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日ごろ「ポンコツ山のタヌキの便り」ブログと拙ブログ上で交流のある“やまももさん”は“鹿児島の市電”の大ファンである。そのやまももさんはブログの中に「鹿児島の市電」というカテゴリを設けて長年に亘って鹿児島市電のことを161回も取上げておられる。しかもそれだけではなく、前記「やまももの部屋」に「鹿児島の市電と街」というカテゴリまであって、さらに市電についてのニュースを発信したり、いろいろな考察をされている。 その「ポンコツ山のタヌキの便り」に最近鹿児島市に市電新設路線案があることをやまももさんが取上げられたことがキッカケで私が下手なエッセイ「鹿児島市電 上町線の思い出」を投稿した。それをご覧いただいたやまももさんが「鹿児島市電の思い出」に私のその文章をアップしていただいた。 拙い文章だがお読みいただき感想でもお寄せいただければありがたいと思う。 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/reminiscences.htm 「やまももの部屋」→「鹿児島の市電と街」→「鹿児島市電の思い出」か 「やまもの部屋」→「月下推敲」でも行けます。
2012.06.26
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昨日の鹿児島は全国区のテレビで放映されるほどの大雨だった。びっくりしたのは、当ブログでも何回か取上げた島津義弘公の関が原の戦いに因んで毎年秋に開催される“妙円寺詣り”の通り道になっている“水上坂”(みっかん坂)の様子がいきなりテレビに映されたことだ。 テレビに映し出された映像は坂の途中から水が流れ出して泥水と石が流されている様子だった。消防車が出動し、大騒ぎになっていた。坂の途中の住人も「外に出てみたら、こんな状態になっているのにびっくりした」とのことで予想もしていなかった事態が起こったようだ。 この道は薩摩藩の参勤交代にも使用された「出水筋」でもある。ここは当時から鹿児島の主要道路だったのだが、現在では私たちが住む住宅団地がこの坂の上に出来たので、別に大きな道路が何本か出来て、車の通行もだいぶ少なくなっている。だがこの道が街に出かけるのには最短の道なので、私もたまには利用している。急坂なので歩く人は皆無と言っていいほどの道ではある。 さて今日の写真は我が雑草園に咲いたノウゼンカズラである。毎年今頃になると目を楽しませてくれるのだが、一昨日2,3輪の花が咲いていた。そして昨日、一日中降り続いた雨の中で10輪くらいが満開だったので写真を写そうとしたが、暗い雨の中でシャッターを押すのも憚られてそのままのしていた。だが、それが間違いだった。今朝起きてみると、なんと10輪以上の花が散っている。一日中降った雨と更に夜の雨で落ちてしまったらしい。泣く泣く写したのがこの写真であるが、良く見るとまだまだ蕾もいっぱいつけているし、ものの本によると、「夏から秋にかけて咲く」とあるので、これ以上にきれいな時期がくるかもしれない。そういう時があれば再アップしたい。
2012.06.22
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おじさん合唱団(男声合唱)の第八回定期演奏会までいよいよ一ヶ月になった。会としては来年は創立60周年を迎えるが、合唱団としての定期演奏会は20数年前から3年毎に開催してきたので、まだ今回で8回目である。 ただそれまでも、会として先日も書いた“県合唱祭”には毎年出演していたので、合唱活動はずっ~と続けていたことになる。もっとも私は昭和37年から昭和56年まで県外にいたのでその20年間は他県で歌っていて、鹿児島のステージに立つことはなかった。 しかし、仕事の都合で幸運にも鹿児島に帰った昭和56年以降は昔の歌仲間を訪ね、OB会で歌っていることを知ってからは、ほとんどの行事に参加してきた。卒業してちょうど50年目の今も、こうして学生時代同じ窯の飯を食った先輩・同輩・後輩と毎週一回の練習の他様々のステージに立てる幸運に感謝している。 そして、定期演奏会は一回目から毎回参加出来て、今回も元気にステージに立てそうだ。自分としては第十回の演奏会までを一つの目標にしているが、その時は78歳か!先輩で80歳を越えて歌っていらっしゃる先輩も何人もおらえれるので、大きな目標になる。 これまでの活動を振り返ってみると、東京 イイノホールでの東京公演、長崎は島原での普賢岳噴火のチャリテーイコンサート(島原では3回の演奏会)、同じく大村市のさくらホールでの2回の演奏会、熊本市でのイワシロ音楽会ヘの出演、宮崎での様々な演奏、鹿児島県下各地での沢山の演奏会、なかでも奄美大島での演奏会などは印象に残っている。 演奏会まで一ヶ月を切ったのでこれから何回か宣伝を兼ねて取上げたい。
2012.06.18
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今年は諸般の事情であと一年権利のあった市農業センターの貸し農園を返上してしまったのだが、いざ返上してみると、いささか手持ち無沙汰でもある。そこで、せめて我が家の雑草園にささやかではあるが緑のカーテンを作ってみようかということになった。 ほんとにささやにプランター2個を先日購入し同時に土や苗も買ってきた。そして植えたのが上の写真2枚分である。緑のカーテンをと言うには何と心細いことよ!大きさから言えば、苗を各一本くらいしか植えられないと思われるそれぞれのプランターに「にがごい」(ゴーヤ)3本、「きゅうり」2本を植え込んでしまった。その他の場所にも有り合せのプランターに青じそ(大葉)やねぎなども植えてみた。 もともと野菜作りに興味を持っていた私たち夫婦が、初めて農作業の真似事をしたころのエッセイを書いてみる。 -土の恵みー (2007、7月記) 鹿児島市犬迫町の都市農業センターの一画にある貸農園を借りて最終年の3年目に入った。5,6年前になろうか、秋の農業祭を見に行き散歩をするなかでこの貸農園を知り4月入園の抽選でやっと当たったのが2年前のことである。 私にとっての農業経験は母の郷里の上東郷村(現在の薩摩川内市)に疎開していた小学校3年生までの拙いもので、麦踏、麦刈り、からいもの収穫くらいしかない。一方妻は北九州育ち、ただ草花が大好きで家の周囲を季節の花々でいっぱいにする特技の持ち主である。そんなことで農園も妻主導、、私は刺身のツマである。ただ自宅から車で15分くらいかかるので、免許証のない妻一人ではいかんともしがたく、私の出番となる。 現場では植栽、剪定、施肥など主要な仕事は妻、私はもっぱら、畝起し、草取り、水やりなどを引き受け結婚40数年の阿吽の呼吸で楽しくこなす。10坪もない畑でも雑事ですぐ2、3時間は経ってしまう。まさに農作業のミニ体験である。 一年目入園式の後、畑を前にして期待と不安のなか、まわりの皆さんを見習いながら堆肥3俵を施すことから始まった。それから一週間後、夏野菜の植え付けである。茄子、きゅうり、とまと、にがごい(ゴーヤ)、ピーマンなどなど欲張って10種類以上も植えたろうか。途中の手入れも大変である。一週間も行かないと堆肥も効いているせいか、草の芽が出てすぐ大きくなる。農園の指導員の先生やまわりの農業の先達からの助言等聞きながらの暗中模索の農作業である。この野菜にはこの肥料をこれくらいの頻度で、またこの野菜には沢山の水を与えないといけないなど、初めて知ることばかりである。 それでもありがたいことに初心者の私たちの畑にも確実に恵みのときは訪れた。きゅうりが収穫第一号だったと記憶しているが、その後、茄子、とまと、にがごいなど一週間に2回は行かないと野菜によっては大きくなりすぎてしまうのである。おかげで7月、8月は収穫ラッシュで食卓はいつもに増して野菜料理で賑わった。叔母達親戚や近所の人にも随分喜んでもらえたように思う。 その他季節をみながら、からいも、じゃがいも、たまねぎ、大根、らっきょう、落花生など植えて自分たちでもびっくりするような出来栄えのものもある。2年目は猛暑と手入れ不足で収穫は少なかったが、植物は正直である。今年はいまのところ順調で、手入れに余念がない。土の恵みに感謝しつつ残された3月までを楽しみたい。(完) 我が家のささやかな農業体験はその後も農園の抽選にも当たり、今年の3月まで続けた。10年近くの体験でいささか疲れたこともあり、今年度は返上したが、また充電をして再挑戦が出来ればいいなと思っている。
2012.06.14
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今年の2月8日に続いて今日2回目の「男の料理教室」が開かれた。前回と同じ地区の社会福祉協議会の主催である。今日のおじさん生徒は8人。指導の先生を入れてスタッフ5人という豪華な助っ人で総勢13人で始まった。 今日のメニューは 1、ご飯 2、きびなごのゴマ揚げ 3、簡単お煮しめ 4、野菜の酢漬け 5、簡単ブラマンジェ(デザート) 10時開始で30分くらい食事バランスの重要性やメニューの説明があった。 そして料理開始。私は主に野菜の酢漬けの各種野菜を切ったり、味付けを担当した。全部漬け込んで混ぜ合わせた後も、少し時間を置いて、何回か混ぜ合わせることなどを学んだ。何回か味見をしたが、大変おいしいものが出来た(拍手)その後、きびなごのゴマ揚げにも挑戦。特別にアオサ入りの揚げも作った。全部出来上がって盛り付け、配膳も終了。 いつの間にかKさんが冷えたビールを買ってきていて、Kさんおごりのビールで乾杯。どの料理も大変おいしくいただいた。ただこの写真にはデザートの「簡単ブラマンジェ」は写っていない。今日の料理の野菜など大半の材料は先生の自家製のものだそうで、大変贅沢な食事となった。簡単ブラマンジェにかけるジャムも梅ジャム2種類、苺ジャムとも先生の手作りだそうだ。食事の後も、40分くらい食物談義などに花が咲き大いに楽しむことが出来た。
2012.06.13
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写真は東福寺城跡のある多賀山から清水城跡(山城部)のある山を望む。(真ん中の山) 当ブログの2012年4月27日に「清水城跡を訪ねる」を書いてから40日余りの今日、清水小学校内にある清水小校区公民館において、「清水城跡調査整備保存活用推進協議会設立準備会」が開かれた。 先ず鹿児島国際大学名誉教授で日本の中世城郭研究の第一人者である三木靖先生の講演「清水城の概要」を聞く。「島津家が戦国大名となる前、守護大名だった室町時代に本城としていたのが清水城です。島津家の史書は清水城を鹿児島本城と呼んでいました。日向国・大隅国(1391年~奥州家元久)、薩摩国(1393年~奥州家元久)の守護だった島津家の『譜代の住所』すなわち伝統的な本城でもあり、守護職の政治を掌る場でもありました。(なお、1363年以降薩摩国守護は総州家師久、大隅国守護は奥州家氏久でした。)守護は国衙と並んで地域の統括(大犯三ヶ条)権を持ち、その実行のための中核施設を持っていました。それが守護所で、政治ばかりか流通・商工業の中心となっていきました。室町時代になると、要害の地として軍事性も強化されました。さらに守護所は城下をともなそこに有力家臣層の屋敷、寺社、町屋が成立していきます。このような動向に照らして清水城とその周囲を見直すことが大切です。地元から見ると清水城、守護から見れば鹿児島城でした。地元にとって大切な城であると同時に守護島津家の歴史、鹿児島の歴史に欠かせない城だったわけです。」という鹿児島にとっての清水城の位置づけの話があった。そして「清水城(鹿児島本城)縄張図」によって主に山城部の説明があり、曲輪(くるわ)、空堀(からぼり)、土塁、土居、堀切、切岸などの場所が示された。初めてしることも多く大変勉強になった。 その後、肥後吉郎さんの司会で(1)調査 (2)整備 (3)案内体制づくり (4)広報・周知他 などが話し合わ7月7日に次回準備会をそして7月21日に設立総会にこぎつけるということで今日の会議は終わった。 会議終了後、一人で多賀山に登り、写真を写したり、祇園の洲公園や石橋公園、八坂神社を回って帰った。
2012.06.09
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上町歴史散歩はまだまだ続く。春日神社、若宮神社方面を歩いた後、途中 南州神社を左上に見ながらここはいずれ訪れることにして、玉龍高校に向かった。いや今更54年前に卒業した母校に入学しようというわけではない。今日の目的は学校の上にある福昌寺跡の島津家墓地を訪ねることである。墓地を訪ねる前に、桜の木を見てみたくて体育館の前に行った。ちょうど4年前、卒業50周年記念の八期会同窓会を開いたとき、記念の植樹もしようということで、幹事だった私は何回か学校に足を運んで、お願いをし、同窓会前日O君、A君と3人で仮植えをして、当日を迎えたことなどを懐かしく思い出しながら、桜の木を見た。 高校自体が昔福昌寺だったというようなことで島津墓地は我々には切っても切れない場所だったが、在学中何回も行ったわけでもない。ただ墓地で卒業写真をグループ別に写している。そいうことで、50数年ぶりに墓地を訪ねたのだが、昔のことは全くと言っていいほど思い出すことは出来ず、初めて行った様な感激を味わった。 玉龍山福昌寺は1394(応永元)年、島津一族の石屋真梁禅師を開山に、島津家七代当主元久が建てた。そして代々島津藩主の菩提寺となった寺院である。曹洞宗の流れをくみ、南九州一円の僧侶を支配する僧録所で、多い時は1500人余りの修行僧がいたという。更には勅願寺として、その末寺は九州はもとより、中国・四国、遠く北陸まで広がったといわれる。1869(明治2)年廃仏毀釈で廃寺となった。(鹿児島県教育委員会 歴史の道調査報告書第二集 大口筋・加久藤筋・日向筋)ちょどこの日は示現流の稽古とその撮影が行われていて、裂帛の気合や独特の叫びが広い墓地に轟いていた。一人で墓地を見て回りながら、歴史に出てくる歴代藩主などの墓を見つける度にシャッターをきった。とにかく広大で荘厳で島津七百年の歴史を感じさせるに十分な場所である。次の写真は広い墓地の一部である。 次に墓地の上にある「キリシタン墓地」に向かった。 廃寺の後、長崎浦上のキリスト教徒が寺跡に預けられ、1872(明治5)年、解放されるまでの3年間に58人が死亡した。この58人の墓が「キリシタン墓地」である。(同じく上 「大口筋・加久藤筋・日向筋」) 私は昭和49年から51年までの3年間家族5人で長崎に住んだが、職場が浦上天主堂のすぐ下にあり、自宅の近くには本原教会があった。そして次男が通った幼稚園が本原教会にあった「聖アントニオ幼稚園」だった。近所にはクリスチャンの方も多く、日曜日の礼拝やキリスト教の行事をよく見聞きした。そういうことを思い出して「キリシタン墓地」に敬虔な気持ちで祈りを捧げた。 上町歴史散歩はまだ続きます。
2012.06.08
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プログラムによると県の合唱祭も数えて第63回とのこと。私も昭和56年鹿児島に帰ってきて、仕事が落ちついた2,3年後からは毎年参加して歌ってきたのでもう30回近く歌ってきたことになる。 九州内の他県の合唱界の詳細は分からないが、例えば合唱コンクールなどでいえば最近は鹿児島県は地番沈下しているようだ。ただこの合唱祭は名前の通り、「合唱のお祭り」であり、レベルが高いにこしたことはないが、県下の合唱団が年一回集まって歌うことにこそ意義があるので皆楽しそうだ。今年も少年少女合唱団から、我々みたいな熟年の合唱団まで64団体が参加する大合唱祭となった。 参加団体が多いとこれを一日で済ますことには各団体の出演時間の制約など多くの問題が存在する。そればかりではなく、実際それを運営する裏方(実行委員会)の苦労もなみたいていではない。そのため実行委員会も各団体持ち回りになっており、今年も連盟の役員のほか、22団体がその任に当たった。各団体の持ち時間は演奏のみで6分間の時間しか与えられておらず、最近は一曲のみの演奏団体も多くなっているようだ。各演奏団体の間に1分間の時間がとってあり、その間に前団体の退場と新しい団体の入場もやってのけなければならない。そういうなかで我が男声合唱団は64団体中、57番目(17:16~17;22)の出番だったが、その少し前に二つのリハーサル室を使って各団体10分くらいの割り当てでリハーサルができるようになっている。 今年は我が男声合唱団は7月15日に定期演奏会をすることになっており、練習参加者も多く60名での演奏になった。もっとも演奏会当日は東京はじめ全国各地から青春時代をこの鹿児島で男声合唱に命を懸けた(少しオーバーかな)昔の野郎どもでいまはジーさんたちが沢山帰ってきて100名を越す大合唱になるはずである。鹿児島在住者は週一回2時間の練習と演奏会までに3回の強化練習、CDに録音した音源も指揮者グループに作ってもらい、自宅練習なども出来るようになっている。日々の練習に参加出来ない東京他のOBにはそのCDや練習模様をメールで送るなどして、それぞれ練習をしているようだ。そして演奏会前日の練習と当日のリハーサルで指揮者の意を汲んでステージに立つという段取りである。最近は録音機器や技術の発達も素晴らしく大いに助かっている。 さて今日の我が団の歌は一曲目は「ウィーン我が夢のまち」を一番のみ。二曲目は今回の演奏会のための委嘱作品の鹿児島民謡5曲の中から鹿児島おはら節をアレンジした「おはら2012」。この曲はビートが効いており、ピアノの伴奏も迫力がある。あとで聞いてくれた知人に感想を聞いたら「迫力があったですよ」とのこと。私もそれ以上を聞く勇気はなかった。演奏会まで40日あまり、頑張るしかない。 今日は妻の所属する二団体の演奏や、沢山の知人が色々な団体で歌ったので退屈することはなかった。ただ一つ心残りがあった。それは14人の男声合唱団の演奏を聴くことが叶わなかったことである。ちょうど我々のリハーサルの時間にその団体の演奏が設定されていたからだ。鹿児島県の合唱祭で我がおじさん合唱団以外に男声合唱団が演奏することがほとんどないからである。ほんとに聴きたかった。
2012.06.03
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