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普天間/辺野古海上基地問題などは民意と経済と安全保障が絡む問題であり、民主主義が産声をあげたばかりの日本にとって極めて難問である。マニフェストという原理原則に立ち返る民主党のメッセージと、せっかちなマスコミの論評との確執で、立ち位置が定まらず日々オロオロする大使である。と言うことで・・・日本を代表する危険な社会学者と評される宮台さんのスッキリした論評を聴きたいということで、「民主主義が一度もなかった国・日本」を買ってきて読んでいます。「民主主義が一度もなかった国・日本」より内容(「BOOK」データベースより)じつは豊かな時代に民主主義は不要だった。日本の政治家は密室談合して地元に利益誘導すればよいだけだったからだ。しかし経済が収縮する時代は、民主主義が機能しないと、それはそのまま国土と人心の荒廃に直結する。そうして今回の政権交代が起こった。多くの国民は気づいていないがこれは革命だったのだ。だが、まだ油断は禁物だ―。日本を代表する危険な社会学者とマニフェスト起草に深く関わった民主党の頭脳が、この革命の中身と正体について徹底討論した。 ・冷戦終結後の日米安保は何のために必要か?・・・米中が対峙する今、難問である。危険な社会学者は「問題はマスコミです」と断定していて実もふたもないが・・・・忙しいマスコミもこの本を紐解いて民主主義の勉強を始める必要があるのでは?さわりを一部紹介します。幼稚園児でも分ることですが、宗教社会がない日本では米国流「市場主義」は無理で、欧州流「談合主義」しかあり得ません。その場合、必要なのは「既得権益を排除した再配分」です。既得権益団体にカネを回し、そこにぶら下がる連中にカネを回す自民党図式がいけないのです。幼稚園児でも分るですか・・・きつい物言いだこと(笑)米軍基地と公共工事のまち沖縄県などには、どんなご宣託を下すでしょうね。このAlternative Mediaは社会学者言うところのマスコミとは違い、独立系メディアであるが・・・・・2008年の段階で ウオール街の危機を救う方法を掲げていました。読後のレポートは、のちほどに。
2010.01.31
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カーナビが「コウソクドーロ」と日本語と同じ発音でしゃべるので、おお!と思ったりするのです。韓国に来ると街中で漢字を見ることが少ないけど、ラジオや会話からは、漢字を連想させる言葉が頻発する漢字文化圏そのものであることを実感します。東アジアとはヴェトナムまで含めて漢字文化圏とも言える地域であり、越南と書いてヴェトナムと読むなどは、まったく漢字そのものですね。韓国では漢字を使える人が減ってしまい、筆談ができずにもどかしい思いをしたけど・・・・漢字文化を再興し、ゆくゆくは旅行中に困らない程度の漢字の統一があればいいな~と夢見るのである。鳩山首相も提唱する東アジア共同体構想であるが・・・不詳、わたくしめも構想するくらいだから、中国や韓国でも似たような構想はあるに違いない。各国にとって同床異夢のような東アジア共同体構想は、最近は傲慢とも見える中国に覇権を奪われ、周辺国の意気も上がらないようです。悔しいけれど、東アジアはいいも悪いも中華文化圏なのかも知れないが・・・・ヴェトナムと韓国が漢字表記を廃止した今では、唯一、漢字かな混じり文というハイブリッド言語をあやつる日本は、漢字文化圏という切口では先端を走っているのかもしれません。内田先生が言っていたと思うが、漢字かな混じり文を読む際には脳内の2箇所をつかって読んでいるそうで、優れた情報インプット方法なんだそうです。アメリカや中国が牽引するグローバリズムという強欲な処世術がはびこる昨今ですが・・・・せめて、情報インプット術の素晴らしさでも誇り、憂さばらしをしようではないか♪その漢字を排斥する動きが漢字文化圏の各地で起こっては消えました。そのあたりについて、水村美苗著「日本語が亡びるとき」より引用します。 1965年 国語審議会会長が、初めて、日本語の表記法は「漢字仮名交じり文」であることを前提として審議を進めることを記者会見で発表する。文部省が進めようとしてきた感じ排除論に初めておおやけに終止符がうたれたのは、前島密が「漢字御廃止之儀」を上伸してからちょうど百年後であった。 <書き言葉>が<話し言葉>の音を表したものにすぎないという「表音主義」を真に受け、実に百年にわたって、日本語から漢字を排除しようという動きがあったのであった。 いうまでもなく、もと漢文圏において、漢字を排除したいという思いをもったのは日本だけではない。朝鮮語は日本語よりも抽象語のなかで漢字が占める率の高い言葉だそうだが、北朝鮮では漢字を使うのが法律で禁止されているし、韓国でも今やほとんど漢字を使わなくなってしまった。朝鮮半島の人たちは漢字を捨ててハングル表記だけを選び、いわば、仮名文字論者の立場をとったのである。また、ヴェトナム語はその朝鮮語よりさらに抽象語のなかで漢字が占める率の高い言葉だそうだが、すでに二十世紀の前半に全面的にローマ字アルファベットに変えてしまった。(一部省略) 思うに、日本から真に漢字排除論が消滅したのは、ここ二十年くらいのことである。(一部省略)コンピューターという技術革新のおかげで、漢字はかってのように「不便なもの」でも、ポピュリズムと相反するものでもなくなたからである。今や漢字は外国人も進んで学ぶようになり、漢文の運命はわからないが、少なくとも漢字という三千数百年の歴史を持つ文字―現存する唯一の表意文字が絶滅する危機を人類は脱した。そうなんだな~ 思うに、大使が漢字に愛着を持つに至ったのは・・・・ワープロや、パソコンで簡単に漢字が書ける(打てる)ようになってからだった(笑)漢字は技術革新に支えられて、生き残る保証を得たのでしょうね。ところで、韓国から帰ってきて、テレビをつけると鳩山首相が施政方針演説を行っていたが・・・・格調高くいいことを言っていたが、ヤジがうるさいことこの上ないのだ・・・イヤだね~。***********************************************************************************政治家の演説とは思えない文学的?な演説で、これもいいかな~と思ったが・・・・30日の新聞によれば、劇作家(平田オリザ)との意見交換も参考にしたとか。もっと具体策も聴きたい気もするが、施政方針だから、これでいいのかも。
2010.01.29
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今回の政権交代は革命的であり、民主主義が根付くのではないかと期待をよせているが・・・楽天の秀さんが「民主主義が一度もなかった国・日本」(宮台真司・福山哲朗;共著)を紹介していたので、さっそく、アマゾンを覗いてみました。「民主主義が一度もなかった国・日本」より内容(「BOOK」データベースより)じつは豊かな時代に民主主義は不要だった。日本の政治家は密室談合して地元に利益誘導すればよいだけだったからだ。しかし経済が収縮する時代は、民主主義が機能しないと、それはそのまま国土と人心の荒廃に直結する。そうして今回の政権交代が起こった。多くの国民は気づいていないがこれは革命だったのだ。だが、まだ油断は禁物だ―。日本を代表する危険な社会学者とマニフェスト起草に深く関わった民主党の頭脳が、この革命の中身と正体について徹底討論した。 秀さんがキーワードは、「お任せ民主主義」から「参加民主主義」へと転換すると言うことになるだろうと言っているが、そのとおりだと合点がいくのです。いままでお上任せで痛い目にあってきた日本で、新政府は官僚から行政の主導権を取り戻そうと頑張ってくれてはいるが・・・・いまホットな小沢さんは「参加民主主義」よりは「お任せ民主主義」に近いでしょうね。かと言って、小沢さん抜きで参院選で民主党が敗れると民主主義のみの字もなくなり、元も子もなくなる恐れがあるでしょうね。
2010.01.24
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高樹のぶ子さんの本は読んだことはないのだが、『マイマイ新子と千年の魔法』の挨拶文には惹かれます。なんでだろう?私たちはいま、大自然の危機に直面し、生き迷っています。そんな時こそ、古い教科書のページを捲って、私達はどこから来たのかを確認するべきではないでしょうか。そこにはきっと、未来への処方箋が隠されています。麦畑の緑の海や小川のきらめき、目に見える生と死、家族のつながり、子供たちの背負った哀しみの影の中に……古いけれど永遠に変わらない人間の原風景の中に、処方箋を読み解く呪文が在る……。今こそ古いものほど新しい……その発見こそ、覚めることのない魔法です。あるいは、こうも思うのです。このアニメ世界こそが本来の姿であり、高度成長に狂った昭和三十年からの年月こそ、日本と日本人は「物質的に豊かになれば、幸せになれる」という間違った魔法に掛けられていたのではないか。新子は私達に魔法を掛けるのではなく、解き放とうとしているのではないだろうか。世界は単純ではなく、生きるのは困難だけど、すべての子供たちに、自分の心の底に流れる水の美しさを知って欲しい。千年の時を流れる小川は、現代の都会の子供にも流れているのだと。それを教えてあげるのは私たち大人の役目ではないでしょうか。私も高樹のぶ子さんと同じで団塊世代なんですが、この世代は高度成長期を経験しているが、昨今の不況や混迷にうまく対応できないでいます。成功体験があるだけに、かえって間違っているのではないか?リーマンショックの元凶は米金融にあるにしても、昭和三十年代から疑問も持たずやりすごしてきた日本人(特に団塊世代)は被害者であったとばかりは言い切れないのではないか。これからの日本は輸出産品からの儲けを適切に配分して慎ましく生きてゆくしか、生きる道はないのかも知れないな~。そういえばかって定期昇給というものがあったけど、懐かしいな~。日本と日本人は「物質的に豊かになれば、幸せになれる」という間違った魔法に掛けられていたと高木さんは言っているが・・・そうか、魔法だったのか。千年の時を流れる小川とは、処方箋を読み解く呪文なのか。高木さんの挨拶文には、忙しい生活のなか、巫女の呪文がふと聞こえるように思うのです。欲望や繁栄を野放しにしてきた新自由主義の過ちが、共通認識となったいま・・・・オバマ大統領が金融規制を表明したそうですが、これも呪文のように利いてほしいと思う昨今です。『マイマイ新子と千年の魔法』公式HP
2010.01.24
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韓国の公園や街角に植えている樹木のセンスが、日本とは少し違っています。とにかく松ノ木が多いのです。豊川の公園にて横に広がる日本的な松も見られるけど、曲がりがなくて直立する松がこの地のひとのお好みのようです。そして、その植え方もなんか人工を感じさせない自然そのままというか、大陸的な空間を感じるのです。それから日本の湿った空気と違い、乾燥した風土もなんとなく感じられます。国立中央博物館の松林豊川ファンタジックスタジオの松韓国の公園樹、庭園に感じるのは日本のものよりは、より自然に近いことでしょうか。慶州の仏国寺の庭園でも、日本の凝った庭園との違いを感じたものですが・・・・一見、大雑把に見える庭園には、手を入れずに自然風を愛するこの国の感性が感じられるのです。日本の庭師ならどうしても手を入れるところを、あえて手を入れないという感性があるのではないかと私は受け取りました。ところで、万葉集に松を詠んだ歌は多いが、私には有馬皇子のこの歌が記憶に残っています。(教科書に載っていました)磐白の、浜松が枝(え)を、引き結び、ま幸(さき)くあらば、また帰り見む
2010.01.22
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お上意識はいつごろから有ったのかと常々思っていたが、池田香代子さんがそれは江戸に端を発するものであると言っています。そうか、そこまで遡るのか・・・・明治維新で獲得された近代の形質ではなくて、下々が侍に対して抱く意識だったようです。「坂の上の雲」に描かれた明治の官僚機構までは、侍精神の残渣でまだお上は健在だったかもしれないが・・・・それからが悪くて、太平洋戦争を経たいままで劣化の一途をたどってきたのでは、ないでしょうか?池田香代子さんは、今回の元秘書逮捕では「検察の事には間違いはございますまいから」ではないと言っています。1/20お上の事には間違いはございますまいからより このくにの官僚は優秀でまじめだという神話は、江戸に端を発するものであって、明治維新で獲得された近代の形質ではないのです。この神話を食いつぶしてきたのが、旧日本軍上部の官僚機構であり、経済成長をなしとげたあと、使命感が薄れてしまった官僚機構だったのではないか、わたしはそう考えています。 たとえば社保庁のていたらくを、わたしたちはまざまざと見せつけられてしまいました。ですからもういいかげん、「お上の事には間違いはございますまいから」という呪縛から解き放たれ、優秀な官僚に任せておけば間違いないとする「お任せ主義」から脱する時が来ていると思います。そして、人の組織のすることには、人為的ミスはつきものだ、弱い心が犯すあやまちはつきものだ、というあたりまえのことを前提に、新政権には、霞ヶ関改革をぜひやり遂げていただきたい。検察という官僚組織も例外ではないどころか、その筆頭です。取り調べの記録と可視化は、今すぐやるべきです。いつまでも「検察の事には間違いはございますまいから」ではないのです。新しい公正なルールのほうが士気が上がると考える、良心的な若い検事さんたちは、きっといると思います。刑事裁判の99%は有罪という事態を異常とうけとめる目をもたなければ、いくら裁判員制度を導入しても、国民主権はいつまでたっても絵に描いた餅です。とにかく、日本では明治維新というお上による革命を経験したが、今にいたるまで庶民による革命を経験していないので、お上意識(いい意味でも悪い意味でも)を払拭できずにきたと思うのです。ところで、3年も続くNHKの「坂の上の雲」を見るうえで、お上意識の変遷という見方も意義深いかと・・・ややこじつけかも知れないが見所を設けてみました。
2010.01.21
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メディアはこのところの小沢さんの元秘書逮捕でもちきりですね。地検特捜部のこの強引さはどこから来るのか?・・・絶対の自信からなのか、悪あがきなのか?どうしても解せないですね。この問題なら元検事の郷原さんの論評にしくはないのでネットで探したところ・・・・ビデオニュース・ドットコムで不可解な特捜の強制捜査として郷原信郎氏のインタビューが見られます。不可解な特捜の強制捜査より しかし、元検事で名城大学教授の郷原信郎氏は、この捜査そのものに強い疑問を呈する。郷原氏はそもそも疑惑の存在そのものに疑問がある上、この強制捜査は多分にパフォーマンス的な色彩が強いものの可能性が高いと言うのだ。 郷原氏によると、小沢事務所は2004年の政治資金収支報告で小沢一郎氏からの4億円の借り入れをきちんと報告しており、それと相前後して銀行から4億円の借り入れは行っているが、それは「早急に現金で支払う必要に迫られたなどの事情により小沢氏の手持ち資金を支払いに当てた後、銀行の融資に振り替えたものと考えられる」ため、そこには違法行為は存在しない可能性が高いと言う。 そもそも政治資金規正法は原資の記載を要求していない。そのため、秘書の寮の購入目的で銀行から借り入れた4億の原資が小沢氏自身からの貸し付けであるとすれば、4億の借り入れは一度報告すれば十分と考えることができる。その場合は今回の容疑である虚偽記載の疑い自体が消えてしまうことになるため、郷原氏は小沢氏の元秘書の石川知裕衆議院議員の起訴は難しいのではないかと言う。また、ちょっと古いけど、昨年10月の郷原さんの弁を紹介します。閉ざされた検察組織だけで政治・社会・経済を判断するのは難しいより 例外的に社会の中心部で活躍する政治家、経済人などを摘発の対象にし、社会的に大きな影響を与える捜査の遂行を使命とされてきたのが特捜検察である。そこで対象とされるのは、政治・社会・経済の中心部分で起きている複雑・多様な事象そのものであり、刑事罰の適用に関しては社会的な価値判断が求められる。 そのような社会内の事象を、どのような観点からとらえ、どのように評価していくのかの判断を、検察の組織という閉ざされた世界の中だけで適切に行うことは、もともと容易ではない。しかも、その困難さは、社会・経済の複雑化・多様化に伴って一層顕著となっている。 1990年代以降、日本の経済社会において、企業、官庁などあらゆる組織が構造変革を迫られる中、組織内で自己完結した「正義」に依存し、旧来の捜査手法にこだわり続けた特捜検察は、社会・経済の変化に大きく取り残された。そして、面目と看板を何とか維持しようとして「迷走」を続けてきた。 そうした「迷走」が限界に近づきつつある状況で行われたのが福島県知事をターゲットとする東京地検特捜部の捜査だったが、それは、結局、土地取引を巡る疑惑を報じて捜査の発端となった週刊誌の記事とほとんど同レベルの事実しか明らかにできず、その事実を無理やり贈収賄の構成に当てはめただけという結果に終わった。 前記の拙著でも述べたように、かつては特捜検察が起訴した事件について裁判所が消極判断を示すことはほとんどなかったが、昨年7月の長銀事件についての最高裁の逆転無罪判決、つい最近のPCIの元社長の背任事件の一審無罪判決などに見られるように、裁判所の特捜検察に対する見方は次第に変わってきているようにも思える。今回の事件に対して東京高裁がどのような判断を示すか、控訴審判決が注目される。
2010.01.19
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1/15にキッコさんが、こう言っているんですが、週刊誌の吊り広告なみの鋭さというべきでしょうか(笑)1/15チャンスを棒に振る自民党よりアホの集団、東京地検特捜部が、とうとうボロを出しちゃった。そう、小沢一郎の秘書だった石川知裕議員と、その後任の会計担当者だった池田光智氏を逮捕して、西松建設の事件で起訴されてる大久保隆規被告の逮捕状もとったのだ。これで、東京地検特捜部のホントの狙いが、事件の解決や解明なんかじゃなくて、完全に「鳩山内閣潰し」だってことが全世界に知れ渡っちゃった。ホント、東京地検特捜部って、頭が悪いよね。やることなすこと、ぜんぶ逆効果だ(笑)石川議員も池田氏も、これまで、東京地検特捜部の任意の事情聴取にはすべて応じて来てるし、大久保被告だって、別件で起訴されてるんだから、逃げるワケがない。それに、今回の問題は、いくら金額が大きいとは言え、所詮は単なる「虚偽記載」で、普通は逮捕なんかする事例じゃない。これまでの自民党政権時代に、自民党の総理大臣から閣僚から一般の議員に至るまで、みんなそろってやってたことだ。たとえば、フロッピー麻生の内閣の時も、アベシンゾーの内閣の時も、閣僚の9割が政治資金の「虚偽記載」はおろか、遥かに罪の重い「違法献金」までもが発覚してたヤツもいたのに、誰1人として、逮捕どころか、事情聴取すらされなかった。キッコさんは自分でウラを取ってこのように断言しているわけではないが・・・・今まで報道されたことから、このような推論ができるということだろう。このところ、NHKが臨時ニュースとして検察からの情報をツーカーに報じていることが気になっていたというか、大使の癇に障っていたのです。(NHK海外版にもその臨時ニュースが飛び込んできて、せっかくのお楽しみ番組がパーになり、大使はいたく立腹したのであった)確かに新しい情報はニュースには違いないのだが・・・情報の流れ方とか、如何にその情報を受け止めるかというジャーナリストとしての補足意見が不足しているのではないだろうか?その点、キッコさんの推論は、まさに週刊誌の吊り広告なみの鋭さというべきではないでしょうか(笑)池田香代子さんが民主党、「社会の木鐸」なんぞにがたがたしないでと言っています。 陸山会が土地を買うにあたって小沢さんが立て替えた4億円には、水谷建設の裏献金が入っている、そう東京地検特捜部が考えていることは、これまでの報道でよーくわかりました。ついては、マスメディアがほんとうに権力の番人を任じるなら、政権与党の実力者だけでなく、検察という国家権力もまた監視していただきたい。小沢さんには、主権者のわたしたちに、一日も早くわかりやすい説明をしてほしいと思います。そして民主党には、ここへきてがたがたしないでいただきたいのです。マスメディアの報道にもかかわらず、新政権をなお後押しする主権者の思いはそれほどゆらいでいません。それを計るのは困難かも知れませんが、巷が検察やマスメディアに醒めている度合いは、はっきり申して民主党に醒めている度合いと、どっこいどっこいなのです。動揺せずに、政策を推し進めてください。その政策に自信があるなら、推し進めてください。石川議員逮捕は検察の暴走、「帝人事件」の轍を踏むな
2010.01.17
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古いソウルを模して作ったという町並みなんですが、この地のひとが懐かしく感じるように私にとってもどこか懐かしく、この町並みを行き当たりの道順で彷徨してまいりました。この豊川ファンタジックスタジオがホテルから歩いて10分ほどの所にあるのは知っていたけど、中に入ったのは初めてでした。雪が残っていて足元は要注意だが、気温も緩み気持ちのいいお天気です。一日中ホテルにいると掃除のアジュンマの邪魔になるので外出したが、休日の時間つぶしにここを訪れたのは正解でした。この豊川ファンタジックスタジオの隣に大きな博物館のような建物があるので、何か?と訪ねると漫画博物館でした。漫画博物館博物館の図書室には、子供が喜ぶはずなのにお客が私ひとりだったけど、博物館の入場料が5000Wでは、子供が気安く来るには高すぎるのかも知れません。ここでは、日本の漫画の韓国語版がほぼ完璧に揃っていて驚きました。日本映画の完全開放はまだのようだが、漫画の場合は商売優先というか、なし崩しというか完全開放のようです。ドラゴンボールもフルセットであり、これが日本語版なら時間を忘れて没頭できるのだが・・・絵ばかり眺めていても、面白くないもんね。ドラゴンボール日本では戦後の復興期に貸し本屋を通じて漫画が普及したわけだが、韓国でもほぼ同時進行で普及したようです。それだけの歴史があり、大きな博物館を建てる意気込みはよくわかるが・・・日本の二番煎じのような漫画でなく、もっと他に独自の文化があるだろうにと思ったりするのです。たまたま訪ねた二つの施設には、拭おうにも拭えない日本の影が感じられたが・・・・それが動かし難い隣国というものなんでしょう。そして「日本にだけは負けたくない」と、とにかく同じ土俵にのぼり、張り合っていたいのがこの地のひとなのかも知れません。私も仕事を通じて彼らに愛憎あい半ばしているんですが、彼らも「あの日本人め」と思っていることでしょう(笑)あとで韓国漫画博物館HPを覗いたのですが(ハングルは読めないけど)、コンテンツの良し悪しは別にして、漫画産業に対する行政支援では日本は負けているようですね。
2010.01.17
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アメリカに迫られて日本は歴史上2度の開国を経験ようなものだが・・・・2度目では、太平洋戦争の敗戦により無理やり開国したというか、立派な憲法と行政制度を頂戴したわけです。確かに立派な憲法と行政制度ではあるが、行政制度については庶民が自分で勝ち取ったものではないのでお上優先のままで、民主主義がちっとも身についていないのです。敗戦という痛い目にあったが、とにかく民主主義を得たことはよりベターではあったかもしれないが・・与えられたような開国が、はたして日本人にとって良かったのか?今回の政権交代は明治維新以来初めて本来の民主主義が身につく好機なんだけど、卑しいメディアが雑音をぶちまいてくれるので、なんだか基本スタンスが定まらないのです。強欲なグローバリズムに押しまくられて意気消沈している場合ではないので・・・ここは、ガチガチの攘夷派?の内田先生の「鎖国攘夷論」を聴こうではないかと思うのです。(ちょっと古いエントリーですが)5/30
2010.01.15
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気分が落ち込んでくると、ネットで古い歌を聴くことになるのです。韓国で楽しみといえば、食べることと、ネットの歌くらいしかないので・・・・・you tubeで古い歌を探してみました。井上陽水「少年時代」中島みゆき - この空を飛べたらブラザーズフォーの歌なんか懐かしいですね。まだアメリカが優しかったころの歌です。七つの水仙古いフランス映画「かくも長き不在」のなかで主役のふたりが踊った曲が「みっつの音符」という歌で、この歌を長く探していたけど・・・・・コラ・ボケールの歌う「みっつの音符」がやっと見つかったのです。vaucaire TROIS PETITES NOTES DE MUSIQUE 世界には同好の人は探せばいるわけで、これがyou tubeの威力なんでしょうね。
2010.01.13
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また韓国に来ています。最近は韓国出張が頻繁にあり、日本より韓国に滞在する日数のほうが多いという昨今ですが・・・仕事のほうはなかなかはかどらず、意気もあまり上がらないのです。ホテルの部屋(14階)から見た町並みも、こちらの意気が上がらないためか哀愁を含んで見えるのです。写真に見えるように、街には正月4日の大雪の名残りが残っていて、歩くのも要注意です。心なごむことと言えば、ホテルの隣にある食堂のアジュンマと仲良くなり・・・・日本語と韓国語のかけあいで(ジェスチャーを加えて)好き好きムードを醸していることでしょうか。(草の根交流に貢献大の大使である)ここのポッサムとかキムチチゲは安くてグーですが、メニューのハングルがさっぱり読めず、困ることしきりなので・・・遅ればせながら、ハングル学習に挑戦しようかな~と思わないでもない大使である。ということで、信太一郎さんの三才の理とハングルを読んだしだいです。 ハングル製作の後、宮廷内には中国にない字を作り用いることに対する反対意見が出たが、世宗大王自身がそれをおさえた。そして、宮廷からハングルによって朝鮮語に訳され解説もつけられた仏典や韻書や杜甫の詩集などが相次いで出された。こういう点をみると、ハングル製作の主旨が「訓民正音」の前書きにもあるとおり、人々が自由に自分の意思を表現できるようにすることにあることは確かとしても、漢字にとって代る文字として作られたとまではいえない。初期のハングルには朝鮮語にはない中国語の音の区別を示す字母まであったように、漢文を身につける手段という意味もあったようである。 ハングル創製には悲しい後日談がある。世宗大王の死後、その甥が王位を奪うという事件が起こり、新王に抵抗した成三問らハングル創製にかかわった者の多くが死罪となった。これを浮世離れした言語学者が政治に巻き込まれたなどと理解してはならない。新王の側の中心人物であり、のちに領議政(総理大臣)にまで出世した申叔舟(シン・スクチュ)もまた、ハングル創製の中心人物の一人であった。学問を身につけた者が政治を行う体制の李氏朝鮮では、学者とはイコール高級官僚でもあったのだ。政治もハングルの創製も彼らにとっては、ひとしく国家的事業だったのである。
2010.01.12
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内田先生の「日本辺境論」を読んで、おおいに啓発された大使であるが・・・日本人はこれまで、常に師となる先進国を目標にしてキャッチアップに努めてきたが、功成ったあと目標が無くなれば、とたんに迷走を始めるようです。このデフレスパイラルのなかで生き残りをはかるには、どうすればいいのだろう?もっと卑近な問題として、退職後に年金だけでは暮らせなく恐れがあるけど、どうすればいいのだろう?このような問題を内田先生に投げかけても、まず「そんなことを訊かれても・・・」と断りがあり、以下のような厳しい回答がありました。内田先生は辺境として生きていこうと開き直っているが、具体的な生き残り策については歯切れが良くありません。それだけ現実が厳しいのだが・・・仙人のように霞を吸って生きていくわけにもいかず、困ったものです。1/8そんなことを訊かれてもより率直に言うが、日本社会はすでに「前代未聞・空前絶後」の社会状況に入っている。人口の不可逆的な減少、それによる経済活動そのものの縮小ということを経験したことのあるものは先進国には存在しない。ということは「こういうときはどうすればいいか、私は知っている」と言うやつがいたら(経済学者でも国際政治学者でも)そいつは「嘘つき」だということである。日本社会はいま急速に流動性を失って階層化が進行している。上層の一部に権力も財貨も情報も文化資本も集中する一方で、巨大な「下層」が形成されつつある。その階層差を形成しているのは端的には危機感の差である。「いま、私たちはどうふるまっていいかわからない状況に入りつつあり、正解は誰も知らないし、誰も教えてくれない」ということを切実に受け止め、それゆえ自分の判断力と感覚を信じて生きる人間たちは生き残り、「どうすればいいんでしょう?」とぼんやり口を開けて、「正解」を教えてくれる人の到来を待ち望んでいる「受け身」の人たちは下層に吹き寄せられる。残酷なようだが、そういうことである。こうなったら、新政権のやや心もとない羅針盤をたよりに漂流するしかないのかもしれないが・・・・空元気でも出して新政権をフォローあるいは突き上げるしかないのかも?その新政権であるが、hatoyamayukioはTwitterをつかっています!そうだが、為政者がそんな能天気でいいのだろうかと、心配になるのです。ところで、内田先生の説く「共産主義」の解釈が斬新で秀逸である?が・・・・資本論が霞むほどの現状においても、マルクスの洞察は正しかったのではないでしょうか。マルクスの説いた「共産主義」とは「コミューン主義」communismeということである。コミューンを基礎単位として社会は構築されるべきだという論である。別に経済活動を国家統制しろとか、一党独裁にしろとか、そういうけちくさい話ではない。コミューンとは人間と人間のあいだの距離が「わりと近い」共同体なので、「論の政治的正しさ」や整合性ではなく、「ガキのころから知っとるけど、あれはなかなか肚のすわったやっちゃ」とか「あれは口だけのヘタレや」という判断が合意形成に際して優先的に配慮される場所というふうに私は理解している。そういう集団を社会活動の基本単位とすべきだと提唱していたというふうに私はマルクスを理解している(日本のマルクス主義者のほとんどは私と意見を異にされるであろうが)。そんなマルクス主義の最期の「彗星の尻尾」も1970年代の初めに宇宙の彼方に消え去り、それ以後覇権を握った資本主義は共同体の解体と消費主体の「孤立」を国策的に推進してきた。
2010.01.10
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・佐久間ダム・千里馬・栄光への脱出・父親たちの星条旗これらの共通点は何か?・・・ハイ、そこのあなた!これらの共通点は、ジャンルはドキュメンタリー、商業映画とさまざまですが、私がはまったプロパガンダ映画なんですね(さよか)とにかく、映像の威力はすさまじいもので、年端もいかない大使などコロリとはまってしまったわけです。その1子供の頃に「佐久間ダム」というドキュメンタリー映画を見て、土木技師を夢見たこともある大使であるが・・・・お役人も土建会社も、世のために働いた幸せな時期が確かにあったが、今となっては状況変化に対応できないその硬直性(石頭)に感慨深いものがあります。お役人とは、自省の予算が減ることを、会社倒産のように恐れるが(それはわかる)・・・ならば、ダム撤去予算をつけて、せめて世のために働いてほしいものである。同じ税金を投入するなら、せめて国民の為に使ってほしいものだが・・・継続性、整合性とかなんか?で、にっちもさっちもいかないのだろうな~?その2子供の頃に「千里馬」というドキュメンタリー映画を見て、北朝鮮に民族の希望を見たこともある大使であるが・・・・当事者でもある在日の民でさえ、騙されたくらいだから、イデオロギーで凝り固まった土居委員長でも道を間違ったのもわかるような気がします。この映画を作った監督は、当時の日本人よりは北朝鮮の実情に詳しかったはずであるが、夢を紡いだ裏に、負の側面に目をつむった(見抜けなかった?)としたら犯罪的でさえあったと、今頃気づいた大使である。その3ものごころついた頃に「栄光への脱出」という映画を見て、ユダヤ人の帰国運動に虐げられた民族の希望を見たこともある大使であるが・・・・いま、パレスティナのガザ地区で砲撃を加える軍事大国ともいえるイスラエルには、映画で見たような虐げられた面影は見られません。それにしても、この映画に出演したポール・ニューマン、そしてスクリーンミュージックには惹かれたものです。栄光への脱出かように、プロパガンダ映画に惹かれた(だまされた)大使も、騙されながらも馬齢を加えたせいか・・・・プロパガンダ臭には「ちょっと おかしいんじゃないの?」と眉に唾することもおぼえたのです。その4「父親たちの星条旗」はプロパガンダそのものを描いた映画であり、プロパガンダに従事した者をヒーローとして描くわけでなく、戦争という愚かな行いを批判的に見る高い位置が感じられる映画だった。とにかく、これは別格ですね。プロパガンダ映画といえばマイケル・ムーアの最新作『キャピタリズム』はドキュメンタリーというより、プロパガンダ映画そのものなんだろうが・・・こういうふうに立ち位置を旗幟鮮明にした映画を、見たいとも思うのです。『キャピタリズム ~マネーは踊る~』公式ブログ『キャピタリズム ~マネーは踊る~』マイケル監督インタジューということで・・・関さんのプロパガンダ報道は民意をゆがめるか?などのタイトルに目が行くのです。
2010.01.09
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生活保護申請が頻発している昨今ですが、生活保護の受理、受給は地方自治体に任されているので、順法の優しい自治体が出現すると困窮者が集中する恐れがあるそうですね。補足率16%という実態がある一方、生存権との狭間で各地方自治体の受付窓口が疲れきっているのも、今のシステムなら当然の帰結なのかも知れません。不況下のいま生存権を保証するには、生活保護を地方に任せず国として対応する新しい制度が望まれているが、制度変更が大きいので国としても立ちすくんでいるような有様です。生活保護申請者不当逮捕というニュースが気になっていたけど、JANJANによれば「生活保護申請を記録して逮捕って何だよ!?」抗議集会開かれるそうですね。■行政行為の不透明化招くカメラへの弾圧 さらに、フリーター全般労組・ムービーユニオンの根来祐さん、Media Champonの山川宗則さんからは「カメラと公共性」ということで問題提起がありました。 根来さんは、フリーター全般労組が主催するデモなどでカメラを担当しておられます。「(公安刑事など)公務員の違法行為を抑止する機能をビデオ撮影は持っている」。「生活保護でも、水際作戦により死を選ぶしかない状況の予防につながる。カメラがあることで、心の持ちようも違ってくる」と指摘しました。 そして、「一人の偉大なジャーナリストより、100人の市民がカメラを回して表現することが大事ではないか」と提起しました。 山川さんも、「今回の事件で、行政行為が不透明化」しかねない、と懸念しました。お役所が下々に水際作戦という嫌がらせをしても無視するが、下々がお役所で職員に嫌がらせを行うことは認めないという警察の習い性が見えるのです。やくざな不正受給に対して睨みをきかすのが警察のしごとでなかったのか?福祉事務所が生活保護の受給を認めたのに、恐喝罪を理由に警察が受給を認めさせないというのは、やり過ぎというほかはないのだが・・・・・法的には水際作戦の違法は明らかであるのに警察は、その違法性には関係なくお上の行いにはむかう者には容赦しないようです。つまり、一揆の前兆のような振る舞いが見られるなら、警察や司法は違法な処分を厭わないということです。JANJANのニュースをさかのぼって見てみます。JANJAN12/16水際作戦の福祉事務所「逆切れ」、生活保護申請者不当逮捕よりAさんの保護申請も御多分に漏れずというべきなのか、当初の保護申請は却下されてしまいました。困ったAさんは再度申請を行おうとしましたが、福祉事務所は素直に取り合ってはくれません。やむにやまれず自分の部屋からビデオカメラを持ってきて、福祉事務所の職員に訴えました。「生活保護の申請をさせて下さい!」 2ヵ月半後、この時の行為が職務強要罪の容疑にあたるとされ、Aさんは逮捕されました。逮捕の2日後、ユニオンぼちぼちの大阪事務所が家宅捜索されました。 しかし組合員が一緒に福祉事務所に話に行くと保護が支給されることが決まり、逮捕までの2ヵ月半の間Aさんは無事に保護生活を送っていました。現在も保護は廃止(取り消し)ではなく、逮捕・勾留による停止という状態になっています。受給はあくまで合法と認めているのです。 ですから、Aさんは生活保護を受給する資格がないのに恐喝して違法に受給をしたという容疑ではありません。あくまで、職員の冷酷な対応を受け、やむにやまれずカメラを回しながら訴えたことが容疑とされているのです。しかも、その映像が公開されたことはありません。生活保護を地方に任せず国として対応する新しい制度が難しいのなら、せめて・・・・財源を目処を立て、地方に配分したうえで、補足率100%で順法のセーフティネットを張ってくれ!金もなく、頼る身内もないときの生活保護申請方法
2010.01.08
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「日本辺境論」を読んだところですが、日本という国名からして、自ら辺境と宣言しているんだそうです。つまり、日の本(日のいずる処)とは、中華から見て東の方角の東夷(東の蛮国)であると言っているようなものと、内田先生が述べています。また、日頃から、「韓国人の感性はまだ日本人とそんなに違わないが、中国人は別だなあ」と感じることがあるが・・・・内田先生は、「この違いは思考方法や言語のなかに華夷秩序(中央と辺境の秩序)があることによる」と述べてます。なるほど、中国人には中華が、韓国人や日本人には辺境としての振る舞いが歴史的に染み付いていて、行動の端々に現れるからなんでしょうね。この本には日本語の特質について、目からウロコが落ちるような個所が多々あるので、ここに書き写します。よく知られているように、philosophyに「哲学」という訳語を当てたのは西周です。西はそのほかに主観、客観、概念、観念、命題、肯定、否定、理性、悟性、現象、芸術、技術などの訳語を作り出しました。そして、その訳語が中国でも用いられた。 中江兆民の「民約論」はルソーの「社会契約論」をフランス語から直接漢訳したものです。(それが辛亥革命の理論的基礎を築いたと言われています) なぜ中国の人たちは日本人の作った漢訳を読み、自身で訳さなかったのか。 日本人にとって、欧米語の翻訳とは要するに語の意味を汲んでそれを二字の漢字に置き換えることだったのです。西周の例を見てわかるように、彼がしたのも実は日本語訳ではなく漢訳なのです。外国語を外国語に置き換えただけです。ベースになるスポンジケーキは同じものの使い回しで、トッピングだけ変えたのです。日本語が二重構造を持っているから、これが可能だった。 でも、清末の中国人にはそれと同じことができなかった。これまで中国語になかった概念や術語を新たに語彙に加えるということは、自分たちの手持ちの言語では記述できない意味がこの世界に存在するということを認めることだからです。自分たちの「種族の思想」の不完全性とローカリティを認めることだからです。ですから、中国人たちは外来語の多くをしばしば音訳しました。外来語を音訳を与えるということは母語にフルメンバーとして加えない、それが母語の意味体系に変更を加えることを認めないということです。私たちの言語を厚みのある、肌理の細かいものに仕上げてゆくことにはどなたも異論がないと思います。でも、そのためにには、「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語しかいない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけど、それが「余人を以っては代え難い」仕事であるなら日本人はそれをおのれの召命として粛然と引き受けるべきではないかと私は思います。内田先生は、こうなったらとことん辺境でいこうではないかと、次にように開き直っています。なにしろ、こんな国は歴史上、他に類例を見ないのです。それが歴史に登場し、今まで生き延びてきている以上、そこには何か固有の召命があると考えることは可能です。日本を「ふつうの国」にしようと空しく努力するより(どうせ無理なんですから)、こんな変わった国の人間しかできないことがあるとしたら、それは何かを考える方がいい。その方が私だって楽しいし、諸国民にとっても有意義でしょう。私も開き直りついでに、信太一郎さんの漢字は廃止できるか?など読んで漢字力の強化に努めたいと思う昨今です。『日本辺境論』(内田樹)について
2010.01.06
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NHKのウォール街の“モンスター”バブルは再び起きるのかで、リーマンブラザーズの元社長が野次馬のおばちゃんにこづかれている映像が流れていて、やや鬱憤が晴れる思いがしていたが・・・・ヘッジファンド、金融工学の間違いが歴然としたいま、ここにきてウォール街の復活が見られるとのことです。米金融界の当事者が言うには・・・・モンスターと呼ばれる金余りマネーを規制したいのは山々であるが、規制して金融の中心がウォール街から上海などに移ることはアメリカの国益に反するので規制できない(しない)んだそうです。つまり、国益を守るためには世界中が困っても、アメリカの貧民が困っても我慢しなさいと言っているようなもので・・・アメリカ人にとって、アメリカの国益って何?という疑問が沸くのです。日本の物造りの儲けなど、多分、モンスターのくしゃみで吹っ飛ぶほどの規模かもしれないので・・・・額に汗して働く行為は、ウォール街からすれば「せいぜい投資対象となるよう頑張ってね」と映るんでしょう。モンスターやウォール街を野放しにすることは、我々がいくら努力しても、シジフォスの石運びのような労働に甘んじることである。そして、日本の優良大企業も儲けを海外のオフショアに溜め込んで、税金を日本に払っていないとも聞き及びます。日本やアメリカの国民が国益にこだわるのは、若しかして愚かなことかも知れません。敵は多国籍企業とかモンスターであり、物造り日本の労働者は、アメリカの貧民と手を結んでオバマ政権を突き上げるのが採るべき道なのかも知れないが・・・経済メディアを見渡しても、(寡聞にして)こんな論調は見当たりません。*****************************************************************************4日の朝日新聞で浜矩子さんがこう述べています。「そして20世紀の最後の10年で国民国家を基礎単位とした世界が、グローバル資本主義によって壊れた。次はグローバル市民主義の時代です。グローバル市民主義への道筋をどう具体化するのか。次の10年に我々が問われているテーマです。99円のセーターまで登場して、何かがおかしいと、消費者が気づき始めている。自分で自分の首を絞める恐れがある。10年続くデフレも、人間らしい活動を取り戻せるか、見えざる神が我々に下した鉄槌なのかも知れません。カギとなるのは“一寸の虫にも五分の魂”の思想でしょう」
2010.01.03
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3日のNHK番組「海峡を越える国宝の美」で日韓の国宝が紹介されていて、ふたつの民族の繋がりや、よく似た価値観などについて興味深く拝見しました。年末にたまたまソウルの国立中央博物館を訪れた大使にとっても、番組で韓国の弥勒さんを改めて見たが・・・・国立中央博物館の弥勒菩薩面食いの大使は、やはり、弥勒さんは中宮寺だな~と思ったりする。そしてもっと美形のものは高句麗の弥勒さんである。(だんだんと、NHKの趣旨からずれて行く大使である)高句麗の弥勒菩薩 国立中央博物館訪問の機会を得たことは、奇しくもNHK番組を見る前の予行演習となり・・・これも縁というものでしょう。お互いに学びあい、刺激しあい、より良い高みを目指すのが、良い意味のライバルであるが・・・先日の日記に書いたように、つい勝った負けたと現在の結果に目がいってしまう大使である。(反省)韓国の貿易黒字、初めて日本上回るにあるように・・・・すでに貿易黒字では韓国に遅れをとっており、過去の繁栄の記憶から覚めやらぬ日本は、かなり勘違いしているのではないかと思ったりもする。ともあれ、3夜連続の「日本と朝鮮半島2000年」のように正月の特別番組として隣国を紹介することは、意義深いことであると思うのです。そういちさんのエントリー姫観音と在日悲話のように、現実を認識しておくことも大事なことなんでしょう。
2010.01.03
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四国のかた田舎(ど田舎というべきか)の中学では、50年ほど前には職業科で半年かけて稲作を行ったが、中学校の学習の思い出として強く残っているのです。ヒルがいそうなぬかるんだ田んぼで、手で草取りをするのは辛かったが、秋の稲刈りでは、心地良い労働を味わったような記憶が残っています。私の体験から言えることなんですが「稲作の体験が大事なんでは?」という感覚は14歳にでもなれば、おぼろげに有るんですね♪今でなら、稲作体験の効用を後付けでいくらでも論じることができるのですが・・・・労働の実態を体験させる。・エコロジーの体験学習・季節感の体験・食料を作ることの体験50年経って知りたいのは、まわりくどいような稲作体験を職業科のなかに組み込んだ、教育方針はどこから出たのだろうと言うことです。当時の文部省や教育委員会には、なんとも悠長な稲作体験を許す度量の大きさが有ったのか?、それともゲリラ的に稲作体験を採用した教師がいたのか?当時の職業科の教師にその実態を聴くという手立ては、もう取れないかもしれないが・・・「先人の思いは伝わっていますよ♪」と不特定多数の教師に対して感謝の意を表明したいと思うのです。新自由主義が吹き荒れる中で地球の農業はいかにあるべきか?というような気宇壮大な設問を立てる場合・・・たとえばモンサント社というアメリカの強欲な企業から本来の農業を取り戻すためには何が肝要か?と思索する場合のベースとして稲作の体験がいくらかでも役立つのではないかと・・・・若しかして情操教育としてしか役立たなかったかも知れないが、斯様に思うわけです。もうひとつ言えることは、モンサント社の強欲さ、悪意を敏感に嗅ぎ分ける感覚はなんとなく付いたのではないかと、先人の意に対してあらためて賛意を表する次第です。とまあ・・・お正月の効用は、このように来し方について、先人について思い巡らせるいい時間だと思うわけです(暇なこっちゃ)
2010.01.02
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大公妃が里帰りしているので、正月といっても寝てばかりいられず、腹がすいたら自分で料理し、洗濯物が貯まったら洗濯機を回す必要があるのです。もう大使という無給の名誉職は返上しようかと思ったりするけど、突然ですが・・・・今年も志摩ロードパーティにエントリーするぞ!・・・・と正月早々に宣言しておこう。この志摩ロードパーティはハーフの山岳コースで結構きついので、まずエントリーしておいて、練習しないと励みにならないのです。ということで4月18日開催の志摩ロードパーティ2010に申し込む予定です。 このところの韓国出張で練習ができず、やや体重が増えて体調もすぐれないが、3月あたりから練習を再開してレースに間に合わす必要があるな~。レースの結果予想は芳しくないが・・・・目標を掲げて、やるしかないのだ。デフレスパイルに落ち込んでいるような昨今、新政権の景気浮揚策はあまり期待できないし・・・個人的にはハーフ出場という公約を掲げて、空元気を出そうと思う大使である。ちなみに、去年の結果は以下のとおりです。(去年の日記を引用します)*******************************************************6時半からの朝食にそなえて、朝5時ころから起きだした大使です。朝食のバイキングではご飯お代わりで腹いっぱいにしたが、決戦にそなえる武士のたしなみといえるでしょう(腹痛になっても知らないよ)ということで、このあと汗と涙のレポートを追記します。記録は2時間11分という平凡な結果でした。自慢できることと言えば・・・・このコースでこの気温で2時間強という予想はバッチリで、大使の自己認識の鋭いことが実証されました。へんなところで自慢しているが、普通ハーフで2時間をオーバーすることは市民ランナーとしては恥ずかしい記録であるが・・・・このコースの過酷さが表れていると言えないこともないな~(と自分を慰めております)このコースは前半の10Kは坂道が繰り返す山岳コースで、後半はほぼ平坦なコースとなっていますが、15K以降のきつい時期は海岸べりを走る設定となっていて、暑さと疲労でヘロヘロ状態でも、爽やかな潮風を受けて、なんとか頑張るという・・・・なかなか、泣かせる設定になっていました♪この日の気温はかなり高くて、給水所ではコップに入った氷水の残りを頭にかけて、朦朧とした意識に活を入れるというような、汗と涙の志摩路でありました。セニョリータの件ですが・・・・フラメンコのセニョリータには開演時間の関係で会えなかったけど、それより、このダルちゃんのほうが愛嬌があっていいかも♪パルケエスパーニャの入園料2800円を知ってびっくりしたが、この大会の2日間無料特典は特筆に価するな~(何につけタダに弱い大使である)(ラップタイム)2K 10’13 5’063K 16’21 6’084K 21’50 5’296K 29’23 7’33 (長い上り坂)8K 43’55 7’16 (長い上り坂)9K 49’25 5’3011K 66’29 5’4712K 72’41 6’1215K 88’20 5’1316K 94’39 6’1917K 102’55 8’16(トイレ)18K 109’38 6’43(爽やかな海岸べりコース)20K 124’56 7’39(上り坂を歩く)21K 131’21 6’25ゴール131’40
2010.01.01
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