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さて、私の二十歳の頃の精神薄弱児入所施設の話を続けよう。私は、高校生の頃「福祉関係の仕事をしたい」とは考えたが、実際の福祉関係の知識は皆無に近かった。短大では、一応栄養士を目指した勉強だったので、ボランティアで老人ホームや養護施設を「慰問(当時はそう言っていた)」に行った程度。精神薄弱児施設にぞのような子ども達が生活しているのかは、単純に「知恵遅れの子ども達がいる場所」と想像していただけだった。しかし、今の言葉で知的障害と言っても、その原因は一人ひとり違う。最初に「ん?」と思ったのは、この施設には兄弟で入っている人が何人もいるのかなと思ったこと。つまり、とても顔が似ている人たちが何人もいたのだ。勘の良い人はすぐピンとくるだろうが、そう、「ダウン症候群」の子どもたちだった。私が職員に「兄弟で入所しているのですか?」と、今から思えば赤面するような質問をすると、笑いながら「蒙古ちゃん達よ」と教えられた。その頃は、ダウン症候群というより、「蒙古症」と呼ばれていた方が多かったのだろうか。そして、染色体の異常による先天的な障害だと知った。また、「あの子は分裂病だって」と教えられた子は、職員の言うことは全く聞かず、猛スピードで走りまわっていることが多かった。今思い返すと、彼は典型的な「自閉症」だったと思う。まだ当時は、「自閉症」という障害名はあまり知られていなかったようだ。言語障害があり、手足が変形し、不自由な体で何とか歩いている女の子は、脳性マヒであった。しかし、一応歩くこともできるし、身の周りのことも自分で出来る。掃除や配膳の仕事も、時間はかかるけれどできる子だったし、言語障害はあっても、私ですら「この子は知恵遅れじゃないだろう」と思った。まだまだ施設が不足していた時代だから、本来なら身体障害者の施設に入るべき人だったと思う。そうそう、軽度の知的障害ではあったかもしれないが、中学を卒業後入所した女の子もいた。彼女は中学で勉強した英語を知っているので、その施設ではエリート扱いであった。また、一般の家庭なら知的障害としてこの施設には入らなかっただろうと思われる少年もいた。どんな事情があったのかは知らないが、「知恵遅れ」として施設に入ることになったようだ。その施設では、その頃成人施設を併設する準備を進めていた。児童施設での年齢を超えた若者たちの、その後の受け皿がないということから、同じ敷地内に成人施設を作ろうとしていたのだ。台所の仕事をしながら、私は少しずつ彼らが抱えているハンディについて学んでいった。そして、人間の不条理さを改めて考えることになった。本人達には何も責任が無いのに、そのようなハンディを抱えて生を受けた人たちがたくさんいる。それはどういうことなのか。この人たちの幸せって何なのだろうか。さらに言えば、「生きている価値は何なのだろう」ということだ。自分自身の存在価値に疑問を抱いていた私には、彼らが生きているということ自体が謎に近いものがあった。しかし同時に、私の心の中にはとても自己中心的で姑息な感情も芽生え始めていた。「彼らが生きていて良いとするなら、私だって生きる価値があるはずだ」。大変申し訳ないことなのだが、私は自分を彼らの能力と比較して、自信を持とうとしていたのだ。そこはキリスト教を母体にした施設であった。園長先生は言った。「この子たちこそ、神様に愛されているのだ」と。私の頭は混乱した。神様に愛されるということは、理不尽にもハンディを持つということ?毎日、施設内の教会でミサがあり、園長先生が聖書の話をわかりやすくしてくれていた。なるほど・・と感じることもあったが、「どうしてそうなるの?!」という気持ちも同じくらい抱いた。教会に掲げられているキリスト像は、何とも悲惨な姿であった。神様って、どうしてそんなに試練を与えるのか。愛するってことは、試すことか?私以外の職員の人たちはみんなクリスチャンで、次々と参考書を貸してくれたが、私の心にストンと落ちる感じではなかった。色々な障害について知り、それぞれの子ども達のことを知るにつけ、私の胸の中は「?マーク」がどんどん膨らんでゆくのだった。だからこそ、私は仕事中は「没入、没入」とつぶやかなくてはならなかったと言える。
2011年01月26日
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首都圏に住む小中学校時代の幼なじみが帰省するというので、幹事役の中学時代の友人から声がかかり、市内の居酒屋で三時間ほど旧交を温めた。誰が来るのか確認しないままに行ったのだが、メンバーは男四人、女三人の計七人だった。帰省したNは、北大を卒業後外資系企業で働いていたのだが、昨年の誕生日で定年となり、現在は充電期間中。外資系企業で働くということは、生粋の道産子というか、彼に言わせると「北海道の土着民」という田舎育ちにはストレスが大きい日々だったようで、50代半ばからストレス性の身体的な変調に苦しみながらの日々だったようだ。その治療の経緯で東洋医学に助けられ、四月からはそちらの勉強をするという。幹事役の土着民の一人Oは、定年後も同じ企業で働いている。若干給料は下がったようだけれど、仕事自体は慣れていることだし、責任は軽減し気楽だし、奥さんも喜んでいるという。4人の中ではエリート土着民Kは、道職員の定年を待たず、みんなに言わせると「天下り」での仕事をしているようだ。でも、彼ならば天下りでもきっと周囲も納得できることだろう。もう一人、三月まで公務員のN2は、定年後はしばらくのんびりしたいと言っていた。女性群3人は、もちろん土着民なのだが、結婚、子育てを終え、今は「おばあちゃん」としてそれぞれのんびりした時期を迎えている。3人とも夫は定年後それなりに働いたりしてくれている(私だけは「いた」)ので、経済的にもさほど心配はないのだ。かつての少年少女が集まると、話題は当然のことだが思い出話と、それぞれが持っているかつての友人たちの消息話。前置きが長くなってしまったが、今日書こうと思ったのは、かつての少年少女の生育環境とその後のことである。私たちの育った町は、純農村地帯に戦後自衛隊の駐屯地ができたという町。今回集まったのは、その中でも農村地帯の子ども達6人と、駐屯地の職員の子が一人。(自衛隊員ではない)私たちの小中学校の子どもたちは、自衛隊関係者3~4割、農業・商業その他が5~6割というところだっただろうか。私たちの学校区には、自衛隊の幹部官舎もあり、その師弟も結構いたのである。私は友達の親の職業にはあまり関心もなかったのだが、自衛隊の子どもたちは転校生で、ほとんどはとても勉強もでき垢ぬけていて、「別世界の家庭」のような感じはしていた。彼らは勉強ができたので児童会や生徒会の役員になる確率が高く、そこそこ勉強ができたような今回のメンバーは、土着民代表みたいな感じで、彼らと活動を共にすることも多かった。今回昔話を聞いて驚いたのが、その幹部の子ども達の家庭環境である。特に幹部の人たちは、親が大卒であることが多いせいか、息子たちもそのレールに乗ることが当然と考えていたらしい。特に、女の子たちから「王子様みたいだね」と言われていたТの母親は、猛烈な教育ママだったようだ。当時から何となくそんな感じはしていたけれど、彼と親しかったNやOの今回の話には、45年前にもそんな親がいたんだと、あらためて驚いた次第だ。同じような環境(教育ママ支配下)にあったあと二人の消息も聞いたのだが、彼らもまた、親の支配の中で我々土着民とは全く違う苦労をしていたようだ。ちなみにその3人のその後は、母親が息子の将来の幸せを信じて努力したことが、必ずしも報われているとは言えない。その3人は、当時の北海道内のエリート校と言われた札幌南高校に、あの田舎の中学校から合格している。だから、中学校での成績がトップクラスであったことは間違いがないだろう。今回集まった4人の男性は、自宅から通学できる札幌の高校に進学している。私たちの時から高校は「大学区制」になったので、成績の良い男の子は、気づけばドーッと札幌の高校に進学していたのだ。というわけで、札南に進学したら、その後エリートコースに乗るんだろうなと私は漠然と思っていた。しかし、人生はそう単純ではない。ガリガリの自衛隊信奉者であったらしいIの父親は、札幌南高校への進学を許さず、中学卒で進学できる陸上自衛隊少年工科学校に進学させられた。私は彼が札幌南に合格したことは知らなかったが、(別のクラスだったので)彼が自衛隊員となることにはとても違和感があり驚いた。そんなタイプではなかったからなのだ。結果として、多分色々あったのであろうが20代半ばで彼は自衛隊を退官し、民間企業に就職したのだが、その後も色々とあったようで、そのストレスからなのかうつ病を発症し、さらに別の難病まで発症した時点で子どももいなかったこともあり離婚。母親も高齢で自宅療養もできず、現在は某市にあるケアハウスに入所しているという。賢くて、思慮深く、繊細で優しい少年時代の彼を思い出し、その話には人生の理不尽さを感じて暗い気持になった。さて、札幌南に進学したあと二人。私たちは当然現役で北大あたりに進学するのだろうと思っていたのだが、そんなに甘いものではなかったようだ。というより、ずっと彼らと付き合ってきたOの話からは、二人とも親の過剰な期待からの過保護と過干渉とで、潰された側面もあるようだ。結果として、一人は一浪、一人は三浪である。後者の彼は、可哀想なことに弟の出来が良かったようで、常に弟との比較にもさらされていたらしい。二人の人生は、そんなことからやはり辛いことが多かったようで、一人は特に母親との関係が修復できないままのようだ。その一つの要因が、彼の子どもが障害をもっていたことによることもあるようだ。でも、それで彼は母親の支配を断ち切ることができた側面もある。彼らの少年時代のエピソードを聞いた私たち女性群は「可哀想だったねー」と涙ぐんだり驚いたり・・。今、このように書きながら、現在の様々な子どもたちをめぐる社会現象は、次の世代が私たちの世代のこのような宿題を背負わされているようにも思う。それでも、彼らは話しているという。「あの頃あの町で育ち、みんな(土着民の友達)と出会ったことが、自分を支えているように思う」と。「土着民」という言葉はあまり良いイメージになならないかもしれないが、農村地帯で米や野菜を親と共に作り、農業を継ぐことが当然とされていた友人たちや、彼らの仕事を見聞きしたり、自然の中で遊んだりできたことが、彼らの心の故郷になっているようだ。時間がなくなったのでこのくらいでおしまいにするが、彼らの老後は穏やかであってほしいと願う。しかし、病気になってしまったら・・辛いなあ。何とか心の平安を取り戻してほしいものだけど・・。
2011年01月24日
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昨日、友人と「レオニー」を観てきた。札幌市にある「モエレ沼公園」の設計者である「イサム・ノグチ」の母親の物語。イサム・ノグチについては、大まかには知っていたが、母の物語についてはこの映画で初めて知ることばかりだった。現在の価値観で見たらイサムの父親の野口米次郎はダメな男になるかもしれないが、当時の日本社会ということを考えると、さもありなんという気がする。しかし、自立心旺盛なレオニーからしたら、カルチャーショックを含めて信じられない、許せないという気持ちになるのも理解できる。全体に、「うーん、なるほどなあ。そうだったのか。苦労したねー母も子も」という感じだったのだが、どう理解したらよいのかという点がいくつかあった。映画が終わってから、ランチをしながら友達とも少しそんな話をした。まず、イサム(勇)の名前を、米次郎と会うまでつけていなかったこと。あれだけ主体性を持つ女性が、なぜ愛する我が子に自分で名前をつけなかったのか。やはり、自分たちを残して日本に去ってしまった米次郎を信じたいという思い、一緒に我が子の名前をつけたいという思いが強かったのだろうか。次に、日本に来てショックを受けたのは理解できるが、日本で子どもを育てると決意したのなら、なぜ日本語を学ぼうとしなかったのか。自分たちを裏切った米次郎の国の言葉など、覚えるものかという意地か?あれだけ聡明で知的な女性も、そのあたりは感情に支配されていたのだろうか。最後に、妹アイリスの父親の名を明かさなかったこと。アイリスの「私の父親は誰なの?」という叫ぶような問いにも、その名を明かさなかったレオニーの事情は何なのか。明かさないということは、「明かせない」ということでもあるから、明かすことのできない状況(たとえばレイプのような)で妊娠したのか。でも、アイリスに言った「頭の良い人よ。必要な時にそばにいてくれた」という言葉を信じるなら、そうではないだろう。だとすれば、あの人かなと思うが、それならばなぜ言わなかったか。それは、アイリスのことを思ってというより、相手の男性への配慮なのか。あるいは、一度「言わない」と決めた自分を守るというプライドなのか。近年は、妊娠・出産は複雑になってきた。様々な事情で望まれない生を受けた子どもも多いし、望まれてはいたけれど、不妊治療の一環として「非配偶者との人工授精」も多いようだ。最近はDNA研究が進んでいるから、「私の生物学的父(母)親は誰?」と叫ぶ子どもだっていっぱいいるだろう。その痛切な叫びにどのように答えるのか。「誰が父(母)親でもいいでしょう。私が親です」と子どもを説得できるのか。アイリスは、自分のアイデンティティをどのように確立させていったのだろうか。それでも、彼女はダンサーとして成功したようなことをネットで確認して、少しホッとしている。イサム・ノグチも「自分の母国はどこだ」ということで悩み、苦労したようだ。第二次世界大戦では、自ら日本人の収容所に入ったが、日本社会では「スパイ呼ばわり」されたようだ。でも、二つの祖国を苦悩しながら行きつ戻りつして、最後にあのモエレ沼公園を作ってくれたことには、北海道民として心から感謝するばかりだ。一年に何度かは孫たちと足を運ぶが、本当に素晴らしい公園である。あの公園を遊び場として育った子どもたちが、本当の意味でのグローバルな視野を持つ、創造性豊かで心豊かな子どもたちに育ってほしい。
2011年01月20日
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さて、施設の自分の部屋に荷物を置くとすぐ、厨房での仕事が始まった。当時施設で生活していたのは、多分入所児童50人くらいと、園長先生をはじめとする職員が10数名だったと思う。現在はっきりとした人数がわかるのは、厨房担当は二人+私の3人。60~70人近くの朝・昼・夜の食事を3人で作るわけである。(職員は全員隣接する寮暮らし)3人いた厨房担当の一人が結婚退職して人手が足りなくなった時に私が現れたので、多分どんな人が行っても歓迎されたはずだ。ただ、炊事作業には施設で暮らす主に女性入所者が、毎日交代で手伝いに入っていた。多分、調理実習を兼ねていたのであろう。私よりも当然台所作業には慣れているわけで、色々と親切に教えてもらったという思い出が残っている。当時の私は、色々な意味で精神的に追い詰められていたこともあり、とにかく必死にその職場に慣れようとしていた。同時に、何とかここで一人前に認めてもらいたいとも思っていた。つまりは、厨房での仕事でちゃんと認められなくては、何事も始まらないのだから。そんな私が作業をしながら自分に言い聞かせていたのは、「没入」ということである。とにかく余計なことを考えず、今現在の作業をいかにきちんと行うかをに没入するということだ。ジャガイモの皮をむく時は、精神を皮むきに集中し、余計なことは考えないということである。ただし、台所の作業はそれだけではないので、例えばカレーを作るために皮むきをするならば、全神経をフルに稼働させて、可能な限り効率的な作業をするために集中するということだ。ということは、働いている人への余計な気配りは不必要ということになる。気配りをするとしたら、その作業効率の目的のためにだけ神経を使うということ。なぜこんなことを心がけていたか今でも覚えているかと言えば、それまでの色々なことでの精神的な悪循環が、余計なことを考え、必要のないことに精神を疲れさせていたからだろうという、自分なりの反省と結論があり、固く決意していたからである。私は(現在でも)何かしている時に別のことを考える癖があり、若い頃はもっとひどかったと思われる。結果的に「心ここにあらず」となり、仕事でも失敗するし余計なことまでやってしまい、非効率的なことになってしまう。ついつい別の事が心に浮かぶと、「没入、没入」とつぶやき、台所に他の職員が入ってきても、「今の私には関係ない」と意識的に目もくれず、「私は今、包丁なのだ」「私は今、タワシなのだ」なんて呟いてもいた。今こうやって書いていて、それは私にとって大事な修行の時間だったように思う。後にも先にも、そのことを常に意識して働いたのは、その時だけだったようにも思う。つまり、やがて台所の作業にも慣れ作業手順も体得し、包丁さばきなどのスキルも上がると、あえて「包丁と意識を一致させる」とせずとも、自然に作業ができるようになるからだ。どのような作業手順が効率的であり、どのような工夫が必要なのかを考えることを続けると、一つの作業で体得することは他にも応用がきくということでもある。さらに言えば、「効率的に」と考えることは「マンネリ」を打破することでもある。状況は日々変わってくるのだから、次なる意欲を喚起するためにも、時々は真剣に今の作業や活動を見直すことが必要だろう。今の私は「没入」なんて言葉忘れていたなあと、これを書いていて気付いた。はっきり言って、最近の食事メニューは究極のマンネリのような気がするし、私の意識は「効率的」というよりも、「いかに手抜きができるか」にのみ働いているように思われる。20歳の私に学ばなくちゃね。
2011年01月16日
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成人式も終わった。テレビなどで成人式の様子を見ると、女性は華やかな振り袖とフワフワの襟巻が制服のようである。男性は背広か羽織袴など、もう少し個性があるかな。私たちの頃は、女性も振り袖あり、ワンピースやスーツなどもう少しそれぞれだったのではないか。「ではないか」と書いたのは、私自身はその当時「ひきこもり状態」で、当然成人式などという晴れやかな場所には出られる状況になく、欠席していたからだ。「ひきこもり」は現代の若者の専売特許ではなく、40年前の若者(私のことだけど)にもいたのです。私の成人式は、自分の将来への不安と、両親への申し訳なさと、それよりも何よりも、自分が生きていてもいいのかという恐怖感に押し潰されそうな日だったように思う。さて、そんな私も成人となったわけですから、生きていていいのかどうかではなく、何とか生きる道を見つけなくてはならないと思いました。その時には、「死ぬわけにいかないなら、生きるしかない。生きる理由も見つからないならば、これからは周囲の人へのお付き合いで生きよう」と決めたのです。特に、息子を自殺という形でなくした祖母の気持ちを思うと、私までが自殺してはいけないのだという(その時は)絶望的な諦めがありました。「おばあちゃんが生きている間は生きなくては」、少し誇張したらそんな感じでしょうか。こんな私でも働かせてくれる場所として私が考えたのは、住み込みでの福祉施設での仕事でした。もともと福祉関係の仕事をしたいと思っていましたが、大学進学の時にスポンサーである両親から「お前に福祉の仕事ができるわけない」と断固反対され、やむなく、結婚しても役立つであろう「栄養士」養成の短大に進学しました。結果的に良妻賢母養成の短大にも、理系の学業にも適応できず、卒業間近にしてうつ状態→不登校→ひきこもりです。うつ状態と診断されたのは、当然ながらひきこもりと自殺願望状態になり、周囲からもおかしいとみなされて精神科に連れて行かれてからですけどね。前段はこのくらいにして、ともあれ私は「鬱」の診断のおかげで、苦痛だった短大からは解放されましたが、次は「居心地の悪い家庭」という牢獄に囚われの身となりました。だからこそ、何とか一人で生きる場所を見つけなくてはならなかったのです。中学時代の恩師に相談すると、親戚に精薄児収容施設(現在は知的障害児施設)の職員がいるということで紹介してもらい、食堂の仕事を住み込みでさせてもらえることになりました。40年前には、まだまだ福祉は陽の当らない世界で、好き好んで住み込みで働こうという人は少なかったようです。「給料はお小遣い程度でいいから」という私のような物好きは、施設側にとっても悪くない話だったのかもしれません。(食と住は、施設で賄ってくれました。空いている職員寮がありましたから)両親も、ひきこもり状態よりはマシということで、福祉施設で住み込みをするということには反対はしませんでした。実は、私自身が「就活」をしたのは、今までの人生の中でこれ一回のみなのです。そこは、人里離れた場所に建つ、カトリックの教会が母体となっている施設でした。ここが私の社会人としてのスタート地点であり、当時はわかりませんでしたが、私らしい人生のスタートともなったわけです。そして、あれほど苦痛だった短大での栄養士となる勉強は、ここではからずも役に立つことになったのです。これから少し、自分の今までを振り返ってみようと思います。固有名詞は出さないように気をつけながら、少しずつ書きすすめていこうと思います。
2011年01月12日
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昨日、今日と、冷凍庫状態。昨日は初ボランティアとして、隣町の中学校のチャリティー行事の予備研修に行ったのだが、雪のためかJRも遅れ気味で運行していた。それでも、予想したほどの積雪はなくてありがたい。昨日帰宅する時は、久しぶりに吹雪状態になっていて、駅から自宅まで普通は使わないタクシーを利用した。(吹雪いていたので、ショルダーに入れている絵本や資料が濡れそうだったので)今朝も、雪が積もっているかとドキドキしてカーテンを開けたが、さほどでもなくてホッとする。寒さのせいで雪も重たくないしネットを見ていたら、事業仕分けで除雪費がカットされていることを知った雪国で除雪はライフラインの確保と同様である。それでなくても、近年は建設会社などが縮小されていて、除雪を請け負う企業が減少し、地域によっては市民の要望に対応できにくくなっていると聞く。その分は、できるだけ自分たちで除雪を頑張れということなのだろうが、生活道路の除雪が重要な地域は、間違いなく高齢化とセット。雪国で除雪ができないということは、時には命に関わることでもあるのだ。私は、除雪費はなんとしても確保してほしいと願っている。冬季間の除雪のためにだけ機材を企業に確保しておけというのは無理な話なので、行政は除雪機材を確保するくらいのこともやってほしいとも。それって、税金の無駄遣いで、雪国に住む人たちの我がままなのであろうか。
2011年01月08日
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例年通り年末から3日にかけては、息子や孫たちがやってきての慌ただしい年末年始。いつもお正月料理を作り過ぎるので、実家の妹や母としっかりと役割分担をして作ったので、今年は「おせち料理にうんざり」という結果にならなかったのは良かったかな。30日には、恒例の『餅つき』も、多少ヨロヨロしていたけれど88歳の父も最初の「こね」のために杵を持つことができた。小学校5年生の孫は、今年初めて自分で杵を振り上げて、餅をつけるようになっていた。小学校二年生の女の孫は、まだ一人でお餅は搗けないけれど、餡餅を丸める手つきは一人前。例年、実家の母は昆布巻きやきんぴらごぼうは必ず自分で作っていたが、今年は「台所に立っているのか辛い」と、「旨煮」だけを作り、「こんなに何もしなかったお正月は初めてだ」と、娘たち(私と妹)との世代交代を実感して、安堵と寂しさ半々の様子だった。高齢化と孫たちの成長を実感したわけである。ともあれ、全員元気でお正月を迎えることができたのは何よりだった。昨年は、私の還暦の年であったこともあり、ひそかに新しいことを始めようかと思ったのだが、結果、完全な三日坊主に終わってしまった。やはり、新年に「今年こそは」と考えるのは、私には合っていないことを再確認。これまでどおり、やらなくてはならないことは地道にやり、面白そうだと思ったらやってみて、違うなと思えば引き返し、周囲の要請には嫌でなければお応えし・・という、従来のマイペースの日々でやっていくつもり。これが一番ストレスが無くて、楽チンで、かつ結果的には効率のよいライフスタイルのようである。ブログの方も、気が向いた時にポツポツと書くことだろう。ということで、時々様子を見に来て下さる方には物足りないでしょうが、こんな感じで今年もよろしくお願いします。
2011年01月06日
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