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イラク派遣に関する国会関連のニュースを、新聞やテレビでチラチラ見る限り、こんなことで日本の大事が決まってゆくのかと思うと、頭に血が上りそうだ。あらためて書く時間もないが、小泉首相や石破防衛庁長官、川口外相の発言など、もうあきれてしまうほど私には無茶苦茶に聞こえる。このように情報が混乱する(混乱以前の問題もあったようだが)ということそのものが、現地の混乱状態を認めているということだろうし、大量破壊兵器存在の有無の問題は、現在のイラク問題の責任問題でもあるのに、なんでこうなるの?国連の存在意義を一国の首相が(たとえ本音が出たとは言え)否定するような発言をしたら、とんでもないことじゃないの?職員が徹夜して頑張っていてこの程度ならば、現実に対応できるような体制をとるのが大臣の仕事じゃないの?野党だって、欠席したらいいってもんじゃないだろ!平和の党は、どこに消えたんだ!一人の国民として、頭にくることばっかり!!!P.S日記リンクしているsowonさんの日記に共感。いくら既成事実が積み重ねられても、私は自衛隊が戦闘に巻き込まれるような国で、武器を構えながら活動するのは反対です。
2004年01月31日
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知人が亡くなった。私と同世代の54歳だった。「オイオイ、ちょっと待ってくれよ」と、本人も戸惑っているのではないだろうか。一年ほど前から、体調を崩して入院したとは知っていた。しかし、あの元気一杯の人が、そのまま終わってしまうとは考えたくなかった。若い頃から様々な地域活動やボランティア活動に関わり、この町でその人の顔を知らなければ「もぐり」とさえ思えるような人だった。だが、あちこちに顔を出す人にありがちな、傲慢さや偉そうな態度とは無縁の人だった。その人の明るい笑顔に、どれだけ多くの人が励まされたことだろう。外に出歩くことが多かったから、家族サービスは不足気味だったかもしれないけれど、家族を誰よりも愛していたことは、みんながわかっていたことだろう。まだまだ生きていて欲しかった。ちょっぴり頑固で自分の意見ははっきり主張するけれど、一旦決まったからには決して文句は言わず、率先して行動に移す人だった。あれほど気持ちの良い人は、本当に珍しい。人の何倍も何倍も、自分の出来ることを精一杯楽しみながら取り組んで、それに伴う苦労をも、自分の喜びに変えていた。まだまだ生きてやりたいこともあっただろうに、死を前にして「俺は本当に幸せなやつだなー」と、苦労を共にした妻に言ったという。今の私は、その言葉に少しの救いは感じるけれど、「どうしてみんなにとってこんなに大切な人を、こんなに早く連れて行くの!」と、何かに向かって叫びたい。人生は四苦八苦というけれど、人の生き死にだけはどうしようもない運命だ。今はまだ、私の中にはその不条理さや理不尽さへの怒りが荒れ狂っているのだが、何とか受け止めていくしかないのが人の死なのだ。そして、生き急いだ彼の命や志を、のろまな私が少し分けていただいたつもりで、少しでも誰かの役に立てるように生きて行きたい。Nさん、そんなに深いお付き合いはなかったけれど、いつも尊敬してお手本にしていました。今まで、みんなのために本当にありがとう。ゆっくりお休みくださいね。そして、あちらの世界から、愛する家族や友人達、そしてこの町のみんなを応援していてくださいね。
2004年01月30日
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今日あたりは、カウンターが12345になるかも・・と思ってパソコンを開くと、なんと「12654」になっている。このHPを開設してから、一日に100件を越える日は珍しいくらいだったのに・・・。?????????昨日の「通信教育の学歴」に関心を持たれたのか、それとも「12345」を狙ってくださったのか・・・。私にはとんとわからない。不思議でキツネにつままれたような気分である。でも、ちゃんと「12345番目」のABOさんは、私書箱にメッセージを残してくださったので、これからお返事を書く積りです。それと、この人もですが、もう一人の方も、先日の「箕輪登氏のイラク派遣憲法違反を提訴」について関心を持って、私の日記を読んでくださったようで、それについて触れていらっしゃいました。かつてのタカ派・箕輪氏の「老いの一徹」にも見える行動に、多くの人が共感を示されているのでしょうか。この裁判が、現在の政府の方向性へのブレーキになって欲しいと、心から願っています。それにしても、昨日このHPを訪れてくださった多くの方々に、この場を借りて心からお礼を申し上げます。
2004年01月29日
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某議員の学歴詐称で、必要以上に世間が騒いでいる昨今だが、ふと「私の学歴はどうなるんだろう」と思い、卒業の時にいただいた「学位記」を見直した。私は、卒業の時には「卒業証書」をもらうのだと思っていたのだが、大学の場合は「学位記」となっていたので、あらためて「そうなんだ・・」と思ったものだ。(息子が大学を卒業した時に見たはずなのだが、あまり意識していなかったので気がつかなかったのだろう)その「学位記」には、[慶応義塾大学学則に定めた文学部の課程を修め 本大学を卒業したことを証し 学士(人間関係学)の学位を授与する]と書いてあり、慶應大学塾長と文学部長の名前と公印が押されている。これを見る限りは、私が「通信課程」で卒業したことは明記されてはいない。しかし、大学院を(無謀にも)受験する時に取り寄せた卒業証明書には、「本塾大学文学部(通信教育課程)を卒業したことを証明する」と書いてある。さて、私がもし学歴を公表しなければならない時があるとするならば、どのように書けばよいのか。多分、「慶應義塾大学文学部卒」で良いのだろうが、私の気持ちとしては「文学部(通信教育課程)卒」としなければ、なんだかスッキリしない。というのは、もし「文学部卒」だけにしたとするなら、そこに私自身の多少の見栄の存在を感じるからである。話は違うが、慶應大学を卒業したら「三田会」というものに入会できる。「三田会」は全国各地に様々な形で存在していて、巨大なネットワークを形成しているようである。私は、在学中には「慶友会」の仲間にとても刺激を受け、励まされ、そこで出会った何人かとは、今でも交流を持っている。だから、卒業したら「三田会」に入って、知的刺激を受けることを多少楽しみにしていた。しかし、私の在住する地方にある三田会には、卒業後二年ほど会費を払って退会した。それぞれの三田会によって性格が異なると思うのだが、私は「親睦団体」のように感じて、現在の私にはあまり意味がなかったからだ。もしも私が、現在も仕事をしていて、そのネットワークを活用できるとなれば、きっと親睦の集まりにも参加していただろう。でも、今の私にそのような必要はなかった。さらに、同じ三田会でも、「通学課程」の人たちからは「通信課程の卒業生」は少し見下げられているように感じるという人がいた。確かに、私は通信課程だから卒業できたのであり、決して間違っても試験での合格は望めなかっただろうし、何よりも学費が桁違いである。貧乏でも卒業できるのが通信課程なのだ。だからこそ私は、「通信課程卒業」と明記したい。チャチな見栄に振り回されたくないし、等身大の私でいたい。それに、学歴信仰の人には「ああ、通信ね・・」と軽く見られるかもしれないけれど、そこで卒業することの重みや意味を、少なくても私はわかっている。また、大学院を受験した時や、大学院説明会に行った時に、そこの大学教授から「通信で卒業されたのですか、すごいですね」と言われたことも事実。それは、単なるお世辞ではなかったと感じている。だから、通学課程卒業では持ち得ないであろう誇りを、ひそかに私は抱いてもいる。学歴を必要以上にあがめることは愚かだと思うけれど、それがその人の生きてきた歴史の証明の一つであることは事実だ。自分の歴史をキチンと認めて出発しなければ、足元は思いがけないところでぐらついたり崩れたりする。人の歴史も国の歴史も、同じだと思う。国の歴史を美化することも隠すことも卑下することも、同じように愚かだと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「通信教育」のテーマで書こうと思って、以前書き込んだテーマを選んだら、前に書いていた二件が消えていた。どうしてなのだろう。どなたか、理由がわかる人はいらっしゃいませんか?
2004年01月28日
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多分、この2.3日の間に、「12345」アクセスになると思うのですが、留守にすることが多くなるので頻繁に確かめられないのです。別にどうということはないのですが、少しばかり遊んでみたくて・・・。記念品? うーん、私の私書箱メールじゃだめかな。特別に、私の秘密を教えるとか・・、フ・フ・フ・・・。【補記】という、上記の日記だけだったので、今日の訪問者は少ないだろうと予想していたら、100人を超えていました。びっくりです。たまたまだったのでしょうが、アクセス数が増える要因って何なのでしょう。最近は、できるだけ「テーマ」を選んで日記を書いています。その方が、同じようなテーマで書いている人の日記を読みやすいからなのですが、今までの実感としてはテーマを選んだ方がアクセスが増える感じでした。でも、今日は「テーマ」は選んでいないので、その要因がよくわからない。「お知らせください」というフレーズに、何かいいことがあるかもと思われて来てくれたのなら、騙したような日記でごめんなさい。特別に何もいいことはありませんので、ご容赦ください。それと、私は数字が弱いので12345番目までの数を、予測するのを間違えていました。でも、多分数日後には・・・。それも含めて、「タイトル詐称」にはならないですよね?(28日/記)
2004年01月27日
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このニュースを昨夜のテレビニュースで知った時、「またか!」と思った。「また、虐待事件が起きた」ということではない。「また児童相談所や学校が放置した」ということにである。もちろん、どんな事情があるにせよ親に一番の責任があることは言うまでもないが、その責任を果たさないどころか、人間とは思えない行動をする親(保護者)が多く、子どもが悲惨な状態になることが後を断たないから、「児童虐待防止法」ができたのに・・。虐待が疑われる家庭には、児童相談所は警察などの協力を得ながらでも立ち入り調査ができる権限があるのにも関わらず、その機能や権限を発揮せずに、結果的に放置したと同様になることがあまりにも多い。その原因の一つに、児童相談所のワーカーの数が、現状には全く合わずに少なすぎる現実がある。さらに、「怖い保護者]に対して、学校や相談機関は本当に及び腰だと私には感じられる。怖いという心情は理解できるが、それと職業上の責任を果たさないというのは、全く次元が違う。私は、不登校の子どもを持つ親と話す機会が多いのだが、おとなしいタイプの不登校児は、学校から放置されていると感じることが多い。学校も児童相談所も、一定期間子どもと会えない状態が続いたならば、あらゆる手段を活用して子どもの健康状態を把握する努力をしてほしい。人間らしい心を持つ親ならば、決してそれを拒否はしない。親が徹底的に子どもに会わせる事を拒否するならば、「何かある」と疑ってもいいと思う。そして、権限を活用して強制的介入をしてほしい。さらに、虐待が長期化していると考えられる子どもは、遠慮せず親から引き離して欲しい。しかし、そのための児童相談所の「一時保護施設」も、昨今の児童虐待社会を反映して定員オーバー状態のようだ。さらに、児童養護施設も同様である。そのような状態の中では、傷ついた子どもに充分なケアは望めないばかりか、次の虐待が待っていることにもなる。遠い国の子ども達を救うことも大切だけれど、この国の子ども達をなんとかしてほしい。
2004年01月26日
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旭川の警察署の裏金作りのために、架空の捜査協力者を仕立てて報償費を不正支出していたことが発覚し(注:警察はまだそれを認めてはいないが)、勝手に名前を使われていた上川管内の男性が、道(道警)に損害賠償を求める訴えを起こしたことが、北海道内では話題になっている。ほとんどの人が、「そういう事実はあったのだろう」と思っているし、私もそう思う。今朝の北海道新聞に、元警視庁会計職員だった大内顕氏が、「裏金作りは警察庁主導」と言っていることが記事になっていた。これも、「やっぱりね」と諦めの気分で納得して読みながら、この国の機構はどこまで腐っているのだとうんざり。法を護るべき職業の人たちが、それも偉くなるにつれてどんどん腐ってくるのを見せ付けられると、自分の正義感や倫理観がとても虚しくなってくる。だが、このような日本を何とか護り続けているのは、私達のような偉くない大多数の人たちが、「正直者はバカをみる」とぼやきながらも、風前の灯火に近いまっとうな倫理観や道徳観を、精一杯護りながら生きているからだろうとも思う。裏金作りの問題は、結局はトカゲの尻尾きりで終わってしまうのかな。
2004年01月25日
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昨日のテレビは、古賀議員のおっかけが随分多かった。日記リンクをしている七詩さんも書いていたけれど、私個人の感想としては「それがどうした!」という気分。あんなに大勢のカメラマンやりポーターが、大挙して話題の大学にまで行かなくてはならない問題か?その隙間を縫うように、自衛隊のイラク派遣関連のニュース、さらにその残りで国会の代表質問関連、というのがチラチラとテレビを見ていての私のニュース配分量。私達がしっかり見すえなくてはならないニュースは、いったいどれなのか。少なくても、古賀代議士の学歴事実確認ではないだろう。(この問題は、先日の日記にも書いたように、別の意味では日本の教育問題にあると思うけれど、今のところそれに触れているニュースを見ていない)メディアのニュースの取り上げ方に比例して、それが重要な問題だと錯覚するようなことはないだろうか。それほど庶民が愚かだとは思いたくないけれど、私自身がよほど気をつけていないとそうなりそうだから、何だか心配なのである。それにしても、イラク先遣隊の活動のニュースを見ていると、何だか切なくなる。精一杯任務を遂行していることが、痛いほどわかるからだ。しかし、テレビや新聞で見る限り、サマワの人たちの期待値と、自衛隊が出来ることとのギャップは大きいようで、その矛盾を体感しながら必死に与えられた任務を果たそうとしている隊長以下隊員の皆さんには、この国の庶民を代表して謝りたい気分。きっと、命令を下した人たちは誰も、「ごめんね、無理なこと言って」なんて言わないだろうから。
2004年01月24日
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今朝、アクセス数を見て驚いた。いつの間にかカウンターが[11270]になっていた。10000件になった時、楽天さんからお知らせがあったので、その時も「いつのまに・・」とビックリしたのだが、あれからそれほどたっていないのに・・。実は、[11111]というぞろ目を誰が踏んでくれるのかなと、チョッピリ楽しみにしていたのだけど、うっかりしているうちに過ぎてしまった。次は、[12345]の時を楽しみにしよう。でも、ボンヤリの私は、またうっかりと過ぎてしまう可能性が大である。それにしても、何でたかがカウンターの数字に一喜一憂しちゃうんだろう。たとえば10000は、9999の次であり10001の前だと言うだけなのに・・。私はどうも「数字」が苦手な性質(たち)なので、そのせいかあまり数字にこだわる方ではない。そんな私でも[11111]とか[12345]にはちょっと気をつけようなんて思っているのが、我ながらおかしい。人間って、こんなことにも楽しみを見出す能力があるんだなと思う。しかし、事実としてのこの数字は、ちょっと怖いかもしれない。このHPを開設して半年だけれど、随分多くの人が私の書いたものを読んでいることになる。もちろん、この数字の中には私のものも沢山あるし、同じ人が何度も見てくれているのだから、実質的にはたいしたものではないだろう。だけど、仮に「100人」としても、今までの私の感覚からするとすごいことだ。作家でもジャーナリストでもない私の文章が、100人の人に読まれるなんて・・・。大変な世の中になったものだと、改めて考えてしまう。また、ホームページを開設している人に小・中学生も多いことにビックリ。先日の香山リカさんの本では「サブ・カルチャー」というキーワードがあったけれど、この時代のサブ・カルチャーは「ホーム・ページ」かな?だけど、私は基本的に、若い時代はできるだけ自然と対話して欲しいと願っている。暇があったらパソコンよりも、暇があったら公園を散歩して季節を感じ、木々や草花、そして流れる雲達や、鳥や虫などの小動物と触れ合って欲しいと願っている。自然の一部として人間は自然に生まれたのだから、その原点をしっかりと身体に叩き込んでから、新しい文化を取り入れて欲しい。そのバランスが崩れたところに、様々な歪みが生じると思う。その点でも、養老孟司氏の言葉にはとても共感したのだ。本を読み始めると癖になる。私は結構早く本が読める方だと思う。若い頃に乱読したので、その頃に私なりの速読技術が身についたように思う。しかしそれは、「面白いとのめりこんだ時だけ」である。香山リカさんの本と、養老孟司さんの本は、私の脳の壁を感じさせないものだったので、何も引っかからずにダーッと読めて、どちらも三時間程度で読み終えた。昨日は、以前借りていた本を返しに行って、先日直木賞をとった京極夏彦氏の「巷説百物語」を借りてきた。このような内容の本になじみがないことと、使用されている語彙が現代的ではないこともあって、小説なのになかなかはかどらない。しかし、そのうちにだんだんと文体にも慣れてくるだろうから、まあ期間内には読めるだろうと思う。そういえば、「私なりの速読法」は、通信教育でレポートを書く時や卒論の、参考文献探しには大いに役に立った。ページごとにパッと見て、おおよその内容がつかめるからだ。しかし、私のこの方法の場合、細かいことは全くアウト。本当の速読法は、細かいこともつかめるらしいのだけど、私などは「ほんまかいな」と思ってしまう。しかし、人間の脳の働きはすごいものがあるから、訓練によってそうなるのかもしれない。だが、それには素質が必要だろうな。多分、私には無理な芸当だろう。
2004年01月23日
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一昨日に書いた日記のタイトルが中途半端だったことに今朝気付き、ビックリ。「を愛するということ」になっていたのだ。読んでいた人は「???」だったろうな。香山さん、失礼しました。さて、昨夜は風邪気味だったので早めに布団に入ったのだが、買い物ついでに買ったこの本を、面白さにひかれて読んでしまった。以前「バカの壁」を読んだ時には「目からウロコ」でとても納得したけれど、この本も「ナットク!!」という感じでザザーッと読むことが出来た。標題の「逆さメガネ」は、人間の知覚や認知を調べる実験道具で、視野の上下が逆転する。このメガネをかけてしばらく慣らせば、普通に行動できるようになるというこのメガネを、私はスクーリングの「心理学」の講義でかけてみたことがある。この講義で、このメガネをかけた実験者がその状態に適応していく過程をビデオに撮ったものを見せていただき、人間の不思議さを痛感したことを思い出す。前書きで著者は次のように述べている。「そういうメガネをかけてもしばらく慣らせば普通に動けるということは、人間の脳の適応力の大きさを示しています。特に子どもにはそうした柔軟性があります。だから、社会が逆さまになっていても、それなりに慣れてしまうのです。(中略)多数の意見だからとか、みんなと同じだからといって、それが当たり前だと思って見ているとしたら、そういう人たちは自分が逆さメガネをかけていることに気がついていないのかもしれません」この本の中で、養老氏は「個性は身体にあり、心にはない」と言っている。そして、「心に個性があると思い込むのはムダ」と指摘する。読んでいくと、これは納得である。私も、時々逆さメガネをかけてみる必要がありそうだ。蛇足であるが、以前「バカの壁」を読んで以来、この人の書くものを雑誌や新聞で見かけたら、読むようにしていた。そして、私は養老氏の言葉にそれなりに納得することが多かった。しかし、人によっては同じものを読んでいても「何言ってんだか・・」と批判している人がいて、「なるほど、バカの壁はこのように存在するのか」と思っていた。私の逆さメガネと、そのような人の逆さメガネは、逆さまなのかな??(書いてて、良くわからなくなってきた)
2004年01月22日
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古賀潤一郎衆院議員(民主、福岡2区)の学歴疑惑について、色々と取りざたされている。ことの真偽はよくわからないけれど、大学が「卒業していない」と言っているようだから、卒業はしていないのだろう。それにしても、大学卒業の学歴が国会議員立候補に必須の条件ではないのに、どうしてこのようなことが起きるのか。あえて説明するまでもないだろうけれど、そのほうが選挙民の評価が上がるからなのだろう。私自身も学歴コンプレックスがあったから、「大学卒」というだけでその人が自分よりも上の人のように錯覚していた頃もあった。ましてや、外国の大学を卒業したと聞けば、条件反射的に「すごいなー」と感じていたようにも思う。そんな人が多いから、学歴詐称は後を断たないのだろう。そしてまた、そのような学歴信仰者は、それが違っていたとわかった時には、今度は「裏切られた」とばかりに徹底的に糾弾する。古賀議員が、どのようないきさつから学歴を粉飾したのかわからないけれど(少なくても、勘違いではないだろう)彼が国会議員でなければこんなことまでにはならなかった。立候補する時には、誰からも後ろ指さされない経歴を出すべきだったのだ。これは、彼自身が学歴信仰にとらわれていた悲劇のように感じる。学歴信仰の悲劇は、「学歴があれば幸せになる」という教義のうさんくささが露わになってきている現在でも、まだまだ続いている。世の中には、その資格がなくてはできない職業があるし、大学で学ぶことの意味も人それぞれであり、決して大学卒をバカにするつもりはない。それに、「大学卒」の資格を生かすチャンスがあるのなら、堂々と生かせば良い。しかし、学歴だけでその人を判断するような愚は犯したくない。
2004年01月21日
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先日、友人が「これ、面白いよー」と言って貸してくれた本である。香山リカさんの本は、随分前に文庫本で一冊読んだが(電車で読むためにキオスクで買った)、その後誰かにあげてしまったのか、今手元にはない。その時の印象は、それが若者向けに書かれた本だったので、心の問題をとてもわかりやすく書いてあるなーと、内容よりもそのわかりやすさに感心した記憶がある。そしてこの本である。これもとってもわかりやすく、「フムフム、そうだそうだ、なるほど・・」と思っているうちに読み終えるてしまった。精神科医には文章が上手な人が多いけれど、彼女もとてもわかりやすい文章を書いてくれる。副題として「私探しと自己愛」とあるように、「本当の私」を探してさまよう自己愛が肥大した現代人についての分析の本と言える。この本のキーワードが「サブ・カルチャー」であり、私はこの本を読むまで、彼女はサブカルチャーと精神医学との関連での研究をしていたらしい。【注:サブ・カルチャー】ある社会に支配的にみられる文化に対し,その社会の一部の人々を担い手とする独特な文化。例えば,若者文化・都市文化など。副次文化。下位文化。この本によれば、多くの人が「私探し」を始めたのは90年代らしい。たしかに、「自分探し」という言葉があちこちを飛び交っていたような気がするし、今もその名残が色濃いと思う。かくいう私自身も、ずーっと「理想の自分と現実の自分」のギャップによる自己嫌悪やコンプレックスと葛藤してきたように思う。しかしそれは、「本当の自分は?」という戸惑いとは少し違っていたような気がする。若い頃には確かに、「仮面を被った自分」を強く意識し、それを引っ剥がそうとする痛みが、「自分の人生」の始まりだったと思うけれど・・。だけど、現代人はそのあたりでさまよう人が多いようだ。話は前後するが、どの時代にもサブ・カルチャーはあるけれど、今の時代のそれは何に当たるのだろう。人は時代の中に生まれ、時代に強く影響を受けながら成長する。私が影響を受けたのは七十年代だったはずだ。あの頃のサブカルチャーってなんだったのだろう。やっぱり、学生運動やフォークソングということになるのかしら。このあたりについて詳しい人が見ていらっしゃったら、教えていただきたいものだ。
2004年01月20日
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☆自衛隊がサマワヘ本当にこのことが日本の国益になるのかと、やっぱり不安。アメリカに追従するしかないとするなら、これは「現時点では国益」なのだろうし、そして、ひょっとするとこのことは「防衛」の一環なのだろう。だけど、長期的にはどうなのだろうか。最近の小泉氏は、妙に精神が高揚しているように見える。このような状態で、大切な決断をしてもいいものなのだろうか。それにしても、どうして「戦争反対、憲法九条堅持」を言う人を「楽天的なお人よし」とバカにするような論調が支持されるんだろう。武器を持ったら武器使用はとても近いものになるのに・・。自衛隊員が武器を使用することがないように祈る。☆教育者は自殺するな!サッカーゴールの下敷きになって生徒が死亡した中学校の校長が、自殺したという。私は基本的に、自殺する人を責めたくはない。どちらかというと、「死ぬしかない」というような心情や孤独感のうちに死ななくてはならなかった人を、とても気の毒だと思っている。だが、少なくても青少年と日常接して「教育」に携わる人には、自殺を禁じたいと思う。生きていれば苦しいことや死んだ方がマシに思うことなど、一杯ある。それが生きるということだ。苦しい時を何とかしのいで、自分のありったけの力を振り絞ってもがきながら立ち上がったときに、喜びや感謝というかけがえのないものを掴むことができるはずだ。人を育てるとは、教育とは、そのような価値を伝えることではないかと思う。この校長先生は、多分とてもまじめな人だったのだろう。マジメを最上の価値として生き過ぎたのではないだろうか。しかし、マジメばかりが人としての価値ではない。時々、「校長の自殺」のニュースを目にする時、死によって何かを清算することを選ぶ人は、教育者になって欲しくないと思う。どうしても死にたい時には、退職してからにしてほしい。そして、校長が自殺を選ぼうと考えるような教育界は、やっぱりどこか歪んでいると思わざるを得ない。
2004年01月19日
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テレビで良く見る人の中に、とても気になる顔が複数ある。気になるというよりは「イヤな感じを受ける」のである。(断っておくが、私は「顔相」を観る占い師ではない)。いつの頃からか、その顔に多少の不快感を受けることに気付いてから、自分なりにその理由を考えている。その人の考え方に同意できないからか?(そんな人は、他にも一杯いる・・)表情が乏しいからか? (夫の表情も豊かではない・・)傲慢な感じがするからか?(傲慢でも憎めない人もいる)人をバカにした感じがするからか?(そういう人もゴマンといる)どれもこれも、「これ!」という決定的な理由にはならないし、何しろすべてが私の主観によるものであり、それで誰かを「嫌な人」と決め付けるのでは、あまりにもひどい話だ。しかし、どうしても私はその人の顔に嫌な感じを受けてしまい、そのせいなのだろうけれど、その「言葉の真意」を疑ってしまうのだ。だから、その人の言葉を聞かなくてはならない時は、眼をつぶった方が良いのではないだろうかとさえ思う。視力のない人は、「声と言葉」だけでその人を判断していくのだろう。私は目の見えない人に、(私が嫌な感じを受ける)その人の声がどのように聞こえるのか、問うてみたい気さえする。その嫌な顔が、現在のこの国の政治を担っている人の中にもいるので、とても気になってしまうのだ。そして、多分多くの人がその人を支持しているはずなので、私の感覚が間違っていることを願ってもいる。
2004年01月18日
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☆自衛隊イラク派遣は自衛隊法違反と提訴北海道新聞の夕刊で、箕輪登氏のこの記事がでていた。インターネットで検索したら、下記の記事を見つけた。http://www.26cluster.ne.jp/news/sp_iraqi021.asp 現役の国会議員の時の箕輪氏のイメージは「タカ派」だったので少し意外な感じがしたけれど、私はその主張をとてもまっとうだと感じている。これからの経緯を注目していきたいと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆最近のテレビで気にかかること●アナウンサーの漢字の読み間違い昨日の直木賞発表のニュースを見ていて、江國香織さんの「号泣(ごうきゅう)する準備はできていた」を、アナウンサーは「ごうきゅう・・」とは言わなかった。何と言ったのか定かではないが、少なくても「ごうきゅう」ではなかったので、???と思い、ひょっとするとあえて別の読み方にしたものなのかと思った。その後の別のテレビ局のニュースで「ごうきゅう」と言っていたので、多分NHKのアナウンサーの間違いであろう。こんなことが、最近では珍しくない。普段使わない言葉ならばまだしも、簡単な漢字まで読み間違えるなんて、とてもプロとは思えない。時々、「失礼しました」なんて謝るのも聞くが、これもとても耳障り。また、テロップの漢字の間違いも多い。別にチェック魔ではないのだが、「またか・・」とうんざりするのだ。しっかりして下さいよ。●クイズ形式番組の多さこれもやけに多い。昔からこんなに多かったのだろうか。別に取り立てて嫌いというわけでもないのだが、みんな似たような番組に思えてしまう。さらに言うなら、出演者も似たような人があちこちに・・。そんなに日本人はクイズが好きなのかな。
2004年01月16日
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今日については、これしか書くことがない。昨日の吹雪は、私のこれまでの人生でも体験したことがないほどの大吹雪だった。風と雪があれほど休むことなく一日中続くとは、予想以上だった。昨日は、玄関が吹き溜まりで開かなくなる恐れがあるので、玄関前と車道までの区間は、午後からはほぼ一時間ごとに除雪をしていた。しかし、そのほかの場所は除雪してもどうなるのかわからないので、雪が収まるまでほおっておいた。そして今朝である。夫が出勤前に車道までを除雪して行ったが、残りは私の仕事である。途中で休憩を入れながら、正味三時間以上は働いたと思う。最近肉体労働をしていなかったので、もうヘトヘトである。腰も痛いし、腕も重い。もうしばらく雪は降って欲しくないというのが、今の本音である。
2004年01月15日
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昨夜から吹雪。朝、玄関には雪の吹き溜まりが出来ていて、玄関のドアは雪を「どっこらしょ!」と押し開けた。降雪量はさほどではないのだけれど、とにかく風が強いので、すぐに吹き溜まりになってしまう。玄関のドアが開けられなくなったら大変なので、風の吹きつける中を二度も雪かきをしてしまった。以前の日記にも書いたことがあるかと思うが、幼い頃の私にとっては、吹雪はとても身近なものだった。だから時々、その体験を人生に重ね合わせて考えることがある。下校途中で何度か「このまま死んじゃうかも・・」と思ったことがある。吹雪の中でもがいているうちに方向感覚がなくなり、下手をすると道路脇の用水や、途中の川に滑り落ちる危険を感じる時。あるいは疲れ果てて手足は冷たさで無感覚となり、「もうどうでもいいや、このままここで休みたい」と思うときなど・・。でも、私は必ず無事に帰宅することができた。吹雪の最中にも、ふっと風の止まる時があり、その瞬間に自分の位置や自宅の明りが見えたりで、「助かった!」となった。人生の道中にも、自分の位置や進むべき方向性が見えなかったり、お先真っ暗と絶望しかかったり、あるいは「もう、どうでもいいや」と投げやりになる時があるが、ちょっとの時間を辛抱していると、次の瞬間に道しるべが見えたりするものではないかと。そしてまた、命の危険を感じる時ほど、人は生へのエネルギーを燃やすものではないかと。私達はもっと、自分自身の生き物としての感覚を感じた方が良いのではないだろうか。だから私は、そんなことを思い出させてくれる吹雪が、それほど嫌いではない。
2004年01月14日
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半年も前の卵が出荷されていたというニュースには、本当にビックリした。卵がそんなに日持ちするものだったとは、想像もしていなかった。それにしてもひどすぎる話で、マジメにやっている養鶏業者には申し訳ないけれど、卵の表示についての信頼感が決定的に低下したのは事実。引き続き今朝は、「鳥インフルエンザ」の見出しが新聞にドーン。これでは養鶏業者にはダブルパンチであろう。卵も鶏肉も、消費者にとっては「経済的食材」としてありがたい存在だが、一パック100円を切る値段は、素人が見ても不自然だと思っていた。あまりにも人間が鶏の命を軽んじてきたので、「鶏達の逆襲」じゃないかとさえ思ってしまう。これからの推移が気にかかる。
2004年01月13日
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私は「長倉洋海さんの写真を見る会」の会員になっている。長倉洋海(写真家)HPhttp://www.h-nagakura.net/ 彼を知ったのは、約二年前。米国での同時多発テロの2日前に亡くなった、アフガニスタンの北部同盟のリーダー「マスード」の写真を撮り続けていた彼が、その後写真展と講演会を開催するという小さな記事を新聞で目にした時だった。釧路出身で私と同世代の長倉氏は、それまで私が全く関心を持っていなかったアフガニスタンに長年通いつめていたということに、妙に感動してしまった。その後、彼の写真展を札幌に見に行って(マスードを中心としたアフガニスタンの写真展だった)、写真のマスードを見て涙が出そうになった。タリバンも北部同盟もよくわからなかった私が、アフガニスタンに関心を持つようになったのはそれからだ。一年前、この写真展に感動した人達が中心になって「長倉洋海さんの写真を見る会」が発足し、私も会員になることにした。そして今日は、会員限定の長倉洋海氏によるアフガニスタンの報告会に参加してきた。彼はアフガニスタンだけではなく、コソボなど各国の紛争地に生きる人々を撮り続けている。戦争の悲惨さを訴えるというよりも、そこに生きる人々の逞しさや、子供達の笑顔にシャッターを切っている。人間の生きる営みや、人としての喜びや希望を見出そうとしているように思える。彼は今、アフガニスタンのパンシール峡谷の「山の学校」に支援活動を始めている。建物はあっても、机も椅子も黒板も満足ではなく、窓にはガラスもない。さらに、教師への給料も未払いになることが多いので、先生も当然少ない。文房具や教科書不足は、言うに及ばすといったところだ。そんな学校でも、子供達は山道を通ってくる。(遠い子どもは二時間も歩いてくるという)スライドで写真の説明を受けながら見ると、遠い国アフガニスタンの子供たちが、とても身近に感じられてくる。それは、その子供達が長倉さんが親しい子供達だからなのだ。「マスードは、外国の介入に最後まで戦った人」と長倉氏は言った。アフガニスタンの国と人々を愛し、平和と自立を求めて戦ったということだろう。長倉氏が出席したマスードの追悼式には、かつての敵であった旧ソ連の将校も参列していたという。立場は違っても「偉大なリーダーだった」と尊敬されるマスードを、生前にちゃんと知らなかったことが今更ながら悔やまれる。生きているマスードを応援したかったな・・。そして、今のイラクのことを思う。あの国には、マスードはいなかったのかな。長倉さんの写真展が開催される時には、そのPRに汗を流そうと思う。
2004年01月12日
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カンボジアで初等教育支援をしているNGOのプノンペン事務所のスタッフから、近況報告メールが届いた。「1月7日はポル・ポトからの解放日で、お休みです。1979年1月7日に隣国ベトナム兵がポル・ポトから解放させた記念日…なのですが、この日からベトナムによる支配が始まったということで、若い人の中には『ベトナムに占領された日』としてあまり祝いたがらない人もいるそうです。」1979年にポルポトがプノンペンから逃げ出したとは言っても、その後1991年にパリの和平会議での「カンボジア和平協定調印」後、92年にUNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)が明石代表を中心に民主化の支援をするまで、カンボジアの人達は混乱状態のままにあったようなものだ。あの時が、日本の自衛隊が初めて海外に派遣されて論議をかもしたけれど、カンボジアについては国連中心で支援していたはずだ。つい「イラク派遣」に考えが及んでしまうけれど、現在カンボジアの人達が日本人に対して尊敬や親愛感を抱いてくれると同様に、イラクの人達は日本に好感を抱いてくれるのだろうか。カンボジアでのUNTACの成功の影には、日本も水面下で随分根回しをしていたとも聞いた。現在、イラクに対して同様の水面下の努力がされていると信じたいが・・・。
2004年01月11日
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すでに動き始めた列車は止められないものなのだろうか。それにしても、日本は法治国家のはずだろうに。現憲法に異論があることは承知しているけれど、まだあれは改正されてはいないはずだったよね・・。「悪法も法なり」と言える人は、この国の主要リーダーにはいないのか。更に言えば、アメリカから押し付けられたという憲法なのに、そのアメリカが異議を唱えているとは、ブラックジョークだ。アメリカの政治・軍事的リーダー達の認識では、日本は占領地なのだなと痛感してしまう。占領されている国だとしたら、アメリカに従うしかないか・・。それにしても、戦後何年経っていたっけ?その上に、「報道自粛要請」だって・・。新聞が「大本営発表の始まり」と言うのもうなずける。しかし、この情報化時代にそれがどのくらい意味があるのだろう。なんだかバカバカしくなってくる。もしも意味があるとするなら・・、ゾーッとしてくる。それにしても小泉首相も石破長官も、この決断の結果が国や国民にマイナスの結果を招いた時、どう責任をとるのだろう。あ、もうこの国に、リーダーが責任を取るような基盤はなかったのかもしれない。その国の構成員たる私もまた、ここでブツブツ書いてるだけで、何もアクションを起こしてはいない。書いていて情けなくなってしまう朝である。
2004年01月10日
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まだパソコンを使っていなかった頃、思い出すままにワープロで「思い出の人」をエッセイとして書いていました。それを「ふと思い出す人達」というテーマで、順次書いていきたいと思います。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *Yちゃん 20年以上も前、私は人生の迷路に迷い込み、生きることの意味を虚しく問い続けていた。障害幼児の母子通園センターで指導員の仕事をしていた私は、様々なハンディを持つ子どもや母親達の悩みや苦しみを見ていて、いよいよ人が何のために生きているのかわからなくなっていた。 そんなある日、新しい通園児が入ってきた。彼女の病名に私は目を疑った。そこには「猫泣き症候群」と書いてある。染色体の異常によるもので、心身の発達は著しく遅れ、か弱い泣き声が猫の声に似ていることから、その病名がついたのだそうだ。私達は初めて知ったその病名に驚き、かつ怒った。「こともあろうにこんな病名にするなんて、あまりにも失礼じゃない!」しかし、彼女「Yちゃん」と付き合うようになった私は、その病名しか思い浮かばなかった人の気持ちがわかるような気がした。いくら話しかけても視線は合わず、笑顔もなく、両手を前についてやっと座っている姿や、時折悲しげに「ミー、ミー」と泣く声は、猫とどう違うのかと思ってしまうのだった。(人間って何なの? 人間と動物の違いって、何なの?)私は何度となく心の中で呟いた。それでも私の仕事は、Yちゃんの発達を少しでも促すことだった。抱いている時には穏やかな表情をすることを手がかりに、彼女を抱いて体をゆすったり、一緒にブランコに乗ったり、歌を歌ったりくすぐったりを繰り返した。それをしている時すらも、か細い声を聞くたびに、「猫」の連想から逃れられないことがやりきれなかった。数ヵ月後であっただろうか。いつものようにYちゃんを抱き、耳元で手遊び歌をささやきながら彼女の身体をくすぐった私の耳に、「ハハ・・」とか弱い笑い声が聞こえた。ドキッとした私は、Yちゃんの顔を覗き込む。すると、どうだろう。彼女の丸い目と私の視線が、初めてしっかりと合ったのである。「Yちゃん、やった! Yちゃん、偉いね!」私は嬉しさのあまり、ただそう繰り返した。この子はYちゃんなんだ。病名なんて関係ない。私と遊ぶのを喜んでくれるYちゃんなんだ。その瞬間、私は「人間」とは何なのかを、漠然とではあるがわかったような気がした。彼女は私の迷路の案内人になってくれたのだ。 -1995年頃記す-
2004年01月09日
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朝カーテンを開けると、そこは雪国になっていた。とうとうこの日がやってきた・・、という感じである。昨年末からお正月にかけて、このあたりは竹箒で掃くだけでよい程度の雪しか降っていなかった。だから今朝は、「雪かき初め」である。昨夜は、多分20㌢以上の降雪があったと思う。雪のない地方の人にはピンとこないだろうが、この量は結構なものである。夫が仕事に出る前に、玄関から道路まで自分が歩けるだけの除雪をしていった。私は夫が出かけてから、今までの約20分くらいを「雪かき」に汗を流した。まだ除雪車が来ていないので、あとはそれが通ってからドンと道路脇に残される雪の塊を取り除かなくてはならない。だから、今のところ雪かきの第一段階が終了したというだけである。あーあ、これからドカ雪が続かなければ良いのだけれど。私が雪かきの作業を主にやるようになったのは、仕事をやめてからである。それまでは、さすがに除雪は夫や息子達の仕事であった。特に息子達が中学生頃からは、主に彼らの仕事にさせていた。(だが、息子達は早く作業を終えることに主眼を置くので、細かい後始末などは夫や私がしていた)。除雪作業は、雪を集める場所が手近にあれば、今のところちょうど良い運動になっている。しかし、私達夫婦も次第に年を重ねてきたので、多分十年後はこの作業が重荷になってくるだろう。私は雪が嫌いではないが、年をとっての雪かきだけは憂鬱だ。冬になると、除雪の心配のないマンション暮らしに憧れてしまう私である。☆雪かきの続き10時半頃、除雪車の「ガガガーッ、ガカーッ」という音がした。すぐに通り過ぎると思ったのだが、何度も行き来している様子である。結構雪が多いから、往復して除雪をしているのだろうとおもっていた。音がしなくなったので、雪の塊を除雪するために外に出てみて感動!本当に丁寧に除雪しているだけではなく、玄関の出入り口に雪が残らないように配慮していることがよくわかった。だから、私の予定していた「除雪第二段階」はほとんどしなくて良かったのだ。今年の業者、あるいはこの地域の担当者は「いい仕事をしてくれる!」と、期待と感謝がこみあげてきた。当市では、地域によって除雪の業者が毎年少しずつ代わっている。会社や運転者によって仕事の仕方が少しずつ違うのは当然かもしれないが、下手、あるいはあまり頭を使わない、またはいいかげんな運転手が担当だった場合、その年の除雪作業は腹立ちと疲労のダブルパンチとなる。今年は「大当たり!」の感じがして、とても気分が良い。どうぞ、今年の運転手は今日の人のままでありますように・・。
2004年01月08日
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☆陸上自衛隊と雪祭札幌雪まつりで雪像製作を行う「陸上自衛隊雪まつり協力団編成式」で師団長が、「イラク派遣に対する度を越した街宣活動やデモがあったら、撤収も含めて検討する」と言ったという。隊員に対しての言葉ではあるけれど、ちょっと首を傾げてしまう。イラク派遣に反対している人達は、別に自衛隊に対して批判しているのではない。イラク派遣を決定する政府に対して異議申し立てをしているわけで、むしろ自衛隊員の皆さんには「大変だな。ご苦労様です」という気持ちの人が多いと思う。同じ国民として、隊員が戦いの場で命が失われるようなことがないにと願い、「イラク派遣反対!」と言っているつもりだろう。それを、自衛隊の敵のように感じるのだろうか。しかし、派遣反対のデモなどを駐屯地の前でやっているのをテレビで見て、これも「バカじゃないの?」と感じていた。自衛隊員は、イラク派遣を拒否することなどできないのに。駐屯地前は、デモをするには全く不適切な場であることがわからないのだろうか。それにしても、さっぽろ雪まつりは自衛隊に依存しすぎている。自衛隊が雪像作りに汗を流す姿は、この国が平和だという象徴でもあるけれど・・。☆SARSでハクビシン撲滅作戦?!いやはや、中国もやってくれる。まあ、原因と疑われたら一斉撤去など、ヒステリックに犯人と疑われるものを排除するのは日本だって同じようなものだけど、少なくても全く科学的ではない対応。それに加えて(新聞に書かれているのをそのまま鵜呑みにするなら)、ハクビシンを食べるのは「非文明的飲食習慣」とまで自ら言ってしまうとは・・。ならば、文明的な飲食習慣ってどんなものなのか教えて欲しい。
2004年01月07日
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今年の年賀状を、住所確認も含めてゆつくりと見直した。年々パソコン印刷の年賀状が増えているのは、時代の流れとして当然だろう。しかし、表も裏も印刷だけの年賀状は、美しくはあるけれども味気ない。せめて一言でもその人の文字が書かれていたら、何となくその人と本当に挨拶をしたような気持ちになるのは、私だけだろうか。私も昨年からパソコンで年賀状を作成することにしたし、もちろん住所録もパソコンで管理しているので、宛名印刷だってできる。しかし上記の理由から、面倒ではあるが表書きは手で書いている。(パソコンで住所録をプリントアウトして)住所を書きながらその人のことを思い出したりする時間が、私には大切なような気がしている。ずーつと昔は「筆ペン」で書いていたが、最近はポールペンだ。パソコンのおかげで文字を書くことが極端に減り、字がとても下手になってしまったので、筆ペンで書く自信がなくなったからだ。そして、余白には必ず一言でもいいからコメントを書く。それが、日頃のご無沙汰へのせめてもの誠意だと思っている。だから、裏も表も印刷だけの年賀状を見ると、申し訳ないけれど「無理して年賀状をくれなくてもいいよ」なんて、失礼なことを思ってしまう。さらに言うなら、「来年からは出さないでおこうかな」とさえ思う。しかし、かつてはお世話になったり、今も交流を続けている人ならば、やはりそんなわけにもいかないな・・とも思うし、年賀状のやり取りしなくても、別の形で付き合えばよいのだと思ったり・・。どちらにせよ、便利になることは悪くはないけれど、少しずつ味気なくなるのは確かだ。
2004年01月06日
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一連の年末年始イベントを無事終了し、息子一家もいなくなり、やっと我家に静けさが戻る。おせち料理の残り物の後始末、息子一家が使った寝具や客用座布団の片付け、洗濯や年賀状の読み直し、パソコンを開いてたまっていた日記を少し書くなど、モタモタしているうちに一日が過ぎる。忙しさの中で新聞もゆっくり読んでいなかったのだが、それを読み直すために新聞の束を持ち出すのも億劫だ。いつも、お正月が過ぎると疲労のせいか風邪をひき熱を出すのだが、今のところなんともないようだ。このまま無事に元気が続けばよいのだが・・。夜は早めに寝ることにして、気分転換に久しぶりにマンガの「MASTER・キートン」をペラペラと読む。(この本は、次男の置き土産の一つ。彼は漫画大好き少年→青年である)これは、何度読んでも面白いし、一巻ごとに話が終わるのでキリがつきやすいので、結構重宝している漫画である。
2004年01月05日
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私の結婚した頃は夫の両親も健在で、お正月には夫の身内が狭い家にひしめくのが慣例だった。義母は天才的に料理が上手で、狭い台所から手品のように次々と正月料理が飛び出してきて、私はその「不思議」にびっくりし続けていた。やがて相次いで義父・義母が他界し、夫の実家がなくなってしまった後は、兄弟姉妹の家を順繰りに会場にして、一族が集まり続けてきた。年月がたち、姉達の家族構成やその立場にも変化が生じ、いつのまにか長姉と我家が交代で会場を提供するようになって十年ほどになる。そして今年は我家がその会場であった。しかし、今年はまた、夫の身内にとって節目の年になった。今までは、夫の兄・姉家族だけではなく、結婚して一家を構えた甥姪家族も集まっていたので、その年によってメンバーは変化するけれど、大体30人前後は集まっていたのである。しかし、甥姪の子供達も大学生や社会人、あるいは結婚して甥姪の家自体が「実家」となってきたことと、社会全体の厳しさを反映してか、正月といえども仕事にでなくてはならない人も増えてきたのだ。ということで、今年は原点に帰って夫の同胞とその送迎者限定での集まりになった。それでも我家を含めて13人なので、結構にぎやかになる。メインは夫の手打ち蕎麦と私のおせち料理の残り。みんな高齢者なので、そんなにたくさんは食べないので、結局はテーブルのものが随分残り、みんなに「お持ち帰り」をしていただいた。本音を言えば、人数が半分以下になって私自身は本当に気が楽になった。料理の準備は半分以下どころの騒ぎではないし、甥姪の子供達に準備していた「お年玉」は皆無になった。しかし、私の息子達が幼い頃は、大勢のいとこ達やおじさんおばさんに囲まれてのお正月で、例年の「百人一首」も息子達の楽しみだった。しかし、そんなこともなくなり、私の孫はそれなりに大勢のお客さんにはしゃいではいたが、同年齢あるいは「お兄ちゃん、お姉ちゃん」もおらず、私から見れば何だかかわいそうであった。私は、子どもはできるだけ大勢の大人達に可愛がられたり、異年齢の子供達ともまれたりするほうが良いと信じている。そう考えると、私の息子達は幸せな子ども時代を過ごすことができたと、かつてはとても重荷にも感じた一族大集合が、ありがたく感じる一日だった。
2004年01月03日
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小泉首相が元旦に靖国神社に参拝したという。このニュースを聞いた時、私は何だか嫌なものを感じてしまった。日本人なら初詣をするのは民族的慣習でもあり、それに異議を唱える積りはない。しかし、「首相、靖国神社」とセットになると、日本人である私にも違和感がある。「靖国神社への参拝」が小泉首相の公約であることは誰でも知っている。それに「初詣」という衣をまとっては、明らかに「詭弁」と感じざるを得ない。私は小泉首相をある面では評価していたのだが、彼も「政治屋」になってきたというのが率直な感想。靖国神社に対しては私なりの意見があるし、首相の靖国参拝についても(時期を問わず)納得できぬ部分がある。しかし、今回の「初詣参拝」には、お正月だからこそそれにふさわしくない意図を感じて、とても不快である。まだ、これについての他の人の意見をちゃんと読んではいないのだが、この日記を読んでくださっている皆さんはどう感じたのであろう。ついでに書くけれど、かつて私は仕事上で「遺族会」の事務をしたことがある。首相の靖国神社参拝を強く要求しているのは「遺族会」であるが、遺族の人々と親しく接した私は、そこにも「欺瞞」を強く感じていた。遺族の切ない思いを利用している人々が存在していて、色々な意味でのすりかえが行われている。本当の遺族の切なる思いは、「戦争で家族を失う悲しみのない国づくり」であろう。決して、他の国との争いの種になることや、政治的に利用されることを願ってはいないのだ。
2004年01月02日
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この数年、孫達が小さかったこともあって、和服を着ないお正月が続いていた。今年は、孫達ももうすぐ4歳と1歳半になったので、久しぶりに和服を着ることにした。まず、家族での「おせち料理」とお雑煮での遅めの朝食兼昼食をとってから、私とお嫁さんが和服に着替える。午後から私の実家での「新年パーティ」をすることにしたので、それまでにちゃんと着付けなくてはならない。私は着付けを習ったことはないが、若い頃からお正月だけは着物を着ていたので、苦労をしながらではあるが自分で着ることはできる。(ずんどう・なで肩という、和服に合う体型がこの日ばかりはありがたい)しかし、娘もいないので、他人に着せることは初体験。お嫁さんは、娘時代から和服を着たことがないという。(成人式も和服を着なかったそうな・・。当然、自分の着物は持っていない)私自身も和服を着るようなタイプの人間ではないので、結婚する時も「着物はいらない」と叫び続けたが、当時はまだ健在だった祖母や、和服大好きの母の願いを拒否することも申し訳なく、何枚かの和服が結婚の時に仕立てられた。せっかく作ったくれたのだからと、お正月だけは義務を果たすような気持ちで和服を着ていたわけである。お嫁さんには、若い頃に良く着た「大島紬」を着せた。大島紬は身体になじみやすく着崩れもしにくいし、何より着ていて楽だし汚れも目立たない。彼女の背丈は私と同じくらいだが、とにかくウェストが細くて、バスタオルを胴に巻いての着付けとなった。タオルの一枚も補正に必要としない私自身の身体を思い、少しばかりショックを受けつつ、何とか着せることが出来た。続いて私も、33歳の厄年に母が誂えてくれた紬を着る。夫は紬のアンサンブル、息子は運転手なので実家に行って着ることにして、ウールの紺のアンサンプルを用意。私は娘がいないので、自分の和服は自分限りと思っていたのだが、思いがけずお嫁さんが着てくれることになった。家族揃って実家に出かけて、私達の着物姿に一番喜んだのは、当然ながら母である。私は娘がいないので、私の和服も私限りと思っていたのだが、思いがけず彼女が着てくれることになった。だて帯や腰紐など、若干の小物は新しく用意したのだが、和服は30年経ってもこのように現役で着ることができるということに、改めて感動。実家の父と母も和服を着て、全員が和装の記念写真とあいなった。そこでごねたのが、もうじき四歳になる孫。「ぼくも着物を着たいー!」と叫んでも、さすがに彼が着ることができるものはない。七五三のお祝いの時には、やはり私の若い頃の「付け下げ」を着て、孫達にも貸衣装でよいから着物を着せようと、今から夢が広がった。実は、息子達には「七五三」なとしていない。当時の私達は、成長の節目に神社に行くなどという発想は皆無であった。そんな中に育っているから、息子にもその意識はない。しかし、お嫁さんは本州出身ということもあり、和服こそ着ないが節目節目に神社に行くことは当然という感覚を持っている。私も年をとったせいか、日本古来の習慣はそれなりに大切にした方が良いと考えるようになった。ということで、家族全員和服での初詣もすることができた。このようないでたちは、このあたりでは少し珍しくなっていて、人の視線を感じることが少々面映く、かつ少しばかり誇らしくもあった。
2004年01月01日
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