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この日は鎌倉最終日。朝食後七時半頃にはホテルを出て、鎌倉駅前からバスに乗り、十二所神社前で降車。そこから歩いて朝夷奈切通し(あさいなきりどおし)へと向かう。住宅街を大刀洗川に沿って抜けていくのだが、想像していたよりも小さな小川。住宅街を抜けると人に出会うこともなく、切り通しを目当てに訪れる観光客は少ないのだなと思う。この日も晴れ曇りの天気で、暑くも寒くもなくてハイキングには最適日和。ところどころに摩崖仏があり、切り通しの道もさほど整備はされておらず、中世の雰囲気を味わえる場所だ。でも、結構な距離もありなかなか歩きがいがある。次第に自動車の音が近くに聞こえるようになった頃、熊野神社への標識があり、せっかく来たのだからと行ってみることにする。すぐそこかと思ったら、疲れた足には登りが続く長い予想より距離だったが、高い場所にそれはあった。熊野神社熊野神社って、あちこちにあるんだなと思いながら参拝したが、この神社で出会った人は一人だけ。なかなか趣のある神社だったのだが、「賽銭箱を荒らす人が多いので設置していません」という張り紙?が。こんなところまできてお賽銭を盗む人がいるなんて、情けない世の中だと思わずにいられない。熊野神社から降りてくると間もなく下界。切り通しの上を電車と道路が走っている。まさに中世と現代が交差する場所を抜けたらすぐにバス停が見えた。そのバス停から鎌倉に戻るつもりだったのだが、あいにくそのバスが行ったばかりで30分近く待たなくてはならない。すぐに来るバスは大船行きだったので、まだ時間もあるので大船からモノレールで江の島に行くことにする。しかし、このバス路線は途中から渋滞になってしまった。この日は土曜日だったので周辺の住宅街から入り込む車で渋滞していたのだろう。ともあれ、大船駅に着いたらそこはモノレールの駅からは随分離れていて、人に聞きながらなんとかモノレールに乗り江の島へ。昼食には少し早いのでまっすぐ江の島に向かう。やはり足が疲れていたので、徒歩で江の島にわたって何か食べて戻るつもりだったのだが、橋の手前で「べんてん丸間もなく出港でーす」という声が。聞くとその船は江の島の奥にある岩屋に近い場所まで行くという。夫も私も岩屋にはいったことがないので、これはいいと早速乗り込む。べんてん丸天気も良く気分よく稚児ヶ淵に到着。そこから少し歩くと江の島岩屋洞窟へ。これはなかなか見ごたえがあった。たまたまの偶然が重なってこのような場所に行けたのは、何かのお導きか?参考…神秘の洞窟探検へ!「江の島岩屋」で大自然の力と歴史を感じようそんな気持ちになりながら洞窟見学をして外に出て、そろそろお腹がすいてきたので何か食べようとブラブラ。でも、とにかく人が多くて、人気のお店によっては人が並んでいる。夫はとにかく並ぶのが嫌なので、いよいよになったら江の島を出てから食べようと思った時、お蕎麦やさんがあり人も並んでいない。ここにしようと入って、私はしらすおろしそば、夫はざる蕎麦をいただく。それからお店で教えてもらったあまり人の多くない坂道を下り、人の混雑する中を歩く。甘味処でお団子とお茶を飲んで一息ついてから、江ノ電乗り場に向かう。江ノ電で鎌倉駅に向かい、駅のコインロッカーに預けていた荷物を取り出して、少し早いけれど羽田空港に向かった。帰宅は八時半頃になったが、なかなか盛りだくさんで充実した旅となった。
2026年04月25日
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宿泊したホテルは食事つきではないので、近くのコンビニでパンやヨーグルト、サラダなどを購入して軽い朝食。前日は雨だったのだが、この日は晴天とまでは言えないけれど薄曇り。実は、私は「晴れ女」なのだ。それも、どうも父が亡くなってからのような気がしていて、私が旅をする時には父が空の上で雨雲のお掃除をしてくれていると密かに思っている。(妹たちの旅の時もそうなので、私たち三姉妹はそう信じているのだが、他の家族にはただの偶然と言われる)今回の旅も、一週間前には旅行中は雨の予報だったのだが、やはり今回も私が外歩きをするこの日は薄曇りだ。この日は、8時半頃にホテルを出て、徒歩で寿福寺→英勝寺を参拝。寿福寺の裏手にはがけ下に沢山のやぐらがあり、そこには著名人の墓も並ぶ。全部を丁寧に見てはいないのだけど、北条政子や高浜虚子の墓などはすぐに目についた。北條政子の時代から現代まで、多くの人がここに眠っているのだと思うと、厳粛な気持ちになる。英勝寺は白藤が有名のようだが、この時は五分咲きくらいだったかな。進んでゆくと竹林が美しく、根元にはタケノコがニョキニョキ。竹ってこのように育って、このくらいで皮が剥がれ落ちるのか…などと、竹林にはなじみのない地に住む私には興味深かった。その後、鎌倉の若宮大路の方に向かい、妹からのリクエストのあったお菓子屋さんへ。私は知らなかったのだが、鎌倉紅谷の「くるみっこ」というお菓子が有名らしい。実は前日、夫がお昼過ぎに紅谷に行ったらもう売り切れだったという。ということで、この日は開店の九時半に合わせて向かったのだが、まだ開店まで15分以上前だったと思うが、すでに長蛇の列が!店舗もそれほど広くないので、順次中に入って購入するというスタイル。このようなお菓子なら、鎌倉土産はこれにしようと必要分を購入した。その後、バスに乗って「火の見下バス停」で降車し、「大仏切通し」へ。鎌倉七口の一つに数えられる切通(史跡)。1241年(仁治2年)~1250年(建長2年)頃に開かれたとされています。明治時代にトンネルが掘られ、街道が今のバス通りに移りましたが、切通はかつてのままに残されため、鎌倉時代の雰囲気を残す貴重な小径です。住宅のすぐ脇を通るので、ここに住んでいる人は大変だなと思いながら切通しに向かった。夫は若い頃東京で働いていた頃には鎌倉や江の島の海にはよく来ていたようだが、当時は歴史的なものには興味がなく、高齢になってから切り通しを歩いてみたいと思うようになったとか。雨上がりで少し道は濡れてはいたが、まだ問題はなく元気に歩く。切り通しを抜けて江ノ島電鉄の長谷駅から腰越駅で降車し、昼食に予定していた「しらすや」へ。11時半頃に着いたのだが、店の前には人が沢山いるので、しばらく待つかなと思ったけれど、予想より早く店内に入ることができた。頼んだのはやっぱり「しらすづくし定食」どれもとても美味しくて、旬のしらすを堪能。その後は、江ノ電江の島から湘南モノレールで大船→(横須賀線)→北鎌倉へ。東慶寺を参詣してから亀ヶ谷坂切通しへ。そこを通り抜けてから少しバスに乗り、報国寺(ここも竹林が美しい)→杉本寺を参拝。杉本寺は鎌倉最古の寺ということで、確かにお寺も石段もご本尊も歴史を感じるものだった。しかし、この日はこの杉本寺の時点で20000歩を超えていたので、さすがに足が疲れていた。平地ではなく、山道を上り下りし、寺院も上り下りで、少しばかり膝が笑い出した。ホテルに戻ってから食事に出るつもりだったが、もう遠いお店に行く気がせず、ホテル近くのおしゃれな茶店のようなお店で、おしゃれなうどんを食べておしまい。その後はコンビニで翌日の朝食などを買って戻り、入浴してすぐにバタンキュー。さすがにこの夜はすぐに寝ることができた。結局私は23000歩も歩いたことになる。
2026年04月24日
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4月23日~25日は、夫が以前から行きたいと言っていた鎌倉の切り通しを歩くための小旅行。一日目は、私は小平市に住む高校の旧友に会い、夫は横浜在住の友人に会ってから鎌倉のホテルで合流することにしていた。ということで、朝八時の飛行機で羽田に向かい、それぞれの場所に向かう。小平市に住む友人Tちゃんは、高校卒業後に同じ東京の短大に進学。私は食物栄養学科、彼女は初等教育科で学んだのだが、私は二年生の頃にうつ状態になり中退している。その後、彼女は都内で小学校の教師となり結婚して小平市に住むようになった。時は過ぎ、私の次男が小平市にある小さなデザイン会社に就職した時、一度だけ彼女の家を次男と共に訪ねて、ご主人や息子さんとも会ったことがある。昨年ご主人を亡くし、今年に入ってから体調も崩したということで、彼女の家に近い国分寺駅で会うことにしたのだ。この日はもう一人、先月壱岐の旅に一緒に行ったHちゃんも一緒に会うことになった。三人で会うのは多分高校卒業以来初めてだと思う。羽田空港から、電車の乗り換えに心配しながら無事に国分寺駅に時間通りつくことができた。お互いに出会った頃から数えたら60年近く経っていて、卒業後のお互いの人生には色々なことがあったのだけど、話していたら昔の話し方、表情、雰囲気はあまり変わらず、きっと基本的な人生観や価値観も変わっていないのだろう。まったく違和感なく昔のことから今のことまで、途切れることなくおしゃべりに花が咲いた(と私は感じた)。高校時代の私は相手に合わせるような付き合い方をしていたので、あまり自己主張はしなかったと思うけど、さて相手からはどう見えていたのかな。私達の学年は、すでにあちらの世界に行ってしまった人も多いので、元気であればこそこのような時間を持てることに感謝するばかり。あっという間の三時間が過ぎて、再会を約束して楽しい気持ちで別れて鎌倉に向かう。電車の乗り継ぎや時間については、今はスマホで簡単に最短時間を検索できるので本当に便利になった。問題があるとしたら、都会はあまりにも各路線が交錯していて、ホームを間違いやすいかな?今は、近くに駅員さんがいないことが多いので、それだけは間違えないようにと緊張。それでも、問題なく鎌倉駅に着いたが、鎌倉は雨。ホテルは鎌倉駅から徒歩二分程度の場所だったが、あまりに近くて通り過ぎてしまった。一休みしてから夕食を取るために駅の東口方面に。店名は失念したけど、美味しかった!
2026年04月23日
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青森震度5強、気象庁がマグニチュード7・5→7・7へ上方修正 地震エネルギーは2倍に青森県で20日夕に震度5強を観測した地震で、気象庁は同日夜、地震の規模を表すマグニチュード(M)を精査した結果、速報値の7・5から「7・7」へ上方修正した。マグニチュードが0・2上がると地震の持つエネルギーは約2倍になる。発生当初はM7・4と公表されたが、その後7・5に修正され、さらに7・7に修正された。震源の深さも三陸沖の深さ約10キロから「19キロ」に更新された。【近年の主な地震のマグニチュード(M)】平成7年 阪神・淡路大震災(最大震度7)M7・316年 新潟県中越地震(同7)M6・823年 東日本大震災(同7)M9・028年 熊本地震(本震、同7)M7・330年 北海道胆振東部地震(同7)M6・7令和6年 能登半島地震(同7)M7・67年 青森県東方沖地震(同6強)M7・5「スロースリップ発生か」専門家は続発を警戒 青森で震度5強もう、トランプと京都府南丹市の男児死体遺棄のニュースは見たくないと思っていたら、地震のニュースでそれ一色になってしまった。北海道・三陸沖地震というらしい。昨日の地震では、当地もゆらゆらと揺れた。津波警報が出たので成り行きを心配していたが、今のところ予想以下の状況のようだが、今後も後発地震の注意が必要のようだ。日本列島は地震列島。どこでどんな地震が起きても不思議はない。これ以上ひどいことが起きませんように。
2026年04月21日
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先週は、屋根と台所の棚のリフォームをした。屋根は、冬に玄関前の屋根の雪が凍りそれの処理に大変だったので、凍らないうちに雪が玄関前を避けて落ちるように工夫してもらった。屋根の板金屋さんは70代、リフォームの大工さんは60代。似たような年代の人が屋根に上って作業している姿を見たら心配になるけれども、そこは長年その仕事をしてきた人たちだから私達とは違う。職人さん達は、高齢になってもできる仕事は次々にあるようで、そこは強いなと思うが、それだけに体を壊してしまったらおしまいだ。台所は、上部の棚のものを取る時にいちいち踏み台を持ち出さなくてはならないのが不便で、昇降式のものに替えてもらった。電動式の吊戸棚を見ていていいなと思っていたのだが、リフォーム屋さんが「手動もあるよ」というのでそれにしてもらった。電動で壊れてしまったら修理が大変だとかで、それもそうだと納得。そのほかにもレンジやトースターの収納を含めた可動式の棚を付けてもらって、随分便利になりかつスッキリ。私がこの家で暮らしている間は、リフォームのUさんにメンテナンスも含めて頼みたいと思っているので、何とか元気でいてねとお願いしている。
2026年04月19日
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「伝説となった日本兵捕虜 ソ連四大劇場を建てた男たち」 嶌 信彦ソ連四大劇場を造り上げたのは若き日本兵だった――。よみがえる歴史秘話。「日本人として恥ずべき仕事はしない」シルクロードに伝説を刻んだ若き兵士がいた!!1945年、秋。敗戦後、ウズベキスタンに抑留された工兵たちがいた。彼らに課されたのは「ソ連を代表する劇場を建てること」。捕虜生活の下、457名の隊を率いてプロジェクトを完遂したリーダーは、まだ20代の将校だった。「日本人の誇りと意地にかけて、最良のものをつくりたい」彼らの仕事は、ソ連四大劇場の一つと称賛され、大地震にも耐えたオペラハウス「ナボイ劇場」として結実した。堅牢な造り、美麗な内装。彼らの誇りと意地をかけた仕事は、収容所長をはじめ、現地の人々の心を動かし、語り続けられ、日本人伝説となった。敗戦後、日本兵は一大プロジェクトと闘っていた!!埋もれた偉業が明かされる!■ボリショイ劇場建設という特殊任務■収容所長アナポリスキーとの対峙■隊員に起きた転落事故死■手作りの芝居、演芸大会でウズベク人と触れ合う■永田隊長の最後の仕事は名簿の暗記だったウズベキスタンのナボイ劇場が、終戦後に抑留された日本兵が建設したことは、ずいぶん前のテレビ番組で知った。ナヴォイ劇場父がソ連の抑留を経て帰国した経歴があり、その番組を見た時にはとても感動した。だから、北海道からウズベキスタンへの直行ツアーが企画されたことを知った時には、迷わず夫と二人で参加した。その時のブログが下記である。2018年10月31日 ウズベキスタンに行ってきました。ウズベキスタンツアー記(1) ウズベキスタンツアー (2) ウズベキスタンツアー記(3) この本は、そのナボイ劇場を造った工兵たちとそのリーダー、ソ連側の収容所の兵士、地元(当時はソ連)のウズベキスタンの人達との交流などが詳細に書かれている。ソ連は広大な国だから、抑留された場所も広範囲で数も多い。シベリア抑留 Wikipediaこれによると「日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている」とある。強制労働の内容や場所によって犠牲になった人たちの数も随分違うようだが、シベリアでの森林伐採や鉄道敷設、炭鉱労働などでは死者数も多かったようだ。ソ連抑留日本人収容地区の所在と各地域ごと犠牲者数この本に書かれている強制労働は、建設途中だったナボイ劇場の完成が目的だったため、少し様相は違っている。しかし、どんな作業ではあれ強制労働には違いはなく、乏しい食糧での重労働と、ソ連兵に監視された日々であることは同じだ。そこで様々な肉体的精神的なストレスで、絶望したり仲間内の醜い争いになったりすることも稀ではないだろう。そんな中でこの収容所の人達は、優れたリーダーの元で力を合わせ、後世に残る立派な劇場建設をやり遂げ、事故による数人の死者はいたけれど劇場完成後には日本への帰還を果たすことができた。集団でのミッションを、異なる人たちが力を合わせてやり遂げることができる要因について、考えることが多い本だった。同時に、この事実をぜひ多くの人達に知ってほしいと思う。
2026年04月17日
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子どもとみられる遺体発見 死後相当な時間か…司法解剖へ 京都男児不明から3週間京都府南丹市で、小学6年生の安達結希くんの行方がわからなくなってから13日で3週間ですが、事態が大きく動きました。13日午後、南丹市の山林から子どもとみられる遺体が見つかりました。(後略)ブログでは触れてはいなかったけれど、ずっと気になっていたニュースである。最初から最悪の事態を予想させるニュースだったのだが、遺体が発見されたということで少しだけホッとしている。これから事件の様相が解明されていくのだろうが、こんな可愛い少年がなぜこんなことにと思うと、本当にやり切れない。この事件以外でもやりきれないニュースばかりで、気がめいってしまう。
2026年04月14日
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本や絵本、映画などについてはブログに残すことが多いのだが、テレビドラマは見て「あー、いいドラマだった」で終わっていることが多いことに気付いた。ということで、最近良いと思ったドラマをメモしておこう。「テミスの不確かな法廷」あらすじ任官七年目の裁判官・安堂清春(松山ケンイチ)。東京から前橋地方裁判所第一支部へと異動してきた彼は、一見、穏やかな裁判官に見える。だが、その内側には絶対に打ち明けられない秘密が・・・。幼い頃、衝動性や落ち着きのなさからASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)と診断された安堂。以来、彼は自らの特性を隠し、“普通”を装って生きてきた。それでも、ふとした言動が前橋地裁第一支部の面々を戸惑わせ、法廷内外で混乱を巻き起こしてしまう。そんな安堂の元に、複雑な人間模様が絡み合う、難解な事件が舞い込んでくる。市長を襲った青年。親友をこん睡状態に追い込んだ高校生。そして「父は法律に殺された」と訴える娘――。やがて、安堂の特性からくる“こだわり”が、誰も気づかなかった事件の矛盾をあぶり出す。しかし同時に、彼は自身の衝動とも格闘しながら公判に挑まなければならない。果たして安堂は、公正に事件を裁き、真実へとたどり着くことができるのか!?このドラマは、内容も良かったけれど、松山ケンイチの演技には感心した。彼は本当に良い俳優だと思う。土曜ドラマ お別れホスピタル放送年度:2023年度高齢化が進行し、癌が国民病と化した現在の日本。7割以上の人が病院で最期を迎える。そんな病院の中でも 、 末期がんなど重度の医療ケアが必要な人や、在宅の望めない人を受け入れる療養病棟。 そこはまさに医療のセーフティーネット。その最前線に立つ看護師は、 意思表示の難しい患者さんのわずかな変化も見逃さず、 そこでの 日々が最善であるよう努める。ただ 苦痛を取り除くだけでなく、その人らしい「 限りある生のかたち 」 を求めて日々奮闘する。そして、訪れた最期から、その人なりに「生き切った命」を見届ける証人となる。患者さんや、その家族、そして彼らと関わる医師や看護師の、葛藤や、怒りや、悲しみや、小さな喜びや、笑顔や、素顔の先にあるドラマを通して、「死を迎える」ことと、「生きる」ことの意味を問いかける。 それは、私たちの未来への一筋の光につながっていくはず。「お別れホスピタル」それはー死の一番そばにある病院で繰り広げられる、壮絶で、けれど愛にあふれた人間ドラマ。今このドラマを調べて、再放送なのだとわかった。文句なしに良いドラマだと思ったが、ここにも松山ケンイチが出演しているNHKも良いドラマを制作してるな。「タツキ先生は甘すぎる」あらすじ楽しいことだけ、やろう! って言ってくれる先生、いてもいいでしょ? 学校にいきたくない子どもたちが、安心して過ごせる居場所 フリースクール そこで絵を描いたり、遊んでばかりのタツキ先生。学校は行かなくてもいい! 1日中ゲームをしてもいい! 好きなお絵描きだけずっとやっててもいい! フリースクール「ユカナイ」のスタッフ・浮田タツキは、アートや遊びを通して、子どもたちに寄り添い、彼らが奥底に閉じ込めた気持ちを見つけていく。しかし彼は、どうしてこれほどにまで、子どもに甘すぎるのか……。増え続ける、不登校の子どもたちといっしょに、時に笑い、泣き、迷いながらも、多様化する生き方に希望を見出していく感動のヒューマンドラマフリースクールを舞台にしたドラマなので、とても注目していた。第一話を見た限りでは、とても共感できるし良い内容だと感じた。このドラマには、フリースクールや不登校関連で活動している人など当事者が監修しているということなので、多分私の考えて来たこととはあまり違わないだろうと思う。現在、様々な立場で学校に行きづらい状態の子どもたちと関わる人たち(特に大人)に見てほしいと思う。
2026年04月12日
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「なぜあらそうの?」ニコライ・ポポフ【内容紹介】(「BOOK」データベースより)1ぴきのカエルが、1本の美しい花を手にしていました。そこへ1ぴきのネズミがやってきてその花をうばいました。なぜ?次に、2ひきのカエルがくわわってネズミを追いはらい、手あたりしだいに花をつみはじめました。なぜ?すると今度は、ネズミたちがもっとひどい暴力で仕返しをしました。そして、あらそいは続いたのですー。本書は、子どもたちや、すべての大人たちにさまざまな疑問をなげかける、文字のない絵本です。なぜあらそいはおこるのか、なぜあらそいはやまないのか、そして最後に何が残るのか、考えてみてください。1996年ベルギー児童図書評論賞。【著者情報】(「BOOK」データベースより)ポポフ,ニコライ(Popov,Nikolai)1938年ロシアのサラトフに生まれる。外科医の父から絵を描くことを、母から音楽や詩に親しむことを教わる。10代半ばから本格的に絵画を学び始め、1962年モスクワ印刷大学を卒業。1964年より国内外の文学作品のライストで活躍する。1975年『ロビンソン・クルーソー』さし絵でBIB世界絵本原画展グランプリを受賞。本書は1996年ベルギー児童図書評論賞に選ばれている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)文字のない絵本です。それだけに、カエルとネズミのちょっとした出来事から、次々に争いや悲しい状況に変化してゆく様子が想像力をかきたてます。年齢を問わず様々な思いが沸き上がってくるでしょう。その果てには何が残るのか。現実世界をどうしもリンクしてしまう絵本でした。
2026年04月10日
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「DANGER」村山由佳/著世界的振付家・久我一臣にインタビューをすることになった、編集者の水野果耶と記者の長瀬一平。久我の半生を辿りつつ、戦前戦後の日本バレエを紹介するつもりだったが、彼が語る壮絶な戦争体験は、二人が思ってもみなかった縁を掘り起こしてゆく。芸術と戦争を通し、過酷な運命に希望を見出す人々に迫った、入魂の輪舞曲(ロンド)。上記のサイトを読めばわかるが、作者の村山由佳さんのお父さんもシベリア抑留体験者で、彼女は第二次大戦や終戦後のシベリア抑留、その中には女性もいたということを知り、いつかは書かなくてはと思っていたようだ。そんなことを含めてのこの本のことを知り、これは読まなくちゃと購入して読んだ。事実を土台にして小説化したこの作品は、とにかく面白かった。私はバレエには詳しくないし、本物のバレエの舞台を見たこともないのだが、日本におけるバレエの歴史も重ね合わせてとても興味深かった。私は父がソ連抑留体験者だったこともあり、結構関連する本も読んでいる。だから、この本に書かれている女性の状況もある程度は知ってはいるが、記録やドキュメンタリーとはまた違う、共感性を呼ぶリアリティーが小説にはある。これが小説&物語の力だと思う。残念ながら現在もなお、世界のあちこちで紛争や戦争は頻発し、その中で相変わらず子どもや女性たちが理不尽な辛酸をなめていることだろう。ぜひ、多くの若い人たちに読んでほしいと思う作品だった。
2026年04月08日
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「ひろい海にぼくたちは生きている」長倉洋海/文・写真海に暮らす様々な人々に出会い、海がもたらす恵みと広がり、境界のない生き方について、気づいていきます。久しぶりに長倉さんの写真集(絵本)を手に取った。長倉さんの写真を初めて見たのは随分前のことだった。長倉洋海HPサッポロファクトリーに、当時関わっていた不登校状態の女子中学生と行った時、偶然に開催されていた写真展だった。長倉さんは、アフガニスタンの英雄と言われているマスード将軍と長年の交流があり、多くの写真を撮り続けていたのだが、マスードはアメリカへの同時多発テロの直前に暗殺された。サッポロファクトリーでの写真展は、マスードの追悼と彼の功績を多くの人に知ってほしいという長倉さんの強い思いで開催されたのだと思う。私はその時は何も知らずに会場に足を運び、マスードの写真に魅せられた。フリーページにもそんなことを書いている。長倉洋海さんとアフガニスタンそれ以来、札幌で開催された長倉さんの写真展やチャリティー写真展にも何度か足を運び、彼がマスードの死後も支援していたアフガニスタンの山の学校をひそかに応援もしていた。長倉さんは現在もその活動を続けていらっしゃるようだ。早く、アフガニスタンの子ども達が自由に学べる国になってほしいと思う。アフガニスタン山の学校支援の会長倉さんは人物や特に子ども達の写真をたくさん撮っている。写真の中の子ども達はみんな輝くような瞳をしていて、元気いっぱいの笑顔だ。この写真集は、海と共に生きている子ども達の姿に、自然と共に生きていることの力強さを感じさせてくれる。長倉さんもお元気のようでとても嬉しい。
2026年04月05日
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