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図書館で『超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)』という雑誌を、手にしたのです。監視時代、スズメと関心のあるテーマが並んでいたのが、借りる決め手になったのでおます。「超監視時代」という特集でロンドンの現状を見てみましょう。p35~60<都市を監視する>ロンドンでは1990年代初めにトラックに爆弾を積んだテロが相次ぎ、市当局は早くから監視カメラによる広域の監視システムを導入した。2012~15年に市内に設置されたカメラの台数は72%増加し、英国全体の3分の1を占めるようになった。今ではロンドン市民は世界屈指の厳重な監視下に置かれている。たとえば、イズリントン区には180台のカメラがある。イズリントン区のカメラ バイクは歩道に乗り上げ、運転していた二人の男がエンジンを切って降りた。そして、ヘルメットをかぶったまま、長々と話し込んでいる。会話の中身は男たちにしかわからないが、彼らにもわからないことがある。そこから2キロと離れていないビルの中で、別の二人の男が自分たちの行動に目を光らせていることだ。(中略) サムとエリックは慣れた様子でカメラからカメラとバイクの動きを追い続けたが、はた目にも緊張感がひしひしと伝わってきた。エリックたちの見るところ、運転している二人は1年以上も前から近隣を悩ませている非行グループのメンバーのようだ。 通行人からスマートフォンをひったくり、闇で売るのが彼らの手口で、人口およそ23万人のイズリントン区で、週に50件ほども犯行を繰り返してきたという。 どこに行こうとずっと見られているというのに、まったく気づいていないのか、2台のバイクは派手な暴走を繰り広げている。私も、彼らの動きを目で追うのに夢中になった。モニターに映し出される二人は何か犯罪に手を染めたのかもしれないが、映像だけでは断定できない。確かなことはただ一つ。私たちには彼らが見えるが、彼らには私たちが見えないということだ。 その日の夕方、私はロンドン南西部のとある場所に止め置かれたトレーラーハウスを訪ねた。そこには、皆からハズと呼ばれる人当たりのいい青年がいて、目の前に置かれた数台のモニターを見つめている。映し出されるのは、近くにある2軒のナイトクラブに設置された10台の監視カメラがとらえた映像だ。 ハズは月に2回ほど、週末にこのトレーラーハウスに詰めている。ナイトクラブは客が麻薬の売り買いをして警察沙汰になるのを避けるため、移動型の映像監視システムを運用する元警察官のゴードン・タイアーマンに依頼。ハズはその監視役として雇われているというわけだ。 「これまでやった仕事のなかで、これが一番面白い」とハズは話す。「いつ何が起こるか予測がつかないんだ。今夜は静かだと思っていると、突然けんかが始まったりする」■陰鬱な未来を描いた小説 独裁体制に対する恐怖感が欧州を覆っていた1949年、英国の小説家ジョージ・オーウェルが『1984年』を世に出した。「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という陰鬱な警告が人々を震え上がらせる暗い近未来を描いた傑作だ。「ビッグ・ブラザー」とは、姿を見せない「偉大なる兄弟」で、市民を常に見張る国家権力を象徴している。監視社会の怖さを実感させる内容だったが、当時はまだ、それを実現するような技術は存在しなかった。 しかし今ではインターネット上で年間2兆5000億点を超す画像が公開されたり、保存されたりしている。そして、一般の人たちが撮りためている未公開の写真や動画は数十億点にのぼると思われる。また道路には自動ナンバープレート認識装置が設置され、スピード違反や駐車違反ばかりか、英国では容疑者の動きも監視しているのだ。(中略)■監視は止められるのか? 市民の自由を擁護する人々の目には、監視技術の急速な進歩は暴走する高速列車のように映る。英ケンブリッジ大学でセキュリティー工学を研究するロス・アンダーソンはこう警告する。「20年先を考える必要があります。その頃には、現実世界にデジタル情報を重ねて表示できる拡張現実(AR)が私たちを取り巻いているでしょう。そこで使用される映像は最低でも1センチ当り3000画素と極めて高解像度です。講師のスマホに映し出される文章を監視カメラがとらえて、講堂の後ろに座っている学生も読めるようになるでしょう。 一方、講堂内の100台もの監視カメラで、学生がスマホに打ち込むパスワードも読み取られるのです」 私たちはこうした状況にどう対処すればよいのか? 監視技術の使用が禁止されたり抑えられたりするとは想像しがたい。英国政府から任命され、第三者の立場でテロ対策関連法を6年にわたって検証してきた法廷弁護士のデビッド・アンダーソンは二つの考え方があると語る。 「強力な監視技術が使われるなら、政府はそれと同程度に強力な安全策を講じる必要があると考えるのか、それとも、考えただけでも恐ろしいからと見て見ぬふりをするのか。私は断固として前者の立場を取ります。英国のような成熟した民主社会なら、優れた安全策を講じて弊害よりも便益が勝るような利用の仕方ができるはずです」 一方で、規制が不充分なまま、民間企業が監視技術をどんどん導入する動きにも危うさを感じる。デジタル時代の人権擁護に詳しいジャミール・ジャファーに考えを聞いた。「個人の生活が絶えず記録され、追跡されるようになっています。私たちはその問題に取り組み始めたばかりです。新しい技術を採用する前に、あるいは新しい監視の形態が社会に入り込む前に、長期的な影響を考える必要があります」 導入の是非をどう見極めるかが問題になる。【超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)】雑誌、日経ナショナルジオグラフィック社、2018年刊<商品の説明>より●超監視時代:安全を求める声と技術の進歩で、世界はかつてない監視時代に突入している。私たちは日々、数多くの監視カメラに見つめられ、プライバシーは過去のものになるのだろうか?●はじめてのスズメ:街角の植え込みや電線、公園のベンチに住宅の軒下......スズメは日常の風景に当たり前のようにいる。しかし、この小さな野鳥のことをどれだけ知っているのか?身近な鳥のあまり知らない素顔を見つめる。<読む前の大使寸評>監視時代、スズメと関心のあるテーマが並んでいたのが、借りる決め手になったのでおます。amazon超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)『超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)』1
2018.09.30
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図書館で『超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)』という雑誌を、手にしたのです。監視時代、スズメと関心のあるテーマが並んでいたのが、借りる決め手になったのでおます。「鳥たちの地球」というシリーズが連載されているが今月号はスズメを、とりあげていました。p110~111<鳥、と言われれば、ハト、カラスと並んで、やはりスズメを思い浮かべるのではないだろうか:三上修(鳥類学者)> スズメを思い浮かべるのは、スズメが身近な鳥だからである。この「身近にいる」ということをもう少し掘り下げて考えてみたい。 日本では、700種ほどの鳥が記録されている。このうち、ほとんどの鳥は、山や草原などの自然豊かな環境にいる。町の中にいるのは、スズメをはじめとした10~20種ほどである。さらに、それらのうちのほとんどは「町の中でも」見られる鳥である。たとえば、シジュウカラの本来の住処は森林だが、町の中の小さな公園にも生息している。 対して、スズメは「町の中でしか」子育てをしない鳥である。なぜスズメが町なかを選択しているのかといえば、天敵であるタカやヘビが人を恐れて近づかないことに加えて、今から述べるように巣を作りやすいからだと思われる。 さて、そのスズメの巣だが、多くの方は見たことがないだろう。カラスの巣であれば、冬に葉がごっそり落ちた街路樹の中にみつけることがあるかもしれない。しかし、スズメは例外はあるにせよ、木に巣を作らない。では、どこにあるかといえば、屋根瓦の隙間、屋根と壁の隙間、道路標識のポールに空いた穴などの人工構造物の隙間である。 そのため、巣そのものは見えないが、それらの隙間に餌をもって入っていく親鳥の姿やその隙間から聞こえる雛の声で、巣があるとわかる。巣は思ったより多く、100メートル四方に数個はある。(中略) さて、日本のスズメに話を戻すと、スズメは身近であるがゆえに、日本の文化の中にも数多く登場する。たとえば、「雀の涙」や「欣喜雀躍」といった慣用句がある。とぎ話の「舌切り雀」にもスズメは登場する。小林一茶は、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」と詠んでいるし、色やデザインにスズメが採用されていることも多い。 たとえば、「雀色」という色もあるし、伊達家の家紋は「竹に雀」である。絵の中に描かれていることも多く、国立博物館に行って日本の絵を見ていると、スズメがあちらこちらに出てくる。「それって、ただ小さい鳥が描いてあるだけでは?」と思うかもしれないが、日本に生息している鳥で頬が黒いものはスズメだけであり、たとえ墨絵であっても、頬に墨でひと差しあれば、スズメとわかるのだ。 身近で文化の中にも登場するスズメだが、現在減少していると考えられている。スズメの正確な個体数調査が行なわれているわけではないが、さまざまな記録から、1990年頃から減少しており、半減したと考えられる。 減った原因の一つは、巣を作れる場所が減ったからである。昔の建物は屋根瓦や、軒下に手ごろな隙間があり、スズメが巣を作っていた。しかし、近年建てられた住宅は機密性が高く、このような隙間がなく巣を作りづらい。さらに、スズメが餌を採る場所も減っている。昔はよくあった、草が生えたような駐車場や空き地は舗装されてしまっている。 このまま減少が続いて、いつかスズメを見なくなる日がくるかというと、そう単純ではないと思われる。というのも、現代のスズメが巣を作っている人工構造物の隙間の中には、たとえば道路標識のように、過去には存在しなかったものも多い。今後も、スズメは人間の作り出した文明にうまく対応してくれるかもしれない。 一方で、ヒバリやゲンゴロウのように昔は当たり前にいた種が、消えていった例もある。油断は禁物である。【超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)】雑誌、日経ナショナルジオグラフィック社、2018年刊<商品の説明>より●超監視時代:安全を求める声と技術の進歩で、世界はかつてない監視時代に突入している。私たちは日々、数多くの監視カメラに見つめられ、プライバシーは過去のものになるのだろうか?●はじめてのスズメ:街角の植え込みや電線、公園のベンチに住宅の軒下......スズメは日常の風景に当たり前のようにいる。しかし、この小さな野鳥のことをどれだけ知っているのか?身近な鳥のあまり知らない素顔を見つめる。<読む前の大使寸評>監視時代、スズメと関心のあるテーマが並んでいたのが、借りる決め手になったのでおます。amazon超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)この本もスズメの本あれこれに収めておくものとします。
2018.09.30
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<『EVシフト』3>図書館に予約していた『EVシフト』という本を、待つこと3ヵ月でゲットしたのです。販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、9/21受取)>rakutenEVシフトエネルギー用インフラ即ち電力業界に対するインパクトが気になるので、そのあたりを見てみましょう。p189~194<電力業界に対するインパクト>■日本の乗用車がすべてEVになったら電力は足りるのか? 2016年の日本のピーク時の電力供給能力は約174GWである。このピーク電力供給の状態で、1年間=8760時間発電した場合の電力量が、日本の年間最大供給可能電力量となるが、計算すると1500TWhとなる。2016年の日本における年間電力量供給実績は約800TWhであった。よって現時点でEVに充電できる年間最大電力量は差し引いて700TWhとなる。 さて一方で、一般財団法人自動車検査登録情報協会によれば、2017年9月末における日本の乗用車(軽自動車含む)保有台数は約8200万台である。この乗用車がすべてEVになったとしたら、既存の電力インフラによって、電気の供給は可能なのだろうか? 年間走行距離1万km、EVの電費を7km/kwhという前提を置くと年間87TWhが必用となる。よって、計算上十分賄いきれることがわかる。 次に電力として賄いきれるだろうか。日本の家庭用充電器の出力を3kW、急速充電の出力を100kW、使用比率を家庭用95%、急速充電5%とすれば、1台当り平均充電電力は7.9kWということになる。 よって一斉にEVが充電したとすると、必要な電力は約490GWとなる。これは日本の電力供給能力174GWの約2.8倍になってしまい、賄いきれないことがわかる。 実際には、EVが一斉に充電することはないため、これは乱暴な計算である。しかし、すべてのクルマをEVにするということは、電力供給能力上大きな問題になりそうだということはわかる。また、EV向けの電力供給という切り口で電力ビジネスを実施し大きなシェアを取れれば、電力業界のビッグプレイヤーになる可能性があることも示唆している。■EVへの電力供給源は再生可能エネルギー 発電所を増設して、EV向けの電力を確保すれば問題は解決いそうであるが、そんなに単純ではないかもしれない。「コスト等検証委員会報告書」(2011年12月19日)によれば、原子力発電所は計画から稼動までに20年程度、火力発電所は10年程度必要とのことである。すなわちEVシフトが急激に進むのであれば、10年前からこれを予測し準備を進めなければいけないのである。 一方で再生可能エネルギーは稼動までの時間が短く、CO2削減対策にもなるため、増設する発電設備としては理想的である。しかし再生可能エネルギーは天気任せの発電なので、発電電力が変動し、送配電網が不安定になるという問題がある。実際に、再生可能エネルギーからの発電電力を送配電網が受け取りきれず、せっかくの電気を捨てているという状況が現時点でも起こっている。■電力マネジメントがビジネスチャンスに 日本ですべての自動車をEV化して一斉に充電したと仮定した場合、電力量(kWh)は足りているが、電力(kW)は足りない状況になると述べた。したがって、電力マネジメント(電力の需給マッチング)がビジネスチャンスになる。 火力発電や太陽光発電などの発電設備に蓄電池を付設し、余分に発電した電力を貯め、需要が多いときに放電する。発電所に付設しなくても、送配電網や家庭・ビルなどの需要家側に蓄電池を付設して、需要の多いときに放電するという方法もある。また電力消費側が我慢するという方法もある。EVの充電タイミングをずらす、おしくはEVへの充電電力を下げてゆっくり充電する、他の機器の電力消費を我慢してもらうといった方法がある。 これらの方法のいくつかでは電池を使うことになるが、第3節で述べた通り、新たな電池の調達が困難になる可能性もある。その場合には、廃車EVから取り出した電池をリユースして蓄電システムを構築するなどの方策が考えられる。『EVシフト』2:電池業界に与えるインパクト『EVシフト』1:中国の現状
2018.09.30
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図書館で『尖閣喪失』という本を、手にしたのです。日本の安全保障委員会とか、中国軍の特殊部隊とか、なかなかのシミュレーション小説やおまへんか♪かわぐちかいじの『空母いぶき』を彷彿とするようなシミュレーション小説であるが、『空母いぶき』よりも、もっと“おたく度”が深いようでおます。【尖閣喪失】大石英司著、中央公論新社、2012年刊<「BOOK」データベース>より中国・台湾が領有権を主張する「尖閣諸島」。衆議院の解散総選挙を伴う政権交代のタイミングで、ついに中国が実力行使に踏み切った。政治的影響を睨みながら展開される水面下での熾烈な駆け引きと日中の軍事作戦の行方を、迫真の筆致で描く。<読む前の大使寸評>日本の安全保障委員会とか、中国軍の特殊部隊とか、なかなかのシミュレーション小説やおまへんか♪rakuten尖閣喪失魚釣島に中国兵が上陸したあたりを、見てみましょう。p271~276<第九章> 外務省の中国課長・荒井慶一と、コピー用紙を抱えた防衛大臣秘書の国上が入って来る。国上がコピー用紙を全員の前に置いた。 「要回収ですので、必要な部分はメモを取ってください」 国上がそう念押しした。ここにいるメンバーは、中国課長を除いて全員に名を連ねていた。いわば同じ釜の飯を食った仲間だ。 「NMO、非軍事的選択肢です。原則的に、2010年の尖閣事案の直後、外務省と経産省の間で纏められたものを踏襲しています」 クリップで留められたペーパーは僅か三枚。表紙を除けば二枚に過ぎない。30項目あまりの対抗措置で、中国の国内資産の凍結から、大使の召還、人の往来の停止、上海雑伎団の入国禁止まで書かれていた。 石橋はそれを捲ってチッと舌打ちした。 「近所のガキ大将のご機嫌を損ねずに、どうやって復讐しようかという話だな。どだい無理な話だ」 「国内資産の凍結は即効性はあるでしょう。日本が本気で怒っているという意思表示ができます。対してわれわれは、中国国内にたいした資産は持ちません。持てない仕組みになっていますから」 「われわれが資産を差し押さえたら、中国はきっと数百人単位で在留邦人を拘束するだろうな。・・・実際の手続きを考えるとナンセンスだし、あとあと裁判沙汰になったら、政府に勝ち目はない。こういう提案をする時には、日中貿易がそれで止まったらGDPがどのくらい落ち込むか試算結果も付けるべきだな。誰も得はしない」 中国課長が頷いた。 「駐日大使は何だって?」 「寝耳に水で、個人的には困惑しているとのことです。おそらく、チベット問題から世界の目を逸らすと同時に、国内の不満も解消できる一石二鳥を狙った策だろうという話です」 「九段線保持のアピールもできる。一石二鳥どころか、三鳥も四鳥も捕れるよ。私が向こうの主席でも飛びつくね。もし日中関係がこじれない確約が得られるならな。引き続き検討してくれ。北京に対しては、公式非公式あらゆるルートを使って、日本が尖閣を防衛するという意思表示を繰り返すよう」 石橋は、中国課長に退席するように命じた。その顔には、チャイナスクールは信用できないと描いてあった。荒井が退席うると、部屋の片隅に畏まっていた楠木がブリーフケースをテーブルの一番端に置いて開くと、先ほどのものとは別のペ-パーを出し、一人一人に配った。 こちらはさらに厳重な扱いで「閲覧のみ許可」という赤いスタンプが押されていた。ご丁寧に「EYES ONLY」と英字ルビまで振られている。 「ACO、中国軍が上陸した後の、近接阻止対応作戦です。これはとは別個の作戦で、空自と海自が主体となります。航空自衛隊はすでに対応部隊が那覇へと向かうべく各基地で待機しております」(中略) 「ACOは、全て防衛出動待機命令が出ないことを前提に練られました。従って、那覇基地防衛に於いては、空港施設の防衛は、警官がピストル一丁で担うことになっています。レーダーサイトの防衛にしても同様です。基地のゲートを一歩出たら、そこで武装した自衛官が行動する自由はありません」 「不自由はある?」 「ないと言えば嘘になります。ただし、外交上の損得を考え、さらに中国軍が尖閣の外で次の軍事行動に出る可能性を勘案した場合、慎重な判断が必要になろうかと」 「つまり、国上さんとしては、中国が沖縄本島や九州本土に対して、何らかの軍事行動を起こす可能性は低いと判断しているわけだ」 「僭越ながら、そう考えております。現に彼らは、魚釣島上陸に関しても、銃の一発も撃ちませんでした。王洪波少将は、何が日本の世論を激高させるか百も承知しています。那覇空港でコマンドが蜂起するような事態は、しばらくはないでしょう。われわれが武力行使に踏み切るまでは」 「までやっちゃっていいの? 待機命令なしで」 「部隊は訓練名目で移動しました。陸にしても海にしても、その延長線で、上陸訓練が行なわれるまでです。その部隊がたまたま実弾を携行していたからといって、法律違反に問われることはありません。は、戦車が公道を走るわけではないので」ネタばらしになりますが・・・この小説はハッピーエンドではありません。ニッポンに対する警鐘という意味ではそのほうがいいのかも。ところで、世界最強の特殊部隊といえば、英国陸軍SASと言われています。最近読んだ『ブラヴォー・ツー・ゼロ』という湾岸戦争の戦争ノンフィクションに英軍SASの実戦がレポートされているが、この『尖閣喪失』とよく似たシーンが出てきたのが興味深いのです。【ブラヴォー・ツー・ゼロ】アンディ・マクナブ著、早川書房、2000年刊<「BOOK」データベース>より1991年1月22日、「世界最強の特殊部隊」の異名をもつ英国陸軍SASの兵士八人が、イラクに潜入した。任務は極秘にスカッド・ミサイル発射機を破壊すること。異常寒波のなか、彼らは敵軍と長く激しい戦闘を繰り返すが、抵抗もむなしく捕虜となってしまう…悪夢と化した任務の全貌を『SAS戦闘員』の著者が克明に語る!その圧倒的な迫力で多くの読者を魅了し、大ベストセラーを記録した戦争ノンフィクションの金字塔。<読む前の大使寸評>大使はフォークランド紛争や湾岸戦争の戦歴に関心があるのだが・・・その裏には、中国の狂ったような軍拡が影響しているわけでおます。rakutenブラヴォー・ツー・ゼロ『ブラヴォー・ツー・ゼロ』2:捕虜になるp157~160『ブラヴォー・ツー・ゼロ』1:侵入作戦開始p69~71
2018.09.29
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図書館で『原典で楽しむ江戸の世界』という本を、手にしたのです。おお 写真週刊誌のような時事浮世絵がいいではないか♪【原典で楽しむ江戸の世界】浅野晃×加藤光男著、里文出版、2004年刊<「BOOK」データベース>より江戸の文学作品や浮世絵・錦絵。そこに描かれたユーモアや、時代の息づかいを感じつつ、江戸の文字を楽しめる一冊。<読む前の大使寸評>おお 写真週刊誌のような時事浮世絵がいいではないか♪rakuten原典で楽しむ江戸の世界拳絵の1枚を、見てみましょう。p70<道化拳合(とてつる拳):弘化四年、歌川国芳> 拳遊びは、嘉永期に大流行し、その所作が歌舞伎の浄瑠璃に取り入れられた。 そのはじめが弘化四年の「とてつる拳」であり、以後、「つく物拳」「蓬莱拳」「三国拳」などへと引き継がれ、それぞれの拳絵が作成された。 このように、歌舞伎の演目を描いた拳絵であったが、流行した節回しを流用し、三すくみの関係に置き換えて、時の世相を巧みに描き出した作品群も作られた。拳絵仕立ての1枚を、見てみましょう。p74<大地震:弘化四年、作者不詳> 弘化四年三月二十四日夜の善光寺地震の後に、江戸において作られた拳絵仕立ての時事浮世絵である。この年の三月八日から信州善光寺では本尊の阿弥陀如来の開帳が行なわれており、多くの参詣者が被災した。 画面には、阿弥陀如来と旅人の女性と地震鯰が描かれ、阿弥陀が女性に勝ち、女性が鯰に勝ち、地震を起こしたことから鯰が阿弥陀に勝つという三すくみのジャンケンの形になっている。『原典で楽しむ江戸の世界』1
2018.09.29
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図書館で『原典で楽しむ江戸の世界』という本を、手にしたのです。おお 写真週刊誌のような時事浮世絵がいいではないか♪【原典で楽しむ江戸の世界】浅野晃×加藤光男著、里文出版、2004年刊<「BOOK」データベース>より江戸の文学作品や浮世絵・錦絵。そこに描かれたユーモアや、時代の息づかいを感じつつ、江戸の文字を楽しめる一冊。<読む前の大使寸評>おお 写真週刊誌のような時事浮世絵がいいではないか♪rakuten原典で楽しむ江戸の世界江戸庶民が日常的に消費した浮世絵を、見てみましょう。p66~67<浮世絵・錦絵を読み直す:加藤光男> この本を手にされた方は「浮世絵」と問われると、どのように答えられるのだろうか。 歌麿に代表される日本女性の華やかで艶やかな容姿を描いた美人画、写楽による歌舞伎役者の表情豊かで個性的な人物像、北斎の富岳三十六景や広重の東海道五十三次など、詩情・旅情溢れる風景画をまず思い浮かべるのではないだろうか。 そして浮世絵をみる・楽しむとは、静寂で薄暗く少し敷居の高い感じのする美術館や博物館などに出向き背筋をただして鑑賞する、または、書斎において高額な美術書を想定し、教養を高めるためのものと認識しているのではなかろうか。 また、浮世絵の値段は、作者・作品の人気や保存状態により様々であるが、写楽の「三代目坂田半五郎の藤川水右衛門」の保存のよい作品が約六千万円、広重の「名所江戸百景両国花火」の初摺りが約二千万円、歌麿の著名な美人画は1枚百万円を下らない、名の知れた浮世絵師の作品は1枚十数万円となっている。 一方、浮世絵は、ゴッホなどの西洋近代絵画の印象派、およびアール・ヌーボーなどに強く影響を与えており、日本の世界に誇れる芸術作品であると発言される方もいよう。 このように現在の私たちが浮世絵に対して抱いている接し方や認識は、江戸時代の江戸に暮らす庶民がもっていた浮世絵に対する認識と同じであるのだろうか。 実は、全く違ったものであったのだ。 浮世絵がヨーロッパに入った初期には、作品としてではなく、陶磁器の梱包材として、現在でいうならば、新聞紙や雑誌と同じように扱われ消費されていたのである。 実際に浮世絵の値段は、色の数だけ版木が必用なことから色数、また二枚・三枚でひとつの作品と多用であり、一概にはいえないが、一枚物で十から十二色程度の標準的な作品は、およそ十六文から二十文、現在の貨幣価値からいえば三百円から五百円程度といったところになる。 また、浮世絵は、教養を高めるために・知的要求を満たすために鑑賞するものではなく、見て楽しむ・好奇心を満足させるためのものであった。美人画は今でいう女性アイドルの生写真、役者絵は俳優のプロマイド、風景画は絵はがきや旅行ガイドのパンフレットという具合である。 このような価格や認識から、江戸の庶民は、寝転がったり・酒を飲んだりしながら自宅で眺めたり、友人や家族と気軽にみせあったりして楽しんだ。そしてその後に、浮世絵は保存されることなく廃棄されてしまうものであった。つまり、財産として所有する芸術作品ではなく、消費する商品だったのである。 元来、浮世絵の浮世とは、浮世床や浮世風呂の浮世、つまり「当世風・当代流行の風俗」や、浮世話の浮世、つまり、「世間のおもしろい出来事・色めいたうわさ」の意味をもつものであろう。とするならば、当時の江戸っ子の立場に立つと、摺りが粗雑などといった美術的価値基準により評価・峻別することはあまり意味のあることではない。また、本章で扱う時事浮世絵こそ江戸っ子にとっての浮世絵であったと私は考えている。 時事浮世絵とは、現在の時事漫画や政治漫画と考えていただければイメージがつかめると思う。江戸時代の時事浮世絵は、時の政治を、あるいは世相を鋭く突いているものであり、当時の江戸に暮らす庶民の心情を知る上で欠くことのできない資料である。しかも、それが文字のみではなく、絵でも示されているため、具体的で説得力がある。私は時事浮世絵を現在の写真週刊誌にあたるものと評価している。鯰絵の1枚を、見てみましょう。p107<地震拳:安政二年、作者不詳> 拳を打つときの動作に合わせて唄う拳唄をもじった詞書の下に、鯰、雷、炎の三者が藤八拳(狐拳)という拳遊びをしている。それを親父が酒を飲みながら見物しており、「地震・雷・火事・親父」を念頭において作られている。
2018.09.29
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「手当り次第」でしょうか♪<市立図書館>・尖閣喪失・アマゾンのすごいルール・超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)<大学図書館>・原典で楽しむ江戸の世界・作家の猫2図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【尖閣喪失】大石英司著、中央公論新社、2012年刊<「BOOK」データベース>より中国・台湾が領有権を主張する「尖閣諸島」。衆議院の解散総選挙を伴う政権交代のタイミングで、ついに中国が実力行使に踏み切った。政治的影響を睨みながら展開される水面下での熾烈な駆け引きと日中の軍事作戦の行方を、迫真の筆致で描く。<読む前の大使寸評>日本の安全保障委員会とか、中国軍の特殊部隊とか、なかなかのシミュレーション小説やおまへんか♪rakuten尖閣喪失【アマゾンのすごいルール】佐藤将之著、宝島社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりだからAmazonは成功した!Amazonの最大の武器は超合理的な「仕事術」だった。アマゾン ジャパンの立ち上げメンバーがジェフ・ベゾス直伝のメソッドを初公開。最速×最高の結果を出す仕事術と14の心得。<読む前の大使寸評>かつて、アマゾンが本のeコマースを始めた頃は手早い配送には感心したものだが…昨今では、日本の流通業界を振り回すほどの巨大企業になりましたね。…その成功の秘密を見てみましょう。<図書館予約:5/18予約、9/28受取>rakutenアマゾンのすごいルール【超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)】雑誌、日経ナショナルジオグラフィック社、2018年刊<商品の説明>より●超監視時代:安全を求める声と技術の進歩で、世界はかつてない監視時代に突入している。私たちは日々、数多くの監視カメラに見つめられ、プライバシーは過去のものになるのだろうか?●はじめてのスズメ:街角の植え込みや電線、公園のベンチに住宅の軒下......スズメは日常の風景に当たり前のようにいる。しかし、この小さな野鳥のことをどれだけ知っているのか?身近な鳥のあまり知らない素顔を見つめる。<読む前の大使寸評>監視時代、スズメと関心のあるテーマが並んでいたのが、借りる決め手になったのでおます。amazon超監視時代(ナショナルジオグラフィック2018年4月号)【原典で楽しむ江戸の世界】浅野晃×加藤光男著、里文出版、2004年刊<「BOOK」データベース>より江戸の文学作品や浮世絵・錦絵。そこに描かれたユーモアや、時代の息づかいを感じつつ、江戸の文字を楽しめる一冊。<読む前の大使寸評>おお 写真週刊誌のような時事浮世絵がいいではないか♪rakuten原典で楽しむ江戸の世界【作家の猫2】ムック、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりしろ、ミイ、クック、ヤン坊、ナルト、リュリ、クーちゃん…作家に愛された猫たち。【目次】加藤楸郎ーしろ、たま、ミイ/長谷川〓(りん)二郎ータロー/萩原葉子ー舞子/池部良ーミンゴ、チー、チビ/城夏子ーノン、メエ、茶目、チャコ…/武満徹ークック、すず、ノノ/佐野洋子ーミーニャ、金太、クロ、フネ/川本恵子ーゴロニャン、プカジャ、ヤン坊/田中小実昌ーミヨ、ミイ/米原万里ー無理、道理、ソーニャ、ターニャ…〔ほか〕<読む前の大使寸評>赤塚不二夫さんちの菊千代、米原万里さんちの無理、道理、ソーニャ、ターニャなど有名猫がみられるのが、ええでぇ♪rakuten作家の猫2********************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き331
2018.09.28
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図書館に予約していた『EVシフト』という本を、待つこと3ヵ月でゲットしたのです。販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、9/21受取)>rakutenEVシフト電動車技術のキモともいえる電池を、見てみましょう。p173~177<電池業界に与えるインパクト>■急激に拡大する電動車市場 ここで市場動向についておさらいしつつ、仮定を置きながら将来の市場について定量的にとらえてみる。 米・欧・中の政府は2030~2040年にかけて従来車との決別を宣言し、日・米・欧の主要自動車メーカーは、おおまかに言えば2025年に販売台数の2~3割を電動車にする計画(電動化計画)を打ち出している。すべてのOEMが計画を達成できるわけではないので、実現されるという前提を置くのは楽観的だが、ホラーシナリオを考える上では非常に意味がある。 まず電動車市場の規模から見てみよう。我々の試算では、2025年の世界電動車市場は約1800万台、うちEVは700万台となった。同年の世界乗用車市場を約1億1000万台と見込んでいるため、電動車比率は17%である。■異次元の生産能力増加が必要となるLIB業界 この電動車市場の急拡大をLIB業界の視点で捉え直してみる。 1991年に立ち上がったLIB市場は、2016年には乗用車用途も合わせて68GWh/年、約2.6兆円の市場に成長した。業界の設備能力は平均で年産2.7GWhずつ増加してきた。(中略) 一般的に、このような市場成長期には新規参入者が現れ、それぞれが設備投資を行なうことで、供給能力が保たれる。現在、日本・韓国の電池メーカーは出揃っており、ここで新規参入者が現れることは考えにくい。主な新規参入者は中国のLIBメーカーである。 しかし今回はこのような常識が通用しないかもしれない。というのも、特に先進国系の自動車メーカーは安全性の問題で新規参入者のLIBをすぐに採用することを躊躇するからである。EVにはスマホ3000台分以上の電池が搭載されるのだ。 近年中国のLIBサプライヤーが自動車用途向けLIBの供給量を伸ばしてきているが、あくまで中国国内向けであり、現時点で市場拡大分の担い手になれるサプライヤーはほとんどいない。中国サプライヤーとしては唯一CATLが先進国の自動車メーカーから実力を評価されているくらいである。 よって、実績のある大手LIBサプライヤーであるサムスンSDI、LG化学、パナソニックなどにLIB需要が集中する可能性が高い。この際に、電池メーカー側の設備投資負担の増大や、工場設立のための人的リソース不足が律則となって、LIBの需給がひっ迫することが懸念される。■中国政府による電池産業保護 EV市場は中国が最大であるが、その中国には自国の電池産業を保護する政策がある。政府が認定したリストにあるLIBメーカーからLIBを購入した場合に限って、EV購入時に補助金を支給するというものだ。俗に「ホワイトリスト」と呼ばれるこのリストには中国のLIBメーカーしか掲載されておらず、中国にLIB生産工場を設立したサムスン、LG、パナソニックの名前はない。 第2章で説明したが、補助金は多ければ約200万円である。よって自動車メーカーは補助金の支給なしでは戦えないため、中国メーカーからLIBを購入するしかない。中国政府は2025年には補助金政策を中止すると宣言しているため、あと数年の影響ということになるが、二の矢、三の矢の政策が作られる可能性もあるため、海外のLIBメーカーはまったく楽観視していない。むしろ海外のLIBメーカーからは「中国ではビジネスができない」と悲観的に受け止めている声が聞かれる。 中国LIBメーカーは国内のEV用LIB市場でしっかりスケールメリットを享受した上で、世界で戦っていけるというアドバンテージを握っている。このため中国LIBメーカーが自動車メーカーとタイアップしてしっかりした技術力を身につけると、既存のLIBメーカーにとっては大きな脅威となる。 実際に、中国CATL社はBMWとの共同開発の過程でしっかり実力をつけビッグ3に引けを取らない実力となったため、名だたる自動車メーカーからの引合いが後を絶たない。彼らは2020年までに50GWh/年の生産能力を持つ計画であり、業界勢力図が変わるほどのインパクトを残す可能性がある。ウーム 中国はBMW技術とタイアップして、日韓の電池を排除しようとしているのか・・・・露骨な戦略であるが想定しておくべきではあったなあ。『EVシフト』1
2018.09.28
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図書館に予約していた『EVシフト』という本を、待つこと3ヵ月でゲットしたのです。販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、9/21受取)>rakutenEVシフトこの本のキモともいえる「中国の現状」を、見てみましょう。p64~69<中国:政府の指導力でEV産業の発展を狙う>■すでに二輪車では電動化を実現 中国は、二輪車の世界では、すでに劇的なEVへのシフトを経験している。現在中国では、日本の公道ではほとんど見かけることのない電動二輪車が溢れるほど走っている。 中国では1990年代の後半から電動二輪車が登場し始め、巨大市場を形成してきた。2013年をピークにやや減少傾向にあるものの、依然として年間2000万台を超える電動二輪車が販売され続けており、国内での保有台数はゆうに1億台を超えている。 中国においてなぜこれほどまでに、二輪車の電動化が進んだのか。その答えは中国ならではの政策にある。中国では、1990年代の後半よりオートバイの総量規制(ナンバープレート規制)が導入され、これを機に二輪車の電動化が始まった。当時、中国の都市部では、急増した自動車やオートバイによって引き起こされる大気汚染、交通事故が社会問題化しており、1994年の天津のオートバイ登録禁止からナンバープレート規制が始まり、現在では中国の150以上の都市で規制が導入されている。 その他、電動二輪車はユーザーから見てお手軽であることも、導入を後押ししてきた。中国では電動二輪車が自転車と同等に見なされており、運転免許の取得は必要なく、道路交通法などの教習も存在しない。また、電動バイクの所有は購入時の登録番号のみで、税金や自賠責もない。 価格はデザインや機能によって差があるが、1500~5000元で販売されている。最高スピードもモデルによって異なるが、25~60km/hである。航続距離は、使い方や季節により異なるが、フル充電で20~40km走行できる。 単純比較はすべきではないが、電動二輪車の事例を踏まえると、中国は四輪車でも将来的にドラスティックなEVシフトを実現うる可能性を十分に秘めていると言えよう。■補助金政策により立ち上がるNEV市場 中国では、二輪車に引き続き、四輪車でも2009年頃から、国家としての電動化戦略の検討を始めている。 具体的には、中国政府は2009年から2012年にかけて、「十城千両」プロジェクトを実施している。「十城千両」プロジェクトとは、中国の科学技術部、財政部、国家発展改革委員会、工業情報化部が発動したプロジェクトで、大中型都市の公共交通機関、タクシー、政府機関の公用車、郵政などの分野を対象に、3年間にわたって、1都市当り1000台のエコカーを導入し、2012年に中国の自動車市場に占めるエコカーの割合を10%に増やすことを目的としたものである。 「十城千両」プロジェクトの結果、省エネルギー車のコア技術であるHEV技術について、中国系自動車メーカーの完成度が外資系自動車メーカーに比べて高くないことがわかった。一方でNEV(新エネルギー車)については、外資系自動車メーカーは価格面も含めてさほど競争力があるわけではなく、コア技術となるLIBに関しても中国系と外資系のギャップが、HEV技術ほどないことがわかった。中国政府はこの結果を踏まえ、「十城千両」プロジェクト以降は、NEVを電動車戦略の中核に位置づけるようになった。 このような中、中国政府は、2011年に発表されたエコカー産業発展計画で、NEVの導入台数を2015年までに50万台、2020年までに500万台とする極めて挑戦的な目標を掲げた。 2013年には目標達成に向けた打ち手として、大胆な補助金政策と大都市圏での新車登録規制を導入し、NEV市場が急速に立ち上がった。これにより、2015年の新エネルギー車導入目標(50万台)も何とか達成いた。 中国でのNEV市場の立ち上がりにおいて、補助金政策と新車登録規制が果たした役割は極めて大きい。 補助金に関しては、大型都市や中型都市では、中央政府だけではなく地方政府からも補助金が支給されるため、地域によっては、合計で1台当り最大約11万元(日本円で約200万円)という多額な補助金が支給された。 また、新車登録規制に関しては、NEVを購入すると、ナンバープレートが無料で支給される。従来車を購入すると、ナンバープレートをオークションで取得することになる。都市毎に料金が異なるが、最も高い北京では10万元前後、上海でも8万元前後と高いため、非常にインパクトが大きい。 中国汽車協会の発表データによると、2017年1~11月の中国におけるEV販売台数(乗用車のみ)は約38万台だったが、新車登録規制を実施している上海や北京などの6大都市が全体の約7割を占めている。このことからも、中国のNEV政策に、大きな役割を果していることがわかる。■中国市場の2020年問題と次世代の市場牽引役となるNEV規制 しかし、中国NEV市場を牽引する補助金政策は、2020年末をもって終了することが予定されているため、中国では2021年以降、NEV市場が縮小に転じるのではないか、バブルが弾けるのではないかと懸念する関係者も多い。これは中国市場の2020年問題とも呼ばれている。(中略) 中国では、NEVの普及を拡大するために、これまで自動車メーカーに課したNEV規制や燃費規制、ユーザーに課した新車登録規制に加えて、ガソリン車に対し環境関連の税金を課すことも検討されている。さらに、欧州と同様に、動力源としてエンジンのみを搭載する車の販売を締め出したいと考えており、どのタイミングから規制として実施するかの検討が既に始まっている。ウーム 電動化に対するすさまじいアメとムチである。・・・今後どのように推移するか、目が離せないのです。
2018.09.28
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図書館で『環境考古学のすすめ』という本を、手にしたのです。安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪【環境考古学のすすめ】安田喜憲著、丸善、2001年刊<「BOOK」データベース>より東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る。<読む前の大使寸評>安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪rakuten環境考古学のすすめ「第3章 森と文明の環境考古学」で漢民族の森林破壊を、見てみましょう。p78~83<森の破壊と漢民族> 人類にはもう一つ、大きな森の破壊者がいます。それは漢民族です。最近私は、長江文明の学術調査のために中国で調査研究をしていますが、中国の激しい森の破壊がはじまったのは、実は漢民族の拡大と対をなしているのです。これは驚くべきことです。 図は中国の雲南省です。雲南省といえば照葉樹林文化論、佐々木高明先生や中尾佐助先生(『照葉樹林文化』中公新書)がいわれる「照葉樹林文化」のふるさとです。しかし、どこへ行っても森がないのです。この破壊の激しさには驚きます。 家は日本とよく似ている。でも裏山にはどこにも森がない。家の山や山腹に棚田をつくっているのです。棚田をつくるのなら、なぜ裏山に木を生やしてここへ水をもってこようとしないのか。そういう発想がないのです。 われわれにとっては当たり前の発想です。山に木を生やして水源涵養林をつくって、前に水を引いて水田をつくる。これは日本人だったら誰でも知っていることです。そういう発想が中国の人びと、とりわけ漢民族にはない。ですから漢民族の移住地は禿げ山ばかりです。昔から「漢民族の通ったところは草木1本生えない」といわれるとおりです。 80頁の図は黄河流域の内モンゴルの風景です。最近の私たちの花粉分析の結果で、実はこの黄河流域に、かつては深いナラとマツの混合林があったということがわかりました。内モンゴルの砂漠地帯においてさえ、かつては深い森があたのです。その森の木を全部切っているのです。中国というのは森の木にとってはおそろしい国です。こういったところに、かつては大森林があった。今はなにかというと、ほとんど人間が最近植えたポプラしかない。 森を破壊して水がなくなったら文明がいかに崩壊するかということを、中国人は文化大革命のときに体験している。 内モンゴルの私の友だちの生家に行きました。友人の叔父さんからいろいろ話を聞きました。そうしたら、文化大革命よりも前は貧しかったけれども、みんなが生活できたという。自給自足できた。そして、このあたりにもいっぱい沼があって、そこでは水鳥がいて、その卵をとったり、魚を釣ったりして、結構おもしろかったと。ところが、文化大革命がはじまったとたんに、生産の拡大のためにどんどん森の木を切っていった。 毛沢東の「農耕地を拡大しよう」という路線で森を徹底的に破壊していった。そうしたら、あっという間に、2、3年のうちに、今まで泳いだり水鳥をとっていた沼地が涸れてしまった。そして、沼地や湖が涸れたと思ったとたんに、飢餓が訪れてきた。(中略) 文化大革命のときにはおそろしいほど森の破壊が進行した。森の破壊が進行した原因は、畑をつくるということと、もう一つは、製鉄でした。それぞれの村で鉄を生産しようと、毛沢東がいった。それで、みんなが品質の悪い鉄を生産するために燃料としてどんどん木を使った。最近、『餓鬼(ハングリー・ゴースト)』(中央公論新社)という本が出ました。 中国はこの時の激しい飢餓で、3000万人が餓死したという。その背景にはまさに、この中国人の激しい森の破壊がある。森が破壊されたことによって水が涸れ、そして人びとは飢餓に直面したのです。 それはほんの最近のことです。わずか20年前にも、われわれは同じ過ちをやっているのです。ギルガメシュ王が5000年前にやってから、5000年という長い年月のあいだ、インド・ヨーロッパ語族、それから漢民族はギルガメシュ王とまったく同じことをやってきたのです。これはおそるべきことです。 図は現在の四川省の長江の源流域の岷江です。この岷江の上流からこんな大木を運搬するトラックがくるのです。でも、見てください。谷の両側の斜面のどこにも木がないでしょう。どこからくるのだろうと思うのですが、ここから延々二日間もかけて、こんな悪路を登りつめたところに森が残っているのです。そこからツガ材を運んできているのです。四川省の成都は、内陸ですから、外国から外材を輸入できません。沿岸部の上海や北京は、カナダとか東南アジア外材を輸入できますが、四川省のような内陸では沿岸部からの運搬費用がかさみ、とうてい外国から輸入できません。仕方なく、なけなしの森を食いつぶしているのです。四川省岷江口長江源流域の森林乱伐をネットで見てみましょう。長江より 南水北調によって取水される長江自体も流域人口の増大や経済成長に伴い、水量の不足が懸念されるようになってきている。源流域のチベット高原では重要な水源となる湿原の消失が続いており、長江や黄河といった大河川の水量への影響が懸念されている。 長江の水量は基本的に多く安定しているものの、毎年のように水害や、逆に渇水に見舞われている。1998年には大洪水が起き、8400万人以上が被災した。2007年には夏季に水害が多発したいっぽう、3か月後の2008年1月には干ばつによって水位は過去140年間で最低レベルに下がった。 上流域においては森林の乱伐が進み、土砂が大量に長江に流入するようになった。これにより長江の土砂量は激増し、非常に大量の土砂を運搬する黄河のようになると危惧されるようになった。 1998年の長江大洪水もこの森林乱伐による上流の保水量の低下が原因として挙げられており、これ以降中国政府は上流地域において退耕還林(農地への植林)や裸地への植林を積極的に進めるようになった。ウーム 毛沢東の文革は、中華の停滞をもたらしたと聞いたが・・・文化の破壊だけでなく、森林の破壊もあったのか、いやはや。なにせ現世ご利益の民だから・・・資源とは早い者勝ちで収奪するマインドが強いのでしょうね。『環境考古学のすすめ』4:ギリシャ文明の崩壊『環境考古学のすすめ』3:東洋の蛇信仰と稲作『環境考古学のすすめ』2:環境考古学の真髄『環境考古学のすすめ』1:環境考古学の発生
2018.09.27
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図書館で『青豆とうふ』という本を、手にしたのです。この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪【青豆とうふ】安西水丸×和田誠著、講談社、2003年刊<「BOOK」データベース>より二人がかわりばんこに文と絵をかいた、楽しさあふれるしりとりエッセイ。タイトルは村上春樹さんが付けてくれました。描下ろしカラーイラストレーション満載!<読む前の大使寸評>この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪amazon青豆とうふ和田さんや安西さんのロボット談義を、見てみましょう。p36~44<ここから和田誠> 映画の中の建築家は理知的でカッコよく描かれることが多い。「十二人の怒れる男」のヘンリイ・フォンダは少年犯罪を裁く陪審員の一人。11人が有罪を主張するのに対し、少しずつ疑問を提出して、全員を説得してしまう。 夏の暑い日の物語である。彼らは裁判所の一室にこもって討議をする。冷房装置はなく、扇風機も動かない。彼らは汗だくである。 一人だけ「私は汗をかきません」と言う冷静な男がいる。野球を見に行くので早く帰りたい男もいる。広告代理店の男は討議中に自分が考えたキャッチフレーズを披露している。 議長役を買ってでた男は、半袖のワイシャツにネクタイをしていた。今なら珍しくもないスタイルだが、この映画が日本で公開された1959年の時点ではぼくには奇妙に思われた。暑いから半袖になるのだろうに、どうしてわざわざネクタイをするのか。矛盾した服装だと感じたのだ。そもそも半袖のシャツというものが、日本には存在しなかったような気がする。 まもなくぼくは社会人となり、デザイン会社に勤めた。ある時、東洋レーヨンが半袖ワイシャツを「セミ・スリーブ・シャツ」という名のもとに売り出すことになって、その広告を手がけたのだった。 同じ時期にテイジンも半袖ワイシャツを発売。「ホンコンシャツ」という名称であった。何故ホンコンなのかよくわからないが、知名度はそちらの方が上だったのではないかと思う。 ぼくが勤めていたデザイン会社は、お洒落な先輩が多かった。しかも二枚目で、モデルだってやれる。実際ぼくたちは、手がける広告に彼らをよく登場させていた。 新入社員のぼくも彼らの影響を受けて、お洒落を心がけた。当時流行のアスコット・タイを首に巻き、レイバンのサングラスをかけ、細巻きの葉巻をくわえたりしていたのである。 まもなくそんなことをして板につく人とつかない人がいることがわかり、ぼくは板につかない部類に属することが明白になったので、服装やら小道具に関心を持つことをやめてしまった。 その頃からぼくはジーパン党となった。当時は今よりもジーンズを手に入れるのは楽ではなかったけれど、折り目をつけたりする面倒がないので大好きになり、毎日のようにジーパンで会社に行った。そんなサラリーマンはあまりいなかったと思う。今は1年のうち360日以上ジーパンである。はき潰したジーパンは数知れず。 夏場はTシャツ、冬場はトレーナーで過ごすことが多い。Tシャツもトレーナーもぼくが絵を描いたものがたくさんあって、タダでもらえる。服装にはほとんど金がかからない。 そんな具合で、お洒落には関わりなく生きているのだが、おのずと選択もあり、着ないものがある。マオカラーというのもその一つである。 美術学生時代はベレーをかぶって学校に来る同級生もいた。絵描きはみんなベレーをかぶると思っている人もいるし、漫画に登場する絵描きはたいていベレーをかぶっているが、ぼくはもちろんかぶったことがない。「もちろん」を強調しておきたい。(中略) アシモフはロボットが登場する小説で有名である。代表作は「われはロボット」であろうか。その本でアシモフは「ロボット工学の三原則」というのを巻頭に掲げている。第1条はロボットは人間に危害を加えてはならないし、人間に迫る危機を看過してはいけない。第2条は、ロボットは人間の命令に服従すること、ただしその命令が第1条に抵触しない限り、自己を守ること。というものである。 それゆえ、アシモフの書くロボットは人間に優しい。原則と自分の行動が矛盾してしまって悩むロボットもいる。時には人間に忠実であろうと努力するロボットが哀れになる。 アシモフ以外にもロボット小説はもちろんたくさんあるし、漫画にも映画にもロボットは大勢登場する。 「鉄腕アトム」や「スター・ウォーズ」のR2-D2、C-3POなどは人間に忠実なロボットだが、「ターミネーター」でシュワルツェネッガーが演じたのは滅茶苦茶怖いロボットだった。「スペース・サタン」という映画に出てくるロボットも骨組だけのくせに意志を持っていて相当恐ろしい。 ロボットの名付親はチェコの劇作家カレル・チャペックとその兄ヨゼフだそうである。カレルは戯曲「R・U・R」で、労働用に作られたロボットたちが反乱を起こす物語を書いた。 人間が創ったものに人間が滅ぼされる、というのは「フランケンシュタイン」、あるいはそれ以前からのテーマである。 (中略)<ここから安西水丸> 数年前、某航空会社から依頼された機内誌の仕事でチェコのプラハに行った。ここは作家カレル・チャペックの生れた街で、彼はロボットの命名者として知られている。ロボットの登場した作品は、彼独特のユートピア的喜劇「R・U・R」で、ロボットは万能機械人間として登場している。彼の小説には「絶対子工場」とか「山椒魚戦争」、「白疫病」などと、非人間化、全体主義の危険に対し、空想と諷刺で抗議したような作品が多い。 プラハでは彼の小説に出てくるロボットの置物を土産に買った。 ロボットは、ぼくの小・中学時代、つまり昭和30年前後は、少年雑誌の漫画にさまざまな形で登場している。 漫画ではじめてそれらしきものを見たのは坂本牙城の人気漫画の主人公「タンク・タンクロー」だった。これはロボットといえるかどうかわからないが、ぼくには何となくそう見えた。 ロボットものに火をつけたのは何といっても手塚治虫の「鉄腕アトム」だろう。とにかく昭和30年前後にはあれこれとスタイルを変えたロボットの登場する漫画があふれていた。 「鉄腕アトム」がロボットものの横綱だとしたら大関は「鉄人28号」だろう。その他にもロボットの出てくる漫画としては桑田次郎の「鉄人ブラック」、久米みのる原作で金田光二が絵を担当した「電光人間」、板井レンタローの「火炎人間」と、ここに書ききれないほどあった。ロボットということで、お二人がカレル・チャペックに言及しているが・・・大使が偶然に読んだ『スペイン旅行記』という本には、多芸で親しみやすいカレル・チャペックが表れています。【スペイン旅行記】カレル・チャペック著、恒文社、1997年刊<「BOOK」データベース>よりイスラムやキリスト教はじめ多種多様な文化が混在して豊かな趣をたたえたスペインの風物を、独自の観察と描写で紹介!マドリード、トレド諸都市の風景、ベラスケスやゴヤなどの絵画、闘牛やフラメンコ、壮大な建築、魅力的な美女な風俗一般を、巧みに描写。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ユーモラスな挿絵が多くて親しみを覚えるのです。この本の挿絵はチャペックの自筆とのことで・・・多芸な人である♪rakutenスペイン旅行記『スペイン旅行記』2『青豆とうふ』2:和田さんの映画談義『青豆とうふ』1:安西さんのアンケート談義
2018.09.27
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生宮部みゆきさんとの対談の続きを、見てみましょう。p193~196<本日の大団円。麗しの高卒同士>宮部:あのぉ~、差し支えない範囲で浅田さんのご家族とかご親戚のことをもうちょっと掘り下げていくと、作家とか学者さんとかいらっしゃるんですか?浅田:いや、まったくいない。宮部:あっ、ほんとに?浅田:宮部さんち、いるの?宮部:ぜ~んぜん!(笑)。浅田:うちなんか、本もなかったもん。宮部:うちも! 病気したときだけ買ってもらえたけど、「五百円もした本、1時間で読んじゃったの?」とか言われて。浅田:それ似てます、かなり(笑)。作家になるような環境って、一つもなかった。宮部:共通してますね。うちは肉体労働の家系なんで、私は異分子だったんです。母が「おまえは橋の下で拾ったんだよ」って(笑)。浅田:うちのおやじも、「おめえが作家? そんなはずはねえ」って死ぬまで言ってた。宮部:そういう次郎少年を、作家へと駆り立てたものは何だったんですか?浅田:ないものねだりじゃないかと思う。うちには電化製品はいろいろあったけど、本がなかったので憬れをもったんじゃないかな。宮部:お書きになり始めたときって、いくつぐらい?浅田:うろ覚えだけど、中学1年の授業中に連載小説を書いて、クラスに回してたらしい。たしか豊臣秀頼は石田三成と淀君との不倫の子でっていう、壮大なエロ小説(笑)。はっきり覚えているのは、中一か中二で『小説ジュニア』に初投稿したんですよ。宮部:はや~い!浅田:でも僕、それ以来たくさんの出版社に原稿持ち込んで、ほとんどボツになっていますから。宮部:ええっ、ほんとに?浅田:うん。『壬生義士伝』の原型なんか、28歳のときに書いて出版社に持ってったけどボツになった。宮部:その出版社は大魚を逃しましたね。でも『壬生義士伝』の原型を28歳でお書きになってたって、すごいなあ。早く世にでたいっていう焦りはなかったですか?浅田:焦りがないっていうより、僕はすごく自己採点が甘いんですよ。大学受験のときも、試験のあと全部受かったと思ってたら全部落ちてたし(笑)。小説でいうと、書いて出版社に持って行く時点で自分は小説家になったと思ってるから、返されたり新人賞に落ちたりすると、おかしいな、読んでくれなかったんだな、としか思わなくて(笑)。宮部:でもだれか、小説を書くうえでの恩師とか、励ましてくれた人がいたとか?浅田:ないっすね、それは。宮部:ないっすか(笑)。私は高校時代、「文章で身が立てられるかもしれない」って言ってくれた先生がいたんです。直木賞のパーティーにその先生を呼んで、お礼を言いました。浅田:美しい話だなあ。僕は高校時代グレてたし小説を書いているなんて恥ずかしくて誰にも言わなかった。宮部:えっ、意外。浅田さんて生徒会長をなさってた、とかいうイメージだったんですけど。浅田:とんでもない。今のヘアスタイルからは想像つかないだろうけど、高校時代はライオンのような鮮やかなリーゼントだよ(笑)。宮部:ええ~っ、ほんと? 写真みた~い!浅田:見せてやりたいなあ。コンポラのスーツ着て、夜な夜な六本木や赤坂に通う高校生だったんですよ(笑)。で、学校のクラブは園芸部。宮部:園芸部?浅田:そう、学校を停学になった子が、園芸部員として花壇の手入れとかやる。宮部:あっ、それで今もガーデニングが得意なんだ。浅田:そうそう、昔取った杵柄で(笑)。だからおかしいのはさ、僕が直木賞をとったとき、最終学歴で高校名がでてても先生たちは誰も僕だと気がつかないのよ。宮部:あれっ、浅田さんて…。浅田:中大杉並高校卒です。宮部:えっ、ほんとに? 高卒の作家って、私だけかと思ってた!浅田:な~に言ってんの。俺は前から宮部さんの学歴を見て、シンパシーを感じてたよ(笑)。宮部:いやぁ~、うれしい! 浅田さんも、大学生活を知らないんですね。浅田:知らないよ。高卒で自衛隊に入って、19歳から兵隊だもの(笑)。いまどき希少価値だよね、高卒って。宮部:周りにあまりいないですもんね。『歴史・小説・人生』9:高橋克彦さんとの対談『歴史・小説・人生』8:龍王=天命はどこに?『歴史・小説・人生』7:陳舜臣さんとの対談(続き)『歴史・小説・人生』6:森永卓郎さんとの対談『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.27
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生高橋克彦さんとの対談を、見てみましょう。(高橋克彦:1947年、盛岡市生まれ、著書に『火怨』『炎立つ』など)p109~114<世界を描くか人を描くか>高橋:これは同業者としてすごく興味がある点なんだけれど、そもそもなぜ、20年前に吉村貫一郎に興味を持って小説を書いたんですか。浅田:ひとつにはただの新選組おたくですね。それで、新選組の誰かを書きたいと思ったときに、吉村貫一郎という、かっこ悪い新選組隊士、惨めな新選組隊士というのにすごく興味を持ったわけです。僕自身結婚したのが早くて、親丸抱えで、食うのにも不自由した覚えがあるので(笑)。高橋:シンパシーがあった(笑)。浅田:ただ新選組のメンバーというのは多かれ少なかれみんな吉村貫一郎だったというのが、そもそも僕の考えなんです。だって、大そうな家の人なんていないわけだし、みんなドロップアウトしてきたか、侍になりたかった人たちの集団でしょう。出稼ぎ浪人的な人がすごく多かったと思うんです。だからこそ逆に、士道、士道と、徹底してそこにこだわったんだと思う。 そのなかで、吉村だけは本音で生きたみたいな気がするんですよ。武士道万能の世の中で、しかも武士になりたかった人たちが集まった中で、吉村貫一郎だけはまるっきりの本音。だからみんなからしゃらくさいと思われ、斎藤一にしても、生かしておけないと思うぐらい腹が立ったんじゃないかなという想像なんですけどね。 高橋:まわりからしたら、たまらんかもしれないね。浅田:でも、妻子を食わせるためと言い切る吉村の姿勢は、いつの世にも変わらぬまるっきりの本音だと思うんですよ。僕だって、一生懸命仕事をしているのは妻子を食わせるためでして、それ以外のことを口にするのは、やっぱりちょっと衒いが入る。そのへんは変わらないんじゃないですかねえ。僕はそういうふうに思って書いたんですけど。高橋:なるほどなあ。ただ『壬生義士伝』読んでてね、吉村貫一郎を軸にしながら、実は浅田さんは新選組を書いてるんだなと感じたんですよ。確かに語り手は吉村は何をしたかを話しているんだけども、実はそのときに、永倉新八が何をしたかとか、斎藤一がどこでどうやってたかとか、そこに浅田さんは興味を持ってるよね。だから、あ、これは読み方を間違う人がいるかもしれないなと思いましたよね、反対に。吉村貫一郎が主人公だと思って読み進めていくと、わきに入り込んでる部分の面白さが見えなくなっちゃうかもしれんなあと。 そこで思ったんだけど、例えば僕が同じことをやろうとすると、吉村貫一郎を主人公にしない。例えば新選組が何をしたかということを書こうとするときに、常にその中心にいた人物にスポットを当てたほうが書きやすい。さっき言った、世界を書くか人を書くかという問題でいうと、浅田さんは新選組おたくだから、要するに新選組が義であるということは暗黙の前提としてあるんですよね。でも、なぜ新選組が義なのかということを書くのが私の小説で、そのときに吉村貫一郎を主人公に据えちゃうと見えなくなってくるんです、新選組が義であるということが。 それをやるためには、どうしたって近藤勇だったり、土方だったりする必要がある。で、吉村を選んだということは、もうすでに世界は必要ないんだろうね、浅田さんにとって。これはもう義なんだと。そのなかの人物を描いていくことによって、新選組とは何だったのかという問題をやっているんですよね。浅田:いやあ、怖い指摘だなあ。 高橋さんの場合、『炎立つ』から『火怨』というと、やっぱり東北の歴史へのこだわりがあるわけですか。高橋:ありますね。東北の人たちが、文化的に相当自信を失ってるんじゃないか、そういう思いがありますから。 阿弖流為(あてるい)の時代から、もう東北というのは全敗の歴史です、戦さでいえばね。そして負けるごとに誇りというのを奪われていってるわけですよね。今戦ったら分かんないですよ、相当東北も力を盛り返してきてるから(笑)。 ただ、いかんせん歴史の教科書なんかでも、東北にいい話はほとんどないわけえすよ。ああいう教育を受けてきちゃうとどうしても文化的コンプレクスみたいなのが子供たちにあるわけですよ。自分たちの責任ではないのに、先祖の時代を引きずってしまって、口ごもったり、都会に行くと気後れしたりするでしょう。自分自身がそうだったという思いがあって、それで何年か無駄にした思いがあるんです。それをなんとか払拭したいと。 じゃあ何をすればいいかっていうと、僕はもの書きなわけだから、東北の歴史を書こうと思った。負けた側にだって理屈はあるんです。そこをきちんと書いていくことで、東北の人たちが元気を取り戻せるんじゃないかな、みたいなね。浅田:藤原文化なんて、中央となんら遜色ないですよね。高橋:ことによったら勝っていた部分だってあるんですから。<東北人と東京人の違い>浅田:そもそも蝦夷っていうのは、どういう民族なんですか。高橋:やっぱりアイヌ、つまり東北に住んでいた原住民たちと、それから出雲のほうから追われて津軽のほうに入って行った、いわゆるアイヌではない日本の先住民ですね。その人たちが合体したかたちで、たぶんエミシというふうに呼ばれていたと思いますよね。浅田:そうすると単一の民族を指す言葉ではなくて、大和朝廷に対する東夷ということでしょうか。高橋:そうですね。つまり東北というのがね、要するにいろんな人たちの吹き溜まり的な土地ではあったんですよ。朝廷の支配する土地の範囲外というか、化外ということで、アイヌ人が住み、大陸から渡ってきた人も住む。さらにツボケ族とかアソベ族とか呼ばれた出雲一族が逃れてくる。当然、流刑地になっているし、貴種流離譚と言って、いわゆる何か問題があると、津軽とか、奥六郡に逃げ込むわけです。 だから別世界というか、そういうかたちで境界線を引かれていただけで、そっち側に住んでいるのがつまり夷というか蝦夷。そういう括られ方だったと思いますよ。それが一応は鎌倉時代に統一されて、そして鎌倉幕府、特に北条が東北にずいぶん楔を打ち込んでいって、どんどん、どんどん境界線をなくしていったんですね。 僕は今でもね、東北に暮らす人はやっぱり蝦夷だというふうに感じてますけどね。まあ広い意味で地方人はみな蝦夷だというふうにイメージはしてますよ。だから阿弖流為の問題というのはけして東北の問題ではなくて、地方と中央の対立の問題というかな。浅田:僕、東北人て弱いんだよなあ。東京人てみんなそうなんですけどね、東北の人と相性が悪いんですよ。仲が悪いという意味じゃないんですよ。僕は長い間商売をやっていて、自分が今まで被害を被ったのはどこの出身かって分析すると、ほぼ全員東北出身なんですよ。これはどうしてかっていうとね、相性なんですよ。 東京人の気性っていうのは意外と脆くて、頼まれるといやと言えない。つまり押しが強くて、何度断ってもまた来られてとやられていると、しまいにはしようがない、いいよっていうことになる。その商売相手が東北出身だった場合、これはもう腰が強いから。高橋:なかなか諦めないんだ。更に読み進めました。p116~118浅田:僕はね、東北弁に関して言いますとね、偏見どころか、強い憧れを感じてたんですよ。なぜかと考えると、僕ら東京人というのは言葉を失ったんですよね。これはほんとに原東京人じゃなきゃ分からない悲しみなんですけれども、特に、特に高度成長期に生まれ育った僕らというのは、ある意味で古きよき東京も知ってるわけなんです。僕の祖父母は、それこそ歌舞伎の台詞みたいに美しい江戸弁を使ってた記憶があるんですよ。うちの父親まではそうだった。 でもそれが僕らの世代になってから、まず、町の面影がなくなって、町名までも全部奪われて、もう見る影もなくなった。それでね、自分が言葉を扱う仕事をする段になったときに、方言に関してある使命というか、強い強迫観念を抱いちゃったんです。ともかくそれは使わなければならない。失わせてはならんと。 実はすごく難しかったんです。あの岩手弁というのは。僕は小説の中でいろんな方言をマニアックに書いてますけれども、どの方言も岩手弁ほど難しくはなかった。東北弁の特徴は、ほんとは言葉の持っている音楽的な美しさで、それを字で書いてしまうとちっとも伝わらない。それをいかにして伝えるか。あの小説のなかでいちばんエネルギーを使ったのは方言だったような気がしますね。高橋:あれは指導してくれる人がいたんですか。浅田:ええ。予め、資料で方言のおおまかな部分は頭に入れてましたから、まず自分で書いてみて、それに手を入れてもらいました。高橋:なるほどね。浅田:実は今日、こちら(盛岡)のラジオ局が岩手弁で、一部朗読をしてくれたんですよ。それを聞いてちょっと涙が出ましたね。とっても音楽的なんですよね。高橋:そういう側面はあるでしょうけど、私がなぜ東北弁を使わないかという理由のひとつには、いわゆる戦さとか政治向きの語彙が少ないんですよ、東北弁には。ということは、蝦夷がいかに戦さと無縁だったか、政治と無縁だったかということなんですが、だから思想を語るときにね、僕らも東北弁で語るということはないですよ。それはどうしたってね、新しい言葉を入れてこなきゃいけない。これはけして卑下じゃないですよ。『歴史・小説・人生』8:龍王=天命はどこに?『歴史・小説・人生』7:陳舜臣さんとの対談(続き)『歴史・小説・人生』6:森永卓郎さんとの対談『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.26
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生張競さんとの対談の続きを、見てみましょう。(張競:1953年、上海生まれ、明治大学助教授)p81~84<龍王=天命はどこに?>張:『蒼穹の昴』を読んでいて、毛沢東が出てきたのには驚きました。浅田:あれは大サービスです。中国語に翻訳されることを期待して(笑)。張:たしかに時代的には合うんですよね。おそらく毛沢東にとって西太后というのは同時代の人間だったろうと思うんです。そして彼には明らかに帝王思想がある。晩年は完璧に自分が帝王だという意識でいたでしょう。浅田:ええ。そういう意識がなければ文革は起きないですよね。文革は先生が何歳のときですか。張:はじまったのが13歳です。浅田:それならはっきり記憶がありますよね。張:もうはっきりと。はじめはむしろ共鳴したところもあるんです。古いものを新しくするのはいいんじゃないかと。だんだん悪い面が見えてきて、紅衛兵は最後にはみんな反毛沢東になったんです。のちに民主化運動を起こしたのはその人たちなんです。浅田:当時の学者はみんな大変だったらしいですね。張:大変ですよ。全部持っていかれるか、焼かれてしまうんです。文革がはじまった当初の1966年7月から9月ぐらいまでは、市内のいたるところで本を焼いたり、服を焼いたり、とにかく何かしら燃やしている光景を目にしました。集合住宅の庭に、各家から古いものを持ち出して燃やしたんです。浅田:取り返しのつかないことですね。そういうふうに文化を破壊してしまうのは。張:私たちの世代の知識人はほとんどそうだと思いますが、毛沢東だけは許せないですね。彼は女性秘書たちを周りに侍らせていましたが、そういうところも皇帝的でしょう。江青との間に子供もいましたし。浅田:江青にもいろいろな伝説がありますね。張:悪女としての西太后にたとえられた現代政治家ですからね。彼女は毛沢東と同じぐらいの気概をもって、天下は私のものだと思っていたでしょう。毛沢東が生前に「おれが死んだら真っ先にお前が殺される」といったという伝説があります。本当かどうかはわかりませんが、ありそうなことですね。それぐらい周りのみんなから憎まれ、恐れられていたんです。浅田:裁判のフィルムなどを見ても、抵抗しているのは江青だけですよね。張:気性が激しくて人との関係がうまくいかなかったんです。最後に刑務所で自殺したのも象徴的で、自分の娘、毛沢東の子供と口げんかして自殺した。(中略) いつも毛沢東のことを「土包子」、つまり田舎者といってバカにしていたそうです。歴史上の悪役について、実はいいところもあるよという話はなかなか出てこないものですが、そういうときに小説の刺激があるといいですね。歴史家にとってもフィクションというのはけっこう必用だと思うんです。浅田:ありがとうございます。今は張作霖を書いていますが、彼の従来の評価は馬賊から成り上がって勝手なことをした人間ですし、息子の張学良は戦いもせずに逃げた弱虫です。『蒼穹の昴』で西太后や李鴻章を見直したように、そうではなくて相当な人物ではないかという視点に立って書いてみようと思ったんです。張:あの時代の軍人というのは面白いですよ。現在の私たちからは想像もできないくらい教養がない一方で、しっかりと知恵があるんです。浅田:張作霖という人は聡明で、自分の資質を案外知っていたのではないかと思うんです。自分は皇帝になるだけの器ではないと。だったら息子を皇帝にしようと思って、家庭教師をつけて、世界を見せ、帝王学を授けて、珠のように育て上げたんじゃないでしょうか。もちろん張学良は皇帝にはなりませんでしたが、皇帝としてやるべきことは西安事件でやったといえる気がするんです。張:それは面白い指摘ですね。浅田:西安事件では毛沢東にも蒋介石にもそれぞれの私欲がありますが、張学良はあの時点で身を捨てているわけですから、彼にあるのは中国という国だけなんです。その行動はやはり皇帝としての振る舞いなんですよね。そういうふうに考えていくと、龍王というものは実は実体ではなくて、世界を統べる者、その資質がある者に宿る魂のようなもので、それが人から人の手に渡っていくのではないでしょうか。張:そのとおりだと思います。例えば蒋介石が敗れた理由のひとつは、学問がなくて知識人の支持が得られなかったことです。逆に毛沢東は詩もある程度書けたし、文人とも付き合うことができた。それで北京大学の教授などの知識人からさまざまな進言を受けて、彼はうまくいったんです。それが龍王であり、天命なんですね。ウン 張作霖が興味深いので、『馬賊で見る「満州」』という本を図書館に予約したところでおます。【馬賊で見る「満州」】澁谷由里著、講談社、2004年刊<「BOOK」データベース>より馬賊が誕生した清末期。あるものは官憲の銃弾に倒れ、あるものは混乱を潜りぬけ略奪者から脱却し、軍閥の長として中原の覇権をうかがう。覇権に最も近づいた男=「東北王」張作霖とその舞台の激動の歴史をたどり、併せて日本にとって「満洲」とは何だったのかを考える。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(9/22予約、副本2、予約0)>rakuten馬賊で見る「満州」『歴史・小説・人生』7:陳舜臣さんとの対談(続き)『歴史・小説・人生』6:森永卓郎さんとの対談『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.26
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図書館に予約していた『食の達人たち』という本を、待つこと1週間でゲットしたのです。川上弘美さんが『晴れたり曇ったり』というエッセイのなかで、この本を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので快速ゲットできたのです♪ぱらぱらめくってみると、なにやらガンコ者列伝という感じで・・・川上さんが言うように単なるグルメ本ではないようです。【食の達人たち】野地秩嘉著、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりなぜこの人の作ったものは美味しいのだろうか。銀座の老舗から地方の名もなき食堂まで、厨房の奥には味の数だけ人間ドラマがあった。-『BRIO』連載当時から話題を集めた連作ノンフィクションが文庫で初登場。“美味神髄は人に在り”を知らしめる18の感動ストーリー。<読む前の大使寸評>川上弘美さんが『晴れたり曇ったり』というエッセイのなかで、この本を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので快速ゲットできたのです♪ぱらぱらめくってみると、なにやらガンコ者列伝という感じで・・・川上さんが言うように単なるグルメ本ではないようです。<図書館予約:(9/14予約、9/21受取)>rakuten食の達人たち看板メニューがアジフライという店が銀座にあるそうです。p116~118<割烹「きく」> 割烹「きく」は、私にとってもっとも銀座らしい店だ。値段も内装もメニューもごく普通で、30年以上も営業している。そしてなんといっても、看板メニューのアジフライがある。 きくは銀座8丁目、日航ホテル裏のビル2階にある。薄暗い階段を上がっていくと、引き戸があり、がらっと開けたら、目の前はカウンターだ。客がぎゅうぎゅう詰めに座っていて、肘と肘がぶつかり合っていることが見て取れる。それでも客たちは不機嫌な様子ではない。かりっと音を立てながら、赤ん坊の手のひら大のアジフライを食べている。独特のアジフライを考えたのは主人の松井邦夫である。彼は毎日、300枚のアジフライを揚げる。 雨の日も風邪の日も300匹のアジを開いて待っていると、かならず客がやってきて、多い人は10枚、少ない人でも2枚のアジフライを食べて帰っていく。やってきた客のなかでアジフライを注文しない人間はいない。たとえ客に頼む気がなくとも、看板娘で「」という異名を持つ田邊郁子さんから勧められると、ついつい注文してしまうからだ。 アジフライ好きの人間にすれば、おいしいフライを考案した松井は神様的存在だけれど、アジの身になってみたら、松井邦夫は不倶戴天の敵かもしれない。 きくへ行くなら夜の7時過ぎに限る。それから8時20分までの間、店内は高級クラブのホステスと同伴の客でいっぱいだ。銀座のホステスは8時半までには入店していなくてはならないので、7時過ぎのきくはアジフライと化粧の匂いに包まれている。 8時20分を過ぎると美女はいなくなってしまうが、おいしいものが好きな人はゆっくりと、きくの味を堪能すればいい。アジフライだけでなく、たとえば、きんきの干物も自家製だ。ポテトサラダはひょうたん屋のそれと双璧をなす。常連のなかには食パンを持参してきて、メンチカツとポテトサラダ挟んで食べる人もいる。世の中には工夫の好きな人がいるから楽しい。そうして、ふたたび銀座のホステスたちが現れるのはクラブがハネた後の夜中の12時過ぎ。今度はアフターである。その時もまたアジフライを食べる美女もいるというから、日本人でアジフライが嫌いな人はおそらくいないのだろう。 店を閉めるのは午前2時だが、主人やスタッフはそれから掃除にかかる。白木のカウンターを磨き、床や壁を雑巾で拭くと店を後にするのは御前4時になってしまう。その時間、松井邦夫が銀座の街角で目にするのは早朝のゴミを狙うカラスだけだ。『食の達人たち』1
2018.09.26
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図書館に予約していた『食の達人たち』という本を、待つこと1週間でゲットしたのです。川上弘美さんが『晴れたり曇ったり』というエッセイのなかで、この本を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので快速ゲットできたのです♪ぱらぱらめくってみると、なにやらガンコ者列伝という感じで・・・川上さんが言うように単なるグルメ本ではないようです。【食の達人たち】野地秩嘉著、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりなぜこの人の作ったものは美味しいのだろうか。銀座の老舗から地方の名もなき食堂まで、厨房の奥には味の数だけ人間ドラマがあった。-『BRIO』連載当時から話題を集めた連作ノンフィクションが文庫で初登場。“美味神髄は人に在り”を知らしめる18の感動ストーリー。<読む前の大使寸評>川上弘美さんが『晴れたり曇ったり』というエッセイのなかで、この本を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので快速ゲットできたのです♪ぱらぱらめくってみると、なにやらガンコ者列伝という感じで・・・川上さんが言うように単なるグルメ本ではないようです。<図書館予約:(9/14予約、9/21受取)>rakuten食の達人たち東北のそば屋を、見てみましょう。p249~252<七兵衛そば> 山形新幹線「つばさ」は米沢まではなんとか許せる。しかし、米沢を過ぎると、高畠、赤湯、天童、さくらんぼ東根、村山、大石田と終着の新庄まで数分おきに停車を繰り返す。 乗客は「いったい、どこが新幹線なんだ」と毒づきながら、列車に揺られていくことになってしまう。そんな各駅停車の旅なのだが、車窓から眺める風景は絵のように美しい。 …見渡す限りの青空、緑一面の田んぼ、白壁を持つ天守閣、堀の水面に触れる枝垂れ桜、りんご、茄子、だだちゃ豆、トマトの畑、そして踏み切りで列車が通り過ぎるのを待ついがぐり頭の少年…。眺めていると胸がつまるほどの日本の原風景がそこにある。 私が降りたのは終点ひとつ前の駅、大石田だ。そこからタクシーで20分、値段にして3500円を払うと、次年子(じねんご)という山あいの地区へ入る。標高200メートルのその地区は冬になると2メートルを超える雪が積もるところで、36の所帯が肩を寄せるように暮らしている。 「冬に生れた子供は雪が深いので出征届けを役所に持っていけない」 それで「次年子」という地名が付いたという説がある。それくらいの山奥だ。だが、そんな山奥の村へ、今では年間15万人の観光客が足を運ぶようになった。彼らの目当ては、手打ちそば屋である。次年子名物の田舎そばが全国から多くの客を引き寄せているのだ。 36世帯のうちそば屋は5軒。なかでも有名なのが「七兵衛そば」だろう。食べ放題で1000円というリーズナブルな価格と、味の良さが特長だ。 七兵衛そばへ行くには田んぼのなかの坂道を上っていかなくてはならない。私がタクシーで乗りつけた時には店の前に数台の車が止まっていた。店と言っても、何の変哲もない農家が2軒あるだけで、うち1軒が店舗、もうひとつは主人の家族が暮らす住居だ。インターネットのガイドを見たら「昔の民家を改造した店」とも書いてあった。たしかに壁板は古くなっていたし、全体としてもくすんで見える家だ。 がらがらと戸を開けたら、三和土には大量の履物が散乱していた。視線を上げると目の前は台所になっていて、数人の男女が忙しそうに立ち働いていた。 台所の真ん中には禿頭の主人が立ち、めん棒を使って一心不乱にそば玉を伸していた。汗は滝のように流れ、顔も身体も真っ赤である。彼の後ろではふたりの女性が床に座り込み、これまた懸命にそば粉をこねていた。出来上がったそば玉を板状に伸す役は主人と助手のふたりである。そして、板状になったそばを切るのはふたりの女性。うちひとりはどうやら主人の妻のようだ。 普通の店ならばこうした作業はひとりの仕事だろう。だが、七兵衛そばには休日になると500人もの客がやってくる。各自の持ち場を決めて、分業にしないと仕事がこなせないのだ。 「お客さん、ふたりかね。さ、奥へどうぞ」 頭に三角巾をつけた女性の声でわれに返った。そして導かれるまま、私は私を乗せてきたタクシードライバーと一緒に奥の広間へ入っていった。広間はすでに客でいっぱいである。温泉の風呂場のように混雑していて、まさしく足の踏み場もない状態だった。 私たちはようやく隙間を見つけて、ちんまりと座った。 「お客さん、ジャーナリストかね」 横に座ったタクシードライバーがそう言った。 「うん」とうなずくと、彼はつづけた。 「そうかね。ジャーナリストなら、ここを『昔の民家』って書くのはヤメだ。主人はここで生まれたんだから。それを昔の民家っていうのは可哀想だ」七兵衛そばのユニークなサービスを、見てみましょう。p256 七兵衛そばの客室は広間の他に子供部屋だったところのふたつがある。定員は60名。メニューはもりそばの食べ放題だけ。酒もビールも置いてあるが、勘定はその都度支払うようになっている。店を始めた頃はそばの代金と一緒に受け取っていたのだが、何しろ客が多いので、酒の勘定を付け忘れてしまうことが多かった。そこで、現在では酒、ビールについてはキャッシュ・オン・デリバリーとなっている。 座るとすぐに出てくるのは漬物3品と、そばつゆ、大根の搾り汁である。漬物は季節によって変わるが、私が行った時は、きくらげの醤油漬け、茄子のぺちょら漬け、きゅうりとズッキーニの塩漬けだった。 きくらげは茹でた後、醤油に漬けたもので、からしをつけて食べる。ぺちょら漬けは乳酸発酵させた漬物で、大石田地区の名物である。どの漬物も冷や酒には最高の組み合わせだろう。『晴れたり曇ったり』3
2018.09.25
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図書館で『天才たちの競作集』というビジュアル本を、手にしたのです。30人の絵本画家による挿絵が満載で、観て楽しい本である。これまでは、ジョルジュ・バルビエやビアズリーぐらいしか知らなかったが、ここにまったく素晴らしい天才たちが見える。【天才たちの競作集】ムック、新人物往来社、2011年刊<商品説明>よりギュスターヴ・ドレ、ケイト・グリーナウェイ、ビアトリクス・ポター、オーブリー・ビアズリーなど、人気の高い挿絵画家達のイラストを、オールカラーで多数収録。グリム童話や聖書など複数の作家が同じ作品を手がけている作品は、作家による違いも比べて見て楽しめる一冊!<読む前の大使寸評>30人の絵本画家による挿絵が満載で、観て楽しい本である。これまでは、ジョルジュ・バルビエやビアズリーぐらいしか知らなかったが、ここにまったく素晴らしい天才たちが見える。rakuten天才たちの競作集オーブリー・ビアズリーを、見てみましょう♪。p54オーブリー・ビアズリー オーブリー・ビアズリーは1872年にイギリスに生れた。従来の挿絵の因襲を打破した異端児的存在の挿絵画家である。公式な訓練を受けたことのなかったビアズリーは、初期の頃は世間から評価されなかったものの、次第に革命的な天才としての地位を確立していった。 はっきりとした輪郭線に、立体感や陰影のない白と黒だけを使った手法は、当時だれの目から見ても新しいものであった。 最初の仕事である『アーサー王の死』では三百にのぼる挿絵を描き、その縁取り、章見出し、多くのページに散りばめられた飾りの素晴らしさは、ロンドンの多くの雑誌出版社を魅了した。 オスカー・ワイルドの『サロメ』を描いた際には、ワイルド本人からの賞讃も受け、ビアズリーの名声を高めるのに貢献した。そして、文芸誌『イエロー・ブック』をはじめとする雑誌においても活躍した。 1880年にイギリスで始まったヴィクトリア朝を批判する画家や作家たちのアヴァンギャルドな動きの中心人物であったビアズリーは、独特で複雑な作品の中で数多くの印象的なテーマを表現し続け、1898年に死去した。『アーサー王の死』挿絵(1893)『サロメ』挿絵(1894)『スチューディオ』付録(1895)『天才たちの競作集』1
2018.09.25
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図書館で『天才たちの競作集』というビジュアル本を、手にしたのです。30人の絵本画家による挿絵が満載で、観て楽しい本である。これまでは、ジョルジュ・バルビエやビアズリーぐらいしか知らなかったが、ここにまったく素晴らしい天才たちが見える。【天才たちの競作集】ムック、新人物往来社、2011年刊<商品説明>よりギュスターヴ・ドレ、ケイト・グリーナウェイ、ビアトリクス・ポター、オーブリー・ビアズリーなど、人気の高い挿絵画家達のイラストを、オールカラーで多数収録。グリム童話や聖書など複数の作家が同じ作品を手がけている作品は、作家による違いも比べて見て楽しめる一冊!<読む前の大使寸評>30人の絵本画家による挿絵が満載で、観て楽しい本である。これまでは、ジョルジュ・バルビエやビアズリーぐらいしか知らなかったが、ここにまったく素晴らしい天才たちが見える。rakuten天才たちの競作集アーサー・ラッカムの「不思議の国のアリス」まずは「不思議の国のアリス」を、見てみましょう♪。不思議の国のアリス 『不思議の国のアリス』はイギリスの数学者ルイス・キャロルによる少女アリスによる冒険物語である。この物語は、昼下がりの川辺で、アリスが走り去る白いウサギを見るところからはじまる。 ウサギを追いかけて不思議な国に迷い込んだアリスは、ニヤニヤ笑うチェシャ猫やヘンテコなお茶会をする三月yサギと帽子屋たち、すぐに斬首を命じるハートの女王様など、怪しくも魅力的な住人たちと出会いながら、大冒険を繰り広げる。 この作品が多くの人々の心をつかみ大ベストセラーになったのは、もちろん物語の魅力もさることながら、ジョン・テニエルの挿絵によるところも大きかったのは間違いない。その後、多くの画家がこの小説の挿絵を手掛けたが、いずれもテニエルが創り上げた世界観の延長線上にあると言えるだろう。 ここではテニエルの手によるいくつかの挿絵の他に、ジェシー・ウィルコックス・スミスが雑誌の表紙用に描いたイラスト、ウィリー・ポガニーの挿絵、そしてアーサー・ラッカムの挿絵を掲載する。
2018.09.25
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図書館で『青豆とうふ』という本を、手にしたのです。この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪【青豆とうふ】安西水丸×和田誠著、講談社、2003年刊<「BOOK」データベース>より二人がかわりばんこに文と絵をかいた、楽しさあふれるしりとりエッセイ。タイトルは村上春樹さんが付けてくれました。描下ろしカラーイラストレーション満載!<読む前の大使寸評>この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪amazon青豆とうふ和田さんの映画談義を、見てみましょう。p164~168<ここから和田誠> ファンレターを出したことは何度もある。高校時代の話。 まず、ウォルト・ディズニーに。英語もろくに書けないくせに“ぼくは「白雪姫」が好きです。「ピノキオ」が好きです。「バンビ」が好きです。ミッキー・マウスが好きです”などと書いたのだ。 1、2ヶ月後、学校から帰ると、ディズニー・スタジオから大型の封筒が届いていた。震える手で開く。中にカラーで刷られた「不思議の国のアルス」の絵が入っていた。その時期ディズニー・スタジオは「アリス」を製作していたのだ。登場人物勢揃いの絵。下の余白にディズニーの署名。直筆か…と胸がときめいたが、それも印刷だった。 次は淀川長治さんである。その頃淀川さんはぼくの愛読する雑誌「映画の友」の編集長。自らハリウッドに行っては嬉しそうにスタアと並んで写真を撮ったりしていて、映画評論家と言うよりも、映画ミーハー大先輩に思えた。 ぼくは映画ファンの度合が嵩じて同級生と話が合わなくなり、そこで少々マニアックな手紙を淀川さんに書いて要求不満解消を図ったのだ。 期待はしなかったが淀川さんからハガキが届いた。「映画ファンなら友の会にいらっしゃい」と書いてある。「友の会」とは「映画の友」の愛読者会だ。 おっかなびっくり「友の会」会場に足を運ぶ。大学生から社会人まで百人ほどの人が椅子に坐っている。ぼくは最年少だろう。「友の会」OBらしき人の話を前座に淀川さんが登場。淀川さんのお話を聴くのがメインである。 淀川さんの話術はその頃すでに完成されていて、実に面白い。面白いが、まだ試写でしかやっていない映画について微に入り細に入り語ってくれるので、ミステリものなど犯人から何から全部わかってしまう。これでは自分が観る時の楽しみがなくなるなと思い、「友の会」には2、3度行くにとどめた。 時は20数年流れ、ぼくが「お楽しみはこれからだ」という映画に関する本を出したので、ある雑誌が淀川・和田対談を企画した。対談の前に、「ぼくは高校時代、友の会にうかがったことがあります」と挨拶をした。淀川さんは「そうなの。ちっとも知らなかった。永(六輔)さんが来ていたのは知ってるけどね」と意外な顔をされた。 その後、淀川さんは「友の会」の思い出を語る時、「永さんも和田君も私の生徒さんだったんですよ」と言うようになり、やがて「友の会時代の和田君、よーく憶えてますよ。永さんと並んで坐ってね。永さんはよくしゃべる子だった。和田君はおとなしい子だったねえ」というふうに変化して行った。 ご本人は嘘を言うつもりはなく、話をしているうちに、頭の中にそんなイメージができあがってしまったのだと思われる。迷惑ではないのだが、正確でないのがちょっと問題。 淀川さんはフィルムが現存していない映画についても語ることがあった。それも頭の中で変形しているんじゃないか、と疑いたくなるのが困るのだ。『青豆とうふ』1
2018.09.24
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図書館で『青豆とうふ』という本を、手にしたのです。この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪【青豆とうふ】安西水丸×和田誠著、講談社、2003年刊<「BOOK」データベース>より二人がかわりばんこに文と絵をかいた、楽しさあふれるしりとりエッセイ。タイトルは村上春樹さんが付けてくれました。描下ろしカラーイラストレーション満載!<読む前の大使寸評>この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪amazon青豆とうふ好きな映画に関するアンケートとか、見てみましょう。p28~32<ここから安西水丸> 特に昨年末あたりはあっちこっちから「20世紀最後にあたり…」といったアンケートが多かった。 「あなたにとって20世紀最高のスターは」 「あなたにとって20世紀、素晴らしいとおもった3本の映画は」 「21世紀につたえたい映画10本は?」 「あなたが今まで感動し、21世紀に残したいと思っている小説3本」 「あなたにとって、20世紀における映画のベスト10は」 と、まあざっとこんなアンケートが連日あちこちからファックスで入ってきた。アンケートの集中豪雨だった。 こういうアンケートで難しいのは、例えば映画などになると、「ベスト10」と言われても、映画には芸術タイプのものやアクションタイプのものとかがあって、それをひっくるめるにはちょっと無理がある。仮りに一番「甘い生活」、ニ番「ナバロンの要塞」、三番「去年マリエンバートで」、四番に「あなただけは今晩は」なんてきたら性格を疑われそうになる。 映画の傾向をしっかり決めてアンケートを求めてほしいものだ。でも、もしかしたら、好きな映画なのだからばらばらになっていて面白いのかもしれませんね。考えすぎかな。 その他にもアンケートはいろいろとあった。 「あなたの好きな温泉旅館ベスト3」 「あなたが今まで宿泊した外国リゾート地のホテルベスト5」 「好きな日本酒の銘柄ベスト3」 「日本で飲んで美味しいとおもったワインのベスト3」 「酒の肴ベスト3」 「今までに読んだ漫画ベスト10」 「好きなアニメーションのキャラクター、ベスト5」 「好きなジャズの名曲ベスト5」(中略) 今年になっての新しいアンケートは、友人の勤務する建築関係の出版社からのものだった。 「20世紀における、あなたの好きな建築家ベスト3」 このアンケートに対し、ぼくは無難な線で答えを返した。 1.ル・コルビジェ 2.フランク・ロイド・ライト 3.アントニン・レーモンド(このあたりは渋いですかね) まあ、あたりさわりのない答えといっていいだろう。 このなかで、二番目に入れたライトという人は、日本の旧帝国ホテルの設計者として知られている。とても女性にもてた人らしい。旧帝国ホテルの仕事をしたのも、アメリカの禁酒法時代、暗黒街の帝王といわれたアル・カポネの情婦に手を出し、カポネのさし向けた刺客から逃れるためにはるばる太平洋を越えて来たことがきっかけらしい。 カポネの追及は厳しく、東京が危なくなった彼は、日本の友人の勧めで栃木県の大谷に隠れ住んだという。大谷ではのんびりとくつろいだ日々をすごしていたのだが、当然のようにお金が底をついてくる。 ちょうどその頃、建築関係の友人からホテル設計の仕事が舞い込んだ。 彼が旧帝国ホテルの仕事に関わるに至った話だが、これが事実かどうかはわからない。だいぶ昔に、週刊誌のコラムかなんかで読んだ話だ。冒頭にもどるわけではないが、とにかく週刊誌の話だから・・・。 それでも、ライト氏の女性好きは(悪いことだとは思っていませんよ)有名なことだし、大谷にいたことが事実だとしたら、旧帝国ホテルにはふんだんに大谷石が使われているし、あんがいほんとうの話かもしれません。
2018.09.24
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図書館で『環境考古学のすすめ』という本を、手にしたのです。安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪【環境考古学のすすめ】安田喜憲著、丸善、2001年刊<「BOOK」データベース>より東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る。<読む前の大使寸評>安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪rakuten環境考古学のすすめミケーネ遺跡とイリアス山「第3章 森と文明の環境考古学」でギリシャ文明の崩壊を、見てみましょう。p72~75<森の消滅とギリシャ文明の崩壊> このようにしてメソポタミアの森がなくなり、文明の中心地はメソポタミアから地中海沿岸に移るのです。まず最初はクレタ島、それからギリシャ本土に移ります。 最初はクレタ島で文明が繁栄するのです。今はクレタ島へ行っても、そこが森の島であったとはとうてい想像することもできません。しかし、かつてクレタ島は深い森の島でした。そしてギリシャにも深い森があったのです。 73頁の図は現在のミケーネ遺跡で、背後のイリアス山には1本の木もありません。こういうところで果して文明が繁栄したのかどうか私は疑問に思い、それで花粉分析をやってみたのです。 74頁の図は、アテネ郊外のコパイ湖というところの花粉分析の結果です。その結果、2100年ほど前までは深い落葉ナラの森がコパイ湖周辺にはあったことがわかったのです。ギリシャというのは実は森の国だったのですが、今は森がまったくない。 古代ギリシャは深い森に囲まれていた。森に囲まれていた人びとの世界観というのは「再生と循環」だったのです。森は、春に若芽を出し、夏に若葉ができ、秋に紅葉をして、冬には枯れたようになっても、翌年の春には必ず森はよみがえってきます。そういう森のなかで生活した人びとの世界観は「再生と循環」で特色づけられます。生まれ変わるという世界観が森の思想、森の心です。ですから、ギリシャ文明の世界というのは「再生と循環」の世界観で維持されていたのです。 このように「再生と循環」という世界観をもっていたギリシャであったにもかかわらず、なぜ森が破壊されていったのか。多神教の世界に生きたギリシャの人びとがなぜ森を破壊しなければならなかったのか。その原因の一つは彼らのライフスタイルにあります。 彼らのライフスタイルが「麦作農業と牧畜」をセットにしているということが致命的だったのです。人間が森を破壊したあとには、再び若芽が出てきあす。しかし、その若芽を家畜が全部食べてしまうのです。家畜を飼うライフスタイルが森を破壊したのです。(中略) 美しい地中海、しかし、この地中海は泳ぐことだけにしか適していないのです。森がなくなったために、海はやせて海草一つ落ちていないので地中海はきれいなのです。こうして森も海もやせてしまった。 森が消滅するなかでギリシャ文明も崩壊したのです。その後、文明の中心地はアルプス以北のヨーロッパへ移動した。メソポタミアから地中海へきた文明は森を食いつぶし、次に、文明の中心地をアルプス以北に求めました。『環境考古学のすすめ』3:東洋の蛇信仰と稲作『環境考古学のすすめ』2:環境考古学の真髄『環境考古学のすすめ』1:環境考古学の発生
2018.09.24
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図書館で『環境考古学のすすめ』という本を、手にしたのです。安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪【環境考古学のすすめ】安田喜憲著、丸善、2001年刊<「BOOK」データベース>より東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る。<読む前の大使寸評>安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪rakuten環境考古学のすすめ「第1章 環境考古学とは何か」で環境考古学の真髄を、見てみましょう。p8~10<赤道西風の発見> 20世紀は地球科学の分野において、発見の世紀でした。プレートテクトニクスは、地球表層の風土の構造を決定する内部的要因の解明に大きな前進をもたらしました。これに対し、地球表層の風土の構造を決定する外部的要因の解明に大きな前進をもたらしたのは地球を取り囲む風系の発見でした。 赤道西風の発見と、その両側の熱帯収束帯さらには極地の寒帯前線帯の発見は、地球表層の風土の構造を決定する外部的要因の解明に大きな前進をもたらしたのです。 そして何よりも、この私たち人類が住んでいる地球を、宇宙からながめることができるようになったことです。水と生命の地球は、漆黒の広大な宇宙空間に、ぽっかりと浮かぶ小さな惑星にすぎないことを、誰しもが実感できるようになったことは、人類に大きな世界観の転換をもたらしました。 20世紀の地球科学において、もう一つの注目すべき発見は、リビーによる14C年代測定法の開発でした。14C年代測定法の開発によって、過去三万年の年代軸に時間目盛を入れることが可能となったのです。 その20世紀が終わろうとする1991年、この歴史の時間目盛の精度を飛躍的に向上させる発見がありました。それは「年縞」の発見であり、私たちの手によってなされたのです。鳥取県東郷池の湖底や福井県水月湖の湖底から、年輪と同じように毎年形成された縞状の堆積物が発見されたのです。私はこれを「年縞」と名づけました。 それは地球と人間の歴史を一枚一枚記録した古文書であり、その縞状の形状から地球の遺伝子(ジェオゲノム)とよんでよいものでした。水月湖の湖底からは10万年以上に及ぶ年縞が発見されました。この年縞の解析によって、これまで考えもつかなかった高精度の地球と人間の歴史を復元できる道が開かれたのです。 年縞のなかには花粉やケイソウ、さらには黄砂や湖水中で形成された粘土鉱物など、さまざまな過去の環境を復元するターゲットが含まれています。その年縞に含まれる微化石や粘土鉱物を、一枚一枚分析することによって、過去の環境が年ごとに、さらには現時点では季節ごとに復元できることが明らかとなったのです。 二万年前の気候変動や植生変遷も、数年単位で復元できるのです。人類の歴史的事件が引き起こされたそのときの気候や環境を復元できる道が開かれたのです。その「ジェオゲノム」プロジェクトを今、私は立ち上げているところです。 21世紀の初頭に、過去10万年間の詳細な気候変動や植生変遷が復元されたとき、「気候の変化が歴史を変えた」とか「風土が歴史を決定した」ということが、真実かどうかが、誰の目にも明らかになるでしょう。それは難解な抽象用語を使用し、あたかも人類史を科学的に解釈したかのように大衆をだました階級闘争史観よりも、はるかに具体的であり、科学的なのです。安田さんは考古学の権威であるが、かなり階級闘争史観がお嫌いなようで、そこがユニークなんですね(笑)ところで、福井県年縞博物館なるものがオープン(2018.9.15オープン)したようです。福井県年縞博物館より『環境考古学のすすめ』1:環境考古学の発生
2018.09.23
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図書館で『環境考古学のすすめ』という本を、手にしたのです。安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪【環境考古学のすすめ】安田喜憲著、丸善、2001年刊<「BOOK」データベース>より東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る。<読む前の大使寸評>安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪rakuten環境考古学のすすめ「第1章 環境考古学とは何か」で環境考古学の発生を、見てみましょう。p5~7<環境悪化と共産主義の崩壊が歴史観を変える> 私のもっとも尊敬する東京大学地理学教室の教授をされていた鈴木秀夫先生は、1970年代に『気候と文明・気候と歴史』『超越者と風土』『森林の思考・砂漠の思考』などの本を次つぎにお書きになりました。私が研究していた環境決定論的な内容です。 気候が変われば文明も変わる、風土が違えば人間の生活や考え方も違うと書かれました。その結果、鈴木先生はずいぶん批判されました。「これは環境決定論で、非科学的な理論だ」などと、私の同僚、あるいは地理学の先生たちがまことしやかに批判するのを聞いて、私はたいへんさみしく思いました。 「鈴木先生の理論に多くの人が悪口をいっていましたよ」と、私が本に書きましたら、それを鈴木先生が読まれて、「そんな批判は聞こえてこなかった。ぼくは極楽耳だから、いい話しか聞こえてこないんだ」とおっしゃいました。そのくらいの神経でないと、新しい分野は開拓できないのです。他人のいうことを気にしていたら、新しい分野は開拓できないのです。 1990年代にはいった、私は本を何冊か書きました。1993年には、『気候が文明を変える』(岩波書店)という本を書きました。鈴木先生も、1991年に『気候の変化が言葉をかえた』(NHKブックス)という本を書かれました。なんでもないことのようですが、1970年代にこういう内容の本を書いていたら、非科学的な理論だと、私は学界から追放されていたと思います。 ところが、1990年代になると、そのような激しいタイトルの本にもかかわらず、私たちのところには批判があまりこないのです。1970年代には激しい批判にさらされたにもかかわらず、20年後の現在では批判がこない。20年のあいだに、世の中の雰囲気がガラッと変わったのです。 高度経済成長期には、人間の叡智を結集して地球の資源を使えば人類は無限の発展を約束されているという発想のもとに、みんなが一所懸命に働いていた。 ところが、1980年代になると、まずオゾンホールが発見されて地球環境問題がクローズアップされた。地球の資源は無限ではない。有限の資源のなかで人間は生きてゆかねばならないということが、みんなにわかってきたのです。その地球環境問題が時代の精神を変える大きな力になったのです。 さらに、1990年代にはいると、ソビエト連邦や東欧などの共産主義社会あるいは社会主義社会が次つぎと崩壊していった。このことが、戦後の日本の歴史学を支えてきたマルクス史観を一変させたのです。しかも、戦争に負けてからの日本の歴史学は、皇国史観からマルクス史観へと、大きく方向を変えていたのです。 この結果、われわれが勉強してきた歴史学は、おうおうにして、人類の歴史は階級闘争の歴史である、富める者と貧しい者とが闘って歴史をつくってゆくんだ、社会や経済体制の変化が人類の歴史をつくってゆくんだというものだったのです。ところが、共産主義体制や社会主義体制の崩壊によって、戦後日本の歴史学を支えていた歴史観は、もろくも崩壊したのです。 地理学における環境問題の台頭、歴史学におけるマルクス主義歴史観の崩壊。これがあいまって、わずか20年のあいだに、人びとの歴史観に大きな変化が生まれたように思います。 このことを決定的にしたのが、1993年の冷害です。われわれは、高度技術で武装した社会で暮らしている。ボタン一つ押せば世界と連絡できる。にもかかわらず、夏の平均気温がわずか一度か二度下がっただけで、とたんに食料パニックに見舞われた。「人類は技術力をもっているんだ。気候がちょっと変わったくらいで、大きな影響を受けるはずがない」という説は、必ずしも正しくないという認識が生れたのです。高度技術で武装すればするほど、われわれの社会は逆に、ちょっとした気候変動に弱いのです。 このように、人びとの時代観といいますか、時代の精神が変わってきているのです。ですから「気候が文明を変えた」と私が発言しても、あまり違和感をもたれない。そういう時代がやってきた。ようやく、私たちが長いあいだ主張してきた意見が認められてきたのです。ところで、昨今の気候変動に対して政府、行政の対応がいかにもピント外れである。大雨による土砂災害やダムの殺人的放流を見るにつけ・・・縦割り行政とか役人の不作為なんかが災いしていると思うのだが?
2018.09.23
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生最近、香港の中国化がよく取り沙汰されていて気になるのだが…陳舜臣さんとの対談で、そのあたりを、見てみましょう。p38~40<高級官僚の体質>浅田:ちょっと基本的なことをうかがいたいんですが、そもそも「ホンコン」というのは何語ですか。広東語でもないでしょう。陳:水上生活者の「蛋民」の言葉のようですね。香港というのは、元々は何もない石切り場だったんです。だから、労働者はいたが、定住者はいない。そこにイギリス人が来て、ここは何という土地だと聞いた。その場にいた蛋民が、自分たちの言葉でホンコンと答えたということになっています。浅田:蛋民と現在の香港の水上生活者は、歴史的な関係があるんですか。陳:蛋民というのは、よくわかってないんですが、「客家」に似ていると言う人もいる。客家というのは客で、“後から行った人”という意味です。広い意味では蛋民も客家です。後から来た人はいいところには住めない。だから、客家は、人の住まないようなところや痩せ地に住む。で、それよりもう一段下の連中が、陸に住むことさえ禁じられた人々ですが、彼らは滅亡した南宋の遺臣だと自称しています。だから、プライドが非常に高い。 偉い人で客家出身者は多いですよ。シンガポールのリー・クアンユーも、台湾の李登輝も、中国のトウ小平や葉剣英も客家です。浅田:客家ということで決定的な差別があったわけではないんですね。陳:中国で差別というと、科挙の試験を受けられるか否かだけなんです。葬式でラッパを吹く山西省の細戸はだめ。18世紀後半までは、蛋民もだめでした。浅田:ただ、科挙というのは、制度としては極めてリベラルで、いまで言う選挙権のような感じがしますね。陳:国民なら誰でも受けられるというのが原則ですからね。でも、しんどいやろな、あんな試験をうけるのは。浅田さんも書いているように、知識だけでなく体力勝負の試験ですからね。しかも、あれを上位で通った人間で、偉い人はあんまり出ていない(笑)。浅田:たしかに優秀なんだが、試験を通るとみんないわゆる官僚になってしまう。それで国が傾いた(笑)。中国ではすでに廃止されていますが、日本ではいまだに残っていますね。陳:最初に科挙を取り入れたのはフランスで、日本は明治時代にフランスから輸入したようです。浅田:間接的ではあれ、科挙による官僚制というのが日本にはまだ歴然として残っていて、それが様々な問題を起こしている。大蔵省の高級官僚や厚生省の事務次官の腐敗が表面化したり、中央省庁の再編成が論議されたりしていますが、要するに官僚システムの制度疲労によって国家体制が硬直化している。清の末期にも列強による外圧で国が混乱したのに、科挙を優秀な成績で通った官僚たちは、それに対する有効な措置をとることができなかった。おそらく官僚の体質が似ているからなんでしょうね。<高級官僚の体質>Q:中国は今後、経済的な発展を遂げて21世紀の超大国になるとの観測もありますね。浅田:僕は、欧米人の資本主義の尺度では、その予測はつかないと思います。すごく単純なことだけれども、北京で胡同(古い路地)が片っ端から壊されているところを見たんです。最初は文化破壊だと思ったんですが、よく見ると、日本のようにブルドーザーで壊すのではなく、レンガを一個ずつ取って、それはまた何かに使うんでしょうね、再生しながら壊しているんですよ。そこにいわゆる資本主義の尺度とは違う文化や生き方を、僕は感じました。陳:僕は香港についての予測というのは、全部断っているんです。だってわからないんだもの(笑)。江沢民だってわからないんだから。浅田:中国人の頭の中では99年というのは何年後だなと考えていたかもしれないけれども、イギリス人は永久と思っていた。そのくらい時間に対する概念の差があると思うから、香港はこれからどう変わるかなんて、僕らの口から言ったって意味のないことじゃないかという気がしますね。いままで共産党的鎖国状態があったせいでもありますが、僕らの常識ではまるではかりしれない国民性ですよね。ただ、そこに資本主義の牙城たる大香港が返還されて、突如として中国人の手に委ねられるわけですから、予想はできないけれど、興味は尽きないですね。ウーム 折りしも文科省の事務次官が不祥事で辞任し、官僚制度の疲弊は目を覆うばかりである。そして、香港の一国二制度も消滅の危機に瀕しているようですね。この本の発刊時(2005年)において、お二人には日本の官僚制度と科挙が二重写しのように見えていたのでしょう。アヘン戦争に対応できなかった科挙制度については『日本の「運命」について語ろう』1でも語られています。『歴史・小説・人生』6:森永卓郎さんとの対談『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.23
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図書館で『きょうも涙の日が落ちる』という本を、手にしたのです。おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。【きょうも涙の日が落ちる】渥美清著、展望社、2003年刊<「BOOK」データベース>よりワタクシ、思い出せば7年前、奮闘努力もせず、そおっと消えさせていただきましたが、その後皆様にはいかがお過ごしでしょうかーよみがえる名エッセイ、絶妙対談。<読む前の大使寸評>おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。rakutenきょうも涙の日が落ちる近藤日出造さん、杉浦幸雄さんとの対談を、見てみましょう。p120~123<鼻の穴とほこりに魅せられて>近藤:日本テレビの『春夏秋冬』のお客さんとして出ていただいたのは、あなたがまだ映画に出たことがない、テレビ俳優オンリーのころでしたね。渥美:8年ぐらい前でしょうか。浅草のストリップ劇場からテレビへ引っぱられてきて、要するに、おっぱい出した裸の女じゃなく、着物を着た女優さんがいる中で、すこしうろたえながら芝居をしていたころですね。杉浦:女がみんな、なんか着ているんで、びっくりしたでしょう。渥美:ものを着た女に慣れてなかったもんで、妙な気分でした。近藤:あなたがいた浅草のストリップ劇場ってのは…渥美:フランス座です。今の東洋劇場ですね。杉浦:そこで役者やってたわけ?渥美:ストリップ・ショウのあいだのコメディーの役者です。ヌードの人たちには、疲れるだろうから、お客がいちばんワーッとくるピークのときに出ておらって、お風呂にはいって帰ってもらう。ヌードの人たちには劇場側でもお世辞をつかうわけですよ。それで、あと、家へも帰れないような客が、なんとなく客席で「やれよーッ」なんてことで、そこで今度男たちがヅラつけてごきげんをっとり結ぼうという、そのごきげんのほうにぼくなんか出ていたわけですよ。近藤:川崎もストリップ?渥美:そうです。全部ストリップです、ぼくのいたところは。杉浦:自慢じゃないが。渥美:要するにそのころ、大劇場の大芝居以外はストリップの看板を掲げないと客が来ないんですよ。ですからストリップのひさしを借りて役者がちょっと芝居をする。近藤:そのちょっとのほうに、あなたは出ていた。杉浦:ストリップの居候。渥美:そうそう。ですからメリーさんとかマリーさんとかいうストリッパーが1日1500円ぐらいとっていて、渥美清とか谷幹一は300円か400円。近藤:そもそも、いかなる因縁でストリップの居候に。渥美:ぼくは上野で生まれましてね、あすこらへんで育ったもんですから、ぶらぶら歩きまわって…近藤:もちろん歩きやすいように財布は軽かった。渥美:ぜんぜん軽かったです。杉浦:財布なんかないくらい。渥美:財布が軽いなんてのはオツなもんですけどね、財布はないに等しかったから…最初、芝居をみるのは、たいがい入り口からはいって見ますよね。近藤:出口からはいるのは、めずらしい。渥美:祖母とか父とかに手をひかれて入り口からはいって、木頭の音をきいて芝居を見るのが、ぼくらの年代の者の芝居に対する開化ですよね。杉浦:順序ですよ渥美:ところがぼくは、腕に入れ墨をし、手ぬぐいを肩にトンカチを下げた梅ちゃんなんていう道具方が、劇場の裏で涼んでいる、そこへ行ってなんとなく梅ちゃんとコネをつけて、入れ墨をほめたりして…すると「ひまか、見ていくか」という段取りになって、楽屋から奈落を通ってバンド・ボックスにいって、下から芝居を見たんです。ですからいつも役者の鼻の穴ばかり見ていた。近藤:あなたの鼻の穴が見やすいのは、失礼ながらそのときの影響かな。渥美:かもしれません。そんなわけでぼくは、最初、芝居見物というのは首筋が疲れるものなんだなと思いましたね。それともう一つは、役者がポンと足出して決まると、ほこりがボーッと…客席から見ているとライトやなんかでごまかされてわからないのだけど、バンド・ボックスではよくわかるんです。杉浦:つまりあなたは、鼻の穴とほこりにみいられてしまった。『きょうも涙の日が落ちる』2:荻昌弘さんとの対談『きょうも涙の日が落ちる』1:寅さんという男とボク
2018.09.22
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・青豆とうふ・EVシフト・食の達人たち<大学図書館>・環境考古学のすすめ・天才たちの競作集図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【青豆とうふ】安西水丸×和田誠著、講談社、2003年刊<「BOOK」データベース>より二人がかわりばんこに文と絵をかいた、楽しさあふれるしりとりエッセイ。タイトルは村上春樹さんが付けてくれました。描下ろしカラーイラストレーション満載!<読む前の大使寸評>この本は二人がかわりばんこにエッセイを綴ったもので・・・したがって目次のページがないのです。どこから読んでも面白い♪amazon青豆とうふ【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、9/21受取)>rakutenEVシフト【食の達人たち】野地秩嘉著、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりなぜこの人の作ったものは美味しいのだろうか。銀座の老舗から地方の名もなき食堂まで、厨房の奥には味の数だけ人間ドラマがあった。-『BRIO』連載当時から話題を集めた連作ノンフィクションが文庫で初登場。“美味神髄は人に在り”を知らしめる18の感動ストーリー。<読む前の大使寸評>川上弘美さんが『晴れたり曇ったり』というエッセイのなかで、この本を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので快速ゲットできたのです♪ぱらぱらめくってみると、なにやらガンコ者列伝という感じで・・・川上さんが言うように単なるグルメ本ではないようです。<図書館予約:(9/14予約、9/21受取)>rakuten食の達人たち【環境考古学のすすめ】安田喜憲著、丸善、2001年刊<「BOOK」データベース>より東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る。<読む前の大使寸評>安田さんは「環境考古学」を提唱したそうで・・・何にしろ言い出しっぺはエライと思うのだ♪rakuten環境考古学のすすめ【天才たちの競作集】ムック、新人物往来社、2011年刊<商品説明>よりギュスターヴ・ドレ、ケイト・グリーナウェイ、ビアトリクス・ポター、オーブリー・ビアズリーなど、人気の高い挿絵画家達のイラストを、オールカラーで多数収録。グリム童話や聖書など複数の作家が同じ作品を手がけている作品は、作家による違いも比べて見て楽しめる一冊!<読む前の大使寸評>30人の絵本画家による挿絵が満載で、観て楽しい本である。これまでは、ジョルジュ・バルビエやビアズリーぐらいしか知らなかったが、ここにまったく素晴らしい天才たちが見える。rakuten天才たちの競作集************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き330
2018.09.22
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生森永卓郎さんとの対談を見てみましょう。p216~218<維新が日本人の温かさを奪った>森永:あくまでも私の仮説なんですが、江戸時代までの日本はヨーロッパと似ていたと思うのです。ヨーロッパでは、庶民が貴族になることはできません。だから「今の身分で、どう人生を楽しもうか」となる。余計な上昇志向はないのですね。江戸の日本にも士農工商の「身分制度」が歴然としてありました。でも農民は普段は慎ましく暮らしながら、祭りになると思い切り羽目を外して楽しんだ。武士階級に影響を与えつつあった「儒教倫理」なんて、知る由もなかったのです。 これに対して、アメリカは「サクセスストーリー」の国です。形式的には、地位と収入がリンクする。確かにマイケル・ジョーダンは富も名声お手に入れました。しかし、こういう「勝ち組」は全体の一割か、よくて二割だということです。 どちらが良いと考えるのかは、現在置かれている立場によっても違うのでしょうが、少なくともヨーロッパ的だった江戸時代は、一般的に思われているほど、庶民にとっては不幸な時代ではなかったのではないかと思うのです。浅田:僕も同感。明治の中央集権体制が確立されるのに伴って「ああせい、こうせい」という規制が多くなって、さらに倫理的な制約をかけるようになったのです。江戸時代の農民や町人、僕は武士もそうだと思うのだけれど、そんなに四角四面の生活を強いられていたわけではない。Q:ただ、実際に維新は起こってしまった。その結果、「負け組」がたくさん発生したわけですが、今度の作品に出てくる武士は、にもかかわらずみんな“温かい”のはなぜでしょうか。浅田:それは、失業者があまりにも多すぎて(笑)。その分失業者同士の精神的な連帯感は、とても強かったのではないかと想像するのですよ。当時、人口の五分の一近くを占めていた武士は、新政府に登用されたごく一部を除いて職を失った。しかも、今と違って絶望的な失業ですよ。サムライは金勘定ができなかったはずで、まったくつぶしが利かない。士魂商才なんて、とてもとても(笑)。 今の日本は、豊かな国の不景気ですよね。誤解を恐れずに言うと、ホームレスになっても楽に生きていける国は、世界にそうはない。ニューヨークのホームレスなんて、ものすごく悲惨でしょう。森永:いや、日本もわかりませんよ。あの時の武士の選択肢は、新政府にシッポを振るか、抵抗して駿府に下るか、あとは自分で商売などを始めるかだったわけですね。今、構造改革がめでたく成功して、経済基盤がハゲタカファンドに乗っ取られたとしたら、まず駿府はありません。旧体制は完全になくなっている。だから一部の人がハゲタカにシッポを振り、残りの大部分は「自己責任」で生き残る術を探さねばなりません。そういう人が爆発的に増えるでしょう。ところが、そうそう食い扶持はない。私は、もうすぐ限界点を越えるだろうと、みています。浅田:日本はこれまで、アメリカ的なものを追いかけてきたわけですが、いよいよ本格的にアメリカになろうというわけだ(笑)。 ただ、明治維新の偉かった点を挙げるとすれば、外国人を頭には据えなかったことですね。彼らの要求はのんだし、智恵を借りたし、参謀に据えたりというのはあったけれど、どの分野でもリーダーシップは日本人がとったのです。そういう点も、今とはちょっと違うかなという気がしますね。<自分の弱さを知っていた>Q:当時の武士が路頭に迷いつつも、優しく、たくましく生きられたのはなぜでしょうか。浅田:時代背景云々というより、ひとことで言えば、自分自身に誇りを持っていたからでしょうね。人間は本来的に弱い動物なのです。そんな人間を本質的なところで支えているのは、社会とか他者とかではなくて、自分自身の人格に対する誇り。この一点だと僕は思います。 昔の人は、このことを理解していた。だから「どんな人生であっても、かけがえのないものだ」と考えられたのでしょう。そうした考え方が端的に表れていたのが武士の生活だったのではないでしょうか。裏を返せば、彼らは自分の弱さも知っていたのです。森永:経済的には、今、日本と韓国で同じようなことが起こっているのです。でも、民衆や労働者の行動は随分、違います。韓国ではリストラやアメリカの振る舞いに抗議して、デモを組織し、火炎瓶を投げ、星条旗を破る。でも日本では、沖縄で米兵がらみの事件が起こったときでさえ、本土は「静か」です。おしゃるように“誇りの喪失”を感じますね。私は、時の権力者がジワジワと国民を無知にしてきた結果がこれだと思っています。 「西洋思想」を吹き込む一方で、基本的な教育を怠った。例えば、私は「左翼」なので天皇制ウンヌンのくだりには疑問を覚えるのですが(笑)、修身の教科書には、人としてどう生きるかという道が説かれていて、それらは極めて正しいのですよ。浅田:僕がとりわけ欠けているなと感じるのは、歴史教育。特に日本人が、近代史についてあまりにも無知であることに危惧を抱くのですよ。これには、学校が受験予備校化したことも一役買っている。カリキュラムに沿って授業を進めると、必ず維新直後、条約改正あたりで“時間切れ”になり、「後は教科書を読んでおけ」(笑)。なぜか、大学受験にも、これ以降の問題は出ない仕組みになっているのです。でも、われわれがなぜ歴史を学ぶかといったら、自分が今暮らしている社会の座標軸を確認するためでしょう? だったら、一番知らなければいけないのは、過去100年の歴史ですよ。ウン 森永さんは「左翼」だったのか(笑)…お二人の対談は経済になると思いきや、思想や歴史教育を語ることになったのが意外でした。それはそうと、文科省の事務次官が不祥事の責任をとって、また辞任(今年二人目)したが・・・とかく三流文科省という噂は、ほんまものだったようです。『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.22
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生渋谷由里さんとの対談で語られている張作霖を、見てみましょう。(渋谷由里:1968年生まれ、中国近代史、富山大学助教授)p46~50<英雄視されない張作霖>浅田:僕は、瀋陽出身のガイドさんから聞いたんですが、民間では、いまだに張作霖という人はとても人気があるというんですね。渋谷:あるでしょうね。浅田:つまり東北王と言ったら張作霖で、自分たちの主君は張作霖だというイメージがお年寄りの間にはあるそうですね。渋谷:そうですね。やはり任侠の世界で名を成してあそこまでいったということに対する憧れはかなりあるんじゃないですか。浅田:そのとき、その人のおっしゃったことがとても耳に残っていてね。書くんだったら、そういう角度で書くべきだろうなと思ったんです。少なくとも彼の周辺の人々に対しては非常に人気があるというね。渋谷:そうですね。浅田:結局、張作霖という人物は日本ですごく有名だったけれども、日本にとっては最終的には悪役でなければならなかったから、あとからいろんな伝説が付いちゃったということもあるんですよね。渋谷:ありますね。浅田:だから、ことさら無知文盲であるというふうに喧伝された。いちばん怪しいのは、日露戦争のときの命乞いの話ですね。渋谷:あの説はもう、私は自分の本では一刀両断にしました。浅田:捕まって銃殺される寸前で、日本軍が命を助けたということになっているんですね。それも非常にタイミングよく。つまり、張作霖というのはそのぐらい日本に恩義を被っている人間だという図式が、あまりもあからさまな伝説になっていて、どうも僕にはあれは信じられない。都合よすぎると思うんだ。だから、小説の中でも、あれは採用したくないんです。ほとんどの日本人は、たぶんその伝説を信じてたでしょうね。有名な話だったしね。渋谷:そうですね、当時は有名な話でした。<清朝の本当のすごさ>浅田:僕は今回の作品(『中原の虹』)で、張作霖のことを、『蒼穹の昴』で西太后を見たのと同じ視線で見ているんです。やっぱりあの当時の満州といったら、どうしようもないところだったと思うんですね。渋谷:ほんとにそうだと思います。浅田:まるっきり無法地帯で、自分の命は自分で守れ、というような発想から馬賊が始まったんだろうけれども、それが何十年間も続いている場所で、一応、張作霖は満州を統一して、ある時期には中華皇帝に最も近かった人ですね。だからそうとうの人物だと思うんですよ。渋谷:私もそう思います。浅田:歴史はあとからつくられる部分っていうのもずいぶんあって、西太后の場合なんかもそれが多いとは思うんだけれども、外国人、イギリス人やフランス人が自分たちのやっていることを正当化するために、前にはこんな悪いやつがいたんだというような形で歴史をつくるっていうのもかなりあると思うんでね。渋谷:そうです。あと西太后など宮中の人の場合は、直に接する人が少ないですから、そえもあって憶測と想像がかなりありますね。浅田:ただ、結果論から言えば、例えば清国という国だって、アヘン戦争では潰れなかったにしても、そのあとのアロー号事件あたりでもう潰れていなきゃおかしい王朝を、李鴻章と西太后のタッグでそのあと50年ぐらいもたせているわけだから、そうとうな政治手腕はあったと思うんですよ。 そう考えると、張作霖という人間もただものではなかろうという、その角度からひたすら書いてみようと思ったんですね。渋谷:清朝というのは、非常に文書行政が整った王朝でありまして、皇帝は、地方官から上がってきた上奏文の主だったものも相当数見なければいけないんです。だから、決して怠け者では務まりません。カン豊帝という、西太后の夫は、そこが面倒くさかったみたいで、特に病気がちになってからは文書の多くに西太后が目を通して返事を書いていますし同治期はもちろん、光緒期もやはりそうですね。 今でも宮中トウ案と呼ばれている歴史的文書が残っていまして、公開されているんです。西太后のものはまず指示が非常に的確ですね。処理案件によって、どういうふうに決裁するかということを赤い字でコメントしていくんですが、筆跡もとてもきれいです。よくあれだけの膨大な文書にそれだけのきちんとした判断を逐一下せたなと思うぐらいです。浅田:清朝が何百年か続いた中で、これといった暗愚な皇帝はいないと思うんですよ。渋谷:特に、康煕、ヨウ正、乾隆、これは名帝ですね。浅田:名帝が三代続くっていうことも世界にまず例を見ない。僕は歴代の君主で、決定的に暗愚な人が出なかった王朝としては、すごいと思う。渋谷:そうですね。先生もご存じだと思いますが、漢族と違いまして、長男が絶対的に相続しなければいけないという社会ではないんです。満州族には部族制社会の名残がありまして、実力があって人望がある人でないと率いることができない。ですから、皇太子を決めないんですね。競わして、最後まで誰が指名されるか、皇帝が死んでみないとわからないんです。浅田:故宮の乾清宮にある「正大光明」の額、あそこの後ろに手紙を入れとくんですよね。皇帝が死ぬ前に。ウーム 西太后の治世、日本の侵略、蒋介石と毛沢東の対立という積み重ねで、やっと旧王朝が倒れたわけで・・・共産党王朝のお手並み拝見という時代が到来しましたね。『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.21
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生アロー戦争陳舜臣さんとの対談を、見てみましょう。p26~28<アロー号事件の真相>陳:浅田さんの『蒼穹の昴』には本当に感心しました。近代中国を舞台にした作品をあれだけ書ける作家は、ほとんどいない。短篇は知りませんが、長篇では浅田さん以外にいないんじゃないでしょうか。浅田:ありがとうございます。 近代中国のものがないのは、わりと単純な理由だと思うんです。つまり資料が難しい。同じ出来事に関する複数の資料を読んでも、内容にとても矛盾が多くて、どの資料を信頼すべきかの見分けが容易につかないんですね。陳:そうですね。オーソライズされた資料のほうが、かえって怪しかったりしますから、そこが難しい。浅田:知識のある方でも、史実と違うことを意外に平気で言うのが近代中国の歴史なんですね。そのくらいわからない。ですから『蒼穹の昴』を書く際には、僕は陳先生の本に非常に助けられました。 香港問題にしても、たかだか百年前の話なのに、諸説が入り乱れてわからない部分が随分ある。例えば第二次アヘン戦争のきっかけになったアロー号事件。あの事件にも歴史のミステリーが含まれていますよね。陳先生の著作で読みましたが、アロー号は実はイギリス船籍ではなかったそうですね。1839年、清朝がアヘンを禁輸にしたことが契機となってイギリスとの間で勃発したのが第一次アヘン戦争。清の敗北によって南京条約が結ばれ、香港島は割譲されてイギリス領になった。1865年には、イギリス国旗を掲げたアロー号に対して清の官憲が臨検を行なったことなどが引き金となり、清と英仏両国との間に第二次アヘン戦争(アロー戦争)が起こり、1860年に結ばれた北京条約によって、九龍南部もイギリス領となった。さらにイギリスは1898年、九龍の後背地である新界一帯を99年間租借する条約(展拓香港界祉専條)を結ぶ。その期限が今年、1997年6月30日をもって切れたことから、割譲した香港島を含め、一括して中国に返還されることになった。陳:アロー号はアヘンの運搬船です。イギリス船籍なら本来、清は荷物を調べられないんですが、海賊が乗っているという訴えがあったために、臨検を行なった。これがイギリス側に戦端を開く口実を与えることになったんです。 しかし実際はアロー号はイギリス船籍ではなかったんです。船籍は年に一度、更新することになっていたが、アロー号はその更新の期限が十日前に切れていた。しかも停泊していたのは明らかに清国の領域内。だから本当なら臨検されても文句は言えないんだが、イギリスはそれを隠し、清国側もそんな重要なことを見落としていた。イギリス公使のバウリングは本国に「神かけて絶対に中国に知らせるな」と報告しているんですよ。浅田:これは大変なことですよね。どこの教科書を読んでも、そんなことは一言も書いていない。イギリスが清を攻撃したのは、当時の事情からみてある程度の正当性があったという歴史解釈が行なわれているわけですが、実際には、イギリスによるまったくの騙まし討ちだった。因縁をふっかけたようなもので、すごい悪いヤツということになる(笑)。 僕はあれを読んだときに、ちょっと衝撃を受けたんです。アロー号事件と同じようなことが、実は歴史の中で頻繁に行なわれているのではないかと思えてきますよね。僕らが学校で学んだ歴史というのは、ある程度、欧米が正当化されるように書かれていますから。陳:そうですね。勝者による、一方的な解釈が歴史上の事実とされていることは多いでしょう。<マカオと香料>浅田:今回の香港返還に関する膨大な量の報道のなかで、僕が非常に不思議だと感じるのは、欧米列強による中国侵略の歴史についての言及が極めて少ないということなんです。香港はどのような経緯でイギリス領になったのか、そのとき欧米は中国に対して何をしたか、そのあたりをもっと人は知るべきだと思うんですけどね。陳:たしかに、なぜこうなったかということは、あまり問題にされていない感じですね。浅田:返還になった翌日から香港はどうなるのかといった話ばかり。それも、ほとんどが経済的な側面の関心ばかりだという気がします。しかし、なぜ返還しなければならなくなったかという問題は、実は過去のことではなく、非常に今日的な問題のはずなんですよ。ウーム イギリスの開戦、戦後補償などのテクニックは帝国主義のお手本なんでしょうね。更に読み進めます。p31~33<アヘンを流行らせた理由>浅田:日本にアヘンが入ってこなかった理由は何ですか。陳:必用がなかったからですよ。中国の南方では、アヘンは明代からデング熱とかいった風土病の薬として、少量、輸入していたんです。ところが、これを飲んだら気持ちいいぞというのは、イギリスが教えた。 当時の貿易では、イギリスが一方的な輸入超過。お茶は大量に買うが、売るものがない。それで銀がどんどん中国に流れる。何か売れるものはないかというので、アヘンに目をつけた。 日本の場合、そうした風土病とは無縁だった。だから薬としてのアヘンは必用がなかったんでしょうね。浅田:中国というのは地大物博の国で、輸出するものは何でもあり、完全に自給自足できる。だから貿易では絶対優位にあります。それで困ったイギリスが、貿易不均衡対策としてアヘンを売ったというのは、ものすごく今日的ですね。 アヘンで言えば、取り締まりを命じられて徹底して職務を遂行した湖広総督の林則徐がいますね。アヘンの徹底取り締まりがイギリスとの関係を悪化させて、結果として香港割譲のきっかけを作ったわけですが、中国における彼の人物評価はどうなんですか。陳:非常に高いですね。いまでもアヘン戦争のときの英雄のままです、浅田:僕は林則徐という人は、中国の近代史の中では最高のヒーローだと思うんです。中国の役人というと、けっこう権謀術数で動くじゃないですか。ところが林は、そうではなかった。どおんな偉人でも、裏に回ると別の顔があるものですが、林に関してはそれがない。裏からの見方ができない人だと、僕は思うのです。陳:裏というのは、本当に林則徐にはないですね。林は命令を受けて、二万箱くらいの膨大なアヘンを回収した。証拠のアヘンを送るので見て下さいと北京に連絡したら、そんなものを送られてはかなわないので、現地で処分しろと北京が命令してきた。そのときの処分が、また徹底している。 アヘンは焼いてもダメなんですね。浅田:焼いても、その地面からまたアヘンがとれますからね。陳:三割か四割、元がとれる。だから完全に処分するために、林は50メートル四方の池を二つ造り、それを板張りにして石灰と塩を入れた池水にアヘンを溶かして海に流した。流すときには、ちゃんと海の神様に「こういう毒物を流しますから」とお祭りしています。それで完全になくした。しかもその様子を公開するわけです。イギリス人は、自分のアヘンが処分されるところなど見たくないから来なかったが、アメリカ人のオリファントという人物が見学して、その様子を全部書いています。 でも、普通の役人なら、ちょっとは横流しをして儲ける(笑)。林則徐は、そういうことはしない。浅田:そうそう。中国人としては、そこでまず儲けを考えそうなところなんだが、そんな発想は林にはないんですね。正しいと信じたら徹底してそれをやる。あんな気持ちのいい人はいない。中国人では、他にいないんじゃないかと僕は思います『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.21
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生宮部みゆきさんとの対談を、見てみましょう。p180~182<啖呵切るご先祖様ぞ道標>浅田:ちゃんとお話しするの、初めてですね。宮部:浅田さんと対談て、初めて。浅田:不思議なんですよ、これ。今までどこも僕と宮部さんの対談を組まなかったって。宮部:ねえ~。ちょっぴり似ているところがあるのに。浅田さんも現代物をお書きになりながら、時代物もお書きになってて。浅田:そういう作家って、意外といそうでいないんですよね。宮部:実はね。ただ、私なんかは両方書いてるったって、結局全部ミステリーなんです。時代物も時代ミステリーですから。でも浅田さんは、本当に幅広いですよね。浅田:書き終わったとき、いつも反省するんですけどね。一つのことをやんなきゃだめだよなって。宮部:そうかな。浅田:そう思うよ。一つのことを一生書いていたら、最後はすごい小説が書けるだろうなって。全然違うものを同時進行していると、そのたび頭を切り替えてテンションあげていかなきゃならないから、エネルギーが必要なんですよ。宮部:頭を切り替えるために、例えば何か音楽を流したりなさっていますか?浅田:風呂屋へいきますね。宮部:ああ、銭湯?浅田:そうそう。僕、うちの風呂って嫌いなんです。子供の頃銭湯通いだったから。宮部:私も。東京育ちって、完全に銭湯っ子ですよね。浅田:うん、昔は東京で内風呂のある家なんてそうなかったから。宮部:ですよね、相当のお金持ちでないと。浅田:宮部さんは東京のどこ?宮部:深川です。浅田:僕は中野で生れたんだけど、山の手の生まれ育ちというのは真赤な嘘(笑)。うちは戦争で焼け出されて中野にきた組なんです。宮部:あっ、そうなんですか。その前は?浅田:神田。もっと前は月島。宮部:あら、じゃあ…。浅田:祖父母はチャキチャキのダウンタウン(笑)。宮部:月島って、今でも昔の風情残ってますよね。商店街もあるし。浅田:残ってますね。深川は東京大空襲で丸焼けになったんじゃない?宮部:大変だったって、よく聞かされてまいた。でも、うちは一族郎党だれ一人欠けなかったんです。浅田:強運だねえ。宮部:でしょう。深川って運河沿いに町筋ができた新開地なんで、焼け跡に建て直した町もほとんど変わってないんです。古地図と完全に照らし合わせられますから、時代小説は全部深川界隈で間に合わせてます(笑)。浅田:うんうん。古地図があっての時代物だよね。宮部:そうですね。でも私、江戸の切絵図、まだよく読めないんです。浅田:切絵図はちょっとひしゃげて書いてあるし、距離も正確ではないから読み方がむずかしいよね。宮部:距離感をつかむために歩くんだけど、東京になってから区画整理されて道路も拡張してるし、町名も変わってる。浅田:古地図でポイントになるのは、神社仏閣と坂道ですね。神社や寺はほとんど動かないでそこにあるし、坂の名称だけはまったく変わってないから。宮部:そうそう、橋とかもね。大使が在職中に、東京へ2年間異動したのだが・・・借り上げ社宅として深川のマンションを気に入ったので親戚の者に評判を聞いたところ、「学校が荒れているので止しなさい」とのことで、深川は取止めになったのです。大使としては、江戸情緒の残る深川あたりに惹かれていたんですけどね。更に読み進めます。p187~189<ふたりを染める色街、洲崎の因縁>浅田:僕の家は中野だって言ったけど、おやじの経営する会社ってのは神田にあったんです。カメラの問屋でね、中野の家には「若い衆さん」と呼ばれる店員が住み込んでいた。宮部:そうなんですか。下町のサラリーマン家庭に生れた私とは、ずいぶん違う生活ですよね。浅田:朝飯は住み込みの人もみんな一緒にとるから、20人ぐらいバーッと並ぶの。宮部:わあ~、おもしろい。浅田:でもね、僕は次男坊だから部屋住み扱いなんですよ。上座におやじが座って、次が兄貴、じいさんばあさん、それから番頭さんたちが序列に従って並んで、僕はいちばん隅。これ、東京の商家の伝統だと思う。長男は偉いんだけど、次男坊以下はみそっかすで、服だってお古しか着せてもらえなあい。だから僕、乙川(優三郎)さんの小説読むとね、部屋住みの侍にものすごく感情移入するの。宮部:へえ~(笑)。浅田:東京の朝飯って、納豆だけでしょ?宮部:えっ、ああ…。浅田:やっぱり十歳違うと、朝飯も違うかなあ(笑)。うちは味噌汁はあったけど、あとは漬物と納豆が大丼に入ってて、上座からずっと回ってくる。宮部:じゃあ浅田さんに回ってきたときは、もう少なくなっちゃうわけですね。浅田:ちょっとしか残ってない。で、朝飯が終わると、住み込みの店員がオートバイや車でバーッと出勤して、夕方またバーッとみんな戻ってくるっていう家で。宮部:浅田さん、その話、小説にしてくださいよ。昔の東京の商家の暮らし、ぜひ残しておくべき歴史の一つがと思うな。浅田:まあね。宮部さんちは、お父さんはサラリーマン?宮部:サラリーマンといっても職工で、一つの会社に40年以上勤めました。ひじょうに堅い人でね、毎日同じ時間に家をでて、同じ時間に帰ってくるので、父の行動で時計が合わせられた。浅田:うちのおやじと正反対だな。うちのおやじは常識と非常識が妙に調和してる人なんだよ。月に二度ぐらいしか帰ってこないけど、今日の何時に帰るっていうと、ピタッとその時間に帰ってくる。そこは常識人なんだけど、そのとき芸者を連れて来たりして。宮部:おもしろ~い(笑)。『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.21
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図書館で『満州の誕生』という本を、手にしたのです。副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)【満州の誕生】久保尚之著、丸善、1996年刊<「BOOK」データベース>より19泊20日にもわたる“満鮮支”修学旅行を体験し、卒業後は就職の場を求めて大陸へと渡っていった商業学校の生徒たち。満鉄総裁になった旧友・中村是公の招きで満州を訪れた夏目漱石が、その目でとらえ、書き残したもの。アメリカの鉄道王が日本政府とかわした満鉄共同経営の約束を電報一本で反古にされた「ハリマン事件」の真相など、日本の敗戦とともに消滅した“満州”にまつわる歴史と人の生きざまを掘り起こす。<読む前の大使寸評>副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)amazon満州の誕生南満州鉄道株式会社 経営施設概要「第4章 満州誕生」で、ニッポンの帝国主義メカニズムを、見てみましょう。p181~184<軍政下にいち早く入った日本人> ロシアとの講和条約が結ばれ、中国とも「」を1905年12月22日、締結し戦争処理は終わった。 残された課題は、長春・大連間の鉄道、付属地および大連・旅順の租借地の経営をどうするかであった。しかしその前に、軍政の敷かれている満州を開放することが西園寺の緊急の仕事である。 日本軍はロシアを北へ北へと後退させると、占領した地域に軍政署を設け、軍政を敷いた。前線に対する兵站機能を維持し、占領地の政治的・経済的秩序の安定を図るのが、軍政の目的であった。ロシア、中国との戦争処理が終わったとき、軍政を続ける理由はなくなった。しかし軍部には軍政を解く気配がまったくなかった。おそらく撤退最終期限の1907年4月1日ぎりぎりまで居残りつもりであった。 いっこうに占領地軍政をやめようとしない日本に、ビジネスを制限されたアメリカ、イギリスから非難の声が強まっていた。戦争中から日本人だけには占領地での商業活動が許されていた。これが英米ビジネスマンの不満となり、自国の政府、公使館に苦情が寄せられていたのである。 軍政下の大連へ日本人の渡航が認められたのは、1905年1月4日である。といっても無差別ではなく厳選主義であった。 「この機会に於いて満州向きの物品を輸出し、将来の商権を発展せしめねばならぬものであるから、大蔵省は陸軍省と協議して、一方には軍票の流通を円滑にし、出征軍隊の軍需品の供給を豊かにしかつ、経済的発展の基礎を確立する目的から、日本人商人の渡航ならびに商品の輸入を許すことになり…」(『大連市史』) アメリカ、イギリスのビジネスマンが入ってくる前に、商圏を確保し、かれらに負けないよう体力をつけておこう、ということである。 もっとも、渡航が解禁になる前、大連占領の第一報が伝わると、間髪入れず、日本人の密航が始まった。開戦によって引揚げを強制された日本人が戻ってきたものである。主に安東、チーフー、威海衛から密航してきた初期の日本人は、男性480人、女性14人であった。その後も密航者はあとをたたなかった。1905年1月4日の渡航解禁は、禁止するより渡航者を厳選したほうが得策とみた大蔵省と陸軍の協議のうえであった。 輸入商品には満州市場の将来を考え、綿糸、綿布、綿製品、和木綿、和反物がまず選ばれた。戦前からの満州でのアメリカ、イギリスとの競合商品であり、当時の日本が外貨稼ぎに生糸に次いで期待した商品であった。というよりも、満州市場は、開発が始まったばかりであり、綿製品や生活必需品である雑貨以外に、海外から輸入する製品はなかったのである。 イギリス、アメリカ両国ともに、満州への輸出品は綿製品であった。タバコなどの雑貨もあるにはあったが、全体の輸出品からみると微々たるものであった。 それより問題は、イギリス、アメリカは輸出はするが、満州から自国へ向けての輸入はしないということであった。両国の国民が求める製品が満州にはなかったからである。満州の二大特産の大豆・豆粕・大豆油の大豆類、石炭はイギリス、アメリカには不要の商品であった。この二つの満州特産を輸入したのは日本である。 輸出はするが、輸入はしないという関係は長続きはしない。イギリス、アメリカが日露戦争後に満州市場から消えてしまうのは当たり前といえば、当たり前だったのである。日本はといえば、大豆類、石炭を輸入し続けており、満州にとってはお得意さまであった。両製品とも無理して輸入したのではなく、日本に必用だったのである。豆粕は肥料として、石炭はエネルギーとして。その他にも大豆は、みそ、しょう油の原料となった。欧米にみそ、しょう油など無縁であった。 イギリス、アメリカが満州市場をつなぎとめたければ、綿製品がモノにならなかったうえは、別の道をさぐるしかなかった。鉄道建設への資本投下、それがポスト日露戦争、第二段である。ネットをめぐっていたら、南満州鉄道の再来のような報道がありました。元寇の再来ではないので、当面は余裕があるのだが中露が束になると怖いかも?2018/9/19中国、一帯一路を朝鮮半島まで伸ばす計画かより 9月12日、ロシアのウラジオストクで開催された東方経済フォーラムでは、習近平主席が演説で、極東地域の発展の加速と、北東アジアでの一帯一路プロジェクトの実現化を促した。また、朝鮮半島の一帯一路は将来的に、3国に加えて日本、ロシア、モンゴルの経済共同計画である「北東アジア経済回廊」を促進させたいと述べた。 ロシアはすでに北朝鮮との国境を結ぶ高速道路の初期開発に着手している。ほかにも、2017年の東方経済フォーラムでは、ロシア、北朝鮮、韓国による経済計画「ロシア朝鮮輸送回廊」を発表しており、ここにはガスパイプライン建設など大型インフラが含まれている。 韓国政府の南北経済協力計画もまた、ソウル、平壌、新義州、丹東を結ぶ3国接続高速鉄道計画案があり、朝鮮半島の一帯一路と重なる。 アジア圏情報を伝えるシルクロード・ブリーフィングによると、中国やロシアは北朝鮮で大型インフラを建設し、その次に半島にある豊富な金や希少土などの資源を採掘すると分析している。 資源関連ニュースを伝えるオイルプライスは在米ロシア人分析者の報告から、北朝鮮には200種以上の豊富な鉱物があり、市場価値は10兆米ドルと試算している。 2017年の国連制裁決議により北朝鮮は石炭や鉱物の輸出入は禁止されている。米国務省は同年8月、中国とロシアは制裁を無視して、北朝鮮の体制を維持しようとしていると批判した。『満州の誕生』3:中国の民族主義『満州の誕生』2:アメリカの陰謀『満州の誕生』1:児玉・後藤の移民政策
2018.09.20
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図書館で『満州の誕生』という本を、手にしたのです。副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)【満州の誕生】久保尚之著、丸善、1996年刊<「BOOK」データベース>より19泊20日にもわたる“満鮮支”修学旅行を体験し、卒業後は就職の場を求めて大陸へと渡っていった商業学校の生徒たち。満鉄総裁になった旧友・中村是公の招きで満州を訪れた夏目漱石が、その目でとらえ、書き残したもの。アメリカの鉄道王が日本政府とかわした満鉄共同経営の約束を電報一本で反古にされた「ハリマン事件」の真相など、日本の敗戦とともに消滅した“満州”にまつわる歴史と人の生きざまを掘り起こす。<読む前の大使寸評>副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)amazon満州の誕生J・P・モルガン「第3章 ハリマン事件の裏側」で、中国の民族主義や、中国人排斥法などを、見てみましょう。p113~116<中国の民族主義に火をつけたモルガン> ここに、アメリカと、喜んでその意図を快諾したモルガン商会の、中国への読み間違いが露呈された。利権回収運動が盛り上がっていくなかで中国は大きく変化していた。もはや契約の内容などどうでもよかったのである。鉄道を自分たちの手に取り戻す、そしてとりあえず当面の敵であるアメリカを排し、そのあとイギリス、フランス、ドイツからも利権を回収する、こういう機運が急速に育っていったのである。 何の疑いももたず、アメリカの代理人となったモルガンは甘かった。本来は思慮深いモルガンも、この時期は順風満帆の勢いでビジネスに邁進させていた時である。冷静な判断に欠けていた。 このころモルガンにとっては「わが世の春」であった。モルガン商会は、アメリカ史上はじめての10億ドル会社であり、カーネギー鉄鋼会社をはじめ多くの企業を吸収・合併したU・S・スティールを設立したのは1901年であった。 U・S・スティールの資本金14億ドル(当時の28億円。日本最大の南満州鉄道の資本金は二億円)は、1世紀前のアメリカの総資産を越える額に相当していた。 モルガンはU・S・スティールによって、アメリカの鉄鋼製品の三分の二を生産する実力を手に入れたのである。モルガンに恐れるものはなかった。この資産をもってすれば、中国が広いといっても、何ほどのこともないと考えるのがノーマルかもしれない。中国民衆の顔など、見えもしなかった。 清朝の権威が確固としている時代であれば、モルガンの資金はまちがいなくモノをいった。カネの力で抱きこめばよかったからである。ロシアが満州北部を横断する東清鉄道、ハルビンから大連・旅順に至る東清鉄道南部支線を敷設できたのは、清朝の事実上の支配者・西太后に接近し、交渉にあたった李鴻章をカネの力で買収したからである。それが可能だったころからまだ10年にもならない。 結論からいえば、アメリカとモルガンの誤算であった。中国は利権回収運動をとおして民族主義に目覚めた。契約の内容より、民族の主権を「回収」することに運動の比重は移っていたのである。モルガンの登場は民族主義という燃えさかる火に、油をふり注ぐことになった。 「ここで闘わなければ、われわれは黒人の二の舞となってしまう」 「いかなる手段を用いても、死すともアメリカの進出は阻止すべし」 そうした機運が燎原の炎となって広まっていった。利権回収運動は大規模な反米闘争へと拡大したのである。 1905年3月、張之洞はかれの意図をはるかに越えてしまった利権回収運動についてこう記している。 「現在、三省(湖北・湖南・広東)神民の決意はかたく、意気は燃え上がり、その勢いは滔々たるものがある。もし、この鉄道(粤漢鉄道)を自らの手で建設しえなかったら、必ず事態を熟成し、地方官も弾圧できぬほどのものとなるであろう」 アメリカの強硬的で尊大な姿勢が中国を刺戟した。利権回収運動の根底には中国人移民を禁じた中国人排斥法に対する反感があった。鉄道建設でさんざん中国人労働者を酷使したアメリカは、鉄道敷設が一段落すると一転して、中国人の入国を禁止するようになった。『満州の誕生』2:アメリカの陰謀『満州の誕生』1:児玉・後藤の移民政策
2018.09.20
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図書館で『きょうも涙の日が落ちる』という本を、手にしたのです。おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。【きょうも涙の日が落ちる】渥美清著、展望社、2003年刊<「BOOK」データベース>よりワタクシ、思い出せば7年前、奮闘努力もせず、そおっと消えさせていただきましたが、その後皆様にはいかがお過ごしでしょうかーよみがえる名エッセイ、絶妙対談。<読む前の大使寸評>おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。rakutenきょうも涙の日が落ちる荻昌弘さんとの対談を、見てみましょう。p172~175<なんせ気楽な性分でして>荻:さっそくですが、あと『男はつらいよ』はどういうふうに…渥美:いま、また監督さんがブラッと旅行に出て、構想を練ってるんですよ。ぼくたちはそのあと。 荻:あのシリーズでは一作ごとにシナリオのための旅行をなさるんですか。渥美:こんどは北海道へ行ってみようとか、こんどは島のほうに行ってみようとか、ウロウロ。その間の、なんとなくね、小さな田舎の食堂でめし食いながら、急にめしを吹き出しちゃうようなバカな話をしたり、(笑)そういうのが台本の中に入っていく。荻:そういうとき、めしを吹き出しちゃうような話を思いつかれるのは渥美さん…。(笑)それにしても、あのシリーズのロケ地の選択のうまさ、土地カンの鋭さには一作ごとに感心するんですけど。渥美:山田洋次とカメラマンの高羽哲夫の触覚みたいなものじゃないですかねェ。ぼくとしては確かこっちを見たら山があって煙が出てましたねというと、あ、それは広島じゃなくて鹿児島でしょうと山田さんにいわれて、ああ、そうかと…。(笑)渥美さんもそうとう気楽に生きてるんですねェって。ぼくはそういうところが、ちょっと、あるんですよ。だからロケ・ハンの助けにはならないんですね(笑)むしろ、食事でいうと、箸休めみたいなこと。荻:ハハハ…なるほどね、箸休めね。渥美:一番困るのは、日本でもわからないのに、外国を旅行していると、全部横文字になっているんですからね、地名が。だけどぼくの中には、アテネの建物のわきで(あごを長くしごいて)、こんなふうに髭が垂れ下がってたおじいさんが栗を焼いてたなとか、噴水の水がシャブシャブ、シャブシャブする寒いところ、プラカード持ったどこかのおばさんがいたなとか、そういうことは何年も何年も忘れないんです。ところがそこがなんという国のなんというところだったかと聞かれるとわからない。荻:でも、旅の本質ってそういうもんじゃないですか。渥美:ま、自分でもそう思って慰めようとしているんだけど、たまに、旅の好きな人のエッセーなんか読んでみると、実に克明にどういう宿だった、そこで出されたブドウ酒がどういう名前であったとねェ、そんなことまで書いてあるとねェ、なんとおれはダメなんだろう、(笑)無知と怠惰で、そして、ほんとに目が小さい(笑)というだけじゃなくて、なんか、ものを見る能力が違うんじゃないか、ぜんぜん、感じ取るものが欠如してるんじゃないかとねェ。荻:なるほど。しかし、渥美さんねェ、その渥美さんの思いが寅さんにもにじみ出ているために、観客はうれしくなって、あの映画に殺到するわけでしょ。渥美:そうですかねェ。荻:あれは何作めでしたかねェ、池内さんと共演のときに、寅さんが旅に出て、夜中に目がふとさめて、天井見てると、遠くでカラコロと下駄の音がして、どこで目がさめたんだろうというところ、あそこすごく感激しましてねェ、シナリオ買ってみたんですが、そこに該当するところはないんだなァ。それはきっと、つくっていくうちに実感で出てきたセリフに違いないとね、あれなんかまさに寅さんの実感というより渥美さんの実感のようですね。渥美:そうかもしれませんねェ。『きょうも涙の日が落ちる』1
2018.09.20
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図書館で『きょうも涙の日が落ちる』という本を、手にしたのです。おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。【きょうも涙の日が落ちる】渥美清著、展望社、2003年刊<「BOOK」データベース>よりワタクシ、思い出せば7年前、奮闘努力もせず、そおっと消えさせていただきましたが、その後皆様にはいかがお過ごしでしょうかーよみがえる名エッセイ、絶妙対談。<読む前の大使寸評>おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。rakutenきょうも涙の日が落ちるエッセイの一つを、見てみましょう。p67~71<寅さんという男とボク> ウン、そうね。1本映画を撮ると、いろんなひとからファン・レターというのか、手紙をもらいますね。「まあ、私の話を聞いてください…」と、自分のことを書いてくる。ひと、それぞれが人生を持っているんだな。 わりとね、ウチで、ジッと座って仕事をしているひとからの手紙が多いね。昔風にいうと、座業というやつ、そう、ハンコ屋さんとか、洋服屋さん。精神が、セッタをはいて、半ソデのダボシャツなんか着てさ、そういうひとたちって、どこか寅さんに似ているんじゃない?発想が。昼まっから電気をつけて一日仕事をやってさ、フッと気づいて外を見るってえと、夕方になっちゃってたとか…精神が、こう、江戸川の堤を、ツーと走っているひとでしょうね。そういうひとから、手紙がくるんです。長い手紙で、20枚くらいね。 これは、ボクの解釈だけど、けっして、こう、部屋の中に熱帯樹なんかあって、サンサンと太陽があたっている、というウチには住んでいない人…成城学園や田園調布の住人じゃないやね。ボクなんか、思っていることをペラペラしゃべっちゃうほうだけど、どうなのかな、ボクに長い手紙を書いてくれるひとって、あまりしゃべらない無口なおじさんじゃないかなあ。 内容もね、今は、こうしているけれど、十いくつのとき炭鉱入って、朝から丸太ン棒でなぐられて苦労したとか、ね、苦労話が多いなあ。如何に自分は義侠心に富んでだ人間であるとか、メンメンと書いてくるワケ。ひとに金かして、大変な負債をしょって、おまけに女房はアイソつかして逃げた。で「いまは一人よ」なんていきがってるひと。利用されたひとですよね。ま、オロカなひと。でも寅ちゃんの次元から見ると「イイやつ」なんだな。ウン、そんなひとが多いみたい。 なぜウケたのか。そうね。やっぱりホッとするんじゃないかな。あれ観ると、ね、大なり小なり、思いあたるフシがあるんじゃない? ひとには言えないけれども、寅さんみてると「ウン、そうだ、こういうこと、オレにもあったなあ」みたいな、ね。 どうかな、寅さんって男、ボクに似てるかな。ウーン、ある、と思いますね。でも、あの通り全部じゃない。あの通りだと性格破たん者、生活破たん者だよね。だから、演るとき、ギリギリの線で演ってる。まあ、ボクは役者という商売がなかったら、具合のワルイ人物になっていたと思うな。そう、寅さんみたいな。その、ヘンな自信みたいなものはある。だから、ボクにとってはウマイなりわいがあったということですよね。 狂って演ってますからね。あれは、やはり、ワンカット、ワンカット狂った状態に自分をもっていって演ってる。こう、熱気が伝わってくるでしょ。どこか、ほんまもんのところがある。またそれを出すためには、狂わなきゃやれない。こう、年寄りがいろりばたに座って自分の来し方行く末を、ゆっくり語っているのとは違うんだ。 ね、映画観ててもわかるでしょ。寅がね「エ、何か言った?」「エ、またおれのこと何か言ってたな」なんてね、コンプレックスの入りまじった、それでいてオレは田舎者じゃない、「こっちは町っコよゥ」という、あの狂ったような言葉のやりとり。芝居だけというダンドリじゃ、できないんだな。(中略) 演出のスゴサ、ボクはやはり山田洋次という監督を観ちゃうんですね。山田洋次にウナらされて、ね、たくみに、こう人形を使ってる、というカンジだな。 シリーズですからね。むつかしいですよね。だから、どっかで、お客さんに対して優しさがないと、いけないんだよね。思いやりって言うのかね、ウン、期待に応えるというのかな。
2018.09.19
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図書館で『満州の誕生』という本を、手にしたのです。副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)【満州の誕生】久保尚之著、丸善、1996年刊<「BOOK」データベース>より19泊20日にもわたる“満鮮支”修学旅行を体験し、卒業後は就職の場を求めて大陸へと渡っていった商業学校の生徒たち。満鉄総裁になった旧友・中村是公の招きで満州を訪れた夏目漱石が、その目でとらえ、書き残したもの。アメリカの鉄道王が日本政府とかわした満鉄共同経営の約束を電報一本で反古にされた「ハリマン事件」の真相など、日本の敗戦とともに消滅した“満州”にまつわる歴史と人の生きざまを掘り起こす。<読む前の大使寸評>副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)amazon満州の誕生南満州鉄道のアジア号「第3章 ハリマン事件の裏側」でアメリカの陰謀を、見てみましょう。p108~112<隠さなければならない真実> 小村が画策した「覚書」の締結そして破棄は小細工にすぎない。資金調達のメドがついたから南満州鉄道を単独経営に切り替えた。しかし、これではルーズベルト大統領の提案がなければ、小村は、ハリマンとの共同経営を認めなければならないことになる。 これまでにかかれた「ハリマン事件」の歴史は、桂、小村や伊藤・井上の元老、金子の回想など日本サイドから見たものばかりである。不充分な資料で書かれた正史が堂々とまかりとおっている。 真実は闇から闇に葬り去られてきたといってよい。隠し通さなければならない真実があったからではないのか。 隠さなければならない真実とは何か? ルーズベルト大統領の意思ではなかったか。アメリカ大統領の意思が背後に働いたから、「桂・ハリマン覚書」は破棄できたのではないのか。 南満州鉄道の日米共同経営は最初から見果てぬ夢であったのである。ハリマンにとっても、たとえ日本がそれを望んだとしても。ではなぜ、ルーズベルト大統領は、小村に助けの手をさしのべたのか。それは中国であった。<ルーズベルトを震撼させた利権回収運動> 「私が恐れているのは、中国の民衆だ」 いや、中国という存在そのものがルーズベルトにとっては脅威だった。 「モルガンだろうがハリマンだろうが、どうせ財閥連中は金儲けのことしか頭にない。問題はアメリカの国益なのだ」 ルーズベルトは執務室の壁に貼られた世界地図に視線を移した。中央にアメリカ大陸が位置しているが、視線は極東の大国・中国に釘付けになる。大陸から弾き飛ばされたような日本列島など、小さな存在であった。日本はロシアを打ち負かしたが、これ以上増長させてはいけない。 「中国はどうだ。この国土、そしてわがアメリカの何倍もの人口。絶対に、敵にはしたくない」 ルーズベルトを悩ませていたのは、中国民衆による「反米機運」の異常なほどの盛り上がりであった。きっかけは、広東・漢口間を走る粤漢(えつかん)鉄道であった。 粤漢鉄道は1897年に建設が予定され、翌年、アメリカの合興公司との間で借款契約が成立した。アメリカが借款を申し出た背景は、長年いだいいてきた「大中国市場」への進出という夢であった。鉄道による利益享受というのは、ひとつの足がかりであった。最終的には市場としての中国、最大の商圏としての中国を確保することであった。(中略) 粤漢鉄道の再契約の話しが流れると中国国内に不安が広がった。中国に派遣されたアメリカ人技師の横暴な態度が、民衆の強い反感をかっていたのである。奴隷のように中国人労働者を扱い、強権を行使した用地買収は容赦なかった。 中国民衆はアメリカ大陸での鉄道建設をイメージしていた。大陸横断鉄道の建設で、もっとも過酷な労働を強いられたのは中国人の移民労働者であある。しかし、大陸横断鉄道が完成すると、中国人は切り捨てられてしまった。こういう情報が伝わるのは早い。 アメリカはかってに中国を将来のパートナーとして思い描いていたが、そこに生活する人々の顔はみえていなかった。中国の民衆に思いをはせたことはなかったのである。 粤漢鉄道は契約から5年以内に完成させることになっていたが、鉄道工事は始まらなかった。1904年の初めに、突然、ベルギー人が中国に派遣され、建設をはじめようとした。アメリカの合興公司が粤漢鉄道株の三分の二をベルギーのシンジケートに売却していたのである。「アメリカ以外の国とは共同経営しない」という契約がかってに反古にされていた。 湖北・湖南両省の最高行政長官である張之洞は、契約無視と激怒した。 「われわれは完全になめられている。アメリカ・ベルギー間でかってに権益の授受を決めるとは何事!」 日露戦争が始まった直後の1904年4月、張之洞は粤漢鉄道の契約そのものを破棄することを決めた。中国の民族資本家、商人、民衆はこの決定に沸いた。いままで虐げられてきた怒りが一気に噴出したのである。『満州の誕生』1:児玉・後藤の移民政策
2018.09.19
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図書館で『満州の誕生』という本を、手にしたのです。副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)【満州の誕生】久保尚之著、丸善、1996年刊<「BOOK」データベース>より19泊20日にもわたる“満鮮支”修学旅行を体験し、卒業後は就職の場を求めて大陸へと渡っていった商業学校の生徒たち。満鉄総裁になった旧友・中村是公の招きで満州を訪れた夏目漱石が、その目でとらえ、書き残したもの。アメリカの鉄道王が日本政府とかわした満鉄共同経営の約束を電報一本で反古にされた「ハリマン事件」の真相など、日本の敗戦とともに消滅した“満州”にまつわる歴史と人の生きざまを掘り起こす。<読む前の大使寸評>副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)amazon満州の誕生「第4章 満州誕生」で当時の移民計画を、見てみましょう。p152~156<児玉・後藤の移民政策> ポーツマス条約が締結され(1905年9月5日)満州に平和が戻ってきた後のある日、満州軍総参謀長・児玉源太郎は、参謀田中義一(のちの首相)をつれて、奉天から大連の関東州民政署を訪れた。 民政署長の部屋に入ると、大連の街を眺めながら20~30分、何かを考えていた。 「巻紙をくれ」 児玉はふりむくなり関屋貞三郎民政長官に巻紙と筆、すずりを求めた。筆をとると、巻紙にすらすらと大連の都市計画を書いて関屋に渡した。 市民生活に不可欠の水道、電気、警察、税金などが網羅してあるなかに、屎尿や墓地、火葬場のことがしるしてあった。 「ここに来る人は、将来、骨を埋めるつもりで来るのだから、墓地、火葬場はなるべく立派なものをつくるように」 そして児玉は、満鉄が経営する駅を中心とした各付属地に、日本の三府四三県の移民者を別々に入れようという構想を披露した。奉天は清朝発祥の地の古都だから京都、満鉄の最北駅、長春は青森と、たとえていえばこういうことを考えていたのだろう。児玉はそういう発想のできるユニークな人物であった。 いずれ軍に代わって満鉄が満州の中核機関になる。なかでも大連はその中心だ。満鉄が活躍でき、市民が過ごしやすい都市づくりを児玉は指示した。そして、ロシアの設計通りに大連の都市計画を行なうことも忘れなかった。児玉の命令一下、軍政下にあった大連では陸海軍が積極的に協力し、トラブルはなかったという。 児玉、後藤の「満州経営」の根幹は、鉄道の経営、炭鉱開発、そして移民政策である。牧畜諸工業の施設をつくり、移民をそれにあたらせる、という構想である。 「満州に、50万の移民と数百万の畜産を保有し、戦機にもし利があれば、進んで敵国を侵略する準備をし、もし不利であれば、がんとして動かず、和を持して以って機会をまつ」 敵国とは、いうまでもなくロシアであったが、ロシアの大蔵大臣ウイッテ(講和会議の全権大使)もかつて満州への60万人移民を考えていた。 しかし、児玉、後藤の移民政策には無理があった。<伊藤博文に批判された児玉源太郎> 「児玉参謀総長らは、満州に於ける日本の地位を根本的に誤解しているようだ」 伊藤博文は、1906年(明治39)5月22日、軍政の廃止と満州開放をテーマにした「満州問題に関する協議会」で児玉を批判した。 満州での日本の権利は、遼東半島の租借地(大連、旅順を含む関東州)と鉄道(鉄道の経営のための駅を含めた沿線・付属地)のほかは何もない。 「満州経営という言葉は、戦争中から我国人の口にしていたところで、今日では官吏はむろん、商人などもしきりに満州経営を説くけれど、満州は決してわが国の属地ではない。純然たる清国の領土である。属地でもない場所に、わが主権の行なわるる道理はない。満州行政の責任はよろしくこれを清国政府に負担せしめねばならない」 伊藤のいうとおりである。 しかし、ロシアの恐怖から解放されていない軍部と、アメリカ、イギリス、清国との関係で満州外交を行なう外務省とは根本的に考え方が違っていた。満州では、軍部が担う関東都督府、付属地の外交・裁判を行なう領事館、その上に、満州の経済の中核機関であるだけでなく付属地の行政までまかされた満鉄とが、三すくみの構造になっていた。 この三つの機関がそれぞれの権限を自らの利害とからませながら存在を主張していったのが満州である。 ところで明治の日本は、外国人居留地が日本にある限り、日本は独立国ではない、とその撤廃を求めて欧米と交渉してきた(関税自主権の回復と並行して)。民族の屈辱というわけである。外国人居留地が日本からなくなったのは、1899年(明治32)である。ようやく欧米に形ばかりは追いついたが、日露戦の勝利によって東北アジアに、自ら否定した付属地という名の居留地をつくってしまった。ウン 軍部と領事館と満鉄という三すくみの構造ってか・・・言い得て妙ではないか♪どちらも存在を主張するし、どちらも責任をとらなかったなあ。
2018.09.19
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生岩井志麻子さんとの「バカヤローvsアホ」談義を、見てみましょう。p168~171<文壇の小林幸子?>浅田:例えば東京の下町言葉で、なにかというとすぐ「バカヤロー」というんですけど、あの「バカヤロー」というのは接頭語、接尾語なの、東京では。 例えばここで岩井さんが僕の幼なじみだとすると、「なにやってんだよ、バカヤロー」「これ食え、バカヤロー」って(笑)。岩井:たけしさんなんか、そうですね。浅田:たけしはかなり原東京人だ。でも、関西では「バカヤロー」というのはとんでもないんだってね。岩井:西では「アホ」ですね。バカというとほんとにののしり言葉で、アホは親しみなんですよ。浅田:東京ではアホで喧嘩になるな。バカヤローは全然喧嘩にならない。バカヤロー文化圏とアホ文化圏だな。あと、東京人にはいってはいけない禁句があって、「百姓」がそうなんだね。岩井:岡山では「ああ、あたし百姓だから」「うち百姓せにゃいけんけぇ」とか、それこそ東京のバカヤローぐらいによく使う。浅田:NHKが百姓を放送禁止用語にしたのは、都会人の奢りだね。岩井:そっちのほうが頭に来ますよ。百姓ってのは恥ずかしいのかよって。浅田:だいたい東京ってのは元来ものすごくローカルなの。例えば、東京の子は車のナンバープレートにすごくこだわる。品川ナンバーとか練馬ナンバーじゃないと嫌なんだね。それが地上げにかかったりとかで近郊に引っ越して、川崎ナンバーなんかがついちゃうと、恥ずかしくて東京に乗ってこれない。 僕もずっと品川ナンバーだったんですけど、大人になって多摩ナンバーになってしまい、そこまではまだ自分の心の中で許せた。それが5、6年前から八王子ナンバーになって、で、八王子ナンバーは銀座には乗ってきちゃいけないって自分で決めてるわけ。だから車に乗ってきたときには、必ずひそかに西銀座の駐車場の隅っこに入れて、そこから歩いていく(笑)。岩井:それって、見栄ですよね。東京の人の見栄ってなんか痛々しい感じがするんですけど。この間会った気取った東京の女が、私は三十何年、港区から出たことがないのっていうから、こっちも三十五年岡山から出たことないよって言い返したんですけど、ちっとも有効でない言い返しでした(笑)。浅田:見栄が東京人のキーワードなんだ。うちでは子供の頃から勉強しろとはただのいっぺんもいわれたことはない。教わったのは、なりはきちんとしろ、まずいものは食うなということだけで、それをやると怒られる。まずいものは毒だって教わったからね。一口食べてまずいと思ったら、二口目は食うな。まずいものを我慢して食うのは江戸っ子じゃないって。岩井:東京の方はみんな貴族のようですね。浅田:ただの見栄っ張りなんだよ。うちの死んだじいさんなんか、朝から鏡に向かって、ネクタイ締めて、麻の背広着て、ステッキ持って、パナマ被ってめかしこんでるんだね。で、どこへ行くのかと思うと、タバコ買いに行くんだよ(笑)。普段着で外を歩かないわけ。岩井:こういっちゃなんですけど、あたしらのばあちゃんらは乳ほうり出して外歩くのふつうでした(笑)。岡山には、中間の服というのがないんですよ。スーツかすててこ。浅田:原東京語でいう「見たっくれが悪い」というのが、一番最初の基準で、しょっちゅう使われる言葉なんだ。まあ、窮屈なとこに生まれ育ったもんだよ。<ぼっけえ、ええわあ>浅田:『ぼっけえ、きょうてえ』を読ませていただきましたが、立派な小説ですね。久々いい小説を読ませていただいたという実感があります。岩井:それこそ、田舎もんであることを武器にするしかないので。浅田:そんなことは関係なくて小説としていい姿をしているんですよ。それにこの小説は岡山弁で書いてないとうそだもんな。これはよく議論になるんだけど、僕も『壬生義士伝』を書くときに、最初は標準語で書こうと思ったんだけど、標準語で書いたらうそになるだろうって思ったんですよ。だって彼らが標準語でしゃべっているわけはないんだから。 僕は基本的には舞台になる地方の方言を使うようにしているんだけど、その現地に行ってみて、まず一番簡単な方言辞典みたいなのを買ってくる。それを読んで、平文で書いたものを方言で書き換えてみて、そこの出身の人に校閲してもらう。岩井:『鉄道員』のときも?浅田:そう。ただあのとき困ったのは、北海道弁というのは一様じゃなくて、ちょっと地域が違うと言葉が全然違う。(中略)浅田:そのシチュエーションに割りとあった方言というのがあるね。お笑いっていうと、関西弁がのりがいいじゃないですか。 昔、そのときになると急に関西弁になる女がいたな。「めちゃ、ええわあ」って(笑)。あれは結構興奮するものがありますね。これが東京の言葉だとただいやらしいだけで、情緒も何もない。「めちゃ、ええわあ」はよかった。思わずこっちも、「どや?」(笑)。岩井:岡山だと「ぼっけえ、ええわあ」ですね。浅田:それもいい。いわれてみたいな(笑)。岩井:岡山って、男子の一人称は「わし」もしくは「わい」なんですよ。最近テレビとかの影響でおれっていいだうのが、あたし許せんのですよ。あたしらの子供の頃、おれとかいうと、「なに気取っとんだ、おめえは」っていわれましたもの。いまでもうちの息子は、「かあちゃん、わしじゃ」っていいますよ。私、東京に来て、いろいろと素敵な男性に巡り会ってるとは思ってるんですけど、一人として「わし」といってくれる人がいないので寂しいんですよ。浅田:育った土地でしか伝わらない微妙なニュアンスってあるよね。岡山弁が出てくる小説といえば『でーれーガールズ』を思いおこすのです。岩井さんの百姓コンプレックスもさることながら、原田さんの岡山弁コンプレックスもなかなかのものです。【でーれーガールズ】原田マハ著、祥伝社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1980年、岡山。佐々岡鮎子は東京から引っ越してきたばかり。無理に「でーれー(すごい)」と方言を連発して同じクラスの武美に馬鹿にされていた。ところが、恋人との恋愛を自ら描いた漫画を偶然、武美に読まれたことから、二人は急速に仲良しに。漫画に夢中になる武美に鮎子はどうしても言えないことがあって…。大切な友だちに会いたくなる、感涙の青春小説。<読む前の大使寸評>「でーれー」とは、名古屋弁で言うところの「どえりゃー」にあたる岡山弁であるわけで・・・この本のタイトルに惹かれて借りたわけでおま♪rakutenでーれーガールズ『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2018.09.18
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図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生『蒼穹の昴』に関する張競さんとの対談を、見てみましょう。(張競:1953年、上海生まれ、明治大学助教授)p62~66<梁文秀と李春雲のモデルは>張:吉川英治の『三国志』、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』をはじめとして、中国の歴史に材をとった日本の小説をいろいろと読んできましたが、この『蒼穹の昴』は私のような中国人にとっても違和感がなく楽しめる上に、他の作家が書いたものとはまったく違った面白さがありました。浅田:ありがとうございます。張:戊戌(ぼじゅつ)の政変という歴史的な大事件を扱うのに、まったく別のところから物語が始まる。社会の頂点で起きた事件を上からたどるのではなくて、下から段々とたどっていく。こういう小説は私が読んだ限りでは、中国にも日本にも今までになかったものです。主人公の二人は同じ農村の出身ですが、梁文秀は士大夫階級で科挙の試験を経て上の世界に上り詰めていく。一方の李春雲(春児)は農村でも一番貧困に苦しんでいる生活から、宦官になって上の社会、宮廷に入っていく。まずうかがいますが、この二人にモデルはいるんですか。浅田:梁文秀についてはモデルはいません。梁啓超だと思っている人がいるかもしれませんが、そうではないんです。張:実はお会いする前に探してみたんです。戊戌六君子といわれた人たちがいて、その中に楊深秀という人がいます。それで「秀」はいるわけですが、「文」はいない。梁啓超も六君子には入っていないので、違うかなとは思っていましたが。浅田:李春雲は小徳張をちょっとイメージしています。張:なるほど、小徳張ですか。浅田:時代的にも小徳張に当っていますよね。彼は西太后の時代最後の大総管になるわけですから。ただ、僕が調べたかぎりでははあまり」いい人じゃなかったみたいなので、ちょっと美化してということで(笑)。張:李蓮英(西太后治世時の大総管)は中国でもものすごく評判の悪い宦官ですけれど、小徳張はどちらでもないという感じです。浅田:そうかもしれませんね。張:李春雲が宮廷の真ん中で事件を眺め、梁文秀が宮廷を外から支える官吏として眺める。さらに後半になると、もうひとつ外側の外国人ジャーナリストとしてトーマス・バートンと岡圭之介の視線も加わってきます。これがまたうまいなと思いました。物語を書く上で非常に効果的な構造ですし、読者にとっては意外な展開が連続する仕掛けになっています。こういう設定はやはり意図したものなんですか。浅田:意図したというより僕の小説の書き方が、いつもそういう感じなんじゃないでしょうか。大所高所からものを見るような小説があまり好きではなくて、やっぱり下から見上げていく形を大体とっていますから。新聞記者の目から見たりするのも、多角的にしないときちんとは書けないんじゃないかと思ったからで。この場合、全員の視線、スポットライトが当っているのは西太后ですが。張:主な時代背景は1886年から十数年という、歴史小説としては短い時間ですが、カスチリョーネ(イエズス会宣教師、宮廷画家)を加えることで、百年以上前の時代と行き来することになり、またヨーロッパから清王朝を眺めるという世界的な視線を持ち込んでいますね。浅田:カスチリョーネはもともと宣教師として中国に入ってきあすが、これは列強の侵略のひとつのパターンですよね。日本に来たときもそうですが、どこへ行くにもまず宣教師が来る。彼らの目的はもちろん布教なんだけれども、実はその背後にはローマ教皇庁とつながったヨーロッパの王権があって、植民地政策がある。しかし彼は芸術家だから、芸術家として中国で生きることをまっとうしようとする。そういう人生を僕は書いたつもりです。そこのところは自分でも気に入っていますし、彼のエピソードによって、小説全体をロマンティックなイメージのものにすることができたと思っています。張:カスチリョーネの話が加わったことによって、西太后時代の外国人記者たちの視点もより生きてくる感じがします。浅田:たしかにそのとおりです。張:歴史小説というのは、中国では実は非常に弱い部分なんですね。短篇は魯迅の時代からありますが、長篇は最近ようやく出てきたというところで、それも日本の歴史小説とはだいぶ感じが違います。新しい中国、今の中国が成立してから書かれたものは偏りがあって、例えば李自成(明末の農民反乱指導者)の長篇がありますが、彼と戦った明や清側から描いたものはありません。書き方にしても上から1本線でダーッと、というのがほとんどです。 その点、『蒼穹の昴』は非常に手が込んでいます。七つの章がそれぞれユニットとしてひとつの物語になっていて、さらにそのなかに小さな物語がはめ込まれている。離れ離れになっている物語がそのつど立体的につながっていって読者を退屈させず、しかも全体がひとつの構造体として成立している。清末という複雑な時代を描くのには、こういう複式物語でなければ語り尽せない。非常にうまくすべてが包み込まれています。浅田:ありがとうございます。実に鋭い読み方をしていただいて、なんだか自分のおなかの中を見られたような感じです(笑)。この本も浅田次郎の世界R16に収めておくものとします。
2018.09.18
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図書館で『大阪の笑い』という本を、手にしたのです。NHKの笑いというか、東京の笑いがしっくりと来ない大使は・・・「大阪の笑い」を究明したいのでおます。【大阪の笑い】井上宏著、関西大学出版部、2000年刊<出版社>より大阪といえば「笑い」が文化。そんな大阪とはどんな都市なのでしょう。その「笑い」を生み出すエネルギーの秘密を明かすのが本書。全国に広がる大阪の笑い正体をズバリ! 解明します。ぜひ読んでみて感想をお聞かせください。<読む前の大使寸評>NHKの笑いというか、東京の笑いがしっくりと来ない大使は・・・「大阪の笑い」を究明したいのでおます。rakuten大阪の笑い第1章「大阪の文化」を見てみましょう。p35~39<楽天性> 先のNHK調査で、「暮らしむきは多少ゆとりがあるほうだ」と思うか思わないかの問いに対して、大阪人は「あるほうだ」と69.3%の人が答えている。これも全国一位を示す数字となっている。 現実には、しんどい生活を強いられている人も多いと思われるが、私はこの「ゆとりがあるほうだ」と考えているという事実を、大阪人の「楽天性」を示すものとして受けとめたい。 「今の生活に満足しているか」という問いでは、大阪は76.7%で全国7位、東京65.1%で全国46位、京都72.8%で全国20位となっており、大阪・東京・京都の三都比較で大阪人の満足度が高いのである。 この満足度も私は大阪人の楽天性を表していると思う。現実の生活には厳しいものがあるのだけれども、そんなに厳しいものとして受けとめない、何とかなる式の楽天的性格が表れているものと私は解釈する。この場合の楽天性は、精神的ゆとり感覚と言ってもよい。 深刻な事態にぶつかっても、どこかでその深刻さをはずそうとする。状況を客観的に見て、むきにならない。時には自分をアホに仕立ててしまう。 大阪の商人の言葉に「損して得とれ」という言葉があるが、これも、状況を客観的に見る精神的ゆとりがないと出てこない言葉である。 大商人でもない限り、普通の商人の生活というのは、そんなに安定しているというものではない。公務員や大会社のサラリーマンとは違って、うしろに頼るべきものがない。時には従業員の給料も払えず、倒産する時だってあるのである。しかしまた景気のよい時は商人冥利を手にして楽をする。 楽天性というのは、そうした商人の生活を背景に生れでたものと思われる。じたばたしてもはじまらない。あかん時はどうせなるようにしかならんではないか、くよくよしてもよくなるわけではないし…と、人生と生活に対するどこか醒めた目があるわけである。<庶民性> 今ひとつ、大阪の特徴として「庶民性」をあげたいと思う。この庶民性お、経験的にはよく指摘されるところであるが、先のNHK調査によって、そのことを確かめておこう。 東京、大阪、京都の人に、自分の住む都市について一番好きだと思っている点を列記したものの中からあげてほしいということであげられている割合が表に示されている。 この表から大阪を見てみると、「人情」をあげている人が21.1%で最も多く、東京、京都と比較してみると、抜きんでて高い比率を示していることがわかる。「人情」の点で東京と京都がよく似た割合を示しており、大都市でありながら、大阪が大変高いのが目立つのである。 大阪の地で、“涙と笑いの喜劇”の松竹新喜劇が生まれて育ったということも、一理あることがうなづけようというものである。 大阪の人は、他人に気軽に声をかける。電車のなかで、病院の待合室で…人が寄り集まっていると、まったく見ず知らずの間柄であるにもかかわらず、人々は気安く声をかけ合って時間を過ごす。時には、おせっかいにいろいろと情報を教えてくれたりする人もある。(中略) 私自身、時々体験することであるが、この気安さはどこからくるのであろうかと思う。落語で言えば、一種の“長屋共同体”的雰囲気と一脈通じるところがあると、思わずにはおれない。 大阪のテレビ局が得意とする私生活公開型の視聴者参加番組も明け広げな気安さとホロッとさせる人情味を持ち味としている。日常生活の恥も失敗も飾り気なく語りつくされるところが人々の共感をよんでいる。 『大阪の笑い』1
2018.09.18
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図書館で『大阪の笑い』という本を、手にしたのです。NHKの笑いというか、東京の笑いがしっくりと来ない大使は・・・「大阪の笑い」を究明したいのでおます。【大阪の笑い】井上宏著、関西大学出版部、2000年刊<出版社>より大阪といえば「笑い」が文化。そんな大阪とはどんな都市なのでしょう。その「笑い」を生み出すエネルギーの秘密を明かすのが本書。全国に広がる大阪の笑い正体をズバリ! 解明します。ぜひ読んでみて感想をお聞かせください。<読む前の大使寸評>NHKの笑いというか、東京の笑いがしっくりと来ない大使は・・・「大阪の笑い」を究明したいのでおます。rakuten大阪の笑いNHKの朝ドラ「わろてんか」で、知名度が上がった吉本興業であるが…吉本新喜劇の魅力について、見てみましょう。p130~133<ローカル文化としての吉本新喜劇> 吉本新喜劇は、うめだ花月、なんば花月、京都花月で毎席きまって演じられており、またテレビでも、毎週何本かが放映され、安定した視聴率もとり、大阪の大衆芸能の世界では、広く周知されていると同時に人気のある大衆演劇なのである。 また、吉本新喜劇から名をなしたタレントの数も非常に多い。そうした広い大衆的人気をもつ演芸でありながら、吉本新喜劇については、これまでほとんど論じられてこなかった。 吉本新喜劇の木村進や間寛平などが大阪で人気タレントとして一躍有名になった時に、大阪の人が東京におもむいて、彼らの名前を出した時、東京の人が一体誰のことを言っているのかキョトンとしてしまったという話がある。 それもそのはず、吉本新喜劇は大阪でこそテレビ中継は当たり前のこととなっているのに、東京へは全然ネットされていなかったのである。大阪のテレビ局や当の吉本興業は、東京へのネットを果たしたいと思い続けてきたが、ネットは今でもかなわないのである。 1980(昭和55)年の漫才ブームは、大阪の漫才を全国に広めるのに大いに効果があり、大阪の日常言葉が大手を振るって全国を席巻した。大阪で生まれ育った芸能が、東京に進出し、全国的に“市民権”を得るようになるのはそんなに簡単なことではない。 今日では全国的ネットワークに乗る松竹新喜劇とて、東京の局がネット受けするのをちゅうちょした時代があったのである。吉本新喜劇は、そのテレビ放送の開始が1959(昭和34)年のことであるから、それから数えて20年以上経過するにもかかわらず、東京ネットはかなわないのである。何故なのであろうか。 吉本新喜劇は、特殊的にあまりに大阪的過ぎるのであろうか。ローカル文化以上のものを持ち得ないのであろうか。一口で言えば、あまりにドロクサク、ヒツコク、他愛がなく、ドタバタであり過ぎるということであろうか。 ストーリーの陳腐さ、作為的な大げさなギャグ、大阪的日常言葉のエゲツなさ、柄の悪さが拒否反応を起こすのであろうか。しかし、一見そのように見えるが、その中に息づくバイタリティに富んだドロクササ、エエカッコをしない日常生活の表現が吉本新喜劇の魅力ともなっているのである。 その魅力の構造を探ってみようと思う。<吉本新喜劇のはじまり> 戦後の大衆娯楽は先ず映画から復興しだし、映画人口は毎年上昇を続けていったが、1958(昭和33)年をピークにして、その後減少しだすのである。演芸の復興には、1947(昭和22)年の「」の開場、1949(昭和24)年のNHKラジオによる「上方演芸会」の開始が与って大いに力があったとされているが、1951(昭和26)年の民放ラジオの誕生、1954(昭和29)年のNHK大阪テレビ局の開局を見て、演芸への需要は一段と増していった。 角座も花月劇場も映画を上映していたが、角座が1958(昭和33)年5月から、花月劇場が1959(昭和34)年3月1日から演芸場に転向する。 戦前の吉本が演芸界において巨大な地歩を築いていたことを思えば、うめだ花月の1959(昭和34)年開場は、いかにも遅いという感じをもつが、そのスタートが、テレビ時代の本格的開幕と期を一にしているところに興味をひかれる。(中略) 吉本は、1959(昭和34)年3月1日にうめだ花月が開場すると、「吉本バラエティ」という名の喜劇を漫才、落語、奇術などとともに用意した。「吉本バラエティ」はいち早く毎日放送と専属契約を結び、毎週生放送で放送されたのである。この「吉本バラエティ」が、「吉本新喜劇」と呼ばれるようになるのは、1963(昭和38)年のなんば花月の開場からという。
2018.09.17
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図書館に予約していた『夜想曲集』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。丸谷才一さんが『星のあひびき』というエッセイのなかで、この短篇集を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので超速ゲットできたようでおます♪【夜想曲集】カズオ・イシグロ著、早川書房、2009年刊<「BOOK」データベース>よりベネチアのサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストとアメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅を描いた「老歌手」。芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと共に過ごした数夜の顛末をユーモラスに回想する「夜想曲」を含む、書き下ろしの連作五篇を収録。人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。【目次】老歌手/降っても晴れても/モールバンヒルズ/夜想曲/チェリスト<読む前の大使寸評>丸谷才一さんが『星のあひびき』というエッセイのなかで、この短篇集を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので超速ゲットできたようでおます♪<図書館予約:(9/09予約、9/13受取り)>rakuten夜想曲集『夜想曲』の出だしを、見てみましょう。p143~145<夜想曲> 二日前まで、おれはリンディ・ガードナーのお隣さんだった…なんて言うと、おい、ビバリーヒルズかよ、と思うかもしれない。映画プロデューサーか? 俳優か?…まあ、ミュージシャンではある。 ただ、名のある歌手の伴奏をしたことも1、2度あるが、世間的にはメジャーと呼ばれる存在ではない。それでも、長年の友人、マネージャーのブラッドリー・スティーブンソンに言わせると、メジャーになる素質は十分なんだそうだ。「それも、メジャーなスタジオミュージシャンってんじゃないぞ。大スターだ。サックス奏者が花形になれる時代じゃない? 誰が言った。マーカス・ライトフットにシルビオ・タレンティーニに…」おいおい、待てよ。みんなジャズ奏者じゃないか。 「おい、おまえこそジャズ奏者じゃなくて何なんだ」ブラッドリーはそう言う。だが…ジャズ奏者? そんなのはおれが夢のまた夢の中で見ている話だ。現実の世界では…もちろん、いまみたいに顔を包帯でぐるぐる巻きにされてないときは、だが…ちょい役のテナー吹きにすぎない。スタジオではけっこう重宝がられる。 メンバーが抜けたバンドからも声がかかる。ポップスいけるか? もちろん。R&Bは? いいともさ。車のコマーシャルでもトーク番組の出演者登場テーマでも、何でもござれ。だが、ジャズ奏者? そんなのは、おれが“個室”にいるときに限られる。 おれだって、ほんとうは拾い居間で吹きたい。だが、安普請のアパートでそんなことをしたら、住人全員から袋叩きにされる。だから、しかたなく一番小さな部屋を練習室に改造した。ありていに言えばクロゼットだ。そこに事務用の椅子を持ち込んで、防音にあれこれ工夫をこらした。ウレタンフォームに、卵パックに、ブラッドリーの事務所からもらってきた古いクッション封筒の束。これをふんだんに使った。 女房のヘレンは(まだ一緒に住んでいたとき)おれがサックスを手に“個室”に籠もるたび笑ったものだ。トイレに入るみたい、と言った。確かにそんな気分になることもある。つまりだ、風通しの悪い小部屋にすわって、個人的な用を足すことに専念するのはおなじだろ? 誰も近づきたがらないところも同じだ。 もう言うまでもなかろう。そう、あのリンディ・ガードナーがそんなアパートに住んでいるわけがない。おれがうっかり“個室”の外でサックスを吹くたび、ドアをがんがん叩きにくる隣人は多いが、リンディはその一人ではない。お隣さんだったというのは全然違う話で、これからそれをお聞かせしようというわけだ。 おれはいま高級ホテルの一室にいる。二日前まで、おれと同じく顔を包帯でぐるぐる巻きにしたリンディが隣の部屋にいた。だが、この近くに大きな自宅を持っているそうで、二日前、そこにヘルパーを雇い、帰っていった。純粋に医学的見地からすれば、たぶんもっと早く帰れたはずだが、それはそれ、いろいろな事情がある。ネタばらしになるが、丸谷才一さんの書評より引用します。 隣室にゐるのが同じ医師からやはり美容整形を受けてゐる、同じやうに顔を包帯でぐるぐる巻きにしてゐる一流の映画女優で、暇つぶしの下手なチェスの相手をするうちに、彼女の深夜の、ホテルのなかで散歩の道づれとなって、奇妙な冒険に巻き込まれる。 芸能界の滑稽さを、じつにたちの悪い角度から上手にとらへた佳作。『夜想曲集』1:チェリスト『星のあひびき』3:カズオ・イシグロの短篇小説p125~127
2018.09.17
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図書館に予約していた『夜想曲集』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。丸谷才一さんが『星のあひびき』というエッセイのなかで、この短篇集を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので超速ゲットできたようでおます♪【夜想曲集】カズオ・イシグロ著、早川書房、2009年刊<「BOOK」データベース>よりベネチアのサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストとアメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅を描いた「老歌手」。芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと共に過ごした数夜の顛末をユーモラスに回想する「夜想曲」を含む、書き下ろしの連作五篇を収録。人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。【目次】老歌手/降っても晴れても/モールバンヒルズ/夜想曲/チェリスト<読む前の大使寸評>丸谷才一さんが『星のあひびき』というエッセイのなかで、この短篇集を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので超速ゲットできたようでおます♪<図書館予約:(9/09予約、9/13受取り)>rakuten夜想曲集『チェリスト』の出だしを、見てみましょう。p211~214<チェリスト> 《ゴッドファーザー》を演奏するのは、昼食後これが三回目になる。私は広場にすわっている観光客を見渡しながら、二回目の演奏のときにいた顔がどれほど混じっているかを数えていた。好きな曲なら何度聞かされても気にしないという人は多いが、かといってあまり頻繁にやるわけにもいかない。 度が過ぎると、レパートリーの少なさを疑われかねない。ただ、1年のいまどきは、同じ曲を何回か繰り返しても比較的安全な時期ではある。秋風の走りがときおり肌を刺し、加えてコーヒーの値段がばか高いとくれば、客はそれなりに回転する。ともあれ、私はそんな理由で広場の客の顔を見渡していて、そのなかにティボールを見つけた。 ティボールは腕を振っていた。最初は私たちに振っているのかと思ったが、すぐに、ウェイターを呼んでいるのだとわかった。以前より少し老け、少し太ってもいたが、ティボールであることは見間違えようがなかった。 ちょうどサキソホンから手を離せない箇所に差しかかっていて、私は隣にすわるアコーディオンのフェビアンの脇腹を肘でつつき、ティボールのいる方向を目で指し示した。指し示しながら、ふとバンドを見回して、はっとした。ティボールと出会ったあの夏からメンバーが様変わりしている。いまに残っているのはフェビアンと私だけではないか。 確かにもう七年も経ってはいる。だが、気づけばやはりショックだ。こうやって毎日一緒に演奏していると、バンドはいわば家族になる。メンバーは兄弟になる。ときおり一人二人と離れていっても、なんとなくつながりは切れていないような気でいる。(中略) 初めてティボールを見たとき、私たちは休憩中で、カフェ側がいつも用意してくれているバンド専用のテーブルで一息ついていた。ティボールは近くにすわり、チェロケースが直射日光を受けないよう、絶えず立ち上がっては置き場所を変えていた。 「見ろ」とジャンカルロが言った。「音楽学校のロシア人学生ってところかな。貧乏ですることがない。で、暇つぶしにどうする? 大広場で乏しい金の無駄遣いだ」 「間違いなくばかだな」とエルネストが言った。「が、ロマンチストのばかだ。午後いっぱい広場にいられたら飢え死にしても幸せだってよ」 ティボールは砂色の髪の痩せた若者で、時代遅れの眼鏡をしていた。フレームが大きくて、パンダのように見える。毎日毎日、広場に現れた。どういうきっかけだったかは忘れたが、やがて私たちの休憩時に一緒のテーブルで話をするようになった。たまに夕方の演奏時にカフェに来るようなときは、終了後に私たちが招いて、ワインとクロスティーニをおごったりもした。 ティボールはロシア人でなく、ハンガリー人とわかった。『星のあひびき』3:カズオ・イシグロの短篇小説p125~127
2018.09.17
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「涙と笑い」でしょうか♪<市立図書館>・きょうも涙の日が落ちる・歴史・小説・人生・スイート・ホーム・夜想曲集<大学図書館>・大阪の笑い・満州の誕生図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【きょうも涙の日が落ちる】渥美清著、展望社、2003年刊<「BOOK」データベース>よりワタクシ、思い出せば7年前、奮闘努力もせず、そおっと消えさせていただきましたが、その後皆様にはいかがお過ごしでしょうかーよみがえる名エッセイ、絶妙対談。<読む前の大使寸評>おお 渥美清さんの対談集とエッセイが載っている本ではないか♪・・・語り専門のような人だから、エッセイも一人語りのようになっているがな。rakutenきょうも涙の日が落ちる【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生【スイート・ホーム】原田マハ著、ポプラ社、2018年刊<「BOOK」データベース>より幸せのレシピ。隠し味は、誰かを大切に想う気持ちー。うつくしい高台の街にある小さな洋菓子店で繰り広げられる、愛に満ちた家族の物語。さりげない日常の中に潜む幸せを掬い上げた、心温まる連作短篇集。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、山手のお嬢さんが洋菓子店を舞台に家族を語るという、(タイトルまんまの)短篇集で・・・大使にはミスマッチの本でおました。<図書館予約:(4/16予約、9/16受取)>rakutenスイート・ホーム【夜想曲集】カズオ・イシグロ著、早川書房、2009年刊<「BOOK」データベース>よりベネチアのサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストとアメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅を描いた「老歌手」。芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと共に過ごした数夜の顛末をユーモラスに回想する「夜想曲」を含む、書き下ろしの連作五篇を収録。人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。【目次】老歌手/降っても晴れても/モールバンヒルズ/夜想曲/チェリスト<読む前の大使寸評>丸谷才一さんが『星のあひびき』というエッセイのなかで、この短篇集を絶賛していたので、さっそく図書館に予約したところ、やや古い本だったので超速ゲットできたようでおます♪<図書館予約:(9/09予約、9/13受取り)>rakuten夜想曲集【大阪の笑い】井上宏著、関西大学出版部、2000年刊<出版社>より大阪といえば「笑い」が文化。そんな大阪とはどんな都市なのでしょう。その「笑い」を生み出すエネルギーの秘密を明かすのが本書。全国に広がる大阪の笑い正体をズバリ! 解明します。ぜひ読んでみて感想をお聞かせください。<読む前の大使寸評>NHKの笑いというか、東京の笑いがしっくりと来ない大使は・・・「大阪の笑い」を究明したいのでおます。rakuten大阪の笑い【満州の誕生】久保尚之著、丸善、1996年刊<「BOOK」データベース>より19泊20日にもわたる“満鮮支”修学旅行を体験し、卒業後は就職の場を求めて大陸へと渡っていった商業学校の生徒たち。満鉄総裁になった旧友・中村是公の招きで満州を訪れた夏目漱石が、その目でとらえ、書き残したもの。アメリカの鉄道王が日本政府とかわした満鉄共同経営の約束を電報一本で反古にされた「ハリマン事件」の真相など、日本の敗戦とともに消滅した“満州”にまつわる歴史と人の生きざまを掘り起こす。<読む前の大使寸評>副題に「日米摩擦のはじまり」とあるように・・・日本だけが悪者だったわけでもないようです(当然だけど)amazon満州の誕生************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き329
2018.09.16
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図書館で『ゴヤ(岩波世界の美術)』という本を、手にしたのです。ゴヤといえば肖像画で傑出しているが、いま読んでいる村上春樹『騎士団長殺し第一部・第二部』でも、肖像画は重要なテーマになっています。・・・なんかチェーン・リーディングというか尻取り読書になってるがな。【ゴヤ(岩波世界の美術)】サラ・シモンズ著、岩波書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書では、その作品と残された文献資料から、この芸術家の人間性について何が導きだされうるかが探求されるであろう。ここではとくに、ゴヤの芸術を彼の生きた時代のスペインという文脈のなかに位置づけ、政治的、経済的、社会的問題がどの程度までゴヤの物の見方を浸食したのか、あるいは先鋭にしたのかを、考察する。<読む前の大使寸評>ゴヤといえば肖像画で傑出しているが、いま読んでいる村上春樹『騎士団長殺し第一部・第二部』でも、肖像画は重要なテーマになっています。・・・なんかチェーン・リーディングというか尻取り読書になってるがな。rakutenゴヤ(岩波世界の美術)巨人「戦争の惨禍」の続きを、見てみましょう。p252~255<7 戦争の惨禍> この時期にイギリス人やスペイン人によって圧倒的な巨像として隠喩的に表現されていたのは、あれほど多くの国の征服者であり、制止しえない勢力と見なされていたナポレオンという巨人的存在であった。 ウェリントンは同盟国と協力して、ついに1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破ることになるが、スペインでの戦争当時ヨーロッパが抱いていたのは、いまだに超人的権力の持ち主たるナポレオンという漠然とした認識であった。 1811年にイタリアで流布した版画に描かれたナポレオンは、世界の七不思議の1つであるロードス島の巨像の姿で立ち、イギリスしか同盟国を持たないスペイン軍を威圧している。そして数年後にはゴヤも、同様の作品を描くのである。 スペイン人の同胞のなかに、戦争のもっとも過酷な側面に注がれたゴヤの視線に並びうる目を持つ画家がいないわけではなかった。そうした画家たちの様式的関心はゴヤのそれとは大きく異なっていたが、それにもかかわらず彼らもまた民衆の苦しみの図像を練りなおして、そこに残酷なリアリズムの感覚を導入することになる。 ダヴィッドのアトリエで修業した新古典主義の画家、ホセ・アパリシオ・イングラーダが1818年に描いた、1811年のマドリードにおける飢饉の情景は、ゴヤにも迫るほどの人間性を備えている。 とはいえ、ウェリントンの急信、ロバート・サウジーやネイピアが記した歴史、バイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』の数節とともに、もっとも鮮烈で印象的な描写として人々の記憶に留められているのは、ゴヤの版画なのである。 ゴヤが版画で残した比較的小型の画像は、近代的な戦争の図像体系を生みだしたが、その芸術的功績に並びうるのは当時の偉大な文学だけである。それに加えて注目すべきは、ゴヤとともに新しいタイプの人間、すなわち通常は記録されずに放置されているものを美術によって記録しようと企てる証人が出現したことであった。 対仏独立戦争中、愛国的なスペイン人たちがカディスで議会を召集した。そこでは近代国家としてのスペインが分析され、激しい議論が戦わされた。カディス議会の議員の大多数は自由主義改革を強く望んでおり、1812年には新しい自由主義憲法が草案された。 その同じ年ゴヤの妻が他界し、彼は自分の財産を息子ハビエールとのあいだで分配した。その結果、ハビエールは父親のコレクション中の絵画すべてを獲得したが、その大部分の評価額は低額に留まった。おそらくそれは絵画が高値で売れる見込みのない戦時中という時勢柄であっただろうし、また一部にはフランス軍が徴集していた重税を免れるためでもあっただろう。『ゴヤ(岩波世界の美術)』1
2018.09.16
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図書館で『ゴヤ(岩波世界の美術)』という本を、手にしたのです。ゴヤといえば肖像画で傑出しているが、いま読んでいる村上春樹『騎士団長殺し第一部・第二部』でも、肖像画は重要なテーマになっています。・・・なんかチェーン・リーディングというか尻取り読書になってるがな。【ゴヤ(岩波世界の美術)】サラ・シモンズ著、岩波書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書では、その作品と残された文献資料から、この芸術家の人間性について何が導きだされうるかが探求されるであろう。ここではとくに、ゴヤの芸術を彼の生きた時代のスペインという文脈のなかに位置づけ、政治的、経済的、社会的問題がどの程度までゴヤの物の見方を浸食したのか、あるいは先鋭にしたのかを、考察する。<読む前の大使寸評>ゴヤといえば肖像画で傑出しているが、いま読んでいる村上春樹『騎士団長殺し第一部・第二部』でも、肖像画は重要なテーマになっています。・・・なんかチェーン・リーディングというか尻取り読書になってるがな。rakutenゴヤ(岩波世界の美術)《1808年5月3日》「戦争の惨禍」あたりを、見てみましょう。p233~240<7 戦争の惨禍> 1808年5月2日、フランス騎兵隊が民衆の暴動を鎮圧するためにマドリードに入った。民衆の不安の高まりは一連の蜂起となって噴出し、スペイン人たちは市中でフランス兵と戦ったが、市外に駐留したスペイン軍はそれを尻目に中立の立場を保っていた。この暗黙の支援に対しては、ナポレオンが任命したスペイン駐留フランス軍の最高司令官である陸軍元帥ジョアシャン・ミュラから公式に謝意が表明された。 3月25日にスペインの首都に到着していたミュラは、5月2日の暴動を鎮めるには適任者であった。そして事実彼は、「マルムーク」と呼ばれるナポレオンの有名なエジプト人傭兵96人の力を借りて、これを成し遂げたのである。内戦を誘発し、一連の事件から6年後にゴヤの2点の重要な作品、《1808年5月2日》と《1808年5月3日》を産む契機となったのは、何よりもこの出来事であった。(中略) 戦時中のゴヤの活動に関しては、ほとんど記録が残っていない。おそらく彼は、6年にわたった戦争期間の大半をマドリードですごしたのであろう。しかし1808年には故郷のフエンデトードスを訪れるとともに、ホセ・パラフォックス将軍の招きで「市の廃墟を研究し、市民の輝かしい偉業を描く」ために、サラゴーサにも赴いている。 ある手紙なかでゴヤは、自分が「故郷の町の功績に個人的に深く関与している」と述べている。またゴヤがスペイン側のためにサラゴーサ包囲戦の公式画像を制作したこと、スペインの戦争努力を支援するためにテントを寄付したことが記録に記されている。 1809年5月までにゴヤはマドリードに戻ったが、そこで不当に権力を奪取したフランス政府から新しいスペイン王、ジョゼフ・ボナパルト(スペイン名ホセ一世)の肖像画を描くよう注文を受けた。そのうちの1点はマドリード市庁舎に飾られていた《マドリード市の寓意》として知られている作品であるが、この作品のメダイヨンの部分には6回ほど描きなおしが行なわれた。(中略) このようなまぎらわしいゴヤの政治的立場の矛盾については、ただひたすら想像をめぐらせる外はないであろう。(中略) この時期にゴヤが制作し、現在はのタイトルで知られる銅版画集は、美術史上おそらくもっとも決然たる戦争の記録であると言えよう。画家は、田舎のゲリラ戦、〇姦、殺人、遺骸の切断、子どもの遺棄といったおぞましくグロテスクな挿話、そしてフランス軍やそれに敵対するスペイン軍が犯した残虐行為を鋭く分析することから霊感を得た。 そこに含まれた版画の簡素な構図は、ひときわ鮮烈である。公的な戦争画家と違ってゴヤは、大規模な戦闘の壮大なドラマを描く義務を負ってはいなかった。しかしながらこの老練の画家は、田舎の共同体の破壊や自分が住むマドリードの街の苦難を眼前にして、創作意欲を掻き立てられたのであった。 6年以上をかけて制作されたは、深刻な打撃を受けて変わり果てた戦後のスペインという国に対する曖昧で懐疑的なヴィジョンで幕を降ろし、冷酷で怪しげな結末しか見せてくれない。
2018.09.16
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図書館で『新潮日本文学アルバム坂口安吾』という本を、手にしたのです。新潮日本文学アルバム・シリーズは先日『新潮日本文学アルバム寺山修司』を借りたので・・・個人的にはシリーズ2冊目となるこの本を借りようと思ったのです。【新潮日本文学アルバム坂口安吾】坂口安吾、新潮社、1986年刊<「BOOK」データベース>より写真で実証する作家の劇的な生涯と作品創造の秘密!―新潟屈指の名家・坂口家に生まれて、終生〈家〉を嫌悪し、反逆と無頼を貫く。どてらと浴衣で通す1年、薬品中毒による錯乱の日々…敗戦の日本に「堕ちよ、生きよ」と主張して思想と文学の主導者となった燃焼の生涯49年。<読む前の大使寸評>新潮日本文学アルバム・シリーズは先日『新潮日本文学アルバム寺山修司』を借りたので・・・個人的にはシリーズ2冊目となるこの本を借りようと思ったのです。amazon新潮日本文学アルバム坂口安吾無頼の作家の全盛期あたりを、見てみましょう。p81~87<流行作家時代:昭和20年~24年> 安吾が太宰治、織田作之助らと共に戦後の新文学の旗手として注目され、「坂口安吾もやうやく芽を吹いてきた」と評されるのは、昭和21年10月であるが、誤解と偏見もそれにつれて生まれてくる。昭和22年に「痴情作家」のレッテルが貼られるのは、そのひとつである。 安吾が昭和21、2年にもっとも数多く書くのは、自伝小説『いずこへ』『石の思い』などの作品である。「痴情」を描いた作品ではない。どの自伝小説も安吾の放浪を追及した作品であり、『堕落論』『白痴』の思想的基盤を明らかにしようとしている作品である。その意味でいえば、安吾は自伝小説を書いているのではなく、『堕落論』『デカダン文学論』などの言説の補注を書いている。 安吾が太宰治、織田作之助と通じ合う要素をもっているように見えながら、まったく異質なのは思考の徹底性にある。それは自伝小説だけでなく、『二流の人』『家康』などの歴史小説についてもいえる。 思考の徹底性を通して『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』のような虚無の極北を凝視する作品も書かれている。そのため仕事をするのに多量のヒロポンを常用し、4日の間一睡もせずに執筆したりしている。 梶仙治の長女三千代と知り合い、昭和22年9月に結婚生活に入るが、仕事とヒロポンアドルムの使用でやがて心身に疲労を覚えるようになっていく。 昭和23年には、その心身の疲弊は吐気と神経の疲れとして表れるようになり、思考力を集中して持続させるために多量の覚醒剤を服用している。(中略) 安吾は伊東の生活で精神が安定すると、昭和25年に『安吾巷談』の連載をはじめる。仕事ができるようになったのはぬるい温泉のせいで、朝と夕方と真夜中に入浴する。それが日課で、「頭を鎮静させ、時空を忘れた茫々たる無心にさそいこんでぅれる」効用があったというが、日常生活に課した自己への厳しさは張りつめたもので、その「日常生活のはりつめたきびしさに終始ヘキエキし」たと伝えられている。 『安吾巷談』は戯作者精神を駆使した文明批評であるが、安吾はこのエッセイで独自の境地を拓いている。巷談という新しいジャンルの開拓が注目され、文芸春秋読者賞を受賞する。安吾は第二の脱皮をする。筆力を回復するにしたがって意欲的になり、『わが人生観』、新聞小説『街はふるさと』の連載をはじめている。『新潮日本文学アルバム寺山修司』1
2018.09.15
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『朝日デジタルの書評から』フォームや『読みたい本』フォームを作っているのだが、これを市図書館の予約に利用しようと、思い立ったのです。これまでの予約内容と予約候補は以下のとおりです。<予約中>・アマゾンのすごいルール(5/18予約、副本1、予約15)現在3位・加村一馬著『洞窟おじさん』(6/07予約、副本2、予約37)現在24位・EVシフト(6/28予約、副本1、予約5)現在1位・半藤一利『歴史と戦争』(7/11予約、副本10、予約120)現在78位・与那覇潤『知性は死なない』(7/25予約、副本4、予約23)現在18位・原田マハ『フーテンのマハ』(8/06予約、副本9、予約65)現在52位・円城塔『文字渦』(9/05予約、副本1、予約15)・野地秩嘉『食の達人たち』(9/14予約、副本1、予約0)<カートで待機中>・N・ネフスキー著『月と不死』・8月の果て・ミヒャエル・エンデ『モモ』(市立図書館の児童書コーナーで見かけた)・ある日うっかりPTA(副本4、予約39)<予約候補>・高橋源一郎『ニッポンの小説』・阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』・阿刀田高『裏声で歌へ君が代』・サピエンス全史(上・下):図書館未購入・オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン論』:図書館未収蔵・原田マハ『楽園のカンヴァス』・重松清『ビタミンF』:阿刀田さんが「セッちゃん」をお奨め・デジタルエコノミーはいかにして道を誤まるか:図書館未収蔵・高橋源一郎著「読んじゃいなよ」・南伸坊『シンボーの絵と文』図書館未収蔵・フィリップ・ボール『かたち』・カズオ・イシグロ著『癒されざる者たち』図書館未購入・『ウォルマートがアメリカをそして世界を破壊する』図書館未購入・ペンの力:図書館未購入・銃・病原菌・鉄(上)・バーバラ・タックマン著『八月の砲声』外大の蔵書・ネルケ無方著『迷える者の禅修業』・スティーヴ・スターン『どいつもこいつも昼行灯』図書館未購入・ボリス・ヴィアン著『うたかたの日々』:芸工大に収蔵・『都会の鳥たち』図書館未購入・『一汁一菜でよいという提案』・中島岳志著『血盟団事件』・・・西図書館の棚で見た・『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』・フィールドサイエンティスト 地域環境学という発想・禁じられた歌(田)・私家版鳥類図鑑(神戸市図書館では蔵書なし)<予約分受取:7/29以降> ・『熱帯雨林コネクション』(7/13予約、7/29受取)・宮本常一『日本文化の形成』(8/04予約、8/12受取)・堀田善衛『ゴヤ(3巻)巨人の影に』(8/11予約、8/17受取)・頼れない国でどう生きようか(8/15予約、8/25受取)・村上春樹『騎士団長殺し第一部』(4/12予約済み、8/30受取)・村上春樹『騎士団長殺し第二部』(4/12予約済み、8/30受取)・萩野アンナ『ブリューゲル、飛んだ』(8/24予約、8/30受取) ・カズオ・イシグロ『夜想曲集』(9/09予約、9/13受取)・原田マハ著『スイート・ホーム』(4/16予約、9/16受取)【アマゾンのすごいルール】佐藤将之著、宝島社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりだからAmazonは成功した!Amazonの最大の武器は超合理的な「仕事術」だった。アマゾン ジャパンの立ち上げメンバーがジェフ・ベゾス直伝のメソッドを初公開。最速×最高の結果を出す仕事術と14の心得。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:5/18予約、副本1、予約15>rakutenアマゾンのすごいルール【洞窟おじさん】加村一馬著、小学館、2004年刊<作品情報>より昭和35年、13歳の少年は「両親から逃げたくて」愛犬シロを連れて家出した。以来、彼はたったひとりで、足尾鉱山の洞窟、富士の樹海などの山野で暮らしヘビやネズミ、コウモリに野ウサギなどを食らい命をつないできた。発見されたとき、少年は57歳になっていた。実に43年にわたる驚愕のサバイバル生活。―これは現代のロビンソン・クルーソーの記録である。<読む前の大使寸評>驚愕の自叙伝というか、平成の冒険的ドキュメンタリーではなかろうか。図書館で探してみよう。<図書館予約:6/07予約、副本2、予約37>amazon洞窟おじさん【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、副本1、予約5)>rakutenEVシフト【歴史と戦争】半藤一利著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>より幕末・明治維新からの日本近代化の歩みは、戦争の歴史でもあった。日本民族は世界一優秀だという驕りのもと、無能・無責任なエリートが戦争につきすすみ、メディアはそれを煽り、国民は熱狂した。過ちを繰り返さないために、私たちは歴史に何を学ぶべきなのか。「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」「戦争の恐ろしさの本質は、非人間的になっていることに気付かないことにある」「日本人は歴史に対する責任というものを持たない民族」-80冊以上の著作から厳選した半藤日本史のエッセンス。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/11予約、副本10、予約120)>rakuten歴史と戦争【知性は死なない】與那覇潤著、文藝春秋、2018年刊<「BOOK」データベース>より平成とはなんだったのか!?崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探してーいま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!【目次】はじめに 黄昏がおわるとき/平成史関連年表 日本編/第1章 わたしが病気になるまで/第2章 「うつ」に関する10の誤解/第3章 躁うつ病とはどんな病気か/平成史関連年表 海外編/第4章 反知性主義とのつきあいかた/第5章 知性が崩れゆく世界で/第6章 病気からみつけた生きかた/おわりに 知性とは旅のしかた<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/25予約、副本4、予約24)>rakuten知性は死なない【フーテンのマハ】原田マハ著、集英社、2018年刊<出版社>よりモネやピカソなど、美術にまつわる小説をはじめ、精力的に書籍を刊行する著者、その創作の源は旅にあった!? 世界各地を巡り、観る、食べる、買う。さあ、マハさんと一緒に取材(!?)の旅に出よう!<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(8/06予約、副本9、予約65)>rakutenフーテンのマハ【文字渦】円城塔著、新潮社、2018年刊<出版社>より昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい? 秦の始皇帝の陵墓から発掘された三万の漢字。希少言語学者が遭遇した未知なる言語遊戯「闘字」。膨大なプログラミング言語の海に光る文字列の島。フレキシブル・ディスプレイの絵巻に人工知能が源氏物語を自動筆記し続け、統合漢字の分離独立運動の果て、ルビが自由に語りだす。文字の起源から未来までを幻視する全12篇。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(9/05予約、副本1、予約15)>rakuten文字渦【食の達人たち】野地秩嘉著、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりなぜこの人の作ったものは美味しいのだろうか。銀座の老舗から地方の名もなき食堂まで、厨房の奥には味の数だけ人間ドラマがあった。-『BRIO』連載当時から話題を集めた連作ノンフィクションが文庫で初登場。“美味神髄は人に在り”を知らしめる18の感動ストーリー。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(9/14予約、副本1、予約0)>rakuten食の達人たち【月と不死】N・ネフスキー著、平凡社、1971年刊<出版社>より著者は日本民俗学界の異色の存在として知られるロシア人学者で,柳田国男,折口信夫らと親交を結び,沖縄,東北などの民俗を採録した。本書は日本語で発表された論文・書簡を網羅した唯一の著作集。<読む前の大使寸評>ロシア人にして、日本民俗学界の異色の存在が気になるのです。<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>heibonsha月と不死【8月の果て】柳美里著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より日本統治下の朝鮮・密陽に生を受け、マラソンでの五輪出場を目指した亡き祖父・李雨哲。そのうしろ姿を追い、路上を駆けることを決意した柳美里。ふたりの息づかいが時空を越えて重なる瞬間、日本と朝鮮半島のあわいに消えた無数の魂が封印を解かれ、歴史の破れ目から白い頁に甦る。偉丈夫の雨哲と美丈夫の弟・雨根。血族をめぐる、ふたつの真実の物語が、いま日本文学を未踏の高みへと押し上げる。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakuten8月の果て【モモ】ミヒャエル・エンデ著、岩波書店、2005年刊<「BOOK」データベース>より町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakutenモモ図書館予約の軌跡135予約分受取目録R17中央図書館新着図書リスト図書館情報ネットワーク 蔵書検索システム図書館予約の運用にも慣れて、速攻で入手するコツも何となくつかんだと思うのだ♪・朝日書評欄で探すとしたら、3ヶ月前掲載くらいのモノが狙い目かも。・専門的すぎるほどのモノは、予約0となっていることが多い。・受取館に収蔵しているモノは、移送する手間が省けるので早くなるだろう。・本屋の店頭に出た直後の新刊本・ウィキペディアでめぼしい著作を探す
2018.09.15
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図書館で『晴れたり曇ったり』という本を、手にしたのです。おお 川上弘美さんのエッセイ集ではないか。・・・最近読んだ短編『蛇を踏む』がよかったので気になる作家でおます。なお、帰って調べてみたらこの本を借りるのは2018年3月以来2度目であることが、判明しました(又か、でも再読でもいいではないか)。【晴れたり曇ったり】川上弘美著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベース>より日々の暮らしの発見、忘れられない人との出会い、大好きな本、そして、「あの日」からのこと。いろんな想いが満載!最新エッセイ集。<読む前の大使寸評>おお 川上弘美さんのエッセイ集ではないか。・・・最近読んだ短編『蛇を踏む』がよかったので気になる作家でおます。amazon晴れたり曇ったりかわった「味の素」談義を、見てみましょう。p222~224<カミングアウト> いつからわたしたちは、「あれ」を、台所に置かなくなってしまったんだろう。 「あれ」。それは、化学調味料のことです。 かつて家の調味料棚には、おしょうゆ、お酢、みりん、砂糖、塩と共に、必ず味の素が常備されていました。味の素ではなく、ハイミー派の家も、いの一番の家も、あった。調理の最後に、昔の母親は、味の素をちょちょっとふり、「味を決めた」ものでした。 実は、小さいころ、わたしは味の素が苦手でした。味っぽすぎる。そう思っていたからです。味っぽい、という言葉は、自分で発明しました。そもそも子供のわたしは、そうめんやお蕎麦も、だしつゆではなくただ塩をふって食べるのが好きという、特殊な子供だったのです(後年の酒飲み体質を大いに予想させますね)。だから、だしのうま味的なものが凝縮された調味料を苦手としたのも、むべなるかな、なのです。 ひそかに「化学調味料」が台所からなくなればいいのに、と思っていたところが、はっと気がついてみると、いつの間にかそれらは飲食店の卓上や家庭から消えていました。 ところが今。わたしは突然、味の素回帰をしているのです。 中でも、ぬかみその、かくや。古漬けのきゅうりや茄子をこまかく刻んで、みょうがと生姜もみじんに、それらをよくしぼり、あわせる。そこに、おしょうゆをほんのひとたらし。それが「かくや」です。 「かくや」は、なにしろ古漬けなので、しょっぱい。そして、少しばかり味が尖っている。しょっぱ痛い(発明語です)んです。ところが、ここに味の素をぱらりとひとふりするだけで、しょっぱ痛かったものが、とたんに旨まるく(発明語)なる。 ザーサイもそうです。塩漬けにされたあのザーサイ(すでに調味されたものではなく、塩漬け状態のままのもの)をみじんにして、長ねぎもみじんにして、ゴマ油と少しのおしょうゆをたらしたものを、冷や奴の上にのっけて全体をかきまわして食べる。それがわたしの夏の好物なのですが、ここに味の素をふるのとふらないのでは、旨まるさが、まったく違う。 実はこうやって味の素回帰してからも、人前で「味の素を常備しています」と言うのは、なんとなくはばかれていました。でも今日、こうしてカミングアウトしてみて、ほっとしています。遠ざかっていた友人と、年月がたって再会したようなしみじみした気分、といったらいいでしょうか。 ちなみに、今は「化学調味料」ではなく「うま味調味料」というのですね。原料も、植物になっている由。表面上は同じに見えてもひっそりとものごとは変化し続けているのだな、ということに、またひとしきりしみじみとした気分になっている今日このごろ、そうか、暦の上では、もう秋が来ているんですね。ウン 味の素回帰もさることながら、発明語が面白いやんけ♪川上さんは、けっこう面白いキャラのようです。『晴れたり曇ったり』4:かすかなその声:『ニッポンの小説』(高橋源一郎)p189~191『晴れたり曇ったり』3:行ってみようじゃないか:『食の達人たち』(野地秩嘉)p174~177『晴れたり曇ったり』2:真夜中の海でp137~139『晴れたり曇ったり』1:ぬか床のごきげんp72~74
2018.09.15
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図書館で『晴れたり曇ったり』という本を、手にしたのです。おお 川上弘美さんのエッセイ集ではないか。・・・最近読んだ短編『蛇を踏む』がよかったので気になる作家でおます。なお、帰って調べてみたらこの本を借りるのは2018年3月以来2度目であることが、判明しました(又か、でも再読でもいいではないか)。【晴れたり曇ったり】川上弘美著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベース>より日々の暮らしの発見、忘れられない人との出会い、大好きな本、そして、「あの日」からのこと。いろんな想いが満載!最新エッセイ集。<読む前の大使寸評>おお 川上弘美さんのエッセイ集ではないか。・・・最近読んだ短編『蛇を踏む』がよかったので気になる作家でおます。amazon晴れたり曇ったり書評をもう一つ、見てみましょう。p189~191<かすかなその声:『ニッポンの小説』(高橋源一郎)> 小説って、なんだろう。 高橋源一郎さんは、ずっとそのことを考えつづけます。この本だけでなく、いくつものほかの本においても、さまざまな書評においても、文学賞の選評においても、常に高橋さんはこの問題を考えています。 じつは、わたしも、同じです。というか、つねひごろ小説を書いている人たちはほとんどみんな、このことを考えているに違いありません。 だって、わからないから。 この本の中には、たくさんの大切なことが書かれています。小説を書くための言葉について。また、その言葉によって表されたことについて。小説の中の死者について。小説の「自由」について。文学ではないものについて。文学について。 小説は、とにかく「自由」なものなのだから、どんなことをしてもいいのです。 自分の書いた小説が紙に印刷されはじめたころ、何人かの人に言われました。 そうか、と、わたしは思いました。でも、自由って、いったい何なの。自由っていいながら、小説は文法をもつ言葉を使っているし、その文法だって、どうやら正しく使わなきゃいけないみたいだし、まあそういうごくそもそもの事はおいておくとしても、毎月出る「文芸誌」とよばれるものに載っている小説って、なんとなく、みんな何かの共通するトーンがなきゃならないみたい…。 ふだん、小説を読んだり書いたりするひとたちが、内心で「あれ?」と思っている違和感。それを、高橋さんは決して見過ごしにしません。ひたすら、考え続けます。ひたすら、ちうか、この本に書いてあるように、(たぶん)「飽きたら昼寝をして…次の日に…急に風邪をひき、二日ほど寝込んで、さあ…と思ったけれど、その時には他のなにか、たとえば…マンガを一巻から読みはじめ…ようやく『続き』にとりかかったけれど…」というふうに、とぎれとぎれに、けれど決してとだえることなく、考えつづけます。 何かが、気にかかるのです。今のニッポンの小説。明治時代から書かれてきた、ニッポンの小説。そこには、言葉にはうまくできない、なにかしらの違和感があるのです。 「プロローグ」では、高橋さんは言葉によるコミュニケーションの困難さと、ニッポン近代文学の始まり、そしてその後の百年にニッポン文学の世界におこっていることについて、かいつまんで述べます。「その小説はどこにあるのですか?」では、女性のためのモード雑誌のもつ「物語」の強力さと、それに比した小説の「物語」の脆弱さについて書き、「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」では、小説の中で「死」や「死者」を書くことができるのか、できるとしたらどのような言葉の使いかたが可能なのかを書き、「それは、文学ではありません」では、「うわさのベーコン」という小説を引用しつつ、引き続き小説の中の死者たちのこと、そして小説の可能性と不可能性について考えます。ウン 高橋源一郎の『ニッポンの小説』ってか・・・この本も図書館で探してみよう。『晴れたり曇ったり』3:行ってみようじゃないか:『食の達人たち』(野地秩嘉)p174~177『晴れたり曇ったり』2:真夜中の海でp137~139『晴れたり曇ったり』1:ぬか床のごきげんp72~74
2018.09.14
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図書館で『神屋宗湛の残した日記』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、歴史的仮名遣いとなっています。おお井伏鱒二も歴史的仮名遣いなのか・・・このところ丸谷才一の著作を読む機会があり、歴史的仮名遣いについては、さほど抵抗なく読めるわけでおます。【神屋宗湛の残した日記】井伏鱒二著、講談社、1995年刊<「MARC」データベース>より著者が70歳を越えた後の作品のなかから、単行本未収録のものをおさめた。博多の豪商茶人、神屋宗湛の日記から秀吉の茶会を再現し、移りゆく時と人を浮彫にする表題作のほか、6篇。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、歴史的仮名遣いとなっています。おお井伏鱒二も歴史的仮名遣いなのか・・・このところ丸谷才一の著作を読む機会があり、歴史的仮名遣いについては、さほど抵抗なく読めるわけでおます。amazon神屋宗湛の残した日記シンガポールでの徴用がらみのお話しを、見てみましょう。p76~79<質流れの島> 今年の内船さんは、去年と同じやうに薄手の背広に帽子はボルサリノを被り、虎班のよく入ったスネーク・ウッドの杖をついて来た。壮者をしのぐといった風采だが、足どりが頼りなくて、季節外れの手袋をはめてゐた。 「お手をどうかしましたか。不自由なんですか」 「いえ、これは貴方、去年の敬老会で記念品として貰った手袋です。記念品ですからね、記念のためこの通り、身につけて出席しました」 去年の記念品は、手袋と中村屋のお菓子であった。私たちの元の隣組では、斜裏手の家の老人が敬老会に代表で出席し、ほかの人の記念品を招待状と引換に纏めて貰って来る例になってゐる。催しの演芸は見ないで、記念品だけ貰って早めに帰って来る。 内船さんは去年よりもずっと足が弱ってゐるやうに見えた。座るよりも廊下に腰かけた方がいいと云ふので、私は縁側に座布団を出し、将棋盤と駒台を出して湯呑や急須を置く台にした。私も内船さんも、例年ここで顔を合はしてゐた人のことには話を触れなかつた。 「今年は貴方、この無料乗車券を使ひましてね、公会堂までバスで参りました。これを持つてゐると、バスも地下鉄も木戸御免ですからね。ジョホール州で私、施政官をしてゐたときのやうな、ぱりつとした気分ですよ。全く、泣かせますね」 内船さんは都バスの無料招待券を駒台の上に置いた。 この乗車券は都内に住む七十歳以上の老人なら誰でも貰つてゐる。私も貰つて持つてゐる。是非なき幸せと云はなくてはならぬ。 内船さんは手袋をぬいでゆつくりお茶を啜り、公会堂で貰てて来た記念品を見せた。「寿」の字を染めたタオル1本と、栄太郎飴を二包。私はこれも先刻、裏のうちの老人が代表で貰つて来てくれたのを受取つてゐた。それを持つて来て栄太郎飴を一つ口に入れた。内船さんも一つ口に入れ、 「総入歯の調子をしらべるには、飴玉をしゃぶるに限りますね。かうして貴方、ごろごろと歯の間でころがしますと、さうです。調子がわかりますでせう」 なるほど飴玉を急いで噛んでみると、自分の入歯の調子のよくないことがはつきりわかる。 「ところで貴方、鬼怒川からお葉書を差上げましたが」と内船さんが云つた。「例のあの島どうなりました。実を云へば、私自身、質流れの島やうなものでしてね」 「あのお葉書に、二之湖といふ湖水のことを書いておいでになりましたね」と話の向きを変へようとしたが、内船さんは飴玉で口に溜まった涎でむせ、「では、いづれまた。こりや、いかん」と縁側から腰をあげた。 むせるのが止まると「お邪魔しました。では、いづれまた」と身づくろひして帰つて行つた。よぼよぼに近い足どりと云ひ、帽子を阿弥陀にした被りかたと云ひ、殆んど老骨といつた感じである。枯渇粛々の風韻が出て来たやうに見えた。 私と内船さんとのつきあひは私たちの学生時代に遡るが、念入りにつきあったのは戦争中シンガポールにゐた短ひ間であつた。そのころ私は徴用仲間の神保光太郎の創立した昭南日本語学園に勤めてゐた。ある日、授業が終つて教室を出ると、廊下に立つてゐたマレー人の学僕が紙ぎれを私に手渡した。日本の文字を書いてある。その文面のこまごましたことは憶えてないが、大体こんなものであった。 「貴君の御健在を祝す。自分は学生のころに牛込鶴巻町の南越館で貴君と隣合せの部屋に下宿してゐた内船吾郎である。このたび施政官としてペラ州からジョホール州に転属されて来たが、貴君の所属する宣伝班発行の『陣中新聞』で貴君の短文を見て貴君が当地に於て健在であるのを知つた。嬉しく思ふ。日本を遠く離れて戦地に来てゐる故か懐旧の情にたへない。さっそく宣伝班で貴君の動静を聞いて訪れて来たが授業中とのことだから置手紙する。自分はキャセイ・ビルの近くにあるサンサン・ホテルで貴君の御来車を心待ちにしながらビールを飲んでゐることにする」徴用中のエピソードについては『徴用中のこと』に詳しくレポートされています。【徴用中のこと】井伏鱒二著、講談社、1996年刊<内容紹介>より陸軍徴用の地シンガポールでの苛酷な実態と人々の姿を、死を見据えた細密な観察眼で捉え淡々と描いた、井伏文学の特質を伝える長篇。私たちは従軍中も入城後も、新聞社関係の特派員からときたま原稿を頼まれたが、私の原稿は検閲で没書になるのが多かつた。たいてい没書になつた。その原稿は、そのつどリュクサックに蔵つて置き、日本に帰るとき束ねて持ち帰つた。今、その古原稿で当時の記憶を呼び起こしながら、この原稿「徴用中のこと」を書いてゐる。──本文より<読む前の大使寸評>検閲で没になった古原稿をもとに書き改めたとのことで・・・大戦初期の占領地の状況が興味深いのです。kodansha徴用中のこと『徴用中のこと』2
2018.09.14
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