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analog純文

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2025.12.28
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『春の雪』三島由紀夫(新潮文庫)

 本作はわたくし、多分3回目の読書かなと思います。
 加えて、『奔馬』は多分2回、『暁の寺』は多分1回、そして『天人五衰』は3回読んだように記憶しています。(「暁」が1回なのは、中に出てくる「アーラヤ識」とかの話がさっぱり分からずそれがトラウマになったせい、「天人」が他より1回多いのは、一番短いからでしょうね。)

 しかし、その2回も遥か昔の読書で、本当に久しぶりに本書を読みました。
 ところが、というかなんというか、少し前に私は映画で『春の雪』を見たんですね。
 で、実は少しショックを受けたわけです。

 綺麗な場面のいっぱい出てくる映画でしたが、何にショックを受けたかというと、主人公の松枝清明に全く好意的な感情移入ができないことに、まー、ショックを受けたわけであります。

 ちょっと品のない書き方になって申し訳ないのですが、このお話の主人公はそんな「最低の」男だったんだろうか、と。
 実ははるか昔の読書の記憶として、細かなところはほとんど忘れているとしても、さほど悪くない読後感を持っていたように思ってたのですが、映画で見る限り、ちょっとどうしようもなかったですね。

 で、そんなはずではなかったのにという思いもあって、この度3回目を読みました。
 幾つかのことが納得できたですね。

 まず映画がちょっと気の毒だったのは、あの三島由紀夫の鬼神の心をも動かすような絢爛豪華な文章の「鎧」を、映画は纏うことができないということであります。
 いくら綺麗な場面がいくつも出て来ても、それだけでは、私としては文章だけで読者をうっとりとさせるようにはいかないと思いました。(個人的感想では、本小説中最も圧倒された場面は、清顕と聡子が初めて体を交わす場面ですが、その描写は実に見事なものでありました。)

 だから、映画中の主人公松枝清顕は、いわば行為だけが「裸」で進められていて、そうなるとその行為は、非生産性・無能力性に重なる強烈なナルシズムとデカダンス、おぞましく歪んだ選民意識等によるものとしか描かれようがなかったと思います。

 実際、原作小説でも清顕はほぼ映画と同じ行為をしています。しかし小説では、その行為の前後が、いかにも三島由紀夫特有の(天才的な!)絢爛描写と、再三顔を出してくる作者の美学理論(!)で飾られているため、ある意味読者はそこに騙されて、うかうかとその圧倒的な歪さに気が付かないでいる、そのように展開されていると思いました。

 ただ、仮に、仮にですが、この作品から、そんな筆者の描写テクニックを抜き去ってしまえば(この「仮に」について、そんな無茶な仮定はルール違反だといわれる可能性は重々わかりますが)、この作品はどこに魅力があるのだろう、と。
 と、読後、かなりそんな「無理筋」の事を考えました。

 例えば、至高の恋とは禁断の恋である、みたいな考えは他からも聞いたり、古今東西の優れた恋愛小説に再三描かれています。
 本作を読んで私が特に思ったのは、筆者は多分『源氏物語』の光源氏と藤壺宮の恋愛が念頭にあっただろうということですが、この二つの禁断の恋を並べてみますと、松枝清顕の「無能力」は明らかです。彼はその状況を自らの手では全く何も作り出していません。(そんな意味では、この禁断の恋を作り出したのは、綾倉聡子の「能力」であります。)清顕は、その果実だけを口にしようとしたのであります。

 それは、江戸期の幾つかの心中物語と比べても同様です。(筆者はきっとそんな江戸期の心中物語との比較は嫌がるでしょうが。)少なくとも彼らは、死に裏打ちされた恋愛状況を、自らの行為と人間関係の中で作り出しました。

 ただ、私がよくわからないでいるのは、そんなことを、あの頭のよい三島由紀夫が気が付かなかったか、ということであります。
 当然気が付いていながらこのような展開を描いたのなら、それは、松枝清顕の恋愛はピエロだということではないでしょうか。本当に作者は、清顕の存在はカリカチュアであるとまで考えて本作のストーリーを作ったのでしょうか。

 実は、これも昔に読んだきりで定かな記憶がないのですが、『天人五衰』のラストシーンのことです。死を覚悟した筆者が最後に描いたあの場面をちょっと考えると、「松枝清顕=ピエロ」説は、少し興味深いかもしれません。(『春の雪』執筆時に、5年後の『天人五衰』のラストシーンのアイデアがすでにできていたのか、多分できていたのではないでしょうか、何と言っても三島由紀夫ですから。)

 ともあれ、そんな感じで私は読み進めていったのですが、小説としては終盤から、またガラっとトーンが変わったようになって、俄然面白くなっていきました。
 聡子の妊娠が、身内に知れ渡って人々があたふたとし始めた以降ですね。

 この部分は面白かったですねー。その理由は二つです。
 一つは、清顕が腑抜けのようになって、独特の美意識も行動も起こせなくなって(最終盤はまた出てきますがかつての勢いはなく)、話の前面から姿を消したから。

 二つ目は、そもそも本作の冒頭から筆者の筆は、主人公の二人以外の人物を描く時徹底して戯画化と侮蔑を伴ったものでありましたが、その対象となっていた人物たちのどたばたこそが、まさにここで描かれている中心であるからです。

 上記に松枝清顕の性格造形について辛口の指摘をしましたが、そもそもその原型は清顕を取り巻く人物の人格であり、まだそれに加えて、小気味よいまでの無責任さと倫理観のなさが、ここに至って切れ味よく描かれています。

 蓼科という老女の個性も際立っていますが、圧倒的に興味深かったのは聡子の父親の綾倉伯爵でありましょう。彼の無能力・無責任・無倫理の描かれ方は、全く心地よいばかりでありました。(しかし、小説の面白さとは、時にとんでもないところに現れるものですねぇ。)

 さて、そんなどたばたの中、主人公清顕は命を落とし、本編の幕はおります。
 大長編小説の第一部の終わりにすぎないからでしょうか、その終わり方はどこかそっけなく、ひょっとしたらそんなことが、私のかつての読書の記憶としてさほど悪い読後感を持たなかった理由なのかもしれません。

 ところで、私はこの後続いて『奔馬』を読んだものなんでしょうか。
 ……ちょっと、考えてみますね。

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Last updated  2025.12.29 07:16:00
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Comments

シマクマ君 @ Re:思っていたよりも「重く」ない(02/21) 純文さんへ  あたたかいお返事ありがとう…
analog純文 @ Re[1]:思っていたよりも「重く」ない(02/21)  シマクマ君さんへ。  おや、思わぬお方…
シマクマ君 @ Re:思っていたよりも「重く」ない(02/21)  いつも読ませていただいてます。あのせ…
analog純文 @ Re[3]:無理筋仮定を考えてみる(12/28)  七詩さんへ、重ねてのコメントありがと…
七詩 @ Re[2]:無理筋仮定を考えてみる(12/28) analog純文さんへ 私もときどき読書日記を…

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