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秋近しを思わせる空をバックに赤に近い濃いピンクの百日紅(さるすべり)の花が咲いている。下の写真に見るようにお盆前に雑草園の草取りをした成果が少しはでているかな。しかしながら、手前の方は未だに草茫茫で百日紅の写真を写す時間が午前中だったので、この方向が逆光にもならず、いいところ撮りの写真になった。
2018.08.29
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楠声会合唱団第10回記念演奏会から「Standchen」(小夜曲)、ロシア民謡「バイカル湖畔の歌」黒人霊歌「Soon ah will be done」(もうすぐ終わる)の3曲をお聞きください。男声合唱の力強さが出ている曲もあります。
2018.08.27
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8月4日(土)鹿児島市の宝山ホール(県文化センター)開催された演奏会での一曲です。平均年齢70云歳のおじいさんたちが、気持ちだけは若者に負けない気持ちで歌っています。
2018.08.25
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桐野 利秋(きりのとしあき)(1838~1877 明治10年9月24日 没 享年40)桐野の墓は西郷の墓に向かって左隣にある。桐野利秋といえば 司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(一)の文春文庫の 「はじめに」 に次のように書かれていたことを思い出す。(1980年1月25日第1刷 手持ちは1990年3月15日第31刷) ーいっど、吉野に、行たっおじゃはんか。 (クマタツ鹿児島弁解釈 ー一回吉野に行ってみられませんか。)という言葉であったか、鹿児島市内の知人に、市内から東北へすこし離れた吉野郷という高原に行くことをすすめられた。吉野郷は桐野利秋という、この小説の最後まで登場する汗くさい男のうまれ在所である。 そうこの吉野は桐野利秋の在所である。この時は吉野を吉野郷と呼び、高原といっているが、「翔ぶが如く」は1972年の1月から1976年9月までで毎日新聞朝刊に連載されたことを考えると、司馬遼太郎が吉野を訪ねたのはその構想を練るためであり、1971年(昭和46年)以前のことだろう。私が鹿児島を出る1962年(昭和37年)頃は吉野はまだまだ畑が多かったので司馬遼太郎もそう変わらない桐野の在所を見たのではなかろうか。その吉野もその先の溝辺に1972年(昭和47年)に鹿児島空港が開港し高速バスとつなぐリムジンバスの通行路になったことや区画整理により見違えるような街に生まれ変わっている。 桐野利秋は吉野の下級武士の家に生まれた。前名は半次郎。桐野が西郷と運命を共にするほどになったことについては逸話があるが、長くなるので割愛する。戊辰戦争の東海道の先鋒、ついで会津征討軍軍監として会津城受け取りの大任を果たした。立ち木を相手に一人で極めた示現流は佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとった。明治維新後陸軍少将となるが、明治6年(1873)西郷が対朝鮮問題で当時の他の政府首脳と対立(私はその説はとらないが、いわゆる征韓論)し帰鹿するのに同行し帰鹿する。明治7年同志と私学校を設立、西南戦争では薩軍4番大隊長だったが、事実上の総指揮官として奮戦し、城山岩崎谷で戦死した。 次は篠原国幹の墓 篠原 国幹(しのはらくにもと) (1836~1877 明治10年3月4日 没 享年42)記録奉行の家に生まれる。通称は冬一郎。剣は薬丸半左衛門に学び、謹厳寡黙な人であった。薩英戦争では砲台守備に出陣した。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参戦した。上野の彰義隊を攻めたときは正面の黒門攻めを担当し、その陣頭指揮に経っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。その後、奥羽に転戦した。後に陸軍少将になる。近衛長官。言行一致で全軍を統率し陸軍の手本・模範と言われた。藩校造士館で和漢学を修めて、私学校が創設されると総監督として子弟の教育に当たった。西南戦争では薩軍の1番大隊長を務める。熊本城の戦いを皮切りに始まった戦闘は官軍の増援により次第に転戦を余儀なくされていいた。そして明治10年3月4日、田原坂は吉次超えの戦闘により篠原の元部下・近衛歩兵第1連隊第2大隊長江田国道少佐率いる射撃手に撃たれた篠原は弾を数発受けてその場に崩れ落ちた。壮絶な死であった。 参考資料 「かんまち本、その二」 肥後評論社発行「激闘田原坂秘録」、ウィキペディア
2018.08.23
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南日本新聞に連載中の歴史作家・桐野作人の「暁の獅子」も四、薩長同盟を迎えて佳境に入ってきた。ときは幕末である。8月15日の薩長同盟(28)にいきなり登場してきたのが「威光院」である。この小説では幕末維新期の波乱の時代を描いているが、西郷始め、小松帯刀、坂本龍馬、大久保一蔵(利通)など実名で登場する。唯一架空の人物として登場するのが小松の最側近とも言うべき「相良金次郎」である。「翌日、相良金次郎は西田町の自宅から甲突川を越えて上町方面に向かった。小松帯刀からの指示があり、途中から小松のお供をして琉球館の近くにできた開成所をめざした。開成所は藩営の洋学校で、藩内の秀才たちが勉学に励んでいる。1年前に開校したが、小ぶりで質素な建物だった。正門で出迎えたくらたのは所長をつとめる石河確太郎だった。石河は薩摩ではなく大和国出身の蘭学者だ。順聖公斉彬の集成館事業のために招致されてきた。内密にされているが、今春の英国への使節と留学生派遣を建議した人物でもある。その県議には見るべきものがあると取り上げて実現させたのが小松と大久保一蔵だった。顔長く背が高い人物だったが、人あたりは柔らかく、朴訥な感じさえした。すると少し遅れて坂本龍馬もやってきた。『また遅れたようじゃ。すまん』坂本は上町の清水馬場の威光院にいる仲間たちとここで合流するつもりだったが、それともうひとつ、ここにいるある人物にどうしても会いたかったのだ」その会いたかっかた人物とは中浜万次郎(ジョン万次郎)のことであるが、薩摩では斉彬公以来、このように外に道を求めて他藩の人物や外国からもいいものは取り入れようとの気風があったものと思われる。 話の本筋は、その威光院で坂本龍馬が会おうとした仲間たちとはどういう人たちだったのか、ということだ。 そのことに至る経過について「明治維新150年維新のふるさと鹿児島市」のホームページに次のような記事を見つけた。 大乗院坊中威光院跡 神戸海軍操練所閉鎖に伴い、龍馬を含む土佐浪士らは大阪の薩摩藩蔵屋敷に保護され、龍馬はその後の5月に鹿児島に入った。土佐浪士の仲間らはそれに先立つ2月には蒸気船で鹿児島到着。その際の滞在先は島津氏の祈願所であった大乗院の坊中の威光院であった。明治2年(1869)の廃物希釈によって当時の雰囲気は失われているが、周辺には大乗院(清水中)の遺構などわずかに残っている。 大乗院は現在の敷地のみならず寺に向かって200mのところ(現在清水町の呼び名の源にもなったと言われる仁王堂水という水源がある)に正門(仁王門)があり、その間に10の支院がった。その一つが威光院である。 (注)下の写真で大乗院(清水中学校)の左下方に「感光院」とあるのは「威光院」の誤植である。ここに「威光院跡」という表札が掲げられている。蛇足ながら、私は中学3年のときに転校しこの清水中学校に1年間毎日「威光院跡」の前を通学した。 またまた脇道にそれたが、「暁の獅子」は進んで(30)では「そんな雑談をしているうちに、威光院をねぐらにしている坂本の仲間たちがやってきた。上杉宗次郎、菅野覚兵衛、沢村惣之丞、高松太郎、新宮馬之助、黒木小太郎、白峰駿馬の七人である」とあった。 私はどこかで見たような名前が多いなと思うウィキペディアの「海援隊」を見たところ「私設海軍、貿易など薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動として評価されている。そのメンバーの中に沢村惣之丞、高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、白峰駿馬」と威光院にいたという7名中、5人の名前がある。竜馬を入れると6名である。同じく「亀山社中」も見たところ「海援隊の前身で1865年坂本龍馬が長崎で結成した貿易商社。倒幕運動への参加を企図した政治集団。20余名で鹿児島に赴く。小松帯刀に伴われ長崎入り、豪商小曽根家の援助を得て亀山社中を作る。その後、薩摩藩の名義を借りて、その開運業に支えられて薩長両藩などの武器、艦船の輸入を仲介しあわせて海運業に従事しながら航海術を習得していった」とある。こうしてみると、「亀山社中」も「海援隊」も薩摩での「威光院」での縁がもたらしたといっても過言ではないのではと思えてきた。 以前見たことのある「威光院」という言葉に注目したことからこれまで自分の中で曖昧だった薩摩藩と坂本龍馬を中心とする土佐浪士との関係などの歴史を知ることができた。それにも増して自分がいつも通った通学路は150年前には坂本龍馬や土佐の浪士たちが新しい日本をつくろうと闊歩していたと考えるだけでも笑みが湧いてくる。
2018.08.20
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最近は男・78歳が良いこと、悪いことで話題になることが多い。私も同じ78歳! これらのニュースを見て、その人たちとの比較でも考えることが多い。昭和14年(1939)のいわゆる遅生まれと15年(1940)の早生まれが今年、来年の誕生日までが78歳である。 俳優・津川雅彦(1940年1月2日~2018年8月4日)が亡くなり、78歳とニュースが伝えていた。妻・朝丘雪路(1935年7月23日~2018年4月27日)を送って約3ヶ月というなんとも言いようのない早い死であった。 その津川雅彦のニュースと前後してテレビを賑わしたのが、男・山根 明である。泰山鳴動してネズミ一匹も現れないかと思うほどの勢いだったが、結局は「日本ボクシング連盟会長」を始め大阪や奈良の地方の役職も全て辞めるとのニュースがこの2,3日流れている。このキャラクターには私も完全にお手上げだ。今後どうなっていくのか見守りたい。 その男・山根 明のニュースが下火になったころ突然登場したのが、私がこれぞ男と思ったあの人の登場である。そう 山口県周防大島町で行方不明だった2歳の男の子を発見した男・尾畠 春夫さんその人である。もう皆さんご存知のようにボランティア活動の経歴も凄い。 私は、最初に子供発見のニュースを見たとき、年齢はお幾つだろうと、そして78歳と知ったときはもう完全に負けたと思った。と言うのは、いつも災害の度にボランティアのことが報道されるのを見て、もう私の歳になって行くような人はいないだろうと思っていたからだ。特に病気でもないし、そこそこの元気はあるつもりだが、災害現場に行って人助けをするほどの体力はもうないと思っていて、実際行ったとしてもかえって迷惑をかけてしまうような自分だろうとの自覚があるからだ。ところがどうだろう。この尾畠さんの元気は! 世の中には元気な人もいるものである。脱帽。 この際、有名人の78歳を調べてみたら、俳優の竜雷太・野球の張本勲、板東英二など枚挙に暇がないほどだが、中にはあの人もか、と思うような人もいるのでもう書かないことにする。(笑) 78歳は若いのか、もう年寄りなのか(年齢的には完全な年寄りだが)尾畠さんみたいなひともいることだし私ももう少し頑張ってみたい。
2018.08.18
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13日(月)お盆の入り。午前中はお盆用品や食料を買いに農協の売店・鹿児島市与次郎ヶ浜おいどんが市場へ。揃わなかった物を近所のスーパーに寄って買い物、万全。14日(火)に娘家族、長男家族、姪の家族などがいつものように仏壇のある我が家にお参りに来るので、準備のためでもある。 13日は夕方墓参りにも行く予定にもしていたが、そこに滋賀の大津に住む弟から午後4時頃電話がかかる。話の内容は驚くべき事態発生で急遽、14日に神戸に行くことにする。しかし冷静になって考えると、14日の帰省ラッシュの中、神戸までの交通手段があるだろうかということ。パソコンにかじりついていろいろ調べていると、スカイマークに空席発見。時間も良し。すぐ予約を入れる。不幸中の幸いとはこのことかと感謝。 翌朝、長姉と鹿児島空港で合流し、神戸へ。私にとっては初めての神戸空港である。ネットで調べていた通りポートライナーで三宮へ。そこから地下鉄で西神中央へ。西神中央は2回ほど行ったことのある場所だ。そこから2日間、悲しいお別れに日を過ごす。不謹慎かもしれないが、いいお別れができて、親族一同何十年ぶりかの再会もあり、懐かしく話をすることもできた。せめてもの救いである。 15日(水)夕方、予約していたスカイマークに乗って鹿児島空港に帰着した。
2018.08.17
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南州神社参道階段は途中から東と西に分かれる。東の広い方を「男坂」、西のやや狭い方を「女坂」と呼んでいる。墓地を守ることを業とした人、隠坊や御坊とも表記し、オンボとも呼ぶことから、オンボ坂とも呼ばれる。階段は155段ある。 下の写真は参道階段を上り左側の公園から桜島と鹿児島市内を眺望したもの。この日は、南岳が噴火し、噴煙が南の方向に流れていた。 「西郷どん」の眠る南洲墓地一帯は公園化されて、南洲公園と呼ばれている。その南洲公園については、この4月に「西郷隆盛の南洲公園を訪ねる」の(その一、その二)で当ブログに書いたが、肝心の南洲墓地についてはあまり触れていなかった。(もっとも以前には何回か書いてはいると思うが) 今回、「西郷どん」に因んで、南州墓地をもう少し詳しく書いてみたいと思う。 階段を登った先に鳥居があり、その先に西郷隆盛の墓標がある。西郷隆盛 1827年~1877年(明治10年9月24日没) 享年50 鹿児島城下下加治屋町(現在の加治屋町)に生まれる。18歳で藩の郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)となる。そののち書役となり、27歳まで勤める。その間農政に関する意見書で、藩主・島津斉彬の目に留まり庭方役となり、身分も小姓となる。仕事は情報探索と渉外工作で、水戸の藤田東湖などと交流する。安政5年(1858)主君の斉彬を失った西郷は殉死を考えるが、京都清水寺成就院の僧・月照の説得によりそれを思いとどまる。その後、安政の大獄に巻き込まれ僧・月照と鹿児島の錦江湾に入水自殺を図るが、西郷のみ一命をとりとめる。 しかし、幕府の手前もあり、藩命で奄美大島に蟄居させられる。その後、1862年国父と呼ばれた久光に召喚され鹿児島に帰るが、先進的な尊皇攘夷派との結託を疑われ、今度は奄美大島の徳之島に流刑され、すぐに沖永良部に移される。ただ、それも大久保利通などのはからいもあり、1864年再び久光に召喚されて、禁門の変などで戦功をあげる。慶応3年(1867)12月9日 王政復古の大号令 小御所会議において新政府発足。慶応4年(1868) 1月3日 鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争勃発。 3月13日 東征大総督参謀として江戸入りし勝海舟と会談。 4月11日 無血開城により江戸城に入る。明治2年(1869)2月26日 鹿児島藩参政に就任明治3年(1870)7月28日 鹿児島藩大惨事に就任明治4年(1871)6月25日 新政府において参議となる 7月14日 廃藩置県の実施明治6年(1873)5月10日 陸軍大将参議に就任 10月23日 朝鮮半島への使節派遣をめぐり、意見対立し、参議の辞表を提出 11月10日 鹿児島に到着。武村の自宅に帰る明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校を設立明治10年(1877)2月1日小根占村にいるとき、四学校生徒による火薬庫襲撃の報を受ける 2月17日 兵を率いて熊本城にある鎮台を目指す 2月22日 西郷軍と政府軍との戦闘開始(西南戦争) 3月4日~20日 田原坂の戦い 5月16日 延岡において全軍解散命令 9月1日 西郷軍、鹿児島に帰り、城山に籠城 9月24日 官軍の総攻撃により、西郷も介錯され生涯を閉じる 西郷の墓を中心に桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武の武将などの墓がある。鹿児島県令(初代県知事)大山綱良、県令岩村通俊の願いを政府軍が聞き入れ、西郷隆盛以下40人を浄光明寺境内に仮埋葬することを許可、この他120人が不断光院、草牟田、新照院の上、城ケ谷の4ヶ所に埋葬された。 明治12年(1879)有志が鹿児島市内に埋葬されていた220余人の遺骨をまとめて知事の許可を得てここに埋葬した。明治16年(1883)薩摩、大隅、日向、豊後などの各地で戦死した遺骨も集められこの墓地に埋葬された。749基の墓石、明治10年(1877)西南戦争に敗れた薩軍2023人の将士が眠る。 西南戦争終結から12年後の明治22年(1889)西郷隆盛は名誉回復し、正三位に叙される。その後、日本各地に銅像や記念碑などが次々に建立されて今日に至っている。西郷南州の墓標の前にもいつも花が絶えない。 参考資料 「かんまち本」その2 「明治維新150年維新のふるさと鹿児島市」ホームページ
2018.08.11
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8月4日(土)楠声会合唱団の当日の恥を曝します。(笑)あくまでも私・クマタツ個人のことです。 当日は10時からのゲネプロ開始のことだったので、9時30分くらいには会場の宝山ホール(鹿児島県文化センター)に到着しようと、自宅近くのバス停から8時50分発のバスに乗った。 当日のステージ衣装はいつものように、Yシャツに楠声会カラーの緑色のネクタイ、黒色のスーツ、黒靴となっていた。当日の集合は午前10時でも、その後ゲネプロ、記念写真の撮影など演奏開始の午後4時まで鹿児島地方の最高気温35°Cの中を動き回らなければならない。そのため、軽い服装で家を出て、午後1時30分の記念撮影まではそのままの服装の心づもりである。 ステージ衣装は前日からスーツやネクタイなどは下の写真のスーツバッグに自分で入れて準備しておいた。ただYシャツは私が用意したものを妻がアイロンかけをしてハンガーにかけていたようだ。そこまでは良かったのだが、演奏会後に開かれるパーティーでの服装は自由にということだったので、日頃はステージ衣装のままそういう場所にも出かける私が、暑さで汗びっしょりのYシャツでは気持ちが悪かろうと思い、半袖のカラーシャツを一枚持ち出してきた。妻がそれにもアイロンをかけると言う。もうすっかり任せっきりの気分の私は、他のことに気は向いてしまい、妻の最終的な準備までは見届けず、バスの時間が近づいたので、スーツバッグを持って家を出たのだった。 そして宝山ホール。午前中の第1、第2ステージのゲネプロが終了、パート毎の控え室で弁当を食べる。その後、この日は客演指揮の下野竜也氏を迎えての第3ステージのゲネプロの前に、ステージ衣装に着替えて記念撮影をすることになっていた。和気藹々で弁当を食べると、皆着替えが始まった。私も、いつものようにスーツバッグを開くと、一番上にパーテーィ用に準備して妻がアイロンがけをしたカラーシャツが載せてある。私は先ずYシャツを着ようと思いYシャツを探す。 ない! ない!そんなことはなかろうと、スーツバッグのポケットを慌てて何回も探す。それでも ない! ない!諦めの悪い私はそれでもシツコク何回も探す。 ない! ない! ない! 本当にないのだ! 記念写真の撮影のための集合時間はもうそこに迫っている。どうしよう! 焦りまくるクマタツ。暑いのに冷や汗が出てきた。いつまでも、ポロシャツのままの私の姿に気づいた、2、3人の人が「はよ、着替えんや、間にあわんど」と声をかけてくる。さすがにここまでくると、もう諦めざるを得ない。私が記念写真撮影現場にいないことで私を探すなど全体の進行に迷惑が掛かってはいけないと思った私はパートリーダーにそのことを伝えた。リーダーからも周りの数人からも「そいに上着を着ればよかが」とかいろいろ助言をもらったが、私としてはもうすっかり記念撮影参加は諦めていた。問題は本番である。近くのデパートにでも行って買えばすむことだ。本番まではまだ2時間くらいある。その時、考えついたのが、もうこの時間には演奏会の裏方を務めるためにロビー辺りにいるはずの妻のことだった。そこでロビーに行ってみると、楠声会の責任者と打ち合わせ中である。責任者も写真撮影へ。私「Yシャツが入ってなかったど」 妻「あなたが入れたのではなかったの?」そこで一瞬のにらみ合い(爆) ああ、ここで間違ったのだ! 最後まで自分で確認しなかった私が悪いのか、はたまた途中からカラーシャツにアイロンがけをしてくれてハンガーにかけていたYシャツのことまで気が回らなかった妻が悪いのか。でもそれを言い争って決着をつける時間はない。妻もデパートに走るか、家まで帰って持ってくるか考えていたようだが、家に帰る方に決めたようで飛び出して行った。しかし、完全な職場放棄である。(結果的にはちょうど裏方の仕事も終わって、お客さんが入るまでの空白の時間だったようで、迷惑はかけなかったと妻本人は言っております)楽屋で待つ私のもとへYシャツが届いたのは45分くらいたった頃だった。タクシーで自宅まで帰り、そのまま待たせて置いたタクシーに飛び乗ってきたとのこと。 記念撮影には参加出来なかったが、本番には十分間に合って事なきを得たのは幸いだった。もう一つ言えることは、今回は途中で記念撮影という私にとっては途中でチェックする機会があったことが幸いした。それが無ければ、開演30分くらい前の3時30分くらいに、いざYシャツを着用しようとなった時に気づいていたら、もう完全にアウトだったのだ。教訓としては、旅や演奏旅行などに出かけるときはこれまで通り、自分で全部準備すること。 私たち夫婦にとっては「泰山鳴動ネズミ一匹も出ず」ということに終わったのは幸いだった。何故なら、未だ離婚の話も出ず、今日も暮らしています。
2018.08.09
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やっとかっと演奏会がおわいもした。(やっと演奏会が終わりました)もう すったいだれもした。(もう すっかり疲れてしまいました)いやいやこういうことを最初から言ったらいけません。でも実感です。昨日、8月4日(土)合唱団にとっても私にとっても今年最大のイベントと位置づけていた「楠声会合唱団 第10回記念演奏会」が開催された。 第1ステージは南 弘明作曲のフランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」(!)全5曲 最2ステージは「男声合唱名曲アラカルト 我が青春の歌声」 鹿児島大学の前身・第七高等学校寮歌2曲、日本の合唱曲より4曲、外国の歌より 「Stand Chen」「バイカル湖畔の歌」「Soon Ah Will be Done」 日本の民謡・歌曲より「知覧節」「斉太郎節」「ゴンドラの唄」「箱根八里」 第3ステージ 打楽器とピアノと男声のための合唱曲「火の島」(桜島) 指揮 下野竜也 今回これまでとは違い全ステージ暗譜でということが打ち出されて、平均年齢70歳超え、80歳代も10名以上いるという合唱団にとって大きな試練となった。もちろん50歳代、60歳代も多いのだが。私自身も四捨五入すれば立派な80歳である。いや四捨五入しなくても、もうすぐだ。暗譜云々の結果はどうだったのか。結局ステージによっては、暗譜に自信のない人は、見ていいということになり、何人かの人は楽譜を持ってステージに上がっていた。「結果よければ全て良し」となったようだ。大岡裁き? がなされたということだ。 本番前の2日、3日、そして4日の最後の練習とゲネプロがきつかったが、これも終わってみればもういい思い出に変わりつつある。人間の曖昧さがそういう想いにさせるのであれば、曖昧さ、いいか加減さも捨てたものではない。 幕があくとステージから見た客席は満員である。暑い中、よくもまあ来ていただいたものだ。感謝!第1ステージは団歌「輝く黎明」や司会者の言葉やらで終わったら30分かかっていた。5分休憩。第2ステージは全14曲。これを3人の指揮者が交代で演奏した。その間に司会者の歌の紹介など入るのだが、司会者の時間はステージは暗転して、ひな壇に座り込んでもいいことになっていたのが、暗転する様子がなく、おじさんたちは1時間くらいの立ちっ放しとなった。あとで聞くと、照明が不調に陥ったらしい。止むなし。休憩でステージを降りるときは皆足が硬直しておかしな歩きになっていた。15分休憩。 いよいよ最後の第3ステージ、客演指揮者の下野竜也氏を迎える。演奏に先立ち、司会者による下野氏へのインタビューが始まった。幕の後ろに待機する私たちには、内容はほとんど聞こえないが、会場からは下野氏の発言に対して大きな笑い声が数回に渡って起きていたので楽しいインタビューだったのだろう。私たちにはDVDが出来上がってからの楽しみである。「火の島」(桜島)は「夜明け」という桜島が夜明けを迎える前の「大きな 塊の黒い桜島 黒く青黒く無限に重く 黒潮の海は さらに濃く深い 朝もやの縞は 麓に迫り 音もなく流れ去る 夜明け前の静寂・・・♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦」というところから始まるのだが、この夜明け前の情景を歌う歌いかたなど教わったのだが、果たしてそのように歌えたのかこれもDVDを待たねばならない。曲は「大爆発」「島の子守歌」「溶岩原」「夕映え」と進み、」アンコールやカーテンコールで無事?終了! ステージの後片付けなど全員ですませて、演奏会祝賀パーティーのホテル・パレスイン鹿児島に向かう。午後7時30分パーティー開始。来賓の下野竜也氏、作曲家の伊地地元子氏や団員の家族を含めて130名を越す賑やかなパーティーになった。私は演奏会の裏方を務めてくれた妻共々参加した。 昨夜は家に帰り着いたのは、10時30分。演奏会に来てくれた友人たちのメールを見ただけで、返事は今朝になってすることだった。その他にも、親戚や近所の人など聞きに来てくださった皆さんに電話でお礼を言ったりで、午前中はアッという間に過ぎてしまった。定例の練習は日曜日だが、昨日の今日で今日は休み。次の12日はお盆休み、練習開始は19日かになっている。しばらく だれ(疲れ)休みとしよう。 写真は同じステージに立ったA先輩の知人が写されたものを、A先輩の好意で借用したものです。
2018.08.05
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