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今年も早いもので、残すところあと数時間である。毎年毎年、年末になると「今年はどんな年だった?」と自分自身に問いかけてみるのだが、いつもいつも茫漠とした1年であるような気がする。来年こそはメリハリの効いた1年にしようかと。今年は夏にライコスで日記をつけ始め、そのライコスが閉鎖になってしまったために秋からこの楽天でホームページを開設した。沢山の方がこのホームページに訪問してくださって有難い限り。飽きっぽい私がここまで続けられたのも皆さんのおかげでございます。多謝。2004年が皆様にとって良い年でありますように。良いお年を! Thank you for your kindness.ニセ百恵(清水ミチコ)で申し訳ない。
2003.12.31
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日本アカデミー賞の優秀賞・新人俳優賞が発表になったようだ。この日本アカデミー賞は新高輪プリンスホテルで授賞式が行われ、その様子は日本テレビ系列で放送される。ちなみにこの授賞式の入場券の価格は1人40000円である。高ぇー。今年度の司会は関口宏と宮沢りえ。毎年司会は男女ペアだが、ここのところ男性の司会はずっと関口宏のような気がする。関口宏はまさに日本アカデミー賞の御大である。去年までは日本テレビアナウンサーの福澤朗と脚本家の市川森一の実況がついていた。市川森一がいちいち最優秀賞を予想するのだが、かなりの確率でハズしているのが印象的。さすがに日本アカデミー賞では変なセーターは封印してタキシードに身を包んでいる。しかし去年からはみのもんたによるスタジオ録画が挟み込まれることになった。日本テレビといえばみのもんたということなのか、やたらと視聴者を煽る非常に下世話な進行で品位が落ちたような気がする。まあ元々この日本アカデミー賞に品位なんて在って無いようなものであるが。今年の優秀賞は以下の通り。○優秀作品賞 ・『阿修羅のごとく』 ・『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 ・『スパイ・ゾルゲ』 ・『壬生義士伝』○優秀監督賞 ・塩田明彦『黄泉がえり』 ・篠田正浩『スパイ・ゾルゲ』 ・滝田洋二郎『壬生義士伝』 ・本広克行『踊る大捜査線~』 ・森田芳光『阿修羅のごとく』○優秀主演男優賞 ・織田裕二『踊る大捜査線~』 ・中井貴一『壬生義士伝』 ・西田敏行『ゲロッパ!』 ・藤原竜也『バトル・ロワイアルⅡ 鎮魂歌《レクイエム》』○優秀主演女優賞 ・上戸彩『あずみ』 ・大竹しのぶ『阿修羅のごとく』 ・竹内結子『黄泉がえり』 ・寺島しのぶ『赤目四十八瀧心中未遂』 ・観月ありさ『ぼくんち』○優秀助演男優賞 ・浅野忠信『座頭市』 ・佐藤浩市『壬生義士伝』 ・中村獅童『阿修羅のごとく』 ・三宅裕司『壬生義士伝』 ・柳葉敏郎『踊る大捜査線~』○優秀助演女優賞 ・大楠道代『座頭市』 ・中谷美紀『壬生義士伝』 ・深津絵里『踊る大捜査線~』 ・深津絵里『阿修羅のごとく』 ・八千草薫『阿修羅のごとく』○新人俳優賞 ・市原隼人『偶然にも最悪な少年』 ・オダギリジョー『あずみ』 ・藤木直人『g@me.』 ・石原さとみ『わたしのグランパ』 ・上戸彩『あずみ』 ・長澤まさみ『ロボコン』ほかにも様々な優秀賞があるが、特筆されるのはここらへんか。日本アカデミー賞というのは選考基準がメジャー作品に限定されているような気がしてならない。『赤目四十八瀧心中未遂』や『ぼくんち』は単館系ではあるが、そのほかはだいたいがメジャー系で上映された作品ばかりである。つまりは日本アカデミー賞は「権威ある賞」というよりは「権力に弱い賞」であるように思える。その年に吉永小百合や高倉健が主演した映画が上映されれば、作品の出来がどうであれ必ず賞を与えている。本当に良質な作品が評価されているのか疑わしいところである。それは本家のアカデミー賞でも言えることかもしれないが。今回はやけに『壬生義士伝』と『阿修羅のごとく』の名が目立つ。『壬生義士伝』は優秀作品賞・優秀監督賞・優秀主演男優賞・優秀助演男優賞・優秀助演女優賞などにノミネートされている。『阿修羅のごとく』は優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞・優秀主演女優賞・優秀助演男優賞・優秀助演女優賞などにノミネートされている。日本アカデミー賞だけに「日本らしさ」が前面に出ている作品が評価されやすいのか。『阿修羅のごとく』は未見なので何とも言えないが、『壬生義士伝』はそんなに評価されるような作品ではないと思う。たぶん『たそがれ清兵衛』の2匹目のドジョウを狙ったのだろうが、あまりにもお涙頂戴的な作風にかなり辟易した。高年齢層には受けがよかったようだが。日本アカデミー賞は作品の善し悪しを評価する場ではなく、芸能人が豪華にも一同に会するその雰囲気を楽しむべきなのかもしれない。しかし藤木直人新人俳優賞って。『花より男子』に出演していたことは無かったことになっているのか。ちなみに私が毎回注目しているのは、「誰がノミネートされるか」ということよりも「誰がプレゼンターとして登場するのか」ということである。三橋達也や司葉子といった日本映画界を代表する重鎮が登場する中、なぜか三船美佳が胸元バックリのドレスで登場したりする。このあたりも権力に弱い日本アカデミー賞らしさといえるかもしれない。森繁さんは今回は出演するのだろうか。先日テレビで森繁さんが出演する映画の撮影風景を取材していたが、記者たちの質問をそっちのけに「飯はまだか~?」と言っていた。なんとなく『恍惚の人』を彷彿とさせるその言葉がなんだかリアル。とうとうボケたか?間もなく公開される『半落ち』という映画も、来年度の日本アカデミー賞にノミネートされることは間違いない。日本アカデミー賞はこういう映画好きそうだから。私はこの『半落ち』というタイトルが気になってしょうがない。なにが『半落ち』なのか。オチが落ちきってないということなのか。『半落ち』という言葉と『ややウケ』という言葉にどことなく類似性を見出しているのは私だけであろうか。今年は日本映画はおろか、あまり映画を観られなかった。そんな中で私のベスト日本映画は『六月の蛇』である。この映画で文字通り身体を張った黒沢あすかに賞をあげるくらい、日本アカデミー賞も度量を大きくしてほしいものである。
2003.12.30
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自慢じゃないが、私の部屋は相当に汚い。掃除機をかけるのは2週間に1度くらい。洗濯物は投げ捨てられているので、どれが洗った物でどれが洗ってないものかもわからない。部屋にいるときは大抵ベッドで横になって過ごしているので、とりあえずベッドから手の届く範囲にモノが集中している。さすがにこんなことではイカンと思い、本日は大掃除を決行。年末だし。まず、いらないプリント類やらノートやら雑誌やらをまとめる。大学入試の問題用紙が出てきた。なんでこんなもん取っておいたんだか。続いてスクラップ場のごとく不要物が堆く積もっている机の上を整理。机の表面が見えないという凄まじい状態である。そんな私の机からこんなものを発見。 去り行く時代の忘れ物である。ちなみにこの擬似生命体は二度と息を吹き返すことはない。要はブッ壊れているのである。迷わずゴミ袋へポイ。他にもこんなものを発掘。懐かしのビックリマンシールである。小学校の頃にハマっていたのが100枚くらいドバッと出てきた。しかしそのうち2割くらいがニセモノだった。単細胞だった幼い私は色々な人に騙されてきたのであろう。しかし私の部屋はなんと埃の多いことか。綿埃がそこかしこに溜まっている。掃除機じゃ埒が明かないので、雑巾がけを決行。雑巾といっても、タンスの肥やしになっていた少年時代の白ブリーフで。捨てる前にもったいないからあちこち拭く。主婦的発想である。伊東家に婿入りしたいくらい所帯じみてきた。しかし雑巾がわりに使おうとしているとわかっていても、バケツに溜めた水でブリーフをゴシゴシやっていると、何と言うか性の目覚めを髣髴とさせる甘酸っぱい感覚になってくる。これもヰタ・セクスアリスってやつか。掃除を始めてから、掃除機をかけ雑巾をかけ不要物を処分し、掃除が完了するまでに要した時間は約3時間。私にとってはなかなかの長丁場である。そのためか達成感でいっぱいである。元の汚い状態に戻るまで1週間もかからないと思うが。要るもの・要らないものを分別しているうちに収拾つかなくなって途方に暮れかけているところでパチリ。 掃除終了。写真が小さいのでイマイチ伝わらないかもしれないが、マジでキレイになっている。 「劇的!」とまではいかないが、そこそこビフォーアフターだと自負している。期せずして部屋公開である。私はこの部屋で常に孤独を持て余しているわけで。よかったら遊びに来て下さい。なんてな。今だったらMr.ちんがお宅訪問に来ても大丈ブイである。
2003.12.29
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私はよく街中で「手相を勉強している者なんですけど…」と声をかけられる。厳密に数えたことはないが、多分もう10回以上は声をかけられているだろう。なんなんだ一体。死相でも出ているのだろうか。それともよっぽど不幸そうな顔をしているのだろうか。ああいう人たちは誰かれ構わず声をかけているのかな、と思いきや意外と人を選んでいるようなのでムカつく。思えば私は中学生くらいの頃から、街角で「あなたの幸せを3分間祈らせてください」と声をかけられていた。祈ってもらえるだけで幸せになれるのならいくらでも祈らせてやるのだが。今度街中でそんな風に声をかけられたら逆に質問攻めにして追い詰めてやろうか。彼奴らにはそんな骨を切らせて肉を断つ戦法が効くかもしれない。ミイラ取りがミイラになったら困るが。
2003.12.26
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来年1月5日から、TBS系列で昼の1時から『コスメの魔法』なるドラマがスタートする。何気なくパラパラと読んでいたテレビ雑誌にこのドラマのスチール写真が。叶恭子かと思ったら萬田久子だった。ゴージャスすぎて萬田久子だけ合成写真のようだ。昼間っからゴージャスな萬田久子の御姿が拝めるなんて。2004年はいい年になりそうである。『コスメの魔法』というタイトルからすると、劇中で使われる化粧品はハーバー化粧品であろう。間違いない。正直に言おう。私は萬田久子が好きである。どこが好きと聞かれたら、いの一番に「名前」と答えるだろう。「まんだひさこ」非常に音の響きが良い。いつだったか、芸能人の苗字の頭の1字と下の名前の頭の1字を入れ替えて遊ぶのが流行った。「もりすえしんじ」だったら「しりすえもんじ」。「もりくみこ」だったら「くりもみこ」というように。そこで私が「まんだひさこ」を「ひんだまさこ」と言ったらややウケだったことを思い出す。つまりは名前が持つ固有のリズムが心地よいのである。回りくどくて申し訳ない。「萬田久子」を略すと「萬久」。どこかの老舗料亭のような、はたまたどこかのカマボコ屋の屋号のような格式が漂う。しかし発音してみると「まんきゅー」である。昔クイズ番組で野沢直子が萬田久子に対して「何だよマンキュー」と叫んでいたことを思いだす。以来私の中で萬田久子のニックネームは「まんきゅー」である。「まんきゅー」というのも非常に語呂が良い。街角で小粋なステップを踏みながら「ヘイ!マンキュー!」とシャウトしたくなるような響きがある。しかし萬田久子は元ミス・ユニバース日本代表である。ミス・ユニバースという肩書きがどれほどの価値があるのか私にはよくわからないが、日本代表ということは世界にもミス・ユニバースがいるのだろう。きっと萬田久子は凄いに違いない。萬田久子には「エレガンス」という言葉がよく似合う。たとえミツカン酢のCMをやっていてもそこにはエレガントな雰囲気が漂っている。そして萬田久子といえば帽子コレクションである。イメルダ夫人がキチガイのごとく靴を集めたように、萬田久子には帽子があったわけである。帽子がとても良く似合う人を見ると「萬田久子ばりに似合っているね」という言葉を最上級の褒め言葉として投げかける。ピンと来ない人にはまったくもってポカーンなのが惜しい。そんな萬田久子が好きな私は、とりあえず身近な物に「萬田久子」と名づけることにした。私の愛車(自転車)「セレナーデ号」を「萬田久子」と改名することにした。明日も萬田久子(略してまんきゅー)にまたがってバイトに向かう。風が冷たいけど、萬田久子と一緒なら辛くなんかないぜ!だからどうしたと言われても反論できない。
2003.12.25
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クリスマスイブである。ちなみにこの日記を書いているのは25日である。何故かというと、イブの夜はオールで飲み明かして帰宅したのが25日の夕方だったためだ。昨晩、色々とご迷惑をおかけした皆さん。申し訳ありませんでした。読んでないだろうけど。でも本来ならロンリーだったイブを楽しく過ごせました。ありがとうございます。素敵なボーイズ&ガールズに多謝。さて、イブとはいえ1日の始まりはいつもと変わらない。昼頃ノソノソと起床して、頭ボサボサで身体をボリボリ掻きながらテレビを付ける。8チャンネルは『ごきげんよう』。明石家さんまが出演している。そっかクリスマスになると必ずさんまが出演するんだよなと納得していたら井川遥まで出ている。『ごきげんよう』に井川遥。なんだかとても違和感。井川遥のステータスも落ちたものだ。いや、『ごきげんよう』は素敵な番組である。「おやつボーイズはいつからいなくなったのか」とか「最近小堺一機はハゲを巧妙にカモフラージュしている」とかそんなことは置いておいても、なんとなく心が和む番組である。しかし井川遥は今までの売り方から考えると、『ごきげんよう』に出るようなスタンスで仕事をしてきたとは思えない。次元が違うはずだ。井川遥もブレイクしそうでどうもくすぶっている。ま、私にとっちゃどうでもいい話だが。1時半近くなり、『ごきげんよう』が終わると10チャンネルの『徹子の部屋』へ。大広間から応接室へ移動したような気分である。イブということでなのかはわからないが、ゲストはMEGUMI。イエローキャブのメロンボディ・MEGUMIである。頭部が巨大な徹子と胸部が巨大なMEGUMI。ブラウン管を通して、物理的な圧迫感が私を襲う。初めてワイドテレビが欲しいと思った。徹子VSMEGUMI。ゴジラVSキングギドラばりのスケール感がある。『徹子の部屋』というのはゲストの生い立ちから現在の活動まで、その人の波乱万丈な大河ドラマを聞き出す番組である。そのスタンスは何十年と変わらない。今回はグラビアアイドルがゲストということで、水着写真を紹介しないわけにはいかない。黒柳徹子という人はさすがにプロフェッショナルで、どんなゲストが来ても平等に接している。テレビで見る限りでは「今日のゲストは絡みづらいわ~」みたいな表情をしているところは見たことが無い。MEGUMIのグラビア写真を見ても、サラリと「あら大きい」とリアクション。「この写真、私好きですね。健康的でいいじゃないですか」とも言っていた。徹子のボーダーレスな価値観に感服。この番組の主な視聴者層はF2~F3あたりだと思われるが、なぜか水着で馬にまたがっているMEGUMIの写真を股間からパン。これには思わず徹子も「あらあら、そんなところから」と驚いた様子。誰に対するサービスだったのか謎である。MEGUMIという人からは一抹の知性を感じる。初めて彼女を見た時は正直「え、この顔でアイドル?」と思ったが、見れば見るほど味わい深くなってくる顔であることに最近気づいた。しかもあの地を這うような低音ボイスも知性を醸しだすのに一役買っていると思う。テレビに出演するということは、声が重要なファクターになってくる。アイドルというと愛くるしい高音ボイスの持ち主が多かったが、その点MEGUMIは地響きを起こすような低音ボイスである。そんな声でキャピキャピ路線を歩めといっても難儀な話である。彼女は実は歌手志望で、高校のときに一生懸命バイトして金を貯めてNYに単身留学したこともあるそうだ。そして何年かレッスンを重ねてきたが、トレーナーの「MEGUMIちゃんは歌が下手だね」という言葉でスッパリ歌手への道を諦めたというエピソードも彼女の気風の良さというか、スパッと竹を割ったような性格であることを物語っている。彼女がバラエティを中心に人気を博しているのは、「高嶺の花」としてのアイドルではなくて「近所のチャキチャキ姉ちゃん」といったような親近感が湧くキャラクターを前面に出しているからではないか。さすが巨乳牢名主・野田社長である。的確な采配を下している。しかし改めて、MEGUMIの乳はデカい。「メロンボディ」という言葉がここまでしっくり来るひとはそうはいまい。顔立ちもどことなくメロンっぽい。マスクメロンではなくアンデスメロンのような雰囲気。聞けば中学時代はまったく胸がなく、運動をやめた途端に10キロ太り胸もギュイーンとデカくなったそうだ。尋常じゃない発育である。人体の神秘であるとしか言いようが無い。メグミルクのイメージキャラクターになぜMEGUMIを起用しないのか、不思議なところである。ある層の売り上げが猛烈に伸びること間違いないのに。
2003.12.24
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今さらながら『共犯者』の最終回の感想を。ネットで飛び交っていた憶測どおり、「美咲=ウエヤマサト」という結果に終わった。つまり、浅野温子の中の悪い人格が表に現れたのが三上博史なわけである。要は『ファイト・クラブ』におけるエドワード・ノートンの悪人格がブラッド・ピットだったのと同じ要領である。『ファイト・クラブ』は2時間の映画であるために、このオチはかなり意外だったが、『共犯者』は連続ドラマであるために、このオチが見えてしまっていた。でもこのドラマはこの結末でしか収拾つかなかったのではないかな、とも思う。私がイメージしていた二重人格というのは、1人の人間の中でコロコロと人格が変わるというものだったが、このドラマの冬川美咲という人には、自分の別人格であるウエヤマサトが目に見えていたわけだ。そういう二重人格もあるのか、それともこれはドラマの上での演出だったのか。そこが知りたい。二重人格の人にはあらぬ声が内側から聴こえるらしく、精神分裂病の人には外側から聴こえるらしい。だから精神分裂病の人は小声でブツブツ言っていたりするわけだ。そういう意味では冬川美咲は精神分裂病だったと捉えるほうが自然なのか。私は心理学やら精神衛生学に長けているわけではないので、その辺はよくわからないが。この『共犯者』は中盤で伏線を張りまくっていた割には、その答えがボンヤリしていて尻すぼみだったような感は否めない。ネットなどでレビューを読んでみても、この最終回のあり方に不満を感じた人も多いようだ。「美咲=ウエヤマサト」という核があっても、その周りに散りばめられていた小さな謎の結末が腑に落ちない部分が多い。例えば、キャッシュディスペンサーの防犯ビデオに映っていた謎の女の姿にしろ、もったいつけたような描き方をしていた割には、結果はなんてことはない浅野温子だったわけだ。裏の裏は結局表だった、みたいな気分である。とは言っても、最終回にも見所はあった。そもそもこの最終回においては、本当の意味でのラストシーンが冒頭に持ってこられた。刑事を退職した石橋蓮司と加賀美早紀が船の上から散骨するシーンがそれである。これはなかなか斬新な試みで面白いな、と思った。そもそもこのドラマは時間軸が単純なようで、実はあれこれと交錯しているドラマだった。このように観る者を困惑させる造りは、わかりやすいことが良しとされるテレビドラマの中でも異端と言えるのではないか。最終回での私的ベストシーンは、包丁で腹を刺されて倒れている吹越満を見た浅野温子が「ウギャー!」と咆哮するシーンだ。これはちょっと凄かった。浅野温子の独壇場である。このシーンは、浅野温子演じる冬川美咲がそれまでの謎に気づき、自分のしてきたことを認識させられるという重要なシーンである。この咆哮は冬川美咲というよりも、演じている浅野温子のカタルシスを感じた。思わず巻き戻して3回見てしまった。改めてこのドラマを振り返ると、無駄死にした人が多いなという印象。乙葉・さとう珠緒・病室の刑事・はしのえみといったように、元々の事件に何の関係もない人がガンガン殺された。しかしサスペンスドラマの醍醐味はそこにあるとも言える。「次は誰が殺されるんだろう?」というハラハラ感がたまらないのである。そんな視聴者の期待に応えてか、最終回でも大量に死亡。「え~い、まとめて殺っちゃえ☆」という作者の思惑があったのかどうかは知らないが、こんなに人がザクザク死んでいくドラマも久しぶりだった。そんな大量に登場人物が死亡するようなドラマは雑な印象を受けることが多いが、このドラマは実に演出が丁寧かつアバンギャルドだったと思う。最近のテレビドラマは、演出の人間が代わる代わる担当することが多いが、このドラマは一貫して1人の演出家に委ねられていた。そのために演出のテンションが落ちることなく最後まで飽きさせずに見せてくれた。意表を突くような凝ったアングル、不思議な動きをするカメラ、緊迫感を醸しだすアップの多用、細かいカット割りなど、最近のテレビドラマの中ではトップクラスのクオリティだったと思う。何はともあれ、緊迫感溢れるドラマを見せてくれた日テレに感謝。視聴率操作するんだったらこのドラマの視聴率上げてやって欲しかった。そしてアクの強い芝居を繰り広げた浅野温子と三上博史にも感嘆。この2人の共演はもう無いかもしれない。それが時代の流れってもんである。最終回を観終えて、ホウとため息をついたのも束の間、次クールの新ドラマは『警視庁鑑識班2004』。火サスのシリーズが連ドラに昇進したようだ。しかしタイトルに「2004」と付けるところに憐憫を覚える。新しさをアピールしているのかもしれないが、どうにもこうにも古臭い。しかも出演者が西村和彦(雅彦ではない)・角野卓造(橋田壽賀子臭)・雛形あきこ(離婚直後の元巨乳)・南果歩(おすぎが嫌っている)って渋すぎ。連ドラの主演に西村和彦ってかなりの冒険のような気がするが。そしてなぜかこのドラマにも草笛光子。最近やけに草笛光子を目にする。とうとうやってきたか光子の時代が。日本のクイーン・オブ・ミツコは勿論森光子であるが、次点に控える草笛光子がこの女王の座を虎視眈々と狙っている気がする。そのまた次点はきっと倍賞美津子であろう。
2003.12.23
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『地獄の黙示録』など多くの代表作を持つフランシス・フォード・コッポラの息子であるローマン・コッポラの初監督作品。彼は今まで映画界とは少々離れたCMやMVの分野で活躍しており、満を持しての映画監督デビューとなった。物語の舞台は1969年のパリ。アメリカ人青年ポール(ジェレミー・デイヴィス)は2001年を舞台にしたB級SFスパイ映画「ドラゴンフライ」の編集をしながら日常生活を追った自主映画製作に愛情を注いでいた。ポールはフランス人の恋人マルレーヌ(エロディ・ブシェーズ)と暮らし、ベッドでくつろいだりおどけたりする彼女や、2人で使う石鹸や部屋に飾ってある植物など、カメラに真実をおさめたいと思っている。しかし、そんなポールにマルレーヌは「あなたは日常のすべてを撮影しても自分のことはわかっていない…自分勝手で空想の世界に生きている」とポールの自主映画への執着ぶりに不満をもち、2人の仲は微妙。一方、「ドラゴンフライ」のワンマンプロデューサー、エンゾ(ジャンカルロ・ジャンニーニ)と映画にただならぬ愛情を注ぐ監督アンドレイ(ジェラール・ドパルデュー)の間にはエンディングに対する意見のくい違いがあった。ついに2人は衝突し、エンゾはアンドレイを解雇してしまう。ピンチヒッターとして選ばれたのは若手天才監督で気取り屋のフェリックス・デ・マルコ(ジェイソン・シュワルツマン)であった。「ドラゴンフライ」のセクシーなスパイ役を演じるのは、アンドレイが学生運動の喧騒の中から見つけ出した女子大生・ヴァレンタイン(アンジェラ・リンドヴァル)である。さらに事態は急転し、自動車事故に遭ったフェリックスは映画を降板する。エンゾはこの沈没寸前の「ドラゴンフライ」の監督にポールを抜擢する。ポールは突然舞い込んだビッグチャンスに尻込みするも、監督という大役を引き受ける…。このようなストーリーを60年代フランスのキッチュでポップな雰囲気と絡めて展開させている。登場人物のファッションや部屋のインテリアなど、この時代の雰囲気が好きという人にはたまらないだろう。この『CQ』という映画はバックステージものであり、劇中劇として「ドラゴンフライ」という映画を制作している。この映画はSF映画であり、60年代の人々が思い描いていた2001年の世界が展開している。それはまるで私が子供の頃に読んだような「未来の世界はこうなる!」と銘打った図解のような、安っぽくも愛らしい非現実的な世界である。現実の2001年がこんなに混沌と淀んだ世界であるとは知らずに。この『CQ』という映画は実に退屈である。むしろ劇中劇である「ドラゴンフライ」の方が面白いのではないかと思うくらい。映画の核の部分というか、芯が見えてこないのだ。おそらくこの映画では、映画に賭ける青年の苦悩を描きたかったのだと思われるが、映画全体のムードが中途半端にポップでオシャレなのでその苦悩が全く伝わってこない。ポップな映画を作るのであれば徹底的にポップにすればいいのだが、この映画はどこか中途半端な印象で終わってしまっている。この映画におけるマドンナ・ヴァレンタインを演じているのはアンジェラ・リンドヴァル。『VOGUE』『ELLE』などの誌面を飾ってきたトップモデルであり、この『CQ』が映画初出演となる。劇中劇「ドラゴンフライ」では、その完璧なまでのプロポーションと魅惑的な表情ゆえに偶像的存在感を遺憾なく発揮しており、『CQ』としてはイノセントな女子大生を好演している。彼女を発掘したことがこの映画の一番の功績かもしれない。1時間半程度の短い映画ではあるが、こんなに退屈なのも久しぶりだった。やっぱり映画には観客をひっかけるフックが必要であると実感。DVDだと特典映像が沢山ついてくる。そちらの方が面白いというのも皮肉な話である。★☆☆☆☆
2003.12.22
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今日はバイトに行ってきた。私が所属している売り場は比較的ヒマなほうなので、クリスマスを前にてんやわんやのてんてこまいになっている肌着売場に応援に行ってきた。応援といっても、カウンター業務ができない私がやる仕事は1つ。ひたすら箱作りである。デパートで使用される箱というのは、基本的に折り目が入った厚紙の状態で納品される。それを山折り谷折りして組立て、蓋と身を合わせてハイできあがりというわけだ。今日はひたすらその箱作りを5時間。気が狂いそうになった。たぶん300箱は作ったと思う。もはや目をつぶっていても組みたてられる。玄人の域に達したかもしれない。今夜、夢に出てきそうな気がする。私はこのバイト先で箱作りの他に、ひたすら4時間ハンカチを畳み続けたこともある。千鳥格子やらペイズリー柄やらのハンカチを畳んでいるうちに目がチカチカしてきて頭がクラクラしてくるのである。癲癇に似ているかもしれない症状が私を襲う。他にもひたすら2時間伝票にハンコを押す作業をしたこともある。次第に指の脂が紙に吸い取られて、手に潤いが無くなってカサカサになってくる。ハンドクリームが欠かせない作業である。同時に心にも潤いが無くなってくる作業でもある。心にもモイスチャーが欠かせない。私は単純作業は決して嫌いではないのだが、終わりが見えない作業はさすがにしんどい。こんな時は歌でも歌っていないとやってられない。ということで無意識に口を突いた歌が『ヨイトマケの歌』である。「母ちゃんのため~な~らエ~ンヤコ~ラ」と小声でボソボソ歌っていたら、社員の人に変な目で見られた。そりゃそうか。内職気分で心が貧しくなっていたに違いない。というわけで帰りの電車の私はかなりグッタリしていた。すっかり寝込んでいたらしく、気がついたら股をおっぴろげてヨダレを垂らしていた。最低である。しかもヨダレが鎖骨の部分で湖になっていた。非常に汚い。向かいに座っていたオバハンの視線を感じたので顔を上げられなかった。なので鞄からハンドタオルを出して、鼻を拭くフリをしながらヨダレを拭いた。そして腕を組む形で鎖骨の湖を吸い上げた。さりげない振りをしたつもりだが、バレていたかもしれない。だとしたら妙齢の男子としてはとても恥ずかしい。近頃口元がだらしなくなったような気がする自分自身に心の中で恫喝してやった。私は疲れて電車で寝ていると、たまに鼻が鳴る。突然「フゴッ」とブタっ鼻が鳴るのだ。その音で目が覚めることがよくある。鼻が鳴ってしまったという自覚がある分、イビキよりも恥ずかしい。今度耳鼻科にも通ったほうがいいかもしれないと考えている今日この頃である。高校生の頃は電車内で寝ながら後ろの窓ガラスに後頭部をぶつけたり、横の手すりに側頭を強打したりと私はどうも未だに首の据わりがよろしくないようだ。そういう時、周囲の人々は決まって気づいていない振りをする。それが余計に恥ずかしさを増幅させる。私は電車の中では寝ないほうがいいようだ。
2003.12.21
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「癒し系」という言葉が市民権を得て久しい。私にとっての「癒し系女優」は優香でも飯島直子でも井川遥でもなく、本上まなみである。誤解されないように断っておくが、私自身が本上まなみに癒されているという意味ではない。「癒し系」というメディアが作り上げたカテゴリーに巧妙に乗っかった典型的な人、ということでいの一番に本上まなみが浮かんでくるのだ。しかし「癒し系」の定義づけもあまりはっきりしない。優香・飯島直子に見る「心安らぐ豊乳」と定義づけると本上まなみは豊乳じゃなさそうなので当てはまらないだろうし、乙葉・井川遥に見る「何も考えてなさそうな、笑顔が二ヘラ~っとした女」で考えると飯島直子の笑顔には険がある。ま、私の中での結論を言えば「頭悪そうな豊乳」という要素を含んでいれば「癒し系」となり得るということ。見ようによっては朝丘雪路だって天地真理だって癒し系になり得るわけだ。そう考えると本上まなみが「癒し系」としての地位を獲得した要素は一体なんなのか。それはきっと「オーガニック感」ではないか。そこが他の「癒し系タレント」の追随を許さないところではないか。生まれてから28年間無菌室で育ったような天然素材有機栽培な味わいが彼女の持ち味のように思える。気がついたら俳句なんか詠んでいたりするし、家では睡蓮を入れた大鉢にメダカを数十匹飼っているそうだ。昆虫の顔が大好きで昆虫顔面大図鑑を所有しているという点も見逃せない。挙句の果てに短歌の会で知り合った中年男性と結婚という、彼女のライフスタイル全てがオーガニックでアコースティックである。彼女は絶対にガーデニングに凝っていて、休日はカメラ片手に散歩に勤しんでいるに違いない。そんな感じがする。しかしそんな彼女のオーガニックな持ち味は、時に「不思議ちゃん」的な要素に変容する。私が本上まなみから感じ取れる一抹のヤバさ。それはそんな「不思議ちゃん」オーラに起因していると思う。上手く言葉で言い表せないが、本上まなみの発する言葉の節々から感じ取れるヤバさ。それは一青窈や宇多田ヒカルからも匂ってくる「文芸部員」的なものであるように思える。彼女たちは別に脈絡の無いことを言っているわけではないが、どこか言葉のピントがずれている。それは私が高校時代に通っていた学校の図書室にたむろしていた文芸部員のそれとよく似ている。「別に悪い人じゃない、でも決して友達にはなれそうもない」感じが本上まなみから匂い立っている。そんなことを『トップランナー』を観ながら思ったわけで。しかしこの『トップランナー』の司会の人選基準もよくわからない。私が知っている限りでは大江千里・益子直美ペア→田辺誠一・はなペア→武田真治・本上まなみペアという流れである。あえて進行がヘタな人を選んでいるのだろうか。この番組は収録であるから編集の段階で上手にツマんでいるのだろうが、実際はゲストも司会も言葉に詰まって無言の状態が続いていそうである。観るたびにこちら側がハラハラしてしまうようなスリル感がこの番組にはある。そういや私は、はなというモデル出身の人が大嫌いでしばらく『トップランナー』を観ることができなかった。この人もオーガニックな雰囲気を醸しだしていた。初めて田辺誠一&はなの『トップランナー』を観たとき、はなは手作りスイーツを持参して無理やり食べさせていた。別に番組の進行上なんの必然性もないコーナーなのであるが、その謙虚なようで押し付けがましい行為に辟易して、それ以来『トップランナー』を観ることを止めた。話が逸れた。要は本上まなみやはなが持つ「癒し系」という聞こえのいい言葉の裏にあるヤバさ、そこを見逃してはならないと声を大にして言いたいわけである。
2003.12.20
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今日も楽しく下北沢で呑んで来た。年末だから街もほろ酔いムードが漂っていた。しかし家に帰る途中で、些細なことではあるが無性にイライラさせられてしまった。まず1つ目。混雑している電車内で隣に立っていたチャラチャラした兄ちゃんが急に握っていたつり革を手離したので、そのつり革が思いっきり私の額を直撃した。ゴツと鈍い音がしたが、その兄ちゃんは全くそ知らぬ顔。痛いっつーの。2つ目。帰る途中で寄ったコンビニで立ち読みしようとしたら、本棚にベッタリへばりつきながら立ち読みしている男が。私はその人の足元に積んである週刊文春が読みたかったので「すいません」と言い、本を取ろうとしたら鬼のような形相で睨まれた。「そんな怖い顔されてもアンタが悪いんじゃん」と思いながらも知らん振りして雑誌を読んでいたら、かなりしつこく「なんじゃワレなんじゃワレ」ってな勢いで睨まれ続けた。怖い、でも腹が立つ。3つ目。そのコンビニでカップラーメンを買おうとレジに並んだ。そのコンビニにはレジが2台あるために、フォーク並び(並んだ順番で空いたレジに行く)をしていたら、その並び方を理解していないバカが列を無視してレジに並びやがった。片側にズラーッと並んでるんだから気づけよバカッ。4つ目。チャリで交差点の赤信号待ちをしていたら、横をスイーッと信号無視して突進していくチャリが。別にモラルがどうのこうの言いたいわけじゃないが、赤信号で待っている横を信号無視して行かれるともの凄くバカにされたような気分になる。「なに律儀に待ってんのバカじゃね~」とでも言われているかのように。こういう人はいっぺん死ななきゃわからないのか。5つ目。国道をチャリで走っていたら、後ろから迫ってきたヤンキー車の中から、いかにもバカそうな男たちに「家帰ってオ○ニー!?」と言われた。はああああああ?言われなくたってするよ。じゃない、そんなこと言われる筋合いねーよ。もし私が爆弾を所持していたら、今日はドカンドカンと5つ爆破したことであろう。機関銃を所持していたらバババババと4ヵ所で乱射していたことであろう。しかし一番腹が立ったのは、そんな理不尽な状況でも何も言えない自分自身にである。根っから小心者な自分に忸怩たる気分になった。自爆。ちゅどーん。
2003.12.19
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また呑んでしまった。午前1時帰宅。午前様続きの毎日である。夜中に帰宅して夕刊を読みながら深夜番組を見ていたら、通販番組で「60倍レンズを搭載した双眼鏡」を紹介していた。なんでも双眼鏡は14倍から60倍までの高倍率ズームを搭載しているうえ、対物レンズマルチコーティングの採用により、光の乱反射を防ぎ、目を疲れにくくしているとか。しかもライトと倍率6倍の双眼鏡がついた見た目以上に本格的で、小さな物音までしっかり聴こえるパラボラ型集音機「ワンダースパイ」もセットで、メーカー希望小売価格56000円のところ、9990円でご奉仕。まあお買い得。56000円→9990円って破格だなオイ。メーカーの希望を思いっきり踏みにじってる感じがして胸がときめいてしまった。日常生活では全く役に立ちそうも無い双眼鏡と集音機であるが、無性に欲しくなってしまった。9990円だもんな。福沢諭吉先生1枚で買えるわけですから(税抜)。倦怠期を迎えた夫婦の浮気調査にいいかもしれない。コレ買って興信所でも開業しようか。その番組の合間に「マスターカード」のCMが挟まれていた。「お金では買えない価値がある」という偽善的なキャッチフレーズで御馴染みのマスターカードである。そのCMでは、親子3人が里帰りするシチュエーションらしく、おじいちゃんに地酒を、おばあちゃんにショールを買っていく内容である。ちなみに地酒7000円、カシミヤのショール20000円。しめて27000円である。そんなことはどうでもいいが。しかし私は何度見ても、あの子供がおじいちゃんに向かって何て言っているのか聞き取れない。「おじいちゃんこんにちは。~~~でよかったです」の~~~の部分がどうしても聞き取れない。今日もこのCMが流れた途端に、ダッシュでテレビに駆け寄り、スピーカーに耳を当ててみたのだがいかんせん聞き取り不可能であった。その後のシーンで、子供が父親に向かって「ちゃんと言えたよ!」と言っているが、私としては「全然ちゃんと言えてねぇぞ」ってな気持ちでいっぱいである。このCMを見るたびに私の中でフラストレーションが増幅していく。ますます私の子供嫌いに拍車がかかりそうである。早く謎を解明したいものである。
2003.12.18
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2004年に、永井豪原作・庵野秀明監督の『キューティーハニー』が公開される。この頃、『キャシャーン』『鉄人28号』『デビルマン』といった昔のアニメを映画化した作品の公開が発表されている。もちろん『キューティーハニー』もこれらの系譜に並ぶものである。しかし気取った出演者がオシャレでスタイリッシュな映像を作り出している『キャシャーン』とは異なり、『キューティーハニー』はかなりベタベタな模様。主演は佐藤江梨子。とにかくスタイルが完璧である。私は実際に佐藤江梨子を生で見たことがあるが、こんなに顔が小さくて脚が長い人は初めて見た。プロポーションは完璧でも、顔がどことなくコケティッシュな彼女はキューティーハニーを演じるべくして演じる人だと思われる。正義の味方がいれば悪の組織が必要不可欠である。この映画における悪の組織・パンサークローは究極のエゴイスト集団である。そんな組織のメンバーを演じるのは篠井英介・及川光博・片桐はいり・小日向しえ・新谷真弓といった面々。とにかく彼らの化粧と衣装に度肝を抜かれる。誰が誰がだかわかりゃしない。片桐はいりに至っては男なのか女なのかもわからない。アメリカでは『バットマン』や『スパイダーマン』といった非現実的なヒーロー物を一流キャストがマジで演じているのに違和感が無いが、日本ではこういうテイストの映画はあまり無かったと思う。せいぜい『仮面ライダー』的な東映特撮もので精一杯である。日本ではこういう映画をマジでやるという風潮があまり無いのである。そんな日本で、敢えて一流キャストでこういうテイストの映画をやろうとしている庵野秀明監督に感嘆。そしてやはりこういう映画に欠かせないのが京本政樹である。京本政樹はどんなドラマや映画に出ても京本政樹である。「役名・京本政樹」でもいいんじゃないか。10年以上変わらない髪型にキャリアを感じる。こういった非現実的な世界を構築するのに京本政樹は欠かせない存在である。まるで漫画かアニメからそのまま抜け出してきたようなルックスと、常に「ワオ」とおどけているそのキャラクターには全くリアリティが無い。「このごろ流行りの女の子~、おしりの小さな女の子~♪」で御馴染みの主題歌をリメイクするのは倖田來未。彼女のディーバっぷりが妙に映像とマッチしていて笑える。この映画のホームページにある予告編で彼女の『キューティーハニー』が聴けるので、気が向いたら聴いてみてください。こういう弾けていてアホ臭い映画も日本映画では久々なような気がする。たまには勧善懲悪モノでスッキリするのもいいかもしれない。ちょっと期待している作品である。ちなみにこの映画にまつわるこぼれ話。片桐はいりはこの映画で佐藤江梨子とタメ張るくらい露出度が高いらしく、生まれて初めてTバックを買いにいったそうな。そんな片桐はいりのTバックを想像しながらこの映画を観ると、より一層味わい深いものになるかもしれない。
2003.12.17
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気がついたら、もうすぐクリスマスだ。学生生活最後のクリスマスだというのにもちろん予定は無い。バイトすらない。あちゃー。「別にキリスト教徒じゃないし~」などという言い訳は己を惨めにさせるだけなので言わないように心がけている。そもそも世のアベック、もといカップルはクリスマスに何をしているんだろうか。やれ六本木ヒルズやら新宿サザンテラスやらでクリスマスイルミネーションを眺めて、小粋なレストランでグラスをカチンと言わせて、「なんだか眠くなっちゃった」「ホテル予約してあるよ」「まあ☆」ってな流れでベッドインってか。むききー。ま、これは想像力が貧困な私が思い描くラブラブクリスマスのイメージなので、トレンディかつバブリーな匂いがしてかなりセンスが古い。となると今どきの若者カップルはいったいクリスマスに何をしてアハハウフフと喜んでいるのだろうか。この日記を読んでいる「クリスマスは彼女または彼氏と過ごす予定」という方。当日の詳しいスケジュールをお教え下さい。もれなく血文字で「栗酢鱒」と書き並べた手紙を100枚ほど送らせていただきます。冗談はさておき、私だってクリスマスだからって何するわけでもないのだが、街中がウカレポンチになっているのを横目にスゴスゴと家に帰るのは相当に淋しい。クリスマスだってのに半纏羽織ってコタツ入ってミカン食ってると自分の若い部分がどんどん枯渇していくような気がしてしまう。予定が無いなら、やっぱりクリスマスは気の合った人たちとパーチーですよね。しかし悲しいかな、良く言えば古風悪く言えばジジ臭い家庭に育った私はパーティーとは無縁の人生を歩んできた。そのためパーティーと言っても何をしたらいいのかわからない。私がイメージするパーティーとは燕尾服を纏った男とカクテルドレスに身を包んだ女がシャンパン片手に今宵のご機嫌はいかがと目配せする、そんな立食パーティーのイメージである。もしくはアメリカンスクールライフには欠かせない、ダンスパートナーを見つけることに命を賭けているようなプロムパーティーのイメージか。どちらも縁遠いことには変わりはない。こんな私がパーティーするとしたら、誰か独り暮らしの人の家に押しかけて、気張ってせいぜいケーキとチキンとワインを買い込んで、結局のところしょっぱくも下らない世間話で終わりそうである。ああ、根っから小市民な自分自身が憎い。あ、あともう1つあった憧れのパーティーのイメージ。それは「リッツパーティー」である。リッツとは沢口靖子のCMでお馴染みのナビスコリッツのことである。現在放送されているリッツのCMは沢口靖子とゆかいな仲間たちが「今日はDVDを持ち寄ってリッツパーティー」をしている。「先輩、リッツ開けていいですか?」「どうぞ~」「先輩、もう1箱いいですか?」「どうぞ~」これである。しかもリッツのCMというと、キャビアやらスモークサーモンやら高価な食材が乗せられている。そんな高価な食材ならリッツに乗せずにそのまま食うよ、というのは貧乏人の発想。セレブリティの面々はリッツに乗せて食うことにこそ価値を見出しているのである。リッツに乗せるものといったらイチゴジャムかマーガリンが精一杯という私にとっては雲上界の出来事にしか見えない。リッツに乗せるためにキャビアやら何やらを買い込んだとしたら、その後一ヶ月は米と味噌だけで生活しなければならないかもしれない。はぁ。心も寒いが財布の中身も寒い。凍死しそうである。しかしリッツのCMで、沢口靖子とゆかいな仲間たちはDVDを観て大爆笑している。いったい何のDVDを観ているのか気になるのは私だけであろうか。私が思うに、きっと『ごっつええ感じ』か『オレたちひょうきん族』のDVDではないかと。こんな発想しか出来ないということで、また私の小市民ぶりが露呈しているような気がしないでもないが。今私のもとにサンタクロースが現れたら、「ファッキン、サンタ!」と叫びながら身包み剥がして便所の水をストローで吸わせて、「顔はやめな、ボディボディ」といいながらボコボコにしてしまいそうな、そんな荒んだ気分である。
2003.12.16
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私は基本的に大好きなアーティストというのがあまりいない。「この人の音楽だから聴く」というのではなく、曲を気に入れば誰のでも聴くというパターンが多い。そのためか、私のCDラックを見返してみても、全てのCDを揃えているのはUnderworldとCoccoしかない。この2組は私にとっては別格である。Coccoは高校の時に『Raining』で初めて触れた。かなりの衝撃であった。その足でそのまま『クムイウタ』というアルバムを買いにレジまで行った。なんというか、それまで聴いてきたポップスとは異なり、喜怒哀楽の感情が豊かな人だと思った。悲しい歌はとことん悲しいし、険しい歌はもの凄く猛々しい。小手先のテクニックは使わずに、真っ直ぐな歌声で迫ってくる彼女の音楽に少なからずショックを受けた。Coccoの歌詞の世界もかなり独特である。聴いている人に共感してもらおうとか元気付けようとかしているのではなく、むしろ聴く者を突き放している感がある。しかし聴く者がその世界に思いを馳せずにはいられない内容で、真っ直ぐな歌声も相まって懐の深い世界が構築されていた。当時の彼女にとっては、「歌うことは、うんこをすることと一緒」であり共鳴し合うものではなかった。それでもその歌が多くの人の心を捕らえてやまなかったのである。そんな彼女は、2000年4月に突然活動を中止する。私は結果的にラストとなってしまった日本武道館でのライブに行ったのだが、終わりを予期させるような鬼気迫るライブで鳥肌が立った。そして姿を消してから3年後の2003年、Coccoはこれまた突然姿を現した。故郷・沖縄の海が汚されていることを嘆いて1日限り1曲限りのライブを開催したのである。題して「ゴミゼロ大作戦 vol.0~正しい海への道のり ラブレンジャー参上~『もしも歌が届いたら 海のゴミを拾ってね』の巻」。楽曲のタイトルは『Heaven’s hell』。地元の高校生のブラスバンドの音色に乗せて、中高生・アメラジアンなどの子供たちと合唱している彼女の姿には、どこか吹っ切れたものを感じた。歌うことに喜びを感じ、こんなにも朗らかなCoccoは初めて見たように思う。TBSの『NEWS23』で放送されたこのライブの模様を見ながら、私が思わず涙してしまったのは言うまでも無い。そしてまた驚いたことに、最近Coccoは日立のCMに出演している。『世界ふしぎ発見』などの合間に流れているようだ。私は実際にテレビでこのCMを観てはいないのだが、日立のホームページで知った。Coccoが特定企業のPRの場に現れるなんてかなり意外であった。しかし手塚治虫の『ブラック・ジャック』の一説を朗読する姿はどこか自然であり、新たな一面を見たような気がした。これから再び、継続的に歌声を聴かせてくれるかどうかはわからないが、一時でもCoccoが帰ってきたことを素直に喜びたい。『Heaven’s hell』の試聴はココで。日立「Next MADE IN JAPAN『次の医療・ライフサイエンス』篇」CMはココで。
2003.12.15
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今朝、なぜか夢に西野妙子が出てきた。西野妙子というのは元アイドルで、小室哲哉プロデュースのdosというユニットでボーカルを担当していた人である。なんでだ?なんで夢に西野妙子?可愛いとは思うが別にファンでもない。金曜あたりにKABAちゃんの話をしたので、「KABAちゃん→dos→西野妙子」というように連鎖的イメージで夢に現れたのかもしれない。夢の内容はここには書けない。「何故?」なんて聞かないでくださいね。そういや西野妙子はどうしているのだろうとインターネットで検索してみたら、「西野妙子、バイクにはねられる」というトピック以外は全部アダルトサイトだった。しかしアダルトサイトというのはまさにピンクのラビリンスである。「丸見え」「モロ出し」という煽情的な言葉に釣られて「どれどれ、どれだけモロ出しか見てやろうぢゃないの」とでも入ろうもんなら袋小路にはまってしまうこと間違いない。そもそもアダルトサイトというのは、勝手にウインドウが開いていく。気づいたら大小問わず5つほどのウインドウが開いている。そしてこれは消しても消しても開くのである。執拗にピンク色の悪魔が追ってくるのである。そしてサイト全体に、所狭しとばかりにバナー広告が貼られている。どれをクリックしたらいいのかわからずヒステリーを起こしてしまう殿方も多いのではないか。モロ出し画像にたどり着くまでは、好事魔多しとばかりに数多の難関が待っている。ようやく入り口にまでたどり着いたと思ったら「ここからは有料制。クリックしてね☆」ということになっている。結局私は西野妙子のモロ出し画像にはたどり着けなかった。無念なりとばかりに志半ばにして儚く散ったのである。モロ出し&丸見えの道は長く険しいけもの道である。モロ出し画像にまでたどり着けた男性は選ばれし勇者である。この日記を読んでくださっている女性の皆様、大変失礼いたしました。お口直しにこちらをどうぞ。
2003.12.14
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いま無性に元祖ファミコンがやりたい。私の家にもクローゼットの奥のほうにしまってあるはずなのだが、何せ元祖ファミコンは入力端子が古いので、配線の仕方がイマイチわからない。というわけでタンスの肥やしになっているわけである。我が家の教育方針としては「ファミコンは情操教育上よろしくない」ということだったのか、ファミコン全盛期の小学生低学年時代には買ってもらえなかった。その当時は友達の家に行ってファミコンをやらせてもらうのがとても楽しみだった。その友達は今は懐かしい「ディスクシステム」や「PCエンジン」も所有していた。幼い私が垂涎していたのは言うまでも無い。もう1人の友達はもの凄く裕福な家庭で、自家用車をベンツからロールスロイスに買い換えたという絵に書いたようなブルジョア家庭に育っていた。そんな家庭のテレビはもちろんデカい。「うわ~テレビでかいね。でもなんでリビングに置いてないの?」と聞いたら「あ、これファミコン用」と返された時は心底驚き、己を取り巻く環境を呪ったものであった。デカいテレビでやるスーパーマリオは、キノコ食ってないにも関わらずデカかった。結局、スーファミ全盛期の小学校高学年の時に8000円くらいで元祖ファミコンを入手した。周りの友人たちが16ビットを堪能しているなか、私はセコセコと8ビットのスーパーマリオに興じていたのである。今やりたいなーと思うのは、もちろん「スーパーマリオ」。1か3がいい。Bダッシュの疾走感がたまらないのである。しかしスーパーマリオは「キノコ食ってパワーアップ」だなんて、相当意味深である。今気づいた。他には「オホーツクに消ゆ」「ポートピア殺人事件」などのミステリーもの。8ビットのミステリーゲームというのは非常に平面的な絵が展開し、キャラクターの表情もほとんど変化しない。音楽も単調な電子音が流れるために、夜中にやるとメチャメチャ怖い。まだ「かまいたちの夜」とかのほうが怖くないくらいだ。私は「京都龍の寺殺人事件」というソフトを持っていたが、袋小路にはまってしまい、結局解決できないまま封印されてしまっている。8ビットのゲームは難しいものが多かった。「忍者ハットリくん」も3面以上クリアできたことがないし、「ロックマン」も裏面が多すぎてクリアするのは至難の業である。私はやったことがないが「高橋名人の冒険村」(だったけか?)「ビートたけしの挑戦状」の難しさはもはや神話である。「ドラえもん」も難しかったように記憶している。横スクロールと縦スクロールの両方を駆使した造りになっており、特に3面の海底ステージは画面が入り組んでいて迷路のようであった。「あれ、ここは前も来たぞ」というように樹海を彷徨う遭難者のような気分になれること間違いない。今のゲームは文明の進化に伴い、何百ビットのハイブリッドっぷりを見せ付けている。そのためどのゲームも立体的で、私にはちょっとついていけない。360度縦横無尽に画面が動くと、クラクラしてしまう。やはり元祖ファミコンの8ビット感が懐かしい。あの2次元的でピコピコした感じに心が和む。カセットを差し込むときにホコリを払うためにフーフーしていたのも懐かしい。今はみんなディスクだもんなあ。味気ないっちゃ味気ない。ファミコンは今年誕生20周年であるようだ。ほんの20年の間にコンピューターゲームは著しい進化を遂げているわけだ。ゲームの中のキャラクターが徐々に人間に近づいているような気がしてならない。いつかバーチャルリアリティの世界が実世界に侵食してくるのではないかと思うと怖い。
2003.12.13
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広末涼子できちゃった結婚ですか。高知生まれのプリプリしてた娘も人妻&ママになるわけだ。同い年の私としては複雑な心境である。私は彼女がデビューしたときから、イノセントな純粋無垢天真爛漫な雰囲気に強い拒絶反応を示していた。デビュー曲である『Majiでkoiする5秒前』をテレビで聴いた時は危うく理性の壁が崩れ落ち天下分け目の暴動を起こすところだった。広末涼子をどうしても受け入れられなかったのは何故なだったんだろう?天真爛漫で言えば松浦亜弥は嫌いじゃない、むしろ見ていて面白いのに。松浦亜弥という人からは「計算」という文字が浮かび上がってくる。しかし広末涼子は計算性が希薄だった。多分彼女も事務所関係と計算しつくした上であのキャラを確立したのであろうが、どうにも骨の髄まで「純粋」が染み渡っているように見えた。彼女はもしかしたら天性の女優だったのかもしれない。彼女もトントン拍子で芸能界の成功という名の階段を駆け上ってきたように見えた。しかしやはり彼女にとっての転機というか運命の分岐点となったのは早大受験問題だったのではないか。彼女の願望は常に成就してきた。オーディションに合格し「クレアラシル」のCMでデビュー、ポケベルのCMで認知度を高め、連続ドラマ主演。まさにシンデレラストーリーである。しかし早大受験に関しては彼女(またはその取り巻き)の計算が狂ったとしか言えない。マスコミなどは「第2の吉永小百合」と騒ぎ立てたが、あまりにも周囲の反響が凄かったために引くに引けない状態になってしまった。それ以降は数々のスキャンダルやら奇行やらで注目を集めてしまい、CMの数も激減。「タマノイ酢」のCMで広末を見た時は、ちょっと切なくなった。別に「タマノイ酢」がいけないわけじゃないが、芸能人にはそれなりにイメージというものが付きまとう。広末涼子は決して黒酢を飲むイメージじゃない。このCMを見て「行くとこまで行ってしまったな広末涼子」と思わずにはいられなかった。昔の広末涼子は、記者会見などでは口角が切れるんじゃないかと思うくらいの笑顔をバラまいていた。それに私はどこか禍々しい邪気を感じていた。しかし最近の広末はどこか目が据わっている。とうとう邪念を露わにし始めたのか。広末の裏の顔が表になる日がとうとう来たのである。ノストラダムスが予言したかったのは悪広末が降臨することだったのではないか。なんて言ったら怒られますね。とにかく広末はMen喰いのモデル喰いで有名である。伊勢谷友介やら村上淳やらモデル界ではカリスマ的地位にあるグッドルッキングガイを手中に収めてきた。あ、村上淳は噂だけか。モデルの人たちは「おしゃれ」という毒素を体内に蓄積しまくっている。代官山のショップがなんたらかんたらとかグラフィックデザインがすったらもんだらとか、出てくる言葉全てがハイソな装飾が施されている。間違ってもキムチ買いに御徒町まで足を運ぶことはなさそうである。地方の人々が憧れる「東京」のイメージはこういうものであることが多い。そのため地方から上京するとまず代官山やら原宿に攻め込むことが多い。ネイティブな東京人よりも東京に染まりやすいと言えよう。私が思うに広末涼子も、東京に偏ったイメージを抱いていたのではないだろうか。さりげなく着崩すようなストリート的なライフストーリーを思い描いていたように思える。間違ってもラメラメスパンコールな人生ではない。そしてまた広末は「不良」に憧れていたのではないか。世の中から「純粋無垢」というイメージを抱かれてしまい相当にフラストレーションが溜まっていたことであろう。そのフラストレーションを発散する方法が、夜な夜なのクラブ通いであり、タクシー無銭乗車であり、できちゃった結婚なのであろう。彼女の行き当たりばったりなように見えて、実は計画的なライフデザインはこれからどのような方向に向かうのか。とても気になるところである。
2003.12.12
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私は新宿でバイトをしているため、お土地柄外国の方がよく来店する。私は英語を喋れないので、外国人に話しかけられるとかなりテンパってしまう。以前も英語でペラペ~ラと話しかけられたので、口を開けてポカーンとしてしまった。しかし仕草で免税店に行きたいのだ、ということが分かったので8階を案内しようと思い「8floor」(スペル間違っているかも)と言った。その「floor」のrの発音が咄嗟に巻き舌になってしまい、英語喋れないくせになんか恥ずかしかった。日本人の妙に発音のいい英語ってなんか恥ずかしい。なぜか。以前、テレビで日本の大学生が日本在住の外国人にインタビューしている姿が放送されていた。外国人とはいえ日本に長く在住しているので、カタコトながらも日本語は喋れる。そのためインタビューも日本語だったのだが、その日本人のインタビュアーまで「生まれはドコデスカ~?」みたいにカタコトになっていたのが笑えた。逆のパターンでは、以前スペースシャワーTVの番組で、リサ・スティグマイヤーが沖縄出身の歌手・Coccoにインタビューしていた。Coccoの話す言葉はかなり沖縄訛りである。それにつられて、リサも訛っていたのが面白かった。私は中学生の頃から、英語の授業で「I like tenpura」と発音するとき「テンプーラ」と発音させられたのに疑問を感じていた。天ぷらは天ぷらだろ。テンプーラじゃねえだろ。なんで日本人が日本語発音するのに英語訛りにしなきゃいけないんだ。「ジュードー(柔道)」とか「スーシ(寿司)」とか、日本人をナメているような発音が大嫌いである。ふと、大学受験の時に自作した熟語カードが出てきた。予備校のテキストに載っていた熟語と例文を自分で編集したカード帳である。まだ4年くらいしか経っていないが、ほとんどわからない。記憶というものははかないものである。そのなかにいくつか面白げな文があった。どれも明日使える英文ばかり。ぜひ日常生活で使ってみてください。“Don’t ask me for money every time you want to buy a drink.”(酒が欲しくなるたびに私に金をたかるのはやめろ)アル中の友人をたしなめている文である。酒が欲しくなるたびに金をたかる友人なんて絶交したほうが身のためである。“Now that your father is dead,you are supposed to support your family.”(もうお父さんはいないのだから、君が家族の面倒をみなさい)思わず涙が出そうになった。一家の大黒柱を失った家族の悲哀がにじみ出ている。家族の面倒をみなければならなくなった子供はきっと色々なことを犠牲にしなければならないことであろう。失われた青春に涙を禁じえない。“Our teachers told us to keep away from the forest.”(先生たちは私たちに、森へは近づかないようにと言った)森に一体何がいるというのだろう。熊とか変質者とかだったらまだいいのだが、何か異形のモノが潜んでいそうだ。『ブレアウィッチプロジェクト』を髣髴とさせる、ミステリアスな文である。“We are running out of food and water.”(食料と水が底をついてきた)まさにサバイバルである。極限状態に置かれた彼らは、きっとこれから血を見ることになるだろうということが容易に想像できる。“It seem that he’s finally through with drug.”(彼はようやく麻薬をやめたようだ)それは良かった。でも彼の試練はこれからである。ヤクが切れると辛いですからね。禁断症状が出ないことを祈るばかりである。“Despite the heat,he wore a black leather jacket”(暑さにも関わらず、彼は黒い革のジャケットを着ていた)これはきっと高知東生のことだと思う。中学校の英語のテキストには、ビンやらビルやらそんな名前のキャラクターが出てきて、しょっちゅうパーティーをしていた。「今夜、パーティーに行かない?」「昨日のパーティーは楽しかった!どうして来なかったの?」といったような文がそこかしこに出てくる。超クールなアメリカンスクールライフが、いかに日本の凡庸な学生生活とかけ離れているかということに思わずため息が出たものである。ちなみにビルはダンスパーティーでキングに選ばれたような記憶が。ほぇ~。英語のテキストというのは「なんでこんな文?」と頭にクエスチョンマークが浮かんでしまうことが少なくない。文部科学省は何を考えているのであろう。でもこういうの嫌いじゃない。むしろ好き。もっとやっちゃってください。
2003.12.11
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今日はテレビをBGMがわりに卒論を執筆。そのため午後4時から現在までテレビつけっ放し状態である。8時からの『歌の大辞テン』と11時からの『ベストヒットTV』両方で、V6の『MUSIC FOR THE PEOPLE』の映像が流れた。顔が全然違うカミセンの面々と、リーゼントのイノッチが印象的。まさか1日2回もデビュー当時のV6が拝めるとは。妙なシンクロ。ユーロビート…ばんざい。力尽きました。
2003.12.10
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気がつけば、仲間由紀恵が第一線で活躍している。今や押しも押されぬトップ女優の仲間入りである。仲間由紀恵だけに仲間入り。自分でボケて自分でツッコミ、エコロジーの一環である。仲間由紀恵という人はデビューしたばかりの頃は、ティーン向けのドラマなどにおけるサブキャラ要員として活躍していたようだ。そこでの彼女は「はかなげな女」とか「いたいけな女」といったような役が多かったような気がする。当時の彼女は、あの長い黒髪と常に何かに怯えているような目が「魔性の女」的であった。要は主人公の男にとって「あいつのことは放っておけないんだよ」と思わせるような女の役が多かったということである。一概にしてこういう役は視聴者の反感を買うことが多い。特に女性視聴者には「なにあの女!ムキー」と思われたことであろう。「本人にその気があるかないかは別として、先天的に男を狂わせる要素を持った女」という役が多かったわけである。そんな当時の彼女を見て、私は裕木奈江を思い出した。黒髪に常に怯えているような目、という点で共通点を見出していた。そのため、きっと仲間由紀恵も長くはない、もしくは一生サブキャラ止まりだと思っていた。しかしその後、『リング0~バースディ~』の主演・山村貞子役に抜擢される。監督に「カトリーヌ・ドヌーブのような女優」と言わせしめる。私は正直、「仲間由紀恵が主演?え~」と思った。そして「この映画ヒットしないだろうな~」とも思った。しかし映画はそこそこヒット。『リング』シリーズは根強いファンがいることも作用してか、ここから仲間由紀恵のサクセスストーリーが始まったと思われる。彼女にとっての最大の転機は、やはりドラマ『トリック』であろう。最初はホラーサスペンスとして企画されたこのドラマは、徐々にコミカルな路線へと走っていった。「貧乳」やら「巨根」やらハレンチな言葉を連発する仲間由紀恵は、この作品でコメディエンヌとしての才能を開花させたのである。それ以降もドラマの主演を張り、携帯電話のキャラクターに起用されたりとめざましい活躍を続けている。めでたしめでたし。ところで、仲間由紀恵の芝居の真骨頂は「何か交換条件を持ちかける芝居」であると私は勝手に思っている。これは以前放送されていたドラマ『顔』を見て思ったことなのだが、例えば男に「今度食事に行かない?」と誘われたときに「(一瞬間を置いて)いいですよ。そのかわり…」とかわす芝居、これが仲間由紀恵が最も仲間由紀恵らしい瞬間である。誰も同意してくれなさそう。そう、仲間由紀恵は「女のしたたかさ」を表現することに昔から長けていたのだ。昔はサブキャラであったがために憎たらしく見えたものだが、今は主演でコミカルな役柄に転向しただけのことで、彼女に求められる芝居の本質は変わっていないように思える。あの上目がちな視線と長い髪、そしてところどころで上擦る発音がどことなくアンバランスな危うさをかもし出している。実際の彼女はどういう人なのか知る由もないが、ブラウン管やスクリーンで観る限り、仲間由紀恵は正真正銘の「魔性の女」である。ちなみに仲間由紀恵らしからぬ仲間由紀恵を観たいという方は『ガメラ3 イリス覚醒』という映画がよろしいかと。ほんのちょこっとしか出演していない怪獣映画であるが、ここでの仲間由紀恵は「イリス」という怪獣にブンブン振り回され、挙句の果てに全身の血を吸われ、干からびて絶命している。かなり笑えた。
2003.12.09
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今日は『HEY!HEY!HEY!』を観た。ゲストはGackt・Every Little Thing・DA PUMP・スネオヘアーの面々。Gacktは相変わらずの耽美系オーラを無差別放射。すでに世の人々の頭の中から、この人が元マリス・ミゼルであることは忘れ去られているように思える。それほどまでにGacktは確固たるポジションを獲得したと言える。私がGacktという人を初めて意識したとき「ポスト及川光博か?」と思ったものだったが、あれよあれよという間に耽美系ヒエラルキーの頂点に君臨してしまった。ミッチーも上手く役者にシフトチェンジしたようで、全てが上手くまとまったようだ。ビジュアル系が一時のブームから見ると衰退の一途を辿っているところを見ると、耽美系の王座はしばらくGacktがキープし続けることであろう。Gacktはトークの時はサングラスをかけ、歌うときはサングラスを外す。私は公の舞台であるにも関わらずサングラスをかける自意識過剰タレントが好きではないのだが、Gacktと吉川晃司に限っては常にサングラスをかけていてほしい。ちなみにタモリと桑野信義はサングラスタレントとして別格である。今日のELTの衣装はなんだか垢抜けない衣装だった。巷ではこういうテイストのファッションが流行っているのだろうか。デビューしたての頃のKiroroみたいだった。どことなくオーガニックな雰囲気がおぼこ娘を思わせる。しかし、持田香織はいつ見ても立ち方が勇ましい。今日の放送で持田香織を見たときに「この人O脚か?」と思ったが、よく見るとただ単に仁王立ちなだけだった。そんな不敵なところが持田香織の魅力なのだろうか。三白眼気味な目から発される鋭い眼光で睨まれたら、思わず有り金全部出してしまうだろう。スネオヘアーという人は、名前は聞いたことはあるが実際に目にするのは初めてだった。どうやら前回出演した際にトークの面白さが買われたようで、再出演となったらしい。スネオヘアーということで奇抜な髪型を期待したが、普通だったので拍子抜け。まあ実際に3次元の世界で『ドラえもん』のスネ夫の髪型を真似しようと思ったら、とんでもないことになるだろう。スネオヘアーという人は目に力があるという印象を受けた。険があるとでも言おうか。どことなく劇画調の顔立ちに凄みを感じる。私にとって今日のメインディッシュであるDA PUMPは皆帽子を被っていた。徐々に額が後退しているISSAはある時期から帽子を欠かさなくなったが、今回は全員。「メンバーのハゲはみんなのハゲさー」とでもいう麗しき友情であるのかと勘ぐってしまう。DA PUMPは今どき珍しく、仲が良さそうな印象を受けるのでそんな美談もまんざら間違っていないかもしれない。DA PUMPは急に沖縄回帰の色合いを見せ始めている。今日披露された曲のタイトルは『琉 STYLE』であり、オロナミンCのCMでも敢えて沖縄の方言を表に出している。オレンジレンジ・HY・BEGINなど沖縄出身アーティストがヒットを飛ばしている沖縄ブームであるということもあるだろうが、方言というのはどことなく世の女性の母性本能をくすぐりそうである。「あらあら、この子達は故郷想いなのね」と世の女性をキュンとさせているのではないか。これも計算のうちかもしれない。DA PUMPはゴッド姉ちゃんこと和田アキ子のお気に入りでもある。そして『紅白歌合戦』ではサブちゃんファミリーに混じってハッピ羽織ってワッショイワッショイやっているところを見ると、案外処世術に長けているのかもしれない。本格ヒップホップグループを目指すのであれば致命的であるかもしれないが、芸能界という荒波を乗り越えていくためには非常に賢明な選択である。今回のDA PUMPの歌のクレジットを見たら「words&music DA PUMP」となっていた。「おや、ついに富樫明生の手から離れたのか」と思い曲を聴いたら、さして以前の曲と変わらなかった。もはやm.c.A.Tの呪縛から逃れられないのかもしれない。恐るべしm.c.A.T。内田有紀とデュエットしていたのも今は昔。でも改めて思ったことは、DA PUMPは歌も踊りも上手いということ。どうしても色々なフィルターを通して見てしまいがちなグループではあるが、本格的な実力は兼ね備えていると思う。向上心と打算の間で揺れ動くDA PUMPの今後の動向に注目したい。
2003.12.08
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今日でNHKの大河ドラマ『武蔵』が終了したようだ。内容うんぬんよりも、スキャンダルやら低視聴率やらで前代未聞の注目を集めてしまった『武蔵』であるが、私は土日バイトのため1度も観たことがない。我が家は日曜8時は必ず大河ドラマを観る習慣があったのだが、今回の『武蔵』は早々にリタイアしたそうだ。年寄りには少々脂ぎっていたのかもしれない。私は基本的に梨園の人間があまり好きではない。というか梨園の人間が銀幕やブラウン管に現れることにちょっと抵抗がある。松本幸四郎くらいになると貫禄があっていいのだが、市川新之助・尾上菊之助・中村獅童・中村七之助あたりは最近やたらと歌舞伎以外のフィールドに進出している。別に芸の垣根を取っ払うことが悪いということではない。しかしどうも私は彼らから漂うエリート感みたいなものが好きじゃない。もちろん歌舞伎の世界も厳しいところであるから、彼らもかなりの苦労と努力を経験しているに違いないのだが、「歌舞伎役者だけど、色々挑戦してるんだぜ俺ら」という雰囲気がちょっと鼻につく。これはあくまで私の好き嫌いの問題であるので、彼らを否定すべきことではないだろう。そんなこんなで、梨園の役者とジャニーズタレントと西田敏行が蔓延している大河ドラマから遠ざかって久しい。もともと日本史に疎い私にとっては、1年間見続けるということはかなり難儀なことでもある。私が観ていた大河ドラマといったら『独眼竜政宗』『武田信玄』『八代将軍吉宗』くらいか。『独眼竜政宗』の渡辺謙は本当にカッコよかった。現在上映されている『ラスト・サムライ』でハリウッドデビューを果たした彼であるが、こんなにスケール感のある役者は今の日本にはそうそういない。逆を言うと、普通の役があまり似合わない役者でもある。『八代将軍吉宗』も思い出深い。この作品の後半は重厚な雰囲気に包まれていたが、吉宗の少年時代を描いた前半は割りとコミカルでライトな雰囲気だったように記憶している。大河ドラマというのは、ある歴史上の人物にスポットを当てて、その人物の一代記を描くというパターンが多い。『八代将軍吉宗』もご多分に漏れずそうであった。子役が演じていた吉宗が高熱に冒され、顔がパンパンに腫れてしまいミイラ男のように顔中包帯に包まれているシーンがあった。その包帯をジワジワとほどいていくのだが、幼かった私は「どんなひどい顔になっているんだ?」と『犬神家の一族』のスケキヨを観ているかのような戦々恐々とした気分になった。そして包帯をほどき終わって現れたのは西田敏行だった。大河ドラマは8時45分に終わるのだが、多分私は9時くらいまで笑い転げていたと思う。次の日、学校でも「昨日の大河観た?西田敏行がよ~」と笑いのタネにしまくった。ここでの吉宗の年齢設定は多分15歳くらいだったはず。西田敏行が10代を演じるなんて大河ドラマならではである。あんなアクが強いティーンエイジャーがいるか?いてたまるか。大河ドラマの1つの課題である「子役から大人の役者へのシフトチェンジ」をこんな荒業で成し遂げたNHKとジェームス三木に拍手を送りたい気持ちになった。いま観てみたい大河ドラマは橋田壽賀子脚本・三田佳子主演の『いのち』か。このドラマは大河にしては珍しく、近代モノである。そして人物描写に重きを置いていたらしい。これを観ながらウチの母親が毎回号泣していたのを覚えている。大河ドラマというのは、普段テレビで見ることができない重厚な役者たちの渋い芝居が堪能できる数少ない番組である。若者に媚びたようなキャスティングだけに終わらず、これからも年季の入った役者の滋味溢れる芝居を見せて欲しいものである。《「殿様が似合う役者」マイベスト3》1位 津川雅彦2位 江守徹3位 平幹二朗「殿様が似合う役者」ランキングであると同時に、「喀血シーンが似合う役者」ランキングでもある。
2003.12.07
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地元の駅から自転車が停めてある駐輪場までの間にブックオフがある。23時まで営業しているため、ついつい寄り道してしまうことが多い。今日もバイト帰りでヘトヘトに疲れているにも関わらず、ブックオフに寄り道してしまった。まず私がブックオフに入って向かう先は、『美味しんぼ』コーナーである。腹が減っている状況で『美味しんぼ』を読んで「あー、旨そー」と食欲中枢を刺激することで、帰宅してからの食事が数倍美味しく頂けるという算段である。その後、コミックコーナーを物色。私は基本的に、読んだことのあるマンガを読み直すことが多い。『寄生獣』→『ドラゴンヘッド』→『うしおととら』→『ブラックジャック』→『キャプテン翼』といった風に、既に味わった感動を反芻することに喜びを見出している。感動を求めて店内をフラフラとアメーバのように彷徨っている。今日は『ドラゴンボール』の愛蔵版があったので、心の中で小躍りしてしまった。流行していた当時は読んでいなかったのに、最近妙に読みたくなってしまったマンガが『ドラゴンボール』である。ブックオフは古本屋であるが故に、飛び飛びでの品揃えで「人造人間って何だ?フリーザはどうした?」といったようにストーリーもわからず読んでいるわけである。ブックオフのCDコーナーもなかなか面白い。最新のCDコーナーもいいのだが、250~750円コーナーが面白い。宇多田ヒカルのファーストアルバムやらGLAYやらジュディマリやらのCDがバナナの叩き売り状態で並んでいる。今日はこのコーナーで森脇健児のアルバムを発見。「うわ~聴いてみてぇ~」と思ったが、自分の部屋に置いておくと美観を損ねること間違いない。断念。っていうか森脇健児のCDを買った人がいるということに少なからず衝撃。今日は卒論の締め切りが迫っているというにも関わらず、3枚のCDを購入。○globe『CRUISE RECORD 1995-2000』(250円)○TRF『LOOP 1999』(250円)○NOKKO『colored』(250円)1枚250円だなんてレンタルするのと大して変わらない。3枚合わせて占めて787円(税込)。今日は150円のクーポン券を持っていたので630円である。破格なり。globeのCDは2枚組のベストアルバムである。『Feel Like dance』から始まり、2000年までの全シングル及びアルバム曲数曲で構成されている。globeはさほど好きというわけでもないのだが、私の青春時代に流行していた歌手の1つである。懐かしさが込み上げて来て、購入。TRFのこのCDは、後期TRFの作品である。小室から離れた後のTRFはどんな路線を歩んだのか興味に駆られ購入。NOKKOに関しては『人魚』が聴きたくなったので購入。『人魚』の作曲は筒美京平でプロデュースはテイ・トウワ(鄭東和名義)であったことが判明。意外な収穫である。10年前の楽曲であるが、いま聴いても名曲である。一時期、ブックオフで8cmシングルを買いあさっていた時期があった。WinkやらT-BORANやら電気GROOVEやら、懐かしいCDをまとめて10枚近く購入するという「大人買い」を実行していた。音楽というのは記憶と直結している。青春時代に流行っていた曲を聴くと、自然と当時のことが走馬灯のように思い出されてくる。そんなわけで懐かしい8cmCDを聴くことによって、ノスタルジックな感傷に浸れるわけである。過去を回想するにはまだ早いか。ところで、ブックオフには特有の汗臭い匂いが充満している。汗臭いといっても体育会系のそれとはちょっと異なる。さらにそれが雨の日だったりすると、店内に入った瞬間にもんどりうってしまいそうになる。あれはきっと「萌え~」な方々から発される「萌え~臭」であると私は断言する。そんな汗臭いブックオフで、安い時給で店内を走り回っているバイトの方々には感嘆する。鬱陶しいくらいの大声で「いらっしゃいますぇー」「あぁりがとうございまっしたー」と叫び、レジでは常に「お売りになっていただける本などございましたらぜひお持ちくださいませー」と笑顔。北朝鮮ばりに教育が行き届いている。プロフェッショナルである。店内に流れる清水国明のナレーションにも洗脳されかけている。「わたくし、ブックオフヘビーユーザーの清水国明です」と始まるたびに「知ってるよ」と心の中で思ってしまうのだが、もはやそのナレーションを一緒に言えるくらいまでになっている私がここにいる。きっと私は既に、ブックオフの強力な磁場によって狂わされているのだろう。
2003.12.06
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映画やテレビを観て涙を流すことはあっても、自分のことで最後に声を上げて泣いたのはいつだったか思い出せない。小さい頃は泣き虫だった私も、いろいろな経験をして「怒る」とか「泣く」など、感情を露わにすることが無くなった。というより「怒り方」や「泣き方」を忘れてしまった。「それは大人になったということなんだ」という割り切り方もできるが、それじゃ何だか淋しい。泣くことを忘れてしまった人ってのは意外と多いんじゃないかと思う。でも泣くことは精神衛生上、とてもいいことらしい。「泣きたいときに泣く」、それが人間らしい姿なのだろう。前置きが長くなったが、今日久しぶりにサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』を聴いた。この曲は中学生の頃に初めて聴いて、号泣した曲である。久しぶりに聴いても、ちょっとウルっとくる。要は「無償の愛」を歌った、とてもスケールの大きな曲である。 生きることに疲れはてみじめな気持ちで つい涙ぐんでしまう時 その涙は僕が乾かしてあげよう 僕はきみの見方だよ どんな辛いときでも 頼る友が見つからない時でも 荒れた海に架ける橋のように 僕はこの身を横たえよう こんな詞の歌である。以前友人に「男でも孤独を感じるときってあるの?」と聞かれたことがあるが、もちろんある。生きることに疲れることもしょっちゅうである。「若いくせに何を言っているんだ」と思う人もいるだろうが、若かろうが年老いていようが辛いときは辛い。そんな時にこの歌を聴くと、沁みてくる。「共感する」とか「元気づけられる」とかそういうことだけじゃなく、何というかこの曲の世界に身を委ねたくなるのだ。そして誰かが辛い状況に立たされているとき、自分を投げ出してでもその人を庇ってあげられる、そんな人間になりたいと思う。私は映画やテレビで泣くことは多いが、音楽を聴いて泣くということは意外と少ない。想像力が貧困なのかもしれない。そんな数少ない中でも、私が泣けた曲は○Cocco『風化風葬』○尾崎紀世彦『また逢う日まで』○ピチカート・ファイブ『悲しい歌』○ベット・ミドラー『The Rose』ベタと言えばベタだろうが、どれも素直に泣ける曲である。Coccoの『風化風葬』は「自分を忘れないでほしい」と歌っている曲である。ピチカート・ファイブの『悲しい歌』は、曲調こそ明るくポップだが、かつては愛し合っていた2人の別れの曲である。 「ごめんね 僕はきみのことあんなに愛してたのに」 「ごめんね だけどいつの日か みんな忘れるから」という詞がどうしようもなく悲しい。この2曲に共通するキーワードは「忘れる」ということである。ミスチルも『Tommorow never knows』の中で「人は悲しいくらい 忘れていく生き物」と歌っているが、「忘れる」ということは残酷なことでもある。もちろん忘れなきゃ前に進めないこともあるだろうが、「忘れる」または「忘れられる」ということはとても悲しいことである。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』も別れの曲である。サビの「2人でドアを閉めて 2人で名前消して」という歌詞が別れを象徴している。このように情景で迫ってくる歌にグッときてしまう。でも曲のなかで「別れのそのわけは話したくない」と歌っている。この詞がこの曲の全てを物語っているような気がしてならない。ベット・ミドラーの『The Rose』も超有名な名曲の1つである。この曲は今まで列挙してきた曲とはちょっと異なり、「未来への希望の歌」である。 あなたのいる暗闇があまりに孤独で 行く道は遠く 選ばれた強い人たちのために愛はあるのかと思えたとき きっと思い出して 冬のさなか 深い雪の下に眠っている種が春になれば 日の光を浴びて必ずバラの花を咲かせることをこの詞に自分を投影せずにはいられない。この曲は素直に「励まされる」と思える曲である。どうにもセンチメンタルで甘えた文章をつらつらと書いてしまった。ま、私にもこういう気分になることがあるってことで。
2003.12.05
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先日の『ベストヒット歌謡祭』に引き続き、ついつい見てしまった『FNS歌謡祭』。この不景気のご時世にも関わらず、新高輪プリンスホテル「飛天の間」から生中継というセレブ感バリバリの演出。「飛天の間」って確か『日本アカデミー賞』の会場にもなっていたのではなかったか。庶民の私にとってはどうあがいてもたどり着くことの出来ない雲の上の世界に見える。司会は楠田枝里子と川端健嗣(フジテレビアナウンサー)という、サイボーグペア。どっかの工場で大量生産されているのではないかと思うくらい機械じかけの司会を見せてくれていた。特に楠田枝里子はいつカメラを向けてもそつのない笑顔を浮かべている。一昔前の『ミュージックフェア』での古手川祐子ばりの能面司会。ある意味でプロフェッショナルである。去年のFNS歌謡祭では「おニャン子クラブ再結成」というイベントがあったが、今回は特に見所と言う見所はない。「SPEED再結成」ってのも「またか」という気がしてさほど魅力的でもない。「平井堅が坂本九とデュエット!」というのもちょっと白けた。平井堅の方向性がまったく見えない。曲順も、NEWS・上戸彩・後藤真希といったペーペーの若手から始まり、浜崎あゆみ・SMAPといった存在感たっぷりのカリスマ的歌手で幕を閉じるという、そつのない展開である。私は再結成したSPEEDから見始めた。気がついたらみんな大人になっていたSPEED。かつてはキンキンした高音の歌声がウリだったhiroもずいぶん大人びた声になっている。上原多香子は女優として活躍しているので、久しぶりにダンスを披露している多香子を見て、「ああ、そういえば多香子も昔は踊っていたんだな」と忘れかけていた記憶を呼び戻してくれた。仁絵ちゃん(彼女に関しては常にちゃん付け)はもはやネイティブな香り。黒人のパートナーがいてもおかしくないようなオーラを醸し出している。中指立てて「ジャップをファックしてやるわ」が決めゼリフ、そんなビッチなイメージ。張り切りすぎて常に空回りの今井絵理子には大して思い入れも無い。彼女はポスト浜崎あゆみの座を虎視眈々と狙っているのではないかと思われる。そんな風貌。そんなSPEEDのちょっぴり熟した『Body&Soul』は感慨深いものがあった。あんなにおぼこかった彼女たちも、それぞれの荒波に揉まれてスれて帰ってきた。思わず心の中で『木綿のハンカチーフ』を歌ってしまった。まるで故郷の肉親のような心境である。そして今回の1つの目玉でもあった女子十二楽坊の面々。中国の楽器の音色に魂を揺さぶられることのない私にとっては、どうでもいいっちゃどうでもいい。私の姉が「こないだ新宿で、中国人っぽい女の人たちが楽器らしきものを持っているのを見た」と言っていた。「もしかして女子十二楽坊!?」と思ったらしいが、それを確認するすべが無かったらしい。そりゃそうだ。常に12人で行動しているわけじゃないだろうから。曲の前に、これから登場するアーティストが何組か集まって司会の2人とトークを繰り広げるコーナーがある。そこでの楠田枝里子のコメント、「続いてはSPEEDの皆さん、ケミストリー、島谷ひとみさん、そしてくずのみなさんで~す!」これが一番笑った。揃いも揃ってクズ歌手みたいじゃないか。くずの2人の紹介をラストに持ってきたのが良くなかったのではないかと私は思う。もう1つ、面白かったのは安室奈美恵・松浦亜弥・BoAの3ショット。やさぐれ気味の安室にアホ衣装の松浦、優等生っぽいBoAという3ショットが「良い子悪い子普通の子」みたいだった。特に安室の隣に松浦亜弥を持ってきたのがまずかった。男に振られ全てを投げ打っているような安室の隣に「今回の衣装は~、こっち側がキュートでこっち側がセクシーなんです~」と言うブリブリの松浦。安室の表情は「そんなんどっちだっていいわよ」とでも言っているかのように冷めきっていた。常に笑顔のBoAが一番まともそうだった。日本の音楽界で最も妥当なラインを歩んでいるのが韓国人だというのも皮肉な話である。今回の『FNS歌謡祭』で気になったのは、「楠田枝里子はいったい何回お色直しをしたのか」ということ。彼女が歌手の衣装に対して「まぁ~素敵なお召し物!」と言うたびに「アンタの衣装のほうが凄いよ」と憤死しかけた人が日本中で何万人かいたことであろう。 「パンが無ければお菓子を食べればいいんじゃない?」そんなマリー・アントワネットのようなセリフが似合いそうな楠田枝里子さん。
2003.12.04
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昨日の日記で、私が通っていた幼稚園の園歌に「ちんちんもがもが」という歌詞があって、それが性的サブリミナルだったのではないかと書いた。その後、気になって辞書で調べてみたらちゃんと載っていた。「ちんちんもがもが」とは「片足でとんで歩くこと(遊戯)」ですって。つまり、けんけんのことである。不勉強で大変失礼致しました。そして我が母園にも失礼致しました。掲示板のほうに、Andrejsさんとゆゆゆうくんが「ちんちんかもかも」について言及してくださったのだが、これは「男女がむつまじく語らっている様子」のことである。日本語って不思議である。どうしてけんけんのことが「ちんちんもがもが」で、男女が仲睦まじいことが「ちんちんかもかも」なのか。ちなみに「恐怖・心配のために興奮している」様子をさす言葉で「ろりろり」というのもあるらしい。「ちんちんかもかもな2人がろりろり気味にちんちんもがもがしている」という文も多少強引ではあるが成立するわけである。「ちんちんかもかも」という言葉をぜひ流行らせたい。「なんだよあのカップル、こんなとこでちんちんかもかもしてんじゃねえよ」とか「あらあら、ちんちんかもかもな若い2人が羨ましいわ」とか。略して「ちんかも」なんてのも可愛くらしくていいかもしれない。渋谷のセンター街あたりで「ちんかも」という言葉が流行することを期待する。
2003.12.03
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なんとなく、あくまでなんとなくNHK教育テレビの『おかあさんといっしょ』のホームページを見てみた。私にとっては『おかあさんといっしょ』といえば、じゃじゃ丸・ぴっころ・ぽろりであったが、キャラが総変わりしたらしく、スプー・ジャコビ・アネム・ズズ・ガタラットという何の動物をモチーフにしているのかもわからないキャラクターになっていた。色合いもサイケで、セサミストリートの影響が色濃くうかがえる。ああ、あの薄汚れたじゃじゃ丸・ぴっころ・ぽろりが懐かしい。この『おかあさんといっしょ』のホームページには「こんげつのうた」というコーナーがあり、今月は『おすしのピクニック』という歌らしい。寿司ネタがこぞってピクニックに出かけるというなかなかアバンギャルドな歌である。「ぼくはおすしのご・は・ん ちいさなちからもち」と始まるところからして、この歌の主人公は寿司のシャリであるらしい。マグロ・カツオ・ヒラメ・イカ・エビ・タマゴといった握り系のネタを「おんぶ組」と称し、カテゴライズしている。「おっとエビさん しっぽがでてるよ」「タマゴさん おちないでね ウへー」なるほど、社会の枠組みから外れることはよくないということを言いたいのであろうか。タマゴはすでにドロップアウト直前ということか。ネタの中でも圧倒的にタマゴは下位と見なされているようだ。「ウへー」というタマゴの叫びが社会で生きていくことの難しさを物語っているかのようだ。きゅうり・納豆・梅・おしんこといった面々は「海苔に巻かれる」ということで「だっこ組」とひとくくりにされている。「あーら あとからゴボウにシイタケ まとめてふとまきかしら ウヒャー」なるほど、ゴボウにシイタケというのはイマイチ子供たちに人気のない具材である。そして梅や納豆と比べ、寿司の具材として1種類のみでは成立しにくいものである。「個性が突出していないものはセグメントされる」ということが言いたいのであろうか。ここでもゴボウやシイタケの「ウヒャー」という悲鳴が哀しく響く。「寿司ネタがこぞってピクニックに行く」ということに必然性を求めてはいけない。「寿司」というカテゴリーの中に社会性を見出し、その社会の中で生きていくことの難しさを歌った歌なのだろう。この歌は「寿司」というユーモラスな題材をモチーフにしながらも、そこには「人間社会の厳しさ」が見え隠れしている。子供の頃からそれをサブリミナル的に刷り込んでいるのだろう。恐るべし、「おかあさんといっしょ」。私が通っていた幼稚園にも園歌なるものがあった。その歌の中に「ちんちん もがもが 石けりチョン」という、子供ながらにもどうにも解せない歌詞があった。「ちんちん」を「もがもが」だなんて!たとえ「ちんちん」が擬音のアクセントとして歌詞に組み込まれているとしても「もがもが」は一体なんなんだ。今考えると、やはり性的サブリミナルだったのだろうか。未だに当時の友人と「あの歌詞おかしいよね」と語り合っている。大人になると、汚い部分というか見たくない部分が見えてきて困る。考えすぎ?
2003.12.02
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芸能界というところは「まさかこんなことになるなんて…」という意外性に満ちている。dosにおける勝ち組が実はKABAちゃんだったなんて誰が想像したであろう。そんな芸能界の中でも「まさかこんなことになるなんて…」と思わせられるのが安室奈美恵である。一時期のギャルカリスマの座を浜崎あゆみに取って奪われた彼女には、当時の威光はほとんどない。10代前半で沖縄から単身上京→地黒なガールズユニット・超猿軍団(スーパーモンキーズ)の一員としてデビューするも泣かず飛ばず→ドラマやバラエティに果敢にトライし知名度を高めたところで、起死回生の一発『TRY ME~私を信じて~』が大ヒット。下積み期を経て大ヒットまで至ったとき、彼女はそれでもまだ18歳であった。その後、もはやバックダンサーと化していた超猿軍団をかなぐり捨て、『Body Feels EXIT』で小室ファミリーに加入。ここから安室バブル期に突入する。出す曲出す曲ミリオンヒットをかまし、『CAN YOU CELEBRATE?』に至ってはダブルミリオンだかトリプルミリオンだか、とにかく凄い量をさばいたわけである。その後、20歳にして唐突にTRFのSAMとできちゃった結婚を発表。育児休暇を取り、紅白歌合戦で復帰。そこで『CAN YOU CELEBRATE?』を歌った彼女は、会場の「おかえり~」コールに涙。この紅白で大トリだった和田アキ子は「この雰囲気じゃ大トリのアタシの立場がないわ」と思ったのか、突如地声で歌いだすというハプニングも起こる。そんなこんなで順風満帆だった彼女のライフストーリーは、「母親が親戚に殺される」という俄かに信じがたいトラブルに見舞われる。世間の同情と注目を一心に浴びながらも気丈に振舞う彼女の姿はやはり痛々しかった。そして彼女のカリスマ的な地位が失墜したのは「離婚」ではなかったか。「本腰入れて歌を歌いたい」という彼女は、ダンナよりも息子よりも歌を選択したのである。世間の女性から「仕事も育児も両立して偉い」というコンセンサスを得ていた彼女のイメージは、離婚によってマイナスイメージへと転換してしまった。その後、発表された曲はアメリカの本場R&Bを意識したような作りで、一般大衆には少々とっつきにくい内容になっておりセールスも失速。現在は同じエイベックスの浜崎あゆみに大きく水をあけられている状態である。しかし彼女の歌とダンスには、なんというかプロとしてのコクが滲んでいるように思える。いっても彼女はまだ26歳である。普通の26歳と人生経験を比較したら、ハンパじゃなく波乱万丈の人生である。「熱愛」とか「不倫」などの芸能人のスキャンダルというのは、一般社会に置き換えれば大したレベルの話ではない。しかし彼女はそんなレベルを超越した人生を経て現在に至っている。そんな「影」の部分が歌とダンスに現れ、えもいわれぬ効果を生み出している。離婚した直後、SAMは浜崎あゆみから熱烈アプローチを受け安室の元を去った。一緒にユニットを結成していたZEEBRAも気づいたらBoAの元に走っていた。このZEEBRAとBoAのユニットと一緒に『ミュージックステーション』に出演した安室奈美恵の目がどことなく淋しげだったのが印象的だった。「アンタもやっぱり若い女がいいのね」とでも言っているかのように。テレビで見るだけの私にも、安室奈美恵には「孤独」を感じる。結局彼女は「気がついたら独り」になっていた。多感な青春時代を毒にまみれた芸能界で過ごした彼女には友達も少ないようだ。「孤独」という要素は時に「凄み」に変容する。彼女のCDのジャケット写真は最近とみに凄みが増してきた。挑戦的にカメラを睨む彼女の視線には、声にならない叫びのようなものが感じられるのは私だけであろうか。私はこの文章を打つときに「安室」という苗字が一発変換できないために、いったん「霊安室」と打って「霊」を消している。それもなんだか不吉というか薄幸感に拍車をかけている。名前が持つ言霊が安室奈美恵に陰を落としているのかもしれない。彼女はなんというかカルマのようなものを背負いながら歌っているように思える。それが聴く人によってはとても魅力的である。早くに成熟してしまった安室奈美恵の旬は過ぎてしまったような風潮ではあるが、果物でも腐って地に落ちる直前が一番旨いと言う。売れる売れないは別として、安室奈美恵の旬はきっとまたやってくる。それを見逃さないように目を凝らしている次第である。
2003.12.01
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