心のマンションに住もうと思ったら、10万円を切る物件はとても少なかった。これだけ働いても、それじゃあ、賃貸マンションに住んだら本当にギリギリの生活しかできないし、そこから家やマンションを買おうと思ったって、まるで無理ってことじゃん・・・どうしたらいいわけ??? 男女雇用機会均等法は施行されたばかりで、一般職と事務職という言葉の違いは知っていた。けれども待遇にこんなふうに差がついていくなんて、それが独立できるかどうかを左右するなんて、何もわかっていなかった。自分は本当にバカだったと思ったけれど、もう遅い。男女平等なんてまるでうそっぱちだ。 大学を出るときには自分とまったく同じ能力の男性が、同じ会社に入っても入口が違うだけで、片方は独立して暮らせるだけの右肩上がりの給金を手にしてゆく。こちとら、同じ右肩上がりといっても角度が違う。定年退職まで勤めたって月に30万もらえるのかどうか。しかも30すぎればババアと陰口を散々叩かれる。内沢さんが「男女雇用機会均等なんてまるでうそっぱちだ。自分は本当にバカだった」と悔やんでいるが・・・ニッポンの限界を見るようです。内沢さんの新著『漂うままに島に着き』によれば、内沢さんは小豆島に移住したようです。【漂うままに島に着き】内沢旬子著、朝日新聞出版、2016年刊<商品説明>より乳がん治療の果てに、離婚をし、一人暮らしを始めた著者。しかし、東京のせまいマンション暮らしが我慢できなくなり、地方移住を検討し始める。香川県の小豆島に移住を決め、引っ越しを終えてからの折々の心境の変化をつづった地方移住顛末記。<読む前の大使寸評>Ⅰターン先としての小豆島・・・いいんじゃないでしょうか。内沢さんは癌治療中の身であり、また身辺整理の思いもあって小豆島に移住したそうだが・・・癌で胃を全摘した大使にとって、内沢さんの生き方には切実な関心があるわけです。<図書館予約:(10/27予約、4/25受取)>rakuten漂うままに島に着き『漂うままに島に着き』3byドングリ『私の貧乏物語』1:湯浅誠『私の貧乏物語』2:星野博美
2018.01.22
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図書館で『私の貧乏物語』という本を、手にしたのです。日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。【私の貧乏物語】岩波書店編、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より非正規雇用比率が四割を越え、セーフティネットが手薄なまま多くの人たちが貧困や孤立にあえぐ日本。いま、希望とは?そして生きていくための支えとは?笑い、怒り、涙、出会い、気づき、覚悟、提言…各界の三六人による各人各様の「貧乏物語」からそのヒントをさぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。rakuten私の貧乏物語『みんな彗星を見ていた』の著者、星野博美さんの貧乏生活を、見てみましょう。p47~50<選択的ミニマム生活> 私の貧乏履歴書は、昭和の終わりとともに始まった。 大学を卒業して一般企業に就職し、その年のクリスマスで辞めてしまった。呑気な時代だったため、仕事を辞めるのに勇気は必要なかった。しかし、たいした給料ではなかったが、安定した生活基盤を捨てたことには変わりない。 それからゆるやかに写真・文筆業界という、極めて不安定な業界に足を踏み入れた。仕事を辞めたほんの2週間後に昭和天皇が崩御し、平成の時代に入った。平成の年号と、不安定生活の歴史がぴったり合うので、「平成は貧乏の始まり」と認識している。バブルの時期は、派手な消費行動をする人たちの頭の中がまったく理解できず、外国で暮らしているような気さえした。 その後、貧乏暮らしで貯めたなけなしの金で香港へ行き、しかも1年の予定が2年に延びたため、香港から帰国したあとが最も大変だった。書きたいことは山ほどあり、日々原稿を書き続けるが、本にならない限り収入は一切発生せず、まして本にしてもらえるという確証もない。『転がる香港に苔は生えない』という本が出来上がる前の1999年が最悪の時期で、年収は2万円だった。 風呂付きのアパートになかなか昇格できず、銭湯通いは長く続いた。その後遺症で、私はいまでも風呂嫌いである。頻繁に風呂に入る習慣を失ってしまったのだ。一番欲しかったのは風呂ではなく、自分専用の様式トイレだった。風呂は回数を減らせるが、排泄はそうはいかないからだ。清潔な様式トイレこそ、豊かさの象徴だった。 しかしそれが一体何であろう。生活を向上させる努力より、束縛されないほうを選んだだけなので、私に「貧乏」を語る資格があるとは思えない。ここは少し控えめに、「選択的ミニマム生活」と呼んでおきたい。 人それぞれいろいろな考え方がある。経済基盤は他で確保し、表現活動に向かう人もいる。そういう切り替えが器用にできる人はそうすればいいと思う。が実際私は、不安定さに耐えきれずアルバイトを始め、表現活動を諦めた人を周囲でいやというほど見てきた。だから、どんなに収入が少なくても本業と無関係な副業はしない、生活苦を理由に同棲をしたりヒモ女になったり、まして結婚したりしない、その掟だけは固く守ってきた。誰にもおすすめはしないが。 金を得るたびに自由が増えるわけではない。一方、金がないと、確実に消費行動は制限される。多くの人は、貧乏が自由の制限につながることを怖れているのだと私は想像するが、そこは少し違う。制限されるのは、風呂、見てくれ、社交、外食、趣味、新しい製品の購入といった、モノや行為だ。美容院に行けないから長い間長髪だったし、友人関係は極度に狭まった。風呂付きに昇格したのは35歳の時だったが、電子レンジはさらに遅く、40歳だった。 手に入れたいものが10あるとしたら、9は確実に諦めなければならない。 その代わり1を死守すればいい。不可侵の1を何にするか。それが「自由」だ。9を諦めた上で死守するのだから、1に対する思い入れは俄然強くなる。自分の場合、その中には猫との生活も含まれていた。 手放したもののことは忘れ、掴んでいるものを絶対に手放すな。 当時は、日記にそんなことばかり書いていた。実は毛沢東のウケウリなのだが。そして「いやな奴に頭下げて仕事もらうくらいなら、バナナとキャベツを食べ続けるほうがマシだ」と粋がり、実践していた。それが正しかったかどうかはわからない。 いまは自分専用の洋式トイレと風呂があり、当時と比べたら経済状況は若干安定した。しかし不安定な家業という前提条件に変わりはなく、それこそ今日突然やる気がなくなったら実入りがゼロになるという緊張感は、常に持ち続けている。覚悟というと聞こえはいいが、要は慣れだけだ。 私のイメージの中で収入とは1本のバーであり、それはひっきりなしに乱高下を繰り返している。いつでも緊縮財政に入れるよう、心の準備をしておかなければならない。 そこで役に立つのが、選択的ミニマム生活の経験だ。あのあたりまでバーを下げることができる、という先行イメージがすでにあるので、突然仕事を失ったり収入が激減したりしても動揺せずに済む。時代が混迷を深めても割りと平静でいられるのは、バブルに日本が躍らされていた時代に、ひとり不景気だったからかもしれない。時代がようやく自分に追いついてきたような気がする。その点、選択的ミニマム生活は有意義だった。ウーム 信念にもとづいた確信的貧乏生活がすさまじいですね。星野さんは、貧乏であっても「自由」と猫だけは死守したいとのことで・・・ご立派♪『みんな彗星を見ていた』をくだんのフォームで紹介します。みんな彗星を見ていたより星野博美著、文芸春秋、2015年刊<商品説明>より東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。 <読む前の大使寸評>三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪rakutenみんな彗星を見ていた『私の貧乏物語』1
2018.01.21
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図書館で『私の貧乏物語』という本を、手にしたのです。日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。【私の貧乏物語】岩波書店編、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より非正規雇用比率が四割を越え、セーフティネットが手薄なまま多くの人たちが貧困や孤立にあえぐ日本。いま、希望とは?そして生きていくための支えとは?笑い、怒り、涙、出会い、気づき、覚悟、提言…各界の三六人による各人各様の「貧乏物語」からそのヒントをさぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。rakuten私の貧乏物語貧乏論の権威といえば湯浅誠さんである(?)・・・ということで、先ず湯浅さんの弁を見てみましょう。p17~20<「なんとかなるさ」の人間になるまで> 気づいたら、私は「なんとかなるさ」と思える人間になっていた。 この「なんとかなるさ」と思えるようになるかどうかが決定的だと思うのだが、それは人生のかなり早い時期でわかれてしまうかもしれない。あとでそこを取り返すためには大変な努力と時間が必要だ。 私自身は、そこで何かしらの努力をした覚えがない。気づいたら、そういう子どもだった。小学3~4年で自宅のある小平市から新宿に「ひとり旅」をしたのが最初だったか。中二で京都にひとり旅をして初めて野宿し、高校二年のときは自転車で九州まで行った。 自宅の鍵はずっと開けっ放しで、東大の院を追い出されて野宿の人たちと便利屋を始めたときも、悲壮感とはほど遠かった。いつも、不安よりも期待感がまさっていた。いまも基本的にはまったく変わらない。 そう感じられることで、人生でずいぶん得をしてきた。しかしこの「得」は私に属していないと感じる。なぜなら、私の成果ではないから。逆に、そう思えない人が不利益を受けるのは、不公平だと感じる。私はラッキーで、その人はアンラッキーだった。それだけなので、いまの差異を何も正当化しない。そんなふうに漠然と感じ、貧困の問題に取り組んできた。 だから「なんとかなるさ」と思えずに尻込みしたり、苦しんだりしている人に対して、「なんとかなるさ」と思える人が「なんとかなるよ」「生きていればそのうち…」「きっとそのうちいい思い出に…」と言うことほどのコミュニケーションギャップはないと思ってきた。 しかし人々は、わりとあっさりとこの言葉を口にする。まるで、どう意識するかは、物質的なものや技能やスキルよりも、己一人で、かつ短時間で、比較的容易にコントロールできるものであるかのように。私はいつもそれを、半ば驚き、半ば呆れて見つめていた。どうして人は、こうも自分を対象化できないのか…。 いま改めて振り返ると、直接には両親の、間接には兄のおかげなのだろうと思う。 私の兄には先天性の障害がある。しかしそれに両親が気づいたのは兄が1歳を過ぎたあたりらしい。両親は深いショックを受けただろう。私が物心ついた頃には、私の家はあたりまえに「障害児のいる家庭」で、それは私たちにとっては「ふつう」のことだったが、そこに至るまでの葛藤はあっただろう。その葛藤は「ふつう」になったあとも時折噴出した。兄は中高生の多感な頃には、親と喧嘩するとよく「どうして俺なんか産んだんだ」と親を責めていた。15年前に他界した父親は生涯その負い目を払拭しきれずに生きていたように思う。 そして私が産まれたのは、兄が産まれた2年8ヶ月後だった。妊娠がわかったのは兄の障害が発覚した直後になる。出産までの間、両親には相当の不安と葛藤があっただろう。 確かめていないが、おそらく母親は、私が「できない」ことよりも「できる」ことに注目しただろう。兄の手前「できる」ことを露骨に褒められた記憶もないが、「できない」ことを苛立たしく叱責された記憶もない。(中略) 後年母親は、新聞社のインタビューに対して「あの子は一人で大きくなった」と語っており、それは私の実感を裏付けるもののように当時は受け取った。だがいまは違うように思う。私はきっと、静かにだが、温かく見守られて育ってきたのではないか。その証拠が「なんとかなるさ」と思えるこの性格だ。単に放置されてきたのなら、そんなふうに思えるようになったはずがない。 だから私の「なんとかなるさ」は、直接には両親の、間接には兄のおかげである。私自身は、そこに何も寄与していない。しかし私はそこから多くを得てきた。それは不労所得のようなものだ。だからそこで得てきたものを世の中に返したい。別に贖罪のつもりなどないが、それが自分にとって自然なことと感じる。それで対人支援と社会への発信を通じて、「なんとかなるさ」と本人が思えるような環境整備を試みてきたし、これからも一生試みていくだろう。
2018.01.21
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図書館で『「在中二世」が見た日中戦争』という本を、手にしたのです。戦争を見聞きした世代が絶えようとしている昨今であるが・・・日中戦争時、青島の日本租界ですごした著者の少年時代が、興味深いのです。【「在中二世」が見た日中戦争】若槻泰雄著、芙蓉書房出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より満州事変から太平洋戦争までの激動の時代、「外地」に住む少年が見たものは…?学校生活、軍国主義教育の浸透、中国人・欧米人との関わり、日本軍の蛮行、天皇制への疑問、日本人のアイデンティティなど、歯に衣きせぬ筆致で「大人の論理」を徹底的に批判する。<読む前の大使寸評>戦争を見聞きした世代が絶えようとしている昨今であるが・・・日中戦争時、青島の日本租界ですごした著者の少年時代が、興味深いのです。amazon「在中二世」が見た日中戦争「第一部 満州事変からシナ事変まで」から、語り口をちょっとだけ見てみましょう。p85~86■遊びもいたずらも真剣 野球や蹴球という正規のスポーツではないが、スポーツ並に走り回ることは、ほかにもあった。それは「戦争ごっこ」と「海軍遊戯」で、低学年のときはこちらの方が多かった。「戦争ごっこ」はおそらく明治以来の日本中どこでもやっていたと思うが、「海軍遊戯」という帽子を奪い合う男の子の遊びはどうだろうか。帝国海軍の庇護の下に初めて生活ができた中国の開港場(あるいは青島)だけの遊びだったのか、そのへんのことはよく知らない。 朝は始業時間より早めに登校して、授業が始める前に一遊びし、放課後もそのまま家に帰る方が少なかった。授業の合間の15分の休みの時間も、雨でも降らない限り、遊ぶのに忙しいことに変わりはなかった。 こういう普通の遊びのほかに、ときには相当たちの悪い集団的・計画的たずらもやった。学校の行き帰りに、路上に駐車してある自動車にそっと近づいて、雑談したりしている運転手の隙を見てタイヤの空気を抜くのである。手押しポンプで空気を入れなければならなくなるのだから、運転手にとっては大ごとだ。彼が気がつくと、私たちはさっと八方に散って逃げた。運転手はまず空気の抜けるのを止めてからでないと追いかけられないから、脱出はたいてい成功した。この遊びを「空気抜き隊」、もう一つは、「引っ掻き隊」といい、建築工事現場で、セメントを平らに塗ったところを棒でかき回して、これまた職人に気づかれると同時に逃げる危険ないたずらだ。 今思い出しても、怒鳴りつけるくらいではすあない、げんこつの二つや三つは食らわせなければならない悪ガキだが、自動車の運転手もセメント職人も中国人なので、彼らに対する侮蔑感と、万一捕まっても中国人の警察官は日本人の子供を殴ったり縛ったりはしないだろうという安心感が心の底にあったに違いない。 ただ、大人を本当に怒らせるのだから決死の覚悟が必要な緊迫感あふれる遊びだった。友達の手前、自分だけやめるという卑怯な真似はできなかったのである。■教師に対して募る不信 小学校の6年間は概して楽しかったが、先生に対して不満を感じたことも少なくない。 2年生のときの運動会で「トンガリお屋根」という集団ダンスをやることになった。遊戯(ダンス)は3年生以上になると女の子だけになるのだが、2年生までは男の子もやらされた。 男女同権の現在、こんなことを書くとおこられるかもしれないが、女の子と一緒になって人前で踊ることだけでも、いやしくも日本男子として屈辱にたえないのに「トンガリオヤネ」と歌いながら、両手を高く頭の上で突き合わすのはいやだった。ほかの動作は何となくごまかせても、両手を頭の上にあげるか、あげないかは、よそから見ていればはっきりするので、いい加減に踊るわけにはいかないからだ。顔のところぐらいまでしか手をあげない私を、中年の女の先生は何度も注意したが、ダンスのいやな理由を説明する能力は私にはなかった。説明できたところで、やめさせてもらえるはずはなかっただろうが。ウン 著者はかなりの悪ガキだったようですね。時をほぼ同じくして、上海のイギリス租界で優雅な少年時代を過ごしたJ・G・バラードは、その後、日本軍によって捕虜収容所に収容されるのです。・・・でも逆境にめげず、悪ガキぶりを発揮しています。J・G・バラード原作の映画『太陽の帝国』を紹介します。【太陽の帝国】スティーヴン・スピルバーグ監督、1987年米制作<movie.walkerストーリー>より1941年、クリスマスを迎えた上海。英国租界の邸宅に両親と暮らすジム少年(クリスチャン・ベール)は、学校の勉強よりも空を飛ぶことに心を奪われていた。上海にも侵略しつつあった日本軍の「零戦」のパイロットになることが夢だった。そんなある日、米空軍ムスタングが収容所を急襲し、戦争は終結へと向かう。ジムは脱走するベイシーに見捨てられ、他の人々とともに南島まで移動。その途中、ヴィクター夫人が息をひきとる。一瞬、東の上空に美しい閃光が走った。それは長崎に落とされた原爆の光だった。<大使寸評>この映画のもうひとつの主役が戦闘機かもしれない。映画のクライマックスでムスタングの空襲シーンがあるが・・・ジム少年が我を忘れて「大空のキャデラック」と狂喜していた。確かにジュラルミンの地色に輝くムスタングの飛翔は綺麗だった。movie.walker太陽の帝国
2018.01.21
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<NHKスペシャル『万病撃退!“腸”が免疫の鍵だった』>先日(14日)のNHKスペシャル『万病撃退!“腸”が免疫の鍵だった』を観たのだが、興味深い内容であった。2018年1月14日シリーズ人体第4集 万病撃退!“腸”が免疫の鍵だったより 体中の臓器がお互いに情報を交換することで私達の体は成り立っている。そんな新しい「人体観」を、最先端の電子顕微鏡映像やコンピューターグラフィックスを駆使して伝える、シリーズ「人体」。第4集のテーマは“腸”だ。 毎日の食事から栄養や水分を大量に体に取り込む消化・吸収の要だが、じつは私たちを万病から守る全身の「免疫力」を司っていることが、最新研究から明らかになってきた。なんと全身の7割もの免疫細胞が腸に集結し、いま話題の「腸内細菌」たちと不思議なメッセージをやりとりしているというのだ。 ひとたび、腸での免疫のバランスが崩れ、免疫細胞が暴走を始めると大変なことに。花粉や食べ物、自分の体の一部まで「敵」と誤って攻撃し、さまざまなアレルギーや免疫の病を引き起こしてしまう。どうすれば、腸内細菌が出す“メッセージ”を活用してこの暴走を抑え、アレルギーなどを根本解決できるのか。最先端の顕微鏡映像や高品質のCGを駆使して、知られざる腸の力に迫る。この番組を見ながら、メモしたのです。免疫が暴走するのがアレルギー症であるが、免疫の暴走を抑えるのがTレグと呼ばれる物質である。腸内フローラの1種クロストリチウム菌がTレグの増殖を助ける。クロストリチウム菌は食物繊維の中に多く存在する。日本人は腸内フローラが多かったが、食の変化(食の欧米化と潔癖なニッポン)にさらされて、アレルギー傾向が強くなってきた。多発性硬化症はTレグの増殖を促すことで、改善される。ウーム 免疫というものは、ほどほどの自然環境を想定して備わっているんだろうなあ。幼児の環境が清潔すぎるのも、ほどほどに戻すほうがいいのかも。・NHKスペシャル『人体 神秘の巨大ネットワーク 』プロローグ2017.10.03・NHKスペシャル『人体 脂肪と筋肉 』2017.11.05
2018.01.20
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図書館で『ヨコオ論タダノリ』という本を、手にしたのです。いろんな人と交流している横尾さんであるが・・・荒俣さんともお友だちだったようで、ええでぇ♪【ヨコオ論タダノリ】荒俣宏著、平凡社、2002年刊<「BOOK」データベース>より奇才・荒俣宏が教える横尾忠則を20倍楽しむ方法!作品の細部に分け入り、郷里・西脇を訪ね一緒に甘いものを食べ、博物学・図像学の知識を総動員する-五感+第六感を全開にして書き上げた、世界初の横尾論。<読む前の大使寸評>いろんな人と交流している横尾さんであるが・・・荒俣さんともお友だちだったようで、ええでぇ♪rakutenヨコオ論タダノリ日常の横尾さんを荒俣さんが報告しているので、見てみましょう。p139~142<横尾式「日常」の目撃報告> 「オーイ」と叫んで、手を振っている自転車乗りが見える。とても派手なアロハシャツに、愛らしい半ズボン姿。黒髪をぴったり後ろに撫でつけて、うなじのあたりで結んでいる。 あれは誰か、と目を凝らすわたし。成城駅前での光景である。「やっぱり横尾さん!」 と喜んで、こちらも手を振る。くだらない現実世界に、そこだけ大きな波乱が起きる。その波乱の中心に立つ横尾さんは、ニコニコしながら自転車でそばまで乗りつけると、ペダルの上に置いた足と、地面につけた足とで、4の字の形に脚を交差させ、天使のように、こう、おっしゃる。「さ、トンカツ食べに行きましょう、成城名物の」 と、これがいつもの待ち合わせのスタイルである。作品制作中や企画会議での、こわいこわい横尾さんはいない。日常の横尾さんは小学生みたいに無邪気で、そのうえにいたずらっぽさがある。「さあ、すこしでも現実の仏頂面をはぎとってやるぞ」といわんばかりの、「日常のだだっ子」の登場である。 横尾さんは半ズボンとアロハを着て自転車に乗ると、たちまちフレンドリーな別の人になる。そして、退屈な日常をふしぎな方法で活性化する触媒となる。横尾さんはどうして自転車に乗るのだろう。まず初めに、それがわたしには謎であった。題して、自転車と半ズボンの驚異。どうやら横尾式「日常」には、ヨコオ・アートの本質を解く鍵がありそうなのである。だから今日は、そういうお話をしたい。 とりあえず第一に、日常の横尾さんは、飽きないし、諦めもしない性格をお持ちなのである。 ひとつ、こういうことをしようと思いたった場合は、どこまでも継続する。捨てるということを、しないのが、横尾さんの日常の活性方法である。 いちばん有名なのは、横尾さんがUFOを見るまでの経緯だろう。横尾さんとて、いきなりUFOを見ることができたわけではない。UFOを見ようと思いたち、毎日、毎晩、暇さえあれば空を見上げていた。何年も何年も、空を見上げつづけたけれど、UFOは見えなかった。そしてあるとき、やっと見えたのである。見えだしたら、もう、やたらと見えるようになった。「ぼくもUFOが見たくて、ときどき夜空を見てはいるんですが、ダメなんです」 と、相談を持ちかけたときに、横尾さんはおっしゃった。1年とか2年じゃ話にならないよ、と。 つい最近も、横尾さんが撮っている「朝のお出かけ写真」を、たくさん拝見した。毎朝、自転車でご自宅を出てゆくときの姿を、写真におさめるものだ。もちろん奥さまがシャッターを押すのだが、出勤サラリーマンと違って、毎日の衣服、小物などがカラフルな上に微妙に変化して、実に楽しいのだ。 赤いアロハに黒の短パンのときもあれば、白ズボンに青いシャツのときもある。これに、今日はピンク、明日は白、という具合に替わる靴下の組みあわせが面白く、それでいて、愛用のカバンを小学生のごとく袈裟掛けにかけているところは、どの写真も変わらない。まるで着せ替え人形の写真でも見るように、おもしろいのだが、何よりもおどろくのは、これを毎日つづけていることだ。写真は、いったい何百枚になったのだろうか。この数の増加という物理力が、さらに平板な日常に活をいれる刺激剤の役を果たすのである。 考えようによっては、こんなバカバカしい撮影をつづけて何になる、という否定的結論にもなろうが、それは凡人の発想だ。どんなにくだらない作業でも、百回、千回、1万回と重ねていくうちに、ある日とつぜん、やっていることの意味が見えてくる。「お出かけ写真」の場合、こういうことが発見できた。うんざりするような毎日の繰り返し、つまり「平板な日常」は、永遠に変化がないように見えて、意外にも真新しいドラマの連続なのだ、と。 写真の中の横尾さんは、まるで早変わりの芸人のように衣装を替えては、また自転車の前に飛びだしてくるようだった。ときどき、前に着た衣装を着替え忘れたり、靴だけ替えなかったり、ミスをしながらも出てきて、ポーッズを決める。これが、たまらないほどおかしかった。横尾さんは東十条かどこかの小屋に出ている人気者の子役のように愛らしい。この本も横尾忠則の世界R3に収めておくものとします。
2018.01.20
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「少年時代」でしょうか♪<市立図書館>・私の貧乏物語・本の運命・「在中二世」が見た日中戦争<大学図書館>・ヨコオ論タダノリ図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【私の貧乏物語】岩波書店編、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より非正規雇用比率が四割を越え、セーフティネットが手薄なまま多くの人たちが貧困や孤立にあえぐ日本。いま、希望とは?そして生きていくための支えとは?笑い、怒り、涙、出会い、気づき、覚悟、提言…各界の三六人による各人各様の「貧乏物語」からそのヒントをさぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>日本にあって中韓にない価値観としては、「清貧」もそのひとつではないだろうか♪ということで、この本をチョイスしたのです。rakuten私の貧乏物語【本の運命】井上ひさし著、文藝春秋、1997年刊<「BOOK」データベース>より本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。<読む前の大使寸評>本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生ってか・・・図書館大好きの大使も唖然となりそうやで。rakuten本の運命【「在中二世」が見た日中戦争】若槻泰雄著、芙蓉書房出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より満州事変から太平洋戦争までの激動の時代、「外地」に住む少年が見たものは…?学校生活、軍国主義教育の浸透、中国人・欧米人との関わり、日本軍の蛮行、天皇制への疑問、日本人のアイデンティティなど、歯に衣きせぬ筆致で「大人の論理」を徹底的に批判する。<読む前の大使寸評>戦争を見聞きした世代が絶えようとしている昨今であるが・・・日中戦争時、青島の日本租界ですごした著者の少年時代が、興味深いのです。amazon「在中二世」が見た日中戦争【ヨコオ論タダノリ】荒俣宏著、平凡社、2002年刊<「BOOK」データベース>より奇才・荒俣宏が教える横尾忠則を20倍楽しむ方法!作品の細部に分け入り、郷里・西脇を訪ね一緒に甘いものを食べ、博物学・図像学の知識を総動員する-五感+第六感を全開にして書き上げた、世界初の横尾論。<読む前の大使寸評>いろんな人と交流している横尾さんであるが・・・荒俣さんともお友だちだったようで、ええでぇ♪rakutenヨコオ論タダノリ************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き278
2018.01.20
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図書館に予約していた『ウニはすごい バッタもすごい』という本を、待つこと5ヶ月でゲットしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい 「第2章 昆虫大成功の秘密」から飛翔の仕組みを、見てみましょう。p50~52<飛ぶ> 飛ぶところが昆虫の大きな特徴。羽を打ち振って飛ぶのだが、この羽にクチクラの威力が遺憾なく発揮されている。昆虫の羽は厚さ0.1ミリメートル程度。あんな薄っぺらに広がったものを振ったら、へにゃへにゃして空気を押すことなど、とても無理だと思えてしまうが、あれでちゃんと飛ぶ。海を渡ってしまうチョウまでいるのだから、驚くべきことである。 別の脅威もある。カが飛んでくるときはブーンと音がするし、ミツバチはブンブンという。羽を1秒間に数百回も振るわせており、その振動が音として聞こえるのである。鉄の薄板だってそんなにすばやく振動させ続ければ、すぐに金属疲労を起こして壊れてしまう。 さて、羽を生やして飛べたおかげで、昆虫は餌を探すにも敵から逃れるにも、また、子孫を広くばらまく上でも、きわめて有利になった。飛べる有難味は、昆虫のように小さなサイズのものにとって、とりわけ大きい。歩く場合には、移動のコストは体が大きいほど安くなり、それと関係するが行動圏の大きさは、動物の大きさ(体重)にほぼ比例する。だから小さいものは行動範囲がきわめて限られてしまうのだが、飛べば行動範囲がぐんと広がる。同じ体の大きさなら、歩くより、同じエネルギーを使ってずっと遠くまでいけるからである。 飛ぶ方がエネルギーを使わないというのは奇妙に聞こえるだろう。もちろん、体を空中に持ち上げるには大きなエネルギーが必要で、その瞬間で比べたら、飛ぶには歩くより大量のエナルギーがいる。だが、飛べば断然速い。飛べば何十倍何百倍も速く、おかげで同じ距離を行くのに必用なエネルギーを比べると、飛行は歩行よりエネルギーが少なくて済んでしまうのである。 また、歩く場合は障害物があれば回り道をしなければならないが、飛べば真っ直ぐ最短距離を行け、さらにエネルギーを節約できる。昆虫は体が小さいため、風に乗り、タダで遠くまで運ばれるという芸当もでき、ますます省エネになる。飛べたことが被子植物との共進化を可能にし、おかげで食物供給源を確保でき、かつ、種数の増大にもつながった。 昆虫の飛び方には2種類のものがあある。1.トンボのように大きな羽をゆっくりスイスイと動かすものと、2.ハチのように小さな羽をブーンとすばやく振るわすもの。羽を動かすメカニズムがこの二つでは違う。<羽をゆっくり動かすもの> トンボ・バッタ・ゴキブリなど古いタイプの昆虫の飛び方で、羽ばたく頻度は1秒間に30回以下。これらの昆虫では飛ぶための筋肉(飛翔筋)が直接羽を引っ張って動かしており、このようなタイプの飛翔筋を直接飛翔筋と呼ぶ。 昆虫の羽が生えているのは胸部であり、胸部も当然、硬いクチクラの板で囲われている。背側を覆っているクチクラの板が背板、腹側を覆っているのが腹板、両脇を覆っているのが左右の側板である。羽の根元が胸部に関節を介して結合している場所は、背板と側版の境目の部分。その関節が支点となって羽が上下に動く。羽は、その支点から少し胸の内側まで伸びていて、そこに羽を打ち上げる筋肉が付着している。 どちらの筋肉も、羽とは反対側では下方の腹板と接続している。このように配置された筋肉を交互に収縮させることで、羽を上下に羽ばたかせる。筋肉を縮ませる指令は、神経から電気信号(神経インパルス)という形で発せられる。筋肉が1回収縮するごとに、そのつど神経から神経インパルスが出る。つまり神経の活動と筋肉の活動とが1対1に同期しており、このような筋肉は同期筋と呼ばれる。 ゆっくり羽ばたく昆虫において、羽を動かしている筋肉は、直接筋であり、かつ同期筋なのである。この本の表紙に「デザインの生物学」という副題が付いているが・・・飛翔の仕組みなどは、まさにその副題にフィットしています♪『ウニはすごい バッタもすごい』1:昆虫の骨格『ウニはすごい バッタもすごい』2:昆虫と水の関係『ウニはすごい バッタもすごい』3:巻貝の構造『ゾウの時間 ネズミの時間』1:生物界には車輪がない『ゾウの時間 ネズミの時間』2:クチクラの外骨格
2018.01.19
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図書館に予約していた『ひなびたごちそう』という本を、待つこと3日でゲットしたのです。先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。【ひなびたごちそう】島田雅彦著、ポプラ社、2010年刊<「BOOK」データベース>よりサバサンド、マグロのカツレツ、トロピカル鍋ーうまいものにありつくために、嬉々として台所で試行錯誤を繰り返し、日本全国、世界各地で、さまざまな名物を口にする。「ひなびた」家庭料理がにわかにいとおしく思えてくる、文壇随一の料理人による食エッセイ。巻末にレシピ付き。<読む前の大使寸評>先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。<図書館予約:(1/11予約、1/14受取)>rakutenひなびたごちそう島田さんがサバにチャレンジしているので、見てみましょう。p153~155<サバと私> 十代のころ、登山をしていて、サバの水煮や味噌煮の缶詰を持って行った。安価の割に栄養価が高く、ご飯にもパンにも合い重宝した。学生のころ、友人の下宿を訪ねたら、千切りキャベツの上にサバの水煮缶を開け、マヨネーズを絞ったサラダでもてなされた。 15年ほど前、インスタンブールへ行った折、ガラタ橋のたもとの名物サバサンドを食べた。ボスポラス海峡で取れたサバを船上の大鍋に放り込み、油で揚げ、フランスパンに挟んだものだ。サバの身とパンを少しずつちぎって食べるのだが、味よりも風情を楽しむたぐいのものであった。 安かろう、まずかろうというような食べ方ばかりでは、サバが好きになるはずもない。しばらく、サバとは疎遠だったが、関西でサバの棒寿司を食べてから、その高アミノ酸の複雑な味わいに屈服してしまった。棒寿司は塩と酢で締めたサバの味もさることながら、サバの味が乗り移った酢飯が絶品なのだ。うな重のうなぎとご飯を別々に食べた内田百ケンのひそみに倣い、棒寿司もあえて別々に食べたいくらいだ。棒寿司に限っては、飯も酒のつまみになる。 棒寿司は、塩をして一日、酢で締めて一日、酢飯と合わせて一日、都合加工に三日かけるという。そこまで待てないのが、江戸っ子で、こちらは半日でしめサバをこしらえて、わさび醤油で食べる。浅締めのそれは断面が美しい。スーパーで売っている灰色のしめサバとは大いに異なり、血合いがアーチを描き、身と鮮やかなコントラストをなしている。 朝取れのサバが手に入ると、三枚におろしてもらい、水で冷やしながら、自宅に持ち帰り、朝締めサバを作る。薄皮を剥がし、たっぷりの塩をし、1時間。余分な塩を落とし、玄米酢に漬けてもう1時間。酢に加える砂糖は控え目にしておく。 あるいはサバのたたき。しめサバよりも少ない塩で締め、一度、酢で塩を洗い落とし、水気を切ってから、コンロの火を最強にして、表面をあぶる。霜降りになったら、すぐに氷塩水に入れ、身を締める。適当な大きさに切り、ポン酢か土佐酢に漬け込み、万能ネギ、みょうが、しその葉、おろし生姜などをあしらう。たたきにしてうまいのはカツオだけではない。大使の場合サバは、姿寿司かバッテラが一番であるが・・・サバのたたきなんてのがあるのか♪『ひなびたごちそう』1:まず、うどんから『ひなびたごちそう』2:干物への拘り『ひなびたごちそう』3:主食について高橋源一郎著『もっとも危険な読書』1でこの本が紹介されています。
2018.01.19
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図書館で『花の町 軍歌「戦友」』という本を、手にしたのです。陸軍徴用員として従軍した井伏さんの、戦争プロパガンダ活動が興味深いのです。【花の町 軍歌「戦友」】井伏鱒二著、講談社、1996年刊<「BOOK」データベース>より昭和16年、陸軍徴用員として従軍した著者は翌年二月シンガポールに入り、昭南タイムズ、昭南日本学園等に勤務。市内の一家族の動向を丹念に描いた長閑で滑稽で奇妙に平和な戦時中の異色作「花の町」をはじめ、「軍歌『戦友』」「昭南タイムズ発刊の頃」「シンガポールで見た藤田嗣治」「或る少女の戦時日記」「悪夢」など、この体験に関わる文業を集成、九篇収録。<読む前の大使寸評>陸軍徴用員として従軍した井伏さんの、戦争プロパガンダ活動が興味深いのです。rakuten花の町 軍歌「戦友」『花の町』の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。当時はトナリグミという言葉を善隣協会と訳していたようです。p94~96<善隣協会> 「その封筒を見せてごらん。ベン・リヨン。何だねこれは、手紙かね。」 「いえ、それはお寺の、セイクレット・ロットです。日本語で何といいますか。」 「おみくじだろう。ははあ、矢張りこれは、おみくじだね」 角封のなかのものは、薄桃色の長方形の紙に印刷されたおみくじであった。線で囲いをしたなかに「観音堂」と第一段に印刷し、次の段に「仏祖六七籤」と印刷してあった。 とても古風で、粗悪な印刷のおみくじである。全貌お洒落それ自体のようなベン・リヨンの母親が、こんなものを人にことづけるとは、木山は甚だ奇異に思った。 そのおみくじは次のような内容で、いわゆる口頭俗体の文章であった。 一条金線称君心、無滅無増無重軽、為人平生心正直、文章全具芸光明。 解曰…心平正直、到底清平、守依本分、天下太平。 古人…包公応試。 卯宮…此卦心平正之像、凡事平穏無凶也 これを手間どりながら木山が判読していると、ベンがそばに来て英語で説明した。「無論、これは貴官に対して、説明するまでのことはないと私は考える。しかしながら、これは上吉の卦であったと隣のドアのシンフハさんがいった。シンフハさんの説明によれば、冒頭の一句こそ最も珍重すべき原理である。一条の真理の光が汝の心に触れて、と解釈すべしということであった。」 それで木山も、「包公応試」という文字を指で突いて英語でたずねた。「しかしここを見よ。これは何であるか。この包公応試の包公とは誰であるか」 「その文字は、古代中国の法官の名前である。私もシンフハさんにそれをたずね、そのことを知ったのである」 「しからば、ここを見よ。この文字の意味は何であるか。卯宮とは何であるか。」 「シンフハさんは同じく、それについて私の質問に答えてくれた。この文字は、運命周易の熟語である。文王卦でいうところの時辰の一名称であるとのことであった。」 そしてベンはその次を日本語でいった。「きのうは、支邦人のセブン・シスターズの日でありました。それで私の母が、お寺に行って祈りました。あの兵隊さんのためにブダアに祈りました。そして、このおみくじをもらいました。それでありますから、このおみくじは、私の母のお祈りのおしまいの出来事でございます。」 「それはお祈りの成果、または、お祈りの結晶といった方がいいようだね。しかし君のいま云った支邦人の、セブン・シスターズの日とは何のことかね。」 「それは支邦の暦で、第7番目の月の第7番目の日のことであります。その日の夜は、空の二つの星の川が一つになります。下界の女の子が、果物をブダアに供えて祈ります。」「そりゃ、日本語でタナバタ様の日というのだ。とにかく、このおみくじは僕があずかっておく。あの兵隊さんに、もしも逢ったら渡してあげる。悪くない辻占だ。」 木山はヘルメット帽をかぶり、ベン・リヨンを促して外に出た。時計を見ると、東京時間の正午になっていた。ウン まぎれもなく戦中派の文章である。・・・この種の雰囲気を描ける作家は、もう生存していないのだろうね。『花の町 軍歌「戦友」』1
2018.01.19
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図書館に予約していた『ウニはすごい バッタもすごい』という本を、待つこと5ヶ月でゲットしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい オオナルトボラ断面「第3章 貝はなぜラセンなのか」から巻貝の構造を、見てみましょう。p99~104<殻を立体的に盛り上げる> 1枚の殻をもった一般的軟体動物から進化した仲間は、殻を二次元の平面ではなく三次元の立体的な形にした。浅い陣笠状の殻を、傘を横へと広げるのではなく、丈を高くしてとんがり帽子のようにしていった。こうすると体を大きくしても足が岩に付着する面積は増やさなくてよいから、住み場所不足の問題を回避できる。 また、立体的にすると殻の内部に余裕をもてるため、大きく広げられる軟体部をもつことができる。ふだんは軟体部を岩の上に大きく広げて活動し、あやうい時にのみ殻の収納スペースに引っ込めるようにすれば、より活動範囲が広げられるだろう。 このように丈が高くなることには利点があるのだが、では、どんどん殻の丈を高くしていけばいいのかというと、それには限度があるだろう。丈の高いものは安定性が悪い。丈が高いと、殻がほんの少し傾いただけで重心が底面から出てしまうのでひっくり返る。またとんがった先端に力が加わると、丈が高いほど根元に大きな力がかかって岩から引き剥がされやすい。 さらに波や流れの力は岩の表面から離れるほど大きくなるから、丈が高くなればなるほど、ますます殻に大きな力が加わって殻は岩から引き剥がされやすくなっていく。これは危ない。 そこで丈を高くするのではなく、殻の先端部を前方に曲げて巻くようにする。すると高くせずに体積を確保できる。殻はどんどん渦巻き状に巻かれていき、今の巻貝になっていった。<貝の殻は対数ラセン> 貝の巻き方には特徴がある。螺旋に巻いているのである。そもそも「螺」とは巻貝のこと。螺殻のように旋回しているのが螺旋である。螺旋はネジとも読み、ネジみたいに回りながらせり上がっていく三次元的な巻き方がラセン。 ラセンを広い意味にとると、せり上がらずに蚊取り線香のように平面内でぐるぐる回って二次元的に広がるラセンもある(これは渦巻とも呼ばれる)。巻貝の殻は立体的なラセンだが、同じ軟体動物でも頭足類(イカ・タコの仲間)であるアンモナイトやオウムガイの殻は平面的ラセンである。 立体であれ平面であれ、軟体動物のラセンは巻きながら、巻いている間隔が広がっていく。その広がり方は、一巻きごとの間隔の増加分が、前の巻の増加分に定数をかけたものになっている。つまり巻の間隔が一定の比率で増加しており、こうしたラセンは対数ラセンと呼ばれる。同じ巻くといっても、なぜ貝は対数ラセンなのだろうか。 これには成長の問題が関係している。貝の体は、外側をすっぽりと外骨格の殻で覆われており、この点は昆虫と同じ。昆虫のところで述べたが、中の本体が大きくなろうとしても、外側から硬い殻で押さえ込まれているため、成長できない。そこで昆虫の場合には、殻をいったん脱ぎ捨てて新たに一回り大きな殻をつくり、脱皮を繰り返しながら成長していく。昆虫はこんな手間のかかることをやっていた。 ところが貝の方は脱皮しない。貝が昆虫と異なる点は、体が外骨格で覆われ尽くされているわけではなく、殻の下側が開いているところ。その開いた口の縁に石灰を付け足して殻を成長させることが可能だからである。(中略) 対数ラセンの殻は、巻貝の仲間(腹足類)で大いに発達した。巻貝の殻はじつにさまざまな形をとっているが、断面の円い筒がぐるぐるとラセンに巻いている点では皆同じ。ラセンの一巻きごとにラセンの径が何倍になるか、一巻きでどれだけ殻の高さと筒の直径が増えるか、という数字を変えるだけで、すべての殻が一つのラセンの式で書き表せる。 これは他の貝殻類でも同じ。アサリやハマグリのような二枚貝類の殻は、巻き方が弱く、ラセンは急速に広がってしまって、ちょっと見にはラセンには見えないのだが対数ラセンである。この本の表紙に「デザインの生物学」という副題が付いているが・・・巻貝の構造の必然性などは、まさにその副題にフィットしています♪『ウニはすごい バッタもすごい』1:昆虫の骨格『ウニはすごい バッタもすごい』2:昆虫と水の関係『ゾウの時間 ネズミの時間』1:生物界には車輪がない『ゾウの時間 ネズミの時間』2:クチクラの外骨格
2018.01.18
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図書館に予約していた『ウニはすごい バッタもすごい』という本を、待つこと5ヶ月でゲットしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい 「第2章 昆虫大成功の秘密」から昆虫と水の関係を、見てみましょう。p69~71<4 体のサイズ> 生物はもともと海で生まれた。30億年以上海だけで生活していたのであり、陸へあがったのはわずか4億5千万年以降。それもきわめて限られた仲間だけが上陸に成功したにすぎない。その限られた仲間の一つが昆虫なのである。 陸に上がるのは簡単なことではなかった。最大の困難が水の調達。生物の体は重量にして6~8割が水なのであり、細胞の中身は85%が水。そんなじゃぼじゃぼの水環境の中で化学反応が起き、その化学反応によって生命が維持されている。水がなければ化学反応が進まず、生きてはいけないのである。他の天体に地球型の生命がいるかを判断する際、まず液体としての水があるかを調べるのはこのためである。 地球は水の星であり、海という水だらけの環境で生命が発生したのだが、だからこそ生物の体は細胞の中もそれを浸している体液も水だらけまのであり、そういう体のつくりを、陸に上がった後も、昆虫もわれわれも保ち続けている。生物は水に住もうが陸に住もうが、水っぽいものなのである。 水の入手は、海に留まっている間は問題にならなかったのだが、陸に上がったら大問題。たとえ水の入手に成功しても、その後も大変で、まわりの空気は乾燥しているから、体からどんどん水は蒸発していき、すぐに干からびてしまう。干からびてしまったら生体の化学反応は進まず、生きていけない。 乾燥は、とくに体の小さいもので問題になる。昆虫という体の小さなものでも陸に住めるようにしたのが昆虫の外骨格だった。水を通さないワックス層を表面にもっており、体を撥水性の材料ですっぽりと覆って水が体から逃げていきにくくしている。クチクラの外骨格により、昆虫は節水型の体をつくることができた。 昆虫以外の体の小さなもので、陸上で活躍している動物といえば、マイマイなどの軟体動物がある。これも殻で体を覆っている動物である。ただしマイマイが活動する際には殻の外に体の多くの部分を出すために乾燥しやすく、そのため、湿度の高い時にしか活動できない。腫れて乾燥した日には殻の中に入って蓋をして閉じこもっている。 というわけで、陸上の乾燥した状態でも活発に活動できる体の小さな動物は昆虫以外にいない。爬虫類、鳥類、哺乳類も陸で成功しているが、これらは体の大きな仲間である。昆虫は体の小ささを克服して陸の王者になった。その成功の鍵を握っていたのがクチクラの骨格である。ウーム 大昔に、生物が海から陸に上がったが・・・簡単なことではなかったことが、よーく分かりました♪『ウニはすごい バッタもすごい』1
2018.01.18
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図書館で『言葉の降る日』という本を、手にしたのです。加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。【言葉の降る日】加藤典洋著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より静かに言葉は降り積もる。いまはもういない、あの人たちへの思いとともにー。親しくその謦咳に接した吉本隆明、鶴見俊輔だけでなく、太宰治や坂口安吾、井伏鱒二、江藤淳、三島由紀夫など、その実像と思想の核心にふれ、切実なる生と死を彫琢する。在りし日の姿、その息遣いまでもが、聴こえてくる。<読む前の大使寸評>加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。rakuten言葉の降る日坂口安吾の続きを、見てみましょう。p180~182<新しいジャーナリズムの取材スタイル> もう一つは、先に少しだけふれた、いまならルポルタージュとでもいうべき、新しいジャーナリズム、仕事のスタイルの創始という側面です。 先に紹介したように、1950年から、巷談、新日本地理、史譚、新日本風土記とカテゴリーをずらしながら、『文芸春秋』『オール読物』『中央公論』という当時の第一線の主要な総合雑誌で続いたエッセイは、これらの雑誌の看板企画ともなり、いまでいうなら現地取材のルポルタージュというジャンルが、この安吾のエッセイをきっかけに大きく日本のメディアに前景化、流布するようになります。 それまでは、随筆であり、紀行文であったものが、現実の政治、社会、経済に相渉る硬質な批評的エッセイへと拡張されるのです。この延長に、開高健の1960年代前半の『ずばり東京』、そこから続く『ベトナム戦記』、また、『オーパ!』がやってきますし、また変則的ながら、小田実の無銭旅行の世界見聞記である『何でも見てやろう』、さらに椎名誠の『哀愁の町に霧が降るのだ』、『インドでわしも考えた』、『岳物語』など多様なほぼ同時代のエッセイ、また沢木耕太郎の『深夜特急』など、刷新されたノンフィクション、ルポルタージュへとつながる「思考」と「文体」が、この1950年代前半の安吾の「死なない」選択から生まれています。 文学者としても、その後の、開高健、小田実、椎名誠と続く系譜の戦後の源流に、安吾が位置していることに、私たちは気づかされるのです。<古代史への視線> そしてもう一つ、逸することができないのが、この文体とルポルタージュという自在な新機軸のジャーナリズム的手法を駆使して追及されることになる日本の古代史の見直しがもつ意味です。 私は、1988年に「日本人の成立」という論考を書いています。これまで多くの人が「日本人」はどこから来たか、「日本人」とは何か、と問うてきたが、このそもそもの「日本人」という概念、容れ物自体は、いつ、どのように形成されてきたのか、それが「日本人」とは何か、という問いの最初の実質にならねばならないのではないか、と考え、その「日本人」概念の形成の過程を問おうとしたものです。 その着眼のきっかけとなったのは、明治初期における「歴史」と「地理」の視覚の更新という現象の発見でした。日清戦争が起こる1894年、志賀重昴の『日本風景論』が刊行されるや、ベストセラーになります。そこには地図が出ていますが、わずか27年前まで、このような日本をネーションとしてみる「視点」は日本の一般市民にはなかった。そのため、日本を、これまでとまったく違う高みから、地理的に見るという視覚が、読者をその視点の新鮮さで撲ったのでした。 また、山はそれまで、信仰の対象でした。それが西洋人の目にさらされ、新たに登山の対象となります。そして、崇高という美的概念の対象となります。風景というものが、いわば新しい視覚の初産として、知的な消費の対象となってくるのです。ウン 開高健、小田実、椎名誠と続く系譜の源流に、安吾が位置しているのか…興味深いラインナップでんな♪ところで、加藤さん言うところの「文体」とは思想をも包含しているわけで…もっと文章に限定したテクニックを期待していたが、やや当てがはずれたのでおます。『言葉の降る日』1:井伏鱒二の歴史観『言葉の降る日』2:坂口安吾や椎名誠らの文体
2018.01.18
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<『ひなびたごちそう』2>図書館に予約していた『ひなびたごちそう』という本を、待つこと3日でゲットしたのです。先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。【ひなびたごちそう】島田雅彦著、ポプラ社、2010年刊<「BOOK」データベース>よりサバサンド、マグロのカツレツ、トロピカル鍋ーうまいものにありつくために、嬉々として台所で試行錯誤を繰り返し、日本全国、世界各地で、さまざまな名物を口にする。「ひなびた」家庭料理がにわかにいとおしく思えてくる、文壇随一の料理人による食エッセイ。巻末にレシピ付き。<読む前の大使寸評>先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。<図書館予約:(1/11予約、1/14受取)>rakutenひなびたごちそう干物への拘りを、見てみましょう。p40~43<太陽の活用術> 太陽に当てて、干すこと。そして、薄暗い場所で発酵させること。 これらのプロセスは食品に劇的な変化をもたらす。おしなべて、料理は化学反応と表裏一体なのだ。たとえば、魚の干物。生の魚に塩分を補い、太陽に当て、タンパク質の一部をアミノ酸に分解することで、ただ塩焼きにするのとは一味違う旨みを出す方法なのである。 スーパーにはアジやサンマやサバの干物が安く売られているが、多くは人件費の安い国で加工され、一度冷凍されたものを輸入しっているので、味が落ちている。干物は生よりは保存が効くとはいえ、刺し身と同様の扱いをしてやるだけの価値はある。 伊豆半島の名物といえば、干物で、熱海あたりに出かけると、干物を売っているその場で焼いてくれる店に行き、酒を飲む。朝上がったばかりの魚の干物はスーパーの冷凍ものとは、全く別物である。 一度、干物に魅せられると、あらゆる種類の干物を賞味しなければ、気が済まなくなる。 もし、まだ、アユやアマダイの干物を食べたことがなかったら、それらを食べてから死ぬべきである。淡白な白身は余計な水分が抜けることで、旨味が濃縮される。すでに食べたことがあるなら、伊豆七島名産のくさやを食べて死んで欲しい。 発酵したはらわたにつけたムロアジやトビウオなど脂の少ない魚を干したこの食品は、独特のアンモニア臭があり、これが病みつきにもなれば、気つけにもなる。八丈島に行った折に箱で買ってきたので、毎日焼いて食べていたら、部屋にアンモニア臭が染み付いてしまった。以後、くさやを焼く時は七輪が活躍するようになった。 ほかのものも焼きたくなるのは、火を見るよりあきらかで、気がつくと、自家製の干物をつくるようになっていた。干物の業者には悪いが、こんな簡単なものはない。洗濯物の代わりに魚を干すだけのことだ。 安売りのアジやイワシ、サンマなどを買ってきたら、開いて、はらわたを取り、海水よりやや辛いくらいの濃度の塩水で洗って、野良猫やカラスに持って行かれないように、干せばいい。 季節によって干す時間を変えるが、最適の季節は秋である。夏は日差しが強く、気温が高いので、魚の鮮度が落ちやすい。風が冷たくなった秋日和に、3時間も太陽にさらしておけば、それでよい。(中略) ところで、冬には冬の干物の作り方があって、こちらはあまり太陽を当てにせず、寒風に一晩さらしておく。新巻き鮭に切れ目を入れて軒先に1週間も吊るせば、自家製の鮭とばもできる。干物の味は太陽のみならず、風の恵みでもあるのだ。ウーム 干物の味にこだわる島田さんは、七輪を準備したりしてこまめで本格的やんけ♪『ひなびたごちそう』1高橋源一郎著『もっとも危険な読書』1でこの本が紹介されています。
2018.01.17
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書館に予約していた『ひなびたごちそう』という本を、待つこと3日でゲットしたのです。先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。【ひなびたごちそう】島田雅彦著、ポプラ社、2010年刊<「BOOK」データベース>よりサバサンド、マグロのカツレツ、トロピカル鍋ーうまいものにありつくために、嬉々として台所で試行錯誤を繰り返し、日本全国、世界各地で、さまざまな名物を口にする。「ひなびた」家庭料理がにわかにいとおしく思えてくる、文壇随一の料理人による食エッセイ。巻末にレシピ付き。<読む前の大使寸評>先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。<図書館予約:(1/11予約、1/14受取)>rakutenひなびたごちそうまず、うどんから、見てみましょう。香川では「うどんは別腹」と言われるくらいに食されているとか♪p22~25<続麺類の誘惑> 日本は、うどんか、そばかによって二つの文化圏に分けることができ、各地に名物のそば、もしくはうどんがある。秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、信州そばに出雲そば、伊勢うどんに味噌煮込みうどん、箱根そばと列挙してみて、どちらも名物がなければ、そこはラーメンへの嗜好が強い土地だ。 四国香川といえば、讃岐うどんの総本山だが、うどんに対する情熱が尋常ではない。以前から、畑に囲まれた掘っ立て小屋のうどん屋を訪ねてみたいと思い、先ごろ念願を果たした。 客がネギを刻むセルフサービスの店にも行き、自らネギを刻んだ。大釜が湯気を立てる中、客は丼を持ち、自らうどんをゆがき、トッピングをし、だしをはり、食べ終わると、丼を洗い、自己申告で代金を払う。せっかく来たのだからと、釜あげ、てんぷら、冷やし、かけと4種類も平らげてしまった。 茹でたてのうどんはこしがあるが、滑らかで噛まなくても喉に抵抗なく入ってゆく。そして、いつのまにかなくなっている。この土地では誰もがひいきのうどん屋と自分の流儀を持っている。それは当然ともいえる。彼らは毎日うどんを食べているからだ。飽きないうえ、消化がいいので、胃袋がどんな状態でも食べられる。二日酔いの時でも、食後でも、早朝でも。 この土地では誰もが決まり文句を口にする。曰く、うどんは別腹。 滞在二日目、うどん屋巡りに挑んでみた。タクシーをチャーターし、うどん食べ歩きのガイドブックを頼りに1時間半で4軒回った。胃にもたれないようにどの店でもかけうどん小を注文する。セルフサービスの店は、すうどん1杯120円だ。うどん屋巡りはうどん代金より交通費の方が高くつく。 どの店も建物は粗末ながら、うどん通の客を満足させていた。こういう店が近所にあれば、と思いながら、店先で満腹をさすっていると、小麦粉の入った袋が目に留まった。そこには「香特」という文字が印刷されていた。これは製粉会社が香川県に特別に出荷しているうどん専用の粉なのだと、タクシーの運転手が教えてくれた。「香特」の二文字を見てしまうと、さあうどんを打とう、などと軽々しくいえなくなる。料理には時に諦めも肝心である。 そこで、うどんは香川から取り寄せることにする。しかし、乾麺はダメだ、とうどん通はいう。それは打ちたてがいいに決まっているが、その都度香川に行くわけにも行かない。冷凍うどんはどうか? こちらはうどん通の許しが出た。茹でたてを急速冷凍しているから、コシの強さも残っている。しかし、誰も冷凍うどんのもてなしを怒りはしなくても、喜びはしないだろうから、いっそ、香川のセルフサービスのうどん屋を自宅に再現して客を呼ぼう。 大鍋に絶えず、湯を煮立たせておき、トッピングの天ぷらや卵、ネギ、かまぼこなどを用意しておく。別の鍋には昆布の戻し汁をいれ、火にかけ、煮干しを加えて煮立たせる。昆布は表面に泡が出てきたら、取り出す。だしが出たら、火を止め、鯖節や鰹節を加え、しばらくおき、布巾で漉し、酒、みりん、塩、薄口醤油で味を調える。そして、客に「今日は店のおごりだ。勝手にやってくれ」と宣言する。ウン 大使好みのうどん談義であったが・・・大使の一押しは、讃岐うどんと味噌煮込みうどんになりまんな♪高橋源一郎著『もっとも危険な読書』1でこの本が紹介されています。
2018.01.17
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図書館で『花の町 軍歌「戦友」』という本を、手にしたのです。陸軍徴用員として従軍した井伏さんの、戦争プロパガンダ活動が興味深いのです。【花の町 軍歌「戦友」】井伏鱒二著、講談社、1996年刊<「BOOK」データベース>より昭和16年、陸軍徴用員として従軍した著者は翌年二月シンガポールに入り、昭南タイムズ、昭南日本学園等に勤務。市内の一家族の動向を丹念に描いた長閑で滑稽で奇妙に平和な戦時中の異色作「花の町」をはじめ、「軍歌『戦友』」「昭南タイムズ発刊の頃」「シンガポールで見た藤田嗣治」「或る少女の戦時日記」「悪夢」など、この体験に関わる文業を集成、九篇収録。<読む前の大使寸評>陸軍徴用員として従軍した井伏さんの、戦争プロパガンダ活動が興味深いのです。rakuten花の町 軍歌「戦友」「シンガポール最後の日」シンガポールでの藤田を、この本でちょっとだけ見てみましょう。藤田や井伏さんが従事した戦争初期のプロパガンダ活動が興味深いのです。p182~187<シンガポールで見た藤田嗣治> 昭和17年、献納画を描くために数人の画家と一緒にシンガポールに滞在していたときである。藤田は50歳あまりであったろうか。髪はもうお河童でなくて短髪であった。 シンガポールが17年2月15日に陥落し、私たち陸軍徴用の宣伝班員120余人は翌16日に入城した。それから半月ばかりすると、内地の有名な画家が30人ぐらい献納画を描くためにシンガポールに来るという噂が立った。実際に来たのはずっと後のことで、やって来た画家の数も十人ぐらいのものであった。 藤田のほかに日本画の吉岡堅二や洋画の宮本三郎などがいた。小磯良平も朝日新聞社の特派員の資格で来た。洋画の中村研一は一人でやって来て、これは画家仲間に加わらないで、以前から知りあいの私たち徴用員とつきあってよく酒を飲ましてくれた。日本画の川端龍子もやって来たが、この人は宣伝班長の阿野中佐に会って、日本兵が渡河戦で困憊しているところを献納画の画材にしたいと云った。シンガポール攻撃の日本兵がジョホール水道を渡るとき、舟艇がひっくりかえって水のなかに投げ出され、流れ出た重油で顔を真黒にして泳いでいるところを描くのだと云う。これは事実に反するらしい。阿野中佐はその画材の選択の仕方に異論を唱えたが、川端画伯が何としてもこれにしたいと云ったので、宣伝班員の一人と激論が始まった。 藤田やその他数人の画家は、土曜日ごとに幼稚園の一室をアトリエにしてモデルの写生をした。どこの画室でもそうであるように、チョークで15号の木炭紙にデッサンをやっていた。モデルを斡旋するのは資料班員の任務だが、幼稚園を主宰している一人の軍属がその役目を買って出て手頃のモデルを連れて来た。幼稚園児のマレー人の女の子を連れて来ることもあり、14、5歳の華僑の少女を連れて来ることもあった。私は資料班に所属していた関係で、自由にそのアトリエに出入することができたので、藤田のスケッチするところを見に行った。もともと私は画家の絵を描くところを見るのが好きである。 公園などでスケッチしている人を見ると、一応、そっと後ろに近づいて見なくては気がすまない。そのくせ展覧会場の絵は見て見ぬふりをすることがある。野次馬根性で物見高いのだ。だから私は雑誌の原色版で藤田の絵を見るときよりも、藤田のデッサンするときの方をずっと熱心に、いつも最後まで見物した。 華僑の少女がモデルになったとき、藤田はイーゼルに木炭紙を張り終わると、手でまびさしをしてじっとモデルを見て、猫が鼠に近寄るようにモデルのそばににじり寄った。次に、またまびさしをしてモデルを見た。そのとき私のそばにいた一人の若い資料班員が「亀に乗って竜宮から帰る浦島太郎のようですね。モンマルトル派は、みんなあんな風にするんでしょうか」と云った。これは有名画家に対する徴用員の密かな毒舌としか思われない。間に合わせのアトリエだから光線の具合が悪いので、近視の画家はまびさしをしただけのことだろう。 マレー人の女の子を描くときにも、藤田はまずまびさしをして、やはり猫が鼠に近づくようににじり寄った。モデルを呑んでかかって、しかも身のこなしが柔軟である。(中略) 幼稚園の画室が閉鎖されてから、私たち資料班の者は藤田やその他の画家を案内してジョホール・バールへ行った。そこに駐屯する部隊から、モデルにする兵を出してもらうためであった。私は詳しいいきさつは知らないが、司令部からの内命もあったのか、兵隊たちが大きな空屋のなかに待機していたようであった。とにかく私が、その建物のなかを見廻って藤田のスケッチしている部屋に入って行くと、一人の兵が床に伏せの姿勢をして銃をかまえたところを描いていた。材料は木炭紙でなくてカンバスだが、急いで仕上げるためか前もってセピア色の絵具で一面に塗りつぶしてあった。普通、藤田の得意とするのは乳白色のなめらかな地塗だが、このときは濃いセピアであった。そのカンバスに、青い小さなチョークでモデルの輪郭を描いていた。これがそのまま下絵となるわけだ。チョークの名前は私にはわからない。洋服地を裁断するのに使うチョークにそっくりであった。 古山君の云うように、藤田はさらさらっと線画を描いて行く。停滞するところが少しもない。モジリアニやスーチンなどもこの調子であったろうか。下絵はすぐにできあがり、藤田は「兵隊さん、休憩して下さい」と云って絵具箱をあけた。それでモデルの兵が起立すると、藤田はモデルに煙草を1本進呈してライターで火をつけてやった。モデルを労わるところが印象的であった。
2018.01.17
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図書館で『稲のアジア史1』という本を、手にしたのです。ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。【稲のアジア史1】渡部忠世×福井捷朗著、小学館、1997年刊<出版社>より日本文化の基層を形成する「稲」の問題をアジア稲作文化圏の視野から、生態、歴史、技術を通して解明。21世紀の日本の「稲」「稲作」を考えるうえで、大いなる示唆と指針にを与える基本書である。<読む前の大使寸評>ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。amazon稲のアジア史1「4 アジアの稲」から品種改良の展望について、見てみましょう。p162~164<4 アジアの稲…今後の展望:中川原捷洋> ■HYVという品種、その将来 アジア稲の今後の姿を少し展望してみたいと思う。着実に進行している「緑の革命」によって、アジア各国の稲の生産性は年々向上の一途を辿っている。それによって、栽培させる稲品種も改良の度合いを増してきているが、その実体はどんなものであろうか。 国際稲研究所(IRRI)による、いわゆるインディカ品種の改良によって、アジア低緯度地域に作られる稲は、アジアの北方で栽培される品種と比べて、収量を上げる能力が劣らないばかりか、いわゆるジャポニカ品種を越える可能性があることが証明された。丈が短く穂の大きい新型の稲は、HYV(高収性品種)と呼ばれ、灌漑の可能な地域に導入されていった。これによって、初期の緑の革命は各地で成功していったのである。このもっともよい例がインドである。 それまで、インドの米生産は気候環境に影響されることが多く、生産量は大きく変動し、結局、輸入に頼ることが多かった。それが、灌漑田用のHYVが導入され、数年の間に生産量が拡大し、十分自給できるようになった。しかし、その結果、新しい問題も起こってきた。単一の高収性品種が栽培されることによって、病気や虫が異常に発生してきたのである。 現在の品種改良の主な目標は、このような新たな問題を解決するのを第一としているが、新品種と病虫害とが追いつ追われつのいたちごっこをする結果となっている。 このような短カンの高収性品種は、アジアでも感慨の可能な水田にしか導入できない。日本の水田はほぼ100パーセント灌漑されているが、アジア全体をみると、灌漑率はまだまだ低い。高収性品種の普及もおのずから限界があることになる。ここに、天水田用の稲品種が必要になる理由がある。 天水田は田圃の水をすべて降雨の成り行きにまかせたものである。適当に雨が降れば収量が上がるといった、いわば他力本願の水田である。このような田圃がアジアの大部分の地域を占めている。水田造成や灌漑施設造成が簡単に進まない緒条件があるため、品種改良によってある程度は天水田にも向いている品種を作り上げなくてはならない。(中略) では、天水田専用の品種とはいかなる性質を持つ種類であろうか。一言で言えば、特に定まった特性を持つとは限らない。こうした品種を短カン高収性のHYVと比較すると、やや草丈が高く、カンの性質はやや粗剛で耐旱性があり、非感光性で早生種が多い。また、マシェリ品種で明らかにされたように、湛水条件にも適しており、かつ冠水抵抗性なども厳しい条件にも耐えられるものもある。 以上のような状況はインドに限らず、他の東南アジアでもほぼ同様である。現在では、緑の革命はこうした天水田用の新品種の改良によってさらに進行しているといってもよいのではなかろうか。たとえば、ビルマにおいては、1970年代後半から着実な生産向上が続いている。その大きな理由は、こうした新しい品種が開発され、それが農家に受け入れられていったからであるという。■新品種の開発と日本 中国はハイブリッド・ライスの改良に力を注ぎ、世界で初めてそれを実用化した。たがいに遠縁のあいだで雑種(ハイブリッド)を作れば、生産性が格段に向上することを利用した方法である。 わが国も、中国の成功に刺激されて、ハイブリッド・ライスの開発におおわらわである。中国に遅れること数年、昭和60年(1985)に、「北陸交一号」が育成されたのは記憶に新しい。わが国では、まだ農家の水田では栽培されていないが、中国では800万ヘクタール以上に栽培されている。わが国の水田総面積が200万ヘクタールであることを考え合わせると、その規模がいかに大きいものであるか想像がつく。こうして日本が味や産地銘柄にこだわって育種家が世に出す新系統をみおくっているあいだに、中国を初めアジアの各国はつぎつぎに品種革新を遂げようとしている。 それに伴って、アジア各地で伝統的な在来種が、前述のように農家の田圃から急速に消滅している。このような変化は人類が稲栽培を開始して以来、おそらく経験したことのない激しさで進行している。考えてみると、将来、よりすぐれたハイブリッド・ライスを育成するためには、失われつつある在来種の遺伝子が必用である。 新しい品種を育成することと、古い在来種を保存することとは実は同じ作業の両輪である。新品種の育成に力を注ぐのと同じように在来種の遺伝子も大切に保存する必要がある。 このような立場から、各地にジーンバンク(遺伝子銀行)を設立することが盛んになってきている。国際稲研究所が大規模に遺伝資源保存をしているほか、各地で種子保存のための施設の建設が始まっている。『稲のアジア史1』1
2018.01.16
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図書館で『稲のアジア史1』という本を、手にしたのです。ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。【稲のアジア史1】渡部忠世×福井捷朗著、小学館、1997年刊<出版社>より日本文化の基層を形成する「稲」の問題をアジア稲作文化圏の視野から、生態、歴史、技術を通して解明。21世紀の日本の「稲」「稲作」を考えるうえで、大いなる示唆と指針にを与える基本書である。<読む前の大使寸評>ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。amazon稲のアジア史1「日本の稲作」について、見てみましょう。p132~136<日本の稲作と土:久馬一剛> ■稲作の適地とはいえない風土 わが国は「」といわれ、古い昔から圧倒的に稲作に稲作に依存してきたことが明らかであって、モンスーン・アジアの稲作圏の中に位置づけられることは何の疑いもない。しかしここで、あらためてその立地条件について考えてみることにしよう。 この章では、雨季の降水の集中と広大な低地の存在とが稲作圏の成立条件であると繰り返しいってきたが、はたしてわが国はその条件をみたしているのであろうか。 わが国にもたしかにモンスーンの雨季に相当するような梅雨があるが、それはたかだか1ヵ月しか続かず、稲作の適期である盛夏の時期にはむしろ太平洋高気圧に覆われて水不足気味となる。それを救うのが台風のもたらす雨であるが、これを勘定に入れても、平均的な降水のパターンをみると、わが国の大部分では、夏季に自然に湛水が起こるような雨は降らない。つまり天水稲作は不可能なのである。 それではこの雨を受けて自然に長期の氾濫が起こるような低湿地の面積は広いのだろうか。わが国には沖積平野が全面積の13%ぐらいあるとされ、これは農耕に適した平地面積のほぼ半ばに上るのであるが、一つ一つの平野の規模は小さく、かつこれらの平野が川床の勾配の急な河川によって養われているために、氾濫も急なあら、排水も早い。熱帯アジアの平野のように、ゆっくりと氾濫し、何ヶ月もどっぷりと水を湛えているのとはまったく趣を異にする。 わが国では氾濫は災厄でこそあれ、自然の恵みなどでは決してない。したがって自然の湛水を利用して稲を作ることのできる面積もきわめて限られている。 このように気候からみても、地形からみても、稲作が広い面積にわたって自然に成立するような条件はなかったと思われる。こんな所でなぜこれだけ稲作が圧倒的な重さを持つようになったのであろうか。(中略) ここに述べた二つの条件に目をつけたのが、稲作を文化の一つの要素としてもってきた渡来民ではなかったろうか。彼らは、まず自然に稲が作れるような小面積の低湿地から利用を始めたのであろうが、そういう土地がなくなるにつれ、やがて小さな川を制御し、あるいは、溜池を掘って水源を作り、小規模な灌漑を展開をしていったものと思われる。■稲作に固執した原因 しかしそれにしても、土地の面積に制約がなかった時期に、人々を駆って、苦しい土木事業をしてまで、灌漑稲作に向かわしめたものは何であったろうか。雨の分布の良い、つまり年間に極端に乾季雨季の差がないわが国では、人口の少なかった時代なら、畑作によってでも十分な食料を得ることができたはずではないか。そしてそのほうが、川を制御し、灌漑水路を掘り、といった土木事業を前提とした稲作よりも容易な選択であったように思えるのである。 この疑問に対する答えは、わが国の畑の土に求められるように思う。わが国で畑となる土地は、中部山岳地帯以北の東北日本では圧倒的に「黒ボク」が多く、東海地方以西のいわゆる西南日本には、黒ボクとともに丘陵や段丘の赤黄色味の強い土壌が多い。黒ボクについては先に少しふれたが、火山灰由来の特異な土で、その名に示されているように真っ黒な有機物を多量に含み、強酸性でアルミニウムがリン酸と安定な化合物を作り、リン酸の植物による吸収を強く阻害する。(中略) 現在でこそ、石灰を施用して酸性を矯正し、リン酸をはじめ肥料を多用することによって、これらの土の上でも永続的な畑作を営むことが可能になっているが、石灰も肥料も無かった時代に黒ボクや赤黄色土の上で畑を作ることはきわめて困難であったと思われる。ただ一つ考えられるのは、焼畑である。焼畑で森林を焼いて大量の木灰を土に環せば、リン酸も塩基類も短期的には土の中に豊富になるから畑作も可能であったろう。しかし3年も使えば土の生産力は大きく低下したであろうし、その段階で放棄したとしても、黒ボク・赤黄色土の両方の土地とも容易には再びりっぱな森林に環らなかったのではないかと思われる。 こういうわが国の土壌条件の特異性に起因する畑作の困難さを考えると、土地に手を加えてまで稲作に固執した理由がわかるように思うのである。そして、このようなわが国における稲作受容のプロセスは、モンスーン・アジアの稲作圏の中でも特異なものではなかったろうか。この発端における特異性は、その後の稲作の展開にも特異な性格を与えているように思う。■自然を克服した稲作技術 熱帯アジアの稲作のように、圧倒的に大きい自然に対する適応として展開してきた稲作と違って、わが国の稲作は自然に手を加え、灌漑をすることによって、はじめて可能になったものである。したがって時代とともに技術が進歩すると、それに伴って自然への働きかけ方が変わり、ひいては稲作も変わらざるをえなかったろう。つまり、技術の進歩が稲作の進歩を促すように働き続けて今日に至ったというように考えることができる。 熱帯アジアの稲作は、相手となる自然があまりにも大きく、またその自然にあまりにも見事に適応してきたために、少々の技術の進歩では、この適応の形を動かしえなかったのではないであろうか。そしてこの事情は今日でもあまり変わっていないように思える。わが国の土の特異性が、今日わが国と熱帯アジアの稲作にみられる大きな違いを生み出した原因の一つだといったらいいすぎであろうか。ウーム 久馬さんは土壌に着目し、日本では畑作の困難さ、灌漑するに足る降雨から水稲に執着したと説いているが…周りに凶暴な遊牧民が居なかったことなども条件となるかも?なお水稲は、中国の江南辺りから朝鮮半島を経ずして直に伝来した説が有力のようです。そのあたりは『イネが語る日本と中国』3に詳しいので見てみましょう。日本の水田稲作について、佐藤洋一郎さんが次のように述べています。佐藤洋一郎著『イネが語る日本と中国』より 外山さんによると、縄文時代の後期中ごろまで(いまから約3000年前まで)の日本列島では、その西半分、つまり関ケ原から西ではイネが作られていたことが如実にみてとれる。 しかし縄文時代の遺跡からは水田はでてきていない。厳密な言い方をすると、縄文時代晩期の後半以前には、日本列島には水田稲作はなかったらしい。では時代のイネをどう考えるのがよいのか。私は、縄文時代の稲作が、いまのような水田ではなく焼畑のようなところで行われていたと考えている。今でも全世界的に見れば、日本列島のような水田稲作を営んでいる地域は稲作地域のなかのごくわずかに過ぎない。 イネは水田で作られるものという常識が通用するのは、いまの日本列島と朝鮮半島、それに中国の北半分くらいのものに過ぎない。縄文時代のこの時期に水田がなかったことは、水田稲作がなかったことの証拠ではあっても稲作がなかったことの証拠にはならない。
2018.01.16
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図書館で『言葉の降る日』という本を、手にしたのです。加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。【言葉の降る日】加藤典洋著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より静かに言葉は降り積もる。いまはもういない、あの人たちへの思いとともにー。親しくその謦咳に接した吉本隆明、鶴見俊輔だけでなく、太宰治や坂口安吾、井伏鱒二、江藤淳、三島由紀夫など、その実像と思想の核心にふれ、切実なる生と死を彫琢する。在りし日の姿、その息遣いまでもが、聴こえてくる。<読む前の大使寸評>加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。rakuten言葉の降る日坂口安吾や椎名誠らの文体が語られているので、見てみましょう。p172~176<安吾巷談体の発明> これだけの時代の激変を何ごともなく通過するということはありえない。安吾のばあい、「屈折」と「転回」は、誰もが忘れた頃に、5年遅れて、過酷な薬物中毒という外見のもとにやってくるのではないか。 「大きく死ぬ」文学から「死なない」、そして「ちっぽけに生きる」文学への移行。そこに安吾の戦後の起点、誰とも違うコミットメントがあった。そう見えるようになってきたのです。(1)文体 その指標の一つは、繰り返すと、文体です。新しいエッセイの文体の創造。それをここでは後の「昭和軽薄体」にちなみ、「安吾巷談体」と呼んでおきます。 それが同時代ばかりではなく、いまなおしっかりと受けとられていないことは、驚くべきことといってよいでしょう。ここにもってきたのは、文庫版『坂口安吾全集』の第15巻と第16巻です。 安吾全集の構成はこうなっています。 第14巻が、日本文化私観から堕落論までを含む戦前と戦後のうち1945年から46年のエッセイ収めるのに続き、 第15巻が、安吾が「戦後のオピニオン・リーダーとして活動を始めた」1947年1月から51年6月までのエッセイ96編。 第16巻が、安吾が「権力に対して批判を展開していった」1951年1月から55年4月までの54編、を収録しています。 右の「大きく死ぬ」文学から「ちっぽけに生きる」文学への移行の時期を、1949-50年に定め、その以前と以後を1945-49年、1950-55年というように大雑把にわけ、これを戦後1、戦後2と呼んでみます。すると、この第15巻には、戦後1の時期のエッセイが主に収められていることになりますが、内訳は、生前『欲望について』『教祖の文学』『不良少年とキリスト』ほかに収録され、刊行された主要なエッセイ56編と、生前未刊行エッセイ40編とからなっており、そのエッセイの重要性が時の出版界にも認識されていたことがわかります。 しかし、第16巻のほうには、戦後2の時期に書かれたエッセイ54編が収録されているうち、そのすべてが(この時期の主要なエッセイが後に述べる連載ものを主体にするようになるということがあるにせよ、それ以外のものすべてが)生前未刊行なのです。(中略) 安吾が一見剛胆で大雑把にみえつつ、いかに純粋思考をひめた洋学派の神経質でシャイな文章家であったかは、ここにおられる人ならみなご存じでしょう。そういう文学者にとっては、「死なない」ためには「死なない」文体を手にする必要があります。安吾がのように文章に心血を注いできた文学者にとって、それはある意味で死活の問題だったでしょう。 そしてここに手に入れられた文体こそ、彼が死なずにすんだ最大の理由で、「安吾巷談体」と先に名づけたものです。くだけた文、と同時に硬質でもありうる文体で、いまであれば、たとえば、生物学者の池田清彦がエッセイで駆使しているのが、それに近い素材感をもっています。ソシュールだとか、現代のネオ進化論などの高度な思想、科学の話のなかに、急に、「そうだよね」「いえいえ私は別にそう考えさせたいわけではありませんよ」などという口語体がまじる。出自は巷談、そして落語。むろん偶然のことではなく、池田も、きわめて文学に造詣の深い、繊細な文章家です。 そういう文体の発見が死活に関わるという例は、文学ではよくあることで、そう珍しくはありません。少し前の例からとると、椎名誠の、「昭和軽薄体」というのがそうでした。椎名ももとは純文学志向の神経質な文学青年です。そしてこれに続いたのが、南伸坊、糸井重里ですが、両者ともにたいへんにクレバーな知性の持ち主です。この後にやってきた最近の例でいえば、内田樹のウェブモニターで伝達されるのに合わせて調律・調音した「おじさん的思考」の文体も、そうでしょう。 内田のばあいには、独自のコラムニストの文体を発見することで、はじめて新しい生き方、思想、その作法が、作りだされる、ということが起こっています。文体の発見、創出、そちらが先なのです。そういう新しい思想を盛るための新しい文体の、戦後初期の創生期の先駆例が、この安吾巷談体の創造だったのだと私は思うのです。『言葉の降る日』1
2018.01.16
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<『ウニはすごい バッタもすごい』1>図書館に予約していた『ウニはすごい バッタもすごい』という本を、待つこと5ヶ月でゲットしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい 「第2章 昆虫大成功の秘密」から昆虫の骨格を、見てみましょう。p34~35<キチン質の外骨格> 昆虫成功の鍵となる性質を考えていきたい。まず特筆すべき昆虫の骨格。これがきわめつきの優れものなのである。骨格とは、力が加わっても体がへしゃげないように形や姿勢を保つ堅固な構造物のこと。(中略)■無機質の骨格と有機質の骨格 骨格を、それがつくられている材料で分類すると、おもに無機物でできているものと、有機物でできているものとに分けられる。代表的な無機物は炭酸カルシウムで、サンゴの骨格や貝殻がこれ。海水中にはカルシウムが大量に溶けており、また、空気中の炭酸ガスも海水に溶け込んでいるため、炭酸カルシウムの原料はふんだんにある。 だからちょっと条件を整えてやれば炭酸カルシウムが簡単に沈殿し、すばやく安価に骨格がつくれるという大きな利点がある。しかし重くてもろいという欠点をもち、また、いったんつくってしまうと壊しにくい。 われわれ脊椎動物の場合は、同じくカルシウムを用いているがリン酸カルシウムの骨格である。この骨格には、いったんつくった後でも、簡単にそれを溶かして形を手直しできるという長所がある。われわれの骨は日々、力のかかる場所は太く、かからない場所は細くと、手直しを繰り返している。こうして必用な場所を強くし、不必要なところを削って無駄な重さを減らしている。これは大きな利点であるが、リンの入手はカルシウムほど簡単ではないため、つくるのにコストがかかる。 有機物でできている骨格の代表格が昆虫のクチクラ。これは多糖類やタンパク質という複雑な分子でできており、そんなものを合成してつくるのだから制作費は当然高くつく。ただし高いだけのことはあり、軽量かつ丈夫できわめて高機能なものに仕上がっている。そういう高機能材料を用いるかげで、あれほど細い脚をつくってもへにゃへにゃせず折れもせず、強く、それでいて軽い。だからこそ脚を軽やかに振り動かしてすばやく走ることができるのである。昆虫のクチクラについては、本川さんの前著『ゾウの時間 ネズミの時間』2でも、述べられています。
2018.01.15
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<『言葉の降る日』1>図書館で『言葉の降る日』という本を、手にしたのです。加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。【言葉の降る日】加藤典洋著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より静かに言葉は降り積もる。いまはもういない、あの人たちへの思いとともにー。親しくその謦咳に接した吉本隆明、鶴見俊輔だけでなく、太宰治や坂口安吾、井伏鱒二、江藤淳、三島由紀夫など、その実像と思想の核心にふれ、切実なる生と死を彫琢する。在りし日の姿、その息遣いまでもが、聴こえてくる。<読む前の大使寸評>加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。rakuten言葉の降る日井伏鱒二の歴史観が語れているので、見てみましょう。p151~154<太宰、井伏、坂口> 話の後段にいたり、一人が小田原攻めから凱旋したあたりから、秀吉の高麗出兵の話がせり上がってくる。「近頃、豊臣秀吉が高麗国に出兵すると、頼りに吹聴してまわっておるそうな」。「鉄砲を持たないと、攻めるに好都合な弱い人間と思う者がおる。大明国も高麗も鉄砲を持たないので、秀吉は高麗のことを、卵の山をつぶすようなものだと云ったそうな」。 ついで、天正19年(1591)ともなると、利休切腹の噂が話にのぼる。翌年、朝鮮出兵。やがて、いよいよ談論に苦い戦国の世への慨嘆、秀吉への辛口の批評が交じるようになる。そしてようやく、この作品の心棒ともいうべき恵瓊長老、安国寺恵瓊その人が登場してくる。 先の井伏の架空要素、弁燃坊の創作が意味深く思われるのは、それが、安国寺恵瓊の身の上をなぞるもののようだからである。 恵瓊は、安芸武田氏の出。詳細はわからぬながら、滅亡後、武田氏の遺孤として、安国寺に逃れ、僧恵心の弟子となっている。その後、師、恵心を通じ、毛利家の外交僧。やがて秀吉の高松城水攻めにおける毛利方との講和をまとめ、力量を発揮、秀吉に引き立てられ、毛利氏外交僧でありつつ秀吉からも大名として所領を授かるという異例の位置づけを得る。 『鞆ノ津茶話記』は、むろん井伏の手によってではあるけれども、次のような恵瓊の発言で、朝鮮侵略、秀吉の愚行を深くいさめる。 慶長4年4月17日、既に前年、秀吉は死に、恵瓊長老は「頭髪を剃っている」。高麗出陣の兵は、喪を秘して一同帰還することと相成った。前後7年に及ぶ戦争は終わった。思うだに空しい戦いであった。出陣した者はみな疲れ果てて居た。(中略) 日本軍が引き揚げると、入れ代わりに明軍が進出し、小西行長の残して行った人質を捕虜にして、糧米、馬匹、武器弾薬をば奪い取った。明兵は狼藉を極め、日本兵も狼藉を極め、後は惨憺たるものであったに違いない また、 明史に「関白、東国ヲ侵シテヨリ前後7歳、中朝トハツイニ勝算ナシ」と云ってあるそうだ。明国の財政は高麗援助の費で底を衝いてしまったのだろう。太閤秀吉っが八幡船を出す代わりに、若し明国を援助していたらと我等の思う日が続くのだ 慶長の役の翌年に明史がこのように記していることは考えられない以上、これら恵瓊の発言は、井伏の言葉と受けとるのがよいだろう。私がこのように乱暴な口をきくのは、この後、再度、お別れの4月25日夜の茶会がもたれた「翌日、朝早く5人の武者を連れて大坂へ向け出発した」と語られる、恵瓊と5人のわが茶会会衆のその後を、一読者である私が重々、知っているからである。「5人」説明は、こう続く。いずれも恵瓊長老の腹心、有田蔵人介、手島市之進、浦吉勝、柴田入道斎、粟原四郎兵衛の鎧武者五騎で、同時に御屋方様のお気に入りであり、御屋方様の猶子、金吾中納言秀秋公のお気に入りである。以上の五騎を、大坂向島の御屋方様に手渡すことになっておる。即ち、千軍万馬の古つわものを金吾秀秋公に渡し、その軍勢を引立てることになっておる(中略) 西軍敗退後、恵瓊は、毛利氏が生き延びるためのスケープゴートとなる。徳川治世下、とりわけ毛利氏を戴く長州藩のもとでは、万人に憎まれ、「悪僧・妖僧と悪罵のかぎりを以て呼ばれ、また愚人と嘲弄」される。 考えてみれば、この本の主人公たる安国寺恵瓊こそ、死後、悪罵にさらされるすぐれた敗者の最たる者にほかならない。井伏は、宋湛に代え、恵瓊に軸足を移すことで、梟首に終る物語を手にしているのである。
2018.01.15
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<図書館大好き278>今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・ウニはすごい バッタもすごい・ひなびたごちそう・言葉の降る日・花の町 軍歌「戦友」<大学図書館>・稲のアジア史1図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪<図書館予約:(8/20予約、1/14受取)>rakutenウニはすごい バッタもすごい 【ひなびたごちそう】島田雅彦著、ポプラ社、2010年刊<「BOOK」データベース>よりサバサンド、マグロのカツレツ、トロピカル鍋ーうまいものにありつくために、嬉々として台所で試行錯誤を繰り返し、日本全国、世界各地で、さまざまな名物を口にする。「ひなびた」家庭料理がにわかにいとおしく思えてくる、文壇随一の料理人による食エッセイ。巻末にレシピ付き。<読む前の大使寸評>先日読んだ高橋源一郎著『もっとも危険な読書』でこの本が紹介されていたので、即図書館に借出し予約したら。ツーカーでゲットできたのです。<図書館予約:(1/11予約、1/14受取)>rakutenひなびたごちそう『もっとも危険な読書』1【言葉の降る日】加藤典洋著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より静かに言葉は降り積もる。いまはもういない、あの人たちへの思いとともにー。親しくその謦咳に接した吉本隆明、鶴見俊輔だけでなく、太宰治や坂口安吾、井伏鱒二、江藤淳、三島由紀夫など、その実像と思想の核心にふれ、切実なる生と死を彫琢する。在りし日の姿、その息遣いまでもが、聴こえてくる。<読む前の大使寸評>加藤典洋さんの文章は、教科書だか入試問題にもなっているそうで、それだけ論理的な文章なんだろう。そういう文章とはどんなだろうというハウツー志向もあって、この本をチョイスしたのです。rakuten言葉の降る日【花の町 軍歌「戦友」】井伏鱒二著、講談社、1996年刊<「BOOK」データベース>より昭和16年、陸軍徴用員として従軍した著者は翌年二月シンガポールに入り、昭南タイムズ、昭南日本学園等に勤務。市内の一家族の動向を丹念に描いた長閑で滑稽で奇妙に平和な戦時中の異色作「花の町」をはじめ、「軍歌『戦友』」「昭南タイムズ発刊の頃」「シンガポールで見た藤田嗣治」「或る少女の戦時日記」「悪夢」など、この体験に関わる文業を集成、九篇収録。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten花の町 軍歌「戦友」【稲のアジア史1】渡部忠世×福井捷朗著、小学館、1997年刊<出版社>より日本文化の基層を形成する「稲」の問題をアジア稲作文化圏の視野から、生態、歴史、技術を通して解明。21世紀の日本の「稲」「稲作」を考えるうえで、大いなる示唆と指針にを与える基本書である。<読む前の大使寸評>ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。amazon稲のアジア史1************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き277
2018.01.15
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図書館で『狼が来るぞ!』という本を、手にしたのです。この本は「SPA!」名物コラムから精選とのことで・・・四方田さんは右の論客という側面もあるようです。【狼が来るぞ!】四方田犬彦著、平凡社、1999年刊<「BOOK」データベース>よりもうすぐ恐るべき新世紀がやってくる。猫かぶりの読者よ、こころせよ。「SPA!」名物コラムから精選107篇。1995‐1999の喧嘩、生き死に、オバケのつまった、世紀末きわめつけのこの1冊。<読む前の大使寸評>この本は「SPA!」名物コラムから精選とのことで・・・四方田さんは右の論客という側面もあるようです。amazon狼が来るぞ!「旅行家」について述べられているので、見てみましょう。p28~30<観光と旅行> ある街や国を訪れて、その場所にしかない珍しいものを見たり、記念写真を撮って自分の住んでいる場所に帰ることと、その未知の場所にずっと滞在して、現地の言葉でなんとか生活しようとしたり、病気になったり、新しい友だちをこしらえたりすることは、本質的に違うことである。ポール・ボウルズなら前者をツーリスト、後者をトラヴェラーと呼ぶだろう。日本語に訳してみれば、「観光客」と「旅行家」ということになるのだろうか。 「旅行家」といったところで、なにも1年中忙しげにあちらこちら移動しまくっている必要はどこにもない。ただ自分の生まれ育った国や街の流儀をひとたび忘れて、別の人生を歩み出そうとする心構えをもっているかどうか、ということである。 観光客はそんなことは考えていない。日本で待っている知りあいにどんな絵葉書を送ろうとか、お土産はどんなものにしようか、帰ったらなにをしようか、などということばかり考えている。だから一口に外国に行ったことがあるといっても、この二つの間には大変な違いが横たわっている。 ぼくはこれまでの人生で三回、旅行者となったことがある。一度目は韓国のソウル。二度目はニューヨーク。そして三度目は、ついこないだまでいたボローニャ。いずれの滞在も1年から2年ほどの長さで、年齢的にいえば、ぼくが25歳、33歳、41歳のときの出来事だった。 その体験が自分の生き方を区切り、新しい時間へと踏み出すために役にたったことはいうまでもない。と同時に、外国から日本へと戻ってくるたびに、自分が偶然に生まれ落ち、育ったこの国に対する考え方も微妙に変わってきた。いまからそのことを簡単に書いておこう。 最初に韓国から帰ってきたときには、日本全体が巨大な砂糖菓子の塊のように思えた。1年の間、軍服や迷彩服を着用したり、グラウンドで軍事教練に励む学生たちとつきあった直後だったからかもしれないが、徴兵制度もなく暇をもてあましてキャンパスでサークル活動とナンパにしか関心のない東京の大学生が子供に見えてしかたがなかった。 ソウルの学生たちは強い民族意識と、それを支えるだけのエリート意識をもっていた。そして、ときに堅苦しいと思えるまでに礼儀正しく、それでいて羽目を外したときは徹底的に大騒ぎをするのだった。一方、東京の学生たちの大部分は歴史意識など、これっぽっちも携えていなかった。もちろんエリート意識だって、かけらもなかった。行儀は悪く、そのくせ世間態を考えないで面と向かって自分の意見を口にすることが恥であるかのように考えていた。 次にニューヨークから帰ってきたときはどうだったかというと、ああなんと堅苦しい、形式だらけの国に帰ってきたのだろうという思いでいっぱいだった。アメリカの間では実に簡単に人が人を紹介しあったり、されあったりするのが当然だった。そのうちに人は気の通じあう友だちをふと発見することができる。ところが同じことが東京であったとしても、知りあいの数だけは次々と増えていくけれど、どこまでたっても友だちを作ることが難しいところだなあ、というのが第一印象だった。日本では人間が気さくにできていないのだ。なにしろ、知らない人に声をかけられたら絶対に口を利いちゃけません、と母親が子供に教える国なのだから。 ではボローニャで1年を過ごしたあとはどうかというと、これはもうものすごい速度ですべてのものごとが運動している国に帰ってきたのだなあ、というのが本音である。成田空港のリムジンバスが3分刻みに到着し、それがものの5分遅れただけで、案内人が乗客に向かって頭を下げて説明するというさまを帰国そうそうに目撃したぼくは、はたしてこんな国でふたたび生きていけるのか、心配になってしまった。やれやれ…。(95.6.21)『狼が来るぞ!』1:発展する大東亜共栄圏『狼が来るぞ!』2:世界のチャイナタウン事情
2018.01.14
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