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徴用工問題は日韓の政府間ではようやく好転する動きが見られるが、韓国の民心はそこまでの未来志向はないわけで・・・なかなか難しいお国柄である。ということで『朝鮮幽囚記』で、韓国の歴史を読み直してみようと思い立ったのです。***********************************************************図書館で『朝鮮幽囚記』という東洋文庫を、手にしたのです。昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。先頃『韃靼漂流記』という東洋文庫を読んだが、これら二つの記録ではオランダ人と日本人という違いがあるにしろ遭難時に体験した朝鮮がどんなだったか比較してみるのも面白いと思うのです。【朝鮮幽囚記】ヘンドリック・ハメル著、平凡社、1969年刊<カスタマーレビュー>より江戸時代、長崎に来るはずのオランダ商船が東シナ海で遭難、30数名の乗組員が李王朝時代の朝鮮に長年に亘って幽囚の身と成ったとき、彼等の目で見た当時の朝鮮を書き残している貴重な歴史的書物。後年英国の旅行家イサベラ・バードが書き残した20世紀初頭の朝鮮の状況と殆ど変わらない姿に、我が国同様に長年鎖国を堅持した朝鮮の、新しい時代の流れを自力で吸収しようとしなかった国の姿を見ることが出来た。<読む前の大使寸評>昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。amazon朝鮮幽囚記長崎到着からオランダへの帰還あたりを、見てみましょう。p69~72<一六六六年> 彼等はそこで私たちの船を大きな錨と太い綱でしっかりともやって、見張りの小舟で厳重に監視しました。彼等は前に連行した男の他にもう一人を連行し、二人を上陸させて尋問しましたが、お互いに理解することはできませんでした。陸上では大騒ぎをしていましたが、人々はかならず一本か二本の刀を帯びているようでした。私たちはお互いに悲しい目を見合わせて、いよいよ捕らえられたのだと観念しました。彼等は長崎の方角を指して、同地には我が国の船と国民とがいるのだということを手真似で示そうとしていました。彼等はこれで私たちを慰めようとしてはいたのですが、私たちを疑っていないというわけではなく、ちょうど捕らえた時のように逃げることができなくして、安心するつもりだったのでした。 夜に入ると大きな船が湾に入って来て、私たちを乗船させました。後で長崎で聞いたところによりますと、その船には同地まで私たちを連れて行ってくれた、この群島の第三番目の人物がいたということでした。彼は私たちを見て、私たちがオランダ人であるとはっきり言明しました。そして長崎には五隻の船が入っていて、私たちは四、五日中にそこに連れて行かれるのだということを手真似で説明してくれました。 ここは五島で、住民は日本人で、皇帝の支配下にあるということで、私たちはたいへん安心しました。彼等はどこから来たのかと手真似で聞きますので、どこから来たのかを手真似でできる限り説明しました。すなわち私たちは朝鮮から来たのであって、十三年前に船が難破し、現在は同胞の許に帰るために長崎に行こうとしているのだと説明したのです。この時には私たち一同は少々気をとりなおしてきたのですが、まだ恐怖が残っていました。というのは、朝鮮人は私たちに、日本の島々に漂着した外国人はかならず殺されてしまうと教え込んでいましたし、未知の海を四十マイル以上も古く脆い船で航海して来たばかりだったからです。 九月九、十、十一日は碇泊し、船上でも、陸上でも前に述べたとおり厳重に監視されました。彼等は私たちに副食物や飲料水や薪その他の必要品を支給し、また雨が激しく降りましたので、船内が濡れないように藁むしろで屋根を張ってくれました。 九月十二日。私たちの長崎への旅行に必要な準備が完了しました。私たちは正午に錨をあげて、夕方にはある島の内側に到着し、村の正面に投錨しました。私たちはその夜はそこに碇泊しました。(中略) 九月十四日。私たちは全員一緒に上陸させられました。そして会社の通訳から歓迎を受けました。彼は私たちにあらゆる事柄を質問しました。それは彼等によって紙に記録されて奉行に提出されました。正午頃私たちは奉行の前に呼び出されました。 総督は私たちが自由を求め、これほど広い海を、このように小さく、古く、そして脆い船で危険を冒して横断してその自由を得たことを賞讃し、通訳に、私たちを出島の商館長の所に連れて行くように命じました。 そこに着きますと、商館長ウィルレム・フォルヘル閣下、次席ニコラス・デ・ローイ閣下および居合わせた使用人の方々から鄭重なもてなしを受け、ふたたびオランダ風の衣服を身につけました。人々は全能の神に対して、幸運の恩寵と、長期間の健康を与えられたことについて感謝を捧げました。(中略) 十月一日にフォルヘル閣下は出島を離れ、同月二十三日七隻の船を率いて湾を出発されました。私たちはこれらの船を悲しみとともに見送りました。というのは、それまでは閣下と一緒にバタビアに航海できるとばかり想像していたのですが、長崎奉行によって一年間滞在させられることになったからです。(中略) 一六六七年。十月二十三日、正午頃、新奉行の着任とともに出発の許可を得ることができました。私たちは夕方フライト船デ・スプレーウ号に乗船し、フライト船デ・ウィッテ・レーウ号と船団を組んで出発することになりました。 十月二十五日。夜明けとともに錨をあげて長崎港を出発しました。[私たちは1667年12月28日にバタビアを出帆し、ほとんど支障なく1668年7月20日にアムステルダムに到着しました]この本も朝鮮紀行あれこれに収めるものとします。 『朝鮮幽囚記』12018.12.24 『朝鮮幽囚記』22018.12.25 『朝鮮幽囚記』52018.12.25 『朝鮮幽囚記』62018.12.25
2023.01.31
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<NHK「半導体 大競争時代 第1回」>1月29日に観たNHK「半導体 大競争時代 第1回」に強いインパクトを受けたので、ネットで以下のアーカイブを探してみたのです。NHK 半導体 大競争時代 第1回より半導体 大競争時代 第1回「国家の“命運”をかけた闘い」初回放送日: 2023年1月22日スマホや家電のほか、AIや自動運転など次世代産業に不可欠で今後100兆円市場とされる半導体。世界的な大競争を伝えるシリーズ第1回は、米中の熾烈な争いと日本の戦略。凋落著しい日本は、残された強み素材・製造装置で生き残りを模索。日本政府はアメリカの設計技術をもとに最先端半導体を製造する新会社を支援。アメリカを補完する存在になることで、活路を見出そうとしている。日本の未来を左右する国家間の大競争に迫る。<大使寸評>この番組を観ながら、以下のとおりメモしたのです。・GPU(Graphics Processing Unit):日本で設計し、台湾で製造するもので、新型スーパーコンピューター搭載の可能性あり、30年前の基盤技術がAIに向いていることが判明した。・パワー半導体:電気自動車にも装着して直交変換している。炊飯器にもパワー半導体が装着されている。 ローム社がSic半導体で巻き返しを図っているが、世界の客先ニーズに合わせた素早い設計が必要とのこと。・3D半導体:半導体の洗浄工程の開発が重要であるが、ベルギーのimecと共同研究中とのこと。・とにかく日本の半導体技術開発のラストチャンスであり、これを逃すと二度と再起できないだろう。なお「半導体規制、米日オランダ合意」というネット記事も気になるので、紹介します。半導体といえば戦略的物資であるので、対中輸出規制についても考慮しておく必要があるのですね。<「半導体規制、米日オランダ合意」> 半導体規制、米日オランダ合意=中国包囲網の「一里塚」より【ワシントン時事】米国、日本、オランダの3カ国は27日、中国による先端技術の軍事転用を阻止するため、半導体製造装置の販売に一定の制限を設けることで合意した。ブルームバーグ通信など複数の米欧メディアが報じた。バイデン米政権が目指す対中包囲網の形成に向けた「重要な一里塚」となるが、中国の強い反発は必至。関係する日本の企業も厳しい対応を迫られる。中国の半導体受託製造大手「中芯国際集成電路製造(SMIC) 米政権は昨年10月、台湾有事といった地政学リスクも念頭に、大量破壊兵器に転用できる半導体および製造装置の対中輸出規制を大幅に強化した。バイデン大統領は今月中旬、先端技術に強みのある日本の岸田文雄首相、オランダのルッテ首相と相次ぎ会談し、中国の問題を直接提起。台湾や韓国にも共同歩調を求めている。 半導体製造装置市場に占める米日オランダのシェアは約7割に達する。オランダ大手紙フォルクスクラントは、3カ国の合意を東西冷戦時代になぞらえ「中国を取り巻く鉄のカーテン」と表した。ただ、英紙フィナンシャル・タイムズによると、中国の報復に対する「懸念」を理由に、合意した事実や詳細は公表されていない。 【AI基礎講座】AIの進化支える「GPU」、CPUと何が違う?もお薦めです。
2023.01.31
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<潜水艦あれこれ R1>これまで潜水艦についてあれこれとりあげてきたように、潜水艦はミニブームでもあるのです。R1:「THE ENEMY BELOW」「The Battle of the Atlantic」を追記***********************************************************・U32—German Submarine Soldiers 2020年2月21日・『潜水艦(歴群「図解」マスター)』2015.11.03・潜水艦映画を観てきた2014.11.29・Uボート回航2013.08.16・Uボート戦全史2013.08.16・『Uボート』2003.10.10・THE ENEMY BELOW ・The Battle of the Atlantic***********************************************************潜水艦映画の一押しといえば、大使の場合『Uボート』になります。【Uボート】ヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年西ドイツ制作<解説>より第2次大戦を舞台にドイツ軍潜水艦の乗組員たちの行動を描く戦争人間ドラマ。製作はギュンター・ロールバッハ、監督は「昼と夜のような黒と白」のヴォルフガング・ペーターゼン、ロタール・ギュンター・ブッフハイムの原作を基にペーターゼン自らが脚色。<大使寸評>潜水艦映画のジャンルがあるほど、潜水艦とはドラマチックな兵器と言えるし、この映画の主役は潜水艦そのものかもしれない。第二次大戦中、独潜水艦乗組員4万のうち、3万人が帰還できなかったという事実は、壮大な消耗戦を想像させるとともに、戦争の過酷さを語っているだろう。goo映画UボートUボート byドングリ
2023.01.30
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宋の文化には惹かれるが・・・押しなべていえば体面を重んじる中華(漢族)を好きになれないのである。特に昨今では、ロシアや北朝鮮と同盟を組み少数民族を軽んじるところが、目にあまるのである。・・・で、ネットを巡ってみると以下の書籍がヒットしました。【マネーモンスター 中華帝国の崩壊】藤井厳喜著、ダイレクト出版株式会社 (2022年刊)<カスタマーレビュー>より内容は良いのですが、校正や編集が入っているのか疑うほど読みにくい本です。対談か動画の文字起こしをそのまま本にしたような文章で、非常に読みにくいです。例えば、わずか5〜6行で構成されている一つの段落の中で何度も同じことを書いていたり、接続詞に「ですから」と「しかし」が多用されています。とにかく読みにくいです。<読む前の大使寸評>追って記入amazonマネーモンスター 中華帝国の崩壊出版社(ダイレクト出版)のサイトを見てみました。「マネーモンスター中華帝国の崩壊」より■中国経済、ただいま崩壊中・・・大ニュースです。中国経済が崩壊している、ハッキリした証拠が見つかりました。経済があまりにボロボロになりすぎて、習近平が崩壊を隠しきれなくなってきたのです…その「証拠」とは…■深刻なドル不足その答えは、中国が持っている外貨の量...12年ぶりに中国の米国債保有額が1兆ドルを下回ったのです…つまり、経済がうまくいかないので、今まで稼いできたドルを吐き出している ということ…さらに、長く続いたゼロコロナで、インフレ、失業、不況のオンパレード...さらには若者を中心に、中国全土でデモまで発生しています…このままで大丈夫か?と思ってしまいますが、、これは序の口です。地獄の始まりはこれからです・・・そう、国際政治学者の藤井厳喜先生はおっしゃいます。一体これから、中国はどうなってしまうのでしょうか...?一冊の本で明らかにしました。【目次】・序章ついに始まった“チャイナ・バブル”の崩壊…世界経済はこれからどうなる? ・第1章チャイナ政治と経済成長の歴史・第2章怪物を育てたアメリカの罪 そして始まった米中新冷戦・第3章予測!チャイナ・バブル 崩壊の瞬間
2023.01.30
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昨日『古今東西エンジン図鑑』という本を復刻したのだが・・・ついでに、第二次世界大戦時の戦車戦にふれた『パンターvsシャーマン』という本を復刻してみようと思ったのです。このところ、ウクライナへの戦車供与がメディアに頻出しているので、その気になったというところですが。***********************************************************図書館で『パンターvsシャーマン』というビジュアル本を手にしたのです。この本には見覚えがあるような、ないような・・・ま、いいかと借りたわけです。帰って調べてみると、2年ほど前に借りていました。で、この記事を(その3)としています。【パンターvsシャーマン】スティーヴン・J.ザロガ著、大日本絵画、2010年刊<「BOOK」データベース>より本書は、ドイツ軍がかつての勢いを取り戻そうと躍起になっていた1944年のヨーロッパ北西部の戦場という舞台で重要な役割を担っていた二つの戦車を比較するという魅力的な題材を扱っている。すべての戦車は、装甲、機動性、火力という3つの技術的な基本要素のバランスを考慮して設計されているが、これをふまえ各々の戦車の設計や開発経緯を分析することで、著者はシャーマンよりもパンター戦車の方が明らかに優れた戦車であると結論している。しかし、個別の能力を比較するだけでは、実戦での真の優劣を決めることはできない。どちらが先に敵を発見するか?どちらが先に攻撃するか?戦術的な状況が戦いにどう作用するかということが重要なのである。本書は、アルデンヌの森の激戦を詳細に眺め、この2つの戦車の成功と失敗の本質を追求している。<読む前の大使寸評>戦争映画オタクの大使としては、潜水艦映画をよく観てきたが、戦車ものもけっこう観ているわけで…この本を借りる決め手になったのです。rakutenパンターvsシャーマン「はじめに」でバルジの戦いなどを、見てみましょう。p4~5■はじめに 1944年12月から翌年1月にかけて行なわれたバルジの戦いは、第2次世界大戦の西部戦線で勃発した最後の大戦車戦となった。ヒトラーは、劣勢に陥った戦局を一挙に挽回しようと決心し、絶望的な賭けに手持ちの予備戦車部隊をすべて投げ込んで、情け容赦なく前進してくる連合軍に再起不能の痛打を与えようと目論んだのである。 バルジの戦いの舞台となったアルデンヌの森と、そこで発生した戦車戦は、本書「対決」シリーズにとって、実に興味深い題材に満ちている。 シャーマン戦車とパンター戦車の対決を想定すれば、概ね、パンターに軍配が上がるだろうと考えるのが自然だろう。数値を比較すれば、強力な主砲と良好な装甲を備えているパンターが有利であることは一目瞭然である。だが、カタログ値の比較は実戦の行方をかならずしも説明しているわけではなく、仮説はいばしば大きく覆される。 他の要素…すなわち、戦車兵の資質や訓練、採用した戦術、戦場の状況…は、技術的な優劣という視点をはるかに超える影響を、戦車戦の原則に及ぼすからである。本書は、このような様々な要素の検証を前提として、バルジの戦いにおけるアメリカ軍のシャーマン戦車M4A3(76mm砲)と、ドイツ軍のパンターG型、2つの中戦車の比較を試みる。 世間一般に出回っている関連書籍の大半は、戦車同士の戦場における実力を比較する際に、技術面の優劣に注目している。しかし、第2次世界大戦の作戦を調査していくと、違うことが見えてくる。作戦面の研究成果はいわゆる軍事専門家の外まで広がることはないが、その結論は、大戦中の戦車戦に関する技術的研究とは際立った違いを見せているのである。(中略) 第2次世界大戦の戦車研究は、戦車部隊の主要任務が対戦車戦であるという間違った思い込みから出発している。1944年から45年にかけての時期、ヨーロッパ西北部で行なわれた戦いでは、アメリカ軍、ドイツ軍双方の戦車部隊にとって、戦車戦を主体とするような展開は起こらなかった。 戦車は諸兵科連合部隊の先鋒兵器という位置づけであり、常に歩兵と共同して敵防御拠点を攻略後、突破口から迅速に進出して戦果を拡張する役割を与えられていた。そして大抵は、こうした任務は敵歩兵部隊との遭遇戦も発生するが、よほどの大作戦でもない限り、頻繁には起こらない。戦車戦は、第2次世界大戦の戦車にとっては花形任務であるが、頻発するものではないし、最重要任務というわけでもない。 シャーマン戦車と比較すると、パンター戦車は恐るべき威力の主砲と、優れた装甲を持った戦車であるが、バルジの戦いでは実に不本意な活躍しかできなかった。経験豊富な戦車兵が駆るパンターが相手では、シャーマンは手も足も出ないだろう。しかし、一握りの戦車エースがもたらす勝利は、大半の戦車兵が成しとげた平凡な戦果を超えることはなかったのだ。『パンターvsシャーマン』2:結論p74~75『パンターvsシャーマン』1:両者の「技術的特徴」p22~25
2023.01.29
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3回の癌の切除手術を経てもポジティブに対応してまっとうに復帰した内澤さんの闘病記とあれば・・・胃の無い大使にとって興味深いのです。ということで、この闘病記を以下のとおり復刻してみます。***********************************************************図書館で『身体のいいなり』という本を手にしたのです。内澤旬子さんの闘病記であるが・・・胃の無い大使にとって、がんには切実な関心があるのです。【身体のいいなり】内澤旬子著、朝日新聞出版、2010年刊<「BOOK」データベース>より腰痛、アトピー性皮膚炎、ナゾの微熱、冷え性、むくみ…著者がずっと付きあってきた「病気といえない病気」の数々。ところが、癒治療の副作用を和らげるために始めたヨガがきっかけで、すっかり体質が変化し、嗜好まで変わってしまった。不思議に仕事も舞い込むようになり、いまさらながら化粧の楽しさに目覚めてしまう。そして乳腺全摘出を決断。乳房再建手術の過程で日頃考えたこともなかった自分の「女性性」に向き合わざるを得なくなりー。ベストセラー『世界屠畜紀行』の著者が、オンナのカラダとココロの不条理を綴った新境地エッセイ。<読む前の大使寸評>胃の無い大使にとって、がんには切実な関心があるのです。rakuten身体のいいなり内澤さんが手術後の心境を述べているので、見てみましょう。p193~195 <資料もゴミも紙一重、本の山から離脱せよ> 先日すい臓癌で亡くなった評論家の黒岩比佐子さんが闘病中にブログで綴っていたように、癌患者の場合はできた部位とステージまで同じでない限り、なかなか話が合わないというのが現状だろう。 そうしたくなくても、たとえ口に出さなくても、どうしてもあなたと私の残された時間を比べてしまう。切り取り捨てた内臓や肉片の大きさを比べてしまう。ゆとりを持とうにもなかなか持てない。 そしてあなたよりは私の方がましという視線を一度でも投げられれば、相当なダメージを受ける。健康な人から向けられる視線よりも遠慮やゆとりがない分、それはより深く刺さったよに思える。それがわかるからこそ、自分よりも重篤な人に声をかけるのもものすごくためらわれる。申し訳ない気持ちで一杯になる。 なぜあなたの癌はどんどん進行し、私は元気になってしまうのかと、何度も何度も考えてしまう。もちろん自分だって今元気であってもいつまた再発もしくは原発し、今度はどんな手を打っても増殖は抑えられなくなるかもしれないとも、思う。 乳癌で亡くなった著名人の記事があれば、発病から何年いきたのかをやっぱりかならず見てしまうのだ。(中略) 振り返ると3回の癌の切除手術をしてくださった先生は、術後かならず翌朝には外来診療がはじまる前に病室までやってきて、傷の確認をみずからしてくださっていた。その後60人の外来患者を診て、午後3時くらいからは手術という信じられないハードスケジュールなのに、頭が下がる。 大変な手間だと思うが、それだけのことで患者はどれだけ安心するか。このような状況に置かれると改めて良い先生に当たっていたのだなと思わされる。患者を安心させるためだけではない。たとえば、装丁家がデータを渡したあとも印刷立ち会いを行ない、さらに書店に本が並ぶ姿まで確認するのと同じことだ。職人として自分が切って縫ったところがどうなっているのか、気になるのが普通だろう。 ただし医療全体の流れで言えば、実質的な執刀とその後の処置が分業されることは、そう珍しいことではなく、むしろ今後進んでいくのではとも思う。世界的権威の脳外科医のドキュメント番組では、前後の処置はできうるかぎり他の医師団にまかせて、医師は神経を傷つけることなく脳腫瘍をとりだす作業だけに専心していた。そうでないと多くの人を手掛けることができないし、所属病院以外での執刀も実現できない。ウン しごく穏当なご意見であり、やや拍子が抜けるのである(笑)。内澤さんは、今では小豆島にⅠターンし、健康的な余生を送っているようで・・・神さんのご褒美なんでしょうね。『身体のいいなり』4:手術後の心境『身体のいいなり』3:仕事とか住宅事情『身体のいいなり』2:全身麻酔から醒める『身体のいいなり』1:強気の闘病方針
2023.01.29
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<『古今東西エンジン図鑑』(復刻)> 最近は米テスラや中国製のEV車の勢いにおされて、危機感がただようモノづくりニッポンであるが・・・こりゃあかんということで、『古今東西エンジン図鑑』という本を復刻してみます。***********************************************************図書館で『古今東西エンジン図鑑』という本を、手にしたのです。大使の学生時代の卒論のテーマが「エンジン」だったような記憶がかすかにあるわけで(汗)・・・この本は興味深いのでおま♪【古今東西エンジン図鑑】鈴木孝著、グランプリ出版、2017年刊<「BOOK」データベース>より新旧の自動車用、航空用、舶用、戦車用、汎用の個性的なエンジンを発掘し、そのエンジンの誕生と技術的・時代的背景を詳細なイラストとともに解説する、世界のエンジンのフィールドノート。<読む前の大使寸評>大使の学生時代の卒論のテーマが「エンジン」だったような記憶がかすかにあるわけで(汗)・・・この本は興味深いのでおま♪rakuten古今東西エンジン図鑑LE7A型エンジン最近順調なH-2ロケットを、見てみましょう。p143~146<H-2ロケット> ■そのエンジン用ターボポンプの原点は海軍のロケット戦闘機「秋水」にあった ロケット用エンジンというのは図に示すロケットの下段および中段に装着されるエンジンで、図に示すように一見巨大なスカートを履いたフランス人形のような形をしている。H-2ロケットのエンジン(LE型)のスカートは人間の背丈を遥かに越えるが、それは膨張ノズルと呼ばれる燃焼ガスの噴出ノズルである。 その裾から超音速のガスを噴出して、このフランス人形をお尻に付けたロケット本体(H-2型)は上昇していくのである。図の下端にあるのが1段目のLE7型エンジンで、これと、まわりに4台付けたブースターと呼ばれる固体ロケットが点火され、H-2は急速に上昇する。 この燃料が燃え尽きるとLE7型とその上の燃料および酸化剤タンクは切り離されて放棄され、2段目のLE5型エンジンが点火されてH-2はさらに上昇を続けるのである。(中略) LE型エンジンは主燃焼室で液体酸素(液酸と略す)液体水素(液水と略す)を合流させ点火燃焼させる。図に示すように液酸と液水はスカートの両側に備えられたそれぞれのターボポンプによって圧送されるが、それらのポンプはプリバーナで生成したガス(水蒸気)によるタービンで駆動される。液水はそこまでくる前にさらに膨張ノズルつまりスカートを冷却し、その後主燃焼室に導かれ、酸素の合流により爆発燃焼するのである。 H-2ロケットの墜落は、その1段目のLE7型エンジンの液水ポンプがキャビテーションによって破損し、ロケットの推力を失ったため、指令爆破させられたものである。 さて、角田宇宙センターの展示室には、海中から回収した破損したノズルや爆発によって熔解した燃焼室などとともに液酸、液水ポンプのカットポンプが展示してある。図にくだんの液水ポンプを示す。これらのポンプの緒元を見て驚かされた。吐出量:液水550L/sec、液酸180L/sec吐出圧:液水27MPa(展示では30MPa)、液酸18MPa回転数:液水42259rpm、液酸18300rpm必用馬力:液水30000馬力 すべてが自動車屋の世界とは、1桁ないし2桁も大きい。特に驚かされたのは液水ポンプの吐出圧力30MPa、つまり300気圧である。ノズルの冷却等を果たしたあと、爆発的に燃焼室に液体水素を押し込むために、これだけの高圧が要るのである。(後略)『古今東西エンジン図鑑』1:ロッキードP38『古今東西エンジン図鑑』2:戦車のエンジン『古今東西エンジン図鑑』3:最近順調なH-2ロケット
2023.01.28
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図書館で『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』という本を、手にしたのです。ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。【60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳】関眞興編著、山川出版社、2021年刊<「BOOK」データベース>より植民地の独立、地域紛争、宗教戦争、交通網の発達ー新旧の地図を並べて現代世界の変化を体感する!国名、領土の変化にまつわる事件や戦争、領土問題、民族問題などを地図の変化とともに解説、現代史への理解も同時に深まる。変遷がひと目でわかる国名一覧付き!<読む前の大使寸評>ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。rakuten60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳ソ連と周辺国の摩擦を、見てみましょう。P74<ヨーロッパ東部>■19世紀に普露墺という大国3国に翻弄される 現在の地図で東ヨーロッパにある国を2つのグループに分けて紹介する。いずれも北から南に下がる。 1つは、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、アルバニア、ギリシャであり、もう1つはエストニア、ラトビア、リトアニア、モルドバである。 前者はギリシャを除いて、いずれもかつてのソ連の衛星国だった諸国で、後者は、ソ連の構成国だった諸国だ。 社会主義は資本主義体制下で苦しむ人々を解放するという建前であったが、その実際は、ソ連の厳しい指導・命令に従わなければならず、反論は許されなかった。ソ連を守るための防波堤というような役割も大きかった。 ソ連の前身、ロシア帝国が発展する前、これらの地域の北部にドイツ人が進出していて、ドイツ人との対立があった。また、南部にはオスマン帝国が領土を拡大していた。オスマン帝国はハンガリーやルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、アルバニアなどを支配下に入れた。 さらにこの地域の国々はオーストリアと戦ったが、19世紀になると、オーストリアやロシアに領土を徐々に奪われるようになる。オーストリアは、同じドイツ人のプロイセンと対立するようになり、東方から拡大してきたロシアと3国で、18世紀末にポーランド分割を行った。 オーストリア、プロイセン、ロシアは19世紀初め、軍隊を中心に近代化を開始するが、プロイセンを中心に近代ドイツ帝国が建設された。ロシアも近代化を急いでいたが、後進国ゆえの問題も多く抱え、第一次世界大戦末期に起きた革命で社会主義を採用した国家建設を行った。 東ヨーロッパ諸国では、セルビアやルーマニア、ブルガリア、ギリシャのように19世紀のうちに独立を果たした国家もあるが、多くの国はオーストラリアやオスマン帝国、そしてロシア帝国の支配下に置かれたままだった。■ナショナリズムと民族紛争 第一次世界大戦の結果、オーストラリア、オスマン、ロシアの3つの帝国が崩壊し、支配下にあった諸民族は解放され、それぞれの民族国家をもった。しかし、ロシアを中心に成立したソ連は、かつての支配領域の多くをそのままに併合し続けた。 新独立国家のポーランドは、ロシアやドイツから領土を奪って新国家を建設した。チェコスロバキアの獲得した領土にはドイツ人移住者がたくさんいた。ブルガリアやルーマニアも領土的不満があった。そしてセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は内部の民族的対立が大きく、1929年にユーゴスラビアと改称することになった。 そして91年にソ連が崩壊した結果、この地域では大変動が起きたのだ。ソ連圏では社会主義が普遍的真理で、ナショナリズムは乗り越えられたと考えられた。 しかし、ソ連が崩壊して、かつての国家が復活したとき、人々のよりどころになったのはナショナリズムであった。独立した諸国家間でナショナリズムと領土が問題になるのは必然であり、無理やり一体化させられていた国家の分離独立が起きたのだ。ウーム ナショナリズムに対しては共産主義というイデオロギーがいかに無理筋であったか、よく分かりますね。そしてプーチンの場合は、さらに宗教とKGB体質と個人的怨念が加わるわけで、もはや出口が見えないのではないか。『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』2:香港・マカオ返還『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』1:ロシア周辺
2023.01.28
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一時期テレサ・テンに入れ込んでいた大使であるが・・・「昭和ポップスの世界」というサイトで、テレサ・テンの人となりをのぞいて見たのです。昭和ポップスの世界:テレサ・テンより<エピソード>・テレサは小さい頃から美空ひばりに憧れていて、「川の流れのように」をはじめ多くの曲をカバーしている。台湾で14歳でレコードデビューした際は「台湾の美空ひばり」と称された。・プロデューサーの舟木稔は「絶対に日本で売れる」とテレサの日本進出にあたって両親を説得した。舟木はテレサの「日本のお父さん」とも言われていた。・1979年、26歳のときにパスポート偽造事件で国外退去に。これは暗にみなやっていたことであったが、テレサが芸能人だったこともあり大きなバッシングを受けた。・1983年、中国でもヒットしていたが、中国政府が精神汚染の元凶としてテレサ・テンの歌を禁止。カセットテープは没収され、聴くことも口ずさむことも禁じられた。中国の人々は音量を低くして隠れて聴き続けていたという。・「つぐない」は最初はあまり売れなかったが、ターゲットを有線にしぼったことで大ヒットに繋がった。<受賞歴>●1974年第16回日本レコード大賞 新人賞「空港」●1984年第17回日本有線大賞 大賞「つぐない」第17回全日本有線放送大賞 大賞「つぐない」●1985年第18回日本有線大賞 大賞「愛人」第18回全日本有線放送大賞 大賞「愛人」●1986年第28回日本レコード大賞 金賞「時の流れに身をまかせ」第19回日本有線大賞 大賞「時の流れに身をまかせ」第19回全日本有線放送大賞 大賞「時の流れに身をまかせ」日本有線大賞・全日本有線放送大賞を史上初の3年連続ダブル受賞した。●1987年第20回日本有線大賞 有線音楽賞「別れの予感」『昭和ポップスの世界:筒美京平』『昭和ポップスの世界:松本隆』
2023.01.27
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「国際犯罪組織ワグネル、ウクライナ侵略にとどまらない」というネット記事が出たので紹介します。 ロシアの「国際犯罪組織」ワグネル、ウクライナ侵略にとどまらない暗躍の全容より 米国政府が1月20日、ロシアの民間軍事会社「ワグネルグループ」を「国際犯罪組織」に指定した。その結果、米国政府による同会社への各種制裁はさらに強化され、同社のウクライナへの侵略だけでなく、北朝鮮、イラン、中国など反米国家との取引にも今まで以上に厳しい監視の目が向けられると予測される。 米国政府の今回の措置は、ワグネルがロシアでの影響力を増し、ロシア政府のウクライナ侵略を強く扇動していることと、ワグネルが国際的な反米連帯網との接触を広めてきたことへの対応だとみられている。 ワグネル側の総責任者は米国のこの措置に対して、すぐに「我々がどんな罪を犯しているか明示してほしい」と挑戦的な書簡を送ったという。<ワグネルへの制裁を国際的に拡大> 米国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー戦略広報調整官は1月20日、ウクライナでロシア軍の侵略を支援しているロシアの民間軍事企業ワグネルグループを国際犯罪組織に指定し、同社に対してすでに実施している米国政府の制裁をさらに国際的に拡大する、と発表した。 カービー氏はその理由として「ワグネルはウクライナ国内で単なる軍事侵略行為だけでなく、虐殺や弾圧など犯罪行為をさらに強めている」と述べた。 ワグネルを国際犯罪組織に指定したことで、米国政府がこれまですでに実行している、ワグネルによる米国製の兵器や部品の使用禁止という措置に加えて、米国人によるワグネルへの協力や献金、ビジネス取引なども禁止される。また、ワグネルの米国内での資産も凍結される。ワグネルと取引をした第三国企業に対しても米国による制裁が適用されるという。(中略) ワグネルは当初は合計5000人ほどの社員を抱え、そのうちの約2000人が戦闘要員とされていた。戦闘要員には、ロシアの連邦軍や警察の出身者、チェチェンの元ゲリラ、セルビアの元大統領親衛隊員らも多数含まれていた。 しかし米国の昨年12月の発表によると、ワグネルはウクライナにすでに約5万人の戦闘要員を送り込んでいる。そのうちの約1万人が外国人を含む志願の傭兵で、残り4万人はロシア各地の刑務所に収容されていた服役囚だという。この人数は、動員可能な戦闘要員をワグネルが急激に増大したことを示していた。(古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)ウクライナに供与されるレオパルト2の記事も見てみましょう。ドイツが送るのは「世界最強戦車」 レオパルト操縦した元防衛駐在官より――レオパルト2をどう評価しますか。 スペックや信頼性という点で、米国の「M1エイブラムス」やフランスの「ルクレール」より優れた戦車だと思います。 例えば、エイブラムスはガスタービンエンジンです。大出力を誇りますが、燃費が悪いうえにメンテナンスが難しいと言われています。おそらく、専門の整備チームを作らないと運用できないでしょう。 レオパルト2はディーゼルエンジンで、燃費も良いし、メンテナンスが簡単です。不良品の発生率も少なく、「英米仏の戦車よりも頑丈だ」というのが軍人たちの一般的な評価です。
2023.01.27
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「アメリカとドイツ、ウクライナに戦車の供与」というネット記事が出たので紹介します。 アメリカとドイツ、ウクライナに戦車の供与を計画より アメリカとドイツが、ウクライナへの戦車の供与を計画していることがわかった。両国のメディアが24日、報じた。アメリカのジョー・バイデン大統領府は近く、戦車「M1エイブラムス」をウクライナに送る計画を発表するとみられている。一方、ドイツのオラフ・ショルツ首相も、同国製の戦車「レオパルト2」のウクライナへの供与と、他国による同戦車の供与の承認を決断したと報じられている。ウクライナは、戦車が供与されれば、ロシア軍との戦闘に大きな影響を及ぼしうるとしている。ロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ報道官は、米独による戦車の供与は「間違いなくマイナスの結果」をもたらすと述べた。アメリカとドイツの政府は、ウクライナに戦車を供与するよう、内外から圧力を受けてきた。しかし、アメリカは戦車が大がかりな訓練やメンテナンスを必要とすることから、ドイツは北大西洋条約機構(NATO)が戦争当事者になる恐れから、そうした圧力にそれぞれ抗してきた。■米国は30~50台供与との報道米メディアは匿名の情報源の話として、早ければ25日にも、ウクライナへの戦車の供与が発表されると報じている。関係者の1人はニューヨーク・タイムズに、30〜50台の戦車が送られる可能性があると述べた。供与の時期はまだ明らかになっていない。 米メディアによると、ドイツ政府関係者はレオパルト2の供与について、アメリカもM1エイブラムスを供与する場合のみ、同意すると内々に主張していたという。両国の政府関係者は、それぞれの供与に関連性はないとしている。バイデン氏の盟友のクリス・クーンズ上院議員(民主党)は24日、「もしドイツが、アメリカがエイブラムスを送る場合のみレオパルトを送ったり、(他国が供与するのを)自由にしたりすると言い続けるなら、アメリカはエイブラムスを送るべきだ」と、政治サイトのポリティコに話した。■ドイツは少なくとも14台を供与かドイツはこれまで、ロシアとの紛争を激化させる恐れがあるとして、自国の戦車をウクライナに供与するのをためらってきた。他国がレオパルト2をウクライナに供与することについても、ドイツは必要な承認を与えることに消極的だった。しかし、国際的な圧力を受け、ショルツ氏は少なくとも14台のレオパルトの供与を決めたと、独メディアは伝えている。14台という戦車の数は、典型的な中隊を構成する戦車の台数であり、ポーランドが供与を表明している台数とも一致する。また、イギリスが供与を約束している同国の戦車「チャレンジャー2」の台数とも同じだ。英シンクタンクの国際戦略研究所によると、レオパルト2を保有するのは、ヨーロッパとNATOの少なくとも16カ国。それらすべての国がウクライナに供与するわけではないが、報じられているショルツ氏の決断によって、各国は供与が可能になる。ショルツ氏の決断は、ドイツ誌シュピーゲルが政府筋の話として報じた。その後、他のメディアも確認したもようだ。
2023.01.26
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「ルビーの指環」「赤いスイートピー」「木綿のハンカチーフ」などで昭和ポップスを牽引した松本隆さんであるが・・・「昭和ポップスの世界」というサイトで、松本隆の人となりをのぞいて見たのです。昭和ポップスの世界:松本隆より<各著名人からの評価>■松任谷由実やっぱり松本さんってミュージシャンだから、詞は字面で読んだだけだとあまりピンとこないんですよ。ところが、実際に歌ってみて、ミックスも仕上がってから聞くと、「おお、そうでしたか!」と感心する。■筒美京平もしかしたら、松本君が作詞家と呼べる最後の人かも知れない。彼のように日本語の言葉の響きを美しく表現できる人はもう出てこないんじゃないかな。■松田聖子長い間、一緒にお仕事をしてきて、毎回、ドキッとするような言葉が出てくる。私の生活とか気持ちとか、まるで魔法の鏡でももっていらして、覗いていらっしゃるんじゃないかと思うほど。その時々の私の心にピッタリだったんです。『昭和ポップスの世界:筒美京平』
2023.01.26
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「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「木綿のハンカチーフ」など昭和ポップスを牽引した筒美京平さんであるが・・・「昭和ポップスの世界」というサイトで、筒美京平の人となりをのぞいて見たのです。昭和ポップスの世界:筒美京平より<筒美京平ってどんな人?>日本の音楽業界の頂点にして原点のような、伝説のお方。曲の制作スピードが早すぎるため、「筒美京平」というゴーストライター集団なのではないか?とまで言われていたらしいが、まごうことなき一人の作曲家。しかしながら、授賞式などでテレビに映ることはあっても、筒美氏が自らの意思でテレビ出演したことはほとんどない。日本一のヒットメーカーでありながらその素顔は謎のベールに包まれている。■作曲家になるまで1963年、日本グラモフォン・レコード株式会社(後のポリドール)に入社。洋楽ディレクターとして4年間務めた。入社の面接の際、邦楽の担当には絶対なりたくなかったらしく「洋楽じゃないとイヤだ」と伝えていたという青山学院の先輩である作詞家の橋本淳に「やったらどう?」と誘われたことがきっかけで、1966年に作曲家デビューヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」(1967年)が初のヒットとなる最初は作曲用の名前をを「鼓 響平」にしようかと思っていたが、画数が多いのと、左右対称だと縁起がいいからということで「筒美京平」となった■筒美京平と音楽自身の楽曲で気に入っているのは尾崎紀世彦「また逢う日まで」、堺正章「さらば恋人」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」洋楽を日本仕様にするにあたって、大きな影響を受けたのは「バート・バカラック」だと自他ともに認めている幼少からクラシック、大学時代はジャズを嗜んでおり、彼のルーツに歌謡曲はない。実際に以前「歌謡曲という名のつくものが大嫌いだったんですよね。軽蔑していたんじゃないかしら。ハッハッハ」と語っている一番忙しかったときで、1ヶ月に45曲書いたという「吉田拓郎の『結婚しようよ』が出てきた時、これは大変だと思った。やっぱり新しかった」と本人が話している■周囲の人が語る筒美京平像学生時代の先輩の作詞家橋本淳は、高校時代の筒美の印象について「暗い、地味、人嫌い」。筒美氏は園芸部だったらしく、学校の花壇で花を手入れしている高校生だったらしいCBSソニーの伝説のプロデューサーとも言われている酒井政利は、筒美について「結構怖いところがあるんですよ。レントゲン技師みたい」と言っている後年、プロデューサーの酒井政利は、「筒美京平で山口百恵という路線は考えなかったのか」という質問に対して「それは一度も考えなかったですね。山口百恵とは合わないと思うんですよ。彼女は暗く重くしてしまうところがあるから、筒美京平作品を否定して入ってしまうと思ったんです。(筒美氏が南沙織の楽曲も多く手掛けていることから)南沙織のアンチテーゼが山口百恵でもあり、山口百恵のアンチテーゼが松田聖子になっていくわけだから。だから本当は松田聖子と筒美京平は合うと思う」と答えている筒美京平が最も多くタッグを組んだ編曲家である船山基紀によると「ところで筒美京平先生とはどんな人なのか。メディアにほとんど出ないので、一般の音楽ファンには謎の人と思われているが、まず京平先生にとって、楽曲は売れることが第一義。売れたら評価されるし、売れなければ駄目」とのこと先日読んだ『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』を紹介します。『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』2:平山三紀の声は「楽器だ」『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』1:「真夏の出来事」
2023.01.25
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朝日新聞『つげ義春さん「自分なんかでよいのだろうか」』という記事をネットで見つけたのだが・・・ 謙虚なつげさんが表れているので、以下のとおり紹介します。つげ義春さん「自分なんかでよいのだろうか」芸術院会員選出に驚きより 日本芸術院の新会員候補に、「ねじ式」「無能の人」などで知られる漫画家のつげ義春さん(84)が決まった。3月1日付で文部科学相が発令する。新設分野の「マンガ」で選ばれたつげさんは「非常に名誉に感じています。マンガ界に何かよい影響があれば」などと朝日新聞にコメントを寄せた。 芸術院会員に新設の「マンガ」、ちばてつや氏・つげ義春氏を選出 つげさんは1937年、東京都生まれ。小学校卒業後、めっき工場での勤務などを経て、1954年にデビューした。雑誌「月刊漫画ガロ」などで活躍し、「沼」「チーコ」「李さん一家」「紅(あか)い花」「ねじ式」「ゲンセンカン主人」「無能の人」など幻想性、叙情性のある作品や私小説的な作品を発表。独特の作風で人気を博した。故・水木しげるさんのアシスタントを務めていたこともある。 87年の「別離」を最後に断筆。2017年に日本漫画家協会賞大賞、20年に仏・アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞を受賞した。 文化庁の発表資料では推薦理由について、「人間存在の不条理や世界からの疎外を垣間見せる『文学的な』表現によって、自己表現としてマンガを捉える青年たちに絶大な影響を与えた」「美術と文学の世界からも高い評価を集め、その作品を読み解く試みを誘発してマンガ評論の発展にも影響を及ぼした」などとしたうえで、「まさに『芸術』としてのマンガ表現において日本を代表する作家」としている。 会員は非常勤の国家公務員で年250万円の年金が支給される。任期は終身。新設された「マンガ」分野では、「あしたのジョー」「おれは鉄兵」などで知られるちばてつやさん(83)も選ばれた。 つげさんのコメントは次の通り。■つげ義春さん「マンガ界によい影響があれば」 突然選出を知り、驚きました。選ばれるとは思っていませんでした。日本芸術院に関する知識もなく、自分なんかでよいのだろうかとも思いましたが、選んで頂いたこともあり、ありがたくお受けしました。マンガの分科が新設され、その初代の会員ということも、非常に名誉に感じています。今後の具体的なことについてはまだよくわかりませんが、マンガ界に何かよい影響があればいいなと思います。(黒田健朗)
2023.01.25
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朝日新聞『デジタル終活のすすめ』という記事をスクラップしたのだが・・・ 最近になってクレジット会社から支払先不明の課金ハガキが到来してきて、その処置に往生こいているわけで、スクラップとネット記事から、以下のとおり紹介します。ちなみに、私はアナログ老人なのでスマホは持っていないのです。デジタル終活のすすめ 家族用に「スマホのスペアキー」を」より 家族とLINEで会話し、公共交通機関や買い物は専用機にタッチすれば決済完了、移動中だってサッカーW杯を観戦――。日常生活に欠かせぬスマホを始め、パソコンやタブレットなど「デジタル社会」が到来しつつあります。では、死後の備えは? 「デジタル遺品」に詳しいジャーナリスト古田雄介さん(45)に聞きました。 超高齢社会で「終活」にいそしむ人が増え、「デジタル遺品」という新語もここ数年で急速に広まった。それは何を指すのか、まず全体像をつかもう。「デジタル遺品を考える会」代表を務める古田さんによると、①携帯電話やパソコンなどの情報端末 ②ネット上にある故人のアカウントや投稿 ③故人のネット金融口座の預金など、の大きく三つに分かれる。①は目に見えるが、 ②③は本人以外に見えづらい。 最近、古田さんに寄せられる相談で急増中なのが「サブスプリクションの契約解除を巡るトラブル」で、②にあたる。動画コンテンツやゲームといった定額制の配信サービスなどが本人没後も解約できず、毎月もしくは毎年、課金され続けてしまうという。 なぜ、そんな事態が起きるのか。 例えば動画配信「Hulu」を解約したい人向けのサイト画面では、顧客に「決済方法」を問う選択肢が18個も現れる。「クレジットカード」「PayPay」「d払い」などと続き、最後は「わからない」。それぞれで解約の仕方が異なり、わからない場合は本人の「アカウント」と「パスワード」が必須だ。 古田さんも以前、故人の銀行口座からクレジット会社経由で引き落とされる“支払先不明のサブスク課金”に悩む遺族に泣きつかれた。「わずか550円の課金の主を突き止めるのに数週間を費やし、遺産が確定できないので海外在住者が日本に足止めになったとも。行政や業界は指針を作るなど早急に対応すべきです」 古田さんは葬儀社スタッフなどを経てライターになり、2010年ごろからは亡くなった人のブログやホームページを丹念に調べ、15年に単行本「故人サイト」をまとめた。この時、ネット上に残る死者の日記などの権利関係を探る過程で、デジタル遺品が放置されている現状を痛感。20年に新書「スマホの中身も『遺品』です」、昨秋も共著を出版するなど啓発してきたが、「デジタル遺品のリスクはまだまだ認知されていません」とこぼす。■スマホのデータ入力ミスで消滅 象徴的なのが、故人のスマホを他者がロック解除する際の注意点がほぼ知られていないことだ。息を引き取った途端、訃報の連絡や葬儀の準備に慌しい遺族がやみくもにパスワードを入力してミスが連続すると初期化、つまり内部のデータが消えてしまうことがしばしばあるという。「スマホのロックはパソコンよりもずっと強力で、米連邦捜査局(FBI)さえ開けられない。解除を請け負うサービス自体が少なく、対応する企業でも成功報酬で20万~50万かかり、解除までに1年以上かかることも。遺族にはとてつもない負担です」 そこで古田さんが考案したのが「スマホのスペアキー」だ。“たった3分間のデジタル終活”をうたい、名刺大の厚紙にスマホの型番とパスワード、記入日を書き込み、パスワード部分だけを修正テープを2、3回走らす。あとは預金通帳などを入れた引き出しなどに保管するだけ。「手製のスクラッチカードのようなもの。盗み見されたら痕跡が残るので対処でき、万一の時には家族を救います」(中略) 終活といえば高齢者のイメージが根強いが、「デジタル終活は、スマホ決済が当たり前になっている若い世代を含めて全員がやってほしい。大晦日など家族が集まる機会にぜひ、『スマホのスペアキー』を作ってみてください」。
2023.01.24
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本邦初のイシグロ論とも言える平井杏子著『カズオ・イシグロ』を、以下のとおり紹介します。【カズオ・イシグロ】平井杏子著、水声社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりデビュー作(『遠い山なみの光』)から最新作(『夜想曲集』)までの全作品をとりあげグローバルな作家の全貌にせまる。本邦初のイシグロ論。<読む前の大使寸評>カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したのは2017年であるが、2011年にこれだけの本(本邦初のイシグロ論とのこと)が出ていたことに驚くわけでおます。amazonカズオ・イシグロ『カズオ・イシグロ』3:『わたしを離さないで』『カズオ・イシグロ』2:幻想の上海租界『カズオ・イシグロ』1:イシグロの育ったイングランドとイギリス文学 ***********************************************************丸谷才一さんが、カズオ・イシグロの短編集『夜想曲集』を高く評価しているが・・・『星のあひびき』でそのあたりのことが述べられています。 【星のあひびき】丸谷才一著、集英社、2010年刊<「BOOK」データベース>より戦争の世紀20世紀を眺望し、モーツァルトと『源氏物語』を評価した名誉をたたえる。村上春樹訳のチャンドラーから井上ひさしまで、バルガス=リョサからカズオ・イシグロまでの傑作を推奨する。『坊つちやん』を大胆に解釈し、仔犬を抱いて笑う少年特攻兵の写真に泪する。ゴシップ・ユーモア・奇想・新説がたっぷり。高級で愉しい快楽の書。<読む前の大使寸評>歴史的仮名遣いで知られる丸谷さんが、村上春樹訳のチャンドラーからカズオ・イシグロまで、語るってか・・・ナウいやんけ♪(今ごろナウいは通用するだろうか?)rakuten星のあひびきp125~127<短篇小説は音楽と夕暮れによく似合ふ> 「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」といふ副題の通り、哀愁と抒情が基調だが、イギリス小説の伝統に従って喜劇性とユーモアを忘れず、むしろそのことによって憂愁の味を深める。その作風はなんとなくあの「もののあはれ」を連想させ、この日系イギリス作家の血にはやはり日本文学が流れてゐると思ひたくなる。 たとえば『夜想曲』は、うだつの上がらないテナー・サックス吹きが、マネージャーと妻から、顔の整形をすれば花形になれるとすすめられ、離婚した妻の再婚相手から費用を出すと言はれ、手術を受けて超一流ホテルに長期滞在する。 隣室にゐるのが同じ医師からやはり美容整形を受けてゐる、同じやうに顔を包帯でぐるぐる巻きにしてゐる一流の映画女優で、暇つぶしの下手なチェスの相手をするうちに、彼女の深夜の、ホテルのなかで散歩の満づれとなって、奇妙な冒険に巻き込まれる。芸能界の滑稽さを、じつにたちの悪い角度から上手にとらへた佳作。 『老歌手』はもっとわびしい音楽家が語り手。観光客相手に奏くヴェニスの「ジプシー」・ギタリスト。(中略) わたしが最も感銘を受けたのは最後の『チェリスト』だった。語り手は観光客相手のバンドのサキソフォン吹き。1日に何回も《ゴッドファーザー》や《枯葉》を吹く。ある日、客のなかにかつての同僚、チェロ奏きのティボールを見かける。7年前、彼は若くて有望で、みんなが引き立てようとした。ところがアメリカ人の女が彼に目をつけ、おだてあげ、個人教授を買って出たため、のぼせあがって、みんなが苦心して用意したアムステルダムのホテルへの就職を断った。色事の関係はなかったが、バンドマンたちは当然あると思ひ込んでゐた。 そのうちに、大屋のはずの女が11歳以後、チェロを奏いてないことがわかる。ティボールは別の街へ流れて行った。ティボールらしい男が手を振ったので、サキソフォン吹きは自分への挨拶だと思ったが、ウェイターを呼んだのだった。しばらくすると、その男はもうゐなくなってゐた。若者と老楽士との束の間の再会を描いてまことに切ない。平凡な老年を迎へようとする平凡な男の人生の一片が切取られ、差出されてゐる。 短篇小説集は音楽と夕暮れによく似合ふ。
2023.01.24
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つげ義春のテイストといえば、ストーリーもさることながら線描も秀逸なわけで・・・ 『Spectator つげ義春』という本を、以下のとおり復刻します。***********************************************************図書館で『Spectator つげ義春』という本を、手にしたのです。ざっとめくると、漫画、年譜、インタビューなど載っていて、つげ義春に関する情報が満載で・・・ええでぇ♪【Spectator つげ義春】ムック、幻冬舎、2018年刊(商品レビュー)より判型が大きく、レイアウトもすっきりしているので、「ねじ式」のころから、つげ漫画を愛読している老人にも読みやすい。「アックス」みたいなマイナーな雑誌かと思ったら、ノースフェイスやグレゴリーの広告(しかもカラー)が載っていて意表をつかれた。内容は、それほどマニアックではなく、フツウに、よくまとまっている。「ねじ式」の元ネタの古い写真の数々は、よく発掘しましたね。<読む前の大使寸評>ざっとめくると、漫画、年譜、インタビューなど載っていて、つげ義春に関する情報が満載で・・・ええでぇ♪rakutenSpectator つげ義春つげ義春の創作術を見てみましょう。p155~156<つげ義春の「創作術」について:高野慎三> つげ義春さんがマンガ作品を手がける直前に、おおまかなストーリーを聞かせてくれたのは、いつの頃からだったのかはっきりとは憶えていない。 66年の後半に『ガロ』に発表した「手錠」や「通夜」のころに作家と編集者として交流が始まったが、そのあとの「山椒魚」や「李さん一家」は描きあがった原稿を手渡されるまで内容を知らないでいた。 たぶん、「峠の犬」「海辺の叙景」「紅い花」あたりから、調布銀座の喫茶店「京王」で次回作品のストーリーを知らされたのだと思う。紅い花 つげさんはコーヒーを飲みながら、ジャンパーのポケットから文庫本の大きさのノートを取り出し、ときどきノートに目をやりながらストーリーを話し出した。それは、執筆にあたってのつげさんなりの確認作業のようなものであったに違いない。 わたしは途中で口を挟むこともなく、「海辺の叙景」や「紅い花」の情景を次々と勝手に想像した。話し終わったあと、画像もコマ割りも想像することはまったく不可能であったが、「完璧」のような気がしたと伝えた。 つげさんは、「そうかなあ」「そうだといいんですけどね」といつも静かにつぶやいた。 もう30年ほど前のことになる。つげさんは、「マンガ作法」のような文章を1冊分書いてみたいと語ったことがある。小説好きのつげさんは、小説家のいく人もが著す「小説の書き方」のような入門書を念頭においていたのかもしれない。手塚治虫や石森章太郎らの「マンガの描き方」がすでに存在していたのだが、それらとは異質の方向を目指しているように思えた。結局、その構想が結実することはなかったが、つげさんの内部ではしっかりした全容が構築されていたようだった。その一端を垣間見たことがある。 つまりこんな感じだ。ふと、なにかのきっかけであるシーンが思い浮かぶと、それを小さなノートに鉛筆で記す。その数行のメモから発して、ストーリーを組み立てながら、メモ帳に粗筋を描き込んでいく。あらたに浮かんだいくつかのシーンも付け加えられ、次第にストーリーが完成に近づき、さらに推敲が繰り返される。 そのあたりで、登場人物の体型や顔、そして衣服等がスケッチされる。ケント紙に20、30と主人公をはじめとする人物の表情が描き出されることもある。キャラクターが定着するまでの積み重ねが、つげさんらしい慎重さを物語る。 そのあと、わら半紙を四分の一に切り裂いて、そこに鉛筆でコマ割りがなされる。人物のセリフやナレーションなども書き入れられるが、人物の顔や形はきわめて粗雑なコンテ風であって、表情すらうかがえない。 この段階では、むしろストーリー展開やセリフに重点が置かれているように見える。したがって、このときにページ数が増減することもしばしばある。結果、コマの移動や改稿による絵コンテが二つ、三つと生まれることがあるようだ。 そして、この段階を経てほぼ作品は決定的となる。こんどはわら半紙半裁、つまり『ガロ』と同じB5の大きさに、同じく鉛筆でコマ割りがなされる。ひとつふたつ空白のコマが認められたりするが、本人によれば、「そこだけ定まったイメージにいたらない」からだそうだ。 最終ページは、最初に作品のイメージが浮かんだときに、どのような画像で物語を締めくくるかは出来上がっているようだった。つげさんは、ときに自らを「職人」みたいなもの、という言い方をすることがある。鉛筆で下書きされた原稿用紙を準備し、ペンを手にしたら一気に終りまで描き進めるからだ。原稿用紙の下書きも、それ以前の絵コンテ同様にそれほどリアルではないが、ペンはラフな下書きの上に迷いもなく悠然とリアルな画像を生み出す。「ペン入れは難しいことじゃない、話は最終ページまで出来上がっているのだから、あとは職人として描けばいいんですよね」と語ったことがある。ペン入れ前に「完成した」という感触を持つのは、そういう意味なのだろう。この記事もつげ義春ワールドに収めるものとします。『Spectator つげ義春』2:つげ義春の創作術『Spectator つげ義春』1:はじめに
2023.01.23
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腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことだが、元日本ペンクラブ会長だけに、なかなかの対談者がそろっています。 ・・・で、『歴史・小説・人生』を、以下のとおり復刻します。***********************************************************図書館で『歴史・小説・人生』という本を、手にしたのです。腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。【歴史・小説・人生】浅田次郎著、河出書房、2005年刊<「BOOK」データベース>より中国・新選組・見栄っ張り東京人。自作・男気・愛国心…。浅田次郎はじめての対談集。名匠・浅田次郎のこれまでの人生、小説、そして歴史と世の中の動きを、大きく細かく掘り下げる、魅力のエッセンス。ファン待望の一冊ついに登場。<読む前の大使寸評>腰巻を見ると、「浅田次郎はじめての対談集」とのことで・・・これは期待できそうでおます。amazon歴史・小説・人生宮部みゆきさんとの対談の続きを、見てみましょう。p193~196<本日の大団円。麗しの高卒同士>宮部:あのぉ~、差し支えない範囲で浅田さんのご家族とかご親戚のことをもうちょっと掘り下げていくと、作家とか学者さんとかいらっしゃるんですか?浅田:いや、まったくいない。宮部:あっ、ほんとに?浅田:宮部さんち、いるの?宮部:ぜ~んぜん!(笑)。浅田:うちなんか、本もなかったもん。宮部:うちも! 病気したときだけ買ってもらえたけど、「五百円もした本、1時間で読んじゃったの?」とか言われて。浅田:それ似てます、かなり(笑)。作家になるような環境って、一つもなかった。宮部:共通してますね。うちは肉体労働の家系なんで、私は異分子だったんです。母が「おまえは橋の下で拾ったんだよ」って(笑)。浅田:うちのおやじも、「おめえが作家? そんなはずはねえ」って死ぬまで言ってた。宮部:そういう次郎少年を、作家へと駆り立てたものは何だったんですか?浅田:ないものねだりじゃないかと思う。うちには電化製品はいろいろあったけど、本がなかったので憬れをもったんじゃないかな。宮部:お書きになり始めたときって、いくつぐらい?浅田:うろ覚えだけど、中学1年の授業中に連載小説を書いて、クラスに回してたらしい。たしか豊臣秀頼は石田三成と淀君との不倫の子でっていう、壮大なエロ小説(笑)。はっきり覚えているのは、中一か中二で『小説ジュニア』に初投稿したんですよ。宮部:はや~い!浅田:でも僕、それ以来たくさんの出版社に原稿持ち込んで、ほとんどボツになっていますから。宮部:ええっ、ほんとに?浅田:うん。『壬生義士伝』の原型なんか、28歳のときに書いて出版社に持ってったけどボツになった。宮部:その出版社は大魚を逃しましたね。でも『壬生義士伝』の原型を28歳でお書きになってたって、すごいなあ。早く世にでたいっていう焦りはなかったですか?浅田:焦りがないっていうより、僕はすごく自己採点が甘いんですよ。大学受験のときも、試験のあと全部受かったと思ってたら全部落ちてたし(笑)。小説でいうと、書いて出版社に持って行く時点で自分は小説家になったと思ってるから、返されたり新人賞に落ちたりすると、おかしいな、読んでくれなかったんだな、としか思わなくて(笑)。宮部:でもだれか、小説を書くうえでの恩師とか、励ましてくれた人がいたとか?浅田:ないっすね、それは。宮部:ないっすか(笑)。私は高校時代、「文章で身が立てられるかもしれない」って言ってくれた先生がいたんです。直木賞のパーティーにその先生を呼んで、お礼を言いました。浅田:美しい話だなあ。僕は高校時代グレてたし小説を書いているなんて恥ずかしくて誰にも言わなかった。宮部:えっ、意外。浅田さんて生徒会長をなさってた、とかいうイメージだったんですけど。浅田:とんでもない。今のヘアスタイルからは想像つかないだろうけど、高校時代はライオンのような鮮やかなリーゼントだよ(笑)。宮部:ええ~っ、ほんと? 写真みた~い!浅田:見せてやりたいなあ。コンポラのスーツ着て、夜な夜な六本木や赤坂に通う高校生だったんですよ(笑)。で、学校のクラブは園芸部。宮部:園芸部?浅田:そう、学校を停学になった子が、園芸部員として花壇の手入れとかやる。宮部:あっ、それで今もガーデニングが得意なんだ。浅田:そうそう、昔取った杵柄で(笑)。だからおかしいのはさ、僕が直木賞をとったとき、最終学歴で高校名がでてても先生たちは誰も僕だと気がつかないのよ。宮部:あれっ、浅田さんて…。浅田:中大杉並高校卒です。宮部:えっ、ほんとに? 高卒の作家って、私だけかと思ってた!浅田:な~に言ってんの。俺は前から宮部さんの学歴を見て、シンパシーを感じてたよ(笑)。宮部:いやぁ~、うれしい! 浅田さんも、大学生活を知らないんですね。浅田:知らないよ。高卒で自衛隊に入って、19歳から兵隊だもの(笑)。いまどき希少価値だよね、高卒って。宮部:周りにあまりいないですもんね。『歴史・小説・人生』10:宮部みゆきさんとの対談(続き)『歴史・小説・人生』9:高橋克彦さんとの対談『歴史・小説・人生』8:龍王=天命はどこに?『歴史・小説・人生』7:陳舜臣さんとの対談(続き)『歴史・小説・人生』6:森永卓郎さんとの対談『歴史・小説・人生』5:張作霖について『歴史・小説・人生』4:陳舜臣さんとの対談『歴史・小説・人生』3:宮部みゆきさんとの対談『歴史・小説・人生』2:岩井志麻子さんとの対談『歴史・小説・人生』1:『蒼穹の昴』
2023.01.23
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鳥は恐竜から派生したと言われているようだが、鳥と恐竜の境目あたりが大使のツボになっているのです。・・・で、そのツボのあたりを並べてみました。ミクロラプトル*********************************************************** ・2021.05.04 『38億年 生物進化の旅』1『38億年 生物進化の旅』1:恐竜巨大化の謎・2021.05.04 『38億年 生物進化の旅』2『38億年 生物進化の旅』2:鳥の起源・2021.12.08 『大人のための恐竜教室』1『大人のための恐竜教室』1:鳥は本当に恐竜なのか・2021.12.08 『大人のための恐竜教室』2『大人のための恐竜教室』2:2種類の恐竜・2021.12.09 『大人のための恐竜教室』3『大人のための恐竜教室』3:鳥と恐竜の境目*********************************************************** 『大人のための恐竜教室』で、鳥と恐竜が語られているあたりを、見てみましょう。p178~181<羽毛だけでは鳥じゃない、鳥と恐竜の境目>山田:恐竜で見た目がほとんどダチョウなら、それはもう鳥なんじゃないかと思うのですが・・・。恐竜と鳥を区別する決め手は、どこにあるんでしょう?真鍋:今の動物だけで言えば、羽毛は鳥にしかない特徴です。だから昔は、羽毛を持っていれば鳥だと分類することができました。1861年、ダーウィンの時代に見つかった始祖鳥は羽毛を持っていたので、「これはもう鳥ですよね」とすぐに鳥に分類することができたんです。1996年まではそれでよかったんですけれど、羽毛のある恐竜が見つかったことで、羽毛を持っているだけでは鳥だと言えなくなっちゃったんです。 結局のところ、何をもって定義するかですから「羽毛を持っていたら全部鳥」という言い方もできなくはない。ですが、シルエットはどう見ても恐竜なのに、フリースみたいなふさふさの羽毛であれば、それを「鳥」と呼べるのか。そこで、翼を持っているものを取りって言いましょうということに落ち着いた。山田:実にわかりやすく説得力のある基準ですね!真鍋:最初のうちは翼を持っている「羽毛恐竜」は見つかっていなかったので、しばらくの間は、翼は飛ぶために進化したものだから、翼があれば鳥だと呼べる。翼が出てくるのは始祖鳥以降ですよね、ってみんな安心していたら・・・。山田:安心していたら? 嫌な予感がしてきましたよ(笑)。真鍋:2003年に立派な翼を持ったミクロラプトルが発表されたんです。前あしに大きな翼、そして後ろあしにも大きな翼を持っているんですが、そのほかのさまざまな特徴からは鳥とは言えない。それで、ミクロラプトルは恐竜に分類されました。それ以降、翼を持っているだけでは、鳥とは言えなくなってしまったんです。山田:ほら始まった(笑)。じゃあ今度は、何をもって鳥と?真鍋:羽ばたける仕組み、竜骨突起という骨を持っているかどうかが、ひとつの指標になります。(中略) ところが、始祖鳥には竜骨突起がありません。竜骨突起と胸骨はあったけれど、それが軟骨だったために化石がのこらなかったという可能性もあります。軟骨だったとしたら、大きな筋肉をつけられないだろうから、翼はあっても枝から枝へ飛び移る程度で、十分に羽ばたくことはできなかった可能性が高くなります。山田:では、始祖鳥は今ではもう鳥とは呼べなくなったわけですね。つまり、始祖鳥は分類上は恐竜になったということでいいんですね?真鍋:竜骨突起で分類するとそうなのですが、新種の恐竜や鳥が出てくるたびに分類を変えると混乱するので、歴史的には1861年以来、始祖鳥をもって恐竜と鳥の境目にしてきたので、今のところそれを踏襲しましょうということになっています。
2023.01.22
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丸谷才一さんが、村上春樹訳のチャンドラーからカズオ・イシグロまで、語るってか・・・ ・・・ということで、『星のあひびき』を、以下のとおり復刻します。***********************************************************図書館で『星のあひびき』という本を、手にしたのです。歴史的仮名遣いで知られる丸谷さんが、村上春樹訳のチャンドラーからカズオ・イシグロまで、語るってか・・・ナウいやんけ♪(今ごろナウいは通用するだろうか?)なお、帰って調べてみたらこの本を借りるのは2017年11月以来2度目であることが、判明しました(又か、でも再読でもいいではないか)。【星のあひびき】丸谷才一著、集英社、2010年刊<「BOOK」データベース>より戦争の世紀20世紀を眺望し、モーツァルトと『源氏物語』を評価した名誉をたたえる。村上春樹訳のチャンドラーから井上ひさしまで、バルガス=リョサからカズオ・イシグロまでの傑作を推奨する。『坊つちやん』を大胆に解釈し、仔犬を抱いて笑う少年特攻兵の写真に泪する。ゴシップ・ユーモア・奇想・新説がたっぷり。高級で愉しい快楽の書。<読む前の大使寸評>歴史的仮名遣いで知られる丸谷さんが、村上春樹訳のチャンドラーからカズオ・イシグロまで、語るってか・・・ナウいやんけ♪(今ごろナウいは通用するだろうか?)rakuten星のあひびきカズオ・イシグロの短篇小説が語られているので、見てみましょう。p125~127<短篇小説は音楽と夕暮れによく似合ふ> 短篇小説集は、普通、ある作家が同じ時期に書いた数篇を集める。ボードレールの詩集『悪の華』あたりの編集法にならって、同じ主題や手法の作品で揃え、調和と統一を狙ふ手もある。その嚆矢はジョイスの、アイルランドの首都ダブリンの住民たちの物語十五篇を並べた『ダブリンの市民』か。近くはA・S・バイアットがマチスの絵にちなむ話三篇で『マチス・ストーリーズ』を出した。そしてこのカズオ・イシグロ最初の短篇集は、ミュージッシャンが語り手の、音楽にゆかりのある話を並べる作り。 「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」といふ副題の通り、哀愁と抒情が基調だが、イギリス小説の伝統に従って喜劇性とユーモアを忘れず、むしろそのことによって憂愁の味を深める。その作風はなんとなくあの「もののあはれ」を連想させ、この日系イギリス作家の血にはやはり日本文学が流れてゐると思ひたくなる。 たとえば『夜想曲』は、うだつの上がらないテナー・サックス吹きが、マネージャーと妻から、顔の整形をすれば花形になれるとすすめられ、離婚した妻の再婚相手から費用を出すと言はれ、手術を受けて超一流ホテルに長期滞在する。 隣室にゐるのが同じ医師からやはり美容整形を受けてゐる、同じやうに顔を包帯でぐるぐる巻きにしてゐる一流の映画女優で、暇つぶしの下手なチェスの相手をするうちに、彼女の深夜の、ホテルのなかで散歩の満づれとなって、奇妙な冒険に巻き込まれる。芸能界の滑稽さを、じつにたちの悪い角度から上手にとらへた佳作。 『老歌手』はもっとわびしい音楽家が語り手。観光客相手に奏くヴェニスの「ジプシー」・ギタリスト。(中略) わたしが最も感銘を受けたのは最後の『チェリスト』だった。語り手は観光客相手のバンドのサキソフォン吹き。1日に何回も《ゴッドファーザー》や《枯葉》を吹く。ある日、客のなかにかつての同僚、チェロ奏きのティボールを見かける。7年前、彼は若くて有望で、みんなが引き立てようとした。ところがアメリカ人の女が彼に目をつけ、おだてあげ、個人教授を買って出たため、のぼせあがって、みんなが苦心して用意したアムステルダムのホテルへの就職を断った。色事の関係はなかったが、バンドマンたちは当然あると思ひ込んでゐた。 そのうちに、大屋のはずの女が11歳以後、チェロを奏いいてないことがわかる。ティボールは別の街へ流れて行った。ティボールらしい男が手を振ったので、サキソフォン吹きは自分への挨拶だと思ったが、ウェイターを呼んだのだった。しばらくすると、その男はもうゐなくなってゐた。若者と老楽士との束の間の再会を描いてまことに切ない。平凡な老年を迎へようとする平凡な男の人生の一片が切取られ、差出されてゐる。 短篇小説集は音楽と夕暮れによく似合ふ。イラチな大使はさっそくカズオ・イシグロの『夜想曲集』を図書館に借出し予約したのです。『星のあひびき』2:わたしと小説p34~36『星のあひびき』1:小説家が教える海外文学p67~69
2023.01.22
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在職中には頻繁に韓国出張をこなしたので、韓国料理には思い入れが深いのです。 ・・・ということで、『食は韓国にあり』という本を、以下のとおり復刻します。***********************************************************図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり韓国の代表的家庭料理ということで、チゲとナムルを見てみましょう。p19~23 <チゲ> 突然におしかけて夕食となったとき、主婦が先ず、というか唯一というか作るのがチゲである。農村で畑仕事の合い間の昼食のために、畦道で作るのも、行商人が道端で冷えた御飯を混ぜて暖かい雑炊として食べるのもチゲだった。日本語では鍋ものと訳されることが多いが、食べる感覚としてはその通りでも、調理法、味的には具の多い味噌汁ではないかと思う。 そんなものだから、何度となく作るところを見ているし、教わりもしたが、代表的な作りかたはこんな具合だ。 お湯を沸騰させた鍋に細切りの肉を入れ、煮る。これでだしを取るし、具にもなる訳だ。テンヂャン、好みでコチュヂャン、すったニンニクも加え、豆腐、白菜、ズッキーニ等の具を入れ、さらに煮る。途中、あくを取り、全体に火が通ったらできあがり。このプロセスを食卓にコンロを置いてやってもいいし、台所で作ったものを運んでもいい。どちらの場合でも鍋のまま食卓の中央に置き、全員さじを突っ込んで食べる。 だしは肉ではなくイリコなどでもいい。コブだしはあったが、鰹節はないようだ。白菜ではなくキムチを加えてもいい。その場合はテンヂャンは入れなくてもいいし、入れてもほんの少しだけにする。最初のものはテンヂャン・チゲ、後者はキムチ・チゲと呼ばれる。 この二つが基本的な作りかたとしては代表的だが、具の入れかたでバリエーションはいくらでも広がっていく。テンヂャン・チゲなら、魚、蟹、貝などたっぷりと入れた海鮮風チゲも合うし、キムチ・チゲなら豚の三枚肉などふんだんに加えると旨い。何もなければ、豆腐とありあわせの野菜でも適当に使ってもいい。ま、こんな具合の料理だから大御馳走にもなるし、日々のお惣菜にもなる訳だ。 お惣菜の場合は先にも述べたように、これにキムチやナムル、辛し明太子、イカの塩辛などでも合わせたら、立派な食事になる。キムチ等買ってきて、チゲさえ作ったら「韓国料理の夕食を御馳走するから」と客を呼んで、焼肉を期待した相手が怒ろうとも、貴方は決して嘘をついたことにはならない。 そんな「御馳走」のために、ちょっとしたお惣菜の作り方も記しておこう。 キムチは後の章で詳しく述べるから、先ず、ナムル。日本の焼肉屋でもよく見かけるようになった野菜の和え物だ。ホウレン草やモヤシ、ゼンマイ等が知られているようだが、種類はもっと多い。春の七草のように日本人はよく野草を食べる民族だと自分たちでは言うが、韓国人の野草好きは日本人以上だと、『檀流クッキング』開祖の檀一雄氏が書いておられた。本当にその通りで、市場にも見たことのない野草が並んでいたりする。それがまたキムチやナムルになってしまう。 ともかく、ナムルの実例を上げよう。 大豆モヤシのナムル(コンナムル)1. 一袋分の太めのモヤシにカップ五分の一ほどの水と塩小さじ一を入れ、火にかける。蓋をしたまま中火で5分くらい煎り煮する。2. ぶつ切りにしたワケギ4,5本、つぶしたニンニク少々、ゴマ、(好みで)化学調味料、粉トウガラシ大さじ一、ゴマ油の順に入れ、火を止め、混ぜ合わせる。 他にも様々な作りかたがあるが、これはソウルの友人、鄭さんに教えてもらったものだ。一番難しいのがニンニクの入れ具合。韓国ではたっぷりと入ったものでも、舌がニンニク不感症になっているからか、ニンニクの種類の違いで癖が強くないのか、どうもはっきりしないが、とにかく気にならないのだが、日本でこの料理に入れ過ぎると、食べられたものではない。微妙に入れているな、という程度で止めておいた方がいい。トウガラシは家によっては全く入れない。好みだから、入れずに試して、後で少しづつ加えて比べてみればいい。韓国出張では社員食堂のチゲをいやというほど、食べさせられた大使でおます。社員食堂のチゲ『食は韓国にあり』1:キムチ作り『食は韓国にあり』2:韓国の中華料理『食は韓国にあり』3:日本式朝鮮焼肉『食は韓国にあり』4 :マッコリ・ハウス『食は韓国にあり』5 :チゲとナムル
2023.01.21
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17日の深夜にNHK「心の傷を癒すということ」というドラマが放映された。阪神・淡路大震災の際、在日2世の精神科医師がどう対処したかが描かれていたが、大震災を体験した大使は我が事として観たのである。 ・・・ということで、在日に触れた『在日の地図』を、以下のとおり復刻します。***********************************************************借出し予約していた『在日の地図』という本を手にしたのです。マンガの頁が半分くらいあり、写真も満載で読みやすいのだが・・・全国のコリアタウンの情報が広範囲、かつディープであることに驚いたのです。【在日の地図】山野車輪著、海王社、2006年刊<「BOOK」データベース>より何処から来て何処へ往く!?在日韓国・朝鮮人とは何者なのか?『マンガ嫌韓流』山野車輪の待望の最新作。【目次】東日本のコリアタウン(古き佳き関東在日韓国・朝鮮人の集住地区ー三河島(東京都)/JR千葉駅移転の謎解くキーストーンー千葉市栄町(千葉県)/在日VS東京都 朝鮮学校訴訟に揺れる街ー枝川(東京都)/重工業と共に歩んだ大規模コリアタウンー川崎市桜本・浜町・池上町・戸手(神奈川県) ほか)/西日本のコリアタウン(闇市起源の巨大コリアマーケットー大阪市鶴橋(大阪府)/在日韓国・朝鮮人の聖地、全ての道は猪飼野に通ずー大阪市桃谷(大阪府)/大震災から蘇った驚異の生命力ー神戸市長田区(兵庫県)/傷跡残した民団・総連の共同暴走危険行為ー相生市・三木市(兵庫県) ほか)<読む前の大使寸評>この本は、マンガの頁が半分くらいあり、写真も満載で読みやすいのだが・・・全国の在日の情報が広範囲、かつディープであることに驚いたのです。近場の長田区、焼肉の鶴橋が、個人的には興味深いのです。<図書館予約:(7/01予約、7/05受取)>rakuten在日の地図この本は、東日本および西日本のコリアタウンの探訪記となっているのだが、そのうち京阪神地域のコリアタウンを見てみましょう。<西日本編概説>よりp115~117 戦前期において半島と日本との連絡が、「釜山~下関」航路と「済州島~大阪」航路の2系統だったため、必然的に朝鮮人の集住地区は、西日本に偏重することになる。 特に大阪を中心とした京阪神地域は、日本全体の視点から比較してみても、在日韓国・朝鮮人の本場としての地位は揺るぎようがない。 コリアタウンとしての密度は濃厚そのものであり、もはやランドマークとしての総連・民団施設探しなど、あまり意味がないほどである。犬も歩けばいつのまにかコリアタウン。鶴橋、桃谷、尼崎。京都東九条にウトロ地区。あまりにも有名な、なかば観光地と化しつつあるこれらのコリアタウンに探訪ロマンの余地など残されていないのだ。 ここでは、東日本のコリアタウンとの対照が興味深い。特に総連施設が意気軒昂である。北朝鮮の無道が明るみに出るにつれ、東日本の総連施設は人の気配も感じさせないないほどに静まり返っているか、もしくはNPO法人や朝鮮食材店などに偽装しているケースが目立つ。対してこちらは正々堂々、「朝鮮会館」や「在日本朝鮮人総連合会〇〇支部」など、本来の看板を掲げたままだ。総連、いまだ健在なのである。 しかし、いま総連がいくら気を吐いてはいても、次代の「総連エリート養成機関」である朝鮮学校については、また話が違う。全体として児童・生徒数は長期減少傾向にあり、京阪神地域においては堺市、岸和田市、また西日本エリアに目を向ければ、松江市や相生市、九州飯塚市などで閉校が相次いでいる。 「阪神教育闘争事件(神戸市)」に象徴されるように、戦後の朝鮮人は攻撃性を剥き出しにして懸命に「朝鮮学校」を守り育ててきた。彼らの先人たちは、いまの先細り状況をどう感じるのだろうか。 取り壊されることもなく、草むし苔むす一方の廃校。少なくとも総連系の在日朝鮮人に関しては、極めて近い将来に日本社会から退場することになるのだろう。総連の墓標ともいえる廃校を見るにつけ、誰しもそう感じるはずだ。総連は歴史的な役目を終えたのである。<鶴橋>よりp127 このように、猪飼野地域への朝鮮人集住には諸説あるのだが、少なくとも平野川の開削工事において、いわゆる「強制連行」説に見られるような労働者への強制性は全くない。時期を見れば、1938年の国家総動員法以前であって、当時は急増する朝鮮人の渡航制限を実施していたほどだった。そもそも同事業は鶴橋耕地整理組合という民間団体による土地改良事業であって強権的な色合いなどあろうはずもないのだ(『猪飼野郷土史』)。 では、最も真実に近い説明は何か。何よりも鍵を握るのは、済州島と大阪を結ぶ定期船「君ヶ代丸」の就航が鍵を握る。『異邦人は君ヶ代丸に乗って』では、「済州島出身の人は他ではいじめられたりして、生活しにくいこともあり、どんどん猪飼野に集まってくる。ここだと済州島出身者がのびのびと生活できるということもあって済州島出身者でほとんどが占められるようになっていったのです」との記述がある。 総じて済州島民は大阪を目指し、この地に身を寄せ合い、彼らの共同体を育ててきたのである。在日二世であることをカミングアウトしている歌手の和田アキ子の両親は、済州島から大阪に渡ってきて鶴橋で料理店を経営している典型的な出稼ぎ型の朝鮮人だった。鶴橋在住の朝鮮人家庭で同様のケースは非常に多く、そのため鶴橋は「済州島より済州島らしい」と韓国人からも形容されるほどである。 かつて田畑が一面に広がる郊外だった鶴橋は、大阪鉄道(現・JR大阪環状線)が開通するとともに、急速に人口増と都市化の波に洗われた。戦災で焼け野原になってはいるが、戦後もその成長力は衰えず、大阪最大級の規模を誇る闇市が出現している。その規模は500人~600人の売り子がいたという。 現在の鶴橋駅周辺の猥雑この上ない巨大市場は、当時の闇市を直接の原型としている。この街では、当分「戦後」が終わりそうにない。<大阪府桃谷>よりp134~137 生野区の韓国・朝鮮人人口が、全住民の25%に達するというのはあまりにも有名な話だ。日本一のコリアタウン猪飼野は、東成区の鶴橋駅周辺と、生野区の桃谷・中川・中川西などの広範囲なエリアから成り立っている。(中略) 戦前の桃谷一帯には朝鮮市場があった。1925年に開設された鶴橋公設市場を核として発展し、順次東へと拡大していったのである。間口一間半・奥行き二間ほどの小規模な店舗兼住宅が30軒ほど並んでおり、最盛期は毎月の1日と15日に10人の警察官が交通整理のために出動するほどだったという。 現在、地域のメインストリートである御幸通り商店街は、コリアタウンとして観光地化されている。在日韓国・朝鮮人商店の域内分布としては、東の区画が50%程度、中央部は75%、西は30%程度だという(『猪飼野郷土史』)。 もともと猪飼野地区を形成している生野区と東成区は、自営業者の比率が高く、1985年の国勢調査では生野区が35%、東成区が31.3%という結果が出ている。済州島から出稼ぎにやって来た朝鮮人たちは日本語を巧く話せないことから企業に就職することができず、自営業の道を選ぶしかなかった。そして二世・三世の家業継承で状況は固定化されていった。(中略) こうして鶴橋・桃谷は日本最大のコリアタウンとして、今日も多くの在日韓国・朝鮮人でにぎわっている。済州島から出稼ぎにやって来た朝鮮人にとって、君ヶ代丸はまさに日本への箱舟だったといっていい。 <神戸市長田区源平町>よりp146~147 神戸市といえば、戦前戦後を通して日本有数の朝鮮人集住地区である。1929年に行われた神戸市社会課の調査では、「1軒の労働下宿の存在はやがては多数朝鮮人の流入を刺激し、多数朝鮮人のイ集はやがては更に労働下宿の開店を促す」と、急速に進む朝鮮人流入状況について報告している。 彼らの日常生活は極めて切迫したものであり、度々生活保護の受給を求めて運動を行っていた。『兵庫のなかの朝鮮』では、1953年に兵庫県警が発行した『警察年鑑』からその様子を紹介している。「朝鮮人の生活は極度に窮迫している。したがって、生活保護法による被扶助者も存在総数の21%強に達し」ていたという。 彼ら貧困層は、特に長田区周辺に集住していた。1950年には800名の朝鮮人が長田区役所に向けてデモを行い、179名が逮捕されている。 こうした朝鮮人の攻撃性は戦後しばらくの間全国各地で発揮されていたが、特に兵庫県においては一際戦闘的な傾向を持っていた。1948年4月24日、いわゆる「阪神教育闘争」事件である。 終戦後の10月、兵庫県の在日朝鮮人たちによって飾磨朝鮮初等学院が早くも開校した。翌年6月には、日本初の朝鮮人中学校が開設。全国で続々と朝鮮人学校が開校するきっかけとなっている。『兵庫のなかの朝鮮』によると朝聯系の学校は573校、生徒数は5万6000人を超えていた。 1948年、GHQは共産主義の巣窟と化していた朝鮮学校への閉鎖命令を下すが、朝鮮人から激しい反対運動が沸き起こり、特に神戸での反対運動は凄絶を極めた。混乱収拾のために、GHQは神戸全域に非常事態宣言を発令せざるを得ないほどだった。逮捕者は1732人に上がったという。 ただし、貧しい朝鮮人の全てが反社会的な行動を取ったわけではない。手に職をつけ、地道に働き、地域に溶け込もうと努力する朝鮮人の姿を忘れてはならない。戦後から現代にかけての厳しい経営環境を生き抜いてきた。神戸市長田区のケミカルシューズ産業の経営者や労働者は、その好例だろう。彼らの多数は1995年の阪神・淡路大震災で被災し、同産業は壊滅的な打撃を受けた。当時行政の迅速な支援が行われたのは、彼らの性向と無関係ではないだろう。京都の在日といえば、『パッチギ!』を思い出すのです。<京都市東九条>よりp164~167 『京都に生きる在日韓国・朝鮮人』(京都市国際交流協会)によれば、既に1906年の京都においても、山陰本線敷設工事に、数十人の朝鮮人労働者が従事していた。山陰地方の山間部を貫くこの工事は、国家を挙げての一大プロジェクトだったために工員が不足しており、そうした労働力不足を補ったのが、朝鮮半島から職を求めてやって来た朝鮮人だったのだ。 当時、鉄道網の整備は大阪・京都で盛んに行われており、1927年には新京阪電鉄の工事にも多くの朝鮮人労働者が従事し、労働争議なども頻繁に行われていた。 (以降、文字数制限により省略、全文はここ)
2023.01.21
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図書館予約で借りた村上春樹著『女のいない男たち』を読んでいるが・・・ええでぇ♪実はこの本は5年ほど前に借りて読んだことのある本なんですが(またか)それに気づかず再度予約していたものなんです。・・・ということで、今回の記事を(その5)としています。【女のいない男たち】村上春樹著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より絡み合い、響き合う6編の物語。村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。【目次】ドライブ・マイ・カー/イエスタデイ/独立器官/シェエラザード/木野/女のいない男たち<読む前の大使寸評>村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。rakuten女のいない男たち「イエスタデイ」の続きを、見てみましょう。p77~78「で、おまえはどこの出身やねん?」「神戸の近く」と僕は言った。「神戸の近くて、どのへんや?」「芦屋」と僕は言った。「ええとこやないか。始めからちゃんとそう言うたらええやないか。ややこしい言い方すんな」 僕は説明した。出身地を訊かれて、芦屋の出身だと言うと、どうしても裕福な家庭の出身というイメージを持たれてしまう。しかし芦屋といってもピンからキリまである。僕はとくに裕福な家の出身じゃない。父親は製薬会社に勤めていて、母親は図書館の司書をしている。家は小さいし、乗っている車はクリーム色のトヨタ・カローラだ。だから出身地を訊かれると、余計な先入観を持たれないために、いつも「神戸の近く」と答えることにしている。「なんや、それって、おれの場合とまったくおんなじやないか」と木樽は言った。「うちも住所から言うたら田園調布やけどな、うちがあるのははっきり言うて、田園調布でもいちばんうらぶれた地域や。住んでる家かて、そらうらぶれたもんや。一回見に来いや。これが田園調布? うそやろ、みたなことになるから。けどな、そんなことこそこそ気にしてもしょうがないやないか。そんなもん、ただの住所に過ぎへん。そやからおれの場合は、逆に頭からがーんとぶちかますことにしてるねん。生まれも育ちも田園調布やぞ、どや、みたいにな」 僕は感心した。そして僕らは友だちみたいになった。 僕が東京に出てきて、関西弁をまったくしゃべらなくなったのにはいくつか理由がある。僕は高校を出るまではずっと関西弁を使っていたし、東京の言葉を話したことは一度もなかった。しかし東京に出てきて1ヶ月ほどして、自分がその新しい言葉を自然に流暢に話していることに気づいて、びっくりしてしまった。僕は(自分でも気がつかなかったけど)もともとカメレオン的な性格だったのかもしれない。それとも言語的な音感が人より優れていたのかもしれない。いずれにせよ、関西の出身だと言っても、まわりの誰も信じてくれなかった。 それともうひとつ、これまでとは違う人間として生まれ変わりたかったということが、僕が関西弁を使わなくなった大きな理由としてあげられるだろう。『女のいない男たち』4:「イエスタデイ」の冒頭(p73~76)『女のいない男たち』3:「女のいない男たち」の冒頭(p279~281)『女のいない男たち』2:「女のいない男たち」p265~268(p279~280)『女のいない男たち』1:「シェエラザード」p173~175(p183~185)『ドライブ・マイ・カー』が公開中なので:女のいない男たち
2023.01.20
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<二十四節季の大寒に注目(復刻2)>早朝に散歩する太子であるが、南東の空に月と金星が見えるのです。ちょうど三日月の内側に金星が位置しているが、これって中東諸国が好むマークではないか。また、このマークは春分と関係があるのではないか?『日本のならわしとしきたり』という蔵書に二十四節季の記事があることを思い出したのです。今年の大寒は三寒四温が著しくて・・・雪融け時のなだれなどが要注意のようです。【日本のならわしとしきたり】ムック、 徳間書店、2012年刊<内容紹介>ありふれたムック本ということなのか、ネットにはデータがありません。<大使寸評>とにかく「今日は二十四節季でいえば、何になるか♪」を知りたいロボジーにとって、座右の書となるでしょう♪Amazon日本のならわしとしきたり節分の恵方巻この本で、大寒のあたりを見てみましょう。和暦p5<大寒>二十四節季が新たに始まる直前の節気 「大寒」は、現行の暦では1月21日ころ、第1日目を迎え、立春(2月4日ころ)に入る前日までとなっている。前節気「小寒」からは「寒」に入っており、寒明けと同時に「大寒節気」も終わる。寒が明けると、暦の上では「春」になる。 寒の入りは、前節気「小寒」から始まっているが、手が切れるほど冷たい「大寒の水」には、その清らかさのために霊力があると考えられていた。 朝の水は1年間腐らないとも言われ、容器などに汲み保管し、薬を飲むときや祝い事の料理に使う家庭も少なくないという。寒の水は、酒造や化粧水にも用いられている。 1年で最も寒さが厳しいとされる「大寒」を『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。 また、寒の厳しい最中の鍛錬は、心身共に向上するとして、武道では「寒稽古」が行われる。加えて、「寒施行」も寒中の独特の行為だ。 これは餌の乏しい寒中に、野の動物に与えることだが、これは「放生会(ほうじょうえ)」を行う仏教の影響のようだ。ちなみに「放生会」は、殺生を戒め生き物を野に放つ仏事で、秋の季語になっている。 大寒の期間の七十二候は、次の通り。 初候は「蕗冬華(ふきのはなさく)」蕗の薹が蕾を出し始める。 次候「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」沢に氷が厚く張りつめる。 末候は「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」鶏が卵を産み始める。 寒中の微妙な気候の変化が読み取れる。二十四節季の小寒に注目(復刻)二十四節季の冬至に注目(復刻)
2023.01.20
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<横尾忠則を観に行こう♪18>コロナ禍がなかなか終息しない昨今であるが・・・久々に横尾忠則現代美術館の企画展に繰り出そうと思い立ったのです。ということで、次回の企画展(2023年1月28日〜5月7日)をネットで覗いてみました。次回のポスターです。横尾忠則展 満満腹腹満腹より開館10周年を記念し、これまでに開催した企画展をダイジェストで振り返る展覧会、「横尾忠則展 満満腹腹満腹」を開催します。2012年の開館以来、当館は様々な角度から横尾の芸術に光を当ててきました。それは絶えざる変貌を求める作家の精神を反映した、一種の実験場のようでもありました。10年前の開館記念展「反反復復反復」のセルフ・パロディーでもある本展では、限られた展示空間に、これまで開催された約30本の展覧会を限界まで詰め込むことを試みます。そこに立ち現れるカオス的な空間は、86歳を過ぎてもなお精力的に制作し続ける横尾の、尽きることのないエネルギーを象徴するものとなるでしょう。 [会期]2023年1月28日〜5月7日(月:振休)鑑賞後のレポートは追って追記する予定とします。横尾忠則を観に行こう♪17—R1
2023.01.19
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東・南シナ海で無法とも言える覇権をふるう中国であるが、その歴史を知ろうではないか・・・ ・・・ということで 『東アジア中世海道』を、以下のとおり復刻します。***********************************************************図書館で『東アジア中世海道』という本を、手にしたのです。おお 古来、良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。【東アジア中世海道】民博編、毎日新聞社、2005年刊<民博サイト>より世界の海は、それを共有する多くの国と地域を結びつけ、人、もの、文化、技術などの相互交流の場として、歴史の揺籃となり、原動力となってきました。この展示では、特に12世紀から16世紀の東アジアの海を舞台にして、中国、高麗・朝鮮、日本、琉球などの国や地域、人々が相互に影響を与えながら育んだ交流の歴史と文化の煌めきを、考古、文献、美術、民俗資料など、多様な展示品を通して描こうと企画しました。<読む前の大使寸評>古来、 良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。rekihaku東アジア中世海道倭寇と明官兵との接戦東シナ海海域の中世の歴史を概観してみましょう。p52~53 <海に生きた地域と人々>■中国人海商の活躍 中世の東アジア諸地域の交流は、海商や僧侶たちが主導したことに大きな特徴がある。 9世紀以降、大宰府の管理下にあるコウロ館には新羅や唐の商人が来航し貿易をおこなった。11世紀中頃にコウロ館が衰退すると、貿易の中心地は博多に移る。宋の海商が来航して、白磁や青磁などの中国陶磁器や銭貨などが持ち込まれた。博多には、中国人が居住する唐房がつくられ、中国人が海外の港において、倉庫・店舗・住居を構えて貿易をおこなう住蕃貿易が展開した。 また商船に同乗して宋に渡る巡礼僧もおり、13世紀には日本や南宋・元の禅僧が、商船に便乗して頻繁に往来した。2度の蒙古来襲で博多は大きな打撃を受けるが、その後に復興した。14世紀前半、鎌倉幕府や建長寺・称名寺などの寺社が、中国商船をチャーターして、寺社の造営費用を調達することを目的とする寺社造営料唐船を派遣した。新安沈没船は、東福寺と箱崎宮が派遣した寺社造営料唐船とみられる。■前期倭寇と海禁 14世紀後半になると、このような活発で平和的な民間の交流を抑制する動きが起きた。民衆の内部からは倭寇(前期倭寇、14~15世紀の倭寇)が出現し、朝鮮半島や中国大陸で米や人などを掠奪した。対馬・壱岐・松浦地方の人々がその主力とみられ、高麗の支配に抵抗する人々や賎民も加わっていたとの見解もある。明や高麗・朝鮮は、倭寇を軍事的に制圧するのとあわせて、日本に倭寇の禁圧や被虜人の送還を求めた。 1368年に明を建国した朱元請ショウ(洪武帝)は、一般の中国人が海上に進出することを一切禁止する海禁政策をとった。その一方、洪武帝は周辺諸国の国王に朝貢を呼びかけた。貿易は、明皇帝の冊封を受けた国王使のみに許した。こうして国家間で使節を派遣し、あわせて貿易をおこなう通交関係が形成されていく。■通交関係の展開 日本では、南朝の征西将軍懐良親王が洪武帝によって日本国王に封じられた。だが、九州探題今川了俊に博多を制圧され、実質的な交渉はほとんどなされなかった。1401年、足利義満は、祖阿・肥富を明の建文帝に派遣し、翌年日本国王に封じられ、日明貿易が開始された。1404年、義満は永楽帝から「日本国王之印」と勘合を与えられた。兵庫・境や博多は、遣明船の出航地としても栄えていく。 足利氏は、朝鮮や琉球との交渉を行っているが、朝鮮に対しては、ほかに守護や国人、商人・僧侶やもと倭寇だった人々などが、おれぞれ使節を派遣した。琉球船は畿内のほか、博多や薩摩にも来航いている。使節は京都五山などの禅僧が多く、外交文書の作成も彼らが担当した。商人は使節一行に加わることで、明や朝鮮との貿易をおこなった。日本海交通の発達により、中国陶磁器や蝦夷島などの産物が交易され、安藤氏の拠点である十三湊が栄えた。■後期倭寇の登場 国家や地域権力による通交関係は、16世紀になると衰退する。朝鮮における三浦の乱(1510年)や、明における寧波の乱(1523年)が、その契機になった。 かわって台頭するのが、中国人を中心とする後期倭寇(16世紀の倭寇)であり、彼らは密貿易をおこなった。16世紀になると、日本列島内では、石見銀山をはじめとする鉱山の採掘が進んでいた。倭寇は、銀の獲得を主たる目的として来航し、中国産の生糸や鉄砲などを日本に持ち込んでいる。このような倭寇のルートに、ポルトガル人、スペイン人も加わり、南蛮貿易がおこなわれ、境や豊後府内には、ベトナム産の陶磁器など東南アジアや中国の製品が持ち込まれた。■対馬と琉球 14世紀以降、上記の通交関係の中で台頭したのが対馬と琉球である。 朝鮮半島にもっとも近い対馬は、古くから朝鮮との関係が密接であった。朝鮮の成立後、対馬からは島主の宋氏らが多数の使船を送り、図書を入手したり、宋氏が文引の発行権を得るなど、さまざまな通交特権を得た。島民の中には、朝鮮半島南岸の海域において漁業をしたり、三浦の恒居倭のように朝鮮領内に居留する者も多かった。 対馬にとって、朝鮮との関係は命綱であり、15世紀後半~16世紀、宋氏らは偽使を派遣し、通交権の維持・拡大に腐心する。 明の朝貢要請にいち早くこたえたのが琉球である。按司たちがグスク(城)をつくり抗争している中で、沖縄本島では、中山・山北・山南という三つの勢力が形成されつつあった。1377年、中山王察度が明に朝貢したのを皮切りに、山南王・山北王が相次いで朝貢使を明に派遣した。その後、三山を統一した中山王尚巴志にはじまる第一尚氏や、クーデターによって国王になった第二尚氏の使節が頻繁に明に入貢し貿易をした。 このように明との密接な関係を背景に、琉球は、高麗や朝鮮・日本、シャム・マラッカなどの東南アジア諸国にも使節を派遣し、中継貿易によって栄えていく。 15世紀後半には彼らによる偽の琉球使節が朝鮮を訪れて貿易をしている。16世紀には後期倭寇やポルトガル人の台頭により、東南アジア諸国との交渉は衰退し、明や島津氏との貿易に依存するようになる。対馬・壱岐・松浦地方の民衆から、このような荒っぽい前期倭寇が生まれたのか。現在のこの海域には、日中韓それぞれが主張する領土問題があるが・・・国境を線引きするのが、どだい無理な話であり、棚上げしておくのがよいのでしょうね。
2023.01.19
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日本人が最も嫌う国は中国だそうで、大使も宦官という制度を備えた中華文明は好きになれないのです。 ・・・ということでなぜ中国は眠れる獅子だったのかを、以下のとおり復刻します。***********************************************************今のところ、気まぐれな大使の関心は言語、中国あたりにあるわけで・・・・図書館でジャレド ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄(下)」を借りたのは、中国について触れていたからです。始皇帝今では2大覇権国として肩で風切る勢いの中国であるが・・・ひと昔前までは日本のODAを受けるほどで、何のこともなかったのだが。トウ小平が現れる以前は「眠れる獅子」状態だったわけだが、これが大使最大の疑問であるわけです。・・・で、この本でそのあたりについて、読んでみました。<なぜ中国でなくヨーロッパが主導権を握ったか>よりp307~316 つまり、不運なことに、肥沃三日月地帯や地中海地方東部は環境的に脆弱だったのである。そして、これらの地域に繁栄した人びとは、自分たちの環境基盤を破壊し、自分で自分の首をを絞めてしまったのである。彼らの権力の中心地は、初めはもっと東部の肥沃三日月地帯にあった。しかし、もっとも古い時代に登場した東部地方の社会がしだいに衰退するにつれて、権力の中心地は徐々に西に移動していった。ヨーロッパ西部および北部の社会が同じ運命をたどらなかったのは、肥沃三日月地帯の人びとにくらべてヨーロッパの人びとが賢かったからではない。ヨーロッパ西部および北部は、降雨量が肥沃三日月地帯よりも多く、植物が再生しやすい土地だったからである。これらの地域では、食糧生産が伝播してから7000年を経た現在でも、生産性の高い集約農業がおこなわれている。作物や家畜や技術や文字をヨーロッパに伝えた肥沃三日月地帯は、その後、時代の経過とともに技術革新や権力の中心地としての座をみずからおりてしまったというのが実際のところである。こうして肥沃三日月地帯は、ヨーロッパに対して誇っていた圧倒的なリードを失ってしまったのだった。 それでは、中国の場合はどうだったか。中国は、肥沃三日月地帯と同じくらい古い時代に食糧生産をはじめていた。北部から南部に、そして沿岸地帯からチベット高原にまで広がる中国は、地形や環境の変化に富み、多様な作物や家畜や技術が誕生している。世界最多の人口を誇り、生産性に富む広大な土地を所有している。肥沃三日月地帯ほど乾燥していない。生態系も肥沃三日月地帯ほど脆弱ではない。そのため、西ヨーロッパより環境問題が深刻化しているとはいえ、食糧生産の開始から1万年を経た現在でも、生産性の高い集約農業がおこなわれている。これらを考慮すると、中国がヨーロッパに後れをとってしまったことは意外であある。 中国は、初めの一歩を早く踏みだしていた。そして、さまざまな有利な点をそなえていた。それゆえ、中世の中国は技術の分野で世界をリードしていた。中国で誕生した技術は数多くある。そのなかには、鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術といったものや、本書でもふれたさまざまな発明がふくまれている。中国はまた、政治制度の発達においても世界をリードしていた。航海技術や海洋技術にも優れていた。15世紀初頭には、大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送りだしていた(鄭和の南海遠征)。数百隻で編成されたこの船団には400フィートに達する船もふくまれちた。乗組員の総数は2万8000人にも達した。彼らは、たった3隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカの東岸に到着する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。では、なぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西にまわってヨーロッパまで行かなかったのだろうか。なぜ中国人は、バスコ・ダ・ガマの3隻の船が喜望峰を東にまわって東南アジアを植民地化しはじめる前に、ヨーロッパを植民地化しなかったのだろうか。なぜ中国人は、太平洋を渡って、アメリカ西海岸を植民地化しなかったのだろうか。言い換えれば、なぜ中国は、自分たちよりも遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまったのだろうか。 これらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。この船団は、西暦1405年から1433年にかけて7回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。これは宦官派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣の政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団の派遣をとりやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。この出来事は、たとえば1880年代のロンドンのガス灯にかわる電灯による街路照明を阻止する法律の制定や、両大戦間のアメリカ合衆国政府の外交政策(孤立主義)などを思いださせる。また、国内の政治状況に対応するために、既存の進んだ技術を後退させていった多くの国々をも思いださせるが、中国は国全体が政治的に統一されていたという点でそれらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ一つの決定によって、中国全土で船団の派遣が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまあったのだった。 中国とは対照的だったのが、大航海時代がはじまった頃のヨーロッパだった。当時のヨーロッパは政治的に統一されていなかった。イタリア生まれのクリストファー・コロンブスが最初に仕えたのはフランスのアンジュー公である。そこがだめになると彼はポルトガル王に仕えたが、探検船団の派遣を拒絶され、つぎにメディナ・セドニア公のもとに行く。そこでも自分の願いがかなえられないとわかり、メディナ・セリ伯のもとに行くが、やはり船団派遣の願いは断られる。今度はスペインの国王と女王に仕え、初めは断られたものの、最後の最後に願いは聞き入れられた。コロンブスは3人の君主に断られ、4番目に仕えた君主によって願いがかなえられたのである。もしもヨーロッパ全土が最初の君主のうちの一人によって統一支配されていたら、ヨーロッパ人によるアメリカの植民地化はなかったかもしれない。(中略) このように、ヨーロッパと中国はきわだった対照を見せている。中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。たとえば、水力紡績機の開発も禁じて、14世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術を事実上葬り去っている。中国は15世紀末以降、あらゆる機械や技術から手を引いてしまっているのだ。政治的な統一の悪しき影響は、1960年代から70年代にかけての文化大革命においても噴出している。現代中国においても、ほんの一握りの指導者の決定によって国じゅうの学校が5年間も閉鎖されたのである。 中国の統一もヨーロッパの不統一も昔から連綿とつづくものである。現代中国でもっとも生産性の高い地域は、なんと紀元前221年に初めて政治的に統合されて以来、中国の長い歴史っを通じてほとんど分断されたことがない。中国では、人びとが文字を使いはじめて以来、ただ1種類の文字を使いつづけてきたし、長いあいだ、ほとんど1種類の言語を使っている。文化的にも、過去2000年間、ほとんど一つにまとまっている。これに対して、ヨーロッパが政治的統一に近づいたことは一度としてなかった。14世紀のヨーロッパには1000の小国家がひしめいていた。西暦1500年には500となった小国家は、1980年には25に減じたが、私がこの文章を書いている時点ではまた少し増えて40になっている、ヨーロッパには、それぞれが独自のアルファベットを使う45の言語がひしめいている。文化的な違いはもっと大きい。今日(1997年)では、ヨーロッパ経済共同体によってヨーロッパを統一しようという温厚な計画でさえ、意見の一致が見られずに挫折している。それは、統一を嫌う伝統がヨーロッパに深く根付いているからである。 つまり、政治や技術の分野において、中国が自分たちよりも遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまった理由を理解するすることは、すなわち、中国の長期にわたる統一とヨーロッパの長期にわたる不統一の理由を理解することになる。そしてその答えは、1枚の地図が示唆している。ヨーロッパの海岸線は激しく入り組んでいる。ギリシャ、イタリア、イベリア、デンマーク、ノルウェー/スウェーデンといった5つの半島が海岸線から突出していて、その先に島々が点在している。これらの地域の人びとはそれぞれに独自の言語を話し、独自の民族を形成し、独自の政府を戴いている。中国の海岸線はあまり入り組んでおらず、なめらかである。半島も、重要なものは朝鮮半島のみである。ヨーロッパには、政治的に独立し、独自の言語と民族性を持つに充分な大きさの島が二つある(イギリスとアイルランド)。そのうちの一つイギリスは、ヨーロッパ本土の海岸線から遠くなく、強い影響力を持つ独立国となった。しかし、中国では、台湾と海南島という二つのもっとも大きな島でさえ、面積はアイルランドの半分以下である。近年になって台湾が頭角を現すまでは、この二つの島が独自に力を持つことはなかった。また、日本は、アジア本土から離れていて、ごく最近になるまで、イギリスがヨーロッパ本土と政治的にかかわったような関係をアジア本土と持つことはなかった。(文字数制限により後略、全文はここ)【銃・病原菌・鉄(下)】ジャレド ダイアモンド著、草思社、2010年刊<内容紹介>よりなぜ人類は五つの大陸で異なる発展をとげたのか。分子生物学から言語学に至るまでの最新の知見を編み上げて人類史の壮大な謎に挑む。ピュリッツァー賞受賞作。朝日新聞ゼロ年代の50冊・2000年~2009年に刊行された全ての本の第1位のに選定された名著。 <読む前の大使寸評>上下巻構成の名著であるが、文字、中国にふれている下巻から読もうと思ったわけです。amazon銃・病原菌・鉄(下)朴大統領は恨1000年という認識を洩らすけど、ダイヤモンドさんはイギリスとヨーロッパ本土のような関係を日本はごく最近になるまでアジア本土と持つことはなかったと述べています。(歴史認識の深さと広さは、かくも違うものなのか)読後の感想であるが・・・宦官派とその敵対派の抗争が中国の停滞を生んだのか、そして、「政治的な統一」という悪しき伝統が中国の弱点のようですね。この本は「覇権中国の弱点はどこにあるのか?」という大使の読み方に答えてくれる名著であったと思うのです♪(大使、読む動機が不純です)
2023.01.18
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図書館予約で借りた村上春樹著『女のいない男たち』を読んでいるが・・・ええでぇ♪実はこの本は5年ほど前に借りて読んだことのある本なんですが(またか)それに気づかず再度予約していたものなんです。・・・ということで、今回の記事を(その4)としています。【女のいない男たち】村上春樹著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より絡み合い、響き合う6編の物語。村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。【目次】ドライブ・マイ・カー/イエスタデイ/独立器官/シェエラザード/木野/女のいない男たち<読む前の大使寸評>村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。rakuten女のいない男たち「イエスタデイ」で関西弁の語り口を、見てみましょう。p73~76 僕の知っている限り、ビートルズの『イエスタデイ』に日本語の(それも関西弁の)歌詞をつけた人間は、木樽という男一人しかいない。彼は風呂に入るとよく大声でその歌を歌った。 昨日は/あしたのおとといで おとといのあしたや 始まりはそんな風だったと記憶しているが、なにしろずいぶん昔のことなので、本当にそうだったかもうひとつ自身はない。しかしいずれにせよその歌詞は、最初から最後までほとんど意味をもたない、ナンセンスというか、原詞とはまったく似ても似つかない代物だった。聴き慣れたメランコリックで美しいメロディーと、いくぶんお気楽な(あるいは非パセティックなというべきか)関西弁の響きとが、大胆なまでに有益性を排した奇妙なコンビネーションを、そこに作りあげていた。 少なくとも僕の耳にはそう響いた。僕はそれをただ笑い飛ばすこともできたし、そこに何かしらの隠された情報を読み取ることもできた。でもそのときには、ただあきれてその歌を聴いていただけだった。 木樽は僕の聴くかぎりほぼ完璧な関西弁をしゃべったが、生まれたのも育ったのも東京都大田区田園調布だった。僕は生まれたのも育ったのも関西だが、ほぼ完璧な標準語(東京の言葉)をしゃべった。そう考えてみれば、僕らはけっこう風変わりな組み合わせだったかもしれない。 彼と知り合ったのは、早稲田の正門近くの喫茶店でアルバイトをしているときだった。僕はキッチンの中で働いていて、木樽はウェイターをしていた。暇な時間になると二人でよくおしゃべりをした。僕らはどちらもニ十歳で、誕生義も1週間しか違わなかった。「木樽というのは珍しい名前だよね」と僕は言った。「ああ、そやな、かなり珍しいやろ」と木樽は言った。「ロッテに同じ名前のピッチャーがいた」「ああ、あれな、うちとは関係ないねん。あんまりない名前やから、まあどっかでちょこっと繋がってるのかもしれんけどどな」 そのとき僕は早稲田大学文学部の二年生だった。彼は浪人生で、早稲田の予備校に通っていた。ただ浪人生活も二年目に入っていたにもかかわらず、受験勉強に精を出しているという印象はまったく受けなかった。暇があれば受験とはほとんど関係のない本ばかり読んでいた。ジミ・ヘンドリックスの伝記とか、詰め将棋の本とか、『宇宙はどこから生まれたのか』とか。大田区の自宅から通っているのだと彼は言った。「自宅?」と僕は言った。「てっきり関西の出身だと思っていたけど」「ちゃうちゃう。生まれも育ちも田園調布や」 僕はそれを聴いてずいぶん面食らってしまった。「じゃあ、どうして関西弁をしゃべるんだよ?」と僕は尋ねた。「後天的に学んだんや。一念発起して」「後天的に学んだ?」「つまり一生懸命勉強したんや。動詞やら、名詞やら、アクセントやらを覚えてな。英語とかフランス語とかを習うのと原理的にはおんなじことや。関西まで何度か実習にも行ったしな」 僕は感心してしまった。英語やらフランス語やらを学ぶのと同じように「後天的に」関西弁を習得する人間がいるなんて、まったくの初耳だった。なるほど東京は広い街だと感心した。なんだか『三四郎』みたいだけど。『女のいない男たち』3:「女のいない男たち」の冒頭p279~281『女のいない男たち』2:「女のいない男たち」p265~268(p279~280)『女のいない男たち』1:「シェエラザード」p173~175(p183~185)『ドライブ・マイ・カー』が公開中なので:女のいない男たち
2023.01.18
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図書館で『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』という本を、手にしたのです。横尾忠則現代美術館にこの本が置いてあり、気になっていたのでチョイスしたのです。【GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story】横尾忠則著、国書刊行会、2021年刊<「BOOK」データベース>より世界を魅了し続けるアート界のレジェンド、横尾忠則の80年におよぶ創造の軌跡を一冊に凝縮!展覧会「GENKYO横尾忠則原郷から幻境へ、そして現況は?」公式カタログ。<読む前の大使寸評>横尾忠則現代美術館にこの本が置いてあり、気になっていたのでチョイスしたのです。rakutenGENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual StoryY字路「第4章 2000-現在」の一部を、見てみましょう。P104~105<現況>■Y字路の彼方に原郷を訪ねる 2000年以降の横尾忠則の絵画の展開に大きな比重を占める「Y字路」シリーズは、横尾の郷里・西脇での体験から生まれた。Y字路(三叉路)の角にあり、子どもの頃よく通った模型屋が取り壊されたことを聞いた横尾は、その場所を訪ねて何気なく写真に撮るのだが、後日見直してまったく見覚えのない風景であることに驚く。こうして、夜のY字路の写真を忠実にカンヴァスに写し取った「Y字路」シリーズが開始された。 ひと気のない夜の町並みには、いつかどこかで通り過ぎたことがあるような既視感と決定的なよそよそしさとが同居している。人生の半ばで、まさに岐路に立たされているかのような不安感。「Y字路」シリーズは、横尾個人の記憶から立ち現れた幻とともに、バブル後の沈滞する現代日本の闇に浮かぶ昭和的世界の亡霊をも描き出している。 とはいえ横尾は、夜のY字路にとどまりはしない。「Y字路」の連作は、カラフルな昼間の情景としても描かれ、さらには多くの登場人物を召喚し、冒険や温泉、死の島など、横尾が次々と手がけるテーマや連作とも結びついて、豊かなヴァリエーションを産んでいく。 森羅万象あらゆるイメージを受け止めるY字路は、いまや横尾絵画の一種のマトリックスとなった。Y字路という強力なモティーフをトレードマークとすることで、横尾の絵画は、これまで以上に自由な展開が可能となったのである。2000年代の作品は、スタイルにおいてもテーマにおいても、それほどに融通無碍で自由奔放な様相を見せているのだ。 この意味で、特に注目すべきなのが、反復と変奏である。これは、1966年の絵画による最初の個展に出品された「ピンクガールズ」の連作が、模写、パロディ、パスティーシュ、変奏など、様々な形で反復されているのに典型的に示されている。ルソーのパロディ、デルヴォーの《こだま》やアラビア風の恋人たちのヴァリエーション、自作の様々な再解釈などを加えることもできよう。 そこには、ひとつのモティーフを様々なスタイルで描き出すことに対する関心もさることながら、モダニズム芸術を支えてきたオリジナリティという規範に対する挑戦をも見て取ることができる。すなわち、独創性や斬新さを何よりも称揚してきたモダニズム芸術においては、自己反省や自己模倣は、創造性の枯渇の徴として禁忌とされてきたのだが、横尾はこれを軽やかに嘲弄しているのだ。 幼児性、インファンテリズムこそが芸術創造の根源にあると述べる横尾は、裸の王様を笑う子どものように、芸術を支えてきた規範や制度を疑い、だれもやらない、禁じられていることだからこそ、あえて試みるのである。 その一方、2000年代に入り、横尾の芸術に対する評価が進み、全国の美術館で様々なテーマのもと、大規模な個展が相次いで開催されるようになった。2006年のカルティエ現代美術財団(パリ)での個展を皮切りに、海外での個展も数多い。70歳を超えて「隠居宣言」(2007年)をした横尾であるが、逆にその仕事の幅はさらに広がりをみせている。小説『ぶるうらんど』が高く評価され、泉鏡花文学賞を受賞したのもその一例である。 2019年には長編小説「原郷の森」の連載を開始するとともに、「B29と原郷」と題した個展を開催した。「原郷」とは、心身の故郷や原風景といった意味ではなく、すべての人間の魂のふるさと、人が生まれる前に属しており、死後の魂が集うところを指している。 これは、語本来の意味ではなく、横尾が独自に与えた語義であり、そのことからも横尾の強い思いが感じられるだろう。絵画作品では、筆致がより大きく自由になり、見る人を包み込むような豊かな絵画空間が生み出されている。「全身画家」としての横尾の力量と本質が露わになるにつれ、その作品はいよいよ魅力を増しているようだ。 そして2020年5月。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、横尾は自分の作品や写真を素材に、マスクをコラージュした「WITH CORONA」シリーズをTwitterで発信し始めた。コロナウィルスとともにあることで、芸術家の創造性は刺激されると横尾は述べる。長年テーマとしてきた「死」をより具体的に、身近に実感するからだろうか。 80歳をゆうに超えて、なお新たな創造へと向かう横尾。まさに、「人生にはゴールが無い」。(南雄介)『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』3:アングラの新宿『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』2:1936-1960 原郷から『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』1:冒頭の論評横尾忠則を観に行こう♪17—R1で最新の展示が見られます。
2023.01.17
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ドングリ国の名所めぐり R2「忘れない神戸」を追記して、以下のとおり復刻します。R2:「忘れない神戸」を追記***********************************************************匿名ブログなので、ドングリ国の所在地を特定できないように書いてきたが・・・神戸市内であることは、これまでの日記でばれるわけです。で、この際、さらにばらすわけだけど・・・神戸の下町ともいえる長田区、兵庫区、須磨区を中心にして紹介します。長田区、兵庫区、須磨区といえば、ほぼ国内でんがな♪・忘れない神戸・えべっさんに詣でた・ほっともっとフィールド神戸・湊山温泉・鉄人28号・パルシネマ・寿司屋の激戦区・懐旧の新開地・大正筋の再々開発・神戸百景・東山商店街(工事中)・須磨寺(予定)・都市開発(予定)*****************************************************************<忘れない神戸>忘れない神戸より1月17日、阪神・淡路大震災の命日には、毎年、東遊園地に出かけてモニュメントに合掌するのだが・・・今年の文字は「忘れない」となっています。*****************************************************************<えべっさんに詣でた>「商売繁盛~ 笹持って来~い」の掛け声で知られる十日えびす(柳原えびす)に、何年かぶりで行ってきたのです。巷では日本の賃金は頭打ちとの見通しが語られている昨今ですが・・・カラ元気で「商売繁盛~」と叫ぶのがいいかも。2日に初詣でに出向いた生田神社も、つけておきます。御朱印帳がよく売れているようだけど、年金暮らしには高嶺の花でした。*****************************************************************<ほっともっとフィールド神戸>ほっともっとフィールド神戸?・・・こんなに名前がころころ変わったら地元の民でも覚えられへんで。元のグリーンスタジアム神戸やないけ!イチローがいて「がんばろー神戸」を合言葉で日本一になったが・・・あれはホントの事やったんやろか?大使が見比べたわけではないけど、たぶん日本で一番きれいな球場やでぇ♪今日は暑さしのぎを兼ねて、高校野球の地方予選を観戦してきました。*****************************************************************<湊山温泉>銭湯方式の営業なんだけど、清盛ゆかりというからには歴史は古いようです。湊山温泉よりその昔、平清盛も湯治した温泉といわれており、800年以上もこんこんと涌き続けている。営業時間/AM7:00~PM10:30(定休日 / 毎週水曜日)※最終受付はPM10:00まで入浴料金/大人 630円久々の湊山温泉*****************************************************************<鉄人28号>神戸マラソンのルートにもなっていて認知度は今では全国クラスであるが・・・大使は鉄人28号の据付中から注目していたのです。鉄人28号の設置場所の公園が通勤ルートに近いので、地下鉄を途中下車して公園に寄ったのですが・・・分割された手足の部分がシートにつつまれて、バラバラに置いてあるだけでした。すぐ見に行く、物見高い大使であるが・・・・阪神大震災の被災場所に、神戸ゆかりの鉄人28号を据えるという構想がグーですね♪とにかく、漫画連載中から親しんだ団塊にも、いま現役の子供にとっても元気が出るではないか。(神戸ゆかりの鉄人28号を据えるより)*****************************************************************<パルシネマ>久々にくだんの2本立て館「パルシネマ」に繰り出したが・・・・今回の出し物は「キリマンジャロの雪」と「星の旅人たち」であり、館主の設けたテーマは「旅」なんでしょう。サンデー毎日の大使にとって、2本立て館のラインナップとシルバー料金1000円が魅力的である。月に1回くらいの頻度でこの映画館に通っているのだが、いつもながら館主のセンスにはウンとうなづくのです。この館主が幕間には、挨拶と見どころなどを話してくれて、なかなかいい雰囲気をかもしています。パルシネマ上映スケジュール*****************************************************************<寿司屋の激戦区>長田駅を出てすぐにテイクアウト兼用の寿司屋(えびす)があるが、ここが大使のお気に入りの店である。さらに歩くと、くら寿司とスシローが、隣り合わせに張り合っているが・・・ここは格安寿司屋の激戦区なんだろうか?とにかく神戸市内で、くら寿司とスシローが隣り合わせになっているところは、ここしかないはずである。格安の寿司屋が競合しているドングリ国であるが・・・神戸の下町なればこそなのかも♪ここで、個人的な問題が生じるのです。大使の外食は極力ビールを所望するのだが、店によってビールの値段がまちまちなので・・・以下の格安寿司屋では、どの組合せにするか迷うわけです(笑)・えびす1:海鮮丼セット500円、中ジョッキ300円・えびす2:寿司8巻セット650円、中ジョッキ300円・くら寿司:4皿と赤だし610円、中ジョッキ500円・三宮サスケ:六甲セット710円、グラスビール250円結局、その日の気分とふところ具合で決まるわけですが。魚河岸のすしえびす 長田神社店:このお店は現在閉店しております*****************************************************************<懐旧の新開地>かつては、神戸の繁華街といえば新開地だったそうだが、そんな昔のことは知りません。だけど、まだ映画館の聚楽館が現役の頃はぎりぎりで覚えているのです。『人間の条件』全編一括上映のとき、弁当持ちで見に行ったのが、この映画館に入った最後でした。昨今の大使の国内行幸コースといえば・・・・新開地~湊川公園~東山商店街~湊山温泉というちょっとレトロなコースになるわけです。このコースは大震災の被害は比較的軽微だったが・・・新開地はわりと様変わりして、昔の街並みを留めてはいないのです。昔の新開地は聚楽館と花街がメインであったが、今では場外券売り場がメインであり、上品とはいいがたいが・・・大使にとっては懐旧の街という趣があるわけです。一方、東山商店街は固定客が付いているようで、昔の賑わいを保っています♪新開地ツアーを見て、穴場を探さなあかんな。wikipedia新開地*****************************************************************<大正筋の再々開発>大震災から19年目にあたり、新長田で“再々開発”の動きが芽生えています。27日は神戸市長選挙が予定されているが・・・一世を風びした神戸市株式会社を見直すという争点も必要ではないでしょうか。<大正筋の再々開発>箱物の復興は素早かったが、行政の強い権限で元あったコミュニティは壊れた。開かずのシャッターが増えた今、必用なコンセプトは、神戸市押し付けではなく、縮小を前提とした街づくりとのこと。不動産価値の下落するなか、再開発地区の管理会社は第3セクターの「新長田まちづくり会社」であったが、商店主たちが排除を要求し、市もやっと同調したようです。東北復興のモデルとなるべく頑張ると・・・・地道な再々開発が始まったようです。ところで・・・大震災から9年後に、今の場所に復活した七福(うどん、寿司店)であるが・・・今度、ぼっかけうどんセットを食べに行こう♪ぼっかけうどんセットよりとにかく、ドングリ国では、ぼっかけ焼きソバとか、ぼっかけうどんを知らないと、話にならないわけです。新長田まちづくり(株)とは、神戸市の天下り会社なんだけど、新長田まちづくり(株)HPを見て、不明朗会計を見抜くことは難しいわけですね。また批判するばかりでなく新長田濃厚コテコテにゅうすなどで、応援することも必用なのかも。(12日追記)早速、七福にぼっかけうどんセットを食べに行ったのです。味はいいけど、お値段は950円と大使にはやや割高でした。*****************************************************************<神戸百景>駅の通過ゲート付近に無料のパンフレットがふんだんに置いてあるが…地域振興とか、商店のコマーシャルなんでしょうね。その中に「月刊KOBEグー」という気の利いたやつがあって、大使は気にかけているわけです。連載している『神戸百景』を歩くというシリーズが、ええでぇ♪ちなみに今月号(10月号)の画像です。*****************************************************************<東山商店街>工事中皆さんお奨めの商店街があると思うけど、神戸で筆頭の商店街といえば、東山商店街となるのではないでしょうか。(異論はあるかと思うが、まあ妥当なところか)穴場:・立ち食い串かつ ・魚屋が安い
2023.01.17
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明日は阪神・淡路大震災の命日であるが、毎年、東遊園地に出かけて追悼しているのです。去年の追悼模様を、以下のとおり復刻してみます。忘れない神戸より1月17日、阪神・淡路大震災の命日には、毎年、東遊園地に出かけてモニュメントに合掌するのだが・・・今年の文字は「忘れない」となっています。ちょうど『震度7何が生死を分けたのか』という本を借りていたので・・・見てみます。【震度7何が生死を分けたのか】日本放送協会編、ベストセラーズ、2016年刊<「BOOK」データベース>より阪神・淡路大震災で当日亡くなられた5036人の検案書。21年間埋もれていた一人ひとりの死の記録。私たちに残してくれたのは、次の大地震から命を守るためのメッセージでした。NHKスペシャル取材班渾身の書き下ろしドキュメント。<読む前の大使寸評>阪神・淡路大震災の命日に合わせたように、この本を借りていたのです。rakuten震度7何が生死を分けたのかこの記事もドングリ国の名所めぐりに収めるものとします。
2023.01.16
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独メディアが以下のとおり、日本人のビザ申請停止を報道しています。なかなか的確で、科学的な(中国の報道官がよく使う言葉だが)報道なので、そのまま紹介します。中国が日本人のビザ申請停止、両国関係に再び波乱か?―独メディアより2023年1月12日、独国際放送局ドイチェ・ヴェレの中国語版サイトは、日本が中国からの入国者にPCR検査実施を義務化したことに対抗して中国が日本人のビザ申請を停止する措置を発動し、日中関係にさらなる暗雲が立ち込めたと報じた。記事は、中国政府が10日に、日本による入国管理措置への報復として日本人の中国訪問ビザ発給を11日より停止することを発表したと紹介。ビザ発給再開の時期は明らかになっていないとした。そして、欧米を歴訪中の岸田文雄首相が12日にロンドンで取材を受けた際、中国側の措置について、新型コロナ対策と全く関係のないところで中国政府が一方的にビザ発給を停止したことは極めて遺憾であるとし、日本側の措置があくまで中国の新型コロナ感染状況が把握できない状況の中で国内への急速な流入を防ぐためのものであると説明したことを伝えた。その上で、中国が今月8日に海外渡航の規制を事実上撤廃したのに対し、日本や韓国だけでなく米国、英国、フランスなども中国からの入国者にPCR検査陰性証明の提示を義務化する措置を取り、モロッコに至っては中国からの入国を禁止したにもかかわらず、日本と韓国だけが中国から「差別的」と評され、ビザ発給停止の報復措置を受けたとしている。記事はその理由について、複数の日本メディアからは「日本と韓国には圧力をかけやすいと中国が認識しているから」との見方が出ており、あるベテラン日本人記者の話として「中国国内では今なおコロナ対策への抗議が散発的に起きている。欧米諸国にかみつくよりも、どうせ遺憾の意を表して抗議だけで終わるであろう軟弱な日本や韓国を、国内の不満のはけ口に使ったのだろう」という意見を伝えた。また、各国による中国からの入国者に対する規制に対し完全に黙っていては中国国内のパンデミックを間接的に認めることになり、「コロナに勝つ」という姿勢を保とうとする習近平(シー・ジンピン)政権としては受け入れられないため、まずは報復を行いやすい日本と韓国に対してアクションを起こし中国政府の立場を示したとの見方もあると紹介した。記事は、昨年12月に日中両国で行われた世論調査で、中国に対して悪いイメージを持つ日本人の割合が87.3%、日本に悪いイメージを持つ中国人の割合が62.6%に達したと紹介。今回の件が、尖閣諸島など種々の問題を抱える日中両国の対立を激化させるさらなる火種となる可能性があるとした。(翻訳・編集/川尻)
2023.01.16
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<潜水艦あれこれ>これまで潜水艦についてあれこれとりあげてきたように、潜水艦は大使のミニブームでもあるのです。・・・で、潜水艦について、以下のとおり集めてみました。***********************************************************・U32—German Submarine Soldiers 2020年2月21日・『潜水艦(歴群「図解」マスター)』2015.11.03・潜水艦映画を観てきた2014.11.29・Uボート回航2013.08.16・Uボート戦全史2013.08.16・『Uボート』2003.10.10・ユーチューブTHE ENEMY BELOW ***********************************************************潜水艦映画の一押しといえば、大使の場合『Uボート』になります。【Uボート】ヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年西ドイツ制作<解説>より第2次大戦を舞台にドイツ軍潜水艦の乗組員たちの行動を描く戦争人間ドラマ。製作はギュンター・ロールバッハ、監督は「昼と夜のような黒と白」のヴォルフガング・ペーターゼン、ロタール・ギュンター・ブッフハイムの原作を基にペーターゼン自らが脚色。<大使寸評>潜水艦映画のジャンルがあるほど、潜水艦とはドラマチックな兵器と言えるし、この映画の主役は潜水艦そのものかもしれない。第二次大戦中、独潜水艦乗組員4万のうち、3万人が帰還できなかったという事実は、壮大な消耗戦を想像させるとともに、戦争の過酷さを語っているだろう。goo映画UボートUボート byドングリ
2023.01.15
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図書館で『敗者の明治維新』という本を、手にしたのです。表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。【敗者の明治維新】ムック、洋泉社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。rakuten敗者の明治維新「官製の歴史」などについて、青山忠正氏(近代史研究家)へのインタビューを、見てみましょう。P72~74<明治維新150年を歴史家はどうみるか>■明治100年と「官製の歴史」Q:50年前の1968年、「明治100年」ということで、さまざまな記念行事や記念出版があり、歴史学会からの「反応」や「反発」もあったと聞きます。当時は東西冷戦の真っただ中。イデオロギー対立を反映して、明治100年を「顕彰」しようという保守勢力と、「革新」を掲げてこれを批判する勢力との対立を背景とする論争もあったようです。そのころのご記憶は?青山:私は高校生だったはずです。「明治100年」ということで何かをやっていたという記憶はあるのですが、まだ研究者になることを明確に目指していたわけでもありませんし、正直言ってこれという印象はありません。実際、それほど大きなムーブメントではなかったと思います。明治100年を顕彰する動きと、それに対する反発があったのは事実です。しかし、歴史学界においても社会全体においても、それほどのインパクトは持ちえなかったのではないでしょうか。Q:その明治100年から50年。明治維新、幕末維新史の研究においては実証研究が飛躍的に進んだと指摘されています。青山:少なくとも1960年代から比べれば、実証研究は進みました。それは間違いありません。ただし、捉え方の枠組みというのは余り変わっていない。それどころか、細かい実証研究においては最先端を走っているような研究者でも、実際には古い枠組みに無頓着に乗っかってこの時代を描いてしまう人たちもいます。表現は難しいですが、「周回遅れ」と言っていいかもしれません。それは世代に関わらず、しばしば見受けられます。 明治100年を顕彰し、これを肯定的にとらえようとしたのは、今日にいたる近代の歴史を肯定的にとらえる、いわゆる近代化論です。明治政府以来の伝統と系譜を継ぐと称する現代の政府は、この近代化論に依拠していました。 これに対して、歴史学界の側からは、「近代というものはそれほどバラ色なものではない」という反論の仕方だったと思います。しかし、明治150年となる現在、政府や文部科学省といった「官」の側と研究者の側では、近代化をどうとらえるかという視点そのものが違ってしまっていて、同じまな板の上に載っていない。「明治維新」や「近代」がプラスかマイナスかとか、バラ色か灰色かという議論にはならないのです。Q:イデオロギー対立の解消によって、論点が曖昧となった?青山:マルキシズムが力を失ったということはもちろんありますが、それだけではありません。具体的に申しますと、日米和親条約というものをどう評価するか。1960年代の段階ですと、無能な幕府が対応を誤った結果、不平等条約を押し付けられたという理屈が語られていました。その捉え方自体は、政府でも歴史学界でも同じでしょう。 政府側の近代化論で言えば、その無能な幕府を倒したところの明治政府が近代化の道を歩んだという捉え方で、その近代化の道はバラ色のイメージで描かれる。これに対して歴史学界の側からすれば、その近代化の道は、むしろ対外的な侵略と結びつくマイナス面が強調されていたという、そういう意味の対立があったのだと思います。(中略) つまり、日米和親条約が不平等条約だったというのは、条約改正運動を進める明治政府が、その段階で過去を振り返り、みずからを正当化して徳川の旧体制を批判するために編み出された概念なわけです。ところが、いまだに教科書ではこうした表現が用いられていて、そのイメージはなかなか払拭されません。Q:現在、研究者の方の間では到底通用しないような時代の枠組みが、政府が認める「官製の歴史」の位置にあった。そして、1960年代ぐらいまでは、研究者の認識とそれほど乖離している状況ではなかったということでしょうか。青山:そのとおりです。そして研究者の認識はこの50年で大きく変わったにもかかわらず、その「官製の歴史」はほとんど変わっていない。つまり、議論そのものがもう成り立たないような状況なのです。そして研究者の中にも、そうした古い枠組みに無頓着にしがみついている人もいる。それは「周回遅れ」としか言いようがないわけです。 『敗者の明治維新』1:河井継之助
2023.01.15
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永楽帝に宦官として仕える鄭和が南海への七度の大航海の指揮を執った歴史が気になるのです。・・・ということで ウィキペディアが誘う鄭和 (2)から、以下のとおり復刻してみました。*********************************************************** <ウィキペディアが誘う鄭和>昨今は、太平洋で覇権を争うまでに肥大する人民解放軍であるが・・・ここで、鄭和の大航海の顛末が気になるわけです。明朝は一時的に世界中の海の覇権を掴みかけて、自らその野望に終止符を打ったのです。歴史にIFを挟むのは禁物らしいけど、この分岐点でどう転ぶかで世界はガラっと変わったことでしょうね。それでは、ウィキペディアが誘う鄭和を見てみましょう。wikipedia鄭和より 鄭 和(1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。鄭和艦隊の進路■生い立ち 馬三保、すなわち後の鄭和は、馬哈只の子として雲南でムスリム(イスラム教徒)として生まれた。姓の「馬」は預言者ムハンマドの子孫であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来する。父および先祖は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、元の世祖クビライのとき雲南の開発に尽力した、色目人の政治家サイイド・アジャッルにつながる。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。■宦官・鄭和 朱元璋が明を建てると、元の影響下にあったこの地は討伐を受け、まだ少年だった鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。 朱元璋の死後、永楽帝が帝位を奪取する靖難の変において馬三保は功績を挙げ、永楽帝より鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監に任じられた。■大航海の理由 なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。 政治的な理由よりも、中国艦隊が南シナ海やインド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促するのが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。 しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物を上回る下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益に繋がる訳では無い。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態は、明にとってはむしろ不利益となる。■鄭和死後 鄭和の航海の公式記録は「鄭和出使水程」という記録に編纂され、宮中の資料庫に保管された。これは船団の編成、名簿、航海日誌、会計などの記録を網羅した膨大なものだったといわれる。しかし数十年後に成化帝が調査させたところそっくり紛失しており、理由は現在も謎となっている。一説には航海の巨額の費用が民を苦しめ国を衰退させることを憂慮した劉大夏(中国語版)という役人が、同様の大航海の準備資料とされないようひそかに持ち出して焼却したともいう。■その他 中国側の一部資料《鄭和下西洋資料》に、鄭和が1404年に皇帝の特使として10万人を率い、日本に派遣されたとの記述が見える。鄭和は足利義満に倭寇取締りを要請し、義満はこれを受諾するとともに勘合貿易に同意したという。 (その他、エピソード満載で、面白い読み物となっているので、ウィキペディアをご覧ください)■参考文献・宮崎正勝 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 中央公論社〈中公新書〉、1997年。 ・ギャヴィン・メンジーズ 『1421 中国が新大陸を発見した年』 松本剛史訳、ソニーマガジンズ、2003年。 ・太佐順 『鄭和 中国の大航海時代を築いた伝説の英雄』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2007年「なぜ中国は眠れる獅子だったのか」という疑問が高じてジャレド ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄(下)」を読んだような訳だが、この謎のあたりを紹介します。なぜ中国は眠れる獅子だったのかよりこれらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。この船団は、西暦1405年から1433年にかけて7回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。これは宦官派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣の政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団の派遣をとりやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。この出来事は、たとえば1880年代のロンドンのガス灯にかわる電灯による街路照明を阻止する法律の制定や、両大戦間のアメリカ合衆国政府の外交政策(孤立主義)などを思いださせる。また、国内の政治状況に対応するために、既存の進んだ技術を後退させていった多くの国々をも思いださせるが、中国は国全体が政治的に統一されていたという点でそれらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ一つの決定によって、中国全土で船団の派遣が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだった。公式記録が廃棄されたので、船団遺跡の探索や検証にも支障が生じているようですね・・・世界制覇の夢は、おぼろのままで、それがかえって興味をひくのです。中華の大プロジェクトを進めるのも、頓挫させるのも政府内の権力闘争が推進したようです。そういう意味で、チャイナセブン内の抗争、江沢民勢力の暗躍に期待したいものです(笑)権力闘争の起源について、ナショナルジオグラフィックより引用します。ナショナルジオグラフィック2005年7月号より 紀元1644年の明の崩壊までに、10万人以上の宦官が北京に暮らしたという。なぜそんなにたくさんの宦官がいたのだろう。当初、宦官の数が膨大だったのは、捕虜の少年と成人男性がしばしば去勢されたからで、おそらくその目的は捕虜の血統を確実に絶やすことにあった。 政府を運営する儒者官僚らは、常に宦官と権力争いを繰り広げていた。やがて宦官は、政府の最高幹部の権力闘争に加わるようになり、皇帝の交代に影響を与えたり、黒幕として政治を動かすことすらあった。彼らの権力は、王朝によって盛衰し、唐では強く、宋では弱まり、モンゴル民族の元と明で再び力を増した。 中国皇帝に仕えた最後の宦官は孫耀庭だった。彼は末代皇帝の溥儀に仕え、1996年に死亡した。読みやすそうな参考文献を見てみましょう。【鄭和の南海大遠征】宮崎正勝著、中央公論社、1997年刊<「BOOK」データベースより>十五世紀はじめ、宦官の鄭和は永楽帝の命を承け、二万七千名の乗組員からなる大艦隊をひきいて、七回にわたり南シナ海、ジャワ海、インド洋を結ぶ航海を行い、ダウ船・ジャング船交易圏を明帝国の政治的ネットワークに転換する試みに挑んだ。明帝国の農本主義と海禁政策を採りモンゴル帝国以来の海と陸の大ネットワークから帝国を切り離し、中華秩序の再建を策したのである。鄭和の事跡を永楽帝がめざす世界秩序再編の視点で捉える。 <読む前の大使寸評>中華秩序の再建を策したとあるが、現代の人民解放軍の海軍を見るようで、なんだか怖い面もあるのです。尚、この本はAmazonでは中古品扱いとなっています。Amazon鄭和の南海大遠征【鄭和 中国の大航海時代を築いた伝説の英雄】太佐順著、PHP研究所、2007年刊<「BOOK」データベースより>15世紀初頭、中国からインド、中東を越えアフリカに及ぶ大航海を指揮した男がいたー。その名は鄭和。イスラム教徒の宦官として最高位を極め、明の永楽帝から“南海大遠征”の命を受けた鄭和は、生涯で大艦隊を率いること実に7回。その航跡は、コロンブスより60年早くアメリカ大陸の発見にまで達したという。西欧に先駆けて中国の大航海時代を招来した伝説の英雄を描く。<読む前の大使寸評>コロンブスより早く、規模も大きかったのが、すごい♪rakuten鄭和 中国の大航海時代を築いた伝説の英雄図書館で、この本を借りたのでこれから読んでみます。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したとき ウィキペディアが誘う鄭和 (復刻)
2023.01.14
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先日YOU TUBEで好きな歌をを紹介したが・・・2008年時点での好きな歌をまとめていたので、以下のとおり復刻してみました。なお、諸般の事情により見えなくなるサイトもあるけれど、その際は復活に務めるものとします。*********************************************************** 釜山のホテルで、暇な時間はyou tubeでカラオケ巡りするので、いっこうに飽きない大使である。ということで、食い合わせが悪くて、あたるかもしれないけど・・・手当たりばったりに、集めてみました。傾向があるとするなら、韓国、絶唱系とでも?「サチコ」も「Adoro」もあるでよ~♪Patsy Cline・紙ふうせん 冬が来る前に・Edith Piaf - L'Accordeoniste・「パッチギ」より イムジン河・Hank Williams -- On Top of Old Smoky・Patsy Cline ~ Tennessee Waltz・少しは私に愛を下さい・Woman・キム・ヨンジャ - オナラ・李成愛 - カスマプゲ・Hello Mary Lou - Ricky Nelson ・The Seekers - Georgy Girl-1968・Graciela Susana - Adoro ・サチコ
2023.01.14
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図書館で『敗者の明治維新』という本を、手にしたのです。表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。【敗者の明治維新】ムック、洋泉社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。rakuten敗者の明治維新まず、「PART1 敗れざる者たちの明治維新」から河井継之助を、見てみましょう。P36~38<河井継之助>■江戸や西国に遊学 得た知識を藩政改革に活かす 幕末の長岡を背負った藩の重職・河井継之助は、文政10年(1827)正月元旦、長岡藩の中堅藩士である代右衛門秋紀の嫡男として、越後国長岡城下に生まれる。通称を継之助、いなみは秋義、雅号を蒼龍窟と称する。 河井家の家格は百二十石と長岡藩内では低くはなく、郡奉行や新潟町奉行という民政に直接携わる役職か、勘定頭など藩の財政に関する役職に就く家柄であった。藩主牧野家の長岡入部とほぼ同時に家臣となっており、長岡藩牧野家と興亡をともにしたといえる。そのため、継之助の理財論や藩政改革論は、長岡藩牧野家のもとで受け継がれてきた為政者意識が土台にあるといわれる。 藩校崇徳館で儒学や陽明学を学び、のち江戸や西国へ遊学に出て、江戸で佐藤一斎や佐久間象山、備中の国松山藩では山田方谷に師事している。 慶応元年(1865)10月に郡奉行に任命され、民政の改革に乗り出し、財政立て直しや藩校崇徳館の改革を行う。また、百石以上の者の禄高を減じ、それ以下の藩士の禄高を増して禄制改革を行うとともに、家格の上下に関わらない人材登用を実現した。軍制改革では、フランスの兵制を採用し、藩兵の再編成や、ミニエール銃やガトリング砲を導入している。■新政府軍との交渉決裂 抗戦を決意する 大政奉還による藩閥政府の成立と、討幕派と佐幕派の激しい対立という政局の動揺に際し、長岡藩は武装中立を藩是とし、河井を名代として上京させ、徳川家擁護のため周旋を図る。 しかし、一連の活動で佐幕派と目されてしまい、また態度を明らかにしていない北陸諸藩も多く、いよいよ新政府軍が北陸へ進軍するに至る。 慶応4年5月2日、長岡城下から遠く離れた小地谷町(新潟県小地谷市)の慈眼寺で、新政府の東山道先鋒総督府軍の軍監岩村精一郎らとの会談、いわゆる小地谷会談が行われた。継之助は長岡藩の家老として、中立の立場を示すことで長岡藩の戦争回避と会津藩の赦免を求めて会談に臨むが、話し合いは決裂した。 翌日、長岡藩の本陣に諸隊長を集めて開戦決意を表明し、奥羽越列藩と協力し、抗戦することに至ったのである。長岡を舞台に各地で激しい闘いが繰りひろげられ、長岡藩は最新の軍備をもって善戦するが、継之助は重傷を負ってしまい、長岡城も陥落、一行は会津へ退くこととなった。そして8月16日、会津藩領塩沢村(福島県南会津郡只見町塩沢)の医師矢沢宋益宅で継之助は没する。 河合継之助については、強烈な個性が注目されるのに対し、複雑な藩機構をひとりで切り盛りできるはずもなく、近世中後期以降の藩政の変化、中堅藩士層の台頭という歴史的背景のなかで理解されるべきものであることも指摘されている。継之助が自ら著した史料はほとんど無く、現在でも不確定な事象も多く、継之助の評価に対しては、肯定派・否定派が存在する。 在職中の出張で長岡に行った時の日記を復刻して見てみましょう。***********************************************************東下りあるいはドサ回り第三弾 (2)より長岡から約7時間かけて帰還しました。金曜だから、東京からは指定席が満席で3列シートのまんなかで・・・・エコノミー症候群にかかったら、どうしてくれるのだ!しかもまた、25日から習志野、大府、十三、東大阪とドサ回り第三弾のような出張が控えています。何か楽しみでも見つけないと、ドサ回りはやってられないが・・・・・司馬さんに倣い、偉大な先人の足跡をたどるというのもいいではないでしょうか?(かなり、真面目でアカデミックな大使である。自分でいうのもなんですが)長岡と言えば、もう河井継之助をおいてないので、タクシーのオッチャンに話をふったら・・・継之助とアホな官軍隊長(土佐藩の若造)との談判決裂の顛末など、さすが、土地柄で詳しいのです。河井継之助近代化に貢献した官軍であるが「勝てば官軍」と案外に不評なんですね。今でも長岡、会津では薩長土に怨念があるとか?(ないとか)私は官軍輩出の地の出身ではあるが・・・・・・・長岡、会津に入ったら、彼の地の民の肩を抱いて官軍を罵倒したい衝動があるのです。(根っからの判官贔屓というか、反官なんでしょうね)ところで、習志野と言えば、自衛隊の空挺部隊の地というくらいの知識しかないので、大使にとっては心細い東下りともいえるのですが・・・・このあたりの先人といえば、江戸時代から講談で知られる平手酒造と佐倉惣五郎でしょうか?(土地勘がないので、習志野からかなり外れているかも?)
2023.01.13
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ドングリ国の名所めぐり R1「えべっさんに詣でた」を追記して、以下のとおり復刻します。R1:「えべっさんに詣でた」を追記***********************************************************匿名ブログなので、ドングリ国の所在地を特定できないように書いてきたが・・・神戸市内であることは、これまでの日記でばれるわけです。で、この際、さらにばらすわけだけど・・・神戸の下町ともいえる長田区、兵庫区、須磨区を中心にして紹介します。長田区、兵庫区、須磨区といえば、ほぼ国内でんがな♪・えべっさんに詣でた・ほっともっとフィールド神戸・湊山温泉・鉄人28号・パルシネマ・寿司屋の激戦区・懐旧の新開地・大正筋の再々開発・神戸百景・東山商店街(工事中)・須磨寺(予定)・都市開発(予定)*****************************************************************<えべっさんに詣でた>「商売繁盛~ 笹持って来~い」の掛け声で知られる十日えびす(柳原えびす)に、何年かぶりで行ってきたのです。巷では日本の賃金は頭打ちとの見通しが語られている昨今ですが・・・カラ元気で「商売繁盛~」と叫ぶのがいいかも。2日に初詣でに出向いた生田神社も、つけておきます。御朱印帳がよく売れているようだけど、年金暮らしには高嶺の花でした。*****************************************************************<ほっともっとフィールド神戸>ほっともっとフィールド神戸?・・・こんなに名前がころころ変わったら地元の民でも覚えられへんで。元のグリーンスタジアム神戸やないけ!イチローがいて「がんばろー神戸」を合言葉で日本一になったが・・・あれはホントの事やったんやろか?大使が見比べたわけではないけど、たぶん日本で一番きれいな球場やでぇ♪今日は暑さしのぎを兼ねて、高校野球の地方予選を観戦してきました。*****************************************************************<湊山温泉>銭湯方式の営業なんだけど、清盛ゆかりというからには歴史は古いようです。湊山温泉よりその昔、平清盛も湯治した温泉といわれており、800年以上もこんこんと涌き続けている。営業時間/AM7:00~PM10:30(定休日 / 毎週水曜日)※最終受付はPM10:00まで入浴料金/大人 630円久々の湊山温泉*****************************************************************<鉄人28号>神戸マラソンのルートにもなっていて認知度は今では全国クラスであるが・・・大使は鉄人28号の据付中から注目していたのです。鉄人28号の設置場所の公園が通勤ルートに近いので、地下鉄を途中下車して公園に寄ったのですが・・・分割された手足の部分がシートにつつまれて、バラバラに置いてあるだけでした。すぐ見に行く、物見高い大使であるが・・・・阪神大震災の被災場所に、神戸ゆかりの鉄人28号を据えるという構想がグーですね♪とにかく、漫画連載中から親しんだ団塊にも、いま現役の子供にとっても元気が出るではないか。(神戸ゆかりの鉄人28号を据えるより)*****************************************************************<パルシネマ>久々にくだんの2本立て館「パルシネマ」に繰り出したが・・・・今回の出し物は「キリマンジャロの雪」と「星の旅人たち」であり、館主の設けたテーマは「旅」なんでしょう。サンデー毎日の大使にとって、2本立て館のラインナップとシルバー料金1000円が魅力的である。月に1回くらいの頻度でこの映画館に通っているのだが、いつもながら館主のセンスにはウンとうなづくのです。この館主が幕間には、挨拶と見どころなどを話してくれて、なかなかいい雰囲気をかもしています。パルシネマ上映スケジュール*****************************************************************<寿司屋の激戦区>長田駅を出てすぐにテイクアウト兼用の寿司屋(えびす)があるが、ここが大使のお気に入りの店である。さらに歩くと、くら寿司とスシローが、隣り合わせに張り合っているが・・・ここは格安寿司屋の激戦区なんだろうか?とにかく神戸市内で、くら寿司とスシローが隣り合わせになっているところは、ここしかないはずである。格安の寿司屋が競合しているドングリ国であるが・・・神戸の下町なればこそなのかも♪ここで、個人的な問題が生じるのです。大使の外食は極力ビールを所望するのだが、店によってビールの値段がまちまちなので・・・以下の格安寿司屋では、どの組合せにするか迷うわけです(笑)・えびす1:海鮮丼セット500円、中ジョッキ300円・えびす2:寿司8巻セット650円、中ジョッキ300円・くら寿司:4皿と赤だし610円、中ジョッキ500円・三宮サスケ:六甲セット710円、グラスビール250円結局、その日の気分とふところ具合で決まるわけですが。魚河岸のすしえびす 長田神社店:このお店は現在閉店しております。*****************************************************************<懐旧の新開地>かつては、神戸の繁華街といえば新開地だったそうだが、そんな昔のことは知りません。だけど、まだ映画館の聚楽館が現役の頃はぎりぎりで覚えているのです。『人間の条件』全編一括上映のとき、弁当持ちで見に行ったのが、この映画館に入った最後でした。昨今の大使の国内行幸コースといえば・・・・新開地~湊川公園~東山商店街~湊山温泉というちょっとレトロなコースになるわけです。このコースは大震災の被害は比較的軽微だったが・・・新開地はわりと様変わりして、昔の街並みを留めてはいないのです。昔の新開地は聚楽館と花街がメインであったが、今では場外券売り場がメインであり、上品とはいいがたいが・・・大使にとっては懐旧の街という趣があるわけです。一方、東山商店街は固定客が付いているようで、昔の賑わいを保っています♪新開地ツアーを見て、穴場を探さなあかんな。wikipedia新開地*****************************************************************<大正筋の再々開発>大震災から19年目にあたり、新長田で“再々開発”の動きが芽生えています。27日は神戸市長選挙が予定されているが・・・一世を風びした神戸市株式会社を見直すという争点も必要ではないでしょうか。<大正筋の再々開発>箱物の復興は素早かったが、行政の強い権限で元あったコミュニティは壊れた。開かずのシャッターが増えた今、必用なコンセプトは、神戸市押し付けではなく、縮小を前提とした街づくりとのこと。不動産価値の下落するなか、再開発地区の管理会社は第3セクターの「新長田まちづくり会社」であったが、商店主たちが排除を要求し、市もやっと同調したようです。東北復興のモデルとなるべく頑張ると・・・・地道な再々開発が始まったようです。ところで・・・大震災から9年後に、今の場所に復活した七福(うどん、寿司店)であるが・・・今度、ぼっかけうどんセットを食べに行こう♪ぼっかけうどんセットよりとにかく、ドングリ国では、ぼっかけ焼きソバとか、ぼっかけうどんを知らないと、話にならないわけです。新長田まちづくり(株)とは、神戸市の天下り会社なんだけど、新長田まちづくり(株)HPを見て、不明朗会計を見抜くことは難しいわけですね。また批判するばかりでなく新長田濃厚コテコテにゅうすなどで、応援することも必用なのかも。(12日追記)早速、七福にぼっかけうどんセットを食べに行ったのです。味はいいけど、お値段は950円と大使にはやや割高でした。*****************************************************************<神戸百景>駅の通過ゲート付近に無料のパンフレットがふんだんに置いてあるが…地域振興とか、商店のコマーシャルなんでしょうね。その中に「月刊KOBEグー」という気の利いたやつがあって、大使は気にかけているわけです。連載している『神戸百景』を歩くというシリーズが、ええでぇ♪ちなみに今月号(10月号)の画像です。*****************************************************************<東山商店街>工事中皆さんお奨めの商店街があると思うけど、神戸で筆頭の商店街といえば、東山商店街となるのではないでしょうか。(異論はあるかと思うが、まあ妥当なところか)穴場:・立ち食い串かつ ・魚屋が安い
2023.01.13
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円安、国債依存による財政を取り計らい、賃金は下がり、デフレが続いて、希望が見えない日本を見限って・・・海外に出稼ぎする若者たちが増えているようです。海外に出稼ぎする日本の若者たち どうなる?日本より 年間平均給与461万円から433万円へ——。これは、国税庁の「民間給与実態統計調査」で、2000年から2021年までの20年間に日本が辿った平均年収の動きだ。一見、大きな変化もなく、デフレが続いてきた日本だけあってか、国内だけで生活する分には問題がないかもしれない。しかし、世界規模で眺めてみると、この国は、いつしか「安い国」へと変貌したのだ。 そんな中、未来の日本に希望を持てず、海外へ出稼ぎに行く日本人が増えている。彼らの多くは、「このままでは生きていけない」という危機感を抱いている。これから日本を出る男女を始め、すでに欧米やアジア諸国で働いている若者たちの今を取材した。■出稼ぎ大国から出稼ぎに行く日本人 世界第2位の経済力を堅持していた日本だが、バブル崩壊による景気低迷に加え、就職氷河期や少子高齢化といった構図が経済活動に打撃を与えていく。しかし一方の欧米諸国は、2000年代にインフラの傾向が進み、経済危機に直面しながらも徐々に平均賃金を上げていった。 日本が同じ20年間で平均年収を減らす中、西欧の国々では100万〜150万円、米国では250万円近くも所得を上げてきた。そして気がつけば、日本は中国や韓国に追い越され、人手不足に陥るばかりか、国外との競争力に雲泥の差が生まれていたのだ。■若いうちに海外で市場開拓 大手企業で経理を務めていた山田隆則さん(仮名=39歳)は、9年前に日本を出た。シンガポール、フィリピン、タイで同業の職を得て、今後も帰国する計画はないという。 「日系企業に勤めていますが、(東南アジアでは)働き方がドライで、残業もありません。意見が通りやすく、トップとの距離も近い感じがします。もし私が日本にいたら、年収はおそらく今の半分だと思います」
2023.01.12
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プーチンのプロパガンダに一般のロシア人が感化されているそうですね。粗野な農奴に先祖帰りしているとすれば、プーチンの狂気はより罪深いわけで・・・以下の通り、復刻したのです。***********************************************************図書館で『一冊でわかるロシア史』という本を、手にしたのです。ウクライナ侵略でゆれるロシアであるが・・・この粗野で不可解なロシアは、如何にして生まれたのか知りたいではないか。【一冊でわかるロシア史】関眞興著、河出書房新社、2020年刊<「BOOK」データベース>よりロシアって、謎だらけ。極寒の大地で何が起こっていたのか?教科書よりもわかりやすいロシアの開拓と改革の歴史。【目次】1 キエフ・ルーシ/2 モスクワ大公国/3 ロマノフ朝の成立/4 19世紀のロシア/5 帝国主義と大戦/6 ロシア革命/7 「ソ連」の時代/8 現代のロシア<読む前の大使寸評>ウクライナ侵略でゆれるロシアであるが・・・この粗野で不可解なロシアは、如何にして生まれたのか知りたいではないか。rakuten一冊でわかるロシア史「chapter8 現代のロシア」で、(2020年までの)あのプーチンが述べられているので、見てみましょう。p188~192<後継者はプーチン> エリツィンは1999年末、突然大統領職を辞任します。体調不良のほか、いろいろな事情があったとみられています。そのひとつに新興財閥(オルガリヒー)との癒着という問題がありました。 ソ連末期、ゴルバチョフのころ、経済活力への規制が緩和される過程で有力者がわいろなどでその権益を獲得し、新興財閥が生まれました。天然ガスや石油のような国家資産を引き継いで成立した巨大な財閥が、経済や政治にも口を出すようになっていました。 この汚職が明かされて失脚するのを避けたいエリツィンが、自分を守ってくれる人物に政権を譲ったともいわれています。その人物は、首相になったばかりのウラジミール・プーチンでした。 プーチンは1952年、レニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)に生まれました。レニングラード大学で学び、卒業後はスパイ活動を主要任務とするKGB(ソ連国家保安委員会)に入ります。 1990年にKGBを退職して以降、レニングラード大学の学長補佐官を務めたのち、政治の世界に入りました。1999年、KGBの後身であるFSB(ロシア連邦保安庁)の長官に就任します。長官時代にエリツィンの汚職を調べていた検事総長を失脚させ、クーデターを未然に防ぎました。 自任するエリツィンから大統領代行に任命されたプーチンは、2000年3月のロシア連邦大統領選挙に出馬し、第二代大統領となりました。 <ロシアか、反ロシアか> 就任早々、プーチンは新興財閥のひとりで石油資本のユーコス石油会社を手にして巨大な利益を得たミハイル・ホドルコフスキーを逮捕するなどして特権を奪い、影響力を弱めます。逆に忠誠を誓う企業を優遇し、企業や財閥との交友関係を密にして、共存をはかりました。(中略) 堅実で実利的な政治姿勢で支持者を増やしたプーチンは、地方の有権者の集まりで、組織力を欠いていた「祖国・全ロシア」を2001年に吸収合併し、「統一ロシア」というひとつの政党とします。こうして、プーチンの支持基盤が成立しました。政策は大統領とその周辺の人物によって決めており、事実上は独裁とも見られました。 この年、アメリカで同時多発テロが起こります。チェチェン人のテロに悩まされていたロシアは、反テロリズムのためアメリカと歩調を合わせることを表明しました。このことからロシアは先進国首脳会議への参加が認められました。ただし、ロシアはチェチェンに対して圧力を加え、アメリカはその動きを強く警戒するようになります。 以後、アメリカとの関係はテロを共通の敵として友好的となっていきました。しかしウクライナ問題でのアメリカの反ロシア的態度を見て、アメリカとの関係は変化しはじめています。 こうした状況のなか、2002年10月、モスクワの劇場をチェチェンの急進的独立派が占拠するテロ事件が起こります。 その後も2006年にかけてテロ事件は連続しますが、プーチンは多くの犠牲者を出したものの一連の事件を鎮圧しました。国際社会から非難の声が上がっても、ロシアはチェチェンの独立を認めませんでした。『一冊でわかるロシア史』1:日露戦争あたり
2023.01.12
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「商売繁盛~ 笹持って来~い」の掛け声で知られる十日えびす(柳原えびす)に、何年かぶりで行ってきたのです。巷では日本の賃金は頭打ちとの見通しが語られている昨今ですが・・・カラ元気で「商売繁盛~」と叫ぶのがいいかも。2日に初詣でに出向いた生田神社も、つけておきます。御朱印帳がよく売れているようだけど、年金暮らしには高嶺の花でした。この記録もドングリ国の名所めぐりに収めるものとします。
2023.01.11
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図書館で『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』という本を、手にしたのです。横尾忠則現代美術館にこの本が置いてあり、気になっていたのでチョイスしたのです。【GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story】横尾忠則著、国書刊行会、2021年刊<「BOOK」データベース>より世界を魅了し続けるアート界のレジェンド、横尾忠則の80年におよぶ創造の軌跡を一冊に凝縮!展覧会「GENKYO横尾忠則原郷から幻境へ、そして現況は?」公式カタログ。<読む前の大使寸評>横尾忠則現代美術館にこの本が置いてあり、気になっていたのでチョイスしたのです。rakutenGENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story「第2章 越境」の一部を、見てみましょう。P48~55<1960-1981 アングラの新宿> 横尾は寺山修司が主宰し、見世物の復権を目指す演劇実験室、天井桟敷の創設に加わり、舞台美術とポスター制作を担当する。「毛皮のマリー」の公演時に対談するが、神戸時代から魅かれていた主演の丸山(美輪)明宏との交友は続く。毛皮のマリー 大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」に主演する横尾、憧れの高倉健とテレビ出演する横尾。 自分を広告するポスターを作ってから3年後には、自分の存在自体がメディアになり、「アングラ」の教祖に祭り上げられた。高倉健<1960-1981 ピンクガールズ 無作法な娘たち> 人の視線を惹きつける術は絵画でも発揮される。日常生活の一コマと見せながら、三白眼で真っ赤な口を開く、あられもない娘たち。背景との違和感に不穏な気配さえ漂う。 よだれ<1969 責場 プロセスの提示> 版画は版を重ねて出来上がる。そのプロセスだけが3点組6場面で示されている。完成作からは見えない版画の本質が、好色で残虐な場面とともに露わにされる。「パリ青年ビエンナーレ」の版画部門でグランプリを受賞。責場A『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』2:1936-1960 原郷から『GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story』1:冒頭の論評横尾忠則を観に行こう♪17—R1で最新の展示が見られます。
2023.01.11
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『鳥と世界の意外な関係』(復刻)鳥と恐竜の違いについて触れているこの本は我がミニブームの中核をなしているので・・・復刻してみます。***********************************************************図書館で『鳥と世界の意外な関係』という本を手にしたのです。鳥類の仕草にひかれる太子は、駅前でハトを見ながらバードウォッチングに勤しんでいるわけで・・・まあ、鳥類はミニブームでおます。【鳥と世界の意外な関係】松原始著、カンゼン、2019年刊<「BOOK」データベース>より人間の偉大な創造は妄想×試行錯誤の賜物だった―鳥からひもとく身近な科学技術。<読む前の大使寸評>鳥類の仕草にひかれる太子は、駅前でハトを見ながらバードウォッチングに勤しんでいるわけで・・・まあ、鳥類はミニブームでおます。amazon鳥と世界の意外な関係「CHAPTER3羽毛と悲劇」で羽毛を、見てみましょう。p62~64<鳥を象徴するアレ> 羽毛のある動物は、今や鳥だけだ。 6500万年ほど前まではもっといたのだが、隕石衝突だかデカン高原の噴火だかによって絶滅してしまった。より正確に言えば、全てが絶滅したわけではなく、比較的小型で飛ぶのが上手だった奴らが生き残り、今は「鳥」として親しまれている、という方がいいだろう。絶滅した連中は恐竜と呼ばれている。 鳥は恐竜から進化したので、分類学的に言えば、恐竜というグループの一部なのだ。もちろん鳥だけを特別扱いして「これは鳥というグループ」とすることはできるが、「でも恐竜の一部ですよね」と言われれば「ハイそうです」と言わざるを得ない。 そう考えると職場からちょっと歩いたガード下では、仕事帰りのみなさんが恐竜の串焼きとビールで疲れを癒やしている、と言っても間違いではない。だからって焼き竜屋を名乗って流行るかどうかは知らないが。 さて、羽根の話。口語では「羽」だが、学術的には羽毛と呼ぶ方がいい。「はね」という日本語は翼の意味もあるので、鳥の翼全体を指しているか、羽根1枚を指しているか混乱する恐れがなきにしもあらず、だからだ。さらにコウモリのような指+皮膜も「はね」だし、昆虫も「はね」なのでさらに混乱する。ということで、この本ではできるだけ羽毛とか翼とか書き分けるようにする。昆虫の場合は「翔」が適当だろう。 羽毛は鱗と同じ材料を使っている。皮膚を覆うようにケラチン質が板状に発達すれば鱗、管状に形成された後で広がれば羽毛である。もっとも、この形成のされ方というのは非常に重要で、鱗がそのまま羽毛になったわけではない、というのも確かである。 さらに、毛や爪もケラチンだし、牛や羊の角もケラチンなので、動物の体表を覆う固めのモノはだいたいケラチンだと言える。したがって、鱗に似たものではあるのだが、鱗がチョイチョイと変化して羽毛になったというわけではなさそうである。 この辺は今もホットな研究課題なのだが、羽嚢が形成されて云々、といった発生学のしちめんど臭い話になるので、これ以上は触れないでおく。 このように、この羽毛というのはものすごく不思議なモノでもあるのだが、一方で鳥の生活を支える驚異の構造でもある。 まず、翼を構成するのが羽毛だ、という点。これは動物界を見回しても鳥だけの特徴だ。飛ぶ動物は多いが、全て、骨と皮膜、あるいは体全体で飛行を支えている。羽ばたいて飛ぶという点で鳥に一番近いコウモリは長く伸びた指と後肢、さらに尾の間に皮膜を張る。翼竜類にも羽毛があったかもしれない、という研究はあるが、翼を形成しているのは、あくまで指の骨と皮膜である。 トビトカゲの翼は長く伸びた肋骨で支えた皮膜だ。カエルの中には、大きな水かきを広げて飛び降りるものもいる。トビウオは胸ビレと腹ビレを広げて飛ぶ。イカとトビヘビは体全体で飛ぶ派だ。イカはまだしもエンペラがあるが、トビヘビは腹をグイと凹ませ、空中でも体をくねらせながら、泳ぐように空を飛ぶ。 重ねた羽毛で翼面を形成する動物は、鳥しかいない。『鳥と世界の意外な関係』1
2023.01.11
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このところの円安問題、コロナ禍などで、なかなか意気が上がらないのだが・・・やけっぱちで「飲み放題の宿」を見つけたので紹介します。なお、宿代については知りません。(見ないことにします)フリーフローサービスがある温泉宿より 英語で「Free(自由な)+Flow(流れる)」という語源を持つ「フリーフロー」とは、ホテルやレストランなどで、アルコール類を飲み放題として提供することを指します。好きなドリンクを好きなだけ味わえるフリーフローサービスがある宿なら、ホテルステイに心地良く浸ってつい飲み過ぎてしまっても、お財布を気にせず、ゆったりと楽しめることでしょう。「HAKONE NICA」の例 全8室のスモールラグジュアリーな客室は、源泉掛け流しの半露天風呂付。強羅・早雲山の景色を傍らに、癒しの時間を満喫できます。さらに、ラウンジやお部屋、レストランでの食事シーンなど、ホテル滞在中のドリンクがフリーフロースタイルであるところも宿の大きな魅力。日本酒やウイスキー、常時10種程揃うワインといった、厳選された上質なセレクションから何度でも自由に楽しめ、優雅な滞在を演出してくれます。
2023.01.10
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図書館で『本気で考える火星の住み方』という新書を、手にしたのです。【本気で考える火星の住み方】齋藤潤×渡部潤一著、ワニブックス、2022年刊<出版社>より2020年代に入り、NASAをはじめとする宇宙機関が地球にもっとも近い惑星である火星の探査を進め、次々と新発見が報告されています。そこで、本書ではあの惑星探査機「はやぶさ」の開発メンバーが現時点で火星についてわかっていること、そして以前より模索されている「人類が火星に住める可能性」について、タイトル通り本気で検討・解説します。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten本気で考える火星の住み方Massive ice in Mars’north pole「第1章 火星ってどんな星?」で火星の相貌が語られているので、見てみましょう。P26~29<火星の大気は95%が二酸化炭素で占められる> 次に火星大気の成分について説明します。 極冠にドライアイスが多いということを前に述べましたが、それだけのドライアイスを作れるだけの二酸化炭素が含まれていることは想像できます。実際には大気のほぼ95%が二酸化炭素です。これならいくら大気が薄くても冷えた極域にドライアイスができるくらいのことは起こりますね。残りは窒素、アルゴン、わずかですが酸素が含まれていますし、少なくとも極冠には多少なりとも水の氷があるわけですから、大気中にもわずかですが水蒸気が含まれています。 少しでも大気があることから、一番温かいときには地表の温度が20℃程度になることが知られています。もしかしたら、二酸化炭素の存在を「温室効果」と結びつけて考える人もいるかもしれません。しかし、もともと大気自体が地球のⅠ%以下と薄いので、いくら二酸化炭素がその大気の大部分を占めていても温室効果が起こっているわけではありません。 そして火星の大気はその一番の上層部からすこしずつ宇宙空間に漏れ出していることが知られています。1988年に旧ソ連の火星探査機がこの現象を発見しました。これが長年にわたって続いていることを考えると、火星の大気圧や成分が次第に変化していくことになります。はるか昔の火星の大気はどういうものだったのでしょうか?とても興味深いところです。<火星が「紅い」理由> 次は火星の表面がどんな物質なのか、最新の成果から明らかにされた結果を見てみましょう。 火星の表面の岩石は、地球でいうと玄武岩や安山岩というマグマが冷え固まった岩石でできています。その上でこれらの岩石が粉になり、さらに大気中に僅かにある酸素や水蒸気などと反応して酸化鉄のような赤い砂におおわれているというわけです。 図7は火星に着陸したアメリカの探査機、キュリオシティがとらえた画像です。モノクロ画像で赤いのはわかりませんが、一面がまさに「赤い星」らしく表面は赤茶けた砂におおわれています。 火星の地下を見てどういう地質構造になっているかを素人すれば、たとえばマリネリス峡谷の中に入り込んで壁を見ていくのが比較的楽なのかもしれません。2021年春、アメリカの探査機が火星で無人ヘリコプターを火星表面から離陸させることに成功しました。 実はヘリが離陸できたということで火星大気の気圧について少々議論が起こったそうです。薄いとはいえ大気がありますから、このような翼で飛ぶことができる航空機や気球なども火星表面の低高度でかつ遠距離の観測に使えるのが好都合なところです。 あと先ほど紹介した極冠ですが、図3で画像を示したように、北極と南極の周辺に現れます。成分としてはほぼドライアイスと水の氷です。地軸が地球と同じくらい傾いているため火星には季節がありますから、北半球が夏になると北極冠はどんどん溶けて岩肌が露出するようになりますし、冬になれば一番寒い極域ですから大気中の二酸化炭素や水蒸気が真っ先に凍って極冠を形作ります。これは南極冠も同様です。『本気で考える火星の住み方』1:各国の宇宙開発
2023.01.10
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<『円安が日本を滅ぼす』(復刻)>日本の半導体が世界の半分も賄う時代があったけど・・・今では見る影もない有り様で、自働車産業の未来にも怪しい雲行きが漂っています。ここで気を引き締める意味で、以下のとおり復刻してみます。***********************************************************図書館に予約していた『円安が日本を滅ぼす』という本を、待つこと3ヶ月ほどでゲットしたのです。日銀黒田総裁がかたくなに「円安誘導」しているような理屈が分からないので、この本をチョイスしたのです。【円安が日本を滅ぼす】野口悠紀雄著、中央公論新社、2022年刊<「BOOK」データベース>より日本は成長がストップし、さまざまな国に抜かれた。これを食い止めなければ、約50年間続いた先進国時代は終わってしまう。国が行うべきは、変化を阻害している諸要因を除去することだ。日本を衰退させた基本的原因は、中国工業化への対処の誤りだ。本来は、技術革新で中国製品と差別化を図るべきだった。しかし、日本は、中国との価格競争で苦境に陥った産業を救済するため、賃金を抑え、かつ為替レートを円安に誘導した。そのために、古い産業が残り、技術革新が停滞して、経済全体が衰退したのだ。<読む前の大使寸評>日銀黒田総裁がかたくなに「円安誘導」しているような理屈が分からないので、この本をチョイスしたのです。<図書館予約:(2/07予約、副本1、予約30)>rakuten円安が日本を滅ぼす第7章で自動車産業の将来を、見てみましょう。p196~198<4 日本の自動車産業の優位性は、今後も維持できるか?>■エレクトロニクスでの水平分業化 IT革命以降、エレクトロニクス産業では、組み立てにはそれほど高度の技術を必要としなくなった。部品の製造は重要だが、それらを組み立てれば容易に製品ができるようになった。 擦り合わの相対的重要度が低下すると、日本の国際競争力は低下する。このため、新興国の工業化に伴って、エレクトロニクス産業の主力は、新興国、とくに中国に移った。 この結果、生産の方式が変わった。1980年代までの製造業では、一つの企業または企業グループで部品生産から組み立てまでを行う「垂直統合」が中心的な生産方式だったが、90年代になると、「水平分業化」が進展した。これは、世界中のさまざまな企業で部品の生産を行い、市場を経由してそれらを統合する方式である。 PCの場合、90年代まで、日本国内では国産機がほとんどだった。中でも、NEC9801が「国民機」と言われたほど高いシェアを獲得した。しかし、水平分業化が進むと、NECも含めて日本メーカーの優位性は消滅してしまった。 それまで垂直統合でPCを生産していたアップルは、iPodの清算から水平分業に転換し、新興国の企業を活用して低コストで生産を行い、高い利益を実現するようになった。日本はこのような流れに追いつくことができなかった。そして、日本型の垂直統合モデルが、水平分業への移行によって敗退した。90年代のPCだけではない。その後のEMSやファウンドリの発展で、さらに大きな変化が起きている。液晶パネルの生産で垂直統合を標榜したシャープが、世界最大のEMS企業〇海に呑み込まれたのは、象徴的な事件だった。■自動車では水平分業化が進まなかった ところが、自動車産業においては、日本の強さが継続した。それは、エレクトロニクス産業とは違って、組み立てが簡単ではないからである。 これは、内燃機関を用いる自動車が、機械的に複雑な製品だからだ。とくに変速機は極めて複雑な部品だ。ハイブリッド車に至っては、動力系統が二つあるので、さらに複雑になる。エレクトロニクス産業のように、部品を集めれば簡単に最終製品ができるというものではない。 しかし、こうした技術体系が将来も続くかどうかは、わからない。■EVになれば、自働車も垂直統合から水平分業に EVの技術体系は、ガソリン車のそれとは大きく異なるものになる。 エンジンがいらないので、金型や鋳造や、工作機械の多くが不要となる。トランスミッションというメカニカルに極めて複雑な装置がいらなくなる。こうして、これまで自動車メーカーが蓄積してきた技術体系が有効性を失う。 その半面で、バッテリーなどの部品で高度な技術が要求される。ただし、それらを組み立てるのは難しくない。「擦り合わせ」はあまり重要な意味を持たなくなる。 そうなると、自働車産業も水平分業化する可能性がある。つまり、PCと同じ事態が自動車産業にも起きる可能性が強い。 自動車産業は、経済全体に与える影響が大きい。ガソリン車からEVへの大転換が起きれば、日本経済は大きな打撃を受けるだろう。PCや家電製品で起きたことが再現されるわけだ。 さらに自動運転への移行がある。このような変化を考えると、日本の自動車産業が今後も現在のような優位を保つことができるかどうかは疑問だ。日本が生き残っていくためには、新しい技術に支えられた新しい産業を作り出していく必要がある。■自動運転への移行 自動車は、EVへの移行以外にも、さまざまな変化にさらされる。一つはAIによる自動運転だ。ここで重要なのは、最先端の情報技術だ。これは、日本企業が不得手な分野である。もう一つは、シェアリングエコノミーの進展によって、自動車の使い方が大きく変化することだ。それに適したハードウェアはどのようなものになるかが、追及されなければならない。 このような変化に対応するには、社内の技術人材の構成を変えていく必要がある。これまで日本の自動車会社で中心だったのは、機械工学のエンジニアだった。それらの人々は、現在でも自動車会社の意思決定に重要な影響力を持っている。ところが、右に述べたような変化を実現するには、他の専門分野の専門家が中心人材になる必要がある。『円安が日本を滅ぼす』3:自動車産業の将来『円安が日本を滅ぼす』2:半導体に対する補助金(続き)『円安が日本を滅ぼす』1:半導体に対する補助金
2023.01.09
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図書館で『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』という本を、手にしたのです。ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。【60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳】関眞興編著、山川出版社、2021年刊<「BOOK」データベース>より植民地の独立、地域紛争、宗教戦争、交通網の発達ー新旧の地図を並べて現代世界の変化を体感する!国名、領土の変化にまつわる事件や戦争、領土問題、民族問題などを地図の変化とともに解説、現代史への理解も同時に深まる。変遷がひと目でわかる国名一覧付き!<読む前の大使寸評>ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。rakuten60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳中国の発展に伴って進行する周辺との摩擦を、見てみましょう。P28~29<東アジア>■香港・マカオ返還と経済特区の広がり 60年を隔てる2つの地図で、香港とマカオに(イ)と(ポ)の字がなくなった。地図上では小さな変化だが、特別に注目される変化である。 香港とマカオは、19世紀の末にイギリスとポルトガルが、それぞれ99年間を期限に租借していた。その期限が切れ、1997年に香港が、99年にマカオが中国へと変換された。中国にとっては、帝国主義時代の屈辱が清算されたことになる。 また、現在の地図で、香港とマカオの近隣、珠海と深〇にはピンク色にマーキングされているのがわかるだろうか。海岸沿いに東に上がると仙頭や厦門、南方の海南島にも同じマークが付いている。これらは社会主義市場経済のための拠点として、経済特区が認められた都市・地域である。 66年以降、毛沢東の指導する中国は文化大革命という大混乱に陥った。79年、毛沢東の死とともに権力を握った鄧小平は、改革開放政策を開始。社会主義市場経済という名の資本主義経済を採用した。外資の導入も積極的に行われるようになり、中国経済は一挙に開花した。21世紀に入るとアメリカに次ぐ世界第2の経済大国にまで発展する。 最初は南方に集められていた経済特区だが、やがて各地に経済特区に準ずる経済技術開発区が設置されていった。現在の地図で青く囲んだ都市が、沿岸沿いだけでなく内陸にも増えていることがわかると思う。このような経済政策により、中国は「世界の工場」といわれる大生産国家になっていったのだ。■経済発展に伴い交通網が発展 資本主義の発展は、ヒトやモノの動きを活発にする。そのための交通インフラの整備も不可欠になる。中国では帝国主義時代に進出してきた列強によって競って鉄道が敷設されてきていたが、1949年の中華人民共和国の設立後に国有化され、路線の拡大が行われてきた。改革開放が始まった70年代末以降、その動きは加速し、現代では高速鉄道網の整備も進んでいる。(中略) さらに、経済発展のためにはエネルギーが不可欠である。エネルギー源では石炭・石油のような化石燃料はもちろんだが、近年では太陽光発電・風力発電・原子力発電も行われている。現在の地図で注目されるのが「ダム」だ。水力発電だけでなく、治水・灌漑でも大きな利点がある。これもやや細かい数字ではあるが地図上に30ヵ所ほど見つけることができる。■周辺国との摩擦進む中国化 中国の領土は、北は東北部(かつての満州)から内モンゴル、西は新疆ウイグル自治区やチベット自治区、南部は雲南省を挟んで、広西壮族自治区と非常に広い。広い領土は戦略上も重要であり、それぞれの地域の開発も積極的に行われている。青蔵線の建設や蘭新線の輸送力の強化はその一環である。 しかし、このような中国の積極的な拡大策は周辺国との摩擦を起こす。チベットの場合、西方と南方でインドとの領土問題が生まれている。 一方で、ソ連崩壊によって誕生したトルキスタン(西部中央アジア)諸国との関係は良好だ。中国は一帯一路という政策を打ち出しており、これは現代版のシルクロードともいえる。また北アジアのロシアとの境界も、以前はもめていたが現在では最終的決着が付けられた。 こうした中国の外周部には、多くの少数民族が居住している。彼らの中には中国による支配に反感をもっている者も多く、中国は近年「中国化(漢化)」という締め付けを強化している。『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』1:ロシア周辺
2023.01.09
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<NHKスペシャル・アーカイブ(改12)>ブログで取り上げたNHKスペシャルを集めてみました。個人的アーカイブという趣きでんな♪なお、クローズアップ現代も一部ふくめています。NHKスペシャル放送予定改12:2023年を追加********************************************************************【2023年】・「ロックが壊した冷戦の壁」2022年12月30日【2022年】・NHKスペシャル『沙漠の英雄と中東百年の悲劇』2022.07.27・NHKスペシャル『鯨とりの海』2022.07.03・NHKスペシャル『RBG 最強の女性判事』2022.07.04・『ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生』2022年4月18日(ニナ・ハーゲンのコンサート、物理学者メルケルが政治に関わる、シュレーダーに勝ったメルケル、難民支援策、退任式典でハーゲンの歌を採択)【2021年】・『パンデミック 検証“医療先進国”(後編)なぜ危機は繰り返されるのか』2021.06.27・『パンデミック 検証“医療先進国”(前編)なぜ保健所は追い込まれたか』2021.06.22【2020年】(追って記入)【2019年】・NHKスペシャル『ノーベル賞会社員』2019.2.17・NHKスペシャル『アメリカvs中国 “未来の覇権”争いが始まった』2019.1.19【2018年】・クローズアップ現代『難問!どう遺品を整理』2018.10.25・NHKスペシャル『“脳” すごいぞ! ひらめきと記憶の正体』2018.2.04・NHKスペシャル『万病撃退!“腸”が免疫の鍵だった』2018.1.14【2017年】・あなたの家電が狙われている2017.11.26・追跡 パラダイスペーパー2017.11.23・NHKスペシャル『人体 脂肪と筋肉 』2017.11.05・NHKスペシャル『 巨龍中国 一帯一路』2017.10.14・NHKスペシャル『人体 神秘の巨大ネットワーク 』プロローグ2017.10.03【2016年】・NHKスペシャル『自閉症の君が・・・』2016.12.11・NHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』2016.11.13・NHKスペシャル「縄文 奇跡の大集落」2016.5.01・NHKスペシャル『狙われる日本の機密情報』2016.2.07・NHKスペシャル『世界は秘密と嘘(うそ)に覆われた』2016.1.24【2015年】・NHKスペシャル「縄文 奇跡の大集落」2015.11.8・NHKスペシャル『雇用激変』2015.10.24・NHKスペシャル『戦後70年、豊かさを求めて』2015.6.5・プラントハンター西畠清順2015.4.3・空き家列島の衝撃22015.2.17・空き家列島の衝撃12015.1.19【2014年】・本を読まない人が急増 2014.12.11【2013年】・再発・転移する元凶「がん幹細胞」が見つかった 2013.09.19・NHKスペシャル【メルトダウン】2013.03.10【2012年】・NHKスペシャル「中国文明の謎」32012.12.11?・NHKスペシャル「中国文明の謎」22012.11.11・NHKスペシャル「中国文明の謎」12012.10.14・NHKスペシャル「魚の町は守れるか」2012.2.12
2023.01.08
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<NHK 「ロックが壊した冷戦の壁」>昨年末に観たNHK 「ロックが壊した冷戦の壁」が忘れ難いので、ネットで探してみたのです。NHK 「ロックが壊した冷戦の壁」より東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」を崩壊に導いた、3人のロックシンガーの物語を拡大版で特集。東ドイツで監視社会への怒りを歌った女性歌手ニナ・ハーゲン。ドラッグや同性愛を赤裸々に歌い、チェコスロバキアで大ブームとなった、ルー・リード率いるベルベットアンダーグラウンド。そして西ベルリンから壁の反対側に向けてコンサートを行ったデビッド・ボウイ。自由を叫ぶ3人の音楽は、冷戦の壁を越えて人々の心を揺さぶった。<大使寸評>ニナ・ハーゲンとデビッド・ボウイが強いメッセージを発していると感銘したのです。NHK『ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生』でもメルケルと論争するニナ・ハーゲンを見たが・・・良い悪いは別にして、これこそロックシンガーの魂なんだろう。ニナ・ハーゲンメルケルの退任式典でメルケルはハーゲンの歌(カラーフィルムを忘れたのね)を所望したそうで・・・これを知ったハーゲンは「フェイクニュースやないか」と喜んだそうです♪『ドイツのメルケル首相 退任式で送別曲にニーナ・ハーゲン「カラーフィルムを忘れたのね」を選ぶ』2021/12/03よりドイツの首都ベルリンで12月2日、16年間にわたってドイツを率いたアンゲラ・メルケル首相の退任式が行われました。送別の曲としてメルケル首相が選んだ曲のひとつは、ドイツのパンク&ニュー・ウェイヴのアイコン、ニーナ・ハーゲン(Nina Hagen)の1974年のヒット曲「Du hast den Farbfilm vergessen(邦題:カラーフィルムを忘れたのね)」でした。式典では軍楽隊によって演奏されています。メルケル首相は、この選曲について聞かれると「この曲は自分の青春時代のハイライトだった」と語り、「この曲は東ドイツで生まれたもので、かつて私の選挙区だった地域では今でも流れている。だからすべてが今日に合っている」と付け加えています。
2023.01.08
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移民問題がテーマの『ファミリア』に関心があったので、公開初日(6日)に観てきたのです。封切館に足を運ぶのは久々のことであり、期待の大きさが知れるのだが・・・やや期待外れだったのです。なぜだろう?・・・で、ネットの「ファミリア公式サイト」を覗いてみました。ファミリア公式サイトより【解説】 陶器職人の主人公・誠治と、海外で活躍する彼の息子・学、そして主人公が知り合う在日ブラジル人青年・マルコス。リアルな今を生きる3人の関係を軸に、独自の視野から「家族」という普遍的なテーマに挑んだ感動作が誕生した。 主人公・神谷誠治を演じるのは日本を代表する名優、役所広司。焼き物を本格的に練習して撮影に臨んだ本作では、親の愛を知らずに育ち、不器用だが家族を深く愛する男の複雑な心情をまさに唯一無二の演技で表現している。 息子の学には、NHK大河ドラマ「青天を衝け」に渋沢栄一役で主演した吉沢亮。マルコス役のサガエルカス、彼の恋人エリカ役のワケドファジレらオーディションで選ばれた、実際に日本で暮らすブラジル人の若者や、日系4世らのヒップホップグループGREEN KIDSの“当事者”による演技は、“演技”の域を超えた本物の煌めきを放つ。さらに“サムライギタリスト”として世界的に知られるMIYAVIが強烈な印象を残し、佐藤浩市、松重豊、中原丈雄、室井滋らベテラン俳優が絶妙なアンサンブルを見せる。大物俳優や素人のブラジル人を配したキャスティング、移民問題というテーマはいいのだが、半グレの日本人グループと聖人・神谷との肉体的な闘いが最も印象に残るわけで・・・これでは脚本の未熟さが出ているのではないだろうか。ラストシーンは神谷とマルコスが覗く陶器ガマに希望が見えるという作りとなっているが、これもやや甘いのでは。
2023.01.07
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