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福島第一原発の事故によって放射性物質が大量に放出され、長期にわたって居住できない地域もできている。数年後から人間の健康、いや生態系に深刻な結果をもたらすと予測されている地域は数十キロメートルの範囲に及んでいるだろう。海に流れ出た放射性物質も膨大で、近い将来、外国から損害賠償を請求される可能性が高いとも言われている。 そうした深刻な状況を一貫して隠し、嘘をつき続けてきたのが日本政府であり、東京電力。そこから出される「安全デマ」を垂れ流してきたのがテレビや新聞といった「権威ある」マスコミである。 しかし、インターネットの時代である現代にはマスコミを必要としない情報の流れが存在する。そうしたルートから信頼できるのはフリーランスや外国のメディアだと知った人も少なくないようだ。 外国メディアのひとつ、ドイツのZDFが農作物の放射能汚染をテーマにした番組を製作、その映像に誰かが日本語訳をつけてYouTubeにアップしたことから話題になったのだが、その映像を福島中央テレビが「著作権」を理由にして削除しまくり、それがまた話題になっている。その理由になったのは3号機が大爆発する場面なのだが、この番組では意味のない映像だ。 Twitter上では「福島中央テレビ スタッフ情報」が事情を説明している。それによると「話題になっているドイツのテレビ局の原発爆発動画ですが、無許可で使用されています。正式に抗議もしています。」 (福島中央テレビが削除した番組は放射性物質の農産物への汚染をテーマにしたものであり、「原発爆発動画」という表現は正しくない。) さらに「無断で映像を使用したドイツのテレビ局にではなく、無断で使用され、さらに改ざんされているテレビ局に抗議が多いのは不思議です」とも書いているのだが、本気でそう思っているなら、報道に携わるものとして必要な感性を失っているとしか言いようがない。 少なからぬ日本人は政府や東電が事実を隠し、マスコミを使って嘘を広めてきたことに気づいている。庶民の命を軽んじていると思っている。怨念を抱いている。 福島中央テレビが批判されるのは、福島中央テレビもほかの日本のマスコミと同じように、メディアとしてしなければならない仕事をしてこなかったと思われているからである。日本のタブーを無視して事実に迫ろうとする番組の映像を削除する前に、メディアとしてなすべきことをしろという怒りを人びとが持つのは自然なことである。 勿論、著作権は守らなければならない。しかし、その前にメディアとしてなすべきことをしてこなかった自分たちの行動を反省するべきである。
2011.08.31
1983年8月31日18時26分(グリニッジ標準時、日本時間9月1日3時26分)、大韓航空の旅客機KAL007がサハリン上空でミサイル攻撃を受けて撃墜されたと言われている。実際のところ、公表されている情報には疑問点も多く、ソ連領空で何が起こったのかは明らかでない。 その3年前、1980年11月にアメリカでは大統領選挙が実施され、核戦争を妄想するキリスト教系カルトの信者、ロナルド・レーガンが現職のジミー・カーターを破って次期大統領に選ばれている。その後の数年間、世界の軍事的な緊張は極度に高まっていた。 ただ、軍事的な緊張を高める動きはカーター政権のときに始まっていると言える。そうした動きの中心にいた人物がポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキー大統領補佐官。アフガニスタンから中央アジアにかけての地域がユーラシア支配の鍵を握っていると分析、この地域を制圧しようと考えていた人物だ。 そこで利用された概念が「危機の弧」。ソ連が南下してくるというシナリオだが、実際には南からソ連に圧力を加えていた。その手先に使われたのがイスラムの狂信的な武装グループだ。 カーターが大統領に就任した翌年、つまり1978年にCIAはアフガニスタンに揺さぶりをかけ始めている。そのとき、CIAの工作に協力していたのがイラン王制の秘密警察SAVAKだ。この年、大韓航空902便がソ連領空を侵犯している。 1979年3月にアフガニスタンのモハメド・タラキ大統領はソ連政府に軍隊の派遣を要請するのだが、アレクセイ・コスイギン首相は戦争の泥沼化を恐れ、断わっている。 そうしたソ連を挑発していたのがイラン。この月、つまり1979年3月にはイランの支援を受けたアフガニスタンの勢力がイランとの国境に近い町で多くの政府高官やソ連人顧問を殺害、その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になっている。 このとき、イランに国王はすでにいない。1月に王妃と一緒に国外へ脱出、2月にはフランスからアヤトラ・ホメイニが帰国していた。つまり、イスラム革命後のイランもアメリカのアフガニスタン攻撃に加担している。 4月になると、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始、5月にはCIAイスタンブール支局長がアフガニスタンのリーダーたちと会談、その会談相手を選んだはパキスタンの情報機関ISIだった。ISIが選んだ相手は麻薬業者でもあるグルブディン・ヘクマチアルだ。 7月にカーター大統領はアフガニスタンの武装勢力への秘密支援を承認、9月にはハフィズラ・アミンがタラキを暗殺、KGB(ソ連国家安全保障委員会)はアミンとCIAとの関係を疑った。そして11月には特殊部隊の「ジー・グループ」をアフガニスタンの首都に派遣し、12月には対テロ特殊部隊「アルファ」を投入、そしてソ連軍の機甲部隊が侵攻してくるわけである。 その後、CIAは爆弾製造や破壊工作の方法をアフガニスタンの武装グループに伝授、都市ゲリラ戦訓練なども実施した。オサマ・ビン・ラディンや彼の部下もそうした訓練を受けた一部だとされている。 カーター大統領がアフガニスタンでの秘密支援工作を承認したころ、エルサレムではアメリカとイスラエルの情報関係者が集まって「国際テロリズム」について話し合っているのだが、その席上、レイ・クライン元CIA副長官は「テロ」をソ連政府の陰謀だと主張している。つまり「テロ」の黒幕はソ連であり、ソ連を倒せば「テロ」はなくなるというわけだ。 この会議にはアーノウド・ド・ボルクグラーブやクレア・スターリングという「ジャーナリスト」も参加、その後、反カーター/反ソ連キャンペーンの中心的な存在になる。スターリンと一緒にキャンペーンを展開したのがポール・ヘンツェとマイケル・リディーン。ヘンツェはブレジンスキーの影響下にあるCIAの「元幹部」で、プロパガンダの専門家。またリディーンはイスラエルと関係が深く、ネオコンとも一心同体の関係にある。 1983年8月31日から9月1日にかけて、大韓航空007便は航路を大幅に逸脱、アメリカが定めている緩衝空域や飛行禁止空域を横切り、カムチャツカ半島とサハリンを横断、その際、ソ連の重要な軍事施設の上空を飛行している。この直後、アメリカとソ連は全面核戦争の一歩手前まで進んでいる。 ところで、緩衝空域に航空機に入り、飛行禁止空域へ侵入しそうな場合、NORAD(北米航空宇宙防衛軍)には当該機へ即座に呼びかけ、近くのFAA(連邦航空局)へ知らせる義務があるのだが、何もしていない。NORADの担当官が怠慢でレーダーを見ていなかったか、飛行禁止空域への侵入が許されていたかということになるだろう。 この当時、アメリカ軍の内部では1960年代前半に作成された秘密計画が話題になっていた。「ノースウッズ作戦」である。アメリカをキューバへの軍事介入に導き、あわよくばソ連との全面戦争を実現しようとした好戦派の計画だ。 この計画は事前にジョン・F・ケネディ大統領に漏れたようで、計画の中心にいたライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長は再任が拒否され、NATO軍の最高司令官にされている。つまり、ヨーロッパへ飛ばされた。 ちなみに、このレムニッツァーは1955年から57年にかけて、琉球民政長官を務めている。
2011.08.31
リビアの内戦はNATOと反政府派との連合軍が勝利を手中にしたと見られているが、早くも「カダフィ後」をめぐる対立も表面化してきた。フランスやイギリスが軍事介入した「本音」と「建前」の矛盾が吹き出し始めたと言えるかもしれない。 本音の核心部分には利権がある。リビアの石油だけでなく、アフリカ中南部の資源も争いの種になっている。「民主化運動の勝利」などという宣伝とは全く違う現実がそこにはある。 最近になって明らかにされた国連の計画によると、6カ月から9カ月の間に選挙を実施することになっていて、リビアと国連安全保障理事会の承認を条件に200名の非武装軍事オブザーバーと190名の警察官を国連が派遣するなど、国連が中心になって新体制へ移行するシナリオ。治安を維持する責任をNATO軍は果たすともしている。 しかし、すんなりと新しい体制に移行すると考えるのは楽観的すぎる。リビアの反政府軍は貧弱で「寄り合い所帯」。反政府軍がアフリカ中南部出身者を敵視していることも問題を複雑にしている。 本ブログでは何度も書いているが、フランスやイギリスがムアンマル・アル・カダフィ政権を嫌った大きな理由のひとつは、アフリカ中南部を欧米から自立させようとしていたことにある。そこに中国が食い込んできたこともあり、欧米の巨大資本は危機感を持っていたはずだ。 国民評議会はカダフィ政権がアフリカ諸国から傭兵を雇っているという話を宣伝、それを「西側」のメディアは垂れ流していたが、今のところこれは「未確認情報」にすぎない。トリポリ攻防戦の頃から反政府軍はアフリカ中南部の出身者を無差別に拘束、殺害しはじめている。 傭兵だという理由らしいが、その大半は普通の労働者だと言われている。AU(アフリカ連合)のジャン・イング委員長によると、仕事を求めてリビアへ渡った労働者はここ数年で数万人になるとしている。こうした人びとが殺されつつあると懸念されているのだ。こうした殺戮を問題にして、AUは国民評議会を暫定政権と認めない方針のようである。 実は、別のシナリオも存在する。反政府勢力とNATOが作成したリビア支配プランが8月上旬に露見したものだが、それによると、ムアンマル・アル・カダフィの治安機関をそのまま使うことになっていた。カダフィ派から反カダフィ派へ乗り換えさせるため、裏取引きがあったようだ。イラクでの経験も反映されているのだろう。要するに、戦後、アメリカが日本で戦前の支配システムを残したのと似ている。 そのプランによると、カダフィ政権で治安機関に所属する約800名を秘密裏に懐柔、カダフィ軍の内部にも反政府派の支持者は3255名いるとしている。また、新体制に移行した後、カダフィ政権の警官約5000名を雇うとしている。この主張にどれだけ信憑性があるのかは不明だが、そうした動きがあることは確かなようで、それに対する反発も出始めている。 西側メディアの宣伝とは違って反政府派は貧弱で、6月頃までの「革命軍」は1000名程度の規模にすぎず、NATOが傭兵を集めて形を作ったわけである。カタールやアラブ首長国連邦で雇われたほか、チュニジアの失業者やカダフィ体制に不満を持つリビア人、あるいはコロンビアで死の部隊に所属して人間も含まれている。体制転覆の主役はイギリスを中心としたNATO軍だ 8月上旬にリークされた文書によると、NATOと反政府勢力の計画では、首都や主要施設の警備やカダフィ政権幹部の逮捕を目的として1万から1万5000名の兵士をアラブ首長国連邦が提供することになっていた。反政府勢力は貧弱なうえ内部に対立の芽が存在、しかもアル・カイダを抱え込んでいる。湾岸の独裁産油国に頼るか、さもなければNATO軍に地上軍を派遣してもらうしかないのだろう。
2011.08.30
3月11日14時46分、東北地方の太平洋側で巨大地震が発生、福島第一原発で深刻な事故が起こった。15時27分に津波の第1波に原発は襲われているのだが、その前に圧力容器内の圧力が急上昇していることは間違いない。そうした事態を受けてA系とB系、ふたつの非常用冷却装置が起動したのだが、それを人為的に止めたことを問題にしている人が少なくないようだ。 この冷却装置とは、圧力容器から蒸気をパイプで非常用復水器へ導き、そこで水に戻して圧力容器に戻すという仕組みだが、その水を運ぶパイプがつながっている先は、再循環ポンプと圧力容器をつなぐパイプだ。地震に弱いと指摘されていた部分である。 ふたつの冷却装置が最初に起動したのは14時52分。11分動いたところ人為的に止められている。18時10分に再び起動するのだが、このときはA系だけが動いている。このときは15分で止められた。そして最後に開いたのが21時30分だが、このときも動いたのはA系だけである。(このときの状況に関する詳しい分析を田中三彦さんが行っているので、興味がある方は是非、御覧ください。) もしこの冷却システムを止めなければメルトダウンしなかったかのように主張する人もいる。どうやら、地震によって原発が損傷しているということを余り考慮していないように思える。例えば、地震で再循環ポンプと圧力容器をつなぐパイプが破損していたような場合、非常用冷却装置を動かし続けたならば、すぐに水がなくなってしまう可能性があるだろう。2度目からは片方しか動かしていないが、その理由もその辺にあるかもしれない。 冷却装置を止めなければメルトダウンしなかったとする話は、地震で装置が大きく損傷した事実を隠すために流されているのではないかと勘ぐってしまう。 ECCS(非常用炉心冷却装置)の中の冷却系の蒸発システムが取り外されていたという話も、中性子の照射で圧力容器が脆化し、ECCSを動かしたら一気に容器が破壊されると判断した可能性もあるのではないだろうか?
2011.08.29
ふと思い出したことがある。原子炉を撮影しているはずのカメラのことだ。 福島第一原発で深刻な事故が起こっていることは間違いないが、具体的に1号機から4号機の状態がどうなっているのかは明らかになっていない。わずかに東電や政府から知らされる怪しげなデータ、あるいは外部の汚染状況などから内部の様子を推測しているにすぎないわけだが、カメラが機能していれば、事故の状況はかなり把握できたはずである。 原子力発電所が攻撃のターゲットになることは昔から指摘されていた。海岸線に原発を並べている日本は外部からの攻撃、外国からの侵略を想定していないということなのだが、それでも警備は必要だと考えたのか、イスラエルのマグナBSPと契約、1年前にセキュリティ・システムを設置、特殊なカメラもセットしていた。この会社については事故の直後、インターネット上では話題になっていたので、覚えている人も少なくないだろう。 同社のカメラは放射能汚染の状況も把握する能力があるようで、ロボットを入れて撮影させる必要がなかった可能性もある。ともかく、早い段階から映像を入手していれば対策をたてるうえで参考になったことは間違いない。東電は建屋内部の状況を正確に把握していたのではないだろうか? ハーレツ紙によると、マグナBSPが設立されたのは10年前で、拠点はディモナ。事故後も同社は何人かを現地に残していたとハイム・シボニCEOは語っていた。
2011.08.28
マスコミが触れようとしないテーマは原子力だけに限らない。政治、経済、軍事、国際情勢、全ての分野においてタブーがある。原子力だけが特別だと考えるべきではないということだ。 例えば、アメリカを中心とする国がイラクへ軍事侵攻する直前も日本のマスコミは事実を明らかにしようとする人、そうした事実が発覚する原因を作りそうな人を攻撃、多くの日本人もそうした攻撃に加わっていた。現在進行中のリビアやシリアでの内戦でも似たような現象が起こっている。 リビア情勢の概要は本ブログで何度も書いてきたことだが、「民主化」でリビアの庶民は喜んでいる、などという状況ではない。首都トリポリへの攻撃が始まる直前、政府派と反政府派、双方が拘束していた人間を処刑しているとする話も伝わっている。反カダフィ派は「カダフィ派」に思える人びとに対する「報復」を始めているとも日本の外では報道されている。 とにかく、リビアでは血生臭いことになっている。反政府軍はアフリカ中南部系と思える人間を傭兵だとして拘束、処刑しているようだが、実際は出稼ぎ労働者である可能性が高いとされている。 事実上、反政府軍を編成したのはイギリスだと言われているが、その中にはコロンビアの元「死の部隊」隊員、カタールやアラブ首長国連邦の人間、チュニジアの失業者やカダフィ体制に不満を持っていたリビア人が加わっているという。 反政府軍にはアル・カイダと親密な関係にあるLIFG(リビア・イスラム戦闘団)が参加していることも日本では無視されているようだ。グアンタナモ収容所でアメリカが拘束していた武装勢力のメンバーがリビアの反政府派に合流しているとも伝えられている。少なくともイギリスはムアンマル・アル・カダフィの体制を転覆させすため、アル・カイダと手を組んだのである。 リビアではカダフィ派が保有していた武器が大量に行方不明で、反政府派の「政府派狩り」が続くと激しく反撃してくる可能性がある。イギリス、アメリカ、フランス、湾岸産油国、あるいはアル・カイダとつながるさまざまな勢力の寄せ集めにすぎない反政府軍の「内ゲバ」も予想されるだけに、リビアがこのまま安定に向かうと考えるのは楽観的すぎる。 また、リビアの石油利権をめぐる争奪戦が始まっていること、あるいはアフリカ中南部の自立問題も日本では無視されているようだ。カダフィはアフリカ中南部の国々を支援、欧米の支配から抜け出す手助けをしていた。このことを無視してリビア内戦を理解することはできないだろう。 南アフリカのヤコブ・ズマ大統領はAU(アフリカ連合)が反カダフィ派政権を承認しないと発言しているが、これはAUの総意だと言って構わないだろう。そうした意志の背景にはリビアとの友好的な関係、イギリスをはじめとする欧米諸国との歴史的な敵対的関係がある。
2011.08.28
福島第一原発について日本の政府やマスコミが描いている状況を否定する情報が外国から伝えられ続けている。福島原発の敷地から1マイル以上(約2キロメートル)の場所で見つかった核燃料棒の破片は原子炉の内部からのものだとアメリカのNRC(原子力規制委員会)のスタッフは推測していることが明らかになった。 つまり、見つかった燃料棒の破片の核種を調査した結果、使用済み核燃料保管プールではなく原子炉内部から放出された可能性が高いというわけだ。プールがダメージを受けていないように見えることとも合致すると考えている。 NRCが会議を行った直後、8月1日に東京電力は1、2号機建屋西側の排気筒下部にある配管の付近で1万ミリシーベルト以上(つまり実際の数値は不明)の放射線量を計測したと発表、2日には1号機建屋2階の空調機室で5000ミリシーベル以上(前に同じ)を計測したことを明らかにしている。この排気筒を通って燃料棒の破片が飛び散った可能性もあるだろう。そうでなければ、圧力容器と格納容器が破壊されているということになってしまう。 なお、この情報に関しては、エネルギー関連のコンサルタント会社、フェアーウィンズ・アソシエイツ社で主任エンジニアを務めているアーニー・ガンダーセンさんが興味深い解説をしている。この発言の日本語訳付きもアップされている。新情報に基づく解説もある。 建屋の下で地割れが起き、放射性物質で汚染された蒸気が裂け目から噴出しているという報道に関し、ガンダーセンさんは情報不足でコメントできないとしているが、炉心が溶融して圧力容器を突き抜けて格納容器に落下している可能性があることは原子力安全・保安院も認めている。 そうなれば溶融物は床のコンクリートと反応しながら下へ向かい、鋼の壁を抜け、その下のコンクリートへと進んでいくと考えるの自然。運良く途中で止まらなければ地中へ移動し、地中、海中の汚染がひどくなる。コンクリートの中にあるとしても、地震で多くのひび割れができている可能性が高く、そこから汚染は進んでいるだろうが、地中へ移動すればさらに事態は深刻になる。 ガンダーセンさんは放射性物質に汚染された瓦礫を焼却しようとしている日本政府の方針も汚染を拡大させると厳しく批判しているが、全く同感である。かつて化学物質の汚染が問題になったときと同じことを官僚は行おうとしている。言語道断である。
2011.08.27
アメリカをはじめとする「西側」の政府が「人道」や「民主化」といった言葉を口にするのを聞いたなら、その先には殺戮と破壊が待っていると覚悟する必要がある。リビアでもそうしたことが起こっている。 反政府軍はアフリカ系の人間を拘束し、数十人を処刑しているようだが、その大半は労働者だったと見られている。ムアンマル・アル・カダフィ政権がアフリカ中南部から傭兵を雇い入れているという未確認情報が広がり、多くの労働者が殺された可能性がある。 政府軍による市民殺害を防ぐという名目で、市民を守るために「あらゆる必要な措置」を認めると国連の安全保障理事会が採択したのは3月17日のこと。当初、ロバート・ゲーツ米国防長官は「飛行禁止空域」を設定すれば戦争につながると警告していたのだが、押し切られた形だ。ちなみに、賛成国はアメリカ、イギリス、フランス、レバノン、南アフリカ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コロンビア、ポルトガル、ナイジェリア、ガボンの10カ国、中国、ロシア、ブラジル、インド、ドイツの5カ国は棄権した。 ゲーツ長官が予想したように、飛行禁止空域の設定はすぐに本格的な軍事介入に発展した。武器の提供や兵士の訓練だけでなく、傭兵部隊の編成して作戦計画の作成、さらに特殊部隊の兵士が地上戦にも参加しているようだ。リビアの内戦はイギリスを中心とする外国軍による侵略へと姿を変えている。 アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権は嘘でアフガニスタンやイラクに軍事侵攻したが、今回はイギリスやフランスが嘘でリビアを侵略したと言える。 主役であるはずの「反政府軍」の実態もイギリス、フランス、アメリカ、湾岸の独裁産油国などの軍隊、NATOが集めた傭兵、そしてアル・カイダの混成。リビアの混乱はこれからが本番かもしれない。
2011.08.26
NATO軍、つまりイギリスを中心とする侵攻軍はリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制を崩壊させることに成功、石油利権をめぐって「西側」企業の動きが活発化しているようだが、まだ戦闘は続き、フランスとイギリスの間で主導権争いが演じられているようにも見える。 イタリアのジャーナリスト、フランコ・ベキスによると、リビアの内乱は儀典局長を務めていたノウリ・メスマリが昨年10月にパリへ亡命したところから始まるのだが、途中から主役はイギリスへ移っている。 そうした主役の交代を象徴するような出来事が7月の終わりに起こっている。反政府軍の司令官を務めていたリビアの元内相、アブデル・ファター・ユニスが暗殺されたのである。その直前、暫定国民評議会の内部で解任劇があり、ユニスも粛清されていた。 暗殺時にユニスは逮捕されていたのだが、誰が逮捕を命じたのかは明らかでない。この人物はフランスのエージェントだったとも言われているのだが、内乱劇の序章がパリで始まったことを考えれば、納得できる。 こうしたフランスの動きをイギリスは座視していなかった。実際に内乱が始まった直後の3月2日、イギリスは2名のMI6(対外情報機関/正式にはSIS)オフィサーと6名のSAS(特殊部隊)隊員で編成されたチームをヘリコプターでリビア東部へ潜入させていたが、その後もイギリスは工作を続け、SASの隊員がリビアに潜入して活動していた可能性があると、5月31日付のデイリー・メール紙は伝えている。 ユニスを暗殺したのはムスリム同胞団だと信じられているのだが、この組織が創設される際、スエズ運河会社から資金が出ていることは本ブログでも指摘してきた。暗殺の内幕は不明だが、少なくとも表面的にはフランス系の要人がイギリス系の組織に消されたと見える。 この解任劇のころからイギリスはトリポリ攻略作戦の準備を始めていたようで、数週間をかけて武器、通信機器、そして精鋭部隊をトリポリに送り込み、首都攻撃作戦も最終的にはMI6が作り上げ、さまざまなアドバイスをしていたという。そして、蜂起の合図は評議会のムスタファ・アブド・アル・ジャリルがテレビで行ったスピーチだったとされている。 精密誘導爆弾のペイブウェイ IVやトルネードGR4戦闘機によってイギリス空軍がカダフィ軍を攻撃する中、傭兵で固めた反政府軍が首都に突入している。その際、イギリス側は通信系統を破壊するだけでなく、メディアを使って偽情報を流し、リビア国民だけでなく世界の人びとを混乱させようとしていた。 イギリスは8月中に首都を攻略したかったので積極的に動いたという話もあるが、それはともかく、カダフィ政権を倒したのはイギリスを中心とする外国の勢力だということは間違いない。つまり、NATO軍(イギリス軍)は今後、治安維持のために地上軍を派遣しなければならず、簡単に引き上げることもできないということになる。現在、アラブ風の服を着たSASの隊員がカダフィ狩りをしているようだが、それでカダフィ派を完全に押さえ込めるかどうか疑問だ。 しかも、現在、反政府軍にはアル・カイダと親密な関係にあるLIFG(リビア・イスラム戦闘団)が存在している。状況によっては、リビアがアル・カイダ化しないとも限らない。姿を消しているカダフィ派がゲリラ戦を始める可能性もある。石油利権に浮かれていられる状況だとは思えない。イギリスにとってはリビア国内よりアフリカ中南部の利権が問題なのかもしれないが。
2011.08.26
言うまでもなく、マスコミは原子力以外の問題でも「大本営発表」を続けてきた。福島第一原発の事故でそうしたプロパガンダ機関的な体質が露呈して批判され、少しは慌てたようだが、体質が変わったわけではない。国外情勢の場合、読者/視聴者の目が厳しくないこともあり、露骨なプロパガンダを続けている。事実を隠し、怪しげな情報を流しているということだ。 リビア内乱のきっかけを作ったのはフランスであり、トリポリ陥落の直前からはイギリスの動きが目立っていた。そうした動きを支えていたのがアメリカである。そうした国々に支援の手を差し伸べてきたのが湾岸の独裁産油国やヨルダンといった国々だった。本ブログで再三書いてきたことである。そうした内乱支援国にトルコも加わっていたとウォール・ストリート・ジャーナル紙が報じている。シリアの内乱でもリビアと似た構図がある。 NATOの一員ではあるものの、トルコはリビアと友好的な関係を結んでいた国。そのトルコがリビアの反政府勢力に資金を提供していたことがわかった。暫定国民評議会に対して現金で1億ドル、「贈り物」として1億ドル、つまり合計2億ドルをすでに提供しているほか、1億ドル相当の人道的プロジェクトを実行するというのだ。リビア東部のベンガジを訪問中のアーメト・ダウトオール外相は8月23日、そのように語っている。 早くもリビアでは石油利権の争奪戦が始まっているようで、反政府派のアブデルジャリル・マヨーフは「西側」と友好的な関係を結ぶとする一方、ロシア、中国、ブラジルとは「政治的な問題」があるとしている。つまりBRIC諸国からイタリア、フランス、イギリスなどへシフトすると示唆している。内戦の実態がフランス、イギリス、アメリカの侵略戦争だったことを考えれば、必然的な流れであろう。 こうした対立の構図はアフリカの中南部でも見られ、キープレーヤーはリビアだった。そのリビアでムアンマル・アル・カダフィ政権が倒れた影響はこの地域にも及ぶ可能性が高い。 カダフィ後、LIFG(リビア・イスラム戦闘団)がリビアの軍事部門に大きな影響力を持ちそうなことも懸念されている。何しろ、この組織はアル・カイダとの関係を公然と認めている。アル・カイダ系の軍隊が北アフリカの産油国リビアに出現するということになれば、中東全域、いや全世界で彼らの活動が激しくなる可能性がある。 もっとも、アル・カイダの過去をさかのぼるとムスリム同胞団に行き着き、ムスリム同胞団の創設にはイギリスが関わっていた。1980年代と同じかどうかは不明だが、今でもアル・カイダと「西側」との関係が続いている疑いは残っている。中東の内乱を見ていると、欧米の巨大資本とムスリム同胞団の同盟関係が見えてくるからだ。 ムスリム同胞団をキーワードにして眺めるとサウジアラビアも仲間ということになる。イランのアヤトラ・ホメイニも若い頃、ムスリム同胞団と関係していたとする話が伝わっている。「西側」がイランのマフムード・アフマディネジャド大統領を嫌っている最大の理由は、彼のナショナリスト的な側面にあるのだろう。 イランのムハマド・モサデク政権をクーデターで潰し、パレスチナのヤセル・アラファトを攻撃するためにハマスを育て、エジプトのガマール・ナセルを暗殺しようと試みたのが「西側」である。その延長線上にサダム・フセインやカダフィの排除、バシャール・アル・アサドやアフマディネジャドに対する攻撃はある。決して「民主化」や「人道」が理由なわけではない。 そういえば、1980年代、ロナルド・レーガン政権は東ヨーロッパの体制を揺るがすために「プロジェクト・デモクラシー(民主主義計画)」なる心理戦を展開していた。その当時、ラテン・アメリカでは「死の部隊」が猛威を振るっていた。アメリカで訓練を受けた独裁体制の軍人たちが誘拐、拷問、虐殺を繰り返していたのである。手口は似ている。
2011.08.25
リビアの内乱にはフランス、イギリス、アメリカが深く関与している。前回、「攻撃の主体はイギリス軍であり、その傭兵として反政府軍が動いているようにも見える」と書いたが、その反政府軍に外国からの傭兵が多数、参加しているという報道がある。6月頃まで「革命軍」は1000名ほどの規模にすぎなかったことから、NATOが傭兵部隊を編成したというのである。 そうした部隊の中には、コロンビアの死の部隊に所属していた集団やカタールやアラブ首長国連邦の人間も含まれ、チュニジアの失業者やカダフィ体制に不満を持っていたリビア人が集められたという。アメリカがグアンタナモ収容所で拘束していた武装勢力のメンバーもリビアの反政府派に合流している。 カタールやアラブ首長国連邦の背後にはサウジアラビアが存在していると考えるべきであり、リビアの「革命」は英米仏と湾岸の独裁産油国が推進しているということになる。リビア国民は端役にすぎない。 アメリカとエジプトの特殊部隊が反政府軍を軍事訓練、エジプトからはカチューシャ・ロケットが運び込まれているとも伝えられていたほか、アメリカのCIAやイギリスのMI6やSASも秘密工作を展開中だとも報道されてきた。ベンガジの周辺ではそうした「西側の顧問」が目撃されているとも伝えられている。 カダフィ体制が崩壊した後、治安維持のためにカタール、アラブ首長国連邦、あるいはヨルダンから約1000名の兵士を連れてくる予定らしい。「革命」の主体はフランス、イギリス、アメリカであり、この欧米軍に湾岸のカタールやアラブ首長国連邦が協力していたことを考えれば当然だろう。 現在、反政府軍はTNC(暫定国民評議会)を前面に出している。その代表を務めているムスタファ・アブデル・ジャリルは、ムアンマル・アル・カダフィ政権で司法大臣を務めていた人物で、カタール人脈があると言われている。 もっとも、このTNCに反政府軍全体を統率する力はない。反政府軍の中心的な存在はNCLO(リビア反体制国民会議)だとされ、その傘下にはNFSL(リビア救済国民戦線)が存在している。そのほか、元内務大臣のアブデルファター・ユニス将軍をはじめとする軍からの離反組、サヌーシ教団の影響を受けているというベンガジの分離独立派、そしてLIFG(リビア・イスラム戦闘団)などが含まれている。 NFSLは西側諸国や中央アメリカ諸国でイスラエルやアメリカの訓練を受けてきたとも言われ、CIAの下でカダフィ体制の打倒を目指してきた勢力。またサヌーシ教団とはイスラム系の宗派で、1837年(1840年とする説もある)にサイード・ムハンマド・イブン・アリ・アッサヌーシーが創設したという。第1次世界大戦の頃、この教団を指導していたのがムハンマド・イドリースで、1951年にリビアが「独立」する際には国王(イドリース1世)に選ばれた。そういう意味で、サヌーシ教団は「王党派」でもある。 アル・カイダと結びついているLIFG(リビア・イスラム戦闘団)は1995年に創設された武装グループ。アフガニスタンでソ連軍と戦った経験があり、MI6(イギリスの情報機関)との関係も噂されている。 要するに、反政府軍は混成部隊であり、決して一枚岩ではない。7月には反政府軍の幹部、アブデル・ファター・ユニスが殺されているが、この出来事は「カダフィ後」のリビアを暗示している。ユニスはフランスのエージェントで、ムスリム同胞団の人間に暗殺されたと言われている。リビアだけでなく、アフリカ大陸全域の利権が絡んでくるだけに、相当の混乱を覚悟するべきだろう。
2011.08.24
リビア情勢を理解するためには、リビアだけでなくアフリカ中南部の利権構造を考える必要がある。かつてリビアはイタリアの植民地だったが、今回の内乱への軍事介入ではフランスやイギリスが積極的だった。その大きな理由はアフリカ中南部にあるのではないだろうか。石油と金という資産を使い、リビアのムアンマル・アル・カダフィ政権は中南部を自立させようとしていたのである。 ベルギー、ポルトガル、ドイツ、フランス、イギリスといった国々がアフリカ中南部を植民地にしていた。ダイヤモンド、金、あるいは希少金属など、この地域の利権を握る意味は大きい。現状から考えて、ベルギー、ポルトガル、ドイツが利権を維持するために軍事行動に出る可能性は小さそうだが、イギリスやフランスは違う。 今回の内乱できっかけを作ったのはフランスだが、最も積極的に動いているのはイギリスのようだ。内乱が始まって間もない3月2日には2名のMI6(対外情報機関)オフィサーと6名のSAS(特殊部隊)隊員で編成されたチームをヘリコプターでリビア東部へ潜入させている。 この潜入工作は警備の人間に発見されて明るみに出るが、大きな問題にはならず、ベンガジの港からフリゲート艦「カンバーランド」で帰路についている。また、5月31日付のデイリー・メール紙は、イギリスの特殊部隊SASの隊員が潜入しているのではないかと伝えている。 デイリー・テレグラフ紙によると、ここ数週間、イギリスの軍や情報機関は首都攻撃を目指して動きを活発化させていた。例えば、TNC(暫定国民評議会)が作成した攻撃プランをMI6のオフィサーが添削して整え、状況に応じてアドバイスを与えていた。 首都攻撃が始まった土曜日朝にイギリス軍は5発の精密誘導爆弾ペイブウェイ IVを情報機関の基地に落とし、夜にはトルネードGR4戦闘機がトリポリ南西部にある重要な通信施設を破壊するなどして反政府軍を支援している。海からの攻撃もあった。攻撃の主体はイギリス軍であり、その傭兵として反政府軍が動いているようにも見える。 その反乱軍に対し、イギリスは数週間をかけて武器、通信機器、そして精鋭部隊をトリポリに送り込んでいた。そうした準備をした上で蜂起するのだが、その合図はTNCのムスタファ・アブド・アル・ジャリルがテレビで行ったスピーチだったという。 リビアで儀典局長を務めていたノウリ・メスマリが昨年10月、機密文書を携えてパリへ亡命したことで内乱計画は始まるのだが、最後にきて主役はイギリスになった。それほどリビアのカダフィ体制はイギリスにとって脅威だったのだろう。 リビアが支援していたアフリカ中南部は、大英帝国を支えていた地域だった。詳しくは次の本(出版予定はないがw)で説明するとして、簡単に歴史を流れを振り返ってみよう。 1866年に農夫がダイヤモンドを発見、その利権を手にすることで巨万の富を築いたのがセシル・ローズであり、そのローズに資金を出していた金融機関がNMロスチャイルド&サン。ローズの周辺にはイギリス王室の要人が集まることになった。それほどローズのアフリカ利権はイギリスにとって重要だということだろう。 ちなみに、ローズの後継者とも言える人物がアルフレッド・ミルナー。中東混乱の一因になる「バルフォア宣言」(アーサー・バルフォア外相がロスチャイルド卿宛てに出した書簡)の執筆者でもある。 現在、反政府軍の一翼を担っているLIFG(リビア・イスラム戦闘団)は1995年に創設されたアル・カイダ系の武装グループなのだが、このグループはMI6と関係があるとも言われている。本ブログではすでに書いたが、アル・カイダの過去をさかのぼるとムスリム同胞団を通してイギリスにつながっているわけで、不思議でも何でもない話だ。
2011.08.23
中東や北アフリカだけでなく、全世界で富の集中が問題になっている。チュニジアやエジプトでの民衆蜂起の背景にもそうした現実があり、リビアでもそうした側面があることは否定できない。勿論、アメリカやイギリスは勿論、そのほかのヨーロッパ諸国や日本など東アジアの国々でも同じ問題を抱えているが。 サウジアラビアを中心とする湾岸の独裁産油国も富が独占されている典型的な国々であり、実際の労働は国外からやってくる「出稼ぎ」の人びとに頼っている。こうした出稼ぎの人びとの人権が無視されていることも有名な話だ。 バーレーンで民主化を要求する声が高まったのは当然であり、そうした声を圧殺するためにサウジアラビアなどが軍隊を派遣し、アメリカ、ヨーロッパ、日本などが弾圧に沈黙している理由も明確だ。日米欧の支配層にとって都合の良い国々が民主化されたなら、自分たちを潤してきた利権構造が揺らいでしまうということである。 こうした湾岸の独裁産油国に比べ、リビアの体制が悪かったとは言えない。にもかかわらず、欧米、特にイギリス、フランス、アメリカのネオコン(親イスラエル派)がリビアの体制転覆に執着してきた理由は「独裁」以外の点にある。 石油利権も要因のひとつだと言えるだろうが、それ以上に大きな理由は、おそらく、アフリカ中南部の国々をリビアが支援していたということだ。こうした支援によって、アフリカ中南部の国々が欧米の支配から離脱しようとしてきた。アフリカの利権を完全に手放すことになれば、欧米が世界を支配するという構造は大きく揺らぐことになる。 リビアの体制を転覆させるため、NATO(米英仏)はアル・カイダ系の武装勢力とも手を組んでいる。この事実は秘密でも何でもない。反政府派の一翼を担っているLIFG(リビア・イスラム戦闘団)がアル・カイダと緊密な関係にあることは本人たちも認めていることである。日本のマスコミがこの点に触れたがらない理由は、あらためて書くこともないだろう。 アル・カイダと呼ばれるグループが一般的に注目されたのは2001年9月のことだろう。ニューヨークの世界貿易センターにあったツイン・タワーに航空機が激突、ペンタゴンも攻撃されるという出来事で「犯人」とされたのである。 このアル・カイダを率いていたとされている人物がオサマ・ビン・ラディンなのだが、攻撃の2カ月前、7月4日から14日にかけて彼はドバイのアメリカン病院に入院し、そこでCIAの人間と会っていたとフランスのル・フィガロ紙が伝えている。ビン・ラディンは感染性の腎臓病を患っていて、肝臓も悪くなっていたと噂されている。 ビン・ラディンはサウジアラビアで富豪一族のひとりとして生まれ育った。この人物を武装勢力へと導いたとされているのがアブドゥラ・アッザム。ムスリム同胞団に参加していたと言われる。 エジプトでアンワール・サダト大統領がそれまでの政策を大きく変更、ムスリム同胞団を国内へ引き入れると、アッザムもエジプトへ移動、その後サウジアラビアの大学で教鞭を執る。そのときの学生の中にオサマ・ビン・ラディンもいたという。 1984年、アフガニスタンでイスラム武装勢力がCIAの下でソ連軍と戦ったいる最中、アッザムはビン・ラディンとMAK(礼拝事務局)をパキスタンのペシャワルで創設しているのだが、この組織は後にアル・カイダと呼ばれるようになる。 ムスリム同胞団はイギリスと深い関係があることも忘れてはならないだろう。1928年に創設された際、スエズ運河会社から資金を提供されているのだ。当時、スエズ運河はフランスからイギリスに支配権が移動済みで、イギリスによる中東支配の象徴的な会社と見られていた。 中東/北アフリカでの蜂起には少なくともふたつの側面がある。新自由主義による庶民の疲弊と、欧米(特に米英仏)の利権である。国によって状況は違い、程度の差はあるものの、このふたつの要素が存在しているとは言える。そしてムスリム同胞団やアル・カイダの創設には米英が関わっている。こうした背後関係はシリア情勢でも言えることだ。
2011.08.23
リビアの反政府軍が首都トリポリの中心部を制圧したと伝えられている。トリポリの反政府派は夏の間に武器を市街地へ運び込み、外部の反政府軍と連絡を取りながら秘密裏に兵士を集め、軍事訓練してきたという。 トリポリが反政府軍に制圧されたとする情報が正しいとするならば、政府軍は最後の局面で戦闘をあきらめたのか、回避したということになる。この展開を速すぎると感じる人も少なくないだろう。 こんな光景を前にも見たことがある。イラクだ。政府軍が完全に崩壊したということも考えられるが、NATO軍に空爆されながらの戦闘は不利と考え、都市部に反政府軍を引き込んだ可能性も残っている。 ムハンマド・アル・カダフィ派の抵抗がない場合、反カダフィ派が分裂して戦闘に発展することも考えられ、NATOが地上軍を派遣せざるをえなくなる可能性がある。占領期間が長くなれば、兵站の問題も生じ、米英仏は泥沼から抜け出せなくなるかもしれない。 また、NATO軍の空爆による市民の犠牲や劣化ウラン弾の使用がすでに問題化しているので、リビア国内が安定してもNATOは後始末に苦労することになりそうだ。 反カダフィ派の内部で対立が激しくなるような事態を待ち、カダフィ派が武装蜂起することも考えられる。そうならないように「カダフィ派狩り」を行うことになるだろうが、そうなるとイラクのような問題も生じてくる。 たとえ、リビア国内の混乱が続いても、アフリカ中南部に対するリビアの支援が止まれば、米英仏にとっては万々歳なのだろうが。
2011.08.22
リビアの反政府派がNATOの軍事支援を受けながら首都のトリポリに迫り、市内に反政府派も蜂起して激しい戦闘になっていると伝えられている。体制の転覆は間もないような雰囲気の報道も見受けられる。 しかし、こうした報道を否定する証言もある。「中東和平のためのアメリカ人」という団体の代表を務め、トリポリにいるフランクリン・ラム博士はRTに対し、反政府軍がトリポリに入ったという事実はないと語っている。ジャーナリストのリジー・フェランによると、反政府軍の狙撃兵が何人か潜入して発砲しているようだが、散発的に聞こえる銃声の大半は政府軍が勝利を祝って撃っているのだという。 政権転覆が近いとする報道の情報源は反政府派のようだが、これまでも反政府軍が勝利しているという偽情報、あるいは誇張した情報を流してきた。政府派をパニックに陥れる心理戦だとする説明も無視はできない。 ただ、NATO軍がリビア政府軍に対して空爆を続けていることは事実。武器も供給していると言われ、4月3日にインデペンデント紙は西側の軍事顧問がベンガジで目撃されたと報道、5月31日にデイリー・メール紙はイギリスの特殊部隊SASの隊員が潜入しているのではないかと伝えている。7月1日にロシアのドミトリー・ロゴジンNATO特使は、地上軍を派遣する動きが出ていると発言している。 こうした軍事介入によって多くの市民が犠牲になっている模様で、8月8日の空爆で85名の市民が殺害されたと政府側は主張、アムネスティー・インターナショナルは空爆による犠牲を調査するように求めている。 つまり、「飛行禁止空域」を設定して「市民を守る」という建前はとっくの昔に崩壊している。アフガニスタンでの戦闘を考えても、NATOが民間人の犠牲を避けようとしているとは思えない。 米英仏軍が劣化ウラン弾を使用している疑いも出ている。すでに4月の段階でコラムニストのコリン・ハリナンさんが指摘しているほか、イギリスの反核活動家、ケイト・ハドソンさんも同じ趣旨の発言をしている。 リビアの内戦はフランス政府とリビアの元政府高官による接触から始まったとする情報を本ブログでも紹介したことがある。イタリアのジャーナリスト、フランコ・ベキスによると、リビアで儀典局長を務めていたノウリ・メスマリが昨年10月、機密文書を携えてパリへ亡命。イギリスの情報機関や特殊部隊も深く関わっている。 米英仏の思惑通りにリビアの体制が転覆、アフリカ中南部の自立が妨げられたとしても大きな問題が残される。反政府派には元内務大臣のアブデルファター・ユニス将軍をはじめとする軍からの離反組、サヌーシ教団(王党派)、NCLO(リビア反体制国民会議)/NFSL(リビア救済国民戦線)、そしてLIFG(リビア・イスラム戦闘団)などが含まれている。 西側の息がかかっている勢力が多いのだが、問題はLIFG。アルカイダと緊密、あるいは一心同体の関係にあることは本人たちも認めている。2004年2月にジョージ・テネットCIA長官(当時)もLIFGをアルカイダにつながる危険な存在だと上院情報委員会で証言している。 体制転覆を成功させたとして、反政府軍は同床異夢の勢力が参加している。「カダフィ後」に安定した政権ができると考えるのは、あまりにも楽観的すぎる。リビアのケースでは、「飛行禁止空域」の設定を認めるという形で国連は事実上、欧米の支配層が嫌う体制を軍事的に転覆させる道筋を作ってしまった。国連の受けたダメージも大きい。
2011.08.21
ロシアのニュース放送局RT(以前のロシア・トゥデイ)は8月17日、福島第一原発で働く作業員の話として、建屋の下で地割れが起き、放射性物質で汚染された蒸気が裂け目から噴出していると報道している。18日にも原発が危機的な状況にあるとする報道をしている。 また早い段階から田中三彦さんが指摘していたように、津波の前、地震で原子炉が深刻なダメージを受けていたともRTは17日に伝えている。(この件については8月17日付けのインディペンデント紙も伝えている)地割れの話は8月上旬にインターネット上で流れていたが、どうやら、この噂は正しい可能性が高まった。 炉心が溶融して圧力容器の底を突き抜け、格納容器の底に落ちているならば、底部のコンクリートに入り込んでいると推測できる。効率よく冷却できるような状態だとは思えないので、予想されていたように、現在も沈み込みつつあると考えるべきだろう。 そうした状態では、すぐに鋼が融けてしまうと思われ、遅かれ早かれ地中へ出てしまうと覚悟するべきだ。いわゆる「チャイナ・シンドローム」の状態である。そうなると、広島市立大学広島平和研究所のロバート・ジェイコブス准教授が言うように、数値が安定しているように見えても、単に測定している場所から溶融物が離れているだけということになる。 7月の下旬から福島第一原発の近くで起こった比較的大きな地震を拾ってみると、まず7月25日にM 6.2(最大震度5弱)、31日にM 6.4(最大震度5強)、8月5日にM 4.8(最大震度4)、12日にM 6.0(最大震度5弱)、19日にM 6.8(最大震度5弱)など。3月11日の地震で施設も地盤も痛んでいる可能性が高く、こうした地震で破壊が進んでも不思議ではない。
2011.08.19
福島第一原発の事故以来、電力会社と経産省との密接な関係が問題になっているが、日本の場合、巨大企業が監督官庁の幹部を役員として高給で受け入れることは珍しくない。いわば「日常の風景」。だからこそ「天下り」という言葉が存在するわけだ。この構造が日本の支配システムを腐敗させ、国は朽ち果てようとしている。 しかし、似たようなことがアメリカでも行われてきた。政府、法律事務所、巨大企業をクルクル移動することから「回転ドア」とも表現されている。つまり、アメリカでも政財官の癒着は根の深い問題なのだが、ここにきてSEC(証券取引委員会)の天下りが注目されている。 ローリング・ストーン誌によると、相場操縦やインサイダー取引などの不正行為に関する調査資料が大量に廃棄されているようだ。SECの捜査官、ダーシー・フリンの告発によると、遅くとも1993年から9000件以上の資料が廃棄されている可能性があるという。当然、そうした資料の中には2008年の金融スキャンダルと関係するものも含まれていた。 資料の廃棄が横行している背景には、SECで捜査を担当している法務執行局の歴代局長と金融機関との癒着があるとフリンは主張している。例えば、1985年から89年にかけて局長を務めたゲイリー・リンチは弁護士としてドイツ銀行のロビー活動を行い、多額の報酬を得ている。 リンチの後任であるウィリアム・マクルーカスは1998年にウィルマーヘイルというウォール街の法律事務所へ入り、その後任であるリチャード・ウォーカーは2001年にドイツ銀行の主任法律顧問として雇われ、2004年になるとドイツ銀行はロバート・クザミという連邦検事を入行させている。 リンチがSECを離れる前、ドイツ銀行をフリンは内偵していた。同銀行のロルフ・ブロイアーCEOはシュピーゲル誌にバンカーズ・トラストの買収を考えていないと語っていたのだが、この発言は嘘だった。安値でバンカーズ・トラストの株式を買い取るために嘘をついたのではないかということで、捜査の対象になっていたのである。 この捜査が打ち切られたことを知らせる手紙がドイツ銀行に送られたのは2001年7月23日のことだが、その13日前にリンチは自分自身の意志で担当を離れている。リンチがドイツ銀行に雇われたのは同じ年の10月1日のことだ。こうした経緯をフリンが伝えた相手がクザミだった。勿論、このケースは一例にすぎない。 金融機関と監督官庁との癒着問題は投資/投機の監視や富裕層/巨大企業への規制と課税が結びついている。人数としては小さな集団に莫大な富が集中する仕組みを維持するのか、あるいは規制するのかということであり、金融市場へ少なからぬ影響を与えることになる。タックスヘブンへの規制も議論の対象になっている。 不公正な取り引きを正そうとすれば、株式でも商品でも為替でも、当然のことながら相場は大きく値下がりするはずである。つまり、相場の暴落を避けようとすれば富の集中は続き、経済は破綻して社会は崩壊する。それが新自由主義経済の行き着く果てである。 富の集中は富裕層のカネ余りと庶民の貧困化を招き、資金は投機市場へ流入、社会に循環する比率は減少している。資金の供給を増やそうとしても、現在の仕組みでは投機市場へ流れていくだけで、失業問題も深刻化していく。経済活動は機能不全になりつつあるということだ。 経済が行き詰まれば、富裕層/巨大企業も困る。すでにラテン・アメリカでは庶民が目覚めつつあり、中東や北アフリカの支配構造を揺るがし、ヨーロッパでも抗議行動が激しくなっている。こうした庶民の声を圧殺するために憲法の規定を無視する形で監視システムや治安対策を強化している、つまりファシズム化しているのがアメリカ(言うまでもなく、日本はアメリカの後を追っている)だが、力での抑さえ込みには限界がある。 そこで、ウォーレン・バフェットのような大富豪は議員に対し、富裕層や大企業への増税を主張しているのだが、現段階では少数派にすぎない。ただ、支配層の内部で意見の対立が生じているとは言えるだろう。 それに対し、共和党の「経済アナーキスト」、ティー・パーティーは「小さい政府」なる看板を掲げながら、富裕層/大企業を優遇する政策を推進すべきだと主張している。その背景にはキリスト教系カルト(キリスト教原理主義者)が存在し、環境汚染の規制にも異を唱えている。 カルトの狂信的な信者は「ハルマゲドン」での最終戦争で人類が死滅した後に救世主が再臨し、自分たちは天国へ行けると信じているようなので、地球の環境などに興味はないのかもしれない。
2011.08.19
北海道の長万部町は町を宣伝するため、「まんべくん」なる「ゆるキャラ」を使っていたが、その「まんべくん」が8月14日にツイッターへ書き込んだ内容が問題になり、そのツイッターを中止することにしたという。 長万部町の白井捷一町長名で出された文書は、次のような意味不明の一文で始まっている。 『このたびの「まんべくん」の戦争についてのツイッター発言については、皆様に大変ご心配ご迷惑をおかけいたしましたことを、お詫び申し上げます。』 「ご心配ご迷惑」って何? 「日本の犠牲者310万人、日本がアジア諸国民に与えた被害者数2000万人」、「どう見ても日本の侵略戦争が全てのはじまりです」とツイッターに書かれたことに腹を立てた人がいたらしいのだが、基本的にこの発言は正しい。 被害者数については議論があるだろうが、侵略した側とされた側で被害者数が食い違うことは普通。一桁違うことも珍しくない。侵略した側は「確認」された数字に限定しようとし、侵略された側は戦闘に付随した死傷者もカウントするからである。日本がアジアを侵略した事実は否定できない。それとも、白井町長は「侵略戦争」でなかったと言いたいのだろうか? 日本が第2次世界大戦に負けたのは1945年、それから66年がすぎた現在、戦争を目撃/体験した日本人の多くは亡くなり、妄想を口にしやすい環境にはなっているが、多くの調査研究がなされてきたことを忘れるべきではない。 福島第一原発の事故でも政府や東電の発表を無批判に信じ、外国での厳しい見方を「大げさ」だとか「デマ」だと言い張っていた人はマスコミ社員を含め、少なくなかった。この反応と「侵略戦争」への反応はよく似ている。 ジャーナリストのむのたけじさんは『戦争絶滅へ、人間復活へ』の中で、「ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場ではやっているんですよ」と言っている。勿論、「全ての男」ではない。そうしたことをしなかった人もいる。 しかし、そうした人も戦場の真実を語ることは難しかった。戦場での出来事を隠したい「戦友」が周囲にたくさんいたからである。 1960年代、まだ小学生だった頃、そんな少数派の大人がする戦争の話を耳にしたことを覚えている。むのさんの本で書かれていた話と重なるところが少なくなかった。 また、戦争中、特務機関員として中国人の中に潜入していた人から「南京虐殺」の様子を具体的に聞いたこともある。1980年代のことだった。「大東亜共栄圏」なる看板は原発の「安全神話」と同じで幻想にすぎない。 日本の直接的な侵略は1872年の琉球藩設置(琉球処分)、74年の台湾への派兵あたりから始まると言えるだろうが、その背景を考えるとアヘン戦争までさかのぼる必要がある。中国(清)を侵略しようとするイギリスを後ろ盾として政権を奪取した薩長両藩がイギリス的な侵略を始めるのは必然だったと言えるだろう。 1875年には朝鮮の首都を守る要衝、江華島の近くに軍艦「雲揚号」を派遣、挑発して軍事衝突に発展、「日朝修好条規」を結ばせることに成功した。その後、1894年に半島南部で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると日本政府は「邦人保護」を名目にして軍を派遣、朝鮮政府の依頼で出兵した清国の軍隊と軍事衝突、日清戦争へとつながる。 1902年に「日英同盟」を締結した日本は04年に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して「日露戦争」を引き起こした。1905年は第1次ロシア革命の年。ロシア政府にしてみると、日本との戦争どころではない。 日本海海戦で日本が勝利すると、「棍棒外交」で有名なアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講和勧告を出し、日本とロシアは講和条約を結んだ。この際、日本は長南と旅順口との間の鉄道(1906年に発足する南満州鉄道の路線)の経営権を獲得しているのだが、条約締結の2カ月後に桂太郎首相はアメリカの富豪、エドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意している。 アメリカが日露戦争に介入した理由のひとつはこの辺にあったのだろうが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に猛反対し、覚書は破棄された。日露戦争で獲得した利権をアメリカに取られると考えたのだ。この判断はおそらく正しい。 このときはアメリカの要求を拒んだ日本だが、1923年の関東大震災を切っ掛けにして日本の支配層はアメリカの巨大金融資本、JPモルガンの支配下に入った。その後、この銀行は日本へ多額の資金を投入する。1931年に板垣征四郎、石原莞爾、土肥原賢二らが柳条湖近くで満鉄の線路を爆破、「張学良軍の陰謀」だとして攻撃を開始、中国での戦争を本格化させていく。 ちなみに、1933年にアメリカでフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンの人脈はファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画している。この計画はスメドレー・バトラー中将らの議会証言で発覚して実行には移されなかったが、アメリカを知る上で忘れてはならない出来事だ。(詳しくは『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)この政権交代を見通せず、新政権に対する対応を間違ったことが真珠湾攻撃へと日本を導いた一因である。 ところで、第2次世界大戦でナチスはヨーロッパの中央銀行から金塊を奪っている(ナチ・ゴールド)が、日本も財宝の略奪を組織的に行っている。宮廷や富豪から莫大な財宝を奪ったのだが、その一部は戦後、JPモルガンなどへの支払いに充てられたと言われている。
2011.08.17
すでに広く知られていることだが、原発を全廃しても発電能力に問題はない。放射性物質は排出しないものの、火力発電は二酸化炭素以外にも大気を汚染する物質を出す。かつてに比べて改善されているが、問題はある。油田の開発や事故で環境が破壊されることも忘れてはならない。 その石油を抜きにして原子力発電を語ることができない。核事故を抜きにしても、ウランの採掘から核廃棄物の保管まで、原発は石油がなければ維持できない。原子力と石油を対立させて考えるべきではないのだ。原子力や石油を支配しているのはエネルギー産業であり、現在は再生可能エネルギーの研究開発を進めていることだろう。 そうした石油を使い続けてきた理由のひとつは、その安さにある。安さを維持するためにエネルギー会社は独裁体制を必要としてきた。石油価格が上昇すればコスト面で見合う油田が増えるほか、代替エネルギーの開発にも拍車をかける。だからこそ、サウジアラビアのファイサル国王は原油価格の高騰を嫌った。 1973年、第4次中東戦争が勃発して10日後にOPEC(石油輸出国機構)に加盟するペルシャ湾岸の6カ国が原油の公示価格を1バーレルあたり3.01ドルから5.12ドルへ引き上げると発表しているが、この決定にも当初、ファイサルは反対していた。 ジェフリー・ロビンソンの『ヤマニ』によると、石油価格の値上げを望んでいたのはヘンリー・キッシンジャーだった。2001年1月14日付けのオブザーバー紙によると、1973年5月にスウェーデンで開かれた秘密会議での討議され、その際にアメリカとイギリスの代表は400%の原油値上げを要求したという。 この値上げで石油産業は大儲けしたようだが、この時期、欧米の巨大資本が原発を推進しようとしていたことも忘れてはならないだろう。石油が値上がりすれば火力発電のコストは上昇するわけで、原子力産業にとってもこの値上げは朗報だった。 イギリスのジャーナリスト、ロビン・ラムゼーによると、この会議を開いたのは「ビルダーバーグ・グループ」である。この決定を受け、イランのパーレビ国王は石油価格の値上げを主張していた。 少なくともその当時、OPECは巨大石油資本のコントロール下にあるカルテルだった。その頃はセブン・シスターズと呼ばれた巨大企業7社が石油を支配していたが、今では4社に集中している。 そのうちの1社がエクソンモービル。その名の通り、エクソン(かつてのスタンダード石油ニュージャージー)とモービル(かつてのスタンダード石油ニューヨーク)が合併してできた会社。スリーマイル島原発が事故を起こす直前、1970年代のアメリカではエクソンが濃縮ウラン供給の中心になると見られていた。 石油と同じように、アメリカに濃縮ウランを頼ってきたのが日本。1970年代に石油と濃縮ウランをアメリカ以外から調達しようとしたのが田中角栄である。田中はアメリカを無視する形で中国と友好関係を結んでいる。エネルギーにしろ外交にしろ、田中はアメリカにとって好ましくない首相だった。 現在、世界のウラン生産はカナダのCameco、フランスのAREVA、オーストラリアのリオ・チント・グループに集中、世界の約60%を支配している。 Camecoは1988年、チェルノブイリ原発事故の2年後にエロドラドとサスカチェワンが合体してできた会社。エルドラドの歴史をさかのぼると、マンハッタン計画の最中にカナダ政府の国有企業となっている。 AREVAは2001年にフラマトム(AREVA NP)、コジュマ(AREVA NC)、テクニカトム(AREVA TA)が合併してできた会社。フラマトムやコジュマはロスチャイルド系の会社として有名だ。AREVAもリオ・チントと同じように、ロスチャイルド系の会社と言えるだろう。 ロスチャルドも巨大な石油利権をもっているが、アメリカではロックフェラー系の石油産業が1970年代に原子力発電の分野に力を入れていた。その当時、アメリカにおける濃縮ウランの供給は石油メジャーの1社、エクソンが中心になると考えられていた。1978年に米エネルギー省が遠心分離工場建設にゴーサインを出した段階で、同社は45億ドルを遠心分離法ウラン濃縮技術に投資していたとされている。 こうした巨大資本の思惑にダメージを与えたのが1979年3月にアメリカのスリーマイル島原発で起こった事故。事故の後、西ヨーロッパやアメリカでは原発建設に急ブレーキがかかり、反核運動が盛り上がった。日本でも原発への風当たりが強くなる。 しかし、日本の場合、原発に対する恐怖は間もなく薄らぎ、原発の建設が続く。世界の原子力産業にとって日本は上得意だったわけだ。2001年にジョージ・W・ブッシュが大統領に就任すると、アメリカでも原発の拡大を政策として打ち出し、バラク・オバマもその政策を引き継いだが、福島第一原発の事故で推進は難しい状況である。 ところで、スリーマイル島原発は1974年から営業運転を始めているが、中尾ハジメさんによると、その2年後から周辺の農場では家畜の異常が目立って増えていたという。事故前から構造上の問題があったのかもしれない。 京都大学原子炉実験所の今中哲二さんが1997年に紹介した論文によると、1ミリシーベルトの被曝によるガンの増加割合は全ガンで54%、肺ガンで165%、白血病で222%ということになり、広島・長崎の被爆生存者追跡調査データから得られている増加割合、つまり、1ミリシーベルト当り全ガン0.041%、肺ガン0.063%、白血病0.521%という数値の400~2600倍という大きな数値になってしまう。 事故直後に多くの周辺住民が、皮膚紅斑、おう吐、脱毛といった急性の放射線障害のような経験、周辺住民の染色体異常の検査に基づくと、事故直後の被曝量は600~900ミリシーベルトに達したとする推定もあるようだ。 定説によると、スリーマイル島原発の周辺住民が被曝した量は1ミリシーベルトだとされているのだが、実際は数百倍から数千倍だった可能性がある。あるいは、低線量被曝における発ガン効果の現れ方は広島や長崎のような高被曝量の場合と比べ、単位被曝量当りの効果が桁違いに大きいのかもしれない。 1986年4月にソ連のチェルノブイリ原発で起こった事故はスリーマイル島原発の事故よりも人々に与えた影響は大きかった。チェルノブイリ事故によるガン死数をWHOは9000件、IARCは1万6000件、グリーンピースは9万3000件と見積もっているが、ニューヨーク科学アカデミーから2009年に出版された報告書『チェルノブイリ:大災害の人や環境に対する結果』によると、事故による影響で死んだ人や胎児は98万人に達し、健康などにも影響が出ているという。報告書の編集を担当したジャネット・シェルマンがこの辺の事情を説明している映像(日本語訳付き)もある。
2011.08.16
福島第一原発が事故を起こした直後、原子炉内で再臨界が起こっていた可能性があるとカリフォルニア大学サンディエゴ校の研究チームが発表した。3月28日に通常の約3倍に相当する放射性のイオウ35をカリフォルニア州のアル・ジョラで観測、その結果から3月11日から20日にかけて原子炉内で1平方メートルあたり約4000億個の中性子が放出されたと推定している。 これまでにも、再臨界が起こった可能性を指摘する人はいた。例えば、アージュン・マキジャーニさんは1号機のタービン建屋の溜まり水に、塩素38という短命の放射性核種が存在(1立方センチメートルあたり51億6000個)しているという情報に注目、敷地内で中性子ビームを3月13日から15日にかけて1号機と2号機の南西1.5キロメートルの地点で13回観測したとする東電の発表も考え合わせ、局所的な臨界状態が生じたのではないかとする推測を4月4日に発表している。 この指摘に対し、東電は4月20日、1号機の冷却に使用された海水から塩素38が測定された(1.6 MBq/mL)とする発表をを撤回して「検出限界未満」としたのだが、訂正した経緯の詳細は不明だ。東電が情報を明らかにしない段階で、この訂正が正しいという前提で東電に代わって解釈するべきではない。 事故直後にはテルル132という放射性物質も検出されていたというが、この事実は6月20日まで公表されなかった。週刊現代は、原発事故の後も福島県を走っていた自動車のエアフィルターからテルル129が見つかったともしている。記事の中でクリス・バズビー博士はこの物質の半減期が33日と短いことを指摘した上で、再臨界の可能性を示唆していると説明している。 福島第一原発はマスコミが伝えているより不安定であり、事態は深刻だということだろう。溶融した燃料棒が圧力容器を突き抜けて格納容器に落ちたならば、コンクリートの中に入っている可能性が高い。冷却も限定的であり、コンクリートを突き抜けなくても大地や海を汚染し続けることになるが、そうした厳しい現実をマスコミが直視しているとは思えない。 東電や政府に批判的な報道がマスコミの中でも出てきたことは確かだが、自分たちのおかれた状況に気づいただけのことだろう。「安全デマ」を完全に止めたわけではなく、いわば「アリバイ工作」のようなもの。世の中の流れを見ているだけだ。放射能汚染による恐ろしさを庶民が忘れて「原子力利権サイクル」が回り始めたら、再び安全デマを垂れ流すことだろう。 1945年8月には広島や長崎に原爆が投下され、54年3月にはマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が南太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって被曝、79年3月にはアメリカのスリーマイル島原発で事故があり、八六年四月にはソ連のチェルノブイリ原発で起こった事故では大量の放射能がヨーロッパを覆い、さらに地球規模で広がった。 福島第一原発の事故はチェルノブイリ原発のケースに比べて規模が小さいと日本では宣伝されているが、空中に放出された放射線物質の量が正確かどうかというだけでなく、深刻な海の汚染、4機とも不安定な状態が続いているうえ、地震で事態が悪化する可能性も残っている。また、使用済み燃料棒を保管してあるプールの状況がわからない。日本人にとっては幸運なことに、風向きのおかげで放射性物質の大半が太平洋へ流れたが、安心できる状態ではない。今後、海洋汚染の影響が明確になれば、責任が問われることになるだろう。 スリーマイル島原発やチェルノブイリ原発の事故は日本人にとって「人ごと」だったかもしれないが、今回は日本の存亡がかかっている。日本人だけでなく、日本の生態系が破壊される可能性も残っているということである。
2011.08.16
沖縄に原発を導入する計画があったことを示す公文書が存在すると8月14日付けの朝日新聞が報じている。1955年9月7日付けの提言書で、琉球民政府副長官がライマン・レムニッツァー長官に対して主張したという。 レムニッツァーは1960年九月にドワイト・アイゼンハワー政権で統合参謀本部議長に就任するのだが、第2次世界大戦で日本の諸都市で住民を焼き殺す「焦土作戦」を指揮したカーティス・ルメイ空軍参謀長(1961年から)と同様、ソ連に対する核攻撃を夢想していた好戦派の大物。キューバ人を装って「偽装テロ」を行う「ノースウッズ作戦」で中心的な存在としても知られている。 この作戦ではアメリカの諸都市を爆弾で攻撃するだけでなく、最終的には自動操縦の旅客機を自爆させて撃墜されたとアメリカの政府や国民を騙し、キューバへの軍事侵攻を正当化するつもりだったようだ。1983年の大韓航空007便のソ連領空侵犯/撃墜事件、あるいは2001年の航空機による世界貿易センターへの突入攻撃でノースウッズ作戦を連想した人も少なくなかった。 アメリカの好戦派がキューバへの軍事侵攻に執着していた理由は、おそらく彼らのソ連に対する先制核攻撃計画があった。この計画は1946年には考えられていて、1950年代にはかなり具体化していた。キューバにソ連軍が入ると、深刻な反撃が予想されるわけで、どうしてもこの島を支配下においておく必要があったはずだ。 そこで1961年4月に反体制キューバ人を使い、ユナイテッド・フルーツの協力を得て軍やCIAの好戦派はピッグス湾を攻撃しているのだが、ジョン・F・ケネディ大統領がアメリカ軍の直接的な介入を拒否したこともあって失敗する。ノースウッズ作戦もこの頃に作成されている。 これに対し、ケネディ大統領は好戦派を処分する。例えば、アレン・ダレスCIA長官を辞めさせ、レムニッツァー議長の再任を拒否し、NATOヨーロッパ連合軍最高司令官としてヨーロッパへ追放している。 このレムニッツァー、1975年にはジェラルド・フォード大統領から「アメリカ国内CIA活動委員会(ロックフェラー委員会)」の委員に任命されている。CIAが違法行為を行ったか調査することが委員会の目的だったというのだが、ケネディ大統領暗殺を調べたウォーレン委員会にアレン・ダレスが入っていたことに匹敵するブラック・ジョークだ。ちなみに、ウォーレン委員会ではフォードも委員だった。
2011.08.15
日本では8月15日を「終戦の日(終戦記念日)」と定めている。戦争が終わった日ということなのだろうが、言うまでもなく、自然現象のように終わったわけではない。日本は第2次世界大戦で敗北したのである。 あくまでアメリカに負けただけ、つまりアジアでは負けていないと思いたい人も少なくないようだが、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃する前からアジアでの戦争は泥沼化していた。その延長線上にアメリカとの戦争がある。 それはともかく、1945年8月15日とは具体的にどのような日だったのだろうか? 1944年に入ると戦争の帰趨は決していた。そうした見通しの中、翌年の2月にはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨセフ・スターリン人民委員会議長がヤルタで会談、ドイツが降伏してから3カ月後にソ連は日本との戦いに加わることも決められた。 この決定を受け、ソ連は日ソ中立条約の期間を延長しないと通告、5月7日にドイツは降伏文書に調印し、8月8日にソ連は日本に宣戦している。当然、アメリカもソ連が日本との戦いに参加してくることは知っていた。アメリカは8月6日と9日に原子爆弾を投下しているが、これもソ連参戦のスケジュールに合わせてのことだろう。 ちなみに、イギリスのチャーチル首相はドイツが降伏する頃には数十万人の米英両軍と約10万人のドイツ兵でソ連を奇襲攻撃する「アンシンカブル作戦」を作成していた。日本がポツダム宣言を受諾すると通告した翌月にはアメリカの統合参謀本部が「必要なら」ソ連を先制攻撃すると決めている。 ヤルタ会談の2カ月後、ドイツが降伏する1カ月前にルーズベルト大統領が執務中に急死、アメリカ政府の政策は「反ファシスト」から「反コミュニスト」へ大きく変化しつつあった。そうしたこともあり、スターリンはチャーチルがルーズベルトを暗殺したと疑っていた。 ソ連の参戦や原爆の投下という事態を受け、日本側は「御前会議」を開いている。そこでポツダム宣言の受諾、つまり降服を決め、スイスの日本大使館を経由して連合国へこの決定を伝えた。10日夜半には同盟通信の海外向け放送でポツダム宣言受諾を明らかにしている。 そして15日。「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれている放送が流されているが、これは日本人向けのものだった。「上海にて」の中でこの放送について堀田善衛さんは次のように書いている。 「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の?にこたえた」。 戦後日本はポツダム宣言を受け入れることから始まるわけだが、その中で敗戦後の日本の主権が及ぶ範囲を決めている。その範囲とは本州、北海道、九州、四国、そして連合国側が決める小島だけなのである。 1946年1月に出された連合軍最高司令部訓令により、その小島は「対馬諸島、北緯30度以北の琉球諸島等を含む約1000の島」で、「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹等を除く」と定められたと孫崎享さんは『日本の国境問題』の中で指摘している。 ちなみに、日本が降伏文書に調印したのは1945年9月2日のこと。東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦、ミズーリ号で重光葵政府全権と梅津美治郎大本営(日本軍)全権が署名したのである。 要するに、8月15日とは、天皇が日本国民に対して「負けたとも降服したとも言わぬ」内容の放送を行った記念日にすぎない。
2011.08.14
羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落し、乗員乗客524名のうち520名が死亡したのは1985年8月12日のこと。事故の当時、日本航空には政治家が食らいつき、株価が暴騰する過程にあった。いわゆる「政治銘柄」である。 当時、日本航空は1987年に「完全民営化」するスケジュールで動いていたので、それまでに配当を復活させなければならなかった、つまり利益を出す必要があった。そこで無理なコスト・カット、つまり安全の軽視を進める。復配し、株価を上昇させ、大蔵大臣名目で保有されていた4089万9000株を高値で売却、その先の1988年には700万株の時価発行増資を行うという皮算用だ。 実際、2000円台で推移していた日航株が1984年から急騰、事故の直前には8000円を突破した。事故で5000円を切るまで急落するのだが、10月あたりから再び急騰、1987年には2万円を突破している。 日本航空の株価暴騰には「プラザ合意」、つまりアメリカからの「円高誘導圧力」も影響していた可能性が高い。円高、つまりドル安が見通されている中、日本の金融機関はドルを買いたくはない。そこで日本航空にドルを押しつけた可能性が高い。 そして同社は超長期のドル先物買い予約をしたということだ。通常、先物予約は長くとも5年であり、その倍の期間の契約は常軌を逸している。為替取引のプロも「クレージー」と表現していた。当然、損が出るわけだが、その代償が700万株の時価発行増資だったと考えても矛盾はない。 そうした中、123便の事故が起こり、運輸省航空事故調査委員会はボーイング社の「修理ミスが原因で、飛行中に後部圧力隔壁が客室与圧に耐えられなくなって破壊し、客室内与圧空気の圧力によって尾部胴体、垂直尾翼が破壊され、油圧系統も破壊され操縦不能となり墜落した」とする事故調査報告書を1987年6月19日に公表したわけだ。 しかし、この報告書を疑っている人は少なくない。何しろ、説得力のある理由が示されていないのだ。隔壁が損壊し、尾翼が内部圧力で吹き飛ばされ、操縦系統も失われるような状態になれば、客室では急減圧が起こっているはずなのだが、事故調査に協力した航空関係者によると、調査委員会の主張に反し、急減圧がなかったことは実験で確認されたとしている。 実験の結果、酸素マスクをつけなければ3分もすると小学校1年の国語教科書を読む速度が遅くなり、6分30秒を経過すると手に痙攣が見られるようになり、チアノーゼで指先が紫色に近くなることがわかっているが、異常が発生してから約9分後でも123便の機長は酸素マスクをつけていないのに、手の痙攣や意識障害はなかった可能性が高い。 救助作業にも疑問が持たれている。墜落直後から現地の住民から落ちた正確な地点を知らされていたにもかかわらず、救援隊が現場に到着したのは事件の翌日、13日の8時半頃だった。 住民以外にも正確な墜落現場を通報していた人がいる。事件当日、日航機のそばを飛行していたアメリカ空軍のC-130に乗っていたクルーだ。その中のひとり、マイケル・アントヌッチは1995年8月27日付けの「星条旗」に当時の状況を詳しく書いている。 アントヌッチによると、米軍機は横田基地に向かって大島上空を飛行中、日航機の管制に対する最初の緊急コールを聞いている。ただ、その時は切迫しているようには感じられなかったという。異常を感じたのは18時40分のコール。その時は叫び声のようで、明らかに尋常ではなかった。そこで、横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図る。 日航機は18時56分には墜落していたが、その地点を米軍機は19時20分に特定、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのは19時45分。捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を把握していたはずだ。 C-130が墜落現場に到着した直後、厚木基地から海兵隊の救援チームが現地に向かっている。20時50分には救援チームのヘリコプターが現地に到着、2名の隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されている。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。 21時20分に日本の救援部隊を乗せた航空機が現場に現れたのを確認してからC-130と米軍の救援チームはその場を離れているのだが、自衛隊は救援活動を行っていない。夜間の山間部で救難活動ができなかったというのならば、自衛隊に戦闘などできないだろう。米軍は救助活動を始めようとしていたのだ。 ともかく、事故を再調査するように求める声が出ていたのだが、調査委員会は1.6トンと言われる事故調査関連資料を破棄したという。事故の真相が明らかにされることを調査委員会も恐れていると思わざるをえない。福島第一原発の事故と構図は似ている。
2011.08.12
今頃になって福島県の学校などで放射性物質に汚染された土を取り除いたり、「ホールボディーカウンター」で内部被爆線量を測定したりしているという。いわゆる「アリバイ工作」である。 土の除去などは事故の直後、汚染の状況を調査した上ですみやかに行うべきことであったし、ホールボディカウンターでは最も人体に大きな影響を与えるアルファ線を検出できない、つまり体内被曝の実態を知ることができないことも有名な話である。原発近くの子どもたちにヨウ素剤を配ることすら行政は拒否していたわけで、行政や東電の犯罪的な行為をこの程度のことで軽減することはできない。 政府も東電も事故直後、空中、地中、海中、食材などの汚染状況をきちんと調べようとしていない。少なくとも一般には公表していない。しかも、民間の調査を妨害していた。 こうした行為は世界的に批判されたが、それでも詳細なデータは現在でも公表されていない。線量の測定は勿論、核種については口をつぐんだままだ。今でも情報を隠蔽しているということである。こうした姿勢の集団がホールボディカウンターでの検査を始めた理由は、自分たちのウソをもっともらしく見せるための演出にすぎない。 欧州放射線リスク委員会(ECRR)の技術議長を務め、日本でも広く知られているクリストファー・バズビー博士によると、福島県を走っていた4台の自動車のエアフィルターを調べた結果、1台からはアルファ線の核種を検出、空気中のセシウム137の濃度は核実験のピークだった1963年の1000倍だったという。千葉県でも300倍に達していたと語っている。 しかも、博士によると、核実験による放射能汚染によって乳児死亡率が上昇、20年後にはガンが増えたというのだ。日本では核実験の影響はなかったという宣伝も流されているが、この件については東京大学の児玉龍彦教授も厳しく批判している。 原発の状況も改善されたとは言い難い。燃料棒がメルトダウンして圧力容器の底を抜けて圧力容器に流れ落ちたことは経産省も否定できなくなっている。現在はコンクリートの中にあるかもしれないが、いつ地中に入り込んでも不思議ではない。すでに放射性物質は地中を汚染し、海中へ流れ出ている。8月11日に福島県の放射線量が上昇したという話も伝わっている。 何も手を打たなければ、今後、何十年もの間、土地と海を汚染し続けることになり、農作物や海産物へのダメージだけでなく、本州の北半分に人が住めなくなる可能性もある。数十兆円で事故の影響を押さえ込めると考えるのは楽観的すぎるだろう。 これだけの事故を起こした東京電力だが、政府が救いの手をさしのべ、その大株主や金融機関も救済し、原発利権に群がってきた企業群や官僚、政治家、学者、マスコミの責任も問われそうにない。全てのツケは庶民に回される。 今後、状況が悪化しても原発で大儲けした政官財学報のエリートたちはいつでも日本から脱出できる。安全な食材を高値で扱う業者が出てくるほか、留学ビジネスが繁盛するかもしれない。
2011.08.11
イギリスで暴動が広がっている。切っ掛けは8月4日の射殺事件。小型タクシーの乗客、マーク・ダガンをCO19に所属する武装警官が射殺したのだが、その経緯は明らかにされていない。当初、乗客が発砲したので反撃したのだとされたが、その後の調査で乗客が発砲していないことが明らかになっている。 警察側はダガンが銃を携帯していたと主張しているが、親類や友人によると、彼は武装していない。ダガンに親しい人々にとって納得できない点があるため、6日には親類や近所の人々がトテナム(ロンドン北部)警察へ出向いたのだが、警察幹部は姿を見せなかった。 そこで一部が警察周辺にとどまっていたのだが、何らかの理由で2台の警察車両が破壊され、暴動へ発展した。投石した16歳の少女が警官に棍棒で激しく殴打されたことが引き金になったという噂が流れているのだが、真偽は確認されていない。 この射殺事件の詳細は明らかにされていないが、2005年7月に引き起こされたCO19の武装警官による「容疑者」射殺事件を考えると、ロンドンの警察は人を殺すという行為に鈍感だと言わざるをえない。 2005年の出来事は、地下鉄での爆破事件を捜査している過程で起こっている。ブラジル人の配管工ジェン・シャリス・ジ・メネジスを容疑者だと勘違いして追跡、射殺したのだが、その間、メネジスの行動に不審な点がなかったことが判明している。 その日、メネジスは午前10時に地下鉄の駅へ入り、まずフリー・ペーパーを手にしている。オイスター・カード(電子式のチケット)を使って改札を通り、エスカレーターで下に下りていくが、特に慌てていた様子は見られない。プラットホームで走っているが、それは電車が入ってきたからで、不審な点はない。電車に乗った彼は座席に腰掛けることができた。そのメネジスは至近距離から11発、あるいは12発の弾丸を撃ち込まれたと言われている。勿論、即死だった。 多くの人から指摘されていることだが、暴動の背景にはイギリス社会において貧富の格差が広がっていることがある。社会的に優位な立場にある一部の人々へ富が集中し、庶民が貧困化、低所得層の若者は絶望的な状況に追い込まれている。自分たちが社会の一員だと思えないとしても不思議ではない。4日の射殺事件で人種に注目することは正しくないとも言えるだろう。 こうした富の集中を加速化したのが新自由主義経済。アルゼンチンとの軍事衝突を利用してマーガレット・サッチャーが導入し、トニー・ブレアーが継承したマーケット信仰に基づくミルトン・フリードマンの経済理論だが、すでにこの宗教は破綻し、世界中を不安定化させている。エジプトやバーレーンにおける反政府行動の背景も同じだ。アメリカも例外ではない。 本ブログでは何度か書いているので詳しくは書かないが、リビアやシリアではイギリスのほかフランスやアメリカが体制の転覆を目指した秘密工作を続けてきた。ナショナリストの香りが残っている体制は潰してしまおうということだ。こうした政策は1950年代から続いている。リビアの場合、アフリカ中南部の自立を阻止して利権を守りたいという意志が働いている可能性が高い。サウジアラビアやバーレーンなどの湾岸産油独裁国に欧米諸国(アメリカの属国化している日本も含む)が寛容なのも、同じ理由による。こうした利権を手放すと、自国内の不安定化はコントロール不能になると恐れていることだろう。 日米欧の支配システム、強者総取りの経済は完全に行き詰まっている。緊張を緩和するために富の集中を規制すべきだと考えるか、システムを続けるために庶民の管理を強化、つまりファシズム化を推進するのか、歴史の分かれ道にさしかかっている。欧米の支配層内部で対立が激化していても不思議ではない。
2011.08.11
現在、シリア西部、首都ダマスカスの北約165キロメートルの場所にある都市、ハマを政府軍が攻撃中で、地元の団体によると300名の住民が殺されたという。シリア全体の死者数は2000名に達しているとヒラリー・クリントン米国務長官は主張している。 ハマはスンニ派の拠点で、イスラム原理主義の影響下にあると言われる反政府色の濃い都市。1982年、「アサド体制が崩壊した」という噂が流れたときにはムスリム同胞団のメンバーがバース党の幹部を殺害、数百人と言われる政府軍の兵士や役人が虐殺された場所としても有名だ。 1982年の襲撃に対し、政府は数千人とも1万2000人とも言われる将兵を投入して鎮圧し、その際に多くの死傷者が出たと報告されている。それ以来、反政府派はこの攻撃をシリア政府の残虐性を示す象徴的な出来事だと宣伝に使ってきた。 現在、シリア政府を激しく批判しているクリントン国務長官だが、内乱の芽を育ててきたのはアメリカの国務省だということも忘れてはならない。同省がシリアの反体制派に資金を提供していたことを示す外交文書が公表されているのだ。 ロンドンに拠点を持ち、バシャール・アル・アサド体制を倒すためのキャンペーンを続けている衛星放送のバラダTVは亡命シリア人のネットワーク「正義発展運動」を背景に持ち、2006年から2009年までの期間だけで、米国務省は600万ドルを提供している。 シリアの反体制派は「MEPI(中東協力イニシアティブ)」や「民主主義会議」なる組織を通して米国務省から資金を得ていて、民主主義会議は国務省から630億ドルを受け取り、MEPIへは2005年から10年までに1200万ドルが流れているようだ。ジョージ・W・ブッシュ政権は具体的にシリア攻撃を始めていたと言えるだろう。アメリカ以外では、サウジアラビア、ヨルダン、そしてイスラエルが反政府活動を支援しているようだ。 アメリカから支援を受けていたシリアの反政府派の中で、中心的な存在だと考えられていうのがバシャールの伯父にあたるリファート・アル・アサドの勢力、あるいは父親の政権で要職にあった人物で今はパリを拠点にしているアブドゥル・ハリム・カーダムを中心とする勢力。 カーダムはレバノンのハフィク・ハリリ元首相やサウジアラビアのアブドゥラ国王と親戚関係にあり、その背後にはムスリム同胞団が存在しているとも言われている。同胞団の歴史をたどると、その創設にイギリスが関係していることも知られている。 ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は「西側」に対し、反政府派へ軍事支援しないようにと警告しているのだが、NATOへロシアが派遣している全権公使のディミトリー・ロゴージンは8月5日、NATOがシリアの体制転覆を目指した軍事行動を計画中で、イラン攻撃を見据えているとイズベスチア紙に語っている。もし、この話が事実ならば、西側諸国は破滅へ向かって突き進んでいると言わざるをえない。
2011.08.07
アメリカの財務省証券(アメリカ国債)に対する格付けを「スタンダード・アンド・プアーズ」なる民間企業が下げたと話題になっているのだが、アメリカの経済状況が悪化していることは昨日今日に始まった話ではない。今回の騒動は近づく大統領選挙も絡み、いわゆる「債券自警団」がアメリカに矛先を向けただけのことだ。 問題の本質は、富が偏在する仕組みを作り上げてきたことにある。その結果、ごく一部の富裕層や大企業に資金が滞留して「カネ余り」と呼ばれる現象が起き、その一方で大多数の国民は貧困化しているのが現状だ。金融機関の「投資銀行化」が進んでいるため、人間が実際に住んでいる社会へ資金を供給することも難しい。多くが投機市場(カジノ)へ流れてしまうからである。 つまり、問題を解決するためには再び証券業務と商業銀行業務を分離し、ファンド(投機筋)の資金集めやタックスヘブンの監視と規制を強め、富裕層や大企業に対する課税を強化する必要もある。富裕層や大企業に対する優遇措置などはもってのほかだ。こうした動きを債券自警団は警戒しているのだろう。 今回の騒動に対して中国はアメリカの「借金体質」に懸念を表明、ロイターによると、「軍事費や社会保障費の削減によって借入依存体質を改める」べきだとしている。さすが「新自由主義経済」の中国。経済構造そのものは問題にしていないようだ。ただ、ドルに替わる新たな準備通貨を求めているが。 ところで、中国が新自由主義に舵を切ったのは1980年代から。「マーケット教」の教祖であるミルトン・フリードマンが中国を訪問したのは1980年であり、その8年後にフリードマンは妻のローザとともに再び中国を訪れ、趙紫陽や江沢民と会談している。 ちなみに、日本の政府高官は財務省証券について「魅力的な投資対象」だと発言、「格下げ」があってもアメリカ国債への信頼は変わらないとしている。何があっても強うそうな相手(アメリカ)に媚びへつらうようだ。 これまで日本の支配層は財務省証券を買うことでアメリカの放漫財政を支え、アフガニスタンやイラクへの侵略戦争を可能にしてきた。ユーゴスラビアへの軍事介入も偽情報に基づくものであり、実態は侵略だ。この介入で「独立」させたコソボの支配層が麻薬業者であり、臓器の密売にも手を出している疑いが濃厚だ。 日本政府が財務省証券を購入する際、政府短期証券を発行して資金を調達するのだが、この証券を買えるのは日本銀行や民間の金融機関に限られる。1970年代以降、日本の財務当局は意図的に「借金」を増やしている疑いがあるのだが、最近の借金増大はこの政府短期証券の発行を抜きに語ることはできない。この短期証券発行で赤字を膨らませて見せているのでは、と疑っている人もいる。「日本の政府は借金漬けで、このままでは財政が破たんする」という主張は神話にすぎないということ。 福島第一原発の事故で、政治家、官僚、大企業経営者、学者、マスコミが原子力は安全という神話を作り上げたことが明確になったわけだが、このグループのでっち上げた神話がこれだけのはずはない。いくつもの神話をつくることで富裕層や大企業に富が集中する仕組みを作り、年金、健康保険、学校制度などの社会基盤を破壊していると考えるべきである。
2011.08.07
広島と長崎に原子爆弾が投下された時点で、アメリカやイギリスの支配層はソ連との戦争を見通していた。ウィンストン・チャーチル英首相は数十万人の米英両軍に約10万人のドイツ兵を合流させて奇襲攻撃するという計画を立案、1946年にアメリカの統合参謀本部もソ連を先制攻撃する計画を練り始めている。 1946年の時点では、アメリカが保有する原爆は2発程度にすぎなかったが、55年には2280発の核兵器を持つに至ったという。その間、1948年にはロバート・マックルア将軍が統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させている。翌年に出された同本部の研究報告では70個の原爆をソ連の標的に落とすことになっていた。 1959年にはアメリカ東海岸にあるアレゲーニー山脈(アパラチア山系の一部)に建つ高級ホテル、グリーンブライアの下に大統領や有力議員が生活できる「地下司令部」を造る工事を開始、62年に完成させた。それ以外にも、各地で核戦争に備えた地下施設をこしらえている。 カーティス・ルメイ将軍など、アメリカの好戦派は1963年の後半には核攻撃の準備ができると考えていたようだが、それを阻止、ソ連との平和友好を謳いあげたのがジョン・F・ケネディ大統領だった。この年の11月、ダラスで暗殺された大統領だ。 第2次世界大戦が終結した段階でソ連には新たな戦争を戦う余力が残っていたとは思えない。ドイツ軍との激闘で殺されたソ連人は2000万人以上に及び、工業地帯の3分の2を含むソ連全土の3分の1が破壊され、ソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎないことをアメリカ側も知っていたはず。だからこそ、米英両国はチャンスだと思ったのだろう。ミサイル・ギャップは神話にすぎず、「抑止力」も幻想にすぎない。 そうした流れの中、ドワイト・アイゼンハワー米大統領は国連総会で「原子力の平和利用」を宣言する。1953年12月のことだ。そして翌年の3月、日本では原子力予算が国会に提出され、修正を経て4月に可決された。その中心人物が中曽根康弘である。 アイゼンハワーが国連で演説した年の春、厚木基地には核攻撃機が飛来し、10月には空母「オリスカニ」が横須賀に入港した。ちなみに、この空母には核兵器を組み立てる能力があった。1950年代の後半になると、核爆弾の組み立てを担当する「MARTSAT」も厚木基地へ移動してくる。 日本へ原子力が持ち込まれる際、表で動いていた中曽根の背後ではCIAの影がチラチラする。 彼が「出世街道」を歩み始めるのは1950年のこと。この年、MRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席しているのだが、この団体はCIA系の「疑似宗教団体」。岸信介もこの団体と関係している。MRAでヘンリー・キッシンジャーとも知り合っている。 そのキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに中曽根が参加したのは1953年のこと。このセミナーのスポンサーにはロックフェラー財団やCIA系の団体も含まれていた。 1955年4月になると、通産省工業技術院に原子力課が新設され、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させている。日米原子力協定が締結されたのは6月。そして日本はアメリカから原子炉と濃縮ウランが提供されることになる。 1956年1月には原子力委員会が設置され、初代委員長には読売新聞の社主だった正力松太郎が就いた。アメリカで核戦争の準備が進んでいる中、日本に原子力が持ち込まれたわけで、両者が無関係だとは考えられない。 そうした中、1954年12月に鳩山一郎内閣はスタート、ソ連や中国と友好関係を結ぼうとする。首相だけでなく、重光葵外務大臣(副総理)、河野一郎農林大臣、あるいは石橋湛山通産大臣たちも同じように考えていた。 当然、アメリカ政府は反発するが、1956年10月に鳩山首相は日ソ共同宣言に調印し、日本とソ連は戦争状態を終了させたと宣言した。当時CIAのエージェントとして活動していた人物によると、この直前、CIAから河野暗殺を命令されたという。(勿論、成功はしなかったが。)中曽根が河野派に所属した理由は興味深い。
2011.08.05
リビアの内戦が泥沼化する一方、シリアが内戦状態に入りつつあり、エジプトで政府に対する抗議活動が再び活発化、民主化要求が高まっているバーレーンではサウジアラビアなどが送り込んだ軍隊の力も借りて民主化を要求する人々への弾圧が続き、イスラエルでは「民族浄化」を推進する法律が成立するなどファシズム化が進んでいる。中東/北アフリカは混迷の度を深めている。 イラクやアフガニスタンで戦争の終結が見通せないことは勿論、そのほかの国々も安定しているとは言い難いわけだ。そうした中東に対する欧米各国(日本はアメリカに指示されて動いているだけ)の対応が「民主化」や「人権」などでない基準で決まっていることは明白である。こうした基準で動いているなら、バーレーンなど湾岸の産油独裁国家に対して制裁を加えると言わなければならない。 例えば、バーレーンではデモに参加した13名が治安部隊に殺され、そうした抗議活動に参加していた7名に死刑判決が出され、政府の民主化弾圧を批判した野党の政治家が逮捕され、デモで負傷した人を治療したとして多くの医師や看護師も逮捕されているが、大して問題視されていない。市民の犠牲に敏感なはずのイギリスやフランスもバーレーンの件では鈍感だ。 イギリスとフランスが主導、アメリカも後押ししていて内戦が始まったリビアの状況は悪化、イギリスのリアム・フォックス国防相は反政府軍だけで勝利することは難しいと発言、政府側の寝返りを期待するとしている。ウィリアム・ハーグ外相も内戦の先行きを見通せないことを明らかにした。 言うまでもなく、イギリスやアメリカをはじめとする欧米諸国は、中東やアフリカから富を奪い続けてきた。石油、金、ダイヤモンド、最近はレアメタルを求めて巨大資本が蠢いている。こうした事情を抜きにして、この地域で続いている戦争や飢餓を語ることはできない。リビアやシリアに対して米英仏などが不安定化工作を続けてきたことは本ブログでも書いた通りだ。 第二次世界大戦後、こうした欧米の支配から抜け出して独立しようという動きが強まった。イランのムハマド・モサデク、パレスチナのヤセル・アラファト、エジプトのガマール・ナセルなどのナショナリストは象徴的な存在だ。こうしたナショナリストに対抗する形で登場してきたのが「イスラム原理主義者」。エジプトで大きな影響力をもっているイスラム同胞団もそうした勢力の中に含まれている。 同胞団は一九二八年、ハッサン・アル・バンナによって創設されているのだが、その際にスエズ運河会社から資金が提供されている。当時、スエズ運河はフランスからイギリスに支配権が移動済みで、イギリスによる中東支配の象徴的な会社になっていた。 その後、この結社はナセルを暗殺しようと試みたほか、モサデク政権の打倒にも協力している。イランで米英両国が行ったクーデターに同胞団は協力したということだが、その時にアヤトラ・ホメイニも参加している。少なくともこの時点において、ホメイニと米英両国の支配層は同盟関係にあったわけだ。 エジプトでは民族自決の象徴、ナセルが1970年に52歳の若さで急死、後任はアンワール・サダトに決まった。サダトは「元ムスリム同胞団」で、大統領に就任するとムスリム同胞団をカイロへ呼び戻している。さらにサウジアラビアとの同盟を打ちだし、左翼を弾圧し、イスラエルやアメリカとの関係を修復した。 最近の中東情勢を歴史と見比べると、欧米各国がかつての利権構造を再建しようとしているようにも思える。それだけ欧米の経済状況は厳しいということであろう。
2011.08.03
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