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上の写真はマグロが転がっているのではでありません。イルカです。生きたイルカです。ここは志布志の大黒イルカランドです。イルカショーも見たが、何故か写真を1枚も写していない。昨年の7月4日のことで撮影禁止だったのかシカト覚えていないが・・・。 この日は、次男が東京に出張するとのことで朝早く鹿児島空港まで妻と送って行った。次男も留守するので、久しぶりに宮崎まで行ってみようというのが動機で宮崎方面という他には目的もないドライブである。しかし、雨模様だった空が、東九州自動車道にのり志布志方面に向かう頃には篠突く雨となって、ようやく志布志に到着。ここで嬉しいことに天気は回復に向かう。 昼食はこれも行き当たりバッタリで「港の駅 みいつ」 宮崎県日南市南郷町にあった。名前の通り、魚料理が豊富で当たりだった。 この時間になると曇り空ながら、雨の心配はなくなっていた。左が「港の駅 みいつ」 港の風景も南国らしい佇まいである。 次に鵜戸神宮に向かったが、留まった駐車場からの神宮への道が工事中だった。これまで何回も行っているのでここは「鵜戸神宮」の石柱だけ見て次に向かった。 着いたところは「堀切峠」日南海岸の名所の一つである。 駐車場から道路を渡って海と海岸線を望む 海岸に降りて行く途中にブーゲンビリヤが群生して咲き誇っていた。 日南海岸の有名な「鬼の洗濯板」を間近に見る。 その日の宿は「宮崎観光ホテル」 大淀川沿いにあってここも南国の風情。部屋からの眺め。 翌日は宮崎神宮へ どこから現れたのか若者の一団 翌日は宮崎市内をあちらこちら。宮崎神宮以外は写真も写していなかった。帰りは10号線をしばらく走り、鹿児島県に入って高速道路にのって帰った。町内会長の仕事も忘れた楽しい二日間だった。
2018.04.28
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「花園寺跡公園」について、広報あいら”Airaview"には次のようにある。「江戸前期の枯山水の面影が残る文化人・義弘公が過ごしたゆかりの地」続けて次のようにある。花園寺は、もともと義弘のお経を読む建物(看経所)があった地とされている。 江戸初期に義弘の子・藩主忠恒が、山伏(修験者)だった五男・忠広のためこの寺を建立。しかし、2代藩主・光久から忠広志へ還俗(武士に戻る)命令がくだされると、忠広は修験者の米良家へ寺を与えた。その後、同家が代々住職を務めることになった。 花園寺跡地は米良家が歴史遺産として市(当時・姶良町)へ平成22年に寄付。3年前に発掘調査が行われ、建物の柱跡や江戸前期にさかのぼる可能性もある珍しい枯山水の庭園遺構も発見された。 公園内の見どころは、枯山水の遺構のほか、当時の古材を使用した米良家の門や義弘屋形に残る石垣上に復元(想定)した板塀などである。 先に紹介した精矛神社にあった「経典読誦記念碑」がここにもある。 公園の内側から武家門などを見る 今回、Nくんの案内で巡ることができた姶良市の三つの坂を中心にその他の史跡、名所も含めて8回にわたって書いてきた。この他にも島津義弘が在番した平松城跡(現在の重富小学校)なども訪ねたが、過去に拙ブログに取り上げたこともあるので、今回は割愛した。町内会長から解放されてから初めて行った姶良市の素晴らしさを再満喫した一日であった。
2018.04.26
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姶良市加治木町日木山にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)を再び訪ねた。2015年10月15日の拙ブログ「島津義弘公ゆかりの精矛神社」にあるように、2015年に一回訪れている。今回、再度訪れたのは「西郷どん」のロケ地としてここ精矛神社が使われて実際に視聴し、もう一回行ってみたいと思っていたところ、案内のNくんのコースに組み込まれていて願いが叶ったのだ。 拙ブログ2015年9月10日「島津義弘公の居城跡・加治木護国神社を訪ねる」の記事あり。神社入口の案内版には概略次のような記述がある。 島津義弘と精矛神社 精矛神社は、薩摩藩の礎を築いた戦国大名島津義弘を祀った神社です。ここは江戸時代に加治木島津家の別邸・扇和園があったところです。精矛神社は以前島津屋形内(加治木高校前の護国神社の一角)にあったものが、大正七年十月に義弘公没後三百年祭の記念事業として、この日木山の地にへ遷座されました。 慶長四年(1599)正月、慶長の役の武功により、薩摩大隅国内に設けられていた豊臣家の直轄地(蔵入り地)などの知行地約五万石が、恩賞として島津家に返還されました。この中に加治木や国分、出水が含まれていました。慶長十二年(1607)、島津義弘は帖佐平松から加治木の屋形へ移り、新しく町割り(都市計画)を行い、通りや商人町を整え、加治木の町の基礎を作りました。島津義弘は、江戸時代の元和五年(1619)七月二十一日加治木屋形で亡くなっています。享年八十五歳、法号松齡自貞庵主妙円寺殿であり、亡骸は屋形を出て南へ向かい、白銀坂を超えて鹿児島城下にある島津本家の菩提寺福昌寺墓地に葬られました。また伊集院の妙円寺には義弘の影像が納められました。 その義弘公ゆかりのここ精矛神社で「西郷どん」の撮影が行われ、放映された。なんと、同じ義弘公の関ヶ原の戦いで有名な「島津の退き口」の敵中突破の武勲を賛えて現在も鹿児島で続く秋の行事・妙円寺(徳重神社)詣りを西郷の子供時代に行ったシーンが妙円寺に代わり、精矛神社で撮影されたのだ。私もそのシーンをテレビで見たとき、よく知っている妙円寺ではないことはすぐにわかったのだが、一回しか行ったことのない精矛神社とは気がつかなかった。あとで調べて精矛神社だとわかったのだった。 今回、現地にいってみると、下の写真が大きく飾られていた。いつもはほとんど人もいないこの精矛神社が大変な賑わいだったろうと想像するに十分な写真である。 本殿の右側に置かれている朝鮮から持ち帰った石臼と手水鉢(ちょうずばち)椿窓寺の住職であった鳳山和尚が文禄・慶長の役に陣僧として従軍した際、持ち帰ったものといわれる。行く時は、兵士、武器、軍馬、兵量を満載して船脚(ふなあし・吃水)を沈めて渡海したが、帰りは空船に似て不安定で波荒い朝鮮海峡を渡るには沈没の危険が考えられるため船の底荷とした。はじめ島津屋形の西の丸の庭に置いていたが、明治2年(1869)今の「義弘公終焉の地」碑(護国神社)のあたりにそして大正7年(1918)現在地に移したものという。(現地案内版) 経塚文禄・慶長の役の出陣将兵の武運長久を祈るため8年数ヶ月かかって法華経13000部を読経した。その記念碑である。(現地案内版)
2018.04.25
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今回、Nくんの案内で姶良の三つの坂巡りをする途中、思ってもいなかった金山橋を訪れることができた。ここは拙ブログの2015年9月14日にある「南浦文之(なんぽぶんし)の墓を訪れる」を書いた2015年にその墓の上の方に金山橋があるのを地図で知りどういう橋か興味は持ったのだが、そのときは訪ねることが叶わなかった場所だった。 今回訪れて驚いたのは駐車場も完備していて、車でも容易に行けることなど便利な場所になっていることだった。またその歴史も景観も写真にある通り、私の想像をはるかに超えるものだった。 橋の全景 橋から上流の「板井手の滝」を望む 橋の上から下流を望む すぐ近くに水神碑がある。これまでたくさんの水神碑を見たがこれほどの大きさのもに出会ったのは初めてである。 橋を架け替える時にここに保存されたものか力強い「金山橋」の彫り文字。 金山橋は龍門滝の上流にある網掛川に架かる橋である。円弧の美しいアーチ型で橋の長さ23m、幅4,2m、川床からの高さは約10mである。 この橋は島津家が金山経営で金鉱石を運んだり、その他の物資を加治木港に運搬するために明治12~13年頃架けられたものであるといわれる。 金山橋の下流側に降りて、アーチ越しに板井手の滝を望む。絶景である。
2018.04.23
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国登録有形文化財 姶良市山田の凱旋門(日露戦争の記念建造物)である。構造 石造、高さ4,7m 、幅4,9m 中央に縦60cm、横121cmの石がはめ込まれている。 両側の門柱には、右「明治丗七八年日露戦役記念」、左「明治三十九年建設山田村兵事会」と力強い見事な楷書体で刻まれている。山田の凱旋門は明治39年に完成し、山田村の従軍者たちは、実際にこの門をくぐり、凱旋祝いを受けたと想像される。 上記にもあるように、この凱旋門は明治37・8年の日露戦争に、当時の山田村から従軍した人たちの無事帰還を記念して、明治39年(1906)3月に山田村兵事会が建設したものである。「山田村郷土誌」によれば、山田村の従軍者は、陸軍88名、海軍25名の計113名だったという。 石造りの凱旋門は、鹿児島が誇るアーチ式の石橋技術を応用したものであり、全国的にも大変珍しい貴重な文化財である。使われた石材は凝灰岩であり、言い伝えによると上名(かみみょう)の池平から切り出したものといわれる。昔は各地で石垣用に使われていて、現在も鹿児島の各地で見ることができる。これを造った石工は細山田ケサグマという人だったという。 当日は行くことが叶わなかったのだが、凱旋門の先に見える階段の先には旧山田村の招魂社があり、後に西南戦争を含めた五つの戦役記念碑が建立されているそうだ。西南戦争にはここ山田郷から第七大隊三番・八番小隊に二二八名が従軍し、多くの戦死者を出している。 (山田)西南役記念碑 大正元年(1912)十月建立 その記念碑の碑文(抜粋)は次のようなものである。 「明治10年西南ノ役、山田郷の私学校生徒二百二十八名は、西郷南州翁に従い2月15日郷里を発し熊本に入るや、鎮台司令官谷干城が途をふさいだため兵火を開くことになった。山野を跋渉し、大小幾十戦に寡をもって衆にあたり勇戦奮闘」 ここにも西南線戦争の跡を見ることが出来る。 龍門滝展望台から龍門滝を見る。長く雨が降っていないので、激しい流れにはなっておらず申し訳程度の流れだった。雨の後などは九州自動車道で鹿児島空港などに向かう上り線から激しい流れを見ることができる。 展望台にある石仏 謎の石造物
2018.04.21
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姶良市蒲生上久徳の住吉池にやってきた。キャンプ場もあり、公園になっている。この池は約8200年前、火山性の水蒸気爆発でできた爆裂火口である。水深31m、周囲3,2km。先日、火野正平が全国の視聴者の思い出の地を巡るNHKのBSプレミアムの番組「こころ旅」でこの住吉池を訪れたのを私たちが訪れた2,3日後に偶然視聴してびっくりした。 日本一の大楠は蒲生上久徳の蒲生八幡神社にある 日本一の楠だけあって圧倒的な勢いを感じた。 蒲生八幡神社本殿平安時代の保安4年(1123)に蒲生院の総領職であった蒲生上総介舜清が、豊前国(大分県)宇佐八幡宮を勧請して創建した。 境内の一角に石の奇妙な造形物が。なんと、鬼柄とのこと。 これも鬼瓦! 錆び付いた? いやおやそれはないでしょう。色を塗ったのかな。
2018.04.20
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私が掛橋坂(かけはしざか)のことを初めて知ったのは南日本新聞の2012年2月4日のこの記事であった。 記事は「姶良市蒲生町西浦の山間部で草やぶに覆われて石畳の道『掛橋坂』が、往時の姿を徐々に取り戻し始めた。調査に乗り出した同市教育委員会が1月から清掃作業を進めており、歴史的な背景や価値など全容解明へ向けた作業が本格化している。坂は周辺住民だけが”かけはしの坂”として記憶する程度で、長い間忘れ去られた状態だった。昨年11月末、古道を探し歩いていた山元貞秋さん(68)=薩摩川内市=が確認し、再び脚光を浴びることとなった。確認当初、280mほどしか見えなかった石畳が1キロほどある坂のほぼ全体にあると推定されることがわかった。同市教委社会教育課の下鶴弘課長補佐は『石の組み方が白銀坂や龍門司坂と類似しており、江戸時代から明治初めの幹線道路であったことは間違いないだろう』と話す(後略)」とあり、大いに興味を持ち、整備されたらいつか訪ねたいと思っていた。 新聞記事で見た2012年から6年、今回 Nくんの案内で念願の掛橋坂にたどり着くことができた。姶良市が力を入れて整備された跡を見ることができて感激した。石標で「掛橋坂」と造られ、公園状に駐車場も整備され坂に至るまでの道は舗装されていた。 今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」のロケ地であったことも当時の写真で紹介されている。私の覚束無い記憶では妙円寺詣りのシーンで石の急坂を登るシーンが撮されていたような気がするが、その場面だったか、確信はない。 ここは坂の入口。左に曲がるると昼なお暗い石畳の急坂がある。 掛橋坂(かけはしざか)と呼ばれる由来となった「道幅が狭く危険な板敷の道=『桟(かけはし)」の名残なのか、壁面にには当時のノミ穴が残されている。桟(かけはし)は木を渡して造る道のことで、桟道は谷深く或いは流れが急で橋柱を立てることができない所に、岸壁から行桁(ゆきがた)を組み出して造ったものといわれる。 掛橋坂は、姶良市蒲生町北字込原にあり、距離661m、現在の県道川内加治木線の前身である旧道上にあり、加治木・帖佐・蒲生を経由して、藺牟田・祁答院を結ぶ重要な地方街道であったと考えられる。 江戸時代には、上記のように藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として利用され、帖佐郷にあった納屋町御蔵・小鳥御蔵まで、毎年たくさんの年貢米が輸送された。掛橋坂は道中もっとも厳しい難所として知られ、18世紀末、寛政8年(1796)までには、地山の石を削った石段や切石を敷き詰めた石畳が完成したと思われるという。 今回、姶良市の有名な三つの坂をNくんという地元の歴史に詳しい友人の案内で巡ることができた幸運に感謝したい。この日は他にも、たくさんの名所・旧跡を案内してもらったので、少しづつアップしたいと思う。お楽しみに!(本記事を書くに当たり、姶良市発行の「掛橋坂」のパンフレット等を参考にした)
2018.04.19
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姶良市の二つ目の坂は白銀坂と同じく国指定史跡「龍門司坂」(たつもんじさか)である。すぐ近くにある滝を龍門司滝(りゅうもんじたき)と言うが、何故か同じ漢字でも呼び方が違う。ここは、NHK大河ドラマで過去にもロケ地として使われてきたが、(1990年・「翔ぶが如く」 2008年「篤姫」 2010年「龍馬伝」)今回の「西郷どん」でもオープニングや妙円寺詣りのシーンなどで使われた。私はこの坂だけは「翔ぶが如く」のロケ地に使われた後、一回だけ訪れたことがあったが、長い距離は歩いていない。 龍門司坂は、姶良市加治木から霧島市溝辺につながる大口筋の一部で、加治木町木田の高井田から加治木町小山田の毛上集落を結ぶ山道である。杉木立と木漏れ日、そして苔むした石畳の風情が美しい坂道で、石畳敷きの平均幅は約4m、最大幅は7mあまり、全長は1500mと考えられているが、集落内にある両端部は舗装されており、現在は山間部の486、8mが当時の状態で残されている。 この石畳はあまり段差がない石敷が特徴で、写真ではわかりにくいが、斜面に敷かれた石畳がずれないように、縦に深く埋める石列を地形に沿って設ける工夫がなされているという。また傾斜の強い場所などには側溝を設けるだけでなく、雨水が1か所に集中してのり面を侵食しないような工夫もみられ、薩摩街道の中でも大規模に整備された古道である。 この坂は寛永12年(1635)に着工し、その後100余年後に完成した。龍門司坂の近くにには敷設に使用した凝灰岩、通称・樋の迫石の採石場があり、そこには加治木島津家第4代久門直筆といわれる「山神」の祠が、作業の安全を願って建立されているという。この祠には「元文6年(1741)」という年号が刻まれており、敷石のなされた期間が推察できる。 加治木は栗野からえび野市につながる加久藤筋(かくとうすじ)や、そこから人吉地方へ続く球磨筋(くますじ)なども大口筋同様につながっており、古代から中世にわたり幹線道であった川内ー蒲生ー国分ルート上でもあって、また湊(みなと)では中世から海外貿易や、産物の積み出しも盛んに行われていた。人や物、情報、技術が行き交い、交易の街として繁栄してきた姿を、龍門司坂は伝えている。 明治10年2月、沢山の人々に見送られ、西南の役で熊本方面を目指した総数6000人とも言われる薩軍兵士がこの坂道を登っており、別府晋介に率いられた6番(加治木隊)・7番大隊は大口筋を通って佐敷(熊本県芦北町)へ、西郷隆盛率いる本営は大口筋のここを通って加久藤超えから人吉に向かった。明治22・23年頃に龍門司坂の東側に剣道が造られて、幹線としての機能を終わった。 因みにこの杉は、大河ドラマ「西郷どん」のオープニングで西郷が手を触れ空を見上げるシーンの杉である。私たちもそれにあやかって、交代で写真撮影をしたが、ここでは非公開とする。(笑) 私たち鹿児島組4人は486、8mの石畳の歩きを楽しんだが、Nくんは先回りをして、私たちの到着地点に車を回して、待っていてくれたので、効率が良く大いに助かった。この後の「掛橋坂」も同じように先回りで待っていてくれたので、この日は三坂の他にもいろいろな史跡を巡ることができた。(この記事を書くに当たり、姶良市教育委員会発行のパンフレットや一部NHKのネット情報も使わせていただいた)
2018.04.17
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鹿児島県の姶良市には三つの有名な坂がある。白銀坂(しらがねさか)と龍門司坂(たつもんじさか)は国史跡として有名だったが、掛橋坂(かけはしさか)はそれらに比べると忘れられた坂であった。しかしその掛橋坂も平成25年6月13日付で市の史跡に指定されて近年訪れる人も多くなったという。私も歴史探訪を始めたここ数年来、ここを訪れることが夢であった。 今回、姶良市に住む高校の同期生Nくんの案内により、その三つの坂を巡る機会に恵まれた。鹿児島市内からの同行者は同じく高校の同期生、私を入れて男3人、女1人、最近歴史づいている自称・〇〇八期会歴史同好会の一行である。姶良市内の駐車場で案内のNくんと落ち合って、Nくんのクラウンに同乗し5人で出発。先ずは、国指定の大口筋白銀坂へ。 「白銀坂」は鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市宮之浦町の山間部を抜ける石畳の峠道である。江戸時代に整備されたと考えられる白銀坂は、薩摩藩の主要街道(街道を筋と呼ぶ)である「大口筋」の一部で、藩内随一の難所として知られていた。(実際今回その一部800mを歩いてみてそれを実感した)大口筋は、鹿児島城下から吉野ー重富ー帖佐ー加治木ー溝辺ー横川ー菱刈を通り、山野の小川内関所から亀坂を超え、肥後国境の亀割峠を下り水俣に至る、全長約70kmの街道をいう。 江戸時代、薩摩藩の陸上交通における領外への主要街道は、小倉筋(西目筋)と東目筋に分けられていた。寛永年間(1624~1644)に名称が改められ、小倉筋は出水筋と大口筋に東目筋は高岡筋(日向筋)とされた。領外に出ると、出水筋と大口筋は豊前小倉に、高岡筋は日向細島に出て、主にここから海路で大阪や江戸にへと向かった。この他に、加久藤筋、志布志筋、綾筋など鹿児島を中心として諸郷を連絡する街道があり、領外に通じる街道には関所が置かれ、厳重な取締が行われていた。高岡筋は、加治木麓(現在の姶良市)で大口筋と別れ、小浜ー浜之市ー住吉ー新川ー敷根ー牧之原ー通山ー都城ー高城を通り、高岡の去川関(宮崎市高岡町)に至る街道で現在の10号線に沿ったルートである。なお、加久藤筋は大口筋から横川で分かれ、栗野ー吉松を通り、えびの(宮崎県)へ向かう街道である。 登っていくにつれて、石畳状だったり、石段状だったりするが、よく整備されていて歩きやすい。 ガイド役のNくん言うところの第2休憩所までたどり着いた。「霧島錦江湾国立公園 白銀坂」の看板あり。 ここまで800m歩いたことになる。ここから頂上まではまだ2,2kmということで、白銀坂はここから引き返すことにした。 おじいさん、おばさん、いやいや後期高齢者のおじいさん、おばあさんはここで休憩し飲み物やお菓子で暫しの休憩。ここまで登れたことに感謝! 景色を楽しんだ。 この白銀坂が残る山なみは、古代から近世に至るまで大隅国(姶良市側)と薩摩国(鹿児島市側)の国境だった。戦国時代には島津隆久や義弘などの武将たちが、周辺に陣を構えたといわれる。 白銀坂は、西郷隆盛が西南の役で熊本に行くときにここを歩いて行ったと言われている。 (この記事を書くに当たり、姶良市教育委員会発行の諸資料を参考とした)
2018.04.16
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南州公園の一角に「西郷南州顕彰館」がある。ここは西郷南州百年記念事業として西郷を慕う全国の人々の寄付により建てられたものだという。西郷の生涯・思想・業績などわかりやすく紹介したジオラマなどの他、西郷の衣服や西南戦争に関する資料などが展示されている。ここでは講演会や研修会なども開かれる。 公園内の建物の一角に小さな石碑がある。うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな碑だが、「有川矢九郎頌徳碑」だと説明があった。 有川矢九郎とはどういう人物なのか。薩摩藩士として鹿児島城下千石馬場に生まれ、幕末から維新にかけて、兵員輸送などで西郷の戦略を支えた人だという。明治以後実業家となり、西郷からロンジン製の腕時計を譲与された。当日のガイドさんによると西郷と3度目の妻・イト(糸子、いと、以登などとも呼ばれる)を肝いり(仲立ち)した人と言われているとのこと。 イトの父は薩摩藩士・岩山八郎太。元治2年(慶応元年と同年)(1865年)2月23日、西郷隆盛(吉之助)と結婚。西郷37歳、イト21歳、媒酌人は当時30歳の薩摩藩家老・小松帯刀であったという。西郷が遠島となっていた沖永良部島から帰還した約一年後であった。その時、妻のいとこに当るイトを西郷に引き合わせたのが薩摩藩士・有川矢九郎である。イトは以前、海老原家に嫁いだことがあったが、西郷はそれを気にもしなかったという。(これら西郷の妻などについてはいずれ詳しく書こうと思っている) 黄興(こうこう)(1874~1916)中国湖南省長沙市出身辛亥革命(1911)は数千年続いた中国皇帝専制の時代を終わらせ、アジア初の共和国(中華民国)を成立させるきっかけとなった。革命の中心人物だった孫文の右腕となって活躍したのが黄興である。日本に留学、亡命していた黄興は西郷隆盛を尊敬していた。辛亥革命に携わった人々は、日本の明治維新を手本にし、なかでも西郷には傑出した人物として畏敬の念を抱いていたと思われる。黄興は大正5年(1916)、志半ばにして上海でその生涯を閉じるがその後、故郷の長沙市で国葬を以て埋葬された。終生、中国の西郷南州を自認し、南州翁の人格と思想に傾倒していた。 浄光明寺島津氏初代・忠久から5代・貞久までと21代・吉貴までの菩提寺。開山は宣阿説誠。孟宗竹を日本に初めて取り寄せた島津21代・吉貴は藩主全ての菩提寺は福昌寺となっている中、ただ一人本人の遺言により浄光明寺に葬られた。しかい昭和45年4月に島津興業によって福昌寺跡の墓地に改装された。西南戦争後は、廃仏毀釈で焼損していた本堂等の敷地も含め、かって丘陵のほぼ全域を占めていた敷地の大部分が南州墓地、南洲神社として利用されている。廃仏毀釈が徹底された鹿児島で、同じ地域に再興した数少ない寺院の一つである。門の先にある 聖観音像 この日は私たち一行を特別に本堂に上げていただいた。お寺さんの説明も聞くことができた。 本記事を書くに当たり、「かんまち本」その二、ネット情報「西郷隆盛の妻ー西郷家の女性たち」を参考とした。
2018.04.14
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平成29年度の町内会長の任務が終わった。メデタシ! メデタシ!いやいや 大変な一年だった。でも終わってみればアッと言う間のことだったような気もする。先日、新会長への引き継ぎも終わって、やっと開放感に浸り始めた。でも、30代の現役の若い会長にこれから一年間ご苦労をかけると思うと何だか申し訳ない気もする。(会長は毎年、次の班に回っていくので私がお願いしたのではなく、班で決められたものなので私が特別に気遣いをする必要はないのだが) 学校を卒業して、すぐ県外へ赴任。その後、転職し20年ぶりに地元に帰り、仕事を始めて70歳まで現役で過ごしてきた。帰ってきて36年。その間新しい団地に家を建て、有志の皆さんと町内会を立ち上げた。そこから会計や町内会長、体育部長などいろいろな役職をやってきたが、今回は後期高齢者にもなっているため最後の社会への恩返しと思って一年頑張ってきた。以前は「校区公民館審議委員会」という上部団体であったものが、丁度29年度はそれが発展的に解消し「コミュニティ協議会」が発足して一年目であった。そのため、町内会会員のみならず、全住民にアンケートを実施するなど大変忙しい一年になってしまった。 しかし、そういう物理的な忙しさは時間のたっぷりある私にはそう大きな負担にはならなかったが、町内会からの脱会者の問題には参ってしまった。今年も10数戸の脱会者があったが、それぞれの理由を言われるともう会長としてもお手上げであった。その度に気力を失ったものだ。 正直言うとそれが一番辛かったので、もう脱会者が出ることを直接的には知る立場から抜けられたというのがこの開放感なのかもしれない。 いずれにしても、町内会を脱会するという動きは今後も止めようがないような気がする。(どこの町内会も同じような状況だと聞く)人々の考えが多様化する中でこういう流れを止めることができるのか、今後行政はもとより、我々一人一人が考えていかなくてはならない課題だと思う。 そういうことで、やっと終わりました。今後はこれまでより少しでも頻度を上げて更新をしたいと思います。今後共よろしくお願いします。
2018.04.13
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縄文前期の遺跡碑一緒に行ったMくんが高校時代、考古学部に入っていてここを掘って遺構、遺物を探したそうだ。当時私たちの高校には鹿児島県の考古学会会長を長く務められたK先生が在職しておられて、考古学部の活躍は目覚しいものがあった。この一帯の台地からは縄文式土器、石斧、矢じり、イノシシなどの動物の骨、しいの実などの植物の加工品、竪穴住居跡などの遺物や遺跡が発見され縄文時代(約4千~5千年前)、鹿児島市街地の大半が海だった頃から、この付近には人々が住みついていたことがわかるという。 上の「南州公園エリア」地図は「かんまち本」その二から引用。 3月30日、西郷どんの墓地や周辺を訪ねる「南州公園は、歴史のテーマパークだ!」友人二人と参加した。この会主催の史跡探訪に参加するのは、2月の島津家墓地・福昌寺跡墓地に続いて2回目である。今回の参加者は募集人員20名に対して30名近くで、霧島市から見えた若い3人組のご婦人の姿もあった。この史跡巡りは島津家が鹿児島を統治するのに拠点になった東福寺城~清水城~内城~鶴丸城(鹿児島城)の全てが上町に存在したことから、他の史跡も沢山残されている地元に上町維新まちづくりプロジェクトという強力な団体があることで続いているものだ。 この日は桜も満開で桜島とのコラボを見ることができた。ただ午前中で逆光であったためきれいに写っていない。残念! 墓地の少し上に竹公園がある。西郷どんの墓前には参っても周辺までは行かないので初めて目にする場所である。 これは現代の水槽に当たるとのこと。ここに溜め込んだ水を下の小さな穴から出していた。 招魂 西南の役戦歿者慰霊塔 明治10年(1877)9月の西南の役終息より、120年余、平成11年年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。戦域より遺砂を格納し、また戦跡より「縁の石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。 周辺のことも一回では書ききれなかったのでいづれ続編を・・・。
2018.04.06
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鹿児島市長田町に「横山安武・森有礼生育之地」という標柱が建っている。なんとそこは、現在私の高校の同級生で友人のMくんの自宅になっている。プライバシーがあるので、家の写真をここにには出さないが、敷地も家も広く最近では少なくなった立派なお屋敷である。この一帯は鹿児島城(鶴丸城)にも近くその昔、藩士の住居地であった。Mくん宅から350mくらいのところにはNHKの朝ドラ「あさが来た」でも有名になった五代友厚の誕生地もある。(拙ブログ・2016、12,23)横山安武は森有恕の四男として誕生し、後に儒学者・横山安容の跡を継いで藩に出仕し、島津久光の側近となった。しかし他藩での騒動に巻き込まれたため、それを久光に知らせようと無断で帰国したことから罷免される。その後、陽明学を学ぶため上京し、最後は集議院の前で自刃するのである。 横山安武と森有礼は実の兄弟である。森有礼は後に文部大臣を務めたことで有名だが、兄・横山安武のことはあまり知られていないのではなかろうか。その横山安武について上記のように現在友人宅が生育地であったということもあり、このところ大きな関心を持っていろいろ調べていた。時も時、明治150年に当たる今年、地元の南日本新聞にはそれに因み企画ものの連載が次々に掲載されるが、「創世の模索・近代国家建設」4に横山安武も取り上げられた。 「朝廷の大綱に依遵し、各新たに徳政を敷くべき」「人情事実を察せず(略)刻薄の処置」ー明治3年(1870)7月、東京で一人の薩摩藩士が切腹して果てた。横山安武である。直前、集議院の門前に藩への統制強化や新政府高官のモラル低下を批判する建白書を残していた。横山のように、国の統制強化に反感を抱く者は少なからずいた。薩摩藩大参事の伊地知正治は不満をあらわにして帰国、土佐藩大参事の板垣退助も「動乱」を覚悟するように述べていた。(以上新聞記事) これらは近世国家建設を推し進めるため廃藩を目指した力がやがて廃藩置県を生む原動力となったものであると思う。 現在、友人のMくん宅の庭には、横山安武、森有礼兄弟も拝んだであろう「水神」などの石碑が残されており、Mくんの信奉する稲荷神社にもお世話になりながら手厚く祀っている。 西郷隆盛が横山安武の死を悼み、業績を賛えた碑文が鹿児島市池上町にある歴代の島津家の墓地のある福昌寺の入口にある。
2018.04.02
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