全105件 (105件中 51-100件目)
ヒトラー——虚像の独裁者芝 健介著 「歴史における個人の役割」とは京都大学教授 佐藤 卓巳評 日本のドイツ現代研究者による、21世紀の本格的なヒトラー評伝の登場だ。最新の研究成果を反映した本書は、わが国の標準的なヒトラー伝として読み継がれるだろう。まず、前世紀の同様の位置を占めたヒトラー新書本、村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー「独裁者」出現の歴史的背景』(中央新書・一九七七年)と比較してみよう。「私はヒトラーがきらいである」と村瀬は書き起こすが、独語の印象はやや異なる。バイエルン州南部ベルヒテスガーデンのヒトラー山荘を訪れた村瀬が「陽気な観光客」を目にするシーンで擱筆されている。「ナチスの制服を着た男が現れて、当時のメダルや硬貨を売り歩くと、よく売れるそうである」。むろん、村瀬もヒトラーの実像を天災でも狂人でもない「ドイツ帝国主義の有能な選手」と論じている。だが、第二次世界大戦勃発で記述が終わるため、「ナチスの成功」に目を奪われる。さらに言えば、ホロコースト研究が本格化する一九八〇年代以前の著作だから仕方のないことだが、反ユダヤ主義運動の歴史は詳細に論じられるが、アウシュビッツにいる採算帝国のユダヤ人迫害についての記述はほとんどない。こうした「戦争とユダヤ人迫害」を書いたヒトラー評伝を長々と紹介する理由は、著者がその超克を意識的に目指しているためだ。それは本書が次の問いでスタートしていることからも明らかだろう。「もし戦争とユダヤ人迫害がなかったとしたら、ヒトラーは最も偉大な指導者の一人だったと思いますか?」戦後のドイツの世論調査で何度も繰り返された問いである。これに誰もが「いいえ」とはっきり回答できるように、著者は「ヒトラー神話」の解体を試みる。つまり、「戦争とユダヤ人迫害」から切り離してヒトラーの評価などできないことを本書全体で示している。第二次世界大戦以後の記述、つまり第5章「「天才的将帥」から地下要塞へ」と第6章「ヒトラー像の変遷を巡って」紙幅の半分近くが充てられているのはそのためだ。著書もイアン・カーショーの大著『ヒトラー』上下(白水社)を踏まえて、ヒトラー独裁をカリスマ(帰依者を惹きつける非日常的な力)による支配と理解している。このカリスマの機能においては、「人格面だけ見れば特性のない、実に平凡な男・ヒトラー」個人の資質よりも彼を支持したドイツ国民の期待、つまり「民衆の指導者待望、承継あるいはまたルサンチマンによって生み出された社会的産物」が重視されねばならないとカーショーは主張する。だが一方で、著者はミュンヒェン一揆鎮圧の銃撃について箇所―の記述を請う紹介している。「もし30センチ横にずれていたら腕を組んでいたヒトラーに命中していたはずで、世界史の流れも変わっていた可能性がある」。それで果たして世界史の流れは変わっていただろうか?いまだにヒトラーが「歴史における個人の役割」を問いかける存在であることだけは間違いない。◇しば・しんすけ 1947年、愛媛県生まれ。東京女子大学名誉教授。専攻はドイツ現代史・ヨーロッパ近現代史。 【読書】公明新聞2021.11.29
March 14, 2023
コメント(0)
子ども介護者濱島 淑恵 著 社会が押しつける理不尽高齢社会をよくする女性の会・理事長 樋口 恵子評 近ごろ社会的に注目されている「ヤングケアラー」。二〇二一年度「新語・流行語大賞」の候補にもノミネートされている。慢性的な病気の親の介護、幼いきょうだいの世話を日常的に担う一八歳未満の子どもを指す。海外では移民家族などで早くから問題視されていたが最近㎡日本でも先駆的な研究者、自治体などの問題提起を受けて、政府も対策に乗り出している。著者はそのパイオニアで、本書は待望の一書である。大阪府立高校の理解を得て二〇一六年から本邦初の実態調査に取り組んだところ、若くして人生の選択肢を失うヤングケアラーの姿が明らかになってきた。最近の厚労省の調査結果によると、全国の中学生の十七人に一人、高校生の二十四人に一人が「世話をしている家族がいる」、その六割が「誰にも相談しなかった」。本書の内容は、第一章『ヤングケアラー』とは」、第二章「見えてきた日本のヤングケアラー」、大参照「私が出会ったヤングケアラーたち」、第四章「ヤングケアラーの生まれる社会的背景」、終章「ヤングケアラー支援に向けて」。どの章もヤングケアラー理解を助けてくれるが、圧巻は第三章に登場するヤングケアラーたち。母と祖母の介護を担った友也さんは三〇代。教師の厚意で高校卒の資格は得たが、家族を見送ったのちもまともな就労の機会がない。著者は「ケア役割の増加や社会からの排除は少しずつ、静かに進行する」。「家族介護に一定の役割を期待する現行制度(一部略)のもとでは、子どもがケアを担う以外に道はない。これは社会によって押しつけられた理不尽である」。これが著者の結論であり、その対策こそおとなである私たちの責務であろう。子どもだからこそヤングだからこそ、彼らは「眠る権利」も「学ぶ権利」「遊ぶ権利」もより大きいのだから。◇はましま・よしえ 大阪歯科大学医療保健学部教授。専門は高齢社会における介護、家族、ワークライフバランスなど。2019年にヤングケアラーたちの集い、「ふうせんの会」を有志とともに立ち上げた。 【読書】公明新聞2021.11.19
March 13, 2023
コメント(0)
哀しい恋物語と景色が重なる作家 村上 政彦川端康成「雪国」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、川端康成の「雪国」です。川端康成は、日本で初めてノーベル文学賞を受けた小説家です。海外で日本文学作家といえば、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫が、日本文学トリオとして挙げられた時代が長く続きました。現在は、村上春樹が日本文学を代表する作家として読まれていますが、彼の場合、あまり日本文学として意識していないと思われます。しかし、川端康成は違います。彼は、みずから日本文学を担う気持ちがあったはずですし、海外の読者も日本文学として受容しました。川端の作品から日本的な美意識や精神を読み取ろうとしたのです。『雪国』は、川端作品の中でも、『伊豆の踊子』と並んで、代表作と言ってもいいでしょう。書き出しの一文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は川端らしい名文です。「国境」を「こっきょう」と読ませるか、「くにざかい」と読ませるかで、作品の印象がまったく変わってきます。国境(こっきょう)なら、トンネルの先の雪国は異界でしょうし、国境(くにざかい)な鄙びた田舎でしょう。川端はどちらとも取れるように、あえてルビを振っていません。異界に行くか、田舎に行くか。読者に委ねているのです。英語版の解説で、翻訳者のE・G・サイデンステッカーは「川端は十七世紀の俳句の巨匠たちにさかのぼる一連の文学大系に属する」と述べていますが、『雪国』という作品は、起伏に富んだ物語ではありません。親の遺産で、無為徒食の生活を送っている島村という妻子持ちの東京の男が、雪国の温泉地へ通って駒子という若い芸者と、恋愛のような、そうでないような、あいまいな関係になる。そこへ駒子の踊りの師匠のむすこと恋人らしい葉子が絡んできて、何だか複雑な関係を結んでいく——筋立てとしては面白みに欠けます。しかし、この小説の肝の一つは、雪国の温泉地の風物を描くことにあります。例えば、次のような一節です。「一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げると、空しい速さで落ちつつある思われるほど、あざやかに浮き出していた。星の群が目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた」そして、本作の最大の肝は、駒子という娘を描くことです。彼女は、世話になった踊りの師匠のむすこが重病に成ったので、治療費を稼ぐために芸者になりました。しかし、一途に島村という男を求め、虚しい恋をしてしまう。その哀しさが雪国という土地と重なり、とても美しく映ります。『雪国」のタイトルは『駒子』と言えるのです。[参考文献]『雪国』 角川文庫 【ぶら~り文学の旅㊸】聖教新聞2021.11.24
March 10, 2023
コメント(0)
登山の体験をリズムよく綴る作家 村上 政彦 正津勉「行き暮れて、山。」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、正津勉の『行き暮れて、山。』です。正津は、山を詠って著名な詩人です。少年の頃やっていた登山を、50歳近くなって、また始めました。本作の冒頭は、詩人のふるさとの山「白山」へ。15歳の初登頂から、実に三十年ぶり。前夜は子どものように、はしゃいでいたそうです。暁になると、雨が激しく降りだした。冷たい横しなぎの風も吹く。しばらく躊躇った後、登る決断をします。5時間近く登って、ずぶ濡れになりこ野に泊まればいい物を、高校で山岳部にいた意地で、テントを張る。その夜は食事もそこそこに、ズブロッカ(ウォッカ)を呷って眠った。翌朝は3時半に起床し、〝濃いガス〟が立ち込める中、2時間かけて登頂。御前峰に立った。ところが、「なにも見えない。畜生、御来光、残念!」下山は9時間かかる。帰りは青天井で、熱い。だが景色は美しい。「ゆきさきざき微微妙に色合いをたがえる、お花畑にオオサクラソウやハクサンフウロの群落。たしかに美しくある。溶岩流が固まった鎧壁の上にのぞく弥陀ガ原と御前峰。そしてなんという。岩肌の間を一乗の光る帯となって落ちの千仞ガ滝。ほんとに驚くほどだ」しかし詩人に、この美しさを楽しむ余裕はありません。喉の渇きと疲労が重なり、幻聴が聞こえる。「呼ばわる声がある(中略)それは三十九年前、福井県立大野高校山岳部一年生、十五歳のお前のその声ではなくてか」うーん、このあたりが詩人らしい。過去の少年の自分が、50歳になる今の自分を呼んでいるなんて、詩的ではないですか。また、文章のリズムがいい。読んでいるこちらも、山を登ったり、下がったり、その言葉のリズムに心が運ばれていく。そして、詩人は詩人らしく、仲間と一緒に山と出あった15歳の頃を詠んでいます。「へろへろへったらへろへろへろっとおかしく谷間に笑い声を木霊させてはずんずんと頂上を目指し頑張るのだったへろへろへろったらへろへろへろっと」それにしても、人はなぜ、山に登るのでしょう?そこに山があるからだ、といった人もいましたが、登山家としても名高い生態学者・人類学者の今西錦司が、述べているそうです。「ただ山へ登るだけなのであるにもかかわらず、山へ登り続けていくと、自分がどことなく山川草木化していくような気が、しないでもない」正津はまだ、その境地には至らないが、「自分を『自然の一部』と感覚すること。それなら私にも少しわかるような気がしないでもない」。本来、ヒトは自然と共に生きた来たのです。[参考文献]『行き暮れて、山。』アーツアンドクラフツ 【ぶら~り文学の旅㊷】聖教新聞2021.11.10
February 21, 2023
コメント(0)
明治文学史に輝く純愛小説作家 村上 政彦伊藤佐千夫「野菊の墓」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、伊藤佐千夫の『野菊の墓』です。私が本を初めて読んだのは、10代の半ばと記憶しています。うぶな少年と少女の恋物語と受け止め、心が洗われました。そして、このコラムを書くために再読。その間に四半世紀近くの歳月が過ぎているのですが(まだ高齢者ではありません)、読んだ印象が変わりのないことが驚きでした。『野菊の墓』が浅い作品だと言っているのでも、自身の読解力を誇っているのでもありません。この小説の確信が、しっかり動かぬものであると主張したいのです。未読の方のために、『野菊の墓』のあらましを。主人公は、13歳の政夫と15歳の民子。二人は遠縁の間柄ですが、互いに好意を持っています。周りは彼らの仲を危うく思いますが、政夫の母は優しく、一緒に茄子畑で作業をさせたりする。「茄子畑と言うのは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千菜畑。崖の上になっているので、利根川はもちろん中川までもかすかに見え、武蔵一円が見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺も見える」ここで茄子をもいでいるうち、政夫は胸に中に「小さな恋の卵」があるのを意識する。二人の仲が決定的になったのは、その後の山畑で綿取り。これも母に促されて作業に出向いた。政夫は地面に咲く野菊を摘み、自分は野菊が好きだ、「民さんは野菊のような人だ」と。民子は竜胆を摘み、「わたし急にりんどうが好きになった」「政夫さんはりんどうのような人だ」と。なんと澄んだ告白。胸がキュンとします。しかし、それから政夫は中学へ進み民子と会えなくなる。二人が深い関係になることを恐れた大人たちは無理強いをして、民子を嫁にやる。彼女は身籠りましたが、流産して、肥立ちが悪く、亡くなりました。手には政夫の写真と手紙が握られていた。彼の悲しみの深さは計り知れません。1週間、民子の墓へ通い詰め、その周りいっぱいに野菊を植えたのです。本作が書かれたのは明治39年1月。日本文学の動向を見れば、田山花袋や島崎藤村などが自然主義文学を提唱して、露骨な現実を描いた時代です。そんな時、いわゆる「泣ける」純愛小説が世に出て、若い読者を喜ばせた。しかも作者の伊藤佐千夫は43歳。私が言うのもなんですが、オッサンです。それなのに、このような瑞々しい作品を書いた。奇跡としか言いようがありません。『野菊の墓』を再読し、これは書かれるべくして書かれた作品だと思いました。宇野浩二は解説で述べています。「私は、はっきり、いう、『野菊の墓』は、明治の文学史に、一つの席を占める小説である。[参考文献]『野菊の墓 他四篇』岩波文庫 【ぶら~り文学の旅㊶】聖教新聞2021.10.27
January 30, 2023
コメント(0)
ポピュリズムとファシズムエンツォ・トラヴェルソ 著 湯川 順夫 訳 現状をいかに認識するか同志社大学教授 吉田 徹 評社会科科学には「本質的に論争的な概念」という言葉がある。あまりにも多様な意味を込められて用いられるため、定義が定まらない概念のことだが、ポピュリズムやファシズムはその最たる例だ。それぞれは、明確な定義を欠いたまま、比例的なものとして手当たり次第に用いられるから、理解するがますます難しくなる。では両者は何が同じで、何が違うのか——ポピュリズムの密林に分け入りつつ、著者が追いかけるのは眼前で繰り広げられる新たな政治的急進主義の真の姿だ。「ポスト・ファシズム」という概念を手がかりとして、かつてのファシズムのようにポピュリズムは体制打倒の運動ではないという意味でこれとは異なっており、しかしユダヤ人の代わりにイスラムを目の敵にする民族主義的な政治という意味では同じ性質をもつという。読者は政治的急進主義の引き起こす事件やその解釈についてのアクチュアルな知識に圧倒されるだろう。しかし圧巻は著者が専門とする、過去のファシズム研究の解題だ。英語、仏語、独語の文献を渉猟しながら、ファシズムは決して亜流のイデオロギーではなく、自由主義と共産主義を目の敵とし、近代性と保守性の双方を併せ持った革命的思想だったと定義される。そして、その特性は有形無形の暴力を用いたことにあったとしている。また、過去の負の遺産をいかに処理するかという観点からの歴史修正主義についての議論は、歴史認識問題がこの日本だけでなく、グローバルな課題であることを知るためにも有効だろう。次々に起きる政治的現象を前に、私たちは過去に作られた概念を手がかりに理解しようと努めるしかない。しかし、歴史は過去と全く同じに繰り返すものではない。そうであれば、これまでの概念を丁寧に精査し、現状をいかに正確に認識できるかを問い、過去の思想から何を活かせるかを提言することこそが知識人の役割である。本書はそうしたシンシナチ的営みの成果である。◇エンツォ・トラヴェルソ 歴史家。ファシズム、ナショナリズム、全体主義などの研究者として世界的に著名。米コーネル大学教授。1957年、イタリアで生まれる。 【読書】公明新聞2021.10.25
January 29, 2023
コメント(0)
奇跡の甲子園出場を果たした実話作家 村上 政彦山際淳司「スローカーブを、もう一球」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』です。山際淳司と言えば、スポーツ好きならだれもが知っているスポーツライターです。惜しいことに40代で亡くなりました。デビュー作は「江夏の21球」です。ハリウッド映画の定番として、弱小スポーツチームが、あることをきっかけにして、猛然と勝ち進み、優勝してしまう、というのがあります。本作は、その日本版。しかも高校野球なので、スポーツ好きにはたまらない。冒頭、1980年11月5日に行われた、群馬県の高崎高校と茨城県の日立工業高校の試合から始まります。場面は9回裏、2対0で高崎高校がリード。攻撃は日立工業。関東大会の準優勝なので、守り切れば、翌春の「センバツ」で高崎高校の甲子園出場が決まる。マウンドに立つのは、2年生の川端俊介です。普通なら、ここから作者は結果を先延ばしにして、読者の興味を引こうとします。しかし、山際は、川端が得意のスローカーブでバッターを動揺させた後、直球を投げ込むところを描きます。打球は凡打。「ダブルプレーだった。ゲーム・セット」実は、ここから本作の読みどころです。高崎高校は、県内有数の進学校で、高崎工高と区別するために「高高(タカタカ)」と呼ばれます。野球部ができたのは、明治38年。以来、76年の間、甲子園とは縁がなかった。新しい監督を迎えたのが3カ月前。世界史を教える飯野邦彦は、中学時代に3カ月だけ野球部にいた経験を買われたのです。就任した彼が、まず始めたのは、野球の技術解説書を入手すること。スポーツ新聞を読んで、監督はみだりに動かず、どっしり構えていることが大切と学ぶ。試合の時に言うことは、「練習の時と同じようにやればいいんだ。ふだん着野球に徹しろ」。川端は、夏の大会が終わるまで3番手のピッチャーでした。学校の成績は、学年で10位以内に入ることもある秀才。中学の頃から密かに野球の腕にも自信をもっていたが、野球進学の誘いはまるでなかった。野球部の2年生になり、あるOBの助言で、スローカーブが武器になり、いつの間にかエースとして登板するように。野球を続けている理由は「惰性」。彼は自分のスローカーブでバッターを驚かせるのが愉しみなのです。つまり、「タカタカ」の野球部は、だれも甲子園へ行けるとは思っていなかった。周りもそうです。山際の筆致は、テンポよく、弱小チームに奇跡が起きる過程を追っていきます。監督をはじめ、選手たちの緩さも、小気味がいい。スポーツ・ノンフィクションの秀作です。[参考文献]『スローカーブを、もう一球』 角川文庫 【ぶら~り 文 学 の旅】聖教新聞2021.10.13
January 12, 2023
コメント(0)
「バイアスの罠」と闘う方途を探る賢い人がなぜ決断を誤るのか?オリヴィエ・シボニー著/野中香方子 訳豊富な経験と実績を持つリーダーであっても、はたから見れば〝失敗して当然〟と思うような誤った判断を下す。さらに、専門家の警告を聞き入れず、直観に頼り、合理性を欠いた悪い意思決定をしてしまう——。こうしたことは、実に頻繁に起きていて、しかも規則性があり、予測可能でさえある。これは〝バイアス〟が意思決定をゆがめることで生じるエラーだ。持論を支持する情報ばかりを拾い、対立する情報を無視する「確証バイアス」や、失敗した人を忘れ、成功者だけに目を向ける「生存者バイアス」などは典型例だ。本書は、意思決定の際に陥りがちな九つの〝バイアスの罠〟の構図を解説する。どうすればバイアスを克服して、「よい意思決定」ができるのか。それには、二つの要点がある。まず、個々人がもつバイアスの欠点を補え合えるよう、組織として協働すること。次に、決められたプロセスを守り、必要な情報や批判的分析が抜け落ちないようにすることである。賢明なリーダーは自分を過信せず、自身を組織の意思決定のプロセスの設計を担う「意思決定アーキテクト(設計者)」と見なしている。そこでは三つの原則が重要だと著者は語る。一つ目は多様な視点を得るための「対話」。二つ目は「意見の相違」を歓迎する謙虚な姿勢。三つ目は、これらを支える柔軟な「組織の力学」の醸成だ。本書は、世界の勝れた組織で実践例を通して、この三つの原則を説明。〝会議ではスライド資料を使わずにメモを取れ〟といったアドバイスの数々も興味深い。優れた意思決定アーキテクトを持つ組織からは、成果だけでなく人材も生まれる。行動科学の知見から、バイアスの罠と戦う方途を説く一書。(東) 【読書】聖教新聞2021.9.28
December 21, 2022
コメント(0)
アメリカと中国を徹底的に比較京都女子大学客員教授 橘木 俊詔評 資本主義だけ残った世界を制するシステムの未来ブランコ・ミラノヴィッチ著 西川 美樹訳刺激に満ちた魅力的な書物が、資本主義に関して出版された。どこが刺激的かといえば、社会主義の代表石をみなされてきた中国を、資本主義の国とみなした点である、経済学界では中国を社会主義的資本主義とみなす意見もなくはないが、ミラノヴィッチはそれを拡大解釈して、政治的資本主義の国と定義した点に特色がある。換言すれば、政治と経済は分離されているとみなし、政治は共産主義、経済は資本主義なのである。もう一つの魅力は、資本主義の本家とみなせるアメリカをリベラル能力資本主義の国と定義し、これら覇権を争っている二つの資本主義を徹底的に比較した点にある。その両資本主義はともに格差の拡大、あるいは不平等の深化を経験していると主張して、今日の格差社会の象徴とみなしたのである。かつ両国ともに階層の上位にいる人々の指導力・エリート性が際立っていると主張する。但し著者は、アメリカの高所得層は自由主義経済と能力主義のメリットを謳歌して、資本保有額と労働所得(経営者の高い報酬のこと)の双方が高いことに特徴があり、リベラル能力資本主義と称した。これら高所得層は多大の政治献金をすることによって、政治の世界が福祉国家のような高度な所得再配分政策に走らないように仕向けている。一方中国は共産党の一党独裁、優秀な官僚、そして法の支配の欠如という政治特色をうまく利用して、汚職などの腐敗が横行しているとする。換言すれば、共産党員たる官僚と経営者が高い報酬を得られるような制度にしているし、汚職の存在もそれらの人の所得を高めている。アメリカは自由主義、民主主義の国なので、所得格差を大きくはないがある程度抑制する力が働くが、中国では本来の社会主義の特性である平等政策はそう強固ではない。中国の一般大衆は都市部の高所得者層と農村部の貧困層の存在を知らされておらず、しかも最近の中国経済の好調に踊らされて、官僚・経営者への不満が巧妙に抑制されており、格差と腐敗は是正されていない、と解釈できるのではないか。古典的な社会主義国では国家が企業を保有していたが、今の中国では資本主義らしく民間企業も多く存在し、かつそれらが成功しているので、中国は経済大国になったのである。それに旋盤をつけたのがかつての最高実力者・鄧小平である。彼は強者(大企業や高所得者)が豊かになれば、弱者(小企業や農家)もいずれそれに引っ張られて豊かになるという「先富論」を説いたが、このトリクルダウン理論(近代経済学でいう雨雫の理論)は失敗に終わっていて、逆に格差が大きくなってしまった。旧ユーゴスラビア生まれで、世界銀行のエコノミストとして多くの国の経済を知り尽くした著者の優れた政治経済の分析結果の要約を行い、かつ評者のコメントも書き加えてみた。アメリカと中国の両大国資本主義の説く尺を見事に分析した本書を読めば、日本はどういう資本主義の国になるべきか、のヒントが得られよう。◇ブランコ・ミラノヴィッチ ルクセンブルク所得研究センター上級研究員。邦訳署に『大不平等』ほか。 【読書】公明新聞2021.9.27
December 20, 2022
コメント(0)
濃密な生活の匂いを感じる作家 村上 政彦武田百合子「富士日記」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、武田百合この『富士日記』です。竹田百合子は、戦後派の作家・竹田泰淳の妻で、自身も書き手として活躍した女性作家です。私は結構本を読みますが、それでもまだ読んでおらず、しかしずっと気になっている本がいくつかあります。『富士日記』は、その一つでした。永井荷風に『断腸亭日乗』という本があります。これは日記です。そして、私の愛読書でもあります。日記文学は、日本には古くからありました。日常を綴りながら、それが文学作品になっている——これはもちろん文章の力もありますが、作品の記録性によるところが大きいでしょう。『父子日記』は田村俊子賞を受けており、『断腸亭日乗』に並ぶ日記文学の秀作です。このコラムを書くようになり、いつか取り上げたいと思いつつ、今回、『富士日記』を手にして、あらためても白いと思いました。『断腸亭日乗』の場合、歴史の流れがヒューマンスケールで、かつ具体的に分かることが肝です。『富士日記』の肝は、濃密な人の生活の匂いがすることでしょうか。竹田泰淳は、昭和38年の暮れ、山梨県南都留郡鳴沢村字富士山に山荘を建て「不二小大居百花庵」と名付けました。そして、妻の百合子に「おれと代るがわるメモしよう」と呼びかけ、日記をつけるようになった。しかし泰淳の部分はごく僅かで、ほとんどは百合子が書いています。冒頭に「これは山の日記です」とある通り、まず自然が美しい。同39年7月25日には「山へ着くと冷たい風が吹いていて、水を飲むと冷たい。何ていいところだろう」とあります。また、同40年元日、「夜はまったく晴れて、星がぽたぽた垂れてきそうだ」と。家族は一年のうち半年ほどは、この山荘で暮らしていて、その様子が事細かに記されている。特に目につくのは、食事の献立です。1月3日、「朝食 ふか御飯、ちくわ、さつまあげ、味噌汁。/昼食 御飯、粕漬けぶり。/夜食 御飯、まぐろ油漬け、大根おろし、佃煮、花子は、またも、ぶりの粕漬」。まわりに盛り場もない山荘のことですから、食べることが愉しみなのは当然でしょう。僕も食べることは好きなので、こういう記述を見ていると、ぶりの粕漬が食べてみたくなる。百合子の記述は単なる記録にとどまらず、ときには長く、エッセーの趣もあり、小説家の日常や当時の分断の状況を垣間見ることもできます。私がデビューした頃にお世話になった編集者の名前が出てきたのには、どきっとしました。こんな短い言葉だけの一日があります。「今日は何もなかった。ぼんやりして暮らした」羨ましい。〔参考文献〕『富士日記』 中公文庫 【ぶら~り文学の旅㊴】聖教新聞2021.9.22
December 14, 2022
コメント(0)
原爆投下で変わり果てた世界作家 村上 政彦原民喜「夏の花」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、原民喜の『夏の花』です。原民喜(1905~51年)は、広島出身の詩人・小説家で、第2次世界大戦中、東京にいたのですが、戦況が厳しくなり、広島市の生家に疎開します。そこで8月6日の原爆を経験しました。『夏の花』は、妻に先立たれた「私」(原民喜自身と思われる)が、墓参のために花を買う。それが「黄色の小弁を可憐な野趣」を帯びた〝夏の花〟だったという書き出しから始まります。そして、翌々日の朝、私が厠に入っていたとき、原爆が投下されたのです。私は崩落する家から逃れるため、外へ出る。そこには見たことのない人々の群れがあった。「男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、随って目は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった」つまり、被爆した人々を目撃しました。逃れる途中、小さな姪が寺の避難所にいると知って訪ねます。そこで夜を明かしたのですが、しょっちゅう念仏の声が聞こえてくる。絶えず誰かが死に、遺体はそのまま捨て置かれる。やがてこの寺に避難していた私の家族は調達した馬車で八幡村へ向かった。その道中で目にしたのは「精密巧緻な方法で実現された新地獄」。私はそれを書き留めるにはカタカナがふさわしいと、次の一節を記します。 ギラギラ破片ヤ灰白色ノ燃エガラガヒロビロトシタ パノラマノヨウニアカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズムスベテアッタコトカ アリエタコトナノカパット剥ギトッテシマッタ アトノセカイテンプクシタ電車ノワキノ馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハプスプストムケル電線ノニオイ いかにも詩人であった小説家らしい文章です。作者は、核兵器による破壊という未曽有の出来事に遭遇したわけですが、作家として冷静な観察眼を働かせ言葉を選んで、変わり果てた世界を記録しています。人間の記憶は当てになりません。忘却という安産装置を備えているからです。だから、文学が必要なのです。文学は、見たまま、聴いたまま、感じたままを言葉に残します。私たちも、原民喜の『夏の花』のおかげで、核兵器が世界に何をもたらすのか、知ることができます。いま私たちに求められているのは、この作品を過去のものとすることですが、『夏の花』は、残念ながら、現在の文学であり続けています。〔参考文献〕『小説集 夏の花』 岩波文庫 【ぶら~り文学の旅㊳】聖教新聞2021.9.8
November 23, 2022
コメント(0)
生と死について深い思いを促す作家 村上 政彦志賀直哉「城の崎にて」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、志賀直哉の『城の崎にて』です。志賀直哉(1883~1971年)は、日本の近代文学を代表する小説家の一人であり、その作品の一つ『小僧の神様』にちなんで〝小説の神様〟と称賛された大家です。大谷崎といわれる谷崎潤一郎でさえ、直哉にコンプレックスを持っていて、彼の作品と自分の作品の、どちらがすぐれているか気に掛けていたそうです。さて、この作品の表題にある「城の崎」は、兵庫県の城崎温泉のことです。当時、彼は父親との不和から東京の実家を離れ、広島県の尾道で暮らしていましたが、長編小説の執筆が思うようにいかず、1913年に上京しました。その夏、電車にはねられる事故に遭って、病院を出た後、療養のために城崎温泉を訪れたのです。一人きりでの療養生活で話し相手もおらず、読む価格化、あるいは散歩をして暮らしていた、と作品にはあります。「散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そしてなおよく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然(じっ)としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た」谷崎は『文章読本』で、名分として直哉の文章を引用していますが、簡潔で、言いたいことをしっかり伝える文章です。この小説は、主人公の「自分」の身の回りのことを詳細に描いた私小説です。部屋の近くに蜂の巣があって、ある朝、1匹の死骸を見つける。彼はその静かな姿から、死を身近なものとして感じます。また、散歩の途中、川で首を魚串で貫かれた鼠を見かけます。子どもや大人の見物人が石を投げる。なかなか当たらないが、鼠は必死になって逃げようとする。苦しみもがきながら走りながら走り回る鼠の姿を目にし、死の前に訪れるこのような「動騒」はかなわない、と思います。さらに、ある日、小川に添って歩いていたら、大きな石の上に「蠑螈(いもり)」を見つけ、驚かせてやろうと石を投げたら、偶然に当たって死んでしまった。主人公はその出来事を、自分が事故で生き残った事実と重ね合わせ、「可哀想に想うと同時に、生きものの淋しさを一緒に感じた」。死んだ蜂や鼠や蠑螈のことを考えながら、生きている自分は感謝しなければならないような気がした。ただ、これだけの400字詰めの原稿用紙にして14枚ほどの短編ですが、生きものの生と死について、深い思いを促す佳品です。読み終えると、名工のこしらえた工芸品を手にした印象が残ります。【参考文献】『小僧の神様 他十篇』岩波文庫 【ぶら~り 文学の旅㊲】聖教新聞2021.8.25
October 31, 2022
コメント(0)
没落士族の心の葛藤を綴る作家 村上 政彦田宮虎彦「霧の中」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、田宮虎彦の『霧の中』です。作者の名前に見覚えがあるという方は、夏目漱石の弟子だった学者兼文筆家を想像されているかもしれません。そちらは寺田寅彦。名前は同音ですが、文字は一字違っています。虎彦のほうは芥川賞の候補にもなった小説家で、本作で文壇での認知を勝ち取りました。この小説の物語は、幕末の戊辰戦争から始まります。主人公の中山荘十郎は幼い頃、江戸の旗本屋敷から「母のかねの背に負われて母の実家のある会津若松へ逃げ落ちた道々の記憶がとぎれとぎれに残っている。それはほの白い霧に流れてぼんやり遠ざかっている町屋の灯だとか、ひしめきあっている牛舎のむれだとか、うらぶれた旅人宿の赤ちゃけた畳のいろだとかであった」彼らを追っていたのは、薩摩、長州の諸藩です。父と兄は彰義隊として上野の寺に籠りましたが、多勢には敵わず東北へ逃れ、やはり官軍に追われる。かねの実家は会津藩の小普請組支配として場内を守っていました。そこへも西国の武士らが攻め込んで来て、かねと荘十郎の姉・菊は乱暴されて死に、もう一人の姉・八重は弟に、中山の家は徳川様と一緒に滅びたことを忘れるな、と言い残して行方知れずになった。家族を失った荘十郎は、遠い親戚から同郷・会津のつてをたどって、江戸の鎌田斧太郎の元へ身を置く。彼は戊辰戦争の恨みを晴らしに薩摩へ下り、荘十郎は彼の従弟の岸本義介の家へ移り住みます。しばらくして斧太郎が帰って、お前の父親の仇を討ってやったという。彼は多くの人を斬ってきたらしいのです。それでも心の満たされぬ斧太郎は、秩父で起きた暴動に加わって消息を絶つ。すでに20歳になっていた荘十郎はその模様を新聞で読み、2000人に及ぶ暴徒が自分と同じ憤りを抱え、「一寸先は見えぬ霧の中」をさまよっていると思います。会津の人々は、だれもが傷を受けていました。戦争で国を失い、敗者として生きていかなければならない者の苦しみ、複雑な心の葛藤が、このような騒動をもたらした。彼らは何とか出口を見つけたいのです。やがて荘十郎は人前で肩部を披露するように。その稼ぎで義介夫妻の面倒も見てきました。義介は病死し、荘十郎は剣舞と殺陣の技を金に換えて各地を放浪する。大阪、横浜、そしてまた東京——薩摩、長州の士族を見つけると喧嘩を売った。時代は明治から大正、昭和へと移り、荘十郎の放浪の果ては満州。帰国した時は、すでに年老いていて第2次大戦の敗戦の3日後に死んだのです。この小説が発表されたのは1947年。敗戦から2年後です。作者は、戊辰戦争で敗者となった会津の人々に仮託して、当時の日本人の真情を綴ったのではないでしょうか。【参考文献】今東光・北村透谷・田宮虎彦著『道』 ポプラ社 【ぶら~り文学の旅㊱】聖教新聞2021.8.11
October 7, 2022
コメント(0)
市井の家族の情愛を切々と描く作家 村上 政彦松本清張「骨壺の風景」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、松本清張の『骨壺の風景』です。松本清張と言えば、社会はミステリーで一世を風靡した作家です。少なくない作品が映像化されて、今もたくさんのファンがいます。エンターテインメント小説の大家なのですが、じつは芥川賞を受けて文壇にデビューしました。本作も、ミステリーと思って手に取った人は期待外れになるでしょうが、この作品の本質的な貌を見られます。なおかつ、しみじみとした感動を味わうこともできます。語り手の「私」は、昭和の初めに亡くなった祖母・カネの骨壺が、両親の墓のある東京の多磨霊園ではなく、むかし暮らしていた九州は小倉の寺院で、一時預かりにしてもらい、そのままになっていることが気になりだした。一時預かりになったのは、一家が貧しくて墓が立てられなかったからです。「私」の父・峯太郎は、さまざまな職業を転々として、どれも成功せずに絶えず借金取りに責められていた。峯太郎は幼い時、カネ夫婦のもとへ里子に出され、実家は戻してくれるように求めたが、夫婦は応じなかったといいます。峯太郎は17,18歳のころ養家を飛び出し、「私」の母・タニと一緒になった。そして、十数年ぶりに、また子連れで養家に戻った。なぜ、カネ夫婦が峯太郎を実家に返さなかったか、また、なぜ養家を出奔した峯太郎が戻ったのか、それは分かりません。骨壺を預けた寺の名も思い出せない「私」は、苦心してそれが戦後の道路拡張で地所を清水へ移った大満寺らしいことを調べ上げます。果たして、過去帳にカネの名があった。しかし骨壺はすでに処分され、遺骨は他の一時預かりの骨と一緒に境内の石塔の下に埋納済み。来年が五十回忌だという。「私」は、せめて位牌を骨壺のかわりに両親の墓へ埋めたいと考え、小倉へ向かった。位牌を手にした後、タクシーで思い出の地を巡る。父は屋台を出していた。「十四連隊の正門」近くの松の木の木陰で、餅やラムネなどを売っていたのだ。「私が動くたびに鞄の中でこそこそと音がする。だが、私はその位牌を、重い骨壺に考えたかった。鼠色をした素焼の壺、蓋と胴とを針金で十文字に縛って押し入れにごろごろしていた骨壺に。——ばばやん、見んさいよ、あそこの松の木の下におとっつぁんが店を居ったんどな」祖母は「私」を愛し、「私」も祖母を愛した。栄養失調で失明した後、息を引き取る時、閉じた目から流した一粒の涙は、「ガラス玉のように澄みきっていた」。この作品は、市井の家族の情愛を描いています。他の清張作品ではできない読書体験ができるのではないでしょうか。【参考文献】『宮部みゆき責任編集 松本清張 傑作短編コレクション 下』 文春文庫 【ぶら~り文学の旅㉟】聖教新聞2021.7.28
September 12, 2022
コメント(0)
風土・暮らしを鮮やかに描く作家 村上 政彦黒島伝治「瀬戸内海のスケッチ」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、黒島伝治の『瀬戸内海のスケッチ』です。黒島伝治(1898~1943)は、香川県の小豆島に生まれ、シベリアへ出兵して看護兵に。兵役後、小説を書くようになり、農村を描くプロレタリア作家として注目されましたが、肺を患って小豆島で療養生活を送ることになります。本作も、小豆島と思しき土地で暮らす作家の日常を描いています。「都会に住むと天候を気にしないで過ごす日が多いが、この瀬戸内海の島にいると第一番の関心事となるのは天候である」。初秋に体調が悪くなるのは「低気圧の来る前駆症状」。外に出ると「薄墨色がかった雲が、低空を南々東から北々東へ飛ぶように流れる。時々雲の切れ間から見上げる上空の、低空の雲足が早いため丁度その反対に動いているように見える。雲の先端は、巻毛のようにまくれこみながら、全速力で、突進している」。農民たちは、この空模様を見ると、畑のものを取り入れ、板戸を窓に嵌め込み、台風に備える。この時の台風は凄まじかった。隣家から瓦や瓦礫が飛んできて、私自身も飛ばされそうになる。落ちついたころ海岸の様子を見に行くと、波止場、突堤、埋め立て地が高潮に没し、無数の新しい下駄が浮いていた。下駄を積んだ船が遭難し、千丁が行方不明になっている。5、6艘の伝馬船が下駄を回収して、潮が引いた埋め立て地へ集めた。下駄屋の番頭は、膨大な量の下駄を整理し始める。翌日、電報を見た下駄屋の主人がやって来て、傷ものの下駄を安値で売り捌く。すると、まるで下駄の市でも立つように、女たちが集まってきた。もうバーゲンセールのような騒ぎで、あちこちでも賑やかなこと。そこに島の下駄屋の女将まで現れ、「この下駄を買うていんで店で売るつもりじゃな」と陰口が聞こえる。しかし女将はびくともせず、「ゼニ払わずに持っていぬ人がありますのう」と言い返す。私の子どもは、下駄屋から下駄をもらったが、妻が捨ててしまった。下駄泥棒の汚名を着せられたからだ。本作は、瀬戸内の風土と、そこに生きる農民の姿が鮮やかに描かれています。台風の去った後は、いい秋日和になった。「空の青さは長らく見なかったと気づくほど澄みきって青かった。こりゃあ颱風禍をつなぐなってあまりがある。ふと私はそんな気がした。それほどの青空には値打ちがあるように思われた。だがあの暴風を経なければこの青空は見られないのかもしれない」筆者は、この「青空」を見たことがあります。悪天候の後だからこその、澄みきった、手を伸ばせば、指先まで青く染まる空——人の生涯にも同じことがあるものです。[参考文献]山本善行選『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』サウダージ・ブックス 【ぶら~り 文学の旅㉞】聖教新聞2021.7.14
August 25, 2022
コメント(0)
なぜ「経済的に恵まれない人」が「新自由主義を支持する」のか? 社会心理学が明らかにしたこと 自分にとって抑圧的な環境、不都合な状況なはずなのに、なぜかそこに適応してしまう。こうした態度を「自発的隷従」と呼ぶことがある。こうした自発的隷従のような態度について、社会心理学の見地から分析した、ジョン・ジョスト『システム正当化理論』(ちとせプレス)が刊行された。訳者の一人である東洋大学教授の北村英哉氏がその読みどころを解説する。 なぜ政権党は勝ち続けるのか?まさに今の時代に合っている。ジョン・ジョストが提唱する「システム正当化理論」、そんな風に考えた。この理論は、「なぜだか現状維持に走ってしまう人々」の生の現実的な姿をつかむことに長けている。システム正当化理論は、社会心理学の理論である。これまでの社会心理学の理論では、多くの場合、人々は自分自身が属する内集団を好み、自集団の有利を期待し、その利得に合致する方向で行動するものだとされていた。しかし、システム正当化理論は、こうした従来の理論とは反対に、自分の利得にならない行動をする人々について、うまく説明することができるのである。現在、そうした「自分の利得にならない行動」が目立っているように見える。たとえば、日本の場合、おおまかに語れば自民党などの政権党は、経営者や大企業などのすでに日本社会の中で、有利な地位を得ている人たちの利益代表であり、「金持ち」「貧しい」という二分法で言えば、明らかに富む者のための政策を行う集団である。したがって合理的には、社会階層の高い者たちが自民党を支持し、社会階層が低い者たちは野党を支持するはずである。そして、階層の高い者、豊かな者は社会全体から見れば少数であるから、大多数のお金持ちではない庶民は野党を支持しないと原理的にはおかしいということになる。しかし、7月におこなわれた選挙でも、そうした結果にはなっていない。必ずしも豊かとは言えない人々も自民党に票を入れていなければ、比例区において自民党が最大割合(35%ほど)を獲得するという結果にはならないだろう。SNSでは、野党を支持する人たちから、こうした選択について「愚かな選択」だとか、「分かっていない」などの発言が繰り返される。近年のリベラル層には、「正しくはリベラル的な政党を支持すべきだ。それが分からないのは知識がないのか、考え間違いなどをしているか、愚かなことである」といった意見も見られる。しかし、ある意味、自民党を政権党にするという選択は、ほぼ一貫して第二次大戦後の日本社会のデフォルトの通常風景であり続けた。70年以上、例外的な時期を除けば、現在の政権党にあたる勢力を全体としては、支持し続けているのである。こうなってくると、そうした選択を単なる「間違い」で済ませるわけにはいかない。むしろ、そうした結果になってしまう理由を考えるべきであろう。それこそが、理性的な思考となるのではないか。そして、その理由を考えるのに役に立つのが「システム正当化理論」である。人は現状維持を望む傾向がある:安全を求めて人は現在の社会のあり方をそのまま受け入れ、維持する傾向がある。これをジョン・ジョストは「システム正当化」と呼んだ。今こうであることには意味があり、それが正しいことであると正当化してしまうのだ。このシステム(≒現状)を正当化しようという動機の基盤には、「認識論的欲求」「実存的欲求」「関係的欲求」があるという。その仕組みを理解するために、システムを認めず、正当化をしなかったらどうなるか考えてみよう。ある種の社会では政治的な現状に異議申し立てを行い、現在の政府を批判すると弾圧を受けるような場合もある。あからさまな弾圧は存在しない民主主義の国であっても、すでに多くの人が現政権を支持する状態に生まれ育てば、それを支持しないと周囲の人たちから非難されるかもしれない。たとえもし、現在の政治が正しくなく、変えるべきであると考えて行動したとしても、その先、どうなるかはわからない。実際、日本においても、2009年に政権交代が実現し、民主党政権ができたが、十分に国民の期待に応えた政策を実行できたかどうかまだよくわからない状態で、政権維持に行き詰まり、事実上、最後は政権を投げ出すような行いを示した。もちろん、それまで数十年もの間自民党の長期政権が続いてきたという環境では、長期間にわたって自民党と強固に連携してきた行政組織や経済団体と、関係を容易に「交代」できるわけではなく、その抵抗にあえば、行政的に行き詰まりやすい。政権交代がよい結果をもたらすかどうかは、結果論的にあとを待たないと分からない。常に未来は不透明である。「世の中が変わらなければ、生きていける」以上の話には、先に述べた「3つの欲求」がすべて含まれている。まずは認識論的欲求である。どうなるか見通しがわからない、認識的に不分明・不確実な状態は、認識論的欲求として「わかりやすい」「すでにあった」「今までどおりのやり方」への志向性を高めてしまう。わかりやすく言えば、「自分はこれまで生きてきた世の中が今のまま何も変わらなければ、明日も生きていけるだろう」という確実性への欲求が、現状維持、すなわち、システム正当化を志向させるのだ。つぎに、実存的欲求について。現状を支持する限り、周囲からは何の圧力もかからないだろう。周囲と軋轢を生まなければ安全を脅かされることはない。声高に反対を表明したり、デモに参加したりすることは、職場によっては反感を買ったり、評価を下げたり、出世を妨げたりすると考える人もいるだろう。逆に言えば、政権に対して反対の意思を示すのは、いくらかの勇気と決断力、そして、組織などから見放されても自分の力で生きていける自信がないと、チャレンジしにくいことである。日本人は概ね自己評価が低い。自己評価の低い者にとって、安全を捨てて、危険のなかに飛び込むのは、言ってみれば「映画のなかだけの出来事」であり、現実の自分が行うことは決してないのである。特に日本ではリスクが嫌われる。リスクをとる覚悟で何かをやるのは、日本社会では「少し変わった人」である。多くの平凡な人たちは、「変わった人」になる勇気など持ってはいない。「ふつうが一番」なのである。そしてその「ふつう」とは政権党を支持することである。この「自身の安全を守りたい」という気持ちが、実存的欲求である。「ふつう」でいないと職場や所属集団で「浮く」かもしれない。若者も「意識高いね」と皮肉られるのを嫌う。現在、「空気を読む」という傾向が若者の間で強まっていることを示す、筆者の調査データもある。そもそもとがった意見を言うこと、何かを批判することについて、日本では免疫に欠ける。欧米のデータでさえ、この「関係的欲求」に基づき大勢の人はシステム正当化を行うというのがジョン・ジョストたちのデータだ。日本においても、同様に周囲の人たちから無難に受け入れられるようにシステムを正当化する様子が見られる。以上がいつまでも政権党(自民党)が勝ち続ける理由だ。こうして記してみると、すでに誰もがわかっているだろう、実にシンプルな常識ではないだろうか。だが、このシステム正当化理論をおいてほかにこれをきちんと整理して、理論化した考え方がなかったのだ。「この集団を脱したい」という思い自分が属する集団を「内集団」、自分が属さない集団を「外集団」という。この関係性を重視する社会的アイデンティティ理論では、人は自身の属する内集団をひいきすることが幾度も語られてきた。しかし、この点についても、システム正当化理論は異なる角度から社会を見つめる。そしてそこにも、自身が必ずしも得をしない政策を推進する政党を支持してしまったりする現象を説明する手がかりがある。日本ではアメリカのスラムと異なり、貧困地区が明瞭に他と区別されるように存在することは減ってきているが、たとえばスラムに住む者が全員「自分たちの集団はすばらしい集団だ」と皆が考えるとは限らない。「いずれこの集団を脱出したい」と考える者たちもいることだろう。ジョン・ジョストはこのように、人は自分が属する集団を必ずしも好むわけではないという、それまでの社会的アイデンティティ理論とは対立する現実に着目した。スラムのなかには「いつか成功してお金持ちになる」と思っている人もいる。彼らは、リッチな人々という、現在の時点では「外集団」である存在に憧れ、それらを好ましく思うのだ。一般の庶民であった者が芸能人に憧れ、いつか有名人になってリッチになることを夢見る場合も同様である。自身が困難な状況にあるほど、そこから脱して望ましい状態に至ろうとする人もいるだろう。その場合、彼らにとって、恵まれた集団は「目標」であって、「批判」する対象とはならない。恵まれた人々(≒社会的に力を持っている人々)を批判したところで、結局、そのあと自分自身がどうなるかは認識論的に不確実であると考えられるからだ。もちろん、狭い集団の範囲で見れば、内集団をひいきし、外集団を貶めたほうが、安全が守られるかもしれない。しかし、より広い社会を視野に入れた場合、恵まれた人々を批判すると、実存的にも安全が脅かされ、関係的にも(より広い範囲の)周囲から煙たがられ、嫌われるおそれ、可能性があるからだ。女性の初期の社会進出の際、男性社会に同化するように、「男並み」の働きを目指して、結婚や家庭を持つことを犠牲にしてきた先駆者がいたのと同じ仕組みが働いているのである。この本ではこうしたジェンダーの問題も取り上げている。そこで、恵まれない人々、不利な人々(の一部)は、恵まれた人々を目標として、努力することになる。こうして努力が成功を生むという神話が支持されることとなり、これは反転して、成功を得られなかった時に、「自分は努力が足らなかった。だから自己責任である」という自己責任論を招くことにもなるのだ。日本において、いまほど、自己責任論が猛威を振るっている時代はなかっただろうと思われる。自己責任論は、経済的な自由や競争を重視する新自由主義的な考え方と相性がよい。自己責任論で自身の境遇を捉える限り、そこから新自由主義を否定する論理は立ち上がりにくい。「外集団ひいき」のような状況この不思議な「外集団ひいき」と言ってよいような状況、すなわち、本来ならば成功した長者が支持することの多い新自由主義に、経済的に恵まれない人たちが絡め取られていく様子を、システム正当化理論は描いている。ちなみに、「システム」とひと口で言っても、実のところ、そこには政治システムのほかに、経済システムや社会文化システムがある。経済システムの正当化への志向性を測定する尺度項目には、「経済格差は不可避であり、それどころか自然なものでさえある」という認識がその中心的なものとして含まれている。その尺度によって人々の考えを測定した研究によれば、格差によって不利な状態にあり、いわば虐げられているものでさえ、今の仕組みは公正で正当であり、だから今の自分の境遇は仕方のないことと認めてしまうのである。これが自発的な隷従であるとジョン・ジョストは指摘している。かつて奴隷制があった時でさえ、それに反発して立ち上がった者のほうが、声をあげなかった者たちよりも圧倒的に少数である。フランス革命など世界史的な革命は、体制をくつがえす人間の力を証明するものとして注目を浴びるが、それ以前のずっとずっと長い間、人々は奴隷制や王政への隷従に堪え忍んできたわけであり、ある意味そうした格差社会に驚くべき順応を示してきたのである。「システム正当化理論」では、歴史上、圧倒的多数の人々が反乱よりも屈服を選び、従属状態に順応してきたことが指摘されている。インドのカーストにおいて下層にある者がそれを当然と考えていたこと、西アフリカの事例においてもカーストに類する制度が廃止された後も、「ご主人さまから呼ばれたら、当然のようにすぐ飛んでくる」といった日常のあり方が続いたことが示されている。人々は現状である日常を「当然のものとして」受け入れ、そのなかで生きているという現実がある。そして、社会文化的側面においても、システムを正当化する人たちは、これまでの習慣を守ろうとする。それは、夫婦同姓という制度であったり、男尊女卑の伝統的性役割であったりもする。フェミニズム運動も若い女性たちから嫌われる傾向が指摘されている。いまだに玉の輿のように、「幸せな結婚」を望む女性たちは巷にあふれている。自ら差別状態に入っていっても、差別されているという実感を持たない不利な立場の人たちもいる。差別されている事実に気づくこと自体が、自分の心を傷つけてしまうからだ。私たち日本で暮らしている人々も、こうした現状において「隷従を続けている」との描写を否定できるだろうか。批判的精神を獲得するには、自身のなかにある認識論的、実存的、関係的不安をまず克服しなければならないのである。そうした安全感覚は、今の日本で広く与えられているであろうか。 東洋大学社会学部社会心理学科教授北村 英哉HIDEYA KITAMURA東洋大学社会学部社会心理学科教授、大学院社会学研究科長。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。博士(社会心理学)。専門は、社会心理学、感情心理学。社会的認知と感情、モラル感情、公正観、偏見・差別などを研究している。主著:『偏見や差別はなぜ起こる:心理メカニズムの解明と現象の分析』(ちとせプレス、共編著)、『あなたにもある無意識の偏見:アンコンシャスバイアス』(河出書房新社)など。 Gendai-media2022.08.05
August 6, 2022
コメント(0)
しんと澄んだ心になる文章作家 村上 政彦中甚助「島守」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、中甚助の『島守』です。中甚助は文豪・夏目漱石の教え子で「一高・帝大」という当時のエリートコースを歩み、恩師の推薦で朝日新聞に自伝小説『銀の匙』を発表しました。それが文壇デビュー作となって、作家活動を始めます。ですから中甚助といえば、『銀の匙』となるのでしょうが、それは少し置きましょう。毎時44年(1911年)9月23日——語り手の「私」は、船で島を渡ります。作中には書かれていませんが、信州は野尻湖に浮かぶ琵琶島(通称=弁天島)といわれています。「私」は、この島で3週間余り暮らし、その生活を日記体でつづった作品が『島守』です。島守とは作者が「私」につけた名です。「鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠ったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる」。けれど、風がやむと、「落葉松のしんを噛む蠧の音もきこえるばかり静かな無風の状態がつづく」。「私」はこの島で「本陣」と呼ばれる地元の人の世話になりつつ、豊かな自然と交歓しながら日々を送ります。全編のほとんどが自然の描写で、国木田独歩の名作『武蔵野』を思わせますが、中甚助に特有の流露観のある、散文詩のような文章が、独自の世界を築いています。「私」の一日は、『読書と瞑想のひまにわが穴を嗅ぎまわる獣のように島のうちを逍いあるく』ことです。鳥の羽を拾って栞にしようと思い、机の上に鳥が食べたらしい小さな蜆の殻をどん栗や杉の花と一緒に並べて眺める。思うがままに生まれ変われるものなら、「美しい衣をみて心にくくも独りすむかわせみになりたい」と夢想する。「私」には、自然の世紀を受け取って、味わう鋭い感受性があります。読み手は、著者の綴る文章に子持ちが濾過されて、いつの間にか、しんと澄んだ心になっています。島における「私」がしていることは、生活の聖化です。食の描写も見逃せません。一日、家の片付けと洗濯をし、湖で水を浴びる。勤勉に働いたご褒美の夕餉です。「味噌汁をつくり、浪華漬をあける。こっとりつつんだ粕の底からぽっくりと西瓜の丸漬がでてきた。さもうまそうに太い皺がよってずっくりと酒の気がしみているのを蓋のうえでほどよく切って皿につける。汁も煮えた。いそいそとして飯を食べる」——このようなご馳走は、ミシュランの三ツ星レストランでも味わえないのでは。ちなみに、「私」=中甚助は、この島で『銀の匙』を書いたそうです。名作は、このような風土で生まれたのです。[参考文献]中甚助・寺田寅彦・永井荷風著『岸』 ポプラ社 【ぶら~り文学の旅㉝】聖教新聞2021.6.23
July 29, 2022
コメント(0)
実力も運のうち 能力主義は正義か?マイケル・サンデル著 鬼澤 忍訳学歴偏重を生み、社会を分断山口大学教授 小川 仁志 評誰でも努力と才能があれば成功できる。それはアメリカンドリームの前提であって、人々を勇気づけてきたことは間違いない。しかし、こうした能力主義は学歴偏重主義を生み、その結果、社会を分断することになってしまったとサンデルはいう。努力すればいい大学に入れるかと言うと、実はそうではない。生まれた境遇によって受けられる教育が変わってくるからである。つまり、努力できるかどうかさえ、運に支配されているのだ。このことを心から理解すれば勝者は謙虚になれる。ところが現実には、勝者はおごり、敗者は屈辱を覚えている。だからこそ高学歴でない白人労働者層が、トランプ前大統領を支持するというポピュリズムの問題が生じたのである。その分断は今なお解消されていない。そこでサンデルは、社会の共通の目標である共通善を紡ぎ出す必要があるという。ただし、これまでのように消費者の幸福を最大化するようなものであってはいけない。むしろ生産者の方に目を向けるべきだというのである。つまり、すべての労働者が、自分も社会に役立っている、貢献できていると感じることのできる状態を作らなければならないというわけだ。では、どうすればそんな貢献的正義ともいうべき共通善についてコンセサスを得ることが出来るのだろうか?サンデルが提案するのは、条件の平等を整えることによって、公共空間を再生するという方法だ。具体的には、「社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広くいきわたった学びの文化を共有し、仲間の市民と経教の問題について熟議すること」が必要だという。そうして初めて、異なる立場にいる人たちが混ざり合い、互いを理解し合うきっかけできるのである。コロナ禍によって、日本でも社会の分断が起り始めている。能力主義の問題は決して対岸の火事ではないのだ。サンデルの問い掛けに、私達も答えを用意しておかなければならない。◇マイケル・サンデル 1953年生まれ。ハーバード大学教授。専門は政治哲学。 【読書】公明新聞2021.6.21
July 28, 2022
コメント(0)
現代民主主義 思想と歴史権左 武史著/講談社選書メチエ 2035円〈いま〉に対する最良のワクチン成蹊大学教授 野口 雅弘 評 今日、民主主義は総じてプラスに評価され、ナショナリズムはマイナスに評価される。「民に」が無視されたと思えば私たちは怒るし、排外的な国民意識の高揚には警戒をもつ。しかし、この時に忘れがちなことがある。民主主義とナショナリズムは密接に絡まりあってきた、という点である。『社会契約論』の著者で、代表的な民主主義の思想家として知られるルソーは、「祖国のために死ぬこと」を要求した。国民の意志を尊重せよという主張は、排他的な「同質的な国民」観と結びつく。トクヴィルやミルらの自由主義は、「治者と被治者の一致」というルソー的な純粋民主主義に制限を加えようとした。著者はこの成果を強調する。ところが、選挙権の拡大と共に、国民的な象徴が創設され、これがマイノリティーの同化と指導者崇拝につながっていく。こうした二〇世紀の大衆ナショナリズムと関係付けながら、著者はウェーバーの指導者民主主義を批判的に考察する。もっとも、ウェーバーのナショナリズムは一筋縄ではいかない。後年の彼はナショナリズムを「相対化」した、と著者も指摘している。しかしいずれにしても、ナショナリズムと結合した執行権の強化が、制限された民主主義を退行させ、全体主義につながっていった。ウェーバーからシュミットへの展開を、本書はこの筋で理解する。学説的な説明は退屈だと感じる読者もいるかもしれない。しかし本書はヘーゲルのいう「阿呆の画廊」(過去のガラクタの陳列)ではない。いろいろな歴史がある、という相対主義を、著者は決然と拒否する。過去の思想のいくつかのブロックの関連から、〈いま〉が照らし出される。冷戦構造が崩壊し、東西ドイツが統一した。グローバル化で格差が拡大する中で、世界的にナショナリズムが回帰している。「民主主義とナショナリズムの相互作用の力学」が再び作動している、というのが本書の診断である。「思想と歴史」の知識は「新型ナショナリズムの感染症が突然現れて重症化するのを予防できるのではないか」と著者はいう。〈いま〉に対する最良のワクチンになり得る一冊だ。◇ごんざ・たけし 北海道大学大学院法学研究科教授 【読書】公明新聞2021.6.21
July 27, 2022
コメント(0)
中上健次「岬」作家 村上 政彦複雑に入り組んだ現実を描写本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、中上健次の『岬』です。中上は、紀州は和歌山県新宮市の出身。本作で戦後生まれの初の芥川作家となりました。作家・大江健三郎の影響を受け、若くして小説家として出発したのですが、『岬』では、すでに独自の鉱脈を掘り当てています。若い頃の僕は、同時代の日本文学の作家の中で、中上健次が最も好きでした。僕が作家デビューを果たしてしばらく後、人を介して「会いたい」との伝言があったのですが、諸般の事情でかないませんでした。それから何年かして中上が急逝し、あの時に会っておけばよかった、と悔やんだものです。『岬』は、中上の代表作です。舞台は和歌山県。母と義父、義兄の4人暮らしをする若者・秋幸が主人公です。秋幸は大阪の建設会社を半年でやめて、岐阜の組で建設作業員になるのですが、義兄と仕事のトラブルがあって、義父ともうまくいかず、姉の美恵の夫の組で働くようになります。彼は、自身の仕事が性に合っています。建設作業員は「日とともに働き、日とともに働きやめる」「一日、土をほじくり、すくいあげる」「土には、人間の心のように綾というものがない」——「この単純さが好きだった」というのです。つまり、秋幸は、清い水のような、濁りのない、単純な生を求めている。ところが、彼の生きる現実は、入り組んでいます。彼には、兄妹が人いるのですが、3人は父親が違う。また、1人は義理のきょうだいです。一番上の兄は、若くして首を吊って死にました。その出来事が彼の生に影を落としています。そして、物語が進行するにつれて、美恵の夫の妹の連れ合いが、仲の悪い義兄を刺殺する事件が起こり、それをきっかけに美恵は気がふれてしまう。幼子のようになってしまった美恵と一緒に、きょうだいが岬へピクニックに行く場面は、読みどころの一つです。「岬と海が見える。日が雲でおおわれる。墓地の前の崖っぷちの真下は、竹林だった。風に波うち、色が変わった。その下に、遮るものもなく、芝生がつづく。岬の突端が、ちょうど矢尻の形をして、海に食い込んでいる。海も、青緑だった。岬の黒っぽい岩に波が打ちよせ、しぶく」この後、秋幸が「その身に、酷いことを被りたかった」という結末へ向かうのですが、その瞬間、枯葉「海に食い込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛り上がり、高くなれと思った。海まで裂いてしまえ」と。本作の底には、生の禍々しさがどくろを巻いています。中上は、よく「切れば血が出る小説」と書きたいと言いました。まさに『岬』はそうでしょう。〈参考文献〉『岬』 文春文庫 【ぶら~り「文学の旅」㉜】聖教新聞2021.6.9
July 8, 2022
コメント(0)
ウクライナ出身の作家アレクシエーヴィッチを読む日本大学特任教授 安本 隆子名も無き人々の証言から真実を描く私たちがこれまで生きてきた20世紀とは、戦争、科学技術の進歩、そして、社会主義・共産主義の生成と衰退の時代であった。まさにセヴェトラ―ナ・アレクシエーヴィッチはこのような20世紀を描いた作家である。すなわち、『戦争は女の顔をしていない』ではソ連の様々な女性兵士の証言を通して、そして、『最後の証言者たち』(邦題『ボタン穴から見た戦争』)では当時子どもであった人々の証言を通して独ソ戦の実態を描いた。また、『亜鉛の少女たち』(邦題『アフガン帰還兵の証言」』では、勝利無きソ連のアフガニスタン侵攻の真実を描いている。『チェルノブイリの祈り』では、科学の粋を凝らしたはずのチェルノブイリ原子力発電所の事故に遭遇した人々の戸惑いを、そして、『死に魅了された人々』『セカンドハンドの時代』では、ソ連邦崩壊後のロシア人の姿を描いて社会主義・共戦主義とは何であったのかを問うた。いずれも名もなき小さき人々の声を集め、多声的叙述の中にこの時代を生きた人々の苦難と精神の軌跡を浮き彫りにしている。『戦争は女の顔をしていない」では、男たちが語る「事実」としての戦争、つまり、戦車が何台投入され死者が何名といったことではなく、純粋な愛国心や戦場でも忘れることのなかった女性としての感性など……女性兵士たちの「気持ち」が描かれている。では、この女たちの捉えた戦争は私たちに何を教えるだろうか。言うまでもなくナチスドイツの残虐な行為への憎悪は彼女たちを戦闘に駆り立てたが、アレクシエーヴィッチが伝えたかったのはそれだけではない。内なる葛藤を抱えながら傷ついたドイツ兵の治療をしたり、飢えたドイツ人捕虜にパンを与えた自分に人間らしさが喜ぶ声がある。 敵味方を超えた「人類愛」が通低音また、ソ連兵に暴行されたドイツ人女性はこれ以上血を見たくないと犯人を告発せず許すことを選んだ。戦争の醜さだけでなく、このような「人を愛すること」、敵味方を超えた「人類愛」というテーマがあることを忘れてはならない。そして、これはアレクシエーヴィッチの文学に通低音として流れているものでもある。アレクシエーヴィッチはかつて「ロシアは重篤な状態で、世界にとって危険です。プーチンは『力』で解決しようとし、核の使用の可能性も口にしました。」と、ロシアの「意識の軍国化」を指摘し、「いずれロシアは戦争をするでしょう(略)ウクライナと戦争し、征服すべきだと言っている。」語った(2016年12月16日『朝日新聞』)。この危機は現実となり、今年2月、独善的な「ネオナチ殲滅」の大義名分を掲げロシアはウクライナに侵攻した。今も行方の見えない激しい戦闘にはウクライナの女性兵士も加わっている。その数は兵士の約15%、3万人とされる。戦時か、女性は「感情の動員」利用されがちである。「女性なのに」「女性さえ」戦う状況に人々は感情を揺さぶられる。それを為政者は利用するのだ。しかし、私たちは武器を執る女性兵士たちの真実の気持ちをアレクシエーヴィッチの著書を通して知ることができる。ウクライナの女性兵士たちも思っているはずだ。「私たちは敵を倒すためではなく、『戦争を殺すため』に戦っている」と。(やすもと・たかこ) 【ブック・サロン】公明新聞2022.6.27
June 28, 2022
コメント(0)
「利他」とは何か伊藤亜紗 編著 中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯崎憲一郎 著 山口大学教授 小川仁志 評 「うつわになる」という人間観新型コロナウイルスは万人に平等に襲い掛かっているようで、決してそうではない。経済的に弱い立場にある人や、特定の業種の人たちに被害が集中している感がある。だからこそ助ける側と助けられる側に分かれてくる。昨今、利他という言葉を頻繁に耳にするのは、そうした背景があるものと思われる。本書は、その美しい倫理に潜む様々な側面を浮かび上がらせようとする試みである。これは極めて哲学的な営みであるといっていいだろう。なぜなら、普段私たちが分かったつもりで使っている耳当たりのよい言葉を、あえて疑い、様々な視点からとらえ直そうとしているからである。通常私たちは、他者を助けるという意味で利他という言葉を使い、実践している。しかし、結局その背景に利己心が潜んでいるという指摘は胸に突き刺さる。あるいは、自分が利他的行為を意図的にやっているつもりが、実な何か別の力が働くことでそれが起こっているとしたらどうかと問われると、思わずハッとしてしまう。後書きでまとめられているように、5人に著者に共通するのは「うつわになること」という人間観である。つまり、うつわというからにはそこに他ならぬものが入る余地があり、かつ自分がそれを入れるという意思を超えた要素があるということだと思われる。これまで私は、うつわとは正反対で、どちらかというと利他を匙のようなイメージでとらえていた。自分の意志に基づき他者に分け与える行為として。それゆえにうつわのイメージには蒙を啓かれた。と同時に、利他のどこまでも開かれた性質、意志によって定義できない本質に鑑みる時、そのうつわがまた新たな利己に見えてきたのも事実である。著者たちが認めているように、本書の議論はあくまで出発点なのだろう。果たして、私たちがこれまで想像もしなかったようなうつわを目にする日が来るのだろうか。そしてその時世界はどう変わるのか。(集英社新書 924円)◇いとう・あさ 美学者。『記憶する体』を中心とした業績でサントリー学芸賞受賞。 【読書】公明新聞2021.5.24
June 18, 2022
コメント(0)
憲法改正が「違憲」になるときヤニヴ・ロズナイ著 山元一、横大道聡 監訳 世界旅行気分を味わえる豊富な具体例東京都立大学教授 木村 草太評本書は憲法改正の限界を扱う。まず注意が必要なのは、「革命の限界」と「憲法改正規定による正当化の限界」の区別だ。前者は事実の問題で、後者は規範の問題だ。しかし、文字にすると両方とも「改憲の限界」問題となるため、混同されやすい。国民の多くが「これが憲法だ」と思っていたものが、敗戦や市民の蜂起をきっかけに別の憲法に置き換わる、との事実が生じることを「革命」と呼ぶ。革命がどこまで可能なのかは、社会的事実による。国民が幸福に暮らし、統治機構が信頼を獲得している子にでは、革命は起きにくい。逆に、横暴な独裁国家では、革命が起きやすい。これが事実としての「革命の限界」の問題だが、本書の主題はここにはない。多くの憲法には改正手続きが定められており、この手続きを踏んだ憲法改正は、「元の憲法自身がそれを認めた」という理由で正当化される。もっとも、既存憲法の基本原理や構造を破壊することは、その憲法自身による正当化はできず、革命として扱われる。例えば、人権の永久保障を掲げる憲法を根拠に、人権を無視した改憲を正当化するのは無理だ。これが、本書の主題たる「憲法改正規定による正当化の限界」だ。一般に、憲法改正規定に基づく改正には限界がある。ドイツ連邦共和国基本法のように、改正禁止事項の明文で規定する場合もあれば、改正規定の明文がないものの、憲法の基本原理や基本構造の改正は許されないとの考えが広く共有されている場合もある。本書は明文の改正禁止規定、不文かつ憲法内在的な改正禁止、自然を卯や国際法による改正禁止を紹介する(第Ⅰ部)。では、憲法の改正禁止はいかなる理論に基づくのか。著者によれば、人民には一次的憲法制定権力がある。これは既存憲法を無視しうる、憲法制定の原始的権力と考えるべきだ。他方、憲法上の憲法改正手続きは、その一部が委任されたもので、憲法により制限される。憲法改定手続きが議会内の決議に留まる場合には、人民との距離は遠いので、改正限界も大きくなる。逆に、国民投票など、人民の権力を直に発動するような手続きを踏む場合には、憲法改正手続きの性質は人民の憲法制定権力に近づくので、限界は小さくなる(第Ⅱ部)。憲法改正禁止に関する裁判的統制も、この観点から説明される。つまり、憲法改正手続きは、人民の一次的憲法制定権力とは異なり、人民から委任された範囲での改正しか許されない。そこで、委任範囲の確定が、裁判の重要な機能となる(第Ⅲ部)憲法改定の性質を論じる議論はスケールが大きくなりがちだが、本書は対象をほどよく限定しており、論理も常識的だ。もちろん、それを物足りないと感じる人もいるだろう。しかし、明快な理論は問題の適切な切り分けの賜物だ。また、著者の驚異的な好奇心のおかげで、豊富な具体例にふれられ、政界旅行気分を味わえる。憲法について考えるときに、ぜひ一読していだきたい。◇ヤニヴ・ロズナイ 1980年生まれ。テルアビブ(イスラエル)生まれ。ヘルツリーヤ学際センター・ロースクール准教授。憲法・比較憲法・国際法等を担当。 【読書】公明新聞2021.5.3
May 22, 2022
コメント(0)
吉田健一「金沢」作家 村上政彦本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして、今日は吉田健一(1912~77年)の『金沢』です。吉田健一は、昭和の最小・吉田茂の長男ですが、父の政治的な後継者とならずに、文学者になることを選びました。イギリスのケンブリッジ大学で学び(中退)、ヨーロッパの教養を身に付け、評論、小説、エッセーなど質の高い作品を残しています。また、部類の酒好き、グルメでもあり、本作にも、その影響が見られます。『金沢』は不思議な小説です。冒頭で「これは加賀の金沢である」と書き出しているのに、すぐ「尤もそれがこの話の舞台になると決める要素もない」とくる。しかし、ご安心を。舞台は金沢で、この土地の魅力がたっぷりと愉しめる作品になっています。主人公は、東京で屑鉄問屋を営んでいる内山という50代の男。旅行が好きで、金沢を訪れた時に、犀川が見下ろせる家を見て惚れ込み、手に入れます。その後、内山は新編の世話をしてくれる骨董屋と知り合って、さまざまな金沢人と出会い、酒宴を繰り広げる——物語としては、ただそれだけのシンプルな話です。特徴的な文体。「内山は雨が好きだった」と始まる第4章では、金沢が一番金沢らしいのは雨の日であることを述べるのですが、「内山は金沢で偶の商用の他は何をしに来るのでもなかった。それは何もしないでいる為に来るのと同じことで一日中そうしてその部屋で雨の音を聞いていてもそれで金沢に来ているのだった。その雨に濡れた町の様子見なくても胸に描けて犀川に掛かっている鉄橋も庭の木の葉に似て光っているのだろうと内山は思った」というような長文が延々と続くのです。作品の雰囲気は、紗のかかった映像を見ているように朦朧としていて、金沢の町、そして内山の買った家のこと、酒宴での様子が語られていきます。本作の実質的な主人公は、内山ではなく、金沢という町と思った方がいいでしょう。この町にいる人は、「時間がたたせるのでなくてたつものであることを知っていて」、金沢にはそういう時間が流れている。それが人間の生活のあるべき姿で、町も同じだ。そうでなければ、そこにあるのは町ではなく、「人間と人間が作ったものが地表を汚しているにすぎない」。さて、グルメぶりが発揮されるのは、登場する料理です。「茄子紺の古九谷の蓋もの」に入った「鮭の脊髄の塩辛」。「熊の肉を雪に埋めて凍らせたのやごりの空揚げ」。春に採って酒粕などに漬けた星草。雪を溶かしたような味の甘口の銘酒。泥鰌の蒲焼。棒鰤。岩名のこつ酒。梅干しのような野鳥の胆の酢漬け——まだまだありますが、この辺で。金沢は、美味しい町なのです。<参考文献>『金沢・酒宴』講談社文言文庫 【ぶら~り文学の旅㉙】聖教新聞2021.4.28
May 16, 2022
コメント(0)
リベラルとは何か 田中 拓道著「自由な選択」を保証する法政大学教授(比較政治学) 新川 敏光評政治学において主要な概念は、すべて論争的である。「リベラル」や「リベラリズム」という概念も例外ではない。概念と党派的な対立とが複雑に絡まり合い、解きほぐすことは容易ではない。しかし本書では、現代リベラリズムは、古典的自由主義(自由放任主義)ではなく再配分を重視するニュー・リベラリズム(社会的自由主義、自由主義的社会主義などともいわれる)の流れであり、「リベラル」とは、「価値の多源性を前提異として、全ての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保証するために、国家が一定の再配分を行うべきだと考える政治的思想と立場」であると、明快な見解が示される。そして、そのような観点から、第二次世界大戦から今日にいたるまでの先進国政治経済の構造的変化を、幅広い研究成果に基づいて的確にまとめている。1970年代半ばまでは超党派的なリベラル・コンセンサス(社民的合意ともいわれる)が存在し、福祉国家が発展した。しかし経済状況の変化によって、福祉国家は、新自由主義(ネオ・リベラリズム)の挑戦を受けるようになる。また脱物質的な価値意識が広まり、生分配政治の限界が書きらかになる。リベラル・コンセサスが崩壊した今日、就労促進型のワークフェア共創国家と排外的ポピュリズムが政治の前面に登場し、社会的分極化を引き起こしている。これに対抗する現代リベラリズムの可能性を、著者は、ジョン・ロールズの正義論、アルマティア・センのケイパビリティ論、EUのリスボン戦略など、様々な理論や政策対応を検討するなかから、再配分政治の復権と文化的リベラリズムに見出そうとしている。本書は、「リベラル」、そして「リベラリズム」に関する理論、歴史、さらに現代政治にいたるまで、非常に込み入った難しいテーマに取り組み、手際よくさばいてみせる。内容的には密度が高く、読者は襟を正す必要があるが、今日の政治状況を理解するうえで大きな多係を得ることができるであろう。◇たなか・たくじ 1971年生まれ。一橋大学大学院社会研究科教授。専門は政治理論、比較政治。著書に『福士誠治氏――格差に抗するデモクラシー』など。 【読書】公明新聞2021.4.19
May 7, 2022
コメント(0)
RAGE 怒りボブ・ウッドワード著 伏見威蕃訳 国際ジャーナリスト 春名 幹男評 トランプ氏が引き出したもの原書が米国で出版された昨年9月、ドナルド・トランプ前米大統領はコロナ禍を「つねに軽く見せたかった」ので、わざと「コロナ」の問題で注意を引かないような発言をしていたとの記述が大きく報道された。このことは1か月半後に迫った大統領選挙に大きい影響を与える。予想通り選挙結果はトランプ氏敗北となった。しかし、興味深い記述は他にいくつもある。もっとも注目すべきは、ミサイル発射や核実験を繰り返した北朝鮮と米国が戦争の崖っぷちに追い込まれた、とする経緯だ。北朝鮮は2017年7月以降、米国本土に到達可能な大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を繰り返した。9月には水爆と見られる核実験を行った。これに対してトランプ氏がツイッターで、金正恩総書記のことを、「ロケットマン」などと罵った時期のことである。2019年に当時を振り返って、トランプ氏は、「彼(金総書記)は全面的に戦争準備をしていた」と明かし、「私が大統領ではなかったら、……大規模な戦争になっていたはずだ」と語ったという。だが、直接の会談をして「会った」ので戦争を回避したというのだ。2018年に初の米朝首脳邪五段を実現した陰の立役者は、韓国生まれで、米中央情報局(CIA)の元工作員から挑戦ミッションセンター長に就任したアンディ・キム氏だった。彼は20年前に開拓した北朝鮮情報筋と「浦チャンネル」で連絡を取り合い、韓国の協力も得て、シンガポールでトランプ・金会談が実現した。これで「北朝鮮の核の脅威は、もはや存在しない」とトランプ氏は成功を宣伝した。だが、それも含めて、現実には「非核化」は達成されなかった。電話や大統領執務室での会見を含め、インタビューは全部で18回。題名は「人々の怒りを引き出す」という彼のポピュリズムから取った。それが米議会議事堂突入事件を引き起こし、癒しがたい「分断」を残した。(日本経済新聞出版 2500円) ボブ・ウッドワード 米国を代表するジャーナリスト。1943年生まれ、イェール大学卒。49年間にわたりワシントン・ポスト紙の記者、編集者を務める。 【読書】公明新聞2021.3.22
April 10, 2022
コメント(0)
日本は「右傾化」したのか小熊英二、樋口直人編 重要な問いに研究者・ジャーナリストが挑む東京大学教授(現代日本政治論) 谷口 将紀評 政権交代可能な政治システムになったにもかかわらず、2012年以降、自民党と公明党の連立政権は衆院選・参院選を6連勝し、安倍首相の在職期間は歴代最長を記録した。立件民主党をはじめとする野党は低迷が続き、インターネットやマスメディアの言論空間でも保守派の勢いが強い。日本社会は「右傾化」したのか―—このシンプルかつ重要な問いに対し、各分野各世代の研究者・ジャーナリストが挑んだのが本書である。もとより名うての書き手ぞろい、各省のアプローチや結論はさまざまである。しかし、編者による手際のよい整理もあり、次のような大きな議論の流れを見出すことができる。人々の意識が右傾化したとは言えない。世論調査からは、中国や韓国に対する排外意識の高まりなどは見られるものの、社会文化的価値観が保守化しているわけではない。自公政権が長期化しているのも、小選挙区制や野党の分立といった有権者の右傾化以外の要因によるものである。一般に韓国への対抗措置と理解されている島根県の「竹島の日」制定も、著者によれば元は小泉政権による「地方切り捨て」に対する異議申し立ての性格が強かった。一方、メディアや組織、思想のレベルでは、ところどころに右傾化の兆候が見られる。スマートフォンやSNSの普及により、匿名掲示板にしばしばみられる排外主義的・反リベラルな言説が広く一般層にも届くようになった。ネットメディアに押されて、新聞や雑誌も分極化し、野党の弱さとあいまって右派メディアの勢いが目立つようになった。街宣右翼や右派ロビー、排外主義的運動といった草の根組織が伸長しているとは言えないが、安倍政権と日本会議や神道政治連盟の結びつきは強い。天皇や国家神道に関わる言説も、長期的に一定の効果を持ったとされる。そしてはっきり右傾化したとみられているのが、自民党である。彼らは世論の変化を受けて右傾化したのではなく、民主党に対抗し、内部の結束を固めるために政治家主導で右傾化路線を選択した。こうした自民党議員の右傾化は、国会議員に限らず、自民党議員同士の競争や日本維新の会など他の保守政党との競合が生じている地方議会にも観察される。以上の論旨は、日本政治が保守化したという場合、それは自民党政治家の右傾化を指すのであって、有権者が(個別争点での変化こそあれ)右旋回したのではないという、評者年来の主張ともおおむね合致している。そこで生じる次なる問いは、右傾化すなわち中庸な立場から離れていった自民党を、なぜ有権者は支持し続けたかである。多くの人が重視する経済政策では、どの政党の主張が自分の立場に一番近いかではなく、どの政党が一番うまく経済を運営できそうかが問われたから、というのが評者の見立てだが、これが正しければ、コロナ禍による経済の混乱は自公政権が正念場を迎えたことを意味する。本書は座右に置きながら、来るべき総選挙を観察したい。◇おぐま・えいじ 1962年生まれ。慶応義塾大学総合政策学部教授。ひぐち・なおと 1969年生まれ。早稲田大学人間科学学院教授。 【読書】公明新聞2021.1.18
January 17, 2022
コメント(0)
ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのかベンジャミン・カーター・ヘット著 寺西のぶ子訳 既成保守派が利用しようとして悲劇を生む大阪市立大学教授(ヨーロッパ政治史) 野田昌吾評 1933年に成立したドイツのヒトラー体制は、世界で最も進歩的だと言われたワイマール憲法を停止し、政治的反対派を排除してナチ党の一党独裁体制を樹立、第二次世界大戦引き起こし600万人ものユダヤ人を虐殺した。ヒトラーは政権に就くまで猫の皮をかぶっていたというわけではない。彼とナチ党がドイツの民主主義にとって非常に危険な存在であるということはよく知られていた。にもかかわらず、どうして当時のドイツ人たちはヒトラーを首相の地位に就けたのか?米国の気鋭のドイツ史研究者である筆者の答えを一言で言えば、ヒトラーとナチ党は独力で権力に到達したのではなく、ナチ党以外の既成の右派政党、経済界、地主帰属、軍部などの保守派がヒトラーとナチ党を必要とした結果として、彼らの力を借りて政界入りを果たした、というものである。子のヒトラー政権成立のいわば「主犯」である保守派の重要人物、大統領のヒンデンブルク、ヒトラー首相の二人の前任者、政治的に未熟な貴族政治家バー篇と政治的策略にたけた軍の最高実力者シュライヒャーたちに主として焦点を当てつつ、保守派が何を考え、なぜ、どのようにヒトラーを必要としていったのかが、著者の巧みな筆致によって二つのドラマのように描かれている。また、各省の冒頭には、ナチ党の暴力組織によるテロ行為などの衝撃的で印象的なエピソードが配され、読者が当時の社会的政治的状況を理解できるように周到な工夫が凝らされている。このように一休の読み物として組み立てられている本書が読者として第一に念頭に置いているのは、著者が暮らす米国の普通の人々である。ドイツで1930年代に起きたことは決して過去の外国の出来事なのでなく、民主主義がいかに壊れていくかを米国人はよく理解しなければならないという思いが著者に本書を書かせたといってよい。当時のドイツでは、リベラルな都市と保守的な地方、グローバリズムと反グローバリズムの対立、社会の分断・亀裂が深刻だったのであり、こうした極右勢力を既成保守派が自らの権力維持のために利用しようとして悲劇を生んだのだと著者が言うとき、そこで何が暗示されているかはあらためて言うまでもない。民主主義とは実は脆いものである。かつてのドイツや今日の米国の例が示すように、法の支配を軽視する政治家を、責任ある政党が権力への誘惑や選挙対策上の必要から支持することの危険は決して小さくない。権力のブレーキ役を任じていても、いざとなったときには何もできない。本書のメッセージは、わが国の民主主義に責任を負うすべての政党へのメッセージでもある。◇ベンジャミン・カーター・ヘット 1965年、ニューヨーク州ロチェスター市生まれ。ハーバード大学にて歴史学博士業取得。専門はドイツ史。 【読書】公明新聞2021.1.11
January 9, 2022
コメント(0)
デジタル化する新興国伊藤亜聖 著 神戸大学教授 梶谷懐評 米中対立が激化する今に中国は日本よりもキャッシュレス化が進んでいるとか、政府がビッグデーターを通じて国民の行動を通じて国民の行動を監視しているとかいった話を耳にするようになってからかなりたつ。その存在の大きから、良くも悪くも中国のケースが特別視されがちだが、同じような動きは全世界、特に新興国全般で起きている。こうしたデジタル化がもたらす新興国経済の変化を、見通しよく整理したのがこの書物だ。著書によれば、第二次世界大戦以降、いわゆる発展途上国の成長を巡る議論は「南北問題の時代」「工業化の時代」そして現在進行中の「デジタル化の時代」と、4つのフェーズを経てきたという。では「デジタル化の時代」の特徴はどこにあるのか。まず、戦端のテクノロジー開発だけではなく、その「社会実相」が重要になる。また第三者決済の普及により、国内外の取引コストが引き下げられ、市場規模が一気にグローバルなレベルまで拡大する。さらにはデジタル認証により、融資を受けられなかった貧困層を包摂した金融サービスなども可能になる。いずれも、新興国にとっては大きなチャンスをもたらす。歓迎すべき変化だと言えるだろう。だが、変化がドラスティックであるだけに反動も大きい。本書は経済のデジタル化と、政治的自由度にはU字型の関係があることを示す。すなわち、北欧諸国のようにデジタル化も政治的自由も進んだ「極」への二分化傾向が顕著なのだ。このことは、「価値観」の異なる新興国の台頭への先進国の警戒感も強め、ひいては昨今における米中間の対立や、それに伴う保守主義的な傾向の強化につながっている。本書は、そういったデジタル化が盛る陰の部分も踏まえつつ、新しい課題に新興国と協力して取り組む「共創パートナー」としての日本の役割を提言する。米中対立が激しさを増す今だからこそ読んでおきたい1冊である。(中公新書 820円)◇いとう・あせい 1984年生まれ。東京大学社会学研究所准教授。博士(経済学)。専門は中国経済論。 【読書】公明新聞2020.12.21
December 22, 2021
コメント(0)
瀬戸の美景に重ね映す孤独と鬱屈作家 村上 政彦本を手にして旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして、こうは正宗白鳥の『入江のほとり』です。正宗白鳥は、明治から昭和にかけて活躍した文学者で、小説だけでなく、評論や戯曲も手掛けています。この作品が書かれたのは1915年(大正4年)。舞台は解説によると、『明治の中頃の瀬戸内海の入江のほとりの村』。作者の故郷・岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)といわれています。家族のもとへ、長兄の栄一から、奈良からの絵はがきが届く。そこには大阪に遊んでから帰省するとあった。妹の勝代は、それを読み上げて、他の兄弟と話題にします。話に加わっているのは、良吉と辰男。この辰男が主要な登場人物です。彼は、村の小さな小学校で愛用教員をしているらしい。勤めの傍ら、もう何年も独学で英語の勉強をしています。東京の英語学校で学んだ弟の良吉には、英語の独学は骨折り損だから、正教員の試験を受けろ、と勧められますが、知らん顔です。親は、子どもの頃にバイオリンを習って音楽家になりたい、というのを聞いてやらなかったから、変わり者になったと思って、「粥でも啜れるくらいの田地を配けてやるつもりで」で、放任している。物語は、主に辰男の姿を淡々と描いていきます。子どものころ入り江で遊んだことを回想する。「あの時分は川尻に蘆が生えていた。潟からは浅蜊や蜆や蛤がよく獲れて、きれいな模様をした貝殻も多かった」現在の風景は、このように—「西風の凪いだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟の眠りを促すような艪の音を立てた」。辰男は、こういう土地で、何やら鬱屈を抱えて生きているのですが、その理由は、どうも分からない。バイオリンから語学に興味が移った時には、新しい世界が広がるように感じたが、今はそういう気もしない。人は、誰にも言えない秘密を抱えている、と白鳥は考えていました。辰男の鬱屈も、その種類のものでしょうか。〈参考文献〉『何処へ 入江のほとり』講談社文芸文庫 【ぶら~り文学の旅㉑】聖教新聞2020.11.22
November 21, 2021
コメント(0)
資料を掘り起こし、形成の歴史を示す上智大学大学院教授 島薗 進 評 靖国神社論岩田 重則 著靖国神社の元となった東京招魂社が九段に創設されたのは一八六九年のことだが、その成立に先立って、楠公祭や招魂祭が行われ、楠公社や招魂場・招魂社が設けられる動きがあった。楠公祭というのは天皇のために戦って自刃した楠木正成の命日にその霊を祀る儀式であり、招魂祭は幕末の尊王攘夷・王政復古の戦いに殉じた死者たちを祀った長州藩の奇兵隊他の諸隊の儀式が広がり、官軍側の死者の祭祀へと発展していった。楠公祭の歴史は、江戸時代初期に『太平記』が尊ばれ、徳川光圀によって楠木正成が尊王の忠臣の規範として祀られるようになった時期にまで遡ることができる。一九世紀に入り後期水戸学が興隆すると、朱子学的な大義名分論と結びつき、天皇に殉じて理念的に現世を超える(七生報国)宗教性を伴うようになる。幕末の動乱期に吉田松陰と真木和泉が志士たち自身もあわせて祀られる祭祀へと発展させる。しかし、こうした動きには維新期の権力争いの中で薩摩藩主導の湊川神社創建に回収され、楠木正成祭祀は国家が独占していく。他方、招魂祭は高杉晋作が一八六三年に結成した奇兵隊等の諸隊の歴史から見えてくるところが大きい。尊王攘夷・王政復古のために戦って死んだ兵士の霊を呼び下ろし、祀って送り返すという儀礼が行われたが、その場に招魂碑が建てられる。下関の桜山招魂場に始まり、長州藩の兵士が、そして尊皇派の他藩の兵士が戦い死んでいくところに次々と招魂場ができる。やがてそこに社殿ができるが、むしろ並べられる個別死者名を記した碑こそが主体だった。だが、これは墓ではない。死穢を嫌う神道としても独自の、新しい祭祀対象が広がっていく。これら言わば自発的に戦う志士・兵士集団とその周辺から起こった、仲間の死者を悼み顕彰する祭祀が、明治維新後に天皇の忠臣を神とする国家神道の神社へと吸収されていく。その際、別格官幣社というカテゴリーが形成され、天皇自身が祀る勅裁祭社というシステムがそこに及ぼされていく。朱子学を国体論へと展開した水戸学の善悪二元論が、幕末から西南戦争に至る時期の内戦を経て、近代国家の対外戦争の論理へと組み替えられていく。また、多くの死者の名前が記された霊璽を神殿に納め、天皇の拝礼が中心の社殿中心の祭祀となる。著者は丁寧に資料を掘り起こし、靖国神社形成の歴史を克明に示している。とりわけ招魂場の心霊碑の包括的な調査と分析は精細を極めている。国家神道の歴史をたどるうえで、靖国神社の理解は革新的な意義をもつ。そのことを改めて示している宗教史・精神文化史・社会文化史研究の画期的な力作である。◇いわた・しげのり 1961年、静岡県生まれ。専攻は歴史学、民俗学。早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程、課程修了退学。博士(社会学。慶應義塾大学社会学研究科)。東京学芸大学教授を経て、現在、中央大学総合政策学部教授。近著に『天皇墓の政治民族史』『日本鎮魂考』『火葬と陵墓制の仏教民俗学』など。 【読書】公明新聞2020.11.16
November 10, 2021
コメント(0)
リベラリズム 失われた歴史と現在ヘレナ・ローゼンブラッド著/三牧聖子、川上洋平訳 利己主義超克の鍵は古代ローマに時と場合、人によって異なるイメージを喚起させる「リベラリズム」という言葉。この錯綜は、なぜ生まれたのか。著者は、リベラル、リベラリズムという単語の歩みをたどり、この謎に迫る。古代ローマ時代から2千年もの間、リベラルであるとは、本来、公共のことに気を配り、共通善につながる行動を取ることだった。人格的資質を指すリベラルは、フランス革命を境に、信教・出版の自由を保障する制度や憲法、関税なき自由放任の経済を、擁護する文脈でも使われるように。20世紀にはいると、英米仏では産業化による社会問題に対応すべく、独における国民福祉の向上を目指す経済思想を受容。以降、リベラリズムは、自由放任と政府の介入推進という、相反する立場の両方で使われる状況が生まれた。リベラリズムを今日、個人の権利や利益を基盤とした、米英圏がルーツの思想と見る背景には、特に冷戦期における全体主義の脅威があった。政府の介入を容認する考え方自体が全体主義を招くとの批判を受け、個人主義的側面が強調される一方、道徳的な意味合いは失われていったのだ。本書では、民主主義やキリスト教神学との関係など、広範な視野からの議論の他、リベラルを辞任する人々が奴隷制度や女性差別、優生思想を主唱した歴史も描かれる。リベラリズムは、常にその限界と格闘してきた思想なのだろう。共通善の追求という失われた歴史こそリベラリズムが進化する鍵、との見立ても好ましい快作だ。(習) 【読書】聖教新聞2020.11.11
November 3, 2021
コメント(0)
隠れた差別や自己都合を丁寧に暴くあなたを閉じ込める「ずるい言葉」 森山至貴著 のっけから何だが、この本を読むのはちょっとした〈覚悟〉がいる。「はっきり言わないあなたが悪い」「あなたのためを思って言っているんだよ」「悪気はないんだから許してあげてよ」「いまはそういう時代じゃないからね」……何気なく使われる、これらの言葉に、誰かがイラっとしたり、モヤモヤしたりしている。かくいう評者自身、使ってしまう。何が「ずるい」のか。それは、上から目線、自分の都合、偏見、差別などが隠れているから。決めつけ、思い込みによる勘違いから発する言葉だから。ページを繰るたび、筆者の至極まっとうな指摘に、反省と後悔が波のように襲ってくる。例えば「はっきりと言わないあなたが悪い」は、打ち明けにくさの原因を相手に押し付けている。「あなたのためを思って—」は、根拠のある説明ができないのに相手を縛りたいときに使っている。外国語を母語とする人に「日本語、お上手ですね」と、つい言いがち。もちろん、悪気はない。だが、そこには相手が日本語を話すことが「自然ではない」という、隠れた前提が存在するのだ。差別について、成立案件を整理し、属性によって区別できても区別してはいけない状況があると、区別にこだわることで不当な状況を維持し強めてしまうことなどを丁寧に語る。一般の統計等にも差別は潜むとの指摘には膝を打つ。会話の例文が明快で分かりやすい。一つ補足したい。読後、少し人に優しくなれるだろう。相手の立場になって考えるとはということか、思いを巡らすことになる。 (公) ▲性的少数者への差別を研究する社会学者が著した鋭い本。主に10代へ向けた内容のため文章も平易 【読書】聖教新聞2020.10.14
October 3, 2021
コメント(0)
ドキュメント 強権の経済政策軽部 謙介著官邸官僚が主導する有様を描く大阪大学教授 上川 龍之進評本書は安倍内閣の経済政策、いわゆるアベノミクスの決定過程を記録する、優れたルポルタージュである。取り上げられる政策は、賃上げの政府介入や内閣人事局の発足、消費税引き上げとその延期、金融政策と為替政策など多岐にわたる。本書では、首相と官房長官、彼らが重用する官邸官僚が政策決定を主導し、与党や財務省が決定から外されていく有様が描かれる。政権発足当初、アベノミクスは製材成長を重視し、大胆な金融緩和による物価上昇率2%の実現を中核としていた。だが官僚たちは、金融政策だけではデフレ脱却は難しいと考え、政府の介入を嫌う経団連と連合、そして政労使会議を設置し、賃上げを実現させる。しかし消費の拡大にはつながらず、首相と官邸官僚は「一億総活躍」という看板を掲げて、最低賃金の引き上げなど再配分重視へと舵を切る。大胆な金融緩和は、円安をもたらし株価を上昇させたものの、物価上昇率2%が実現する見込みは立たない。しかし政権は、すでに物価上昇への関心を失っている。ある政府関係者の「この政権の経済政策は哲学とか社会構造の分析に基づくものなんかじゃない。いろいろ看板を付け替えるのは、政策が選挙戦略として使われているからなんだ」という説明が、空虚な政権の本質をついている。著者は「変節というのか、進化というのか」と問いかける。1990年代の統治機構改革により生み出された官邸一強体制は、財務省と日銀のOBと現役幹部との確執も生んでいる。OBは、組織の政策理念を放棄して官邸の言いなりになっている現役官僚に憤る。現役幹部は、OBの失敗のツケを払わされていると考え、「何といっても時代は回ったのだ」と諦観する。財務次官が、日銀から国庫納付金の減少を「どうせ設けたって官邸が使うだけだ」とあっさり認めるシーンが、現役幹部の無力感を象徴している。安部内閣とその経済政策を振り返るうえでの必読書である。◇かるべ・けんすけ ジャーナリスト、帝京大学経済学に教授。1955年生まれ。早稲田大学卒。時事通信社解説委員長等を経て、本年4月より現職。 【読書】公明新聞2020.9.21
September 4, 2021
コメント(0)
なぜ中間層は没落したのかピーター・デミン著 栗林寛幸訳経済学者 福島 清彦評 米国社会の荒廃は、日本への警告アメリカ社会の荒廃を浮き彫りにして売る。深淵の深さと暗さを指摘し、前途への希望はルーズベルト大統領が始めた福祉国家の復興しかないと論じた本である。人口では全体の20%しかない、金融F、先端技術T、エレクトロニクスE、の3部門がこの40-50年間で肥大化し、人口の80%に達する低賃金部門に犠牲を強いている。非常な制度改悪を歴代の政権がしてきたので分断が永続している。FTEの3部門がその政治資金力を用いて政治を支配してしまったので、トランプ以降も暗い将来が続くことを予見している。金融などの3業種が増長し、中間層が没落、右派勢力が台頭しているのは先進国共通である。アメリカの場合、それに有色人種に対する差別という宿痾がある。指導者たちが人種偏見をあおって福祉削減を進めてきた。レーガン大統領はかつて、アメリカには「福祉の女王」がいるという話をした。ある黒人女性が、全く働かず、結婚もせずに、何人もの子供を生み、福祉手当で暮らしていた。彼女の子供たちも働かず、10代で出産し、各自が母子家庭手当てを貰っているので、一族は結構いい暮らしをしている、という話である。話の真偽は不明だが、「こんな連中を食わせるために、税金を取られるなんてまっぴらだ」とレーガンは訴えた。トランプも同じ手法で富裕層への解税と社会保障や教育の予算を削減した。アメリカ社会の分断はさらに進み、高学歴富裕層と低学歴貧困層の対立から2020年にはオレゴン州ポートランドで暴動が発生するまでになった。トランプの対応はポートランドに連邦部隊を派遣し、治安回復を目指すことだった。この本はアメリカ社会の闇の深さを知る上で有益だが同時に、日本への警告と見るべきだ。弱肉強食で効率をあげていく市場経済には本来残酷な側面があり、放置していると社会が分断されていく。積極的な社会政策で格差を広げないようにする必要があるのは、日本もアメリカも変わらない。(慶応義塾大学出版会 2700円)◇ピーター・デミン 1937年生まれ。米国マサチューセッツ工科大学名誉教授。経済史。 【読書】公明新聞2020.9.7
August 15, 2021
コメント(0)
公文書を記録し、公開する服部 龍二著 民主主義の根幹、公文書管理中京大学教授 佐道 明広評 自衛隊の日報問題、財務省公文書の改竄、感染症に関する専門委員会の議事録見作成など、今、日本の公文書管理は危機的状況にある。状況は急速に悪化しており、公文書管理が民主主義の根幹であるあることを考えると、日本の政治の在り方自体に関わる問題となっている。本書は、公文書の管理・公開という点では、日本の官庁の中でも長い歴史を持ち、外交資料館という記録の保存・公開に当たる機関を持った外務省文書制度約150年の歴史に焦点を当てたもので、時宜を得た出版といえる。著者は、公文書管理の重要性について国内的視点と国際的視点に分け、前者については「行政の透明性と説明責任の確保」「政治主導と文民統制の推進」「文化政策」「公務員や市民への手引き」「行政学や歴史学の素材」を、後者については「文書管理による外交的優位の追求」「ソフト・パワーとしての文書管理」を挙げている。至当な指摘といえよう。外務省文書管理の歴史全体を通観した研究書は本書が初めてである。全体を見ることで、外務省文書管理がどのように発展してきたのか、発展を阻む壁は何か、残っている課題は何かも見えてくる。他の省庁に比べれば進んでいるといわれる外交文書公開も、米国など他国に比べれば、関係する予算も人員も見劣りしており、評者も含めて、日本の外交資料も欧米の文書館も利用した経緯があるものには、日本の課題ばかりが目に付いてしまう。それでも本書にエピソード的に挿入される先輩研究者たちの努力などもあって、少しずつ発展してきたのが外務省文書管理であった。本書も指摘しているアーキピスト養成の問題などの課題も多く、日本の政治史を書くのに外国の資料に頼りすぎる若手研究者が多い現状は明らかに不健全である。外国との比較や全体的な文書管理問題への踏み込みが少ない点は、本書の性格上やむを得ないだろう。公文書管理問題の関心があるジャーナリストに勧めたい一冊である。◇はっとり・りゅうじ 1968年生まれ。京都大学法学部卒、神戸大学大学院法学研究科単位取得退学。博士(政治学)。現在、中央大学総合政策学部教授。 【読書】公明新聞2020.7.20
June 18, 2021
コメント(0)
戦後「社会科学」の思想森 政稔著 「75年」を辿り、今を考え直す成蹊大学教授 野口 雅弘評 著者の森政稔氏はこれまでも、『変貌する民主主義』『迷走する民主主義』(共にちくま新書)などの著作で、多様な思想潮流についてのスリリングな整理と考察を提供してきた。東京大学教養学部の授業ノートをもとにした本書では、丸山眞男から近代化、大衆社会論、ニューレフト、ポストモダン、そして新保守主義まで、「戦後「社会科学」の思想」が論じられている。本書は関連科目の教科書や勉強会のテキストに最適である。しかし注目するべきはそこではない。「おわりに」で、アジアからの留学生に「日本閉塞感」について質問を受ける、と著者はいう。そして「本書全体がある種の答えになっていると言えるかもしれない」と述べている。森氏は「ニーチェの政治学」などの論文を執筆し、日本の政治理論研究に「ポストモダン」を導入する先駆的な役割を果たしてきた。そうした自身の研究歴を背負いながら、彼は「意図せざる結果」としての今と真摯に向き合っている。かつて日本でも存在して「ラディカルな動きが新保守主義・新自由主義的な動向の中に巧妙に取り込まれていった」のはなぜなのか。「丸山のような戦後政治学と、どう見てもそれとは異質の新自由主義とが、奇妙に手を結ぶ」状況をどう考えたらよいのか。本書は、この閉塞感へと至る、必然的ではないが「相応の理由がある」道筋を辿る。思想系の本を読みなれていない読者には、いくぶん難しいところがあるかもしれない。しかし『公明新聞』の読者にこそ本書を薦めたい。いわば、〈一九六〇年代に、ニューレフトとは明確に一線を隠しつつも、「疎外」というモチーフを共有し、平和と福祉を強調する中道政党として出発した政党が、「自公連立政権」を形成するに至った、この道程をどう考えたらよいのか〉。この本で問われているのは、要するにこういうことである。今だけを見ていては、今は分からない。本書は、「七五年」という時代の単位で、この閉塞した今を考え直すための一冊である。◇もり・まさとし 一九五九年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。 【読書】公明新聞2020.7.6
May 29, 2021
コメント(0)
人類と病託摩 佳代著 国際政治から見る健康課題日本国際保健医療学会理事長、東京大学教授 神馬 征峰評 「混乱の時代に、真の意思決定するのは難しい」。WHOが誇る天然痘撲滅に尽力した蟻田功博士の言葉である。科学的根拠が乏しい中、命を守る意思決定が必要な時、政治的判断は重要な役割を果たす。新型コロナウイルス感染症が世界を震撼させているこの時、本書は、「国際政治」というレンズで過去から現在にわたる地球規模の健康課題をとりあげている。国際政治の混乱期にあって、保健協力が成功した事例が最もよく描かれているのは第2章「感染症の根絶」である。とりわけ、「天然痘撲滅」のイニシアチブをとったソ連が、冷戦下でいかに米国からの協力を得てそのイニシアチブを成功に導くことができたか。また、米ソのはざまで撲滅対策のディレクターとなったアメリカ人ドナルド・ヘンダーソン博士が、いかにソ連をなだめたか。そのあたりの展開が実に面白く描かれている。WHOが国際政治に振り回されるのは今に始まったことではない。第5章にもあるようにWHOが政治的に中立でいることは難しい。国際政治の影響を受けざるを得ない。そんな中、WHOは「政治的な影響力を、人類の健康を確保するために利用すればよい……そこが国際機関の腕のみせどころ」と筆者は主張する。ではいかに? 蟻田功博士の言葉を再度紹介したい。「私たちは意思決定に困った時、いつも申し合わせていたことがあります。それは『この意思決定医が本当に根絶のためになるのか』ということです。例えば、『天然痘患者の出た政府相手に不都合なことをいうと、WHOはその政府から協力を得られなくなるのではないか、だからこれは黙っておこう』、といった『言わざるの意思決定』はしない、そういうことをしっかりやったので、10年間で天然痘患者がゼロになりました。理念が非常に大切なのです……」(『公衆衛生』68巻2号)。健康格差の是正という国際保健の使命を果たすべく、強い理念を以て、混乱の時代にあっても意思決定ができるWHOであってほしいと思う。◇たくま・かよ 1981年広島県生まれ。東京都立大学法学政治学研究科教授。 【読書】高名新聞020.7.6
May 28, 2021
コメント(0)
良き統治――大統領化する民主主義ピエール・ロザンヴァロン著古城毅、赤羽悠、稲水佑介、永見瑞木、中村督 訳 宇野重規 解説 「真実」と「高潔さ」が支配する政治空間を北海道大学教授 吉田 徹 評今ほど各国指導者の意挙手一投足に視線が注がれる時代はないだろう。既存の制度や利益が大きく揺らぐ時、次なる展望を切り開くことが政治の果たす役割であり、それゆえ政治指導者への期待、そして落胆は、当然なのかもしれない。本書は、世界で進む「大統領制化」の歴史的起源と制度的特徴を説き明かすものだ。「大統領制化」とは、一極集中のことを指す。対照的に、立法府やそしき政党阿衰退の一途を辿っており、それを推し進めるのは、著者のいう「特異性に基づく個人主義」、すなわち「社会的条件」よりも「個人史」が意味を持つようになった時代的特性である。議会や中間組織が個人の包摂する「認証の民主主義」のもとでは、有権者は大きな改革を求めることはない。しかし19世紀以降の選挙権の拡大、代表制の改善、国民投票の導入といった民主化の進展は、より実効性のある「行使の民主主義」を求めるようになる。かくして、二度の世界大戦とそのもとでの総動員体制を通じて、民衆的正当性を持つ指導者が希求されるようになったという。現在世界を騒がすポピュリズム政治は、いうなれば数世紀にもわたる長い民主化の不可避の帰結でもあるのだ。もっとも、統治する者(指導者)と統治される者(有権者)は、非対称的な関係にある。恣意的な権力を回避するのに必要となるのは「信頼の民主主義」だ。この新たな民主主義においては、執政府の応答責任などは引き出す制度的改革に加え、為政者に「真実を語ること」と「高潔さ」(一貫性や透明性と言い変えても良い)の資質が重視されるべきだという。こうして、真実と高潔が支配する政治空間作り上げられれば、人びとは民主政治がそもそも~内在させている不確定性に立ち向かうための勇気と知恵を授けられるようになる。そして、統治者と被統治者との間の相互的な信頼が生まれていくことになるのだ。歴史と思想を縦横無尽に往来しつつ、本書に通ていしているのは実践への強い関心だ。著者は、もともとキリスト教民主主義系の労働組合に属し、フランスの社会民主主義にコミットしてきた実務家だ。民衆化を推し進める不可避的な世界史的潮流の中で、民主主義という理想をいかに手放さず、現実を理想に近づけていくかという粘り強い思索の産物でもある。コロナ・ショックで不確実性が一層増している現下において、虚偽と言い逃れが跋扈するようになった民主主義おいかにバージョンアップさせることができるのか――そのヒントが山のように詰まっている。◇ピエール・ロザンヴァロン 1948年生まれ。フランスの歴史家・政治学者。フランス民主労働総同盟の経済顧問などを経て、現在、コレージュ・ド・フランス教授。翻訳された著書に『自主管理の時代』『ユートピア的資本主義』『連帯の新たなる哲学』『カウンター・デモクラシー』。 【読書】公明新聞2020.6.29
May 19, 2021
コメント(0)
濃厚に流れる「昭和」の子と故郷作家 村上 政彦坪田譲治「風の中の子供」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして、今日は坪田譲治の『風の中の子供』です。この物語の舞台は、現在の岡山市といわれています。一年生の三平は、上級生の金太郎から、お前のお父さんは会社を首になって警察へ連れていかれると非難されてけんかになる。その後、専務を務める父親・一郎は、私文書偽造の疑いで逮捕され、生活の立たなくなった母親は、三平の身の処遇を考えます。実家には、兄の善太と母親が残りましたが、家も財産も差し押さえられます。三平は、軍医だった鵜飼いの伯父と一緒に暮らすことに。その家は近くに川が流れ、山があり、「大きな茅葺の母屋、両脇に離れと診察所の瓦屋根、離れの後ろは白壁の土蔵、土蔵の戸口に太い高い松の木」――昭和の初めの山深い村の風景が想像できる家です。三平は、高い木に登り、たらいに乗って川を流れ、池で河童を見るんだと姿を隠し、村中の男たちが捜索を始める始末。あまりのやんちゃさに手を焼いた叔母は、三平を実家に戻してしまいます。困り果てた母親は心中まで考える。しかし、私文書偽造が、実は一郎を重役の地位から追い落とそうとした人物の陰謀であることが発覚し、家族も元通りになりました。坪田譲治は、この作品で作家としての地歩を確立しました。子どもの姿が、生き生きと描かれています。例えば、生活に困窮した母親が川を眺めて思いつめるシーン――。「お母さんが話をやめて、水を一心に見つめ出すと、三平は欄干に登って、その上に跨った。その法がラクチンで、面白い。鵜飼のおじさんの乗馬を真似てみたい気にもなって来る。そこで尻を上げて身体をゆする。両手を前に、手綱を持つ様子をつくる。『パカパカ、パカパカ。』つい、側のお母さんを忘れ、口の中で蹄の音を立ててみる」母親は、そんなわが子を見て、生きる勇気を得るのです。坪田譲治は、17歳まで岡山で育ちました。この作品には、昭和の故郷の空気が濃厚に流れているのでしょう。〈参考文献〉『風の中の子供』小峰書店 【ぶら~り文学の旅⑪】聖教新聞2020.6.7
April 16, 2021
コメント(0)
ファシズムはどこからやってくるのかジェイソン・スタンリー著 棚橋 志行訳 京都大学大学院教授 佐藤卓己評 「国民」を掲げて惹きつけるナチ・ドイツからの亡命ユダヤ人を両親にもつ著者は、今世界中でファシズムが常態化していると告発している。ファシストの原型はヒトラーだが、次いでトランプ大統領が指名され、さらにロシアのプーチン、ハンガリーのオルバン、トルコのエルドリアンなど現代世界の強権政治形が次々とやり玉に挙がっている。まず、ファシスト政治の指標が示される。すなわち、神話的過去、プロバガンダ、反知性主義、非現実性、ヒエラルキー、被害者意識、法と秩序、性的不安、農村の理想化、労働組合の解体である。この順番で各章が構成されている。例えば被害者意識の第六章は、なぜ客観的には黒人より恵まれている白人が被害者意識を抱いてトランプ支持に走る理由がこう説明されている。支配者地位を喪失した白人の「うずくような痛み」は、精神的過去のプロバガンダによって「虐げられた被害者」意識に変わる。ここにおいて平等を求めるナショナリズムは、支配を求める運動へと転換される。本書の特徴は、アメリカ建国以来の白人至上主義の伝統からナチズムを論じる。「現代的」視点だろう。そのため、ナチズムは絶対悪というより、比較可能な悪に見える。ホロコーストなどナチ犯罪の比較可能性をめぐって展開された1980年代のドイツ歴史化論争を私は思い出した。あれから長い歳月が流れたのである。翻訳は読みやすい。ただし、今日では学校教科書でも「国民社会主義」と訳されているヒトラーの「ナショナル(・・・・・)ソーシャリズム」に、「国家(・・)社会主義」という古い訳語が当てられている。しかし、トランプが「アメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)」で強調するのも国家ではなく国民である。如何にも強圧的な「国家」ではなく、美しい「国民」を掲げるからこそ、ファシスト政治は多くの人を惹きつけるのである。「われわれ」と「やつら」の分断も、国家間の境になるのではない。国民の間に生まれるのである。◇ジェイソン・スタンリー 1969年、米ニューヨーク州シラキュース生まれ。イェール大学哲学教授。専門は言語哲学と認識論。 【読書】公明新聞2020.5.18
March 16, 2021
コメント(0)
アメリカの制裁外交杉田 弘毅 著早稲田大学名誉教授 山本 武彦 評 金融制裁への依存に警鐘しばしば、国際社会は「脅しのシステム」と呼ばれる。絶対的で排他的な国際主権を守るために、国家は自国の利益を達成するべく持てる力を動員して他国に脅しをかける。情報通信技術の発達で国境線が不透明になったと言われる時代も、このシステムは限りなく続く。軍事力の破壊力が強くなったことから、目的達成のテコに経済力が「脅し」の手段として頻繁に使われるようになる。20世紀後半からこのかた、いかに多くの経済制裁が国際社会に氾濫してきたことか。中でも超大国アメリカが主導する経済制裁が国際秩序の行方を左右するほど、威力を発揮してきた。本書では、そのアメリカによる制裁外交の実像が詳細に描き出される。経済制裁は貿易制裁、金融制裁、技術制裁の三つに大別されるが、本書では金融制裁に焦点を合わせ、その実像が余すことなく炙り出される。とくにアメリカは今も金とドルをリンクさせた国際金融体制を仕切る国として絶大な金融パワーを誇る。40年ほど前のソ連制裁をめぐる米欧紛争を想起するまでもなく、アメリカが自国の制裁関連法規を国外適用することも躊躇することは今もない。それほど基準通貨としてのドルの持つ威力は強く、これに正面から対抗できる国がいまだにないのが実情だ。北朝鮮制裁はもちろん、イラン制裁に至ってはトランプ政権が再び制裁のターゲットに据えるほど、仮借なく制裁の刃を振るう。著者が示唆するように、金融制裁はアメリカの安全保障政策の重要な構成要素となり、国務省ではなく財務省が外交・安全保障政策の表舞台に立ったかのような様相を示す。著者は金融制裁への依存が高まるこのような傾向に警鐘を鳴らし、中国やロシアといったユーラシア勢力が独自の圏域を作ってドル支を配揺るがす事態がやがて訪れる可能性を示唆する。経済制裁がアメリカの外交政策の手段として、今後も多用されることは間違いあるまい。しかし、アメリカによる経済覇権の秩序を所与のものとして受け止めている国際社会にとって、身勝手な制裁の多様だけは避けてほしいものである。(岩波新書 840円)◇すぎた・ひろき 1957年生まれ。共同通信特別編集委員。 【読書】公明新聞2020.5.4
February 27, 2021
コメント(0)
自由の命運 上・下ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン 著 櫻井祐子訳 慶應義塾大学名誉教授 小林 良彰 評国家と社会の競い合いが必須世界的ベストセラーとなった『国家はなぜ衰退するのか』を執筆した二人の経済学者が2019年に刊行した新しい著書の翻訳である。まずアセモグル達はそれぞれの国や地域の状態を「不在」「専有」「足枷」という三つのリヴァイアサンに区別する。「不在リヴァイアサン」とはアサド政権崩壊後のシリアのように国家が姿を消し、代わりに内戦と過激派組織ISIS(イラクとシリアのイスラーム国)などによる暴力が横行している「社会が有能な国家を持たない状態」である。一方、「専有リヴァイアサン」とは全能の皇帝が政治に関わる発信権を民衆に与えなかった歴史を持つ中国に代表される巨大な官僚機構と強力な軍隊による「国家が社会を支配している状態」である。これに対して、「足枷のリヴァイアサン」とは、国家と社会が競い合いながら共に成長し、「国家の力とそれを制御する社会の能力とが均衡している状態」である。そして、「ローマ帝国由来の国家制度」と「ゲルマン人由来の参加型規範と制度」が競合する歴史を持つ西欧諸国等に「足枷のリヴァイアサン」がみられるとする。さらに、著者たちは、一旦、「足枷のリヴァイアサン」になっても歩みを止めれば、プロセインのように国家が強くなって「専有のリヴァイアサン」になることや、社会が強くなりすぎて「不在のリヴァイアサン」になる危険をはらんでいる都営章を鳴らす。このため『鏡の国アリス』に出てくる「赤の女王」の有名な言葉(その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない)にあるように、国家と社会が競合することで共に牽制し続けなければならないと注意を促す。具体的には、国家と社会が協調することで、「足枷のリヴァイアサン」に留まっているスウェーデンや、マンデラのリーダーシップにより社会が国家権力異を唱える能力を伸ばすことで「足枷のリヴァイアサン」に入ることができた南アフリカなどの事例を紹介する。なお、彼らにとって米国は特殊な「足枷のリヴァイアサン」にになる。米国は立派な憲法を持ち、全体としては国家と社会が牽制し合ってきたが、白人警官によるアフリカ系市民に対する暴力が頻発している地域もある。著者達によれば、米国憲法制定時に南部奴隷州の賛成を得るために各州の権限を大きくしたために、連邦国家が暴力や差別から奴隷とその後のアフリカ系アメリカ市民を保護しなかったと批判する。また、アルゼンチンやコロンビアのように、統合能力に欠ける国家と孤立分散した社会からなる「張り子のリヴァイアサン」も例外として紹介する。そして、著者達は経済成長には公共サービスを提供する国家と、経済的機会と投資やイノベーションを起すインセンティヴが必要であり「足枷のリヴァイアサン」であることが必須と主張する。豊富な知見に基づく本書から得る多くの教訓は読むものを魅了する。 ダロン・アセモグル マサチューセッツ工科大学教授。トルコ出身。ジェイムズ・A・ロビンソン シカゴ大学教授。英国出身。 【読書】公明新聞2020.4.20
February 1, 2021
コメント(0)
組織とは一体誰のために存在するのか?氏家法雄2020・4・17(はじめに)最近、『テイール組織』という著作を読みましたが、恐怖支配から対等な相互協調の組織への進化を振り返ると、組織とはいったい誰のために存在するのだろうかと考えさせられました。ビジネス書からの学び 仕事のために、ビジネス書を読むなどとは思ってもいませんでしたが、まあ、読み出すと、それはそれで「新しい世界」や「新しい知識」との出会いであり、楽しいものです。 このところマネジメントやマーケティングの書籍ばかり紐解いているのですが、最近、読み終えたのが、フレデリック・ラルー(鈴木立哉訳、嘉村賢州解説)『テイール組織』(英治出版、2018年)です。 組織マネジメントの歴史を振り返り、その未来、あるいは進化を展望する一冊で僕としては非常に勉強になりました。副題の通り「マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現」を開陳する一冊でしょうかね。 ところで、「テイール(Teal)」とはいったい、何でしょうか? 「テイール」とは「青緑色」の一種を表わす英単語で、それ自体にさほどの意味はないのですが、「圧倒的な力を持つトップが支配する組織」を底辺とすれば、組織進化の最終形態をTealカラーで表象しているとでもいえばいいでしょう。 ラルーは、組織の進化過程を5つに分類した上で、それぞれのモデルを色分けしています。その中で、最も新しい組織モデルをティールと呼び、「目的に向かって、組織の全メンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織」と定義しています。ティール組織は、上司が部下の管理を行わないなど、従来の組織マネジメントでは考えられなかった特徴をもっています。支配から調和協調への組織進化 ラルーは、組織進化を5つの段階に色分けしています。最も底辺に位置するのがRedの「衝動型」組織です。「圧倒的な力をもつトップによる恐怖政治」がそれで、例えば狼の群れなどがその具体的な組織です。レッド組織は、現在にしか関心がありません。そのため衝動的な行動が多く見られます。 次の進化形態はAmber「順応型」組織で、軍隊に象徴されるように「上意下達のヒエラルキー組織」です。政府機関や宗教団体、そして軍隊がそれに該当しますが、階級秩序が重んじられる組織は、変化に対して柔軟に対処することが難しいことが多々あります。 次はOrange「達成型」組織で、アンバーと同じく基本的な階級構造はもちつつも、環境の変化に柔軟に適応できるように発展したものです。現代の一般的な企業がそれに該当します。ここでは、効率や成果が重視されます。徹底的な管理は時として人間疎外を引き起こしてしまうのも事実で、その例証には枚挙の暇がないといっても言い過ぎではないでしょう。 そして現状での最新形態がGreen「多元型」組織になります。人間らしさを喪失したオレンジ組織に対して、より人間らしくあることを追求した組織形態がグリーン組織です。協働・協力を理念に掲げるグリーン組織では、多様なメンバーのコンセンサス(合意)を重視します。しかし、意思決定プロセスが膨大となることがデメリットととなり、企業であればビジネスチャンスを逃してしまう可能性もはらんでいるとのことです。誰のために組織は存在するのか では、組織進化の最新形態であるTeal「進化型」組織とはいったいどのようなものでしょうか。 ラルーは組織を一つの生命体と捉えるのですが、これは組織のメンバーが自律的かつ調和的に働くためのメタファーとなっています。ようは体の組織のように組織が働くとでもいえばいいでしょうか。そして独裁やヒエラルキー、あるいは会社組織にみられるような強力なリーダーを認めません。リーダーの独断よりも現場のメンバーがほとんどすべてを決定することに特徴があります。 そしてコンセンサスの形成よりも、課題解決を重視します。このことが意思決定の時間的ロスを防ぐ役割をもになっています。そのほか、魅力的な特徴が数多く指摘されていますが、詳しくは本書に譲りましょう。 なぜなら、ぜひご一読願いたいからです。 さて、本書を読む中で考えさせられたことがあります。 それは、組織とはいったい、誰のために存在するのかという問題です。 程度の度合いは、横に置くとしても、Redの「衝動型」組織にしても、Teal「進化型」組織にしても、いずれにしても組織は、個々人の幸福と無関係には存在し得ないことが組織形成の原点になります。 その意味では、組織に属する個々人は、組織の歯車などではなく、その幸福増進のために組織が形成されたと考えるべきではないかという話です。 レッドからテイールへの組織マネジメントの「進化」は、その意味では、組織形成の原点へ戻るものといってもよいでしょう。 そして、組織とはいったい、誰のために存在するのかと問われた場合、その構成員(の幸福)のために存在すると答えるほかありません。 これまでの組織は、プロクルステスの寝台のように組織の都合に合わせて人間を切り刻んできたのが人間の歴史です。その方が効率がよいといった側面があったのも事実でしょうが、組織の進化と旧来の組織の解体という問題は、組織は人間のために存在しなければならないということを痛切に物語っています。 組織のために人間がプロクルステスの寝台となるのではなく、人間そのものが組織を織りなし、そして組織を作りほぐしていく――。それをテイール組織と呼んでもいいのかも知れません。
January 29, 2021
コメント(0)
リベラル・デモクラシーの現在 樋口 陽一著 慶應義塾大学教授 駒村 圭吾評 「近代的なるもの」を冷笑する前にここ10年ほど日本国憲法は深く傷ついた。一つは安倍首相によって、今一つは憲法学者の手によって。後者は注釈を要する診断であるが、とにかくそう見られている。よかったことと言えば「立憲主義」と言う言葉が流布したことくらいか。が、この「立憲主義」も、本書の表題にある「リベラル・デモクラシー」も、実はすでに明治日本に存在し、豊かな輝きを一時放ちつつも、時代の暗転に呑み込まれていった。新憲法はそのレガシーを改めて再設定したものである。本書は、リベラル・デモクラシーの史的展開と思想的曲折を、日本はもちろん欧米等の外国にたずね、ポピュリズムが跋扈するイリベラルな現状を批判するものである。と同時に、樋口洋一という一個の知識人のプロファイルにもなっている。樋口自身もその一人であるPublic intellectualsの諸言説をちりばめた知の曼荼羅でも本書はある。不寛容という意味でのイリベラルは、知的世界でこそ不気味に浸潤している。とりわけ、学界周辺(「周辺」の領野は広い)では、反知性的に見せかけることこそが知的であるという体が蔓延し、「近代的なるもの」を冷笑することが知的な軽やかさ・しなやかさと映る空気にあふれている。樋口自身が本書を近代治世の権化たる岩波新書の第4弾として位置付けていることを含めて、このシニシズムが樋口を捉えないはずはない。が、シニカルな構えを知的に演出するにはまず本書をよく読んでからでなければ恥をかくだけであろうし、近代の側に踏みとどまるにしても同様に本書を熟読玩味することが求められる。ところで、だれも第2の樋口になろうとしない。思想の中身ではなく、知識人のあり方として、それが成立する環境が失われつつあるのだろう。理性の狡知を気取っているあいだに、近代啓蒙はとっくにポピュリズムに追い越されてしまったのかもしれない。第5弾の咆哮はこれに追いつくだろうか。(岩波新書 840円) ひぐち・よういち1934年生まれ。憲法専攻。東北大学、パリ第2大学、東京大学等で教授・客員教授を歴任。日本学士院会員。著作に『近代立憲主義と現代国家』(1973年、勁草書房)他多数。 【読書】公明新聞2020.3.10
December 3, 2020
コメント(0)
自己責任の時代やシャ・モンク著 那須 耕介、栗村 亜寿香 訳 哲学者・山口大学教授 小川 仁志評 概念の見直しから公共政策へ「自己責任の時代」というタイトルは邦訳であって、原題はThe age of Responsidititとなっている。つまり「責任の時代」だ。著者の政治学者ヤシャ・モンクは、序論の冒頭で「自己責任」というのは奇妙な言葉だと断言する。実はそれが著書の主張の根幹でもある。人生は自分で責任を取るのが当たり前という昨今の風潮に疑義を呈しているのだ。その著書の意図を組んで、訳者はあえて放題を「自己責任の時代」としたようである。まさにモンクは、今責任という概念が懲罰的に使われている点を非難しているのだ。いわゆる右派は、肥大化する福祉国家を批判するための常套句として、自己責任という概念を金科玉条の如く振りかざす。財源が限られているのだから、基本的には自分の生活には自分で責任を負うべきだと。これは相互扶助を訴えるはずの左派にしても同じである。まじめに働いてきた人には福祉を与えるという言い方をするようになっているからだ。そこでこうした懲罰的責任論に対して、責任否定論が出てくる。すべては運なのだから、本人の責めにかかわらず福祉を施すべきであると。理想を唱える哲学者たちもこうした結論になびきがちであると。しかしモンクの議論が精彩を放つのは、この責任否定論さえも間違っていると喝破する点である。なぜなら、それは本人の主体性を奪うからだという。では、どうすればいいのか?ここでモンクは責任の概念そのものを根底から問い直そうとする。そもそも責任とは何なのかと。そうして肯定的な責任の概念を導きだすのである。責任とは、誰もが主体的に自分の生活を選び取っていくことにほかならないと。その新しい責任概念を前提に、民主的討議を通じて、互いに課し合う責任の範囲や中身を決めていく。その先に初めて理想の福祉国家像を展望することができるというわけである。概念の見直しから公共政策にまでつなげる見事な思考プロセス。哲学を超える哲学がここにある。(みすず書房 3600円)◇ヤシャ・モンク1982年ドイツ生まれ。ジョンズ・ホブキンズ大学准教授。 【読書】公明新聞2020.3.2
November 19, 2020
コメント(0)
愛国の構造 将棋面 貴己 著書評 法政大学社会学部教授 佐藤 成基 仏革命以降、ネイションや国家と結びつく「ナショナリズム」は「悪い」もの、「愛国主義」は「良い」ものという使い分けをされることが少なくない。研究者からは、「愛国主義」はナショナリズムの隠れ蓑にすぎないとみなされる。そのためか、ナショナリズムには多くの研究の蓄積があるのとは対照的に、「愛国主義」についての学問的な考察はこれまで乏しかった。本書は、ナショナリズムの陰に隠れて来た「愛国主義」について論じたおそらく日本語で最初の学問的研究であろう。古代ギリシャ・ローマ以来ン西欧・北米および日本の「愛国主義(パトリオティズム)」の歴史的な流れを老い、また多くの研究者・思想家の議論を参照しつつ、愛国主義の持つ思想的な「構造」に分け入り、それを多面的分析してみせた意欲的な好著である。その論述は明晰である、著者独自の視点から愛国主義の問題点が浮き彫りにされている。その問題点の中心は、近現代の愛国主義がナショナリズムに結びついているというところにある。愛国主義は決して本来的にナショナリズムと結びついているわけではない。欧州思想史において、愛国主義は近代ナショナリズムが発生するよりもはるか以前から存在し、ネイションという共同体と結びつくことはなく、「共通善」という普遍的理念を追究する思想だった。「市民的祖国」に対するキケロの愛国主義や、「神の王国」に対するアウグスティヌスの愛国主義などがその例だ。しかし、愛国主義はフランス革命以降ネイションや国家との結びつきを深めることになる。そのため愛国主義は国家によって教え込まれ、国家を「聖なるもの」として崇拝することを義務とする思想に変化した。著者は、この結びつきをいったん断ち切り、愛国心の崇拝の対象をネイションや国家に変わる「新たな聖性」へと置き換えなければならないと主張する。なぜならば、ネイションや国家を正当性の源泉とする愛国主義は容易に外国人や「非国民」への排他主義に転化するからだ。排他的な愛国主義が横行する現代において、それを「新しい愛国心」(ヴェイユ)で乗り越えようとする著者の企画には興味を惹かれる。だが、その目標がネイションや国家を超えた人類普遍の共通善の追求だとすれば、それは単なるコスモポリタリズムの一種に過ぎない。そのような思想は、著者自身も認めるように、情緒的な共同性を欠いた「浅薄」なものになりがちである。また、生まれ育った土地に固執し、ネイションへの帰属に自尊心や安心を感じる多数の人々(グッドハートの言う「どこか派」の人々)を排除することにもつながる。ネイションなき愛国主義が、共通善の基盤となるべき共同性をどこに見出すことができるのかが課題である。◇しょうぎめん・たかし 1967年生まれ。オタゴ大学人文学部歴史学教授。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。シェフィールド大学大学院歴史学博士課程修了(Ph.D.)。専攻は政治思想史。近著に『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)。 【書評】公明新聞2020.2.17
November 1, 2020
コメント(0)
見えない戦争 田仲均著 早稲田大学名誉教授 山本 武彦 評 国際社会に潜む危機の因子内容こそ異なれ、いつの時代にも危機はわれわれの気づかないところに存在する。それを危機として感知できるだけの感性を育てるのは容易な業ではない。その危機は我々の住むアジアはもとより世界のいたるところに潜在し、特に銃火の応酬に繋がる。ポスト冷戦後世界を生きる我々にとって、著者の言う「見えない戦争」がすでに足下でも迫っていることを本書を通して思い知る。島国に暮らす悲しさか。なかなか皮膚感覚でこれを捉えきれない。長い外交経験を積んだ著者は、現代の国際社会に潜む危機の因子を抉り出したうえで、紛争に繋がるかもしれないさまざまな要因に警鐘を鳴らす。著者は、ポピュリズムが蔓延する日本で深まりゆく危機の原因を劣化する政治体制や日本外交の変質などに求め、ついでアメリカ世進むトランプ現象の負の側面に光を当て、政権にプロフェッショナルな人材が定着しない現状に不安を投げかける。さらに、アジア・太平洋地域に目を移し、習近平体制下の中国が抱える内部矛盾や朝鮮半島の南北に横たわる危機の相貌を日本との関係に及ぼす影響と関連付けて描き出すとりわけ直近に起った徴用工問題と対韓輸出管理問題以来ささくれ立った日韓関係の対処策や、拉致問題に前進が見られない日朝関係について、いかにスマートな問題解決を進めるのが難しいかを本書を通して知る。これにとどまらず著者の言う「見えない戦争」の材料がいかに多いことか。差し迫った脅威として認識せざるを得ない米中対立は、製材・技術関係の対立が高進する米中摩擦は、はたして覇権国アメリカに対する中国の挑戦を孕むのか。覇権交代論を強く意識しながら米中対立をとらえると、アメリカと同盟を結ぶ日本は中国との間でどのような立ち位置を占めたらよいのか。朝鮮半島の非核問題を核不拡散と核軍縮というグローバルな課題と結びつけてどのような策を日本は講ずるべきなのか。本書を読むと、悩ましい大きな難問に次々と突きあたらざるをえない。(中公新書ラクレ 820円)◇たなか・ひとし ㈱日本総研国際戦略研究所理事長。1969年外務省に入省、外務審議官(政務担当)等を務め、2005年退官。 【書評】公明新聞2020.2.3
October 5, 2020
コメント(0)
「限界なき権力」論に陥り、立憲政を瓦解させた近代日本奈良県立大学客員教授 林 尚之評 主権論史 嘉戸 一将著法秩序の正当性の根拠はどこからくるのか。本書は、その古典的かつアクチャル(時事的)な問いに対し、主権論という現代の学知では敬遠されがちな主題を掲げて正面から取り組んだ意欲的な著作である。本書によれば、主権とは、「至高性 (souverainnete)」である。中世の身分的権力との決別の上に、新たな法秩序を創造するため、「一神教の神の絶対的な高さ」を表すものとして創造主の類似概念が用いられた。主権は絶対的な高さがあるゆえに、誰も主権者を標榜することはできない。主権は対象化不可能という意味で<無>でありながら、法秩序の根拠として<有>るのである、なにものかである。著者は、西洋近代の思想史の中に、特に、限界なく権力論を主権論から排除する試みにフォーカスする。<無>の主権論に、主権の実体化=限界なき権力論に陥らない主権論の可能性を見る。さらに、代表的な限界なき権力論である、決断主義的な主権論とは異なる<無>の主権論の系譜を、西洋のみならず近代日本にも見出して、主権論の新天地を開いている。この点が本書の最大の面白さであろう。西洋近代の主権=至高性の観念は、いかにして近代日本に受容され、変容していったのか。その過程を、本書は論理的な厳密さと知的大胆さをもって描いている。王政復古後の憲法制定における主権を巡る議論、天皇機関説事件における国体明徴、天皇機関説事件後の主権論争、敗戦後の帝国議会における帝国憲法改正を巡る議論に関する膨大な資料を丹念に読み時、それらの言説群の中心となった「君民一体の国体論」が主権論の本来性を簒奪(さんだつ)する言説として機能していたことを明らかにしている。本来、<無>にして<有>である主権は、君主主権や国民主権として理解され、実態的に把握される傾向を有している。近代日本ではその傾向がより顕著であった。主権が天皇という全能の主権者の形象と分かち難く結び付けられ、「君民一体の国体論」によって国家の一体性が創出された。こうした主権の実体化は、戦時期に「一」なるものに携行する全体主義とショーヴィニズム(排外主義)的な国体観念をもたらし、立憲政秩序を瓦解させることになった。主権は全能の主権者への頽落(たいらく)の契機を孕(はら)んでいるが、著者は、西田幾多郎の「絶対無」の主権論に、その頽落から脱する可能性を見いだしている。本書は「主権とは何か」という問いを、権力論の枠組みから解放する。主権に関するこれまでの研究が陥りがちな議論の定式を批判し、新たな視座から論じることを可能にする。その意味で、本書は主権、国家、法に関する思想史研究の画期となるのではないか。◇かど・かずまさ 1970年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程中退。龍谷大学准教授。専攻は法思想史、政治思想史。著書に『西田幾多郎と国家への問い』(以文社)、『北一輝』(講談社)など。 【読書】公明新聞2020.1.13
September 6, 2020
コメント(0)
民主主義を救え!ヤシャ・モンク著 吉田 徹 訳 成蹊大学教授(アメリカ政治) 西山 隆行 評ポピュリストの独裁化を防ぐ冷戦終焉後に勝利が謳われたリベラル・デモクラシーは、現在危機に直面している。それは、リベラリズムを民主主義という、これまで偶然結びついていた重要な二つの理念が衝突するようになったからだ。法の支配や個人の権利を重視するリベラリズムと、民衆の声を政治につなげる民主主義が両立しえたのは、著者によれば、経済成長に伴う生活状況の改善、同質性の高い市民、マスメディアによる誤情報の選別という条件が幸運にも重なったからだった。だが、経済の停滞、移民流入などによる社会の多様化、インターネットやソーシャル・メディアの登場により、その結びつきはほどけてしまった。その結果、筆者によれば、今日の世界は「非リベラルな民主主義」と「非民主主義的なリベラリズム」とかに分かれつつある。前者はポピュリズムや権威主義の台頭として現れ、後者は中央銀行や司法審査、欧州議会におけるエリート支配に典型的に見てとれるという。民衆の声を代弁するポピュリストが展開する非リベラルな民主主義が、あからさまな独裁政治に転じるのを防ぐにはどうすればよいのか。筆者は、ポピュリズムを支配する人々の将来不安を軽減するために税制や住宅政策を刷新し、現代的な福祉国家を構築するなどの具体的提言を行っている。また、教育を通して市民的な徳を要請する努力も必要だという。だが、その方策は専門家が主導する非民主的なリベラリズムに傾いていってはいけない。それはポピュリストに新たなエネルギーを与える危険がある。我々自身がリベラル・デモクラシーを守るべく戦うことが必要なのだ。本書の問題提起は、民主主義に対する愛着が若い世代を中心に弱まり、「強いリーダー」を求める声が高まっている日本についても他人事とは言えまい。民主主義を守るためには、リベラルな価値観と民主的な理念をしっかり結び付けて両立させつ必要がある。ひっ矢の分析と政治提言に耳を傾け、さまざまな方策について熟慮を重ねたい。◇ヤシャ・モンク 1982年生まれ。ポーランド人の両親(母はユダヤ系)を持ちドイツで生まれ育ち、イギリスなどを経てアメリカに移住。ジョンズ・ホプキンス大学国際関係研究所准教授・選考は政治理論。 【書評】公明新聞2019.11.25
July 4, 2020
コメント(0)
全105件 (105件中 51-100件目)