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3年に一回開催してきた、私の所属する男声合唱団の定期演奏会が近づいてきた。8月9日午後2時開演である。先日は地元の南日本新聞の取材があり、後日新聞に記事が掲載された。記事の概要は、平均年齢70歳、約100人の演奏。演奏会当日の8月9日は70年前に長崎に原爆が投下された日にあたる。演奏曲の中には、終戦から始まる三好達治作詞の「鴎」や、さだまさしの「祈り」などがあり、平和を願う歌も多い。 暑い中で毎週1回の練習の他、強化練習などおじさんたち(おじいさん)ががんばってきた。はてさてその成果をどこまで披露できるか、自分でも不安と楽しみが交錯している。ヒマのある方は、鹿児島市の宝山ホールに足を運んで聴いてください。
2015.07.31
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加治木郷土館の屋外展示場には、庚申石灯籠もある。「宝暦12年(1762)造立、三猿(見ざる言わざる聞かざる)が丸彫されているのが特徴です。 庚申信仰は中国伝来のもので、道教では虫が上帝に人の罪を告げるのを防ぐため、庚申の日は一晩中寝ないで語り明かしたと言われる)(説明板による) 下の写真は石風呂2個である。私は過去に日置市の東市来の寺跡の庭と郡山温泉の浴槽お湯取り込み口に使用されているのと島津家の花倉御仮屋跡の3ヶ所で見たが、ここが4ヶ所目である。「石風呂は昭和初期まで使用されていた。下の穴に鉄の焚口がついていたが、今はない。右の石風呂の溝は焚き木をぬらさないように排水の役割をしていた。(説明板より) 銭造り石臼加治木には、銭鋳銭跡が現在も残されているが、そこで使われたものではないかと言われている。 「(伝)加治木銭鋳造の石造用石臼とされている。台石は内部が空洞で、横に小さな流し口が1ヶ所あり、天正13年(1585)という年号が刻字されている。石盤へ水を加えた粉末状のものを流し込む製造過程に使われていたのではないかと推察される。(説明板より) 二瀬戸石加治木蔵王嶽の東麓に産し、石の表面に月面のクレーターのようなぶつぶつの小穴があるのが特徴である。白色で一見もろそうだが、年月を経るごとに硬くなり、耐久性もあり、風雅でもある。石垣や田の神、建築材(化粧石)などに使われている。(説明板より) 前は展示館として使用されていたが、現在は図書館になっている。 展示場の概要は大体以上の通りだが、郷土館(展示館)は写真撮影禁止のため、ここには書かない。この郷土館の歴史は古く、昭和12年(1937)に篤志家の寄付により設立されたという。私が生まれる前である。展示物は龍門寺焼を多く収集保管し、窯跡の出土品を年代順に解説し、薩摩焼の特徴や歴史がわかりやすく紹介してある。その他、美術品・工芸品などさまざまな分野の資料が展示されている。加治木島津家の資料も多い。今回も館長他の皆さんには親切にしていただき、資料もたくさんいただいた。ありがとうございました。
2015.07.27
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屋外展示場には当ブログでこれまでにもいくつか取り上げてきた「田の神さあ」(たのかんさあ)が二体ある。田の神さあは18世紀初め頃より薩摩藩島津領(薩摩・大隅・日向)にのみで造られたとのことで、稲作振興を奨励するものだったととも言われている。その数1500体を超すとも言う。 田の神さあの一般的な形は、甑(米・豆などを蒸すのに用いた道具)の底に敷くシキというワラのスノコを頭にかぶり、手にメシゲ(しゃもじ)、お椀、スリコギなどを持ち、田仕事姿の立像である。顔は笑顔または翁の顔が多く、これは神社で行われていた田の神舞の姿を表現しているといわれる。 さらに古い田の神像は薩摩側では大日・地蔵などの仏像型として、大隅・日向側では衣装束帯に笏(しゃく)をもつ神像姿として始まり、村々をめぐる僧や、神舞の像に発展したものと考えられる。(姶良市教育委員会編 姶良市田の神ガイドマップを参考にした) 尚、田の神像の分類についてはいろいろ言われているが、神官型、地蔵型、農民型、自然石型などがあるようだ。 上の田の神さあ右手にメシゲを持ち、かぶったシキを左手で押さえ、笑みを浮かべて中腰で田の神舞を踊っている。高さ約60cm。 下の田の神さあ 全体的になめらかな丸みをおびた形状で柔らかな雰囲気、顔は額、鼻が崩れているが、福耳、唇の質感、髭の線と細かいところまで彫られている。背中に宝暦12年(1762)12月7日とある。分類では神官型坐像。 下の写真 右は無縫塔(坊主墓) 左は祠 いずれもここに運ばれたものだろう。 五輪塔の墓? その他正体は不明の石造物
2015.07.24
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屋外展示場にたくさんの石造物が集められていると聞いていた姶良市の加治木郷土館を訪ねた。上の門を入ると右側から郷土館の入口をはさんで建物左まで全面に石造物が展示されて説明板もついている。 入口で清掃中だった館長らしき人に迎えられて、「石造物が好きなので、写真を撮りにきました」と挨拶をして、説明文を読みながら、夢中で写真を写した。 仁王像(金剛力士像) 廃仏毀釈で傷ついているが、阿吽の両像が揃っている。廃寺からここに運ばれたものであろう。 鬼神面。東禅寺にあったもので、恐ろしい顔だが、魔除けのために奉納されたものだろうという。東禅寺はあとで書くが、戦国時代に大隅に覇権をとなえた肝属一族で島津氏の三州統一に立ちはだかった戦国大名の寺であった。 首なし阿弥陀如来像 造立は1508年とあるが、この像は風化したのか、廃仏毀釈でこのような姿になったのかは定かでないという。 鳳山軒亀墓 鳳山軒(黒川に鳳山和尚の隠棲地あり)鳳山和尚は鹿児島県山川の生まれで明釣と号し、椿窓寺(加治木)の開山。朝鮮の役で陣僧として島津義弘に仕えた。天命5年(1785)大巌和尚が高倉山に再建したときの亀墓がここに移された。 前の仏像は何なのかわからないが立派なものである。後ろに亀墓の亀が見える。
2015.07.21
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今年は薩摩藩が英国に留学生を送り込んで150年の節目の年である。それを記念して鹿児島県いちき串木野市の羽島に「薩摩藩英国留学生記念館」が開館した。私は2013年10月に当時建設中だった現地を訪ねて11月6日に当ブログにそのことを書いた。 薩摩藩英国留学生一行は慶応元年(1865)、4月17日この羽島の海岸から留学生15人(うち一人の高見弥一は土佐の出身)と英国派遣使節4人の合計19人。一行はトーマス・グラバーの持ち船オースタライエン号に乗り込み行き先も名前も偽って出航した。つまりは国禁を犯しての密航だったからである。 館内は入って右側に関係の蔵書の書棚や入館者への説明などのスペースがあり、ショップもある。左側には洒落たカフェレストランがある。奥に進むとシンボル展示やミニシアターがあり、渡英の経緯やその意義、エピソードなど知ることができる。 2階に上がると留学の旅路、西洋見聞の日々、留学生のその後の功績、企画展などを開催する特別展示室、機帆船デッキなどがある。集められた資料も素晴らしく、私の想定していたものをはるかに超える充実ぶりである。今回は団体で行ったので、時間の制約もあり、後ろ髪引かれる想いで館を後にした。 当日は大雨で海も霞んで見えた。 以下3枚の写真は2013年10月訪問時のものである。 海岸に日本と英国の国旗を飾ってある。 羽島の堤防。 当時建設中だった記念館の骨組みを見ることができる。 留学生が出航した瀬 留学生の中には最年少14歳で英国からアメリカに渡りワイナリー経営で名をなした、長沢鼎、初代文部大臣になった森有礼など、また派遣使節団の一員で後に大阪商工会議所の初代会頭となった五代友厚、駐英公氏、外務卿、文部卿となった寺島宗則などそれぞれ功績をあげているが、それらについては、別の機会に紹介したい。
2015.07.17
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一ヶ月くらい前のある日、私の住む団地の一つの団体が主催する研修旅行に参加した。この日の目的地は「薩摩藩英国留学生記念館」と国家地下石油備蓄基地の「ちかび展示館」である。 薩摩藩英国留学生記念館に行くのに薩摩川内市の九州電力川内原子力発電所の前を通って行くという。10数年前までは仕事で何回も川内原発に行ったことはあり、当時から入構許可を得て中に入っていた事などを思い出しながら雨に煙る二基の原発を写真に写した。 当時はまだ福島のような大きな事故もないころで、気持ちの揺れもなく、普通の感覚で見ていた原発も今となっては正直なところ、複雑な心境で遠くから眺めることだった。 その後1号機の核燃料の装填も終わり、昨日は再稼働の手順などもテレビで公開されていたようだが、見る気はなく、全部スルーした。
2015.07.15
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前回は霧島市国分の城山公園にある珍しい十三仏を紹介した。今回紹介する「橘木城跡供養塔」も国分郷土館の同じ敷地内に建っている。 案内板にあるように、南北朝時代の城主・重久篤兼が建立したものとみられる。そして橘木城跡からここに移されたものという。 2基の供養塔はいずれも「南無阿弥陀仏」の六文字が薬研彫りで見事に彫られている。しかも十三仏よりも古いもので建武3年(1336)と暦応4年(1341)に建てられたというから約680年前のもので、圧倒される。 2基の供養塔の右側に、もう一つ珍しい石塔があったので調べてみたが、正体不明である。 上の文字部を見ると「明治・・・」とも読めるので、比較的新しいものかもしれない。どなたか由緒をご存知のかたはご教示願いたい。
2015.07.11
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霧島市の城山公園にある「国分郷土館」の近くに「十三仏」はあった。それが、まれに見る貴重なものだとは聞いていたが、説明板にある通り、大変珍しいものだということを実感した。 十三仏のうち、三仏だけ写真に写してきた。虚空像菩薩である。大日如来である。 普賢菩薩である。 説明板にある他の場所を調べると薩摩川内市入来と樋脇町、さつま町佐志、湧水町般若寺跡、出水市野田、霧島市隼人町菅原神社の磨崖仏などにあることがわかった。これらも少しづつまわってみようと思う。
2015.07.08
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島津義久公の墓所でもある金剛寺跡に「丁丑戦亡之塚」(ていちゅう)という珍しい説明版を見つけた。読んでみると「西南の役」(西南戦争)にこの地方から出征し、戦没者となった御霊を慰霊したものという。西南戦争を丁丑戦と呼んでいたというのは寡聞にして初めて知ることであった。西南戦争が起こったのが明治10年(1877)で、この年が干支の丁丑(ひのとうし、ていちゅう)に当たることからそう呼ばれているようだ。西南戦争についてはこれまでいくらか当ブログでも書いているので今回は割愛する。 大きな碑が建てられている。 西南戦争終結後、3年後の明治13年に建てられている。 西南戦争の10年前にあった戊辰戦争戦没者の慰霊碑もある。 時代はくだり、日露戦争戦没者慰霊碑 ここで亀趺(キフ)を見つけた。しかし、これまで実際に見たり、写真で見たものにはなかった亀趺の上に乗る部分が龍である。これは「亀趺碑」と呼ぶことが出来るのか。つくられた時代も慰霊碑と同じ頃とすれば、明治13年頃である。 この亀と龍の関係について調べてみると、中国では皇帝を龍とみなし、その下のものを亀としたというよなこともあるようだが、ここではどういう意図でこれがつくられたのか、定かではない。 鹿児島のみならず、熊本の田原坂や宮崎など各地に西南戦争にまつわる史跡や慰霊碑は多く残されている。鹿児島市内にも祇園の洲公園に官軍戦死者慰霊碑が、建部神社の境内には「招魂塚」として武村出身の西郷隆盛など9名の戦没者の石碑がある。(詳細は当ブログ2011、11,16)ほかにもたくさんあると思われるので、少しづつ調べてみたい。
2015.07.04
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島津義久・島津家第十六代当主については、2015年5月23日に「島津義久の居城・舞鶴城跡を訪ねる」で詳細を書いた。その島津義久は慶長9年(1604)富隈城(現在の霧島市隼人にあった)から国分の舞鶴城に移り、慶長16年(1611)79歳で亡くなった。義久は島津家の基礎を築いた名君であったが、ここには抜歯が納められているという。殉死した家臣は15名にのぼったという。 この層塔には「妙谷寺殿貫明存忠庵主」と刻まれている。霧島市指定史跡になっている。 この大きな層塔の向かって左側にもきれいな花が供えられた小さな墓標らしきものがある。詳細はわからなかった。今後調べてみたい。 霧島市のホームページによるとこの近くにもう一つ義久の墓があるという。「徳持庵跡」という場所で、廃仏毀釈で徳持庵が破壊された後、分骨を明治8年に埋葬したと伝えられているが、たどり着けなかった。 下の写真は歴代島津家の当主の墓所である鹿児島市福昌寺跡にある義久の墓。鹿児島県山川産の山川石を使った宝筐印塔である。
2015.07.01
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