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『男であることの困難』小谷野敦(新曜社) 前回の続きです。 漱石の『こころ』についての評論の内容紹介をしていました。 実は私は、この筆者の『こころ』についての文章は、以前にも別の評論を読んだ事がありまして、少し思い出してみたら、別のブログで読書報告をしていました。 それと重なりますが、その時筆者は『こころ』の欠点についてこう説明していました。 1.「私」が、死にかけている父親を置き去りにして上京するのはおかしい。 2.「先生」が「静」を置き去りにして自殺してしまうのは身勝手すぎる。 3.「先生」から公表してはいけないといわれた遺書を公表するのはおかしい。 4.「奥さん」と「静」が、「K」の自殺の原因に気づかないのはおかしい。 5.遺書は、文章の長さからして到底封筒に入らない。 6.「静」も「先生」も家名を継ぐ者でありこの結婚はそれほど簡単ではない。 この6点が挙がっていて、私は、この中で一番「致命傷」っぽいのは4番かなーと書いています。 本書には、まさにその4番の解釈について、そしてさらにその解釈からとってもスリリングな「お嬢さん」=「静」の佇まいが、描かれていきます。 まず筆者は、このように語りだします。 「奥さん」と「御嬢さん」が、Kの自殺原因に気が付かないというのは、確かにおかしくリアリティに欠ける、と。 これをどう理解すればすればいいのでしょうか。 実はそれは簡単です。気が付いていないのがおかしいのなら、本当は気が付いていたのだろうと考えることです。 では、こう考えることで何がわかるのか。 まず一つ目。それは、若き「先生」が疑っていた通り、この母娘は、ほぼ天涯孤独になった資産家のひとり息子である「先生」を夫に迎えて家庭の安定を得るべく、かなり早い段階から十分な話し合いを持っていたのである。「御嬢さん」の、Kへの微妙な素振りは、「先生」の心を自分に向けさせるための技巧であった。だから、飽くまで知らないふりを押し通したのだ、ということです。 しかし、これだと「御嬢さん」=妻である「静」は、以下のような人格の女性になってしまいませんか。 自分の夫が、友人を裏切って死なせてしまった罪悪感のために苦しんでいる長い歳月の間、その人物(K)が自分の技巧の犠牲となったことを知りながら、それを隠し、なんら良心の呵責も覚えずに生きてきた妻。 しかし、いくらなんでも「静」がここまでひどい妻だと考えることは、かえって余計にリアリティがなくなってしまいませんか。 ではどう考えるべきなのか。そしてそう考えることが、作品にどんな解釈を生み出すのか。 ここの分析解釈が、わたくし、読んでいて再び唸るように面白かったところです。 筆者はこう書いています。 (略)父を失って母子家庭となった家の娘が、資産もあり前途も有望らしく思える青年を捕えるために、ダシに使った愚鈍で誠実な青年を死に至らしめたことを、別段罪とは思っていないことに注意せねばならない。 つまり筆者が述べているのは、やはり「静」は、本当に夫である「先生」の苦悩の原因がわかっていないという解釈です。 それは、彼女の正直な倫理感の結果であり、彼女は多分、何が問題なのかさえわかっていないだろうということです。 それについて筆者は、このように断言しています。 「静」とは、『こころ』とその読者たちにとって、「絶対の他者」なのである。 そしてさらに筆者は踏み込んだ展開をしていきます。 しかしわれわれは、こうした女が「いる」ことを知っているはずではないか。 なるほど現実には、自分に有利や得なことしか考えないということに違和感を持たない人は、男女問わず少なからずいますよね。 でもやはり我々は、このような「静」解釈に、それこそなんとも言えない「違和感」を覚えませんか。これについての、筆者の説明はこうです。 『こころ』が、そういう「文学作品」として書かれているからである。(略)一旦この「文学」の世界に入ったら、われわれは外の世界にそういう女がいることを忘れてよい、ここには「愛」や「エゴイズム」に悩む誠実な人間のみが住んでいる、そう思わせる「装置」である。 これは、『こころ』の最後「先生の遺書」のラストシーンに、妻にだけは知らせないでくれと書かれてあるその一言が、俄然漱石のとても大きなアイロニーであることに気づかせてくれるとても興味深い分析であります。 私はわくわくしながら読んでいました。 ところがさらにさらに、話はどんどん唖然とするような方向に進んで行くのであります。その極めつけは、こんな表現。 K、「先生」、「私」の差異はすべて見せかけのものに過ぎず、三人とも、静という一人の女の思いのままだったのである。 どうですか。ここには「私」までが入っています。 さすがに、……んー、ちょっと踏み込みすぎてはいないかい、と思ってしまう展開ですね。 と、いう思いをちらとさせつつ、しかしその証明についての報告は、控えておきます。ぜひ原文でお読みください。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.03.25
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『男であることの困難』小谷野敦(新曜社) 本書のサブタイトルに「恋愛・日本・ジェンダー」とあります。 それが示す如く、少し盛り込みすぎた雑駁さの感じられる本ですが、10編の評論文が3つの小題でまとめられて、こうなっています。 第一部 日本近代文学のなかの男と女 第二部 恋愛と「日本文化論」 第三部 日本人であること、男であること 私としては、下記に触れますが、やはり第一部が面白かったです。第二部は少し難しかったです。社会学的な引用などが多く、その方面に無知な私には歯が立たなかったというのが正直なところです。 筆者の作品を読むたびにいつも思う「博識さと正直さ」の内の、「博識さ」のいかんなく発揮された部分だと思います。 そして、「正直さ」の感想を大いに持つのが第三部で、これは総タイトルからもうかがえる(かつて『もてない男』という新書も書いた筆者にふさわしい)「私怨」(この語は筆者の「あとがき」にも出てきます)から発した文章めいたものまで収録されていて(「童貞の哀しみがきさまらに分かってたまるか!」という小題まであります)、結局この「正直さ」でもあり「下品さ」でもある筆者のいわゆる「芸風」が、やはり面白く魅力的であることを感じさせるパートです。 という事で、すごくざっくりと第二部第三部をまとめてしまったのですが、実は私が本書で一番興味深かったのは、第一部の最初の評論「夏目漱石におけるファミリー・ロマンス」であります。 漱石の『こころ』を中心に論じた文章ですが、冒頭に引用文があります。『こころ』の中では比較的有名な部分ですが、始め別に何という事もなく読んでいて、そして後の展開を追っていくと、ここの引用部が実にスリリングに問題提起をし、そして筆者がそれをとても興味深く分析していることが分かっていきます。私は開巻早々、うーんと唸ってしまいました。 ちょっと長いですが、本書と同じ分量で抜き出してみます。筆者は、この中の二か所の「不自然さ」=「変さ」に触れていきますが、どこかわかりますか。 (すみません。ここから先は、ある程度小説『こころ』の全容を知っている人で、この引用はあの辺りだなとお分かりの方という前提で進めます。細かな説明は、私の力ではしきれなく感じますので。すみません。)果して御嬢さんが私よりもKに心を傾けてゐるならば、此恋は口へ云ひ出す価値のないものと私は決心してゐたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどと云ふのとは少し訳が違ひます。此方でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より余つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯うか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事が出来ない位私は熟してゐました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だつたのです。(「先生と遺書」三四) ……という引用部ですが、どの辺が「変」か、分かりますか。 まず一つ挙がっているのは、「高尚な愛の理論家」の表現です。 「高尚な愛」って、何? 「愛」に「高尚」なものがあるとすれば、普通考えるのは「無償の愛」でしょう。 実際『こころ』の別の箇所では、「先生」は「御嬢さん」のことを「私は其人に対して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。」と述べています。 でもこれって、おかしくないですか。 引用部の前半に書かれてあるのは、相手に愛されていないなら一緒になんかなりたくないという「先生」の恋愛観であります。もろに矛盾しているのであります。 (でも好意的に読めば、分からないでもないですよね。ここで「先生」が「高尚な」という表現で言おうとしているのは「相思相愛」ということで、実はそれについても筆者は、その不可能性について触れています。) 二つ目に筆者が取り上げたのは、終盤近くの「私は熟してゐました」です。 相手が愛してくれないならそんな相手はいらないという「先生」の愛の心理は、はたして「熟して」いますかね。 こういう精神状態は極めて冷静なものであり、「熟してゐる」の正反対の「醒めている」という言葉がふさわしい恋愛心理ではありませんか。 と、二つの「変」を挙げた後、筆者はこの「熟して」という言葉を梃子にして、本当に「熟して」いたのがKだと説明していきます。ここの説明部分が、とてもうまい。 またちょっと引用してみます。 これに対してKは、本当に熟している。彼がお嬢さんへの恋を「先生」に告白する場面の描写で、「先生」はこれを「切ない恋」と呼んでいる。この「切ない」という叙情的な形容詞は、「先生」の遺書の叙述の流れをほとんど寸断するほどの異質性を持っている。「先生」はここに至るまでに度々お嬢さんへの思いを書き連ねてきているのだが、われわれはどこにも、「切ない」と呼ばれうるような「思い」を発見できないからだ。 ……うーん、上手に書いていますねー。 この説明からも、「先生」のお嬢さんへの恋心が、決して「熟して」なんかいないことがわかります。 それにそういえば、「先生」は、Kが下宿に来る前からすでにお嬢さんに対して恋心を抱いていながら、「奥さん」「御嬢さん」は「策略家」ではないか、自分は騙されまいぞと思い続けていたんですね。どこが「熟して」いるのでしょう。 と、まずこのような分析がされています。そして、この分析がどこに繋がっているかというと、この先にあるのは「御嬢さん」像の洗い直しであります。 ここもまた、とってもスリリングで面白いんですが、えー、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.03.18
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『クワイエットルームにようこそ』松尾スズキ(文春文庫) 私には、読書指導のメンターのような方がいます。 いえ、実際、世の中にはちょっと信じがたいような「本読み」は、実はごまんといるようですね。ちょうど先日話をしていた若い知人も、そんなことを言っていました。 その知人が言っていた「本読み」の方は、私でもちょっとお名前を知っている「文芸評論」っぽいことをなさっている大学の教授(知人は数年前にその大学を卒業したんですね)ですが、その先生についてこんな風に言っていました。 その教授の研究室で話をしていた。その部屋は本当に本で埋め尽くされていた。で、ある話題が出ると、さっと先生がそれに関する書物を本の山から抜き出してくる。また別の話題になると、またさっと抜き出してくる。その繰り返し。そして、実に知識豊かなおもしろいお話をなさる、と。 ……なるほど、まー、世の中、人それぞれですから……。 で、話を戻しまして、私の読書メンターの方が言ってたことですが。 年を取ってくると、なかなか新しい作家の作品を読もうという気持ちが起きにくいよねぇ。つい、昔読んだ評価の定まった作品に手が伸びないか。 考えればわたくしも、10年以上もこんな読書報告を書いていますが、10年以上も前からすでにその通りで、最近こそ少し何でもありーになってきましたが、始めは高等学校の国語副教材の「日本文学史」教科書に名前が載っている小説家の本だけを読むというのが、本ブログのコンセプトでした。 私の場合は、いわば始めっから新しい作家や作品は、なかったことにしちゃっているんですね。実に「保守反動」の固まりのような考え方であります。 とはいえ、やはりそれではいかんだろうという気もありまして、わたくしの部屋の「まだ読んでいないが近々読みたいものだ本棚」には(この本棚から別の本棚に移行する本は二種類あります。めでたく読み終えて、「もう読んだもんね本棚」に移行するか、「読んでないしもはや読む気もない本棚」に「左遷」されるかであります)、だいたい160ページくらいから200ページほどの文庫本が、10冊くらい並んでいます。 時々行く全国展開の中古本屋さんで、主に110円(税込み)で目についた時に買った本です。200ページ以内で揃っているのは、その小説が芥川賞受賞作品(またはそれに近いもの)だからですね。 そんな本は、なるほど「メンター」の言う通り、本棚に並んではいても確かに「次はこの本を読もう」と積極的にチョイスする気になりにくいものですね。 でも、いつまでもそうも言ってられないし、まー、読み出したらそもそも短めの本だしということで、本書もそんな風に読み始めたものです。 ……と、やっと冒頭の小説の読書報告です。 この小説は芥川賞受賞作ではないんですね。残念ながら受賞には至らなかった、と。 ……んんーー、やはりよくわからないんですね、これが。 いえ、ストーリーはよく分かるし、描かれ方だって、難解でもないしいたずらに軽薄でもありません。いえ、頑張ってしっかり書けているよねという感じもするほどです。 小説とは何かを考えていくと、結局は文章だよねーという感じは私なりに分かります。以前も触れたと思いますが、文章とは、絵画で言えば色の良さだし、音楽で言えば声楽なら声の良さ、器楽ならいい音が出ているかと同じでしょうから、文章が良ければそれでいいではないか(それが100%とは言わないまでも)、とは思いますが。 私がよく分からないのは、書かれている内容の意味、というか「価値」なんですね。 このお話は、精神病棟のお話なんですね。だから出てくる人物の多くは、いわば病気の方々です。 昔から、病気自慢とか貧乏自慢といった話は数多くあります。読んでいて、いわゆる「規格外・常識外」の状況にびっくりするからですね。 でも、精神病棟の「規格外・常識外」は、やはり「病気」のせいであって、それをテーマに描いてどのような「価値」があるのか、どこか違っていないか、という気がするんですね。 例えば、終盤に出てくる、主人公が病棟で「信頼」している人物(やはり患者です)が、突然驚くような行為をする(状況に陥る)というのも、彼ら(本当は「彼女ら」)が病人じゃないなら衝撃を受けてもやむなしと思うのですが、精神を病んでいる人が起こすとんでもない行動に主人公が衝撃を受けるというのは、どうなんでしょうか。(それって、少し極端かもしれませんが、風邪を引いて体温が38度あることに衝撃を受けるというのとどこが違うのでしょうか。) あるいはそれは、例えば自分も精神を病めば同じ事をするかもしれないとは思わないということでしょうか。 本作品のラストシーンも、私は同様の違和感を感じました。 主人公は「信頼」していた友人の患者が、一度は退院しつつ病棟に舞い戻ってきたかもしれないという状況に衝撃を受け、友人を精神的に「切り捨てる」場面で終わります。 しかし、信頼していた友人が狂気に舞い戻る、あるいはやはり以前よりずっと狂気だったかもしれないという状況は、そのまま自分も同じかもしれないという認識にまで及んでいるのでしょうか。 私が疑問に思うのは、友人を切り捨てて終わりのエンディングに、何より筆者がそうなっていないのかということで、もしなっていないのなら、そこをきちんと書き込んでいるかといったことです。 ……うーん、読み終えて、なかなか納得できなかったのが、残念といえば、少し残念です。 でも新しい作品を読むというのは、なかなか、えいやっ、と入っていきにくいめんどくささはあるものの、それくらいのがんばりくらいは、すべきでありますよねぇ。 少し、反省の日々。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.03.07
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