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『百年の散歩』多和田葉子(新潮社) ドイツのことを何も知りません。 いえ、居直っているわけではありません。我ながら困ったことだなあとは思いつつも、何といいますか、なかなか、えいやっ!と、改めて西洋史の勉強をしようという気になれないんですね。根がズボラなもので、なんだかとてもしんどそう、と。 そもそも、私はドイツのことだけを知らないんではないんですね。考えてみたら、ドイツは、私の中ではまだ相対的に少し知識のある国です。 なぜなら、クラシック音楽やオペラがらみで、ドイツの文化風俗について少し読んだことがあるからです。オペラに少し凝った時なんかは『やさしいドイツ語入門』みたいな本まで読みました。 しかし、ドイツのことはやはり知らないという気が強くします。それは、ほぼドイツ文学を読んでいないせいでしょうね。いくつか読んだ作品といえば、……えーと、本当に思い出すのも難儀なほどで、ゲーテが何冊か、ヘッセとミヒャエル・エンデが2冊くらいずつ。あとは、トーマス・マン1冊、……カフカは、入れていいのかな?……え、これだけ? ま、もう何冊かあるでしょうが、いやー、実に貧弱な読書経歴であります。 しかし、繰り返しますが、それでも、例えばイタリア文学とか、スペイン文学とかに比べますとまだましであるというところが、実に実に情けない。 と、そんな懺悔をいたしまして、冒頭の小説であります。 筆者はドイツにお住まいで、ドイツ語と日本語で小説をお書きになっていて、村上春樹ノーベル文学賞受賞予想が少々賞味期限切れ気味であるここ1年2年、俄然「日本人」ノーベル文学賞候補の一角に躍り出てきたお方でありますね。(まぁ、私のノーベル賞についての予想なんて、ガセネタの最たるものでありましょうが。) 舞台はベルリン、筆者に近い設定の女性(小説を書いているという記述があります)が、街の有名人の名前の付いた通りや広場を散歩しながらいろいろ考える、という小説です。いえ、本当にそれだけの話であります。 だから、わたくしも読み始めて2章くらいまでは(全部で10章あります)、主人公は歩いているだけで(店に入ったりはします)、話がちっとも「活劇」にならず、またこれは自閉的なお話を読み始めてしまったものだなぁ、と、少々うんざりしたんですね。 でも3章あたりから、急に読みやすくなります。 それは、作品の骨格は変わらないながら、作品がはっきり「そんな随筆」っぽくなってきたからですね。ぐずぐず逡巡するような書きぶりが少しすっきりしてきて、筆者のものの見方や考え方感じ方が素直に前面に出始める、つまり本来の「随筆」の様になってきたからです。 こうなると、後はこの筆者の感じ方考え方に共感できるかどうかがポイントとなる、いわゆる随筆読書になるわけですね。そんな個所はいっぱいありますが、例えばこんな部分。 外に出るなり大きな犬歯を描いた看板があった。「あまる・しゃきる歯科医院」。トルコ風の名前か。「しゃきる」という日本語があるような気がしてくる。一万年前に房総半島の海辺で貝を集めていた人が腰を伸ばして水平線に目をやり、ふと「しゃきる」とつぶやくところを思い浮かべてみる。その人の身体からはまだアルタイ山脈のにおいが発散されている。ありえない。しゃきる、なんて言うはずがない。なんと言っても終止形すぎる。 どうでしょう。こういった少々シニカルな感じ方や表現に違和感のない人は、けっこう楽しく、上記で指摘したように本書の第3章あたりから読み進めることができると思います。 ところが、そんな「随筆」書きぶりが、もう一転するんですね。 上記の引用個所には「房総半島の海辺」とか「アルタイ山脈のにおい」などと書かれていたイメージの断片が、徐々に厚みを持った妄想のように展開し始めて、そして、「プーシキン」とか「リヒャルト・ワーグナー」とか「コルヴィッツ」とかの名のついた通りを歩きながら、そこから浮かび上がってくる近代西洋史の濃厚なイメージと、真っ向からぶつかり合うように絡んでいきます。 読ませどころはこの2種類のイメージの混交を、筆者がどんな筆力で描くかだろうと思います。そして、この気合の入っていく終盤は、なかなか凄みのある部分であります。 しかしそんな強烈な描写を、私たちのような「素人」が読むには、結構きつい。ちょっとえぐい。 これは、かなりの「読み巧者」か、或いは私はふと思ったのですが、「同業者」を意識した文章ではないでしょうか。 そんな「玄人好み」とでもいうべき書きぶりを、本書の終盤三分の一あたりは感じました。 しかし、トータルとしては、やはりベルリンがテーマであることから、「都会の孤独」や、エトランジェの寂しさ、そして、エキゾチズムといった「ロードムービー」的哀愁の大いに漂う小説でありました。 本作は、筆者の代表作といったものではきっとありませんが、佳作のひとつではないかと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.02.26
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『母の遺産――新聞小説・上下』水村美苗(中公文庫) 上下2冊の力作長編小説です。 といっても、この筆者の過去の作品『本格小説』などに比べたら、ほぼ半分の分量です。 この方は、天性の長編小説作家ですね、きっと。 この度私は文庫本上下2冊で読みましたが、実は1冊の単行本も持っていました。 少し以前から、我が本棚にありながら買っただけの本とか、一度は読んでなかなか面白かったという感想を持ちすぐには捨て難い本について、少しずつ増えてきますとそれなりにかさ張りますし、どうしたものかなー、と思っていました。 で、ある時例の極めて安価な古本屋チェーン店で気づいたのですが、「そうだ、この110円の中古文庫本に買い替えて、家の単行本は売るか捨てるか誰かに上げるかしてしまおう」と。 そして、ぽつぽつとそのようにしていきました。 例えば、大江健三郎や安部公房の新潮社純文学書下ろしのシリーズとか、丸谷才一の風俗小説とか、そして、本書もそんな1冊(文庫本では2冊)でありました。 文庫本2冊になると、きれいに真ん中で分かれて一冊ずつ、つまり第一部と第二部に分かれています。これはたまたまではなくてそのように筆者が揃えたのだと思いますが、ちなみにページ数を書きますと、上巻は314ページで、下巻は321ページです。本当にきれいに揃っていますね。 そして、内容的にも、きれいに上下巻で切れています。 このきれいな上下巻の切れ目は何なのでしょうね。 何となくぐずぐずとそのことについて考えていた私がはっと気付いたのは、志賀直哉の『暗夜行路』でした。 私も昔に読んだきりなので詳しいことは忘れてしまったのですが、ひょっとしたらテーマも含めて両者は酷似してはいないか、いや、水村美苗は『暗夜行路』のパロディを意識して本書を書いたのではないか、と。 本書の第一部のテーマが母との確執で、『暗夜行路』前半は父(尊属親族)との確執。本書の第二部のテーマは夫の裏切りで、そして『暗夜行路』後半は女房の過ち。 なるほど、これはたまたまのはずはないですよね。つまり筆者は、フォームを借りた志賀作品をちらりと頭のどこかに置きながら読んで欲しいと言っているのだな、と。 しかしそんなことに私が気付いたのは読み終えてからで、少しは全体の構造に気を配りながら読みだしたのは、下巻に入ってしばらくしてからでありました。 それまでは、なかなか筋運びが面白く、次々と描かれる主人公「美津紀」の母親並びに祖母の人生の波乱万丈のエピソードに、とても興味深く魅了されていました。 加えて、第一部のテーマが、年老いてしかし死なない母親に対して「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの」という、親の介護に潜む心の底の感情の迸りであることも、ぐいぐいと迫ってきた理由のひとつでありましょう。 ところが、第二部に入って、そんな母も亡くなり、美津紀が一人冬の箱根のホテルに泊まって、夫の不倫から起こる夫婦の関係や離婚へと至る道のりの描写が前面に出てくると、第一部の迫力は急激に失われてしまいます。 その中心の理由は明らかで、第一部の「母親」と第二部の「夫」では、作品内での存在感に甚だしい差異があるからです。第一部の「母」にあった「凄み」が、主人公の夫「哲夫」にはまるで感じられません。とても「母」の代わりにはなれず、要するにサブキャラクターとしての魅力がありません。 そしてそれに合わせるかのように、美津紀の心の流れも何だか凡庸なものになっていきます。 例えば、美津紀は夫の哲夫に愛されなかったという過去をこの時期に初めて正面から見据えることになるのですが、同時に浮かび上がってくる自らも哲夫を愛してこなかったという認識については、その原因についてなど深く切り込んできません。 また、離婚を前提とした時の、今後の経済生活に美津紀があれこれと心を巡らせる場面は(そんなお金の計算を夫の愛人にさせるという展開は、なかなか秀逸ではありますが)、その際の自らのブルジョワ性については、やはり深く踏み込んでいきません。 第一部で祖母や母の生涯を描いていた時に、どこか破れかぶれな凄みのあるブルジョワジーへの「侮蔑」が描かれていたのと比べると、いかにもお茶を濁し手綱を緩めた書きぶりになっています。 そんな風に見ていくと、第二部でほとんど唯一興味深い描写となっているのは、美津紀が哲夫に最後のメールを送る時、哲夫からの後戻りを拒絶するために、哲夫の愛人へもCCで同じメールを送るという場面でありましょう。この箇所は、いかにも第一部の母にしてこの娘ありというような迫力がありました。 さて、本書はサブタイトルとして「新聞小説」とあります。 この筆者が過去に『本格小説』『私小説』という題の作品を書いてきたその流れもありましょうが、作者の作品への意気込みのひとつに、通俗性への挑戦というものがあったのは確かでしょう。 そんな意味では、夫の不倫から離婚決意へと至る一連の第二部こそが、筆者の腕の見せ所であったように思います。 そしてそれは、レベルの高い文学作品を作り上げたのでしょうか、通俗性を盾にとって優れた文学性を表現するという。 (ふと思い出したのですが、横光利一の説いた「純粋小説」という概念も、このようなものではなかったでしょうか。) その試みの意欲は、改めて素晴らしいものだと思います。 しかし、それはなかなか難しいものであるような気もします。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.02.17
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『山椒魚』井伏鱒二(新潮文庫) 『山椒魚』の冒頭に「山椒魚は悲しんだ。」とあります。 また、この井伏鱒二の初期短編集には12の短編小説が収録されていますが、その多くの作品に「くったく」という単語があったように思います。 筆者の、少なくとも初期作品を貫くテーマは、この「悲しんだ」「くったく」という事だったと思います。 ところが、では筆者は、あるいは作品の登場人物は、具体的に何に「くったく」しているのかと見ていくと、それがなかなかよくわかりません。 私としてはそれがかなり気になって、なんとも、この一連の初期作品をトータルで納得したという気になれないんですね。そわそわした感じが残ります。 例えば、名作としての誉れ高い『山椒魚』だけを単独で読んだとすれば、そこに描かれている「悲しんだ」の正体は(いえ、「正体」というほどはっきりと私が捉えているわけではないのですが)、例えば、井伏鱒二についての話ですからその「係累」という事で太宰治の言葉で書くと、 「生くることにも心せき、感ずることも急がるる」という箴言めいた一節に表現されているものであるような気がします。 それはまた、私のだらしない連想でつないでいけば、漱石の俳句 菫程な小さき人に生れたしにもつながっていく欲求のような気がします。 そのように考えて初めて、『山椒魚』のラストシーン(筆者が最晩年に削除(!)してしまった部分)の「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」という山椒魚のセリフの生みだす広い世界に、我々は感動するように感じます。 ところが、この『山椒魚』型の悲しみは、他の作品にも広く点在する「くったく」と、重なるように見えて、しかしどうもそうではないように思います。 それは、上記に二つ挙げた例でもう一度考えてみれば、この「くったく」は、例えば表現者として圧倒的な才能の重さを負っていた太宰治のものとも、またその時代においては国内で最も選ばれた知識人のひとりであった夏目漱石のものとも、どう考えても重なるものとは思いづらいからです。 何より本短編集には、ほぼインテリゲンチャは姿を見せません。(作品の視点となる人物については、少し置いておきます。) 本短編集の収録作品は、大雑把にですが、二つの種類に分けられそうな気がします。 いえ、そんなにくっきりと二系列に分けられるのではなく、作品によって二系列の要素が多い少ないの配分を違えながら描かれているように思います。 一つは「表現=言葉」追及系列。 そしてもう一つは、もう一つは何と名付けましょうか、やはり「庶民」という言葉が浮かびます。うまく表現できませんが「庶民=生活」追及系列。 私がよくわからないのは、二つ目の追及系列をテーマとするこの初期井伏作品群が、果たして優れたものであるのかどうかという事であります。 いえ、もちろん優れてはいるのでしょう、総体的な小説評価としては。 本文庫本には二つの解説文がありますが、そのうちの一つ目の解説(河盛好蔵)には『へんろう宿』に対する高い評価が書かれています。 以前私が読んだ岩波文庫の井伏鱒二初期短編集にも『へんろう宿』は収録されていて、解説者の河上徹太郎は、もっと強い調子で『へんろう宿』を評価しています。 この度私が本短編集を再読して、かなり戸惑ったことのひとつが、『へんろう宿』が、前回読んだ時程わたしのなかにくぐっと入ってこなかったことでありました。 以前岩波文庫で読んだ時もこの新潮文庫版で読んだ時も、もっと、何といいますか、この作品に生きることの深淵を垣間見たような気がしたのですが。 『へんろう宿』は、上記の私の拙い二系列整理でいうところの、典型的な「庶民=生活」追及作品だと思います。 もちろん、理屈で考えますと、よく書けているじゃないかという感覚はあるのですが、何か、不気味に迫ってくる実感がありません。 そういえば『屋根の上のサワン』についても、今回、終わり方のあっけなさに少し戸惑いました。 しかしもとより、井伏鱒二は、何か大きなものを描く時、それを外して外して描く作風の作家であります。 太宰治が最晩年に『井伏鱒二選集』の解説を書いていますが(第4巻まで書いて自殺してしまいましたが)、その中に、酒の席で聞いたことのある井伏評だとしてこんな風に書いています。 「井伏の小説は、泣かせない。読者が泣かうとすると、ふつと切る。」 「井伏の小説は、実に、逃げ足が早い。」 太宰は他人の批評だとしていますが、きっと太宰自身の実感でもあるのだと思います。実に穿った的確な評だと思います。 さて、この度私は本書を読み終えて、はっきり言いますと、とても「くったく」としてしまいました。 私は今まで、ややぼんやりとではありますが、井伏鱒二は好きな作家のひとりのつもりでいたんですね。それが、描かれた文体としては舌を巻くようなところ、読んでいて心地よい感じはありながらも、どこかやはり「逃げ足が早い」。 早すぎるんじゃないかと感じてしまいました。 この物足りなさは、わたくしの感覚の老化であるのでしょうか。 この年になってのこの「くったく」は、あたかも井伏作品の登場人物のようにどこか寂しいものがあると、私は、感じることしきりであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.02.10
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『影裏』沼田真佑(文春文庫) 3つの小説が収録されていますが、1つ目の小説「影裏」が芥川賞受賞作です。 冒頭から続く森の描写、これがびっくりするくらいよかったです。 明晰で透明感があって、何だか志賀直哉のような骨太の本格リアリズム小説の文体のようにも思いました。 作品中盤に「十九世紀のあるフィンランドの作曲家の音楽を好んで聴くようになった」という一文があるのですが、この作曲家が誰であるか書かれていないのですが(その一方で、とても一般的とは思えないようなフランスの煙草の名前が注釈もなく出てきたり、ちょっとこんな言葉の出し入れに、筆者の悪戯めいたものがあるようですが)、私の知っている範囲で想像するとシベリウスかな、と。 なるほどシベリウスなら、北欧の自然のような瑞々しい透明感あふれる音楽を数多く作曲しているな、そんな文章をこの筆者は目指したのかなと、私は好感を抱きました。 この自然描写と、もう一か所、これは作品の後半に描かれる「津波」の場面ですが、ここの描写も素晴らしかった。視覚的で印象深く、頭の中に映像が浮かぶようでした。 ……というように、感心しながら読み進めていきますと、前半部しばらくして、これは性的マイノリティの主人公の話かという事に気づきます。それがこの作品のテーマのひとつかなと思います。 しかしそれにしては、そのテーマに触れるエピソードが何だか極端にナーバスで、本当にそれに掠っているのか、テーマにするつもりがあるのか、淡々というか、持って回ってというか、それともほのめかしているだけなのか、読み手にわからせまいと意図するかのように続いていきます。 例えば、作品内の場面の展開が時間軸から完全に解き放たれて、行きつ戻りつを繰り返しながら進んでいくのもそんな効果のひとつかなと思います。 それは、はじめは極めて読みづらく、場面と場面の切れ目も一行空けがあったりするわけではなく、場合によっては行替えさえないという極端な形で描かれています。邪魔くさいといえばとても邪魔くさい。 ただ、それを理解させるヒントのような言葉がさり気なく、しかしとても光りながらすっと用いられているので、まるでオリエンテーリングをしているようで、そんな材料を拾いながら読み進めていくのも、さほど悪くはありません。 つまり、上記に指摘した惚れ惚れするような描写といい、こんな展開の工夫といい、結局文章力でかなり読ませる作家だと思います。新人とは思えないようなこの文章力には、かなり圧倒されます。 しかし、にもかかわらず、やはりあまりにほのめかしが多い。書かない。大事なことは書かない。そんな話の進め方をしているように思います。 ところが終盤、主な登場人物である「日浅」の父親が出てきますが、この人物の描かれ方が、作品のトーンを一気に塗り替えてしまいます。 ここに至るまでのよくわからないところはそのまま残りはするのですが、とにかくここから別の設定とストーリーを作ってしまって、そしてこの小説は終わります。 確かに淡々と進む小説をどうまとめるのかというのは、なかなか工夫のしどころだとは思いますが、このようにまとめて終えるのなら、この父親が登場する以前から、視点人物の「今野」そして今挙げた「日浅」について、もう少しきっちりと書き込んでいけたのではないかと思いました。 少し、狐に摘ままれたような終盤でした。 ……などと思ったり考えたりしながら一作目を読み、そうして二作目・三作目を読みました。この二作は、文体から何から一作目の「影裏」とは趣が大きく変わっていますが、ある意味、「影裏」の読解にとても役立つ作品になっています。 直接描かれなかった「影裏」の重要テーマの一つが、やはり世界は生きづらさに満ちているというもので、そしてマイノリティはあたかも炭鉱のカナリアのように、いち早く敏感に危険を察知すると読めるものだと思いました。 そして「影裏」のもう一つの大地震と津波のテーマは、それを真正面から書かないことによって書くという方法で(これは解説にあったのですが、筆者は東日本大震災の際の直接の被害者ではなかったということです)、それがマイノリティのテーマもほのめかしの形になったと、私は思いました。 大地震と津波の衝撃と、マイノリティにとっての世界の生きづらさという、どちらも深く大きいテーマを取り上げながらも、その一方に自然と独特の融和を示すキャラクター「日浅」を設定したことで、見方によっては一種の「芸術家小説」のようにも読むことができそうで(視点人物「今野」の、「日浅」への入れ込みようは、まるで芸術家とパトロンの関係のようでもあります)、なかなか興味深い作品でした。 この筆者も、今後の作品が大いに楽しみな方であるなと、わたくしは思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.02.03
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