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スパッカナポリは「ナポリを真っ二つに割る」という意味。山から見るとクローチェ通り(おそらく)がナポリの街を文字通り2つに切っているように見えるらしい。残念ながら、「スパッと割ったナポリ」を実感できる眺めを見ることはできなかったのだが、「造形美の坩堝」であるスパッカナポリは、もちろん歩いて堪能した。こちらはジェズ・ヌォーヴォ教会。特異なファサードに思わず足が止まる。異様な力強さで視覚に迫ってくる。そのそばにある広場。建物に囲まれた暗い路地から、いきなり明るく日の当たった広場に出るとき、ちょっとした感動を覚える。トキメキとか、解放感といってもいいかもしれない。陣内秀信はそれを「広場との感動的な出会い」と表現している。ナポリに行くなら同氏の「南イタリアへ!」を読むといい。これはとてもわかりやすく、しかも示唆に富んだ南イタリアの街と建築の解説書になっている。美術史家の著作は過去にもいろいろあったが、特に建築史家としての立場から、ここまでイタリアの街の構造と建築物のおもしろさを日本に紹介した人はいなかったのではないか。南イタリアへ!たとえば、陣内はナポリの街角の広場に立つグーリア(guglia)についても詳しく解説している。グーリアとは「尖塔」「尖頂」のことで、教会の屋根の上にある。上の写真で広場の真ん中に建っている塔がそれだ。一見「オベリスク(obelisco)」の小さいもののように見えるが、グーリアとオベリスクは起源がまったく違う。オベリスクは古代エジプトで権力者の功績などを記念するために作られた方尖柱(塔)のことだ。グーリアはあくまで、教会建築の屋根の頂上を装飾する尖った構造物。陣内によれば、ナポリでは、その尖塔を宗教的祭礼の行事の際に、祝祭のための象徴物として置いたという。それを広場のモニュメントとして恒常的に設置したのが、スパッカナポリの小広場にしばしば見られるグーリアというわけだ。だからオベリスクのような権力者の権威を示すためのものではなく、熱狂的な大衆の祭りの記憶を広場に留めて日常化させたものと解釈できるという。そして陣内は、「この装飾要素は、都市空間に舞台装置的な効果を生むのに大いに貢献している」と指摘する。確かに、庶民が片寄せあって暮らす下町の狭い路地から、ふと明るい広場に出たときに、開けた空間の中にグーリアが屹立し、そこに太陽の光が当たり、周囲に日常品を売る店やちょっとしたものを食べさせる店のパラソルが並んでいるのをみると、何か、ある舞台美術の中に入り込んだような気持ちになる。生活する人々の声が聞こえる。働く声、時間をつぶす声、楽しむ声、怒る声もしているかもしれない。こうした活気は「本番の舞台演劇」で響くセリフそのものだ。スパッカナポリの広場に足を踏み入れる瞬間、それは下町の広場という舞台に、あなたも役者の1人として出て行くということなのだ。ナポリの人はみな、こうした「舞台装置的な空間」の中で自分の人生を演じている。こちらはサンタ・キアーラ教会の中庭。マヨルカ焼きの柱とベンチが整然としつらえてある。この「舞台装置」はよく手入れされた、きわめて静謐な空間の中にある。教会の外の都市的な雑踏とはまったく別世界だ。こうした静寂と喧騒の見事なまでの対比、しかもそれがごくごく隣接して存在していることにナポリの大きな魅力がある。細部まで見ると、マヨルカ焼きの絵付けの技量自体はそれほど高いものではない。だが、それがこうして柱となり、背もたれ付きのベンチとなって大規模に計画的に設置されると見事の一言だ。日本のたとえば有田だったら、スポンサーさえいれば、これ以上の美術的な価値のある空間が作れるだろうに。このベンチはいかにも「座って休みたくなる」ような清潔感がある。だが、ちょっとでも座ろうものなら、あるいは何かを置こうものなら、眼を光らせている係員がやってきて、いちいち注意する。日本だったら看板をそこら中に立てそうだが、ナポリ的美意識ではそうした余計な「舞台装置」は排除すべきものらしい。かわりにナポリ人は、「言葉によるルール伝達」を優先させている。そうした意識はある意味、日本人とは対極にあるかもしれない。
2007.10.31
ナポリ2日目もホテルをかえた。海岸沿いの「Hotel Excelsior(ホテル・エクセルシオール)」海の見える部屋を、ということでネットで予約してある。1日目のホテルがとんだ日本人冷遇ホテルだったので、不安な気持ちでチェックイン。ホテルに着くのが早かったせいで、部屋の準備ができていないという。そこで、ホテルの豪華なバールでスプレムータ(生ジュース)を飲みながら部屋が整うのを待った。さすがに、エクセルシオールは歴史のあるホテルだけあって、クラシカルで重厚な内装だった。バールでバリスタのおじさんとおしゃべりしているうちに、部屋の準備ができたといわれて、ポーターについていく。今日の部屋は昨日のホテルとはうってかわって、広々と、天井が高く、ベットやリネン類も高級感がある。窓には重たげなカーテンがさがり、バルコニーに出ると、ナポリ湾が一望できる。バスルームもゆったりとしており、大理石がふんだんに使われている(ただ、シャワーの栓がちょっといかれていて水の止まり具合が悪かった)。バルコニーからみたナポリ湾。遠くにベスビオがかすんで見えた。海は太陽の光をあびてキラキラ光っている。風もおだやかだったせいか、ヨットがたくさん出ていた。右に視線を移すとヨットハーバー。沖では、まるでアリが羽虫を運んでいるみたいにヨットの帆が海面を動いていく。気になる(?)1泊のお値段は当時300ユーロで、そのときのレート換算で3万4800円(カードで払った)。このプライスならむしろ安いと思った。ただし、今はこのホテル、ツインのラックレート(正規の価格)は360ユーロになっている。今のレートで換算すると5万7600円(ひえぇぇ~)。ちなみに、アップルにもエントリーがある。アップルをとおすと4万5000円からとあった。ということは、今は直に個人で予約するより、アップルをとおしたほうが安いということかもしれない。アップルだと基本的に事前に部屋の指定はできない。ただ、現地で空いていれば融通を利かせてくれることもある。もちろん、アップルを通したほうが「いつも安い」とは限らない。直が安いか、アップルを通したほうが安いかは、その都度、自分でリサーチしないといけない。Mizumizuはたいていネットでホテルのホームページにあるラックレートとアップルのレートを調べてから、どう予約するか決める。ただこれ、面倒は面倒なので、人には強くはお薦めしない・笑。朝食もリッチだった。モッツァレッラだけでも、少なくとも3種類は用意されていた。カンパーニャの大地の豊かさを感じる。モッツァレッラはやっぱり南だよな~。昨日の「日本人冷遇ホテル」に2泊しなくてよかった、と心から思ったのだった。
2007.10.30
ようやくサンカルロ劇場のボックスオフィスに着き、「メールでオペラ・アマディージのチケットを取っておいてもらっているはずだけど」と告げると、窓口のおじさんが怪訝な顔をした。「アマディージはここではやらない。それにもう始まっているよ」――え?慌てて上演時間をメモした紙を見る。18:00時、と自分で書いていた。しまった! すでに午後7時近い。18時を午後8時と思い込んでいたのだ。しかも劇場はサンカルロの中にある小劇場ではなく、700メートルぐらい歩いた別の場所にある劇場らしい。がーん!このバロックオペラのために、わざわざ日程を調整して、インスブルックから夜行でナポリに着いたのを、いったんソレント半島のアマルフィに行き、そこで2泊してバスで戻ってきたというのに!バロックオペラの中でもヘンデルのオペラは評価が高い。にもかかわらず、日本での上演機会はまだまだ少ない。「リナルド」だって珍しいのに、「アマディージ」を日本で上演してくれるなんてことは当分望めそうにない。日本は世界有数の「オペラ消費都市」だ。有名歌手・有名指揮者・有名オケがこぞって来日する。ただ演目はやはり、お客が集まりそうな無難なものにかたよりがちだ。バロックオペラは体制(つまりは当時の絶対王政)礼賛オペラも多く、今の聴衆には到底受け入れられないような奇異なストーリーが多いというのも、人気がでない理由のうちかもしれないが。いったんは、アマディージが上演されているという劇場の方向に歩き出したが、やはりいくらなんでももう遅すぎる。途中で諦めて引き返した。そのかわり、サンカルロ劇場で翌日のバレエのチケットはしっかり受け取った。歩きつかれて、途中でもうタクシーで帰ろうということになった。ナポリは石畳の道が多く、しかも、その道自体がゆがんでいるので、歩くのが疲れる街だ。道端にタクシーをとめて何やら書き物をしてるにーちゃんがいたので、話しかける。「乗ってもいい?」「ダメダメ。今日の仕事はもう終わったんだ」しかし、ここでせっかく見つけたタクシーを逃したら、また探すのは面倒だ。「でも、すぐ近くなんだけど。それにママがすごく疲れていて…」イタリア男は「ママ」を出されると弱い。運転席から疲れた様子のこちらを見る。「どこまで?」「ホテル・メディテラネオ。すぐ近く」「じゃ、いいよ。乗って」疲れているときは、ボロな(失礼!)タクシーのシートも心地よく感じるもの。タクシーでホテルまでラクに戻った。すぐ近くなのだが、グルグル道を回って走った。ナポリのタクシーはこんなふうに、直線距離だと近いはずの場所もグルグル回っていく。「雲助が値段を吊り上げるためにやっている」とブログに書いている日本人もいたが、実際は街中の道は一方通行が多いから、遠回りしているように見えるだけで、案外最短距離で行っているのかもしれない。まあ、本当のところはわからないが。ホテルに着いて「いくら?」と聞くと、「5ユーロ」と言われた。アマルフィからナポリまで2時間バスに乗って3ユーロちょっとだったのに、数百メートルの距離をタクシーでいくと、これ。だいたいナポリは当時5ユーロが最低料金だった。あのときはレート換算すると600円ぐらいで「日本とだいたい同じだな」と思ったが、今だと800円が最低料金ということになる。ヤレヤレ。
2007.10.29
理不尽なことをされても抗議もできない日本人もどうかと思うが、韓国人の自己主張の強いふるまいには逆の意味で驚いたことがある。それはローマの空港に遅くついた夜のこと。翌朝からレイルパスを使う予定だったので、ホテルに入る前にテルミニ駅に寄って、夜のうちにパスの使用開始印を押してもらえるかどうか確認しに行った。夜10時をまわっていたと思う。空いている窓口は1つだけ。そこで、なにやら駅員に英語でまくし立てているアジア人の男女がいる。後ろに並んだが、駅員が全然英語を理解しないので、話が進まない。アジア人は英語のアクセントから判断するに韓国人だ。待つのも面倒なので、しゃしゃり出て、「どうしたんですか? イタリア語ができますから、通訳しましょうか?」と英語で話しかけた。韓国人カップルは、これ幸いと説明を始める。「インターシティで来たんだけど、電車が3時間も遅れたんです」「だから、100%返金してもらいたいの」――はあああ?ショージキ驚いたが、まさか私から「そんなことしてくれるわけないじゃないですか。ここはイタリアですよ。3時間遅れ? 別に珍しくもないんじゃ? それに遅れたといっても乗ってここまで来たんでしょう? 難癖つけてタダ乗りするつもりですか?」などとも言えず、「返金ですかぁ?」と確認するに留めた。すると、「100%よ!」と、念押しする女性。若くて美人だが、発想は完全にオバちゃんの領域に足を踏み入れている。仕方ないので、イタリア語で駅員に話す。どう答えるかな? と思ったが、イタリア人駅員のとった作戦(?)は、「たらいまわしの術」だった。「私は、そういうことをする立場にない。明日朝7時にあっちの総合窓口が開くから、そこで話してほしい」なるほど、そうきましたか。面倒なことはたらいまわしネ。返金なんてされないってこと、わかってるのに。顔色も変えず、ぬけぬけと言ってくれるワ。Mizumizuは今度は英語でカップルに話す。一晩たってしまえば返金などされないことぐらい、彼らもわかっているだろう。男性のほうは、「あ~、そう」と、がっかりしながらも納得したようだったが、女性のほうはなおもMizumizuに食い下がる。「どうして彼が返金しないの?」「そういう責任をもってないからだって言ってますよ」こういうときは男性のほうが物分りがいい。男性にうながされて女性も諦めて去っていった。また、ローマの空港から帰国するときも、大迷惑の韓国人ツアー客に遭遇した。彼らは集団で免税ショップを物色し、タバコやらお酒やらをじゃんじゃんカゴに入れてキャッシャーに殺到する。自分の前を歩いている人も押しのけるような勢いで、単純にいえば順番抜かしをしてキャッシャーに並ぶ。ところがいざ、払う段になると、わずかなドル札を出すだけなのだ。それも買った品物に対して、出している金額が全然足りない! 「別の通貨はないの? カードは?」とキャッシャーのお姉さんが聞くのだが、英語も全然通じない。足りないということはわかるらしく、「これとこれを省いたらいくらになる?」などと、今度はキャッシャーで品物をカゴから出している。キレた店員に「ダメ」出しをされても、なおも粘ろうとするが、いよいよ拒否されて、しぶしぶもう一度買い物をやり直しに戻る。それが1人や2人ではないのだ。みんながそのパターン。自分で計算せずに品物を持ってきて、キャッシャーで計算したあとに、全然足りないドル札をぴらぴら出す。そこから品物を引いていこうとしているのだ。要は、余ったドルを使い切って帰りたいということなのだろう。ついに奥から責任者とおぼしきイタリア人のおじさんが出てきて、韓国人観光客の集団に、タバコケースを見せながら、「これはXXドル。ここに値段がある、10ドルでは買えない!」などと大声でレクチャーを始めた。さらに1人ひとりに寄っていって「あなたのもっているのは何ドル?」などとヘルプしている。汗だくで真剣、かつ相当怒った声だ。しかも、彼らは英語を理解しないから大変だ。「彼らは値段がわかっていないのね」とキャッシャーのお姉さんに話しかけると、「わかってやっているんでしょ!」とこちらまで怒られた。藪へび、藪へび(苦笑)。う~ん、「あの」イタリア人をここまでイラつかせる韓国人団体ツアー客パワー、恐るべし。昔日本人の農協ツアーのおじさんが、世界中でご迷惑をかけたやに聞いているが、彼らはそのその再来、韓国版農協ツアーなのかもしれない。日本人と韓国人って違うよな~、でも全然イタリアでは違いが認知されていないけど… 2002年韓国で行われたワールドカップの韓国vsイタリア戦の審判が公正でなかったことは、イタリアの若者の間ではだいぶ尾を引いているらしい。あのあとイタリアで若者に、「ヘイ、韓国!」などと呼ばれて、思わず見るとアッカンベーをされたことがある。トホホ。キミらの国であったワールドカップの審判も、サッカー史に残るぐらい、ずいぶんとイタリアびいきだったって話を聞いたけどね。審判が公正でも不公正でも、自分たちが勝てばいいのよね。そんなところも韓国とイタリアはいい勝負かもしれない。それに公共の場での大声でのおしゃべりも。ああ、そういえば、いい歌手が多いことも共通してる。さて、ナポリの一日目も暮れてきて、いよいよバロックオペラだ。明日のバレエはチケットをカード決済で買っておいたのだが、オペラのほうは小劇場でやるようで、「キープしておくから直接来て」というメールを受け取っていた。パバロッティもお気に入りだったサンカルロ劇場へ向かう。サンカルロに行くためにはガレリアを抜けていく。La galleria a Napoli, qui vite che non si incontrano stanno passandoガレリアは、要するに十字路のアーケードだ。床のモザイクが見事。ここで「ババ」というナポリの有名なお菓子を買って食べてみた。ババとは、お酒と砂糖づけにしたブリオッシュで、言ってみればサバランだ。本場のババはお酒も甘さも強烈だった。最初にかじったときは、「うっ」と思ったが、今となっては懐かしい。日本ではあそこまで強烈なお酒づかいと甘さのババはない。ナポリに行くことがあったら、また食べたいな。このガレリアを抜けたところで、1つの哀しい出会いが待っていた。
2007.10.27
アマルフィからのバスはナポリの街中をとおって、駅に着く。駅と街の中心はかなり離れている。どうせなら、駅で降りずに街中の観光に便利な場所でおりて、バス停の近くで泊まれる適当なホテルを探したほうがよさそうだ。日本で地図と首っぴきで調べたところ、あったあった。バス停からすぐの場所にHotel Mediterraneo。その前の年までは3つ星だったが、改装して4つ星になったらしい。その分値段は1年でぐっと上がった(ツインで181ユーロ)ようだが、まあ快適で便利ならいいだろう。アマルフィからの長距離バスに乗るときに、運転手におりたい停留所の名前を見せて、着いたら教えてもらうように頼む。忘れてしまうこともあるから、到着時間を書いたメモを手に、その時間に近くなってきたら、運ちゃんにさかんにガンを飛ばす。そのかいあって、無事に目指す街中の停留所でおりることができた。荷物を引きずってホテルに入ったのがだいたい午後3時ぐらいだったと思う。Hotel Mediterraneoはロビーはわりあい豪華だった。ポーターについてエレベータにのり、部屋のある階でおりたところで、足がとまった。なんと、エレベータの前の絨毯をとめている金具が床から飛び出している。絨毯をはがす途中のようだ。廊下も暗い。そして外からものすごい工事音が聞こえてくる。「この音は何?」「今外壁を工事してるから」そうか、まだ改装が終わっていないのか。だが、部屋は改装されているものと、このときは信じ込んでいた。通された部屋に入って、言葉を失った。ボロくて暗い。バスルームは蛇口がさびついていて、水が垂れたあとがタイルに残っている。気になるベッドは…? 大丈夫だった。アマルフィのターボラ・ベッドのようなことはなかった。だが部屋は明らかに改装などされていない。とても181ユーロとは思えない。その前の年までは、このホテル、たしかツインで130ユーロか150ユーロぐらいだったはずだ。そのぐらいのプライスなら、まあバスルームはひどくても我慢できたかもしれない。街中で便利な場所にあるホテルなのだ。うんざりしながら、フロントに電話する。「この部屋は好きじゃない。別の部屋を見せてほしい」すると答えたのは中年の男性の声だった。「お客様、今日は予約がいっぱいで…」出た! お決まりの台詞。予約がいっぱいったって、Mizumizuだって予約している。それにまだ午後3時だ。全部の部屋がすでにチェックインすませているはずはないだろう。「まだ空いている部屋があったら、ちょっと見せてほしい」再度粘ると、「ポーターを行かせる」とのこと。さっきのポーターがすぐきて、別の部屋に案内してくれる。ところが!その部屋はさっきの部屋に輪をかけてひどい。バスルームのボロさはさらにグレードがあがっていて、とても足を踏み入れる気になれない。さらに、窓のすぐ外で「キーン」と工事をしている音が響いてくる。こんな部屋、お客を泊められるワケないじゃん!プンプンしながら、元の部屋に戻る。「ま、しょうがないんじゃないの」と連れの母は諦めムードだ。ナポリには2泊するが、明日はホテルを替える予定だ。だから我慢してもいいといえばいいのだが、「改装した」から値段をバーンと上げたのに、その「改装後」の値段で「改装前」の部屋に通すとは、ちょっと… いや、全然、納得いかない。それで、電話ではなく、フロントへ直接談判に出かけることにした。母には、「こちらが文句言っているときに、絶対に笑ってはダメ」だと厳命して。日本人の態度というのは、外国でみるとかなり変だ。クレームしているのに、自信なげで、見ようによっては相手の機嫌をとっているようにさえ見えことがある。あるいは、文句を言っているのか単に意見を表明してるのかわからない。あるいは、相手からかなり失礼なことをされていても、変にニコニコしている。不満があるときは、それがきちんと相手に伝わるように話さなくてはダメだ。そうでなければ、こちらが怒っていることが相手にちゃんと伝わらない。「雰囲気で察してくれる」ということは、ヨーロッパでは相手に期待しないほうがいい。フロントに乗り込んで、電話のおじさんにきつい声で抗議する。「私は改装したということで、このホテルを予約した。去年と比べてプライスは劇的にあがっている。それなのに、私の部屋は古くて汚い。改装した部屋にかえてほしい」フロントのおじさんの容貌は、なんというか、今亀田問題でやたらテレビに出てるボクシングジムの金平会長をナポリターノ(ナポリの人)風に濃くしたような感じ。「改装は1階ずつやっていくから、まだ終わっていない。改装した部屋は少なくて、もう予約がいっぱいで…」「私もずっと前から予約をしている。なぜ改装した部屋でないのか説明してほしい」「彼らはみんな、あなたより早く予約していたので…」(ホント、適当なことを次々言ってくれるよ)「私はインターネットできれいな部屋をみて予約したんだけど、実際の部屋はまったく違う。とても変だと思う。改装した部屋があいているならかえてほしい」「いや、すでに全員チェックインしていて…」手ごわいオッサンだ。改装した部屋がいくつあるのか知らないが、午後3時ですべてチェックインずみとは、ちょっと信じられない。そこに、電話が鳴った。ほかにスタッフがいるのに、ナポリターノ金平のおっさんが、「ちょっと待って」とわざわざ電話に出る。こんどはこちらを待たせてウンザリさせる作戦か?(笑)。「なんなのよ! 話してるのに、もう!」日本語で横の母に話しかけた。そのとき――「どうしたんですか~?」後ろから日本人のおじさんの声。ふりむくと、ビジネスマン風のおじさんが一人で立って心配そうにこちらをのぞきこんでいる。まあ、フロントで身振り手振りよろしく大声でまくしたててるのだから相当目立っていただろう。もちろん、目立つことが重要だ。こうしたホテルはトラブルが起こっている、というのを他人に見られるのを嫌う。誰だってホテルに入ったとたん、フロントでケンカしてる人の姿を見たら、「このホテル、よくないの?」と警戒するだろう。話しかけられたのをこれ幸いと、Mizumizuはホテルの部屋のボロさと値段の不当さを、さらに大声で日本語でまくしたてた。「ひどいホテルですよぉ! 予約してたのに、改装中の階の汚い部屋に通したんですよ。そちらはお部屋、どうでしたぁ?」「う~ん、まあ、きれいじゃないけど、シングルで9000円だから、安いし…」「私たちは、181ユーロも払ったんですよ! 安くないですよ。改装した部屋もあるのに、『いっぱい』とか言うんですよ。差別ですよ、差別! 日本人を差別してるんです! だいたい、こういうことって多いんですよ。日本人はおとなしいから…」フロントデスクの向こうをちらっと見ると、ナポリターノ金平は受話器を耳から少し離して、凍りついたようにこちらを見ている。悪い評判を立てられては困るというような顔だ。そして、ナポリターノ金平は、急に電話をおいて、「すいません」と、私がしゃべっているのをさえぎって、こちらに声をかけてきた。こっちが話してるのをさえぎって勝手に自分で電話に出たくせに、こっちが別の人としゃべりだしたらこの態度だ。「改装した部屋はないけど、眺めのいい部屋が1つ空いている。そこを案内させるから」どうやら、日本人のおじさん相手に、大声で悪口を言いふらしてる姿が相当効いたようだ。いい加減なようでいて、実はけっこう計算高い。イタリア人というのはそういうところがある。たとえば、彼らはよくお釣を間違える。だが、自分たちに不利なような間違え方(つまり、お釣を多くよこすこと)は決してしない。「今の部屋よりよければいい」と、Mizumizu。「じゃ、ポーターを」また同じポーターが呼ばれ、「眺めのいい部屋」に案内してくれた。ポーターがドアを開けてくれて、入ってみると…おお! なかなかいいじゃないの!角部屋だからなのか、明るいし、さっきの部屋より心なしか広い気がする。窓から港とベスビオ火山がバッチリ見える。額縁に入った風景画のようで、美しい。やっぱり、あるんじゃないの。「もっといい部屋」が。それなのに、最初はわざわざ、「さらに汚い部屋」を見せて諦めさせようなんて、敵ながら(敵だっけ?)あっぱれだよ、ナポリターノ金平君。この角部屋は誰のために空けておいたのだろう? Mizumizuたちよりウルサそうな、白人の宿泊客のため? こういうことがあると「ホテルの予約」というのも考えてしまう。ヨーロッパでは、よっぽどのシーズンでないかぎり、空室がないということはない。直接行って泊まるなら、決める前に部屋を見せてもらえる(日本では嫌がられるが、イタリアでは全然オッケーだ)。だから値段と実際の部屋を見比べることもできる。4つ星ぐらいまでだったら、この方法のがハズレがないかもしれない。ネットでみるきれいな部屋を信じて予約をしてしまったら、変な部屋に通されても(それが故意であれ、偶然であれ、仕方がないことであれ)、かえることができないこともある。部屋でちょっと休んだ後、さっそくナポリ見学に出かけた。フロントにはまだナポリターノ金平がいた。「部屋はずっといい。ありがとう」とお礼を述べて、鍵を預ける。「どういたしまして。ありがとう」したたかなナポリターノ金平も何事もなかったかのように、鍵を受け取った。日本に帰ってから「アップル」というホテル業者のサイトで、このホテルのユーザーレビューを開いてみたら、なんと! Mizumizuと同じ目に遭った男性の投稿が載っていた。「改装された部屋のキーはカード式。改装されていない部屋のキーはじゃらじゃら重い古い鍵。古い部屋に通され憤慨した。朝食のときに見たら、白人はほとんどカード式の鍵をもっていて、じゃらじゃら錘のさがった鍵をもっているのは日本人ばかりだった。チェックインのときに渡される鍵に注意」とあった。やっぱりそういうことか。とんだ「日本人冷遇ホテル」だったわけだ。先にこれを読んでおくべきだったなぁ。さらに、その後、「ホテルは改装が終わって全部カード式の鍵になりました。ご安心を」という投稿があった。たった今、このホテルの情報をみたら、ルネッサンスホテルグループに買収されたらしい。さらに値段は269ユーロになっていた(!)。そして、アップルからはエントリーが消えていた。269ユーロねぇ… あのホテルは確かに街中にあって便利だが、駅から行くには遠い。朝食のときは屋上のテラスで食べるので、それなりに雰囲気はある(だが、けっこう道路の音がうるさい)。高層階の角部屋からはベスビオ火山が見えて風光明媚だが、そういう部屋はわずかで、あとはそれほど部屋も広くないし、眺めもない。いくら内装をきれいにしたといっても、269ユーロじゃ、今のレートだと43,000円!。それじゃとても泊まる気にはなれない。ちなみにMizumizuがカード決済で払った日本円は20,996円。あのときは、「こんなホテル、それでも高いよ」と思ったのだが。ナポリではまずはケーブルカーに乗ってヴォメオの丘へ。サン・マルティーノ博物館を訪ねる。広い館内は喧騒の「下界」とは別世界の静寂に包まれていた。ナポリは下町にも見所はいっぱいだ。写真はサンタ・キアーラ教会の回廊。さすがに、フレスコ画の風格は南ドイツの田舎の村のチンケ(失礼!)な壁画とレベルが違う。ヴォールト天井までびっしりと装飾が施されている。さすが、ギリシア時代から2000年の長きにわたり、ヨーロッパ列強のさまざまな権力に愛された街だけのことはある。これまでなんだって、南ドイツのチンケな(失礼!)壁画を一生懸命写真に撮っていたんだろう、とちょっとガックリする。イタリアの文化レベルは、その歴史の長さにおいても、量や質においても、やはりアルプスの北とは違う。
2007.10.26
アマルフィで2泊して、いったんナポリへ戻った。なぜインスブルックからナポリに着いたのに、ナポリを素通りしてアマルフィに来たのか、逆に言えばなぜアマルフィに行ってからまたわざわざナポリに戻ったのかといえば、それはバレエとオペラが見たかったからだ。ちょうどアマルフィで2泊して戻れば、2日連続でバロックオペラ「アマディージ(Amadigi)」とモダンバレエ「デューク・エリントン」が見られる日程があった。それでわざわざいったんアマルフィに行き(そこで2日連続で公演がある日にナポリにいけるよう調整し)、それからナポリに戻って、今度はナポリから船でソレントに行き、サンタ・アガタにあるミシュランの星つきリストランテ「ドン・アルフォンゾ」に行くという、ちょっと変則的なスケジュールを組んだ。特にバロックオペラは見たかった。今もそうだが、日本ではバロックオペラの公演機会は非常に少ない。バロックオペラの巨匠ヘンデルの「リナルド」がやっとこさ全幕公演されたのがほんの数年前。バロックの残り香の漂うモーツァルトの初期のオペラ「イドメネオ」をようやく初台の新国立劇場で見ることができたばかりだ。ヘンデルの「リナルド」などといっても、「知らない」と思われるかもしれない。だが、おそらく、「私を泣かせてください」なら聞いたことがあるのではないだろうか?NHKのドラマで使われて、広く認知されるようになった曲だ。サラ・ブライトマンの歌唱が以下。↓http://www.youtube.com/watch?v=6e1mfAGka9E&mode=related&search=(以下、といわれても、どうしていいのかわからない超初心者の方へ説明すると、上に並んでる英数字の羅列をまるごとコピーする。そして、それをグーグルやヤフーなどの検索エンジンの検索する語の欄にペーストする。そしてクリック。するとサラブライトンが歌う場面が出てくるハズ)。聞いてみれば、「ああ、これね」とわかると思う。この「私を泣かせてください」は実はオペラ「リナルド」のアリアなのだ。「アマディージ」は「リナルド」よりさらにマイナーだから、日本での公演はほとんど期待できない。だが、「私を泣かせてください」に勝るとも劣らないアリアがある。↓こちらの7番をクリックして視聴をどうぞ。残念ながらいわゆる「サビ」に入る前に視聴は終わってしまうが、チェンバロとオーボエの美しい響きは垣間見れると思う。http://www.amazon.com/gp/recsradio/radio/B00000JMH2/ref=pd_krex_listen_dp_img/103-3869664-9003006?ie=UTF8&refTagSuffix=dp_imgそれに、バロックオペラは多少現代人には退屈かもしれないが、カストラート役をアルトの女性がこなし、ちょっとした宝塚チックな世界になるし、時代がかったコテコテの舞台衣装も楽しみのひとつだ。アマルフィを12:10に出発してナポリに着くのが14:10。2時間も乗るのに、プルマン(長距離バス)の片道の値段はたったの3.15ユーロ! 例によって狭い半島の道を行き、ベスビオ火山の麓をまわるようにしてナポリに入る。バスの旅も列車とは違う、街中の風景が見られて楽しい。ナポリは都会だった。ごちゃごちゃの街並みは、一見東京のようかもしれない。クルマも多い。だが街中に信号は少ない。一方通行が多く、地元民以外にはわかりにくいルールの中でクルマが動いているようだった。さて、ナポリのホテルでは、またもひと悶着あった。
2007.10.25
<きのうから続く>部屋の窓からはエレベータが見える。しばらくすると、分厚い「板」をもったポーターが急いでやってくる姿が見えた。そして、ドアがノックされた。「Tavola、持って来ました」 ――はああ?? ポーターが持っているのは、まるっきりベッドのカタチに合った長方形の厚い「板」だった。たしかに、tavolaには板の意味もある。その板は、なんというか、本当にタダの板だ。ホームセンターに行って、タテ・ヨコのサイズを指定して切ってもらった… みたいな。しかも、マジでベッドにピタリとはまる。要するにここのベッドに合わせて切った板なのだ。 ポーターはベッドのマットレスをいったんとって、tavolaをベッドに置く。そしてまた、マットレスをのせて、「これで、どう?」慣れた手つきだった。相当あきれながらも、ベッドに横になってみる。確かに硬い板が下に入ったから、多少寝心地は硬めになった。だが、よくなったかどうか?「ちょっと、もう一度板(tavola)をとってみて」 ポーターに頼むと、嫌がらずにやってくれた。う~ん…、確かに板があったほうが、多少はいい、ような気がしないでもない。 しかし、いくらなんでも、スプリングがいかれたボロなベッドに、板を敷いてごまかすとは、ひどすぎる。再度フロントのねーちゃんに電話する。「板があっても、快適じゃない。ほかの部屋を見せてほしい」 すると、どうやら、意地でもほかの部屋を見せたくないらしいねーちゃん、言い訳を始める。「お客様、このホテルはすべてがアンティークでございまして…」アンティークぅうう? その一言で、完全にキレた。「このベッドはアンティークじゃない。ただの古すぎるベッドでしょ! ふ・る・す・ぎ・る!! ここはペンションじゃなくて、4つ星ホテルなんじゃないの?」 電話口でまくしたてるMizumizu。ねーちゃんは、オタオタしながら、「ベッドはすべて同じです。ほかの部屋はそこより狭くて、快適じゃないから…」 つまり、これは言ってもムダだということらしい。しかたないので、tavolaを敷いたアンティークベッド(本当はただのボロいベッド)で我慢することにした。 出かけるときに、別の部屋のドアがたまたま開いていた。ちらっと見ると、本当に狭くて暗い! びっくりした。団体客には「古い修道院ですから」なんて言ってあの狭くて暗い部屋に押しこめるのだろう。そのかわりダンピングして。 たしかに、Mizumizuたちの部屋はいい部屋だった。それは間違いない。だが、調度品も「アンティーク」というより「ただ古くてボロな家具」という感じだった。ワードローブはまともにドアが閉まらない(下の写真の向かって左奥の鏡付き)。ネットの写真で見たときはわからなかった。部屋の雰囲気や調度品だってLunaと遜色なく見えたほどだったのに、実際はえらい違いだ。なるほど、同じ4つ星といっても値段が違うのは、こういうことだったのか。 ホテルの中にもホテル内を移動するためのエレベータがあるのだが、これがまた、えらく「アンティーク」。身の危険を感じたのか、多くの客がエレベータを避けて階段を使っていた。あの年代モノのエレベータで事故でも起きたらどうするのだろう。そのうちワイヤーが切れるんじゃいか。 ホテルは幹線道路を通らずにアマルフィの街に行けるようになっている。その通路からアマルフィの中心街を見たところ。そちらから出るとき、業者がやってきて、「Frozen Seafood」と思いっきり書かれた冷たそうなダンボールをバーンと階段に放り出すのを目撃した。なるほど、海沿いのホテルのくせに、こういう冷凍の魚を出して、「新鮮なシーフード」だとか言うワケね。ま、日本だって、「赤福」の例をみるまでもなく、あまりえらそうなことはいえない状況だけれど。 ここのホテルでディナーを予約したのを心底後悔した。夜、レストランの雰囲気はさすが古い修道院を改築しただけあって、よかったのだが、味はダメ。きのうのLunaとはまったくレベルが違う。出されたワインも、スーパーで一番安く売られているテーブルワインだった。 朝食もひどいものだった。ほとんどパンとコーヒーだけ。ウェイターが銀の丸いフタ付きの容器をうやうやしく持って来るので、何かと思ったら、なんと、これもスーパーで10包み1ユーロぐらいで売られているお安いバターだった。こんな銀包みの給食みたいなバターを、銀メッキの容器に入れて、いかにも高級に見せようなんて、愚かにもホドがある。あまりのプアーな朝食に、「もしかして、どこかに何か別の食べ物があるのかな?」と思って、テーブルを立ってみた。なにせ、広さだけは結構あるレストランなのだ。 年取ったウェイターが、寄ってきた。「なにか?」「他に食べるものはないの? フルーツは?」 すると、ウェイターのおじいさんはすまなそうに、「ないんです。フルーツは… あるけど、エキストラになるし…」 こういうホテルの従業員は本当に気の毒だ。あらかじめ「板」があつらえてあるところを見ても、ベッドにクレームする客は珍しくないのだろう。フルーツもヨーグルトも野菜もない朝食に驚く客も1人や2人ではないはずだ。 にもかかわらず、ベッドそのものを新調しようともせず、「板」で押し通し、何もない朝食にバターの入れ物だけフタ付き銀メッキを使ってごまかそうとする。 これで4つ星といえるのだろうか? 本当にひどいオーナーだ。そして、客に怒られて嫌な思いをするのはオーナーではなく、働いている従業員なのだ。海岸沿いの道路に聳え立つ専用のエレベータと、山の中腹にゆったりと広がる雰囲気のある建物と気持ちのよさそうなテラスを外から見ただけでは、この内情は想像もできない。 例のねーちゃんは翌朝もフロントにいたが、Mizumizuの姿を見ると、ぱっと奥に逃げていった。まるでいつもいじめられてばかりいる野良猫が人影を見たときのようにすばやかった。 これは多少古い情報だ。だから今はこのホテルも変わったかもしれない。だが、アマルフィで修道院を改築して作ったホテルに泊まるなら、多少高くてもHotel Lunaをお奨めする。 ちなみに、このHotel Cappucciniのtavola事件は、Mizumizuの海外旅行におけるクレーム史においても、その奇抜さとあきれ具合において、いまだ頂点に君臨している。
2007.10.24
アマルフィでは2泊した。そして、最初から2泊目にはホテルを替える計画だった。というのは、Hotel Lunaと同じ4つ星で同じように魅力的に見えるホテルがアマルフィにはもう1つあったからだ。そのもう1つのホテルが、Hotel Cappuccini。やはり古い修道院を改築してホテルにしたもので、海岸沿いから垂直のエレベータ(これはホテル専用だ)であがる崖の中腹にあり、規模はこちらのほうが大きい感じだった。宿泊費はLuna が217ユーロ、Cappucciniが198ユーロ。写真で見る限りはどちらも甲乙つけがたいホテルのよう(に見えた)。狭い街で2泊するのにホテルを替えるのも面倒かな、とは思ったが、両方のホテルを味わってみたい気持ちが強く1泊目はLuna、2泊目はCappucciniで日本からネットで予約。LunaからCappucciniまでは荷物もあるのでタクシーを利用した。垂直の専用エレベータであがる。第一印象は悪くはなかった。ただ、Lunaのほうが全体的に手入れが行き届いており、調度品もよりエレガントである気はした。予約してあったので、海のみえる角部屋に通される。部屋は広く眺めもよかった。案内してくれたねーちゃんが引っ込んで、ゆったりしようとベッドに横たわって、驚いた! ギシギシのオンボロベッドだ。安いスプリングマットレスが古くなったときに出る、あの嫌な音。スプリングがいかれているから、体も変に沈み込む。これはひどい。今からなら部屋を替えてもらえるはず。さっそくフロントに電話すると、部屋に案内してくれた彼女が電話に出る。「この部屋のベッドは非常に悪い。変な音がするし、柔らかすぎる。部屋を替えることはできますか?」ねーちゃんは、困ったように、「その部屋が一番いい部屋なんだけど」と言う。「空いてる部屋を見せてもらえますか?」「うーん」と、ねーちゃん。ちょっと変だ。イタリアでは、こういう場合、たいがいは別の部屋も見せてくれる。嫌な顔はされたことがない。ヨーロッパのホテルというのは、本当に部屋によって雰囲気や気分が変わる(しかも値段は変わらないことも多い)から、要注意なのだ。それなのに、妙に口ごもっている。見せたくない理由があるような感じだ。「要するに、ベッドが問題なんですね?」「そう」「ベッドだけ?」「そう、眺めはいいし、部屋は広いから、何も問題なし」「じゃあ、ちょっと待っていて。Tavolaを持っていかせますから」 そういって、電話は切れた。――た、tavola???狐につままれたような気分になった。Tavolaとは普通、「テーブル」のことだ。ベッドの話をしているのに、なんでテーブルを持っていくなどと言うのだろう?<オドロキの真相は明日をお待ちください>
2007.10.23
アマルフィのドゥーモ付属の回廊、「天国のキオストロ(13世紀)」。入場料は5ユーロだった(今はいくらぐらいだろう?)。シチリアのパレルモ近郊の街、モンレアーレにもドゥオモの隣に僧院の回廊(12世紀)がある。この2つはそっくりといえばそっくりだが、モンレアーレのほうはアマルフィにはない華やかで精緻なモザイクが柱に施されているし、そもそも列柱そのもの美しさが格段に違う。アマルフィはずいぶん質素だ。当然といえば当然かもしれない。モンレアーレは(両)シチリア王国の中心地、国王のお膝元だったのだから。アマルフィの「天国のキオストロ」を実際に見て、(両)シチリア王国の空前絶後の繁栄ぶりをあらためて実感した。Dal Chiostro del Paradisoそれからバスでエメラルドの洞窟へ行った(バス代片道0.93ユーロ)。写真は洞窟の入り口の上で撮ったもの。レモンと唐辛子はこのあたりの店先で大量に売られている。レモンの黄色、唐辛子の赤、そして海の青… アマルフィの色だ。Rosso e giallo, i colori di Amalfiエメラルドの洞窟は、本当に透明な水がエメラルドグリーンに輝いていた。船では芝居っけたっぷりの船頭さんの「語り」に笑った。人面石を指して「あれはガリバルディにそっくり。だがイギリス人はルーズベルトだという」などというので、「じゃ、日本人は?」と聞くと、「ナカ~タ」とおごそかに答えていた。船をおりるときまで、「節」をつけて「ゆぅっくり、ゆぅっくり」と半ば歌いながら、乗客に手を貸す。あれを毎日やっているのかな?カプリの青の洞窟よりこちらのほうがきれいだという人もいるが、どうだろうか。個人的にはカプリのほうがインパクトが強かったが。ただ、どちらもあまりに観光地化しすぎている。金の成る木ならぬ金の成る洞窟だから、これも美しすぎる自然の運命なのかもしれないが。エメラルドの洞窟を見たあとは、山の上にあるラベッロへ行った。行きは適当なバスがなかった(あれば30分で着く)ので、タクシーを利用。20ユーロ。ホントに、バス代とタクシー代の落差には驚く。タクシーはオンボロも多く、たいして快適ではない。逆にバスはそれほど混まないし、超オンボロということもなく案外快適だったりする。ラベッロは標高約350メートル。「この先に本当に町があるの?」というような九十九折の細い山道を行く。見所の1つ「チンブローネ荘(4.5ユーロ)」では藤の花が満開だった(4月中旬)。チンブローネ荘のテラスから見下ろすアマルフィ海岸は絶景そのものだ。Ravello, fra cielo e mare…帰りはあらかじめ確認しておいたバスの時間に合わせて、バスでアマルフィまでおりてきた。この町の眺めのよいホテルで一泊してもよかったかもしれない。夏だったら、海の見えるテラスで、キャンドルの灯りとともに味わう、遅い夕暮れどきのディナーは最高だろう。そういう需要に応える高級ホテルもいくつかある。
2007.10.22
今、NHKの木曜時代劇(8時オンエア)で藤沢周平の「風の果て」をやっている。これは後に異例の出世を遂げる下級武士の次男が主人公だが、先日放映された第一回で、主人公同様下級武士の次男や三男である道場仲間がさかんに自分の婿入り先を気にする会話が出てきた。家督を継ぐことができない彼らにとっての先の希望と関心は、できるだけよい婿入り先を探すことに集中している。封建的土地所有の方式、すなわち世襲的な保有地の長子相続が固定化した社会では、常に嫡男以外の男子の生計基盤は不安定なものになる。「風の果て」もそうした封建時代の話だが、昨日書いたロベール・ギスカールとルッジェーロ1世兄弟のノルマンディーにおける立場もほとんど同じだった。ノルマンディーでは11世紀にはすでに封建的な領主の長子土地相続が慣行が浸透し、ロベールもルッジェーロも自分の父親の小領地以外に食いブチを探す必要があった。ただ彼らが進んだのは婿としての人生ではなく、傭兵としての人生だった。ノルマンディーだけではない。ヨーロッパ領主貴族層には、こうした次男以下の領主の子弟の「冒険的さすらい」が多く見られる。彼らはやがて十字軍の中に吸収されていくことになる。こうした「冒険的さすらい」はほとんど平凡に終わるか、悲劇に終わるかだった。ただ、ロベールとルッジェーロのオートヴィル家の兄弟の場合は違った。始まりはロベールの異母兄、鉄腕アトム… じゃない鉄腕グリエルモの南イタリアでの成功であり、それからロベールとルッジェーロの南イタリアの実質支配へと続く。そして、その子供の代でついにシチリアを含む南イタリア一帯にノルマン王朝が成立するのだ。オートヴィル家の領地はノルマンディーのさびれた田舎の村だ。その小領主の息子たちがさまざまな小さな勢力が互いに争いあっていた南イタリアに赴き、1つの王国にまとめあげた。それこそ「異例中の超異例」の一大出世物語だといえるだろう。群雄割拠の時代から、より強大な勢力による統一の時代へという歴史の転換期は西洋でも東洋でも見られる。ノルマンディーの青年たちは南イタリアにおけるそうした歴史の転換点に居合わせ、時代の大きな波に乗ったのだ。そして、その歴史の波の中に沈んでいったのが、独立した小勢力のせめぎ合いの時代にうまく立ち回って繁栄を築いた小さな中世都市アマルフィだった。アマルフィの経済の基盤は交易にあり、サラセンやビザンチンなどを含めた地中海の広い範囲の海洋貿易で繁栄する。そのコスモポリタンなアマルフィ繁栄の歴史は、街に残る異国情緒豊かな建築や装飾の中に見ることができる。Il Duomo di Amalfi, ricordo di vento dall'estアマルフィのドゥーモ。ファサードに吹く風は、ビザンチンとサラセンからのものだ。黄金に輝く破風はビザンチン様式、アーチを備えた列柱はサラセン様式にほかならない。今日のホテルは「Hotel Luna」。13世紀に建てられた修道院を改築した名門ホテルで、ワーグナーも滞在したことがあるという。このホテルはシェフも有名だ。La romantica camera dell'Hotel Luna; l'atomosfera arabica青い色調のタイルのひんやりとした床。白い漆喰の壁にアーチ型にくり貫かれたニッチ。窓の外には青い海が広がっている。部屋は広くはないが(アマルフィのように平地の少ない場所では、ある程度仕方がない)サラセン風にロマンチック。サラセンとは、ほぼアラブと同義語だと思っていい。この地域はサラセン人と密接な関係をもっていた時代がある。ロベールがローマに進軍したときにはサラセン人も軍隊に混じっていた。中世の時代、ソレント半島の都市(コムーネ)は他の都市(コムーネ)と対立したときに、しばしば外部勢力であるサラセン人を味方に引き入れて自分たちの政治勢力の維持に利用した。La Torre Saracena, che una volta fu il posto militare per scoprire nemici sul mare.Oggi turisti si divertono a mangiare quiサラセンの塔。昔は海から来る敵を見張るための塔だった。今はレストランに改築されていて観光客が海を眺めながら南イタリア料理に舌鼓をうつ。Mizumizuたちもここでランチ。久々に本場イタリアのパスタを食べた。ドイツ語圏のパスタはたいてい茹ですぎてぐにゃぐにゃなのだが、イタリアはやはり違う。まだ頭がドイツ語からイタリア語に切り替わらず、「どこから来たの?」を聞かれて、思わず「Aus Deutschland」などとドイツ語で答えてしまう。このレストラン、ホテル・ルナの併設のようになっているのだが、あとでディナーをホテル・ルナ内のレストランでとったところ、そっちのシェフのほうがよっぽど腕がいいとわかった。ガーン! 実はランチでしこたま食べ過ぎて、そのおいしいディナーはプリモ(第一の皿)で力尽き、セコンド(第二の皿)まで完食できなかったのだ! ああ、なんとおろかなことをしたのであろうか!! Mizumizuは今でも後悔している(笑)。
2007.10.21
ブレンネル峠を越えるとイタリアだ。フォルテッツァに着くと、「ああ~、ここで鉄道を乗り換えてドッビアーコに行ったことがあったなぁ」と過去の旅行の記憶がよみがえる。それから夜行列車はボルツァーノに停まる。ここからコルティナまでバスで行ったこともあった。次の停車駅はトレント。トレントからはマドンナ・ディ・カンピーリオにも行ったけ…そんなことを考えながら、ヴェローナに着く前には寝てしまった。眼が覚めると、窓の向こうは暖かな光に満ちていた。ナポリに近づいたころ、車掌が起こしにやってきてドアをノックした。それはいいのだが、ノックのあと、ドアを開けるタイミングが早すぎる。連れが着替え中なのに… あれって、ワザとかも(苦笑)。ナポリ駅で車両からおりる際、車掌はうやうやしく(?)手を貸してくれた。やはり、外は暖かい。 インスブルックとはえらい違いだ。ナポリ駅ですぐに、さらに南下すべく乗り換えた。南の明るい日差しのもと、ナポリからサレルノに向けて電車は進む。サレルノには「カノッサの屈辱(1077年)」で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門した教皇グレゴリウス7世の墓がある。なぜ皇帝に屈辱を与えるほど強大な権力を誇ったはずのローマ教皇の墓がこんなところにあるかというと、実は「カノッサの屈辱」には後日談があるのだ。教皇に許しを請うという屈辱を味わった皇帝ハインリッヒは、破門をとかれると、祖国で巻き返しを図る。そして大軍を率いて南下、教皇グレゴリウスをローマのサンタンジェロ城に追い詰める。そのときに教皇が保護を求めたのが当時サレルノを含めた南イタリアを実質支配していたロベール・ギスカール(ロベール・ギスカルド)だったのだ。ロベール・ギスカールはイタリアの人間ではない。フランスのノルマンディー(オートヴィル村)出身のいわゆるノルマン人(バイキングの子孫)で、先に南イタリアに傭兵としてやってきて頭角を現し、「鉄腕」と畏れられた異母兄グリエルモを追うように、わずかな部下とともに南イタリアにやってきた。グリエルモの死後、独力でライバルたちを退けたロベールは、やがて南イタリア全域に武力で支配を広げる。ギスカールとはあだ名で「狡猾な」という意味だ。その過程で教皇グレゴリウスの領地を脅かすようになったロベールは、皇帝ハインリッヒ同様に破門されている。神聖ローマ皇帝のハインリッヒは教皇に破門されたことで政治的な打撃をこうむり、わざわざイタリアに出向いて許しを請うハメに陥ったのだが(これが現代の日本人でも一度は聞いたことがあるであろう「カノッサの屈辱」だ)、ロベール・ギスカールは破門されたのちも精力的に南イタリア各地の征服を進める。それは一方では、ノルマン人によるサラセン(アラブ・イスラム教徒)やビザンチン勢力(名目上東ローマ帝国に属する諸侯)の駆逐という側面ももっており、後の南イタリアにおけるノルマン王朝成立の礎ともなっていく。一方、巻き返しを図ってきた北の皇帝ハインリッヒとの確執が再燃した教皇は、南イタリアにおけるロベールの支配地域が広がるにつれ、今度は逆にロベールの軍事力に頼らざるをえなくなる。そして、教皇グレゴリウスが南下してきたハインリッヒの大軍に包囲されると、ロベールはグレゴリウスの援軍としてローマに向かう。いったんはローマを掌握したハンリッヒ軍だったが、ロベール軍の接近を知って撤退。ロベールはグレゴリウスをローマから救出し、ナポリの南、ソレント半島の付け根にある自らの支配地、サレルノに保護するのだ(1084年)。ロベールはその後すぐにビザンチン(ギリシア)に兵を進め、翌年病死。そのほんの2ヶ月前にはグレゴリウスもサレルノで憤死している。サレルノで電車をおりたMizumizuは、ここからバスに乗り、ソレント半島のアマルフィに向かった。所要時間は1時間半ほど(道が狭いから混むとえらく時間がかかることも。ちょうど東京から伊豆へ行く道を想像してほしい)。バス代は1.65ユーロ。イタリアの公共交通機関ってビックリするほど安いなあ。タクシーは高いけど。歴史の視点をサレルノからソレント半島に移すと、この半島の海に面した狭い土地に成立した街は、中世のある時代には、独立した都市(コムーネ、もともとは共同体という意味)として海洋交易で栄えていた。アマルフィに関して言えば、9世紀あたりから繁栄が始まり、アマルフィ共和国が樹立。そして国際的に長く影響力をもつことになる海洋法を成立させ、11世紀に入ると絶頂期をむかえ、一時ベネチアやジェノバと地中海覇権を争うまでになる。だが、11世紀後半のノルマン人ロベールの登場をきっかけに、その独立と繁栄に影がさしはじめる。1073年にロベールがアマルフィを支配下におくが、このときはまだ多くの自治権が認められていた。しかし、1130年に(両)シチリア王国が成立し、1131年に同国に征服されると、さまざまな政治的権利が剥奪されてしまう。その(両)シチリア国王の初代の国王がノルマン人ルッジェーロ2世。ルッジェーロ2世はロベールの弟の子供、つまり甥にあたる人物だった。なぜ(両)シチリア王国の初代の王なのに「2世」なのかといえば、それは単に彼の父親、すなわちローベルの弟も名前がルッジェーロだったからだ。こちらは「王」にはならなかったが、ルッジェーロ1世として南イタリアの歴史にその名を残している。(両)シチリア王国の一部になったアマルフィに共和国時代の輝きをが戻ることはなかった。他国(ピサ)からの侵略と略奪にさらされ、やがて14世紀には大きな自然災害で壊滅的な打撃を受け、歴史の表舞台から姿を消す。つまりアマルフィは、中世に興り、中世に繁栄し、中世が終わる前に終焉を迎えた、純粋なる中世都市なのだ。長く忘れられていた断崖絶壁の海岸沿いにある不便な狭い古い街。そこが今では中世文化のタイプカプセルとして脚光を浴びている。半島の海沿いの狭いバスを大型のバスが行く。カーブに差し掛かると大きくクラクションをならす。2車線しかない道路、そこの対向車線もいっぱいに使わないとバスは曲がれないからだ。運転手はカーブのたびに思い切りハンドルを切っている。一歩間違えば崖から海にまっさかさまだ。神経使うだろうなぁ。でもイタリア人のドライバーってクルマこすっても結構平気(きれいなクルマで来てるのはたいがいドイツ人)だから、日本人とはちょっと感覚は違うかもしれない。グネグネの道を1時間半。ようやくアマルフィが見えてきた!
2007.10.20
Il villaggio dove vive la gente religiosa信仰の村、オーバーアマガウを17時に出て、ミッテンバルトについたのは19時前。雨が降っている。晴れていれば険しい山に囲まれた慎ましやかな町の雰囲気が堪能できたのだろうけれど、山はまったく見えない。明日はインスブルックへ抜ける。南ドイツの壁画ともこれでさようならだ。Mittenwald - "Museo?" "No, e' la banca."旅したのは4月だったけれど、日本でいうとまだ冬のような天気になってしまった。そのせいか、ミッテンバルトはあまり印象に残っていない。ホテルで一泊して、翌朝12時ちょっと前に電車に乗る。インスブルックには午後1時前に着いた。電車代は2等片道12.4ユーロ。「インスブルックもきれいな街だよ~」と友人に言われてきたのだが、あいにくここでも天気が悪かった。山も見えないし、傘をさして旧市街の見所を見てまわったが、ウィーンやザルツブルクを過去すでに見て、オーストリア風の都市はかなり飽きがきていたのか、またもそれほどの感動がなく終わった。Innsbruck in aprile; ma faceva freddo come inverno!レストランガイド「ゴー・ミヨ」で点数の高かったレストランでディナーをとったのだが、これまた見事にハズレ。魚料理を薦められて、それにしたのがマズかったかな? 日本人は魚好き、という印象がとても強いようだった。ちょっと違うと思う。日本人が好きなのは「おいしい魚」なのだ。日本の魚料理の多彩さは内陸国のオーストリアでは想像つかないかもしれない。はやく食事のウマいイタリアに抜けたい、という気持ちがますます強くなった。冬に逆戻りしたような冷たい雨が降っていてはなおさらだ。インスブルックでは泊まらずに、22:41発の寝台車でナポリへ向かうのだ。ナポリはきっともっとずっと暖かく、天気もいいだろう。ところで、この寝台車、実は日本からネットで予約したのだ。てっきり、カードを見せて現地で切符をもらうのだと思っていたのだが、な、なんと現地から切符が日本まで送られてきた! びっくりしたな~、もう。万が一、着かなかったらどうしてくれたんだろう?夜はホテルのバーで時間をつぶし、22:30にホームへ。電車ははやめに着いた。えらく長~い列車でびっくり。窓から顔を出している乗務員がいたので、チケットを見せて、「車両はどこ?」と聞いたら、後ろのほうを指差す。それを信じて後ろのほうへ車両番号を見ながら歩いていったのだが、全然ない! とうとう最後尾まで行ってようやく、いいかげんなことを教えられたことがはっきりする。あわてて今度は前のほうへ走る。荷物があるから大変だ。連れはかなりアセって、「どこでもいいから、とにかく乗ろうよ」と言う。ヨーロッパの列車が(日本人から見ると)「黙って」発車してしまうのを心配しているのだ。だが、これはアブナイ行為だ。ヨーロッパの列車は、車両から車両に移れないものがある。うっかり違う車両に乗ってしまったら、長い距離を走る国際列車の次の駅までまってまた正しい車両に乗り換えなくてはいけない。夜行の場合は、寝台車両とクシェット車両と普通の座席車両があるから、やはりきちんと自分の車両に乗らないとあとで困ったことになる。長~い列車の端から端まで(つまりは、長~いホームの端から端まで)走った感じだ。ようやく寝台車両を見つけて乗り込んだ。乗り込んで数分後に扉が閉まって出発。電車はわりあい余裕をもって着くから、迷っても案外「乗り遅れる」ということはない。個室に入り、ラクな寝巻きに着替えて寝台に横になるとホームでのあせった気分もすっかり飛んで、くつろいだ気分になった。オレンジに照らされた夜のホームを国際列車は静かに滑り出した。途中でスピードが落ちてきた。ブレンネル峠を越えるのだ。窓からのぞいたら、モミの木は雪をかぶっていた。峠では季節は完全に冬に逆戻りしていた。
2007.10.19
フュッセンを拠点にノイシュバンシュタインを見たあとは、オーバーアマガウとリンダーホーフ城をみて、その日のうちにミッテンバルトへ抜ける計画だった。朝8時に鉄道でフュッセンを出発。1度乗り換えて1時間半ちょっとでオーバーアマガウの駅につく。宗教劇で有名な村だが、思った以上に田舎だ。駅で荷物を預けられるところを探したが、見つからない(本当はホームの入り口にコインロッカーがあったのだが、気づかなかった)。オーバーアマガウからバスでリンダーホーフ城まで行くつもりだったので、ちょっとアセる。個人旅行は「自分で荷物を持って歩かなければいけない」というのが最大のネックなのだ。この日のように、どこかを見学をして別の町のホテルまで移動するという場合が一番困る。泊まるホテルに置いていくということができない。リンダーホーフのあたりに荷物を預ける場所があるとは思えない。城や庭園を見て歩くのに、こんなものを持っていくのは大変すぎる。同じような日本人の男性がいて、「コインロッカーないですね」と話しかけてきた。「ホントに…」と答えて、ふとみると駅のすぐ横にカフェがある。田舎なんで人が親切かも… とアタリ(?)をつけたMizumizuはさっそく、開店直前のカフェにはいって、マスターに交渉開始!「今ここに着いて、リンダーホーフをみて、夕方には戻ってくるんだけど、この荷物を預けられるところが見つからない。よければ預かってもらえませんか? 貴重品は何も入ってないから」床掃除をしていた、素朴で実直そうなマスターは、快く「Ja!」。店舗の裏のスペースを指差して、「そこなら置いていっていいよ」。ラッキー! さすが信仰の村。親切だなぁ。案外こういうことを頼んでくる観光客は珍しくないのかもしれない。さっそく置かせてもらってバス停に行くと、さっきの日本人男性もリンダーホーフ行きのバスを待っている。「あれ? 荷物は?」 と聞くので、「そこのカフェで預かってもらっちゃいました」 こういうとき、日本人のオバチャンだと、あつかましく「私のも頼んでぇ」などと言ってくることが多い。中には「こういうところで荷物って預かってもらえるんだ~」などと勘違いする人もいる。とんでもないことだ。荷物預かり所でないかぎり、交渉してみなければわからない。「ダメ」と言われることも、もちろんある。それに下手に頼んで、荷物がなくなっても文句はいえない。が、さすがシャイな日本男児、「へええ」と感心したようにつぶやいただけで、自分の荷物を預けに行くようなことも、こちらに通訳を頼むようなこともしなかった。リンダーホーフ城行きのバスが来て乗り込む。オーバーアマガウだって相当の田舎だが、そこからまた人里離れた山へ分け入っていく感じ。さすがバイエルンの狂王、ルードヴィッヒ。辺鄙なところに城を作ってくれたこと。「ヴェルサイユ宮殿内のトリアノンを模して作った」リンダーホーフは、こじんまりとまとまっていて、案外よかった。やはり山に囲まれた清涼な空気がすばらしい。ヴィスコンティの映画「ルードヴィッヒ」では、月明かりの夜、雪の積もったリンダーホーフに馬車が到着する冷たくも美しいシーンがあるが、実際のリンダーホーフは白昼の明るい光の中でみると、ハリボテ感が強調されてしまう。この「やっぱりどこか安っぽい城」をあれだけ幻想的に撮れるヴィスコンティはさすがだと思ったりした。ところで、例の日本男児は、バスをおりてからも、コロつきのソフトケースをひきずってリンダーホーフ城まで歩いてきた。城に入ったところで、係員から何事か言われ、別室を指差されている。「あっちの部屋で預かるから」というような話をしてるらしい。ところが、この日本男児、よっぱど警戒してるのか、はたまた迷惑をかけると思ったのか、手を振って断っているではないか。オイオイ、小国バイエルンのヘンな王様の小さな城とはいえ、文化遺産の中をみて歩くのに、コロをひきずって、何かをキズつけたら大変じゃないか。預けなさいよ、と思ったのだが、さすがにそこまでしゃしゃり出るわけにもいかず、成り行きをみていた。案の定、城の最初の居室に入ったところで、再度係員がやってきて、今度は強い調子で荷物を預けるよう指示する。ようやく納得した日本男児が荷物を手ばなしてくれて、Mizumizuとしてもヒヤヒヤせずに見学ができたというワケ。日本男児は城の見学を終えたところで荷物を返されていた。Mizumizuたちは手ぶらなのでゆっくりと庭園を見て歩くことができた。駅の横のカフェのマスター、ありがとう!帰りはバスでオーバーアマガウの町(駅の少し手前)でおり、そこで家屋の壁画などを見ながらぶらぶらと駅まで歩いた。オーバーアマガウもちょっと壁画で有名なのだ。Oberammergau - Il mondo della fantasia sull'esterno muro di casaこれは「赤ずきんちゃん」をモチーフにした壁画。宗教画が多いのだが、たまにこのようにメルヘンチックなモチーフもある。美術品としてどうこうと言うつもりはないが、案外よく描けている。こういうの、日本でも村おこしでやったらどうかな。夕方、駅のそばのカフェに戻り、お礼を言って多少のチップを払い、そのまま鉄道で、ムルナウ乗り換えでミッテンバルトへ向かった。本当はカフェのおじさんにはもっと感謝の念を伝えたかったのだが、とてもシャイなおじさんで、すぐ向こうを向いてしまい、あまり話ができなかった。これがイタリア人相手なら、オーバーにお礼をまくしたてて、向こうもノってニコニコするような場面なのだが… う~ん、やはりつつましくもまじめな信仰の村の村人であった。
2007.10.18
世界遺産にしてロココ教会建築の最高傑作の呼び声も高い「ヴィース教会」。これもまた個人旅行者にはきわめて不便な場所にある。ロココ様式は実はあまり好みではないのだが、ロマンチック街道に来たからには、やはり世界遺産を見ておかねば… という変な義務感に駆られて行ってみた。行きはショーンガウからバスで(3.55ユーロ)。帰りはバス便が不便なので、タクシーを呼んでもらってフュッセンまで(32ユーロ)。ヴィース教会は確かにロココ風な豪華さにあふれていた。白と金の華やかな色づかい、軽やかな天使の舞うフレスコ画。確かにロココ様式の教会としては、すぐれた建築なんだろう。でも、ロココの教会って、そもそもそんなに数あったっけか? 「ワタクシはフランスのじょお~なのです」の宝塚… いや、マリー・アントワネットに代表される少女趣味・貴族趣味の極致がロココ様式というイメージで、あまり教会装飾にはふさわしくない気がする。しかも、パリでもベルサイユでもなく、周りには牛しかいないような、こんな辺鄙な場所になぜここまで豪華絢爛な巡礼教会を建てようと思ったのだろう…?もちろん、それはフランスを中心とした貴族社会のサロン文化への憧憬からだろう。ときに本家に憧れる誰かが本家以上のものを作ってしまうことがある。その典型だろう。Il soffitto affrescato della chiesa di Wies. Puro rococo!確かにヴィース教会は、「ロココの教会」としては白眉なんだろうけれど、はるばる日本から時間をかけて来るほどのものだったのかな? と考えるとなんとも言えない。個人的な好みにもよるのだろうけれど、実際に見てもそれほど大きな感動はなかった。やはり教会芸術はイタリアのほうがスゴイものがたくさんあると素直に思う。大理石をふんだんに使うイタリアは、素材の質感からしてアルプスの北のものとは違うし、フレスコ画の歴史の長さも違う。こういうところに行くと、「世界遺産ってバーゲンしすぎじゃないの?」と思う。いつだったか、マルタ島のヴァレッタ市街が世界遺産に登録されたという話をイタリア人の友人にしたところ、「嘘でしょ? あそこが?」という反応だった。「シチリアのほうがずっと素晴らしいわよ」というのが彼女の意見だった。さもありなん。どうも「よくわらかない世界遺産」が増殖しすぎて、あまりありがたみがなくなっているような気がする。特に西欧に関しては、登録基準がずいぶん甘いと思う。西欧キリスト教文化中心主義という側面があるのは否めない。そうはいっても、近くに「世界遺産」があると聞くと、やっぱり行ってしまうのは、何だかんだいって、UNESCOの思惑にうまくハメられているのかもしれないな。
2007.10.17
世界の観光地中の観光地。ノイシュバンシュタイン城。ヨーロッパに何度もバカンスで出かけながら、なかなか足が向かないでいた。それでも、「ルードヴィッヒの異常さが、ガンガン伝わってきてオモシロイ」「一度は見ておくべき」などといった友人の声に押されて(?)、ついに行くことにした。個人旅行で、自動車以外で行くとなると、案外面倒くさい。フュッセンからバスやらお城への馬車やらを使ってたどりつく。実はちょっとしたハプニングがあったのだ。なんと、ホーエンシュバンガウに向かうバスの停留所で、カメラバックを一式全部ベンチに置き忘れてきた!バスを降りたところで気がついた。あわててタクシーで戻った(アホくさ)ところ、バス停のすぐ後ろが観光案内所で、そこで保管されていた。何もなくなっていない。ドイツ人観光客が見つけて届けておいてくれたとのこと。うう~、こんなこともあるもんだと感激。Il Neuschwanstein, castello di sogno per Richard Wagnerお決まりのマリエン橋から撮った写真。澄んだ空気がすばらしい。城の中に入ったときもバルコニーから見える山々のすがすがしさや神々しさに一番感激したかもしれない。しかし、今ですら片田舎のこのロケーション。ルードヴィッヒの治世当時はどれほど人里はなれた寂しい場所だっただろう。城の中はなんというか、コテコテの世界。美術史家からはまったく評価されない理由も、にもかかわらず世界中から見物客を集める理由も、入ってみればワカル。うん、やはり一生に一度ぐらいは行ってみる価値のある場所だ。Arrivederci, Neuschwanstein! Arrivederci Ludwig!帰りのバスの中から振り返ると、中途半端な山腹にあるみょーに新しいそのお姿は、白鳥というよりラブホテルのよう…(苦笑)。ま、日本のラブホが真似をしたワケなんだけど。それでも、こんな寒々しい僻地に「夢の城」を築いたルードヴィッヒ2世の孤独と情熱に思いをはせ、「さようなら、ルードヴィッヒ」とつぶやいてみるのだった。
2007.10.16
リンダウ――まるで花の名のように可憐な響きだ。街もこじんまりとして品がいい。そんなリンダウの街を歩き回っていてある広場に出たとき、思いがけない壁画に出会った。Il muro esterno che venne affrescato nello stile barocco.壁画の人物は、重いもので頭をおさえつけつけられ、首が折れる寸前のような苦悶の表情を浮かべている。澄み切った青空の下で営まれている平和な日常とはいかにも不釣合いな世界が壁の中にうごめいている。ここに住む人々は毎日パンを食べるように自然に、この不気味なバロックスタイルの壁画を見ているのだろうか? それはあたかも日々のなにげない暮らしのなかでも、「常に死を思え」と警告しているようだ。"…Qui mangi pane e barocco.Vedi il cielo blu e poi pensa alla morte…""L'ombra di barocco"格子の下部は妊婦の腹のような膨らみ、壁に映った影をみると、不必要に過剰な装飾が施されているのがわかる。格子の造形もまたバロックなのだ。リンダウには、ちょっとこじゃれた商店街もあった。偶然立ち寄った店で買ったブロンズのアクセサリー。ポプラをモチーフにしたと説明されたが、記憶違いかも…。どこがポプラなのかわかるようなわからないような…ペンダント、ブレスレット、イヤリングで159ユーロ。当時の換算では1万9000円弱だったのだが、ユーロ高の今買うとすると2万6000円を超える。2万じゃ買わなかっただろうなぁ。最近のユーロ高は、どう考えても異常だ。
2007.10.15
スイスを出てボーデン湖畔の街、リンダウに着く。ドイツ、スイス、オーストリアの国境に近く、古くから交通の要衝として栄えたという。Lindau, situata in un'isola sul lago di Constanza.La facciata del Palazzo Comunale che e' dipinta a fresco con varie istoriette.お行儀よく並んだクルマの向こう。市庁舎の壁画はどこかメルヘンチックだった。Particolare dell'esterno muro affrescato del Palazzo Comunale.Sai quale sono reali cose e quale sono pitture illusionistiche?こちらは市庁舎の下方にあった壁画。だまし絵のレンガの四角とその前に置かれた自転車の輪の現実の丸が、不思議な視覚のマジックを演じていた。ところで、リンダウで泊まったホテルは素晴しかった。「Hotel Villino」。ホームページを見ていただくとわかるように、家族経営で、よく手入れされたこんじまりとした庭が美しい、小さなホテルだった。湖畔ではなく、ちょっと街からはずれた果樹園の中にある。駅からタクシーで12ユーロ。ルレ・エ・シャトーのメンバー。オーナー夫人が迎えてくれる。とてもアットホームな雰囲気。夫人がテキパキと1人でお客の相手をし、旦那さんはだまって庭の手入れをしている(笑)。ここはレストランとしても有名で、夜併設のレストランに行ってみると、宿泊客以外にもたくさん来ていて、ビックリした。便利な場所ではないのだが。みな、わざわざクルマで食事を取りにくるのだろう。テキパキとした若い女の子たちがきちっと給仕してくれた。この中にはホテルのオーナー夫妻のお嬢様もいるよう。朝も彼女がサービスしてくれた。昨日使ったタクシーのおじいさんも感じがよかったので、翌日ホテルを発つときも呼んでくれるようにオーナー夫人に頼んだ。きちんと荷物をもってくれ、エキストラマネーを要求することもなく運んでくれた。渋滞がなかったせいか、前日より安く11.5ユーロで駅まで。タクシーの運ちゃんなんてお釣りをごまかしたり、ワザと遠回りしたり、全然信用できないヤツばっかり…… と思っていたけど、そうでもない。自分の仕事に誠実な人は、見ていてうれしいものだ。
2007.10.14
シュタイン・アム・ライン――ライン川の宝石。スイスでもっとも美しい街といわれている。チューリッヒから40分ほど。壁画で有名な旧市街を訪ねた。Citta' alta a Stein am Rhein, piena di affreschi.赤い牛が描かれているから、「赤牛の家」。Che cosa vuole mangiare, signore?レストランの前で、おじさんが熱心にメニューをのぞきこんでいる。壁画を堪能したあとは、川沿いのホテル「Rheinfels」のレストランでお茶をした。Rheinfelsは古い木造のレストランで、川からの湿気にやられるのか、だいぶ床がきしんでいた。そして、ここで遭遇したのが…Una meringa "esagerata"巨大メレンゲ!前の「普通の」プリンと比べてみるとその巨大さがわかると思う。テーブルにサーブされたときは、「おお~ッ」と素直にどよめいてしまい、給仕さんをビビらせた。Prima; "sara' troppo grande e pesante a noi!"E poi; "inaspettatamente leggera! E' facile mangiare tutta".「食えるか、こんなの~」と言いながらあっさり完食したのだった(笑)。意外と軽くて、もたれない。プリンも上等な味だった。スイスは乳製品がいいから、この手のスイーツは美味しい。
2007.10.13
ザンクトギルゲンからザルツブルクへ行く間に、フシュル湖畔にある古城ホテル「シュロス・フシュル」に泊まった。シュロスは城という意味で、15世紀の大司教の館として建てられた由緒ある建物だ。ホテルのグレードとしても5つ星。なるほど、ロケーションといい建物の雰囲気といい、素晴しい。午後着いてすぐ、ホテルのテラスでお茶をした。ちょうど、天気がよく、午後の日差しを受けてフシュル湖が宝石のように輝いていた。頼んだチョコレートケーキも最高においしい。夜もここで、アスパラ(初夏のドイツ語圏ではこればっかり)と肉料理に舌鼓をうつ。味はよかった。部屋は「グランド・デラックス」という湖の見える部屋にしたのだが、窓をあけると大木が湖の眺望を阻んでいた。部屋もグランドではなかった。ただ、設備はたしかにデラックスだった。ところで、このホテル、ハード面では確かに5つ星にふさわしくゴージャスなのだが、ソフト面、もっといえばホテルの従業員がいただけなかった。まず、ホテルに着いて、エントランスの階段をのぼるとき、ポーターが入り口にいるのだが、見てるだけで何もしない。齢70を超えようという母が自分で荷物を運び上げようとしている姿を見てるのに、だ。そこでMizumizuがポーターに「手伝ってあげて」と英語で話しかけた。すると…!「ハァ~ン?」と言うのだ。つまり、英語が通じてない!英語が分からなくても、こういう場合、何を言ってるかぐらいは想像つきそうなものだ。だが、この手のことには慣れているMizumizuは、すぐにドイツ語に切り替えた。すると…!「Ja!」と、ものすごく感じのよい声音で答えて、さっと母の荷物をもってくれた。5つ星のホテルのポーターが英語ができないなんて、ありえるのだろうか?? いや、もしかしたら、彼はポーターではなくて庭師か何かだったのかも。そういえば、服装がそれっぽくなかった。だったら、ポーターはいったいどこにいたのだろう?また、メイドの態度もいただけないものだった。夕食を終えて部屋に帰ってくると、ベッドメイキングがされていない。何回ベッドメイキングをしてくれるか、それがどの程度丁寧か、というのが、高級ホテルのソフト面を評価するバロメーターだ。たとえば、今度サミットが行われる北海道・洞爺湖の「ザ・ウィンザー・ホテル洞爺」は外出から戻ると常にベットがきちんと整えられていた。シチリアの「サン・ドメニコ」では、ディナーから戻ると脱ぎ散らかした服をちゃんと整えておいてくれた。ところが、シュロス・フシュルではメイドが仕事をした気配がない。そして、なんと午後10時を過ぎてやってきて、ノックをし、ドア越しにワザとらしく優しげな声で「ベッド・メイキングにきました」とのたまうではないか。「普通なら夕食の間にやっておくことでしょう」と、説教を垂れようかと思ったが、疲れていて面倒なので、「もうやってしまった。必要ありません」とだけ言って去ってもらう。こんなわかりやすいサボり方をして、ベッド・メイキング(つまり自分の仕事)を省略して嬉しいのだろうか。ゲストをバカにしている。やはり、きちんと抗議すべきだったと思う。日本人はたいてい、失礼なことをされても、「まあ、いいや」とイイ人になったつもりで何も言わないが、こうした事なかれ主義的な態度の人間は、ヨーロッパでは「都合がいいヤツ」とは思われるかもしれないが、「尊重」はされない。チェックアウトする際にも、「ポーターを部屋によこしてくれ。母が荷物を運べないので」とフロントに伝えたのに、「Yes」といいながら、先に支払いを済まさせようとしている。ジョーダンではない。支払いを済ませたら(つまりフロント係の仕事が終ったら)、さっさと奥に引っ込んでポーターのことなど知らんふりしかねない。そこで、再度、「ポーターを部屋によこしてくれ。母が荷物を運べないので」とオオムのように繰り返した。こういうときに感情的になってはダメなのだ。あくまでこちらの意思をきっちり伝えなくてはいけない。それでフロントのねーちゃんはようやくポーターを呼ぶ。さらに、支払いのときに、明細をみたら、UNICEF 1 Euroとあるではないか。ナンじゃこれ? と思って聞くと、「ユニセフに1ユーロ寄付してもらっている。かまいませんか?」と慌てた様子。別に1ユーロぐらい、いいといえばいいが、寄付をお願いするなら先に言うべきではないのだろうか? あるいは、明細を見せながら自分で説明すべきだろう。明細を突き出しておいて、こちらがチェックして見咎めてから、「かまいませんか」ってのは筋が違う。それに、ホントにユニセフに寄付するかどうか、アヤシイものだと思う。各ゲストから1ユーロずつ勝手に徴収して、それを彼らがただの収入にしていないと、どうやって証明できるだろう?というワケで、この古城ホテル、ソフト面でのサービスは最低レベルに近かった。ちなみに、確かアメリカ資本のホテルグループ傘下に入っていたと思う。宣伝は超一流だ。ネットのホームページを見るとどんな素敵な夢のホテルかと思う。もちろん、その後、改善されたかもしれない。ただ、あくまで一旅行者として宿泊してみての感想は、「サービス業のプロとしての従業員の意識が低い」というのが正直なところだ。ちなみに、ウェイターはまずまずだった。このホテルでは、日本人の団体客10人ちょっとと遭遇した。ちょうど日が落ちかけるころ着いて、バスから降りたご婦人方は、だいぶ疲れているようで、ホテルの入り口の階段に腰を下ろしてしまった。添乗員は、フロントで仕事の遅いオーストリア人相手に必死になっている。せっかく5つ星のホテルに来たのに、エントランスの階段(つまり外)で待たされるなんて、かわいそうだ。そのホテルはエントランスを入っても空間が狭く、フロントデスクしかないが、実は右のほうへいけば、ゆったりとしたサロンがあるのだ。そのサロンは狩猟の館としてのこのホテルの歴史を物語るしつらえで、暗いといえば暗いが、非常に雰囲気がある。ヨーロッパの人間は、こうした空間でくつろぐのが好きだ。本当なら、チェックインまで、こうしたサロンのソファで待つのが当たり前ではないのだろうか? だが、ホテルの従業員は何も言わない。日本人客も、「こんなところじゃなくて中に座って待てる場所はないの?」とも思わない様子で、石の階段にへたりこんでいる。日本人団体客が着いたのは日暮れどきだったから、残念ながらフシュル湖は上の写真のような色ではなかった。光線の具合もあるから、湖や海が本当に美しく見える時間というのは、実は1日のうちでも限られている。団体客は夜のテラスでディナーをとり、翌朝は早く発ってしまったようだ。部屋も湖に面していない別棟のほうを割り当てられていたから、このホテルのロケーションのよさは、それほど味わえなかったのではないかと思う。他人事ながら、ちょっと残念だった。もう3時間早く着けば、宝石のように輝く湖の美しさを堪能できたのに。だが、ツアーを企画する旅行会社としてみれば、午後の早い時間に着いて、天気が悪かったらどうする、というのもあるだろうと思う。湖畔の古城ホテルというのは、孤立した場所にあるから、近くにお土産屋があるわけでもない。ホテルのまわりを散策といっても、それほど時間はつぶせないし、あまり早い時間にホテルに入ってしまっても、クレームのネタになるかもしれない。だが、一方で、バスから降りてすぐ、石の階段にへたりこむほど疲れた様子を見ていると、そんなに引きずりまわすのもどうかな、という気もしてくる。翌朝もずいぶん早かったようだし、あれでは疲れが取れないだろうな、とも。Mizumizuたちはといえば、個人旅行の気楽さで、午後ゆったりお茶をのみ、ちょっと散歩し、寝心地のいいベッドでウダウダし、朝も遅めに起きて、お昼近くになってからザルツブルクへ向かった。名所・旧跡をひたすら精力的に回る旅行も、若いうちはいいが、そればかりでは疲れてしまう。ロケーションのいいホテルで「何もしない」という贅沢も、すでにやめられない快感になっている。
2007.10.05
オペレッタの舞台にもなったヴォルフガング湖のホテル「白馬亭」。このホテルは日本から、自分でネットで予約を入れた。部屋によって値段が違うということは書いてあるのだが、実際いくらでどの部屋に泊まれるのかがよくわからない。質問したら、季節や混み方によって違うのだという曖昧な理由を書いた返事がメールで送られてきた。殿様商売的でちょっと不安はあったが、まあ由緒正しいホテルだし、一応信頼して、高めの部屋を予約した。割り当てられた部屋はまったく問題なかった。最上階だが、屋根裏部屋的な暗さはない。一応湖に面した部屋で、ベランダも付いていた。ただし、ベランダは湖に面しておらず、外からも見えないので、くつろぐ場所ではなく、洗濯を干す場所となった(笑)。これがその部屋。奥の壁に楕円形の窓があって、ここから湖が見下ろせる。なんとなく船旅をしている気分。船底天井だが、部屋は広く圧迫感はない。カーテンやベットのファブリックは黄色。オーストリアといえば、マリア・テレジア。マリア・テレジアといえばイエロー。黄色は、かの国では高貴な色なのだ。暖色のファブリックを使っているから、窓が少ない部屋でも陰鬱さとは無縁。カーテンのバランス(上飾り)とタッセル、それにベットの天蓋に同じ生地の布。統一感のあるかわいいインテリアだった。写真でいうと右手の窓からベランダに出られるようになっている。ここで一泊してザンクト・ギルゲンまで船で行ったのだが、連れの母の膝の調子が悪くなった。チェックアウトのときもロビーで座っている。片足を引きずるようにして歩く母の姿を見ていたホテルのやや年老いたポーターが、「どこに行くの?」と聞く。「ザンクト・ギルゲンへ」と答えると、「船?」と聞く。そうだと答えると、私たちの荷物を手押し車にのっけて、ガンガン外へ持ち出した。そのまま、船着場まで荷物を運んでくれる。その足の速いこと速いこと。老いたりとはいえ(?)ゲルマン男はすごい。歩幅が違う(笑)。Mizumizuは心底感動した。だいたい高級ホテルでも若いポーターの兄さんなんて、まったく気が利かない役立たずだ。「この荷物を、ここまで運んで。そこに置いて。ありがとう」みたいに、一から十まで指示しないと動かない(いかなボンクラなポーターであろうと、仕事をしてもらったら必ず「ありがとう」といわなければいけない。それがヨーロッパでの礼儀だ)。日本人のように何も言わなくてもいろいろ気を利かせてくれるということはない。声をかけなければ、荷物を運びもしない。「荷物を運びましょうか?」と聞きもしないで突っ立ってるだけ… と、その手のにすっかり慣れていた。でも、さすがは老舗ホテル。こうした職人気質のプロらしいポーターがちゃんといるのだ。なんか古きよき時代のヨーロッパを感じた。船に乗ってザンクト・ヴォルフガングを去る。ホテル白馬亭を湖から見たところ。向かって左側の棟の最上階がMizumizuの泊まった部屋だ。あの老ポーターはもう引退しただろうか。ホテルにお礼のメールを書いたのだが、infoあてだったし、どうもちゃんとオーナーまで伝わっていない気がする。きちんとお礼の手紙をオーナーに出すべきだった。ああいった「よい仕事をしている」人があまり報われなということになると、結局、外見はりっぱでも、突っ立ってるだけのポーターばかりがいるホテルになってしまう。
2007.10.04
「サウンド・オブ・ミュージック」は好きな映画の1つだ。歌と映像が素晴しい。たとえば、ミラベル公園なんて、公園の庭自体はたいしことはない。あれなら、日本人にはあまり知られていないけれど、イタリアの北部マッジョーレ湖のイーゾラ・ベッラやターラント邸のほうが何倍も素晴しい。イーゾラ・ベッラはコテコテのバロックのフランス式庭園、ターラント邸はイギリス式庭園。マッジョーレ湖はまったく赴きの違う庭園がわりあい近い位置で楽しめるという稀有なスポットなのだ。それに比べると、ドイツ語圏の庭園はダサいのばっかり。そのドイツ語圏の「たいしたことない」庭園の代表みたいなミラベル公園に観光客が押しかけるのは、ここが「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影で使われたからだ。Mizumizuはエーデルワイス・グッズマニアで、ヨーロッパアルプスに行くとよくエーデルワイスグッズを買っている(ほとんどは中国製なのだろうけど)。たとえば、これは鹿の角にアルミのエーデルワイス装飾を埋め込んだギーホルダー。こうしたエーデルワイス集めも、映画の影響があることは確かと思う。「サウンド・オブ・ミュージック」は名曲のオンパレードだが、なかでも「エーデルワイス」は忘れがたい。Edelweissとはドイツ語で「高貴な白」の意味。映画の中では、2度歌われるが、特にクライマックスで歌われる「エーデイワイス」は感動的だ。まずはトラップ大佐が歌い、感極まって声をつまらせたところで、マリアが、そして子供たちが唱和していく。祖国・オーストリアそのものの象徴であるエーデルワイスに、祖国をいま去ろうとする人間が、「わたしの『くに』を永遠に祝福しておくれ」と歌うのだ。映画自体は、トラップ家の実像とかけ離れているというし、トラップ一家が亡命するまでの筋立てが、あまりに単純な反ナチスのプロパガンダ映画になってしまっているところはある。だが、オーストリアの雄大な自然、マリアと子供たちの心の交流、子供たちの成長、トラップ大佐との愛、そして何より前編をいろどる素晴しい歌が、この映画を、大人は大人として、子供は子供として、誰でもが楽しめ、感動できる名作にしている。そんな映画の中で「ドレミの歌」が歌われるシーンをご記憶だろか。このシーンの撮影に使われたのが、ヴォルフガング湖に面した町、ザンクト・ヴォルフガングにあるシャフベルク鉄道なのだ。赤い可愛いSLが観光客をシャフベルク山へ運んでくれる。眼下に輝いているのがヴォルフガング湖だ。山頂へは、鉄道駅の終点からさらに50メートルほど九十九折りの道を歩く。こちらはヴォルクガング湖とは逆の方向にあるモント湖。あっちもこっちも湖だらけ。まさに「湖水地方」だ。お天気に恵まれてよかった。観光客が山頂から落ちそうだ。
2007.10.03
ザルツカンマーグートめぐりの拠点とするなら、バートイシュルがオススメだ。バートイシュルはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベートゆかりの街。2人はこの街のホテルで初めて出会って婚約した。皇帝の別荘カイザーヴィラもある。ザルツブルクからもバスで簡単に来れる。ヴォルフガング湖とハルシュタット湖の中間にあるから、両方にバスで行ける。ゴーザウ行きのバスもある。ハルシュタットほど田舎ではなく、ザルツブルクほど都会でもない。大きな荷物はホテルにおいておいて、ザルツカンマーグートの山と湖を個人でまわるには便利だ。街はこじんまりとしてわかりやすいが、皇帝の別荘があるくらいだから、いにしえの典雅さの残り香のようなものが感じられる。Badとは温泉のことで、一応温泉保養地でもある。もっとも、飲む温泉が主流のようだが。ここで泊まったホテルはよかった。その名も「テルメンホテル」。「温泉宿」という意味だ。駅(バス停)からも近く、ホテルは木々に囲まれ、窓をあけると庭の鳥が鳴いている。温泉療養が目的だから、とても人にやさしいユニバーサルなつくりになっている。たとえば部屋のベッドは高すぎず低すぎず、マットレスに腰掛けてちょうど、足が床につくぐらいの高さ。部屋も狭すぎず広すぎず、ベットに座ったままチェストの引き出しをあけしめできる感じだ。季節にもよるだろうが、4つ星にしては良心的な価格設定。ロビーには「ハロー」「グッバイ」「チャオ」などと、数ヶ国語をあやつる(笑)オオムがいる。日本語もちょっと伝授してみたが、成果はあったかどうか?スイーツはカフェツァウナーがあまりに有名。ここは日曜日も開いていて、いつも賑わっている。スイーツを食べるときは、ショップで指定して、中の喫茶でお茶と一緒に注文する。ヨーロッパにしては(?)、店員はキビキビ働いている。スイーツ自体の味は… まあ、日本でも名前のほうが有名な老舗店というのがあるが、そういう感じ。ハズレはないと思う。秋にここに行ったとき、栗をチョコレートでコーティングした生菓子を食べた。「栗きんとん」オーストリア版みたいで気に入った。すごくインパクトがある、というわけではないのだが、あまり甘くなくて、栗そのものの風味がはっきりとわかる本物の味とでもいうべきか。店員さんに日もちを聞いたら「せいぜい3日」だという。えっ? そんなに短いの? と思いつつ、日本へのお土産に買ってみた。日本に戻ったのは5日後。ホテルでは冷蔵庫に入れていたし、大丈夫だろうと思っていたのだが、日本についたら、見事に腐っていた。本当に3日しかもたなかったワケね。秋にツァウナーに行った方はお試しを。ケーキより個性的だと思う。日本にはない味だ。おみやげの「塩」も、バートイシュルで買うとよい。ハルシュタットやザルツブルクで買うより同じものが安い。また、ここの塩専門店でピンクの塩をみかけたら、是非買うこと! きれいなピンクではなく、ちょっと不純物が混ざったように見える粗い岩塩で、塩なのに、なんだか甘い。とびきりの味だ。ザルツブルクで似たようなのを買った(こちらは混じりけなしのキレイなピンクだった)のだが、バートイシュルの不純物入り(?)の味にはまったく及ばなかった。ちょっと高いけど、あれを買うためにもう一度バートイシュルに行ってもいいくらいだと思っている。東京でもピンクの岩塩は売っている。だが、バートイシュルで出会ったアレ以上においしいのにはまだ遭遇していない。バートイシュルでは、安くておいしいレストランに入った。Zur Buergerstu'bn というわかりにくい名前で、場所は鐘のある広場の奥。家族経営のこじんまりとした店で、観光客もたくさん来ていた。カードでの支払いを嫌がっていたっけ。夜は有無を言わせず、「今日はスペアリブね」と注文を決められた。美味しかったが、1人分を2人でシェアしても余った(笑)。グラーシュのような普通の家庭料理もおいしかった。ジャンル分けすれば郷土料理の店といったところだろうか。決して高級店ではないが、味は折り紙つき。是非また行ってみたい。さすがにオーストリア皇帝ゆかりの街は、質の高い店が隠れている。明日はシャフベルク鉄道をご紹介します。(←世界の車窓から風に・笑)
2007.10.02
ザルツカンマーグートの名高い温泉保養地、バートイシュルに泊まり、ゴーザウ湖までバスで行ってみた。ゴーザウ湖はザルツカンマーグートの秘境といわれる山奥の湖。天気がよければ、ここから後ゴーザウ湖までハイキングをするつもりだった(風光明媚らしい)が、残念ながら行ってみると曇り。バートイシュルは晴れていたが、やはり山の天気は行ってみないとわからない。あっという間に雲が重く垂れてきて、氷河を隠す。雨も降り出した。ということで、ハイキングもせずに、早々に「下」へ戻ることにした。ヴォルフガング湖まで降りると、そこには、うららかな光が待っていた。
2007.09.30
ハルシュタットは「塩の山Salzberg」の麓と湖の間のわずかな土地にへばりつくように固まっている村だ。鉄道のハルシュタット駅で船に乗り換えてハルシュタットの町へ入る。土地のない場所では家もこじんまり小さくなるようだ。また、広い庭は造れないから、それぞれの家庭で木を植えることもままならない。そうした背景から、こんなふうに木を家の壁に這わせるテクニックが発達したのかも。リンゴの木か何かだろうか? 見事としかいいようがない。窓をよけるように上までしっかり剪定されている。家の白壁も汚れていない。相当家の手入れに気を使っていると思う。3F(屋根裏部屋?)の窓から顔をのぞかせているお婆さんもいい味出している。舞台演劇のひとこまのよう。家から出てきた女性は、玄関のドアの幅に対してえらく体がでかいような? この家、かなり天井が低いんだろうな。ちょっと不思議。ふと現実感を失う瞬間だ。バスを待つ若者グループ。仲間で遊びに来たのだろう。お行儀よく皆で並んで座っている姿にゲルマン系の律儀さを感じたりして。
2007.09.26
サイトウ・キネン・フェスティバルのあと、松本城を見に行った。その道すがら、なかなかの門構えの和菓子屋を見つけて入る。「桃太楼」。なんでもテナント販売は行わず、店の裏手で自家製造している菓子だけを売っているという。なんか意固地な感じもするが、手作りならそんなに量産はできないから、そのポリシーはポリシーで筋が通っている。こういう店は本当に美味しいか、ただ思い込みだけで他では売れないようなモノを出してるかのどっちかだ。栗まんは「金菓博大臣賞」受賞と書いてある。金菓博大臣賞って何だか知らないけど、とりあえず、買ってみる。隣の「くりっ栗」というのもおいしそう。1つずつお試しに買った。氷餅という、餅を凍らせて作るお菓子も買った。これはもともと好きなので、パックで。松本城はすでに何度か来てるので、それほど感動もない。城を見ながら、栗のお菓子をつまむ。ん! これはイケる。栗まんより、ゴマをまぶしたくりっ栗のがほうが気に入ったけれど、どちらも本物の栗の風味が非常に豊かだ。氷餅も素朴で美味しい。これはありそうで案外ないお菓子。長野以外ではあまり見た記憶がない。帰りに店の前をもう一度通るので、お土産もかねてもっとたくさん買うことにしよう。ところが、午後5時55分に店に戻ると、すでにシャッターが閉まっていた! が~ん! 午後6時閉店(それだって早すぎる気がするが)と書いてるのに、5分前に閉めるな~!なんつー、殿様商売じゃ… と思いつつ、すごすごと立ち去るしかなかった。そのあと、商店街を歩いてみたが、こちらもすでに店はだいぶ閉まっている。人もあまり歩いていない。お客がいないから閉めるのか、閉めるからお客が来ないのか… 鶏が先か卵が先か、みたいな話だが、それにしても、日曜の夜6時で、どんどん店を閉めるとは、こちらの感覚からすると「殿様商売」としかいいようがない。もうちょっと長く店を開けれていれば、もっとお客も来るのでは? という発想にはならないのだろうか? 自営の商売人でも?よく「地方は景気が悪い」「地方は苦しい」「地方は大変」という話を耳にする。だが実際に行ってみると齟齬を感じる。地方の人って働かないよな、というのが東京から来た観光客の印象だ。みんなずいぶんノンビリしてるように見えるのだが、本当に生活が大変なのだろうか… だが、苦しいとかなんとか言う前に、自分たちでもっともっと努力してみよう、そういう方向に思考は行かないのか。経済を回すのは自分たち自身のはずだ。夜遊びを奨励するつもりはないが、店をやっている人間がさっさと店を閉め、近隣の住民もさっさと家に帰ってテレビを見ているだけでは、地元の経済がよくなるハズもない。働くことも大事だし、お客に喜んでもらうための工夫も欠かせない。そして、そうした地元民の営む店にお金を落として自分も楽しむという行為も実は経済にとっては大切なことだ。もちろん、自分たちが今の生活に満足してるというなら、なにもヨソモノがイチャモンをつける筋合いのことではないけれど。
2007.09.13
世界遺産の街、ドイツのバンベルク。北のベニスとも言われている水の都だ。ここの名物といえば、薫製ビール(ラオホビヤーRauchbier)。どんなものか試してみた。黒っぽいのが薫製ビール。たしかに薫製の味がする! いぶしたモルトってこうなるのか。なんとなくスモークを呑んでる気分になる不思議なビールだ。これを大ジョッキで飲み干すのは、けっこうツラかったが、今となってはもう一度飲んでみたい。やはり、バンベルクに行ったら、薫製ビールは欠かせないだろう。ここでしか飲めない正真正銘の「地ビール」だ。ちなみにビールと一緒に食したのは、ドイツといえばこれしかないでしょう、ソーセージにザウワークラウト(キャベツの酢漬け)。それにホワイトアスパラだ。ホワイトアスパラの味に関して言えば、日本の「ツム・アインホルン」で食べたもののが高級だった。バンベルクの居酒屋のホワイトアスパラは、旬の素朴な味。とはいえ、初夏のドイツ語圏ではホワイトアスパラを食べまくるMizumizuなのだった(ま、ショージキ、ドイツ語圏では他にあまり食べたいものもないってのが本音)。
2007.09.07
ベローナからアルプスを越えて、ザルツブルクへ。オーストリアのグロースグロックナー山岳道路を抜けていくルートだった。フランツ・ヨーゼフス・ヘーエに寄ってマーモットとパステルツェ氷河に出会う… のは時間的にムリだったが、夏だし、涼しい高原の道が楽しめるのでは、と期待していたら、なんと!雪だった!一応展望スポットなのだが、寒くて全然降りる気になれない。まさか8月でここまで寒いとは。ヨーロッパ旅行には慣れてるつもりだったのに、まったくの不意打ち。ザルツブルクに前回6月に行ったときは、暑くて困ったので、そのイメージしか残っておらず、寒さ対策の服なんて持ってきていない。暑いどころか寒くて困るかも。ザルツブルクへ向うにつれ、不安が募った。ザルツブルクはやはり寒かった。だが、震えるほどではなくて、なんとか一安心。そして、お目当てのザルツブルク祝祭劇場へ行く夜がやってきた。ザルツブルク音楽祭は世界でもっとも有名な音楽祭のひとつだ。劇場は、さぞかし華麗な世界と思いきや、案外それほどでもなかった。観客の身なりの「いいカッコしなれてます」度ではチューリッヒ歌劇場の平土間に来る客のほうがビシッとしてるかも。ネッロ・サンティ指揮、ルッジェーロ・ライモンディ出演のオペラを見に行ったが、蝶ネクタイに白いストールを垂らして、黒のすばらしいスーツで決めた老紳士が、バールを探してウロウロしてるこの日本人に、「もう中へ入れますよ」と親切に声をかけてくれた。よい劇場というのは観客も劇中人物にしてしまうような魔力がある。パレルモのマッシモ劇場も地元民が思い切りめかしこんで来ている社交界の雰囲気があった。ザルツブルクは、そこにいくとやっぱり土地の人より外から来た人が多いのだろう。オペラというのは基本的にその土地の人のためのものだが、ザルツブルク音楽祭のようなビックネームになってしまうと、チケットもそうそう買えないし、観客もおのずと「遠くから来た人々」の集まりになってしまうのかもしれない。「魔笛」の幕があく。リッカルド・ムーティ+ウィーン・フィルはどうだろう? 多少、意地悪な評論家の気分で音楽が始まるのを待った。しかし、最初の一音からすでにノックアウト。ほとんどボーゼン。いやぁ、すごい。一糸乱れぬウィーン・フィルの完璧なテクニックと崇高なる精神性。キミたちはやっぱり日本公演では手を抜いているのかね? 日本で聴いた小沢指揮のモーツァルトと雲泥の差じゃないか。あ~、あれは東京文化会館の音響の悪さのせいかな。そうだということして自分を慰めよう。あるいは、もしかしたら指揮者の違いなのか? オペラを聴くとき、指揮者が目当てか、オケが目当てか、歌手が目当てか、あるいは演目そのものが目当てか? これは案外ハッキリ傾向が分かれるものだ。マニアはたいてい指揮者が一番の目当てだ。指揮者絶対派によれば、オケや作品は指揮者によって化けるのであり、それこそが聴きどころなのだという。もちろん、その意味では、ザルツの「魔笛」の完成度はムーティの力によるものだということになるだろう(そもそも小沢のモーツァルトは、指揮者本人の意欲とはうらはらに、評判がよくない)。だが、実のところMizumizuはスカラ座の「独裁者」であったころのムーティがあまり好きではなかった。音楽は特に文句をつけるようなものではない。世界の巨匠ムーティにふさわしいものを常に見せてくれていたと思う。だが、ムーティが振ると、オケも歌手もすべて「ムーティのための存在」になってしまっていた。ひたすらムーティの音楽に献身しているコマのひとつ。その結果、スカラ座の歌手はスケールが小さくなり、大スターはスカラ座を敬遠するようになった。加えてムーティと劇場側の絶えざる政治的な争いが、オケの結束力にも次第に影を落としていったと思う。ムーティが事実上、劇場団員から追われたとき、巨匠自身はひどく傷つき、奥さんが出てきて(こういうところがやっぱりムーティはイタ男だ)、「彼はいまとても落ち込んでいるから放っておいて」みたいなことを言っていた。だが、Mizumizuはこれはムーティにとってはチャンスではないかと思った。ムーティとスカラ座はあまりに長く一心同体だったが、スカラ座の伝統という亡霊がムーティを縛っている面も確かにあったと思う。ムーティがスカラ座から自由になった。とすれば、世界はそれを放っておくはずがない。またムーティ自身もそこで終ってしまうワケがない。予感は当たった。錦糸町にムーティが来て、ヴェルディのレクイエムを振ったとき、合唱やオケのテクニックはそれほどでもなかったにもかかわらず、Mizumizuはこれまでになく感動した。ムーティは確かに変ったのだ。そしてザルツでの完璧なモーツァルトを聞いたとき、「ムーティと一番相性のいいオケはウィーン・フィルでは?」と思った。ウィーン・フィルはムーティにひれ伏してはいない。コラボレート(共演)しているのだ。オケの技量と指揮者の力量がぴったり合致したときに生まれる奇跡。それをザルツで見たように思う。歌手もよかった。ルネ・パーペ(ザラストロ)は、ちょっと前に、日本で「ドン・ジョバンニ」のレポレッロ役を聴いていたが、そのときはほとんど印象に残らなかった。今回のザラストロは相当念入りに役作りをしている。ディアナ・ダムラウ(夜の女王)も圧巻だった。「夜の女王」はMizumizuにとっては永遠にグルベローヴァだが、小沢の「ドン・ジョバンニ」でアンナ役を上野でやったときには、さしもの女帝も音程のミスが目立ち、巨大な華が枯れていく瞬間に立ち会った気がした。「夜の女王」を歌うために生まれてきたとまで言われたグルベローヴァだが、さすがにその逸話は現在進行形ではない。ダムラウはクールで、美しく、まさに今旬の夜の女王だ。絶頂期のグルベローヴァのもっていた、人の運命をひきずりまわすような凄みはないが、テクニックもしっかりしている。有名なアリアではことさらゆっくり歌い、音程の正確さを披露していた。感情にまかせて突っ走らないところが、いかにもムーティの指揮らしい。不満があるとすれば舞台美術かな。美術や演出に関してザルツに感心したことがないが、それでも変にスキャンダラスでなかったのはほっとした。オペラでは舞台美術にかなり期待の大きいMizuizuだが、今回の魔笛に関しては、演出はもうどうでもよかった。しかし、観客のレベルはやはり、というべきか低い。反応を見ていれば、コアなオペラファンが多いか少ないかわかるが、ザルツの観客の反応は明らかに今イチだ。今やむしろ東京の新国立劇場に来る客のほうがオペラ好きかもしれない。しかし、新国立劇場のオケはどうしてもいただけない。オペラのオケに関しては、日本は相変わらず後進国だ。
2007.08.21
去年の夏はベローナにオペラを見に行った。もう1年になる。太陽が落ち、蒼い空気が劇場を染め始めたころに席についた。演目は「カルメン」。歌手は小粒だったし、野外なので演奏の出来不出来を論評するのはあまりふさわしくない。なんといっても、このベローナの名高いイベントは、古代ローマ時代の劇場で観るオペラというその雰囲気に価値がある。舞台美術の色彩にも統一感があり、スケールも大きく、なかなかだった。オペラが進むにつれ、次第に闇が周囲を支配してくる。そして、なんと、舞台背景の奥におあつらえむきの月が昇ってきた。この写真を見て、「合成?」といった人がいる。合成ではない。本物の月だ。この舞台劇でもっとも感動的だったのは月の光の演出かもしれない。しかも、この後、月をにわかにかき消す雲が起こり、雷鳴が轟いて、オペラはあと1幕を残してお開きとなった。ものすごい雨が石畳の街を叩く。あまりに劇的な天候の変化に気持ちが整理できない。「オペラは中止になりました」というアナウンスが流れても、まだほとんど陶然として歌劇場の入り口に立ち尽くし、しばらくは動けずにいた。最後の一幕が見られなかったのはやはりなんとも残念だ。クライマックスがカルメンの魅力なのに… だが、あっという間に月をかき消した雲の上昇、遠くから迫ってくる雷鳴の響き、降り注ぐ雨、追われるように移動する人々の群れ。そういったものこそが、自然の生み出すドラマであり、音楽の原点なのかもしれない。そんな風にも考えた。翌日野外劇場の周りを見学した。舞台美術がそこら中に置いてある。これはもちろん、「蝶々夫人」のセットだろう。
2007.08.20
リモージュを発って、南仏を目指すか、南西のほうへ行くか迷ったが、南仏は交通の便もいいし、また来ることもあるだろうと思い、南西のペリゴール地方をドライブしてみた。ペリゴールはちょっと日本の田舎にも似ている。低い山が連なり、田畑にできるような平地は少ない。フォアグラで有名なのだが、鴨の群れにはチラホラ会うだけだった。どこも小規模な農家という感じ。ちょっと不思議だったのは、南イタリアのアルベロベッロにあるトゥルッリに似た、円い土台に円錐形の屋根(瓦は薄い石の板)の載っている古い建物をいくつか見たことだ。ヨーロッパの寒村ではこの手の建物が伝統的に見られるのかもしれない。宿はLes Eyzies-de-Tayacという小さな町のLe Centenaireにした。このホテルはこんな田舎にあるが、ルレ・エ・シャトーのメンバーで、ミシュランの星つきレストランを併設している。チェックインより早い時間に着いたら部屋がまだ整っていないということで、エプレッソを頼み、よく手入れされた庭のテラスでいただいた。味は極上だった。部屋に荷物を置いて町を散策する。フォアグラの名産地だけあって、食料品店の前には、こんなオブジェがあった。また、ここは先史時代の人類の洞窟住居がある場所としても有名。せり出した岩棚の下に半分洞窟のような住居が今も残っている。写真の上あたりが、そうした洞窟住居を再現したものだ。夜、Le Centenaireでディナーをいただく。ミシュランの星つきだといっても、必ずしも日本人の口に合うとは限らない。値段と考え合わると、もう一度行きたいというほどでもないな、という店も多い。だが、Le Centenaireは値段も非常にリーズナブルで、地元の素材を生かした料理は深く印象に残るものだった。パリの星つきレストランとはまた一味違う、地方料理ならではの個性があった。またグラスで頼んだ赤ワインも渋みのある深い味わいで、ボルドーの大地が生み出す味の豊穣な奥深さを堪能できた。もっともグラスで4000円ぐらいして、メニューの中ではもっとも高価なグラスワインだったから、そのぐらい美味しくなくては困るというものか。清潔な浴室で旅の疲れを取り、翌日はラスコーに行ってみた。途中で中世の街モンティニャックに寄ったが、フランスの中世の街って、どうしてこうも暗くてダサくてさびれているのだろう? イタリアとは雲泥の差だ。やはりアルプスの南に比べると中世のフランスというのは相当な僻地だったんだろう。お昼ごはんを食べようとしたが、レストランもあまり開いておらず(日曜日のせいだ)、なんとか入った店で、ムッシュクロックとか、その手のを食べたが、どうもあの手のフランスの軽食は食べた気がしない。さて、ラスコーは教科書で見て以来、憧れていた壁画で、ついに現地に行ったワケだが、結果は期待を大きく裏切るものだった。ラスコー壁画は発見されて人が多く訪れるようになってから、通気条件の劇的な変化によって劣化が進み、1963年に閉鎖。かわって本物そっくりに描かれたラスコーIIをガイドつきツアーで見学するようになっている。ガイドつきツアーでおもしろかったことはほとんどないが、ラスコーIIも例外ではなかった。長々と待たされ、ちょっとしかない見学場所(といっても壁画複製には10年かけたそうだ)を演出過剰に見せられる。自分で資料を読めばすむような話だ。それに、やはり複製は複製。よく描けているのだろうが、どうにも感動できなかった。10ユーロという見学料も高く感じた。日本の旅行会社がほとんどラスコーを見学コースに入れない理由がわかった。交通の便が悪いうえに、つまらなすぎる。ちなみに、閉鎖された時点での壁画が写真で展示されていたが、すでに発見された当初と比べると驚くほど色が落ちてしまっていて、愕然とした。ラスコー壁画はすでに失われてしまったといっても過言ではないかもしれない。日本でも高松塚古墳壁画で似たような劣化が問題になった。北朝鮮には高松塚以上に素晴しい古墳壁画が多くあるという(世界遺産の高句麗壁画古墳群)。あちらの古墳の壁画は保存状態はどうなのだろう? なんとなく気になった。
2007.08.12
リモージュ焼きに興味があったので、1泊してみることにした。観光案内所で情報収集しようとしたが、ガイドブック程度の話しかしてもらえず、おまけに対応したオバチャンの態度はそれはそれは感じが悪かった。とりあえず、国立アドリアン・デュブシェ博物館へ。リモージュ焼きのコレクションで有名なのだが、わかったことは、リモージュの陶磁器はそれほど歴史が長くないということだ。その起源は18世紀。有田が17世紀初頭。100年以上の差がある。リモージュで東洋風の陶磁器のマネごとをはじめたときには、有田はすでにヨーロッパでの名声を確立し、精緻な作品を出荷していた。リモージュ焼きの歴史はそうした日本、そして中国のレベルに追いつき、追い越そうとした記録に他ならない。というわけで、「18世紀になって、やっとこの程度のものを作っていたの?」というのが一番の驚きだった。食事は旧市街で一番というレストランへ。リモージュに来たからにはリモージュ牛を食べてやれと思って、注文。言っておくが、これはアラカルトから1人分を2つに分けてもらったものだ。あまりにでっかくて、「1人分を2つに」という英語が通じなかったのかと思ったぐらい。でも、ちゃんと通じていた。数ユーロ上乗せされていたから、付け合せだけではなくビーフも多少サービスしてくれたのかもしれないが、それにしてもすごい量だ。お味は… まあ、柔らかい部分と歯ごたえのある部分のメリハリがあって、でもそれほど臭みはなく、フランス人が好みそうな味だ。骨髄はグー。日本では付いてこないものだが、ヨーロッパではやはり牛といえば骨髄付き。ちなみに、このレストランでは「スシ・ド・スモウ」という丸っこいサーモンのスシ風前菜が出て、それは素晴しかった。ドレッシング風にかけたバルサミコ酢も不思議に効いていた。フランス感覚のスシもいいな、と思った。こちらはフォアグラのテリーヌ。リモージュはフォアグラの名産地ペリグーにも近いのだ。アツアツのトーストにつけていただくテリーヌは、むしろ魚の粕漬けのようだった。この手のフォアグラのテリーヌはMizumizuは実はそれほど好みではない。でも、やはりちゃんとしたレストランで出すものはそれなりに美味しい。リモージュではibisに泊まった。街の中心部にあり、電車での移動の人には不便だが、クルマ移動の人にはオススメできる。街中を歩くのに非常に便利だった。リモージュのibisは特に、まだベッドが新品らしく、値段のわりにはとても快適な宿だった。フランス滞在中にすっかりibisのファンになってしまう。近代的なチェーンホテルだから、ヨーロッパ的な情緒は皆無だが、安いし、そのわりにはきれいだし、設備はだいたい新しいので、水やお湯の心配もない。ヨーロッパの古い、高級でないホテルだと、狭い、暗い、水やお湯がまともに出ない、なんてことはしょっちゅうだ。だからだろうか、ibisはフランスどこでも人気があり、予約なしで行ったら何度か満室だとことわられた。リモージュはラッキーだったのか、観光地としてあまり人気がないのか、どちらだろう?リモージュ焼きも買った(6/19の記事参照。アベの抹茶ロールを載せて取った写真がある)。店のマダムは必死に愛想笑いをしていた。フランス人くん、おカネを落とす旅人だけにではなく、観光案内所に来る旅人にも、同じように親切にできないものかね?まあ、昔は、お店でも「売ってやる」みたいな態度だったから、買ってくださるお客様への礼儀だけは身についてきたということで、よしとしようか。お店では若い店員は英語が通じたし(オバチャンはダメらしく、英語を話し始めると若い子を呼びに行っていた)。
2007.08.10
庭園で有名なヴィランドリー城を訪ねる。確かに見事な刈り込み方だ。だが、この手の庭園は、なぜか歩いてあまり楽しくない。植物と語らうことができない。自然の息吹や、季節の移ろいに関連した発見もほとんどない。ほこりっぽいジャリ道を歩いていると変に疲れてしまった。上から眺めているのが一番いいようだ。ロワール川の古城はたくさんあるが、全部見るのもタルいので、シャンボール(やはりこれは欠かせない)とこのヴィランドリー、それにブロワとシュノンソー(これはシャンボールの次に印象的な城だった)だけにした。トゥールではジャン・バルデで食事をしてみた。前菜はイケたが、メインは感動するほどでもなかった。ロワールの白ワインもふつう。どうも白ワインはロワールよりアルザスのほうが好みに合う気がする。まあ、頼むモノにもよるのだろう。ただ、ジャン・バルデは雰囲気はバツグン。さすがルレ・エ・シャトーのメンバー。庭も素敵だった。食後は庭を散策して楽しんだ。ロワールの城廻りを終えたあとは、ソローニュの森を延々とドライブし、ラモット・ブヴロンまで行ってみた。ここはタルト・タタン(リンゴパイを逆さにしたような焼き菓子)発祥の村なので、ちょっと興味があったのだ。タタンコンテストで1位になったこともあるというJack Lejarreは、村のメインストリートのわかりやすい場所にあった。さっそく入ってみたが、ここの売り子のマダムがまた、全然英語がダメ。タルト・タタンをホールで買うと「何日ぐらいもちますか?」と聞いたら、値段を一生懸命メモに書いて見せてくれるしまつ。トホホ… な気分で、まあせっかくだからと小さめのホールのタルト・タタンを買って、何日かかけて食べた。感想は… 「わざわざ何時間もかけて行くほどのことはなかった」。最初の一口はかなり美味しく感じたけれど、ホールで買うほどのものではなかった。最後は味も落ちてしまい、飽き飽き。やはり作りたてが一番なんだろう。それに、これならパリのストレールのリンゴのタルトのほうが洗練されておいしかった。なんだ、パリで十分じゃん(笑)。おまけにこのラモット・ブヴロンの肉屋でサラミを買ったら、めちゃくちゃ高かった。そんなに高級なサラミじゃないから、あれはロクにフランス語のできないワタシからボッたんだと思う。フランス人もわりとこの手の、いるんだな~。フランスはむしろ都会より田舎の小さな店や個人経営のレストランで、この手のセコいサギをやる気がする。というわけで、タルト・タタン発祥の村を訪ねる小旅行は、Mizumizuにとってはかなり時間の無駄だった。よく考えれば(よく考えなくても)タルト・タタンにそんなに思い入れもないのだった。アハハ。
2007.08.09
レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスに赴いたのは、フランソワ1世の誘いによるものだが、それもこれも、レオナルドが仕えていたミラノ公国のイル・モーロがフランソワ1世に戦争で負けたことによる。現在「ルーブルの至宝」「世界一の名画」と称えられるレオナルドのモナ・リザがフランスにあるもの、このときレオナルドが当時(そして今も)未完成だったこの謎の絵をもってアルプスを越えたためなのだ。その意味では、モナ・リザはフランスにとって最大の「戦利品」かもしれない。実際にロワール川の街に行ってみると、今でもそこはずいぶんな田舎だ。森と川、そして湿地。レオナルドの時代はさらにもっとずっと僻地だっただろう。フィレンツェ、ミラノ、ローマと、華やかな都市に暮らしていたレオナルドが晩年になってこんな北のさびしいところに来たときは、一体どんな気持ちだっただろう。だが、レオナルドという人は、権力者に対してたてつくことはなかった(「お金払ってください」と催促していたことはある)。政治的な活動にも情熱を注いだミケランジェロとは対照的だ。レオナルドにとって権力者とは、自分の仕事のパトロン以上の存在ではなかったようだ。あるいはそれは、望まれない子供として生まれ、10代のはじめには故郷の村から奉公に出されてしまった体験が影響しているのかもしれない。ロワール川のほとりにあるアンボワーズに居を与えられ、レオナルドはロモランタン(ローマにちなんでつけられた地名)で壮大な宮殿と運河をはりめぐらせた都市建設のプランを練る。実際にはレオナルドはフランスに来て、2年余りでこの世を去り、この途方もない都市計画も幻に終わる(ロモランタンは今でも小さな町のままだ)。ただ、レオナルドの残したロモランタン宮のためのデッサンは、シャンボール城の細部に生かされているという。屋根から張り出した窓のデザインなどは、レオナルドの影響を色濃く受けたものだとされている。若いころはミラノ公国との戦争に勝利したりと、華々しかったフランス国王・フランソワ1世だが、スペイン・ハプスブルク家のカルロス5世に神聖ローマ帝国皇帝の選挙で負けた後は、すっかり内向きになり、城づくりに情熱を注ぐ(まるで「ノイシュバンシュタイン城」のルードヴィッヒ2世のよう)。その最高傑作が、この森の中の典雅で奇抜で壮麗な城なのだ。シャンボール城にサン・ピエトロ寺院(ブラマンテ)の影響があるのはよく言われることだ。だが、Mizumizuにはこの城はレオナルドそのものように見える。この稀代の天才を「父」と慕ったフランソワ一世の並々ならぬ敬意の念、そして彼を生んだイタリア(当時イタリアという概念はなかったにしろ)文明への強い憧憬の念が、アルプスのはるか北の辺鄙な土地にとてつもない城を生んだように思えてならないのだ。文字をいれてカードを作ってみた。ここで写真を撮っていたら、添乗員に連れられた日本人観光客の集団がものすごい勢いで走っていった。時間が押しているのだろう。文句もいわずに必死に走ってついていく日本人の皆さんは、健気でもあり、多少滑稽でもあった。
2007.08.08
ソローニュの森をクルマで走る。すると忽然と姿を現わすのがフランス・ルネサンス建築の最高傑作の呼び声も高いシャンボール城だ。Europcarでレンタルした「クリオ」君。日本名ルーテシア。日本ではわりと高く売られているが、原産国ではトヨタのヴィッツより安く借りられる。ディーゼルだが、それほどエンジン音はうるさくないし、何より燃費もいい。ヨーロッパのディーゼル車はやはり日本よりずっと優れているようだ。ちなみに、前輪のハブキャップがないのはもともと。こういうの「別になくても問題ないわよ。ワタシのクルマも取れてるワ」なんて言って平気で貸すところがヨーロッパ的でよい。その分ハーツレンタカーなどより安いのだ。ド・ゴール空港のEuropcarのカウンターでは「予約がないとダメ」と断られていた人もいた。クルマの保有数がハーツなどより少ないのかもしれない。シャンボール前景。奇怪な煙突が立ち並ぶ屋根に驚く。煙突というよりむしろ、塔だ。建物自体がシンメトリックであるゆえに、塔の奇抜さはより印象的に見る者に迫ってくる。装飾も含めて、グロテスクぎりぎりの美しさだ。シャンボール城の設計にはレオナルドも関与したといわれるが、この塔を見るとなんとなく、イタリアの塔の街、サンジミニャーノを連想する。レオナルドがいたフィレンツェからサンジミニャーノは遠くない。もしかしたら、レオナルドはこの中世の摩天楼の街からシャンボール城の煙突の意匠を思いついたのではあるまいか。城に入るとまずいやおうなしに目に入る巨大な二重らせん階段。上る人と下る人がすれ違わない造りになっている。階段は城の中央の無駄ともいえる壮大な空間の中に鎮座している。城のための階段なのか、階段を見せるための城なのかわからないくらいだ。こうしたあまりに審美的な感性も、まさしくイタリア的だ(明日に続く)。
2007.08.07
ディジョンはフランスの中でも特に好きな街だ。だが、それはもしかしたら、この街がかつてはブルゴーニュ公国であり、フランス王国とライバル関係にあったという歴史も関係しているかもしれない。街並みもどことなくドイツ風だし、黄金に輝くモザイクの屋根もあまりフランス的ではない。ディジョンの街は絵になるポイントが多い。ブルゴーニュ公国の豊かな歴史を感じさせる。そして、この地は「コート・ドール(黄金の丘)」と呼ばれる穀倉地帯で、フランス屈指の美食の街でもある。有名なエスカルゴ。カシスやマスタードも名産品だ。ブッフ・ブルギニョンという郷土料理もある。もちろんボルドーと並ぶブルゴーニュワインはいうまでもない。今ではクレーム・ド・カシスもマスタードも日本のスーパーで売られていて、値段もそんなに変らない。特にここで買わなければいけないというほどでもなくなった。街でワインを買って帰ったら、楽天のが安かったなんて笑い話もある。食のレベルの高いディジョンだが、特にオススメなのが、「シャポー・ルージュ」。入り口に文字通り赤い帽子(シャポー・ルージュ)をかぶったベルボーイが発っている4つ星ホテルで、部屋もいいが、なんといってもレストランが素晴しかった。エスカルゴも上の写真はディジョンの別のレストランで撮ったオートドックスなものだが、シャポー・ルージュのエスカルゴは、他の素材とミックスして、もっと手の込んだ料理に仕上がっており、エスカルゴの歯ごたえとガーリックの上品な香りが、むしろポイントとして使われていた。シャロレ牛もカシスを使ったソースが絶品で驚かされた。うっかりカメラを忘れて写真がないのが残念。なぜか、この店、ミシュランからは無視されている。聞くところによると、日本料理の手法や材料も採り入れているそうで、日本人に合うのはそのせいかもしれない。だが、非常に人気があって、2晩ホテルに滞在したが、どちらの夜もレストランは満席(日本人はいなかった)で、ウェイターが殺気立って働いていた。唯一の心残りはラングスティーヌを食べなかったことだ。シャポー・ルージュのレストランならおそらく美味しかっただろうに。フランスのレストランではア・ラ・カルト一皿を2人分に分けてもらうということをよくやる。そうしないと量が多すぎる。これまでに嫌な顔をされたことはない。ただ、若干料金が上乗せさせる店はある。2皿に分けて、場合によっては付け合せを少し増やして2人分にするのだから当然といえば当然だろう。美味しい料理と見どころにあふれたディジョン。何度でも訪れてみたい街だ。
2007.08.06
「ブラックマドンナ」はディジョンにもいる。ロマネスク彫刻の造形に興味のある者にとっては残念なことに、ディジョンのブラックマドンナはすっぽりと衣を着せられ、飾り立てた祭壇に祭られ、顔しか見えない。顔だけでは、ただ長細く、彫り浅い原始的な風貌のマドンナとしか見えない。あまりにガッカリして自分では写真を撮らなかったので、ヒトサマの写真を借用させていただく。なんだか唇や眉のあたりに着色が見られるようだ(上の写真をクリックしてほしい。拡大される)。なんだって、こんなことをするのか。柳氏の著作に昔の写真があるが、やや斜め下からこのマドンナ像そのものを撮っており、それを見ると、このブラックマドンナも仏像のような東洋的な神秘と力強さを放つ素晴しい造形芸術だということがわかる。だが、今の西洋的な美意識では、そういったマドンナ像は祈りの対象としてはやや受け入れにくいのかもしれない。実はこのブラックマドンナは、もともとは黒くなかったということが、1960年代に判明している。研究者が洗ってみたところ、白木の肌が出てきたそうで、ロウソクの煙にいぶされて黒く変化したものだということがわかっている。現在は、長年ブラックマドンナとして人々の信仰を集めてきた伝統にのっとって、黒く塗りなおされている(だからって、顔のパーツまで着色しなくてもいいのに…)。ブラックマドンナが先住民族であるケルトの文化との関連で語られることは昨日書いたが、実は古い時代の教会の柱頭装飾の中には「グリーンマン」と総称される、半分人間で半分植物の異形の存在が多く見られ、それもケルト文化の森の精霊が姿を変えて残ったものであることがだんだんにわかってきている。これはディジョンの考古学博物館に展示されている「葉人間」。実に奇妙で不気味だ。死んだような顔はほぼ葉に覆われ、口からでろでろと蔦を吐き出している。こちらはディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂の地下聖堂(ロマネスク時代)の柱頭に彫りこまれた「蔦吐き男」。やはり、口から蔦を吐き出し、体と蔦が一体化している。二頭身の奇妙な姿は、ユーモラスですらある。こうしたグリーンマンがケルト民族の信仰の対象であった森の精霊の名残だというのだ。それを裏付けるように、ロマネスクからゴシックと、年代が新しくなり、中央ヨーロッパからケルトの記憶が消えるにつれ、グリーンマンは教会芸術から姿を消していく。ディジョンの蔦吐き男が、地上の教会ではなく、クリプトに残っているというのは象徴的だ。では、ケルトの精霊たちは完全に抹殺されてしまったのだろうか? どうもそうではないようだ。こうした異形の者たちは、やがてキリスト教の「悪魔」という概念と結びついて表現されることになる。たとえば、これはどうだろう? ディジョンのノートルダムのファサードにあるガルグイユ(異形の存在の形をした雨どい)だ。ガルグイユとはもともとはセーヌ川に棲んでいた怪物のことで、日本でいうならヤマタノオロチのイメージだ。ガルグイユはキリスト教の聖人によって、ほぼ戦わずして成敗されるが、それはあたかもキリスト教によるケルト文化の征服を象徴しているような伝説だ。このガルグイユを教会の雨どいのモチーフとしたことから、ガルグイユ=雨どいという意味が生まれた。また、年を経るにつれ、ガルグイユもさまざまな姿を与えられることになる。雨どいという、教会では脇役の装飾芸術であるがゆえに、作る者に解釈や表現の自由度が与えられていたのかもしれない。なにしろ彼らは雨どいだから、決して教会の中には入れないのだ。ボコボコとした怪物の群れは異様な存在感で迫ってくる。雨が降ると、彼らの口からいっせいに水が吐かれるのだろうか。猿のようにも、人のようにも、獣のようにも見える。だが総じて彼らは卑屈な存在だ。一神教であるキリスト教と森羅万物に神を見るアニミズムはもとより相容れるものではない。キリスト教徒にとってアニミズムとは否定すべき、原始的な迷信なのだ。だからキリスト教徒が、非征服民の文化、特に信仰の対象であるものを、ことさら卑しめて自分たちの文化に融合させていったというのは、非常に説得力のある仮説ではないか。そうした態度はたとえば日本人のアイヌ文化に対する意識にもあった。「土人」などと呼んで日本人はアイヌ人とその文化をことさらに低く野蛮なものと見てきた。アイヌを征服するために、日本はさまざまな汚い手を使った。「日本文化のルーツにアイヌ文化がある」などと言い出したのは、アイヌがとっくに自分たちの言葉を失い、日本人と同化し、民族としての自立心をもはや持ちようがないくらいまでに叩きのめされた後だ。中央ヨーロッパにおけるケルトも同じようなものだ。征服されるというのは、戦争で負けるということだ。戦争で負けるということが、負けた人々とその文化に何をもたらすのか、それは現在に至るまで変らない、普遍的な問題提起かもしれない。
2007.08.05
ランス、モンサンミッシェル、シャルトル… フランスで荘厳なカトリックの建築物のある場所は、ほとんど例外なく先住民族ケルトの聖地だ。キリスト教が広まる前、ケルト民族が信仰していた宗教はドルイド教とも呼ばれ、アニミズムの色彩が濃く、聖樹、聖石、聖水などを信仰の対象としていたらしい(当然、大地母神信仰も含まれる)。シャルトルは聖水崇拝の地だったらしく、シャルトルのノートルダム大聖堂の地下には、そうした前キリスト教文化とのつながりを示す古井戸がある。だが、今シャルトルが多くの人を惹きつけているのは、「シャルトルブルー」と呼ばれる大聖堂内のステンドグラスだ。Mizumizuが行ったときは天気が悪かったせいか、「シャルトルブルー」もイマイチくすんでいた。ステンドグラスもあちこちで見てるうちにだんだん感動がなくなってくる。こちらは「新しい(16世紀の)」黒い聖母子像。柱の聖母とも呼ばれる。シャルトルに伝わる黒い聖母信仰にしたがって顔は黒く塗られている。シャルトルの地下聖堂にはこれより古い時代(11世紀)の「黒い聖母子像」のコピーがある。こちらはツアーに参加しないと見ることはできないが、柱の聖母子像よりはるかに興味深く、謎に満ちている。何も知らずに見たら、仏像だと思うかもしれない。「聖母」と言われて今イメージするのは、イタリア・ルネッサンス絵画に見るたおやかな美女だが、明らかにそれとは違った力強さがある。通常、キリスト教では「黒」は異端の色として嫌われる。だが、中央ヨーロッパでは、その黒の肌をまとった聖母像が多く見られるのだ。「黒の肌をまとった」と書いたのは、いわゆる黒い聖母(ブラックマドンナ)には「もともと肌が黒かった」のではなく、「ロウソクの煙でいぶされて肌が黒くなった」ものもあるからだ。だが、重要なことは、もともと黒かったのであれ、いつの間にか黒くなったのであれ、通常はキリスト教において嫌われる色の肌をもつ聖母が、長い間人々の信仰の対象であり続けてきたということだ。聖母信仰とは、そもそも大地母神信仰が姿を変えたものであるという説があり、大地の色を象徴する「黒」の聖母像は、この2つの信仰のつながりを示すものではないかと言われている。こうした、日本におけるブラックマドンナについての関心は、柳宗玄・馬杉宗夫の師弟美術史研究者の功績によるところが大きい。日本人研究者が、ヨーロッパ中世のそれほど例の多くはない黒い聖母像(といってもフランスだけで200体ほどある。これは全世界で確認されている「黒い聖母」総数の半分弱だ)に注目したのは、やはりこうした像が仏像とあまりに似ているからではないかと思う。大地母神信仰は荼枳尼天(仏教の神)との関連も指摘されているから、ドルイド教の記憶をとどめるシャルトルの地下聖堂に置かれていたブラックマドンナが仏像と似ているのも、もしかしたらそのあたりに秘密があるのかもしれない。仏像とロマネスク時代の聖母像のつながり… 今後の研究が待たれる。日本から遠く離れたフランスの中世世界に仏像に似た聖母像が存在した… 実際にそれを目の当たりにすると、西洋と東洋の精神世界の壮大な流れを夢想してワクワクしてくる。
2007.08.04
パリから約400キロ。モンサンミッシェルまでドライブした。レンヌまで高速道路、それから下道で行ったのだが、延々と続く田舎道。トイレがなくて困った。小さな田舎のスーパーを見つけて入ってみたが、そこにもトイレはない。ヨーロッパはホント、その面では不自由する。ようやくモンサンミッシェルが見えてきた。北上するにしたがって天気が悪くなり、なんとも陰鬱な雰囲気。だが、周囲に何もないからこそ、モンサンミッシェルというとてつもない建築の累積が見えたときの驚きは大きい。駐車場に車を停めて島へ向かう。モンサンミッシェルはあまりに有名なので、テレビや写真では何度も見ているが、やはりナマで見ると圧巻としかいいようがない。本当にこんなモノを人間が作ったのだろうか。まさに「ラ・メルヴェイユ(驚異)」だ。島の中は完全に観光地でおみやげ物屋が並んでいる。名物のラ・メール・プラールのガレットを買うならチョコチップ入りがオススメ。ガレットとして特においしいとはいえないと思うが、それでも日本のクッキーとは比べ物にならない。日本のクッキーって、どうしてああもアブラっぽいのかな。ただ、東京にいる人なら、ラ・メール・プラールのガレット、あるいは似たガレットは、わりと簡単に入手できる。内部は質素。大きいし、複雑な作りだけれど、外から見たほどの感激はない。内部の意匠に関しては、やはりイタリアの教会のほうが洗練されているし、文化レベルの高さを感じさせる。上からの眺めも陰鬱な雰囲気。海と畑と、こじんまりとした集落が見えるだけ。島の中のホテル兼レストランで食事をしたのがだが、ムール貝のまずさに驚いた。名産地のはずなのに。やはり観光地は食事はダメということかも。
2007.08.03
パリの西ほぼ150キロ。シャンパーニュ地方のランスは大聖堂とシャンパンの街だ。街角にはシャンパンのオブジェなどを見かける。言わずと知れたノートルダム大聖堂、ゴシック建築の最高峰。まるで巨大な岩のような建物だった。パリのノートルダムがいっそ質素に思えてくる。夜ライトアップされると、無数の彫刻が軽やかなレースの装飾のよう。夜の大聖堂、お奨めだ。この大聖堂の裏にはトー宮殿があり、そこでは歴代のフランス王の戴冠式で使われた宝飾品やマントが飾られているが、こちらは入場料が案外高い。日本円で1000円ほど。為替レートによっては1000円を超えるかもしれない。フランス王朝に興味のある人以外にはあまりおもしろくないと思う。ただ、ルイ14世の戴冠式のマントの、「王家のブルー」と呼ばれる色調の鮮やかさとその量感(ホントに重そうだ)に圧倒された。だが、なんといってもランスの白眉はノートルダム大聖堂にある(しかも入るの、タダ)。直径12.5メートルもある巨大なバラ窓もすごいが、意匠としては、後陣礼拝堂にあるシャガールのステンドグラスのほうがオンリーワンの価値があると思う。深い深いブルーとほんのわずかな黄色と赤。その色彩の魔術はシャガールの絵画と共通している。そこに十字架そのものに化身した白いイエスの裸体が浮かび上がる。細く、むしろたよりない体躯が、十字架という神々しいシンボルに昇華している。ランスからパリへ。通称「シャンパーニュ街道」と呼ばれる田舎道をドライブした。このあたりはまさに「豊穣のシャンパーニュ」。日本のような観光客用の無粋な施設はない。ひたすらブドウ畑が続く。途中、立ち寄った農家でシャンパンの試飲をさせてもらった。残念ながら、あまりたいしたものはなかったが…ランスの有名レストラン「レ・クレイエール」については、7/28の記事を参照してほしい。
2007.08.02
匠工芸は旭川空港から10分の森の中にあります。ドライブする機会があったら、ついでに寄ってみるとよいかも。営業マンもいますが、あまり客慣れしていないので、東京人としてはやや不満に感じる部分があるかも。ただ、ショールーム自体は東京の柿の木坂のそれよりずっと広いので、匠特有のHugeな家具も引き立って見えます。さて、旭川つながりで、1つお奨めのオーベルジュ「てふてふ」のご紹介です。場所は、旭川とラベンダーで有名な富良野の中間、美瑛。前田真三の写真で有名になった「丘の町」です。こんなふうにポツンと立っている丘の中腹の木の前で、よくみんなカメラを構えています。さて、「てふてふ」は公共交通機関で行くには不便だし、美瑛の観光も自転車じゃかなりツライので、そのへんはご注意を。ドライブには最適ですが、この宿のあるあたりはそれほど風光明媚ってワケじゃありません。美瑛の町中からもはずれています。ここは東京から北海道に移住したオーナーが作ったこだわりのオーベルジュ。「靴を脱いであがる」タイプですが、その手の宿にありがちな、ビンボウ臭さはなく、家具も品よくまとめられています。さすが、家具の街、旭川に近いだけある。フムフム。露天風呂もあり、基本的に部屋単位で貸切にできるので(ハイシーズンには男女分かれて共同浴場になると思うけど)、落ち着けます。つまり、ラベンダーシーズン&夏は避けたほうが無難だということ。夏はこのあたりは、たぶん虫でいっぱいだと思うし… 冬のオフシーズンだと、オーナーがクルマで空港まで迎えに行く、みたいなこと言ってました(要確認)。冬の美瑛は夜はマイナス20度とかって世界ですが、中はヌクヌクしてるし、雪はさらさらのパウダースノーなので、東京あたりから逃避行するには案外いいかもしれません。そして、オーベルジュというからにはお料理ですね。Mizumizu的には、一番最初に行ったときが一番おいしく感じたのですが、それは別に「味が落ちた」ってことじゃないと思います。こちらの体調、お腹のすき具合といったフィジカルな要素、期待値の大きさというメンタルな要素、あるいは料理を提供する側のちょっとした火加減や塩加減の違いでも、印象は大きく左右されるもの。最初に食べて、大いに感動したものの、二度目はそれほど感動しない、という料理もあれば、最初は「ん?」と思ったものの、何度か口にしてるうちにジワジワと好きになるものもある。同じ料理を同じ人間が食しても、印象というのは違ってくるのが普通なのだから、個人の主観にもとづく「ランキング」なるものは、それがたとえプロであれセミプロであれ、いかにアテにならないかわかりますね。しかし、てふてふの手のこんだ、丁寧に作られた料理の数々は目に嬉しく、舌においしいということは、多くの人が賛成してくれるのではないでしょうか。清潔なお部屋で上質な料理を楽しんで、このお値段とは、東京人とからすると、「格安」だと感じます。素材は「鴨はフランス産、ゆり根は地元産」というぐあいで、適材適所、特段北海道の材料にこだわった料理ということではないみたい。Mizumizuが気に入ったのはベルモットソースの魚料理。このソースは相当時間かけて仕込んでると思います。それに、ウニのクリームスープ。真ん中に立ってるハーブが、ホラ美瑛風。えっと、で、ウニについて一言。ウニの美味しさを理解できるのは日本人とシチリアーノ(イタリアのシチリアに住んでる人のこと)だけ、と誰かが言ってましたが、シチリアのウニと北海道のウニとじゃ雲泥の差です。世界一美味しいウニの食べられる島、それが北海道なのです。ここはまた、朝飯が素晴しい。手のこんだ、ややヘビーなフランス料理の夕食でけっこう胃が疲れたオーディナリーな日本人にはウレシイ和食。しかも、こまごまと小鉢が並び、1つ1つしっかり作ってある。この洗練された朝飯はなかなか偉い。夕食とまったく違っているということが、「オーベルジュ進化形」と言うべきか。確かに、夕飯がいかに豪奢でも、朝飯がパンとベーコンと卵と申し訳程度の野菜では、平凡すぎますよね。富良野・美瑛に行くのなら、レンタカー借りてこの手の素敵なオーベルジュに泊まるというのが、旅のクオリティを一段上げる妙策かもしれません。
2007.06.17
芦ノ湖スカイラインをドライブしました。通行料600円取られますが、それだけ(以上)の価値はあります。愛車のスポーツエディション。このクルマは、まさにこの手のワインディングロードをすっ飛ばすための存在。カーブでもロードホールディングしっかり。高速での安定性や加速感は素晴しい。駿河湾の雄大な眺め。本当ならこの右に富士山が見えるはずなんですが、完全に雲の中。残念! 次に期待ですね。反対側の芦ノ湖の眺め。向こうの山は箱根山… かな?ちょうど上の写真で見ていた湖畔に来て、杉並木を歩きました。一応、すぐそばに無料で置ける駐車場がありますよ。車の往来の激しい道のすぐそばなので、あまり落ち着きませんでした。ここは写真で見るほうがいいですね。
2007.06.05
芦ノ湖スカイラインのドライブインに犬がいました。I saw a brown dog gnaring. His eyes fix at someone as if he is imploring something.At whom is he looking?なにやら哀願するような声で鳴いています。その視線の先にあったのは、ソフトクリームを買って自動車に乗り込む観光客Tourists! He is looking and gnaring at the tourists who have bought ice-cream cones.ソフトクリームが人間とともに行ってしまうとこの通り。犬ってあきらめはいいんですよね、たいがい。When the ice-cream cones go away with the people, he returns to his kennel like this.Dogs know when to give up. また誰かソフトクリームを買って出てくると… But when someone comes with an ice-cream cone...この一途な視線を見よ!Look at his passionated eyes!もう一匹白い犬がいて。こっちもソフトクリームなしの人が近寄ってもこんな感じ。でもソフトを持った人間がやってくると…Oh! There is another white dog. He pays no attention to a human being "without" ice-cream cones.But when an ice-cream cone comes with someone...すっかりもらう気になってます。"Hey! I am ready to eat it!"人間とともに去っていくソフトクリームを見送るワンちゃんの遠い目…いったい誰がソフトなんて「禁断の味」を憶えさせたんでしょうね? 甘いものって犬にはあまりよくないと思いますが。今日もソフトクリーム(を買った人間)に哀願してるんでしょうか、このワンちゃん。そして、どのくらいおこぼれに預かれるのだろう? いくらおいしくても、キミは犬。くれぐれも控えめにネ。Now ice-cream cone is going away again. He is passing it over with melancholy eyes.You, dogs, who taught you a taste of ice-cream cone?I know you like sweats very much, but after all you are dogs.Ice-cream cone is a forbidden taste for you.Please make sure not to eat too much!
2007.06.04
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