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真の愛の主人になりましょう1997年8月13日陰暦七月七日(八月九日)、韓国の水澤洞にある中央修練院において「天地父母天宙安息圏宣布」の行事が行われ、八月十三日、ご父母様は清平祈祷院を訪れ、世界から集っている教会員に御言を韓国語で語られました。 今後大会の時は韓国語だけを使う [日本語で語られる]いつもこういう大会の時、問題になるのは言葉というものです。言葉、これをいかに解決するかということは、世界的な大宿題です。この問題を解決しないというと、永遠にこういう現状が続くのです。それはもう、現状の損害は話にならないのです。時間の消耗、努力の消耗。未来の世界を見た場合には、(言語)あるいはその子供を統一させなければ、大変なことになるのです。それを日本の国ができなければ、南米の国々、いかなる国もできません。それをなせる可能性の位置に立っているのは真の父母だけです。分かりましたか。(「はい」)。 天地父母天宙何圏ですか。安息圏宣布。この前の集会の時、はっきり先生は決めました。大会の時は必ず韓国語だけを使います。日本人だけだったら日本語を使ったらいいのです。できれば、こういう催しも韓国語を中心に教育する方法をとって、自分の後孫たちが煩いなく母国語を取りつなぐような準備を今からしないと大変です。韓国語で解明するのですから通訳はいりません。それは九○年度からやることになっていました。延長、延長してしまいました。これはもう方向をまとめて決定的に区切りをつけておかないと、言語統一の世界に向かうことは永遠にできないのです。分かりましたか。(「はい」)。 ここに集まった人の平均年齢は何歳ですか。目を見れば四十を越えていないね。四十を越えないとすると、勉強は今から始めても十分です。分かりましたか。(「はい」)。だから国を治まった場合には、入国できません。そういう時代が来ます。その時は絶対神の権限、絶対権限の時代に入るのです。だから、その一方きりにまとめなければならないのです。分かりましたか。(「はい」)。 東大とか何とか、有名な大学を卒業したとか、あるいは大臣の子供とか、首相の子供とか、何とか偉いものであったとしても、その子供を統一の方向に向けないものは、感じても実行しないものは、世界的な神の指導する国に入る指導者になります? なりません? (「なりません」)。ます。 (「ません。」)。ます。 (「ません。」)。 いかにして真の愛の主人になるか たくさんの人が集まっているから、日本語を中心に語らないといけませんね。かわいそうにね。(題目を日本語で書かれる)何と読みますか。(「……」)。何だ、日本人として日本語が分からないとは、大変ではないですか。「真の愛の主人になりましょう」。分かりましたか。(「はい」)。 真の愛の主人になりましたか。自分に反復してみないといけません。真の愛の主人に自分がなっているかいないか、それをはっきりわきまえなければなりません。どうですか。真の愛を見たことがありますか。触ったことがありますか。愛を見ることはできません。生命も、血統も、良心も、一番貴重なものは見ることも触ることもできないのです。それなのに、いかにして真の愛の主人になれるかというのです。それは簡単です。 真の愛は知らないのですが、真の愛の主人に会ってその相対圏に立てば、真の愛の体恤というのは自動的です。問題ないのです。一人ではできません。分かりましたか。 その前提条件が何かというと、神様をいかに発見し、真の主体である神様と関係をもつ相対的自分になれるかということです。これが前提条件です。いくら偉くても、いくら愚かな者でも、この前提条件が成立しないと、永遠に真の愛を知ることはできません。 主人である神様であれ、被造物の人間であれ、真の愛というのは、統一して一体圏をなす力をもっているのです。内容がそうです。真の愛というものは二人が主体、客体的になって、相対的に内外共に一致なる、共通なるその確信が変わらない以上は、自動的に一体になるのです。 日本の東洋思想は夫婦一体という感じになります。父子はどうですか。父子は一体といえないのですか。夫婦だけ一体というのですか。(「父子も一体です」)。本当ですか。なぜ、父子が一体なのですか。それは血統的につながっているからです。 それは枝であれば、幹と通じていて一体なのです。大きな枝にはたくさんの小枝がついているのです。それもいくら大きくても一体なのです。だから、親子関係、幹と枝は一体という話なのです。夫婦関係、東にある大きな幹と西にある大きな幹と一体になるようになっているのです。分かりましたか。それが一体であれば、四方いっぱい東西南北に生えている千万の枝があったとしても、それは兄弟のようなものです。そういう観点から見れば、全部が一体です。 (黒板に書きながら説明される)そう見れば、上下関係が何によって一つになるかという問題です。夫婦関係において、何によって一つになるかというのです。兄弟関係において、何によって一つになるかというのです。 [韓国語で語られる]さあ、親子の関係を一つにすることができるのはお金ではありません。知識でもなく、権力でもありません。この世の中の何をもっても不可能ですが、ただ一つ可能なのは愛だけなのです。 一度言ってみなさい。愛だけだ。 (「愛だけだ。」)。愛だけだ。 (「愛だけだ。」)。愛だけだ。 (「愛だけだ。」)。 人間世界で可能なのが愛であるといえば、天地、このすべての万物をひっくるめて、一つにすることのできる何かがあるでしょうか。それを知らなければなりません。宇宙が一つにならなければならず、人間世界も一つにならなければなりません。平和統一世界を願うのです。一つの世界を願っているのです。何で一つになるのかといえば、人間世界では愛であるというのです。愛で一つになりましょう。 このようなので、夫婦も愛がなければ一つにならないのです。愛がなくなる時にはどのようになるでしょうか。離婚するでしょう。今日、結婚したすべての新しい家庭、新所帯をもって、幸福な家庭を築いて万国に誇ることのできる自分の殿堂をつくろうと、どんなに夢見たとしても、その家庭から愛が離れていけばすべて、万事が無効になるのです。 お金をどんなにもっており、知識をどんなにもっており、権力をどんなにもっていたとしても、大統領、副大統領になったとしても、愛が離れていけば一つになれる道はありません。 ですから、今日、このすべての人類歴史について見るとき、愛があらゆる社会や全体の構成において骨子となり、主流になっているのです。その骨子が何かといえば、家庭では愛を中心として孝子にならなければなりません。孝子というのは、愛を除けば孝子になれません。父母に対して、兄弟に対して、愛さなければならないのです。 父母をどんなに「愛する」と言っても、孝行する息子になり父母をよく養ったとしても、振り向くや否や兄弟同士で喧嘩をすれば、孝子ですか、不孝子ですか。(「不孝子です」)。本当ですか。私はそのようにしたことがないので分からないのですが、あなたたちはみな分かりますか。 どんなに父母を死にものぐるいで愛しても、振り向くや否や兄弟喧嘩をすれば、孝子になれないというのが鉄則です。父母は、父母を愛する以上の愛の心で、兄弟同士が一つになってくれるのを願うのです。それが父母の心なのです。父母に仕え、父母の前に孝子になっても、回って出てきて、父母を離れて、孝子というのは父母以上に兄弟同士愛する人です。そのような時、父母は「自分の家庭の孝子はなにがしだ」と言って、千里万里どこに行くにせよ自慢する歴史が綴られます。分かりましたか。 (「はい」)。 目の前の孝子は簡単ですが、兄弟を代表して母と父が褒めることのできる孝子とは、見えない所で愛の心をもって一つになることのできる動機をもっていく人です。それを孝子だと言うのです。アーメン。(「アーメン」)。皆、勇気がありますね。若いので、声をもう一度大きくして言ってみましょう。アーメン。(「アーメン」)。アーメンとは、「私は孝子になっています。先生が語られる通りです。そうとも、そうですとも。そのようにします。」ということです。 孝子になりましたか、なっていませんか。どうですか。なりましたか、なっていませんか。この者たち。 「なれなかったのでなります」というのは駄目であり、「なりません」というのも駄目です。なってこそ、初めて悪口を言われないのです。なる時までは父母から悪口を言われ、兄弟の前に問題となる過程を我慢して越えていかなければならないのです。正しいですか、正しくないですか。(「正しいです」)。正しくないという者は手を挙げなさい。 愛で一つにするために、家庭では孝子を願いました。孝女は除きましたか。女性たちは気分が悪くないですか。「先生は、なぜ孝子だけ話すのか? 孝女についてなぜ話さないのか?」と思うかもしれませんが、赤ちゃんという言葉は息子に通じるのでしょうか。息子だけが赤ちゃんですか。娘も赤ちゃんなので、「息子・娘合わせて五人だ」と言ってもおかしくないのです。 家庭で男性や兄弟や、みなが願うことは、孝子・孝女にならなければならないということです。愛を中心として一つの身体にならなければなりません。ノーメンですか、アーメンですか。(「アーメンです」)。それが嫌だという者たちは手を挙げてみなさい。 耳は本当に宝ですね。どうやってそれを聞き分けますか。耳はありがたいです。一度言ってみなさい。耳はありがたいです。 (「耳はありがたいです。」)。ああ、汗臭いのに仕方なく座っていますが、愛が恋しくて座っています。そのような時は、鼻が宝です。 (「鼻が宝です。」)。悪口をよく言う口は悪い口ですが、愛が恋しくて、悪口をやめ、愛の言葉を学ぶために喜びます。口が宝です。 (「口が宝です。」)。手も同じです。愛する人を触るのを喜ぶ私になります。手が宝です。 (「手が宝です。」)。 さて、愛する人同士、手だけ触りますか。(笑い)その手が宝ですか、宝ではありませんか。(「宝です」)。その手が愛する人同士、男性の、女性の手を触れば、女性がパッと(手を振り払う真似をされる)このようにしますか。私が(お母様の)手を取れば、スッとこのようにするのです。お母様はそうです。(真似をされる)(笑い)それは磁石と同じです。私の手がこのように行けばいつでも来て、このように一つになるというのです。それは何の力ですか。何の調和の力ですか。文総裁が技量がよくて起こすことですか、愛が調和を起こすのですか。(「愛が調和を起こすのです」)。 すべては相対を求めて動く 先生に、数十年、数年に一度会うでしょうか。先生は世界を飛び回る人なのに、どのように会いますか。今から飛行機を買って一時間で地の果てから地の果てまで飛んでいける人工衛星を乗り回そうと研究しているのに、そのような先生に会えると思いますか。そのような先生に会ったのですから、その目が開かなければならず、鼻が詰まっていればかんで、耳が詰まっていれば開け、お金があればこのようにしてつかみたく、このようにして人工衛星がドッキングするようにドッキングしたいという気持ちがありますか、ありませんか。(「あります」)。日本人はそのようなものはあり得ません。(笑い)ありますか、ありませんか。 (「あります。」)。 あなたたち。 責任を果たさず、先生がすることを全部破綻させたあなたたちが、なぜ、そのようにできると思うのですか。資格がないではないですか。責任完成をいつも果たしますか、果たせませんか。 (「……」)。なぜ黙っていますか。この者たちは不利ならば口を閉じて、有利ならばワアワアと言って、全身で大騒ぎします。それが分かるでしょう。誤っているということが分かるでしょう。(「はい」)。 さあ、世の中で言えば、一つにするために、家庭では孝子が必要です。国も同じです。国の父と母、王と王妃、息子と娘を中心として、相対的世界に夫婦同士、上下、左右、前後が合わなければなりません。前後がなければ、父母と子供が関係を結ぶことができません。ですから、上下、左右、前後だというのです。兄弟が絶対必要です。アダムとエバは兄弟ですか、何ですか。(「兄弟です」)。結婚は兄弟からつながっていくのです。赤ちゃんの愛から兄弟の愛、このようにして完熟するようになるのです。全部、一つの家庭で育ちます。 雄しべ・雌しべは時になれば花が咲き、花粉が出て、蜜の臭いが出て、蝶と蜂が蜜の臭いをかいで訪ねてきて、こねてあげなければならないのです。何をこねてあげますか。愛を探してこねてあげるのです。蜜をこねるではないですか。同じです。それゆえ、息子・娘が生まれるのです。 あなたたちは愛する時、「あなた。 遠くに行ってください。私の身体に触れないでください。それだけ触れてください」と、そのように言いますか。(「そのように言いません」)。女性も愛してもらうのを願い、男性も骨を貫通していくぐらいに、愛してもらうことを願うのです。そのような夫婦が幸福な夫婦ですか、不幸な夫婦ですか。 今から帰れば、女性たちを何人か殺してしまうのです(注:「御言を聞いた男性食口が、家に帰って妻を死ぬほど愛する」を強調して言われた)。(笑い)殺さずに、境界線まで行って死にそうな時、すばやく止めるのです。(笑い)「先生があのような話をして、ワンマンショーをするみたいに、話も上手だなあ」と思うでしょうが、それゆえに、世界で悪口もたくさん言われ、たくさん褒められもします。このような話を聞けば、気分がよくないでしょう。 「教主があのような話をしなくてもいいのに……。そうでなくても統一教会があれこれと、色魔たちが暮らす世界だといううわさが立ったのに、そのような話を再びするとは、どういうことか。ああ、消化できずに逃げ出すだろうなあ」と思うでしょうが、消化できなければ逃げ出しなさいと、このような話をするのです。分かりましたか。 私がどんなに祈祷し、天の国、霊界に行ってみても、二人が離れずにくっ付いて回るのはそれしかないというのです。 皆さん、とんぼを知っているでしょう。ここにもそのようなのがいます。とんぼは一日中飛び回るのです。何か、一つしたいのです。私はとんぼを捕まえるチャンピオンです。たくさん捕まえました。じっと見ると、食べ物や蝿を追い回すのではありません。雄、雌の二匹は、一方が少し落ちればさっと行ってつくのです。そのようにしながら疲れることを知らず、空中でよく遊ぶのです。「ああ、愛の遊覧の世界はあのように粘りがあり、忍耐性があるのだなあ。忍耐の先祖だ」ということを知り、研究しました。 すべて相対を求めて動くでしょう。西洋と東洋が同じですか、同じではないですか。(「同じです」)。日本人と韓国人は同じですか、同じではないですか。(「同じです」)。口だけのりでくっ付けておいて、対にしてあげれば、どの組みもみな日本人を和合させることのできる愛をもっているのです。統一的な愛は違いがないというのです。分かりましたか。(「はい」)。 愛は万能のチケット 東洋人と西洋人は言葉が違い、文化が違うだけであって、愛する方式も同じで、感じ方も同じなのに、一つになれないはずがないというのです。そのことを知らなければなりません。それゆえ、いちばんの怨讐が言葉なのです。文化が怨讐なのです。アメリカ文化、英国文化、ドイツ文化、日本文化、韓国文化、ソ連文化……。言葉と文化が問題です。愛の文化は一つです。愛の文化が二つですか、一つですか。(「一つです」)。 男性が上に上がりますか、女性が上に上がりますか。(「男性が上に上がります」)。違います。私は女性が上に上がると思いますが……。(笑い)笑うのを見れば、西洋人もそうであり、東洋人もそうであり、過去、現在、未来も、億千万代、男性が上がるようになっているのです。なぜですか。女性が上に上がれば、問題が生じるのです。 さて、子供の種は、上からこのように落ちますか、反対に泉がわくようにわき出ますか。(「上から落ちます」)。ですから、落ちるのが便利なようにしようとするので、男性が上に上がらざるを得ないということを、常識的に知っておきなさい。 愛する方式も同じなのです。喜んで愛する時に泣く人がいますか。「ああ、嫌だ」と目を閉じますか。目を真っ直ぐに開いて、顔、五官を合わせようとするのです。そこで一つになりますか、なりませんか。(「一つになります」)。あなたたちはそれをしてみましたか。この者たち、なぜ答えませんか。ここで祝福を受けた人、手を挙げなさい。何ですか、これは? 一つになっていません。下ろしなさい。もう一度。 祝福を受けた人、手を挙げなさい。統一されていません。 愛がなくて家庭を統一できますか、できませんか。(「できません」)。家庭については、先生が今回のバンケットで愛についてあらゆる話をしました。このような説明はしませんでしたが、その核を適用して、「家庭では孝子にならなければならない。そのようにしてこそ、天の国に通じる。そのようにしようとすれば、愛が必要だ」と言ったのです。これは間違いないでしょう。(「はい」)。 皆さん、何の臭いがいちばん好きですか。蜜の臭い、糞の臭い、好きな酒の臭い? (笑い)何の臭いですか。(「花嫁の臭いがいちばん好きです」)。花嫁とは、飛躍しているではないですか。そのような答えを書けば、五十点にしかなりません。「愛の臭いです」と言えば百点なのです。 愛ならば家和萬事成(注:「家庭が和やかならば、すべてのことがよくなっていく」という意味)です。修身齊家治国平天下(注:「天下を治めるには、まず心身を磨き、次に家庭を平和にし、次に国を治め、次に天下を治める順序に従う」という意味)という言葉は、何をもってでしょうか。力をもってするのではありません。その時必要なのが愛国者です。忠臣が必要だというのです。国を一つにすることができるのは、独裁する王ではなく、経済力ではなく、文化力ではありません。それがすべてなかったとしても愛に燃える花が咲くようになれば、葉は生い茂り、香りもよく、蜜があり、万国、万民がそこに平和に暮らすことのできる世界が生まれるというのです。アーメン。(「アーメン」)。 あなたたちが必要なものが分かりましたか。孝子にならなければなりません。分かりましたか。(「はい」)。なぜ、孝子にならなければならないのでしょうか。上を見ても愛し、下を見ても愛し、右側を見ても愛し、左側を見ても愛し、前を見ても、後ろを見ても、愛が恋しいので、ここにおいて「愛そう」という言葉が生まれるのです。分かりましたか。(「はい」)。 その次に、愛を中心として二番目は何ですか。家庭だけでは駄目です。人間は、国と一つにならなければならないという欲心をもっています。あなたたちは日本人として「日本の首相になりたい」とみな思うでしょう。「首相に一度ならなければならない。それになれなければ、大臣にでもならなければならない。それにもなれなければ、局長にでもならなければならない」と思うでしょう。系列的な分野で段階的に上がっていこうという欲心は、だれでもみなもっているのです。統一的現象です。 あなた、小さな女性ですが、女性の中で一等になりたいでしょう。あなた、あなた。 (笑い)[日本語で語られる]小さな女性ですが、女性の世界でどんな女性も抜いて一等になろうという欲望は全部もっているというのです。それをもっていない女性は女性ではありません。「世界一の男になるんだ」という欲望をもっていない者は男性ではありません。犬や動物と同じです。なぜ、そうなのでしょうか。 真の愛をもてばどこでもパスできるのです。それは万能通行のチケットです。万能なのです。どこでも通じる万能チケットです。神様の前に出たら、「おお。 愛する娘よ。」と頬の肉が取れるほどキスするのです。 [韓国語で語られる]「先生がどんなに有名でも、私がいなければ駄目です。万事の、あらゆる方向がたくさんありますが、三百六十度がさらに行けば三千六百度になり、さらに遠くに行けば数万の方向がありますが、その方向の端に行って私が守っているので、そこで王になって、そのすべての方向を治めることができます」と、チャンピオンになりたいという考えをみなもっているというのです。 それでは、勉強することにおいてのチャンピオン、必要ですか。(「必要ありません」)。その次には、お金を集めることにおいてのチャンピオン、それが最高ですか。(「違います」)。その次には、政権をもって首相になり日本一億二千万に号令する時、「おい」と言うことのできる力が必要ですか。(「必要ではありません」)。それがすべてなかったとしても、愛があればいいのです。愛があればいいのです。(「はい」)。 愛は空間世界を超える 男性にとっていちばん刺激的で、鋭敏な所がどこですか。(「生殖器です」)。舌ですか。味を見る際にどんなに鋭敏だといっても、生殖器以上に鋭敏なものはありません。舌を満足させるためのものは、一度食べてしまえばその次の日また食べたいですが、生殖器を満足させることのできる相対がいれば、思っただけで、その満足を感じることのできる世界になるのです。味を見るのは食べてこそ感じられるのですが、愛の相対は思いで感じることができるのです。この千里、万里、無限な空間世界を超えて、喜びを感じることのできるのは、死んだとしてもまた生きて愛したい妻・夫の愛しかありません。正しいですか、正しくないですか。(「正しいです」)。ヨーロッパの人、正しいですか、正しくないですか。(「正しいです」)。 地の果てでも動くことのできる愛の因縁でお互いに愛する時は、お互い空間世界を超えるのです。見なくても感じることのでき、再現させることのできるのは、愛の世界だけなのです。 それゆえ、それ以上につくったものはないので、愛のために生まれ、愛のために育てられ、愛のために生き、愛のために死に、愛の本宮、愛の花、愛のすべての五官が踊りを踊ることのできる環境の世界へと行こうとするのです。理想天国の民になり、神様が愛する孝子・孝女、忠臣、烈女、聖人、聖子になろうというのが、宇宙万物全体が願う願いなのです。アーメン。(「アーメン」)。 何のために来ましたか。(「愛の勉強をするために来ました」)。何のために生まれましたか。(「愛のために生まれました」)。男性と女性は、喧嘩するために、離婚するために生まれたのでしょう。(「違います」)。世の中はそうではないですか。 それは怪しく邪悪な世界ですか、幸福な世界ですか。(「怪しく邪悪な世界です」)。怪しく邪悪な世界なので、私たちと関係がありますか、ありませんか。(「ありません」)。つばを吐き、小便を漏らし、大便を漏らして後ろ向きになった立場なので、永遠に関係のない立場に立たなければならないのです。すべてそのようになっていますか。尋ねているではないですか。 そのようになっていますか。(「はい」)。 祝福を受ける前に死ぬほど恋愛していた者たちが、統一教会に入り祝福を受けて、その男性、女性を思い出しますか、思い出しませんか。(「思い出しません」)。思い出してはなりませんか、思い出さなければなりませんか。(「思い出してはなりません」)。先生いわく、思い出さなければなりません。 (「思い出してはなりません」)。統一教会の子女いわく、何ですか。(「思い出してはなりません」)。 どこで統一しなければなりませんか。その主体と一つになるために訪ねていかなければなりません。日本がそのようならば、私が日本を訪ねていくのであって、何をしにアメリカに行きますか。そうですか、そうではありませんか。(「そうです」)。そのようにできる男性、女性が日本にいますか、いませんか。 先生以上に神様を好み、神様を魅了できる力をもった人はいません。女性たちは狐のようにしっぽを振るのです。狐はしっぽを自慢するのです。頭を見れば嫌になりますが、しっぽを見れば、「ああ。」と言うのです。 愛が好きだ。一度言ってみなさい。(「愛が好きだ」)。愛がどれほど素晴らしいか。 ついて言いなさい。(「愛がどれほど素晴らしいか。」)。花よりも素晴らしい。 (「花よりも素晴らしい。」)。蜜よりも素晴らしい。 (「蜜よりも素晴らしい。」)。お母さん、お父さんよりも素晴らしい。 (「お母さん、お父さんよりも素晴らしい。」)。 今回、私の二人の息子に相対者を決めてあげたのですが、お母さん、お父さんが呼んでも、自分の花嫁と約束したならば「花嫁と約束しました」と言うのです。「お母さん、お父さんは下がってください」ということです。(笑い) 嫁をもらい、会ってから二日にしかならないのに、お母さん、お父さんの言うこと、それも真の母、真の父の言うことなのに、世界の統一教会の教会員たちは好きでどうにもならないのに、一日会って「約束した」と言うのを見て、「ああ、そのようにできるのは、あの二人の間の愛がご父母様を愛していたよりももっと強いから、ああなのだ。正しい、正しい。よい、よい」と思いました。それを気分を悪くして、「この者ども、なぜそうなのか。」と言うのではなく、「よい。よい。早くそうしなければ」と言うのです。(笑い)愛は通じない所がないというのです。分かりましたか。(「はい」)。 日本の忠臣・乃木大将を知っているでしょう。三人の息子を(戦争で)亡くして、自分も後で腹を切って死んでいった人です。このような人も愛のためにそのようにしたのです。国王を愛するのが、自分の国を愛するのが、家庭よりも大きな基準にあるので、家庭を千個、万個、国のために犠牲にするのです。その中心が壊れれば希望もなく、すべてがなくなるのです。そのような観点から見る時、その中心たる国が世界に勢力を及ぼしていくために、そのような心をもち、自分のこと、家庭を犠牲にして、自分一身と一家を滅亡させた人を忠臣と言うのです。そのようなことを知っていますか。 忠臣は、自分の息子・娘、自分の妻まですべて犠牲にしたとしても、その王と王権と国が無事であることを願って、一族を投入するのです。投入する際には一つではありません。一度死に、二度死に、三度死に、東西南北四方を回ってくることのできるところまで犠牲になれば次元が変わるのです。復活が起こるのです。 皆さんもこの一点を中心として、個人完成、家庭完成、氏族完成、民族完成、国家完成、天宙完成をしたいでしょう。自分を中心としてそのように完成して、自分がセンターになりたいでしょう。そうですか、そうではありませんか。(「そうです」)。どんなに愚かで、どんなに小さな女性でも、そうであってこそ初めて女性であり、この地上の神様の娘として万物の主人となることのできる候補者として、地を踏みしめて生きるのが恥ずかしくなく、万物のすべてのものを吸収して食べたとしても、それが「ありがとうございます」と言うのです。ナンバーワンになるだろうということです。 愛の臭いに引かれる 鉱物世界を知っているでしょう。鉱物世界にも主体と対象があるでしょう。分子を見れば、陽イオン・陰イオンからできていて、それがすべて一つを中心として回るのです。植物世界を見れば、雄しべと雌しべを中心としてプラス・マイナスが回るのです。天地の調和がなされるのです。あなたたちは知りませんが、その世界も最も喜ぶことのできる内容で営まれているのです。 動物世界の中に昆虫世界があるでしょう。ばい菌は昆虫ですか、何ですか。ばい菌を昆虫と言いますか、何と言いますか。(「細菌です」)。細菌を何と言いますか。(「昆虫です」)。(笑い)昆虫にもなれません。ウィルスです。それが相対化して虫のように繁殖作用をするのです。それゆえ、菌の世界も夫婦になっているというのです。現代医学でそのように言っているのです。どんなに小さな細菌の世界も、顕微鏡で数百万倍大きくして初めて見えるその世界も、雄・雌からなっているというのです。 数千倍拡大して見れば、人間の愛する姿と、そのウィルスが愛する姿が違うでしょうか、同じでしょうか。彼らにも生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。(「あります」)。凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。(「あります」)。見ましたか。(「はい」)。(笑い)見たのかというのです。それは見なくても分かるのです。天地のすべての怪しく邪悪なものも「嫌だ」と言いません。すべてそのようになっているというのです。大きなもの、小さなもの、植物、動物すべて、見るとそうです。 「神様であっても私を訪ねてくるはずである。世の中を眺めてみても、乱れた女しかいない。フリーセックスをし、かびの臭いがする。神様はきれいな所を訪ねていく。自分一人きれいです。神様、私を訪ねてきて救ってください。お願いいたします。お願いいたします」と言うことのできる特権が愛にはあるのです。アーメン。(「アーメン」)。それを歓迎しますか。何にあるのですか。(「愛にあります」)。あなたはそのような自信をもっていますか。神様も女性が必要ですか。(「はい」)。見ましたか。 先生が教主様でも、正しいことは正しいと言うのです。真理に合わないことは教主様は言いません。真理に合うので、どんなに笑ったとしても、後にはすべて頭を下げてわびるのです。「先生の後をついていきます」というのです。 日本からここに何をしに来ましたか。ここでは汗をかくのに、日本から何しに来ましたか。何か空気がいいからですか。清平の何がいいのですか。臭いがするのに、ここに何しに来たのかというのです。愛の臭いがするからだというのです。それらを克服して余りある愛の臭いがするからなのです。ここでかいだ臭いは、永遠に忘れられない表題になるのです。この臭いを骨肉と細胞の記憶に残すために、哀れで見たくない清平であったとしても訪ねてきたのです。 日本人が韓国に何しに来ますか。韓国をばかにしたでしょう。日本人が韓国を好む理由は一つもありません。私が学生の時の話を少ししましょうか。それを話せば、全部目を閉じてふろしきをかぶって泣き得る事情がたくさんあるのです。そのような日本人たちが、ここに何しに来たのでしょうか。愛の臭いが違うというのです。分かりましたか。 日本人の愛の臭いは、かげばかぐほど悪くなりますが、ここから出る愛の臭いは、初めは悪くても、鼻を引き抜いて骨の中まで押し込める臭いがするのです。それで、一度来た人がまた来て、また来るのです。 あなたたち、原理を聞いて家に行く時、傾いているはしごで上っていくバラックの教会にまず立ち寄りたいですか、あなたたちの文化的住宅、れんがつくりの家にまず立ち寄りたいですか。あなたたちの気持ちはどうでしたか。潰れて歪んでいる四畳半。臭いがし、立ち寄ってみればノミやなんきん虫がいるその家に、まず訪ねていったというのです。 ご飯を食べても、麦ご飯がおいしく、耳パンがおいしいのであって、牛肉スープに白いご飯はおいしくないのです。その料理に、何が入っているのでしょうか。愛です。味の中の真珠のようなものです。そのような味をもつことのできるのが愛なのです。その味が入っていることによって、「麦ご飯でもいい。ごみ箱の横でもいい。臭いのする便所の間でも眠ろう……」と、みんな来たのではないですか。そうですか、そうではありませんか。(「そうです」)。 だから、気が狂いました。気が狂ったということは「気が変になった」(韓国語でトラッタ)ということではないですか。到達した(韓国語でトダルヘッタ)ということです。何に到達したのかといえば、愛に到達したということなのです。気分がいいですか、悪いですか。(「いいです」)。 孝子の行く道はために生きる道 孝子の愛を、私は死んでも願います、適当に願います、必要です。三つの中のどれですか。いちばん最初ですか、二番目ですか、三番目ですか。最初のものを願う人、手を挙げてみなさい。孝子になりたい人は手を挙げなさいというのです。サッと挙げなさい。 サッと挙げるために立ち上がってもかまいません。ほこりが立ってもかまいません。皆、孝子になりたいですか。 (「はい。」)。皆、孝子にはなれなかったでしょう。(「はい」)。 日本の村のお母さん、お父さんの前に、孝子になりますか。東京、大都市の大きな家で暮らす素晴らしいお母さん、お父さん、お金持ちのお母さん、お父さんの前に、孝子になるつもりですか。王宮に入って、王に侍りながら孝子になるつもりですか。どの孝子になるつもりですか。(「王宮に入って王の孝子になるつもりです」)。 違いがあります。比較的に見る時、孝子は、豊かに暮らしながら孝子であるのが本物の孝子ですか、貧しく暮らしながら親孝行するのが本物の孝子ですか。(「貧しく暮らしながら親孝行する者です」)。一日にご飯を一食しか食べられない家庭に暮らしながら、お母さん、お父さんに、自分の血肉まで売ったとしても三食のご飯をつくってあげるのが孝子ですか、三食のご飯を食べ残して処理できず、ご飯をたくさん盛ってあげながら侍るのが孝子ですか。(「血肉を売ってでも親孝行する者です」)。本物の孝子は、豊かに暮らす家からは出てきません。それを知らなければなりません。 日本は豊かですか、貧しいですか。(「豊かです」)。豊かならば豊かなほど、親不孝者に近いのです。お母さん、お父さんを餌食にしようとします。自分の弟、妹を蹂躙しようとします。お母さん、お父さんが飢えていても、弟、妹が飢えているのを見る時、お母さんのご飯を弟、妹に与えるのです。お母さんは徹夜しながら見守るのです。その息子・娘は骨に染みて分かるのです。「弟、妹をあのように愛するのだから、私もお母さんに従って、その弟、妹に一銭でも協助してあげよう」と……。自分のご飯を先にお母さんに分け与えるようになる時、孝子圏、孝子の環境が生まれるのです。そうですか、そうではありませんか。(「そうです」)。自分だけのために生きる人は、全部追放されるのです。 このような観点から見る時、孝子の行く道はために生きる道です。分かりましたか。 (「アーメン」)。本物の孝子になる道はために生きる道です。環境がよい所でために生きるのではありません。貧民屈の中の貧民屈で一日に一食食べるその場所で、自分の三人の息子たちがすべて飢えて座っているのに、「侍ります。」と言って、自分たちが飢えているのを隠し、一睡もしないで夜を明かし、「次の日またそのようにしよう」と言う人がその町にいたとしましょう。その人よりももっとそのようにする人がいなければ、その人が一等だということを知らなければなりません。理解できますか。(「はい」)。 皆さんの目はどうですか。父母のために自分が天下にない孝子になろうとするコンタクトレンズをしたように、心で見て、内的な面で父母の前に親孝行し、外的な面で父母の前に親孝行しようとするのが忠臣の道です。 一族を越えて、一国を越えて、道を越えて、県を越えて、地の果てから地の果てまで、平均的な立場で愛そうと、その国のためにそのように悲惨な立場に立ったとしても、「その国のどんな悲惨な立場で親孝行する者以上に親孝行をしよう」という時、その国において一等の中心になるのです。(「アーメン」)。そのように考えてみましたか。 聖人の道理は数千年続く 堕落したので蘇生、長成です。長成期完成級までなのです。長成期完成級は国の基準を越えられません。サタンは国以上を越えられません。世界はサタンと関係がありません。今日、数多くの国をつくったのは、神様が神様の世界をつくるうえで、国を越えて訪ねていくということを悪魔が知っていたからです。これを破綻させるために引っ張っていき、どのようになるのかといえば、神様の理想的な愛の土台と百八十度違った破壊的な現象を築いておいたのです。それが悪魔の願いなので、その時が必ず歴史上に現れます。その時になれば、すべて破綻するので、天はこれを受けて、再び修理しなければなりません。分かりましたか。すべて破ってしまいます。 それゆえ、今現在がどのような時かといえば、民主世界であれ、共産世界であれ、世界的ユートピアという言葉が、この地球星になくなってしまったというのです。アーメンと言いなさい。(「アーメン」)。ソ連がどこに行き、アメリカがどこに行きましたか。アメリカ自体においてはすべて、エイズによる家庭破綻です。完全にめちゃくちゃに壊れたのです。全世界の先頭の国家だと自負していた共産党はどこに行き、民主主義はどこに行ったのでしょうか。民主主義はすべて壊れました。民主主義は駄目になります。民主主義を好んでいては滅びます。 国家には愛国者の概念はありますが、世界と連結される聖人の概念はありません。これが問題です。さらに大きな愛のモデルを求めていく道がありません。さらに大きな愛の舞台を求めて越えるには、愛国者の立場を越えなければなりません。愛国者という境界線を越えてこそ、初めて聖人の境界線に入るのです。愛国者の思想よりも、世界を愛することのできるさらに大きな聖人の愛の観がないというのです。 自分の一族だけを愛するのではありません。春夏秋冬といえば十二の月です。十二弟子を愛さなければなりません。イエスも十二弟子を愛して失敗して死んでいきました。これがさらに拡大すれば、十二弟子だけではありません。それが三段階でするようになれば、二十四弟子、三十六弟子に拡大されていかなければなりません。これを象徴的にするために統一教会は、三十六家庭にアダム家庭型、ノア家庭型、ヤコブ家庭形態が起こったのです。今後世界の先祖たちが、このように発展していくことのできる現象をすべて見せてあげたのです。そのような話はきょう、この時間にする話ではありません。 それで、歴史時代に聖人たちが来て教えてくれたことは、「あなた、愛国者になりなさい」ということではありません。今までの世界は悪なる世界なので、堕落を楽しむ者たちなので、孝子がおらず、忠臣がいません。サタン主管圏の限界線におり、あちら側は断崖なので行く所がないのです。天の側では孝子の道理を教えてきたのです。堕落した人に孝子ということが分かりますか。(「分かりません」)。それを天が教えてくれたのです。愛国者の忠臣の道理を教えてあげたのです。それが忠臣の道理で終わってはなりません。聖人たちが来て教えてくれたことは、(世界を)万民の一つの家のように考えるということです。万国を自分の国のように考えなさいというのです。それが聖人たちが行く道です。 聖人は故郷を超越しました。聖人の道理は数千年続くのです。分かりましたか。国が滅びたとしても、その国を乗り越えて世界を抱き、数千年でも続くのが宗教圏です。四大聖人と言うでしょう。世界という概念がありません。 飢えて死んでいく人を救うため 先生は家に帰れば、決して靴下を履きません。それが悪い伝統ですか、良い伝統ですか。(「良い伝統です」)。良家の家庭で、裸足で暮らす主人は紳士ですか、げす野郎ですか。(「紳士です」)。天下に号令する統一教会の統率者が座って、道を行く途中で裸足になって歩き回るならば、その方は聖なる方ですか、はしたない方ですか。(「聖なる方です」)。どうしてですか。(「自由だからです」)。違います。 私がこのようにすることによって、五十億人類は、家に帰ってからは靴下を脱ぐのです。靴下一足で一月履けるというのです。そして、二十九足は売って、飢えて死ぬ人を救おうというのです。(「アーメン」)。神様も「誇らしいレバレンド・ムーン。」と言うのです。 また、ウルグアイにある私たちのホテルに行けば、どこに行っても、お母様、お父様をいっぺんに包んでも余りある五色のタオルを積んでおいて、大きなものから順次何十種類と掛けてあるのです。今年になって先生がそのホテルに行きましたが、よいタオルを使いませんでした。使うのはこのような手ぬぐいだけです。これよりも少し大きなものです。それ以上は使いません。それから、タオルの片側を使うのです。十回行き、十年、二十年行っても、それしか使わないので、「先生は身体が不自由なのか、病気にかかったのか? 腕が動かないのか?」と、いろんなことを話すのです。 先生がなぜこうするのかという歴史を話した時、知っている人がいました。そのホテルの手ぬぐいを使わずに、その残りの手ぬぐいを売っても、世界で飢えて死んでいく人たちを救うためにはホテルのタオルだけ売っても人類を救うことができると考えるのです。 このような伝統は一日ではなせません。 十年、二十年かかるというのです。歴史というものを転換させるのは、一日ではできません。一生涯そのように暮らすことによって、そのような思想が引き継がれるのです。 日本にいる一億二千万人が、先生のようにタオルを使えば……。毎日のように入浴するでしょう。(「はい」)。この民族め。 入浴は、福をたたき落とすのです。入浴をたくさんしないほど、福があるのです。一度言ってみなさい。(「入浴をたくさんしないほど福がある」)。気分がいいですか。 韓国に長生きする一門がいます。その人に「長く生きる秘訣は何ですか?」と尋ねてみると、話さないのです。それでも、先生が「統一教会に来れば先生に報告しなければならないのに何だ。」と言い、尋ねると「入浴を一月に一回、二か月、三か月に一回した。入浴を多くしないことが健康にいいのだ」と言うのです。なぜ、そうなのでしょうか。 山で生きるいのししが、数日に一度ずつ入浴しますか。(笑い)尋ねているではないですか。(「しません」)。ありとあらゆる糞を踏んで回りながら、一月であれ、一年であれ、ひたすらそのように暮らすのです。松のかさかさとした所で垢をばたばたと、おとすのです。(笑い)それが健康であり得る秘訣だというのです。季節によって皮が変わるのです。鶏も毛が生え変わり、犬も毛が生え変わるでしょう。(「はい」)。すべて自動装置で解決するように準備されているのです。それなのに、なぜ水に入りますか。それでなくても水がいっぱいにあふれているのに、水をかぶるので水病(お父様がその場でつくられた言葉)にかかるようになっているのです。 日本人はなぜ、背が小さいのでしょうか。水病にかかって背が小さいのです。そうではありませんか。育つことができません。いつもかぶるからです。分かりましたか。今から大きな民族になろうとすれば、一年十二か月に一回ずつ入浴するのです。百歳ならば百回だけ入浴して暮らすならば、どれくらい時間を得ますか。その時間に労働してお金を稼ぎ、世界で飢えて死んでいく人の解放に使うべし。 ノーメンですか、アーメンですか。(「アーメン。」) 洋式便器があるでしょう。洋式便器に小便をすれば、必ず三回してから流すのです。それゆえ、お母様に小言をたくさん言われます。どんなに言われてもそれを変更しません。なぜ、そうするのでしょうか。一日に水がどれくらい流れていきますか。これを節約すれば万民の食糧問題を解決し、救いの道がガラガラと開くのです。二百名が一人に責任をもてば、飢えて死ぬ人はいません。このようにして万民の解放圏を設定し、飢えて死ぬ人たちを救うためにそのような道を準備しています。そのような文先生が病気にかかって死ななければなりませんか、ある病気の菌が訪ねてきて後退していくでしょうか、友達になろうと言うでしょうか。(「後退します」)。 先生は健康ですか、健康ではないですか。(「ご健康です」)。私は本来、健康でない人です。今も健康ではありません。年が八十に近い人が、何が健康ですか。けれども、十時間立って話しても、疲れを知らずにいます。疲れますが、忘れてしまいます。それは普通の人はできないのです。疲れたとしても、どうだと言いましたか。(「忘れてしまいます」)。あなたたちは、疲れを忘れてしまいますか。忘れてしまう前に、布団をかぶって横になってしまいます。 そのような運動法を私が開発したのです。これを教えてあげればお金もうけをする人、詐欺が多いので教えてあげません。監獄に入って開発しました。今も十五分だけ運動すれば疲れがきれいになくなるのです。夜に布団に入る時、深呼吸をしながら三分間運動すれば水平をつくります。バランスを築くのです。静かな水面にお金を投げれば、波紋が広がっていくのです。 神様と共にある場所が天国 さあ、孝子にだけなるつもりですか。その次は何になるつもりですか。最初は孝子です。最初が孝子であり、二番目が何ですか。(「忠臣です」)。三番目は何ですか。(「聖人です」)。四番目は何ですか。(「聖子です」)。さて、あなたたちは何になりますか。孝子の立場に合格しましたか。(「はい」)。 反対を受けなくてもいいですか、受けなければなりませんか。反対だけ受けますか。鞭で打たれて足が折れ、女性たちは髪の毛を刈られ、腕が折れ、あらゆることが起こります。父母に刺されて死んだ人もいるのです。それは良い世の中ですか、悪い世の中ですか。(「悪い世の中です」)。それゆえ、「町も悪なる所、国も悪なる所」と言うのです。 家庭で「文総裁についていく、ちんぴら野郎たち、統一教会のムーニー」と言われるのです。部落で「ムーニー」と言って歓迎され、国で「ムーニー」と言って歓迎されなければならないのに、反対されるのです。どちらですか。歓迎される者たちですか、反対される者たちですか。(「反対される者たちです」)。あなたたちはみな反対されてきましたか。「反対されない人たちは、統一教会の真なる息子・娘になることはできない」と、このようになるのです。 そして、「このような息子・娘を追い出す際には、国の外に追い出せ。太平洋の海にたたき出せ。それでも統一教会を信じる。反対してみろ。 十年、二十年後には反対していた者たちが、私のひざの前に屈服する」と思い進んでいくのです。そのような者たちがいますか。 反対を受ければ、「ああ……」と言いながら後ずさりして、日陰でついていく人がいるのです。日本だけでも、教育を受けた人は数百万います。入ってきて「いい。」と言いながら万歳を叫んだ人たちが、反対が始まると冠(よい立場)まで切ってしまって逃げ出して、あらゆることをするのです。ここにも、逃げ出してから来た人がたくさんいるはずです。そうでしょう。 一度逆賊になった者が許され、三回逆賊になった者が許されますか。そのような法がありますか。(「ありません」)。簡単に逆賊になるのです。家庭において親不孝者は村の外に追い出されなければならず、国の逆賊は外国に追い出されなければならないのです。それゆえ、統一教会の教会員たちの中で賢い人たちは、日本が反対するので外国にみな訪ねていったのです。今回、世界的にすべて連結されたので、みな綱渡りをして戻ってくるのです。 サタン世界と善なる神様の側の世界があったならば、統一教会はどちら側に立つと思いますか。サタン世界が好む教会ですか、サタン世界が悪いと言う教会ですか。(「サタン世界が悪いと言う教会です」)。サタン世界が悪いと言えば、善い人たちですか、悪い人たちですか。(「善い人たちです」)。その代わり、サタン世界が好まない以上に神様が好みます。どうですか。だれが好むと言いましたか。(「神様が好みます」)。 神様を見ましたか。見たことがないのに、反対されても気分がいいのです。雷が落ちても心配せず、爆弾が落ちても、爆弾が「忠臣がいる」と言って、風が吹いたりして、自分の頭の上には落ちないのです。どれほど幸福ですか。恐ろしいものがなく、心配がないというのです。万事、解放圏です。世の中でもてなされ統一教会に反対するよりも、世の中で反対され監獄暮らしをしたとしても、神様と共にあることのできる場所があるならば、その場所が地獄ではなく、天国なのである。 アーメン。 (「アーメン。」) それを願いますか。愚かな人たちが、何をしにここまで来ましたか。何をしにここまで来たのかというのです。英国人、ドイツ人、ヨーロッパ人が、何をしにここに来ましたか。反対されたとしても、天の国の孝子の称号を受け、天の国の忠臣の称号をもらい、天の国の世界的な称号をもらい、天と地を統一して、二つの国の法と王宮法を守ることのできる、四つの法を守ることのできる聖子の道が、ここに収拾され得るので、自分の心はここに来て苦痛ではないのです。必ず来なければならない道に来たと思うので、ありがたく、感謝なのです。アーメン。(「アーメン」)。そうですか。 (「はい。」)。 ここの三分の一は、「ただ、来ただけだ」と思っているでしょう。「先輩たちが行き、いいと言うので来てみると、何がいいのか。汗を流して手をたたき、手のひらにひびが入り、血が出て……。果物を食べたいのに、一つも食べるものがない。寝かせてくれるのだろうか。死ぬことができなくて生きていくのだが、四十日間どうやって我慢するのか。大変なことになった。」。そのような人たちがいれば、手を挙げなさい。私が送り返してあげます。四十日修練に来ていませんか。 さあ、我慢できないという人、手を挙げなさい。送り返してあげます。(「我慢します」)。死んでも行かないつもりですか。(「はい」)。帰りませんか、帰りますか。(「帰りません」)。なぜ、帰りませんか。誇れるものが、何かありますか。 「ああ、ご父母様。家庭時代を迎えて、統一家において孝子になります。国が反対したとしても、日本で家庭をもったいかなる人よりも、統一教会の祝福を受けた家庭としてナンバーワンになります。そうできる家庭になります」。そのように言えば帰らなくてもかまいません。なぜでしょうか。忠臣の家庭となる道がそこにあるからです。先生と神様はそれを願い、それを主流としているのです。そのようにすることのできる内容があれば、残ることもできますが、その内容が欠如したり、ないときは帰らなければなりません。それが命題です。答えならば、百点をもらえる答えです。 太陽の光、空気、水を保護する それで、孝子になりましたか。(「はい」)。いいですか、孝子がどのようなものかといえば、エデンの園でアダムが孝子になりましたか、なれませんでしたか。(「なれませんでした」)。エバが孝女になりましたか、なれませんでしたか。(「なれませんでした」)。なぜ、なれなかったのかというのです。愛を売ってしまいました。二番目には所有権を売ってしまいました。三番目は心情を売ってしまいました。これが孝子ですか、親不孝者ですか。(「親不孝者です」)。間違いありませんか。(「はい」)。 家庭で親不孝であり、国で親不孝であり、世界で親不孝であり、天地の前にも親不孝です。神様の前にも許されません。裁判長が見る決定的な親不孝です。それだけはみな知っているでしょう。知っていますか、知りませんか。(「知っています」)。どんな日本人でも、ここに来て座っている時はそれを知っています。皆、学んできたでしょう。(「はい」)。 あなたたちは孝子になりましたか。親不孝者ですが、アダムとエバよりはよくなければならないでしょう。(「はい」)。どのくらいですか。アダムの頭を踏んで、飛躍しますか、跳躍しますか。(「跳躍します」)。跳躍とは、角度をもって飛んでいくのです。飛躍は垂直です。 (「飛躍します」)。跳躍しますか、飛躍しますか。(「飛躍します。」)。跳躍は途中でやめてしまいなさい。跳躍をすれば、この中はすべて空になります。飛躍すれば、神様の王座の下と全部連結され得るのです。垂直になれば空いた所がありません。ぎっしりと満ちています。ぎっしりと満ちた孝子になるのです。では、跳躍しますか、飛躍しますか。(「飛躍します。」)。 飛躍するのに、日本において境界線を越えるのは、飛躍ですか、跳躍ですか。尋ねているではないですか。日本から韓国に来るのは、飛躍ですか、跳躍ですか。(「飛躍です」)。とんでもありません。日本の地の果てはどこですか。アルゼンチンやウルグアイです。地の果てに行ってここを見下ろすのです。南極と北極が一つになり神様の愛の磁石になって、反対に回っていたのが正しく回るのです。千辛万苦、反対していた悪なる世界、悪なる不孝世界、悪なる忠臣世界、悪なる聖人世界をすべて消化してつまみ上げて、なくさなければならないというのです。そうしなければならないというのです。そうしてこそ飛躍が可能です。 先生は今どこにいますか。韓国とウルグアイとでは、ぴったり垂直です。そうですか、そうではありませんか。(「そうです」)。先生が何ですか。北極占領、南極占領しなければならないというのです。将来はそれが、金銀、宝になるのです。今後の世界は水と緑の地帯です。 いちばんの問題がそれなのです。公害が問題です。水が汚染され、空気が汚染されるのです。それをどのように防ぎますか。今もそうではありませんか。アマゾン地域の木々を切るので、酸素が欠乏して、ヨーロッパで税金を出して、そこに数億ずつお金を支払っているのです。空気で大騒ぎです。分かりましたか。(「はい」)。 その次に水です。日本近郊の水が汚染されていますか、汚染されていませんか。(「汚染されています」)。第二次世界大戦以後、今から五十二年前です。以前はどこに行っても、魚たちがピョンピョンと飛び跳ね、水田に行っても魚の群れが動き回っていたのに、今はそうではありません。シナモズクガニというのもいたのに、今は水田にいないのです。魚もいなくなりました。そのような害毒のある水で育った米を食べて暮らすので、その毒素がぎっしりと詰まっています。これを防ぐすべがないのです。今、大きな問題です。 五十年でこのような人口をもったので、三世紀の期間が過ぎれば何倍ですか。六倍です。六倍にもなる期間が過ぎれば、どれほど水が汚染され、空気が汚染されるでしょうか。今は鳥類も長く生きれません。昔は毛をむしるのがとても難しかったのに、今はすぐに抜けるのです。あなたたちの髪の毛もよく抜けます。 日本の病気、何ですか。(「アトピーです」)。今いちばん心配するのがそれです。どうやって二〇〇〇年を中心として三世紀を越えるのかというのです。それゆえ、私が先頭に立って、水を清くする運動をするのです。水が多い地域が南米です。水がたくさんあります。その次には、南極、北極を全部消化しようというのです。そこは万年雪があります。いつでも汚染されない水がいっぱいに満ちています。これは将来、金銀、宝物をあげても買えなくなるのです。それゆえ、南極を占領しようというのです。水を占領しようというのです。 その次に、緑の地帯を占領しようというのです。自分の周辺に木を一本植えられる土地があれば、小学校の学生から大学に通うすべての学生たちに責任追及して、緑の地帯をつくらなければなりません。空気浄化運動をしなければならないのです。そのように考えるのです。だれがそのように考えますか。 食べ物を解決し、その次には空気、その次は太陽の光です。空気が汚染されれば、太陽の光も遮るのです。太陽の光を汚染してしまうのです。すべてそのようにしています。空気が汚染されず太陽の光がよく当たれば、アトピー病もすべて治るのです。それはすべて空気のせいなのです。太陽の光、空気、水の調和をなした、その線上に立っているのが人間の高貴な生命なので、これをどのように保護するのかというのです。この問題を世界的に解決する代表者が文先生です。 文先生ですか、文先生様ですか。(「文先生様です」)。一人で自画自賛して、「先生様だ」と言う人が、優れた人ですか、愚かな人ですか。自分の妻と自分の息子・娘を自慢するのはまぬけです。しかし、自慢しなければなりません。そして、自慢することをみな好まなければなりません。あなたたちも先生を自慢しなければなりません。私たちは先生を誇ります。一度言ってみなさい。私たちは。 (「私たちは。」)。先生を誇ります。 (「先生を誇ります。」)。 ですから、公害防止。 酸素欠如防止。 全部このようにするのです。分かりましたか。その次には皮膚病防止です。全部このようにするというのです。それゆえ、木を植えなさい。高価な木です。そのようなことを世界的にすべて教育して、百八十五か国に標準化を、早くするのです。 女性たちの総司令官はお父様 ここに何千名いますか。(「今、千九百名です」)。今、ジャルデンにつくっている建物は一万名入ります。中に五千名入り、周辺に廊下のように設置して夜に眠れるのが五千名以上です。そのようにして一万名以上入れる建物をつくり、式場もいっぺんに二千名以上入れるようにして、彼らが食べて暮らせるようにして教育をしようとするのです。何もなかったのに、修練所を中心として都市になってしまいました。 ですから、日本人が優秀であれ、愚かであれ、四十日修練を受けたにせよどうであれ、責任者から入教した順番にすべて、南米に連れていって四十日修練をさせなければなりません。まず、エバ国家日本からです。 日本人は何国根性ですか。(「島国根性です」)。島国根性は、世界でいちばん褒めたたえるべき根性です。歴史的な記念として立てるべき根性です。そうですか。その反対だというのです。それを一掃しなければなりません。何によってこれを一掃しますか。それをする人は先生しかいません。 先生の話は生まれつきよく聞くようになっていますか、勉強してよく聞くようになっていますか。皆さんは本心があるでしょう。十六歳まで、堕落する前までの本心は、いまだに死んでいません。本来、真の父母に対する心情はもっているのです。先生を愛する際に本来、本心の起源は愛をもっているのですが、これが出てこられないように、あなたたちが引っ張り回しているのです。それをコントロールできるのは、強いプラスの愛、神様の愛です。それを中心としてポォーンと飛び跳ねなければならないのです。人工的にはできないのです。 では、先生を好きな男性たち、手を挙げてみなさい。そうですか、とてもありがたいですね。先生を好きな女性たち、手を挙げてみなさい。男性たちは手をこのように挙げますが、女性はとにかく早いです。では、男性たちが先生をより好きですか、女性たちが先生をより好きですか。(「女性たちです」)。どうしてですか。自然なのです。プラスとプラスは反発します。公式によって動くのが天理の道理なので、「プラスの前にマイナスは自動的に吸収統一されるな」と言っても、ついていくのが女性なのです。 先生がこのように優秀で美男子であり、世界の愛の主人として生まれたので、先生についていくような気がしますか、ついていかないような気がしますか。(「ついていきます」)。愛が恋しい女性たちは先生の後ろに来てこそ、いいことがあるのです。 それゆえ、歴史始まって以来、女性たちの総司令官がだれなのかといえば、来られる主様なのです。なぜですか。新婦を訪ねてきた人です。新郎の前に、新婦が男性でしょう。男性ですか、女性ですか。(「女性です」)。ああ、女性を考えるだけでうんざりします。この女性のせいで、私が悪口をどれほどたくさん言われたか分かりません。女性はうんざりですが、仕方がありません。私も知らずにプラスになって、女性たちがいれば、サッと顔が向くのです。これは自然の道理です。 それゆえ、女性と男性に「一つになるな」と言っても一つになるのです。先生が試験を受ける不当千万な立場にいました。愛という旗印のもと、私が大きなプラスの磁石で日本を小さなマイナスの磁石として、日本の女性たちがすべて一つになれば大きなマイナスの磁石になり、私がサッと行けば全部ぴたっとくっついてくるのです。気分が悪いですか。気分がよければ拍手し、気分が悪ければ拍手をしないでください。(拍手) 日本の女性、世界の女性の中で、だれが文先生の側ですか。尋ねているではないですか。すべて教えてあげて、答えなさいというのに、答えを書けなければ落第です。絶対的なプラスがいるので、絶対的なマイナスになりたい人は、文総裁を絶対的につかまえなければなりませんか、つかまえてはなりませんか。私は知りません。(「つかまえなければなりません」)。女性が先頭に立たなければなりませんか、後ろに立たなければなりませんか。(「先頭に立たなければなりません」)。そうです。神様がそれを見る時、どれほどかわいいでしょうか。 女性に出会えず、神様が苦労しているのです。イエス様も女性に出会えなくて、苦労をし死んでしまいました。人がどれほど虐殺されたでしょうか。それでは、文先生は女性によく出会いましたか、出会いませんでしたか。(「よく出会いました」)。日本の女性が、どれほど先生を誘惑したでしょうか。怨讐です。ですから、きょうの題目が何ですか。「真の愛の主人になりましょう」です。 今から三百六十万双を越え三億六千万双をする さあ、孝子になる道が分かりましたね。真の愛でなければ真なる孝子がいないという結論です。今、世俗的な愛、間違った愛の伝統を受け継いだ人間たちが、このすべての愛の土台、孝子の土台、忠臣の土台、すべてを壊してしまいました。天の国の絶対愛を中心として、真なる孝子の道理、真なる忠臣の道理、真なる聖人の道理、真なる聖子の道理を経て、神様の前に立つことによって、その時に初めて相続されるのです。 アダム家庭においては、未来の国と未来の世界と未来の天の国のすべてのものをつけて、自動的に大きくなっていきながら相続するようになっていたのです。木が数年育って大きくなって実を結ぶように、そのような過程を経るのです。堕落することによって段階的に、旧約時代、新約時代の闘争歴史を数千年歩んできたのです。アダムとエバが堕落することによって、祝福された世界版図圏を築くことができませんでした。家庭で失ってしまったものを復帰し、世界的勝利圏をもつためには、メシヤを送って国家的勝利圏を拡大し、世界的勝利圏を拡大させなければならないのです。そのために来られる方が再臨主なのです。それが来られる真の父母の使命です。分かりましたか。(「はい」)。 その使命はどのようにならなければならないでしょうか。世界に勝ち、世界の数多くの民族的家庭を形成するのです。一つの家庭で失ってしまったものを、世界版図の家庭圏内で収拾するのです。兄弟です。六十億人類の兄弟と一家庭を中心として勝利できる立場に立つようになれば、アダム家庭に自動的に連結されるのです。家庭的祝福、民族的祝福、国家、世界、天宙、天地、相続すべきものを失ってしまったのです。長い歴史を、旧約時代、新約時代へと、その舞台の形態をもって一つの家庭形態を築いて祝福解放圏の世界さえ始まれば、一週間で祝福を受けることができるのです。ですから、国家時代を越えました。 ですから、世界平和家庭連合から世界平和宗親連合へと上がっていくのです。宗親連合です。その次に、世界平和国家連合です。世界平和世界連合までいってこそ、初めて地上に天上天国ができて、全人類が共に生きるのです。今から三千六百万双を越えて、三億六千万双をします。 [日本語で語られる]安息圏宣布。おもしろいことは何かというと、これは家を象徴するのです。家の冠です。これは女を象徴するのです。「安」の字は、安らかな家の中心が女です。家の中心が女なのです。女は家庭の王様です。女の仕事はそうです。子供と一つにならなければいけないのです。お母さんが主体で、子供が客体です。この女と子供が一つになった相対の主体となるのが旦那さんです。旦那さんは奥さんと相対的関係にあり、子供と相対的関係にあります。だから、子供が蘇生、女が長成、完成です。 だから、主人である女が自由に活動できる圏が家庭です。男は内的な主人ではないのです。外的な主人です。女は家を中心として、国を中心として、忠誠、忠臣の道をつくらなければなりません。女は孝子の道を準備し、男は忠誠、忠臣の道をつくります。家庭は親孝行、子供も親孝行。奥さんに対して、烈女というのです。そのように分かれているのです。だから、子供を捨てる女はいません。それは永遠の相対圏をつくるのです。 [韓国語で語られる]主人になるためには、二つが一つにならなければならないのです。主体・対象が絶対的に一つになるのが、主人の立場、主体の立場なのです。何を中心として主体になるのでしょうか。愛を中心とした主体なので、神様に通じるのです。神様の肉になるとか、産毛になるとかして、通じるというのです。分かりましたか。 ですから、創造する時は二つなのです。これも二つです。なぜですか。神様と連結するためです。その中には愛があるのです。耳も二つであり、手は一つですか。(「二つです」)。足も二つです。身体と心が二つですが、主体と対象なのです。これは闘います。他のすべてのものは闘いません。 全部が相対を中心として運動するのが、自然世界の存在原則です。そうであってこそ、永遠に継続するのです。それゆえ、相対が必要なので、すべてのもので相対でないものはありません。相対が一つになる際は自動的に一つになるのです。しかし、人だけは相対になっている心と身体が闘いますか、闘いませんか。(「闘います」)。 宗教は身体を打つ 心と身体が闘わない人、手を挙げてみなさい。闘う人、手を挙げなさい。だれがそのようにしましたか。それが問題です。神様がそのようにつくりましたか。(「違います」)。身体と心は自動的に一つになるようになっていたのです。横、縦は自動的に一つになるようになっています。だれがこのようにしたのでしょうか。反発的になったのです。日本民族は血統が同じでしょう。同じですか、違いますか。(「同じです」)。同じ血統なのです。神様の血統が連結されていたならば、身体と心は自動的に一つになるはずでしたが、サタンの血統が入ってしまったのです。何によってですか。(「愛によってです」)。愛によってです。 それが問題なのです。 善悪を知る木の果を取って食べたことでは、そのようにならないのです。愛によってここに移植されたのです。道を間違えて開いたので、誤った愛の血統になっています。ですから、その息子・娘はすべて神様の目にとげのようになっています。姦夫の息子・娘として生まれたので、これを愛することはできないのです。分かりましたか。 ここに自分が愛する人がいて、明日結婚しようとしていたのですが、その町の未婚の青年が入ってきて、女性を強奪していって子供を生んでしまいました。そして、その女性が本然の夫を一度訪ねてみようと行き、その夫と子供と母親に会う時、本来の男性は「歓迎します」と言うでしょうか。「この野郎。」と言って、おのを持ち男性の頭をたたき割り、女性の頭をたたき割り、子供の頭をたたき割るのが人情の常であり、人間の思いなのです。そのように背いた愛の血統を残したので、神様もそのようにせざるを得ないのですが、たたき壊せばどのようになってしまうのでしょうか。創造世界をすべてたたき壊さなければなりません。あぜんとするのです。仕方なく、これを再び修理するのです。修理するためのものが救援歴史なのです。宗教歴史です。 それで、宗教は身体を打つ役事をするのです。柔和で謙遜でいなさいといいます。しかし、サタンは驕慢でいなさいというのです。奉仕しなさい。本然の夫が来る時まで、絶対奉仕、絶対犠牲をすることのできる伝統ができて初めて、来られる主人に反発しないのです。 それだけではありません。奉仕し、その次には何ですか。犠牲になりなさい。断食しなさい。身体の力が抜けて、心の通りに引っ張っていくことのできるようにするのです。それだけではありません。祭物になりなさい。血を流しなさい。人は二系統になっているのです。半分である良心は天の側であり、身体はサタン側なのです。分かれろというのです。このようして引き離したものに、サタンが来てはならないのです。人が体と心が一つになり、分かれた祭物が一つになることによって、分かれた氏族、民族、世界がすべて一つになることのできる道を築いてきたのが、宗教の救援摂理なのです。 身体を打つのです。そして、それでも駄目なので、休まずに祈祷しなさいというのです。身体を弱め祈祷することによって、天の愛の炎がやって来て、力を倍加してくれるのです。そのことによってこの肉身が反対するすべてを引っ張り乗り越えて、三年、五年以上の習慣性によって一方通行にさせなさいというのです。それが宗教の信仰生活だということを知らなければなりません。 天地父母天宙安息圏宣布 いつでしたか、一昨日でしたか、宣布しました。何と言いましたか。天地父母。 (「天宙安息圏宣布です」)。天地父母は縦的父母です。その次に真の父母は横的父母です。これが三角形にならなければならないのです。(板書しながら話される)霊界と肉界を逆さまに描いたのです。縦的な基準がこのようにして、神様の真の愛と人間の真の愛がこのように出会うのです。 これをひっくり返したのです。どのようにしてもかまいません。アダムとエバを中心として暮らしました。赤ちゃんから兄弟時代を経て、夫婦時代まで行くのです。この延長線に行ってはなりません。すべて失ってしまいます。アダムとエバが育つ過程では、自分の愛の相対を知りません。エバは妹として、「お兄さん、きょう、どこに行く? お兄さん、どこにも行かずに家にいてよ」「嫌だよ。家にいてどうするのか。私は万物を主管する主人にならなければならないから、山に行って、うさぎからすずめ、蟻まで全部鑑定しなければならない」と言いながら、ご飯を食べれば、山へ、野原へ、川へと通うのです。男性はそうです。 女性はそのようなことが嫌いです。そのようなことよりも「おもちゃの魚がいればいい。おもちゃの虎、おもちゃのかえる……」と思うのです。そうして、日陰の下で遊ぶのです。風の吹かない陰の下で、そのように遊ぶことを願うのが女性なのです。 ですから、二人が過ごす時に、すべてのことをお兄さんを中心として動き、お兄さんが自分と一緒にいることを願うのですが、一緒にいることができますか。「待っていろ。」と言って行ってしまうのです。それゆえ、「お兄さん、私を連れていって」と泣いたでしょうか、泣かなかったでしょうか。毎日、心配は山のようであり、泣きながらついていけないのです。山にそのように通うので、お兄さんについて行くことができますか。あなたたちはお兄さんについていけますか。それで、母親もいません。天使長の保護のもとで育っているのですが、神様は見えません。無形の神様なのです。実体をもつ時まで現れることができません。現れても分かりません。 アダムとエバは堕落しましたが、息子・娘を生んだ後で追い出されたでしょうか、息子・娘を生む前に追い出されましたか。(「生む前に追い出されました」)。生む前に追い出されたならば、神様の愛と神様の生命と神様の血統とは関係がないということです。サタンの一族であることに間違いないということを知らなければなりません。どんなに優秀な人、美男子、美女でも、よこしまな歴史の過誤を残したこと、女性は男性を誘惑し、男性は女性を誘惑した看板がついていることを恥ずかしく思い、顔をあげて歩き回ってはいけません。 日本の女性たちは、化粧して銀座の街をあちこちと歩き回るでしょう。そのように気をひく者になって、エイズ病の森の中に入っていくのです。私たち統一教会の女性、男性たちはあちこち歩き回りますか、歩き回りませんか。世の中では女性、男性があちこちと歩き回るのですが、私たち統一教会は路地裏の日陰の中に入っていって、活動をするのです。「下りていけ、この者たち。」と命令するのです。 ある男性も統一教会に美人が多いので関心をもっています。ところが、毎日のように活動しているのでエイズが伝染しないのです。男性にも女性たちは寄り添いません。「死んでも対することはできない」と言うのです。エイズ病を避けるための神様の保護として現れた努力が、活動させて地面の穴に追い込むのです。頭をあげて立ち上がるなというのです。死んで生きなさいというのです。 私が、日本食口の中でパンツ一枚を七年間継ぎ当てをして、元の生地はなくなり、繕った糸一本糸一本で形を整えたパンツをはいていたというのを聞いた時、「ああ、文総裁が本物でなければ、雷に打たれて死ななければならない」と思いました。そのように苦労させたのに、罰を受けなければどうやって生きますか。そうではないですか。神様がいなければ雷に打たれて、いなくならなければならないでしょう。 エバ国家は終わりまで苦労しなければならない では、統一教会で多くの苦労する人でも、文総裁が雷に打たれることを願う人がいますか、いませんか。自分は千回苦労したとしても、先生が平安に休むことを願うのです。先生の生涯で、あなたたちが考える休暇がありましたか、休む日がありましたか、おもしろい体験をしましたか。監獄に通ったのは知ってみると、自分と双子だったお兄さんです。双子として生まれたお兄さんであり、自分と別れることのできないお兄さんです。将来、そのお兄さんが結婚して、お母さん、お父さんになり、宇宙で神様に侍ることのできる王子、王女にならなければならないのです。 それを知ってからはどのようにするのですか。そのお兄さんが行く道、そのお兄さんよりももっと苦労して、堕落したエバたちが救われるために何十倍、何百倍の苦労をしなければなりません。先生は天から降りてきましたが、自分たちは三百六十度を全部汚したので、三百六十回死んでから蘇ったとしても、それをすべて平準化させる責任が女性たちにあるというのです。 ですから、女性国家、エバ国家は終わりまで苦労をしなければならないのです。分かりましたか。 (「はい。」)。三百六十万双で何等でしたか。(「一等です」)。今、三百六十万双で一等ですか。エバが家庭を破壊したので、復帰時代には一等にならなければなりませんか、びり等にならなければなりませんか。(「一等にならなければなりません」)。今、何等ですか。びり等です。一度言ってみなさい。びり等、びり等、びり等。頭をあげなさい。顔を後ろにそらして、肩に力を入れて自慢しますか、恥ずかしくてうなだれますか。びり等、びり等、びり等、びり等、びり等、びり等、びり等、(声がだんだん小さくなる)……。 びり等を好きな人がいますか。ですから、私は韓国に対して、「韓国の祖国光復のために、韓国が信仰の祖国の威信を立てなければならない。この者たち。」と言ってしかり飛ばしたのです。私が日本に行って、しかり飛ばさなければならないのですが、日本には行くことができません。しかり飛ばしましたか、そのままにしておきましたか。あなたたちが二百十万双をしても余りあるようにたたいて駆り立てましたか、そのままにしておきましたか。韓国はお母様が来て三回ずつたたいて駆り立てましたが、日本は裂いても裂くことができません。今回、びりになりました。びりになってエバ国家の体面を立てられますか、立てられませんか。(「立てられません」)。 そうだといって、国家をかけてアダム国家とエバ国家が結婚式をしましたか、しませんでしたか。国家的次元でできなかったではないですか。その道を行くのです。南北が一つにならなければならず、東西も分立されています。韓国のせいなのです。冷戦時代になったというのです。[日本語で語られる]韓国動乱によって冷戦時代が始まり、冷戦時代が終わるのも、韓国のオリンピック大会の時にソ連とアメリカがオリンピックで一つになったのです。韓国が中心です。南北が一つになっていません。このように先生が南北統一の条件をすべて立てて、このような宣布をしました。安息圏宣布をしたのです。 [韓国語で語られる]今からは女性たちが連合して、国を救うのです。男性たちは信じられません。よこしまな者たちが世界を滅ぼしたので、女性たちが一つにならなければなりません。それで、お母様がここに来て十六数で南北の女性を連合したその基盤の上に先生が立って、国家的に宣言するのです。「私の言うことを聞きなさい。私に任せなさい」と言うのです。全部問題が起こるのです。女性たちを中心として、争う政治家の妻たちが家庭的に統一的な基盤をつくって、これらの家庭を新しく祝福を受けさせて、天の政道に従っていける群れをつくらなければならないと言って指導して、きょう、ここに現れたのです。 そうであれば、ここで日本が「ウイサ、ウイサ、ウイサ。」と言って押してあげなければならないのです。そのようになっていますか。日本が文総裁を後ろから押してあげ、二つが一つになってアジアの英雄をつくらなければならないはずなのに、今、責任を果たせずにいるのです。お嫁にも行けず、新郎も迎えられない立場に立って、何を手助けしますか。それゆえ、フィリピンだとか台湾が、日本を代身できる時代が来るのです。 もう三百六十万双を乗り越えました。三千六百双の手本をだれが残すのですか。韓国と、アジアにおいてはフィリピンと台湾です。そうではないですか。日本は落後しています。それゆえ、今から日本に帰って何があったとしてもこの仕事をなしてこそ、延命することができるのです。命が残ることを知らなければなりません。エバ国家圏はいくらでもあります。これを防止するために島嶼国家連合をつくり、半島国家連合をつくり、大陸国家連合をつくったのです。 [日本語で語られる]島嶼国家連合、半島国家連合、大陸国家連合。日本を救うため、いかりを東西南北に下ろし、船が沈まないようにして、それを警告しました。新婦としての使命を果たすために、宣教師を全世界に送り、再び抱擁して、再び生み変えるような忠誠の道を行くのです。(奥さんを)宣教師として送って、「ああ、自分の祝福家庭がどうなるのか……」、それは問題ではないのです。神の願う世界の救援の目的に援助すべき日本が、それに逆らう立場に立つのが問題なのです。そうなった場合には日本は、予言者の予言通り、一九九九年には太平洋に没落します。なくなってしまいます。そういう警告も察知したのです。分かりましたか。 それは何かというと、真の主人になっていない、愛の主人になっていないのです。先生を目指して、日本が本当にすべてを捧げていないのです。その問題の最初は何かというと、愛を失ったのです。絶対愛の主君を失ったのです。それを合わせるために、アダム国家、エバ国家の表彰をつけているのです。「日本はエバ国だ」と信じているのですか、知っているのですか。知っていますか、信じていますか。(「知っています」)。信じていては何もなりません。信じるというのは間接であって、実在ではないのです。 [韓国語で語られる]実在が必要です。実在にならなければなりません。ご父母様の愛の対象圏を蹂躙しているということを知らなければなりません。無念で悔しいことです。国が問題ではありません。真の愛は、国を与えても買えず、世界を与えても買えず、天地を与えても買えないのです。神様までも動かずに待っていることを知らなければなりません。その愛の主人を自分勝手に売るのですか。一身の細胞を全部ずたずたに裂かれても、新婦全体を祭物としても、惜しくないというのです。そのようにしても新婦の立場に立てないのです。はっきりと知りなさい。分かりましたか。 (「はい。」)。 真の愛の主人にならなければならない [日本語で語られる]はっきりしなさい。弁明ができないのです。まずもって愛を切るのです。旦那さんを否認してしまいなさい。堕落のために偽りの所有権が生まれたのです。これを否定しなければいけません。自分の家とか自分の国(という概念)、それは自分のものではないし、日本のものではないのです。アダム・エバが結婚する前に、それは神のものでした。そうでしょう。愛も神のもの、所有権も神のもの、それから心情圏も神のものだったのです。堕落によって転覆してしまったのだから、再度命を懸けて、真の父を中心として反対の方向に展開しようとする時に、エバ国家がそれに背いて愛の相対圏に立たなかった、所有権の転換もなせなかった、それから百六十軒、百八十五軒、氏族を一致させて、神の国に接ぎ木もしなかったとするならば、それをなすまで延長、延長して、大変なことになるのです。 だから、愛の主人になりなさい。愛の主人になっていないのです。日本は、自分たちがやると決意しても、それに対して……、世界的な計画がみんなめちゃくちゃになったのです。一回めちゃくちゃになり、三回もめちゃくちゃになりました。今はエバ国家群の国は、いくらでもあるのです。今、父母圏、王圏時代に入るから、これを抱えながら先生が苦労して、苦労して、神に心配をかけるようなことを続ければいいのでしょうか、やめなければいけないのでしょうか。処理すべきですか、維持すべきですか。(「処理すべきです」)。日本と統一世界、先生がそれをエバ国家と天使長の国家に認定しなかった場合には、こういうような復帰はできません。 第二次大戦後、サタンが、頭であるイギリスと、カイン・アベル国家であるフランスとアメリカをすっと握ったので、その反対の尻尾のほうにあった、廃墟になった日本をエバ国に立てたのです。先生から言ったから……。それは思いもよらない憤慨すべき道なのですが、仕方ないのです。 そういう日本の個人も、日本の家庭も、日本の県も、日本の国も、心情圏の民族全体も、一億二千万も、みんな愛の元の位置、旦那さんの新郎の所に行かなければなりません。それが再臨のメシヤです。第三アダムの世界的勝利の支柱になるべきなのです。分かりましたか。(「はい」)。その見地から見て、日本は今大変です。第二の宣言をしなければならないのです。だから、きのう夜通しで、すぐに対処するように言ったのです。のるかそるかの天下分け目、官軍と幕府の、それは関が原の戦いと同じ時代に入っているのです。一歩損ねた場合には、恥辱のどん底に落ちるのです。危機一発の破壊状況を迎えた日本の実情を知らなければなりません。 きょうは、真の愛の主人にならなければならないという話です。先生の絶対要求、摂理観と一つになった時に、自分の要求とか、日本の要求とか、いうものはありません。 全部いっぺんに取っていったのです。安息圏というのは、家を言うのです。家がなければ安息することはできないのです。分かりましたか。すべての万物は相対的になっているのに、それがサタン的に主管されるのだから、みんな嘆息圏にあるのです。ローマ人への手紙八章にあるのです。「すべてが嘆息している」と。解放のひと時を願っているのが万物であり、人間なのです。天地世界共々が再臨の日を待っているのです。再臨の日にみんなふたを開けて解除してもらうのです。 [韓国語で語られる]安息圏は、日曜日、月曜日、火曜日……一週間いつでも、地の地獄までも、地上天国、天上天国までも、どこでも思い通りに、神様が行ったり来たりしながら休むことができるというのです。休むことができると同時に、霊界ではおいしいもの、食べたいものを、いつでも神様が思い通りにつくって食べることができるのです。天下のすべての貴いものをもっていって、どこであれ食べることができるのです。 それが王権を中心とした天の国だけでなく、この地の神様の家庭、神様が暮らすことのできる国、神様が暮らすことのできる世界、神様の無限な天国まで連結され得る相対的価値と因縁をつくったので、私たちが無限の世界に飛躍して相続権を受け、神様と苦楽を共にできる主人にならなければならないのが、創造の目的であり、理想だったのです。アーメン。(「アーメン」)。 神様は、神様の夫人たるエバ、神様の息子・娘たるカイン・アベルを失ってしまいました。再臨主はこれを取り戻しにくるのです。あらゆる家庭の、おばあさんであれ、おばさんであれ、乙女であれ、浮気する女性であれ、全部先生が取り戻してこなければなりません。すべて私の愛する人です。その次には、息子・娘を取り戻してこなければなりません。それゆえ、これに反対するのがサタンです。「レバレンド・ムーンは夫人泥棒。世界の夫泥棒だ。レバレンド・ムーンは自分の妻や母親を奪っただけではない。息子・娘まで全部盗んだ泥棒だ……」。 [日本語で語られる]「取っていって幸福な生活をさせるのではなく、召使のようにしたり、地獄に落ちるようにさせて、自分は傲慢な豪華な生活をやっている」と言うのです。 先生は統一教会の教祖で幸福な生活を送っているのですか。では、なぜこんなものを着ているのでしょうか。いつも欠けたものを着ています。あなたたちが良心の呵責を受ける条件として、どこに行っても欠けたものを着ているのです。サタン的な公式の場には、堂々たる装いをして現れるのです。そういうことを知らないのだから仕方ありません。 日本のメンバーたち、世界のメンバーたちも苦労しています。その前にあってはこういう生活をしなければ、文先生は指導者の立場に立つことはできません。目から、口から、鼻から、耳から、すべてにおいて模範にならなければならないのです。苦労、苦労するのです。人間の生涯を懸けて、先生以上に苦労した者はないのです。得るものはすべて得られます。家をいくらでももてるし、自動車、飛行機も何台ももつような実力をもちました。国家首相たちを連れて、友達にして教育するような関係もみんなもちました。でもそんなことは、天の利益を満たした上にあるのであって、自分の利益は考えません。 きみたちはそうではないでしょう。統一教会を信じて祝福され、自分の幸福を求め、自分が成功したふりをして生きてみたいのでしょう。それでは復帰できません。天に帰れません。この地上の世界に対して、百八十度反対の方向に行かなければ、天に近づく道はありません。分かりましたか。 (「はい。」)。 [韓国語で語られる]現在生きている形態の百八十度違った形態の姿、自分の存在意識を忘れ、御旨の存在の意識だけが、第一条から第百二十条になることのできる生活をする人が天国に行くのです。自分の息子・娘、自分の家、自分の夫、自分の一族のために、天の方向に前進するものを妨害する群れたちは、天の前に逆賊であり、反逆者だということを知らなければなりません。分かりましたか。 (「はい。」)。 [日本語で語られる]そのような道を越えずしては、真の愛の主人になりません。そのようなことをはっきりと知れば、今回、帰り、総合的な決心をして、萬生懸命ですか、一生懸命ですか。(「萬生懸命です」)。一生懸命は日本的ですが、萬生懸命は天的なものです。「話にもならず、信じられない、どのような話でも信じて乗り越えよう」。そういう決意をせずしては、日本はエバ国家の使命を果たせる道が永遠にないというのです。分かりましたか。 そのような惨めな日本人になることを願う日本人は一人もいないはずです。そのような結果の一人の圏内に入りたいですか、それを凌駕する人になりたいですか。凌駕したいという者、両手を挙げてみなさい。 そのようにすれば、きみたちにも真の愛の主人になる道があるでしょう。先生も相対関係でつなぎ、家庭も相対関係、国も相対関係、世界、天宙も相対関係でつなぐでありましょう。それゆえ、真なる主人になるのが間違いないので、きょうの題目に合った内容の通りになされることを決意したのだから、それを信じて、先生は安心して、行くべき道を引き続き行きます。振り返ってみた場合に、再び失望させないことをお願いしながら先生の言葉を終わりにいたします。(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.28
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真の愛を中心とした真なる家庭と真なる宇宙「世界平和と真の家庭運動 世界活動報告会」主題講演1997年8月10日韓国ソウル・新羅ホテル 尊敬するご来賓の皆様、親愛なる文氏、韓氏宗親連合会員の皆様、特別にこの場にご光臨賜った著名なる紳士淑女の皆様7 公私多忙であられる中にもかかわらず、この場にご来臨くださった皆様に深く感謝を申し上げます。 このような貴き日、私が心から皆様にささげたい最も貴い返礼の贈り物があるとするならば、それは私がこれまで世界を巡回しながら教えてきた、最も代表的な二つのお話をご紹介することです。 それは、「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」というお話です。現代においては男女問題と家庭問題、そして青少年問題が絶対的に解決されなければなりませんが、この二つのお話は、その根本的な解決方案を提示しているのです。 各自帰られて、自らを振り返り、家庭を愛したい思いが生じるたびに、このお話を深く考えてくだされば、皆様が幸福で円満な家庭を築くのに大きな助けとなることでしょう。 皆様は、この二つのお話を皆様の年の数ほど読まれるようにお願いします。年齢が八十歳を超えているなら、八十回以上読むべきです。皆様が読めば読むほど、天の祝福と天運が共にあることでしょう。読めば読むほど、その家庭に平和が自動的に臨むようになるはずですので、たくさん読まれるようにお願いいたします。 一番目のお話の主題は、「救援摂理史の原理観」です。その内容を要約すれば、神様を中心として結婚し、真の父母になることです。第一次アダム家庭でアダムが失敗して堕落したので、第二次アダムとしてイエス様が来られて、これを国家的な次元で復帰しなければならないということです。 ですから、第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであられるイエス様は、第二次アダムとして来られたのです。しかし、真の父母の家庭を築くことができずに約束だけして亡くなられることによって、第三次アダムが再び来られ、世界的基準で真のご父母様の使命を蕩減復帰しなければならないのです。これが、第三次アダムとして来られる再臨主の使命です。したがって、旧約時代、新約時代、成約時代を完成するのです。そして、人類救援の根本問題が、血統復帰という事実も明らかにしています。 こうして、真の父母を中心として成約時代を迎える、世界的に広がった祝福結婚式となるのです。 二番目のお話の主題は、「宇宙の根本を探して」です。人間堕落の根本が愛によって成立したので、人類は真の愛を失ってしまいました。そのことから、この真の愛をどのように取り戻すかという問題が提起されています。 真の愛を失ってしまったということは、淫乱によって堕落したという意味です。すなわち、生殖器を中心として過ちを犯したので、これを取り戻そうとすれば、その反対に正しく行かなければならないということです。このように、間違った愛がエデンの園で植えられたものが、終わりの日の刈り入れのときにその結果として現れる現象が青少年問題なのです。 ですから、セックス混乱時代が来るのです。これを清算するのは、絶対純潔(絶対的「性」)でなければならないということです。このような絶対純潔(絶対的「性」)の概念でのみ、家庭破壊を防止し、青少年の淪落を防ぐことができるのです。 今晩は、時間が限定されていますので、「真の愛を中心とした真なる家庭と真なる宇宙」という新しい主題で、今から皆様とお話を分かち合おうと思います。 ここに集った皆様は、すべて父母を持っています。そして、師を持っており、国の主を持っています。それは、だれにとっても絶対的に必要なものです。 しかし、たとえ父母であるといっても、真という基準を中心として見るときには、いろいろな基準があります。皆様自身は、果たしてどれくらい真なる父母になったと思われますか? また、「師」ということをとっても、アメリカにあるハーバード、エール、コロンビアのようなアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門私立大学八校で結成しているリーグ)に属した大学であるとか、イギリスのオックスフォードやケンブリッジなどの大学の教授なら、それですべて真なる「師」と言えるでしょうか? 国の主人も、「真」という基準から見るとき、皆、同じではあり得ません。皆様は、アメリカのような強大国の大統領ならば皆、真なる大統領であると思われますか? 事実、今日の家庭では、子供が親を信じることができず、夫婦同士も互いに信じることができず、兄弟同士も不信し合うような間柄になっています。学校では先生のことを信じることができず、国では国の責任者を信じることができないというのが、今日の実情なのです。 このように、皆様が願われるこの三つの重要な立場、すなわち父母と師、国の主人の中で、「真」という基準を中心として見た場合、一つでも合格することができるのか、ということが問題なのです。 皆様が真なる父母になり、真なる師になり、真なる主人にならなければならないとするならば、そのような世界最高の基準と、そのすべてのモデルの中心はだれなのでしょうか? それが正に神様なのです。 神様は、父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王であられます。神様は永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人であられます。 私たちが神様の子女になるとするならば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければならないのです。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大主体思想です。その究極的なモデルは、神様なのです。 旧約聖書に記録されている、イスラエル民族の前に送られるメシヤとはだれのことでしょうか? メシヤは、正に真の父母として来られるおかたであり、真の師として来られるおかたであり、真の王として来られるおかたです。 しかし、イエス様がこの地上で家庭を持って民族を一つにすることができなかったことによって、メシヤは再び地上に来られなければならないのです。再び来られるメシヤは第三次アダムとして来られて、世界的基準で真の父母権と、真の師権と、真の王圏を教えてくださろうとするのです。これが正にメシヤ思想です。 ですから、家庭があり、国家があり、世界があり、天がある所ならば、いつでもどこででも、この三大主体思想が正しく確立されなければならないのです。 人が空間の世界に立つためには、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうでなければ、自分の存在位置が確定されません。皆様が上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによって、さまざまな姿になるのです。 皆様の上下、左右、前後関係、そして、家庭の問題、国の問題、世界の問題を扱ううえにおいて、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭においても父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければならないのです。 これと同じように、国においても国の主人を中心として、すべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべてかき抱き、それから世界の万民を兄弟姉妹のようにかき抱いて、結局、一つの家庭のモデルを築くのです。モデルは全く同じです。 そして、自分自身がそのモデルの中心となるのです。自分がいる後には、自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして、神様まで進んでいかなければならないのと同じ道理です。皆様には、宇宙の中心になりたい気持ちがあるだけではなく、すべて皆、そのようになることができるのです。 このように、宇宙において、その核に当たるものが家庭の概念です。天を父母として見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴するので、女性は結婚することによって、どこでも夫の位置に従っていくのです。 西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値を持つようになることと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として役事するとき、弟妹たちが協助するようになるのです。 ですから、人間は父子の関係を持ち、夫婦関係を持ち、兄弟関係を持たなければなりません。つまり、この三つの関係が、一点になければなりません。その中心点は一つなのです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が狂えば、上下、左右、前後関係の均衡が皆、崩れてしまうのです。 ですから結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで合わせると、全部で七数を成すようになるのです。このように七数を成すということはすなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つになって、これらすべてが完全に球形を成して、調和と統一を成す家庭になることです。私たちが、よく「ラッキー7」というのも、このような観点から見れば一理あることなのです。 それで、これが一つに定着して回るようになれば、八数です。真の愛が永遠に変わらない限り、この中心も変わらず、永遠に回ることができたはずなのですが、堕落することによって神様を中心から追い出してしまったのです。神様の真の愛を全部追い出してしまったので、真の家庭理想がすべて崩れてしまったのです。 西洋と東洋は、その生活習慣において、あまりにも異なる点がたくさんあります。さまざまな面で正反対です。例えば、韓国で人を呼ぶときは、手のひらを下にして手招きしますが、西洋の人たちはそのようにすると、かえってもっと遠くに行ってしまいます。「私のことが嫌いで行ってしまうのだろうか?」と、むしろ誤解してしまうようになっています。 西洋の文字は、横的なものであり、左側から右側に進行しますが、東洋の文字は本来縦的なもので、上から下に書いて読むようになっています。ですから、西洋の本は左側から開いてみますが、東洋の本は右側から開いてみます。西洋文明は一種の横的文明なのです。 握手であいさつするのは、横的なあいさつということです。頭を下げながら、あいさつする東洋文明は縦的です。東洋では、家庭制度の核が先祖でなければならないという伝統がありますが、西洋ではそのような核が強くありません。先祖を核とする概念がないのです。自己中心であるというのです。 すべてのものが核から連結されるので、核が動かなければすべてが動かないのです。ですから、中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、すべて同等です。それを分ければ十二切れになりますが、その十二切れをどこに合わせても皆、合います。 祖父が願えば孫は反対せず、子女もそれを願うようになり、三代が皆、一緒に願うようになるのです。祖父、祖母、父、母、夫婦、息子、娘、全部中心に合わせるようになるのです。 この愛を中心として見るとき、父子の関係も一つであるので一体であるといい、夫婦関係も一体であり、兄弟間も一体であるといいます。一つの体です。何を中心として、このような関係を一体であるというのかと言えば、愛の中心である神様の真の愛を中心として言うのです。 真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一つの体になり、兄弟間も同様です。このようになることによって、すべてのものの価値が同等になるのです。 では、神様がその子女に願うことは何でしょうか? お金をたくさん稼いで百万長者になることでしょうか? 国の最高の権力を手にした大統領になることでしょうか? 神様が息子と娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが成長して孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。 では、皆様は神様が願われるように、家庭では孝子、国では忠臣、世界では聖人、天地の前に聖子になろうという思いを持ったことがあるでしょうか? 歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子、忠臣、聖人、そして、聖子になるようにと教えてきました。 今晩、皆様はこのような理想的な人間、すなわち人間がその人格完成に必要とする孝子、忠臣、聖人、聖子の道理という観点から見るとき、合格したと見ることができますか? このような内容を知らずしては、家庭で真なる父母の役割を果たすことはできません。 真なる父母であれば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。自分の子供たちをして、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、その後に、神様まで行かなければならないということを、教えてあげなければならないのです。そのように教える人がいるとすれば、神様がごらんになるとき、初めて真なる父母、真なる師、そして真なる主人であると考えられるのです。 皆様に真なる父母の資格があり、真なる師の資格があるというときには、真なる主人の資格も備えるようになり、さらには真なる王になることのできる資格まで備えるようになります。 堕落した人に、真なる孝子という概念があるでしょうか? 忠臣の概念もありません。聖人の概念もありません。聖子という概念もありません。 ですから、滅びるのです。だれが聖子になることを願うのでしょうか? 神様が願われるのです。聖人になることをだれが願うのでしょうか? 世界が願います。国は何を願うのかと言えば、忠臣を願います。家庭は孝子を願います。これが正に、真なる真理の道です。 愛を中心としたこのような真理は、一つの方向で永遠に持続するのです。そのことを知らなかったのです。それで、真なる父母になれなかったのです。国の真なる主人になれませんでした。聖人や真なる聖子になれなかったのです。 イエス様がこの地上に来られたとき、家庭にそのような真の主人がおらず、国と世界にもそのような真の主人がおらず、結局、天地に真の主人がいませんでした。どのようにして、その道理の道を行かなければならないかを知らなかったというのです。しかし、もはや知らなければなりません。 真なる父母は、「孝子になったから、忠臣になるな」とは言いません。真なる父母は、その孝子に「おまえは、家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たし、世界のために生きなければならない。また、世界を犠牲にして、天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして、神様を求めていかなければならない」と、教えてあげなければなりません。 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければ、愛国者になることはできません。 聖人というものは、自分の国を犠牲にして、世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして、天上天国と地上天国を築かなければならないのです。 ですから、すべての父母たちの中で、より子供のために生きる父母が真の父母であり、いかなる師よりも、よりために生きる師が真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために犠牲になろうという大統領が本物です。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲になるのです。そのようにしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に来ないのです。 個人主義がどこにありますか? 自己において自己だけを主張する部分は一つもありません。子供が父母の愛によって、母親のおなかの中、卵子から育って生まれるとき、その九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉です。 そしてそこに〇・〇〇一パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには、「自己」という概念はあり得ません。だれでも生まれるとき、自分自身だけという概念はなかったのです。 いかに立派な人であっても、自分一人で立派に生まれついたと言える人は一人もいません。レバレンド・ムーンも同様です。骨や血や肉もすべて母親のおなかの中で譲り受けたものです。 この体の重要な部分は、母親の体の延長だということを認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、精子と卵子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠がないのです。 「上」という言葉が成り立つときは、「下」を認めたうえで言う言葉です。「上」ということだけで、個人主義が成り立つでしょうか? 個人だけという概念はあり得ません。「右」というのは、「左」というものをあらかじめ前提としたうえで言う言葉です。「前後」について見ても、「前」というのは「後ろ」を前もって認定して言う言葉です。 男性という言葉も、男性一人を念頭に置いて言う言葉ではありません。女性を前提条件にして言う言葉なのです。これは、だれか一個人の言葉なのではなく、宇宙的な事実です。 男性は、なぜ生まれたのでしょうか? 男性たちはよく、自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がないなどと皆言いますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないということです。結局、自分のために生まれたものは、一つもないのです。 私たちの五官を見てください。自分の目が、自分の目を見るために生まれたのでしょうか? 鼻や耳、口、手もすべて、相対のために生まれました。五官を総動員して、集中させることのできるその力が何かと言えば、真の愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。 自分のために生まれたものは一つもありません。人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものを持ってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか? ですから、女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。 男性と女性は、何が互いに異なるのでしょうか? まず、生殖器を含んだ体が異なります。では、男性の生殖器は、だれにとって絶対に必要なのでしょうか? 男性の生殖器は、女性のためにあるのです。 人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになったのでしょうか? 二つとも、とがらせるとか、二つとも平べったくすることができるのに、なぜそのように異なって生まれたのでしょうか? すべて、相対のためです。 男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願うのです。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を知るのです。 二つが一つになるような経験を通してのみ、最高の高い境地の愛を知ることができるのです。どこのだれであれ、このような事実を絶対に否定することができません。だれでも皆、認定しなければならないのです。二つが完全に一つになるその場で、理想的な夫婦が生まれます。正に、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在されるのです。 ですから、絶対純潔(絶対的「性」)は神様を中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家や経済人たちは、文学作品やメディアを通してフリーセックスを刺激することが多くありました。ですから今から私たちは皆、政治家や経済人、文人、作家と言論人たちと一つになって先頭に立ち、フリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは、完全になくならなければなりません。 レバレンド・ムーンの話を聞けば、皆様の現在の立場とは百八十度異なる人間になり、異なる国になり、異なる世界になるのです。間違いなく変わります。この悪なる世界を完全に変化させることは、絶対に必要なことです。 ところが、サタンを含めた悪の世界の人たちは、神側の人々を好みません。それで、世の中すべてがレバレンド・ムーンに反対してきました。国家と世界的次元でも反対しました。しかし、レバレンド・ムーンは神様に属しているので、神様がレバレンド・ムーンを保護してこられたのです。 レバレンド・ムーンをサタンは嫌いますが、神様は好かれるのです。いくらレバレンド・ムーンを悲しませ、押さえつけて、無視するとしても、レバレンド・ムーンは意に介しませんでした。レバレンド・ムーンは、下がってはいきませんでした。むしろ、最も高い立場まで上がっていくようになりました。それで今は、どこのだれであれレバレンド・ムーンに反対できないようになったのです。 あらゆる迫害を受けながら、どうしてこのような世界的な基盤を築くことができたのでしょうか? いかなる力でもって、世界の碩学と最高の指導者たちを教え導くこのような基盤を築くことができたのでしょうか? 神様がそのような力をレバレンド・ムーンに下さったので可能だったのです。神様が私を保護され、私にそのような方向性を教えてくださり、今も継続して保護し教え導いてくださっているので、レバレンド・ムーンは、常に成功の道を進んでいるのです。 歴史以来、霊界に通じることのできた多くの宗教指導者たちがいましたが、レバレンド・ムーンほど霊界を知り、かの天の国、霊界を統一して、この地上に現れたのはレバレンド・ムーン一人しかいないということを知らなければなりません。 そうして、神様から玉璽を受けました。そうでなければ、地上の統一はできません。神様が霊界でそのように私を訓練し育てられたように、この地上においてもそのように継続して導いておられるということを知らなければなりません。 二十余年間、レバレンド・ムーンは、新教の地アメリカに行って多くの迫害を受けました。しかし、イエス様が亡くなられて以後二千年間、すさまじい殉教の血を流したキリスト教を、この国に定着させようという神様のみ意を知ったので、アメリカを捨てることができなかったのです。旧教の地、南米も同様です。四十余年前にレバレンド・ムーンを受け入れていたならば、南米も北米もどのようになっただろうかと考えてみてくださるようにお願いします。韓国においては、なおさらそうです。 それでは、真の愛はどこから始まるのでしょうか? 自分の生命を投じた後、また復活して、三度以上より投入しようというところから真の愛が始まるのです。私たちは、堕落した血を受け継いだので、自分の生命を懸けてでもこれを越えなければなりません。 ですから、「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」というのです。イエス様もこの地上に来られて、その道を行かれたのです。そのことによって、世界を支配することができたのです。 利己的な個人主義ではありません。利他主義です。ですから、私たち夫婦は、一生の間に数百億ドルのお金を得ましたが、一銭も私たちのものはありません。皆、世界のために投入しては忘れてしまい、また苦労しお金を作っては、また投入する、そのようなことを反復するのです。 「神様の下の一つの国」と「神様の下の一つの世界」のうち、皆様はどちらが好きですか? 一部のアメリカの人たちは、「神様の下の一つの世界」が好きではありません。 また、一部の白人たちは、黒人が好きではありません。アングロ・サクソン系の白人の新教徒たちが、アメリカの支配的な立場を占めていますが、彼らを中心としたアメリカは、世界のために生きるという考えを持たなければなりません。もし、アメリカだけのために生きるというのなら、アメリカは存続することができないのです。 今は、時代が変わっています。到来する時代とは、「神様の下の一つの世界」です。神様は、このような世界のために働いておられ、また、そのような摂理のために働く者を助けておられます。 そして、これからも永遠にそのような者たちを助けていかれることでしょう。ところで問題は、すべての人たちが、このような世界で暮らすことを願いながらも、そのような摂理の同参者になることは好まない、ということです。 一つの平和な世界をつくるために、私たち夫婦はさまざまな努力を傾けています。そのうち、いくつかの代表的な例を挙げれば、人種と宗教、国境、言語の障壁を超越して、未来世界の基盤を固める理想的な国連大学を建てることです。また、世界的な知識を交流させるために、遠隔通信大学が必要です。 医学では、堕落によって生じた肉身の病気を治療するだけではなく、東西文化の和合を通して、東西洋の葛藤までも修復させるという次元から、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。東西思想と医学が一つになってこそ、今後、エイズのような難病を治せるようになることでしょう。 韓国では、医学教育を全く受けていない農村の青年たちの中で、エイズのように現代医学でも治すことが困難な病を治すことのできる特別な治療法を、霊界から教えられた人々がたくさんいます。ですから、霊的世界の事実を認めなくなれば、大きな問題が起こるのです。このすべての課題は、すでにブリッジポート大学(米国)と鮮文大学(韓国)を中心として、実践に移されつつあります。 さらに私たち夫婦は、すでにアメリカのワシントン・タイムズだけでなく、南北米すべての国々をカバーする言論機関をつくりました。これらの言論機関は、まもなく世界百八十五か国まで拡張され、世界が一つになって学び、協力するのに大きく貢献するようになることでしょう。 レバレンド・ムーンはアメリカに行って、アメリカ国民の前に一つも負債を負いませんでした。むしろ、アメリカが私の世話になりました。天から受けた祝福でもって、レバレンド・ムーンはアメリカを祝福しました。私たち夫婦は、天から受けた祝福を世界にすべて分け与えました。南米も韓国もレバレンド・ムーンを歓迎して、アメリカのような祝福を受けることを願っています。 どんなに反対しても、より多く愛する人が主人になるのです。より多く愛し、より多く投入し、より多く与えて忘れる者が中心存在になるのです。これがまさしく天法なのです。 これから皆様は、家庭において父母の前に孝行し、国の前に忠臣になり、世界の前に聖人になり、神様の前に聖子になる道を行くべきです。だれであろうと、家庭、国家、世界、天、地の前に恥ずかしくない、この宇宙自然の中で天運の保護を受ける自らとなり、神様の最高の愛を受ける家庭を築くべきなのです。 そうして、地上天国に転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上天上王圏時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を求めゆく国際合同結婚式を迎えなければなりません。 皆様もすべて、今年の三百六十万双の祝福結婚式を超えて、三千六百万双の合同結婚式に参与してくださるようにお願いします。そうして、天地が歓迎する人になって、永生の道を求めるようにお願いします。 私たち皆が、神様と真のご父母様の血族になり、神様の真の愛を中心とした真なる家庭と真なる世界(宇宙)文化創建の主役になって、来る二十一世紀を平和と統一の世界へと建設していくことを願いながら、これで私の話を終わります。 皆様と、皆様の家庭と、なされている事業に、神様の祝福が共にありますようにお祈りいたします。 ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.28
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「七・八節」(天地父母天宙安息圏宣布)の御言(後編)1997年8月9日(陰暦7月7日)九里市水澤洞・中央修練院 孤独な神様 真の愛とは何ですか? 神様にとって、最も胸の詰まる事実を、皆さんは知るべきです。忘れることができないことを忘れてしまわなければならない、ということです。 アダムとエバが堕落するとき、天使長が姦夫サタンとなって、自分の愛する妻を奪い、息子と娘をすべて滅亡させ、その家庭と世界全部を破綻させたという、この事実をどのようにして忘れるというのですか? 忘れられないことを忘れなければならない神様の身の上を知る人が、どこにいたでしょうか? ですから、終わりの日になれば、そのような四分五裂になった形態が広がるのです。自分の夫や妻を奪っていったとしても、神様が忘れることができないものを忘れられたように、それを平凡なこととしてしまうことができるように忘れてしまう環境(当たり前のように何も感じなくなる環境)へと引っ張っていくのです。 そのために近親〇姦関係まで行くのです。近親とはだれのことですか? 親子の関係です。一番近い愛の関係において混乱が起こるのです。サタンの悪なる世界では、愛の痕跡は一つも残り得ません。神様までも放り出すのです。 おじいさんが孫娘と暮らします。父親、母親がいるにもかかわらず、その娘と暮らすのです。まったく、信じられないことです。姉と弟の姉弟同士で暮らしています。そこまで落ちているのです。ですから、天の反対の立場であるサタンは、世の中で貴いということのすべてを奪っていったのです。 神様が最も貴く考えるのは、近親絶対理想的相対関係であり、近親〇姦関係ではありません。それを近親〇姦関係にしてしまったというのです。サタンは、そのことを知っているので、神様が立たれることのできる足場を完全に破壊させるための行動をするのです。ですから、愛という痕跡はありません。神様の前に愛をもって立てるべきものは一つもありません。すべて壊れてしまいました。分かりましたか? 神様はなぜ、そのような立場に立てたのでしょうか? アダムは十六歳で堕落しました。十六歳といえば、男性と女性は思春期の気分を感じることのできる環境ですが、もう少しだけ待って、一年半だけ越えて十八歳になれば、天が祝福することのできる年齢になっていたのです。それなのに、それをサタンが知りました。ですから、誘惑して堕落させたのです。 堕落することによって、どのようなことが起こったでしょうか? 今の世の中ならば、男性ならば女性と相姦関係を結んで結婚すれば、それでいいかもしれませんが、ここでは結婚してはいけません。主人が変わってしまったのです。 サタンという偽りの父母の血統を通して、淪落したエバを通してアダムまで曲げてしまったのです。アダムが堕落しなかったならば、エバを再びつくることは問題ありません。アダムまで曲げてしまったので、根本がなくなってしまったのです。 しかたなく神様は、恨を抱かれながら再び取り戻さなければならないというのです。ですから、再創造を始められたのです。救援摂理歴史は復帰歴史であり、復帰歴史は、蕩減原理を通して再創造の過程を再び経なければ、永遠に完成を成し遂げることはできない、という基準を中心として摂理されたのです。気の遠くなるようなことでしょう。 ですから、対することのできない、忘れてしまうべき、このサタンの息子・娘を忘れてはならないのです。忘れるべき者を忘れることのできない神様の苦しみが、どれほど大きかったでしょうか? その忘れてしまうしかない者を忘れられない立場に立てておいて、そのためにどれくらい投入されたのかというのです。投入できないものを投入してこられたのです。 それでは、投入してから何をしようというのでしょうか? 愛の対象を捜していくのです。愛そうとしても愛することのできない立場で愛される神様の孤独な身の上を、だれが知っていたでしょうか? あなたたちはどうですか? 一代を中心とした、あなたたち一世代の悲惨なものは、この天地の中では一点の雲ほどにもならないのです。天地のすべてのものが生死の圏を越えて、破壊一筋に地獄へと向かう破滅の道を行くのですが、手をつけられない立場、忘れてしまうべきものを忘れることのできない立場に神様は立たれ、全部、け飛ばしてしまうべき者であるにもかかわらず、堕落人間たちを抱かれるための投入の役事をされたというのです。 しかし、それで終わったのではありません。堕落した人類を、本然のアダム・エバよりも、もっと愛さなければならないというのです。ぼう然とする話です。皆、分かりましたか?(はい) 忘れてしまうしかないものを、忘れてしまわれることのできない神様の孤独単身の立場。投入して再創造できないものを、歴史を通して数千万年の間投入されながら、投入されたものを忘れてしまわれた神様の身の上。 そのように恨み多い峠と恨み多い傷あとを残した人たち、愛することのできない人たちを愛さなければならない神様の心情を、だれが知っていたかというのです。今日まで、そうなのです。 真の父母の歴史的路程 先生はそのような伝統を知ったので、忘れることができないものを忘れてしまったのです。怨讐たちがどれほど多かったでしょうか? その怨讐の子供たちを、棒一本でたたいて地獄に飛ばしてしまうべき人たちを、自分の子供たちの血肉と生命線まで投入して、救ってあげようとしたのです。 愛するならば、自分の子供を愛するよりも、自分の子供を犠牲にしても同情することのできる立場で愛さなければならないという立場に立ったのが、真の父母の歴史的路程であったという事実を知らなければなりません。そのことを忘れてはならないのです。分かりましたか? その涙の谷は、海の水がどんなにたくさんあるといっても埋めることはできずに、今に至るまで、その谷が残り得るほどの歴史であるというのです。高いといえば限りなく高い所、深いといえば限りなく深くなり得る事情があるというのです。埋めることができず、上がっていくこともできない恨みを残された神様の心。それが平地の平和の心のように映されるのですが、このような内外の受難の道を行った真のお父様、天の父母と真の父母の歴史を忘れてはならないということを知らなければなりません。 そのような観点から、このすべてのものを埋めることができるのは、真の愛が行く道しかなかったという事実を知らなければなりません。分かりましたか? 忘れることのできないものを忘れなければならず、投入することのできないものを投入しなければならず、愛することのできないものを愛する、そのような道を行かなければなりません。一回死に、二回死に、三回死んでも復活して行かなければならないという歴史なのです。 旧約時代に失敗し、新約時代に失敗し、成約時代に失敗しました。先生一代の四十年荒野路程というのは、悲痛なものです。アダム家庭の一代の失敗が問題ではありません。イエス様が国家的基準で成して、万国を統治することのできる以上の立場、天下を解放することのできる、地上・天上天国が開門され得る勝利的基準を打ち立てる瞬間であったにもかかわらず、サタンが追放することによって、神様は何もない荒野、無の世界に引き返された立場に立たれたという事実を、だれが分かるのかというのです。 その道を開拓するために、恨みも多かろう、悲しみも多かろう、苦痛も涙も苦役も多かろう、ため息をつくような峠を耐えながら五十年の歴史を経て、世界の家庭を中心として万国解放の門を開いて、万国、万民を全部一つの道に追い込むことのできる瞬間を迎えたというのです。 「エジプトで苦役をしていたイスラエル民族が、イスラエルの建国に向かって出動できるその時と同じく、サタンの前に囹圄(監獄)の身になって、監獄に捕らわれているすべての家庭を、門を開けて理想的天国の一族となさしめて、解放天地の国に移せることを宣布する瞬間に、私たちが同参したという驚くべき感謝と栄光を何によって褒めたたえるか?」ということを忘れてはならないのです。そのような瞬間が、きょうの「天地父母天宙安息圏宣布日」なのです。 なぜ、安息圏なのでしょうか? 堕落することによって、かの鉱物の元素までも嘆息するのです。 「私たちが、主体・対象的分子を中心として陽イオン・陰イオンとして活動できる天運の因縁を受けて創造されたのに、どうしてこのような姿なのか? 何のためにつくられたのか? 愛を中心として愛のためにつくられたはずなのに、真の愛を失ってしまって、暗黒の世界になった。どうして真っ暗な暗黒の世界になったのか?」と嘆息しているのです。 鉱物もそうですが、植物もそうです。雄しべと雌しべが生命を繁殖できる焦点を、全部なくしてしまいました。動物世界では、雄と雌が全部、嘆息圏内の地獄の一門となって、男性、女性も全部地獄行きの男性、女性になってしまいました。このような暗黒の世界になったものを、開門、開放を再び成すためにメシヤが来られたにもかかわらず、そのメシヤを再び打ち殺してしまったのです。 アダムの悲しみも、天のあふれるほどの恨みの峠を残したのですが、数千万年の歴史を通して四千年間のイスラエルの摂理圏を中心として立てておいたイスラエルの前に、メシヤがこの地上に降臨されることに関するすべてのことを教えてあげ、メシヤを降臨させたにもかかわらず、そのメシヤを無責任にも殺してしまったのです。 このようにして、国家的基準の勝利圏を失ってしまって、恨み多い救援の役事をされ、さらに、再臨して一つの家庭を捜し立てることのできなかった怨恨の心情圏を抱かれ、エデンの園で失ってしまったものを再び回復するための摂理をされたというのです。 そうして、第一次世界大戦と第二次世界大戦のとき、世界のキリスト教文化圏を中心として、世界的版図の基準である統一世界を備え、英・米・仏の三か国を立てたのです。 英国は島国で、エバ国家を代表し、アメリカはその息子に当たるアベルを代表し、フランスは英国と戦った国ですが、怨讐国家が一つになったことを指します。 連合国を中心として、キリスト教文化圏は霊的文化圏ですが、実体的基盤がないことによって、実体圏である東洋を中心として、英・米・仏の内的なイスラエルの内容を中心として枢軸国と戦うのです。どちらが先に攻撃したのかといえば、サタン側です。サタン側が、体を中心として良心を攻撃したことと同じだというのです。体が、いつも良心を引っ張って、死亡の世界へと引っ張っていったことと同じです。 良心がいつも屈伏していたものを、第二次世界大戦を通して世界的版図で、国家群を中心として闘争する歴史で勝利したのですが、それにもかかわらず、国家自体で勝利的世界版図の主人として来られた再臨主に侍って、天下統一の峠を越えなければならなかったのです。その統一の世界の起源となることのできる、キリスト教文化圏が初めて世界を統一できる、英・米・仏圏時代になったというのです。 そのような恵沢を受けて、韓国が独立して万歳を叫ぶのですが、先生は万歳を叫ぶことができませんでした。いまだに叫べていないのです。万歳を叫ぶことのできなかったこの恨みを解くために、統一教会では万歳を叫び始めたのです。 神様は、私たち人間の完成の時を迎えて、白昼に活気を広めて、朝、鮮明な太陽の光が力強く昇るときに、それを正面で眺めながら神様の喜ぶ心情を持ち、環境的大王陛下である太陽や、新しい空気と、本然の水と生命体の根本となり得る新しい海の水などの天地創造された万物に侍って愛することができなかったのです。 環境の王となり得る太陽を愛することができず、水を愛することができず、それから、空気を愛することができず、地を愛することができなかったというのです。なぜでしょうか? 嘆息圏にいるからです。そこにあるすべての存在物、鉱物、植物、動物を愛することができなかったのです。これを愛さなければなりません。 ですから、真の父母たる人は、僻地に流れる水までも訪 ねていって、そこにある、目に留まることもない一株の草を見ながらも、「主人の愛を受けていた本然の心情と、どのように因縁を結ぶのか?」と言うのです。 私は、山ならば見て回ったことのない山はありません。海ならば海、川の水ならば川の水を見て回らなかったものはありません。魚は、どのようなものでも全部、眺めてみるときには、「神様がこれをつくられるときは、どのように喜ばれただろうか?」と思うのです。主人の資格を持とうとすれば、その主人のすべての内的な愛の因縁を通して生み出された動機から彼らと因縁を結び、彼らを愛することのできる主人の資格を備えなければならないと考えて、陸地を遍歴してから海上を遍歴して、今や帰ってくるようになっています。 今回、このような祝賀の日を迎えるようになるとき、海の時代は過ぎ去るのです。ですから、アルゼンチンやウルグアイやパラグアイやブラジルにある、今まで計画していたものを総清算できる内容であったので、この十日間は、とても忙しかったです。お母様は、「お願いですから行かないでください」と言ったのです。 けれどもお母様は、お父様の行くべき道を知りません。お母様の話を聞いて、私が行くのではありません。今回、私の代わりに精誠をささげる人を三人ずつ立てておいたのです。四位基台です。先生が代表です。 今まで、先生が活動していた内容を中心として、それを基準として連帯的な相対関係で続けていくのです。その息子・娘と教会全体が、そのような使命を果たすことができるように、平準化させることのできる教育をしなさいというのです。海を守り、魚を愛しなさいというのです。 今や安息圏を築くのですが、海だけではありません。陸地の安息圏を策定しなければなりません。今からは、山ならば山、景色の良い所を訪ねて行くのです。行ってから何をするのでしょうか? ただ行くことはできません。狩猟場をつくるのです。自然界のすべての動物を殺すのではありません。私が育てます。そうして、趣味産業と連結させるのです。その内容は、皆さんは知らないことでしょう。 自分が育てて、捕まえて食べるべきなのです。分かりましたか? 人間は、動物をすべて捕まえて食べるでしょう? 植物をすべてちぎって食べるでしょう? 鉱物の栄養素をすべてすすって食べるでしょう? それらは、自然の前に罪を犯すことです。泥棒をしているのです。 それらの万物は、神様の息子の血肉となり、体になって骨肉にならなければならないのに、泥棒して食べるので泥棒の血肉になっています。これをやめさせて、本然的愛と一つになることのできる趣味生活を中心として、歴史の大転換期を標準として定めて、三百六十万双の頂上の転換点を目指して今まで準備してきたのです。何の話か分かりましたか? 愛の定着する目的地 先生は、どこかに訪ねていけば、農地を見ても自分のための土地にしようとは思いませんでした。「神様の土地をつくって、万民を復活させることのできる農地をどのように開拓するか?」と思ったのです。僻地に行ったとしても、その僻地の景色が良ければ、「観光の一等地として、万国の名のある人たちが訪ねてきて、驚くべき景色を褒めたたえることのできる所としてどのように開発するのか?」、と考えました。 お金を稼ぐのが目的ではありません。自然的な価値を本然的基盤で表し、万民共義の趣味基盤として、どのように拡大させるのかという思想を持って動かすのです。そこには国境がありません。どこであれ、必要になればするのです。 堕落することによって、万物の嘆息圏に包容されているという事実を知らなければなりません。分かりましたか? ロマ書の八章を見れば、「万物が嘆息している」とあります。太陽の光の中で生き、天下に自分の容姿を誇ることのできる主体的権限を持てる存在物が、無色で真っ暗なえたいの知れない有名無実の存在になったので、嘆息せざるを得ないのです。 これを白昼のような愛の光、愛の太陽の光の前に、神様の愛とともに本然的基準で自らが褒めたたえることのできる栄光を天の前に表して、「私の命は神様である」と褒めたたえることのできる根源である神様と、再び連結しなければならないのです。 愛のためにつくられたあらゆる万物は、愛の大王、愛の主人になることのできる、天地父母の愛の本質に吸収されるのです。チャールズ・ダーウィンが進化論を中心として弱肉強食であると言ったのですが、そのような論理はあり得ません。愛の価値が低い相対は、主体・対象関係によって、愛の高い所に吸収されるのです。 それでは、このようにしてどこに行くのでしょうか? それは、神様の愛に接触することのできるその場が、この存在世界において最高の理想として願う定着地なのです。目的であり、終着点であるというのです。 皆さん、男性と女性が、堕落しない復帰された神様の息子・娘を生むことのできる生殖器に向かって、全存在世界は、自分の生命全体を投入して高い次元へと吸収されていくのです。 鉱物は植物、植物は動物、動物は自分よりもさらに大きな動物、さらに大きな動物へと吸収されるのです。人間は、すべてのものを吸収、消化できる能力があるのです。ですから、人間はそれらのものを愛し、食べてあげなければならないのです。皆さんは、そのように愛しましたか? 万物に隠されている神様の創造的愛の因縁が、自分の前に現れるとき、それは解放された愛の実体として、主体的主人の前に自分自身を奉献しようという心で現れたのです。 それをそれ以上に主体的に愛し、食べるようになるときは、その万物は死なないというのです。吸収されて人間の体の中に入ってきて、この上なく高い神様の愛の細胞の場所まで行って、神様の子供を造成することにおいて、根源的な立場で愛を体恤しながら、「私が存在するのは神様の創造理想であり、目的である」ということを知るというのです。その場所に全部が動員されているのです。 それがどのような所だと言いましたか? 生殖器です。生殖器(「センシッキ」と発音)は「生きた食器(同じく「センシッキ」と発音)」ということです。それは、生命を捕まえて食べる食器です。それが愛の王宮です。それがなければ、女性も男性も愛を感じることができますか? それがなければ男性、女性の生命が一つになることができますか、できませんか?(「できません」)。なぜ、声がこんなに小さいのですか? 先生の声の数千倍にもならなければならないでしょう。できますか、できませんか?(「できません」)。 天地が壊れても「できない」と言うとき、死んだすべての万物が目をぱっと開けて、「そうです。もう分かりました」と言って、「復活できる実体が現れた」と言うのです。できますか、できませんか?(「できません」)。そうして復活するというのです。そのような心を持たなければなりません。 そのようになれば復活するので、行くべき道を探していくことができるのです。動物世界も、植物世界も、鉱物世界も、真の愛がある所を訪ねていって、天運がその場に駆りたてられていくのです。 そうして、そのことによって、統一教会に「滅びろ」と言っても滅びないという論理が成立し、統一教会に「分散してなくなれ」と言ってもなくならず、天運が保護する枠が家庭となって、反対する以上の天地の形態として、万国の一番、万天下の一番の座を占めるのです。愛の定着する目的地がそこまで連結されるので、不可避的な論理的結論なのです。アーメン。(「アーメン」) 「愛だけがあります」と言ってみてください。(「愛だけがあります」)。私も愛が絶対に必要です(「私も愛が絶対に必要です」)。私が十回死んで復活したとしても、それをあきらめずに少しも未練なく恥ずかしくない道を行くことのできる神様の息子・娘になるうえで不浄なことはありません。アーメン。(「アーメン」)(拍手) これくらい話せば、序論は十分です。 あとは、骨があれば肉になることのできる環境的条件を知ったのですから、直線コースの真の愛に従っていかなければなりません。アーメン。(「アーメン」) 統一の限界線 結論は簡単です。皆さんの心と体が神様の安息の家になりなさい、ということです。心と体を統一しなさいというのです。どこまでが統一の限界線ですか? それは、神様の立場で愛さなければなりません。 例えば、千年思慕した恋人に会って、何も身に着けずに、「私の恋人よ」と言って愛し合うような瞬間でも、そこから無に帰ることができる位置を探して帰っていかなければならないというのです。最初にサタン的に動いたことを、二回目は克服して、それを取り戻すことのできる位置を探し出さなければなりません。そうして、本然的愛の道を求めていかなければならないのです。 ですから、長子圏の愛の土台の上では復帰がなされません。次子圏の愛の土台の上で復帰がなされるのです。正妻の系統ではなく、妾や庶子の系統を通して復帰されるのです。なぜでしょうか? 神様の前に二つの母と子供がいるのです。堕落した母と子供と、復帰された母と子供なのです。 天国に入ったとしても、二組の父と母が、共に横的に入ることはできません。天国に入る際には、一人の母の立場で入らなければならないのです。そうするためには、転覆させるみ業しかないというのです。兄が弟になり、弟が兄になるみ業をしなければならないのです。 ヤコブの家庭において、姉のレアを中心として妹のラケルの家庭を奪ったのですが、これは天理に違反するのです。たとえ姉が、ラケルの家で裏部屋暮らしをしながら冷遇されたとしても、一つになるためには、お姉さんが妹になる立場で僕にならなければならないというのです。 ここからヤコブの息子の十兄弟がヨセフとベニヤミンの僕にならなければならないというのです。ですから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従せずしては、本然の世界に入ることはできないのです。まさしく、それが戒めです。 神様が天地を創造されるとき、神様ご自身が絶対信仰の上で創造されたというのです。絶対信仰の上で、絶対愛の対象として天地を創造され、神様の愛の心ですべてのものを投入されたというのです。そしてその次に、絶対服従されたというのです。あるものはすべて与えられたのです。 女性たちは、「あなたにあるものをすべて欲しい」と言うのです。そうでしょう? 結婚が間近に迫ってデートをしたときや、結婚して迎えた初夜には、「あなたは私をどれくらい愛しているの? 死ぬことも問題ないの? 命を懸けて、絶対無の境地で服従できる立場に立つことができるの?」と言うのです。 そのようなとき、「そのとおりだ」と言えてこそ、新婦が安心するのです。そうしてこそ、万事オーケーだというのです。相対に対しては同じです。死の峠を何回越えたとしても、愛の貞操を曲げることのできないその道こそが、ふたりが統一され得る道であり、神様の息子と娘になることのできる道である、ということを知らなければなりません。 それで歴史について見るとき、私たちが犯したすべての罪を清算しなければならないのです。歴史的に見るとき、だれが罪を先に犯しましたか、エバが先に犯しましたか?(「エバです」) エバは絶対服従しながら肥料になり、支えになり、床一面の涙を流し、血と肉のようなものすべてが水のようになって、アダムがつくろうとするとおりにならなければなりません。 例えば、子供たちが何か償うべき行いをしたときに、その穴埋めをアダムが、「思いどおりにしなさい」と言って、エバに任せることのできるような女性の道を選ばずしては、この道を修繕して本然の基地に帰ることができないというのです。 ですから、女性は堕落した以後、愛の夫を捜して、数千万年の間犠牲になってきました。今まで抱いてきたのは、天使長です。偽りの夫をつかまえているので、愛の泥棒です。一生の間暮らしながら、妻の体を両手両足から胸、顔、心まで傷だらけにした夫であったというのです。ですから、恨み多い歴史的な涙を流してきながら、犠牲の祭物になったのが女性であったというのです。 その女性たちが願ったものが、何なのでしょうか? 私たちが心から願う、心と体が願う本然の夫を捜すことです。本然の夫がどこにいますか? これを捜すために数千年、数万年の間恨みの峠として、涙と死の道を行くためにも、息絶えるその瞬間にも、自分が願った本当の夫を自分は捜せなくても、「女性である自分の娘や、自分の後孫は見いだすことを願う」と言いながら、恨みを抱いて精誠、至誠をささげて亡くなっていった人たちが多いということを知らなければなりません。 神様は、そのことを忘れられることができないのです。神様も寂しく、悲しく、耐えがたい悔しい立場におられたのですが、その女性たちの泣き叫ぶ声を聞かれた神様は、やはり神様でいらっしゃるので、その声に同情されて、投入することもできず、忘れることもできない人たちを愛するための難しい峠を、呻吟しながら来られた神様であられるということを知らなければなりません。分かりましたか? 祝福の十二峠 家庭に悲しみがあるといって、ぺちゃくちゃと口を開けてぶつぶつと不平を言ってはいけないというのです。夫もそうです。どんなに国のこと、世界のことが目前に迫ってきたり、いっぺんに十二峠のものが胸に迫ってきたとしても、それを引き受けて、自分が越えるべき責任を果たそうと身もだえし、はいつくばりながらも越えようといって、途中で倒れて死ねば、その代を引き継いで十二峠を越えることのできる後継者を神様が立てて連結し、十二峠を越えさせてあげようとされるのです。分かりましたか? ですから、神様は韓国を愛されて、「アリラン峠」という歌を与えてくださったのだと思います。アリラン峠とは、何のことですか? アリラン、アリラン、アラリヨ アリラン峠を越えていく アリラン峠は十二峠…… 悲しくても、つらくても、苦しくても越えていかなければなりません。 その「アリラン」という言葉が何かと言えば、私はこのように考えます。それは、原理的に正しい話なのです。「アリラン」とは、「愛(エ)」の字と、「里(リ)」の字と、峠の「嶺(リョン)」という字なのではないかというのです。「愛里嶺」だということです。それが「アリラン」という言葉になり得るのです。つまり、「愛する里を訪ねていく」のです。愛する里を訪ねていくときには、峠もこのようにたくさんあります。十二峠があるのです。 私たち韓民族の民謡や、過去の歴史を中心とした忠孝の道理、そして理想圏を中心として宇宙を友とするための伝統的思想があるということを知るようになるとき、それらは皆、愛する里を訪ねていくための本然の道であったというのです。それは、アダムが本然のエバを訪ねていく道なのです。 新郎と新婦が別れた峠、それが十二峠に分かれてしまっているのです。世界を全部滅ぼすこの限界線を、千辛万苦の困難があったとしても越えていって、一つに出会うことのできる道を訪ねてくるというのが、神様が創造理想完結を目標とされたものであったというのです。 第一アダムが失敗し、第二アダムが失敗したとしても、第三アダムを送って、アリラン峠の世界版図の峠を越えて、本郷の地に帰って、千年万年真の父母に侍って生きるべし、という歌まで連結されたということを眺めるようになるとき、この「愛里嶺峠」を、だれが責任をもって越えていくのでしょうか? エバは越えることができません。エバは何も知りません。新郎であられるそのおかたが、世界的峠からあの愛の里の峠へと訪ねていくのです。それが十二峠です。 ですから、このような十二峠は、何によって橋を架けるのかといえば、世界の祝福結婚というものを中心としてなすのです。これは超民族的です。分かりましたか? 超民族的な家庭が行くことのできる伝統の道を、高速道路のように築かなければなりません。ですから、統一教会は十二峠の祝福の基盤の峠を越えてきた、ということを皆さんが知らなければなりません。 最初は何家庭ですか? 三家庭です。その次は三十六家庭。その次は七十二家庭、百二十四家庭、四百三十家庭、七百七十七家庭、千八百家庭、六千家庭です。ここまででいくつですか? 八つです。 六千家庭は八数目で、そのときから内外として東洋西洋、世界版図圏のプラス・マイナスの基盤を統一し、六千五百家庭を中心としては、その基盤の上に九数を超えて十数、帰一数に至るのです。 帰一数で世界的家庭版図の縦的な基盤を立てたのが、一九九二年八月二十五日でした。そのときにおいて、初めて世界的蘇生的であるというのです。超民族的水平圏内において、縦的な蘇生の基盤を立てるのです。その次に三十六万双、そこで完成基準が三百六十万双です。 文総裁が、統一教会を率いる責任者としての三万双結婚を宣布するときも、狂った人として扱われました。私は賢い人なのです。 「三万家庭? 六千家庭も何年間もかけてしたのに、数年間で三万家庭などやれるものか」と、皆、笑ったのです。ところが、やったでしょうか、やれなかったでしょうか?(「やりました」)。世界的です。超民族的、超国家的、超宗派的です。ですから、三万双の結婚をするときは、すべての宗教を超えて行ったのです。 そのとき、「モスレムや仏教やヒンドゥー教の人たちを祝福式に参加させなさい」と言うと、郭錠煥の目がまん丸くなったのです。それを思い出しますか?(「はい」)。「できない」と言ってしり込みしたのが、ついこの間のようで、硬直させた顔を見詰めたことが忘れられませんが、神様が助けてくださって、無難に突破しました。 三十六万双のときも、先生の側に立って押してくれた人は、一人もいませんでした。郭錠煥は信じましたか?(「少し信じました」)。「すべてを信じられなかった」ということも、「少し信じた」ということも同じことです。全部、「信じられなかった」ということです。落第の点数であるのに、五〇点や六〇点をもらったからといって、それでどうするのですか? それは零点と同じことなのです。 ただ一人、絶対信仰を持った人がいるとすれば、それは文総裁です。絶対愛の心、絶対服従の心、一つの心を持った人は文総裁しかいません。監獄に行っても、どこに行っても、その心は一秒も忘れないのです。「秒」を克服しなければならないし、「分」を克服しなければならないし、「日」を克服しなければならないし、「月」を克服しなければならないし、「年」を克服しなければならないのです。 そして、世界の歴史を克服すべき使命を負ったので、いくら風の吹きつける歴史を代表するような試練の峠でも、私を曲げることはできません。絞首台の露と消えるとしても、「私の精神は千里万里を跳躍して、神様の心情を感動させて、地上に私よりも立派な人を送ることができる」と信じてきたのです。 そうして、神様が助けてくださって、文総裁だけが信じたのです。「信じる者は、絶対にしのげないものがない」というその言葉どおり、三十六万双も無難に突破したのです(「アーメン」)。(拍手) 恨みを抱いた息子の立場 もう、これくらいで分かると思います。先生がどれほどかわいそうでしょうか? 私には友達がいません。お父さんもいないし、兄弟もいないし、独り、独りなのです。神様と私しかいません。 統一教会にはたくさんの人がいますが、私はどこのだれとも復帰摂理について相談はしませんでした。相談した人は一人もいません。だれとも相談したことがないのです。お母様にも話すことができません。 世界の万国・万民が、愛の巣を中心として、真の家庭を中心として、そのすべてに解放圏が始まり、このすべてのものを、神様が創造されるときの本然の環境の愛の雰囲気に合うように、どのように導くかというのが、先生の悩みであり、願いです。 先生は、一時間たりとも、行くべき復帰の道を忘れたことがないということを知らなければなりません。そのために、人がよく寝ている時間に、夜を明かしてそれを成そうと身もだえしました。人がよく遊び、習い事などに通っていても、私は世の中のだれもうらやましく思わす、それらのことも皆、することができますが、すべて放棄しました。 ですから、「クリスマスには行くな」と言ったのです。年の初めになれば、「行くな」と言ったのです。クリスマスや年初という、まかり間違えば、審判され、神様の恨みの峠さえ残しかねない、というときに、それを守っていけば残され得る未来の希望の土台があるので、そのように語ったのです。それが罪でしょうか? 物事をそのように考える親は、全部、終わりの日になる前に、統一教会に巻き込まれて入ってくるというのです。 先生は賢いでしょうか、愚かでしょうか?(「賢いです」)。どこが賢いというのでしょうか? 国を失い、王宮を失い、天下を皆失い、追い出されて放浪の身です。本然の家庭、本然の国、本然の王宮、本然の天上世界を成し、神様を案内してさしあげることのできる基盤のない、恥ずかしさを感じる立場です。 このような贖罪の恨みを抱いていくべき子供の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理の道を開拓するために、あまりにも遠い距離を残している、恨みを抱いた息子の立場をだれが同情しますか? 神様も同情できません。 考えてみてください。神様は祝福してくださり、天下にまたとない約束をしておかれながら、先生を監獄にほうり込まれるのです。そうでなければ、その峠を越えられないのです。ですから、行く息子をむち打たざるを得ない、そのような神様の事情を知ったので、恨みも多く、事情も多いそのような歴史過程を今まで経てきたのです。それらすべてのことを、皆さんは知りません。先生が何をするのか、皆さんには分からないのです。 きょうの朝も、祈祷をするとき、痛哭しなければ倒れそうでした。意識なく倒れてしまうのです。そのように寂しい人なのです。一言語れば、悔しく、のどが詰まって、千年の恨みを解くことのできない身もだえをしなければならない男として生きてきた、ということを知らなければなりません。 自由解放圏の到来 今は、大韓民国の女性たちが連合して家庭解放圏を成せば、その女性たちの前にすべての天使長圏はひざまずき、助けをこいねがい得る日が、目前にまで来たということを知るべきです。(「アーメン」)。(拍手) 歴史以来、女性たちを蹂躙してきた者たちが、女性の前に千年万年の恨みと事情を解き、許しを求めるときが来るというのです。私はそのような女性の解放のために働いてきたのです。そして今回、南北の女性たちをまとめて、十六数を超えました。サタン数の完成数を越えたのです。国連も十六数なのです。韓国が国連に加入したのも百六十一番目だったのです。そこに男性と女性を合わせて、南北で十八数を総蕩減し、きょうのこの「解放の日」を迎えるための準備をしたのです。 そのためには、南北米の主流思想の方向を全部、実として韓国に持ってきて植えるのです。お母様を中心として三度、このような大会を先立たせて行い、韓国が天の祝福を受けることができないで、この敗者の悲しい立場にいるのを、自分が旗を立てて、「長子と庶子と養子たちが、本然の祝福を受けられる橋をどのようによみがえらせるか」ということに苦心したのです。外国で私が涙を流し、冷遇されながら、韓国をどのように取り戻すかということに、だれよりも心を痛め、気をもんだということを、だれも知らないのです。しかし、天は知っておられます。 かわいそうなレバレンド・ムーンが、このように苦労して導いた韓国が、祝福家庭の系列において十位以下に落ちてはいけないといって、ここにお父様とお母様がふたり来て、今まで家庭、氏族を救うために千辛万苦したというのです。 そうするためには、アメリカと南米を中心として、キリスト教文化圏を中心として結実したものを、この地に持ってきて植えなければならないのです。カイン・アベル圏を中心として、お母様を中心として復帰してくることによって、エバが植えてあげるみ業をしなければならないので、今まで三次まで経てきながら、今は最上の為政者たち、政治指導者たちは、お母様の後ろに従わざるを得ないという環境的与件が皆、備えられたのです。 ですから、今から南北の女性大会をしなければなりません。平壌の陵羅島とソウルの五・一六広場を中心として、南北女性大会と世界女性大会を結合するようになるならば、世界の開門がなされ、政治風土においてもサタン世界の長子圏は退き、天の国のアベル圏を中心として、真の父母と真の子女を中心とした解放の世界が、万国に充満すべきなのです。そのような時代が来るのです。(「アーメン」) ですから、今年、飛行機を買いました。(拍手)大きな飛行機は必要ありません。ですから、カナダの飛行機会社を中心として、技術支援をして、今後、陸海空の主人にならなければなりません。今、空の主人にはなれていないので、最高の技術を持った会社を中心として、技術提携して行うのです。 そうして、飛行機を買って、名勝地を開発できるすべての場所に飛行場をつくって、名勝地を案内することのできる仕事をしようと思います。そのような万端の準備をしたのです。 それから、船を造って、南極と北極を連結するのです。北極はコディアクを中心として、アメリカが私たちを押してくれているのです。フィッシュ・パウダーを作って、南極までつなげるための仕事をするのです。だんだん広がっていくのです。 旧ソ連が、世界的に南極水産業の先頭を走れるように、という目的で造った船を競売に付したのですが、それを引き取りました。競売の価格は安いのです。本当の価格は、私は話しません。その船を専門家たちが修理するために調査をしたのですが、アメリカの最高の造船専門家、検診専門家たちが調べてみると、「六百万ドル以上の利益が出る船を買ったが、レバレンド・ムーンは、そのようなことをどうしてすべて知って買ったのか?」と言うのです。(拍手) ですから、南極を開発することのできる一番の会社として登場しようというのです。私がクリーン産業を上手につくったということをだれも知りません。クリーン産業を中心として、人間の食糧をつくり、漁具をつくることのできる準備ができています。それは、文総裁をつかまえていなければできないようになっています。 無限な原材料を通して、無限な食糧開発ができるので、全部、レバレンド・ムーンに任せてみなさいというのです。 そうして次には、穀物です。農業を営むことのできる穀倉地帯が問題です。ですから、土地を全部、引き受けて行うのです。これを引き受けるためには、少なくとも全部で二十万ヘクタールほどになるのですが、それを「この土地の収益を十倍以上に高めてあげるから、私に任せなさい」といって引き受けて、株式会社をつくろうと思うのです。 そうして、北韓の国民や、アフリカで餓死していくような人たちを連れていって、助けてあげるのです。そのように、中流社会以下のかわいそうな民族、食糧がなくて飢饉であえぐ人々を解放してあげることによって、その恩恵を被る人たちは十年以内に数十億の数に上ることでしょう。(「アーメン」)。(拍手) 世界平和家庭連合は、すでに世界的につくりました。今からすべきことは、世界平和親族連合、宗親連合を編成するのです。分かりましたか? この時代が来たので、文氏、韓氏、真の父母を中心として、主流氏族を収拾できる世界的出発をしなければならないので、今年の四月十日、宗親長たちを中心として、その一族たちに「韓氏、文氏の子女はもちろん、家庭は全員、祝福を受けなさい」と言いました。今、その運動に火がついているのです。 韓半島で一番大きな川は何という川ですか? 漢江ですか、どこですか? 鴨緑江でしょう? 鴨緑江なら鴨緑江の河口に立って、反対に見るのです。今は、私が世界版図を全部収拾したので、今からは宗親が行くことのできる主流を編成することでしょう。 そこで堕落した世界を収拾して、勝利圏をつかんで帰ることができるようにするためには、その主流の前に大きな支流から小さい支流、山の峠の岩の間に流れるわき水まで全部、反対に結びつけておかなければならないのです。分かりましたか? このように結びつけて、先生がどこに行っても妨げがなく、ある村の東、あるいは西に行っても、遮られることのあり得ない自由天地になるのです。そのことによって、神様が先生に従って、どこにでも行くことのできる時代になるので、神様が解放され、真の父母の解放と解怨が可能となるということを知らなければなりません。分かりましたか? その行く所ごとに反対する人がなく、歓迎することでしょう。パーティーを開かなければなりません。行く所ごとにパーティーの日が連結されるというのです。 私があなたたちの家に訪ねていくとき、パーティーをしますか、しませんか?(「します」)。家庭もパーティーをしなければならないし、氏族もパーティーをしなければならないし、民族もパーティーをしなければならないし、国家もパーティーをしなければなりません。 そのように、家庭連合が宗親連合になり、国家時代に国家連合を中心として世界連合に直通できるときが来たので、巡る所には妨害がないときが来たということを知らなければなりません。分かりましたか? ですから、自由解放圏であり、自由奔放な行動をしても、たとえ、「ある歴史的伝統を備えた」と誇ったとしても、ここに妄動者になって反対する人は一人もいません。全体が「アーメン」と言うことのできる自由天地になることによって、神様が個人でも解放、家庭でも解放、国家でも解放、世界でも解放、天宙でも解放されるのです。 そのようにして、神様の前に行ってその胸に抱かれるとき、私が神様の前に到着して、「天のお父様 私が帰ってきました」と申し上げるとき、神様は座っておられるその王座から「おまえ、来たのだな。あっちに行け」とは言われません。ごらんになるや否や、王座から駆け下りてこられて、抱き締めて痛哭されるかもしれない神様であられるのです。そのような神様としてお迎えすべきである、という責任を感じて生きる人が、レバレンド・ムーンであるということを知らなければなりません。 その日のために汚点を残さず、ひたすら、一方通行で勝利者の覇権を立てようという切ない心情を持って生きる男が先生であるということを、皆さんは忘れてはいけません。皆さんは、そのような目的達成の標準を立てた限界に向かう群れたちなのです 三千六百万双が問題ではありません。三億六千万双が問題ではありません。「三百億、三千億でも、私はしよう」という燃える心を持てば、八か月以内にすべてのことが終わるであろうと見ているのです。 そうすることによって、神様の自由天地をつくり、千年万年、恨みを解き、真の父母に侍り、永遠不変の統一の世界に君臨する天の民族を中心とした世界人類になるべきなのです。それが、レバレンド・ムーンが生涯をささげて目的とし、標準にして闘争してきた路程であったという事実を忘却すべきではありません。(「アーメン」) 心と体の統一圏 ですから、個人において心と体を統一すべきです。この心と体が一つになるためには、真の愛に侍ろうとしなければなりません。真の愛を感じようとしなければなりません。神様を忘れ、数千万年の間、神様に反対してきたこの体を料理しなければなりません。 皆さんがだめになるのは、体に引っ張られていくから、だめになるのです。行くべき道を行くことができず、本然の園に行くべき道を行くことができずに、願わない道を行って涙の事情で編まれた嘆きの歴史が、この体によってそのようになったという事実を忘却してはいけません。体を弱めなければなりません。 そうなれば、どこまで行かなければならないでしょうか? 世界で一人しかいない自分の愛する人を、自分の怨讐に自ら祝福して譲ってあげることのできる雅量を持たなければならないし、愛する男女が一つになることができる愛の場で、無に帰ることのできる主導的な体裁を男性が示すことができなければならないという事実を知らなければなりません。そうでなくては、体を屈伏させることのできる道がありません。何の話か分かりましたか? 自分の愛する夫と妻を怨讐に抱かせてやり、そのうえ福を祈ってあげることのできる事情と事由を抱いてこられた神様であられた、ということを知るべきです。よこしまなあらゆる女性が蹂躙してくる環境において、ありとあらゆることがありましたが、それを克服してくることのできる、罪を犯さないで済ませ得る主管力を持ち、女性たちの誘引圏を越えることのできる男になって、数十回、数百回を越えてきたのです。何の話か分かりましたか? 愛する妻を怨讐に抱かせてやり、祝福を祈ることができ、愛する相対と関係して、最高の絶頂の場でも、そこから無に帰り得る立場を見いださずには、体を絶対屈伏させて、真の愛に抱かれ得る道がないということを知らなければなりません。 今まで、先生が行く道は、女性たちの誘惑の世の中から逃れてきました。私がやらないというときは、やらないのです。ですから、たとえ手首を切ってまでも、賭博に熱中してはいけません。行きたい所があるとしても、「中断」と言えば、きれいに百八十度回ることができなければいけません。 ですから先生は、「ノー」と言えばノーなのです。そのような意味で、神様が後押ししてくださるのです。分かりましたか?(はい)。そうでなくては、心と体が一つになることのできる統一の思想など、あり得ないのです。 歴史性を克服して、天に反対し、天が行く道に対して破壊的な行動をしてのけたその根源地を、皆さんが制圧し得る人にならなくてはなりません。百八十度回ることができなければなりません。分かりましたか? そのようにすることができなければ、心と体の統一圏を見いだすことができないのです。率直に教えてあげるのです。皆さんの愛する妻と、愛することのできるクライマックスに至って、零に帰ることができなければなりません。そのような自主力を持たなくては、克服することができません。 先生も、そうすることができなかったならば、神様の天罰の雷が落ちかねないという道が一、二度ではなかったというのです。守るべき道理の道が、このように、とてつもなく厳しい道であるということを知らなければなりません。 体を占領しなければなりません 体と連結された五官を占領しなければなりません 肉的な愛に従いますか、精神的な愛に従いますか?(「精神的な愛に従います」)。千万回、死ぬような道があっても、貞操を守らなければなりません。結婚する前の子供たちは、純潔を守らなければなりません。純潔を守り、真の愛を中心として結婚すれば、貞操を守らなければなりません。分かりましたか、女性たち?(「はい」)。 そうしなければ、個人的な聖殿をつくることができません。神様が安息所をつくられることができないのです。これをつくることができなければ、永遠に安息所をつくられることができず、夫婦的安息所、家庭的安息所、氏族、民族、国家、世界的安息所が全部なくなるのです。これは単なる話ではありません。事実なのです。 家庭的安息圏 さあ、家庭的安息圏を通過しましょう「した」ですか、「しよう」ですか? どちらですか?(「した」です)。「した」という人、手を挙げてみなさい。そのことが、どれくらい大変でしょうか? 歴史始まって以来、今まで数千万年間にわたるこの闘いの戦争は、まだ、開門したばかりであり、原子爆弾の洗礼以上の恐ろしい闘いに入れ替わりつつあるという事実を知らなければなりません。この闘いを、私一人で平準化させなければならないのです。 真の愛を中心として統一しましたか、できませんでしたか? このようにはっきりと教えてあげたのですから、今後、天国に行くときに「入ることができない」と言って、先生に不平を言うことはできないのです。分かりましたか? 鶴は、エベレスト山を越えて平原地帯で安息するというのです。下には高い山や低い山、また谷があり、海があっても、エベレスト山頂を通って光を放つことのできる標準を定めたその場所に行くときまでは、受難の道があっても、忘れることなく、そこまで行き着くことのできる自我守護の精神を持っていくのです。 ですから、そのエベレスト山頂を撃破し、越えれば、天地万物のすべてが褒めたたえ、栄光で自らを歓迎してくれることのできる自由の天国が待っているということを知るときに、どうして越えられないことがあろうかというのです。先生は、そのような考えを持ち、闘ってきました。 「自分の道を行くのに忙しい。反対しろ。これは逃げるのではない。周りの犬がほえたとしても、関係ない。それは、「もう一歩早く行け」、「町内を早く抜け出せ」といって反対しているのだ。それは、まごまごしていると行く道が遅れるのではないか? 山がますます高くなるので、それを越えることができないのではないか? といって、催促してほえる犬の鳴き声である」と思い、「迫害する怨讐たちのときの声と、追ってくる怨讐を遠く引き離して、あの峠を越えなければならない」という考えを持って、今まで越えるために、越えるために、越えるために 越えるために 越えるために 忙しい生活をしてきたのです。分かりましたか?(「分かりました」) そして、私たちの行く道が何かというと、「私たちの理想家庭は神様の安息所を見いだす家」ということです。自分個人の家を撃破し、その次は夫婦の家です。 自分個人の安息所にも、神様が臨在されることができ、妻の家にも神様が臨在されることができますが、これよりもっと大きな愛を中心として神様に侍るのです。伝統も異なり、人格も違い、主張も異なり、姿も異なります。百八十度異なったふたりの形が一つに結ばれることのできる、統一的夫婦の形態を中心とした安息所を訪ねてこられる神様に、その家庭で侍るべきなのです。(「アーメン」) そのようになっていますか? ご父母様が来たのに、けんかをして、千年万年けんかをして、元気もないというのです。問題が大きいのです。 ですから、家庭的、夫婦的安息所をつくらなければならないのです。ここに神様が入ってこられて、真の愛を中心として主体になられます。そうして、アダムとエバは実体の体のように、神様は無形の心のようになられて、心と体の統一的基準が生じるのです。心と体に一つになった愛の安息所を連結させた男性と女性の基盤、土台の上に、夫婦の安息所が生じることによって、家庭に神様が休む場所が生じるようになっているのです。分かりましたか? あなたたちが布団を敷き、夫婦同士で愛し合っているところに神様が訪ねてこられて、「おい、息子よ」と言われるとき、どうしますか?「ああ、神様、ちょっとお待ちください」と言いますか、「早くお入りください」と言いますか?(「『早くお入りください』と言います」)。本当ですか? それなのに、なぜ先生の目を見ずに、下を見ながら答えますか? 私の目をまっすぐに見て、答えなさい。笑いが出て、うつむいているのは全部、偽者たちです。 「早く、お入りください、神様 エデンの園でアダムとエバが裸になっていたのをごらんになったでしょう。私もそうです。あなたが愛されることのできなかった恨みがあるので、あなたの前で愛し合っています。証しとして、私たちの額に印を押してください」と申し上げれば、神様は「私の娘の愛、私の息子の愛は素晴らしい。私の安息的な家庭が始まる。アーメン」と言われるのです。(「アーメン」)。(拍手)そうすることができるのです。皆、そのようになって、「アーメン」と言わなければならないのではないでしょうか? 郭錠煥(「はい」)。そのような家庭が何パーセントですか?(「とても及びません」)。それでは零パーセントですね。「とても及ばない」と言うのならば、零パーセントだという話ではないでしょうか? 最初から始めてみることもできず、落第の中の落第の王になったという話でしょう。 問題が深刻なのです。冗談ではないのです。安息所を見いださなければならないのです。そうでしょう? 個人安息の家、夫婦安息の家、夫婦を中心として子供を生んだならば、息子・娘を中心として主体・対象で安息の家。これが一番重要です。家庭で蘇生、長成、完成なのです。 ここから夫婦安息の家を捜すべきですか、捜さないようにすべきですか?(「捜すべきです」)。捜すべきです。死ぬほど大変でも、自らやるべきですか、やるべきではないですか?(「やるべきです」) ですから、神様がおられなくても、自分がいなくても、神様が休まれる場を成就してさしあげるようになれば、神様が千年万年、安息されるというのです。千年万年、一つになって、神様に侍ることのできる孝子になり、孝女にならなければなりません。この孝子、孝女に出会われることのできなかった神様、夫婦に出会われることのできなかった神様の恨みが、どれほど大きかったかということを知らなければなりません。 その心の恨みを、根まで晴らしてしまおうといって、神様が、永遠に自分と共に暮らされることができ、神様ご自身がそれを誓われることができ、神様をお父様として侍ることのできる土台をつくろうとしなければなりません。そのようにしたいですか、したくないですか?(「したいです」) そのようにしたい人は、静かに自分の手を見詰めながら、両手を挙げてみなさい。笑ってはいけません ああ、美しい手ですね。「アーメン」と言ってみなさい。(「アーメン」)。七千人集まったならば、七千人を連結させて、それを自分がまずやって、代身することのできる、そのような勝利者が一人はいるような気がしますので、勝利したという条件を認定し、今はまた、越えていきましょう。 それから、どのような安息所でしょうか? 家庭的安息所を捜して行こうというのです。これはほとんど同じです。ですから、蘇生、長成、完成期になるのです。息子の家にも神様が永遠に、夫婦の家にも神様が永遠に、個人の家にも神様が永遠にいるので、その家庭全体は神様の愛の中で永遠に存続すべきなのです。結論が「アーメン」です。(「アーメン」)。永遠に「アーメン」です。 それで、これが地上・天上天国の起源となり、そのような家庭の出発を見ることができるのです。これを中心として家庭を連合しなければならないので、統一教会において家庭メシヤを中心として、一族を中心として家庭から氏族へと、氏族メシヤ圏に越えていくのです。 投入して忘れてしまわなければなりません。忘れてしまうことのできないものを忘れなければならないのです。投入できないものを投入しなければなりません。愛することのできないものを愛さなければなりません。神様の無念な事情を中心として、その峠を越え、神様が休まれることのできる場を探すということを知らなければなりません。もう皆、分かりましたね?(「はい」) そのために、家庭を投入しなければなりません。食口全体が、個人も「アーメン」、夫婦も「アーメン」、子女も「アーメン」と言うことのできる家庭を中心として、氏族のために投入しなければなりません。その氏族と一つになったこの全体が、国家のために投入しなければならないのです。 そのことによって、この国家の安息の土台になるのです。そしてこれが一つになって、世界のために投入しなければならず、これがまた一つになって、天宙のために投入しなければならないのです。そしてさらに、これが一つになって神様のために投入することによって、鉄壁のような安息圏解放が始まるのです。ですから、このようなことを家庭を中心として、世界の基準を超えなければならないのです。 全世界祝福化 ですから私たち統一教会は、それを収拾するために国際合同結婚式を中心として、三十六家庭から十数を中心として三万双、それから三十六万双、それから三百六十万双をして頂上の峠を越えていくのです。今や分水嶺を越えました。分かりましたか? ここまでが大変であって、今は、世界のすべての祝福の門を開いたのです。 サタン世界は、すべてを失ってしまいました。国も失ってしまい、伝統的思想も皆、失ってしまいました。先祖も失ってしまい、王も失ってしまい、おじいさんも失ってしまい、お父さんも失ってしまい、お兄さん、夫も失ってしまい、息子・娘も失ってしまった混乱時代になったのです。そうしながら、混合的セックス時代になってしまいました。 天理の大道を明かすことのできる標準になるべき愛の系列、秩序の系列が皆、崩れたのです。崩れたのはいいのですが、問題は、この崩れたものは、主人にはなり得ないアダム家庭以外の天使長家庭理想を抱いたものであるということです。 さらにアダムが、十六歳のときに体を連結させ得るという、偽りの伝統を後代に受け継がせたので、神様の行くべき道を、血統に則って反対し得る伝統を連結させてしまった、という事実が問題なのです。そのような堕落した起源が、世界の終末時代に、家庭を中心としてすべてのものを破綻させてしまったというのです。 その反面、真の父母を中心としては、個人完成から家庭理想完成、氏族、民族、国家、世界、天宙解放圏完成まで引き継ぐことのできる準備をしたので、それをこの世界に注入するのです。 家庭を取り戻す運動に入るのです。全世界の家庭を取り戻すことによって、そこでは全世界の氏族的編成は自由であり、全世界氏族が変わることによって民族編成も自由であり、民族が変わることによって国家編成も自由であり、国家編成をすることによって世界、地上・天上天国編成は自由化圏内に移っていくのです。 家庭を占領する大王様が現れたということは、そのかたは、すなわち再臨主であり、真の父母であり、真の先生であり、真の王であるということを知るべきです。 ですから、今回、お母様が講演した内容では、これを教えてあげるのです。神様は真の父母であり、真の先生であり、真の王であられます。これを歴史で見てみれば、真の家庭圏を失ってしまい、真の父母圏を失ってしまい、真の王圏を失ってしまったということなのです。 今、世界の祝福、天の国の祝福は、家庭から占領できる時代に来ました。世界が反対することができない超国家、超民族、超宗派的基準を中心として越えていくことのできる祝福をしたので、サタン世界は門を閉め、これを歓迎しなければならないというのです。 神様も主管することができず、サタンも主管できないのです。ただ、これを収拾できるのは真の父母だけであり、神様も真の父母に頼り、サタンも真の父母に頼ることによって、三億六千万双の峠さえ越えるようになれば、世界は、真の愛を中心とした私たちの世界になるのです。 それから、どのような天国が始まるのかといえば、個人的天国ではありません、地上天国ではありません。混合時代となり、破壊をもたらす終末において、親族相姦関係で血統の起源を混合させたものを、愛の伝統である本然的神様の伝統に従って、個人完成、家庭完成、氏族、民族、国家、世界完成、地上天国の完成を決意できる時代が来たのです。 そのことを実践躬行することが目前に到来したので、そのような基準においてサタンの反対がなく、前進するうえにおいても自由環境で勝利の権限を実践できる基盤を築いたのです。その基盤の上にきょう、「天宙安息圏宣布」を完成すべきなのです。(「アーメン」) ですから神様は、ある一個人にも入られることができなかったのですが、そのようなすべてのものを全部破壊し、どこにでも行かれることのできる自由天地になったので、すべての解放が起こるというのです。こちらに行かれていた神様が、こちらの方に思いどおりに行かれ、行かれてからも帰ってこられることができ、ここに来られて縦的に天の国まで連結させられることができるというのです。 三百六十万双という絶頂において横的基準が始まることによって、この縦的基準も、比例的に高くなるのです。そのことによって、地上の全世界の氏族、民族、国家を超えて祝福したことと同様に、天上世界の天使長圏世界の祝福まで成すことができるのです。 さらに、アダム完成実体の基盤を中心として連結させて、天使長の弟、アダムの立場に立てて万民を分別させて、女性たちを中心として第二アダムを創造して、祝福を受けて天の国に入ることのできるみ業をするのが、今日の統一教会の全世界祝福化運動なのです。アーメン(「アーメン」)。(拍手) 十家庭を祝福 ですから、今、皆さんが行って成すべきことは、簡単です。「三千六百万双を忘れよう」ということです。言ってみなさい。(「三千六百万双を忘れよう」)。三億六千万双を忘れよう(「三億六千万双を忘れよう」) 今は、世界の峠を越えたのです。皆さんの氏族たちがいます。氏族編成は、無難に突破できる時代が来ました。分かりましたか? ですから、おじいさんとおばあさんの直系からお父さんとお母さんの直系、自分の姻戚の直系、息子・娘の姻戚の直系、それからその親族の直系を中心として十人だけ祝福圏内に連れてきなさい、というのです。分かりましたか? 三百六十万双の人が、十人ずつだけ伝道すればいいのです。それからは遊んでもいいです。(笑い)分かりましたか? 三億六千万双、三千六百万双はあまりにも遠い距離です。それは太平洋の向こう岸よりも遠いです。それは考える必要がありません。自分がすべきことは、自分の近い所にいるお父さんとお母さんの親戚、姻戚の八親等までを動員して、涙を流して祝福するのです。 そのときには祝福の世界化によって、祝福による恩恵の範囲が隅々まで広がり、村々が旗を立て、褒めたたえる喚声の歌が、太鼓の音やラッパの音とともに聞こえてくるような場面が展開されるのです。そうなれば、「向こうに行って、早く十人にだけ私の話を聞かせれば、天国のチケットを上げます」といって行うのです。分かりましたか? 百八十人祝福をしたならば、百八十人のために「そのようにしなさい」と、祈祷さえしてあげればいいのです。分かりましたか? 三千六百万双は忘れなさい。何人するのですか?(「十家庭です」)。十家庭です。今までやってきた実力と手際から見れば、十家庭を何日間でやりますか?(「一日です」)。一日です。二日あれば皆、終わるのです。二次において三千六百万双をすれば、三億六千万双は一日の十分の一の時間だけでいいという話になるので、どれほど簡単でしょうか? ですから、あまりにも簡単で「ああ、そのようにしなければいいのに」という思いがしませんか?(笑い)そうですか、そうではないですか?(「そうです」)。(笑い) 三億六千万双を何日間でやりますか? 一日二日でやりますか? それは正気のさたではないと思いますか、思いませんか?「正気のさたではない」と言う人は正常ではないのであり、「正気のさたではない」と言われた人は正常なのです。分かりましたか? アーメン(「アーメン」) やることがなく、遊んで暮らすべし、という話です。皆、終わりました。十双ずつは問題ないでしょう? 今まで、一日に何百双までも皆、やってきたのですから。 三千六百万双のことは、考えてはいけません。それは人の仕事です。あなたの仕事をしなさい。あなたの仕事は十人です。母方のおじいさんの所に行っても親族であり、母方の叔父の所に行っても親族であり、それから同窓生の所に行っても友達という話であり、小学校の友達、中・高等学校の友達、大学の友達、会社も十回転職したならば、十の会社の友達。どれくらい多いでしょうか? 百軒は、かぼちゃのお粥を食べるのよりも簡単です。ほかのお粥はざらざらしていますが、かぼちゃのお粥は、かぼちゃが溶けて水のようなので、たやすく食べられるのです。 真の愛を中心とした天地父母統一 さあ、きょうは何の日ですか?(「『天地父母天宙安息圏宣布の日』です」)。天地父母というのは、神様は内的な父母であられ、外的な父母は真の父母です。これが一つにならなければなりません。それが何を中心として一つになるべきなのでしょうか? 真の愛を中心として一つになるのですが、真の愛がどこで連結されるのかというと、神様の息子・娘を生む、正にその場所で連結されるというのです。生殖器のことです。これが今まで、一番ないがしろにされました。 天地を引っ繰り返したので、一番ひどいものとして扱われたのですが、復帰の世界では、これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、良心の本宮なのです。これがなければ国も生まれてこないし、理想世界の発展的起源もなくなるという事実を知らなかったのです。きれいに理論的に内外にすべて分かったので、私たちは天下統一の行脚の路程において、失敗ということはあり得ません。(「アーメン」)。アーメン(「アーメン」) さあ、こうして先生のきょうの講演も皆、終わりました。皆、分かったでしょう?(「はい」)。神様に侍らなければなりません。そうして、自らが神殿にならなければなりません。先生もそのために涙をたくさん流したのです。 誘惑する女性たちの行脚の路程に巻き込まれてはいけません。私は、ありとあらゆる格好を見たのです。裸になって入ってきて、「私を助けてくれ」と痛哭するのまで皆、見ました。しかし皆、退けました。そうでなくては、心と体の統一が成されないというのです。 さあ、先生はもう成すべき使命を皆、終えたので、故郷に帰ります。アーメン。(「アーメン」)。もう、私が現れなくとも大丈夫でしょう?(「いいえ」)。こうして汗をかかせたのですから、もういいでしょう。(拍手) さあ、もう一度、朗読してください。分かりましたか? 私たちの理想家庭は(「私たちの理想家庭は」)。神様の安息の家(「神様の安息の家」)。私たちの理想家庭は(「私たちの理想家庭は」)。神様の安息の家(「神様の安息の家」)。大きく 私たちの理想家庭は(「私たちの理想家庭は」)。神様の安息の家ー(「神様の安息の家ー」)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.20
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「七・八節」(天地父母天宙安息圏宣布)の御言(前編)1997年8月9日(陰暦7月7日)九里市水澤洞・中央修練院 宣布の祈祷 愛するお父様。 きょう、一九九七年(陰暦)七月七日七時七分七秒を中心として、三百六十万双家庭祝福を中心としたこの日、「真のご父母様を誇り、愛することは、三百六十万双祝福の完遂」という今年の標語のすべてのことを成就いたしました。 どれほど苦労され、どれほど恨みの心情を抱いてこられましたでしょうか? ここに立っている真の父母の名を持った子と子供たちが……。つらい歴史の時代のあなたの心情を知らずに指示してきたものを、真の父母をこの地にお送りになって、あなたの心情を吐露することができ、内的事情を教育できるようになりました。 青少年時代にアダムとエバを失うことによって、家庭が破綻しましたし、神様の血族を受け継ぐべきアダムの血族が、十六歳以後にサタンの体を通してサタンの血族に連結された悲しい歴史を残したことを、私たちは知るものでございます。 そうして、今まで天使長圏の血統を残し、サタンの血統を残したものを、歴史を立てるために、あなたの天の国の新しい天使長の立場に立っている宗教圏を立てたことを考えますときに、今まで個人救援摂理を標準にしてきたのは、天使長圏の長子を捜すための歴史であることを私たちは知るものでございます。 旧約時代、新約時代、成約時代を経て、選民圏の上に世界的な救道の中心である再臨時代を迎えさせてくださって、アダムによって誤った青少年の倫理と家庭破綻を、世界的途上で整備すべき、とてつもない時代を迎え得る時をもたせてくださったことに感謝いたします。 これは、第二次世界大戦後である一九四五年を中心として、連合国を中心として新婦の道理を受け継いだキリスト教が、来られる再臨主の前に新婦の責任を果たせなかったことによって、また再び、エデンで失った家庭的悲しみよりももっと大きな悲しみが始まったことを知るものでございます。 アダム家庭で失ったものをエバ国家、アベル国家、世界的国家とサタン世界の枢軸国を中心として、心と体が分かれたイエス様の恨みを一体化させるための闘いをして、キリスト教文化圏を中心とした統一世界を備え、世界的摂理途上で勝利の覇権を有し、再臨主を中心とした真の父母の血族をこの地上に着陸させ、万民解放のための祝福の時代を迎え得る世界史的な合同結婚式を迎えていたならば、そのとき、八億近いキリスト教徒を中心として、このことが実践躬行されていたならば、一九五二年まで七年期間にこの地上に地上・天上天国を完結すべきことがあなたの願いであったことを知るものでございます。 これが、新婦の道理を受け継いだキリスト教文化圏が反対することによって、アダム家庭のゼロの基準において堕落の世界という悲しい環境をサタンの前に譲り渡してあげたことと同様に、世界的勝利の版図として築いたキリスト教が、新婦的エバ国家が責任を果たせないことによって、再び地上に落ちた悲しみを抱くようになられました。さらに、来られる真のお父様は、この地上で独り荒野の道を行かなければならなかった、その悔しく悲しい歴史を考えますときに、その時間というものは、天地の悲痛な歴史的な恨みを残しかねず、そのことによってもたらされた天の悲しみは、世界的な歴史全体を蕩減するための世界家庭理想を中心として、万民解放を一時に成すことができたはずのものを失うことによって、家庭的基準で堕落したアダム家庭も問題にならず、イエス様を中心として勝利の土台の上に家庭を築き、民族糾合を成せなかったことよりも、さらに一層大きかったということを知るものでございます。 サタンの血族圏を完全に清算し、神様が自由天地で安息なさることのできる安息の家に訪ねていかれたいという、お父様のみ意を知ったものでございます。 七千年歴史の千年世界を待ち焦がれたお父様、これを連結させるために、キリスト教において安息日を立て、七日基準を中心として安息していた、その基準を引き継ぐためのお父様の苦労の歴史がどれほど大きかったかということを知っております。 このようなすべてのことを成就できなかったことによって、神様は天の玉座に独りでお座りになって、囹圄(牢獄)の身になられたように、サタン権限の耐えがたい歴史を経てきたことを知っております。 忘れることのできないお父様の心情を持ちつつ忘れるべき環境的与件、投入できない事情を持ちつつ再創造しなければならないお父様の心情、愛することのできない群れを愛すべき心情を、どこのだれも知り得ないことを、この子は知りましたがゆえに、悲しみを覚悟し、死を覚悟し、四十年の峠を越えるための受難の道を経てまいりました。 天の心情を慰労することのできる道があるとするなら、いかなる道でも、いかなる死の道でも越えていこうと決意した決心を中心としてやってまいりました。 お父様、東洋と西洋の文化全体を失い、南北の統一世界を中心として、万国の中心国家であるべき祖国の山河を失い、祝福を成してあなたの一族が、天の一族になるべき血族の子女たちが全部二分されなければならない立場に立ちましたがゆえに、また再び、共産と民主を中心として、二分された闘いを経て、四十年期間という復帰の道を再び歩まざるを得なかったという歴史的な事実を、統一の群れは知っております。 この四十年期間は、摂理史の四千年に代わる期間であるがゆえに、キリスト教とキリスト教信仰国、あるいは宗教と宗教を中心としたすべての人たちに加えたサタン世界の主権国家の行使は、今日、世界舞台を抱いたあなたのみ旨の前に、反対する全世界が合わさって、来られる真の父母を攻撃した四十年間であり、そのような歴史を迎えるお父様の悲しみをだれも知りませんでした。 独り、独り、独りでこの道を開拓なさったお父様の指導の前に、個人的なあなたの安息所を準備するための闘い、夫婦的な安息所を準備するための闘い、家庭的な安息所を準備するための闘い、氏族的な安息所を準備するための闘い、国家的であり、世界的であり、天宙的な安息所を準備するための闘いをなし、あなたが自由自在に住まわれることのできる、そのような創造理想的自由環境を開発するための受難の四十年史がもはや皆、峠を越えました。 そのことによって、きょう、真の父母を中心として天宙安息圏を宣布することのできる驚くべき時間を迎えました。 二十代、三十代に向かっていた青年時代に願った望みを失った、あなたの息子たるこの文某という人物が、この地上で限りなく悲しい堆肥の山に立って、歩んできた屈辱のすべてのもの悲しい歴史というものは、歴史上のいかなる人間も成し得ない困難に遭遇しながら、天が耐え忍ばれた心情を見詰め、その伝統を受け継ごうといいながら歩んだ歴史であり、そうやって、四十年の峠をすでに越えてまいりました。 それによって、三百六十万双の家庭を中心として、アダム家庭で失ったものを世界万民を一つの標準的基準で、アダム家庭の代わりに世界圏の一家庭の立場で祝福することによって、万国万民の解放圏を備え、安息の世界に受け継ぎ、地上・天上天国世界に越えていけるようになったことを感謝申し上げます。 この道を行くためには、長子権を復帰しなければならないし、父母権を復帰しなければならないし、王圏を復帰しなければなりませんが、その限界圏である三百六十万双を越えさせてくださった天のお父様、感謝いたします。 今は、家庭的長子権がこの地上に存続するようになりましたし、国家的家庭圏がこの地上に存続するようになりましたし、天宙的家庭圏がこの地上に存続することによって、家庭を中心とした王圏時代が私たちを迎え得る時代になったがゆえに、家庭で安息するのであって、神様に侍って安息させてさしあげることのできる解放圏を宣布できるこの日を迎えさせてくださったことを本当に感謝いたします。 きょう、この日は、あなたの息子たるこの文某の年が七十七歳を迎えたのであり、一九九七年(陰暦)七月七日七時七分七秒を中心として、七数を八回連結させることのできる焦点を合わせて、七、八数を越えて立つことのできる安息年と再出発の数を連結させることのできる時代が来ました。そのために、統一家のすべての群れたちは今、天の権威と天の愛の伝統を受け継いだ家庭を中心として、天に侍り、国家を中心として天を安息させ、世界を中心として天を安息させ、天宙を中心として天を安息させてさしあげることによって、神様と真のご父母様が自由に行動されることのできる安息的基盤が家庭から天宙にまでつながるようになりました。そうして神様と一体を成すことのできる一つの地上天国の王圏と天上天国の王圏が一時に樹立し得る限界線を越える時を迎えさせてくださることによって、このことを成就いたしました。 このことのために、エバ国家を代身し、代表することのできるお母様がこの地上に来られて、天使長国家アメリカと天使長国家を中心とした国連の舞台を中心として、南北に分かれたものをアメリカを中心として統一的な運勢を備えて韓国に植えるようになりました。そして、解放基準において民族的解放を代表し得る韓国になるべきことを心配してきたあらゆることをあなたが保護してくださって、三次にわたってお母様を中心としてこの地上に送り、み言を伝えることによって、お母様として今回、十六か所における講演を通じて十六数を越え、新しく門を開けて、この地上の高位層の者たちを解放させることのできる祝福を許諾なさることによって今、祝福家庭が神聖であることが挙国的に知られるようになりました。 そこに南北の女性たちを中心として、世界の南北を代身することのできる女性を代表した大会で歓迎を受けることによって、もはや、きょう、十六数と十八か所における大会を中心として、このような日を宣布するようになりましたし、明日の八月十日を中心としては、この国のあらゆる中枢的な群れ、世界のあらゆる主権と国家を代表することのできる核心たちを中心として、天の勝利圏を宣布できる家庭的王圏時代に入っていくようになります。このような祝福がこの地上に成され、統一教会が家庭祝福において、先頭を走ることのできる祝福圏をお立てになったのも、お父様のご苦労によって成されました。 韓国に立つ所がなかったものを、お母様とあなたが協力することによって、このような基盤を持つようになったことを、本当に感謝申し上げます。 このような基盤の上に、きょう、このような真の父母を中心とした「天地父母天宙安息圏宣布」を成すことができるように許諾してくださったことに対しましても、お父様の前に千回、千回、千回、感謝を申し上げます。 あなたの願いである家庭的王圏時代、国家的王圏時代、世界的王圏時代と天宙的王圏時代の安息の基盤が、この地上に成されることによって、囹圄の身であられる神様を解怨成就してさしあげ、解放的な立場で愛の天宙を抱くことのできる時代を迎えるようになったことを喜ばしくお考えください。 この息子が来たこの道を涙とともに保護し、助けることのできないお父様の悲しみが、どれほど大きかったかということを知っておりますので、今からあなたの願っておられた全体、全般、全権、全部の権限をもって、万国をあなたが主管なさって、解放天国に進展できるように祝福してくださいますことを、お父様、懇切に懇切にお願い申し上げます。 もはや、真のご父母様が行く所には、悲しみの涙を流していたその涙の跡が消える時代になりました。あなたの解放の権限をもって、ご父母様の家庭から万国まで巡行なされるうえで、何の妨げもなく行って帰ってくることのできるご巡行となり、そして、創造理想の特権的な最高の頂上の位置に立たれて、ご自由に愛する子女たちと愛する国と愛する世界と愛する天宙を巡行なさることができるように、真の父母の名とともにそのようなあなたの解放と全幅的な解放を宣布いたしますので、お受けくださいますように懇切にお願い申し上げます。 そうして、「天地父母天宙安息圏宣布」を成す時間を喜んでお受けください。天からこれを宣布なさって、天上世界と地上世界の統一圏の勝利の旗を高くお揚げください。 真の父母のみ名によってこの日を宣布申し上げます。アーメン。アーメン。アーメン。 この後、全体での敬拝、各代表者による敬拝、「家庭盟誓」 の唱和等が行われ、再び、真のご父母様による祈祷(祝祷) が行われました。 祝祷 愛するお父様。 きょう、このような「天地父母天宙安息圏」解放日を、解放の時代を、解放の世界を宣布できる、摂理史のただ一度存在し得るこの日を迎えさせてくださった恩賜を感謝いたします。 きょうのこの基準を立てるためには、世界的家庭を中心として、サタン世界を凌駕し得る三百六十万双の超国家的祝福の勝利の時を迎えることによって、このような日を設定するようになった恩賜をお父様の前に感謝申し上げ、だれも想像できなかった緊迫した心情の焦燥感を感じた三百六十万双責任完成が、どれほど私たちにとって真摯であったかを知っております。 どのような力でも解決できないこのことを、天が中心となられて真の父母の体を通して宣言させることによって、短い期間にこのような歴史的な奇跡を創出するようになったという事実を、身をかがめてあなたの前に感謝せざるを得ません。 神様を中心とした霊界全体が地上に君臨されて、このことを成就させるために、いかなる時代的摂理路程でも決意、団結なさって、地上協助体制を強化するように協助されたことによりまして、私たちに解放の時間を持たせてくださったお父様の前に感謝申し上げ、天上世界のすべての数千万の聖徒、聖賢、賢哲たちの前に感謝申し上げます。そして、キリスト教まで復帰してくるために、天使長圏の血縁的因縁を持っているわが先祖たちが共に協助することによって、アダム圏地上家庭圏理想の解放を成して、世界を越えることのできる、分水嶺を越えることのできる三百六十万双を超えさせてくださった恩賜に感謝いたします。 今から三千六百万双、三億六千万双をするとき、登った分水嶺から下りていくことのできる時代を迎えて、家庭的な平等時代をこの地上に真の父母の名前とともに宣言できる時代になることによって、アダム家庭において父母自身が自分の直系の子女たちを中心として真の愛を拡大させ、天上・地上天国を迎える時代に差しかかったのでございます。 このようなことを考えますとき、この地上で生きる人は眠りから覚めることができずに、知ることができませんでしたが、統一家に集結されたあなたの子女たちは、切ない心を抱いて四方を眺めながら、人々が豊かに暮らす時代に迫害を受けながら、孤独な歩みで路地であえいでいた時代を経て、今は都市を超え、国家を超え、世界、国家の首都圏を行き巡ることができ、彼らを集めて、場所を超越して祝福の代を継ぐことのできる解放時代を迎えたということは、神様がこの地上で家庭を出発されて、世界どこでも自由に、エデンの園のアダム家庭の祝福と同じ恵沢を分け与えることのできる時代圏に臨ませてくださったことを、より一層感謝せざるを得ません。 このすべてのものが協力して、今、三千六百万双、三億六千万双は私たちの決意によって、天の全権、全能の時代、全般、全体の時代が、真の家庭、真の愛を中心として祝福の恩賜圏を家庭を中心として連結いたしましたので、これが核となって動けば動くほど、氷が氷の焦点を中心として結合するように、この世界の家庭は統一の世界へと、一つの家庭連結体として連結されることを考えますとき、自信満々に、今、天の権威をもって押し出すことのできる、特権的な勝利したアダムとエバに代わる家庭となるように許諾してください。 サタン世界の血縁的痕跡をこの地上で根絶することのできる百八十度の家庭環境全体の堕落した世俗的な家庭を引っ繰り返して余りある、天の出動命令とともに権勢を振るい、実績を天の前に栄光として収穫できるように許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 切ない忠孝の道理の心情を持ちつつ行く歩みには、神様の心情の群れである天上世界にいる霊たちと天使たちが協助することを知っておりますので、強く、雄々しく、この祝福圏を一体化させ、一方通行で、終わりまですべてのものを押し切ることのできる胆力と勇気を下さるように懇切にお願い申し上げます。 韓民族が誇ることのできる孝女・沈清を知っております。烈女・春香を知っております。忠臣・李舜臣を知っております。歴史上のどこの国にもない、天の伝統を代身することのできる長子権の宗孫(=本家の一番上の孫)たちを中心として、絶対的に侍り奉った歴史的伝統をこの国に残してくださいましたし、女性たちは貞操を重要視することのできる歴史的過程を経て、アジアを超え、世界の一つの標準的殿堂となるべきはずでしたが、それらが四十年期間にすべて崩れてしまいました。 これを再び立てなければなりません。沈清のような孝子・孝女、春香のような烈女、忠臣の道理を果たした李舜臣のように、一切すべてを私たち統一家の家庭においてその伝統を立てて、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理の標本的な家庭になろうと決意することによって、一族全体をその懐に抱き、天の前に奉献することのできる国家体制、世界体制、地上天国体制、神様解放圏を見詰めながら、涙とともに勝利の実績を奉献することのできる特権的な群れとなるように許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 お父様、韓国の民謡には、「月よ、月よ、明るい月よ……両親に侍って千年も万年も生きよう」という両親に侍る伝統がございますし、青い空に帆柱もない船が西の方に行く、この宇宙人工衛星の時代を表象し、万国を代表した真の父母に侍り奉ることのできる伝統を持ったこの国であることを、お父様の前に感謝いたします。 歌い重ねたすべての童謡と、見て感じた孝行の心情の道理を、私たちの家庭を代表して、天宙世界で活動することができ、活躍することのできる解放的孝子、忠臣、烈女たちとなるよう許諾してくださいまして、真の父母の誇りと真の父母の勝利圏をすべての万国、天上世界にまで伝統を残すことのできる甲斐のある民族性を築いて、万国がその伝統を受け継ぐことをためらわず、躊躇せず、自由に万歳を叫びながら、受け入れることのできる勝利の祖国領土となるように許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 その日を願われながら、どれほど待ちわびられたかを知りますがゆえに、このような標準を中心として、残してくださった祝福の責任を、万国どこであっても、一家庭も残さずにすべてまとめて天の血縁圏へと転向させて、あなたに自由に侍ることのできる自由天地に前進、前進、前進することをお祈り申し上げます。 真の父母のみ名によって祝願申し上げました。アーメン。アーメン アーメン 真の父母という思想 皆さんの顔をちょっと見てみましょう。私から祝福を受けた人たち、手を挙げてみてください。(笑い)全部ですね。下ろしてください。 祝福というのは何ですか? 祝福を受ければ、どうなりますか? 祝福は本来、父親が子供たちに対して、自分たちが愛の夫婦になったものと、家庭、国家、世界、すべてのものを伝授してあげるものなのです。 堕落しないアダムとエバの息子・娘となって祝福を受けたということは、神様とアダムとエバが縦的父母、横的父母になって、その父母から天宙のすべての所有権をただそのまま伝授されることであり、その式が結婚式なのです。そのことを知らなければなりません。 この世の中で考えているように、祝福を受けた家庭が世俗的な観念を持ち、ただそのまま男性と女性が合わさって結婚すると考えてはいけないのです。分かりましたか? 祝福がどれほど恐ろしいものであるかということを知らなければなりません。 真の父母という思想とは、何でしょうか? 神様が創世される以前から、その創造の中心に「真の父母完成」という概念があったというのです。真の父母を成就させるために、天地の万物、植物世界も全部がペアなのです。分子も、主体(陽イオン)と対象(陰イオン)から成っており、植物世界も主体(雄しべ)と対象(雌しべ)から成っているのです。それから、動物世界も雄と雌がいます。人間世界には男と女がいます。このように、全部がペアから成っているのです。それがなぜペアになっているのかというと、真の愛を中心としては、すべてのものが一つにならなければならないのです。 一つになるには、一人では一つになれません。一つになるためには、水平にならなければなりません。男性と女性が、愛でもって初めて一つになるのです。 思春期になれば、男性は女性、女性は男性を求めて、水平に連合してくるのです。どこに来るのかというと、ちょうど中央に来るのです。男性が十歩近寄れば、女性も十歩近寄って、ちょうど中央で一つになるのです。その中央が何かというと、神様が降りてこられることのできる、愛の伝統の垂直線に沿って来られるのです。 ここに来て出会うようになるならば、結婚式をするとき、愛の主人はだれでしょうか? 人間ではありません。神様です。愛の根になる神様が、その結婚の中に臨まれるのです。アダムは性相であり、エバは形状ですが、性相になるアダムに無形の神様が臨在されるのです。無形の神様が形状のエバの中に入っていって、臨在されるのです。ですから、天地が一つになるのです。 天の父母と地の父母が、愛を中心として一つになります。結婚して初日、男性と女性が合わさるときに、一つになるのです。「合徳」という言葉があるではないですか? 男性と女性が一つの体になる、そこに神様を中心として、内的な性相と形状である神様が、アダムとエバの中に入っていかれて、外的な性相と形状を中心として愛し合うことによって、二つの世界が一つになるのです。 霊的世界の見えない性相と形状、これがプラスです。見える世界の性相と形状、これがマイナスです。ですから、大きなマイナスと大きなプラスが、初めて一つになるのです。 これが一つになるのに、どこで一つになるのかというと、額で一つになるのではありません。愛の器官です。それが一つになって、アダムとエバを通して産まれる赤ん坊は、神様の息子であると同時に、真の父母の息子になるのです。 ですから、私たちも真の父母がふたりのおかたであるということを知らなかったのです。親がふたりであるということを知らなかったのです。堕落して、そのようになったのです。 堕落しなかったならば、絶対愛である神様の愛を中心として、絶対的であり、永遠であられる愛を中心として、変わらずに唯一的である愛を中心として、アダムとエバが真の愛で一つの体となったので、アダムとエバは不変の愛の主人となり、唯一的愛の主人となり、永遠であられる愛の主人になることによって、この世は地上天国となり、天上天国と永遠に一つになるのです。父母が一つになることによって、子孫万代全部が、一つになった世界に拡大されるのです。 それゆえに、血統が連結されなくては、父母という言葉を連結することができないというのです。真の父母という、真なる血統が連結された先祖が現れて、その先祖によって連結されたその家系全体が相続を受けることによって、真なる子女の家庭が出てくるのです。 ですから、真の父母という言葉、真の父母の思想というものは、創世前からあったし、創世前から神様の理想の中で中心モデル、核となっていたというのです。それを中心として創造するうえでは、鉱物世界もペアであり、植物世界もペアであり、動物世界もペアであり、人間世界もペアになり、そして、見えない無形の神様もペアなのです。 ですから、私たち統一教会には見えない世界、無形実体世界という言葉があるのです。見えない神様自体においても性相と形状を有しておられ、その性相は心のようなものであり、形状は体のようなものですが、神様も独りでは刺激を感じることができません。 男性も女性も皆、愛を持っています。皆、愛を持っており、生命を持っているのです。女性は女性の生命を持っています。そうでしょう? 女性には女性の血統があります。しかし、女性がいくら多くても、男性が一人もいなければ、いなくなってしまいます。独りで、「ああ、私のあなた」といって、愛を感じることができますか? 最近の流行歌の歌詞を見れば、全部、「いとしい人 愛する何々よ」と、このようになっていますが、五十億を超える人類の女性の中に、男性が一人もいないとしても、「私のあなた」ということを言えますか? それはばかげたことです。 相対の必要性 愛がなければ、目を開けたとしても、この目が何を見るためのものだと言えるでしょうか? 目が必要ありません。においをかぐ鼻も必要ありません。口が必要ありません。神様が独りでつぶやいても面白いですか? 心で考えたりもし、話したりもしますが、それでは面白くありません。 しかし問題は、相対的な喜びと刺激と衝動を起こし得る風を起こせば、波も高くなり、低い所に移動するのです。それによって、そこに刺激が感じられます。すべてのものがそのようになっているのです。 そのようなことは、相対を求めていく過程における、刺激的なあらゆる美と喜びを感じるための天地の調和であるのですが、それは、主体の前に対象が存在することによって初めて可能なのです。 ですから、天地の大主宰であられる神様であったとしても、相対がないのならばどうしようもありません。何によって見ますか? 神様も目があるのでしょうか、ないのでしょうか? 創世前に神様の目があったでしょうか、なかったでしょうか?(「ありました」)。それを見ましたか?(笑い)けれども、「ない」と言う者はどうかしている人です。目があり、耳があり、鼻があり、手があり、五官が皆、あったというのです。 けれども、いくら天地を創造された偉大な神様であられるとしても、独りで「ははは……」と笑うなら、気のふれた者になるのです。 先生が相対もいないのに、「ああ、私の愛する人よ。ほほほ……」と言いながら踊ったりすれば、狂人になってしまうのです。神様も同じなのです。分かりましたか? 神様には何が必要なのかといえば、神様にも相対が必要なのです。このことを今日の既成教会は知りません。 既成教会では、「神様は、絶対的な創造主としておられる聖なるおかたであり、人間は卑しいものである」と言っています。そこには、愛の概念と理想の概念がないのです。そうして、世界がどうのこうのと言いながら、大きなことを言うのですが、それらは皆、滅びて消えるのです。 そのようなことをきれいに皆、知ってこそ、神様の息子・娘になれるのです。神様はすべてをご存じなので、そのような落後した足場で踊りを踊ったり、相手を探したりされないので、通り過ぎていかれるのです。ですから、通り過ぎていかれるものは、いくら騒いでも皆、滅びるのです。キリスト教と世俗的な社会と、異なるものが何かあるでしょうか? そこで真の愛を見いだすことができますか? とんでもないというのです。 さあ、ですから、神様も独りでいるのが寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか? (「寂しいです」)。皆さんのきょうの顔つきを見て、「私が愛することのできる相対がどこにいるか?」と探したことと同様に、「息子をどのように選択するのか」ということが問題なのです。 今回、私たちの末の二人の息子を約婚させるうえで、数多くの女性がいますが、どのような女性たちを選んで嫁に迎えるかということに、それがのらりくらりとした調子で行ったでしょうか、深刻だったでしょうか?(「深刻でした」)。 どれくらい深刻だったでしょうか? 自分の家門を尊重視し、統一教会の模範的な家庭を立てなければならない人を探さなければならないので、深刻だというのです。のらりくらりした調子ではできません。 いくら愛の相対が多くても、愛することができないというのです。自分の相対は二人ですか、一人ですか?(「一人です」)。それをだれが教えてくれましたか? なぜ一人ですか?(「神様がおひとりだから」)。そうです、神様がおひとりだから。 神様の目は二組ではありません。鼻も二つではありません。五官が何に従うのかというと、愛の方向に従うのです。愛のためなのです。愛のために生まれたので、すべての五官も愛の目的に一致できる方向に集中させなければなりません。五官が五つに分かれてはならないのです。 思春期になれば、その女性がいくら絶世の美人でも、「ああ、私は男が必要ない」と言いますか?(笑い)どうですか?「私は男が必要だ。ノーメン」と言いますか?(「アーメンです」)。アーメンですか?(「はい」)。ここの人は知っていますね。(笑い)女性という存在は、男性の懐に入って死ななければならず、男性のために生き、男性のために死ななければならないというのが結論になるのです。 また、男性という存在も、女性の懐に入って生き、女性の懐に入って死に、女性のために生きなければならないのです。 さあ、神様も相対が必要であるという人、手を挙げてみなさい。神様ではないので、分からないことでしょう。百人に尋ねれば、百人が皆、相対が必要であるという話をするので、神様に「神様 あなたも相対が必要ですか?」と尋ねてみて、「違う」と言われれば、さらに「あなたの子供たち百人に尋ねてみても、全部、『いい』というのに、『お父様』という名称を持っておられながら、なぜ、あなたは『悪い』と言われるのですか?」と尋ねてみるのです。そうすれば、神様も「そうか? 私もそうだ」と、手を上げるというのです。それが理解できますか?(「はい」)。分かりましたか?(「はい」)。(笑い) ですから、真の父母という言葉とは、創世前からあったのです。創造するとき、何年かかったと思いますか? 聖書には六日間で創造したとありますが、そのようなお化けのいたずらのようなことはしないのです。法があるのです。 すべての万物世界には種を植える時、芽が出る時、育つ時、花が咲く時、実を結ぶ時、刈り取る時があるのです。ですから、一筋の流れを経て、本郷に帰るのです。実で始めれば、一時代を経て、帰らなければなりません。帰らなくては実が現れないのです。 そのように見るとき、真の父母の名がこの宇宙創造世界に初めて現れたのです。(「アーメン」)。 真の父母のみ名を賛美すべし。アーメン(「アーメン」)。皆、理解しましたか?(拍手) 家庭救援摂理時代と「神主義」 私たちの教会は「再臨主教会」ではなく、「真の父母教会」です。イエス教会でもありません。今からは、だれかが詰め寄って、「真の父母教会が何だ?」と言えば、「真の父母であるからには、家庭救援を目標とする教会であるが、あなたたちは個人救援を目標とする天使長の子女である」と言いなさい。天使長の息子・娘の立場は滅びるのです。 これから、家庭の救援時代に移っていかなければならないのです。世界基督教統一神霊協会は、天使長宗教圏です。結婚できませんでした。イエス様も結婚することができなかったのです。天使長の使命しかできないというのです。息子の使命が果たせないというのです。分かりましたか? イエス様が雲に乗って来て、息子としての務めを果たすことができるでしょうか、できないでしょうか?(「できません」)。イエス様が雲に乗って来られるとでもいうのでしょうか? アダムとエバを地で失ったなら、地で取り戻さなければならないのです。失ったものを取り戻さなければならないのに、雲に乗って来て取り戻すことができるでしょうか? そのような夢や幻のようなものは皆、つぶれていきます。もはや、皆、滅びました 旧教であるとか新教であるとか、皆、滅びました。 世界のキリスト教の新教と旧教が合わさっても、統一教会の文総裁一人を追い出すことができませんでした。殺そうとありとあらゆることを皆しましたが、全部私に負けました。 今まで、宗教というものは個人救援摂理をしたのであって、家庭救援の内容がありませんでした。個人救援は天使長圏を意味するのです。天使長には相対理念がなく、所有権がありません。 それゆえ、今日のこの地上のすべての家庭や制度や国家の所有権は、世界的所有権時代に移行していくのです。国連が決議して、国のお金を思いどおりに決定することができるようになっていくのです。この国とあの国とを合わせようとすれば、合わすことができるようになっていくのです。 今までサタンは、万国を通して「神様はいる」という立場で侍られていたのですが、神様に根こそぎ自分の足場を奪われそうなので、神様さえも着地できない基盤をつくるために、「神様がいない」という無神論を主張するのです。 それをだれが取り除くのでしょうか? 真の父母が来て全部、取り除くのです。無神論が何でしょうか? 帝国主義が何でしょうか? 世界主義が何でしょうか? 神様を否定する世界主義はあり得ず、ユートピアもあり得ません。 ですから、統一教会はそのすべてのものを一掃し、何主義を主張したのでしょうか? マルクス主義を主張したでしょうか、レバレンド・ムーン主義を主張したのでしょうか? レバレンド・ムーン主義ですか、神主義ですか?(「神主義です」)。これが、レバレンド・ムーンが主張したものです。人間を主張する主義は一代で終わるのです。三代も続きません。永遠ではないのです。 右翼、左翼ではなく、頭翼思想を中心として神主義を主張したのです。それは、レバレンド・ムーンの主張ではありません。分かりましたか?(「はい」)。愛主義もレバレンド・ムーンの主義ではありません。神様の主義であると同時に、神様の愛の主義を頭翼思想というのです。 「頭翼」といいますが、「頭」は愛を管理するのです。頭が行ったり来たりするのは、お金をもうけようとして行ったり来たりしますか、愛の道を求めて行ったり来たりしますか? どちらですか? 考えてみましたか? お金ではありません。それでは、知識のために行ったり来たりするのではありませんか? お金も変わり、知識も変わります。権力のために大統領になろうとする最近のよこしまな者たちは、全部、大統領をやろうといっては、死んでしまいます。その一族が滅びかねない時代に入るのです。神様が許諾されないのです。見なさい。だんだん、そのようになっていくのです。 真の父母がとどまって暮らす所はどこでしょうか? 真の父母が暮らせる所はどこでしょうか? 宇宙の中心なのです。それは、神様が正座することのできる王圏の王座の場なのです。分かりましたか? 天上世界の王座の場、地上世界の王座の場、二つの父母の作用を中心として連結させた王座の場なのですが、その王座の場というものは、何で連結させるのかというと、お金ではありません。 お金が好きな人、手を挙げてみなさい。統一教会の人が手を挙げれば、刃物で手を切ってしまいます。私がお金が好きだったなら、韓国のお金持ちになっていたはずです。知識を好むなら、私が韓国のソウル大学の総長に、まずなっていたことでしょう。違いますか? お金もだれよりたくさんもうけた人であり、お金もたくさん動かせる人であり、この世の偉い人を弟子に立てて、王様であった人にお使いをさせる人なのです。 そのような基盤を築いた人なのです。ですから、知識を必要とせず、お金を必要とせず、それから権力を必要としない力を持った人なのです。それでは、何の力が必要なのでしょうか?(「愛の力です」)。何の力ですか?(「愛の力」)。どんな愛ですか? ろくでもない愛、ありとあらゆる雑多な愛が多いではないですか? それは神様の愛、真の愛です。分かったという人、両手を挙げてみなさい。 真の愛とは何でしょうか? 答えてみなさい。(「与えて忘れてしまうものです」)。与えて忘れてしまうものが、どうして真の愛ですか? 与えて忘れてしまえば、相対がいないではないですか。相対がなくて、どうして真の愛が出てきますか? 真の愛とは何かというと、サタン世界の愛を凌駕することのできる愛の力を持たなければなりません。 失った家庭を国家的基準で復帰 サタン世界において歴史過程を見れば、旧約時代、新約時代、成約時代へと発展していくのです。ですから、サタン世界の愛が女性と一つになって、第一次アダム、夫を殺してしまいました。そうですか、違いますか?(「そうです」)。 家庭でアダムを殺してしまったエバの恨み、女性の恨み、お母さんの恨みを解いてあげるために、第二アダムであるイエス様が新郎として来られるのです。イスラエルは、失ってしまった家庭を国家的基準で取り戻すしかないのです。家庭基準で取り戻すことはできません。国家というものは、その中に数多くの家庭が入っているので、家庭基盤の上で数多くの国々を一つにすれば、サタンが勝った環境がなくなるのです。 ですから、家庭で失ったものを国家で復帰しようとしたのです。国家の王になって、后を迎え、国家の皇族を迎えて、その息子を中心として国家全体の堕落した血族からカイン圏を中心として、一つの基盤のようにするためのみ旨を持ってきたのです。 イエス様は第二アダムとして、アダムが失敗したものを復帰して、地上天国をつくるための国家的版図を完成させるために、真の父母の名をもって来られたのです。分かりましたか?(「はい」)。 真の父母になられたのですから、それは家庭的真の父母です。家庭的真の父母になって、子供たちを中心として、子女的真の家庭を連結させていたならば、そこに神様が臨在することのできる家庭になるのです。個人家庭ももちろんですが、国家家庭も臨在できるのです。 ここで、イエス様が真の父母になることができずに、真の息子・娘を合わせた国家形態を持つことができなかったので、十字架で亡くなられることによって、皆、失ってしまったのです。そうして約束だけ立てたのです。再び来て、成就しようと。雲に乗って来て、小羊の婚宴をしようと言ったのです。小羊の婚宴が何のことか分かりますか? 真の父母の結婚式を予告したのです。 キリスト教は、このようなことを知らずに、ならず者のようになって、自分の思いどおりになると思っているのです。それは間違ったことなのです。無知な人は僕になるか、滅びるかするのです。 賢い統一教会は王になるか、主人になれるのです。それはしかたがありません。悲しくても、しかたありません。見ていなさい。キリスト教が、自分たちの家庭たちを文総裁に奪われると思いますか、奪われないと思いますか?(「奪われます」)。 教会の長老、執事たちが、聖日には教会に行きながら、牧師が見ていない所に行って祝福を受け、後になって大勢の人たちが、「私たちは祝福を受けた。私たちが受けた祝福以上に祝福を受けられる祝福をしてください。牧師様」と言ってきたならば、どうしますか? 逃げますか、逃げませんか? アメリカでは、数千人の牧師たちが祝福を受けると言っているので、今まで反対していた頑固な者たちや、どうだこうだと言いながら反対していた人たち、「文総裁、死ね」と祈祷していた人たちが、目を丸くしているのです。自分の信者たちは全部、統一教会の祝福を受けたのに、自分がそれを見ることができますか? ですから、このようにして、「それでも私たちの神様と文総裁の神様は違う」と言っているのです。 文総裁の神様は、家庭を復帰するための神様であられるということを知りませんでした。ならず者たちを救って、天国に連れていって、天の国の王になり、天の国の家庭を編成するという、夢のような話はやめなさい。あなたたちがいくらやっても、理論に合わなければ偽物なのです。 統一教会を信じてよかったですか、信じなかったほうがよかったですか?(「信じてよかったです」)。文先生がひどく悪口を言われたのに、文先生よりも悪口を言われようとしましたか、悪口を言われないようにしようと考えましたか? お父さんとお母さんが悪口を言われているのに、子供たちが悪口を言われないようにしようと思えば、それは全部親不孝者であり、浮浪者ですか? 浮浪者なのです。 真のご父母様の聖なるみ名は、創世以前からあったのです。そして、創造したすべての万物は、真の父母実体圏のために、それらをすべて吸収させ、全体の被造物を犠牲にさせたとしても、真の父母の理想圏を築くためのものが創造物であるというのです。 神様の涙と恨 皆さんが、毎日のように万物を殺しているということを知っていますか? それは許されざる泥棒たちです。すべて捕まえて食べています。ナムル(山菜・野菜)が好きでしょう? 野菜のことです。取って食べますか、食べませんか?(「取って食べます」)。野菜を取って食べます。それは、植物を取って食べる泥棒です。その次は動物、昆虫、全部捕まえて食べるでしょう?(「はい」)。ですから、それを泥棒と言いますか、何と言いますか? 自分のものではないのに、自分のものであるかのように食べようと大騒ぎです。それは神様の物なのでしょうか、自分の物なのでしょうか? 牛まで捕まえて食べて、虎や熊まで皆、捕まえて食べるでしょう? 食べられない物がどこにありますか? 特に韓国人は、蛇を冷蔵庫に冷蔵しておいてから、ゆでて食べるという評判です。また、犬まで捕まえて食べるという評判で、食べられない物のない韓国人が一番悪いと言われていましたが、神様がつくられたものを命以上に尊重視してよく食べる人たちであるというのです。健康になることのできるものなら、何でも食べるようになっているというのです。 神様は、人間に何でも食べることのできる特権を与えられました。それでは、人間にそのような特権があるのならば、人が人を捕まえて食べなければならないということにもなるのでしょうか? しかし、そのような特権は与えられなかったというのです。 ところが、サタンが入ってきて、人が人を捕らえる悪事をしています。このようなよこしまなものを、すべて整理しなければなりません。そのような話をすれば、きりがありません。 創世以前から、真の父母という創世の理念を持っていたのですが、創造した世界が生まれてから、どれくらいたったのでしょうか? 聖書歴史は何年ですか? 六千年ですか? ふざけるにも程があります。 神様がアダムとエバを失ってしまったものを再び創造することもできず、再び復帰することもできなかった神様の悲惨性を、だれも知らないのです。そのような長い歴史を通した、寂しく、悔しいその歴史的事実を知りません。 サタン世界の個人から冷遇され、家庭に冷遇され、氏族に冷遇され、民族に冷遇され、国家、世界に冷遇されてきながら、しまいには、「神様は死んだ。神様はいない」とまで言ってのける時代を迎えてしまったのです。 父なる神が、青ざめた顔で暮らしてきたというのに、「神はいない」と言い、「神は死んだ」と言う、それ以上の親不孝者がどこにいますか? そのような冷遇を受けた神様の事情を知る人は、一人もいません。既成教会の牧師も、ローマ教皇もです。 人間が堕落した以降に、神様が数千万年の間苦労してこられた涙の谷が、どれほど深いでしょうか? 嘆息の恨の塔を積み上げ、世の中のだれも越えてくることのできないほどの恨になっていることを知らなかったのです。そのような深い谷、深い恨の峠をだれが越えるのだろうかというのが問題です。分かりましたか?(「はい」)。 ですから、神様は恨み嘆かれる立場に立っておられるというのです。そのような嘆かれるその内容を、この地上に残すことのできる一族を探しに出たのであり、一つの民族、一つの国家形態を探してきたのが神様であられたのではなかったのでしょうか? そのような立場で、恨の全部を代表することのできる代表的国として立つことのできる国はどのような国でしょうか? イエス様を絶対信奉したイスラエルの国です。その次には韓国です。分かりましたか?(「はい」)。 「何で韓国が、神様の事情の中で、そのように中心の主流になれる国だと言うのか? 文総裁は正しく理解していない」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。私の話を聞いてみなさいというのです。 偉大な韓民族 韓民族が、どれほど偉大な民族でしょうか? 世界でいちばん具体的な内容の族譜(家系図)を持っている国なのです。このような国は、韓国しかありません。他の国は、族譜に女性まで名前を挙げましたが、女性はおらず、男性だけを残した族譜は韓国しかありません。女性たちは気分が悪いでしょう?(笑い)女性は気分が悪くならなければなりません。(笑い) 女性の中で、韓国の女性以上に苦労した女性はほかにはいないというのです。数多く侵略されながら、四方から力づくで、あるいは知略を使ってありとあらゆる者たちが入ってきて蹂躙するのですが、それは食べ物を奪い、女性を奪っていくのです。それから、賢い息子を捕まえていったというのです。 それは、天の国の代を継がせなくするためなのです。神様が願われるのは、何でしょうか。神様は、賢い息子と賢い女性が必要であり、しっかりとした財産が必要なのです。 そのような立場で韓国を見れば、韓国は世界のどのような国の家庭にもないものを皆、持っています。 民謡を見てみても、宇宙的であり、歴史を超える宇宙史的な内容を持っています。 月よ、月よ、明るい月よ 李太白が遊んだ月よ あそこ、あそこ、あの月の中に 月桂を打ち込んだので、 金の斧で切り出して 玉の斧で刈り取って 藁葺きの三間の家を建て、 両親父母に侍って 千年も万年も生きたいものだ この歌が、どれくらいすてきでしょうか? 「両親父母に侍って、千年も万年も生きたいものだ」と。 このような夢の中で願った両親を尊重するのですが、このように民謡で称賛する国は、ほかにはありません。分かりましたか?(「はい」)。 それから何ですか?「青い空、天の川」。 青い空、天の川 白い丸木舟には 桂樹一本 うさぎ一匹 帆も揚げずに 櫓もなく、 よく進む 西側の国へと これは何を語っていますか? 人工衛星時代が来て、東側から始まって西側の国、すべての宇宙を旅行することを言っているのです。どれほどすてきでしょうか? 人工衛星が現れ、世界を遊覧する時代を予告したのです。分かりましたか?(「はい」)。この歌が好きですか?(「はい」)。 その次に地において見れば、孝子の中の孝子がいます。それがだれでしょうか? 孝女がだれだと言いますか?(「沈清です」)。沈清。そして夫人の中の代表の夫人がいるというのです。だれだと言いますか?(「春香です」)。春香。その次に忠臣の中の代表の忠臣がいるというのです。(「李舜臣です」)。李舜臣。 最近、お母様のみ言の中で「孝子になり、忠臣になり、聖人、聖子になりなさい」という伝統的歴史を編んで、民族の魂と民族の伝統を追慕しようとしていますが、このように、女性たちが貞操を尊重視してきた民族であるということは、歴史上、東洋世界の儒教思想にもそのような思想がありますが、そのようなことが東洋世界の純潔を守ってきた中心国家として尊重されているということを知らなければなりません。分かりましたか?(「はい」)。 しかし、このような国が糞に群がるはえのようになってしまいました。よこしまな者たちが多いのです。家庭を破綻させて、青少年の淪落は世界を代表するまでになりつつあります。ありとあらゆる悪党の群れがいるのです。ここに、天の実を結ぶためのものを破綻させるために反対的存在が蠢動している、という事実を知らなければなりません。 私たちの国を誇ることができるのです。 「月よ、月よ、明るい月よ……両親に侍って千年も万年も生きたいものだ」という、両親に侍ろうという伝統が、この国にはあります。それから、半月のような船がマストもなく、櫓もなく、天下万国を巡回することができるという思想があります。 家にひとたび入ったあとは、だれよりも父母に親孝行した伝統があるのですが、それは特に女性が親孝行をしました。 女性である春香がなぜ、烈女だったのでしょうか? 女性が親不孝者であるので、世界的な歴史を蕩減するために、一人の女性が孝子(孝女)の伝統を立てるのですが、ナンバーワンの立場に立てたのは、復帰の天国を成し遂げていくにおいて、蕩減の第一人者にならなければならないからなのです。 そして、女性たちの中でそのようにできる娘がいたということは、彼女が孝子(孝女)の伝統を立てるみ業をし、貞操を守り、純潔を誇ることのできる娘だったというのです。(「アーメン」)。 皆、喜んでいるようですね。気分がいいですか、悪いですか?(「気分がいいです」)。気分が良ければ、その良い心に気兼ねする何物もありませんか? 恥ずかしがりながら顔がうつむいてはならないのです。そのような伝統があります。 春香は、卞地方長官という悪辣な大悪魔の棒を一度で壊してしまいました。純潔を尊重する、そのような春香がいたということを知らなければなりません。それが将来、来られる真の父母に侍る女性たちの伝統を引き継ぐための伝統であったという事実を知らなければなりません。 柳寛順を知っていますか? 彼女は、十六歳の身の上で体を六つに切断されながら、万歳を叫ぶことをためらわなかったのです。その柳寛順のように、独立記念館に先生の名前が入るのです。 先生が生まれるためには、条件的に国を求めなければならないというのです。先生が一九二〇年生まれですね。独立運動は一九一九年の三月ですが、その期間に先生が生まれたというのです。 受難の道を行きながら、一つの貞操と伝統を奪われず、千辛万苦して勝利した標石を残していったので、その期間に先生が胎内に宿って、この地に現れてくるのです。 それゆえに、先生がその女性の貞操、エバの貞操を代表した柳寛順の伝統思想によって、世界を中心として、愛の主体的思想をもって、天が喜ぶ祝福家庭へと全体の方向を引っ繰り返してしまうことのできる時代圏内に上がってきたというのです。分かりましたか? 三千六百万双完遂へ さて、今年の標語が何ですか?「真の父母を誇り、愛することは、三百六十万双祝福の完遂」です。(「アーメン」)。三百六十万双を完遂しましたか?(「はい」)。完遂したという人は手を挙げてみなさい。まだできなかったという人もいますね。三百六十万双というのは、国際的です。昨日までの統計では、八百八万双を超過したというのです。(拍手) それから、世界には国家がたくさんありますが、韓国は祝福家庭百二十万双をどのようにするのかと、最近、私が来て尋ねてみると、郭錠煥と黄善祚が「百二十万双をできなければ死ぬ」と言いました。そしてきょうまでに、百二十万双は満たなかったとしても、百万双さえ超えればいいと言ったのですが、先生の願いどおりに百万双を超え、百五万双を完遂したというのです。気分がいいですか?(「はい」)。 世界の数多くの国の中で何番目ですか? 二番ですか、一番ですか、ビリですか?(「一番です」)。私は分かりません。聞こえません。(笑い)(「世界の国の中で韓国が一等でした」)。一等だそうです。(歓呼、拍手) 今から四か月間残っているので、八百万世帯を整えたこの韓国で、一人が、何も言わずに十家庭ずつしなさいというのです、十家庭。三千六百万双のことは考えてはいけないというのです。分かりましたか?(笑い)考えれば罰を受けます。(笑い)三億六千万という数字を考えてはいけないというのです。それはもっと罰を受けます。それを考えてはいけないというのです。 今、ひたすら考えるべきことは、自分はもはや三百六十万双の中に入ったので、「十家庭だけ祝福すれば天国に入ることができ、皇族になることができる」と思わなければならないのです。そうすれば、三千六百万双は自動的に超えていくようになるのです。 その次に、第二次的に十家庭ずつしなさい。三千六百万双を達成するためには、三百六十万双の祝福を受けた人たちが十家庭ずつ祝福すればよく、それからさらに、三千六百万双の祝福を受けた人が、それぞれ十家庭だけ祝福すれば完成するのです。あなたたちは休みなさい。(笑い)分かりましたか? 気分がいいですか、悪いですか?(「いいです」)。(拍手) そのときには、自分が十人ずつ祝福してあげた人が現れて待っているので、三百六十万双の人たちは休んでも構いません。 ですから、来る今年の十一月二十九日までに、私たちの群れは三百六十万双ではなく、三千六百万双を問題なく完成します。(「アーメン」)。完成します(「アーメン」)。声がだんだん大きくなっていかなければならないでしょう。なぜ、小さくなりますか? 三千六百万双、完遂する(「アーメン」)。(拍手) 祝福家庭の世界化 私がいちばん心配したことは、南北米のことでした。アメリカ大陸には北米と南米があるのですが、北米の米国は新教(プロテスタント)国家です。新教国家はレバレンド・ムーンの背中、後ろについていかなければならないようになっています。米国が生きることができるのは、レバレンド・ムーンの思想を受け入れることだというのです。 ですから、ブッシュ前大統領を立てて南部バプテスト教会の二十万の牧師たちを抱えたジェリー・ファルウェルという人を立てて、この二人がカインとアベルとして一つになって、「南米を消化しよう」と言いながら、先生の後ろについて、南米を連結させるのに尽力したのです。 先生が米国で、二十四年間動きながら基盤を築いたのですが、南米では一年半の間に、その基準以上をすべて整えたというのです。 先生が指導すれば、最高の高位層から下まで浸透できる基盤になっているのです。それで、南北米が連合できる、キリスト教が統一され得る道を築いておいたのです。 その統一は、何をもって統一するのでしょうか? 拳をもってですか? 違います。教理によってでもありません。教理をもってしては大変なことになります。統一教会には教理がありません。原理があります。分かりましたか?(「はい」)。 数多くの宗派には教理がありますが、統一教会には「原理」という言葉があります。原理というのは、宗教を信じる人も、宗教を信じない人も、千年前も万年後もこの道を経なければならない、その原則的な道をいうのです。 ですから、統一教会で今、教えている真理というのは、神様と人間世界の曲折のすべての事情、恨が残ったものを解くことのできる原則的な内容を教えているのです。教理ではありません。教理は、天使長圏復帰解放時代までです。それでは家庭を築くことができないのです。家庭を取り戻すことができません。家庭がないでしょう? ですから、今までのすべての人たちは、十人の家族が霊界に入るとすれば、全部が別れてしまいます。相対理想がないからです。天使長の血を受けたからなのです。すべて別れてしまうのです。 今からは、統一教会の時代がやってきて、家庭が一つになるのです。分かりましたか?(「はい」)。家庭を中心として、全部一つになって霊界に入るようになれば、真の愛を中心として夫が行っていたり、妻が行っていれば、祝福を受けた家庭だといえば、妻や夫を引っ張ってきて、散り散りになった家庭を糾合することのできる理想的基盤になったというのです。そのことを知らないでしょう? そのような高貴な内容を知っているので、文総裁はこのことのために先発隊、先覚者の道を中心として開拓してきたという事実を忘れてはならないのです。分かりましたか?(「はい」)。何の名前によってですか? 真の父母の名前によってです。 神様が創造に着手される前から創造を始められて、数千万年間探し求めようとされたものが何ですか? 真の父母という名前が実体的になる世の中を迎えて、この世の中のすべてを全部切ってしまって、新しく接ぎ木して、真の父母理想の実現の世界化を成すというのです。それが何ですか? 祝福家庭の世界化であるべし。アーメン。(「アーメン」)。 それが願いなのです。祝福家庭をどのように世界化させるか、です。そして、アダムにおいて十六歳のときに淪落し、偽りの愛によって堕落してアダム家庭を破綻させ、偽りの父母が始まったことを、真の父母が来られて、反対に百八十度違う立場に向きを変えて、真の父母を中心とした神様の血族として、本然の創造理想の完成されたアダム家庭の祝福を受け、神様に侍って生き、神様の血族を残していくようにしなければなりません。 そして、この世界の万民が天国に入ることのできる道を再び引き継いで、万民がいかなる山奥の片隅にいたとしてもその道に従って、天の国の王宮を探し求めていくことができるようにしなければいけません。その道理を広めるためのものが、文先生が解放後五十二年間、苦労してきた道であったというのです。 先生が五十二年の間、成したことが何であったのでしょうか? 真の父母の伝統的思想とは、どんなに迫害が多かったとしても、四方八方から引っ張られてきた迫害をすべて制圧してしまうというのです。そうして、もはや高速道路を築いてしまったのです。山道がありません。平面的に全部、高速道路です。高速道路は特別なケースですが、平面的なアスファルトで世界化されて、どこでも安心して祝福を受けられる時代が来たのです。 今、南米で祝福が行われているのですが、祝福を受ける場所や制限もありません。自分の家でも祝福し、教会に行っても祝福し、市場でも祝福できるのです。 アダムとエバが、隠れて自分勝手に堕落したではないですか? 堕落するときに、堂々と王宮の座を眺めながら堕落しましたか? 隠れて愛していた環境から、今からは、あらわにしてしまうのです。「隠れていてはいけない。公に明らかにしなさい」と言って、女性たちがひそひそと話して祝福を受けるようにするのです。 女性がひそひそと話して堕落させたので、反対にして、「祝福を受ければよいのです。堕落したエバの恨を越えて、復帰された解放の天の眷属になることができるのですから、これこれこのようなことをしましょう」と言ってするのです。五分間話せば、それで充分です。そうすれば、祝福を受けるのです。 第一アダムが失敗して、第二アダムであるイエス様が来られ、国家的基準で勝利しようとされたのですが、約束だけ守って再臨されて、小羊の婚宴をされるのです。再臨主は、第一次の失敗、第二次の失敗を蕩減復帰する第三次のアダムです。 キリスト教は、来られる主が第三アダムとして来られるということを知りません。家庭で失ってしまい、国家基準で失ってしまったので、世界版図基準でこのような祝福、統一天下世界を眺めながら行くのが、今日の統一教会の編成内容であるということを知らなければなりません。 十六か都市において、男性も女性も統一的な教育をしたのです。十六数です。十六数は、サタン完結数です。十八数まで行って、二つの数を復帰して、南側と北側の女性たちを中心として、十八数を中心としてサタン数と天の数として、お母様を中心として勝利の世界的版図である三百六十万家庭を超えることができたので、「そのみ名、聖なるかな。お母様」と言わなければならないのです。一度言ってみてください、その名前を。(「聖なるかな。お母様」)。「聖なるかな。お母様」。本当にそうですか?(「はい」)。 「天地父母天宙安息圏宣布」の日 それでは、悔しいことですが、私が持っている福をすべて奪われなければなりませんか? いくら優れた父母でも、責任を果たして、子供たちを皆、結婚させれば、還故郷しなければなりません。天の国を訪ねていかなければならないというのです。 それゆえに、素晴らしい基盤をきれいに踏み固めたものを千年万年変わらずに、その伝統をそのまま引き継ぐことのできる家庭に、残したものを喜んで伝授してあげて、天の国に行くべし。アーメン。(「アーメン」)。 天の国に行けば、天の国が空いています。アダム家庭もおらず、歴代のあらゆる先祖たちがいなかったものを、真の父母が、完成した世界的先祖によって再び一代、二代を編成して、空いていた天国をいっぺんにいっぱいにするのです。 このようにして百八十度引っ繰り返せば、サタンはいなくなり、サタンがいない自由解放天国で、神様が思いどおりに活動されることができるのです。個人から天上世界、天の果てまで行き来することに支障がなくなることのできる解放圏を宣布した日が、きょうの「天地父母天宙安息圏宣布」の日なのです。(拍手) 今まで、歴史上のすべての時代で、神様が占有しておられた分野は、安息日圏しかなかったということを知らなければなりません。それゆえに、サタンが讒訴すれば、全部がサタンの所有圏下にあるというのです。子供たちも神様のものではなく、万物も神様のものではなく、国も神様のものではありません。神様のものが一つもないのです。 このことを復帰完成しようとすれば、真の父母が来られなければなりません。そして、神様の血族にならなければなりません。神様の理想的相対として、血族を代身することのできる先祖として現れることのできる人であったアダムとエバが、堕落することによってすべて失ってしまったのです。 失ってしまったようなのですか、失ってしまったのですか?(「失ってしまいました」)。知らない者たちは、「らしい」と考えるのであって、「失ってしまった」という言葉を言うことはできません。 さあ、もう私の顔を皆、見たでしょう?(「はい」)。汗を流しながら、一所懸命にみ言を語るのを皆、見たでしょう?(「はい」)。骨が溶け出るような心情の世界が、どのようなものであるかということを察することのできる緒論的、外郭的なものが理解できるはずです。分かりましたか?(「はい」)。 さあ、「月よ、月よ、明るい月よ」を歌ってみましょう。 月よ、月よ、明るい月よ 李太白が遊んだ月よ あそこ、あそこ、あの月の中に 月桂を打ち込んだので、 金の斧で切り出して 玉の斧で刈り取って 藁葺きの三間の家を建て、 真の父母に侍って 千年も万年も生きたいものだ 千年も万年も生きたいものだ 千年も万年も生きたいものだ………(一緒に歌う) 八段階の「安息の家」 ……今から本論を話さなければなりません。 (板書される)一度、読んでみてください。(「私たちの理想家庭は神様の安息の家」) 最後の部分だけ読んでみなさい。(「安息の家」)。「安息の家」です。「安息の家」とは、一体どのようなものであるのかということを知らなければなりません。神様が、安息の家を失ってしまわれたのです。ですから、私たち堕落した人類において、私たちの理想家庭というのは、神様の安息の家を取り戻すことなのです。皆さんは、神様の安息の家を提供することができますか? 第一段階が個人的安息の家。第二段階が夫婦的安息の家。それから、子供たちを一つにして家庭的安息の家。ここに必要なものが氏族なのです。第四段階は氏族安息の家。それから、第五段階は氏族を越えて国家安息の家。第六段階は世界安息の家。第七段階は天宙安息の家。それから、第八段階は神様安息の家です。安息の家が何段階ですか?(「八段階です」) これは、氏族的メシヤが成すことができるのです。百六十家庭から百八十五家庭です。この安息の家は、何が中心となって形成されるのでしょうか? 真の父母と真の子女です。家庭を中心として成さなければならないのです。家庭が中心です。家庭を中心として一族にならなければなりません。 ですから、私たち統一教会の教会員は、家庭を中心とした一族、氏族的メシヤにならなければなりません。家庭的メシヤから氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤとなり、世界的メシヤがだれなのかといえば、王の中の王です。ですから、地上天国が形成されるのです。 ですから全世界のどこでも、個人から天の国の果てまで、どこでも神様が行かれて安息され、休まれるようになれば、とどまられる所が家庭であるときには、そこに個人と夫婦とその子供たち全体が、神様に侍って喜ぶようになるのです。分かりましたか?「千年も万年も、生きたいものだ」「家がどんなにみすぼらしい藁葺き三間だとしても、千年も万年も、真のご父母様に侍って暮らしたい」。それは、私たち韓民族の童謡の理想とぴったり一致します。 そうして何をするのでしょうか?「半月」です。半月のように完成しなくてもかまいません。家庭的出発が完成ではありませんが、この世界を半月のような、人工衛星のような船に乗って、マストもなく、櫓もなく、よく進むのです。そうして東側の国から西側の国に行くのです。太陽の光は東から昇って西に差します。 男性は東側を象徴し、女性は西側を象徴しますが、女性は、太陽の光を受けて男性と同じ、対等な立場の価値を持つべきです。そうして、東西の標準である一致世界が成されるのです。アーメン。(「アーメン」)。どれほどすてきな民族でしょうか? そうでしょう?(「はい」) 韓民族の特殊性 『春香伝』の春香は、何と呼ばれていますか?(「烈女です」)。それは貞操のことをいうのです。今日、私たちが宣伝していることは何ですか? 純潔と何ですか?(「絶対「性」です」)。この絶対「性」は、真の愛を中心とするものです。そのことを知らなければなりません。そのことを忘れてしまってはいけません。 「純潔」と「真の家庭」運動なのですが、それは、真の愛が中心です。真の愛を中心とした純潔、真の家庭なのであって、真の愛がなければ純潔もなく、真の家庭もないのです。分かりましたか? 「真の愛を中心とした純潔と真の家庭」と言えば長くなるので、「純潔」とだけ言っているのです。 統一教会は、それが真の愛を中心としたものであるということを知っているのです。また、真の愛には貞操がなくては成り立たないのです。春香と李夢竜青年のように、鉄石のような貞操の因縁を尊重視しなければならないのです。それが真の家庭であるというのです。分かりましたか? さらに、韓民族の特殊なところが何かと言えば、一家の長子の後孫に対しては、たとえ祖父や叔父がいたとしても、甥に当たる長孫(初孫)の子供に頭を下げることをわきまえているのです。そのようになっていますか、なっていませんか? 祭祀の日になれば、その氏族の祖父、叔父がどんなに年を取っていたとしても、祭祀するときに杯をささげ、敬礼するうえにおいても、長孫(初孫)を中心として天に侍ることができるという伝統は驚くべきものです。そのような国は、韓国しかありません。それは正しいですか、正しくないですか?(「正しいです」)。どうしてそのように、天の国の伝統にぴったりと合っているのか分かりません。 また、韓国語には、男性が女性を誘引して、それを蹂躙するという意味の「取って食べる」という言葉があるでしょう?(「はい」)。例えば、「金氏という、あの怨讐の輩が、朴氏の生娘を取って食べた」と言えば、それは何をしたということですか? 強奪ではありません。偽りの愛を犯したということです。偽りの血で汚され、怨讐と一つになり、許されざる立場になったことを意味し、地獄に行き、生き埋めになってしかるべき者になったということなのです。本当に驚くべきことです。 韓国人の話す言葉をほかに考えてみてください。韓国人は、よく「ああ、死にそうだ」と言います。「死にそうだ」という言葉を、韓民族ほどたくさん話した民族はいない、ということを知っていますか? 「好きで死にそうだ」「ご飯を食べたくて死にそうだ」。 このように、「死にそうだ」という言葉をつけない人はいません。 それから、「マリヤ(~ですね、~というわけだ、の意)」と言います。例えば、「クルセ・マリヤ(そうだねえ)」と言います。「マリヤ」とは何ですか? 「イエスの母親になろう、聖母になろう」ということです。そうして、「アイゴ・チュッケッタン・マリヤ(ああ、死にそうだ)」と、そのように言っているのです。 また、韓国人を見ていると、「アイゴ・キ(気)ガ・マッキョ・チュッケッタ(ああ、〔あまりのことに〕あきれて死にそうだ」と言います。「キ(気)」が何かといえば、神様が宇宙を動かし、天運を動かされる気運のことを指すのです。ですから、「キガ・マッキョ(〔あまりのことに〕あきれる)」とか、「キブニ・ナップダ(気分が悪い)」という言葉は、すべて「キ(気)」が分かれれば気分が悪い、ということです。 この韓民族は、極端な内容で歌を歌い、その歌の内容に調子を合わせようと努力しているようなものですから、そのためにどれほど死にそうになったことでしょうか? その死にそうになった大将が、ここに立っているレバレンド・ムーンであるということを知っていますか?(「はい」) この世の中では、あまりにも忙しいと、「血便が出る」というのですが、その血便をどれくらいしたことでしょうか? けれども、「最後まで耐えて勝つ者が福を受けるべし」なのです。 家庭の王は女性 「終わりの日になれば、あなたの家庭の家族が怨讐となる」といわれてきましたが、統一教会は、「世界基督教統一神霊協会」として、キリスト教の末っ子として生まれたにもかかわらず、長男のカトリックと次男のプロテスタントが、この一番末っ子の弟を捕まえて殺そうとしたというのです。 ところが、そうしているうちに、死んだはずであると思ったのに、レバレンド・ムーンは西洋世界を歩き回って、数年ごとに韓国に帰ってくるときには、天下の王圏を中心として、「えへん これを見なさい」と言うとき、韓国人たちは見物し、西洋人たちは、「ははーっ」と平身低頭するようになるのです。素晴らしいですか、素晴らしくありませんか?(「素晴らしいです」)。(拍手) サタン世界で名声をはせる人は、どんなに「来なさい」と言っても来ず、「集まりなさい」と言っても集まらないのです。そのような人は皆、滅びるのです。統一教会の食口は、「じっとしていなさい」と言っても来るので、集まって勝利することでしょう。アーメン。(「アーメン」)。「アーメン」が何かと言えば、「A・Men(エー・メン)」のことです。「ナンバーワンの男」であるというのです。 皆さんは、「お父様が、お母様を世界で一番愛する姿は見たくない。お父様を見るのも嫌で、聞くのも嫌で、姿さえ見るのが嫌だ」、「お母様のことがあまりに好きで、韓国の伝統的事実を全部取り消すお父様を、私たちは理解できない」と、そう言うのでしょう?(「違います」) 「女必従夫」(儒教思想で、「妻は必ず、夫に従うべきである」という意味)という言葉がありますが、「夫必従女」です。(笑い)反対になりました。しかし、反対になったとしても、神様が喜ばれるのでかまわないのです。分かりましたか?(「はい」)。サタンが最も嫌い、神様が喜ばれるのならばいいではありませんか? 滅びることがはっきりと分かっていたとしても、反対にして生きることができるならば、それもしなければなりません。 私たちの理想家庭は、神様の安息所なのです。これは本当に漢字がないと、うまく説明することができません。 「安息」という字を見てみなさい。本当に面白いです。この「安」の字は安らかの「安」の字ですが、「宀(ウかんむり)」は、家のことを指すのです。その中に女性が座っているのです。家庭を独占した王が女性です。それが「安らか」のことなのです。 ところが、家の王がだれであるのかといえば、それが女性であったということを知らなかった韓国の民たちは、家庭破綻しかねない動機を造成してしまいました。 それから、「息」は何かと言えば、「自由な心」と読めます。家庭に入って自由な心で昼寝をしても、夜寝ても、いつ寝たとしても眠ることができるように、侍ってさしあげるべき女王様がいらっしゃる所が安息所なのです。(「アーメン」)。何の話か分かりましたか? 男性たちは、「ああ、きょう先生が話したように、家庭の女王として侍ることができるので、自由な心があるので、安息することができたのでよかったです」と、このような解釈をしようとしなければなりません。 あらゆる言葉を、「安息」という言葉を形容詞として使って結論づけてこそ、万事がオーケーなのです。永遠アーメン、唯一アーメン、絶対アーメン、不変アーメン、立体的アーメン。ナンバーワンの地上天国が展開されるべし。 それでこそ、永遠不変の理想的な地上天上天国になるのです。そうではないでしょうか? 女王様に侍った立場で、心が自由天地を謳歌することができます。女王の愛を受けて、疲れたこともどんなことも、すべて忘れてしまい、昼寝をするその夫は、幸福の夢の中で天下統一の理念が輝くのです。そのような理念の園で、花のように、灯台のように輝くことのできる女王の姿が現れることでしょう。そのようなとき、お母様は女王として、「アーメン。天下の主人が現れるのである。私の願いが完成した」と言うのです。分かりましたか? ですから、家では女性が女王です。それは、赤ちゃんたちを抱えて家庭の万事を支配することにおいて「王の中の王である」、というのです。そうして男性は、世の中に出ていって多事多端なものを処理し、頂上の位置ですべての勝利の覇権者として登場して、天下を眺めて手を挙げれば、天下のすべてのものが「万歳。私たちの王の中の王に、永遠に天の幸福が続くべし。アーメン」と言うのです。そこでは「オーケー。アーメン」と言うのです。 「オーケー」とは何のことか分かりますか?「オ」という音に、一番似通っているものは何ですか?「オーナー」、「オピニオン」、「オーソリティー」と、すべて良い言葉が入っているのです。それから「ケー」とは何ですか? 「コリア(Korea)」のことです。つまり、「ナンバーワン・コリア」ということです。アーメン。(拍手) 真の父母を中心とした理想王圏時代 これは、真の父母の理想安息圏が広がるときに、そのような世界になるべきなのです。考えただけでも良く、夢の中でも良く、働いても良く、汗を流しても良く、トイレに行って用を足すときも良く、そのように、良くないものがあり得ないという立場なので、私は永遠に「アー」と言って口を千年間広げていてもありがたく、「メン」と言いながら食べずに生きるのです。そのように、「アーメン」と言って、永遠に与えて生きようということが「アーメン」ということなのです。 天国の主人、天国の王になれる人は、どのような人でしょうか? 永遠に与えることができずに泣いて生きる人は、真の王です。学校でも、教えてあげるために泣きながら、教えてあげることができなくて、さらに泣くというのが真の先生なのです。家庭においても、愛を中心として泣いて泣いて、終わることのない愛を与えるために泣く人が、真の親であるというのです。アーメン。ですから、私たちは三大主体思想を誇るべきなのです。アーメン。(「アーメン」) 三大主体思想とは、何でしたか? 一番目は?(「真の父母」)。二番目は?(「真の先生」)。三番目は?(「真の主人」)。それが三大主体思想です。これは、神様を中心として永遠不変です。 故・金日成主席の唱えた主体思想は、何を中心としたものですか?(「人間です」)。人間を中心とした主体思想は、何を主張しましたか?(「自主性、創造性、意識性です」)。そうです。自主性、創造性、意識性。それは、人間という、それ自体も否定しています。観念にしかならないのです。しかし、文先生が教える三大主体思想は、永遠不滅です。分かりましたか?(「はい」) 文先生が主張する主体思想と、金日成主席が主張する主体思想と、どちらに従いますか? 人間を中心とした主体思想は、どんなにうまくいったとしても三代続きません。しかし、統一教会で言うように、神様を中心とした主体思想を語るということは、驚くべきことです。これは、永遠に不滅であるというのです。 ですから、誇らしく自負心を持って、天下に号令しながら力強くぶつかっていくとき、天下がその声に頭を下げ、それ自体の百倍、千倍に値し得る、統一的な理想世界がつくられるのです。それを成すのが、統一教会の使命です。それは、真のご父母様を中心とした、一つの理想王圏時代です。(「アーメン」)。希望が胸にあふれますか?(「はい」) あなたたち一代でできないときは二代で成し、二代でできなければ三代、三代でできなければ七代までに完成しようという決意を誓うことができて初めて、「私たちの理想家庭は神様の安息の家」となるのです。個人的安息所、家庭的安息所、国家的安息所、世界的安息所、地上・天上天国の安息所を築いたので、自由天地です。 個人が飛んでいったとしても妨害するものがなく、どこか、地の果てに行こうとして疲れたならば、寝たとしても自由天地です。このようにして、行くことのできる最後の目的地は天国である、という天地になるのです。そうして、神様の愛の園で抱かれて、倒れて死んだとしても、その懐に抱かれて死ぬことのできる子女は幸福な息子であり、幸福な娘であるべし。(「アーメン」) しかし、文総裁がすることを見れば、三百六十万双の祝福をするというのです。それは正気のさたではないのではないでしょうか? 夜にも狂い、昼日中にも狂い、一年中狂い、終生、そのように生きるのです。天地にそのような人がいないのですが、見込みがないと思っていた三百六十万双が、見込み可能な結果をもたらしたのです。それは、神様の力によって成したのでしょうか、悪魔の力で成したのでしょうか?(「神様の力です」)。それを見たのですか?(「はい」) 今回、三百六十万双は勝利しましたが、三百六十万双も最後まで越えることができず、滅びるかもしれないのに、三千六百万双が勝利すると、どうして分かりますか? 私たちが知っていることは、一は出発数であり、十数は帰一数ということです。ですから、十倍まで可能になれば、詐欺師ではなく、本物の王になることができるというのです。もはや、テストできるみ業が始まったのですが、統一教会が本物か、偽物かというのは、三千六百万双の祝福を完遂すれば、その次からは宿題を出してあげなくても、「三億六千万双は、私たちがしよう」と言うようになっているのです。ですから、一瞬にして三億六千万双の祝福を完了することに問題がありますか、ありませんか?(「ありません」) それを成すことのできる希望が、私たちの目前にやってきたというのに、休んだり、食べて寝たり、避暑に行って浮気をするつもりですか? それらのことは、この世の中の人が最も喜ぶものですが、どうするつもりですか? それらのことをすべてけ飛ばして、全力を尽くして走らなければなりません。 山の尾根のいばらのやぶを走らなければなりません。血だらけになっても走らなければなりません。それから、虎のいる洞穴を走らなければなりません。足が一つ食べられ、骨一本が抜けたとしても、行って頂上を越えるのです。それを越えていって転がって落ちれば、その落ちた山並みで神様に出会って、治療を受けるのです。このような希望的な夢を持っていくのです。分かりましたか? 創造の目的 今から、安息所に行こうというのです。いいですか? 真の愛だけが無事通過できるのです。皆さん、高速道路を走れば、料金所がたくさんあるでしょう? 天国に行くにも料金所があるのですが、真の愛のチケットさえ出せば、無事通過できるのです。さあ、真の愛のチケットが必要ですか? 買うつもりですか、借りるつもりですか? そのままどこかで泥棒をするつもりですか?(「買うつもりです」)。ですから、嫌でも買わなければなりません。 その価値は、とても貴いものです。サタン世界の個人も売ってしまい、サタン世界の夫婦も否定してしまい、家庭も否定してしまい、国も否定してしまい、世界も否定し、サタンまで否定したとしても買えないというのです。それを買おうとすれば、それを肯定しなければなりません。肯定することのできるその主人とは、だれでしょうか? 神様です。 神様が、どのようなおかたであられるのかといえば、個人の主人であり、夫婦の主人であり、家庭の主人であり、国の主人であり、世界の主人であり、天宙の主人であり、神様ご自身の主人でもあられるのです。その神様の中心までも占領することのできる愛を中心として、主人の役割をしようというのです。分かりましたか? 相対的基準で、相対を中心として平和世界を成し遂げようというのです。 既成教会の教理の内容は、「創造主は神聖である」と言い、「人間は卑しい」と言います。それは、よく分からなくて、そのように言っているのです。 このようなことを、すべて知らなければなりません。神様が創造された一番の目的が何かと言えば、神様も形状が必要であるからです。それが、なぜ必要なのかと言えば、地上の家庭に神様が現れて、その体のある形状で、家庭的父親にならなければならないし、その形状で国の父親にならなければならないし、世界の父親にならなければならないからです。そのようになるためには、形状がなくてはならないのです。 創造の目的は、神様が体を身に着けることです。無形の神様のままでは、体を身に着けた父親になることができないので、体を持った息子・娘が住む国の主人になるためには、不可避的に体を必要としたので、創造を始められたのです。分かりましたか? その次に、その体がなぜ必要なのかといえば、神様は男性的主体であられるので、女性的対象体が必要なのです。これが上弦で、これが下弦です。これは無形の神様で、有形です。これがどのように一つになるのかということが、問題なのです。 ですから、男性と女性を中心として、これを全部縦横に連結させて、ここからアダムは東側へと行き、エバは西側へと行くのです。そのようにして、男性は男性として備えることのできるすべての素養を備え、人格を備えて、将来の主人の役割を果たすことのできる資格を備えなければなりません。女性は今後、女性として行くことのできる、母親から家庭の女王になることのできる、内外の形態を備えなければならないのです。 そのようにして、エデンの園のあらゆる植物界、動物界を見てみると、全部、主体と対象が必要であり、対になっているのです。そして、春になれば子を生み、ちょうちょうとはちが飛ぶのを見るのです。雄、雌が子を生んで愛し合い、パイプを通して血肉を与えるように、十匹でも何匹でも自分の乳を飲ませるのを見ると、それがどれほど愛らしいでしょうか? その乳を飲ませるということは、パイプを通して血肉を奪われるということです。そうされながらも、子供たちを舌でなめてあげるのです。しかし、幼いアダムとエバには、その世界がまだ分からないのです。 ですから、アダム、エバ、天使長も、そのような光景を見るとき、「私たちもこのように子を生んで、あのように仲むつまじく愛し合うことのできる相対が必要だ」ということを知ったというのです。分かりましたか?(「はい」) アダムとエバの堕落 エデンの園で、アダムとエバが裸になって暮らしたでしょう? 服を作る工場がなかったので、裸でいるしかなかったのです。しかたがありません。 ところで、アダムは外的な万物の世界の主人になろうとするので、日が昇りさえすれば、「きのうは、夜遅くまでうさぎを追いかけ回して歩き回ったから、そのうさぎは間違いなく、どこかの松の株で眠るだろう。それを探しに行けば、捕まえられるだろう」と思って、朝早くから、そのうさぎを捕まえに探しに行くのです。そうでしょうか、探しに行かないでしょうか? 男性の性格から見て、どうですか?(「探しに行きます」)。それは、探しに行くようになっているのです。 そうすると、エバはエバの性格で、それを探しに行けと言うでしょうか、探しに行くなと言うでしょうか?(「探しに行くなと言います」)。探しに行くなと言うのです。「お兄さん、行かないで」と言えば、「おい、おまえ、言うことを聞け」「何よ、兄さんこそ」と、このようなことが始まるのではないでしょうか? 兄と二人きりで暮らすのに、お兄さんがうさぎを捕まえに、日が昇る前から山の頂上に登っていくとき、エバは気分がいいでしょうか? そのような男性についていくことができないのです。 そうして、お兄さんと離れるので、「行くなと言っても行くのだなあ。私のお兄さんは、どうしようもない人だ」と言いながら、涙を流したでしょうか、流さなかったでしょうか?(笑い)どうですか、考えてみなさい。涙を流したでしょうか、流さなかったでしょうか? 女性たち、自分の立場で考えてみなさい。お兄さんと二人きりで暮らすのに、早朝からお兄さんはうさぎを捕まえに行き、妹が泣くのに顧みもしないのです。だからといってアダムも、今の世の中の夫婦のように口づけし、愛してあげてから出掛けることもできないのです。ですから、振り向きざまに、「じっとしていろ」と言い残して行くので、エバは泣くようになっているというのです。 それでは、帰るときまで泣くでしょうか、出発するときだけ泣くでしょうか? 泣かずに休んだとしても、お兄さんが門を開けて入ってくれば、大きな声を出して再び泣くようになっています。そのような性質を女性たちは持っているでしょう? ですから、エバがそのように一日中泣くので、赤ちゃんの面倒を見る責任を持ったのが天使長であったというのです。アダムとエバをりっぱに育てて、結婚して彼らが天国に入るときに、天国で豊かに暮らせるようにしようとしたのです。アダムとエバの面倒を見ていたのが、僕に当たる天使長であったのですが、アダムとエバが天国に入っていって、その僕を呼んで、「あなたたち、私の家に入ってきて一緒に暮らそう」と言うとき、神様は僕にも相対をつくってあげようとされたというのです。神様が、そのようにつくられたというのです。分かりましたか? その時まで待ったならば、天使長も永遠な相対を持って、アダム家庭のように幸せに暮らせたはずなのですが、これが途中で事故に遭って、今日、このような姿とありさまをもたらしてしまったというのです。 エバが泣くのを見るとき、天使長が、「さあ、泣きなさい。さあ、泣きなさい。帰ってくるときは、どうせもっと泣かなければならないでしょう。どれほど腹立たしいでしょうか?」と言ったでしょうか、どうだったでしょうか? 泣くなと言って、おぶってあげたでしょうか、あげなかったでしょうか?(「おぶってあげました」) おぶってあげたのですが、背中におぶってグウグウ寝ますね。どこで寝ますか? ひざに抱いて眠らせなければなりませんか、背中にうつぶせにして眠らせなければなりませんか?(「ひざで眠らせなければなりません」)。ひざに下ろして眠らせなければなりません。 眠らせるのに、このようにしたり、あのようにしたりすれば骨が折れるので、座らせるようにして眠らせてあげたというのです。最近はいすがあって、休むのにもいいのですが、そのときは、どこかに寄りかかって抱いて眠らせてあげるしかないのです。そのときに、男性の生殖器と女性の生殖器が、近くに接触し得る部分にありますか、ありませんか?(「あります」)。あるので、「これとあれがあれば、赤ちゃんを中心として仲むつまじく楽しい動物の世界の形態が始まるはずだが、それはどうだろうか?」という考えをしただろうというのです。ですから、抱いて眠るのを「ううん」と力を入れれば、事故に遭う(堕落する)というのです。 そのようになる可能性があると思いますか? 文総裁が「そのような気がする」といってする作り話でしょうか? そのようになる可能性が高いですか?(「そのようになる可能性が高いです」)。そのようになる可能性が高いというのです。それは常識的な結論です。そのときは、堕落する可能性のある行動的環境において自由にふるまっていた、という事実を知らなければなりません。 そのような法を守ることができずに天使長が行動することによって、エバまで脱線させたのです。守るべき天理を破って誘惑をしたので、エバが生きられる道がなくなりました。そこでエバは、アダムに「堕落した」と言って、「もう一度生かしてほしい」と言ったのです。すると、アダムまでは地獄に送ることはないであろうと思ったのですが、アダムまで引っかかってしまったのです。 このようにして、偽りの愛をつくったことになったので、神様は見るのも嫌です。鉱物世界に、そのような愛以上の作用はあり得ず、植物世界にも、動物世界にもそのような作用はあり得ません。そのように、天地のいかなる相対理想世界にも存続できる基地がないので、追放するしかない結果になったのです。手をつけられないように、永遠に別れてしまったというのです。 追い出したでしょう? なぜ、追い出したのか分かりますか? 韓国では、娘が浮気をして子供を生んだりすれば、それを家に置きますか、追い出しますか?(「追い出します」) そのようにして、アダムとエバが堕落した後に神様が追い出しましたか、追い出しませんでしたか? 追い出したでしょう? 天地のどこにも、相対理想を中心とした主体・対象圏内における愛の理想を中心として一つになることのできる自由の理想圏内には、このようなものはあり得ません。いかなる存在であっても、歓迎されるものは一つもないので、これを除去せざるを得ないのです。ですから、追い出したのです。 アダムとエバは、追い出されて子供を生みましたか、追い出される前に、エデンの園で子供を生んでから追い出されましたか?(「追い出されてから子供を生みました」) 神様も同じです。サタンも同じです。そのことを知らなければなりません。そのような前後、左右のすべてのことをわきまえて、順理(当たり前の道理)をわきまえることのできる天理があるので、復帰摂理が可能であったということを知らなければなりません。 真の愛と「原理」 本論に入ります。(笑い)真の愛をどこから失ってしまいましたか? 世界から失ってしまったか、私自身から失ってしまったかというのです。(「私自身からです」) 私たち統一教会は、理論を内外共に備えており、サタン世界に引っかからない方法を、あまりにもよく知っています。先生も、皆さんに挑んで倒すことはできないので、どうしたらいいのかと、ため息をつくのです。 先生が一言言えば、食口たちが決定して、答えを通り過ぎて結果まで出してしまうことができます。そうして、「私がこのような立場にいるのに、先生はどうして訪ねてこられるのですか? 私はこのようにしたのですよ?」と言いながら、来る先生を押しのけて、堂々としていることができるのです。そのような論法を発見することのできる技量を教えてあげたので、恐ろしい基盤があると、先生は考えるのです。分かりましたか? 先生が間違えば忠告しますか、しませんか? きょう、神様の安息日を宣布しておきながら、洋酒工場、ビール工場にパイプを連結しておいて、二十四時間パイプでお酒を飲みながら、統一教会の教主として、「世界にいるすべての統一教会の指導者は来なさい。お酒のパイプをくわえたまま訓示しよう」と言えば、来ますか、来ませんか?(「行きます」)。そのようなことは、原理にはないのにですか? そのような先生の話を聞いてはならないはずなのに、ですか?(「そのようにされるかたではありませんから」)。そのようなことをするかたではないので、問題なのです。(笑い) 文先生が死んだならば、世界の財閥、政治家、文学者たちが、たくさん集まってくるはずです。また、ここにいる人は、先生が死んだならば、共同墓地に列を成してついていきますか、ついていきませんか?(「ついていきます」)。あなたたちがついてこなくても、世界の人たちがついてくるようになっているのです。あなたたちが花を持ってこなくても、世界の人たちが花を持って、たとえその墓が、白雪に覆われた北極にあったとしても、訪ねてくるようになっているのです。 それでは、どのような人の弟子になり、どのような人の家の中で暮らしたいですか? 文総裁の家ですか、それとも韓国の財閥の家に行きますか?(「お父様の家に行きます」) 韓国のおじいさんたちは、これくらいの長さのキセルでパンパンと打つのです。キセルを平安道の言葉で何と言いましたか?(「コムパンデです」)。灰皿が真鍮でできていて、それをたたけば、町中全体に響くのです。パンとたたけば、「孫たちよ、来なさい」、ということです。それが、合図の信号なのです。 文総裁が、キセルを持っておじいさんの役目をするのですが、皆さんはお父さんの役目をしますか? 神様が千年万年、悪魔と闘われた真理の杖で、この役目を果たしますか? これを肯定し、是認する限り、そのまま行わなければなりません。そのことが分かりますか、分かりませんか?(「分かります」) それが何かと言えば、「原理」です。神様までも、その原理には頭を下げられるのです。世の中の堕落した者たちは、千年万年、頭を下げなければなりません。 統一教会には、教理ではなく、原理があります。教理はありません。これは、「万民が行くべき真理の道」であるというのです。今は、世界平和統一家庭連合の原理です。それは、神様も従っていかれ、私たちも従っていくことのできる真理を指しているのです。 この真理をもって線を引くようになれば、消す者がなく、この真理をもって絵を描けば、消す者がいないというのです。芸術中の芸術であり、美術中の美術のチャンピオンになることのできる、すべての内容を備えているということを知らなければなりません。 どこでも思いどおりに通じることができるものは、真の愛しかありません。回ることもでき、下りていくこともでき、横的に行くこともでき、どこに行ったとしても歓迎されるのです。 ですから、神様がなぜ、この地上に安息所を持たれることができないのかといえば、休まれることのできる家がないからなのです。「神様の安息の家」がないのです。分かりましたか? 堕落したので、すべてが分かれてしまいました。心と体が分かれ、夫婦が分かれ、母親と子供が分かれ、氏族が分かれ、国家が分かれ、世界が分かれ、天地が分かれ、神様とサタンが分かれています。これをどのように統一するかということが問題であり、どこから手をつけるのか、ということが問題なのです。 根本から、初めから、家庭から、私自身から出発するのです。世界平和が成され、アメリカとソ連、民主世界と共産世界が闘っていたものが平和の世界になり、一つになったからといって、皆さんの心と体が統一されると思いますか? 皆さんの夫婦が分かれて争うことが、統一されると思いますか? 分かれた国が統一されると思いますか? それは、たかだか世界舞台における長子圏と次子圏、カイン・アベル圏が一つになっただけです。それは、いかなる統治原理の根とも何の関係もありません。 ですから、平和統一の基準は、「私」からなのです。エデンの園で私たちの先祖が失敗した、その土台以上に帰らなければならないということを知らなければなりません。それを教えてあげるのが、統一教会の原理なのです。分かりましたか?(「はい」)。ですから、真の愛が必要なのです。<後編に続く>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.19
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「平和世界実現のための真の愛・真の家庭三千六百万双祝福式」宣布一九九七年七月十五日、アメリカのアラスカ、チグニックにて、真のご父母様は三百六十万双の予備祝福を完遂したという報告を受けられ、その勝利的な基盤の上に、「『平和世界実現にための真の愛・真の家庭三千六百万双祝福式』を宣布しながら」という題名の声明文を、百八十五か国の新聞(七月二十日付)を通して発表するように指示された。新たに展開される二〇〇〇年代を、わずか数年後に控えた人類は、歴史を遡り、人間をつくられた神の本然の創造理想に新しく光を当てることによって、今後人類が歩んでいくべき永遠の未来像を再び定立し、その準備に対する心の姿勢を新たにしていかなければなりません。本来、神の創造理想は、アダムとエバが最初の真の父母となり、神を中心とした真の家庭を築き、真の国家と真の平和の世界を築くことによって、神が永遠に安住なさる基盤をこの地上に実現することでした。再臨主は、真の家庭のみ旨を完成する真の父母として来られます。しかし、アダム家庭においてアダムが堕落することによって、真の父母として真の家庭のみ旨を完成することができなかったので、第二次アダムとしてイエス様が来られ、それを国家的次元で復帰しなければなりません。それゆえに、第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであるイエス様は第二次アダムとして来られました。しかし、イエス様もまた真の父母の家庭を築くことはできず、約束だけをなさって亡くなられました。したがって、第三次アダムが再び来られ、世界的な次元で真の父母の使命を蕩減復帰しなければなりません。これが第三次アダムとしてこられる再臨主の使命です。再臨主は旧約・新約時代から残されたすべての約束を成就すべき、成約時代の完成者として来られます。すなわち、神様を中心とした本然の真の家庭と真の血族を、祝福式を通して、世界的に再び探し立てなければならないのです。既に、一九九五年八月二十五日にソウルのオリンピック・メイン・スタジアムで挙行された三十六万双の合同祝福結婚式に引き続き、本年一九九七年十一月二十九日、アメリカの首都ワシントンD.C.において開催される国際合同祝福結婚式に参加する予備祝福の家庭数が、七月十五日付けで三百六十万双を超えました。さらに三千六百万双を新たなる目標として、全世界で新たに推進する祝福結婚のキャンペーンは、天国が地上に臨む、歴史的な新しい転換点を地球上にもたらすことでしょう。神と真の父母を中心とした真の家庭の理想こそ、全宗教と理念を超越して、人類が究極的に求めて築かなければならない国家的・世界的な理想の根となることでしょう。それによって、神の救いの摂理は終着点を迎え、すべての宗教がその歴史的使命を完遂するようになるのです。世界基督教統一神霊協会が、その名称を「世界平和統一家庭連合」に変更したのもそれによるものです。国民の皆様と全世界の指導者たちが、人種と国家、宗教を超越して、三千六百万双の国際合同祝福結婚式に積極的に参加することにより、真の家庭を通じた真の平和世界建設の先頭に立ってくださいますようお願い申し上げます。 一九九七年七月二十日 世界平和統一家庭連合一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.19
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第7回「七・一節」の御言1997年7月1日ブラジル・サロブラホテル アダムとエバは神様の愛の相対 創造理想を完成した世界では、救援や救援摂理という言葉はあり得ないのです。救援は、再び取り戻して救ってあげなければならないという意味です。すべてを失ってしまったので、救援して復帰してあげるということです。 堕落によって、神様が何を失ってしまったのかといえば女性です。ですから、女性はサタンの側に行くようになっています。 それでは、今までこの地上で生きている男性たちは何かといえば、神様の体にならなければならないのですが、男性は天使長の体、神様の僕の体になってしまったのです。 サタンの体、サタンの男性になり、その男性と一つになった女性、その男性と女性と一つになった子女たちは、サタンの血統を持つ本当のサタンの息子・娘たちなのです。 男性は、エバの主人となり、カインとアベルの父となることのできる本然の神様の創造理想を失ってしまったのです。 ですから、サタンの体、サタンの妻、サタンの子女になったので、神様の体、神様の息子、神様の妻、神様の子女を追放してしまったのです。 そうして、救援摂理のアダムの時からアブラハム、ヤコブの時まで二千年の歳月が過ぎて、初めてこの地に着地して救援摂理史を始め、メシヤを送ることを神様は約束されたのです。 メシヤがやってきて、本来の堕落しなかった本然の基準である、神様の体をもって取り戻してこなければなりません。神様の体を持った夫を中心として、サタン世界のエバと子女を復帰してこなければならないのです。 では、旧約時代のメシヤはどのようなおかたなのかといえば、真の父母となって、真の夫の立場に立ち、真の妻を復帰して、真なる息子をつくるのです。これが真の父母の使命です。 ここで問題になるのは、堕落によって、本然の神様の血統になるべきものが悪魔の血統になって、また別の最初の男性と女性と子女が生じるようになったことです。 アダムとエバが、神様の体として継承することのできる十六歳までの期間がありました。彼らが結婚さえしていれば、神様の子女となって、サタン世界は存在しません。そうであれば、このような人類に、戦争の歴史と血を流す歴史がなかったのです。 神様が天地を創造されるとき、神様ご自身が創造の絶対信仰と絶対唯一、不変、永遠な基準でつくられたのです。ですから、絶対信仰の上で神様と一つになるのです。 その創造というものは何かといえば、神様が必要とする相対を求めるということです。無形の神様が、見える神様として現れて、これをすべて神様の代身の形状をまとった神様の愛の相対につくろうというのです。 ですから、創造の最初の目的は、体を身に着けなければなりません。無形の神様なので、将来の人間を中心として創造理想が完成されれば、体をもったアダムとエバの子女が霊界に来ることによって、神様がその霊界でも父となり、王になろうとすれば体がなければならないのです。 では、神様が体をまとって現れたその姿が、だれの姿でしょうか? 完成したふたりの夫婦が、神様の祝福を受けて一つの体になった、アダムとエバの姿です。 そうなれば、アダムとエバは神様の愛の相対です。神様は、愛の相対をつくられ、愛によって完成するために宇宙のすべての鉱物、植物の核として人間を立てておかれたので、それを吸収しながら生きるのがアダムとエバ、私たち人間の生活です。人間は万物の霊長です。 結婚を通して一体化 完成して祝福を受けなければ、神様の形状も失ってしまい、神様の愛の相対も失ってしまうのです。神様のみ旨のとおりになるためには、最初は形状をまとった愛の相対を求めるのであり、第二には、家庭とその後孫と国のために、子女が必要となるのです。 家庭が完成する日、神様の形状を持ち、愛の相対を持つようになり、愛する子女を持つようになるということを教えてあげるのです。 では、これが何を中心として一つになるのかといえば、血統です。中心の根、幹、芽がすべて一つです。見えない神様の血統と、見える神様の血統を継承しなければならないのです。それでは、いつ、見えない父なる神様と、見える父なる神様の血統がいっぺんに出発するようになるのでしょうか? アダムとエバが完成すれば、神様が結婚させてくれることによって、アダムの体の中に神様が入っていって、私たちの心としての創造主の父と、体としての創造物である父が愛によって一つになるのです。 知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛で一つになることによって、真の愛を中心とした形状が成され、相対が成され、家庭が成されるようになるのです。 真の愛が重要なのです このことがはっきりと分からなければ、宇宙の根本が分からないのです。それでは、見えない父なる神様の愛と、見える父なる神様の愛がどこで一つになって出発するのでしょうか? それは結婚して、初愛の場で連結されるのです。 天地が一つになり、男性と女性が一つになり、愛を中心として神様の生命と人間の生命が一つになり、神様の血統と人間の血統が一つになるのです。 このようなことは、皆さんの子女も同じです。皆さんの子女が何かといえば、自分たち夫婦の姿に再び似て生まれたのです。 アダムとエバは、だれかといえば、見える神様の体なので、神様が育つとき、赤ん坊から、兄弟、夫婦、父母の立場に進んでいくのと同じことを、経験させるのです。 それで、自分たちの家庭を中心として、赤ん坊を産んで、兄弟を育て、祝福して、神様がアダム家庭のためにされたみ業を再び繰り返すのです。 それゆえ、見えない神様の愛と生命と血統と良心が、見える神様の愛と生命と血統と良心と一つにならなければならないのです。 では、それが何によって一つになるのかといえば、結婚なのです。アダムとエバの結婚は、愛を結ぶことです。皆さんの心の中に神様が入ってきて、神様の愛、神様の生命、神様の血統、神様の良心を中心として、実体対象であるアダムとエバを中心として、神様の愛を中心として、生命と血統と良心が一つにならなければならないのです。 それゆえ、霊的な見えない父なる神様と見える父なる神様は、天地と宇宙が合わさり、全体が一つになる実体の一つの核になるのです。核にならなければならないのです。 愛は一つの体になるのです。皆さんが願うのは、愛を中心として男性と女性が、絶対的に一つになることを願います。また、父母と子供、兄弟を絶対的に一つにすることができるのは、神様の本然の愛しかないのです。 それでは、見えない神様の愛が、どのように見える人間世界に現れるのでしょうか? また、見えない神様の生命が、どのように人間と関係を結び、見えない神様の血統や良心が、どのように人間と関係を結ぶのでしょうか? そのためには、一つになることのできる相対的条件がなければなりません。ですから、相対が絶対に必要なのです。 結婚式の初夜に、男性と女性が愛し合うようになることは、天地が合わさることであり、宇宙全体が合わさることです。神様の愛を中心として全体の愛をもって、すべての万有がそこに相対的立場にあるので、その核を中心として全部連結されるのです。 そうなれば、宇宙が回り、宇宙が往来するのです。これがアダムの理想家庭、創造理想家庭だったのです。このような本然の理想が、堕落によってすべて解体されてしまいました。見えない神様の愛、神様の生命、神様の血統、神様の良心を中心として、見える相対をすべて失ってしまったのです。これを再び、神様が見えるように再創造しなければならないのです。 堕落しなければ、その見えない私たちの心に従って、自由に入ってくることができるのですが、これをサタンが占領したという話です。 ですから、心も清算しなければなりません。心が何かといえば、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統、偽りの良心なのです。これを清算しなければならないのです。心や体を全部清算しなければなりません。 神様の再創造の目的がどこで成されるのかといえば、アダム家庭です。本然のアダム家庭で成される内的な見えないお父様と、見えるお父様が、愛と生命と血統と良心が一つになることのできるその基準を、再び取り戻さなければなりません。 ですから、見えない神様の家庭、神様の宗教、神様を中心とする民族、国家形態を整えて、サタン世界以上の見えない権限を持たなければならないのです。 見えない父なる神様の愛と生命と血統と良心を中心として、霊的にでも相対的世界の基準を立てなければなりません。その霊的基準の前に、実体基準まで一つにさせることのできる基盤が、第二次世界大戦後の連合国の勝利基盤だったのです。 最後まで耐える者が勝利 心と体が分かれて、世界的に心と体が闘っています。体が心をいつも攻撃していたように、第一次世界大戦、第二次世界大戦、第三次世界大戦を中心としてサタンは、常に善なる天の側を攻撃しました。これを復帰してくる運動を、宗教が受け持ってきたのです。 では、宗教とは何でしょうか? 宗教が、なぜ必要なのでしょうか? 神様が最も必要とする「家庭的核」を捜すのが、宗教の責任です。 それゆえ、宗教を中心として常に闘いが起こるのです。宗教は常にその時代において個人的宗教時代、家庭的、氏族的、民族的、国家的宗教時代に、迫害を受けて血を流してきたという事実を知らなければなりません。 さて、宗教が神様の保護を受けるためには、どのようにしなければならないのでしょうか? 神様の保護をむやみに受けることはできません。 神様が創造されるとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を中心として創造されたので、その立場に帰るためには、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の立場で神様に侍らずしては、神様が協助することはできません。 サタン世界は不信の世界です。何を信じるというのでしょうか? 愛がどこにあるのでしょうか? 怨讐になっています。何が服従でしょうか? すべて搾取、虐殺の世界です。 そのようなサタン世界で、一番の怨讐が何であるかといえば、宗教圏なのです。サタン世界が神様の側にある宗教を全部打ってなくそうと、抹殺運動をしてきたのです。 神様が、サタン世界をすべて助けてあげることはできません。神様は、サタン世界の人たちと、愛の関係も生命の関係も何らの関係もないのです。 エデンの園で絶対信仰でなく自分勝手な信仰、絶対愛ではなく自分勝手な愛、絶対服従ではなく自分勝手な服従であったので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててこそ、初めて神様が干渉することができるのです。 それでは、宗教がどのように生き残るのかということを知らなければなりません。僕の僕から僕、庶子、養子、直系の子女、母、父、神様まで、八段階の受難の道を経ていかなければならないのです。 サタンの代表家庭において、天の息子が生まれたならば、その家族が皆、ありとあらゆることをするのです。十人の家族がいたならば、十人が刃物で天の息子を殺そうとするのです。何の罪もないのに、祖母が騒ぎ、父親が騒ぎ、夫が騒ぐのです。 そして、息子・娘が見るとき、「おじいさんは、やり過ぎではないか? お父さんも、またやり過ぎではないか? お兄さんも、やり過ぎではないか?」と言うのです。 本心(良心)で見るときに、同情心が起こるように、ありとあらゆる凶悪な行動に対して我慢しても、さらに、ために生きなければならないのです。 十人の家族のなかで一人が同情心を持ち、また、一人が同情心を持つようになり、半分以上の人が同情心を持つようになれば、女性ならば、「私は、あの男性を夫にしよう」と思うのです。 また、「お父さんが、あのようであってほしい」と思い、「私の祖父が、あのようであってほしい」と思うようになるのです。そのような心を持つことにより転換されるのです。 このようなことを知って聖書を見れば、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という言葉が理解できるのです。最後まで耐える者が勝利するということです。 神様の作戦は、「サタンよ、サタンよ、おまえが来て攻撃しろ」というものです。打たれてじっとしているのです。真なる王、真なる父になることのできる立場を握っている天の側は、打たれてじっとしており、打たれながら、ために生きるのです。 これが宗教、信仰の主流の行動です。主流が行くべき道はこのようなものなのです。そのようにして、仲間をつくってきました。ですから、サタン世界に従って分かれた人たちが、「あのおかたはだれか?」といえば、「私の先祖の中の先祖である」というのです。 また、「あのおかたはだれか?」といえば、「私の兄の中の兄である」といい、「あのおかたはだれか?」といえば、「王の中の王である」というのです。そのようにして、絶対一つになるのです。 「私の父親も祖父も偽物であり、夫も兄も偽物、一族が全部偽物だ 本物はこれしかない」というようになるのです。 このようなものが信仰の伝統ですが、今日の宗教には、その伝統がありません。終わりの日になって、伝統がないすべての宗教は飛んでいって、すべてなくなるのです。 先生がこのような伝統を教えるので、先生に反対するのです。先生に反対しない国、反対しない人がどこにいるでしょうか? 個人として反対し、家庭として反対しました。それゆえ、父親と母親が自分の子女を拉致する歴史は、統一教会にしかありません。父母が子女を拉致するのです。 「レバレンド・ムーンから祝福を受けるな」と言うのです。先生が一番の怨讐です。神様が最も好むものは、サタンが最も怨讐視するのです。ですから、祝福を受ければ大騒ぎになるのです。祝福してあげることによって、先生は迫害されたのです。 真の父母によって家庭の破綻を救済 全世界の人類が、アダム家庭一つのように解放された立場に立って、一日の祝福が展開されなければなりません。第二次世界大戦以後に、キリスト教と英・米・仏、日・独・伊が連合国を主軸としてすべて一つになりました。体が闘ったものが、一つになって統一されたのです。 堕落は、エバを失ってしまったことです。将来、アダムが完成して、祝福を受けることのできるあらゆる相対がいなければなりません。 母親と子女をサタン側が連れていったので、再臨主は国家的基準以上でこれを連結させるために来なければならないのです。世界的舞台において乗り越えていかなければならないのです。 サタンは、長成期までです。原理的に見れば、完成期と神の直接主管圏はサタンが支配できません。サタンは、国までは支配しても、世界を支配できないようになっているのです。 それで、終わりの日はどのような時かといえば、肉的な国の人たちが、神様が離れた場で生きるのです。そのようにしながら、その人たちが生きる家庭は、サタンが皆青少年を、アダムとエバを全部淪落させ、破綻させるのです。 本当にめちゃくちゃになって、エイズによって人類が遠くない将来に滅亡しかねない立場になるのです。今が正にそのような時なのです。 堕落したアダムとエバのように、青少年が淪落して家庭が破綻する現象の起こる終わりの日が来たのですが、この環境に神様が手を着けることができません。 堕落したアダムとエバに、神様は干渉できません。血統が違うのです。神様の愛と生命と血統とは、関係がないのです。関係がないのに、どうして手を着けられるというのでしょうか? また、サタンも政治の力でここまで引っ張ってきましたが、世界舞台に引っ張っていくことはできないのです。国家までは引っ張っていきましたが、世界までは引っ張っていけないのです。 サタンの限界線は、国家基準にあるので、数多くの国家をつくって統一できないようにしておいたのです。神様が統一してきたものに反対するようにつくっておいたのですが、これを引っ張って、本来帰ることもできないのです。 もっと進むこともできず、帰ることもできません。神様も手助けすることもできず、どうすることもできません。 ブラジルの国ができますか? ブラジル大統領ができますか? ブラジルの経済ができますか? ブラジルの教育ができますか? ブラジルの軍事ができますか? できません。宗教もできないのです。 これに手を着けて処理できるのは、真の父母しかいません。偽りの父母によってすべて分かれてしまったので、真の父母が現れて青少年の淪落と家庭を再度収拾して、神様の本然の愛を中心とした生命的、血統的因縁を備えるように祝福してあげるのです。 完成した家庭の形態を築いてあげれば、サタンは自然と離れ、世の中と区別して新しい家庭、氏族、民族、国家が編成されるのです。 また、いっぺんに、世界祝福してあげれば、そこには家庭があり、氏族、民族、国家、世界が共にあるのです。 キリスト教は父母権復帰の宗教 さて、キリスト教の人口が、第二次世界大戦後は八億だったのですが、その時に来られた先生と一つになったならば、祝福は七年かかりません。七か月以内に終わるのです。 世界を統一した英・米・仏を中心として、「祝福を受けよう」と言えば、一週間以内に約四十億に近い人類が祝福を受けて、完全に一日で復帰されるのです。 ところが、先生はそのすべてのものを失ってしまいました。キリスト教が先生を追い出したのです。キリスト教は、新郎を迎えるための新婦の宗教です。新婦が民主世界と共産世界という子女を持った立場です。 その時、主軸国家の英・米・仏が、カインとアベルを抱いて母親の立場で父親さえ迎えれば、アダム家庭で失ってしまったものを世界国家で一つにできたのです。あとは、祝福して血統だけ転換すれば、すべて終わったのです。 そのようになれば、どうなるでしょうか? 先生は苦労しません。先生が四十歳には、世界天下を統一して王の中の王になり、神様が初めてこの世界の都に勝利の長子権、勝利の父母権、勝利の王圏を備えて、堕落しなかった解放された地上天国が、一時に広がるのです。 地上天国個人ではなく、地上天国家庭でなく、また、氏族、民族でもなく、地上天国世界が一時に広がって、霊界も空いていたものを共に祝福して、霊界も全部満たしてあげるのです。 堕落する前の基準で完結して、サタンの痕跡がない世界をつくっていかなければならないのです。ここから地上天国、天上天国の統一的神様の愛の主権、覇権時代が到来するのです。 そうして、地獄まで解放するのです。地上は地上地獄です。愛を中心とした地上地獄です。フリーセックスがどこにありますか? ホモがどこにいますか? レズビアンがどこにいますか? 自分の夫と暮らしながらホモを願い、レズビアンを願い、フリーセックスを願う人が、この中に一人でもいますか? これに手を着けられる人は、先生しかいません。真の父母しかいないのです。 それでは、皆さんはだれに似なければならないのでしょうか? 神様に似なければならないのです。無形の父が有形の父と一つにならなければなりませんが、有形の父が無形の父に似ることができなかったのです。 ですから、一つになることができるのは、見えない愛、見えない生命、見えない血統を中心として、見える父の愛と生命と血統と良心が、一つになる基準を再度編成していかなければなりません。 そこで、真の父母が現れて進むのですが、皆さんがついてくるに際しては、命懸けでついてこなければならないのです。そうすることのできる群れにならなければならないのです。 サタンは、殺して直接引っ張っていくのですが、真の父母に従っていけば天国に行くのに、何回死んだとしても、ついていかなければならないのです。 ここで問題になるのは、女性です。女性が何かと言えば、一番目にアダムを殺しました。二番目には、イエス様を殺しました。三番目には、エバ圏であるキリスト教が、再臨主を死の場に追いやったのです。三度も蹂躙したのです。 ですから、英国のようなエバ国家が誤ることによって、国家的立場に立ったエバ国家は、これに対する蕩減の役割を果たさなければならないのです。 英・米・仏が、責任を果たせなかったので、再度このことを蕩減する業をするのです。では、再臨主は、何をしなければならないのでしょうか? 再臨主は、一次アダム、二次アダム、三次アダムが失敗したものを、完成すべき責任が残っているのです。 このように見れば、旧約時代は、アダムに匹敵し、新約時代は、イエス様に匹敵し、成約時代は、再臨主に匹敵するのです。アダム・エバ、男性・女性が神様からつくられて、神様の前に最も要求するものが何でしょうか? 「私たちの結婚式をしてください」ということです。未婚の男性と女性が成長すれば、「結婚式をしてください」と言うのと同じです。 旧約は、アダムとエバが堕落したために、神様を中心とした結婚式ができず、約束を果たせなかったのです。 それで、イエス様が、メシヤ、第二アダム国家的責任者として来られて、イスラエルを中心として国をつくるのです。国家的基準でアダムを失ってしまったものを救うところは、国家以外にはありません。 国家の基準で勝利をするために、イエス様が来られたのが新約です。新しい約束である結婚式のために、神様を中心として国を取り戻すのが新約です。 今まで何回失敗したでしょうか? アダム家庭、イエス家庭が、どのようになったでしょうか? ですから、仕方なく死に、イエス様の心と体を裂いてしまったので、これを救援しなければならないのです。 そのために、第二次世界大戦を中心として復帰するのです。日・独・伊と英・米・仏が全く同じ立場で闘ったのです。体が心を打ちました。 サタン世界が全世界のキリスト教文化圏を打って、なくしてしまおうとしました。しかし、七五パーセントまで勝利しても、全部滅びていくのです。皆さんはこのことを知らなければなりません。 キリスト教は何の宗教でしょうか? 父母権復帰の宗教です。その他の宗教は、天使圏復帰の宗教です。どの宗教が中心なのかといえば、家庭編成を中心とした内外の核心が備わった宗教が、主流宗教になるということを知らなければなりません。 四大聖人のだれが中心か、今までは分かりませんでした。宗教人は、分からないのです。統一教会の先生と、統一教会員しか分かりません。神様とサタンと先生しか分からないのです。 彼らの救援の目的は、個人です。天使長は個人です。相対がいないのです。しかし、統一教会の時代になってからは、家庭救援を中心として親族救援、国家救援、世界救援がいっぺんに成されるのです。 今まで、宗教だと信じてきたキリスト教も、天使長の体が代表の立場に立って、個人救援をしたのです。その個人救援が、宗教圏を立てて捜し立てたのは、アダム家庭で失ってしまった愛の巣です。 家庭を取り戻してくるということを、知らなかったのです。これを復帰するのが、神様の救援摂理の目的であるということを皆、知らずにいたのです。知っているのは、先生を通した統一教会員だけです。 絶対信仰・絶対愛・絶対服従の上に摂理は発展 さて、キリスト教の歴史の中において、血統を転換して復帰した内容があります。ほかの経典にはありません。カインとアベル、その次にはヤコブとエサウを中心として、ペレヅとゼラという胎内にいる双子を中心として転換するみ業をしたのです。 血統を転換させて天の側に立った一族が出発したのが、イスラエル選民であり、その一族を通して血統を転換させた王が現れた内容をもったものは、キリスト教の歴史しかありません。 キリスト教のイエス様の歴史しかないのです。そのことを知らなければなりません。ほかの宗教にはありません。 イエス様は、「神様は私の父である 私は神様のひとり子である」と言いました。これは偉大な宣布であるということを知らなければなりません。 神様のひとり子です。ひとり子は、神様の初愛、神様の全体の愛を独り占めできる代表者です。ひとり子の権限をキリスト教は持っているのです。それゆえ、キリスト教文化圏が世界を統治しているのです。 サタンに心が奪われて家庭が破綻し、青少年は手が着けられないくらいに滅びるのです。そこに真の父母が来て、青少年や家庭問題を収拾し、国と世界を一時に神様のみ旨にかなう創造本然の内容を中心として組織編成できる、確実な観点が現れるようになっています。 絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に神様の摂理は発展するのですが、それを伝統的に立てておいた民族や国家がないのです。 それゆえ、そこから落ちたりしながら上に上っていくのです。このようにしながら、数多くの人が犠牲になって、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基盤を通して、復帰歴史は成し遂げられるのです。 ですから、宗教圏を中心として血を多く流し、虐殺され、殉教していった伝統は、キリスト教しかないのです。仏教ではなく、儒教や回教ではありません。このようなことを皆が知らなければなりません。 このような話をするのは、皆さんが統一教会に入ってきて、すべてを知ることによって、自分で落ち着いて自分の方向を備えて進むことを願うからです。 英・米・仏が責任を果たせずに、第二次世界大戦で来られる主を迎えることに失敗したのです。王の中の王、父母の中の父母、長子の中の長子として迎えることができる基準、エデンの園で神様が祝福して、神様の霊的父母と実体の父母が愛と生命と血統を中心として一体になることのできる基準にならなかったのです。それで、すべて分かれたのです。これを一体にさせる運動が起こらなければなりません。 再臨主を追い出したので、英・米・仏をだれが持っていったのでしょうか? 今の全世界の統一された環境をだれが持っていったのかといえば、サタンが持っていったのです。ですから、先生はすべてを失ってしまいました。 最も神様が愛していたものをサタンが握っているので、全権がサタン世界に入っていくのです。廃虚となり灰の山になった日本とドイツとイタリアを中心として出発したのが、再臨主の歴史であり、統一教会の歴史です。 さて、英・米・仏を神様が立てて役事したのに失敗したのです。しかし、神様は一度失敗したものを、もう一度拾って使うことはできないのです。 復帰という言葉は、神様ご自身がアダムの後孫を通して、子女の二世を通して復帰する立場にあられるということです。それゆえ、神様は失敗した英・米・仏に再び手を着けることができないのですが、救援摂理歴史は子女を通して復帰するので、息子の立場にいる先生が、初めて英・米・仏の代わりに日・独・伊に責任を持つのです。それゆえ、日・独・伊を立てるのです。 さて、キリスト教がもし先生を歓迎し、エバ国家として使命を果たしたならば、どこを訪ねていくのかといえばアメリカです。アメリカを中心とした南北米がカイン、アベルです。 カトリックがカインであり、プロテスタントがアベルです。お互いが怨讐です。これを完全に一つにするのです。そのようにして世界救援が成し遂げられるのです。 アメリカとプロテスタントが、アベルの立場に立って方向を決めてあげたのです。プロテスタントに対して二十余年間、方向を決めてあげたものを南米では、一年六か月の間に全部平準化させて、南米三十三か国を中心として、反対に引っ張っていくみ業をしようとするのです。 前に行くのではなく、反対に回っていくのです。南米がカインです。それを一つにする運動を今、しているのです。そのようにしながら世界を祝福させるのです。世界的祝福時代です。 ですから、見えない父なる神様と、見える父なる神様の愛と生命と血統と良心圏をこの地上に再度編成して、サタンの痕跡があるのを完全に消して、解放された基準で、天の国を成し遂げなければならないのです。 交差結婚 来られる再臨主が荒野に追い出されて、この世の中に千年、数千年にわたって築いた第二次世界大戦後の英・米・仏の勝利を求めることはできないのです。 四千年の蕩減歴史を四百年では、なせないのです。先生が四百年生きることはできません。生きることのできる期間が四十年ですが、この四十年期間に神様の創世以降に今まで四千年にわたって捜し立てた基盤を失ってしまったものを、再度、取り戻してこなければならないのです。 キリスト教が先生に侍ったならば、東洋、西洋が一つになります。祝福をして怨讐の国同士が交差結婚をしたならば、世界の人類が皆血統が混ざったでしょうか、混ざらなかったでしょうか? 国がありません。今ごろ、全部が一つの国になったはずです。そのようになったならば、東洋、西洋が分かれずに一つになって、韓国も南北が分かれませんでした。 先生を追い出すことによって、東洋、西洋が一つに統一されるのが、そのまま分かれたのです。先生と一つになったなら、韓国の南北が統一され、世界の中心国家として、世界国家を統一することができたのです。絶対的主体を中心として統一されるものが、全部倒れてしまったのです。 それゆえ、先生もすべて失ってしまいました。父母も否定しなければならず、子女も否定しなければならず、全部分かれてしまったのです。先生一人しかいません。世界がこのように分かれるので、韓国が分かれないはずがありません。サタンがほうってはおかないのです。 次に、先生の氏族が分かれるのです。聖進の母親の崔氏と文氏が宗親会を成して統一されるべきであるのが、すべて分かれてしまったのです。子女が、すべて分かれてしまったのです。 このようになれば、先生自身も家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、国家的メシヤを先生自身が編成してこなければならないのです。捜し立てなければならないのです。そのようにしてこそ、初めて一つになるのです。それが国家的ではなく、世界的です。超民族的な世界版図の上に生まれなければなりません。 先生は独りで、日本をエバ国家に、それからアメリカをアベル国家、ドイツをカイン国家に立てたのです。すべて怨讐です。 アメリカも新婦として、新郎である統一教会を追放した代表的国です。怨讐の中の怨讐です。そのことを知らなければなりません。ドイツも怨讐であり、日本も怨讐です。第二次世界大戦の怨讐です。赦すことのできない怨讐です。 それがなぜ、最も怨讐中の怨讐であるキリスト教・新婦圏内で最高のアメリカをそこに入れたのかというのです。旧教・ユダヤの国と新教・アメリカが、旧約と新約の基盤なくしては成約があり得ないのです。ですから、人類とアメリカを救うために、アメリカを選び、日本人、ドイツ人、ヨーロッパ人、アジア人を選んで、アメリカを再度復帰するみ業を二十一年間してきたのです。 個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的に、キリスト教まで先生が責任を持ってブレーキをかけて、引っ張りあげるみ業をしたのです。 母親の役割をする日本人 今、アメリカ自体が生きる道がありません。キリスト教も家庭もすべて倒れました。新しいキリスト教、新しい家庭理想は、レバレンド・ムーンにしかないので、このレバレンド・ムーンは次第に世界版図を持って、アメリカが持った権限以上の権限を持ってくるのです。 彼らが気がついて、「ああ 行く道は、レバレンド・ムーンにしかないのだ」という方向に展開して、これを全世界、民主世界に一元化させて、ワシントン・タイムズを中心とした方向をあらかじめ整えて、一つの体制につくっておくのです。 日本の国が怨讐です。韓国人と日本人は結婚できないのです。韓国人は死んでもできないようになっています。韓国が歴史上、九百三十二回も侵略されましたが、その大半は日本が侵略しました。 島国がどこかに、船に乗って海辺に侵略してきて、蕩尽していくのです。日本人に侵略されて、女性たちが蹂躙され、子供たちが虐殺され、ありとあらゆる歴史があったことを韓国人は知っているのです。日本人と死んでも結婚できません。 女性にとって、貞操がいちばん重要ではないですか? 純情と貞操を誇るのは、韓国の女性しかいません。九百年の歴史を通して、中国を兄の国として侍っていきながらも、中国人と結婚した人が皆無に近いのです。また、日本が四十年間侵略してありとあらゆる業をすべてしたとしても、願って結婚した人はほとんどいないのです。 このような日本人と韓国人が、交差結婚をしたのです。怨讐を愛さなければなりません。怨讐の娘であり、怨讐の王の娘であり、怨讐の父親であり、怨讐の兄なのです。 先生によって二千七百名、三千名に近い人たちが交差結婚をしました。日本女性は韓国男性、韓国女性は、日本男性と交差結婚をしたのです。日本が韓国と結婚することによって、絶対「性」を中心とした親しい立場で絶対服従しなければならないのです。 氏族的メシヤたちが、すべて一つになるようになれば、国家的基準において南米と北米の交差結婚です。私たち統一教会の教会員たちは、南米の人たちと結婚するのが問題ではなく、南米の人たちが北米の人たちと結婚するのが問題ではありません。すでにそのような伝統が立っているというのです。南北米合わせた六億が、すべて交差結婚できる日が遠くないのです。 日本と韓国が交差結婚したのです。アダム・エバ国家です。天使長国家、ヨーロッパ代表の版図がカトリック国家ですが、全世界と交差結婚するのです。宗教圏が全世界と結婚するのです。そうすれば、一つの世界になるのです。 そうして、日本人を中心として百八十五か国に行って、母親の役割をするのです。祝福をしてあげて、自分の後孫と交差結婚することのできる準備をしているということを知らなければなりません。 それでは、世界が一つでなければなりませんか、二つにならなければなりませんか?(「一つでなければなりません」)。血統が一つですか、二つですか? 入り乱れて純粋でないものは、すべてなくなるのです。 今の時は主人がいません。完成したアダムが現れる時です。サタンも神様も、「真の父母の時だ」と言うのです。サタンも「そのとおりです。あなたの思いどおりにしてください。私も今困難であり、神様も困難です。ふたりとも困難なので、ふたりを救ってくれる人は、あなたしかいません」と言うのです。 第二次世界大戦以降、解放された後に、共産主義と民主主義の世界が交差結婚をするのです。英・米・仏と日・独・伊が交差結婚するのです。 事実、四十年ではなく、七年もかかりません。七か月間にすべて仕上げることができるのです。それを蕩減するために先生が独りで闘ったのです。全世界のサタンが、歴史を通して屈伏するように、「四十年間、攻撃しなさい、私を打ってみなさい」というのです。 先生が先頭に立つのです。そうして、個人的に攻撃、家庭的に攻撃、氏族的に攻撃、民族的に攻撃、国家的に攻撃、民主世界、共産世界から攻撃され、反対されたのです。 地上天国、天上天国を願う神様の前に、地上地獄、天上地獄をつくったサタンが、全権をすべて持って、「地上天国が何だ。天上天国が何だ」と言いながら、たたきのめそうとしたのです。 その結果、先生が倒れましたか、勝利しましたか?(「勝利しました」)。世界の個人的な男性、女性を徹底してつくって、世界的な夫婦を教育して、世界的な氏族をつくって、世界的な民族をつくって、世界的な人種を編成してくるのです。 世の中がどんなに反対しても、私たちには前進あるのみです。世の中がどんなに反対しても、私たちの行く道は変わりません。(「アーメン」)「アーメン」。「アー(A)」は、ナンバーワンを意味し、「メン(men)」は、人を意味するのです。ですから、「アーメン」というのは、ナンバーワン・メン、「勝利した者」すなわち、勝利者を意味するのです。 祝福の台風が吹く 一九九二年を前にして、先生が四十年生涯をかけて再蕩減路程の受難の道を歩んできました。これをすべて清算し、「七・一節」を通して、お母様を世界的なお母様として、お母様の子女を世界的な子女として、前に立たせる時代が来たのです。それが「七・一節」です。 第一次イスラエル選民圏を失ってしまい、第二次イスラエル選民圏であるキリスト教を失ってしまったのです。その失ってしまったものを、全部蕩減しなければなりません。 再度家庭を編成して、天の側の家庭と、天の側の氏族と、天の側の民族と、天の側の国家まで現れなければならないのです。サタン世界の国家基準まで現れなければなりません。 皆さん、日本も先生が選んだのですが、日本の国は最後まで反対し、アメリカも最後まで反対し、ドイツも最後まで反対し、ヨーロッパも最後まで反対するのです。 統一教会は王であれ、大統領であれ、国家の首班であれ、従ってこれないようにするのですが、一方通行のようなレバレンド・ムーンに、命懸けでついてくる者が、今までの統一教会員です。ですから、家庭から追い出され、拉致される事件が起こってくるのです。 日本、アメリカ、ドイツの三大国家を先生が立てたので、世界経済圏がこの三つの国にすべて集まるのです。 諸国のチームがやってきて調査をしてみると、統一教会の根があまりにも深くて、日本だけでは統一教会をなくすことはできないのです。 ですから、レバレンド・ムーンの話に従って二百十万双祝福を完成すれば、大変なことになるようになっているのです。 韓国もそうです。南韓や北韓も分かれてすべてサタンの国になったのです。韓国も、もはや文総裁でなければ南北統一できず、北韓も文総裁でなければ南北統一できないというのです。それがすべて私にかかっています。 アメリカの作戦と南北の作戦においては、韓国が経済的に支援することができる時を失ってしまったのです。それはだれがしなければならないのかといえば、エバが復帰しなければなりません。 百八十五か国に行って、任地国で伝道した霊の子女と、自分の子供たちをカイン、アベルとして全部一つにさせなければなりません。 エサウとヤコブは腹中でも争い、生まれてからも争いましたが、腹中から和合し、子女を産んでからも一つにさせることのできる業をしなければならないのです。 ですから、百八十五家庭、百八十家庭を祝福した人たちは、これから自分の故郷に帰ります。そして、祝福した人たちは自分の腹中に子供がいれば、母として子女であるカインとアベルを復帰することのできる条件を立てるのです。今後、自分の親族と、自分が伝道した人たちの子孫同士が結婚するようになるのです。 このような伝統が起こるのです。今後、国と国が国境を中心として怨讐になっているのですが、その国を救うためには千二百名の正義隊、一万二千名の正義隊、十二万二千名の正義隊を中心として、お互いその国を助けて、復興させて、同じ基準に上っていくことができるように奉仕し、ために生きて再創造の役事を始めるのです。そうすれば、地上天国が形成されるのです。 日本は島国です。アジア大陸のエバ国家です。アジア大陸だけ数えても、三十二億にもなります。世界人口の五分の三です。アジア人と西欧社会の五色人種が、大陸を超えて結婚式をするのです。 さて、この家庭破綻したすべての環境を、私たちだけが特権をもって収拾することができるのです。自由世界、民主世界、黒人、白人ということなく、早く早く祝福しなければなりません。祝福の風が吹くのです。台風が吹くのです。 ブラジルで、百二十双祝福してあげた人たちを今回、連れてきたのですか? 六人ですか?(「五人です」)。その人たちに、拍手しなければなりません。(拍手) エバ国家、母親の使命を果たしたエバ国家の女性たちがやってきて、精誠の限りを尽くして、自分の血と肉を食べさせてあげなければならないのです。子女は自分の血と肉の延長です。 自分の骨だけが残ったとしても、骨に皮をかぶせたようになったとしても、子女を食べさせて生かすべき立場が、母親であることを知らなければならないのです。 私たち統一教会の食口たちが、国を代表して世界を代表して働くのですが、エバ国家の女性たちが世界に再び出ていって、復活させるために行くとすれば、だれが保護し、経済的に援助してあげなければならないかといえば、アベルとカインのアメリカとドイツです。これができずにいるので、私たちがしなければならないのです。 家庭祝福を完遂すれば、この三大国家のすべての資源と愛する子女の人脈が、全部いっぺんに私たちに従ってくるのです。 三千六百万双の祝福 ですから、「七・一節」がなぜ必要なのでしょうか? 家庭編成して家庭を約束するのが祝福です。結婚させてあげるのですが、十二の峠を越えなければなりません。天使長の代わりに、三家庭を祝福してあげなければなりません。その次には十二家庭ですが、アダム時代、ノア時代、ヤコブ時代を縦的に代表する三十六人が先祖なので、祝福しなければなりません。 三家庭、三十六家庭、その次は何ですか? 七十二家庭です。その次は、百二十四家庭。その次は四百三十家庭です。その次は、七百七十七家庭、千八百家庭です。その次には六千家庭。その次は六千五百家庭です。これが三×三=九、サタン世界の国家基準を越えるのです。 その次には、九二年に世界的時代である三万双時代、九五年に三十六万双です。世界が反対して殺そうとしましたが、すべて切り抜けて上ってきました。 ですから、世界的祝福時代の道が生まれるためには、世界の先祖の母親がいなければなりません。お母様が今までは、先生の後ろに従ってきました。ですから、「七・一節」を中心として、ようやくお母様が先生の横に立つのです。(拍手) そうして、九二年四月十日を中心として、世界女性解放が始まるのです。「七・一節」を中心として、蕩減条件を完全に乗り越えることのできる条件を立てずしては、お母様を前に立てて世界女性を解放させることができません。 ありとあらゆる女性がいるのです。思春期に売春をした婦人がいないでしょうか? ありとあらゆる立場の女性がいるのです。その人々を解放しなければなりません。 ですから、お父様とお母様のふたりが立つとき、お父様を代身した男性と、お母様を代身して女性が立てば、天使長がいないのです。血統が一つになっているので、兄弟の立場に立ち、同じ血族同士が結婚できる時代になるのです。 すべてサタンに従っていっていたものを、ようやくこれを全部占領しておいて、神様を前にして先生に従って全面的に神様を宝座にお迎えすることのできる時代になるのです。 今まで宗教者は、結婚できなかったのです。出家をして、独身生活をしてきました。それが「還故郷」をして、結婚できる家庭的祝福時代になったということを知らなければなりません。 サタン世界に従っていくその家庭は、悪なる家庭であり、悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統、悪なる良心を基盤としてきました。 これから真の父母に従っていくようになるときには、善なる愛、善なる生命、善なる血統、善なる良心圏の祝福された家庭と、一族の世界が兄弟の圏内に一つの家庭の食口のようになったので、いっぺんに結婚すればすべて終わるのです。 今年、十一月二十九日に世界的に祝福を受けるようになれば……。今は、自分の国家を中心としたありとあらゆる国があります。百六十国家がありますが、元来は百八十家庭を祝福してあげれば、故郷に帰って自分の一族に頼んで、「このように外国に出て百八十家庭を祝福したのですが、一族を捨てておけますか?」と言いながら祝福するのです。 その各国で祝福するとき、自分の一族と縁戚を結ぶのです。「私たちの家庭の中で、私たちの一族の中で、数多くの民族と数多くの国家の人たちが暮らしている。十二国以上、数十か国に親戚が暮らしている」ということを考えてみなさい。そのようにしてこそ、初めて神様の子女の資格があるのです。神様も家庭を求めようというのです。 七月末までは、三百六十万双は問題なく完了します。また、一気に進めば、数か月間に三千六百万双になり、数年間に三億六千万、人類全体を祝福できるのです。早くしなければ大変なことになります。 日本の二万二千二百人、一つの国に百二十人ずつ百八十五か国に派遣するようになり、いっぺんに百八十家庭をして日本に戻れば、日本人の数百万人が復帰されるかもしれません。そのことが分からずにいるというのです。 南米で百二十名を祝福して、皆さんの子女と結婚をするようになれば、南米の地に来て日本の二百五十倍の土地を買うことができます。二百倍以上です。日本人になりますか、世界的な地上天国人になりますか?(「世界的な地上天国人になります」) 祝福かエイズか? 「七・一節」が必要ですか、必要ありませんか?(「必要です」)。その時から縦的に蕩減する家庭時代を過ぎて、九二年に横的に三万双、九五年に三十六万双祝福をしたのです。 十二の峠のなかで、三万双が十、三十六万双が十一、三百六十万双が十二番目の峠です。アリラン峠は、いくつの峠ですか? 十二の峠です。十二の峠を越えるのです。 アリラン峠という言葉は、愛の「愛」の字と、町村の「里」の字と「嶺」です。愛里嶺です 愛の園、家庭を求めて十二の峠を越えずしては、神様が安息できる国がありません。その仕事を今、私がしているのです。 きょう七月一日は、「七・一節」を出発してから七年目になる日です。新しい愛を中心とした絶対氏族時代です。その時、絶対氏族的メシヤから、絶対国家メシヤに移っていくときです。 今、韓国の国家メシヤたちが、責任を果たせなかったものをすべて世界が争奪するのです。奪われていくのです。「すべてのものを私がします」というときに、「私がする」というようになるときには、全部すり替えるのです。 皆さんが韓国人になり、その人たちは全部追い出されるようになるのです。すり替えられるのです。大移動です。大混雑が起こるようになるのです。 さあ今、祝福のブームが起こり始めましたか、起こり始めていませんか?(「起こり始めました」)。レバレンド・ムーンが三百六十万双の祝福は可能だと言ったでしょうか、不可能だと言ったでしょうか? 「レバレンド・ムーンは滅びる。三万双をするときに滅びる、三十六万双するときに滅びる。三百六十万双すれば、跡形もなくなる」と言ったのです。では、その反対ですか、そのとおりですか?(「その反対です」) これから一つの町があれば、町内に千軒暮らし、数千軒になれば、旗を持って何曜日であっても祝福式であり、土曜日の二時になれば祝福式であり、祝福式を行うサイレンが鳴れば、その部落全体が礼服をつくって着て、結婚していないその町の人たちは追い出される時が来るのです。 さあ、今後、オーストラリアのような国はいくらにもなりません。約五百万~七百万名になるのを祝福してあげて、大移動が起こるのです。ですから、エイズ患者たちを警戒しなければなりません。 ハーバード大学のエイズの最高の専門学者が発表したのは、二〇一〇年までに人類の中で十億がエイズ患者になるというのです。そうすれば、その時は人類は赤ん坊をたくさん産まないので、五十億の人口が六十億を超えられないのです。 六十億人類といえば、六人に一人がエイズ患者ということになるので、人類がエイズ感染によって滅亡する日は、わずか数年以内であると見ているのです。 エイズは、潜在期間が七年から十二年です。十二年間病気が現れないので、次第に十二億の人類が完全に滅亡すると見るのです。 それを救援できるのは、絶対「性」を中心として純潔と貞操を守らなければならないというのが、解決の鍵です。それをすべて知っているのです。 では、祝福を受けますか? 祝福ですか、エイズですか?(「祝福です」)。世界が祝福を受けることのできる時が来たのです。 ですから、私がここに来て苦労し、一年半、二年苦労してアメリカと同じ組織をつくっておいたのです。これからアフリカに行くようになれば、六か月以内に私が使ったお金の三分の一で、そのまま上がっていくのです。 これから南米と北米を連結させれば、新聞社もつくり、教育機関もすべてつくるようになっています。南北米が一つにならなければならないというのは、もはや常識的なことになったのです。 これをするためには、レバレンド・ムーン以外にはいないと言っているのです。ローマ教皇庁もそうであり、プロテスタントのすべての総会長たちも、そのように認めることのできる時になったのです。 世界の頂上の峠を越える 第二次世界大戦以降に新婦圏であるキリスト教の文化圏を失ってしまったのを、ようやくカインとアベルを立てて母を求め、父を求めることのできる時代となりました。そのような復帰路程を経て、今こそ解放の地上平和統一の世界へと前進すべきです。(「アーメン」) 神様の全権とは何でしょうか? 神様の全体、全般、全権行使が何であるかと言えば、結婚を思いどおりすることです。家庭だけ祝福してあげれば、それで氏族編成も問題なく、国編成も問題なく、地上天国編成もすべて問題ないのです。 アダムは家庭の長兄であり、家庭の父であり、家庭の王です。また氏族の長兄であり、氏族の父であり、氏族の王です。また国の長兄であり、国の父母であり、国家の王であり、世界の長兄であり、世界の父であり、世界の王です。 さらに天の国の父であり、地上天国の長兄であり、父であり、見えない神様と一つになることによって、今まで空いている天上世界を、皆いっぺんにいっぱいにできるのです。 ですから、家庭では自分が長男であり、家長であり、「絶対父」であり、「絶対王」です。ですから、皆さんは全部アベル的な王に侍らなければならず、氏族的なアベルの王に侍らなければならず、民族的なアベルの王に侍らなければならず、国家的なアベルの王、世界的なアベルの王に侍らなければならないのです。 先生一人が全体をすべて完成させたので、ある家庭や氏族や八段階のすべての国が、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしてこそ、初めて統一世界と平和の世界は成し遂げられるのです。 皆さんがなぜ、絶対にそのようにしなければならないのかといえば、先生がはしごだからです。家庭的はしご、氏族的はしご、民族的はしご、国家的はしごを上っていって解放圏に行き、アダム家庭から世界家庭に思いどおりに通じることのできる道が、先生にはあるのです。 それゆえ、先生の話だけ聞けばいいのです。先生の話に絶対信仰、絶対愛、絶対服従して、アダム家庭で個人的に失敗したものを家庭から八段階で、すべてのものが完成したという条件に立ってこそ、初めてそこでようやく相続権解放が起こるのです。解放、解放、解放です。 七年前に始まった日が、七年後に世界的にすべて成し遂げられるのです。では、そのようなブームが起こると思いますか、起こらないと思いますか?(「起こります」)。天の全権を持っているので、どこのだれでも良心的な心は人がよくて、「いらっしゃいませ」と言うというのです。 祝福をしてあげれば、彼らがアベル的なので、三百六十万双までは興進君や大母様が来て祝福してあげることによって、祝福候補者を選定してあげて、自分の先祖たちが来て全部守ってあげるのです。右手は世界人類をつかみ、左手は霊界の先祖をつかんでぐるりと回っていくのです。 今、共産圏、民主世界に左右されていたものが、お父様、お母様が振り向いて見ると、右側が左側になり、左側が右側になるので、共産党にキリスト教が奪われてしまったのです。 ソ連と中国が、アメリカとヨーロッパのすべての祝福圏を全部、占領するようになりました。二世たちが一つになって先生の思想で教育され、完全に先頭に立ったのです。 二世たちの教育を、しっかりしなければなりません。このように統一の運勢が、すべて「七・一節」を中心として飛躍するのです。七年を迎えて世界の頂上の峠を越えるのです。 三万双、三十六万双、三百六十万双、三千六百万双、その次に何ですか? 三億六千万双、その次に六番目は何ですか? 三十六億双です。すべて終わるのです。 それは問題ありません(笑い)考えてみてください。三百六十万双だけすれば、皆さんのお父さん、お母さん、一族を十双ずつだけ、まとめなさいと言えば、三千六百万双になり、三千六百万双が皆さんの親戚まで、結婚してできた義理の親兄弟や八親等まで十人ずつまとめれば、三億六千万双、さらに、十人をまとめなさいと言えば、一瞬にして、一年に一回ずつですべてすることができるのです。 難しいですか、簡単なことですか? 七代、七代、七代を連結するようになれば、一瞬にして一か月以内にすべて終わるのです。 小学校の先生に尋ねてみなさい。「先生 私たちが結婚するときに、この世の中の結婚のように結婚して一週間たって別れて、数年間に全部離婚するような結婚をしなければなりませんか? それとも、統一教会の祝福のように、いっぺんに数万双、三百六十万双、三千六百万双、三億六千万双結婚する者になって、ある日結婚式に皆会うこともできず、人工衛星で言葉も分からないで祝福された人たちであっても、間違いなく千年万年暮らすことのできる結婚をしなければなりませんか?」そのように質問するとき、どのように答えるでしょうか? それらの祝福を受けた家庭が、変わることのない家庭となって、小学校の先生が模範的な家庭を眺めるようになるとき、小学校の先生が統一教会の結婚を否定するでしょうか、中、高等学校の先生が否定するでしょうか、大学の先生が否定するでしょうか? 全部が肯定することによって統一教会に行かざるを得ず、祝福を受けざるを得ないのです。 「私たちの町では、祝福家庭の中でだれだれがいちばん先祖です。その先祖を始祖としてお迎えしたいので、教えてください」と言うのです。すべて一つになるようになっているのです。 数年間で神を中心とした世界に 先生は、百八十五か国に新聞社をつくるのです。そうして、ラッパを激しく吹き、太鼓をたたいてラジオ放送、テレビジョン放送で激しく吹けば、六か月以内に世界の五十億の教育はすべて終わるのです。 「レバレンド・ムーンが祝福を通して、家庭倫理の破滅や青少年の淪落と世界のホモ、レズビアン、あらゆるフリーセックス、麻薬関係を解消することのできる仕事を主導しています。そのような人が、神様の人ですか、サタンの人ですか?」と言えば、「神様の人です」と言うのです。 これに反対した人がだれかといって、「カトリックのだれだれ」と言えば、絶対服従しなければ、そんな人は町から全部追い出そう、という運動が起こるのです。 では、祝福家庭が予備祝福を全部しているのですが、同じ祝福家庭でありながら、予備祝福をしないで、ぐるぐる回っていれば、「えい、この者」と言われるのです。どのようになるか考えてみなさい。グループに入らなければならないのです。 日本にいる女性たちがエバ国家からやってきて、血の汗を流して、全部血肉を投入して祝福してあげた伝統を、その国民が相続できなければ、しっぽのような立場になるのです。 国連での決議によって、南米の祝福家庭たちは北米に行き、北米にいる人たちは南米に移動する、ということが可能なのです。 南米の貧しい人たちがアメリカに行けば、どれほどいいでしょうか? 日本人たちは豊かに暮らしていますが、南米の人たちはどれほどいいでしょうか? アフリカの人たちは移動すれば、どれほどいいでしょうか? 祝福を受けた所で、いちばん数字が上がらない所が先進国でしょうか、後進国でしょうか? どちらですか? 先進国家がビリになりますか、後進国家が一等になりますか? 先進国家がビリになれば、アメリカの地を放っておいて、アフリカに行くべき時が来るのです。 国連の決議によってです。大移動が始まるのです。入籍が始まるのです。これは、うそではありません。 先生の話のとおりにしてこそ、初めて統一の世界、平和の世界が実現されるのです。その国で百八十家庭を祝福できない人は、先に百八十家庭をしようという人が入ってきて、すり替えるみ業が起こるのです。 さて、ですから、「七・一節」が必要ですか、必要ありませんか?(「必要です」)。三百六十万完成が七月に終わり、三千六百万双を発表しなければなりませんか、してはなりませんか?(「しなければなりません」) 三千六百万双になり、部落ごとにメシヤが行くようになれば、部落解放が始まります。今後、私たちの思想と、私たちの節操を守らない人はいません。それゆえ、尊敬されるようになるのです。 今回、先生が韓国に行って何をするのかと言えば、七が八回になる日を記憶して行事をするのです。今まで神様が安息されることができませんでした。安息天下、安息の地上、天上天国をつくらなければならないのです。 ですから、お父様、お母様、文氏、韓氏の宗親たちを中心に集めて、バンケットをして全部、祝福を受けさせるみ業が起こるのです。 「婿と嫁、一族までも集まれ」と言って、有名な人を招くようにしなさいというのです。先生がそのようにすれば、統一教会の協会長だとか、有名な人たちが氏族編成の下に降りていきながら、国編成、氏族編成、家庭編成を拡大していくのです。 全世界人類が、再び祝福を受けなければなりませんか、受けるべきではありませんか?(「受けなければなりません」)。堕落したという事実を知れば、受けざるを得ないのです。 百八十家庭をすべてその国に定着させ、自分の宣教国であるカイン圏の家庭まで定着することのできるみ業が成されれば、世界は数年間で神様を中心とした世界になるというのが結論です。アーメン、勝利と讃揚と栄光です。(「アーメン」)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.03.05
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第三十五回「真の万物の日」敬礼式後の御言1997年6月5日イーストガーデン 礼式に参加することのできる資格 今後は、このような「真の万物の日」などの敬礼式の行事には、だれでも参席できるようにはなっていません。すべてチェックして、問題のない家庭を参席させるようにするつもりです。「世界平和統一家庭連合」の世界本部では、このような行事に参席する人たちを一年前から点検しなければなりません。 私たちの教会は、今まで蕩減路程というものを歩んできました。そのなかで、歴史的な出発や歴史的に重要な事件など、あらゆることがありましたが、そのようなすべての条件を乗り越える蕩減条件を立て、提示されたすべての条件を守った人たちが、ここに参席しなければならないのです。国家的メシヤ、あるいは氏族的メシヤは、特別に責任を完遂した人たちが参席しなければなりません。 氏族的メシヤの使命である百六十家庭から百八十家庭以上の祝福家庭を残せない人は、参席することができないようにするつもりです。 祝福家庭は、一世でも二世でも分け隔てなく、だれでも人々を祝福してあげることのできる時代に入りました。ですから先日、祝福を授ける権能を全部、分配してあげたのです。 祝福家庭には、既成祝福家庭であるとか二世祝福家庭であるとか、いろいろの立場があります。世界が復帰されるときまでは、外的世界にもまだ、それらと同じような家庭があるので、祝福家庭は、自分の受けた祝福に該当する分野に関連した外的世界の人たちに対して、各自が責任を持たなければならないのです。二世も同じです。 既成祝福を受けた家庭たちは、既成家庭の世界の人、二世の祝福を受けた人たちは、二世の世界の人たちが残っているので、同じ責任分野を完成しなければならないということを知らなければなりません。 どの家庭であっても、人類のすべての家庭が氏族圏を経て、世界に越えていくので、国家形成をしようとすれば、必ず氏族が必要であり、氏族をつくるためには祝福家庭から編成していかなければならないのです。自らの属する系列的な氏族を全部連結させていかなければならないというのです。 それゆえ、国家的メシヤ、氏族的メシヤ、また百六十家庭を祝福できない人は、今後、このような礼式に参席できる道が遠のくであろうというのです。 今後、このような行事は統一教会の限界を越えて、国家的行事に近づいていくのです。王圏時代となり、国家的行事として転換する時になってくるので、もはや教会の礼式をしていた時代は過ぎ去るのです。国家的礼式に参席するためには、必ず氏族と民族を持たなければなりません。国家と世界に連結し得る同参者でなければなりません。その同参者は、入籍をしなければならないのです。 ですから、このような大会に参席するためには、氏族的メシヤとして百六十家庭、百八十家庭以上を成した家庭を中心として、その氏族たちが、自分たちの氏族から代表となる模範的な家庭を選出して送らなければならないのです。世界のすべての氏族たちから選出して送るので、今後、何百万対一、何千万対一の確率で選出されて来るということを知らなければならないのです。 ですから、氏族的な基盤を持つ一家庭を中心として、教会で行う礼式のすべての法を代行しなければならないのです。 氏族的メシヤの使命 すべての蕩減条件を中心として、今まで先生が生きている間に提示したことのすべては、どこで完結されなければならないのかというと、それは、家庭を中心とした氏族的基盤において、すべてのものが清算されなければならないのです。 そして氏族的メシヤは、氏族的基盤の百八十家庭全部を天の前に奉献しなければなりません。家、土地、あらゆる万物など、祝福を受ける前の所有物はすべて、本来、神様の所有であったものが、祝福とともにアダムの前に伝授されなければならないものなのです。これが原則なのです。しかし、堕落することによって、神様が主人の立場に立たれることもできず、真の父母が主人の立場で来られることもできなかったのです。 それが今になって、主人の立場に立つことができなかったものを全部、蕩減復帰するのです。サタン世界において天使長の使命を果たすことのできる人、息子、母親を通し、父親を通して、族長を中心とした全体が献納しなければならないのです。血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰を、七代を中心として献納して、帰らなければならないのです。 ですから、皆さんには絶対に、三大天使長に該当する三人の息子がいなくてはいけないというのです。それは、信仰の息子・娘のことです。その息子を通して、自分の息子・娘へと復帰していくのです。 天使長が息子を通して、母親を通して復帰して、百八十家庭を中心として入ってくるのです。それが七代です。血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰なのです。七代なのです。それが百六十家庭で一族になります。それが一チームです。それが一つのカテゴリー(部門)になるのです。アダム家庭を中心として、そのような七代を失ったというのです。父母、夫婦、兄弟、神様までで七数になるのです。これが一族です。 ですから、入籍するようになるときは、自分が全権を持つことができるのです。その位置は天使長の位置の復帰です。そうして、それを真の父母を通して神様の前にささげたものを、再び天から頂いて、皆さんに返してあげるようになるのですが、それがアダムの所有権復帰です。天使長の所有権を蕩減して、アダムの所有権になるのです。 ですから、百六十家庭がなくてはなりません。本来は百八十家庭です。一八〇〇家庭がサタン世界を復帰した家庭になるのです。 それを中心として、世界的家庭を形成するのが六〇〇〇家庭、六五〇〇家庭になるのです。それから三万双です。それはカインとアベルを復帰したものです。 それから三十六万家庭であり、それから三百六十万双で最後なのです。三家庭から始まり、三十六家庭、七十二家庭、百二十四家庭、四百三十家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭、六〇〇〇家庭、六五〇〇家庭、それから三万双、三十六万双、三百六十万双、これが十二の峠です。 「アリラン峠は十二峠だ」という言葉があるではないですか? 「アリラン」というのは愛するの「愛(ア)」の字と里の「里(リ)」の字なのです。ですから、「アリラン」というのは、愛する里を訪ねていく峠のことなのです。それを越えていかなければならないのです。愛する村を訪ねていくためには、峠を越えていかなければなりません。ですから、サタン世界の峠を越えてこそ、重生することができるのです。そうしてこそ、家庭が定着するのです。 ですから、氏族的メシヤの責任を果たさなければならないということが、どれほど重要であるかということを知らなければなりません。それを成すために先生は七年間、家庭教会をつくったのです。家庭教会を成したのが、その準備なのです。家庭教会を全部成せば、あとは氏族はそのまま皆、越えていくのです。 ホームチャーチをすれば、カインを中心として家庭教会に連結させ、一族を一度に追い入れることができるのです。そうすれば、世界が完全に私たちの世界になるのです。 私たち祝福家庭は、アベル家庭として親戚たちを束ねるのです。その基盤の上で氏族的メシヤの役割を果たすことができるのです。分かりましたか? このようにしたならば、一度に百八十家庭を祝福するのは問題がないというのです。 その準備を皆、したのです。そのようなことを皆、軽んじて、さっと過ごしてしまったのです。 国家的メシヤとは 国家的メシヤたちは皆、自分の一族たちを連れていかなければなりません。国家的メシヤは、自分だけ行くのではなく、一族を連れていって、その国を、国家メシヤの立場をもって救ってあげなければならないということを知らなければなりません。自分一人で行ってはいけないのです。 国家的メシヤが立つためには、氏族的メシヤと家庭的メシヤがいなければなりません。それを連結した中心が国家的メシヤです。国家的メシヤは反対経路で復帰することを通して、その国の王の立場を占有することができるのです。 氏族的メシヤがその国に行けば、家庭的メシヤであるアダム家庭がおり、イエス様が築くことのできなかった氏族基盤などがあるのです。その基盤を中心とした国家的メシヤなのです。 そのようにして、すべての人たちに手本を示してあげて、その氏族の影響を受けさせ、その国家を復帰しなければなりません。それが国家的メシヤの責任です。アダム家庭とイエス様が氏族的メシヤの使命を果たすことができずに亡くなられたことを蕩減した、その基盤の上に立たなければならないのです。それゆえ、祝福を受けて、子女たちが行くのです。国を占有することができるというのです。 百八十家庭の祝福家庭が、男性と女性が行きましたが、女性たちと子孫たちを各県まで連れていけば、一度に国を復帰できるというのです。その百八十家庭が何千家庭を動かすことができるというのです。 今までの国家的メシヤ教会であるとか、すべての費用は、自分の一族と一家が責任を持たなければなりません。皆、そのようにささげて成したので、国のすべてのものをもらって、天の前に復帰することができるのです。 ですから、国家的メシヤになるためには、氏族的メシヤを勝利しなければなりません。イエス様が失敗するようになったのは、ザカリヤの家庭とヨセフの家庭が一つになれなかったからなのです。その家庭だけ一つになれば、これが皇族になり、国家形成するのは問題ありません。 一番根本になるアダム家庭において家庭的メシヤになって、家庭的皇族をつくっていくのです。長子権を中心として繁栄するようになっているのです。それを失ってしまったのですが、国家的メシヤは、その基盤の上に立たなければならないのです。その基盤の上に立って祝福を受け、国家的メシヤになるようになれば、世界版図のローマを支配できる時代に移っていくのです。 今、ちょうどその要所に来て、国家メシヤをつくり、イエス様が果たせなかった氏族的なメシヤ、家庭的なメシヤを平面的に展開するので、世界の祝福を開門させるのです。 ですから、氏族的メシヤさえ先頭に立って、縦的な基台を築いていけば、個人、家庭、氏族、このようにさっと上がっていくのです。このようにして、全部、氏族的メシヤだけが入籍するのです。ですから、国が築かれるのです。 氏族的メシヤは祝福を受け、息子・娘をもうけたのですから、国家的メシヤの代身者です。国家的メシヤは、すべての氏族的メシヤの代表として行っているので、同じ内容です。氏族編成が横的に拡大されていくのです。ですから、氏族的メシヤが一族を復帰できなければ、入籍することはできません。 国家的メシヤの持つ蕩減復帰の使命 もし宗親連合会がつくられれば、氏族的メシヤの時代は過ぎ去ります。氏族的メシヤの時代はさっと越えていくのです。宗親連合は、自動的に編成していくことができるというのです。 文氏と韓氏の宗親会がありますが、その各宗氏たちにおいて、宗親会がつくられるようになれば、その圏内にいる人は強制的に引っ張って氏族編成をして、国家的基準に越えていくことができるのです。命令によって、十二支派のように民族を編成するのです。これは不可避なのです。アダムが家庭を失い、イエス様が氏族を失ったことを復帰しなくては、国家を復帰する道がないというのです。 イエス様が氏族的メシヤになられて、国家的メシヤの立場で祝福を受けて夫婦になれば、天の国の王圏出発が成されるのです。イエス様が息子・娘さえ生んだなら、その一族が世界の皇族になるのです。 もし、イエス様が祝福を受け、その一族を中心として今まで進んできたとするならば、その一族はどれほど多いことでしょうか? ですから、三十三皇族の中から、世界国家の代表として立てるのです。そのようにして、サタンがエバを奪っていったのを、イエス様を中心としてこのエバを復帰した立場に立てるのです。 百二十門徒は、サタン世界の復帰された天使長と同じなので、彼らが全部、イエス様の一族の女性たちと結婚するようにすれば、終わるのです。そのように結婚するようになれば、国が成立するのです。 ザカリヤ家庭とヨセフ家庭の皇族の娘たちを集めて、天使世界の立場にある百二十門徒と結婚させます。百二十門徒は天使たちなのです。自分勝手に結婚したものを、全部奪い取って、思い通りにすることができるのです。彼らが皇族の乙女たちと結婚したならば、新しいアダム家庭編成が始まるのです。 イエス様の一代を中心として蕩減するために、三十三歳を中心として、イエス様が王であられるなら、王圏を中心とした皇族圏内で女性たちを七百八十人選出して、立法、司法、行政、政党、教会、それから有力者たちを中心とした六つの分野に百三十人ずつ、七百八十人を中心として結婚させるのです。七百八十人の女性を準備して十二支派と部署の長たちと結婚させれば、皆、終わるのです。国が成立するのです。それができなかったというのです。 政党、教会、一般社会の人たちをイエス様が祝福してあげれば、長たちがイエス様の一族の娘たちと完全に一つになります。そうして、国を神様を中心として完全に復帰するのです。ですから、七百八十人が絶対に必要です。 それができなかったので、国家的メシヤはこの使命を果たさなければならないのです。これさえしっかりと整えば、世界はそのまま回るのです。ですから、サタン世界の王圏を中心として、王宮には女性たちが多いのです。先生の時代に、皆さんたち国家的メシヤがそのような仕事をしなければならないので、その国の代表的な女性たちを選出して、再び祝福させてあげるのです。 統一教会から見れば、祝福をしてあげるには、本来は未婚の男女でなければならないはずなのに、そのようにはなっていません。乙女がおり、それから男女関係を結びながらも結婚することができない独身者たち、そして自分の思いのままに結婚した人たちの三段階があるので、三段階を越えていくのです。ですから、統一教会の結婚も三段階を越えていくのです。教会祝福、国家祝福、世界祝福です。 今、祝福された家庭が、今までの段階を越えていかなければならないのです。本来は蕩減条件がない解放された人たちが結婚をすべきであるのに、蕩減条件に引っかかっているのです。教会の前に迫害する国があり、国の前に世界があるのを越えていかなければなりません。家庭を導き、迫害のない解放された立場に越えていって、一つの統一された世界において、アダム家庭で天が祝福した相続権が生まれ、解放が成されるのです。 ですから、教会圏、国家圏、世界圏があるのです。全世界圏へと越えていくことによって、サタン世界の讒訴圏を抜け出すようになり、地上天上世界の解放が始まることによって、その立場に上がっていって、祝福を受けなければならないのです。そのような立場を三度引き継いで越えていくのです。 国家的メシヤがその国に行って、王圏を復帰できる立場に立つようになれば、王圏を持った立場で自分の一族を招請して、入っていくのです。イスラエル民族において、七十二人がエジプトの国に行ったことと同様です。しかし、七十二人ではなく、百二十人が行くのです。 百二十門徒たちが、新しく世界的に入っていって歓迎を受けて、その民族の核にならなければなりません。今、そのようなときであるというのです。ヤコブのときには、七十二家族が入っていきました。今のときは百二十家庭です。イエス様の百二十門徒と同じであり、民族を中心とした国家的代表として百二十人なのです。そうして接ぎ木して、韓国に帰らなければなりません。 次に、入籍が何であるかというと、氏族的メシヤ入籍時代があり、世界国家時代に国家が入籍すべきときが来るというのです。それが国家的メシヤの責任です。国を早く復帰しておけば、このような家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、国家的メシヤがただ命令することによって皆、連結し、越えていくことができるのです。 市民権をもらうようになれば、アメリカの国民になることができ、国を超えて嫁いでいけば、ほかの国の民になることができるのと同様に、いくら未開の地の人間であっても、アメリカに嫁いでいけば、アメリカの人と対等な立場になるのです。統一教会に後で入ってきても、入籍することによって同じ立場に立つのです。 そのようにすることによって、アダム家庭を復帰して、アダム家庭が国家を越えて世界のどこでも思いどおりに越えていくことができ、イエス様の氏族圏も思いどおりに行くことができ、イエス様も思いどおりに解放され、再臨主が四十年間迫害を受け、統一教会が受難を受けたことも解放されるのです。 そうして、真の父母が世界の平面途上において、家庭、氏族、民族、国家、世界、どこにでも経由していくことができるというのです。ですから、世界的メシヤは国家的メシヤを、国家的メシヤは氏族的メシヤを、氏族的メシヤは家庭的メシヤを率いなければなりません。そのように連係されるのです。中央政府があり、「道」があり、「郡」があって、連結されるのと同じなのです。縦的にそのまま連結されていくのです。 ですから、縦的に押さえ、横的に拡散させれば、どこにも問題がないというのです。縦と横で循環が生じるので、どんな障壁もあり得ないのです。 こうして、ご父母様が解放され、神様が解放され、万物が解放されるのです。もはや、万物解放を宣言するときであるというのです。 蕩減の道 ですから、先生は地上にあるいかなる国のだれよりも万物を愛し、その国を愛したという条件を立てるのです。アメリカに来れば、アメリカの歴史上の先祖たちも、先生の上に立った人はいないのです。すべての国に代わって、そのように暮らしたのです。それゆえ、最高の汗を流さなければならないし、血を流さなければなりません。祭物の立場なのです。 祭物とは、死んだものを割いては祭物になりません。生きて祭物の過程を経ることによって、サタンは侵害することができないのです。生きて祭物をささげなくては、サタンを追い出すことができないのです。 サタンを追い出すためには、一対一で闘わなければなりません。蕩減条件とは違います。一対一です。実体で闘争して打ち勝たなくては、サタンを屈伏させることができません。そうしてこそ、割かない祭物として、天の前にささげることができるのです。 『新約聖書』の「ローマ人への手紙」八章22節を見れば、「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている」とあり、万物が嘆息していることが書かれていますが、その嘆息を解放しなければならないので、万物をだれよりも愛したという道を築くことによって、万物を解放させることができるのです。 私は、海に行って、ただ釣りをするのではありません。海に行って、あらゆるものすべてが嘆息するのを解放するためには、嘆息以上の立場の苦労とその道を築いておかなければなりません。ですから、この地上の歴史上のどこのだれよりも、陸地と海を愛したという立場に立たなければならないというのです。 今や、海にも手をつけるときが来たのです。海の王になり得るすべての代表的な魚、南米の一番の代表的魚を皆、釣ったのです。それは、食べるためではありません。私は、自分が捕まえた魚を食べません。最初に捕まえた魚は、放してあげます。そうして、それをそっくり祭物としてささげるのです。そのために、放してあげるのです。 蕩減というものは、このように恐ろしいものです。ですから、海に行って断食する気持ちで、おなかの空いたのも我慢しなければならないし、海に落ちて死んでいった人たちのあらゆることを体験し、経験しなければならないし、引き付けを起こして死ぬかもしれないという、死地に至ることも体験しなければなりません。そのようなことを皆、体験しなければならないのです。 金興泰は来ていませんか? 同じ釣りをするのに、先生の後をついて回りながら、自分なりのありったけの力を込めて精誠を尽くし、座って釣りをしても、自分は一匹も釣れず、先生一人がいつも釣り上げるというのです。 先生が釣りざおを下ろせば、いつも何の魚か、すでに先生の釣り針に食いついているというのです。その十センチほど横にほうり込んでおいても、ほかの人の釣り針には食いつかないというのです。(笑い)魚が知っています。 ですから、愛しなさいというのです。すべてのものは、より愛する所を訪ねていき、すべてのものは、より愛する人がその主人であるというのです。それゆえ、海に行って座っていると、海で嘆息していた魚たちが先生を見て、「かわいそうな先生」と言いながら、嘆息を忘れ、祝福をしてあげなければならなくなるというのです。そのような心情がつづられているのです。 先生は、そのような霊的な現象が起これば、皆、対話をします。夜、帰るときは、「明日、私が先生の釣り針を訪ねていくので、しっかりしてください」と、魚たちが話までもするのです。それで、「私たちは午前四時半、いや四時前に行って待っていますから、遅れずに来てください」と言うのです。ですから、その時間に出掛けなければいけないというのです。(笑い)それを一般の人は知りません。「なぜ先生は、五時前に釣りに行くのか」と言うのです。 お母様が、お父様が寝ている所に来て、「変だ」と言います。先生が変わっているということを初めて知ったのです。このような集会をすれば、明日、集会で話すみ言を全部霊界で話し合い、説教をするのです。訓練をするのです。 最近の話ですが、私が『ワシントン・タイムズ』創刊十五周年記念日に話をしようとすれば、精誠を尽くすではないですか? その原稿を何十回でも読むのです。何度も読めば、霊界で協助するのです。自分が書き、自分が知り尽くしている原稿を何度も読むのです。読み重ねれば、霊界が後について読むのです。「先生が、どのようなみ言をあのように何度も読むのか?」といって、霊界で後からついて読むのです。たくさん読むほど、霊界では世界的な舞台が連結されていくのです。そうしなければ、破壊は起こりません。空気がなければ、音波が届かないことと同じ道理です。 二世たち、これは偽者たちです。原理をあなたたちは座ってそらんじなければなりません。韓国人たちに対しては韓国語で話し、日本人たちと話せば日本語で話す、というようにです。英語で話すべきときには、英語も話せるようでなければならないのです。 そのような何かがあるので、自分が行くべき道が分かります。例えば、あることが失敗するかどうかが分かるのです。失敗するときは、見ればすでに影になり、成功するときは真っ昼間のようになるのです。そうして明るいところを探していくのです。 ですから、原稿のようなものを一週間前に書けば、一週間後のことがどのようになるかが分かるので、できるだけ原稿を書かないようにするのです。数千人、数万人が集まったのに、一分前になっても題目が出てこないのです。 しかし、そうであるほど、恐れてはいけません。自分が瞑想の中、深い祈祷の中で天と接することのできる本然の心情圏内に入るようになれば、いつの間にか口が開いて言葉が与えられるのです。そのようになれば、一万人なら一万人の聴衆全員が、水に浸ったように恩恵の中に浸るのです。 皆さんが原稿を書いたとしても、自分が書いたその原稿を、壇上に出ていって、泣きながら感動した立場で自ら読むことのできる立場を経ていってこそ、聴衆と一つになって、彼らが恩恵を受けるようになるのです。 心と体が一つになった立場で、涙を流しながら話すので、聴衆も一つになるのです。ですから、涙が出てくるのです。そうではないでしょうか? 天の悲しみまで至れば、自分も抑えることができずに痛哭するのです。 ですから、あなたたちは、教会の仕事を自分でつくってはいけません。計画してはいけないというのです。 早く復帰せよ 皆さんは今、祝福問題についてもそうです。私は、南米の三十三人の国家的メシヤたちを呼んで話しましたが、だれでもご父母様が三十六万双を祝福する写真を自分が首から掛けて、宝物の中でも一番の宝物を掛けたようにして、男性も女性も同じように祝福を執り行うのです。 女性が祝福を一人で代身して授けるときには、自分の夫の写真をその真のご父母様の写真の右側に着け、夫が一人で祝福を授けるときには、自分の妻の写真をご父母様の写真の左側に着けて祝福を行うのです。 自分たち夫婦の写真は、できるならば自分たちが祝福を受けたときの写真がよいのです。そうして、真の父母の代わりに祝福の主礼をするのです。祝福は、自分たちがしてあげるのではありません。真のご父母様がしてあげるのです。 そのようにするならば、自分たちが祝福を受ける当人である人たちは、蘇生としてアダム家庭であり、祝福をしてあげる皆さんはイエス家庭であり、先生は国家的家庭として、祝福をして上がっていくことによって、全体を連結させるのです。全世界の祝福家庭として、霊界に行った人たちがその周囲を取り囲むことによって、サタンを完全に追い出し、祝賀パーティーが起こるのです。 アダムとエバが祝福を受けるときに、天使たちが取り囲むのと同じように、祝福家庭がこの地に来て、祝福の環境でサタンを追い出し、解放された立場で祝福をしてあげるのです。 そうなれば、もう氏族的メシヤの責任も果たせない人は、大変なことになります。今からは、帰って、パーティーをし、四十日間食べずに痛哭してみなさいというのです。そのようにしてでも、早く復帰しなさいというのです。 祝福を受けた家庭たちは妻、夫、子供たちまで、四十日間、全部「飢えて死んでしまう」と言いながら、「祝福を受けなさい」と言ってみなさいというのです。そうすれば、町内が団結して、全部祝福を受けるようになるのです。 四十日間泣くのに、お父さんが一日泣き、お母さんが一日泣き、息子・娘が五人いるならば五日間泣き、そのように子供、妻、おばあさん、おじいさんが交代で、大声で泣いてみなさい。いっぺんに「どうしたのか?」と言ってくるようになるのです。そうすれば、「一族が滅びていくようになって、私はそれを防ぐためにこのような祭物となって祭祀を行うのです。死にゆくありさまなので、生かすためにそうするのです。今、死につつあるのです」と言ってみなさい。 八月九日までに三百六十万双が終わったとすれば、陰暦の七月七日七時七分七秒までに先生が七十七歳を迎えたそのときに、三千六百万双の祝福を宣布すれば、これはだれでも祝福を受けるのです。解放なのです。 三千六百万双をするといえば、霊界が降りてきて、強制で打って追いやって、祝福を受けるように引っ張ってくることのできる時になるというのです。一九九七年は、先生の歳が七十七歳であり、七月七日七時七分七秒に連結されるのです。 今まで、安息日を越えることができませんでした。七数を越えられなかったのです。再出発ができません。それで、六千年歴史から七千年に越えなければならないのです。 自然のオーケストラ それゆえ、地上にいるあらゆる昆虫であろうが何であろうが、「私たちは、真の父母の所有物である」といって賛美し、「神様の所有物である」といって賛美し、「神様の愛を育成するための一つの祭物である」といって誇るというのです。そうして解放が起こるのです。 皆さん、昆虫世界を見れば、昆虫世界でも全部、オーケストラが始まります。セミの鳴き声から一度聞いてみなさい。ミンミンと鳴くのも全部、拍子を合わせて鳴くのです。オーケストラの中でも自然のオーケストラは、現在有名な、どんなオーケストラも問題ではないのです。 今回、私が南米に行って驚いたのは、鳥類たちが一度に数千羽、数万羽集まって、音楽会でもするのでしょうか、チュンチュンと同じ鳴き声をするのにも、拍子を合わせてすることです。大したものです。「鳥のオーケストラとは、ああいうものなんだなあ」と思いました。 昆虫のオーケストラ、鳥のオーケストラ、動物のオーケストラ、人のオーケストラ。このようなオーケストラたちが、一緒に一団となって歌うのが、この世の中でも最高にすてきなオーケストラではないでしょうか? それを聞きながら酔いしれ、神様は「私の腕前はいいなあ。ああ、小さいものたち、大きいものたち、皆、歌がうまくて、私より優れているな。ははは」と、そのように喜ばれるのではないでしょうか? 南米に行って私が発見したことは、歌えない魚がいないということです。私はそれを発見しました。(笑い)北半球では全部、歌が歌えません。(笑い)それがなぜなのか、というと、第一に、南米はいつも春であり、いつも夏であり、いつも花が咲き、いつでも食べるものが多いのです。ですから、歌うことしかすることがないので、そのように歌うというのです。(笑い) 六か月、四か月の間、冬眠の世界に入らなければならないとすれば、歌を歌うことができるでしょうか? 「ああ、寒くなる前に、早く準備をしなければならない」というのです。そのように縮こまっている状態なのですから、歌に何の意味があるでしょうか? ですから、私が南米に行って考えることは、「神様が一番考えられるのは、いつも水と青い地帯が、人間が暮らすことのできる理想地帯であると同時に、動物やあらゆるものが暮らす理想地帯なのだ」ということです。 青い地帯に幸福で暮らせる天国をつくり、人間として動物とともに踊りを踊りながら、人間のオーケストラ、動物のオーケストラ、自然のオーケストラ、その環境で楽しみ暮らす人が、天国の一番いい所に行くであろうと思うのです。そうではないでしょうか? 皆さんに話をしてあげようとして、もう九時になってしまい、ご飯も食べられずに、また出掛けないといけませんね。(笑い)きょう、ベルベディアで話すべきことを皆、話してしまいましたね。(笑い) 今まで、あなたたちはここに参席することを軽んじていました。千年の恨みと千年の精誠をささげても来ることのできない日があるということを知らなければなりません。 勝利者になりなさい 今や、一族が全部競争をするようになれば、一族がどれほど精誠をささげて、ここですべて天の前に献納するかというようになります。自ら、天の国の民として税金をささげなければならないのです。税金制度が訪れるということを知らなければなりません。 皆さんは、このような場所に参席することのできる氏族的メシヤを中心として、一族が全部精誠をささげて、最高の水準にいる何人かを選抜してくるのです。 あらゆるものをどのように集めて、どのように献納するか。どのようにすれば、全人類を救うことができるかということを考えるのです。今まで神様は、人間と万物、このすべてのものをごらんになることを願われたのです。 今や、世界が全部救われたならば、どうなるでしょうか? だれが息子・娘をたくさん産むかということが重要になるのです。 次は、何でしょうか? 受けたのですから、返さなければなりません。それは、皆さんの所有の三三パーセントです。それは、蘇生、長成、完成ということからきています。 サタン世界が蘇生、長成、完成段階まで支配すれば百パーセントになりますが、六六パーセントくらいまでしか、サタン世界は占領できなかったのです。第一次世界大戦、第二次世界大戦では、サタン側は六七パーセントまで勝ったのです。そして、残りの三〇パーセント圏内で負けるのです。その残りの三三パーセント以上は、天に属するのです。そうすると、イエス様の三十三歳という年齢には、そのような意味もありそうです。 税金も同様です。それは、国民として果たすべき義務です。ですから今後、未来とその国を発展させようとすれば、自分たちが決めて、それ以上にパーセントを増やしていくべきであるというのが、今後、天の国民たちがあの世に行って福を受けることのできる土台になるであろうというのです。 ですから、夜にも働いたりして、後代においてこの国が栄えるようにさせなければならないのです。国の人たちが税金を取りにきてはいけません。全部、自発的にささげなければならないのです。 個人主義のアメリカの人たち、西洋の人たちは、大変なことになりました。「世界平和統一家庭連合」の世界本部では、守るべき規則を全部私に報告し、そのうえで、その中に条件を減らしてあげることができ、減らしてあげればよいと思われるものは、私が引いてあげようと思います。それを準備しなさい。 今からは、既成教会が統一教会に反対すれば、「この者たち、なぜ統一教会に反対するのですか?」と言いなさい。 彼らが、「あなたたちが『キリスト教だ』と言うので反対するのだ」と言うのならば、「キリスト教だから反対するのですか? あなたは偽者です! キリスト教時代は、もう過ぎ去ったのです。私たちは『世界平和統一家庭連合』ですが、家庭に反対するのですか? あなたの家を全部、打ち壊すのですか? 私たちは、あなたの家を救ってあげようとするのです」と言いなさい。最初から堂々と訴えなさい。 「世界の家庭が、すべて私たちを歓迎するのに、なぜ反対するのですか? 反対すれば、あなたの家庭が神様の怨讐になるのです」と言いながら、闘わなければなりません。 先生が皆、準備したのです。まったく、国もなく、何も持たない私を一番怖がるのです。武器はありませんが、皆、恐れているのです。統一教会の組織、世界において先生がつくった組織は、世の中のどのような武器よりも強力なのです。 出掛けていきなさい。出掛けていって成しなさい。行動を開始しなさい。何でもできるのです。世の中をきれいに整理しなさい。世の中を収拾しなさい。この道を行くうえで、何の問題もないというのです。それは、あなたたちがもっと度胸を持ちなさいということです。先生より度胸を持たなければなりません。 あなたたちは世の中を知らないので、先生の話だけ信じれば、度胸が百倍強くなるのです。 特に二世たちは、もっと強く、度胸を持たなければなりません。これ以上、迫害はないのです。ばーん! がーん! がん! と、三度撃つのです。一度だけ撃ってやめてはいけない、というのです。蘇生! 長成! 完成! それで解放されるのです。世の中を目覚めさせなさい。そして、先生が万王の王になったように、この世の中と天宙の中心存在として勝利者になりなさい。アーメン。 神様が祝福してくださいます。日本収容所列島 いまなお続く統一教会信者[本/雑誌] (単行本・ムック) / 梶栗 玄太郎 編令和の魔女狩り 旧統一教会バッシングの深層 (View P Books) [ 世界日報社編集局 ]一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.27
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真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙日付:一九九七年五月十九日場所:ウルグアイ、モンテビデオ、ビクトリアプラザ・ホテル行事:「新救国連合」国家指導者晩餐会尊敬する内外の貴賓の皆様、特にこの場に参席してくださった著名な紳士淑女の皆様。公私共に御多忙にもかかわらず、この場に御来席くださった皆様に深く感謝申し上げます。このような貴い日に、私が心から皆様に差し上げたい最も貴い返礼の贈り物があるとすれば、それは私がこれまで世界を巡回しながら説いてきた、最も代表的な二つのみ言を御紹介することです。それは、「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」というみ言です。現代においては男女問題と家庭問題、そして青少年問題が絶対的に解決されなければなりませんが、この二つのみ言は、その根本的な解決方案を提示しています。各自が帰って、自らを振り返り、家庭を愛したい思いが生じるたびに、このみ言を読んで深く考えれば、皆様が幸福で円満な家庭を築くのに大きな助けとなるでしょう。皆様はこの二つのみ言を、皆様の年の数ほど読んでくださるようにお願いします。年齢が八十歳を超えていれば、八十回以上読まなければなりません。皆様が読めば読むほど、天の祝福と天運が共にあるでしょう。読めば読むほど、その家庭に平和が自動的に臨むので、何度も読んでくださるようにお願いします。最初のみ言の主題は、「救援摂理史の原理観」です。その内容を要約すれば、神様を中心として結婚し、真の父母になることです。第一次アダムの家庭でアダムが失敗して堕落したので、第二次アダムとしてイエス様が来られ、これを国家的な次元で復帰しなければなりません。ですから、第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであるイエス様は第二次アダムとして来られたのですが、真の父母の家庭を築くことができずに約束だけして亡くなられることにより、第三次アダムが再び来られ、世界的基準で真の父母の使命を蕩減復帰しなければならないのです。これが、第三次アダムとして来られる再臨主の使命です。ですから、旧約時代、新約時代、成約時代を完成するのです。そして、人類救援の根本問題が、血統復帰であるという事実も明らかにしています。二番目のみ言の主題は、「宇宙の根本を探して」です。人間の堕落の根本が愛によって成立したため、人類は真の愛を失ってしまいました。ですから、この真の愛をどのように取り戻すかという問題が提起されています。真の愛を失ってしまったというのは、淫乱によって堕落したという意味です。すなわち、生殖器を中心として誤ったので、これを取り戻そうとすれば、その反対に、正しく行かなければならないということです。このように、誤った愛がエデンの園で植えられたので、終わりの日の刈り入れのときに、その結果として現れる現象が青少年問題です。それで、「性」の混乱時代が来るというのです。これを清算するのは、絶対「性」でなければなりません。この絶対「性」の概念によってのみ、家庭破壊を防止し、青少年の淪落を防ぐことができるのです。 三大主体思想とメシヤ思想この時間は、「真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙」という新しい主題で、み言を分かち合おうと思います。ここに集った皆様には父母がいます。そして、師がいて、その次に国の主人がいます。彼らは、誰にとっても絶対的に必要です。しかし、いくら父母だとしても、真という基準を中心として見るときには、様々な基準があるものです。皆様自身は、果たしてどれほど真の父母になったと思いますか。また師といっても、アメリカにあるハーバード、エール、そしてコロンビアのようなアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門私立大学八校で結成しているリーグ)に属した大学であるとか、イギリスのオックスフォードやケンブリッジ大学の教授であれば真の師でしょうか。国の主人も、真という基準から見るとき、同じにはなり得ないのです。皆様は、アメリカのような強大国の大統領であれば、真の大統領だと思いますか。事実、今日の家庭では、子女が父母を信じられず、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士でも不信する関係になっています。学校では師を信じられず、国では国の責任者を信じられないというのが今日の実情です。このように、皆様が願うこの三つの重要な立場、すなわち父母と師、そして国の主人の中で、真という基準を中心として、どれか一つでも合格できるのか、ということが問題なのです。皆様が真の父母になり、真の師になり、真の主人にならなければならないとすれば、そのような世界最高の基準、そのすべてのモデルの中心とは誰でしょうか。その方が正に神様です。神様は父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王であられます。神様は永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人であられます。私たちが神様の息子、娘になるとすれば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければなりません。そして、神様のような真の主人となる道を行かなければならないのです。これが三大主体思想です。その究極的なモデルは神様です。旧約聖書に記録されている、イスラエル民族に送られるメシヤとは誰のことでしょうか。メシヤは、正に真の父母として来られる方であり、真の師として来られる方であり、真の王として来られる方です。しかし、イエス様はこの地上で家庭をもち、民族を一つにできなかったので、再び来なければなりません。再び来られるメシヤは第三次アダムとして来られて、世界的基準で真の父母権と真の師権と真の王権を教えてくださろうとするのです。これが正にメシヤ思想です。ですから、家庭があり、国家があり、世界があり、天がある所であれば、いつでもどこでも、三大主体思想が正しく確立されなければなりません。人は空間の世界に立てば、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。それでこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆様が上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによって、様々な形になるのです。皆様の上下、左右、前後関係、そして家庭の問題、国の問題、もしくは世界の問題を扱うときに、公式は一つです。個人を中心として、上下、左右、前後があるように、家庭においても父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。これと同じように、国においても国の主人を中心として、すべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべてかき抱き、その次に、世界の万民を兄弟姉妹のようにかき抱いて、結局一つの家庭のモデルを築くのです。モデルは全く同じです。そして、自分自身がそのモデルの中心になるのです。自分がいて、その次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様にまで行かなければならないのと同じ道理です。皆様には宇宙の中心になりたいという気持ちがあるだけではなく、そのようにもなれるのです。 宇宙の核のような真の家庭このように、宇宙においてその核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東は男性を象徴し、西は女性を象徴するので、女性は結婚することにより、どこでも夫の位置に従っていくのです。西が太陽の光を浴びて輝くとき、東と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として役事(働き)するとき、弟たちが協助するようになるのです。ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点でなければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が違ってはいけません。この中心点が狂えば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。ですから結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで、すべて合わせて七数を形成するようになるのです。このように、七数を形成するということはすなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つになり、これらすべてが完全に球形となり、調和と統一を形成する家庭になるということです。私たちがよく「ラッキーセブン」と言うのも、このような観点から見れば、一理あることなのです。そうして、これが一つに定着して回るようになれば、八数だというのです。真の愛が永遠に変わらない限り、この中心も変わらず、永遠に回ることができたのですが、堕落することによって神様を中心から追い出してしまったというのです。神様の真の愛をすべて追い出してしまったので、真の家庭理想がすべて崩れてしまったのです。西洋と東洋は、その生活習慣においてあまりにも異なる点がたくさんあります。多くの面で正反対です。例えば、韓国で人を呼ぶときは、手のひらを下にして手招きをしますが、西洋の人に対してそのようにすると、かえってもっと遠くに行ってしまいます。「私のことが嫌いで行ってしまうのだろうか」と誤解するようになっているのです。西洋の文字は横的で、左側から右側に進みますが、東洋の文字は縦的で、本来、上から下に書いて読むのです。ですから、西洋の本は左側から開いて見ますが、東洋の本は右側から開いて見るのです。西洋文明は一種の横的文明です。握手で挨拶するのは、横的な挨拶です。頭を下げながら挨拶する東洋文明は縦的です。東洋には、家庭制度の核が先祖にならなければならないという伝統がありますが、西洋ではそのような核が強くありません。先祖を核とする概念がないのです。自己中心です。すべてのものが核から連結されるので、核が動かなければすべて動きません。ですから、中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、すべて同等です。それを分ければ十二切れになりますが、その十二切れをどこに合わせても、すべて合うというのです。祖父が願えば孫は反対せず、息子、娘もそれを願うようになり、三代がみな、一緒に願うのです。祖父、祖母、夫婦、息子、娘、すべて中心に合わせるようになるのです。この愛を中心として見るとき、父子の関係も一つなので一体であると言い、夫婦関係も一体であると言い、兄弟間も一体であると言うのです。一つの体です。何を中心としてこのような関係が一体なのかというと、愛の中心である神様の真の愛を中心として一体になるのです。真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一つの体になり、兄弟間も同じなのです。このようになることにより、すべてのものの価値が同等になるのです。 人間が行くべき真の真理の道それでは、神様がその子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさん稼いだ億万長者になることでしょうか。国の最高権力を手にした大統領になることでしょうか。神様が息子、娘であるアダムとエバに願われたのは、彼らが成長して孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。それでは、皆様は神様が願われるように、家庭で孝子になろうという考え、国では忠臣になろうという考え、世界では聖人になろうという考え、そして天地の前に聖子になろうという考えをもったことがありますか。歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきたのです。今晩、皆様はこのような理想的な人間、すなわち人間のその人格完成に必要なものが、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理であるという観点から見るとき、ここに合格したと見ることができますか。このような内容を知らなければ、家庭で真の父母の役割を果たせません。真の父母であれば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的な内容を教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちに神様まで行くべきだということを、自分の子女たちに教えてあげなければならないのです。そのように教える人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、真の父母、真の師、そして真の主人であると考えるのです。皆様に真の父母の資格があり、真の師の資格があるというときには、真の主人の資格も備えるようになり、さらには真の王になれる資格まで備えるようになります。堕落した人間に、真の孝子という概念があるでしょうか。忠臣の概念もありません。聖人の概念もありません。聖子という概念もないのです。ですから滅びるのです。誰が聖子になることを願うのでしょうか。神様が願われるのです。聖人になることを誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うのかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願います。これが正に、真の真理の道です。愛を中心としたこのような真理は、一つの方向で永遠に持続するのです。そのことを知りませんでした。それで、真の父母になれなかったのです。国の真の主人になれませんでした。聖人や真の聖子になれなかったのです。イエス様がこの地上に来られたとき、家庭にそのような真の主人がおらず、国と世界にそのような真の主人がおらず、結局、天地に真の主人がいなかったのです。どのようにしてその道理の道を行くのかを知らなかったのです。しかし、もはや知らなければなりません。真の父母は、「孝子になったから、忠臣にはなるな」とは言いません。真の父母はその孝子に、「お前は家庭を犠牲にして、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たし、世界のために生きなければならない。また、世界を犠牲にして天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を訪ねていかなければならない」と教えてあげなければならないのです。そのようになるためには、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければならないのです。聖人は、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は世界を犠牲にして、天の国と地、地上天国を築かなければならないのです。ですから、すべての父母の中で、より子女のために生きる父母が真の父母であり、どのような師よりも、よりために生きる師が真の師であり、どのような大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうという大統領が真なのです。このような概念があることを知りませんでした。投入して犠牲になるのです。そのようにしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に訪れません。 自分のために生じたものは一つもない個人主義を主張する根拠はどこにあるでしょうか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が父母の愛によって、母親のおなかの中で精子と卵子が結合して生まれてきますが、九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉を受けて育ちます。父親の精子は○・○○一パーセントにすぎません。そこには自分という概念はありません。誰でも生まれるときは、自分自身という概念がなかったのです。いくら立派だという人でも、自分一人で立派になったと言える人は一人もいません。レバレンド・ムーンも、皆様も同じです。骨や血、肉など、すべて母親のおなかの中で譲り受けたのです。この体の重要な部分は、母親の体の延長だという事実を認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、卵子と精子に含まれていたというのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠がないのです。「上」というのは、「下」を認めたうえで語る言葉です。「上」というものだけで、個人主義が成立するでしょうか。個人だけという概念はあり得ません。「右」というのは、「左」というものをあらかじめ前提としたうえで語る言葉です。「前後」を見ても、「前」というのは「後」をまず認めたうえで語る言葉です。「男性」という言葉も、男性一人を念頭に置いて語る言葉ではありません。「女性」を先有条件として語る言葉なのです。これは、誰か一個人の言葉ではなく、宇宙的な事実です。男性はなぜ生まれたのでしょうか。男性はよく、「自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がない」などと言いますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分のために生まれたものは一つもないというのです。私たちの五官を見てください。自分の目は、自分の目を見るために生じたのでしょうか。鼻や耳、口、手もすべて、相対のために生じたのです。五官を総動員して集中させられる力とは何かと言えば、真の愛です。目、鼻、耳、口、そして手は、真の愛のために生じた、真の愛の道具なのです。自分のために生じたものは一つもありません。他人のものを自分のものにする人をどろぼうと言うのです。人のものをもってきて、自分のものとして使う人はどろぼうではないでしょうか。ですから、女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人はどろぼうなのです。男性と女性は、何が互いに異なりますか。まず、性の器官を含む体が異なります。それでは、男性の性の器官は誰にとって絶対に必要でしょうか。男性の性の器官は、女性のためにあるのです。人間の性の器官の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになっているのでしょうか。二つとも尖らせたり、二つとも平たくしたりすることもできるのに、なぜそのように違う形になっているのでしょうか。すべて、相対のためです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。女性のものは絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものであるという事実を知らなかったのです。それを占領することにより、愛を知るのです。二人が一つになるような経験を通してのみ、最も高い境地の愛を知ることができます。どのような者も、このような事実を絶対に否定できません。誰もがみな、認定しなければならないのです。二人が完全に一つになるその場から、理想的な夫婦が生まれます。正に、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在するのです。ですから、絶対「性」は神様を中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家、もしくは経済人たちは、文学作品や言論を通して、フリーセックスの刺激を与える場合が多くありました。ですから、今から私たちは、政治家や経済人、作家、言論人と一つになって先頭に立ち、フリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは完全になくならなければならないのです。 神様から玉璽を受けたレバレンド・ムーンレバレンド・ムーンの話を聞けば、皆様の現在の立場とは一八〇度違う人になり、違う国になり、違う世界になります。間違いなく変わるというのです。変化させるべきこの悪の世界を完全に変化させるのは、絶対に必要なことです。ところが、サタンを含む悪の世界の人々は、神側の人々を好みません。それで、世の中のすべてがレバレンド・ムーンに反対してきたのです。国家と世界的次元においても反対したのです。しかし、レバレンド・ムーンは神様に属しているので、神様がレバレンド・ムーンを保護してきました。サタンはレバレンド・ムーンを嫌いますが、神様は好まれるのです。いくらレバレンド・ムーンを悲しませ、下に押さえつけて無視するとしても、レバレンド・ムーンは意に介しませんでした。レバレンド・ムーンは下がっていきませんでした。かえって、最も高い立場にまで上がっていくようになりました。そうして、今は誰もレバレンド・ムーンに反対できないようになったのですレバレンド・ムーンはあらゆる迫害を受けながら、どのようにしてこのような世界的基盤を築けたのでしょうか。どのような力でもって、世界の碩学と最高の指導者を教え導く基盤を築けたのかというのです。神様がそのような力をレバレンド・ムーンに下さったので可能だったのです。神様が保護され、私にそのような方向性を教えてくださり、今も続けて保護し、教えてくださるので、レバレンド・ムーンは常に成功の道を進んでいるのです。歴史始まって以来、霊界に通じることのできた多くの宗教指導者がいましたが、レバレンド・ムーンほど霊界を知り、あの天の国、霊界を統一してきた人は、この地上に一人もいないことを知らなければなりません。そうして、レバレンド・ムーンは神様から玉璽をもらいました。そうでなければ、地上統一はできないのです。神様が霊界で誰よりも訓練させて育てられたように、この地上においてもそのように引き続き導いていらっしゃることを知らなければなりません。二十年以上の間、レバレンド・ムーンは新教(プロテスタント)の地、アメリカに行って多くの迫害を受けました。しかし、イエス様が亡くなられてから二千年間、途方もない殉教の血を流したキリスト教をこの国に定着させようという神様のみ旨を知ったので、アメリカを捨てることはできなかったのです。旧教(カトリック)の地、南米も同じです。四十年以上前にレバレンド・ムーンを受け入れていたならば、南北米がどのようになっていただろうかと考えてみてくださることをお願いします。韓国は、なおさら考えてみる必要があります。 「神様のもとの一つの世界」を成し遂げるための努力それでは、真の愛はどこから始まるのでしょうか。自分の生命を投じたのち、また復活して、三度以上より投入しようというところから、真の愛が始まります。私たちは堕落した血を受けたので、自分の生命を懸けてでも、これを越えなければなりません。それで、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言うのです。 イエス様もこの地上に来て、その道を行きました。それによって世界を治めたのです。利己的な個人主義ではありません。利他主義です。ですから、私たち夫婦は一生の間に数百億ドルのお金を稼ぎましたが、一銭も私たちのものはありません。すべて、世界のために投入して忘れてしまい、また苦労して稼いでは投入するということを反復するのです。「神様のもとの一つの国」と「神様のもとの一つの世界」のうち、皆様はどちらが好きですか。一部のアメリカ人は、「神様のもとの一つの世界」が好きではありません。また一部の白人は、黒人が好きではありません。アングロ・サクソン系の白人の新教徒がアメリカの支配的位置を占めていますが、彼らを中心としたアメリカは、世界のために生きるという考えをもたなければなりません。もし、アメリカだけのために生きるというのであれば、存続できないのです。今は、時代が変わってきています。到来する時代は、「神様のもとの一つの世界」が成し遂げられる時代です。神様はこのような世界のために働いていらっしゃり、また、そのような摂理のために働く人を助けていらっしゃいます。そして、これからも永遠にそのような人を助けられるでしょう。ところで問題は、すべての人々がこのような世界で暮らすことを願いながらも、その摂理の同参者になることは好まないということです。一つの平和な世界をつくるために、私たち夫婦は様々な努力を傾けています。そのうち、いくつかの代表的な例を挙げれば、人種と宗教、国境、言語の障壁を超越して、未来世界の基盤を固める理想的な国連大学を建てることです。また、世界的な知識を交流させるために、遠隔通信大学が必要です。医学では、堕落によって生じた肉身の病気を治療するだけでなく、東西文化の和合を通して、東洋と西洋の葛藤までも収拾するという次元で、「統一思想」と「統一医学」を開発しなければなりません。東西思想と医学が合わさってこそ、今後、エイズのような難病を治せるようになるでしょう。韓国では、医学教育を全く受けていない農村の若者の中に、エイズのように現代医学でも治すのが難しい病を治せる特別な治療法を霊界から教えられた人々がいます。ですから、霊的世界の事実を認めなくなれば、大きな問題が起こるのです。このすべての課題は、既にアメリカのブリッジポート大学と韓国の鮮文大学を中心として、実践に移されつつあります。さらに私たち夫婦は、既にアメリカの「ワシントン・タイムズ」だけでなく、南北米すべての国々をカバーする言論機関をつくりました。この言論機関は、間もなく世界百八十五カ国にまで拡張され、世界が一つになって学び、協力することに大きく貢献するでしょう。レバレンド・ムーンはアメリカに行って、アメリカ国民に一つも負債を負いませんでした。むしろ、アメリカが世話になったのです。天から受けた祝福で、レバレンド・ムーンはアメリカを祝福してあげました。私たち夫婦は、天から受けた祝福を世界にすべて分け与えました。南米も韓国もレバレンド・ムーンを歓迎し、アメリカのような祝福を受けるようにお願いします。いくら反対しても、より多く愛する人が主人になります。より多く愛し、より多く投入し、より多く与えて忘れてしまう人が中心存在になるのです。これが正に天法です。これから皆様は、家庭において父母に孝行し、国の前に忠臣となり、世界の前に聖人となり、神様のみ前に聖子となる道を行くべきです。誰であろうと家庭、国家、世界、天地の前に恥ずかしくない自分、この宇宙と自然の中で天運の保護を受ける自らとなり、神様の最高の愛を受ける家庭を築かなければなりません。そうして地上天国に転換し、天上天国に入籍して、神様を中心とした地上、天上王権時代に入り、勝利と自由と幸福と統一の世界を訪ねていく国際合同祝福結婚式を迎えなければなりません。皆様も全員、今年の三百六十万双祝福結婚式を超えて、三千六百万双の合同祝福結婚式に参加してくださるようにお願いします。そうして、天地が歓迎する人になり、永生の道を見つけてくださるようにお願いします。私たち全員が神様と真の父母様の血族になり、神様の真の愛を中心とした真の家庭と真の世界(宇宙)文化創建の主役になって、来たる二十一世紀には平和と統一の世界を建設することを願いながら、これで私の話を終わります。皆様と皆様の家庭、そして行っている事業に神様の祝福が共にあることをお祈りいたします。ありがとうございました。令和の魔女狩り 旧統一教会バッシングの深層 (View P Books) [ 世界日報社編集局 ]一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.25
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第1回ソ連・統一原理研修会統一教会史上最大規模の大修練会ファミリー 1992年2月号 掲載み言は「楽天ブログ み言が生命 掲載」一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.23
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世界平和統一家庭連合時代の開幕宣布真のご父母様は一九九七年四月八日、韓国九里市の中央研修院(水沢里)にて、「第三十八回真の父母の日」の指導者会議に参加した各国の国家メシヤ、日韓の牧会者等、千六百余名の世界の代表たちが参加する中、統一教会の名称を「世界平和統一家庭連合」に変更し、四月十日から使用するように語られた。 昨日は第三十八回の「真の父母の日」でしたが、三数と八数はアダム時代、イエス時代、再臨時代の三段階の時代を代表した八数に該当する数です。これからの三年路程、三年分別期間……。いつも大転換の時期には三年路程が必要なのですが、この分別期間を中心として歴史的な新しい方向、新しい目的地に向かって出発する時代が訪れるということを、皆さんは知らなければなりません。 皆さんも知っているように、私たちの組織は今、二重組織になっています。これからは「世界平和統一家庭連合」が中心となって先頭に立っていきます。今までは統一教会が先頭に立っていましたが、これからは家庭連合が先頭に立って、統一教会は徐々になくなっていくのです。統一教会の「世界基督教統一」という言葉がなくなるのです。 キリスト教は責任を果たせませんでした。ゆえに、その次元を超え、キリスト教の祝福が万民の前にすべて委譲される時代に入ったということを、皆さんは知らなければなりません。世界基督教統一神霊協会ですが、神霊というのも結局、真の父母を中心として地上に家庭的メシヤの基準が定着する時には終わるのです。神霊の実体をこの地上に迎えて生きるべき人たちが、真の父母の継承者たちなので、その真の父母は、霊的完成と地上完成を代表した家庭の出発から、国家出発、世界出発、天宙出発を代身し得る、一つの模型的な基台になるということを皆さんは知らなければなりません。 したがって、今後残る名前は何でしょうか? 世界基督教統一神霊協会の時代は過ぎ去りました。それは闘わなければならないのです。キリスト教を統一しなければならないのです。統一するためには闘いを経なければなりません。平和の基準がありませんでした。闘争的概念を中心として、サタン世界に引継・委譲していく過程にあるため、平和という概念もなく統一という概念もないのです。キリスト教を統一する時代は既に過ぎ去ったのです。 長子権復帰、父母権復帰を完成したので、イエス様がイスラエル圏に着地し、ローマ帝国という世界舞台に移っていけるはずだったその基盤を、統一教会において長子権復帰、父母権復帰、王権復帰時代に移行していくことによって、すべてを回復したのです。ですから、キリスト教の統一だけではありません。世界統一時代に移行したのです。 ですから、今日この第三十八回の「真の父母の日」を中心として、統一教会という名称はなくなり、世界平和統一家庭連合とするのです。四月十日からこの名称を使うのです。 堕落によって植え付けられたために、終わりの日には堕落のその実が、普遍的に世界人類の家庭で結ばれるのです。実が結ばれるにあたって、サタンもどうすることもできません。取り返しがつかないのです。神様もどうすることもできません。ですから主人がいません、主人がいないのです。 今、統一教会が教えているのは復帰路程における血統復帰、その次は何ですか? 二つ目は所有権の復帰です。神様は主人になれませんでした。血統を中心として人間を失いました。その次に物を失いました。その次に何ですか? 心情圏の復帰です。一族が生きることのできる環境と、人と、天の伝統をすべて失ったのです。 心情圏というのは七代先祖、一族のことを言います。氏族的メシヤの使命を果たすことによって、その一族というのは自分の所有圏、自分の血族ではありません。神様に帰らなければなりません。神様の血族となって所有権をもたなければなりません。この地は自分の地でも、一族の地でもありません。この宇宙の地なのです。宇宙の主人となり、宇宙の先祖となるためのものなのです。 ですから、自分の一族に対する血統問題、一族に対する所有権問題、一族に対する心情圏が問題ではありません。神様を中心として宇宙の心情圏へと拡大しなければならないのです。そのような大転換を標準として統一教会は進んでいるのです。心情圏復帰とは何かというと、氏族的メシヤ圏の確立です。そこでは血統転換、所有権の転換がなされなければなりません。人を失い、万物を失いました。ですから、人と万物を取り戻さなければなりません。人と万物を取り戻して一つに結び、「この地上の私たちが生きた地が、神様の所有圏となり、神様が活動できる生活の基台となり、神様の心情的な対象圏となりましたから、神様の前にお捧げします。天のものと致します」と言わなければならないのです。 氏族さえ編成すれば、民族が自動的に編成され、国が自動的に編成されるのです。七代になれば何家庭になりますか? ヤコブのときは一族です。系列的な出発です。その次にモーセ時代は民族時代であり、イエス時代は国家時代です。国家を編成しなければならないのです。すべての家庭の目的は国を探し求めることです。そうではないですか? 家庭があれば自然に国が形成されるでしょう? 個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代、天宙時代、神様時代、この八段階を越えていかなければならないのです。この縦的な歴史を横的にすべて展開し、サタンのすべての蕩減条件、サタンが残した壁や穴をすべて埋めなければなりません。そうして水平にしなければなりません。 ですから、先生は今まで多くの団体をつくりました。すべてをつくったのです。つくっておいて、そのままにしておいたものもあります。縦的にすべて橋をつくったのです。コンクリートの家を建てるには、まず、コンクリートで水平な基盤を固めるための基礎が必要です。一階、二階をすべてコンクリートでつくれるようにするためなのです。ちょうどそれと同じです。さまざまな団体をつくりましたが、時が満ちるまで横的に結びつけませんでした。 今は横的に結びつける時になったのです。今はどのような時かというと、一週間だけみ言を聞いて祝福が受けられる時なのです。内容は簡単です。血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰、一族が一つになって天に戻っていくのです。 真の父母は何を持って来るのでしょうか? 何も持っては来ません。神の血統圏と愛、それが財産です。神の息子、娘の種を持っているのです。エバ国家はそれを全面的に受け入れなければなりません。それは世界的な復帰です。日本民族が氏族的使命を完遂し、韓国と世界をひっくり返さなければならないのです。 そのような面において、日本女性たちはエバ国家の使命を果たさなければならないのです。キリスト教は新婦の宗教ですね? 再臨主を何千年も待ちながら、死の峠を乗り越えてきたのがエバ国家です。それは霊的な母親の立場です。体がありません。霊的なものには体はないのです。エデンの園で本来完成すべきであった母親の霊的な基準が、神様の懐に帰ってきました。アダムと共に帰ってきたのです。アダムとエバが完成すべき霊的な基準が、神の懐に帰ってきたのです。創造以前の心情圏として帰ってきたのです。 完成圏が地上に現れればそれを移植し、アダムとエバが十六歳で墜ちる前の基準、その心情一致圏に従って、国家の出発がなければなりません。その国家基準の完成圏を探し求めてきたのが、アダムからイエス時代を経た四千年の路程だったのです。それはカイン・アベルです。イスラエル国家がカイン、ユダヤ教がアベルです。それが一つになって母親を迎える準備をしなければならないのです。 メシヤが来られるとき、女王と息子と娘を準備しながら迎えて、氏族圏に定着すればいいのです。それがザカリヤ家庭とヨセフ家庭でした。プラスとマイナス、カイン・アベルが問題なのです。それで、この二つが一つになって結婚式をして定着するのです。伝道も、何も必要ありません。その家庭から「世界平和統一家庭連合」が成立するのです。平和の家庭を通じなければ統一されません。 平和になれば、統一は縦的な基準でなされなければなりません。平和は横的なものであり、統一は縦的なものなのです。それで「世界平和統一家庭連合」というのです。 神様は復帰の心情をもっていますね? 偽りの父母によってこのようになってしまったので、青少年たちの淪落防止と家庭防備を逆に展開し、新しい家庭の上に氏教、民族、国家の編成がなされるのです。国家というのは家庭の上に立つようになっています。しかし、今まで神様を中心とした家庭がありませんでした。それゆえ、家庭を編成する時が再臨の時代なのです。 神様とアダムを中心として完全に一つになった基台の上に、統一世界が成立するのです。キリスト教文化圏を復帰すれば、統一世界が訪れるのです。その統一世界の主体国家は、再臨主を迎えなければなりません。再臨主はたった一人です。何ももっていません。財産も何もないのです。エバがアダムを含めて、すべてをサタンに渡してしまったのです。ですから、再臨主を一〇〇パーセント以上に迎え入れる基準を立てなければなりません。父や母だけではなく、夫や息子や娘までも母親として産みかえて、再臨主に預けなければならない責任があるのです。 ところが、キリスト教文化圏が統一教会に反対してきました。それで「世界基督教統一神霊協会」という名前を付けたのです。ある時期までは、それが必要でした。その名前ゆえに迫害を受けたとしても、蕩減の峠を越えなければならないのです。今は既に乗り越える時となりました。間接主管圏ではなく、直接主管圏に入ったからです。蘇生と長成の段階を越えて、完成の蘇生段階に入った者は、サタンが関係を結ぶことができません。サタンが手を出せないのです。 韓国はアダム国家になることはできません。アダム国家は先生一人しかいません。誰一人しかいないと言いましたか?(「お父様です」)。エバ国家は?(「お母様……」)。お母様はいつ現れましたか? 選ばれて立てられたお母様が女性連合をつくったのは、一九九二年四月十日でした。その日がその記念日です。 お母様も先生が立ててあげてこそ、立つことができるのです。アダムに似せてエバをつくったでしょう? アダムがまだ未完成であったのに、それに似せてつくったのでしょうか、完成すべきアダムに似せてつくったのでしょうか? 完成すべきアダムに似せて、生理的な観点で合うようにつくったのです。 アダムは凸で、エバは凹です。その二つはうまく合うようになっているのですか、合わないようになっているのですか? 合うようになっているのですが、セクシャル・オーガン(sexual organ :生殖器)が「ああ、まっぴらだ!」と言って逃げ出すようになっていますか、くっつくようになっていますか? くっつきます。何を中心としてですか? 愛、どんな愛? 堕落した愛ではありません。真の愛です。人間は愛を自分勝手に扱う群れです。堕落した子孫なのです。原理原則に背いて、ちょうどそのような立場にいるのです。 愛の主人は女性でもなく男性でもありません。誰ですか? 神様です。それを知らなければなりません。愛を自分勝手に扱おうとする連中は皆、地獄へ行くのです。フリーセックス! 女性にしろ男性にしろ、勝手に愛し合うような連中は皆、地獄に行くべきでしょうか、天国に行くべきでしょうか? 犬畜生のような姿をして、地獄に行かなければなりませんか、天国に行かなければなりませんか? 地獄に行かなければなりません。地獄のどん底に行かなければならないのです。 絶対性(absolute sex)です。絶対的な聖なるものがそれです。ですから、そこを通じて出てきた息子、娘が絶対的な聖なるものなのです。父と母が身も心も傾けて愛さなければなりません。骨髄が溶けるほどに愛さなければならないのです。彼らはどこから生まれましたか? □から出てきましたか、どこから出てきましたか? 生殖器から出てきましたね? ですから、聖なる息子、娘を抱きたいと思うのですが、その聖なる息子、娘を生めるようにしたのが生殖器であるがゆえに、聖なる王の座にあるのが生殖器ということになるのです。「王性」ですか、「性王」ですか?「性王」の立場にあるのが生殖器です。そのように貴く感じますか? 王は二人ですか、一人ですか? 一人です。絶対的に一人です。変わることのない王権を残さなければなりません。 一九九二年までに、兄弟一体圏が成立することによって、お母様の座が準備されました。世界的な反対がありましたが、すべての家庭を収拾して関係を結ぶことによって、お母様が一九九二年四月十日に「女性連合」を結成したのです。女性連合は絶対に必要なのです。その女性連合をつくる前に何をつくったかというと、「全国大学原理研究会」と「青年連合」をつくりました。復帰原則によって、原理研究会をつくったのちに、女性連合をつくりました。そして女性連合と原理研究会をつくったのちに、青年連合をつくったのです。青年連合をつくったのは三年前です。それは公式です。 ですから、女性連合、青年連合、学生連合が一つにならなければなりません。青年連合と学生連合が、その女性連合と一つになって何をするかというと、「家庭連合」をつくるのです。真の父母を中心として血統転換をさせ、新たに天側に移動していく基盤が「世界平和統一家庭連合」なのです。その家庭連合をいつ結成しましたか? 一九九六年につくりました。 この家庭連合をつくれば、エデンの園の家庭でアダムに対して守れなかったすべての約束を完成することができるのです。それで、一九九三年に「真の父母と成約時代」が宣布されたのです。その次は「真の父母と成約時代の安着」ですから、移動することはできません。歴史以来、全人類を代表した父母の家庭が、完全に安着したので、サタンもどうすることもできないのです。 直接主管圏である神様の権眼下に入ったので、サタンとは何の関係もありません。先生に反対することはするのですが、先生の生命はどうすることもできないのです。それで、大きな腹をもって前進して退けるのです。打ってくれば打った人が直ちに後退するようになるのです。そのような原則に従って世界を収拾してきたのです。 世界平和統一家庭連合! 世界、平和、統一! 家庭を忘れてはなりません。それゆえに連合体であり、一人ではないのです。 世界を忘れず、平和を忘れず、そして何ですか? 統一を忘れず、家庭を忘れるべからず! 連合体をつくらなければなりません。すべてが相対的です。その相対基準の中に愛を連結すれば、世界は一つに連結されます。そのようになっているのです。 今後、重要視すべきことは世界平和統一家庭連合ですが、世界を失ってはならないのです。世界を失えば、平和であっても何になるのですか? また、平和を失ったら統一することができません。また、統一がなければ、家庭連合をつくって何になるのですか? また、家庭は一つの家庭ではありません。連合的です。そのような連合基盤がなかったら、家庭があっても何になるのですか? すべてこのような関係になっています。カイン・アベルです。世界と平和もカイン・アベル、その次には統一もカイン・アベル、家庭と連合もカイン・アベルです。すべて二人の息子が対になっているのです。連合を考えるときには、統一を考え、家庭を考え、平和を考え、世界を考えなければなりません。世界を考えるときには、平和を考え、統一を考え、家庭を考え、連合を考えなければなりません。一体なのです。 家庭がそのようになってこそ、神様が臨在できる世界代表の主人……、平和の主人、統一の主人、家庭の主人、連合世界の統一天下の主人となるので神様が臨在することができるのです。 ですから、人自体も一人では行けません。今後は、人事の措置さえも家庭単位で行います。なぜでしょうか? 夫婦一身です。夫が責任者ならば、女性は副責任者です。その息子や娘が、あらゆる実力基準において優秀ならば、彼らを重要な部署につけて、家族的に配置することができるのです。 自分の氏族の中で優秀な人を選出し、国民の前に立てて推薦を受けるような時が来るのです。ですから、父母が自分勝手にはできません。大統領になったとしても自分勝手にはできません。父母が一つにならなければなりませんし、父母が一つになれば、親子が一つにならなければなりません。父母を中心として長男と一つにならなければなりませんし、長男を中心として弟や妹が一つならなければならないのです。そうなれば、非行に走るようなことはないのです。 夫は勝手にはできません。今までは、女性が干渉できませんでした。これからは違います。副責任者です。 そのような時代に移行していきます。今すぐにしなければなりません。二千年を越えて国家的時代に入れば、間違いなくこのような組織体になるので、父親が大統領であったとしても勝手にはできません。母親の承諾を得なければなりません。み旨の道に忠誠を尽くす母親が、勝手にみ旨を放り出して、道を外れるようなことはできないのです。 また、父母は自分たちの行くべき道を知っている長男の前で、道を外すことはできません。父母がどうあるべきかをすべて知っているのです。弟や妹は、兄がどうあるべきか、父母がどうあるべきかを知っていますし、自分たちも父母に黙ってこっそり通過できません。全体で家庭会議を開いて、すべてを収拾しなければならないのです。 家庭が平和の基準です。家庭が世界を代表することのできる平和の基準、統一の基準、連合的基準になるということを知らなければなりません。したがって、単一の人事措置ではありません。家庭です。ですから、今後は立派な家庭が出世することでしょう。そのような時代が来るのです。 今後は、組織をどのようにすべきでしょうか? これは原理的に行わなければなりません。組織には今後、学生がいるのです。中高生、大学生、大学院生……博士コースを正式にたどれば二十四歳まで含まれます。 このように見るとき、二十歳前後を中心とした学生たち、大学に籍を置く者たちは、「世界平和総学生連合」に加入するのです。そして、大学を卒業して社会に出た人々は、皆兄になるのです。カインになるのです。そして、社会に出て政党と連結するのです。 これを家庭と連結させなければなりません。学生を中心としては家庭、青年を中心としては国と連結します。国はカイン的です。何もかもカイン的なのです。政党や国など、あらゆる機関が今まで統一教会に反対してきました。統一教会に今まで反対してきたあらゆる政府が、カインの立場に立つのです。 しかし、学生たちは母親を中心として家庭に通じるのです。ですから、これからは母親を中心としなければならないのです。王権時代になれば、青年会と学生会が一つにならなければなりません。今まで女性たちは、そのような系統を立てることができませんでした。歴史以来、長子と次子が一つになって、母親を天のように侍るという伝統を立てることができなかったのです。本然の母親が現れなかったからです。今は本然の母親が、長子権復帰と父母権復帰をして、母親復帰圏に入ったので、母親を中心として見るとき、長子と次子は母親の名のもとに絶対服従しなければならないのです。 服従するようになれば父と連結します。父の代を引き継がなければなりません。天国の祝福をすべて母を通じて……、母の伝統を受け継ぎ、父母の伝統を受け継いで代表となるのが長子であり、長子と長子の伝統を受け継ぐのが次子なのです。 それゆえ、父の命令に対して母が絶対服従し、母の命令に長子が絶対服従し、長子の命令に弟が絶対服従しなければならないのです。このようになります。そのような家庭にならずしては、神様に侍る家庭にはなれないのです。これが原理的な総観です。 統一教会において、もともと原理研究会は、中高生を対象とした成和学生の組織から始まりました。成和学生から始まった原理研究会の組織を中心として、そこには兄の組織もなく、女性組織もありよせんでした。国家的なあらゆる試練を経て、母親を中心とし、ようやく南北の統一的な条件的カイン・アベルの形態を経て、女性連合が創立されたのです。 復帰しなければなりません。出産しなければならないのです。ちょうどそのような組織なのです。その基盤の上に「世界平和統一家庭連合」が出てきたのです。その創設大会を開いたのは昨年です。ですから、一番最後に「家庭連合」が出てきたのです。本来は昨年の七月三十一日までに終えるように言ったのですが、一日遅らせて八月一日までにすべてを終えました。陰暦では七月中に行ったということになるのです。そのようにしなければならないのです。 これで形が整いました。家庭が定着できる「世界的な家庭連合」になったのです。はじめは、世界的な女性連合の組織が必要なのです。それから世界的な青年連合、世界的な学生連合をつくったのです。この学生連合は、縦的な直においてカイン・アベルです。中高生をしっかりと教育しなければなりません。それができなければ、またカインが生じるのです。 国家的メシヤになれば、王権復帰時代を迎えて、それをすべてパスできる憲法と法を制定しなければなりません。万年無事通過という法をつくることができるのです。そうして小学校から中学校、高校と、すべて法による教育をしていくのです。 多くの礼式をもつ宗教は必要ありません。家庭礼式、単一礼式です。平和の単一礼式、統一の単一礼式、家庭の単一礼式、連合の単一礼式なのです。それが家庭です。家庭の中には父や母や息子や娘がいます。それを延長した族長にも、父や母や息子や娘がいるのです。民族長にしても同様です。すべて家庭が中心なのです。家庭を中心としてすべてが成立するのです。家庭が核なのです。 天国に行っても、神様と真の父母を中心として家庭的な核は、同様の公式なのです。公式となる立場に立つので「代表的家庭」というのです。代表的家庭ですから、進む道は水平線です。山もなく谷間もありません。 復帰摂理の核を組み合わせてつくったのが、この家庭盟誓文です。私たちが盟誓文をもったという事実は驚くべきことです。 今回先生が講演した内容、盟誓文をつくって説いたすべては、旧約と新約という主流宗教の思想ですが、第一アダム、第二アダム(イエス)、第三アダム(再臨主)……、それがいかに完成するかという要点さえ、しっかりとしていれば、宗教は必要ありません。儒教もその道をたずねていかなければなりません。仏教もその道をたずねていかなければなりません。何々経といったものは一切必要ありません。よこしまなもの、消耗的なものはみな、一挙に焼かれてしまうかも知れません。 世界基督教統一神霊協会も必要ありません。家庭が定着すれば、世界と通じることができる「代表的家庭」になるので、エデンで願った神の創造理想の結実が現れなければなりません。息子、娘を中心として横的に拡大すれば、それが神様が願われる氏族となり、自動的に民族となります。自動的に国家にもなります。そうですか、そうではありませんか? ですから、宗教は必要なく、サタン世界の血族は必要なく、単一国家になるのです。それで、世界・平和・統一・家庭・連合です。これですべて終わりです。家庭は一人ではありません。 アダム家庭のすべてを解消しなければなりません。それはイエス様がなすべきことでしたが、なせませんでした。イエス様の時代には何家庭ですか? 一二〇家庭です、一二〇家庭。先生の時代には何家庭ですか? 一六○家庭が原則です。本来は一八〇家庭ですが、それは一六○家庭と内容的にも価値的にも対等であるため、多くを蕩減しなくてもいいように、一六〇家庭としたのです。本来は一八〇家庭です。 家庭というものは、そのように驚くべきものであり、恐ろしいものです。ですから、家庭盟誓の内容は天宙的な大宣言である、ということを忘れてはなりません。昨年から真の父母が講演する講演文の内容は、家庭をもたなければならないというものでした。これは鉄則です。霊界解放の祝福式をしなければならない時が追っているのです。三百六十万双が終われば、霊界祝福式をします。相手が霊界に行っていれば呼び出して結びつけてあげる時代に入ったのです。ですから地獄世界までも解放されるのです。 世界平和統一家庭連合! その中心は何かというと家庭です。完成した家庭は、完成した男性と完成した女性の絶対性(absolute sex)を中心として、夜もアーメン! 昼もアーメン! 春夏秋冬、一年中アーメン! 万年生涯を捧げてもアーメン! 不平を言うなというのです。どんなことにも不平を言わず、これも感謝、あれも感謝、死んでも感謝、生きても感謝せよというのです。 日本の牧会者たちは皆、鮮文大学の神学校を卒業しなければなりません。それから、UTS(統一神学大学院)まで卒業しなければなりません。今、年配の人たちの中でも大学を卒業した人たちは、二年間を終了し修士学位を取ってから出発しなければ、指導者として中間以上のレベルに立つことはできません。ですから大学院を卒業しなければ、中間レベルの指導者にはなれないのです。 すべての機関長も、今後神学校を卒業しなければなりません。霊肉が一つになっているため、霊的基準を受け入れることのできる相対的な立場に立とうとすれば、神学校を卒業しなければなりません。 自分の特性に合わせて職業をもったとしても、統一教会の信者たちは専門的な学科を卒業したとしても、二年間は必ず神学校を経なければならないのです。そうしなければ今後責任者にはしません。なぜならば職場は外的教会と同じです。内的教会とか外的教会とか、すべての道は、拍子や呼吸が合わなければなりません。 呼吸するとき、息を吸ったり吐いたりするのは相対的です。そうではありませんか? 息を吸うのは短く、息を吐くのは長い、ということはありません。すべて同じなのです。それと同じく、呼吸を合わせようとしたら、霊的なあらゆる知識的基盤が同じでなければならないのです。それでこそ呼吸が合うのです。それゆえ、どんなに職場にいたとしても、信仰的に解決した基盤の上に立たなければならないのであって、事業的基盤の上に立って信仰してはならないのです。信仰的基盤の上に立って、事業的な面を解決しなければならないのです。 そうなると、これからは協会が問題なのです。統一家庭が願うことは何ですか? 家庭が願うことは何ですか?「世界平和統一家庭連合」が願うことは何ですか?「世界平和統一国家」を願うのです。そうではないですか? 国家がありません。国家を完成すれば世界です。世界がなくなります。自分が世界になるのです。自分が世界平和統一家庭になりませんか?「代表的家庭」になって、「中心的家庭」になれば、すべてが完成するのです。それがなされていないので、橋を架けていかなければならないのです。 では、統一教会の旗と、世界平和統一家庭連合の旗はどうなるのでしょうか? 世界平和統一家庭連合は、現在使っている家庭連合の旗を使います。今まで統一教会が使ってきたマークは、国家を象徴しています。私たちには国がありませんが、それは国旗になるのです。 ですから、どんな大会であれ、必ず右側には過去に使っていた統一旗をさし、左側には家庭連合旗をさせばよいのです。家庭連合は、統一教会の国家を求めゆく道を行けばよいのです。それが成されていないので、右側の天を中心としていかなければならないのです。 これからはそれが問題です。そして、統一教会の教会組織はなくなります。なくなるというのは何かというと、組織はそのまま続けて、名前だけを変更するのです。国家に公告し、統一教会の名前を変更すればよいのです。 かといって、教会の原理の本が変わるわけではありません。教える原理の本はすべて同じです。家庭が定着しなければなりません。教会というのは個人の救いでした。今まで宗教というものは、個人の救いを目標としてきたのであって、家庭の救いを目標としてきたのではありません。誰もが皆出家をしました。家庭を捨てていったのです。時代が違うのです。 どんな宗教であろうと、個人の救いを目標にするのであって、家庭の救いや、氏族の救い、国家の救いという話はしません。統一教会は家庭を中心として、国家の救い、世界の救いを説いています。それゆえ、世界を再創造しなければならず、国を再創造しなければなりません。投入して再創造しなければならないのです。 分かりましたか? 過去の統一教会はなくなります。なくなるのですが、存在しなくなるのではなく、名義を変更するのです。ですから、名義を変更して新聞公告だけ出せば、何の差し障りもなく、宗教法人であろうと何であろうと、そのまま通過するのです。「世界平和家庭連合」ですが、名義を変更して、そこに「統一」という言葉を一つ入れればそのまま使うことができるのです。 統一教会を掲げていけば反対する人はたくさんいますが、「家庭」という言葉を入れたので反対する人はいません。マフィアも、やくざも反対できないのです。マフィアも家庭が問題ですし、やくざも家庭が問題なのです。「歓迎いたします」、「おもてなしをします」と言いながら、ついてくるようになるのです。こんなにもいい名前を使わずにはいられるでしょうか? 世界基督教統一時代は過ぎ去りました。世界統一の方が早いのであって、キリスト教の統一は一番最後です。それなのに、どうして「世界基督教」をつけて回るのですか? そして「神霊協会」ですが、神霊も必要ありません。神霊の実体になったのです。座って誰もが皆、神様と語り合える時代に入ったのです。祈祷をして神霊の役事を受けなくてもよいのです。良くないときは、すべて教えてくれるのです。心がそのようになるのです。次第に明るくなります。統一教会の原理だけ聞いて、そのみ旨の世界に方向さえ合わせれば、自然に聖化されて、天と通じるようになるのです。必ずそのようになっています。心が変わらずに、行く先さえ正していけば……。 飛んでいく矢はまっすぐに行くのであって、勝手に行ったり来たりしますか? 皆さんは放たれた矢のようなものです。ターゲットに的中しなければなりません。皆さんは、「世界統一国家」というターゲットに向かって飛んでいく矢のようなものです。途中でどこかに行って留まるということはあり得ません。 今や組織を編成すべき時が来ました。体制をもって生きなければならない時です。一人ではなりません。組織編成をしなければなりません。 神様の経綸を見てみると、アダム家庭に対する組織編成、イエス家庭に対する組織編成、再臨主家庭に対する組織編成、このような話が出てきます。 アダム家庭に対する組織編成は家庭形態ですが、それは世界の手本となる内容を備えた組織編成なのです。そのような内容を、イエス家庭を中心として国家的基準で実現しようとしたのです。そのような国家的編成の基準が立てば、アダム家庭の完成はもちろん世界的完成に至るまで、その標準基準となる組織編成がなされたのです。 しかし、それを果たせずしてイエス様が亡くなったので、その組織編成が、世界を中心として再臨主時代になされるのです。その再臨主は世界的分野です。世界完成をするには、アダム家庭の完成オーケー、イエス家庭の完成オーケー、滞りのない体制を整えて、家庭から世界に到るまで高速道路を通って走れる組織編成にならなければならないのです。 では、再臨主の家庭を中心とした組織編成はどのようになるのでしょうか? これは世界的です。天宙的です。それは天の事実を知らなければ分かりません。霊界を知らなければ分からないのです。霊界と一体化し、霊界と共に地上で組織編成をしなければならないのです。 第三次アダム時代の組織編成の完成は、第一次アダム時代の完成はもちろんのこと、第二次アダム時代の国家組織編成の完成、その次には世界まで拡大されます。その世界というのは、地上天国と天上天国になるので、一つにならなければならないのです。 霊界にいるすべての霊人の願いは、堕落していない本然の世界、理想的な第三次アダム以上の基準における組織編成です。人間世界も同じです。そのような組織を編成して、霊界と対等な立場で息を合わせなければなりません。 今後、統一教会を解体したとしても、霊界を通じてすべてを連絡できる組織編成がなされるということを知らなければなりません。アダム家庭的な組織体制でも、イエス様の国家的体制でもありません。世界的体制なのです。この世界的体制というのは、霊界とバランスが取れているのです。そこにすべての国家的体制も、家庭的体制も入るのです。ですから、自分の家庭体制を越えなければなりません。国家体制を越えなければなりません。家庭体制、国家体制を越えなくては、その世界に入っていくことができません。 今日集まったのは他でもありません。このようなことを教えてあげるために集めたのです。アダム家庭の体制、イエス家庭の体制、再臨主家庭の体制は、それぞれ異なるのです。イエス様はローマを越え、世界的段階を越えて、天を救うことができませんでした。統一教会は今やそのような立場を越えたのです。ですから、王権時代を叫んでいるのです。今回の三百六十万双の祝福さえ終われば、霊界祝福が行われるようになります。 このような驚くべき役事を前にして、この地上において歴史に一度しかない……、二度とない天地開闢が起こるのです。天上世界、霊界の門が開くこの役事を、地上の私たちがなせるということは、とてつもないことなのです。輝く歴史を私たちが……、転換時期に一度しかないこのような時代において、岩を押し除け高速道路を築くにあたり、その道を開拓できるということは……、食べられず、非難され、育ててくれる人の血を見ながらも、感謝し、賞賛に値することなのです。 ですから、今は三十三人を世界的に組織しなければなりません。国家団体に三十三人、州に三十三人、それらを中心として、六大機関に七百八十名をすべて編成せよというのです。それは郡でも可能であり、面(町)でも可能であり、班(字)でも可能です。そのような組織をつくらなければなりません。過去においては、上から下まで通じる系列、天の組織から地の組織まで通じる系列、班(字)まで通じる系列がありませんでした。段階がありませんでした。今ではそのような段階ができるのです。 今後、班(字)で形成され、里(村)で編成され、郡で編成されるのです。国でしなければならず、道(県)でしなければならず、郡でしなければならず、面(町)でしなければならず、里(村)でしなければならず、班(字)でしなければなりません。班(字)において七百八十名がいれば、三十三名を中心として比例数で広げていき、七百八十名を完結していく発展を図らなければならないのです。 三十三人を中心として、七百八十名を教育しなければなりません。公式です。ほかの人たちを伝道するなというのです。それに乗っていくのです。ほかの人を伝道してはならないのです。 そして、すべてに「女性連合」をつくらなければならず、「青年連合」をつくらなければならないのです。七百八十名になれば、その女性たちを中心として息子や娘、夫がいるので、「青年会」をつくることができ、「学生会」をつくることができ、「家庭連合」をつくることができるのです。これは見込みのない話でしょうか、不当な話ですか? 見込みがあるので、私がつくってあげたのです。ただなんとなくやっているのではありません。 調査委員(韓国の世界日報社の民間リポーター)も同じです。妻に祝福を受けさせ、その次は息子と娘を押し込み、その次はみんなで家庭連合に入らなければなりません。 ですから、女性連合と青年連合と学生連合が必要なのです。自分の妻を女性連合に入れなさいというのです。自分の長男がいれば青年連合に加入させ、学生がいれば学生連合に加入させ、それから祝福を受ければ家庭連合になるのです。金城鉄壁のような基盤が、順理的な環境において、その国の中心体制を築くことができるのです。 それさえつくっておけば、祝福を受けたので誰も奪っていくことができません。サタンも否定することができないのです。七百八十名に教育さえすれば、すべてが終わるのです。その次は、国が反対しようが、何をしようが、その息子と娘を中心として、親戚を中心として、遠い親戚、娘婿や嫁までを押し込んで、祝福を受けさせればいいのです。 カイン・アベル、長子圏を復帰した時代に入ったので、母親に従って、母親の命令に絶対服従し、長子の命令に絶対服従する時が来ました。一人でやれというのではありません。ですから調査委員として家庭にいる妻を抱き込み、長男と次男を抱き込んでこそ大きなことができるのです。そうでなければ水の泡として消えてしまうのです。 そして、今日ここに来た人々を中心としても同じです。学生であれば皆、母親を抱き込み、妹を抱き込み、兄を抱き込み、弟を抱き込まなければならないのです。原理的な推進方法、体制方法に従わなければならないのです。 こうして祝福を受けることによって、はじめて再臨主が自らの父の立場に立つようになり、天に属するようになるのです。祝福を受けなければなりません。ですから、祝福家庭が何をすると言いましたか?「世界平和統一家庭連合」になるのです。そこに神様が臨在し、神様が役事するのです。それを中心として役事するので、再創造の火がつき、ぐるぐると回転運動をすれば、環境が知らず知らずのうちに引っ張られてくるのです。周りにいる先祖たちが降りてきて、霊的に教えてくれるのです。霊的に一つになって運動をしなければなりません。 このように、この体制を中心として今後は、国で祝福したら郡で祝福し、郡で祝福したら面(町)で祝福し、面で祝福したら里(村)で祝福し、里で祝福したら統・班(字)で祝福するのです。そうすることで、祝福の恵沢圏が上から下まで、地にまで至り、霊界がその下についているので、霊界祝福時代に連結されるということを知らなければなりません。そうでなければなりません。地に着地しなければならないということを知らなければならないのです。 家庭連合というのは、着地するためのものです。地に着地することによって、新たに霊界が下についてくるのです。それを連結してこそ復帰することができるのです。 今までは愛し合う者同士が霊界に行っても、皆離ればなれになっていました。霊界に行けば、自分の度数に合った基準の霊界に入っていくのです。霊界に入ると、ビデオ・デッキのボタンのようなものがあります。それを押すと、自分がどのように生きてきたかがすべて現れるのです。すべて記録されているのです。そうして「この者は○○番!」という声がすると、その番号の所に自分を連れていく人が、既に来ているのです。そこへ行くのです。家族が十人いたとしても、心霊基準が皆異なるため、ばらばらになってしまうのです。会うことはできません。 これからは、それから解放されるのです。地上において、霊界に行っている愛する人たちを霊界祝福してあげられるのです。大母様も大兄様もそのように祝福してあげたのです。忠母様も祝福してあげました。 霊界にいる人たちを祝福してあげたのです。その門が開いたのです。それでこそ、地獄の解放が可能なのです。エデンの園の堕落していない本然の世界、天国に入る一方的な通行として天国編成を完成したと言える基準を、地上で分裂した個人や家庭をかき分けて世界的に編成するのです。それを一斉に組み合わせることによって、地上天国と天上天国の統一圏が展開し、神様が解放されるのです。(二八三‐一九、九七年四月八日)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.19
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第三十八回真の父母の日記念礼拝1997年4月7日水澤里中央修練院 ここに日本の食口が七百名余り集まりましたが、ヨーロッパの食口は何名集まりましたか? (ヨーロッパの食口はあまり集まれませんでした)。 日本の食口たち、皆、何か韓国語で通訳するのを皆、(耳に)挿しましたか? 日本のメンバー全部、手を挙げてみなさい。 今後、韓国と日本は一つの国にならなければなりません。もちろん、全世界が一つの国にならなければなりませんが…。平和の世界には二つがありません。神様のみ旨から見るときには、韓国と日本は一つの国にならなければなりません。 一つの国になるにおいては、いっぺんではなりません。皆さん、氷が凍るときも、氷点があって、一点から周囲に広がっていくように、一つの国から二つの国、二つの国から三つの国、四つの国さえできれば、四方に拡張されうるのです。このようなことを知るとき、私たちはみ旨の中でも民族を超越し、国境を超越し、人種を超越し、宗教、習慣、風習を超越した中で、一つの民族のために挺進しなければなりません。その民族の出発が家庭であり、家庭を中心として兄弟がおり、兄弟を中心として家庭のためには全部、男性と女性、兄さんと姉さん、このような関係があるので、そこから一つにならなければなりません。 まずは体と心が一つになって、その次には兄弟が一つになり、上下関係、天と地、父子の関係、それから左右関係、夫婦関係、前後関係が一つにならなければならないのです。絶対的な一つの家庭から、絶対的な一つの民族が現れることができ、絶対的な一つの民族から絶対的な一つの国家が現れうるのです。絶対的な一つの国家から絶対的な世界と絶対的な宇宙が現れるというのは、理論的なのです。 そのような意味で日本の食口たちがここに参席するのは、摂理史から見るとき、重要なのです。今年で言えば、これは三十八回ですが、周年で言えば三十七周年です。これが二〇〇〇年代まで三年残ったので、二〇〇〇年代まで私たちが世界に行かなければなりませんが、その間にすべき仕事がたくさんあります。 全世界の前に統一教会が平和の一つの世界、統一の一つの世界、摂理的な地上・天上世界、統一の世界に行くことのできる方向を提示するのです。方向を中心として全人類が同じ歩みで、個人の峠を越えるとか、家庭の峠を越えうる動機と源泉をつくるべきなのが、わが統一教会の使命です。 このような観点からそのような環境的要件が必要です。神様が天宙を創造するとき、環境を先につくりました。海をつくり、水と空気、大地をつくったのです。そのようにつくった環境の中は、必ず主体と対象の関係からなっています。これが再創造の公式路程になっています。 救援摂理は復帰歴史、復帰歴史、復帰摂理は再創造歴史、再創造歴史というものは公式的な過程、神様の原理原則的な過程を経ていきますが、公式的な過程の第一が何かというと、神様が環境を創造し…。その環境の中には必ず主体と対象があるのです。 それゆえ、鉱物世界にもプラス・イオンとマイナス・イオンがあり、植物世界には雄しべと雌しべ、動物世界はオスとメス、人間世界は男性と女性からなっています。主体と対象が相対的な理想圏が環境を吸収、消化し、発展するのです。このような公式的な路程になることでしょう。 それから、今日、私たちが摂理観点から見るとき、統一教会が世界的な平和を成さなければならないなら、環境をつくらなければなりません。環境はどんな環境でしょうか? 平面、水平環境をつくらなければなりません。水が水平になるのと同様に、山があるとか、川があるとかすれば、必ず川を越えなければならないし、山を越えなければなりません。それは水平と関係できないのです。ですから、摂理史的に見ると、全世界が一つの水平線に立たなければならないのです。 その水平基準が何かというと、男性と女性が対等でなければならず、体と心が対等でなければならず、少なくとも男性たる夫と、女性たる夫人は同等でなければならないのです。そのような父母を中心として父母が子供を産めば、父母が子供を中心として一つにならなければなりません。何を中心として一つにならなければならないのでしょうか? 変わらない本質を中心として、一つにならなければなりません。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。それは何かというと、真の愛だというのです。こうなります。 真の愛を中心として体と心が一つにならなければならず、体と心が一つになるそのような自体が夫婦にならなければならず、真なる夫婦が絶対的な基準で、真なる子女を中心として家庭の上下関係、左右関係、前後関係が完成するのです。一つの愛を中心とした家庭を中心として見ると、東側も完成であり、西側も完成であり、南側も完成であり、北側も完成であり、上側も完成であり、下側も完成になるのです。そのような家庭を成さなければならないのです。そのような家庭が千個、万個、数億入ることができるものが、世界として発展するからには、そうすることのできる環境与件をつくらなければ、復帰摂理の全体目的を完成することができません。 このように見たので、摂理史に責任をもった先生としては、この環境をどのように標準化させるかというのが問題でした。 ところで、統一教会が今まで出てくるにおいては、環境を標準化させうるその基準がありませんでした。いくら世の中が準備されたとしても、そこに主体的な立場で立つことができませんでした。そのようなことを消化しなければならないのです。それゆえ、個人から問題になり、これを拡張させて氏族編成、民族編成して世界環境をつくり、家庭を成すことのできる環境圏内で祝福の道を開拓してきたのが今までの統一教会においての合同結婚式です。 一番初めに三家庭です。三家庭、三人の息子・娘を中心として三十六家庭から今まで三百六十万双まで、十二の峠越えます。アリラン峠が十二の峠だという話があるでしょう。それが皆、摂理的な意味があります。春夏秋冬、四季を中心とした十二月を越えてはじめて新年を迎えるのと同じように、天地のすべての堕落した誤ったものを、再び立て直すためには、そのような無数の峠を越えて、平準化させなければならないと、このように見ます。 平準化するのに、何から平準化しなければならないというと、いくら低いところから平準化されたとしても、高いところが平準化されないのです。ですから、高いところからこれを平準化しうる環境をつくるのです。そうしてみると、先生が今まで摂理路程において、逆説的な路程を行ってみると、相反が起こるのです。この世ではこのように上がっていくのに、上から下っていくのです。それゆえ、相反的なすべての限界線を越え、水平化しうる歴史的な路程を開拓しようとするので、アダム家庭が失った長子権復帰、父母権復帰、王権復帰という内容を中心として小さい家庭ですが…。(黒板に書かれながらお話しされる) 長子権、父母権、王権、ここ、これは家庭ですが、これを中心として八段階だというのです。家庭、氏族、民族、国家、世界…。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ六つ、七つ、八つ。これ、この家庭のようなものを、復帰路程では一家庭だけ処理してはだめなのです。一家庭を中心として氏族的過程を経て、民族的過程を経て、国家、世界、天宙、神様まで連結されるのです。 そうなれば、長子権家庭一つが成されれば、家庭で終わるのではありません。氏族的家庭復帰基準、父母権復帰基準、王権復帰形態を成していくのに、サタン世界が、行くその道に反対するのを押しのけ、消化するのです。 こうして、一九九二年四月十日までに、お母様を中心として世界平和女性連合を創建しましたが、お母様がお父様と同等な立場に立つためには、エバが堕落して落ちた八段階の過程を越えなければなりません。越えてきて、ただそのままお母様の立場で先生と対等な立場には立てないのです。これを全部、蕩減復帰しなければなりません。外的な世界と内的世界が本然のアダム家庭で創造理想の真なる愛を中心として、夫婦が平均的な基準に立たなければならないのです。これは世界的です。この八段階全部がこのような原則に一致しなければならないのです。全部が代表だというのです。 これなので、アダム家庭のアダムとエバ二人を見るなら、体と心を中心として四つの分野が一つになって、水平線にならなければなりません。 私たち個人では体と心が一つにならなければならないのは、絶対的だというのです。体と心が一つにならない人は、真の愛を中心として対することができないというのです。なぜ、そうでしょうか? 創造原則がそうです。環境圏内には必ず絶対的な主体と対象が一つにならなければなりません。何を中心として? 愛を中心として。このようになるのです。 ですから、男性なら男性としての個人的立場で、真の愛を中心として体と心が一つにならなければなりません。女性なら女性が体と心が一つにならなければなりません。体と心が一つにならなくては、結婚できないのが創造原則だというのです。 このように見るとき、ここに来た人のうち、祝福を受けた人、手を挙げてみなさい。大多数が祝福を受けたのですね。では、体と心が一つになる中で、自分の体と心が一つになり、自分の愛する相対が体と心が一つになった基準で、真の愛を中心として一つになった立場で祝福を受けたのでしょうか? 皆さん、自分たちが祝福を受けましたが、体と心の闘いは相変わらず続くのです。これはどうしてかというのです。霊的な真の愛と因縁づけられていないからです。この根が連結されていないからです。皆さん、そうではないですか? 聖霊を受けなければ救われないという話があるのです。 お母さんとお父さんが、体と心が一つになった愛を通しておなかの中に入って生まれる人間にならなければならないのです。このような観点から見るとき、堕落した父母によって体と心に相反が生じたお母さんとお父さんによって、愛を中心として結ばれ、妊娠したその赤ん坊たちも、お母さんとお父さんのように体と心が分立した立場に立つので、天国とは縁がないのです。 堕落したすべての後孫たちは、神様の愛と関係なく追い出された先祖の後孫です。追い出された先祖の後孫は体と心が闘い、夫婦同士争い、父子の間で争うのです。闘争の概念がその家庭に残っているというのです。これを完全に整理すべきなのが祝福された家庭です。祝福された家庭が一番初めにすべき整備作業だということを知らなければならないのです。お分かりですか、何の話か? (はい)。 アダムとエバの体と心が分かれたその日から今まで、歴史は数千万年です。聖書で言えば、六〇〇〇年ですが、数千万年の歴史を経てきました。創世以後に数千万年経てきながら神様が願われたのが何かというと、男性と女性が体と心が一つになって、堕落せず、本然の神様の絶対的な心情と一つになった息子・娘一つになった息子の体と心が絶対的に一つになった息子、体と心が絶対的に一つになった娘二人が絶対的な愛の対象になるのです。神様が主体なら、対象の立場で完全に一つになりうる愛のパートナーとして立たなければならないのです。ここで生まれた息子・娘を愛するべきなのが本然の基準です。これをいつも念頭に置かなければなりません。これがあの世に行っても、皆さんの修養の道として残っているのです。ご父母様がおり、天といくら近くに行きたくとも、そのような環境的な与件が創造本然の形態と一致せずには、そこに和合することができないのです。水平なのです。別です、変わるのです。水平になるようになれば、同じ風が吹くようになれば、同じ波動で全体の環境に、池なら池、海なら海に波打つ可能性がありますが、分かれれば、次元が変わるのです。このような原則です。 何だかんだいっても、私たち人間において一番切迫した課題が何かというと、皆さん、この地上でよく食べ、豊かに暮らすことではありません。一番重要なのが何かというと、体と心を、絶対的な神様の愛の前に一つにすることです。神様の前に自分の体と心が一つになれば、水平線に上がりうるのです。 幼い赤ん坊たちがお母さんに対しても、お父さんに対するのと同じです。赤ん坊たちがお母さんの懐に抱かれ、お母さんの胸をかき分けてお乳を吸うとしても、お母さんが歓迎することができ、赤ん坊もそれを日課と考えるのです。赤ん坊たちがいつもお母さんの体と心と一体化しうる自然的環境をもつのと同様に、皆さんが霊界に行って、神様が父母なら父母を中心として、同じ心情的基準にならなければならないのです。皆さん自体が神様の愛の懐に入って、自由に相反なくお乳を吸い、その懐で喜びの相対者になるかという問題を、いつも考えなければならないのです。そのように一度も育ってみることができませんでした。お分かりですか? (はい)。 そのような観点から真の父母とは何でしょうか? 真の父母が願うのは何でしょうか? 今日、この地上にこのようにアダム家庭に定着できない男性と女性の闘争、夫婦の闘争、一族の闘争…。闘争歴史だというのです。一族が争い、それから国家が全部、怨讐です。韓国の人たちはどこに行っても皆、けんかをすることで、とても有名な連中です。それはサタン側近くにいるからそうだということをお分かりになり、皆さんが歴史を代表してこのことを清算すべき先頭的な総責任者にならなければなりません。それがだれかというと、統一教会の食口です。 さあ、そうなれば、それが理解できなければ、皆さん、見てみなさい。五官がありますが、五官が、五官のために生まれたのかというのです。そうなれば、目が目のために生まれましたか? 目が目を見るために生まれたのかというのです。何を見るために生まれましたか? 相対を見るために生まれたのです。鼻は鼻のにおいをかぐためのものではありません。手は手を触るためのものではありません。耳は耳の音を聞くために生まれたのではありません。口が自分の口のために話すのではありません。同じように、全部、相対のためです。このようになっています。相対のために。 そこには、根本から自分がありません。相対のためにすべてのものが発生する。このように見るのです。そのような五官をもった男性と女性を見れば、女性はだれのために生まれましたか? すでに女性という言葉を、女性という言葉を語る前に、男性を認定して語る言葉です。男性を認定せずに女性という言葉はありえますか? 女性という言葉はすでに男性を先有条件として認定して言う言葉です。それゆえ、女性がいる前に男性がいました。男性という言葉は男性一人をおいて男性という言葉を語ることができないというのです。女性が先にいることを先有条件として言う言葉だというのです。それゆえ、男性が生まれたのは、女性のために。このようになるのです。女性が生まれたのは、男性のために。そのような関係になっています。これは否定できません。 私たちのすべての五官は自分のために生まれたものは一つもありません。では、このように見るとき、目も二つです。目も二つですが、一つの目は上に上がり、一つの目は下に下がろうとしますか? 上がるとき、いっしょに上がり、回っても、いっしょに回るのです。鼻もそうです。一方の鼻は気分よく息をするのに、一方の鼻は塞がってはだめなのです。同じです。全部、同じです。耳もそうです。全部、聞く場合は、同じ波動を中心として、いっしょに共鳴する立場でよく聞こえるというのです。聞くとき、同じ音波を出せるようになり、言葉もそうであり、言葉も唇が少しだけ、二ミリメートルだけ違っても、人の声が変わります。 すべてのものが、主体・対象関係が一致するところであらゆる調和を成すのです。どんな調和? 円満な調和、水平的、水平を描き、垂直を描くのに、差がない円満なサインカーブ中心として、波動を成していくのです。 このように見ると、全部が主体・対象関係を協力させ、連合させ、理想的に動く五官をおいてみるとき、私たちの体と心がどのように相反が起こるのでしょうか? 体と心がなぜ相反が起こるのでしょうか? これが問題です。 細胞なら細胞、あらゆる環境は必ず主体・対象関係からなっていますが、人間という自分の人格自体をおいてみると、主体・対象が、なぜ相反が起こるのかというのです。このように見ると、構造的立場で人間が誤ったというのです。体とか心だとかある一面が誤ったというのです。ところで、心は誤りえません。心はいつも善を追求します。いくら酒をよく飲み、酒に酔って喜んでも、家に帰ってくれば何かもの悲しさを感じます。気がかりが前を遮っているというのです。それは一つになっていないからそうだというのです。 それゆえ、体と心の一致をどのように成すかというのが一番問題になります。先生が霊界の体験をしてみると、一番苦衷的なことのが、霊的恩恵があれば必ずサタンの役事があります。一度だけでなく、三度あります。これをどのように統一させるかという問題になるのです。その根源を掘り下げてみると、エバが堕落の動機になって、エバが失敗したのは、エバがこの地上に来て、女性として男性三人をやりこめたというのです。 アダムをやりこめ、それからイエス様をやりこめ、来られる再臨主までなのです。新婦たるキリスト教が文総裁を追放してしまいました。死ぬ死の場に追い出したのです。三数というものはサタン世界で、蘇生、長成、完成の三数過程がかかっているので、それを越えていくためには、必ずサタン世界から試験をします。必ずこの過程を経なければならないのです。ですから、三大過程になっているのです。一、二、三、全部三数になるのです。 それから、体と心を中心として体と心が、三数基準が何かというと、一つになることです。それが何かというと、愛というものなのです。分かりましたか? あなたたちが愛を中心として、体と心が一つになっていないのです。結婚して、最初に出会って、互いに尋ねるのです。とりわけ女性たちが尋ねるでしょう。あなたは体と心が一つになって私を愛するのかというのです。 一つの心をもって愛するのかと尋ねるのです。そうすれば、そうだと言うでしょう。そうだと答えたその夫が、体と心が一つになった立場で答える人は一人もいないというのです。うそに抱かれて暮らすというのです。なぜでしょうか? うそから堕落したので、うその歴史を否定させることはできないというのです。このような根本問題に帰ります。 では、きょうが何の日ですって? (真の父母の日)。真の父母の日。何回ですって? (三十八回)。三十八回になり、周期では三十七周年です。今から三年だけたてば、二〇〇〇年になるのです。私たち統一教会において二〇〇〇年までに全世界の万民たちが祝福の恵沢を受け、平面水準に立たなければならないというのです。山があってはだめだというのです。これをしなければなりません。霊界と肉界があるなら、これが水平にならなければなりません。これが一つにならなければならないのです。そうするためには、心と体が一つにならなければならないのです。(板書されながらお話しされる)。これが一つにならなかったのです。それが堕落だというのです。それが、何に何を中心として一つになるのでしょうか? 何でもありません。お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。世の中の人たちは、今、お金のために生きているでしょう。お金、お金、お金を中心として生きているのです。知識でもありません。権力でもありません。権力も必要で、皆、必要だと考えますが、お金を第一に考えます。しかし、お金はこれは何でもありません。 神様が創造を始めるとき、何を先につくったかというと、知識を先につくりはしませんでした。物質もつくりました。物質をつくったのです。これが物質のうち核になりうるのが宝石だとか、宝物になりました。金は貴いと言いますが。その金は宝も変わらないのです。変わるものは宝になれないのです。 知識も変わらないものでなければなりません。世の中の知識は変わります。変わらない真理。これが何かというと、天の真理です。それから、「愛」というと、真なる愛がどこにあるのでしょうか? 変わらない愛がです。そのようになるのです。変わるものは真になりえません。 権力もそうです。善王だとか、善なる人だとか、善なる行政部署だとか、善なる国というものも変わるものではありません。千年万年歴史を過ごしても、その歴史が克服した歴史を中心として、過去において未来を歓迎し、未来に過去を歓迎することができ、現在が過去、未来を歓迎できるあらゆる変わらない歓迎の場を迎えなければならないのです。全部がそうです。 では、神様が願うものが何でしょうか? 物質でもなく、知識でもなく、権力でもありません。変わらない権力、変わらない知識、変わらない物質ではありません。では、何でしょうか? 神様はそれを全部つくることができます。創造主なので、つくることができ、全知全能なので皆知っています。全知全能であられるお方です。皆、もっています。何だけができずにいるかというと、愛です。神様も愛の対象が必要です。愛の対象。 それで、愛の対象を創造するためのその初めの目的の標語が何かというと、真の父母だというのです。真の父母、真の父母。それを知らなければなりません。創造するようになったあらゆる始まりの根本も真の父母なのです。考えが真の父母から始まり、実体的な真の父母に侍り、真の父母による真の愛を中心とした家庭的着地を願いました。 家庭から神様の所願成就できることを計画したので、真の父母を願ったのです。真の父母の考えから真の父母を創造したし、真の父母の愛とともに一致しうることを願って、蘇生、長成過程を経て、成熟し、アダムとエバの結婚式が神様自身の結婚式として、人間と神様の愛が定着できる一つの焦点を合わせなければならないというのです。そうせずに出発した愛の起源が二つなら、方向も二つであり、目的も二つなので、それはありえないというのです。神様の絶対的な理想と人間の絶対的愛の理想が統一されえないというのです。このように見るとき、愛を中心としてわき出たというのです。お分かりですか? 見なさい。世の中を見れば、なぜオスとメスのコンセプトが先でしょうか? 全部、そうです。鉱物世界を見ても、プラスイオン、マイナスイオンの主体・対象関係であり、植物も雄しべ・雌しべの関係であり、動物もオス・メス、人間も男と女です。それ、概念の中心が何かというと、一つになりうる中心が何かというと、愛なのです。 この二つの鼻が一つになって、中心になるのです、中心。中心を中心として回るようになっているのです。それが何かというと、愛です。家庭を中心として見れば、父子関係、夫婦関係、子女関係はこの一点です。中央線です、中央。これを中心として全部、イコールです。これもイコール、全部、イコールです。長さも同じであり、角度も皆同じです。定着できる上下関係が全部、自分勝手にはなっていません。一点しかないのです。中央なのです。一点しかありません。左右も一点しかありません。前後も一点しかありません。この三つが一つになりうるその場に立ってこそ、全部、上下関係も完成し、前後関係も完成し、左右関係も完成するというのです。それが何かというと、愛しかないというのです。分かりましたか? どんな愛? (真の愛)。どんな真の愛? 神様的真の愛。人間的真の愛ではありません。「ああ、私があなたを真実に愛する」というときには、真実に愛するのではありません。真の愛は神様から始まるのです。(黒板に書かれながら) このように区分になるのです。ここ一点、ここ一点が皆同じです。これ、角度も皆同じです。十二角度どこでも割ってどこにもっていって付けても、皆合うのです。合わないのがないのです。大きいの小さいのも全く同じです。統一です。それゆえ、人は四位基台理想をもたなければならないのです。上下関係、左右関係、前後関係。上下は父子の関係、左右は夫婦関係、前後関係は兄弟。これらは一つの家で育つのです。そうでしょう。そうですか、違いますか? (そうです)。 一つの家で育つのです。一つの家で大きくなるまで暮らすのです。一つの家で結婚し、世の中に出ていくようになっているのであって、中間に世の中に出ていくようにはなっていません。これを私たち統一教会では三代を言うのです。四位基台。このようになれば何人ですか? 四位基台が何人になりますか? このようになるので、このようにして、このようになり、これが四位基台、三対象目的です。(黒板に書かれたものを説明なさる)ここは十二数が出てきます。三×四=十二。四季が現れ、三数が現れ、天地の基本数になります。家庭の基本数になるのです。 それゆえ、真の父母という言葉は、創造前から、考えの中にあったし、つくるときから目的がそれであり、つくってその方たちを通して神様が完成しようというのです。神様の愛の理想を成そうというのです。お分かりですか? (はい)。 神様は絶対者なので、絶対的な愛の相対は二人ではありえません。一人です。一つになるところに愛というものがありますが、愛の中には必ずプラス型、マイナス型があります。愛として神様も主体的プラス型、マイナス型があります。これが霊的です。この神様が主体になっています。これが対象です。プラス・マイナス一つになるのです。大きく見れば、プラス・マイナス一つ、プラス・マイナス一つ。(板書されながら説明なさる) 必ず、環境には主体と対象がなければなりません。お分かりですか? では、家庭ではだれが主体かといえば、男性です。それを知らなければなりません。女性は何かといえば、相対です。主体がとどまる所は中央なので、一点しかありません。これが移動できません。これが移動する日にはこの環境与件に定着できないのです。どんどん移動するようになれば、本然の財産がなくなっていくようになるというのです。 自分のものを決定づけ、永遠の所有権を拡大させることはできません。神様の中心を中心として拡大することによって、拡大した全部が所有権に連結されて入っていくのです。分かりましたか? 中央は一点しかなく、相対は三六〇度があるというのです。ですから、女性は変わりやすいのです。三六〇。男性は中央なので、変わってはならないというのです。それゆえ、変わるものは主体ではありません。変わらないものが主体だというのです。そうでしょう? それゆえ、男性には全部、精子があるのです。赤ん坊の種。神様から赤ん坊の種が来るのです。女性は卵子しかありません。入れ物しかないのです。女性が主体だと考えるのは、それは間違った思想です。西欧社会は娘を産んでこそ、父母が喜ぶという話があるではないですか。女性は凹ですか、凸ですか? (凹です)。受けなければなりません。水が落ちるときは、先の尖ったところを探して落ちるでしょう。水が落ちようとすると、そうでしょう。凸の道を探して落ちます。このような尖ったところから水が落ちるというのです。 それゆえ、そのように考えます。男性の凸は本来、そのように生じたのです。与えなければならないのです。そして、女性は受けなければならないというのです。ですから、愛を成すためには、男性と女性が一つにならなければなりません。三名が一つにならなければならないのです。皆さんの体と心が一つになり、霊が一つにならなければなりません。そうして、全部、結婚をしなければならないのが、神様の創造理想なのです。そのようになった人がいないのです。 それゆえ、アダムとエバが堕落する前に赤ん坊をもちませんでした。堕落して追い出されて、神様の関係のない場所、エデンの園から追い出されて子女を抱えたのです。それゆえ、人類は神様と関係なく追い出された血統を受け継いだ息子・娘だということを、否定することはできないというのです。 さあ、このような立場にあるので、本然の神様の創造理想と堕落した今日の私たちの立場が千尋万尋の距離があるのです。これを知らなければなりません。千里万里の遠征の道を越えなければならないのです。永遠をおいて、これをどのように度数を合わせるのかというのが問題です。それがそのような内容を失ったものを復帰するために、ご父母様が来てすべきことが何かというと、体と心が一つになることを教えてあげなければなりません。堕落が何かというと、体と心が成長して長成期完成級で、これがどういう関係を結んだでしょうか? 愛という関係を結びました、愛。 愛というものは神様から来るのです。最初の愛が神様の愛ですが、プラスの立場になるべき愛だというのです。これがサタンが(愛の)器官を通して占領して、愛のまた別のプラスになったというのです。心と体が一つになる前に、成長して成熟して帰るべきなのに、そうできませんでした。天地が連なって帰り、東西が連なって帰り、南北が連なって帰るべきなのに、完成しないときに、長成過程で堕落しました。堕落したのが何かというと、サタンによって愛の因縁を結んだというのです。その体がサタン的愛の関係をもつことによって良心的力より強くなりました。これが問題なのです。良心的力よりも体が強い立場に立ったので、問題が起こるのです。体が偽のプラスになり、本来のプラスを引っ張っていくのです。 ですから、結局、終わりの日にはあらゆる人類は良心を否定し、「良心がどこにあるか」というのです。神様を皆、否定し、体全権時代に向かうのです。そうして、体全権時代に向かい、それが定着するのではありません。堕落するとき、破壊させる根源になっているので、完全に肉体破壊、終末世界を迎えるのです。それがフリーセックスであり、ホモです。ホモ、レズビアン。 こうして、偽の相対を中心とした世界をつくってみようというのです。それが違うのです。情欲というものは人間が主管できません。何の話か分かりますか? それで、道人たちもうっかり誤れば、「十年の勉強、南無阿弥陀仏(長い間の努力が一朝にして水泡に帰すこと)」だというのは、全部、男女関係によってです。それは神様の前に接することのできる本性なので、私たち堕落した人間がコントロールをすることができないというのです。それを修養して、何度も誓っても難しいのです。それ(生殖器)が縮まって対応することのできない存在になれば、それを越えることができますが、自然的な環境では越えられないというのです。 それゆえ、男性は女性、女性は男性を永遠に注意しなければならないというのです。そうですか? 情欲を人間は主管できません。なぜでしょうか? これは神様の所有権です。神様が根です。神様に属しているというのです。これを主管するためには、これを全部防備するためには、父子の関係が一つになれというのです。お父さんの話をよく聞け。もう一つは、女性は夫の話をよく聞け。それから兄さんと弟がいれば、兄さんの話をよく聞けというのです。お母さんとお父さんの話をよく聞き、兄さんの話をよく聞いてこそ避けていくことができるのであって、一人で勝手にしてはその道を行くことができないというのです。 男女七歳で何ですって? 何の席ですって? 席を同じゅうせずという言葉は合っているというのです。情欲は人間の力でコントロールできないというのです。 このような何かがあるので、それをいつも水平化させ、高くなるものを低くし、平準化させ、相対的に消化させるのが夫婦の愛です。人はそのような最高の愛の体恤をすることのできる人間なので、季節を超越できる愛を神様がくれました。動物は一年に一度、繁殖するために愛の関係を結びますが、人間は季節を超越します、春夏秋冬、青春、四季を全部超越するのです。そうですか、違いますか? (そうです)。 ですから、神様に侍って暮らすべきはずが、神様を除外して暮らすので、完全に地獄的家庭になったのが堕落した世界です。これは是正しなければなりません。ですから、先生が一番難しかったのが宇宙主管を願う前に自我主管を完成せよという標語です。 一番恐ろしい地獄の落とし穴が自分にあります。ほかのところにはありません。心を中心として、心の世界に従わなければならないのです。心の前に絶対服従すべき体として導くのはとても難しいです。それゆえ、宇宙主管を願う前に自我主管を完成せよというのが外的問題ではありません。自分に地獄の穴があり、天国の起源が良心に伴ってありますが、良心世界でまだ愛というものを体験したことがありません。堕落した体は愛を感じたので、この愛の力が堕落しない本性の心より強いというのです。 それゆえ、修養を経なくては、体の人になるのです。それを教えるところが宗教です。宗教は何をするのですか? 体を弱めることをします。サタンは偽の愛を中心として神様の息子・娘と所有はもちろん、神様の立場まで奪い取り、自分が主人の役を演じているのです。その全権基盤を譲歩しようとはしません。それゆえ、宗教が現れ、このことを屈服させるのです。ですから、宗教世界では必ず温柔謙遜であれというのです。サタンは驕慢なのです。私に仕えよというのです。驕慢な人は皆、サタンのいとこたちだということを知らなければなりません。分かりましたか? ソウル大学だとか、何大学に入ったなら、驕慢になるのです。ソウル大学が悪魔の一番の落とし穴だというのです。そこに行って謙遜ならいいのですが、驕慢になるときには、その落とし穴に引っかかっていくのです。自分を誇る人はだれも好みません。また驕慢な人をだれも好みません。それゆえ、天は反対です。温柔謙遜であれ、へりくだれ、へりくだれというのです。それゆえ、サタンがここから分かれるのです。サタンが天使長級以上に上がって、人を占領し、活動しましたが、それ以下に下がるときは、分立されるのです。それを除去させるためのものが宗教です。宗教は「温柔謙遜であれ!」それから何ですか? 「犠牲奉仕せよ!」というのです。サタンは犠牲奉仕しません。強制で打ち、全部、ありとあらゆることをするのです。暴力を通して、自慢的な行動と幸福を慕い、肉体的なあらゆる環境的な幸福の王となり、主人になろうと、騒ぐのです。ちょうどサタンのようになるというのです。 それゆえ、宗教者たちは温柔謙遜であり、犠牲奉仕せよというのです。奉仕を好む人がどこにいますか? それはなぜそうでしょうか? それだけではありません。後には祭物になり、殉教せよ、血を流せというのです。血を流せというのです。これが何かというと、体を弱めようというのです。体を堕落する前以上にして、これを押さえれば、これは上がるのです。分かりましたか? 体を打てば、上がるので、堕落せずに完成し、本然の心情、着地できる基準を越えるのです。郭錠煥が火を受けたように、そのようになります。そうなれば、すでに分かります。ほかのところには行けないのです。力比べをするのです。反対作用をして体がしようというものを除去できるのです。 それゆえ、聖霊を受けられなければ、救われないという言葉が、そこから生まれたのです。エバがお母さんですが、堕落してお母さんの愛を受けられなかったので、聖霊は母なる神として、母なる神を中心として神様の愛を誘発しせ、神様と一体になりうる基盤にならなくては、霊的生命の復活ができないと見るのです。何の話か分かりましたか? (はい)。 問題は何かというと、体を支配しなければなりません。数十年、道を修め、数十年修養をしたとしても、その原則を知りません。私たちは理論的に知っています。長成期完成級で堕落したので、完成級が残っています。間接主管圏で堕落したので、直接主管圏に至らなければならないのです。そうしてこそ、神様が共にありうるのです。それは絶対的です。 堕落が何かというと、絶対信仰をもてませんでした。これを知らなければなりません。堕落が何ですって? (絶対信仰をもたなかったことです)。絶対信仰、絶対愛、絶対服従。これを神様が強調したのです。なぜでしょうか? 自分の愛の理想を全部、相続してあげようとするので、神様のようでなければならないのです。そうではないですか? 自分の水平的な愛も自分より優れた相対を願うでしょう? 皆さん、愚かな男性でも、優れた女性でも、愚かな女性でも、同じように、優れているにせよ、愚かであるにせよ、自分よりも立派な相対を願うのは、愛が望む原則です。天地創造伝統がそのようになっているからです。神様も自分よりも優れた相対を願いません。(願います)。何ですか? (願います)。願いません。(願います)。見ましたか? (笑い)見ることはできませんでしたが、話を聞いてみると、そうであらざるをえないので、そのように答えるのです。そうなのです。すべてのものがそうです。 考えてみなさい。動物世界を見ても、そうです。シカが子を産もうとすると、近くのオスのシカたちがいるのです。オスがメスを率いているのです。シカ一匹が五十二匹まで率いることができるのです。私がシカ牧場をしているからよく分かるのです。分かりましたか? それゆえ、春になれば、種をうまくもらわなければならないので、優秀な種をもらおうとするのです。それを動物も知っています。神様がそのようにつくりました。近くのオスたちを互いに会わせるのです。メスたちが駆り立てていきます。境界線をメスたちが越えていくので、後でオスたちが出会って格闘するのです。その二匹が格闘するようになれば、左右の側でメスたちがながめています。それを一度見物するといいでしょう? そうして、角が大きいシカが力を誇示するのです。人々が出てきて力を誇示するそのようなものは何でもないのです。こうして、示威をし、角で争いはじめると、後には一匹が疲れて後退するようになれば、容赦せずに押し出すのです。一度屈服すれば、頭を下げなければならないのを知っています。「今だ!」と、チャンスを逃さず、渾身の力を込めて押すのです。そうすると、逃げはじめるのです。シカはそのように逃げはしませんが、豪州に行けば何がいましたっけ? カンガルー。カンガルーがいますが、ボクシングのようなことをして、一匹が負けて逃げ出せば、死ぬまでついていってたたきつけるのです。やあ! 私はそれを見て驚きました。そのような精神が人間世界の男性にもあるのかしれません。皆さんよりは優れています。そうして、勝ったシカの前に数十匹のメスたちが全部、ついていくのです。そうなれば、負けたオスは逃げなければならないのです。そうして、優秀な種を求めます。 人もそのようにするなら、どうなるでしょうか? (笑い)人は万物の霊長です。万物の霊長なので、そうすることはできないのです。神様の息子・娘なので、対等な立場に立ったので、共同的な愛の理想的な環境を許容せざるをえないのです。それゆえ、愛が貴いということを知らなければなりません。 動物は一年に一度子を産むために、オスとメスがつがいになることはありますが、人は子を産むためなのではありません。愛し合うためです。それ、いつも、愛し合えば子が生まれますか? (笑い) 最近、だれかに「あんた、最初、嫁をもらって一日に何回までやった?」と言うと、六回までした記録がありました。動物世界から見ると、独裁者だとも言えますが、人間はそのような特権までもっているのです。それが神様の愛を楽しめるように、子女たる人間に愛を相続させてあげるためのものだったのです。ですから、戒めを与えたのです。 戒めを与えざるをえないのです。考えてみなさい。エデンの園で神様の男性であり、アダムも男性であり、三人の天使長も男性なのです。ところが、将来に美人になるエバは何人ですか? (一人です)。一人なので、何を警告したでしょうか? 善悪知る木の実を取って食べるなと言いました。善悪知る木の実が何かというと、女性のそれを言うのです。分かるでしょう? (はい)。みっともないもの。(笑い)なぜ笑いますか? (見かけがいいものです)。そうですか? 今までそれをみっともないと考えたではないですか。それです。善なる男性とすれば善なる実を結び、悪なる男性とすればマフィアの母になるのです。それを言うのです。善悪知るの木はそれを言うのです。 文総裁が出てきて露骨的に扱いますが、露骨的にするしかないことを知ったので、世界に宣布したのです。私が事実でないことを宣布したなら、くずになって反対に逃げ出さなければならないということを知るのです。私は反対に逃げ出しはしなかったのです。間違いのない事実なので、強く押せば、自分たちが押されるようになっているのであって、私は押されないのです。それゆえ、そのような自信をもって今まで世界の人に対してきたのです。 今回もそうではないですか。「マリヤがどうこう?」と言うのですが、マリヤがどのような人たちでしょうか? 売女になるではないですか。妾になるではないですか。イエスは種もない家で生まれた私生児です。妾の子として生まれたのです。ですから、人としての待遇を受けられないのです。庶子扱いをするのです。昔、両班の家の人たちが庶子を人として見ましたか? 通りすがりの両班たちが庶子を殴り殺しても、文句も言えない悲惨な人たちなのです。そのような話をしても、根を完全に抜いて、反対に挿しても何も言えないのです。既成教会で優れているという人たちの前でも、お母様が何十か国を巡回しながら宣布しても、一人も反対する人がいないのです。反対をしたくなくて反対をしなかったのではありません。反対をしたくても、する道理がありません。口を開けて話すことができません。自分たちの話は理論的に合う話ではないからなのです。どうすることもできずに、聞くのです。ローマ教皇庁もそうだし、新教総会長でも大声を出したら、もっと言われ、人類は全部、統一教会の側になることを知っているので、口を閉じてじっとしているのです。分かりましたか? イエスが結婚しなければならないと言いましたか、行かないようにしなければならないと言いましたか? (結婚しなければなりません)。だれと結婚しなければならないですって? (洗礼ヨハネの妹です)。腹違いの妹と結婚しなければならないというから、そのようなゲスがどこにいますか? 無礼なやつなのです。 そのように話しても微動だにできずに統一教会の文総裁に全部、既成教会がついてくるようになっているのです。今、祝福を受けろというので、既成教会の牧師たちも受け、長老たちも受けており、長老が反対すれば執事が隠れて受けており、執事が反対すれば息子が来て祝福を受けうる環境になったので、その一族(キリスト教)がうまく行きましたか、うまく行きませんでしたか? 滅びるようになっていますか、栄えるようになっていますか? そのようにした統一教会が罰を受けて滅びるようになっていますか、栄えるようになっていますか? (栄えます)。罰を受けるなら、滅びなければなりません。 罰を与える神様が主人なのに、神様が喜ぶので、問題が大きくなったというのです。問題が大きくなったというのは、よく大きくなったというのですか、悪く大きくなったというのですか? (よく大きくなりました)。よく大きくなったということを知っているので、賢い文総裁がこのことをするのです。文総裁が滅びると思ったのに、生きて世界を完全に腰にぶら下げて行くことのできる時代になったのです。自由、平等、解放時代を迎えることのできるチャンピオンになった。アーメンです。(アーメン)。(拍手) さあ、見なさい。これが凸であり、これが凹です。このような話をするので、私が悪口を言われるはめになりました。壇上で数千名集めておいて、凹凸の話を一日に何度もするので、そいつは遊び人でしょう。(笑い)遊び人と言ってもいいです。本来、あなたたち男性と女性たちは全部、遊び人ではないですか? 違いますか? 愛を皆、好むでしょう。(はい)。それは遊び人です。家に行って、自分の妻に風ではなく、雷を落としながら、一日に百回しても、裸になって踊っても、だれが文句を言いますか? 二人が座って一カ所にうんちをしても好きでするのだから、だれが文句を言いますか? 遊び人の王になろうとするので、遊び人の話をせざるをえません。悪い意味ではないのです。甘い愛がいいですか、甘いの反対の愛がいいですか? (甘い愛がいいです)。甘い愛が嫌いな人、手を挙げてみなさい。そいつは殴り殺しなさい。(笑い)甘い愛が好きな人、手を挙げろと言えば、手を挙げるなといっても、手を挙げたく思うのです。そうでしょう? ここのおとなしいおばさんも愛を好むでしょう? 愛を一人で見いだすことができますか? だれにくっつかなければなりませんか。男性にくっつかなければならないのです。横にいる人が夫ですか? 新郎は自分よりきれいな花嫁をもらいましたね。それ、祝福を受けてそのように結ばれましたか、自分たちが恋愛結婚をしましたか? 先生がカップルを組んであげましたか、昔、泥棒のような男性の誘い込みを受けて結婚しましたか? 昔から統一教会に入って未婚の男女として祝福を受けましたか? (はい)。そうでしたか? 私が少しやり損ねたようですね。(笑い)男性より女性が優れていてそうなのです。それでも、ありがたいと思わないで暮らしているでしょう? どうです、ありがたく思って暮らしていますか? (はい)。幸福ですか? (はい)。それでもいいですね。(笑い) 私が喉がかれたのが、済州道に行って…。ここソウルの空気がどれほど悪いかしれません。済州道にいて、上がってくると、喉がひりひりしたのが、喉がかれます。人が多いところは、空気がいいですか、悪いですか? (悪いです)。空気が悪いので、喉がむずむずし、かれようとするのに、話を長くしなければならないでしょうか、短くしなければならないでしょうか? (短くしなければなりません)。これくらい話せばいいでしょう? (はい)。もうやめようという話ですか、もっとやろうですって? (はい)。今からおもしろい話が始まるのに、もっと話せですって、やめろですって? 私はやめればいいです、やめれば。(拍手) これが愛です。愛ゆえに生まれました。愛ゆえに神様もプラス・マイナス、男性と女性をつくりました。分かりましたか? この愛と一つになるためには、結婚をしなければなりません。凹凸を一つに合わせなければなりません。それ、愛のために結婚するのです。愛のために凹凸が一つになるのです。それが絶対的に一つにならなければなりませんか、適当に一つにならなければなりませんか? (絶対的に一つにならなければなりません)。片目はあちらに行き、思いはこちらに行き、五官が別々に行ってつけなければなりませんか、五官やすべてのものが一つの焦点に行って、さっとくっついて電気のプラス・マイナスがショートさえすれば爆発するように、一つにならなければなりませんか? (爆発するように一つにならなければなりません)。 それ、これが宇宙的愛の本体ですが、男性と女性二人が一つになって燃えるのよりこれが発展所でしょうか、どうでしょうか? (板書なさりながら)これがモーターのようなものであるなら、これは発電所です。ここにプラスを合わせれば、これが爆発しますか、しませんか? 爆発するのです。配電線が太くなければ焼けてしまうのです。分かりましたか? 何に焼けてしまいますか? 真の愛に焼けるのです。真の愛の灰になるというのです。真の愛の灰になって、散り散りに飛んでいくでしょうか、一カ所にまとまるでしょうか? 電気コードがショートすれば線がぴたっとくっつくでしょうか、筋ごとに分かれるでしょうか? (くっつきます)。見ましたか? (はい)。くっつかなければなりません。それ、くっつけば離れますか、離れませんか? これは引っ張って、離すのは大変です。それ以上、火で溶かしてかっかとした過程を経てこそ、離れるのです。 それ、あなたたち、全部一度、ショートして、爆発的な愛で一つになって、くっついたものが、一生の間、暮らしていくのに、自分勝手に離すことができますか? 離すことはできないというのです。 ここで祝福を受けた女性たち、手を挙げてみなさい。手を挙げてみなさい。このあまたち。手を挙げろといえば、手を挙げるないと。(笑い) お父さんが娘たちに対してあまといっても何の罪がありますか? (笑い)真の父という言葉は良くもあります。いくら年の寄ったおばあさんにでも「このあま」といっても「どうしてか」というのです。そうではないですか? 娘になるなら、仕方がないではないですか。養母が二十歳で、養女が八十歳でも、お母さんと言わなければなりませんか、孫だと言わなければなりませんか? 女性たち! お母さんですか、娘ですか? (お母さんです)。それなら、誤ったとき、お母さんに叱られ、尻も打たれるべきでしょう。 それ、かっかとくっついて、天地が振動し、大地が皆、へこんだとしても、離れることのできる妻ですか、離れることのできない妻ですか? (離れることのできない妻です)。それ、離れることのできない妻、手を挙げてみなさい。手を挙げてみなさい、この野郎たち! (笑い)自信はないみたいですね。それから、夫。夫なのか男なのか分かりませんね。夫がかっかとくっついてショートしたのが離れられない夫ですか、一つになりうる夫ですか? 泥棒のように答えずに…。統一教会が恐ろしいのが、条件を掛けるのを知っていますから。ですから、恐ろしいので、そうしているのです。 本軌道に上れば、ショートして、爆発的な愛の一体になってみなかった連中です。落第候補です。異議を提出できますか? 落第候補であり、不合格品なので、ごみ箱に入らなければなりません。そのような連中がきょう、真の父母の日、第三十八回祝賀の日に参席する資格がありますか、ありませんか? なければ、皆、安楽に逃げ出しなさい! (笑い)そのようなものです。この愛を中心として、これが一つにならなければならないのです。これが一つになってこそ、プラス・マイナスが一つになって、大きなマイナスになり、このようになって大きなプラスになるのです。このようになって一つになるとき、愛は引き寄せるので、下のものは上に上がっていき、上のものは下に下りていくのです。 男性と女性が燃えるようになれば、ひかれますか、ひかれませんか? 夫妻同士引き合いますか? クライマックスになって、激しく息をしながら、あばら骨が折れるくらいに抱きしめたことがありますか? きょうの夜からそのようにしてみなさい。(笑い)いいや。実感のわく話をしなければなりません。教主様が実感がわくように話してあげて、あなたたちが実感をもって暮らせば、私がそのような話をしてあげて、全身の肉が伸びたと悪口を言われても、悪口を言われるのよりましなので、このような話も恥ずかしくなく堂々とするのです。分かりましたか? そのようにしなさい。(はい)。くっついて、丸いものが糊でくっついたように一つになって、丸ごと食べられるようになれば、神様がそれを食べながら、「ああ、おいしい」と言うことができるというのです。足でも何でも、丸ごと飲み込むのです。分かりましたか? さあ、これはこれまで引き寄せ、これはこれまで引き寄せるので、一つになるでしょうか、ならないでしょうか? これはこのようにくっつき、これはこのように上がるでしょうか、どうなるでしょうか? 神様が下りるでしょうか、これが上がるでしょうか? どこに行ってくっつきますか? この愛の中に行ってくっつくのです。そのようになれば、遠心力と求心力が生じるのです。回るのです。ですから、くっついて踊りを踊ることができるのです。女性と男性の手が共に踊りを踊り、神様も共に踊りを踊るのです。女性と男性の手が一つの手になり、また見えない神様が入っていき、相対的に踊りを踊りうる環境的与件を体恤し、感じてみましたか? よければ踊りを踊るでしょう? (はい)。踊りを踊って何をしますか? 歌を歌わなければなりません。ですから、口で踊りを踊りながら、夫妻同士で愛の歌を求めて誇ることができるようになれば、神様も見物人になって、来てみて笑うでしょうか、泣くでしょうか? 五官が揺れ動き、「フフー、私の創造の調和がこのようにすてきなのだなあ。大地にいるすべての人も、ここに応じて踊りを踊るべきである。えへん。神様が喜ぶのである。アーメン。」というのです。(拍手) 神様とここに来て、全部出会わなければなりません。求心力と遠心力で回るのです。それ、愛のために生まれたというとき、寂しいですか、気分がいいですか? (気分がいいです)。あの後ろにいる人たち! 愛のために生まれたというから、気分がいいですか、悪いですか? (いいです!)。どれほどいいですか? 喉が裂けるほど叫んでも足らない。一度、言ってみなさい。どれほどいいですか? 喉が裂けるほど。言ってみなさい。(……)。(笑い)「鬼も頼めば人を食わず」というけれど、ちょうどその情勢ですね。いずれにしても、よくて暮らすのです。男性一人でいくら踊りを踊っても、よくはありません。女性一人でいくら踊りを踊ってもよくありません。 それゆえ、環境には必ず主体と対象が愛を中心として一つになるためなのが創造原則です。分かりましたか? 統一教会の教会員たちが愚かなのは、どこかに行って伝道をしても、知らない人に「堕落論だ」というのです。なぜ、そのような話をしますか? 「創造原理だ」と、なぜそのような話をしますか? 話すことがどれほど多いですか? 「ああ、きょう、畑を見ると、バラの花が咲いていたけれど、赤紫色できれいだった。それで、蝶とハチたちがぶんぶんいっていたが、オスの蝶を一匹捕まえると、メスが私の手にくっついてオスを放してくれるよう祈祷するように思えたので、放してやった。やあ、だから、オスとメスは皆愛し合うのです。あなたはオスですか、メスですか?」「オスです」「あなたもメスが好きですか?」そのようにして、創造原理を話すのです。「天地創造がこのように神妙なのです。このようなわけで、男性は女性を好むのです」そのように話すのです。ところが、何の創造原理が何であり、堕落原理が何だといって、直撃弾に当たって「ああ、私は死ぬ」というのです。なぜ、そのような話をしますか? 「水がさらさら流れながら、音を出す。風が吹くと波が立つ。なぜ高くて、低いか? プラス・マイナスになるから?」といいながら、いくらでも話せるのです。 そのようにして、どこかに行けば、いつでもついていくことができるようにしておき、死ねといえば死ぬことができるようにしておき、露骨的に話してあげれば、どれほどいいでしょうか。そのようになれば、一度話をすればすべてなるのです。ですから、環境をつくろうとしなければなりません。ですから、統一教会の教会員たちは説得能力がなければなりません。説得能力がなければ環境をつくれません。違いますか? いくら優れていても、「おい、私の話を聞いてみろ。あなたに一番いい話は何ですか?」といって、話せば、皆聞き、「では、私が一番好きな話を一度聞いてみなさい」と言って、私がその人の話より十倍いいなら、その人が自分の話に説得されるのであって、仕方がありません。ですから、「そのようなことを一度味見して、体験してみたいですか? 案内してあげるから」といって、連れてくるのです。そうかといって、酒を飲みにいくのではありません。真っ暗な地下室で原理のみ言を語る所に連れていくのです。「目を閉じて聞いてみなさい。この野郎!」と、聞いた後、「わあ、ここに主体がいるなあ。私は対象になろう。所帯道具をまとめて、この道に従おう」ということが起こるのです。 ここには皆、統一教会を信じてから、家を捨てて出てきた人が多いでしょう? 一度、手を挙げてみなさい。賞をあげようと思ったのに、挙げませんね。この野郎、今ごろ挙げますか。賞の話に目が輝いて手を挙げませんでしたか。罰を受けなければなりません。 一つになるようになっているのです。それから、最後になって、神様が求心力になり、私たちは遠心力によって、永遠に回るのです。一度回れば、重力のない世界なので、無限に回りますが、神様の愛が重力の力より何千倍強いので、無限に回ることのできる幸福の生が入ってきたなら、兄さんを通さなければならないし、お母さんを通してお父さんのところに来なければなりません。妄動はありえないというのです。原理型を合わせていかなければならないのです。分かったでしょう? そのように見ると、お母様が幸福な女性ですか、不孝な女性ですか?(幸福です)。私は尋ねてみると最も不幸な女性だと思ったのですがどうですか?(最高に幸福です)。お母様と暮らしてみましたか?(笑い)暮らしてみた私が最も不幸だと言うのですが(どうですか)? 先生が何の専門家ですか?(愛です)。違います。蕩減の専門家です。理想的愛を探そうとすれば、何千段階の蕩減を越えなければならないというのです。そこで、「このような蕩減の峠が訪れるので、注意してください」と言えば、「何の蕩減がそれほど多いのですか。夜も昼も一年中、二十四時間ではなく、二十八時間も蕩減も多いですねえ。蕩減、蕩減、蕩減!」と言うというのです。蕩減の大王様になっているので、お母様が喜ぶでしょうか、喜ばないでしょうか? 女性たちが蕩減を好みますか? 女性たちが蕩減を好むのか、と尋ねているではないですか、この者たち! 女性という種類は蕩減を好むのを私は見たことがないというのです。 甘い、花の中でぷんぷん(ひらひら)音を立てて踊りを踊っていた蝶のように、蜜のようなものを好むのであって、「ああ。苦い蕩減は嫌だ」と言うというのです。蕩減を好む女性がどこにいますか? ですから、お母様が私を最も嫌うのです。何を中心としてですか? 蕩減を中心として最も嫌うというのです。最も嫌いますが、その峠を越えれば愛を中心として最もよい時が来ます。それが嘘でないと分かるので、お母様も幸福な女性になり得ます。なったというのではありません。未だになりつつあります。なり得る、という言葉が成立するのです。これが分かるでしょう? これが一つになれば、この二つが一つになれば、神様がここに来るでしょうか、来ないでしょうか? 愛が実体化されれば、アダムと神様とそこで出会うでしょうか、出会わないでしょうか?(出会います)。神様が願った実体の愛です。アダム・エバが願った実体の愛です。パートナーとして出会うという実体の愛です。どこで出会うのかというのです。神様の愛が神様の絶対愛と人間の絶対愛が対面する点がどこですか? 一点です。それがどこだと言いましたか? 結婚して初夜、生殖器が一つになる場だというのです。そのように神様に出会うと考えてみましたか?(はい)。本当ですか?(笑い)この男性はどうですか?(はい)。本当ですか? 私よりも優れていますね?(笑い) どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの基点と、人間アダム・エバが理想として願う愛の基点が一つになれるのが、一点ではなく二点になるときは、愛の方向と目的が二つなので、永久に神様の絶対愛とは関係を結ぶことのできない人間になるので、愛のためにつくったのではない、ということになります。そこから自分が生ずるでしょう? 男性、女性がそこから生ずるのであって、キスする所から生じますか? そこから、男性、女性の生殖器が絶対的に一つになることを願うでしょう? あなたは夫婦同士絶対的に一つになりたいですか、適当に一つになりたいですか?(絶対的に一つになりたいです)。本当ですか? とても率直ですね。私に習ってそのように太っ腹なようですね。(笑い) 神様の愛がどこで結実するのかと言えば、凹凸が絶対的な体と心が一つになった場、そのような男性、そのような女性が絶対的に愛を中心として一つになる場が神様と人間が出会う場だということを人類歴史上で発表した人が私しかいません。知ってみるとそうなので、それを知ってみて事実だと認める人は、統一教会の仲間にならざるを得ないというのです。それを認めますか?(はい)。 その場は何かと言えば、女性が愛されるためには、夫だけでなく霊的に神様に侍る立場に立たなければならないのです。アダムの生殖器は見えない、内的には神様の生殖器であり、見えるものはアダムの生殖器です。女性の生殖器も見えない神様の生殖器であり、見える生殖器はエバの生殖器だというのです。見えないものは縦的であり、見えるものは横的が一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。 愛の主人がだれかと言えば、アダムでもなく、エバでもありません。神様なので、初愛を神様が先に感じなければならないのです。人間と神様が愛を中心としてくくられ得る基点がなくしては、理想的環境、理想的国家、理想的世界が現れないではないですか。そうではないですか? 分かりますか、分かりませんか?(分かります)。分かっても分からなくても勝手にしなさいというのです。知らずに行くようになれば、天国の本宮と通じることのできない別宮に行って居候するのです。 皆さん、息子・娘を産んでキスしますか、しませんか?(します)。鼻がここに付いていれば、どこににキスしますか? 鼻をすりむいていて口がここにあれば、このようにキスをしても汚くないというのです。汚いですか、汚くないですか?(汚くないです)。それはなぜ、汚くないですか?(一つになっているからです)。一つになっているので汚くないというのです。私たちは愛と生命と血統と良心を皆もっています。皆愛をもっているでしょう? 生命をもっており、血統をもっており、良心をもっているのに、あるのかないのか分かりません。見ることもできず、触ることもできません。ところが、どのようにあるのか分かりますか? 一つになっているからだというのです。一つになっているので感じられないというのです。 お母様が講義したように、目をぱちぱちさせるのを、息するのを三時間だけ数えてみれば、中間で忘れてしまいます。三時間を決めて数えてみなさい。三時間もちません。すべて忘れてしまいます。一つになっているので忘れてしまうのだというのです。心臓が弾むのを一度数えてみなさいというのです。心臓がどれほど弾みますか? 蝿一匹ここにくっ付ければ、すぐさま飛ばされてしまうというのにです。心臓が数百倍ずどんずどんと弾むというのです。聴診器で聞けば、爆弾が落ちるような音がするのに、それを一日に何回ずつ感じますか? 一週間、忙しいときは三か月、ある者たちは一年経っても感じないで暮らす人たちがいるというのです。なぜ、感じられません? 一つになっているからだというのです。同じです。神様自身も愛、生命、あらゆるものがありますが、一つになっていれば感じられないので、神様も相対が必要だというのです。相対が横に来ればすぐさま分かるというのです。男性、女性が皆もっていますが、相対がなくなるときは(愛、生命、あらゆるものを)感じられないのです。けれども、男性、女性の前に相対が現れるようになるとき、雷・稲妻のような刺激をもって爆発的な愛の力、生命の力、血統の力、良心の力がぱっと作用するようになるというのです。それゆえ、相対が必要だというのです。相対がいなければ作用が起こりません。運動が起こりません。分かりましたか? 今日の科学者たちが、この宇宙は力によって存在すると言うのですが、力が先ですか、作用が先ですか? 電気作用が先ですか、電気の力が先ですか? 電気作用が先だというのです。相対がいなければ作用も起こらず力も現れません。相対的関係になれば力が出るでしょう? そこは夫婦同士ですか?(はい)。そう、どこかに行ってから久しぶりに会えば爆発的な力が出てきますか?(はい)。本当ですか?(はい)。そのようにできる男性のように見えなくてもですか? 熱気は女性が勝るようですね。どうですか? 愛するのに女性に引っ張られていきますか、女性が男性を引っ張っていきますか? 尋ねているではないですか?(笑い)女性が強いようだというのです。そのような時は、「正しいです(そうです)」と言ってこそ男らしいでしょう。そうですか、そうではないですか?(はい)。「はい」と言いながら、なぜ頭を下げるのですか?「はい!」と言わなくてはなりません。(笑い)だらしがない男性だというのです。このような話をしていては切りがないようです。 ですから、本然の基地が、皆さんの心と体を一つにするのが最も難しいのです。体が地獄基地です。軍隊の軍事基地だというのです。相対的なすべて、全体の発源起源になるのだというのです。基地だというのです。良心を中心とした天国基地が弱いです。これをひっくり返さなければなりません。理論的にそうです。理論的に分かります。 これを中心として長成期完成級に入っていけば、この一つの警戒線さえ越えていけばよいというのです。ですから、体を打って三年間制裁すれば、三年ないし五年制裁すれば、その世界に行くのだというのです。そうではないですか? 肉的なものを大きくすれば、霊的なものは小さくなるというのです。肉的なものをなくしてしまえば、これが高くなるのです。同じです。それゆえ、外的なものを無視して縦的なものを重視すれば、霊界が近くて本然的・良心的基準に接ぎ木されれば、電気の流れがプラスとマイナスをもてば発電所の電気が通るように、爆発するというのです。それゆえ、天地変化作用が起こるのです。そのような霊的体験がなければならないということを知らなければなりません。分かりましたか?(はい)。 郭錠煥を私がこき使うのは、そのような何かがあるからだというのです。あの人(郭錠煥氏)に対して、ありとあらゆる話をすべてしているのを(私が)知っているというのです。欲深くどうのこうのと言いますが、何かをすると言うにも自分が何かをすると言っても、自分(=私心)がないままでやります、という者はいません。全部このように、「それは私はできないのに、どうして先生は私にだけさせるのか? 周囲にだれだれがいるのに?」と(郭錠煥は)そのように思っているというのです。それゆえ、私が使います。自分がありません。自分がないので天がいつでも百パーセント作用できるのです。三六〇度、回っていって(=使って)も何の支障もありません。自分があれば、後になってぴったり引っかかります。一八〇度くらいになれば引っかかってしまいます。そのような人は使わないのです。ここの朴普煕もそうであり、皆(=郭錠煥氏を除く)そのような何かがあるというのです。自分でなければならないと考えるというのです。その峠を越えられません。そのような人はそれ以上行けないのです。 私自身がそうなのです。今まで先生自身も同じだというのです。私が霊界に行った時の最高の希望が何かと言えば、私が慕い、私が愛していた最高のクライマックスの時に考えていたその心情圏内でお父様(神様)を呼び、お父様(神様)の愛を受けたその基準を私が霊界に行って、「私が来ました」と言う時、神様が宝座に座っていてから何百の階層をものともせず、射られた矢のように飛んで下りてきて、「お前が来たか」と言ってキスしてくれる神様になるだろうかということです。それが願いです。他の願いはありません。最後に私が公認されるのかという問題だというのです。皆さんも同じなのです。霊界に行って先生が、「だれだれ来たな」「金奉泰来たな」と言う時、金奉泰という紙切れだけあってもぴたっと塞がれるのです。警戒線です。それを越えられなければだめです。絶対否定しなければなりません。 それゆえ、神様は創造するときから絶対信仰をもって(創造)しました。私が言うことは絶対成されるのです。神様のように絶対信じればいいのです。人間世界のがらくたの自分を中心としたごたごたしたがらくたをつくっておいて、神様を宴にお連れしたならば、来るでしょうか(=来ません)。サタン世界を完全に否定しなければなりません。そうではないですか? サタン世界の最も礼物を見事に飾っておいた部屋に、「神様、ここに来て喜んでください」と言えば、唾を吐いてしまうというのです。その痕跡も見たくないというのです。 堕落した人間たちも同じなのです。結婚を二回した人たちが自分のもとの妻の写真を抱えていたり、手ぬぐいでも裏に隠しておいたものを嫌がるのです。堕落した人間もそうなのに、正義の王として正義の最高の先端にいる神様がどれほど嫌がるだろうかというのです。それを考えなければなりません。自分の体にそのようなものがあっては、神様は顔を背けるようになっています。 先生はそのような面では何かがあるというのです。他の人は嫌だと言いますが、そのような何かがあれば、その話を聞きません。先祖が善なら、その先祖の功績を中心として挨拶してもそれを考えてするというのです。どんなに世の中でも覚えられているといっても認めないというのです。それゆえ、統一教会の教会員たちは、先生に出会ったことが不幸なことですか、幸福なことですか?(幸福です)。自分を主張する人は不幸なのです。とても不幸です。自分がなく、み旨に従って一八〇度、三六〇度、次第に大きいところに吸収されればいいのです。一点を中心として一周回ればさらに大きくならなければならないのです。世界のために使っても不平を言わないと言えば無限に発展することができるのです。先生がそうなので神様が好むのです。自分がないのです。 聖日に説教するのも自分勝手に決めません。数千名が集まったのに、話をしようとするとき説教の題目も分からずにどうやって話をしますか? 分かりましたか? 絶対信仰をもって、口を開けば自分の話ではありません。そのような何かがあるので、大衆も導き、時間の限界線を克服して、どこに行くにせよ一年中み言もずっと語ることができるのです。泉から湧き出る水の泉は塞がれないというのです。分かりましたか? 塞いでしまったとしても噴き出るのです。そのような根源地がいつでも通じます。触角はいつでも弦が行っていなければなりません。どこに行ったとしても他のことをするのは二次的であり、副業であって、それが本業ではありません。 それゆえ、信仰生活をしていた者たちが会社に就職すると言って、家庭暮らしがどうこう言って他人に負けないように暮らすために会社に行くと言えば狂った野郎です。私は一生の間月給をもらえませんでした。月給をあげたでしょう? 私が月給をもらったことがなくても、私は飢え死にしません。それゆえ、再創造歴史を知らなければなりません。再創造歴史は神様の代わりに創造することです。 堕落を人間がしたというのです。それを神様が復帰してあげることができたならば、とっくに、数千万年前にすでにすべて復帰されました。人間自分自身が自分を再創造しなければなりません。それが問題です。分かりましたか? 自分自身が自分を再創造して完全な人間をつくろうとするので、自分が完全でない立場にいてはならないのです。そこに反対の性質は完全になれないのです。それをなくしてしまわなければなりません。神様の力を借りて、自分を再創造しなければならないというのです。自分一人でできません。 ですから、先生のみ言を通して、神様の力を借りて、自分を自分が再創造しなければなりません。ですから、統一教会では三年間伝道しなければならず、三年半をファンダレージングしなければなりません。再創造しなければなりません。神様がタッチできる物質がありません。体をつくることのできる土がありません。三年間もてる精誠を尽くさなければなりません。冷遇され、さまざまな侮辱を受けたとしても、克服して世の中のどこでも行くことができなければなりません。地がどれほど侮辱を受けましたか。悪口を言われ、ありとあらゆる侮辱を受けながらも我慢してきたように、万物において、地が忍耐する以上に(忍耐)して、三千里半島、数多くの国境を越えて、冷遇されたとしてもそれを克服して越えていくとき、サタンが付いてこれないのです。そうするために、お金一文も自分のために使ってはならないのです。手つかずのままに一〇〇パーセント献金するとき、自分が百ウォンを儲けたならば、そこに自分のお金一銭でも自分の昼食代を足さなければならないのです。それをすべて使ってはならないのです。徹頭徹尾しなければならないのです。 そして、三年半の間出て伝道しなければならないのです。サタンの世界に出掛けていって、戦わなければならないのです。自分を再創造できる物質を再創造して、サタン世界に行って勝つことによって、創造された人間として天に帰って統一教会に入籍することができるのです。 最近は、このようなことを知らず、祝福を受ければすべて済んだと思っているでしょう? 違います。何も知らない人は系列が外れます。入籍できません。そのような難しい問題が介在しています。賢明に、しっかりしなければならないのです。有名な学校に行こうとすれば、その学校の学習課程とその環境に適応しなければならず、そこで先生が主体であり、自分が対象として一つにならなければならないのです。そうしようとすれば、学科の勉強をするにも、自分が主体ならば勉強できる対象を一体化させなければならないのです。それゆえ、蘇生、長成、完成です。教授(完成)、私(長成)、本(蘇生)が一つにならなければならないのです。全部そうだというのです。 それゆえ、このような真の父母の日をお迎えして、皆さんが考えなければならないのは何でしょうか? 三十八回をお迎えしたのならば、集まった人が体と心が一つになって、夫婦が完全に一つになって、全部千年万年も生きたいものだ、と言うことのできる夫婦にならなければならないというのです。 尹台根(ユン・テグン)!(はい)。どこにいますか? 立ってみなさい。あなたは偽物ですか、本物ですか?(本物です)。顔はすべて小さく見えるのにですか? あの者は私が証しさせてみると、妻を三時間見なくても死ぬほどだ言ったのです。四日間我慢できないそうです。自分(彼)が証をするには、四日間我慢できなくて、一歩行ったとしてもいなければならず、隣村に出掛けたり、見物に行けば、連れていかなければ、一人で行けば不安だと言いましたか? 本当にそうですか、この者? 二人で行ってこそ万事がOKだというのです。また、分からないことがあれば妻がどれほどよく(啓示を)受けるのか、説明するのに、その如くにかちっとぴったり合うというのです。ですから、女性がいなければ生きられないと言いました。そのような男性を私ははじめて見たというのです。 それで、郭錠煥を統一教会の忠男第一号にしましたが、尹台根が忠男第一号になるだろうと思ったのですが、競争して負けてはなりません。郭錠煥! 妻を愛しますか(はい)。なぜ、頭を下げますか? 尹台根ほど愛せないではないですか。(笑い)どうですか?(はい)。妻が病気に懸かっておしゃれをしない女性みたいなのに、先生の前で行ったり来たりしているので、自分が気に入らず、先生の前に来ないでくれればいいと言って、正面から攻撃するのだそうです。「来るなと言ったのに、幹部たちだけ集まるのに、ここになぜ来たのか?」とそう言うというのです。「先生が来たので来るのであって、夫に会いに来たのではありません。(そんな風に言うのは)責任者ではないではないですか?」と(郭錠煥夫人が)言うというのです。それはいいことですか、悪いことですか?(よいことでもあり、悪いことでもあります)。どうなのか尋ねているのですか?(笑い)よいものが多いですか、悪いものが多いですか、というのです。 先生に会いたくて懇切な心をもって来た人を同情して囲いにならなければならないはずなのに、ひどく殴る(=冷たい言葉をぶつける)のがよいことですか? 夫婦が一つにならなければなりません。喧嘩する動機がないのです。喧嘩しようとして口を開いてしゃべりたてれば、自分は後ろを向いて他の考えをするのです。それから、二ページはこのような暴風雨が吹いてくるのであり、銃弾が飛んでくるはずですが、自分は浴びないようにすっと後ろを向くのです。大きな声を出せば、次第に遠くなるのです。もっと大きな声を出せば、見えないようにいなくなるのです。じっとしていれば一時間二時間してから、「どこに行ったの?」と言って探しにくるというのです。なぜ、出会って喧嘩しますか? 分かりますか? 間違いなく一幕はこうであり、二幕はこうであり、三幕はこうであり、四幕は木っ端微塵、がさがさと荷物をまとめるのは明らかなのに、なぜ対面しますか? 相対してはなりません。戦争をなぜ起こすのかというのです。同じなので起こすではないですか。そうではないですか? 相対してはなりません。 口が立つ女性は真っ青になってわあわあと言うのですが、じっと見て研究するのです。「どれほど悔しければ、あのようにするのだろうか? 自分も一度、あのように悔しくなりたい。一度真似でもしてみよう」と言って、わあわあと言ってみると、真似もできないというのです。目を瞑って見ずに、話をするなら、いくらも保たないというのです。思い通りできるものではありません。なぜ、息子・娘に涙を流させますか? 一生涯、息子・娘の前で涙を見せてはなりません。分かりましたか? 先生と約束です。息子・娘の前で涙を見せるお父さん・お母さんにはなってはなりません。それが人間ができる業ですか、できない業ですか。できない業だと言う人は手を挙げてみなさい。喧嘩する人たちは男性たちが間違っているのです。 女性はそういうものです。しきりに、ええんええんと言わ(腹を立てたり悔しがったりし)なければならないというのです。それを訓練しなければなりません。先生のように子供が十三(人)になれば、部屋でいっしょに暮らすのですが、そのお母さんがじっとしていれば何か騒ぎが起こるでしょうか? 殺人が起こるというのです。それゆえ、「飛び跳ねないで座ってご飯を食べなさい」と言いながら、一日中、口を開いていて初めて、暮らすようになるというのです。女性が男性よりも言葉が多いのが自然の理知です。息子・娘が多ければ交通事故を防止するための訓練をしていると考えればどれほど便利ですか? 本当です。 真の父母に侍って暮らす人たちが、一年に少なくとも十二回は喧嘩しなくてはなりませんね? 喧嘩しなければなりませんか? あなたたち夫婦同士ですか?(はい)。喧嘩一つしませんか? 喧嘩すれば妻に負けるでしょうね。(笑い)そうですか、そうでないですか?(喧嘩しません)。ああそう、喧嘩すれば、あなたより妻が頑固なのです。妻に操られて暮らすようですね。尋ねたら率直に答えなくてはなりません。そよそよと妻のお尻をくるむ(=妻をかばう)のを見ると、男性の役割を果たせないようですね?(還故郷する時、付いてきました)。還故郷するとき付いていくのであって、(他に)どこに行くというのですか? 逃げるのですか?(笑い)それ一つが自慢の種ですか? 喧嘩しないのかと尋ねたのに、還故郷したことを話しているのですか? 自慢の種が足らないから、間違いなく喧嘩したという話ではないですか? そう、真のご父母様に侍る者たちが喧嘩しなければなりませんか、つつがなく暮らさなければなりませんか?(つつがなく暮らさなければなりません)。柳光烈?(…)。尋ねているではないですか? 妻と喧嘩して勝ったことがありますか?(勝ちもし、負けもしました)。そう、勝ったり、負けたりして気分がいいですか?(気分が)よくないことをしてはいけません。気分がよくないことをどうしてするのですか? してはならないというのです。気分がよくない人が先ず後退して、「ああ、小便がしたい」と言ってこれをさっと取り出して一度(小便を)してみなさいというのです。便所に行かせなければ部屋でしなさいというのです。「腹を立てて力を入れるからこうじゃないか?」と言って、便所に行って来ればすべて終わるのです。分かりましたか? 三分だけ過ぎれば、一人で笑って帰るのです。喧嘩する危急なことがあれば、便所に出動するべし。アーメン。違います。きょうの真の父母の日、真なる家庭が喧嘩するのを見て、町内で指さされることを好むだろうかというのです。アパートにぎっしりと並んで暮らすのに、近所からがたんどとんと喧嘩する音がとすればどうでしょうか? 一年、十二か月静かに暮らして、「あの家では生きているのか、死んだのか分からない」と言って、門を開けてみるくらいにならなければならないというのです。静かに暮らすのですが、住んでいるようでなかったとしても、息子・娘を産んで楽しく暮らすというのです。「遅く帰ってくる新郎をお迎えにでる人は、あの家の新婦しかいない」という話を聞きながら暮らせばいいのです。分かりましたか、分かりませんか?(分かりました)。 きょう、このような話をするべき話ではありませんが、これを中心として…。 皆さん、祝福家庭がどれほど貴いかということを知らなければなりません。これ(板書されながら)を代表した家庭です。これが家庭を代表し、氏族を代表し、八段階の基準を中心として、この母体が移動せざるを得ない基台になるのです。何の話か分かりますか? 種にならなければなりません。家庭の種にならなければなりません。それゆえ、世界だとか、国家だとか、構造的な要素を見れば家庭を中心とするのです。改葬も家庭を中心として改葬されているというのです。郡守も家庭を中心として郡守になっているというのです。また、道知事も家庭を中心としてなっているというのです。大統領も家庭を中心として大統領になっているというのです。世界の大統領も家庭を中心としてなっているというのです。来られる再臨主・世界の大王様も家庭を中心としてなっているというのです。神様も家庭を中心としてそのようになっているというのです。分かりましたか?(はい)。 家庭と家庭によって連結されているというのです。家庭を中心として、ずっと上に連結されているというのです。個人的家庭、氏族的家庭…。これが(板書されながら)八段階です。終わりです。全部中央が家庭です。この家庭が中心だというのです。分かりましたか? これが核です。この家庭が全体に影響を与えるというのです。それゆえ、全体を代表した家庭です。このようになるのです。分かったでしょう? この場が真の父母が神様がアダム家庭で築ける定着地になるのです。それを失ってしまいました。そこで、アダム家庭に神様が臨在して初愛を結ぶのが、アダム・エバ自体も初愛ですが、神様が人間に対する絶対的な愛の対象のために創造した理想が初めて時を合わせて成熟する場です。 愛の主人がだれだと言いましたか? アダムでもなく、エバでもありません。アダム・エバが一つになって神様の相対になるのであって、主体の位置に進めないのです。主体にはなれません。これがプラスの立場です、これがマイナスであり。(板書されながら)アダム・エバが一つになったならば、主体を代身して相対的立場にアダム・エバが拍子を合わせなければならないというのです。神様が拍子を合わせるのではないというのです。 それゆえ、愛の主人は男性でもなく女性でもありません。女性・男性が一つになったとしても、対象にしかなれないのです。相対にしかなれないのです。分かりましたか? それゆえ、主体の前にいつも三六〇度を中心として基準を立てなければなりません。これがぺちゃんこになれば、すべてのものが壊れていくのです。それが一度固着すれば、永遠にそれが定着して、この宇宙空間で地球が慣性の力によって運動するように愛理想にも皆さんの家庭を中心として慣性運動をするように、これは絶対神様の愛を中心として重力がある世の中に支障なく回っていくのです。そのような家庭になれなかったというのです。そのような中身は同じです。 これ(板書したものを指されながら)をしっかりと押さえれば、家庭を中心としてこのようになるのです。分かりましたか? この核は一つです。それゆえ、皆さんの家庭は何ですか? 皆さんの家庭は自分一人の家庭ではありません。このような意味で家庭を代表したということを知らなければならないというのです。分かりましたか?(はい)。 家庭に八人家族が暮らせば、その夫婦はその八人家族を代表し、それから氏族の代表です。数多くの家庭がありますが、そこで代表です。それから、民族の中では数多くの家庭がありますが、その家庭の代表であり、国家ならば国家、世界ならば世界の代表であり、地上天国の代表であり、天の国の代表だというのです。だれの家庭がですか? 真の父母の家庭がです。これは種です。種が完全な種ならば、その種を植えて繁殖された数億万の家庭があったとしても同じ価値をもつというのです。イコールだというのです。(テープ一終わり) ですから、神様が定着した家庭の定着基準を何千代、何万代、何億万代になったとしても、同じ場に定着できる価値を認められるので種はイコールです。何の話か分かりましたか? それゆえ、私たちの家庭は代表的家庭です。大韓民国を代表したというのです。ですから、盟宣文の二番は何ですか? 私たちの家庭は真の愛を中心として神様と真のご父母様に侍り、天宙の代表的な家庭…代表は頂上です…になり、中心的な家庭になるのです。縦横に連結するようになれば、縦横が連結される立場だというのです。代表的家庭です。代表的家庭であり、中心家庭だというのです。分かりましたか? そのようにしておけばすべての宇宙は皆さんのものです。代表なのでどこにいくにせよ、行くことができるのです。郡に行って郡守たちに会えば、郡守が愛さなければならないのです。代表的家庭だからです。国に行くようになれば、その国の大統領が、世界に行ってもそうであり、天の国に行っても神様が知らないと言うことのできない立場に立たなければならないというのです。それが本来のエデンの園で神様がアダム家庭で築くべき目的でした。 では、今までエデン復帰してきましたが、エデンにおいて、家庭を中心として長子圏、父母圏、王圏を失ってしまたその家庭で世界的に拡大させて、均衡的な平準化と水平線を中心として、神様を中心として、家庭理想を再度編成して、個人時代から家庭時代、氏族、民族、国家、世界、天宙時代まで全部直線上に落ち着くようになるのです。霊界です。体と心が一つになったように統一されなければならないというのです。 こうなることによって、神様が個人時代から民族時代、国家時代、どこでも自由に往来して回っていくことができるのです。ところが、サタンが反対できる条件が成立するのです。こうなので、先生が昨年十一月一日を中心として世界平和家庭連合定着、家庭が定着するのです。数多くの家庭の定着と蕩減解消式を宣布したのです。それは何かと言えば、すべての祝福家庭はこのような(板書されたものを指される)峠がなく、山がなく、水たまりがなく、平面的な立場でアダムが行ったその本然の時代にここから出発するようになったならば、時間がある(=時間が掛かる)だけであって、いつでも行って帰ってくることができるというのです。この話は何かと言えば、五十億人類がいますが、数百億になる過去、現在の人々が心を合わせることができるかというのです。心を合わせてあげ、また、合わせてあげ、また、合わせてあげ、三回だけ合わせてあげれば、合わせてあげることを願わない人は従っていくのです。十回するようになれば十回合わせて初めて、再び相対になるのです。その話が何かと言えば、世界のどこに行ったとしても、合わせてあげることができ、対することができ、反対も消化することができるのです。神様がそのような立場を取って現れるというのです。そのようになる時は、神様の讒訴を抜け出すことができます。アーメン。(アーメン)。(拍手) 嫁が入っていって、父母、祖母など皆元気でいる名家に長男の嫁として嫁いでいったという時、舅、某おじさん、だれはよく、だれは悪いと言っていては長男の嫁の責任は果たせないというのです。全部よいものを中心としてその基準を中心として平準化されて、皆いいと言えるようになる時、おじいさん、おばあさんもよいと言うことができるようになってこそ一つになるのです。そうではないですか?(そうです)。 私がきょうの朝にも話しましたが、北韓の共産党が文総裁を最も憎みましたが、最も好きになって初めて一つになると見るのです。統一がそうであってこそ、成し遂げられるのではないですか? だれかがそのような動機にならなければならないのではないですか? そのような家庭をつくろうというのが統一教会の家庭だというのです。分かりましたか? 三百六十万双をつくっておけば、アダム家庭のような家庭が世界を代表した三百六十万になったので、三百六十万双されすれば、四位基台ならば、おじいさんのペアがあり、お母さんのペアがあり、婿のペアがあり、孫の嫁のペアがあれば、何家庭になりますか? 八家庭になるというのです。その八家庭を、また、してみなさいというのです。倍になるというのです。三段階にさえなれば、瞬く間に統一天下が起こります。そうすれば、家庭が全部どこかに行こうとすれば段が多いので、風習が異なり、法が異なるので、全部塞がれるではないですか。そのようなものがありません。全部門を開いて歓迎です。反対する所に引っかかりません。ぴょんぴょんと飛んで越えていくのです。神様がそのような役事をするのです。自動的に復帰完成するのです。強制屈服ではありません。自動屈服させて平準化運動をするべき代表的家庭にならなければなりません。そのような家庭が真の父母の家庭にならなければならないというのです。統一教会でも父母の役割をし、大韓民国でも父母の役割をし、北韓でも父母の役割をし、中国でも父母の役割をし、アメリカでも父母の役割をし、どこに行っても父母の役割をすることができると言って初めて統一天下になるというのです。(拍手) それゆえ、皆さんが祈祷する時、自分の息子・娘から祈祷するなというのです。祈祷するのも反対にしなければなりません。「天国に対するすべての解放を私が責任もちます。地上の開放を私が責任もちます。世の中のサタンが武器として使うあらゆる迫害圏を私に総攻撃したとしても歓迎します」と言って前進して立つことのできる群とならなければならないというのです。今後は迫害がありません。迫害がある時にそのように勝利して歓迎され得る人と、迫害がない時に世界で歓迎されるのと、天地の違いがあるということを知らなければなりません。価値は不変です。そのような不変の価値を中心として迫害のある時に不変なのと、迫害がない時に不変で何千万倍の拡大の実績を収めたとしても、その迫害される時の価値を凌ぐことはできません。 先生はそれを知っているので迫害を恐れませんでした。世界的な反対が早く来て、世界的な汚物を蹴飛ばしてしまうことのできる日を望んだというのです。もはや、すべて乗り越えたのです。もはや統一教会に反対していては、どの国であれ利益になるものがないくらい基盤をすべて築きました。アメリカさえもそうです。文総裁がアメリカを離れるのを願いません。「ヤンキー・ゴーホーム(Yankee go home)」と言いますが、「レバレンド・ムーン、ナット・ゴーホーム(Rev.Moon not go home)」だと言うのであって、「ヤンキー・ゴーホーム(Yankee go home)」とは言いません。分かりましたか?(はい)。何の家庭ですか?(真の家庭)! 真の家庭が何だと言いましたか?(真の愛をもった家庭)。真の愛をもった家庭が何だと言いましたか? 天地のこの八段階を乗り越えて、自由自在に天下と地と天を統一させられる自由解放を備えた代表家庭です。アーメン。(アーメン)。 ですから、旧約聖書のアダム家庭で最も重要なのが何かと言えば、長子権を失ってしまいました。今までの歴史路程は長子圏復帰です。創世以降、アダム家庭でカイン・アベルが分かれました。父母を中心として一つになれなかったのです。分かりましたか?今まで一つになれませんでした。イエス時代に家庭基準において一つになれなかったものを国家基準で一つにしようとしました。アベル的基準が何かと言えば、ユダヤ教であり、カイン的基準がイスラエルです。カイン・アベルが一つにならなければなりません。主体・対象だというのです。分かりましたか? 主体・対象が一つになるには何をもってですか? 愛をもってです。アベルの愛もカインの愛も同じでなければなりません。そのようにしようとするので、サタンを屈服させようとすれば犠牲になるしかないのです。そこで、打たれて奪ってくるのです。彼を代身して自分が代価を支払ってあげるのです。三回だけ代価を払えば、その借りを返さなければならないのです。天理の理知がそうだというのです。分かりましたか? 環境の中では主体と対象があるので、イスラエルの国を中心として主体がユダヤ教であり、国がカインです。これが一つにならなければなりません。だれが一つにならなければならないのかと言えば、祭司長が責任者なので、国家と責任者が一つにならなければなりません。これが国家的にメシヤが来てユダヤの国とユダヤ教会が祭司長たちを中心として一つにならなければならないのです。それもカイン・アベルだというのです。イエスがアベルだというのです。ここで、祭司長たちがカインになって一つになるべきなのですが、その組織的編成が成されなかったというのです。分かりましたか? 再創造歴史だというのです。 環境をつくったならば、そこは必ず主体と対象がいなければなりません。統一教会の環境、復帰摂理の環境圏内に統一教会が進んでいるのですが、アベルの立場が主体ならば、必ず対象であるカインを中心として再創造歴史をしなければなりません。神様が投入して記憶するのではありません。無限に投入して忘れてしまうので、無限に復帰するのです。それゆえ、個人復帰も問題なく、家庭復帰も問題なく、国家復帰も問題なく、無限に今まで引き続き投入して忘れてきたというのです。 このようにすることによって、アダム家庭で失ってしまったものを再び取り戻してくるのです。絶対信仰、絶対愛。絶対愛が何ですか? 神様の創造の目的は愛の相対者を探すことです。ですから、絶対的な愛のパートナーを探すためには、神様自身が絶対愛を標準にして投入してきたというのです。それゆえ、絶対服従は自分の意識構造まですべてなくなります。自分のすべてを投入して忘れてしまうのです。神様が天地を創造した創造主としての(神様御自身の)価値的内容を認めません。終わりまで下りていくのです。終わりまで下りていきながら投入するので、この相対は上がっていくのです。上がっていって、神様が立っている位置を越えるようになれば、自動的に二人とも助かるのです。 無限な高気圧になれば空気が爆弾のように圧縮をして、ここに何であれ、はめ込んでしまえば鯣(するめ)のように平べったくするのです。無限な力が生まれるというのです。与えて忘れてしまえば無限に下りていきながら無限に与えることによって、自動的に神様の立場まで運動して回転運動が発生するのです。何の話か分かりましたか?(はい)。 それゆえ、高気圧になれば低気圧が自動的に訪ねてくるのです。自動的運動圏が生じるのです。町内でもそうではないですか。言葉なく終わりまで犠牲・奉仕してみなさいというのです。高気圧になるように空いた所が訪ねてくるのです。里長が訪ねてき、村の青年が訪ねてき、自然に自分の側になるというのです。 それゆえ、絶対信仰、絶対愛。絶対愛のために絶対投入するのが服従です。自分の意識がありません。従順というのは自分の意識を中心として一つになることのできる立場を言いますが、服従は自分の意識概念がありません。分かりましたか?(はい)。完全否定はそこでストップしなければなりません。否定の否定を過ぎてそこに肯定的条件さえ立てば、その限界線はそこでストップするのです。無限、膨大なこの世界で、無限な愛の世界を訪ねていこうとすれば、無限に投入して忘れてしまう立場で天が今まで現れるのです。そのような何かがあるので、数千万年我慢してこられた神様を尊敬しなければなりません。そのように我慢して無限に投資して無限に犠牲になりながら、忘れながら、また投入する神様を父として侍る私たちにとって、十年が問題ではなく、一生が問題ではありません。生涯を数回ひっくり返して復活して、また生まれたとしてもそれを忘れてしまい、また忘れてしまおうと思わなければならないというのです。 本物の愛は、永遠に本当に愛することのできる基準は、永遠に昔から投入してき、また永遠に続けるものだというのです。永遠に、永遠に、永遠に、永遠に続けながら、投入して忘れてしまうことのできる思想がある所に、無限な愛、絶対的な愛、永遠な愛があるのです。ここは理想と永世の論理が生ずるのです。 ですから、アダム・エバに戒めを与えたのは何でしょうか? 善悪知るの木の果を取って食べるなというのではありません。男の子の中から、自分の愛の対象としてエバをつくったのですが、天使長の誘引される可能性があって危険千万なので、取って食べるなという戒めを与えることができますか、できませんか?(与えることができます)。与えざるを得ないのです。それが何かと言えば、女性の貞操を守れということです。それが自分のものだと思いました。 女性のものが主人がだれだと言いましたか?(男性です)。私たち統一教会の教会員はそれを知っているでしょう? 男性のものの主人はだれだと言いましたか?(女性です)。それが適当な主人ですか、絶対的な主人ですか?(絶対的な主人です)。絶対的な主人です。真の愛は一つしかありません。初愛が二人の夫を抱えません。一人の夫を抱え、一人の女性を抱えます。絶対的に一人です。それで、絶対セックスというのです。フリーセックスを防御するのは絶対セックスです。 これは何ですか? 足を踏んでしまえ、といって先生にこのようにふんぞり返っていますか? 夫にも不作法にそうですか? 分かりましたか、あなた? 目をぱちくりししているあなた。エバの目が自分のものですか?夫のものだというのです。ここの祝福を受けた女性たち分かりましたか?(はい)。それをもって他の男性を横に見ると、目が腐ってしまって骨が熔けるのです。宇宙にとって、これを犯す日には赦しがありません。追い出した原則を知らなければなりません。救いがありません。それを追い出して数千万代の後孫を通して復帰しようと思うのです。それを忘れてしまう時まで。 節操というものが何か分かりますか? 韓国では節操のある女性を何と表現したでしょうか? 春香が? 春香がいいですか、悪いですか? 春香を迎えれば、李若様(*李という若様)になるというのです。韓国が「禮義之國」(=礼節と義理を敬う国)という国だというのです。妻を中心として春香だというのです。女性たちが孝女を中心としては何ですか? 沈青です。女性たちがそれをしなければなりません。沈青のようにならなければならず、春香以上にならなければなりません。下(ピョン)地方長官(代官)がそばに仕えろと言っても、言うことを聞くことができません。愛ゆえに生じた生命なので、悪い愛の中で犠牲になったとしても、輝く愛によって復活するということを知らなければなりません。分かりましたか?(はい)。(日本のメンバー! 先生のみ言が会得されましたか? どうですか?(はい)。どうですか?(はい)。言葉を勉強しませんでしたね。通訳を通して会得するのは恥ずかしいことです。) さあ、きょう、父母の日を記念するのに知らなければならないのは、真の父母という言葉がどれほどもの凄い言葉かということなのです。神様が創世以降、数千万年待ち望み、どれほど恋しく、どれほど内外に、胸に傷を残しながら探してきた言葉かということを知らなければならないというのです。それが事実だとするならば、皆さんがどれほど感嘆しなければならないかというのです。神様の息子になったならば、そのように悩む父に侍る長男になり、長男になったならばどのように侍るのかというのです。千年歴史が一晩で全部木っ端微塵になくなっても、自分の伝統的姿はそのすべてのものを踏んで昇って神様の心の中に現れるのです。千尋万尋にもなる(=とてつもなく深い)どのような物でも、神様がすべて忘れてしまったとしても、自分たち二人を見て慰安を受けることができるだろうというのです。このような思いをもった絶対的な主婦にならなければならず、絶対的な夫になり、絶対的な妻になって、この宇宙の代表的家庭にならなければならないという事実を知ってこそ、その一族を中心として民族編成の中心となり、国家編成の中心となり、世界編成の中心となり、天地編成の中心となり、神様が理想とする地上天国を統一できる理想的な家庭ではないでしょうか? そうなるでしょう?(はい)。すべて頂上に登っていかなくてはなりませんね?(はい)。ですから、皆さんは皆最高を願います。 どのような父母になりたいですか? 先生の上に登っていきたいですか、先生の下に下りていきたいですか?(上に登っていきたいです)。上に登っていきなさいというのです。先生は先生の十倍、百倍の者をねたみません。自分から学んで皆すてきな論文を書いて世界の王たちがラッパを吹いて歓迎し得る弟子をもったならば、その先生はどれほど誇らしく素敵でしょうか? 同じです。私は私よりも皆優れているだろうという人をねたまないというのです。 再臨主をするという人がたくさんいるでしょう? 私が許諾するので、それ以上してみなさい。心情的に先生の前に何十倍以上懇切な人になれば、絶対滅びません。その道はいくらでもあるのです。 さあ、アダム・エバを見て神様がこの宇宙をつくったというのです。あの別世界がどれほど大きいですか? そこにダイアモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか? この宇宙に地球の何千倍大きな星があるというのです。そのようなダイアモンドの星があったならば、一度旅行してみたいですか、行って自分のものにしたですか? 欲心がどうですか? とても醜くて、何と言うか、ぺちゃんこになったかぼちゃのようだとしても、ダイアモンドの大きな星を自分のものにしたいのであって、見物したい人は一人もいないというのです。それはだれがつくってくれた心ですか? 神様がつくってくれた心です。その世界があるのです。分かりましたか? 女性たちは何カラットのダイアモンドを見て、鼻が伸びて目が回って真っ直ぐな目(=驚いて凝固した目)になって、「私を思い通りにしてください。私は売られていってもいいです」と言っているのですが、ダイアモンドの星があったならば、そこに売られていきたいですか、売られていきたくないですか? その世界の主人になりたいですか、なりたくないですか?(なりたいです)。先生の話が理にかなった話ならば、そのようにできる可能性があり、本当に妥当な話ならば一度決心して行動してみたい思いがありますか、ありませんか? ない者たちは死ねというのです。堆肥の山になるしかならないというのです。 先生もそのような夢があります。私が神様に、「私が願っていたダイアモンドの星が地球の何千万倍大きなものを願ったのですが、一つつくってください、神様!」と言えば、アダムが話しもしない時に(天宙を)つくられた神様が、アダムが完成して神様の創造理想である真の父母の立場に進んで、天地の大道という心情世界のすべてのものを知って、神様を解放させることのできる孝子の道理を果たした真の父がいて、つくってほしいと言えば、つくることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか? 私が星天国を一つつくらなければならないと考えるのです。そのような素敵な男の女に一度なりたい人は両手を挙げてみなさい。わあ! 本当ですか?(はい)。先生の十倍、百倍苦労しなければならないというのです。(笑い) 郭錠煥に、きょう私が証をなぜさせたのか分かりますか? 愚かな人にさせれば、神様が来て仕事をするので、妨害されるものがありません。分かりましたか? 自分がありません。ですから、私がさせます。今回も家庭連合を中心として何かをするのですが、自分が嫌だといって、「ああ」と言いながら、ああだこうだと言う人たちは皆、自分の何かがあります。文章を見ても、何を見ても自分がなくてはならないという思想をもっています。そのような人は天が願いません。その中に神様が入っていけません。そのような人は絶対に最高の人物として登場させられないのが先生の人生観です。神様がそうです。何の話か分かりましたか? 神様が皆さんの心に入ってきて、東西南北に「八道江山」を歌い、踊りを踊るにしても、何をするにしても、そこで拍子を合わせて、何でもできる度胸(=肝、腹)をもったのかというのです。監獄の独房暮らしのような、息苦しい所に神様が入って行けるでしょうか? 先生に学んだのですから、先生に学んだよりも大きくなければならないというのに、肝が太くなければならないですか、反対に意気地なしみたいにならなければなりませんか?(肝が太くなければなりません)。先生は太い肝をもった統一教会の息子・娘になればいいと思うのですが、あなたたちは(どう思いますか)?(はい)。どうして答えがこうなのですか? 昼御飯を食べれずにお腹が空いたようですね。(笑い) 先生は太い肝をもつのがいいと思うのですが、「はい」ですか、「いいえ」ですか?(はい)。ああ、あそこ、電気が切れますね。管理人はだれですか? 金重壽。来て、電灯が切れるのに鑑定しませんでしたか? 何が、ふふんふふん(*笑っている様子)ですか?(コスタリカに行っています)。行っていったとしても鑑定しなくてはならないでしょう。(笑い)五つか、六つが切れていたのです。歯が抜けたのと同じであり、目にゴミが詰まったのと同じなのに、それを見て管理人たちは何をしていましたか? 郭錠煥!(はい)。協会長!(はい)。奉泰!(はい)。大会場に責任をもたなかったですか? それを見ましたか、見ませんでしたか? 尋ねているではないですか? 見ましたか、見ませんでしたか?(ついぞ見ませんでした)。なぜ、ついぞ見ていませんか? 目がありませんか? それで優秀だというのは先生に通じません。分かりましたか? ここの管理人はだれですか?(私が管理人です)。それなのに、なぜ、そうのようになっていますか? 自分のおへそに穴が一つさらに空いたとしてもいいということでしょう? 先生をそのように取るに足らない人と考えるな、というのです。見えないようでもすべて見えるのです。ですから、どこかの工場に行けば、先生を最も恐ろしく思うのです。隠しておいたものを皆ひっくり返しておいたのです。明け方に何をしているのかすべて見てきたのですが、「先生はどうしてそのように分かるのか分からない。分からないようにしておいたのに、普通の人は忘れてしまうのに、先生はどうして、そのようにつねって困らせるのか」とそういうのです。(笑い)本当だというのです。それゆえ、統一教会の教主を老いて死ぬまでするのでしょう。(笑い) 世の中で、口八丁手八丁の、この世のありとあらゆる変な者たちが皆入ってきても、仕方なく頭を下げているのは、先生を料理できないのでくっ付いているのであって、料理できれば売って、ありとあらゆることをすべてするのではないですか? 分かりましたか?(はい)。 今から世界と国を収拾できる分野において、次元の高い立場に留まることのできる梯子のような版図をつくっておかなければなりません。国が訪ねてくるというのです。南北が訪ねてき、アジアが訪ねてくるというのです。 国家的メシヤは一度手を挙げてみなさい。下ろしなさい。絶対的に祝福家庭として代表的家庭を忘れるべからず。アーメンしなさいというのです。忘れるべからず。(アーメン)! 忘れるべからず!(アーメン)! 忘れるべからず!(アーメン)! (拍手)私の声より小さいですね。 それゆえ、絶対愛の主人になりなさいというのです。絶対愛の主人にならなければなりません。主人になったので、下人たちを育てることができ、息子・娘を育てることができなければならないのです。どこに行くようになっても、その村の前で長にならなければなりません。手本にならなければなりません。 史吉子! あの女性が協会長夫人の役割をした人ですが、劉孝元ですか、劉孝敏ですか?(劉孝元です)。(*郭錠煥先生答える)妻が関心がないので忘れてしまわなければなりません。「一年で墓に何回行って来ましたか」と言うと、二回行って来たそうです。今後、先生が共同墓地に行けば(=墓に入ったら)何回来るでしょうか? 十年に一回来よう、ということです。その話はそういうことです。十年に一回来るか、百年に一回来るか、どうして分かりますか? 今から訓練をしなければなりません。夫を訪ねていくのは、先生の墓でも(=お父様がお墓に入ったとして、そのお墓に行くよりも夫の墓に)十倍、百倍行くことのできる懇切な気持ちが身にしみてこそ、天下のお母様になり、お母様の後継者になり、お母様の分身になるということが分かりませんか? この者、一年に二回ですか? 協会長夫人になったのは、数多くの統一教会の女性たちが行くことのできる道を築いてあげ、手本を見せてあげなければならないのです。 ここもそうです。協会長は何回行ってみましたか? 過去と現在が分立されているではないですか。現在と過去が連結されています。きのう私が連帯という話をしたでしょう? 連帯的関係だというのです。未来の伝統を立てるためには、現在になされた中心人物を尊敬視できるのが伝統として流れていかなければならないのです。 きょう、郭錠煥がきょうも話したのですが、郭錠煥をだれが分かってあげますか? 郭錠煥を分かってあげる人がどこにいますか? 先生くらい分かってあげましたか? 分かってあげなかったでしょう? このような話を初めて聞いて、きょう初めて知るというのです。教えて理解させなければなりません。だれも分からない、郭錠煥がそのような仕事をしたと考える時、皆さんも天の命令を受けて絶対順応、絶対服従する立場に立てば、その仕事をいくらでもすることのできというのです。分かりましたか?(はい)。 私も郭錠煥が十倍以上できる自覚を覚醒させるために、証詞をさせたのだというのです。そうすれば、三百六十万双祝福は何でもありません。「私一人でもできる。私が一人でやる」と言ってみなさいというのです。二人だけそのような人がいれば問題を起こすだろうというのです。神様は一人でやると考えるのです。 郭錠煥がきょう自分の恥ずかしい話をしなかったのですが、三十六万双をしろというので、目が真っ直ぐな目(=驚いて凝固した状態の目)になって、セメントの目になって、このようにしていたというのです。三十六万双をしておいて、今回三百六十万双をしなさいと言ったら、今回は目が真っ直ぐにならずに喜色満面になって、「問題ありません」と言ったというのです。そこで、私が「ああ、私よりも優れているなあ」と思いました。それで希望をもっているのですが、後で蓋を空けてみなければならないですが、自信満々なのでここで悪い数が出るということを知らなければなりません。神様が自信満々になることのできる場を占領してしまいやすいと見るのです。いつも自信をもってはならないというのです。希望をもって絶対愛、絶対服従の心をもって自信を乗り越えることのできる努力をしなければなりません。そうして、自信をもってこそ、それが自分の所有になるのであって、自信を乗り越える努力をしないで、自信の基盤をもてば、それが盗賊野郎になります。一定のもの以外に加える分量を自分が占めることのできる立場から盗賊野郎になるというのです。分かりましたか? 先生が南北統一を中心として世界的な舞台で戦っていますが、私は自信をもちません。自分を中心として天を考えません。天を前に立てるというのです。よいことがあれば、天を前に立てて自分を前に立てません。そうしてこそ、神様が私に入ってきて働くのに支障がないというのです。分かりましたか?(はい)。驕慢で自分があれば折れます。目に見えるようになり、穴がぱんぱんと空くというのです。命令一つでに行けるようになれば、真っ直ぐな道、一つの道しかないというのです。そのようになれば、天が全部してくれるのです。 日本の食口たち分かりますか?(はい)。この者たち、信仰を前に立てて天道を奉じて行くときに、自分たちの責任はなおざりにして、天が計画するものを妨げていながら、恥を知らずにいるのです。きょう七百名が全部自分の責任だと決心して帰らなければなりません。分かりましたか?(はい)。(日本のメンバー《はい》。今まで日本のメンバーたちは弁明をたくさんしたというのです。先生の前に弁明は必要ありません。…) 国家的メシヤというのはイエス様の解怨成就をしなければなりません。アダム家庭が失敗したものを、イエス様が解怨成就しなければなりません。家庭的メシヤを立てて、国家を投入してローマを消化しなければならないことに責任を果たせなかったのです。先生はローマであるアメリカや南米を中心として先頭的立場に立ったのですが、彼らが反対できる時代的運勢はすでに過ぎていきました。世界を収拾できる立場に立っているので、世界的メシヤの立場で国家的メシヤを派遣したのだというのです。国家的メシヤが責任を果たせなくて、一つの国、二つの国がないといっても神様のみ旨が築かれません。イスラエル選民一国でもって築こうとしたものが、百八十五か国に全体均衡的なイスラエル圏を許諾したのです。それゆえ、万民が共に天の祝福を受けることのできる対等な立場に上がっていくのです。このようなことをする橋梁を架けるために行ったのが国家的メシヤです。その国の難しさはその国のメシヤが先ず責任をもたなければなりません。何の話か分かりましたか? だれかに責任を負わせるなというのです。 先生が助けてあげるからと言って、そのお金をもらってはならないのです。自分の家を売り、一族を売ったとしても、その国を生かすことのできる業をしなければならないのです。先生はもてる財産のすべてを動員して、南北米を統一するためのものと同じように、先生のような精神で統一的な一画にならなければならないというのです。同じ計画の下に同じ形態でしてこそ、天が協助するというのです。そうでなければ天が協助しないというのです。それゆえ、国家的メシヤはその国の総督と同じです。全権をもって治めることのできる時代が来たというのです。 そして、百二十名の日本女性宣教師を送るのですが、この人たちが活動する宣教責任が何かと言えば、大使館です。各国の大使を料理するのです。そうすれば、日本が百八十五か国を中心として一つの大使館に百二十名ずつぶら下がっているので、百八十五か国の全世界の日本の大使は完全に私たちのペースに入ってくるのです。各国はそのようなペースに入っていくのです。 このようにしておけば、世界の頂上級のすべてに連結することのできる立場が広がるるというのです。これが組織されれば、国連のようなものは大使を送って、国連事務総長を中心として国連会議を開いて、国連に加入するのは問題ないというのです。そのような世界の復活圏を中心として計画するので、ここに歩調を合わせるために、国々を橋を架けて高速道路をつくって走ることのできるようにして、韓国から出発して百八十か国を回っていくのに支障ないようにして、それから飛行機を飛ばなければならないというのです。何の話か分かりましたか?(はい)。 そこで、百八十五か国に、宣教師百二十名ずつ行く人たちを中心として、大使館を中心として氏族的メシアになる七か国の大使を動かして、先生が行くようになれば、その国の大統領と閣僚を教育できる準備をしなさいというのです。今年にするべきことが何かと言えば、百八十五か国の巡回路程は、父母の日に出発しなければならないというのです。そうするためには、飛行機を買わなければなりません。 どうですか、飛行機を買わなければなりませんか、買ってはなりませんか?(買わなければなりません)。よい飛行機を買わなければなりませんか、悪い飛行機を買わなければなりませんか?(よい飛行機を買わなければなりません)。そうすれば、お金はだれが出しますか?(私たちが出します)。出しなさいというのです、今すぐ。(笑い)そのような計画するすべてのものが中断されてしまいました。 一日に十か国行くつもりです。先生の性格で一日に十か国行けば、何日ですべてできますか? 世界を全部訪ねていって、名のある人たちに影響を及ぼすようにして話をすべてしてあげて初めて、先生の使命がすべて終わります。国家的メシヤが責任を果たせないので、その道を私が開いてあげなければならないというのです。分かりましたか、何の話か?(はい)。 何時間になりましたか? お腹が空きましたか、お腹がいっぱいですか?(お腹が空きました)。私のお腹は鉄甲腹(=お腹の空かない腹)ですが、私もお腹が空いたので、皆お腹が空いたでしょう。 さあ、これくらいにして、次のプログラムをご飯を食べて引き続きするのです。何時ですか? 二時十分なので、四時に集合です。(拍手) 氏族的メシヤの話がまだ終わっていないので、それに対する話を劉正玉がしなさい。ウルグアイでしていたすべてのことをもう一度強調しなさい。この者も国家的メシヤがそれを知りません。やったものが一人もいなかったというのです。私が裏の部屋で聞くつもりですから、抜くものがあるか、全部鑑定するつもりです。分かりましたか?(はい)。四時から始めなさい。(はい)。何時に公演ですか?(七時です)。ここから近いでしょう? 二時間話してください。私が喉が詰まって話してあげられそうにないというのです。私が話してあげれば悪口ばかりしきりに出ていくのでだめです。「この者ども!」というようにです。まだ、この者どもと言いませんでした。そのような悪口が出ていくようで、話さないつもりなので、集まってしてあげなさいというのです。(ケーキを切らなくては…)ケーキはその時切るのです。(一同気を付け! 真のご父母様に立ったままに敬礼! 直れ)。(拍手) お母様がケーキを切ろうと言っていますね。私がお母様に決済をもらうので、仕方がありませんね。(祝賀。ケーキカット)(万歳三唱)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.13
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第14回「愛勝日」の御言1997年1月2日、ブラシル・サンパウロ 復帰摂理の公式 祝福は血統を転換しなければなりません。では、この血統転換をだれがするのかといえば、真の父母様から成さなければならないのです。 堕落することによって、堕落したエバとエバの息子がいます。カイン世界の父母と息子はいますが、アベル世界には父母と息子がいません。 これをどのように転換させるかが問題です。アベルが立つためには、母親がいなければなりません。母親がいるためには、父親がいなければなりません。ですから、再臨が必要なのです。 なぜ、この地上に再臨が必要かといえば、母親を立てて、アベルの子供を束ねて、カインの子供を救いカイン世界から切ってしまわなければならないからです。カイン的世界は、アベル的世界とは異なる世界ですが、切って地獄に送ることはできません。反対に従っていかなければならないのです。 アベルの父母を中心として一つになったアベルの前には、カインの父母が従わなければなりません。カインの子供が従い、サタンが一番後ろに立たなければなりません。天国に入っていくのは、一つの血統を通して、一列で入っていかなければなりません。 ところが、堕落した以後は、一列で入っていくことのできる道がありません。これを連結させるための出発がアベルでした。アベルはカインを屈伏させなければならないのですが、それは強制ではありません。 アベルはカインのために犠牲になり、カインを自然屈伏させなければならないのです。自然屈伏させて、カインとアベルが一つになったその土台の上で、カイン世界の母親を転換しなければなりません。強制ではなくて転換するというのが復帰摂理の公式です。 ところで、イエス様が何をしなければならないかといえば、血統転換です。これが復帰世界のすべての結論です。メシヤが来て、統一された世界の上にイエス様が新婦を選んで、カイン アベルの勝利の覇権の立場に立たなければならないのです。ユダヤ教とイスラエル民族が、アベルとカインです。 ここで母親を中心として一つになれば、その基準は、血統的な因縁で母親と子女が個人的に勝利した立場に立つのです。王が先に愛さなければなりません。愛の出発は王から始まります。王とアダムを代身してメシヤがその仕事を成就して、イスラエル民族とユダヤ教が侍る王宮を設定して、イエス様は結婚式さえすればそれで終わりです。イエス様は何をするのかといえば、血統転換です。 イエス様を中心として家庭王国を迎え、家庭が成立したならば、イエス様が祝福をしてあげるのです。祝福の内容が何かといえば、旧約時代に祭物をささげた条件、その次に、新約時代に息子のための条件、母親のための条件、父親のための条件、家庭のための条件、国のための条件を立てて越えていくのです。 それゆえ、このようなすべてのものを失い犠牲にしたので、その内容を全部、復活させる基盤がなければなりません。ところが、イエス様がメシヤとして来られて失敗したので、イエス様が血を流しました。そのような血を流した歴史を通して、祭物の旧約時代は過ぎ去り、新約の祭物時代に移っていくのです。 それゆえ、キリスト教自体が、行く所ごとに血を流すのです。血を流す目的は何かというと、今後、来られる父母の道を準備するためです。万物を犠牲にしたのは、息子たちが行くべき道を準備するのと同様に、息子がこの地に来たなら、息子は父母が来る道を準備しなければならないのです。キリスト教はみ旨を成せなかったので、父母の立場を成せなかったので、父母が来ることのできる祭物の過程を経ていきます。 キリスト教が祭物の過程を経て血を流すのは、来られるご父母様のためです。再臨の目的のためにこのようになるのです。そうなれば、ご父母様が来て血を流してはならないのです。また、ご父母様はどこに来られるかといえば、完成期ではありません。 アダムは長成期完成級で堕落しました。長成期完成級は国家基準です。それゆえ、イエス様が国家基準を通して来られたのです。しかし、国家的メシヤになれませんでした。ですから、世界舞台の問題を連結させ、世界的メシヤ時代を全部、未完成で残しておいたのです。 では、再臨主がこの地に来られて、世界的舞台で全部祝福をするといっても、すべてのものがひっくり返されるのではありません。長成期完成級で堕落したので、そこから七年路程があります。 この七年路程が何かというと、一九四五年から一九五二年までの七年路程です。この峠を越えなければなりません。ですから、長成期完成級を越え、世界基準を越えるにおいて、祝福の基盤を築かなければならないのが原理観です。 キリスト教が先生を迎えたとしても、完成の立場ではありません。長成、完成の立場としてのイエス様が失敗したのを担って、そこから、世界的祝福圏内に展開していくのです。それが七年以内に皆、終わるのです。 蕩減復帰の原則 祝福は血統転換です。なぜ、血統転換をしなければならないかといえば、二つに分かれたからです。堕落した母親と息子がおり、復帰される母親と息子がいます。 では、血統転換が何かというと、アベル的母親とその息子に接ぎ木する役事です。血統転換は、自分たちの努力ではできません。先生がそのことを、サタン世界で実践 勝利してきたので、その伝統に従って血統転換の礼式が生まれるのです。そうでなくては、神様の血族である祝福の場に入ってこれないのです。そうなれば、二人の母親の愛の門を通じなければならないという論理が出てきます。 横的に見れば、ヤコブ家庭においてレアとラケルが争いました。ラケルが本来は本妻です。ヤコブから見るなら、レアの妹のラケルのために七年間苦労しました。本妻にはだれがならなければならないでしょうか? ラケルがならなければなりません。ところが、実際に結婚した人はだれでしょうか? レアです。 ヤコブに対して、神様はどのようにレアを受け入れさせたのでしょうか? それは不可避的なことです。二人の母親の関係が、この局面で覆されなければなりません。そうするためには、家庭的基準を立てなければならないのです。ヤコブを中心として、選民イスラエルが選民圏を結成できる、そのような勝利者になるためには、血統を転換させなければならないのです。 リベカは何をしたかといえば、自分の長男をだまし、父親をだましました。エデンにおいてエバの堕落が何かというと、アダムをだまし、神様をだましたことでした。これを蕩減復帰しなければならないのです。蕩減復帰の原則は、不可避的なものです。このようにして、引っ繰り返さなければなりません。 タマルも同じです。タマルはリベカの孫の嫁として、祖母がすることを全部よく見て、多くの世話をした女性です。それゆえ、内的な面でそのような事情を知っていたので、何か困難があっても、「天の啓示がこうなので、このことを断行しなければならない」という内的な何かを感じたと見なければならないのです。 またリベカも、長子と父親をだますことを通して神様のみ旨が成されるということは知りません。リベカは何も知りませんが、そのような命令に従って順応したのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従したのです。自分の一族、祖父母を愛し、全イスラエル選民とアブラハム、イサクの神を愛したのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従するところには自分という意識がありません。弁明がありません。 タマル自身は、リベカの影響を伝統的に受け継いだのです。タマルの最初の夫が死に、次男である夫も死んだので、一二男との結婚をユダは許しませんでした。ですから、血統を継ぐ道は自分の舅しかいないので、しかたなくユタを誘い込んだのです。 では、エバはどのような立場にあったのかといえば、神様の娘であると同時に妻です。この二つを知らなければなりません。娘であると同時に妻の関係にあるので、娘の相対し得る息子の立場がだめなときには、父親を中心としても帰らなければなりません。復帰の道ですから、息子を底辺として、父親を踏み越えていかなければならないのです。 タマルには、そのとき夫がいませんが、どのようにしたかといえば、娼婦の姿をして舅をだまし、道ばたで舅を誘い込み、双子の赤ん坊を身ごもったのです。それが、イスラエルの一代祖になったのです。これによって血統が転換されたのです。 ここからイスラエル選民圏が生まれました。血統が変わったのです。しかし、ここで家庭的基盤を中心とした勝利的版図を備え、イスラエルの国に小メシヤが来たとしても、対等な兄弟の国家基準に至っていないので、イスラエルが国家基準に上がるまで受難の道を行くのです。 このような受難の道を経て、二〇〇〇年を過ごしながら、環境的に汚されたその血統を再び清算しなければなりません。ですから、イエス時代のマリヤも同じです。 ザカリヤ家庭の秘密 エバがアダムをだまし、神様をだましたのと同様に、エバの立場にあるマリヤもヨセフをだまし、その父親をだましたのです。父親はヨセフが婚約したので、結婚して幸福な家庭を築いてくれるという父親の理想を、マリヤは完全に奪ってしまったのです。 それゆえ、復帰の道は“蕩減”という決裁を除くことができません。今日、統一教会員たちは蕩減という言葉は知っていますが、蕩減の路程は行きませんでした。蕩減の道は先生が行ったので、皆さんもご父母様と絶対的に一つになることによって、越えていくことができるのです。 蕩減というものを知らずに、今まで来たのです。ヤコブ家庭でも、レアとラケルが引っ繰り返りました。全部、長子権の母親の立場であるべきラケルが、レアに奪われました。本妻にラケルがなるべきなのに、レアがなったのです。 ですから、ヤコブ家庭において二人の母親の血統を受け継いでいくようになります。サタン世界をそのままにしてはいけません。一人の母親の子女を中心として、そこにレアとレアの息子十人が、ラケルの二人の息子、ヨセフとベニヤミンの後ろについていくようになります。それは、ヨセフとリベカの責任です。 また、レアの母親がヤコブの母親と一つにならなければなりません。二人の母親が一つになり、どこに行かなければならないのかといえば、自分の家族を連れて、ヤコブの所に来て、本妻が妾の立場に立たなければなりません。 これが天命であり、私たちが必ず行くべき運命の道です。ラケルを本妻の立場に立て、その息子であるヨセフはアベル型の兄であり、ベニヤミンは弟です。しかし、十人の兄たちは母親をはじめとして、ヨセフと一つにならなければならないのです。 そうして、ヤコブ家庭で収拾できなかったものを、マリヤの時代に家庭的基準に立って、氏族が出発することのできる家庭的基準で、母親と子供たちを収拾すべき責任がヤコブにあったのです。 これを国家的時代に来たので、イエス様が生まれるときに、マリヤを中心として再蕩減するのです。レアとラケルを代身して収拾するのです。それがザカリヤ家庭です。 ザカリヤは、ヤコブの延長、国家的すべての血統を転換させることのできる国の先祖として登場するのです。エリサベツは、本妻です。そこにまた、だれが入らなければならないかというと、マリヤが入らなければなりません。 世の中で見れば、奇怪なことです。だれの妾かといえば、自分にとっては、姉の立場にあたる人の夫の妾なのです。ザカリヤがだれかといえば、いとこの夫です。お姉さん格のいとこの夫を奪うという、そのような女性がまったくどこにいるでしょうか? そのとき、ザカリヤもそれをすべて理解し、エリサベツも理解していたことを知らなければなりません。ですから、エリサベツは、マリヤを許したのです。レアがラケルをだまして、すべてを奪っていったその反対の出来事が行われたのです。マリヤは自分の行くべき道を知ると、メシヤを身ごもらなければならないということが分かったのでした。 エリサベツもそのことを知り、マリヤに同情して、そのことに協助してあげるために、自分の夫の部屋にマリヤを案内してあげたのです。夫を譲ってあげるのです。 それで、三か月間何をしたのかといえば、一緒に暮らしたのです。そうでなければ、一日、二日会って、子供を身ごもることができますか? 家に帰ってきたのは、妊娠して帰ってきたのです。 エリサベツは、妹の立場のマリヤを愛して、自分の夫をあげたのです。女性として、どれほど苦しいことでしょうか? それを克服し、神様のみ旨のために絶対信仰、絶対愛、絶対服従することのできるエリサベツがいたということを知らなければなりません。 またマリヤにとっても、世の中の常識で考えるとき、それはあり得ないことでした。けれども、すべて天の指示があり、それにより、そのことを絶対信仰、絶対愛、絶対服従でなしたのです。 アダム家庭で神様が啓示したのが、絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。ですからこの伝統を立てなければ、神様のみ旨が立つ場がないということを知らなければなりません。 そうなれば、マリヤも絶対信仰、絶対愛で姉を愛するのです。また、姉を愛するように、姉の息子も愛するのです。また、姉が愛する夫も愛さなければなりません。そこに絶対信仰を持ち、姉の夫、姉、息子を愛したのです。 姉の夫の愛を受けるに値し、エリサベツの愛を受けるに値し、洗礼ヨハネの愛を受けるに値するのに、洗礼ヨハネが責任を果たせませんでした。 そうして、ヤコブ家庭で二つの血統が延長してきたのが、ここで一つにならなければなりません。一つになった土台の上に、これが成り立たなければなりませんが、そのためには、家庭を持たなければなりません。 イエス様がみ旨を成すためには、新しい血統、国家的王圏の中心となり得る血統として、イスラエル民族を選民に立てて、選民を中心とした国家的王の基準を結実できる土台を備えるのが、ザカリヤ家庭であり、エリサベツとマリヤ、洗礼ヨハネとイエス様でした。 これを愛を中心として見るときは、すべてが怨讐です。愛するザカリヤに対しては、そうでないかもしれませんが、エリサベツの前にいるマリヤも怨讐であり、マリヤの息子も怨讐です。またマリヤにおいても、夫の愛を中心としてはザカリヤも怨讐です。洗礼ヨハネも怨讐です。怨讐の感情を持てば、復帰の道は永遠に不可能です。怨讐の概念を持てば、統一圏がなくなるという伝統を知らなければなりません。 怨讐のザカリヤ家庭において、エリサベツはマリヤが自分の夫を奪い、愛を奪った怨讐ですから、どれほど悩んだでしょうか? そしてやはり、後にはうまく越えられませんでした。最後まで愛することができなかったのです。 しかし、マリヤは易しいのです。姉から引き継ぎ、姉の立場と自分の息子の立場を伝授されたので、それほど難しくはありません。一番難しいのが本妻の立場です。本妻のエリサベツと洗礼ヨハネとザカリヤを中心として、二つの血統が一つにならなければなりません。 一つになって、どのようにならなければならないかというと、弟(妹)が兄(姉)さんにならなければなりません。カイン・アベルを復帰しなければならないのです。長子権復帰です。兄の立場に弟がならなければならないし、弟の立場に兄がならなければなりません。母親の立場も同じです。 伯母(エリサベツ)の立場が妹(マリヤ)になり、妹(マリヤ)の立場が伯母(エリサベツ)の立場になり、ザカリヤは昔、サタン的な立場の血統を残したその血統を否定し、イエス側の傍系的な系列の主人として行かなければなりません。これが、どれほど大変でしょうか? 皆さんは、原理を知っていますが、彼らは何も知らないのです。ですから、どれほど犠牲になったかを知らなければなりません。 キリスト教は主を迎える新婦国家 ヤコブの家庭で、二人の母親の血族を中心とした十支派と二支派の北朝イスラエルと南朝ユダが、世界版図の闘争の歴史を展開したのです。アダム家庭でカイン・アベルが分かれ、ヤコブ家庭で家庭を編成しますが、二つの血族が生まれたのです。 アダム家庭は、サタンの血族です。選民が生まれるのに、二つの血族であったため、どれほど大変だったでしょうか? 血統復帰をするために二千年間役事をして、洗礼ヨハネとイエス様の時代まで来たのです。 何千年前になされた歴史の事実を、現世において蕩減しなくては天の国に帰る道がないので、そのような悲壮な闘いをしたのです。このようなことを知っている人はいないのです。 神様も知っていますが、発表することができず、サタンも知っていますが、だれかに教えてあげることはできません。神様が干渉して、教えてあげる内容ではありません。 アダムとエバが皆知ってから、アダムの家庭、アダムの一族たちが皆知るべき問題です。そのようなI族たちがいません。ですから、サタンも教えてあげることができないのです。 サタンも反対しますが、サタン自身も、教えようとしても教えてあげられないことです。完全に塞がれたのです。これは、だれがしなければならないのでしょうか? 蕩減復帰路程において、メシヤが来て干渉しなければならないのです。 旧約時代は祭物時代、新約時代は息子祭物時代です。キリスト教は霊的基準だけを残したので、体が打たれるため、キリスト教は血を流さなければならないのです。サタンが食いついてぶらさがるのです。 サタンは、「イエス様の体は自分のものなので、これを取り戻すためには、キリスト教自体が血を流して、歴史過程の勝利の覇権を持たなければ立つ場がないのではないか」と言うのです。それを再総清算する戦争が、第二次世界大戦です。 キリスト教は霊的救いです。霊的なもので、実体的な関係を結ぶことはできません。それゆえ、聖霊は母なる神としてやって来るのです。天と地のこの中間にはサタンの権勢があるので、宗教を信じる人たちはこれを突破して上がっていかなければなりません。 それゆえ、聖霊とイエス様が恋愛する心情以上の心情を持たなければ、メシヤと出会う道がないのです。だからといって、世の中のサタン世界が精誠をささげることのできる自由環境にはなれませんでした。 精誠をささげて祈祷するときは、通じることができますが、その環境を去れば離れるのです。このことを千回、万回しながら、霊界が近づいてくるのです。一番最初には、一点がら始まって、どんどん広がって平準化時代が来るのです。 第一次世界大戦、第二次世界大戦は外的な戦いでしたが、第三次世界大戦は思想戦を中心として、蕩減してくるのです。第二次世界大戦を中心として見ると、日本は雑教国家です。英国は唯一神を信ずる国家です。また、アメリカは英国が産んだ息子です。アングロサクソンの直系です。息子が母親を主管します。それが、英、米、仏を中心として勝利した統一連合国を中心として見るときに、だれが中心なのかといえば、アメリカが中心です。フランスでもなく、英国でもありません。 なぜ、そうでなければならないのかといえば、メシヤを迎えることのできる立場だからです。メシヤ国家をつなぎ合わせるためです。メシヤは二番目として来られるのです。二番目に立った息子が、母親とサタン側を化身して初めて、第二次世界大戦でキリスト教が勝利圏を立てることによって、その福を受けたのはどこの国かといえばアメリカです。アメリカは何かといえば、世界統一の天の側の長子権を復帰した息子です。 アメリカ、ドイツ、フランス、英国もそうです。中心は一つしかありません。母親になることはできません。エデンの園に母親がいましたか? 天使長は、どうしてイエス様の上に立つことができますか? 絶対服従しなければなりません。 それゆえ、息子を中心として世界版図の立場に立ったのがアメリカです。第二次世界大戦以後に築かれた統一文化圏世界に、王子の立場に立ったのがアメリカです。このアメリカは、何をしなければならないのでしょうか? 長子の立場で、世界国家を弟妹国家として収拾しなければならないのです。弟妹には命令できます。母親にまでも命令できる最高の立場に立つのです。けれども、この者たちの前に何をしなければならないのかといえば、来られる主を迎えなければなりません。 なぜ、主を迎えなければならないのでしょうか? キリスト教は新婦国家です。主が来られるのを待ちます。カトリックも主が中心であり、新教も主が中心であって、マリヤが中心ではありません。また、イエス様を中心として見れば、イエス様が中心ですが、来られる再臨主が中心です。その再臨主がだれかといえば、息子の立場ではなく、父母として来られることを、キリスト教徒は知らずにいます。 エデンの園での神様の戒め ご父母様を立てて、祝福して血統転換することにより、一つの道へと行くことのできる血族をつくらなければならないのが、統一家においての合同結婚式です。 これはすべてのものを克服するのです。超民族的、超国家的、超人種的であり、超宗教的、超文化的、超伝統であり、サタン世界にあったすべてを越えて立った立場で祝福するので、サタンが讒訴できる何の条件も認めない場であるということを知らなければなりません。 祝福したという立場は、自分の国を忘れてしまわなければなりません。今日、統一教会員は、約婚してからは、「高校しか出ていない!」と言って、つばを吐きました。それ自体が矛盾です。 今まで皆さんは、どのように暮らしましたか? 今まで自分がどこかの大学を出て、何かをしたにせよ、迫害される統一家に誇るべきものは一つもありません。エデンの園で祝福を受けたならば、迫害があるでしょうか? 統一教会の看板も、私は願いませんでした。 統一教会で職責のある先輩であるとか言っても、その先輩は迫害される場で祝福を受けたのであって、歓迎されて祝福を受けたのでしょうか? そのような意味で、すべてのものが引っかかっているのです。ただ、目的が何かと言えば、来られるご父母様が願いです。キリスト教は知りませんでした。イエス様だけが来られると思ったのであり、父母として登場するとは思ってもみませんでした。 統一家の人々は、キリスト教を信仰する以上に、ご父母様と一つにならなければならないのです。そのことを、はっきりと知らなければなりません。 国家メシヤとして行くとき、だれだれはどこの国家メシヤとして行き、自分はなぜ、あのような国のメシヤとして行かなければならないのか、と不平を言う人がいます。アダム・エバは砂漠にいれば、砂漠で生きなければならず、山奥にいれば、山奥で生きなければなりません。そこに不平はあり得ないのです。 絶対信仰です。どこまでも、絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。絶対愛がなければ、絶対愛を中心とした血統転換が不可能です。その絶対愛の因縁というものは、神様ご自身が血統を立てるためには、絶対服従という立場において、神様の血統を捜してきたのです。 エデンの園の戒めは何でしょうか? 絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。それが何かといえば、「善悪を知る木の果を取って食べるな」というものです。善悪を知る木の果が何ですか? 女性の生殖器です。 なぜ、そうなのかと言えば、そのとき女性は一人であり、天使長は三人で、神様を含めれば四人の男性がいます。ですから、神様が警告するのが何でしょうか? エバに対して注意するのです。「貞操を守れ」と言うのです。それゆえ、神様を絶対信仰すれば、天使長をなぜ信じますか?なぜ、関係を結びますか? 神様ご自身は、どれほど深刻な立場で、戒めをくださったでしょうか? 「取って食べるな」というのです。韓国語では、「性関係を持つな」という意味で「取って食べるな」と言うのです。女性たちが男性を誘い込んで、関係を結んだのを「取って食べた」と言いますか? 男性が女性を誘い込んで強制して関係を結んだことを「取って食べた」と言います。 韓国語は啓示的です。そのような言葉も、そのようにきっちり合わなければならないのです。そうしてこそ、解放が可能なのです。 では、祝福という場に再臨主が来て何をするかと言えば、旧約時代の祭物権、新約時代の息子の祭物権、これが皆失敗したので、父母時代の祭物権として父母が祭物になるのです。父母が千万回犠牲になったとしても、神様を地上にお迎えしなければならないのが父母の責任です。 神様と一体的理想を成せなかったので、千万回死んだとしても、神様がこの地に臨めば、死んだとしても神様によって、復活することのできる道があるのです。その精神で行くというのです。死ぬ道を覚悟して行くのです。皆さんはどうでしたか? 自分勝手に、復帰の道をどのように行くのでしょうか? 今まで、「一線を越えなければいい」と、だれが教えましたか? すべて明らかにしなければなりません。国家が成立すれば、その時になって霊界から打たれてしまいます。天使が来て整理するのです。 三百六十万双結婚をする前にすべて明らかにしなければなりません。「一線を越えなければよい」という話がどこにあるでしょうか? エデンの園で一線を越えず、対することのできる女性がいたでしょうか? 男性がいたでしょうか? 先生の最も大きな悩みは、事の処理をどうするかということです。この地で別の血族をつくったものをどのようにすべきかというのです。砂漠地帯に隔離して、自動的に消耗する道を取らなければなりません。そうすれば、彼らが霊界に行って残ればどうするかというのです。最も頭が痛いことです。その一族をすべて滅亡させて、処理するといっても処理できないのです。そのような面から見るとき、神様は愛です。 祭物の歴史 英、米、仏が一つになって、ご父母様に侍ることができませんでした。父母を荒野に追い出しました。人類歴史は、六千年ではありません。数千万年過ぎてきながら捜してきたのが、この道です。 その一時、連合国を中心としてメシヤを迎えて、平等的な家庭理想の世界版図を神様が築いて、一つの血族をつくるためのみ旨でしたが、先生を追い出したので、どのようにして血統復帰するのでしょうか? これが祭物です。これをどのように克服するかというのです。皆さんがこれを越えるためには、先生のために生きた祭物にならなければなりません。祝福を受けた家庭は分けることはできません。分けてはなりません。男性、女性として生きた祭物としてささげなければなりません。 そうでなければ、祭物は裂かなければなりません。ですから、統一教会の先生は、今まで重要な時には妻と息子を分けました。妻と夫を分けました。 息子・娘を皆打ってしまいました。息子はサタン側の死地に出すのです。出すときには、分かれた皆さんが一つになって生きた祭物になってこそ、神様が一致した祭物として受け、皆さんの息子・娘たちも生き返るのです。これが祭物の歴史です。 このような観点から見るとき、統一教会のすべてのものが失敗です。歴史的な新婦圏を代表したキリスト教が失敗したのです。失敗したので、先生は、英、米、仏を捨てたのです。 日、独、伊は、サタンの絶対所有的立場に立っており、天の国として立った英、米、仏を破壊させるために、サタンが最も愛し、サタンが国を中心として立てた代表的なものです。英、米、仏をサタンが捕らえたので、サタンが二つとももらうことはできません。祭物を二つとも持つことはできません。 サタンが右側を持てば、左側を神様が取らなければならないのです。ですから、神様がしかたなく英、米、仏をサタンに譲り、神様は、日、独、伊を取るしかないのです。 唯一神を中心として、歴史上で血を流してきた母の国を捨て、雑神に仕える日本の国を母の国として立てずしては、再臨主が地上に定着する条件がありません。すべて奪われて、荒野に追い出されました。英、米、仏の行く道を反対する側が生まれたのです。ですから、教派分裂が生じるのです。 正統を誇る輩たちのまえに、怨讐視される異端の輩が現れるのです。さまざまな異端の輩が現れることによって、異端の中でそこに残ることのできる一つの正統の道を探していくのです。 先生は、解放時代が来たといって、万歳を叫んでみたことはありません。行くべき道を知っています。皆さんも、はっきり知らなければなりません。それは、「愛勝日」まで行く道です。 ところが皆さんは、家庭的祭物の道を嫌がりました。息子と一つになって四位基台の祭物にならなければ、結果主管圏を越えることができません。直接的な主管圏に入るためには、息子・娘を祭物としてささげ、勝利した覇権の立場を持たずしては、直接主管圏に入れないのが公式です。 統一式と「愛勝日」 興進が昇華しました。興進が昏睡状態にいるとき、そのマスクだけはずしてしまえば死ぬのです。すべての面で希望がない立場まで行くのです。 こうして見ると、一人の興進を中心として、サタンはあちら側におり、こちら側にはお母様、お父様、神様がいます。息がとまる前には、まだ天の側にいます。死ぬ前にすべて処理しなければならないのです。その酸素マスクを自分の手ではずさなければなりません。お母様もそれを見なければなりません。 そこに、少しも悲しい涙を流してはならないのです。祭物に対する未練を持ってはなりません。寸分でも心情的な悲しみがあり、涙が先立ってはいけないのです。人間的な情緒が先立ってはなりません。天情が先立たなければならないのです。 神様が涙を流すとき、神様を慰めるために、「神様! そうしないでください!」と言いながら、涙を流せば許されます。自分が涙を流しては、祭物になりません。その立場に立つのです。これは話だけではなく事実です。数日を前にして、その準備をするのです。これが統一式です。 「あなたはお父様と一つになった。心情的に生涯一つになってきた。そのような条件を残すことができ、あなたはまたサタン側でもこの家庭で二番目である。私たちの歴史時代から、サタンの攻撃の第一の標準になっている。私がそれを知っている」という、このすべての条件を越えて、お父様が責任を持って勝利の覇権を樹立しなければ、天下が崩れます。 どれほど深刻か考えてみてください。息子が死ぬのが問題ではありません。それを念頭に置くことができません。天地が感動するのです。 そこにどうして自分の子供だと考え、涙が先立っていくのかというのです。そのような立場に至らなければならないのです。私だけがそうではいけません。神様も私についてこなければならず、お母様も私についてこなければなりません。 ですから、死の淵に至らなければなりません。死を見ても、振り返って神様を慰労しなければなりません。お母様がそうでなければなりません。振り返って「お父様! 悲しがってはなりません」と、勧告しなければならないのです。また、お父様は「神様! 悲しがってはなりません」と言わなければなりません。その統一された立場が統一式です。 興進自体がそのような立場にいて、統一的な立場に生きた祭物として立て、お母様も一つの心、お父様も一つの心、神様も一つの心になっても愛の土台がありません。その淵で、痛哭することのできる立場に立って、堕落しなかったエバに祝福される愛の版図をつくっておかなければなりません。 息子を愛する代わりに愛し、神様を愛する代わりに一体を成さなければならず、お父様、お母様が一体を成さなければならないのです。死んだ息子を中心として死亡圏を越えて、堕落を知らないアダム・エバの初夜の愛の道を植えておかなければならないという、とてつもない立場です。 それはあり得ることでしょうか? お母様がお父様の前で、涙を流してはなりません。どれくらい大変なことでしょうか? この立場を越えなければなりません。そうでなければ、統一式がすべて壊れていってしまいます。その愛の兆場がその上に立つので、サタンはここに侵犯できません。これが復活圏です。 ですから、“死”に勝ったという事実的な内容が提起されたので、「愛勝日」という言葉が現れたということを分かったことと思います。 皆さんの家庭は、それ以上の愛を家庭にもって生きなければならないと、毎日のように修練過程を経て、その伝統をそのどん底から立てることのできる立場を探さずしては、この宇宙に愛の理想を通して、自由遍歴することのできる幸福の道、希望の道がないということを知らなければなりません。 お母様とお父様と興進と神様が全部一つになって、創造理想の覇権が提示されました。神様から、お父様、お母様、興進まで、このようにして行く場合には、イエス様を指導することができ、霊界を指導することができる生きた祭物となるのです。 すべて死んだ祭物として行きました。死んだ祭物が、霊界を完全に主管することができるので、イエス様のお兄さんの立場に立つのです。このようになったので、霊界と肉界が結婚することのできる勝利の版図を築いてくるのです。 皆さんの三大先祖、三大子女の死体を中心として、そのどん底に入っていって、本然の愛の心を中心として、家庭的愛の理念の土台を築くための努力をしなければならないのが、祝福を受けた家庭が行かなければならない道です。先生が立てた伝統の道を、踏んで行かなければならないという事実を知らなければなりません。 「愛勝日」について分かりましたか? (はい)。深刻なのです。ですから、涙を流してはいけません。祭物です。アブラハムがイサクを祭物にするとき、涙を流したでしょうか? 自分の息子を考えるのですが、天の解放のために祭祀を行わなければならないのです。 愛の祭司長、家庭の伝統的父母の祭司長の立場に立たなければなりません。そのことを取り除く者がいません。神様も真のご父母様も取り除けず、サタンも取り除けません。ですから、「愛勝日」です。愛だけが勝利するのです。 皆さん、今まで暮らしてきた家庭を中心として、あるべき立場まで、どれくらい距離があるか考えてみなければなりません。教えてあげなくても、自他共によく分かるはずです。 解放時代を願う先祖 三百六十万双の祝福を完遂すれば、統一天下になります。統一天下は、何を中心として回っていかなければならないのでしょうか? それは錨です。地上世界の悪魔の主管は、伝統的に習慣化されて染まって汚れているものを清算することのできる錨です。綱でつないで皆さんを押し出すのに、錨綱が引き抜かれたり、切れてはならないのです。 それが皆さんの家庭にならなければならないし、皆さんの一族にならなければなりません。切れるかと思って、一族を束ねて国家的な祝福家庭、メシヤを皆束ねてあげるのです。 国家的メシヤの立場は、サタンが相対できません。結果主管圏を持ちます。長成期完成級まではサタンが主管する圏内ですが、祝福を受けて息子・娘を持ち、先生が認定するのです。血統転換して自分の圏内にいる絶対的な存在を認定するのです。 そうでなければ血代転換がありますが、血代転換ができないのです。それで、お母様の責任です。数多くの女性たちが、先生を中心として怨讐です。旧約時代の新婦もおり、新約時代の新婦もおり、成約時代の新婦もいます。それが宗教で言えば、四大宗教が残っています。キリスト教で教えるものは、仏教で、儒教で、皆教えてくれるのです。 こうして二つの主流が現れ、お母様を中心として一つになって、帰っていかなければなりません。理論的にそうです。二つの世界が長子権、父母権、王圏が一つになって、天地の大道で堕落しない完成基準の絶対愛を中心として、絶対愛の伝統がすべて打ち込まれ、天の果てまで軸になって、これを中心として世界が帰っていかなければならないのです。そのある焦点を合わせておかなければなりません。 神様が縦的な父母であり、アダムが横的な父母だという理論は、一体理想です。一体理想がなく、愛の喜びを共に感じることのできない立場では、統一されたとは言うことができません。 それを教えてくれるのが、今回、お父様とお母様が語られた内容です。「救援摂理史の原理観」は何でしょうか?先祖と神様との関係、イスラエル民族との関係、終わりの日の再臨主を中心とした世界との関係、父母と関係できる個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の関係を明らかに教えてあげた内容です。 これはすべての統一教会の食口たちが、千回、万回読んで暗記して、目を開けても、夢の中でも唱えることができるようにしなければなりません。 神様が、このみ旨のためにどれほど、千万回、億万回を考えながらも涙をたくさん流された道であるかを知らなければなりません。これが九六年を中心として回っていく年です。この年にアダム家庭からイエス様までのすべての失敗、この地上に恨みの残った先祖まで皆、清算しなければなりません。 霊界に行ったすべての先祖たちや自分の後孫たちは、世界的な神様の祝福を受けることのできる解放時代を願っているのです。どこのだれもがそれを願っているのです。優れていようと劣っていようと、それを願っているのです。 天を掃除し、地を清算すべき真のご父母様は、どのように清算すべきかに心を痛め、気をもむだけではいけません。それを収拾しなければなりません。橋を架けなければなりません。 橋が断たれれば、石橋を架けたりしなければならないし、それがだめなら、木の橋であれ、皮の橋であれ架けて、渡っていかなければなりません。渡っていけば、その橋は必要がありません。また、説明をすることができません。相対に説明をすれば、行くべき道が塞がります。 父母様だけが、神様とサタンの前で独自的に解決しなければなりません。議論することができません。議論することができれば、復帰歴史は問題がありません。母親の怨讐があり、母親の息子の怨讐がいます。母親としてすべきことは、これを愛さなければなりません。 このように見れば、私たちの家庭で聖進の母親と聖進がちょうど引っかかるようになったのです。どのような困難があったとしても、離婚した後、聖進の母親をお母様は知ることもできません。結婚して七年に満たないで離婚したので、知ることも見ることもできませんでした。けれども、お母様は聖進の母親のために投入したのです。 では、お母様に対して、今まで私が教育したのが何かと言えば、離婚した聖進の母親のすべての便宜を図ってあげることです。本当にお母様は素晴らしいのです。私は本当に尊敬します。 蕩減復帰は、ただで越えていくことができません。死んでいきながら、自分がお母様に対して福を願って、自分の福をすべて譲ってもいいというのです。 世界的な解放祝福時代 自分はこのように行きますが、世の中で自分が夢見た以上にお父様に侍り、息子 娘を自分の息子・娘の名で受けた願いの代わりに祝福をしてあげ、行くことのできるお母様にならなければならない責任が、お母様の使命であることを知らなければなりません。それが易しいことでしょうか、難しいことでしょうか? また、聖進の母親の代わりの存在を立てなければなりません。崔元福先生は、崔氏の一族です。崔先生は、夫と子供から離れて、反対されるところから従ってきたのです。そうしながら、お母様の行く道の切り盛りをすべてしなければなりません。 そうしながら、お母様に自分の母親のように侍らなければなりません。娘のように侍らなければならないのです。嫁のように侍らなければならず、母親、祖母のように侍らなければ復帰はできません。だれかがそのようなことをしてあげなければなりません。 ですから、お母様を選べば、すべての面を中心として、お母様の代身の役事を、皆切り盛りしてあげなければなりません。築いてあげて、後でお母様に相続してあげなければなりません。 ですから、お母様の仕事がどれほど大変でしょうか?どこかへ連れて回るときには、崔先生を連れて回ります。お母様に侍っておいて、私が行くべき道を公式的にすべて教えておきます。「このように行かなければならない」ということを、一つも間違いなくただそのまま行きます。 また、お母様の母親、大母様がプログラムを霊界から教えてあげます。“これこれこのようなことがあれば、このように行かなければならない”と、そのように苦労されました。再び霊肉を中心として、お母様を災難の中から解放され、よくなるようにすることのできるみ業をしたのが大母様です。 そのようなことは、すべて統一教会のだれも知りません。劉協会長も知りません。それは私が皆、お母様を迎えて聖婚式が終わった後には、大母様に対して「この洪氏のおばあさん、今から教会の正門を出入りできません。裏門を出入りしなさい」。と言いました。 その狼のようなおばあさん、おじいさん、自分の孫娘・嫁を中心として、真のお母様に結ぶために準備した団体と、準備した人が珍しくないのです。十二派以上になるのです。競争するのです。その戦場を全部訪ねていくのが先生の責任です。皆さんは、そのような内容は知りません。今日、お母様一人を立てるのがどれほど大変だったかしれません。 お母様は、ただ現れたのではありません。涙ぐみながら従わなければなりません。さあ、このようにして一九九二年まで先生の後についてくるのです。お母様を前に立たせてはならないのです。女性を前に立てれば、必ず皆、先走りしやすいのです。天機を失いやすいのです。 すべて先生に従って、先生が皆築いておいて、すべての蕩減圏を中心として、女性解放とともに女性解放の土台の上で、お母様を先生の横に対等な立場に立てるのです。 そのときから先生が権限を高めてあげたのです。三年、四年以内に譲ってあげるのです。その道を行っているのです。今年までです。今年まで、全部清算しなければなりません。ですから、急ぐのです。残しては、問題が生まれるのです。 こうして、「世界平和家庭連合」が定着することのできる基盤を築き、このようにして蕩減解消宣布式まで行かなければなりません。そうせずしては、全世界三百六十万双を越えて、民族とすべてのものを越えて、同一な立場で祝福をしてあげることができないということを知らなければなりません。 皆さんがこの道に出るためには、二人の母親の血統を引っ繰り返す過程を経たので、そのことを相続するのが血統転換式です。真の父の名によってするのです。それは、お母様も分かりません。 赤ん坊の種は、父親によるのであって母親ではありません。しかし、父母の基準を連結させようとすれば、皆、赤ん坊が定着することのできる相対理想がないので、父母の名をもって血統転換式をしているということを知らなければなりません。その式も復帰式です。 天使長、お母様、お父様、アダムを通して、杯を女性の上に置いてあげるのは、愛と同じです。アダムとエバの失ってしまった初愛で結ばれるその式です。条件的な式です。聖酒には、そのような条件物が入っているということを知らなければなりません。 そうして、先生が今まで、三家庭、三十六家庭、七十二家庭、それから、百二十四家庭、四百三十家庭、七七七家庭、それから一八〇〇家庭、六〇〇〇家庭、六五〇〇家庭、三万家庭、三十六万家庭、それから三百六十万家庭の祝福という過程は、世界的な解放祝福式の時であるというのです。公式的です。 愛を除いて血統転換はできません。終わりの日に神様がそうでなければならず、来られる主がその過程を経なければ、越え立つ道がないということを知らなければなりません。二人の母親の愛の因縁を引き継いで、二人の息子を統一して、前後を分けることのできる伝統的血統を連結させる条件物が聖酒です。 皆さんの家庭に二人の母親がいるとすれば、二番目の母親が主流になることを知らなければなりません。おじいさんが孫になり、息子がお父さんになり、お母さんが娘になり、それから、妻が主体になるのです。反対になるのです。夫が夫ではありません。妻の立場、僕の立場に至らなければなりません。 そうなれば、三代を祭物としていっぺんに生きた祭物をささげることのできる心を持たずしては、帰ることができません。おじいさん、父親、自分のお兄さんです。おばあさん、母親、お姉さんは、譲ってあげなければならないのです。地上で戦争をするときに、敵国が滅びるようになれば、女性たちは皆捕らえられていくのです。女性たちを解放してあけるのです。 皆さん、そのような決意をすることのできる立場にならなければなりません。おじいさんと父親とお兄さんを祭物としてささげることのできる人にならなければ、乗り越えることができません。 「神の日」が設定された背景 旧約時代、新約時代、成約時代です。それゆえ、統}教会の今後において、自分の父親がどうだといって還暦を祝いながら、うちの何々家の一族がどうだこうだ、と言ってはだめです。氏族的メシヤ(宣布)という話が出る前には、それをやっては引っかかるのです。 還暦を祝うようになっていますか? 誕生日は祝えません。私は三年間、誕生日を祝いませんでした。誕生日にも、ご飯一つに三つのおかずを越えませんでした。喪服を来て、三年の喪に服さなければなりません。それが愛を抜いてしまってはならないことを知らなければなりません。 また、「神の日」を策定するとき、どうして「神の日」を一九六八年一月一日に宣布したのでしょうか? お母様があらゆる女性たちを一つにして、真の父母を愛し、神様を愛したという式を過ごす前には不可能なのです。 女性の中ですべての愛を中心として、王宮では、王妃は王女たちを愛せよと言いましたか、嫉妬しろと言いましたか? 愛したならば、王が行くことのできる手引きをして、すべて譲ってあげなければならないのが王妃の行くべき道であるということと同じです。 そのように、お母様としてすることのできることをすべて成さなければなりません。世の中のすべての女性たちを皆、ご父母様だけが愛され、神様だけが愛することのできる道を紹介するのに、一番の代表になったという条件を備えなければなりません。 どのような女性であれ、妹のように愛し、その者を生かすためには、自分が神様の代わりにメシヤの十字架を負っていくのです。“十字架の道を行こうでという心情を持ちながら、東西南北、心に引っかかるものがあってはなりません。 そのようなものがパスされる立場が設定されることによって、「神の日」が設定されたということをはっきりと知らなければなりません。 それゆえ復帰の道は、六千年、何千万年ではありません。先生でなければ、何億万年、すべて地獄になるのです。先生は時になれば、あらかじめ分かります。自分の行くべき道が分かります。教えてくれる前に分かります。間違って選択すれば、いつの間にか葛藤が起こります。分かるようになっています。 それが天の福であり、私たち民族の福です。その福のある先生に反対する韓国を見なさい。先生の時代においての二十四年間に復興したすべてのものが、八〇年代を越えて、十二年間に全部、敗亡していっているのです。先生の話を聞かないので、全部倒れつつあるのです。 さあ、結論は簡単です。ただそのまま成されるものはありません。蕩減条件を立てずしては越えていくことができないということを知らなければなりません。神様が現れるのに、どれほど悲運の歴史を見たかというのです。先生が昼夜、どれほど息が詰まったかしれません。五感がすべて麻痺し、息詰まる過程をすべて、僕の僕の道を経てきたのです。僕の僕の道を経なくては、その道を開拓できません。 「父母の日」もそうです。「父母の日」、「子女の日」、すべて条件を立てるのです。それゆえ、皆さんは知りませんが、このような転換点では必ずすべて、律義な統一教会の教会員たちが全部祭物になっていくのです。 統一教会に祭物となる人がいなければ、世界の他のすべての宗教、キリスト教であるとか、そのような所のすべての人々が、先生のプログラムに合わせるために多くの人が犠牲になっていっているということを知らなければなりません。 皆さんがこの場にまで出てくるためには、その背後に数多くの人を祭物として犠牲にしてきたのです。そればかりでなく、その花として花を咲かせなければならず、香りを放ち、天の天使と天に侍ってさしあげることのできる実を持たなければならないということを知らなければなりません。 皆さんの目で、先生を見ることのできる資格がある人は一人もいません。正面で見ることができ、正面で「お父様、ご父母様」と、あいさつできる者は一人もいません。私はそのような立場で神様に侍りません。絶対、不変、唯一、永遠性をもって侍ります。 きょうを期して、今からは、再び皆さんに語る時がないので、すべて任せるつもりです。公式席上に立って、「こうしなさい、ああしなさい」と、皆教えてあげました。 もはや、「神の日」が先生を代身して皆さんの日となり、「父母の日」が皆さんの日となり、「愛勝日」が皆さんの「愛勝日」にならなければなりません。 後孫のために伝統を正しく立てて、悔い改め、相対的立場に立って、それを中央につないで三六〇度、氏族と自分の一族を通じた民族の前に、連結させるべき責任があるということは、復帰摂理路程で不可避な結論です。お父様の代身者にならなければならないのです。 純潔を愛する イエス様の生涯は悲惨です。父親がいませんでした。母親はいましたが、母親の愛に対してイエス様は相対することができません。兄はいましたが、相対することができません。 毎日、生活する主体を中心として、天道の道理を立てていかなければならないのに、その主体がなすべき目的が何かと言えば、家庭を築くことです。祝福世界を築かなければならないのに、そのような話し合う相手が一人もいなかったという話です。 堕落は十六歳で行われたので、イエス様は新しい年を迎えて、十七歳で結婚についてマリヤに話したのです。 十七歳のときに結婚で行くべき道を説明し、十年後の二十七歳で説明したのです。また、三年後に三回説明してだめなので、涙を浮かべてイエス様は出家をしたのです。 だれがイエス様の相対にならなければならないのでしょうか? それが洗礼ヨハネの妹です。サタンが汚した血統は完全に切ってしまうのです。完全になくなるのです。 サタンは家庭破綻と青少年破綻をもたらしました。アダム家庭でなされた世界家庭の破綻を、世界版図で成したのです。それがサタンが行き着く終着点です。 家庭で天下を収拾しなければならない道を整備するのが、国際合同結婚式であることを知るべきです。(アーメン)。責任を果たさなければなりませんか、果たさないでいいでしょうか? (果たさなければなりません)。 三代を祭物にする悲惨な立場を越えて立つためには、これをしなければなりません。これができない皆さんは、私とは関係がありません。私は私なりに行くのです。 そのような意味で国家的祝福が成就されたときは、今まで反対された迫害の中で、許しを受けることのできる道がそのときにあるかもしれません。それから世界的舞台を、三段階の道を越えなければなりません。特赦される時代は今からです。 一線を越えなければいいと思って勝手に行動する人は、全部、再び聖酒式をしなければなりません。純潔な血統をもって、越えていくようになっているのです。 今後、手をつけることのできる相対はいないのです。分かりましたか? (はい)。はっきり分かったという人、手を挙げてみなさい。皆、そのように教えてあげなさい。いつもこの女性たちが問題です。この女性たち! さあ、ですから、先生の一生がどれほど悲惨だったでしょうか? 純潔を愛する先生です。 「愛勝日」の意味 このように、真の愛という道理を中心として、“ああ!『神の日』がこのようなものだった”ということを知らなければならないのです。お母様として、ご父母様として息が詰まる立場を三六〇度回ることができるのですが、無難に通過しなければなりません。 そうしてこそ、神様がこの女性世界の版図、男性世界の版図を自由自在に往来できる価値を持つので、神様の解放という条件を立てて、「神の日」を創建したのです。「父母の日」も同じです。お母様がそのような道を経なければならないのです。 「愛勝日」は、“死”以下の立場に降りていって、本然の愛を神様とともに植えておかなくては、その息子・娘が皆、解放の天国を越えていくことのできる道を築くことができないのです。ですから、「愛勝日」を宣布することによって、昇華式が可能であるというのです。地で祝福してあげてから行くのです。 今からは、「真のご父母様への誇りと愛は、三百六十万双祝福の完遂」です。皆さん全部、誇ることもできなかったし、愛することもできませんでした。この峠を越えなければなりません。 皆さんの解放もなし、皆さんを全部祝福してあげ、宴を催すことのできる一日が始まるのです。その日を越えたとすれば、三千六百万双は一年以内に可能です。言論機関を通してできるのです。 地の果てまで、私たちの喚声が響き渡らなければなりません。知らせてあげなければなりません。知らせてあげなければ、皆さんが引っかかります。ご父母様の責任を果たせないのです。 神様が待ち望んだ、その復帰の路程の前に、父母たちが責任を果たせなかったすべての怨讐のその血族の群衆を、解放させるためのみ業が真の父母の歴史です。 きれいに清算しなければなりません。アダム家庭からイエスまで、全部清算しなければなりません。その上に三百六十万双をすることによって、アダム家庭の氏族、民族、国家、世界が一時に結ばれるのです。祝福によってそのようになるのです。 祝福は真のご父母様に侍り、神様に侍り、祝福を受けた人が天国に入っていくものです。後のアダムのように、自分の後孫に従って祝福を共に受け、入っていくことのできる天地に解放圏が生まれるのです。 愛する相対がいれば、地獄に行ったとしても、地獄の門から復帰してくることができるのです。真の愛が問題です。ために生きた人のその妻が地獄に行ったとしても、全部復帰してくることができるのです。サタンは権限がありません。そうなれば、世の中の天地がすべてきれいになります。 すべての民族は天の国の民として、皆さんの後孫たちが生まれる解放の息子・娘を持ってこそ、天国に直行する息子・娘を産むことができるのです。アーメン。(「アーメン」)。これが堕落しない先祖、アダム・エバの完成の立場です。 先生の話をどこのだれも理論的に「間違っている」と言うことができないのです。考えてみなさい。この膨大な内容は、どのようにこの体制をつくってみても、このようにまで数理的な現実世界の版図に合わせてなすことはできません。それをこれまで越えてきたという事実は、千年万年の讃揚の条件をかけようとしても探し出すことのできない喜びの立場なのですが、皆さんはそれを自分勝手に対してきたというのです。 その罪は、一対一の蕩減法では許すことのできないものですが、先生のために生きるという標準の下で許すのです。そうでなければ、私が霊界に行っても、再び祝福家庭のために生きることになるので、私が十字架を負ってでも祝福家庭の過ちを責任をもって許してあげようとしているということを知らなければなりません。先生の世界がどれほど深刻でじょうか? 皆さん、「骨が泣き、骨髄が泣く」という言葉は、世の中にはないでしょう。「骨身にこたえる」という言葉はありますが、骨髄が泣き、骨が泣き、肉が泣き、このすべての感覚が泣く立場を経ずしては、堕落のきずあとを消すことはできないという事実を知らなければならないのです。 きょう、「愛勝日」を迎えました。興進を生きた祭物として送ったのです。それは、愛を中心として家庭的背景を中心とした天上世界への橋なので、イエス様も興進様に従っていかなければならないのです。 家庭の橋を経なければならないのです。この地上で、初めて真の父母の子供として真の父母の愛を受け、天上世界に祭物の勝利者として行ったおかたが興進ただI人なので、天上で全権をもって統治することができるのです。 ですから、霊界に行ってみると、自分の存在が何でもなく、客死の体になるはずなのに、生命を断つ前に全部条件を立てたので、死んだ後にもサタンか干渉できないのです。ですから、昇華式です。 統一教会を信じた人たちは、真に三代が一つになって昇華式をするときには、罪人までも許される道があるのです。「愛勝日」の意味が分かりましたか? (はい)。お母様はその場で悲しんではならないのです。 それと同様に、悲惨な私の祈祷を、今回、北韓に行って父母の墓前でしました。姉と妹が痛哭するのです。「母親が恋しがっていた息子の何某が帰ってきた」と痛哭していますが、そこにおいて息子の立場で、兄弟の立場で涙を流していいでしょうか? はらわたがよじれなければなりません。しかし、涙を流してはならないのです。 私が果たすべき責任があり、その責任を果たすために来たのです。その使命を完遂する前には、涙をこの地に流してはならないのです。 「そうしなければ、異国の地で死んで哀魂を残したすべての霊たちの解放ができません。私が解放され、ここに来て宴を開くとき、その哀魂たちまでも解放しようと思うので、母親として私のことを不孝だと思わずに、勝利の日を待っていてください」と言ったのです。 ですから、解放を急いでいるのです。そうするためには、南北解放が不可避です。南北米の統一を中心として、世界的囲いを中心として行かなければ、南北の統一は不可能です。 日本に関しては、各国に母親の責任を果たせるように、囲いをしておくのです。そのようになれば、日本は亡びません。 さあ、目の前に明日の希望たる統一の世界、地上天国を見詰めながら、このように「愛勝日」を守るきょうという日が、どれほど貴重でしょうか? 皆さんが、その根になる力がどのように連結されているのかを考え、昇華式をいいかげんにせずに、この根に接して、そこに相対的因縁を結んでいかなくては、天の国に行くべき道が塞がってしまうということをよく知らなければなりません。これが結論です。きょうの日を忘れずに、この話をしっかり記憶してください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.12
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世界指導者への御言1996年11月13日ウルグアイで世界の指導者に韓国語で御言を語られました。 転換時代 統一された世界をつくるには、言語も統一しなければならず、文化も統一しなければならず、家庭も統一しなければならず、愛も統一しなければなりません。愛にも、各種の愛があるというのです。統一時代に向かっていく私たちの道には、遠からず、世界にそのような時が訪れると考えます。 今、この時は、歴史上のすべてのことを清算しなければなりません。歴史時代の聖賢たちを中心としてなされたすべての事実が、全部、勝利的条件として残ったのではなく、失敗の条件として残ったので、この一年の間に勝利的条件として転換させなければなりません。転換時代だというのです。 アダム家庭が失敗したものは何でしょうか。 一人の女性の行動、その瞬間的行動が、このように数百万年、数千万年を経てきたのです。堕落したすべての峠を清算し、堕落しなかった本然の環境まで帰っていくことができなかったという事実があります。なぜこのようになったのでしょうか。 人間は「善悪を知る木の実を取って食べてこのようになった」と信じてきましたが、それは愛のゆえにそのようになったというのです。誤った愛によって、全部そのような習慣をもつようになったのです。 アダム家庭で失った誤った愛を、どこで探すのでしょうか。それが神様の恨みです。それを探すことが、神様の救援摂理の主流思想になっており、これを解くことのできる立場に立てなかったため、今まで恨みとして残っているというのです。これが発展して氏族の恨み、民族の恨み、国家の恨みとなっているのです。 中心の根がそのようになっているので、そこに関係する周辺の根によって、他の幹や芽や、あらゆる枝も、失敗した愛の根を中心として連結されているのです。これを堕落しなかった本然の愛を中心とした根を立てて、再び打ち込まなければならないという結果をもたらしたのです。 それゆえ、救援摂理とは何かというと、これを切って接ぎ木するのです。このように愛を家庭で失ったことが氏族へ行き、国家へ行くようになるのです。終わりの日になれば、フリーセックスまで連結されるのです。 根が誤ったので、植えられた中心の根から周辺の根、それを中心として育つすべての幹と中心の芽……。中心の根で連結された中心の幹から、中心の芽が垂直にならなければなりません。中心だと考えるものは、一番の直短距離に位置を取るので、中心存在にならなければならないのです。それゆえ、どんなに大きい木でも、中心の根と中心の幹と中心の芽を中心として、横的に関係を結ぶことによって、見事に大きくなるのです。 ところで、神様を中心として、愛の理想世界のためにつくったすべての被造万物が、中心となる天の定着圏をもてないことによって、その関係している周辺の根と幹と芽と連結されたすべての枝は、偽りの枝として、偽りの愛の存在となってしまったのです。 人類は、だんだんと時が過ぎ、歴史が進むに伴って、次第に多くなるのです。ところが、神様が探し求めるべき根は、一つの根だというのです。ですから、歴史と共に発展してきたその環境が混乱するように、根を全部犠牲にするのです。根をどのように混乱の渦中に置くかということがサタンの主な活動であり、それが天の御旨に反対する歴史的サタンの行動だったという事実を考えるとき、時間が過ぎれば過ぎるほど、この問題を中心として世界が混乱するというのです。問題が起こるのです。それがフリーセックスです。 では、愛の主人とはだれでしょうか。その国の大統領も代身することができず、その国のどの長官も代身することができず、その国の学者も代身することができず、その国のあらゆる宗教だとか、その国の国民、どこのだれもそれを代身することができないのです。なぜでしょうか。分からないからです。 フリーセックスが蔓延している世界 フリーセックスが蔓延しています。世界において、フリーセックスをどのように治めるのでしょうか。その次に何でしょうか。ホモセクシュアル。これは何かといえば、男性が女性を否定することです。男性が女性を否定するということは、創造原理においてはあり得ないことなのです。本来、人間が凹凸をもって生まれたのは、愛のためです。それなのに、これを否定するというのは、完全に愛を否定するということです。また、レズビアンとは何でしょうか。女性が男性を否定することです。男性は女性を否定し、女性は男性を否定するのです。 人には性欲というものが与えられたのですが、それは本能の中の主流本能です。それは悪いものではないというのです。性欲というのは、男性も女性もみな同じなのです。どんなに美人、美男子だといっても、性欲というものは、踏んで乗り越えるものではなく、そこから、その幹を通して存続することのできる生命の起源にならなければならないというのが原則なので、性欲を乗り越えることはできないというのです。 ですから、男性が女性を否定してしまうと、性欲を満たす道がなく、女性が男性を否定すると性欲を満たすことができないので、男性同士、女性同士の結婚が始まり、問題になる時代に入っていくというのです。これは最後です。男性同士、女性同士が結婚するようになったならば、一代ですべての世界は滅びるというのです。道がありません。 さあ、今は最後です。歴史はフリーセックスと共に、男性、女性を否定し、愛の性欲を訪ねていく道を満たすために、女性が女性同士、男性が男性同士、結婚する時代がやってきたのです。このように見る時、愛の理想をすべて相続することのできる女性、男性の生殖器が、完全に立ち得る場がないのです。神様の前に立つ場がなく、また、人間の前に立つ場がありません。すべて否定してしまったのです。 さらに、その凹凸がいつでもふたを開けたまま、一日に何回も蹂躙され得るのです。お金に蹂躙され、言論の力に蹂躙され、知識に蹂躙され、力をもったすべてが、これを蹂躙することのできる時代へと入ってくるというのです。ですから、これ自体の権威は完全に地に落ちてしまいました。それをもって出て、この世の歴史路程に現れて、誇ることのできるものが一つもないのです。 本然の男性と女性を復帰する さあ、このように見る時、神様の願いはどのようになるでしょうか。神様の希望はどうなるでしょうか。神様が創造理想として見る歴史観、終わりの日に願う歴史観というものはどうなるでしょうか。完全にひび割れたというのです。完全に絶望だというのです。それを知らなければなりません。 それゆえ、ここで私たちが探さなければならないものは何でしょうか。人間の本然の世界を探さなければなりません。本然の人間を復帰しなければなりません。本然の人間を探せなければ、本然の家庭を探し立てることができず、本然の世界を探し立てることができません。ですから、本然の人間を復帰しなければならないというのです。 人間とは、男性と女性です。本然の男性と女性を復帰しなければならないのです。本然の男性と女性を探すということは、どういうことでしょうか。本然の家庭を復帰しなければならないというのです。では、本然の家庭はどこに立っていますか。 自分の思うがままに主張する男性、自分の思うがままに主張する女性は、本然の世界の人間ではありません。神様の創造原理の原則によって、そこに一致することのできる男性、そこに一致することのできる女性でなければ、本然的男性・女性になることはできないというのです。 自分がどんなに世の中で優れているといい、どんなに世の中で一人しかいないと誇っても、この愛の理想を中心として完成できなければ、何ら提示する条件にもならないというのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。 それゆえ、この世を見れば、なるようになったというのです。後ろを眺めても、前を眺めても、上を眺めても、下を眺めても、左右を眺めても、三六〇度を中心として眺めても、希望がないというのです。全部が無価値な存在として落ちたというのです。 そうなれば、神様はこれを掃き捨ててしまわなければなりません。掃き捨てる時には、むやみに神様は掃き捨てることはできないというのです。なぜ、掃き捨てざるを得ないかという内容を提示しなければならないのです。神様は正義の主人であり、真なる神様、絶対的な方だという時には、その方が主張することのできる標準的な内容を立てておいて、これを清算しなければならないというのです。 審判するためには法的条件の基準を立てて、そこに合わない時に、そこに該当する法を中心として宣布するのと同じく、清算することのできる条件と内容を天から提示しなければならないのです。 それが一時ではなく、歴史性を代表したものでなければなりません。提示することのできる歴史的な主流、個人が行くことができる歴史性、家庭が行くことができる歴史性、民族が行くことができ、国家と世界が行くことができる歴史性を代表した、そのような内容を提示しなければならないというのです。 このように見る時、人間世界において、最も尊いものとは何でしょうか。すべて使い道のないものが多くなって、必要なものが一つもなければないほど、早く除去されるというのです。 このように見る時、人間において必要なものとは何でしょうか。お金、知識、権力も必要でしょう。しかし、それよりも尊い最後のものとは、愛だという結論に到達するというのです。 宇宙の根本は主体・対象からなっている 愛は生命と連結しており、愛は歴史的に連結しており、天宙も連結しているというのです。根本となる主体がいれば、主体とも関係することのできる内容、見本パターンでなければならないというのです。そこから歴史が連結され、そこから横的に拡張運動が起こり得るというのです。そのようなものが人間にとって、何かというと、男性と女性です。 では、男性が男性になり、女性が女性になるのは、何ゆえでしょうか。知識ゆえにそうなるのではありません。お金ゆえにこのようになったのではないというのです。権力ゆえにそのようになったのではありません。では、なぜ男性になり、女性になったのでしょうか。それは簡単なことです。愛ゆえにそのようになったというのです。 なぜ、愛のゆえなのでしょうか。凹凸はなぜ生まれたのでしょうか。宇宙の根本を探し求めると、雄・雌思想があります。この世を見るとき、すべての存在は雄・雌からなっているというのです。主体・対象からなっているのです。主体・対象それ自体が、人間では凹凸になっているのです。 凹凸が、なぜ生まれたのでしょうか。愛というものを占領するためです。愛というものに一つになるために、凹凸が生まれたのです。では、どのような愛ですか。永遠なる愛、不変の愛、唯一の愛ならば、その凹凸も永遠、不変、唯一なる生殖器にならなければならないのです。これは理論的なのです。 その生殖器は、歴史の出発を支えることができませんでした。個人的な人格を完成させることにおいて不合格、家庭的人格圏をつくることにおいて不合格、民族、国家形成圏をつくることにおいて、すべて不合格につくってしまったというのです。世界も同じです。 根本となる生殖器で誤ってしまったのです。そこを根本にして、愛の伝統性、その次には生命の伝統性、その次には歴史的伝統性が連結されるはずであったのです。誤ったその器官を通して、関係するすべての歴史性が、神様の前に立つことのできない条件をつくったということは必然的結論です。 では、このようになった器官を、なぜむやみに使うようになったのかというのです。それは、そのような観を知らなかったからです。「愛というものは、このようにならなければならない」という観がなかったというのです。 愛とは、どのような愛ですか。愛とは、だれのための愛ですか。凹凸は愛のためであり、その愛はだれが主人なのかというとき、神様が人間を創造するとき、愛という観念を立てておいて、その愛に合うように、愛で一体になるようにするために、生殖器である凹凸をつくっておいたということを否定することができないのです。それは絶対的な結論です。これは鉄則です。それを否定することはできません。 どんなに歴史が発展し、どんなに人間が変わったとしても、男性が女性になることはできず、女性が男性になることはできないというのです。 私たちの人類始祖によってそれを誤り、誤ったすべての因縁を通して連結されたものは、この誤った結果の立場を避けることができないので、終わりの日には、必ず家庭破綻が起こるというのです。 神様の前に立つことができないのです。世界にどんなに多いといっても、天の側に立つことはできないのです。また、神様の前に個人が立つことができないと同時に、家庭的に立つことができないのです。その基盤を通して死んだ枝になり、芽が育っていったので、それは不可避なことなのです。どこのだれも、神様の前に立つことができないのです。どんなに国が有名であり、どんなに世の中が素晴らしいといっても、神様が必要な国や世界ではありません。 愛の欲望は宇宙的な欲望 では、根本は何かというのです。根本がどこなのかをはっきりと知らなければなりません。男性、女性の生殖器から始まるというのです。男性、女性の愛を中心として誤ったのですが、その愛の欲望がどれほど大きいかというのです。愛の欲望は宇宙的な欲望です。神様までも占領しなければならないというのです。男性でいえば、国の女性を占領したとしても、さらに世界の女性を占領したい心だというのです。それを知らなければなりません。女性ならば、国の男性を占領したといっても、世界の男性までも占領したいというのです。 そのような情欲の主流が根本になっているので、個人から人類全体を越えても、さらに越えていくことのできる流れがあるということを知らなければなりません。 それゆえ、優れていても、劣っていても、神様が堕落した人間を見るならば、情欲の歴史的株式会社です。個人全体に対して、世界を代表し、すべての国家全体を代表した情欲の王権を代表することができる立場に立つ株式会社なのです。 いくら信仰の道を磨いても、情欲の峠を主管することはできないというのです。修道する人がそこに行って、みなつんのめるのです。時が来て霊通して、仏教でいえば、解脱し、悟って峠を越えれば、必ず、美男子が現れ、美女が現れるのです。それは避けることができません。 それゆえ、宗教や、この世で出世したあらゆる分野の代表たちは、女性には男性、男性には女性が、発展させる業をするのではなく、破壊させる業で連結されるというのです。そのことを知らなければなりません。歴史がそのようになっているのです。 それゆえ、「あの人が出世したなあ」といえば、そこに該当できる出世した以上の欲望をもった女性たちが、その周辺にぴったりとくっつくのです。女性が出世したといえば、周辺に素晴らしい男性たちが三百六十人ぴったりとくっつきます。それを否定することができません。 優れているという者は、すべて根が誤ったので、誤った世界の脱落物、疲弊物、ごみ箱に入る者になるというのです。愛を中心としたごみ箱に入る者になったので、ある時は男性の生殖器を十回盗んだというのです。それを信じられませんか。 ですから、出世したといえば、周囲にぴったりとくっつくようになっています。どんなにそれに鍵を掛けておいたとしても、開けて入ってくるというのです。だんだんと前後関係から攻撃、上下関係から攻撃、左右関係から攻撃するのです。お金を持って入ってきて、知識をもって入ってきて、その次には権力をもって入ってきて、愛をもって入ってきて、芸術をもって入ってきて、チャンピオンになるものを全部もって入ってくるというのです。そうだという可能性を認めますか、認めませんか。(「認めます」)。 それゆえ、目を見ても、この者の目は一方向だけではありません。これがよいといったのに、横を見てもっとよいものがあれば、目が移りますか、移りませんか。もっとよいものが見えれば引かれていくのです。 このような問題について考えてみる時、その形は同じですが、内容においては、その千個、万個を与えても替えることができない価値をもっているといえば、その価値を知り、その価値と一つになった人は、動かないという結論が出るのです。 ここで問題は、神様にも生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。(「あります」)。なぜ? 人間がこのような欲望をもつことができる可能性があるので、神様は可能性のある準備をすべてしなければならないというのです。 それでは、可能性をもって、満足できるかというのです。できないというときは、真実をもって準備しなければならないのです。このように見るとき、神様も間違いなく生殖器をもたざるを得ないのではないかというのです。 それゆえ、絶対的な「性」の王を探そうというのです。王の相対とは、だれですか。女王です。 そのような者を神様が求めてきたのであり、それがこの地上に送ることのできる最高の男性であり、女性なのです。それが救世主です。救世主は何をするために来ますか。結婚をするために来るのです。それが小羊の婚宴だというのです。アーメン (「アーメン」)。 絶対的な定着 では、絶対的な王と女王がやって来て一つになる時、絶対的な立場を得るでしょうか、行ったり来たりするでしょうか。それは絶対的な定着です。神様と共にです。神様は、行ったり来たりしないというのです。神様は絶対的でしょう。そうでなければ、問題が起こるというのです。 絶対的な夫となるためには、絶対的に神様を動けないように、しっかりと打ちつけてしまって、定着しなければなりません。神様が、絶対的な男性、女性の結婚の日のために再臨主を送る、その目的はどこにあるのでしょうか。神様も流れ者の神様になることを願うか、定着した神様になりたいと願うかというのです。定着したいというのです。 二人は何をするのでしょうか。主人の役割をするのです。何の主人ですか。男性の主人、女性の主人です。男性がそのように生まれたのは、男性の生殖器によってそのように生まれ、女性がそのように生まれたのは、女性の生殖器によってそのように生まれたというのです。 神様が定着するのに、行ったり来たりする定着を願いますか、永遠に定着することを願いますか。神様が永遠に定着することを願うので、男性も女性も永遠に共に定着することを願うのです。それが願いであるので、絶対定着することができる人は、神様と一つになる所で完成し、女性も神様と一つになった所で完成するのです。 神様にも体と心があります。それゆえ、体と心が一つになった男性、女性として生まれたのです。生殖器の違いの変動によって、そのような男性が生まれ、女性が生まれました。 生殖器に似てそのように生まれたのです。生殖器が絶対的に一つになることのできる論理を否定することができません。適当に生まれることはできないというのです。 生殖器だけは、東西南北三六〇度、行ったり来たりしては大変です。神様に付いて回らなければならないというのです。こちらに行って、あちらに行って、上がったり、下がったりしてはならないのです。定着してすべての方向性と度数を、九〇度に合わせなければならないのです。 では、神様の願いとは何でしょうか。生殖器に似て完成した男性になることであり、それに似て完成した女性の生殖器が、完成する場で出会うということなのです。それが結婚して、初夜に出会う場です。 神様の人格は体・心の二重になっているのです。すべての存在は二重になっているから、神様の生殖器も二重になっていなければならないので、内的生殖器は神様の生殖器、外的生殖器はアダムの生殖器だというのです。 結婚とは神様を占領するためのもの さあ、今から統一教会がしなければならないこととは何でしょうか。 統一教会がしなければならないことは、完全な生殖器の場に座標定立を確定しなければならないということです。神様の生殖器のように、自分の心で分かる愛の道を探し求めていくのと、体で愛を探していくのは双方通行ではなく、絶対一方通行です。夜でも昼でも一年中、若い男女、年老いて死ぬ時までそうなのです。 出生する時には無感覚に生まれた生殖器が、赤ちゃんを生んで帰る時には、感覚をもって帰らなければなりません。神様に侍るためなのです。 本来、人間は、神様を第一とした絶対的な生殖器と一体になった立場で生まれ、天の国に行くことのできる天の国の民になるはずでしたが、堕落することによって、それをすべて失ってしまったのです。自分が霊界に行く時、神様が自分のために与え、神様がもっていた完全な生殖器を備えて、生殖器イコール男性、女性になっていたというのです。しかし、堕落した生殖器になってしまいました。完成した人間を中心として、完成した生殖器がイコールにならなければならないのです。絶対的なのです。これからこの基準をもたなければならないのです。 統一教会は血統転換ということをいいますが、血統転換はどこからなされるのでしょうか。このような過程で見るとき、神様に似た絶対的な男性、絶対的な女性からなされるというのです。神様の内的形状と性相を受けて出てきたので、アダムは性相的で、エバは形状的です。分かれたこれらが、再び一つにならなければなりません。一つになれば神様へと帰るのです。帰るのに、アダム・エバは大きくなってそれを訪ねていくのです。霊的完成起点、肉的完成起点、二つが出会うのです。 帰ろうという時、どこに行くのでしょうか。愛を探していくというのです。結婚の場を探していくのです。その結婚の場は、神様にある動機は見えないのです。霊的なのです。見えるものは結果です。動機と結果の愛の結実体になるために、動機と結果、神様とアダム・エバが一つになって、愛の定着をしなければならないのです。 男性も片側であり、女性も片側です。片側が完全な一点になるのです。男性と女性、性相、形状が一つになって、完成した主体となる大きな性相、大きな形状、大きな実体性相アダム、大きな形状エバになるのです。 結婚とは何かといえば、半品が完品になり、完品が宇宙品になるということです。球形品にならなければならないのです。神様を占領するためのものです。ですから、結婚の尊さがここにあるというのです。結婚の場を避けては、絶対的な神様との愛の関係を結ぶことができないという結論が出るのです。 「絶対的な私」というとき、体と心が一つになるのです。 では、皆さんの五感について見るとき、それはどのようにして行くべき方向を取りますか。人は、自分の母・父から生まれました。母・父は、子供たちが母・父に似ることを願うのです。それはなぜでしょうか。出発であると同時に、結果の基準について願うからです。母・父の愛を受けることを願い、母・父のようになって、男性・女性が愛するのを学ぼうというのです。また、母・父とそのように連結され、歴史性を担うのです。 それゆえ、結婚した人は赤ちゃんがいなければならないですか、どうですか。(「いなければなりません」)。絶対にいなければならないのです。男性として女性に出会えなければ、それは廃物です。 さあ、このように見るとき、フリーセックスが成立するかというのです。ホモが成立しますか。しないというのです。 では、赤ちゃんを生む場合、何人生みたいですか。上下だけになってはいけないのです。上下があれば、前後があるとか、前後があれば、左右があるとかして、形態を備えなければならないのです。それゆえ、少なくとも二組は生まなければならないというのです。(「二組ならば、四人です」:お母様)。そこに自分たち夫婦で三組になるのです。 それが四兄弟です。四人を生めなかった人は、原理原則に不合格です。霊界に行ってから、ある所では顔を上げることができないというのです。春夏秋冬すべて過ごしてこそ、一年になるのです。相対です。春季と秋季は相対なのです。夏季と冬季は相対なのです。ですから、南北が必要で、東西が必要なのです。そこに、球形を中心とした前後が必要なのです。 私たち統一教会で、産児制限した人たちは引っかかるだろうというのです。産児制限しなければ、統一教会のだれよりも福を受けることができる息子・娘を生んで、天が必要とするお姫様になり、王子の直系になることができたのに、その時になって、産児制限したといえば、その父母が罰を受けなければなりませんか、受けなくてもよいでしょうか。 性欲を管理できなければならない 絶対的に体と心が一つにならなければならないというのです。自分を試験しなければなりません。試験をどのようにパスするのかというのです。堕落した世界の性欲を管理できなければなりません。性欲は人類の欲望の主流ですが、その主流をコントロールできる人にならなければならないというのです。生きて死ぬ峠を何百回越えても、難しいのです。今、根本問題に入ってきました。体と心が帰っていくはずなのに、皆さんの体と心が一つにならなければならないというのです。 もし、自分の妻や夫が病身になったとします。そこに夢の中でも考えることのできない美男、美女が現れて、自分を誘惑する時、自分は絶対そのようなことはできないと、神様が共に保証することができる人になれるという自信がありますか。 そのためにどのような試験までするのでしょうか。神様は、自分が最も愛する人を怨讐に抱かせたのです。堕落がそうです。宇宙を与えても替えることのできない最も愛するエバを、怨讐が蹂躙したというのです。蹂躙したその怨讐を、打ち殺すことはできません。愛さなければならないというのです。神様とサタンを比較するとき、サタンは打ち殺すことができますが、神様は打ち殺さずに愛することができてこそ、サタンが屈伏するのです。サタン屈伏の奇知がそれだというのです。 神様の心情を体恤することのできる道がどこにあるのか、これが問題です。千年万年精誠を捧げて探した、この世で見れば、恋煩いというものがあるでしょう。 [しばらく日本語で語られる] 何千年もそういう病気を患った男が、女を迎えて幸福煩いの王様になったその立場で、その得た奥さんを怨讐に向けて祝福しながら、喜ぶ心をもって案内してあげる、そういう心情をもつことができますか。真剣な話です。それは絶対信仰です。 神様の心情圏を知れば、どれほど胸が詰まるだろうかというのです。気が狂って、精神がいっぺんにピュッと逃げていくはずだというのです。それを全く逃げず、三六〇度をもって怨讐を抱いてあげることができてこそ、自分にとって三六〇度地上地獄を追放することができる女性となり、男性になるのです。アーメン。一度、試験してみなさいというのです。 そのような人間が生まれてこなかったなら、復帰ができません。三代の祖父母、父母、自分の妻まで、祭物として捧げても何の未練もない。祭物を捧げて、それを踏み越えていくような道を行かなければ、本然の世界にならないのです。 三代の先祖を否認しなければなりません。アダム、イエス様、再臨主、三代の先祖が失ったものを蕩減復帰しなければならないのです。分かりましたか。(「はい」)。その境地に自分自身が立ってみることによって、その境地を、峠を越えた向こうのほうに行かないと、神の心情圏を体恤することができないのです。 威張るな。 誇るな。 生涯恥ずかしい思いをしながら、頭を下げて、同情される道を行くのです。分かりましたか。(「はい」)。 そういう時代に入りました。きれいに歴史のもとを清算して、堕落のページを越えて、新しいページに記録しなければなりません。そういう内容を中心とした心情圏の出発の起点、神と一つだという出発点が記録されなければなりません。自分の生涯上において、自分の歴史において、出発を神様の心情の一点にまとめなければ、行く方向が二つになるのです。 サタンはどんなことをしたかというと、占領した場合には、王様のおばあさんとお母さんと、奥さんの三代を蹂躙して殺したのです。蹂躙して残すのではありません。蹂躙して殺すのです。それを愛するような立場に立った場合には、殺すことはできません。そういう環境が終末期のフリーセックス世界です。孫がおばあさんと関係する。みんな蹂躙する。お母さんと自分の姉さんまで蹂躙するのです。 横的に三代、自分の直系であれば、お父さんを中心としておばあさん、兄さんのおばあさん、弟のおばあさん、三代、前後、蹂躙するようなことがあっても、不平を言わないのです。不平を言わないその心中の根拠地が、神のための思い、そういう基準が歴史上立って初めて、心情圏の蕩減、世界的蕩減を越えた神の子供、娘になる道が始まるのです。真剣なものです。分かりましたか。 (「はい」)。 そういう境地を求めていく者は、いかに美人、いかに美男子がいても、性欲が起こった場合、一〇〇パーセントの基準から〇にならなければならないのです。 それを自由にコントロールしないと、神の心情圏につなぐ道はありません。真剣なものです。 サタンに向けて、自分のおばあさん、母、自分の奥さんと娘まで四代を案内して、痛みを感じないような立場に立とうとする神様なのです。その境地が分からないと、天国の王宮の正門に入ろうとすれば、それが表門の表題として打ち出されるのです。自信あります? その自信を得るなら、どんなこともできるのです。何もやれないことはないのです。先生はそういう信仰をもちました。 サタンが命令したその峠を越えた場合には、必ずサタンも神のほうに連結されるのです。真の愛の道は、堕落ということがないのです。最終着点は、神の復帰の理想です。分かりましたか。そういう基準を越えた立場で、絶対「性」を唱えることによって絶対愛が生まれるのです。 〔韓国語で語られる〕 絶対「性」から絶対愛が生まれるというのです。皆さんはこれからこれを整理しなければなりません。世界の美男子が、嫌だというのに引っ張って、生殖器を一つにしようとしたら、「わあ」と叫びながら蹴飛ばして、その者が二度と現れないようにしなければならない、そういう決意をしなければならないというのです。そうしなければ、サタンはいつ現れるか分からないのです。 心情圏、所有権、血統を祭物として捧げる そのような夫婦を願いますか、行ったり来たりする夫婦を願いますか。血統転換、所有権転換です。そこは所有観念がありません。自分のものであってあなたのものであり、あなたのものであって私のものです。所有観念が残っている限り、天の国に入れません。中間の天の国の基準に行ってとどまるのであって、本然の世界には行けないのです。 その次に情です。日本人だという概念をもてば、天国に行くことができません。堕落前に日本人がいましたか。韓国人がどこにいましたか。愛の人だけがいたというのです。愛の家庭だけがあったでしょう。愛の国がありませんでした。愛の家庭が現れれば、国が生まれるようになっています。 愛の国を求めなければならないのに、愛することができない人類になってしまいました。愛することのできない家庭をもち、愛することができない国をもったのです。それゆえ、七代心情圏、七代を全部否定しなければならないのです。七代のすべての心情圏をいっぺんに乗り越えなければなりません。結婚して七代のすべての所有権をいっぺんに否定しなければならないというのです。これに七千年かかったのです。七数を越えることができませんでした。 心情圏を越えなければなりません。自分の心情、自分の血統を否定し、その次には所有権を否定し、一族を否定しなければなりません。一族、七代です。心情圏と所有権と血統を祭物として捧げなければならないというのです。祭物なので裂かなければならないのです。血を流させて、存在価値を認めないのです。祭物は存在の価値を認めないのです。認めれば、あの峠を越えることができません。 絶対血統になるには、絶対「性」にならなければならないのです。絶対「性」圏内には、所有権がありません。あなたのもの、私のものがありません。それ以上に尊いものがどこにありますか。世の中に、それ以上よいものがないということが分かりましたか。黄金よりもダイヤモンドよりももっと尊いものだといって、教えてあげなければならないと考えてみましたか。 見れば簡単です。女性のものは大したことがありますか。男性のものも大したことはないのです。大したことのないものが、天下の調和のパイプなのです。それをもてば、お金も必要なく、権力も必要なく、知識も必要ないのです。それを中心として暮らし、それを占領するために暮らしているのです。そのことを知らなければなりません。 ですから、男性は女性、女性は男性をもつことができるようになったという事実が、素晴らしいというのです。そこにフリーセックス? 泥棒も甚だしいのです。 その次に、自分が愛する人を一度否定しなければなりません。自分の愛する人を怨讐に抱かせてあげて、福を願うことができなければなりません。そのような心が先立ってこそ、神様の心情圏と一致する圏内に入っていくことができるのです。このように教えてあげた以上、堕落するなり、何をするなり、私が責任をもたなくてもいいというのです。分かりましたか。(「はい」)。 絶対「性」で絶対血統が伝達されます。絶対信仰、絶対愛、絶対服従でなくては、この峠を越えていくことができません。私にできないということはありません。できないという言葉はあり得ないというのです。できないという時は、愛の世界とは関係ありません。天の国の神様が探し立てようとする理想的愛とは関係ないのです。神様自身も絶対的に必要だったので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を願われたのです。 愛の首飾りを掛けて歩き回る 花嫁と結婚して最初の日に、「あなたは私を絶対愛しますか、適当に愛しますか?」と尋ねたいでしょう。「体と心が一つになって愛しますか、二つの心をもって愛しますか?」と言うとき、一つになった心で愛することを願うのです。結論がそれです。それ以外にはありません。それ以外のものを加えることは、全部よこしまなサタン世界のものです。 皆さんは今、息子・娘をもっていますが、そのような基準になれなかったので、その環境基準に対するサタンの侵犯できる要素が残っているということを知らなければなりません。 体と心が一つになった絶対的な私、そのような男性、女性の凹凸が絶対的だというのです。東西南北は永遠に同じ東西南北であって、西東北南ではありません。 神様の偉大さがそれなのです。絶対信仰をもって愛するということが、驚くべきことなのです。偉大なことです。私たち人間もそのように生まれたので、どれほど驚くべきことでしょうか。いつ私が、そのような神様を主体者として侍ることができるでしょうか。それが課題だというのです。宿題だというのです。分かりますか。(「はい」)。 絶対信仰、絶対愛、絶対服従のうえで創造を始めたので、その相対者も絶対信仰、絶対愛、絶対服従になってこそ、神様の立場に帰っていくことができるのです。 今、カナンの福地、王圏復帰時代に入ってきたので、エデンの家庭において、結婚式をしてあげることのできる時代に入ってきたというのです。世界の峠を越えて、結婚式をしてあげることのできる立場に入ってきたのです。 それゆえ、統一教会が三百六十万双の祝福をするというのは、世界的峠を越えるということです。ですから、世界的家庭圏です。家庭圏で、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を備えなければなりません。その前において神様が願い、真のご父母様が願うのに、「だめです」「考えてみます」と言うようなことはあり得ないというのです。 長子・長女圏復帰時代に入ってくるのです。解放時代が来るというのです。それゆえ、解放神学が現れるのです。天の側で解放神学が現れるのです。伝統神学が崩れ、解放神学が現れたのです。 今からは、愛の首飾りを掛けて歩き回れというのです。十字架の首飾りを掛けて回るのではありません。愛の首飾りを掛けて回らなければならないというのです。そうすれば、その夫人、夫は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。自分の写真を首飾りにして、男性も女性も首飾りをして回れば気分がいいですか、悪いですか。 私は、首飾りは女性だけがすると思ったのですが、最近では男性たちもみなするのです。サタンは分かるには分かるようです。愛の首飾りをつくって掛けて回り、腰さえ曲げれば前に現れるので、警告し、ぴったりと道をふさいでいるので、悪い行動をできないはずなのです。ですから、首飾りは絶対必要でなくはないのです。 絶対信仰、絶対愛、絶対服従 お母様が私を疑うでしょうか、疑わないでしょうか。(笑い)どうですか、尋ねているではないですか。(「疑われません」)。 復帰路程で、お母様(候補)がいっぺんにずっと出てきて、八十に達した老人が私を見て、「愛する夫よ」と言いながら近づいてきて、キスしてくれれば、蹴飛ばしてしまうことができません。「だれなの?」と言いながら、気分が悪くても笑ってあげなければならないというのです。そうして、八十から七十、直線なのです。伝統に帰って合わせて、八十から七十、七十から六十、六十から五十、五十から四十、四十から三十、三十から二十、二十から十代までです。それをすべて越えなければならないというのです。 お母様が現れる時がやって来て、万民、女性たちの前に新婦の資格は許可したので、それを七十年期間を置いて、七十年、七百年、七千年です。拡大させて種を蒔いておいたので、それを全部採り入れるのです。それを採り入れる過程で、さまざま複雑な問題があったのです。 お母様一人を探すのが簡単であるならば、堕落した数年後に、エデンですでにつくることができるではないですか。見えない神様は、夢の中で活動できる能力をもっているのに、心を整理して、全部するのに、なぜ、できないかというのです。愛の相続が難しかったというのです。 お母様は素晴らしいのです。私がお母様を出世させなければなりません。天から降りてきて、成して、天まで連れて上がっていかなければなりません。約四年で、七年以内です。先生が築きあげたすべてのものを、無条件に伝授させてあげるのです。お母様は無条件に服従しなければなりません。絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。 私が最も恐れたことは、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしなければならないのですが、どのようにして、それに引っかからないようにするかということです。お母様は分からないでしょう。話してはならないのです。自然にしなければならないのです。アメリカにおいて五十州の巡回を三回もしたのです。五十州もすれば、私はあおむけに倒れるのです。ところが、問題なくすることができ、このくらい上がってきたということは、事実、驚くべきことです。そうして、世界平和家庭連合結成を四十か国でしたというのです。 全世界の女性たちが宝物を前にして、自分の体を火にくべたとしても、千年の恨みとして待ち望んできたのが来られるご父母様です。そのご父母様は、おじいさんの代身であり、その国の王の代身であり、父の代身であり、夫の代身であり、お兄さんの代身として訪ねてこられるのです。それをすべて認めなければなりません。その方の前には、女性たちにとって惜しむものはありません。自分という概念があってはならないのです。それをはっきりと知らなければなりません。(「はい」)。 今から帰って何をするかというのです。家庭連合です。統一教会も重要であり、家庭教会もすべて必要ですが、それだけでは世界問題を解決することができず、愛の家を探していくことができません。世界平和家庭連合。 真なる男性・女性が、真なる愛を中心として神様に侍ることができる第一出発基地。その基地に向かって精進しなければなりません。 世界がもろ手を挙げて承服する時 家庭です、家庭。今は七代を強制的に教育するのです。カインはアベルを強制的に殺しました。今からは行って、娘婿の八親等まで「全部来なさい」と言って、バスに乗せ、一週間継続して教育するのです。 一週間の間修練を受けさせると、「おまえたちがお兄さんにこのように対したので、罪を犯したことへの復讐をしよう」と言って、そうするだろうかというのです。屈伏するだろうというのです。今からは、強要が通じる時が来たというのです。 お母さんに娘として侍らなければなりません。おばあさんに孫娘として侍らなければなりません。お兄さんに弟として侍らなければなりません。そのような時になったのです。 自分の後ろにお兄さんが立って、その次にお父さんが立って、その次にはおじいさんが立ったというのです。後ろを振り返らなければならないのです。後ろを振り返れば、お兄さんが自分の前に立ち、お父さんが自分の前に立ち、三代を屈伏させなければなりません。三代圏に属したすべての者たちは一体で、二人に「自分の話を聞け」と言い、強制でも屈伏させなければならないというのです。 今まで四十年の間、迫害されてきた恨みを集めて、涙を流しながら訴えなければならないというのです。彼らはあらゆることをすべてしたというのです。レバレンド・ムーンが悪いか、良いか、尋ねてみなさいというのです。世界がもろ手を挙げて承服する時に入ってきたというのです。生きている聖人だという名前を付けることのできる時に入って来たのです。 私が教えを反対できるでしょうか。お母様が語られ、ご父母様が御言をもってしなければならないというのです。 救援摂理の何ですか。(「原理観」)。原理観。その次に何ですか。(「宇宙の根本を探して」)。宇宙の根本。それをもって部落部落、村々の一軒までも、全部訪ねていかなければなりません。終わりの時にどこに行くにせよ、これを拝読しなければなりません。学校に行っても、職場でも朗読しなければなりません。聞くのが嫌でも読まなければなりません。その人の年以上読んであげなければなりません。サタンは数千年、大声を上げてサタン世界をつくったというのです。わずかばかり自分の年以上読まなければなりません。分かりましたか。(「はい」)。 内容が分からないという人、手を挙げてみなさい。そのようにしますか、しませんか。(「します」)。やらない日には奪われるのです。よい地で暮らした人たち、全部ふろしきを包んで、やせ地のアフリカ、砂漠へ追い出すのです。 恨みが何かというならば、アダムの恨み、イエスの恨み、再臨主の恨みなのです。これは三代先祖の恨みです。アダムが家庭を売ってしまったでしょう。キリスト教は先生に反対したのですべてを失ってしまったのです。売ったのと同じです。主人である人が責任をとらなければなりません。先生は死んでもこの地上に、それを築くのです。これが天理です。 どんなに個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、民族、国家、ある世界全体の前に犠牲になってしまったとしても、血を流し、涙を流し、汗を流したとしても、その流した汗と血と涙が、神様が願う愛の涙、愛の血、愛の汗として一点の環境にまかれる時、場所を移していくことができないというのです。その事実を知らなければなりません。ですから、その場を絶対信仰、また、その場を絶対愛し、その場に絶対服従するのです。 個人的環境で家庭を率い、その道を行かなければならないのであり、氏族を率い、その業をしなければならないのです。国家、世界まで版図を築きながら、その業をする時、サタンがありとあらゆることをすべてしましたが、屈伏させていかなければならないのです。文総裁に行った自分の過誤に対して、弁明する道理がないので、自動的に、後ろ向きにならなければならないのです。 主体的世界的メシヤの前に絶対服従 そのような時が来たので、家庭を中心として定着です。歴史始まって以来初めて、「世界平和家庭連合定着」という言葉が出たというのです。平和世界にサタンはいないのです。真の父母が定着したでしょう。真の父母だけが定着してもいいですか。その次には家庭が定着しなければなりません。家庭が定着すれば、国家定着です。そうすれば、すべて終わるのです。 それゆえ、世界的祝福圏です。家庭の版図で世界的長子権、世界的父母権、世界的王圏を築けば、国境を越えていくのです。家庭メシヤ、先生の位置に入っていって、氏族メシヤの位置に夜でも昼でも、一年中いつでも永遠に通過することができ、国家メシヤの位置に永遠に通過することができ、世界のメシヤ、天の国の神様の国のどこまでも、玉座の主人の役割をしながら、どこでも通ることができるというのです。 神様の願いは家庭で出発したのですが、家庭的メシヤ、家庭的交差点をもてなかったというのです。個人的交差点の位置で出会えなかったので、息子・娘に出会えずに失ってしまったので、家庭的交差点、国家的交差点をもてず、民族、国家、世界的先祖、天地の先祖になれなかったのです。それゆえ、先生に従って、再び踏んで上らなければなりません。 家庭的メシヤにならなければならず、国家的メシヤの道、世界的メシヤの道、天宙のメシヤの道を提示することができる道を備えて、その玉座に座って、地上・天上天国を創建しなければならないというのです。そうしてこそ、神様が解放されるのです。 皆さんは家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、その次にイエスがなせなかった国家的メシヤの立場の位置まで立てれば、世界的メシヤは平らな道だというのです。分かりましたか。先生がすべてなしておきました。 世界的メシヤと天宙的メシヤ、神様の解放圏を築いたので、皆さんは国家的メシヤ圏を解放しなければならないというのです。 それゆえ、どのような仕事であれ、国家的解放をすることによって、皆さんが先生に従って、真の父母と王圏を中心とした基盤を立てて、王圏を中心として父母の立場、真の息子・娘になるので、王圏全体の内容を伝授され得るというのです。なぜでしょうか。父母をもったからです。それゆえ、だれでもみな、すべてこれをしなければならないというのです。 今、統一教会の選抜隊が世界的に派遣されています。氏族的メシヤだけではなく、国家的メシヤとして責任を果たさなければならないというのです。 国家的メシヤというものは堕落がありません。イエスが息子・娘をもてなかったのが堕落です。この位置を失ってしまったのです。国家的メシヤをなすのに、天の側に立つことはできますが、問題はサタン側のカイン圏を消化することです。なぜでしょうか。氏族的メシヤ、家庭的メシヤ圏を立てられなかったので、国家基準を必然的に終結するべき宿命的な道が残っているのです。これをはっきりと知らなければなりません。公式です。 ですから、アダム家庭の家庭的メシヤ、百六十家庭を中心として、これは氏族です。その次に、皆さんが氏族メシヤを中心として、家庭的メシヤを連れて、国家的に行って、手本になるのです。そうして一つになるのです。 ですから、マイナスになって、主体的世界的メシヤの前に絶対服従しなければならないというのです。絶対一つにならなければなりません。そうなれば、すべて清算されるでしょう。解放されるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.05
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「神様王権即位式」における御言成約九年 2001年1月13日天宙清平修錬苑 天城旺臨宮殿 大聖殿 (飲福〔祭祀の供え物を分けて食べること〕されながら)地上天上天国が完成されるのです。分かりますか? 御言 きょうは、どのような記念日ですか? (「『神様王権即位式』です。」)おかしな言葉ですね。「神様……」、何ですか? (「王権即位式です」)どなたの即位式をしたのですか? (「神様です」)だれが即位式をしたのですか? (「真のご父母様です。」) それは、真の父母だけでできますか? 天と地にいる、すべての人たちが国を持ち、祝福を受けて一族となり、血筋が一つとなった単一民族となったので、このような式をすることができるのです。 ですから、それをするために、今まで数多くの宗教圏が……。宗教圏の中でキリスト教を中心として、ユダヤ教から第二イスラエル、それから韓国まで、第一次、第二次、第三次イスラエル圏、旧約時代、新約時代、成約時代まで越えてきました。「成約」という言葉は、万物から始まり、すべてが祝福を受ける時代である、ということです。 神様によって先につくられた被造万物は、人類の先祖が堕落することによって、祝福圏内に立つことができませんでした。それで、救援摂理の道を通して、キリスト教を中心とした数多くの宗教を立てて、万民を教育して、段階的に引き上げながら成約時代を迎えるようになったのです。 しかし、主流思想ではない他の系列の宗教は、そのようなことを知りません。それゆえに、ユダヤ教とキリスト教だけを中心として、神様を人類の父として侍ることができる道を築いてきたのです。 そして、イエス様がいらっしゃることによって、初めて独り子という……。アダムとエバが失敗した歴史時代において、初めて神様の愛を受けることができ、血統的内容を中心として、初めて地球星に失ってしまった神様の独り子、長男が生まれたのです。 その息子、独り子は生まれたのですが、“独り娘”がいません。神様は、四千年間の救援歴史を通して、多くの苦労をされましたが、それは、アダムを再び創造されたことと同じです。 アダムをつくられたので、その次はエバをつくられるのですが、エバは、アダムをまねてつくるのです。相対となることができるように、まねてつくるのですが、それはどういうことかといえば、アダムをつくった原則、ブループリント(青写真)を中心として、それをまねてエバをつくったというのです。 聖書を見ると、男性のあばら骨を取って女性をつくったということが書かれていますが、それはどういうことでしょうか? それは、“骨子”をまねてつくったということです。 このようにして、地上で失ってしまったアダムを、神様の直系の愛の血筋を通して独り子として取り戻したのですが、エバは取り戻すことができませんでした。このエバを取り戻せば、今までの堕落以降の歴史を再び、家庭から復活させて接ぎ木することができるのです。 そして、国を建てるために準備してきたものが、ヤコブから始まったイスラエル民族でした。ヤコブの十二人の息子、娘が着地して、イスラエル民族として出発し、その勝利の版図を、イエス様が来る時までの二千年間拡大させてきたのが、イスラエルの国とユダヤ教だったのです。 イスラエルの国は、外的なカイン型であり、内的なアベル型はユダヤ教でした。そのカインとアベルの基盤の上で、霊的、肉的に父母の責任を果たすことによって、カインとアベルを収拾することができる母を選択して、主を待っていなければなりません。 そうして、母を選択して、そこにイエス様を迎えていたならば、霊肉が一体となった真なる父母を迎え、霊肉が一体となったイスラエルの国とユダヤ教が、カインとアベルの立場で父母と一つにならなければなりません。 そして、その一つになって祝福された家庭を中心として、氏族を編成し、民族を中心として国家まで編成するようになれば、だれもこれを否定することはできません。 いくらローマが世界を支配していたとしても、それを中心としてぶつかれば、外的なものは“肉”と同じなのであり、内的なものは“骨”と同じなので、骨にはかなわないというのです。 そのような立場に立てば、イスラエルの国を中心として万国統一し、神様の解放も、今から二千年前に成し遂げることができたのです。 ところが、イエス様が、相対であるエバを復帰して家庭を成すことができなかったので、国家基準を成すことができるように準備されたイスラエル民族の選民圏が、すべて崩れてしまいました。根こそぎ崩れたというのです。 ですから、イスラエルの国が、国を建てるために準備した民の基盤が、すべて死んでなくなってしまったので、イスラエルの国はなくなってしまいました。そして、祝福された民族であるのにもかかわらず、七世紀に入って、イスラエル民族がエジプトから中東に帰ってきて、そこで、その中心民族の中からイスラム教が出てきたのです。イスラム教です。兄弟なのですが、イスラム教が反対する立場で現れたのです。これは兄弟です。 イシマエルとイサクは、アブラハムの直系の後孫として、兄弟の関係なのですが、この兄弟が“怨讐となって闘う”という歴史が展開したのです。エルサレムを中心として、十字軍とムスリム(イスラム教徒)が闘い、キリスト教がイスラエルを奪ってしまったのです。そのような歴史は、皆、知っていることです。 奪われたイスラエルを、再び取り戻さなければなりません。カインとアベルの闘いによって奪われたのですが、イエス様の時代に、国家基準でカインとアベル、左翼と右翼の立場で平和の基準をつくっていたならば、カインとアベルの闘争歴史は、霊界でも地上でも、すべて解決されるはずでした。 しかし、父母を中心として、国家基準の形態を準備したイスラエルが、亡国の僕となることによって、その果たすべき使命を受け継いで、「再臨」という言葉を希望としてきたのです。 本来、キリスト教は、第二イスラエルを中心として、世界版図、ローマ圏を支配することができ、乗り越えることができる世界版図圏を持つことができました。しかし、イエス様の体を失ってしまったので、霊界を中心とした基準において、霊的基盤を築いてきたのです。 これが、終わりの日の第二次大戦において連合国と枢軸国が戦い、ついに連合国が勝つことによって、キリスト教文化圏が世界を統一したのです。 世界を統一することによって、霊肉が一つになることができる時代となり、怨讐の世界を完全に占領したので、連合国と枢軸国が、天の側の世界に帰属することができるようになるこの基盤を中心として、カトリックと新教が一つになった立場に立ったのです。 その基盤の上で、キリスト教文化圏を代表して、降臨される再臨主を迎えていたならば、そのときから統一天下の運勢が起き、三年半ないし七年間、一九四五年から一九五二年までに統一天下を成し、そのときに神様の即位式は終わっていたのです。分かりますか? ところが、キリスト教が統一教会を受け入れることができませんでした。今でも彼らは、私たちを全面的に妨害して、追い出そうとしているのです。それは、第一次イスラエルであるユダヤ教が、キリスト教を妨害して、最後まで反対しながら滅びる立場に立つようになったことと同じであり、それでキリスト教は、統一教会に反対して、滅びる立場に立ちました。そうして、宗教圏がすべて滅びる立場に立ったのです。 何ですか? キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラム教……。イスラム教は、後から出てきたのですが、宗教の形態は持っていても、今ではもう、すべて滅んだに等しいというのです。 滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな、地獄のようになってしまいました。神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星において見いだすことができない、という結果になったのです。 本来ならば、アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていくことのできる息子が、心と体を一つにして、娘と一つとなって、神様が願われる、堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭は、ないというのです。 本来、そのような夫婦によって息子、娘が生まれなければなりません。しかし、父母と息子、娘が闘わない家庭はありません。すべて分かれているのです。個人主義化してしまったこの世の中には、神様の相対理想がありません。 しかし、すべてがペア・システムになっているのです。鉱物世界もペア・システムであり、植物世界もペア・システムであり、そして動物世界もペア・システムなのです。天と地も相対となって一つになるべきなのにもかかわらず、すべてが分かれてしまったので、反対になったということです。反対になってしまったのです。 それを、どのようにして引っ繰り返して、合わせるのですか? それは、だれがしなければならないのでしょうか? 蘇生、長成、完成における蘇生的アダム家庭において失敗し、長成的メシヤも国家的基準において失敗したので、国家的基準においては、いずれにせよ失敗の内容を取り戻すことができません。 ですから、ローマ、世界の限界線を越えなければなりません。世界まで越えていかなければならないのです。 イエス様が、国家を取り戻して越えていくべき峠が、世界的舞台であったので、世界的舞台に向かって越えていかなければならない時が、必ず地上に訪れるのです。 世の中は、すべて滅びる立場に立ち、宗教もすべて滅びる立場に立ちましたが、再臨主は国家基準を超えて世界まで……。再臨主は、イエス様の理想を超えるので、来られる再臨主の実存的基盤というものは、国家的基準ではなく、世界的基準でキリスト教文化圏を相続しなければなりません。 相続されるべき立場に立っているキリスト教、カトリックと新教自体が闘うことによって、統一するということは考えることもできないのです。ですから、これを統一する時まで、この闘いは必ず続き、続けば続くほど、宗教圏は滅び、最後の日には、道もなく、手も出すことができないので、しかたなく、主人であるメシヤの所に来て、しっぽにしがみつくようになるのです。 そして、どのようになるのかというと、宗教も失ってしまい、世界も失ってしまい、国も失ってしまい、社会も失ってしまい、家庭もすべて失ってしまったので、「だれがおじいさんなのか? だれが父母なのか? だれが夫婦なのか? 子女が何だ?」と言って、すべてを否定する時代に入ってきたのです。 それゆえに、「どこに天があり、どこに神様がおり、どこに宗教があるのか?」と言って、すべて否定するのです。「どこに社会があるのか? どうして家庭が必要なのか?」と言って、すべて動物のように、ペア・システム……。 人間においては、そのペア・システムが、子供を生むために機能しているのでもありません。動物は、子供を産むためにペア・システムになっているのですが、人間は、動物よりももっと悪いのです。ペア・システムの基準が、一時的な享楽というものになり、そこには“永遠”という概念がないのです。男性も女性も、堕落した天使長のように、神様の理想的な愛の基準とは、完全に懸け離れた個別の立場に堕ちていきました。 ですから、愛の道を訪ねていって、すべてのものを踏み越えていくことはできません。人間の本性的な愛の道というものは、神様と一体となることができる道がないかぎり、人間の欲望や人間の修養や決心をもってしては、最後まで、この情欲を克服することはできません。 それゆえに、悟りの道を行く人がいるとすれば、サタンが霊的に試験するのです。美男子が修道の道を行って、天性に近づいていくことができる立場に立ったとすれば、美女がやってきて、抱き抱えて試験するのです。そして、「わたしを抱いてください。」と言うのです。 しかし、「ぎゅっと抱いてください。」と言うときに、抱いてあげれば、それで終わりなのです。男性であれば美女が現れ、女性が修道の道を行けば、男性が……。男性は天使長の立場なので、「抱いてください。」とも言いません。ですから、そこで目を開けているだけでも終わりなのです。 このような闘いを中心として、愛をもって霊的、肉的に生死の判決を下すということは、悟りの道を通して霊的体験をしなければ、どれほど克服し難い問題であるか分かりません。また、それがサタンの活動舞台の中の活動舞台になっているということを知らなかったのです。 しかし、神様は、この活動舞台を奪って、理想の位置に返さなければならないということをご存じであり、千辛万苦して、万々世、繰り返してでも続けていかなければならないのです。ですから、宗教のみ旨を立てようとされる神様は、今まで力なく、失望に失望を繰り返してこられたのです。 そのうえ、繰り返したとしても、上がっていくのではありません。個人から家庭、氏族、民族、国家まで行って、降りていくときには、国家の基準から氏族の基準に、氏族から家庭以下に落ちていくのです。このようにして、どん底まで落ちていき、ここで失敗すれば、他の所に回っていくのです。ですから、復帰歴史は数千万年かかったのです。 それで、旧約時代の二千年が霊形体ならば、霊形体級になるまでは、上がっていく方法がありません。二千年という限界線が再び訪れるまでは、だれかがそこに穴を開けて、生命体圏まで上がっていくことはできないのです。 蘇生、長成、完成の三段階に分かれた復帰歴史においては、一つの基準を満たすまでは、岩の峠道を巡り巡っていかなければならず、東洋で始まれば西洋で始まり、天で始まれば地で始まり、そのように一つにならなければ、つぶれてしまうのです。 そのような転換期において、それぞれ宗派なら、宗派や文化背景が異なるので、東洋と西洋、東西南北四方で、メシヤの代理的責任を持って、世界人類を収拾してきた歴史的な宗教形態が、仏教や儒教、イスラム教、キリスト教であったのです。分かりますか? それでは、再臨主とはだれなのかというと、それは“真の父母”です。真の父母は、何を持ってくるのですか? 真の愛と真の血統を持ってくるのです。分かりますか? 偽りの父母とは何ですか? 偽りの愛と、偽りの血統をもたらすのです。 本来の堕落していない本然の世界においては、神様を中心とした家庭を成さなければなりません。真の息子、娘の家庭を成そうとすれば、血統が連結されなければなりません。 真の父母の子女になろうとすれば、真の父母と、血統が連結されなければなりません。「父」や「父母」という言葉と「子女」という言葉は、血統が連結されなければ、絶対に成立することは不可能です。それは、神様も分けることができません。堕落したサタンも分けることができません。それを蕩減復帰しなければならないのです。 偽りのオリーブの畑であっても、本然の基準である真なる神様の血統に接ぎ木して、真のオリーブの木の愛を中心として、一心、一体、一念となって、生死の境を出入りしなければなりません。 個人的な生死の境、家庭的な生死の境、国家、世界、いかなる犠牲があるとしても越えていくという、そのような心情を持った人には、サタンは関与することができません。国家以上の基準に越えていけば、すでにこれは、蘇生圏、長成圏、完成圏に入り、直接主管圏内に入っていくので、サタンとは関係を結ぶことができないのです。 ですから、イエス様も、もし結婚して相対理想を成していたならば、亡くなられたりはしませんでした。殺すことはできないというのです。これは、相対理想の直接主管圏に連結することができ、原理で言えば、責任分担を完成した基準になるので、直接主管圏内に入っていくのです。 直接主管圏は、神様の血統が連結されており、サタンには、それを断ち切る術がありません。そこに向かう過程において、心情一致することができる位置に行くことができずに、堕落したことが問題なのであって、アダムとエバが夫婦となって、愛し合ってさえいれば、堕落はありえないというのです。永遠に堕落することはできません。堕落できないのです。 しかし、この過程で実が実りませんでした。実が実っていないのに、実のように思って、いくら土に埋めたとしても、芽は出てきません。ですから、永遠の生命がないのです。そのような、死んだ生命を処理する所が、地獄です。そこは、神様とは関係がないのです。 それゆえに、“父子関係”というものは、何が問題なのですか? 父母の血統が連結されなければなりません。その血統は、そのままでは連結できません。父母の血統が、そのまま一人のままでいるでしょう? 一人でいるのです。一人で血統が連結されますか? この血統は、男性の血だけでは連結できません。男性と女性が、一つにならなければなりません。 宇宙の根本道理は、性相と形状の血統が一つになった、その位置で創造したということです。つまり、性相である心が喜べば、形状である体も共に喜ぶことができる位置で、人間を創造したというのです。 それと同じように、見えない形態が、見える実体を迎えることによって、爆発が起きるのです。水を温めれば湯気になり、湯気をもっと温めると、水蒸気になって完全に見えなくなるのです。それと同じように、目に見えない神様であっても、とても熱い位置にいる神様が、見える実体とぶつかり、冷たいものとぶつかれば、爆発するのです。 ですから、愛を中心として性相と形状が球形を成していますが、それは内的な運動であって、外的に現れないので、神様ご自身は、刺激を感じることができません。しかし、この実体である刺激的な相対が生まれることによって、熱いものが冷たいものとぶつかるので、爆発するのです。分かりますか? 心と体が、内的に血統を通して愛と和合し、生命と和合して絡み合っているのですが、その瞬間には、心と体のそれぞれが、お互いに共有できない喜びを感じているので、その喜びを一緒に感じることはできません。これが、相対的実体と一つになって刺激を感じることによって、爆発するのです。天地が爆発すれば、運動が展開するのです。 愛というものは、ぴたっと、軸を中心として運動が展開するので、“永遠に愛そう”という心さえあれば、永遠に回転することができるのです。ですから、中心に神様をお迎えして暮らすことができる家庭となり、その家庭が、永遠に運動することができる原動力に従って、種が大きくなり、芽が出てくるのです。その芽が、神様と同じ本然の実の位置に戻ろうとするので、幹が伸びていくのです。 そして、そこに再び芽が出て、大きく生み殖え、東西四方に伸びた枝と枝に、実を実らせることができる環境ができるのです。そのような大きな木と同じように、アダム家庭のアダムとエバの実体を中心として実体的対象を繁殖し、それが東西南北四方、世界じゅうに満ちあふれ、天の国の民を繁殖することができる数多くの分工場を拡張することによって、天の民で満ちるのです。 霊界にいらっしゃる神様と、地上にいる実体の父母が協力して、それを地上で生産し、永遠に暮らすことのできる霊界で一体となり、天上世界の国と民と地を中心として、地上天上理想を完成していたはずなのです。分かりますか? (「はい」) そして、これを今までキリスト教において、カインとアベルが一つになって、霊的基準で取り戻してきたのですが、体を中心として霊界を収拾したのであって、地上世界を収拾することはできませんでした。 地上世界を収拾しようとするので、すべての闘いを中心として、国家を超え、民族を超えて、単一民族を形成するために、第二次大戦後に初めて連合国が枢軸国を……。怨讐なのです、怨讐に勝利して、消化するようになるのです。 これは、カインとアベルが消化される時が来たということです。第二次大戦以後に、この基準において、アメリカを中心としたイギリスとフランスが受け入れていたならば、統一教会は一躍、三年以内に峠を越えていたのです。七年以内ですべて終わるのです。 このようになっていたならば、わたしたちが主張する地上、天上天国が、願いどおりに成し遂げられ、統一された民族形態の基盤の上で、霊肉界が分かれずに、一つになることができたのです。 霊と肉が、イエス様の時代に一つになることができずに、分かれてしまったので、再臨時代までの二千年間、苦労しながら蕩減して備えられた、勝利の覇権を引き継ぐことができる基準と、霊界の父母の位置に行ったイエス様が、二千年間、霊界を収拾して勝利したものとを、すべて一つにしなければなりません。 しかし、それを一つにするのは、イエス様ではできません。イエス様は結婚できなかったので、イエス様が結婚させることはできません。神様も祝福してくださることはできません。 これは何かというと、祝福をして、血統を転換してあげることができるのは、“真の父母”である、ということです。偽りの父母によって種がまかれ、神様とサタンが闘うようになったのですが、その闘いをとめるためには、真の父母が、その中間にさっと立ち、「あなたは、このような目的で闘うのでしょう? 神様は、このような目的で闘うのでしょう? それでは、わたしが、それをすべて入れ替えてあげます。」と言って、「入れ替えてもよい。」と言われれば、すべて終わるのです。 ですから、神様とサタンまでも和解させ、ユダヤ教と来られる主、それから周囲の宗教が……。イエス様が来られて、その家庭を中心として国家の和合が成され、主権さえ持つようになれば、その時に、すべてが終わっていたのです。 しかし、それが終わらなかったので、世界舞台において、第二次大戦以後に、この世界国家……。アメリカは、世界の第二次的なイスラエル圏です。ここで、第三次地上、天上の主権と覇権の主人として来られるかたに出会い、地上、天上統一の基盤が造成されていたならば、どうなっていたでしょうか? そうなれば、これが一体となって、第三イスラエルの天国出発と同時に、第三解放圏である地上、天上天国解放が連結されていたのです。分かりますか? それが四十年間回り道をして、今日まで五十五年の歳月が過ぎたのです。五十六年目になりますか? そうでしょう? そして、きょう、この「神様王権即位式」を、すべて行うことができたということは、夢のような話です。 だれが、神様の即位式をしてあげるのですか? だれが、即位式を台無しにしたのですか? 神様が台無しにされたのですか、だれが台無しにしたのですか? サタンとアダムとエバが、それを台無しにしたのです。アダムとエバが真の父母になることができずに、サタンが入り込み、この地上に、真の父母の血統的基準を立てることができなかったのです。 彼らが堕落することによって、サタンの血統を残したので、これをすべて否定して引っ繰り返すということは、神様もできず、サタンもできません。今までサタンがつくってきた国を、自分で壊してしまうということは、難しいのです。だれでも、自分がつくったものをすべて改造しようとすれば、嫌がるのです。サタンも同じです。 神様が、それを引っ繰り返すことはできません。神様が引っ繰り返すことができるのならば、エデンの園で、神様がアダム家庭を失われることはなかったでしょう。いずれにしても、理論的にも、神様が手を出せないということは、間違いありません。 では、神様が手を出すことができないことに、手を出すことができるかたとは、だれなのでしょうか? それは、完成したアダムです。分かりますか? 「本然の愛の家庭を持つことができるアダム家庭は、どこにもない」ということが、分かりますか? (「はい。」) 今日、皆さんたち祝福家庭は、皆、「祝福の中心家庭だれだれの名によって……」と、祈祷するようになりました。「だれだれの名」とは、世界の代表なので「だれだれの名」なのです。そのときは、アダムの名によって祈祷しました。 千万後代の人たちは、アダム一人の実です。実というものは、いくら多くても、その実としての価値は、イコールです。同じものだというのです。分かりますか? それゆえに、皆さんが祈祷するときに、「祝福の中心家庭……」、何ですか? 朱東文氏、何ですか? だれの名ですか? (「自分の名で……。」)「自分」とは、何ですか? 朱東文の名です。万国で競争しています。すべての祝福家庭が……。 すべてが「中心家庭だ」と言うのですが、全員が一等ですか? 千人が中心ならば、競争しなければならないのです。道場に行って闘うとか、相撲を取るとか、力くらべをして、闘わなければなりません。闘って勝ってこそ、一等になるのです。分かりますか? ここに何双、何人が集まったのですか? (「四千人集まりました。」)四千人ですか、四千家庭ですか? (「四千人です。」)四千人ならば、それが四千家庭であるとしても、四千家庭の中での一等は、四千ですか、一つですか? (「一つです。」) マラソン大会で、何百万人が走ったとしたら、一等は“何百万分の一”ですか、“何百万分の二”ですか? 何百万人の中での一等とは、何百万人の頂上なのです。その一等というものは、一等、二等、三等……。普通、何等まで賞を上げますか? では、オリンピック大会でも、何等までメダルを与えるのですか? 金メダル、銀メダル、銅メダルの三つです。それも三数だからです。これは、原則がそうなのです。これは三段階です。すべてのものは三数です。三数が、一つの峠になっています。すべて三数になっているというのです。 そのことを見ると、良心的な人たちや精誠を尽くす人たちは、競技をしたとしても、自分でも知らずに天地の度数に合わせるようになっているのです。中央を知らないだけです。この周辺の中に入っているので、中央が分からないだけです。ここでは、度数に合わせるのです。ですから、十二か月も、すべて……。 今日の測定器を見ても、十二進法を使っているのです。その十二進法を中心としては、十二か月自体が中心ではなく、その中心がなければなりません。 三百六十度に回っていくにおいて、中心がなければ、三百六十度を見分けることはできません。ゼロ点がなければなりません。ゼロ点は、位置を固定しなければなりません。永遠に変わらない位置を備えた定着基盤なくしては、三百六十度の方向が、すべて混乱してしまうのです。 中心が問題です。復帰完結も、中心なくして復帰完結することができますか? 「祝福家庭の中心」とは、何ですか? だれが祝福してあげたのですか? 父母が、してあげるのです。だれが、結婚式をしてあげるのですか? 結婚式というものは、自分の息子、娘の血統を一つにして、父母に似るようにしてあげる式です。ですから、だれが、その式をしてあげるのですか? 堕落していなければ、だれが、してあげたのでしょうか? 父母が、してあげるのです。 しかし、今日の結婚式は、天使長に導かれてきたので、“有名で、社会で名のある人を通して、横にはしごを架けて上がっていこう”と考えるのです。 今からは、皆さんたちが……。昨年の十月十四日を中心として、聖人と、祝福を受けた先生の息子、娘の家庭と、宗教界の統一式をしてあげたのです。分かりますか? そのようにしながら、先生が語ったことが、何かというと、「先生は家庭の王だ。」ということです。何だというのですか? (「『家庭の王』です」) 今まで、家庭の王がいましたか? 天地を代表した、中心の立場に立った家庭の王がいたのですか? 家庭の王になろうとすれば、すべての父母の中で、中心的父母にならなければなりません。 そして、長子の中の長子にならなければなりません。長子の王が、先に家庭を持つのです。分かりますか? そうでしょう? 結婚に“逆婚(兄弟姉妹の中で、年の若いほうが先に結婚すること)”というものがあるでしょう? 結婚を引っ繰り返すことはできません。順序どおりにしなければなりません。 最近では、ろくでもない者たちになっているので、逆さまにして騒いでいます。また、復帰という内容とそれは、呼吸が合うので、このようにも合い、あのようにも合うので、逆さまでも通じるというのです。 本来は、長子、次子と、生まれた順序どおりに結婚しなければなりません。ですから、韓国には「逆婚」という言葉があるのです。それは、いけないのです。その順序が逆さまになれば、引っ繰り返ってしまいます。世の中は、すべてそのようになっています。これを、どのようにして合わせるのですか? ですから、それが混沌となっているので、最近は親族相姦関係が出てきたのです。姦淫するということです。おじいさんが孫娘と暮らし、義父が嫁と暮らすのです。まったく……。そのような親族相姦関係が出てきたのです。回っていく人は、中心が分からないので、お互いにつかみ合うのです。このようなことを……。 大混乱時代です。家庭的混乱時代、一族、親族を問わず、系列をつかむことができず、一度なのか、ゼロ度なのか、三百六十度なのか、百八十度なのか分からず、お互いに回っていきながら、ゼロ度でも、三百六十度でも、百八十度でも合わせていくというのです。 それゆえに、世界が民族移動して、乱交事件まで起きるのです。今、そうでしょう? 男性が国外に行けば、女性たちとどのくらい相姦関係を結んでくるのか分からないという、乱交時代の局面が展開しているのです。 さあ、このようなことをだれが収拾するのですか? 神様も、エデンの園でアダムとエバの堕落に干渉できなかったし、サタンが結婚することも干渉できなかったのです。それなのに、終わりの日に干渉する方法がありますか? 病の根源を抜くことができなければ、その病のために死ななければなりません。滅びなければならないのです。 それゆえに、反対の偽りの愛、偽りの生命、偽りの父母によって、偽りの血統が生じたので、真の父母が現れて、これをもう一度蕩減復帰……。これを否定して、生き残らなければなりません。 それゆえに、「死なんとする者は生きる」という言葉は、死亡世界において、死ぬまで蕩減しても、生きることができる余力があってこそ、生き残るのです。死ぬことを悲しみ、“逃げ出したい”と思う人には、永遠に復活圏がありません。ですから、「死なんとする者は……」、何ですか? (「『生きる』です」)「生きんとする者は……」、何ですか? (「『死ぬ』です」)生きる (「死ぬ」)ああ、それでは、良くありません……。 それでは、もし、神様が“死なん”とする位置にまで行かれれば、どのようになりますか? (「生きる」)生きるのです。神様が“生きん”とされれば、どうですか? (「死にます。」)永遠に希望がないというのです。それは、そういうことです。 神様も、堕落圏内の死んだ立場に閉じ込められているのですが、そこから抜け出すためには、神様も“死なん”とする立場にまで行ってこそ、生きるのです。“生きん”とすれば、神様も何ですか? (「死にます。」)何のことか分かりますか? (「はい。」)先生は、どうですか? 先生も同じです。先生も、“生きん”とすれば死に、“死なん”とすれば、何ですか? (「生きる」) それゆえに、統一教会の文教主が、“メシヤになろう”、“真の父母になろう”と考えたでしょうか、考えなかったでしょうか? 考えたのなら、毎日、死ななければなりません。毎日、毎日、「死ぬ。」と言って、大騒ぎしなければなりません。死なない環境ならば、死ぬようなことも成さなければならない、ということにもなるのです。分かりますか? 死なんとする者は、何段階の……。天とサタンが忌み嫌う……。真竹には、節目があるではないですか? 節目ができるのと同じように、節目ができるときには、新しい節目が出てこなければなりません。 大きくなれば大きくなるほど、より大きな節目ができますか、小さいものができますか? 根元の節が太いですか、てっぺんの節が太いですか? 節目がたくさんできればできるほど、細くなるのでしょう? それが理想的です。 ですから、神様も同じであり、真の父母も同じなのですが、“天の国に行く”という人は、どうですか? 同じではないですか? (「同じです。」)朝、重たい冠をかぶったので、額が痛くて、気が遠くなりそうです。早く答えてください。 気が狂うような話です。神様も、“生きよう”という人間の一つの生命を生かすためには、死の場にいる人を生かさなければ、支えることができません。崖から落ちた人に縄をかけて助けようとすれば、死ぬほどの力を注いで、その基準以上になって、初めて人も生き、神様も生きるというのです。 それゆえに、神様は、何千万回も死の峠を経てこられたのですが、わたしよりも年を取っていらっしゃるので、後になって疲れてしまうのです。一番年を取っていらっしゃるでしょう? おじいさんの中でも大王のおじいさんとは、だれですか? 神様でしょう? ですから、人を救うために、縄で縛って平地に引き上げるにしても、どれほど力を使うでしょうか? ですから、自分が神様によって引き上げられたとしても、その後で神様は、間違いなく疲れて倒れてしまうのです。そのようになれば、どうしますか? 背負って病院に行かなければならないでしょうか、行ってはならないでしょうか? 病院がなければ、しかたなく、どのようなことをしてでも助けようとしなければなりません。祈祷をしたとしても、死の峠を越え、それを踏み越えていく道しかないという結論が出ました。 ですから、メシヤという人は、あるいは救世主という人は、神様よりも休んで食べているのですか、神様を休ませて食べさせてさしあげ、「自分は、死ぬほどの苦労をしてでも行く。」と言って、神様に侍らなければならないでしょうか? それとも、神様を死なせて、“自分は、休んで食べていよう”という者が、メシヤになるのですか? ですから、統一教会に入ってきた者たちが、先生よりも……。先生は、死ぬほど苦労したのに、“自分は、休んで食べていよう”という者たちは、天国に行かなければなりませんか、地獄に行かなければなりませんか? (「地獄に行かなければなりません。」)「先生は、私の言うとおりにしてください。先生は、社会のことも知らず、何々をしているのですが、それではいけません。」と、そのような話を聞かなければなりませんか、聞いてはなりませんか? “生きるか死ぬか”という課題が残っているのに、生きるために、陰で何かをたくらむようなことが通じますか? 一緒に死のうとしてこそ、一緒に生きるのです。それを、一人だけ生きようとしてはいけません。 自分が、“父親は賢いのか愚かなのか分からないが、父親の心は、「息子、娘のために先に死のう」というものであることは間違いない”と思うときには、父親がするとおりに、最後まで行動しなければ、分かれてしまうのです。最後の局面になって、分かれるのです。 父親は“死のう”とするのに、自分が“死ぬまい”とすれば、どのようになりますか? 分かれますか、分かれませんか? 父親の行動と息子の行動が分かれれば、地獄の行動と一体になるのです。そのような行動に従っていったならば、孫でも何でも、おじいさんの懐に入っていくことができず、おじいさんも孫を抱いて、一度もキスできないというのです。それは何のことか分かりますか? 分かりますね? (「はい。」) 皆さんは、今まで統一教会を信じてきましたが、“先生以上、神様以上に苦労しよう”と思った人は、いますか? では、先生の言うことを聞きますか? “ああ、何かがあるらしい”と思って、見物に来たのですか、この困難な峠を踏み越えていくために来たのですか? それが問題です。そこには、個人主義的なコンセプトは必要ありません。そのことを知らなければなりません。ハーバード大学を出た人、エール大学やオックスフォード大学を出たということだけを鼻にかけているような人たちは、必要ないというのです。かえって、労働者や学歴のないような人たちの中に……。 フリーセックスを好む人たちはだれですか? 白人ですか、だれですか? 黒人がそれを好むとすれば、それは、白人から教わったのでしょう? このように思わなければなりません。フリーセックス、ホモ、レズビアン、このような者たちは、エイズにかかって……。 このままでは、世界がエイズと麻薬のために全滅するようになっています。今、アフリカは、二千六百万人がエイズにかかっているというのです。そのままでいれば、今後十五年から二十年以内に滅びるかもしれません。エイズの潜在期間は八年なので、二代ですべて死んでしまうというのです。 ここに付添人として立った百二十人は、自信がありますか? 自信がありますか、ありませんか? 先生についていく自信がありますか? なぜ、「自信がある。」と言いながら顔を隠すのですか? 先生が神様を解放したのなら、あなたたちは、先生を解放しなければならないでしょう? 数多くの国々が、いまだに解放されていないので、あなたたちに百二十か国を解放させようというのです。マルコの家の屋根裏部屋で解放された、イエス様の百二十門徒に当たるのが、世界の国家代表たちです。 先生の時代においては、百六十家庭と百八十家庭なのですが、百六十家庭とは何かというと、世界の国家を神様の元へ取り戻してこなければならない、ということです。分かりますか? (「はい。」)一つの国を取り戻すことができない人は、天の国の代身となることはできません。 地の王になれば、天の国でも王になるはずであり、正しい行いをすれば、善なる王として、今後の未来においても、王の位置を守っていくことができます。 そして、責任を果たしましたか、果たせませんでしたか? 祝福家庭たちが、南北統一をしようと、すべて統班撃ギヨク破……。統班撃破の責任を、きちんと果たしているのですか? 統班撃破して、世界が一つになりますか? 国連を残して、世界が一つになることができますか? あなたたちは、統班撃破をするのですが、わたしは、国連を中心としてNGO(非政府組織)を消化するのです。国連で、NGOが一番の問題です。この人たちが、いちばん難しいのですが、それをする人がいますか? NGOの責任者や国家の代表者たちと比較してみれば、自国の政権を中心として、社会の悪がどうだこうだと、とやかく言っているのであって、先生のように、「未来の世界において、このように国連が統一され、共産主義を料理する問題はこうだ。」と言う、このようなことは、あまりにも次元が高いのです。ですから、聞いてからもぼーっとして……。 そして、「内容を知らなければならないでしょう? それでも反対するのならば、しなさい。」と言うと、「正しいことは、正しいです。」と言うのです。 青少年の淪落と家庭破綻、エイズの問題をどのように解決し、純潔な血を、どのようにして残すのですか? それは、自分たちでは分かりません。「それに対する解決方法だ。」と言うと、反対しようとしますが、大統領や国連事務総長など、何を知っているというのですか? 「これは、うそだと思うか、真実だと思うか? この者たち」と尋ねれば、「真実です。」と言うのです。頭をこのようにして、手を挙げるというのです。 あなたたちは、入籍する自信がありますか? ここで、神様と興進君とイエス様が一体となっているのと同じように、わたしが神様の位置ならば、興進君はイエス様と同じです。 “三角地帯”に下りていって、事故に追いやられて死にたくなければ、今から教育して、教育にパスしなければなりません。そのような考えをしなければならないのです。入籍修錬を受けましたが、教育にパスするために課題を残して、条件的に入籍したということを知らなければなりません。分かりますか? さあ、それでは、きょうの主題は何ですか? (「『神様王権即位式』です。」)「神様王権即位式」なのですが、即位式をする前に必要な話は、もう終わりました。分かりますか? “死なん”とする道を行かなければならない、ということです。 それでは、あなたたちも、今から息子、娘たちと自分たちの先祖、金キム氏なら金氏の先祖即位式をしなければなりません。分かりますか? 朴パク氏なら朴氏が集まって、「朴氏先祖王権即位式」、そうでなければ、「長官(大臣のこと)即位式」をしなければなりません。しようとしてできなければ、「局長即位式」でもして、初めてその国の所属になるのです。そのような競争時代に入ったということを、はっきりと話してあげるのです。分かりますね? それでは、“生きん”とする人は、望みがありますか、ありませんか? (「ありません。」)ある (「ありません。」)この者たち、「あります。」です。(「ありません。」)そのようなこと(“生きん”とすること)を願っているではないですか? 分かりますか? はっきりと知ってください。もう、はっきりと分かったと思うので、今から、「神様王権即位式」以降に成すべき条件を、はっきりと教えてあげます。 問題は何かというと、血統が問題です。「血統」と言ってみてください。(「血統。」)血統 (「血統」)英語では、何と言うのですか? ブラッド・リニージ(blood lineage)です。もう一度、言ってみてください。(「ブラッド・リニージ。」)それが、最も重要なのです。 自分の国の王は、それ以上に重要なのではありません。偽りの父母も必要ありません。社会組織も建物も何でもありません。学校も何でもありません。今、この世界にある多くの国は、神様に属しているのではなく、サタンに属しているのです。 もう、ほかに方法がありません。神様に従い、真の父母に従う道にしか、中心の位置がないですか、ありますか? (「ありません。」)アメリカ大統領であるジョージ・W・ブッシュ大統領が、アメリカの中心ですか? ゴアと闘って、得票はゴアのほうが多かったのです。選挙人団、そのために負けたのです。終わったというのです。 アメリカは、CIA(米・中央情報局)やFBI(米・連邦捜査局)を中心として、弱小国家に対して「民主主義と両院制を選択しなさい。」と言ってきましたが、今からは、そのように言うことができません。「自分の国のことをきちんとしろ。だれのためにここに来て、大きなことを言っているのか?」と言われるのです。民主主義がなければ、今から西洋の人は、どのようにして生きていくのですか? 分かりますか? それで、わたしが思うことは、四年制から八年制にしたほうがよい、ということです。分かりますか? 四年間で政権が交代するので、そのための競争をしながら、どのようにして仕事をするのですか? そうして皆、国の財産を食いつぶしてしまうのです。 ですから、八年です。一つの峠が八数なので、八年間にするのです。そして、男性と女性がいるので、民主主義的にしようとすれば、十六年間は勤めなければなりません。 また、家庭を中心として二倍にすれば、三十二年間です。三十二年間勤めて、初めて死んだ国でも生かすことができる可能性があるのです。四年間で、どのようにするのですか? 二年もたたずに選挙運動を始めるので、滅びるのです。そのような形での民主主義をしていては、すべて滅びます。分かりますか? 原理が許しません。 今後、王圏時代に入っていくのですが、どのようにして入っていくのですか? 四年を八年にして、男性と女性がいるので、八年を十六年にし、一次、二次とすれば、三十二年です。そうして、三十二年間、することができるようになれば、天下の王……。 王の中で、三十二年間も王であり続ける人がいますか? (笑い)ですから、王圏に戻っていくことは、問題ありません。分かりますか? 分かりますね? (「はい。」) 労働者と農民にユニオン(労働組合)があるのと同じように、株主のユニオンをつくるのです。そうして、「自分たちの家庭の妻や子供たちを、きちんと食べさせていかなければならないので、去年の生産量よりも、今年はもっと増やさなければならない。そのために、わたしたち株主ユニオンと、あなたたち労働者ユニオンが、一緒に競争しよう。」と、言うのです。 このようにして生み出した利益は、三年間、主人に与えずに自分たちで分け、労働者のユニオンが一所懸命にしたら、その分の何パーセントかを多く与え、株主のユニオンが一所懸命にしたら、その分、多く与えるのです。このようにすれば、けんかをするでしょうか? 西洋社会で、このような考えをする人はいません。分かりますか? それが、できないときには、レバレンド・ムーンが、「宗教連合の世界組織よ、集まれ。」と言うのです。全世界が祝福を受けたので、「祝福家庭、集まれ。今から、私たちで宗教ユニオンをつくろう。」と言えば、つくることができますか、できませんか? 「宗教ユニオンをつくりましょう。」と言えば、つくりますか、つくりませんか? (「イエス。」)「はい。」と言わなければならないでしょう? わたしにアメリカを任せてみなさい、というのです。三年から七年以内に、すべてきれいに整理できます。それは、可能な話ですか、不可能な話ですか? (「イエス。」)希望的な話ですか、絶望的な話ですか? (「イエス。」)この者たち、ユニオンが何だというのですか? ですから、ユニオンも退きなさいというのです。そのようにすれば、共産党も退いていくのです。 さあ、先生の話したとおりにすれば、社会悪を造成するユニオンを追放することは可能ですか、不可能ですか? (「イエス。」)ポッシブル、インポッシブル? (「ポッシブル。」)分かっていることは分かっているのですね。では、インポッシブルが強いですか、ポッシブルが強いですか? (「ポッシブル」) 今から、それをしなければなりません。わたしがブッシュ大統領に会ったら、「わたしの言うとおりにするのか、しないのか。」と、激しく詰め寄らなければなりません。先生にそのような度胸がありますか、ありませんか? (「イエス。」)イエスなのかどうか、どうして分かるのですか? とにかく、あなたたちは、初めて来て、先生からこのような話を聞いたので、気分が良いでしょう? 遠く太平洋を越えて、“ああ、今度は十日もたたずに、『また来い。』とはどういうことだ? お金もないのに、先生は一銭も助けてくれないのは、どういうことなのか?”と、思うでしょう。 国が救われ、世界の解放が展開し、退廃主義的な世界がなくなり、天の国が建国されるのに、千回、万回、飛んでくることができないことのほうが恨でしょう? さあ、帰るときに喜んで帰りますか? “ああ”と思いながら、絶望して、すっと肩を落として帰りますか? (「ハッピー。」)「ハッピー、ハッピー。」と言って、喜ぶのですね。 今ではもう、このように見ようと、あのように見ようと、好きでも嫌いでも、東洋人であろうと西洋人であろうと黒人であろうと、人という人は、文総裁の言うことを聞かなければ、このようにしても混乱し、あのようにしても混乱し、引っ繰り返しても混乱し、まっすぐにしても混乱し、すべて混乱するというのです。 ですから、初めから混乱した立場に立たずに、きょうから新しく決意するのです。一度決意すれば、いくら困難な迫害に遭ったとしても、それを変えてはなりません。 (英語で説明された後、韓国の教会員に向かって)あなたたちは、何の話か理解できましたか? (「はい。」)「はい。」と言った人は、勉強した人であり、「はい。」と言わなかった人は、勉強しなかった人です。 英語が分からなければ、この鼻っ柱の強い人たちを懲らしめることはできません。(笑い) (付添人が、礼服の上にピンクのチョッキを着ていることについて)この服は、イエス様の花園の色を着ているのですね。それは、何かというと、イエス様を象徴するのです。“白”は、神様を象徴します。“緑”は、聖霊を象徴します。すべて青です。海も青く、山野も青く、空も青です。それは、聖霊の色です。そこに花があれば、ピンクの花です。白い花とピンクの花が調和しているのは、美しいのです。とても目が引かれます。 さあ、ですから、自分たちがそのような服を着たのですから、それに恥ずかしい者になってはいけません。今からは輝く花になり、飛んでいった虫やちょうたちが、飛んで近寄ってくるような輝きを持った皆さんとなることを、先生は願います。何ですか? (「アーメン」)一度、そのようになってみてください。 わたしが言ったことを、家に帰ってからできないという人は、いますか、いませんか? (「いません。」)「一族を中心として“総生畜献納”を行うのです」と言ったのに、なぜ、しないのですか? そのようにしなければ、この場に参席できません。 「祝福の中心家庭だれだれの名によって報告いたします。」という人は、家庭から氏族、民族、国家、世界、天宙まで、アダムとエバが破綻させた家庭をすべて収拾し、自分の一族を中心として、国までも収拾してささげるのです。 氏族基盤は、国を建てるためのものなのですが、氏族の基盤を国にささげ、その国が、サタン世界の行政組織よりもりっぱでなければならず、その機関よりも優れていなければなりません。サタン世界の先進国に王宮があるとすれば、それよりも、もっと素晴らしい王宮をつくらなければならないようになっています。分かりますか? (「はい。」)何のことか分かりますか? (「はい。」) 総生畜献納基金は、絶対に、自分たちで使うようにはなっていません。先生も、自分では使いません。あなたたちの万代の後孫、子孫、天地の民が、思いどおりに喜んで休息することができる空間を持ったビルディングをつくらなければなりません。神様の国ができたときには、政府機関をつくらなければならず、政府の庁舎をつくらなければなりません。 サタン世界の政府の庁舎よりも、神様の王宮がみすぼらしくなければならないでしょうか、何十倍、何百倍もりっぱでなければならないでしょうか? (「りっぱでなければなりません。」) 生涯、飢えてはいつくばりながら暮らしたとしても、自分の一族で、そのようなものをつくっておかなければ、天国に行く面目がありません。先生の前で面子が立ちますか? それにもかかわらず、自分の親戚や一族を伝道せずにほうっておくのですか? 神の国ができれば、大使館をつくらなければなりません。それから、学校をつくらなければなりません。祖国の教育をしなければなりません。それから、教会をつくらなければなりません。祭祀の法を教えてあげなければなりません。そのようにしてから、自分の家を建てなければなりません。そのようにしなければ、負債を負った者だということです。 先生に土地がありますか? 先生に所有権がありますか、ありませんか? 教会が、先生の名前で所有されているものは、わたしのものではありません。あなたたちが、先生の名前で所有することを願ったので、そのようにしたのです。 わたしがアメリカに住んでいれば、世界で先生の名義になっているものは、すべて報告して税金を払わなければなりません。分かりますか? 孝子とは何ですか? 父母が死ぬ立場にいれば、代わりに死ぬのです。忠臣とは何ですか? 国王が滅びれば、代わりに滅び、死ぬとすれば、先に死ぬのです。聖人も同様であり、聖子も同様ではないですか。それは違いますか? 違うと思う人は、手を挙げてみてください。この者たち。(笑い)耳が引っ繰り返ったようですね。ほかのことを考えて寝ていたか、目を開けていても、ほかのことを考えて見詰めていたのですね。(笑い) 何時ですか? 九時ですね。十時までです。もう一時間だけ続けましょう。七時から二時間かかったので……。あの帽子(冠)は、何でつくったのか、なぜあのように重いのですか? (笑い) 真鍮の器をつくるものでつくったのか、銅でつくったのか、食器をつくるものを何というのですか? 真鍮でつくったのかもしれません。これが、どれほど重いか分かりません。(笑い) 祈祷していて、祈祷の内容をすべて忘れてしまいました。(笑い) ですから、先生の威信が立ちましたか、立ちませんか? (「お立ちになりました。」)先生は威信を立てたのですが、あなたたちは、重いものもかぶらずに楽にしながら、一緒に立って威信を立てましたか? さあ、ですから、話したいでしょうか、話したくないでしょうか? ここには、話して暮らしていく人たちが、たくさん集まっているのですが、つらくて、話すのも面倒だったのです。分かりますか? ですから、内外共に重要なことは、手帳を取り出して、永遠に記録しておかなければなりません。 今年の標語は、何ですか? 「解放された天地父母と子女が……。」「子女」とは、“解放された子女”のことをいうのです。「解放された子女が一心一体となって……。」そこに、水が入り込むことができる、すき間がありますか? 空気が入り込むことができる、すき間がありますか? 太陽の光が入り込むことができる、すき間はありません。そうでしょう? そして、「一心一体となって」、それから何ですか? (「真の愛……。」)真の愛です。一つになるのも、一心一体となってこそ、一つになるのです。天地父母が、一つにならなければなりません。父母と子女が一心一体となってこそ、真の愛が生じるのです。そうでしょう? 一心一体となって、真の愛です。 真の愛とは、何ですか? 主体的中心です。「中心的主体性であるみ旨が完成されますように。」これは、一年だけの標語ではなく、三〇〇〇年までの期間、だれもが、これを守って実行しなければ、不可能なことです。 うまく標語を決めましたか、決められませんでしたか? 頭の悪い先生でしょう? 今回、祝福を受けましたが、それを何というのですか? 「三時代大転換四位基台入籍統一祝福式」です。それで、すべてが含まれているのです。 今日、この新千年時代に、すべて解放されました。神様も解放され、真の父母も解放されました。解放された天地父母と子女が解放されたので、恐れてはいけないというのです。監獄に入っても恐れるなというのです。 ああ、自分がその中が気になるので……。早く天国に行きたいのですから、若くして行けば、どれほど良いでしょうか? 損をしますか? 天上天下のすべての宇宙が自分の手に入ってくる主人になるのに、なぜ否定するのですか? 死ぬか生きるかは心配いりません。そのようになっていなければなりません。 先生は、食べるものを求めていきますか、み旨を求めていきますか? 食べるものに従っていきますか、み旨に従っていきますか? (「み旨に従っていきます。」)み旨は見えますか、見えませんか? 神様は見えますか? 愛は見えますか? 生命は見えますか? 血統は見えますか? 良心は見えますか? 見えません。見えないのです。 見えないので、考えない人には分かりません。夫婦生活をしてこそ、妻がいなくても、妻を連れて歩くのです。従っていくというのです。そうでしょう? あなたたちもそうですか? あなたたちはどうですか? (「そうです。」) さあ、わたしに五感を売りますか? 売りますか、売りませんか? それを買って、何をするのですか? 修理して、目が悪ければ、完全な目に、鼻が悪ければ、鼻の手術、口の手術、耳の手術、手の手術をして、くっつけるので、売りますか、売りませんか? 世の中に、そのような商売がどこにありますか? 買ったものを良くして返す、そのような商売がどこにありますか? 生きた人が、損をします。いつも天は、そうです。父母も、そうです。父母は、子女が多ければ、負担が多いのです。一度に十人に会えば、よいのですが、十人と毎日のように会えば、いつも懐をはたかなければなりません。 ここに、三人の息子が来ているのですが、「ああ、昼食でも夕食でも、ご父母様と一緒に、家族水入らずで食べたことが一度もありません。今回、良い時が来るというので、どうかそのようにしてください。」と言うので、三日間、長男から一人ずつ食事をしたのですが、「一番良い所に案内する。」と言って、三人とも中華料理屋なのです。そこに先生は、行かなければなりませんか、行ってはなりませんか? 中華料理屋には、何年も行っていなかったのですが、三日間も続けていったので、先生の心は平安でしょうか、平安ではないでしょうか? 息子、娘と約束したので、行かざるを得ません。一日目も食べ、二日目もまた食べ、三日目もまた食べ、飽きるほど食べたので、油気が……。 おなかがほっそりしていて、油気を受け入れられない人は、皆、おなかをこわしてしまうのです。お母様のおなかと、先生のおなかと、どちらが丈夫でしょうか? お父様のおなかは、ぴんぴんしているのですが、お母様のおなかは、故障してしまいました。 どこに行ったのですか? 今も、いないでしょう? どこかに行って休んで……。休むよりも、座っているのが大変なので、わたしが、「大変ならば、中に入りなさい。」と、約束したのです。ですから、「なぜ、きょうのような貴い日に、お母様はいないのか?」と、思ってはいけません。 そして、お母様は一時間たてば、トイレに行くのです。いくら恥ずかしくても、行かなければ大変なことになるのです。ですから、いくら先生が横にいて、天下が見詰めていても、一時間たてば、「わたしは失礼します。」と、さっと出ていかなければなりません。そして、「入ってくるのが申し訳なければ、後ろで、マイクを通して聞き、そのようにすれば、一緒に参席したと認める。」と、約束しているので、そのようにしているのです。 いつも、お母様は席を空けるのです。だからといって、統一教会の女性たちが、“わたしもお母様のように、そのようにしよう。”と思ってはいけません。分かりますか? 女性で、“いけない”ということを“守ろう”という人は、手を挙げてください。手を挙げてください。守らないのですか? 守りますか、守りませんか? “守らない”という人は、手を挙げてください。何のことか、分からないのですね。(笑い) さあ、もう一度、“お母様はそのようにしても、わたしはお母様が守れない時間でも、夫の前に、息子、娘の前に手本になる”という女性、結婚した女性は、手を挙げてください。これは何ですか? なぜ、男性が手を挙げるのですか? (笑い) さあ、下ろしてください。分かったでしょう? さあ、きょう、即位式を行うことによって、国が変わりました。み旨の道において、心配しますか、しませんか? (「しません。」)それでは、だれが心配しなければなりませんか? 神様は、今までみ旨の先頭に立つことができずに、恨を抱いておられたというのです。分かりますか? 自分が、“したい”と思うとおりにできない恨が染み込んでいるのです。神様が“したい”と思うとおりにすることができるように、後援部隊になり、このように言わなければなりません。 「神様、なぜこうなのですか? 今朝は、何か忙しいことがあって、わたしよりも早く降りていかれるのですか? 私を起こして、連れて行かなければならないでしょう? 今までは、私が神様を起こしてあげるために、このように苦労してきたのですが、これからは、入れ替わる時ではないですか? 真のご父母様は、息子(=私たち)よりもりっぱなのに、息子、娘(=私たち)よりも苦労して、やっとのことで即位式をしてくださいました。ですから、即位式の権限を中心として、一声、号令すれば、天下が、するっと巻き込まれていくのに、なぜ、行使されないのですか? わたしが案内します。」 案内することができるでしょう? 行使はできなくても、案内はできるでしょう? 案内できますか、できませんか? (「できます。」) さあ、今は、時が変わりました。行わずに心配する人は、死んだほうがましです。今、わたしが何と言いましたか? (「『行わずに心配する人は、死んだほうがまし』です。」)明らかに成すべきことを知っていながら、それでも心配する人は、死んだほうがましです。死にますか、死にませんか? (「死にません。」)“全員が死んだとしても、自分だけは残る。”と、このように思わなければなりません。 あなたたちは、どのように個人完成するのか知っているでしょう? 知っていますか、知りませんか? 柳光烈ニヨル氏。どのようにして、個人の心と体が一つになるのか、知っているでしょう? 知っていますか、知りませんか? 堕落するとき、サタンの血統を受け継いだ体と、堕落するときの愛が、堕落していない、愛を知らない良心の力よりも強かったというのです。これが問題です。 どのようなことがあっても、体のしたいとおりにしてはいけません。「こいつ、こいつ。」と言って、涙を流しても、「こいつ。なぜ、涙を流すのか? 『ありがとう』と言って、感謝しなければならない。」と、言わなければなりません。 “死ぬまい”とするなら、「早く殺してください。」と言い、血が出てこなければ、「血を抜いてください。むちではだめです。やりで横腹を刺してください。」と、言わなければなりません。イエス様も、そうではないですか? 死なないので、やりで刺したのです。血を抜き出したのです。祭物になろうとすれば、清くならなければなりません。 女性たちが、たくさんいるのに、なぜ、わたしのパジ(韓服のズボンのこと)が落ちるのですか? 見てはいけません。力をぐっと入れたら、さっと落ちたのです。ああ、なぜ笑うのですか? この者たち。娘たちがいるのに、父親のパジが落ちて、このようにおへそが……。 最近の女性たちは、おへそを出して歩き回っていますね。父親のおへそが出たからといって、天地に恥ずかしいことがありますか? そうでしょう? 今から、守るべき鉄則とは何かというと、一番目は、いかなる死ぬような出来事があったとしても、血統を汚してはいけない、ということです。何の話か分かるでしょう? (「はい。」)全員、分かったのなら、二度も言ったら忘れてしまいます。分かりますか? (「はい。」) 二番目は、人事処置を間違ってはいけないのであり、人権を蹂躙してはいけない、ということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、皆、平等です。人権を差別せず、人権を蹂躙してはいけないというのです。 それゆえに、責任者……。ここに統一教会の責任者たちが集まっていますね? 自分がどこどこの教区長であれ、どこどこの国家メシヤであれ、自分と気が合えば人事処置をせず、気が合わなければ人事処置をする、そのように自分勝手にすることはできません。 教区長よりも、国家メシヤよりも、善なる先祖を持った人が、いくらでもいるのです。何代もたたずに、大統領になることができるような人の首を切ってしまえば、自分の先祖がすべて、がたがたっと崩れていくのです。ですから、先生は、人事処置をあまりしません。上の方にいる人たちについては、くじ引きをするのです。分かりますね? (「はい。」) 人権を蹂躙してはなりません。ですから、先生は、黒人だ何だと差別したり、大学を出たとか、そのようなことですべてを決めるのではありません。人権を正しく指導する真の愛を持って、ために生きる愛を持って暮らす人が、主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想を、すべて流してしまうことは、許すことができません。罪の中で二番目の罪です。分かりますか? (「はい。」) 三番目は何かというと、公金を盗んではいけない、公金を自分勝手に使ってはいけない、ということです。この三つです。 監獄に入ってみると、そこにいる人の七〇パーセント以上の人が、これらのことゆえに監獄にいるのです。分かりますか? 血統を蹂躙すること、これは男女問題です。人権を蹂躙し、そして、金銭問題です。そして、権力問題です。お金と知識と権力が、怨讐なのです。分かりますか? (「はい。」) 天の国の憲法第一条は何かというと、「血統を汚してはならない」ということです。血統を清く保存しましょう。純潔の血統を永遠に守りなさい、ということです。 今、祝福を受けた、その血統は神様の血代なのですから、神様の愛と神様の生命によって受け継いだものを、今までの堕落世界の習慣性に浸った行動で汚してはならないのです。分かりますね? (「はい。」)それを守ることができますか? (「はい。」) 男性女性を問わず、横にいる人が夫婦ならば、お互いに見詰め合い、いなければ一人でも良いので、間違いなく守ることができる夫婦、完全に血統を汚さないという人は、目を閉じて決意してください。神様だけを見て、力いっぱい手を挙げて、万歳 (「万歳」) きょうの記念日を忘れてはいけません。分かりますか? 分かりますか? 夫婦でけんかしても、「正月十三日、十三数」と言えば、体の力が抜けて、ぐたっとならなければなりません。 西洋では、「十三」と言えば、最も悪い数です。それは、十二か月の十二数に、その中心点、中央数を加えた数です。中央に十二か月が入っていれば、天地の道理が、循環しなければなりません。しかし、これがないので、すべて混乱し、逆理的混乱世界になっているのです。これを正すということが、天が願っていることなのです。 ですから、それを知ったならば、千回、死ぬようなことがあったとしても、これを守らなければなりません。この時間を、鉄のような決意をする時間として受け入れるのです。手を下ろしてください。分かったでしょう? (「はい。」) 二番目は、「人権を蹂躙してはならない」ということであり、三番目は、「公金を盗んではならない」ということです。それは、国家財産横領です。 どこかに行って、ビルから金塊が落ちてきたとしても、それを使えば、横領です。それを自分勝手に使うことはできません。それは、公的な“公金”です。何のことか分かりますね? 先生は、皆さんが金品を持ってきても、受け取りません。お母様を通して受け取ったとしても、わたしは使いません。それは、毒薬よりも、もっと恐ろしいのです。あの世に行って、がちっと引っかかってしまうのです。 きょう、この中で引っかかる人がいれば、全員、悔い改めなければなりません。今年(陰暦二〇〇〇年)が終わる前に、です。分かりますか? (「はい。」) 最も恐ろしいこと、憲法の第一条とは何かというと、「純潔な血統を守らなければならない」ということです。汚してはいけません。 ですから、女性たちは引かれていく素地が多いので、いつもナイフやカミソリを持っていれば、相手の手につかまれた所の近くを、「ええい、どうにでもなれ。」と言って、切ってしまうのです。そのようにすれば、助かるのです。それでもだめならば、自分の首を切るのです。それくらいの心構えが必要です。このように、純潔を守ることは、生命よりも貴いことなのです。 さあ、理想的な夫婦ならば、自分の夫や妻が、他の男性や女性と、このようにするのを喜びますか? 黒人はどうですか? 白人はどうですか? 白人 どうですか? あなたの妻が、他の男性の横に行ってもよいのですか? 横に座っているのは、あなたの妻ですか? 違いますか? 妻ではないですか? 妻ですか、夫ですか? なぜ、そこに座っているのですか? どこに行ったのですか? 夫はどこに行ったのですか? 分かりますか? 一番が何ですか? 純潔 二番は何ですか? 人権乱用禁止 三番は何ですか? 公金横領禁止です。 きょうのこの記念日に、天の国の王権を維持するために、皆さんが王圏の前に民となるために、また、父母となるために、妻子となるために、兄弟となるために、これが絶対に必要なのです。 それゆえに、兄を無視することはできません。弟の体が不自由だからといって、弟を無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、すべて無視するでしょう? 知識があって、有名大学を出たという人は、高卒の人でも無視してしまうのです。これは、人権蹂躙になるのです。 それから、公金です 国家財産の横領、これは罪です。公金です。先生のポケットにお金があれば、いくらであっても抜き出して使おうとするのは、公金横領です これは、すべて犯罪です。 ここにいる郭クアク錠煥氏も、予算を申請すれば、“いくら使います”という中に、何パーセントかは、自分が必要とするものを含めて請求するのです。 さっともらって、それが余り、「これは、私が使います。」と、報告すれば、かまいませんが、そのままにしておけば、問題が起きるのです。引っかかってしまいます。行く道が、茨の道になり、鉄条網が張られるのです。分かりますね? 先生は、絶対にそれを使いません。献金されたとしても、それには手も出しません。それでは、どのように暮らすのですか? 自分でお金を稼いで暮らすのです。車が必要ならば、そのためのお金を稼ぐことができるのです。分かりますか? ですから、一番目は、「純潔を守りなさい」です。分かるでしょう? (「はい。」)特に西洋の食口たち。どのようにして、純潔な血統を維持するのか、ということです。では、二番目は何ですか? 「人権保護」です。人権を保護し、三番目は何ですか? (「『公金横領禁止』です。」) あなたたちは、働きもせずに、“ああ、先生が一月に一度ずつ、一週間に一度ずつ、家に来てくれればよい。”と思うでしょう? かわいそうな統一教会の教会員は、何人にもならないのに、どうして、ここに来て、補ってあげるのですか? ここに、問題を抱えた人たちが来て、規則も守らずに、楽な所に行って寝ようとするのは、すべて横領です。公的な環境を破壊します。国家財産を横領することと同じだというのです。分かりますか? (「はい。」)恐ろしいのです。 そのように生きる人は、いくら、うまくやろうとしても、できません。そのように生きてみなさい、というのです。いくら神様の前に祈祷しても、伝道できません。人が門の前に来ても、戻っていってしまうのです。 負債を負う人は、すべての天下が嫌います。分かりますか? あなたは、負債を負うのが好きですか? 父親が負債を負うのが好きですか? あなたの親族の中で、金キム氏なら金氏の家門の中で、問題を起こして、負債を負うことを好む人が、どこにいますか? 後から捕まえて、逆さまに刺し込まれるというのです。そのような時が来るのです。 この三つです。分かったでしょう? (「はい、分かりました。」)この三つです。一度、数えてみてください。内心で決意したことを、一つ、二つ、三つ。一つ、二つ、三つ。一つ、二つ、三つと、何度も数えてみてください。そのようにしますか? 純潔の平準化、人権の保護、それから国家財産を横領しないこと、すべてを理解して、それが習慣にならなければならないでしょう? 口さえ開けば、目さえ開ければ、そのような言葉が出てくるようにしなければ、そのような正しい行動はできません。もう、すべて話し終わったでしょう? 一所懸命に話したので、十時に終わるようになりました。 さあ、これだけはしましょう。分かりますか? これに付け加える話をするとすれば、わたしが生涯、愚かな人や、ありとあらゆる人を連れて生きてきたので、何らかの事情がないでしょうか? 皆さんが生きていくにおいて、何らかの事情がないでしょうか? そのような事情が多いはずです。 しかし、そのような法に引っかからないようにしようと努力すれば、抱えているすべての事情に、すべて打ち勝つ人になるので、先生が言わなくてもよいのです。アーメン (「アーメン」)終わりました。 さあ、それでは、どのようにしなければなりませんか? どのように生きていくのですか? 幸福に暮らさなければならないでしょう? 一人で生きていくことを、「幸福に暮らす」と言うのですか? (「共に生きなければなりません。」)共に生きるのですが、幸福に暮らすことの中には、何があるのですか? 神様の公式法度として立てられたものの中で、幸福に暮らすことができるのです。 それでは、どのような環境、どのような人たちとともに暮らせば、「幸福に暮らしている」と言えるのですか? 簡単です。それも三つです。父子関係、夫婦関係、兄弟関係。兄弟関係は、夫婦の前では子女になるのです。ですから、子女関係であり、兄弟関係です。 それゆえに、自分の家庭を中心として、父と母がいて、それから、自分たち夫婦がいて、息子、娘がいるので、兄弟関係と、そして、父母の前に自分がいれば、兄弟関係と同じように、親族の四親等、八親等が、すべて自分に連結されてくるのです。 ですから、父子関係、夫婦関係、子女関係です。これが連結されれば、兄弟関係は、自動的にできるのです。「子女関係」の代わりに、「兄弟関係」と言ってもかまいません。分かりますか? これが、彼らと一つになって、幸福に暮らさなければなりません。 幸福に暮らすためには、幸福に暮らすことができるように指導しなければなりません。お互いが手本にならなければなりません。それが、“幸福に暮らす”ということです。手本になっていなければ、それは、不幸せに暮らしているということです。負債を負っているのです。父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となるように暮らせば、幸福に暮らすことができるのです。 では、幸福に暮らせば、どのようになりますか? 天の国の王がいて、地上の王がいれば、その王たちが幸福に暮らす家庭を訪問する日が……。毎年、年の初めに訪問しなければなりません。分かりますか? その国で最も幸福に暮らす家庭を表彰する時が来るのです。 表彰するときには、そのように暮らした三代が、それぞれ夫婦となって、四位基台理想を成した家庭が授賞されるのであり、国においても、先に授賞された家庭が、後代に賞を授与することができるのです。 そのように、先に授賞された家庭が、賞を授与することができる責任者の王を代身し、国の中心となる大統領家庭を代身して、賞を授与する時が来るのです。分かりますか? (「はい。」) これも三つです。父子関係、夫婦関係、子女関係です。子女関係が嫌ならば、兄弟関係です。兄弟関係が一つになることによって、子女たちがそれを見て、それに似ていくのです。 それゆえに、兄弟関係でも子女関係でも、共同責任の下で和合して、影響を及ぼして、主体的な立場に立った人になれば、だれが天の国に行くとしても、その人を通さずしては行くことができません 正しければ「アーメン。」と言い、正しくなければ「ノーメン。」と言ってください。(「アーメン」)もう一度、手を挙げて、言ってみてください。(「アーメン」)アーメン (「アーメン」)アーメン (「アーメン」)神様即位、千年万年、万々歳 (「アーメン」)(拍手) この三つさえ……。今から、この法において、天下にいかなる無念なことがあったとしても、この法に背かず、死の境地、逆賊が押し寄せて死ぬことがあったとしても、これを守っていくならば、間違いなく、天の国の皇族圏に入り、どこに行っても自由、統一、解放の家庭となるのです。分かりますか? (「はい。」) きょう、このことを肝に銘じてくださることを願います。分かりますか? (「はい。」) これを標語として、三〇〇〇年標語の中で、純潔血統、それから人権平準化です。分かりますか? それから、国家の公的財産横領をしてはならない、どろぼうになってはいけない、というのです。 それから何ですか? 「手本になろう」です。父子間において、夫婦間において、子女間において、手本になるのです。「子女」は、「兄弟」と言ってもよいのです。先に兄弟が、そのように暮らせば、子女たちが見習います。そうではないですか? 自分の親戚、親族が幸福に暮らせば、息子、娘が見習うようになるのです。ですから、手本にならなければなりません。 そのように暮らせば、町内じゅうの人が皆、「あの人に従っていかなければならない。」と言い、「あの人のように暮らしたい。」と言えば、その人は、間違いなく天国の民となり、天の国に記憶される人になる、ということは間違いありません。(「アーメン」) 先生自身も、そのように暮らしています。自分のおじいさんと、おばあさんに侍ることができなかったので、どこに行っても、おじいさんとおばあさんがいれば、昼食のときに、“パンの一つでも買ってきてあげたい。”という心を、いつでも持っているのです。 ですから、つらくても天が協助してくれるので、版図がどんどん広がっていくのです。そうしていけば、どこに行っても、先生のために生きてくれるという人が、どんどん増えていくのです。 そのようにして、十年暮らしてみると、谷間で、共同墓地に行く日を待っていたおじいさんとおばあさんまでも、自分の訪問を待ち焦がれ、町内の犬までも、ほえずに、自分だけにずっとついて回るのです。分かりますか? 町で声を上げても、犬がほえずに寄ってきて、ぺろぺろなめてくれるように、善なる生活をすれば……。 もちろん、人間たちもそうだというのです。人間がそのようにすれば、主人が愛する人なのですから、なぜ、反対するでしょうか? 喜んで、そのようにすることができなければなりません。 そのようになれば、通りすがりの鳥もそのようにし、すべてそのようにするというのです。それは正しい話ですか、正しくない話ですか? (「正しいです。」) 皆さんは、先生と一緒に暮らしたいですか? (「はい。」)毎日、もち米をつくように、おしりを三発ずつたたいても、それでも一緒に暮らしますか? (「はい。」)そのようにたたかれれば、蕩減儀式の代わりになるのです。そうでしょう? たたかれても、損害を被ることはありません。悪口を言われても、損害を被ることはありません。分かりますか? (「はい。」) さあ、そのように理解して、きょうの「神様王権即位式」において最も重要であり、人間が公人として守るべきであり、内的、外的に家庭に入っていっても、国に入っていっても引っかかることのない、“解放者”になることができる三つのことを語ってあげました。ですから、この日に、正に覚えておくに値する内容であるということを肝に銘じ、それを標的として生涯を生きてくださることを、先生自身がお願い申し上げます。(「アーメン」)(拍手) 「アーメン。」と言うのは、「み言のとおりに成されます。」ということです。まだ、成されていません。ですから、「アーメン。」と言い、「申し訳ありません。」と言うのです。そうして、「見ていてください。」と、そのように言わなければなりません。分かりますか? (「はい。」)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.03
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神様王権即位式開始の祈祷2001年1月13日7時5分、ご父母様が祈祷を捧げられました。天宙清平修錬苑、天城旺臨宮殿神を本然の基準に奉る喜びの式典今日は、新千年を迎えて13日目を迎え、真の天上父母の王権即位式を挙行しようと願うので、全天宙の万象とすべての存在は、また祝福を受けた天上の先祖たちと地上の後孫たちが一心一体となられて、歴史的な恨の蕩減の歳月を越え、第4次アダム圏心情時代を迎えることによって新しい天上世界の地上と天上が連結された天国を開門できる時代を迎えることによって、偽りの父母によって結婚を誤り、真の愛に反対し、真の生命と真の血統に反対する歴史的な、羞恥の歴史として始まった恨の歴史を経てこられながらご苦労された万軍のエホバ、父なる神様であられ、師匠であられ、王であられる主人を、今まで蕩減の道、受難の道にいらっしゃるようにしたすべてのことを真のご父母様自身がこの地上に来て、偽りの父母のすべての誤ったことを責任持ち、蕩減の歴史を経て解放を見つめながら、8段階の勝利の権限を立てることによって、偽りの父母の実践場だったすべてを天が引き継いで真の父母の勝利圏を中心として最高の基準で血統を転換した祝福儀式を通して万国と全天宙に連結させて愛の祝福恩賜によって解放的基盤を連結させる、心身紛争の解放、夫婦の解放、父子間の解放、兄弟間の解放、国々の解放圏を経て天上世界と地上世界のすべての垣根、国境がふさがっているものを、皆崩し、あなたの本然の創造理想として望み見た自由解放的世界を蕩減基盤勝利の上に立たれて、望み見るすべての世界は、今や新しく天国が地上から天上世界まで理論化され得る真なる家庭、真なる氏族、民族、国家、世界、天宙、あなたの解放的地上天上天国を連結した勝利の真の父母の権限と真の師匠の権限と真の王権の全体を代表した天地の大創造主であられる主人に結束し、このすべてをもう一度、奉献しようと願うこの式典を喜び受けてくださることをお願いします。天上世界にいるすべての天軍天使たち、祝福を受けた家庭と地上にいる今や真の父母と連結されたすべての中心家庭を連結した祝福家庭と、地上を中心として霊界が兄弟の因縁を、長子圏復帰をもう一度、復帰した中で、地上が長子の一線に立って真の父母の特権的権限を中心として、堕落したすべての世界を個人から天宙まで転覆させた勝利の解放圏を迎えることによって、天地の真の父母を中心とした、解放的真の父母と地上の解放的子女が一心一体となり、真の愛の主体性である絶対唯一不変永遠のあなたの願いのみ旨を蕩減、解放することによって、あなたを真の父母が奉ることにおいて、今や本然の基準に即位することができる喜び多き式典を奉献しようと願うので、喜ばしい心のうちで歴史を受け継がれて、解放された勝利の基盤の上に立って、創造本然の心情を備えた愛の理想で一体化できる勝利圏を中心として、万宇宙にあなたの国の権限を行使できる全体全般全権全能の解放式の祝典を奉献しあなたの本然の位置に上がることができる、即位式を奉献しようといたしますので、喜びの中で受けてくださることをお願いしながら、真のご父母様の名前で真に切に報告します。アーメン。神様王権即位の宣布祈祷<Ⅱ>2001年1月13日 天宙清平修錬苑、天城旺臨宮殿献杯が終わり、7時21分、神様王権即位の宣布祈祷が捧げられました。被造世界を主管する主人として坐定 イエス様が願った国家を越え、世界を越えて今や国連を中心として、神様が旺臨することができる、全人類を代表したNGOの基盤の上に、教育を終え、WANGOの組織を中心として超宗教超国家連合と連結して地上に天の国を代表した主権を立て、国民を立て、地を立て、天上天下にあなたの祖国光福のための基台を備えた上に、今この清平では地上の祝福を受けた家庭たちが、先祖の系図を受け継いで、入籍という祝福の恩賜を備えることによって南北統一の限界線を超えて世界に行くことができる世界的入籍をなしたイエスのイスラエル圏勝利、旧約時代に物質を中心として分けていた歴史を踏み越え、新約時代に息子娘を中心とした内容を踏み越え、その次には祝福家庭を中心としてサタン世界と区別し、天の血族として、個人的家庭から8段階の家庭全体があなたの愛の標準を中心としたモデル的基準の主人の位置を占めることができる時代を迎えることによって、地上の偽りの父母の間違ったすべてを真の父母が来て蕩減復帰してこの基準まで地上と天上世界の数多い垣根がふさいでいたものを開放し、解放的権限を備えることによって万民の個人たち、万家庭たち、万氏族、民族、国家、世界が今や一つの帰結点を真の父母の心情因縁を備えて、総生畜献納という名前を中心として今やすべての被造万物は失ったものを再び蕩減復帰して真の父母の名前と共にお父様の前に全体を奉献できる新千年の13日を迎えて奉献できるようになったことを感謝します。 神様が今や坐定(座るの敬語)なさいまして、あなたの権限を行使なさることができる、全被造万物を主管することができる主人の位置に、主人だけではなく王権の基準に立って霊界と地上界、過去、三時代を越えて自由総括的な立場に立ってあなたの創造理想がアダム家庭でなされたすべてを皆、蹴飛ばして越えられて整備した基盤の上に全天地が世界的な途上の上に祝福家庭たちが一時に、あなたの愛の権限のあなたの国の王権即位式と共に隷属されることによって自主張(※自分の思い通りにすること)できる時代に入城されたので、お父様、万世にあなたの栄光を備えて全て皆、勝利の栄光が全天宙に充満するように、切に、切に、切に真の父母の名前で願います。 この時間、神様王権即位式の即位の権限を、真の父母が再び蕩減復帰して回復し、あなたの本然の基準の権威の位置に奉献しましたので、お父様、この日のために真の父母と約束し宣言したすべてのその基準の上に行使、お出ましできる自主的な解放的天下をあなたの愛の圏内に連結されることをお願いしながら、この式を奉献するようになったことを感謝します。このすべての備えた式典を喜びで受けてくださいましたことを感謝しながら、すべての祝福を受けた霊界と全地上の祝福を受けた家庭と一心一体となられて、真の愛の主体性である絶対唯一不変永遠の伝統を、あなたを中心として継続される真の父母の血族たちが万代に、血統を中心として、人を中心として、公的な万物を中心として、三大要件を神様の直属の前に付加させるので、その上で万世の太平の御代を謳うことができる王の中の王、神様王権即位の主人となられることを、真の父母は千万年歴史を越えた心をもって宣布しますので、宣布した通り成就されたことを受けてくださることをお願いします。真の父母の切なる心と切なる心情ですべてを報告しながら宣布します。アーメン。神様王権即位式の祝祷<Ⅲ>2001年1月13日 天宙清平修錬苑、天城旺臨宮殿 家庭盟誓を全体で斉唱した後、7時57分、ご父母様の祝祷がありました。万民皇族圏の万々世太平の御代を 愛する天の真のご父母様の前に、きょうの栄光の日、地上にいる人類が一つになり、地上の真の父母と、天上と地上の、祝福を受けたすべての家庭と一心一体となって、二〇〇一年を中心として、三〇〇〇年に向かって出発する年頭に語った内容と同様に、「解放された天地父母と解放された子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように」という年頭標語とともに、神様と地上の真の父母が一体の心情を備え、この標語を中心として、新千年すべての人類の前に宣布した言葉として、万有の存在が受け入れ、地上が今から(聞き取り不可能)することができる根となった時代を迎えましたので、今日、祝福を受けた家庭は、天地の王権に侍る直系のアダム完成の立場に立つことによって、万国万象を代表した立場で、天の前に報告するときにも、祝福の中心家庭だれだれの名によって懇切に報告するという、新しい歴史時代を迎えました。 サタンと神様が分け合わなければならなかったという、この恨めしい事実、新約時代にイエス・キリストを中心として心と体が分かれ、心に当たる霊界の整備と、体に当たる肉界の整備を残しましたが、その霊肉を統一することができる時が、第二次大戦後でした。 霊肉を統一してすべてを蕩減復帰し、この地上に本然の理想世界を完成して、地上の真の父母の名をもって天上の真の父母を解放する立場で「神様王権即位式」をすることができなかったという事実を、今、四十年という歳月を経て、再び、第二次大戦直後に旧教と新教が一つになることができなかった舞台を、東洋と西洋が一つになることができなかったことを蕩減した基準を立てて蕩減復帰し、第二次大戦直後に、キリスト教文化圏において、カインとアベルである旧教と新教が一つになって受け入れることができなかったことを、今、この時に、八十歳の誕生日を超え、二〇〇〇年を超え、新しい三〇〇〇年に向かって出発するこの最初の年、イエス様の十二弟子と中央の数で十三数、イエス様が失敗した恨の歴史を再び歩んで整備し、ローマだけでなく、世界だけでない地上、天上天国の解放圏を備え、十三数の中心の日を定めて、このような神様の即位式を挙行するようになりました。 今から、二〇一〇年、あるいは一二年までのこの期間に、これまで、地上から神様の前に奉献してお返しした総生畜献納物を、再び地上に戻して受け取ることができ、地上の統一天下、地球星は、あなたの故郷であること、あなたの祖国光復を宣布することができる、その時まで、あらゆる精誠を尽くすために、南北韓の統一を中心として、国連の統一と天上、地上世界統一の一線上に立ち、平均、平面上で連結させることができるという、切迫した最後の整備時代を迎えました。 「神様王権即位式」を挙行いたしましたので、全体、全般、全権、全能を行使なさり、あなたが願われるすべての霊界を動員し、地上解放を迎えることができる自主張時代を迎えましたので、その自主張権限を、地上と天上世界の歩調を、地上の真の父母が天地に合わせ、その勝利の大解放時代を望みつつ、新しく一月から全世界、天上世界の祝福を受けた家庭が一心一体となって、地上定着のためのアダム圏地上基盤を中心とした長子の位置と、父母の位置と、王圏の位置を、天上世界の代を受け継いでいく基準において長子権復帰、次子権復帰が成し遂げられ、次子の権限が長子の権限を代身することができる天地開闢時代を迎えました。 最後尾にお立ちになった神様が、真の父母によって再び真の父母を迎え、最後尾ではなく、先頭に立つことができる即位式を挙行いたしましたので、あなたが願われるみ言の内容はすべて宣布され、天の国の構成において、個人の統一問題、家庭の統一問題、氏族、民族、国家、世界、天宙の統一問題、すべての問題を知っておりますので、今からは実践躬行し、その実体圏を地上に成し、真の父母の名と天の真の父母の名を奉り、最後の勝利的権限をすべて備えた祝福家庭、中心家庭として、すべてを終結させることができる、天宙が願う解放の時代に前進することを許諾してくださいますように。 そのようにすることによって、天の真の父母と地の真の父母の主権国家を中心として、万々世の太平盛大な王圏を勝利し、万民皇族圏の、あなたが理想とされ、神様に侍る天上直系の子女たちが、すべての地上と天上の祝福家庭たちの上に、一律的な恩賜を分け与えてくださることを、真のご父母様は、この日を期して願いますので、特権を持たれた王圏王座にいらっしゃる神様の権限として、このすべてのことを約束とともに実践してくださることを、懇切に、懇切に、お願い申し上げます。 明日から出発することは、統一家のすべての祝福が勝利の覇権的旗印を掲げ、万国を治めることができる天の国の大使と、天の国の総督の名を持ち、一方通行、勝利、勝利、万世に前進することができる解放者となることを許諾してくださることを懇切にお願い申し上げ、天の真の父母と地上の真の父母が、共に一体となる、この場を通して懇切に報告、報告、報告、報告、宣布、宣布、宣布いたします。アーメン。 アーメン。 アーメン。 感謝いたします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.02.03
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世界平和家庭連合定着と蕩減解消宣布式一九九六年十一月一日午後一時、ウルグアイのモンテビデオにあるビクトリアプラザホテルにて、世界平和新救国連合の会員を中心とした、ウルグアイ各界の指導者二千五百余名が参加する中で「世界平和家庭連合の定着と蕩減解消宣布式」が行なわれた。 今日の題目は「世界平和家庭連合定着と蕩減解消宣布式」です。皆さん、これがどのような意味か知っている人はいますか? たぶん知らないでしょう。「世界平和家庭連合定着と蕩減」ここまでは分かっても「蕩減解消」というのは知らないはずです。 原理のみ言を聞いたことのある人であれば、「蕩減」という言葉を知っているはずです。歴史は繰り返します。繰り返しながら発展するのです。それは一般的に知られているように、自分勝手に繰り返すのではなく、公式によって繰り返しているのです。この歴史を動かしているのは人ではありません。結局のところ、歴史を動かしている主人は神様なのです。 神様がいるか、いないかということをはっきり知らない人はかわいそうな人なのです。はっきりと知っている人は恵みを受けた人です。神の摂理から見るとき、人類歴史は摂理史観ですが、それは救いの摂理なのです。摂理というのは、宇宙を正確に動かすことを意味しますが、その摂理の中でも救いの摂理なのです。救いの摂理とは、再び救い出すための天の経綸をいいます。人類歴史の始まり、創造から始まって再び帰っていくまで、主流として歴史の経綸を担ってきたのが救いの歴史であり、救いの歴史路程だったのです。 救いとは何でしょうか? 人は一般的に、病院に人院してから退院すると、救いを受けたと言います。つまり、救いの摂理という言葉は、堕落ゆえに生じた言葉なのです。堕落があったゆえに、救いの摂理が必要なのです。病院に行って病気が治れば、救いを受けたと言いますが、それは本然の状態に戻ったのです。 キリスト教思想の主流思想は何かというと、堕落したという思想です。堕落したために、神様と人間との関係が途絶えてしまいました。エデンの園から追い出されたのです。それは何かというと、神様の懐を離れて、サタン世界の病院に入院したのと同じことです。 人間を病院に入れること、堕落した人間を病院に入れることが、神様の創造の目的ではありません。ですから、救いの摂理とは、その人間をいかにしてその病院から引きずり出すか、つまり、サタンに引っぱられていった人間からサタンを除去し、病魔を除去して、いかに堕落していない本然の人間として取り戻すか、ということです。堕落病にかかった人は、まちがいなく地獄に行きます。死の世界へ行くのです。では、この堕落病は、一番初め誰から始まったのでしょうか? エバによって病気が始まり、アダムに伝染し、そのアダムとエバが伝染することによって、人類のすべての子孫に伝来したということを、皆さんは知らなければなりません。 病気にかかるようにしたのがサタンで、病気にかからないようにする立場が神様なので、神様と共に一つになれば天国に行き、病を患って病魔と一つになって人生を終えれば、地獄に行くのです。死の世界へ行くのであり、復活の世界に行くのです。 その病んだ人たちは誰かというと、本来、神様の息子と娘でした。息子と娘が病気になったのです。そのため、それを治すべき人が歴史時代の一時期に専門的な医師として現れ、病魔の根源を完全に解明し、それを完全に治療しなければならないのです。そのようにできる地上の責任者、その病んだ人を救うために来られる方が、メシヤ、救世主なのです。 私たちが病気にならなければ、メシヤは必要でしたか? 必要ありませんでした。地獄や、死亡といったものがなく、退廃思想によって破壊現象が起きない理想的な現象となり、神様と直接に同苦同楽できる永遠な幸福の世界に連結されるはずでした。それがすべて堕落によって失なわれてしまったのです。 堕落することによって、神様はエデンにおいてアダムとエバをそのままにしておかれましたか、追い出しましたか? 追い出しました。エデンの園から追い出されたという事実は、エデンの園の全存在の前に必要な条件を、すべて失ってしまったということを意味します。 ところで、アダムとエバは息子と娘を生みましたか、生みませんでしたか? これは深刻な問題です。追い出されてから息子、娘を生んだのです。今日、信仰をもっている人たちは、そのようなことを考えもせずに、無条件に信じて天国に行こうとしています。それは違います。今の時は、理論的に妥当でない事実は失われてしまいます。あったとしても片づけられてしまうのです。アダムとエバは堕落して、エデンから追い出されてから息子と娘を生んだのですから、今日、その人類始祖に連結している我々人類は、神様に追い出されたエデンの園の圏外で、悪魔の管理の下に結婚して生まれた息子と娘であるということを認めなければなりません。 皆さんは「アダムとエバは堕落したかもしれないが、そのアダムとエバと私に何の関係があるというのか?」と考えるかも知れませんが、関係はなくても、追い出されてから生まれた息子、娘の子孫であるということは、まちがいのない事実です。神様と関係なく、神様の理想やエデンの園と関係がなく、神様から追い出され、神様が願わざる愛を中心として生命が連結し、血筋が受け継がれ、その子孫として生まれた自らであるということを自覚しなければなりません。堕落の実であるということを自覚しなければなりません。 いいですか、神様はエデンの園をアダムとエバのためにつくり、愛を中心として満ち足りた生活ができるようにすべての準備を整えておいたにもかかわらず、アダムとエバはエデンの園で善悪の果を取って食べることによって、神様も嫌い、万物も歓迎し得るものが何一つない立場で罪を犯してしまったのです。それゆえに、神様はアダムとエバを追い出したのです。神様もそうせざるを得ず、エデンの園のすべての万物もそうせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。 では神様が、創造理想、愛の理想の園、被造物のすべてを否定し得るようになった、その堕落の動機とは何でしょうか? 深刻な問題です。皆さんはその問題を知るために、どれほど身もだえしたことがありますか? 生命の立場から死亡の地獄に行く息子と娘、追い出された息子と娘を見つめる神様の思いは、いかばかりだったでしょうか? 私たちは病気にかかったことも知らずに、このように生きていますが、それをご存じであられる神様は喜ばれたでしょうか、もがき苦しまれたでしょうか? キリスト教をはじめ多くの信仰者は、今日なぜ宗教が必要かという根本的な問題の解明もできないまま信じている不幸な人たちです。堕落圏を抜け出す術がないのです。では、神様が知っている堕落の内容とは何でしょうか? サタンが堕落させたその内容とは何でしょうか? 堕落させられた結果、今日の私たちはどれほど悲惨になりましたか? 否定のしようがない理論的な解決がなされなくては、二十世紀という先端科学の時代、コンピューターを中心として数理的に宇宙を測定するというこの時代において、盲目的にどんぶり勘定式に信じて、天国に行けるでしょうか? そのようなことはあり得ません。 すべてが地獄に向かって進んでいます。アダムとエバが向かい、アダムとエバの息子と娘が向かい、アダムの一族も向かっています。アダムの子孫、アダムの氏族、アダムの民族、アダムの国家、アダムの世界、アダムの天宙、すべてが地獄に向かっているのです。それで「神はいない!」と言って無神論を主張し、神学においては解放神学を主張し、共産党とキリスト教が一つになって神様を否定し、キリスト教破壊運動をし……民主世界は大騒ぎになってしまったのです。これは一体どうしたことでしょうか? 終わりの日には三大試験官が現れます。神様が試験を出すのです。神様が提示した試験に、どのように合格するかというのです。その次に、サタンが提示する試験があります。「私はこのように堕落したが、どうしてか?」といって試験を出すのです。「神様はなぜ人間の堕落行為を放任したのか? 神様は人間をつくっておきながら、なぜ責任を負わないで堕落させてしまったのか?」という問題を出すのです。 何も知らなければ落第です。神様からも落第、悪魔からも落第、人間自体からも落第なのです。落第したものは廃物です。廃物はごみ箱にポンと捨ててしまわなければなりません。神様は今日の人類に恵みを与えるため、その恵みを与え得る相対的な試験過程を経させるはずです。その試験内容とは何でしょうか? サタンと神様は怨讐関係にあるため、神様の試験内容は、サタンの秘密は何であるのかということです。 その峠を越えてこそ、神様と関係をもつことができるのです。サタンは神様のすべての秘密を知っているので、サタンの試験は神様とは正反対です。一八〇度反対の問題を出すはずです。それを解決してこそ、神様のもとに帰ることができるのです。それを誰も知らないのです。 ここには立派な人たちが大勢集まっていますが、立派な男性、あるいは立派な女性として、神様の試験にパスし、サタンの試験にパスする資格がありますか? これは概念ではありません。実際的なことです。事実なのです。 そのことを誰も知らないので、それを解決してあげるために……、サタンの秘密と神様の秘密を解明し、サタンの道を避けて神様の道に至れる方法を教えてあげるために、メシヤが来なければならないのです。これは神様も否定することができず、悪魔も否定することができません。人類歴史も否定することができないのです。そのような堂々とした事情ゆえに、神様の前に「息子、娘」と主張できる覇権が生じるということを知らなければなりません。 この国やこの世界には、自分たちの問題を解決できる根本的な対策はありません。神様を知らず、悪なるサタンを知らず、神様が何であるか、悪が何であるかを知らずにいます。自分の行くべき道を知らない男性と、自分の行くべき道を知らない女性が出会って、家庭が行くべき道を探せるはずがありません。すべて滅びてしまったのです。神様はご存じです。神様は男性の行くべき道、女性の行くべき道をご存じですから、神様だけについていけばいいのです。また神様は、家庭が行く道、民族が行く道、国が行く道、世界が行く道、霊界に行って天国で永遠に生きる道をすべてご存じです。ゆえに、その道を進めば勝利となり、成功だけがあるべし! アーメン! では、男性の生殖器は自分のものですか、女性のものですか? 宇宙の根本はどこから始まりましたか? 進化論でもなく、創造論でもありません。それを知らなければなりません。進化論よりも先に、創造の概念がある前にオスとメスがあったということを知らなければなりません。では、なぜオスとメスが生じましたか? 愛ゆえです。これが公式なのです。 愛ゆえに男性がいて、愛ゆえに女性がいるのです。男性は男の世界では愛を得ることができません。女性は女性を中心としては愛を得ることができないのです。女性が男性を求めるところ、男性が女性を求めるところで、はじめて愛を得ることができるのです。 どんなに頑固で、変わったおばさんであっても、愛を得るには男性におぶってもらわなければなりません。男性に「助けてください!」と言わなければならないのです。女性の生殖器は誰のものかと言うと、夫のものです。それは女性のものではありません。夫のものなのです。女性のものではないのです。女性のものは夫のものであり、夫のものは妻のものであるということを知らなければなりません。神様に尋ねてごらんなさい。 主人が入れ替わってしまいました。主人が入れ替わったのです。それゆえ、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれたという結論は妥当なのです。それを認めなければなりません。女性はなぜ生まれましたか? 男性のために生まれました。女性のためではありません。男性のために生まれました。男性はなぜ生まれましたか? 女性のために生まれたのです。 それで何をしようというのですか? 愛を探し求めようというのです。女性を求めることによって愛が生まれ、男性を求めることによって愛が生まれるのです。それが何かというと結婚です。これは宇宙の何ものにも代えることのできないものなのです。 そのとおりだと思いますか、嘘だと思いますか? 美しい女性たちも、自分の生殖器は自分のものではありません。自分の愛する夫のものです。絶対的に夫のものであると知っている女性こそ、真の女性であり、女性のそれを守ってあげることができる男性こそ、絶対的な男性であり、そのような男性と女性こそ、神様が好まれる男性や女性になるということを知らなければなりません。今までこのことを知りませんでした。それが自分のものであると思っていたのです。 女性の体を一度分析してみましょう。胸は自分のものですか、誰のものですか? 赤ん坊のものです。お尻はどうして大きいのでしょうか? 誰のためにでしょうか? 赤ん坊のためにです。自分のものではありません。さて、女性の顔は非常にきれいで、つるつるしていますが、男性はひげが生えてざらざらしています。そのきれいな顔は自分のためにあるのでしょうか、誰のためにあるのでしょうか? 夫のためにあります。女性のためにあるのではありません! それを知らなければなりません。女性に必要なのは男性の顔です。ひげがざらざらと生えた男性の刺激ある顔と、ソフトな女性の顔が和合して刺激を感じるのです。 では、そこから直行して降りていったところにある生殖器は誰のものですか? 自分のものですか、夫のものですか? このような簡単な真理を知りませんでした。この宇宙のすべての陰陽の理致は、オスとメスです。鉱物世界も主体と対象の関係、最近ではバクテリアの世界までも、オスとメスからなっていると言われているのです。宇宙がペアシステムからなっているのです。愛という概念をもって、主体は対象のために、対象は主体のために、為に生きるために生まれたのです。為に生きるために生まれたのですが、何のためでしょうか? 愛のために。愛を完成させるために生まれたのです。 神様はアダムとエバ、二人の男女をつくって、成熟したら結婚させようと思っていました。その結婚式を中心として関係を結ぶ生殖器が、絶対的な器官であり、絶対的な生命、絶対的な愛、絶対的な血統を植えつけるための本部であった、ということを知らなければなりません。今晩からは生活が変わらなければなりません。一八〇度変わらなければならないのです。 ですから、真理を知ることによって解放されるのです。真理が皆さんを解き放してくれるのです。真理を知ることによって解放されるのです。 話を元に戻しましょう。堕落とは何ですか? 根本問題、根本とは何でしょうか? アダムとエバが生殖器を自分のものとして、勝手な行動をしたことです。成熟すれば神様を中心として、アダムのものはエバのもの、エバのものはアダムのものとなって、永遠なる神様と絶対的な愛の基台をつくるべきであったのに、それを不信して自分のものにしてしまったのです。そのようにして破壊してしまったのです。 自分のものを主張すれば追放されます。宇宙の万物を見ると、鉱物世界も主体と対象、植物世界もオシベとメシベ、動物世界もオスとメス、人間世界もそのようになっているのです。しかし、その根本的な愛の主人は自分ではなく、相対なのです。それにもかかわらず、その相対を否定してしまったので、相対とわかっているその世界に存在することができないのです。ですから追放されるのです。価値のないものなのです。 そのような人は、鉱物世界や植物世界、いかなる万物が見ても、「ペッペッペッ!」と唾を吐きかけられるのです。神様も追い出さざるを得なかったということを知らなければなりません。それが何かというと偽りの愛です。自分のための愛を求めていくことなのです。 自分のために生きる人は地獄に行き、相手のために生きる人は天国に行きます。ここで分かれるのです。この生殖器が地獄と天国の境界線です。それを知らなければなりません。 それが天と地をひっくり返してしまいました。愛の本宮を破壊し、生命の本宮を破壊し、血統の本宮を破壊し、良心の本宮を破壊してしまいました。愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮、良心の本宮を通じて天国に行ける本然の愛の道を破壊してしまいました。天地をひっくり返した凶悪なものとなってしまったのです。何よりも恐ろしいものです。「そうではない」と言えますか? レバレンド・ムーンは賢い人なのです。 口で取って食べ、手で取って食べたのに、なぜ堕落してから下部を隠したのですか? 子供たちは、母親がしまっておいたお菓子をこっそり食べていて見つかると、手や口を隠します。それなのに、どうしてアダムとエバは下部を隠したのかというのです。それは否定のしようがありません。そのようなすべてを知って、霊界のすべてをくまなく調べたところ、間違いがなかったので、このようなことを宣布するのです。 原理講論、原理のみ言を聞きさえすれば、すべてが一挙に頭に入ります。統一されるのです。旧約聖書、新約聖書、成約聖書の秘密が、すべて自分と関係しており、堕落の解消まで誰もが解放的な道を進むことができるのです。 それでは、「世界平和家庭連合定着と蕩減解消」とは何でしょうか? 神様は堕落によって男性も失い、女性も失ってしまいました。アダムとエバの家庭を失ってしまいました。家庭を失ってしまったのです。家庭を連結して、氏族、民族、国家がサタン側になった地上地獄と天上世界、これを解消しなければなりません。神様が創造した世界には、そのようなものはなかったのです。 それで、来られる主は何かと言うと、医者として注射をし、治療するために来られるのです。地上で失ったので、地上で取り戻さなければなりません。アダムとエバの家庭を地上で失ったのに、イエス様が空中に来られて、どのように取り戻せるというのでしょうか? エリヤは雲に乗ってやってくると言われていましたが、雲に乗ってやって来ませんでした。イエス様はそのため捕えられて殺されてしまったのです。 それと同じく、レバレンド・ムーンが雲に乗ってやって来なかったので殺そうとするのです。まったく同じ立場です。それで、政府はありとあらゆる迫害をしてきました。レバレンド・ムーンは嘘つきではありません。命懸けで死を覚悟して祈ってみなさい。先生はこのような問題を解決するために、命懸けで祈祷し、悪魔から奪ってきたのです。サタンから奪ってきたのです。「おい、おまえはこういうことをしただろう?」と言いながら奪ってきたのです。それで神様は拍手をするのです。 神様は家庭を失いました。家庭をなくしたのです。神様はエデンからアダムとエバを追い出すことで、家庭を失ってしまったのです。 救いの摂理は、本然に帰るためのものであるゆえに、復帰摂理であるということを知らなければなりません。病気になる前の状態に帰らなければならないのです。エデンで堕落する前の、神様だけを好み、神様だけを愛する家庭に戻らなければならないというのは、論理に適っています。堕落の病にかかったその人たちを病院に連れていって治療を行うには、治療できるすべての方法を知って注射し、嫌々ながらも実行しなければなりません。それでこそ生き返るのです。 堕落する前に神様が願っていた理想的な家庭の内容と、堕落してから悪魔の家庭になったという事実を完全に解明して批判し、常識的に小学生や老人でも理解できるように教えてあげなければなりません。そうして、自分自身の心と体の闘争がなく、一つになって、蝶のようにひらひらと舞いながら生きなければなりません。 救いの摂理は復帰摂理です。救いの摂理は復帰摂理! 復帰摂理は簡単にはできません。墜ちて下がったその反対を行かなければなりません。どのように墜ちて、世界がこのような終末の世、フリーセックス、家庭の破綻と淪落が起きるようになったのでしょうか? それを細密に研究して、墜ちたのと反対に上がっていかなければならないということを知らなければなりません。 サタンと神様が話し合えば、サタンは原理原則の道を正反対に行き、神様は原理原則どおりに上がっていくのです。上がるときも自分勝手に上がるわけではありません。公式的な路程を通じて上がっていくのです。神様は世界を自分勝手に創造したのではありません。原理原則を中心として創造しました。人間はそのような原理原則から外れて墜ちましたから、上がっていくときは原理原則に従っていかなければならないのです。 復帰摂理は再創造の摂理です。再びつくらなければならないのです。創造したすべてを壊してしまったので、再びつくり直さなければならないのです。皆さんの心と体が争っているのを、どのようにして一つにすることができるでしょうか? そのような男性、そのような女性がいれば、二人分の心と体ですから、四つが争っているということになります。永遠に平和はあり得ません。世界平和の起源は、国家でも世界でもありません。心と体の闘いが起源です。 私たちの心と体の闘いは、歴史以来今に至るまで休戦と停戦をしたためしがありません。そこには幸福はありません。闘う人は地獄に行くのです。そのような男性や女性になってしまったので、絶対夫婦がいないのです。神様の創造理想は、絶対夫婦を立てることです。絶対夫婦は、絶対生殖器を中心として、自分のために生きるのではなく、相対のために生きるところに立てられるのです。相手のために生じたのであって、自分のために生じたのではありません。生殖器を与えたのは……、男性のものは女性のためにあり、女性の生殖器は男性のためにあるのです。相手のためにあるのです。為に生きよと与えられたのであり、為に生きるところに愛が築かれるのです。「私に尽くせ」というところでは、愛が破壊されてしまいます。 絶対的に為に生きるところでなくしては、絶対愛を得ることができません。為に生きるために生まれたので、絶対的に為に生きるところでなければ、絶対愛を得ることができないのです。理論的なことです。為に生きるために生まれたのです。 親は子のために生き、夫は妻のために生き、妻は夫のために生きなければなりませんし、家庭は国のために生き、国は世界のために生き、世界は天地のために生き、天地は神様のために生きなければなりません。このように、為に生きてから死んだ人が、あの高い天国に行くのです。分かりましたか? 男性として生まれたのは女性のためです。先生は体験したので話すのです。霊界をすべて調べてみたら、そのようになっていたのです。 では、宇宙の核とは何ですか? 宇宙の核は家庭です。そこが愛、生命、血統、良心の出発基地です。個人が生まれる根本基地も生殖器であり、理想的な世界や国を築けるのも生殖器です。生殖器はすべての出発基地なのです。 夫婦が交わる愛の器官をみるとき……、宇宙が誕生し、生死圏が渦巻き、地獄が生じ、天国が生じるということを考えるとき、どれほど恐ろしい所であるのかを知らなければなりません。今日、自由な環境をつくってエイズが蔓延し、毒蛇が口を開いて「男も女も入ってこい」と待ち構えているのです。一度噛みつかれたなら滅びてしまいます。 今日、皆さんの日記に「私の妻は、私が一生かけて為に生きられるように生まれた唯一の愛の対象であり、神様の娘である! 私は唯一なる神様の息子である!」と記録しなさい。「私はこの絶対性(absolute sex)を中心として、絶対カップルになる。ゆえに、絶対的に為に生きなければならない!」と結論を出して日記に書きなさい。 そのような家庭が基本です。家庭がすべての神様の復帰摂理、再創造摂理の基本的な核であるということを知らなければなりません。核! 基本的核であるということを知らなければなりません。それゆえ、家庭では孝子を必要とするのです。国は忠臣を必要とします。それは誰かというと、家庭を中心として拡大した国の父母です。それを愛国者というのです。 家庭から外れることはできません。根本的な家庭。愛の王宮、愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮、良心の本宮、根本です。その根本がアダムとエバの生殖器です。それが繁殖したのです。すべての家庭は、アダムとエバの家庭が拡大した内容なのです。公式は同じなのです。 人間が行くべき道はどのようになっているかというと、家庭を通じていかなければなりません。それゆえ、孝子と孝女にならなければならず、忠臣と烈女にならなければなりません。その次には聖人です。聖人は世界のために生きる人です。世界を愛して生きようとする人が聖人です。その次には、天と地、天国の王宮、地上の王宮を中心として、その孝子となり、忠臣となり、聖人となって、聖子になれというのです。 したがって、家庭の孝子が忠臣の道を行くのです。家庭と忠臣が一つになり、その国の王と民が一つになって、世界のためにすべてを投人しなければならないのです。犠牲にならなければなりません。どうして世界のために投人しなければならないのでしょうか? 国の数百倍にもなる世界があるのに、世界の数百分の一でしかない一国のために、数百倍もある南米や世界を否定する人は、そこでつまってしまうのです。 イエス様は聖子の道を行くために怨讐を愛しました。天地を抱かなければなりません。イエス様は神様の息子です。それゆえ家庭や国や世界よりも、天をもっと愛さなければなりません。すべての国々は、神様を中心としてすべてを投入しなければなりません。投入した後に相続が可能となるのです。「私が願っていた家庭はおまえの家庭だったのだなあ! 私が願っていた国はおまえの国だったのだなあ! 私が願っていた世界はおまえの世界だったのだなあ! 私が願っていた天地はおまえのものだったのだなあ!」と、神様の願いが成就したそのとき、神様が相続してくださるのです。 家庭の年輪、国家の年輪、聖人の年輪、聖子の年輪をもって、天地が一つにならなければなりません。今までの歴史過程にそれが必要であり、それを立てようとしたにもかかわらず、共産主義、背道主義、神を否定する人本主義者が現れて、それをすべて破綻させてしまったのです。 自分の家よりも国をもっと愛してこそ天国に行くことができるのです。無限なる天国に行くためには、南米よりも世界を愛さなければなりません。世界よりも天地を愛さなければなりません。天地を投入して神様を愛さなければなりません。 皆さんは神様の代身者として来たということを知らなければなりません。王権が伝授されるのです。アダムとエバがそうでなければならなかったのです。家庭においては「真の母」、国においては「国家の母」、世界においては「世界の母」……、皇后の伝統、天国の皇后の伝統、神様の伝統を受け継ぐ道を行かねばならないのです。それが女性たちの行く道です。 家庭の女王は母親です。家庭の女王が母なのです。国の女王は母親です。誰でも国の女王になりたいのです。国の女王になるには、家庭の女王にならなければなりません。その次は、世界の女王になりたいのです。家庭の女王と、国の女王の立場を経ずしては、世界の女王の立場に立つことができません。家庭と国と世界の女王の立場に立ったならば、天国の女王の立場を相続しなければなりません。そのためには、為に生きなければなりません 神様が対するのは一人だけです。王権、神様の永遠の王権は、ただ一人にだけ伝授されるものです。様々な人が伝授できるものではありません。そのためには、その伝統を経て、世界の標準、神様が絶対に必要とする基準にならなければなりません。そのとき王権を受け継ぐのです。相続が行われるのです。 男性は家庭においては神様のような存在です。永遠なる創造の大王の道を築いていく立場にあるため、目的地まで行くには家庭の王にならなければなりません。ですから、家庭の王は父親です。女王は母親です。家庭は、国の父母に仕えていかなければなりません。男性はその王を模範としなければなりません。 そうして、世界の王の立場、天国の王の立場、神の王の立場に上がって、最高の神様の代身として王権を受け継ぐのが人間の欲望なので、人は誰でも最高になりたいのです。それが人間に与えられた特権です。 死んでもその道を行かなければならないのです。私のおじいさん、おばあさんが王と王后になり、お父さんとお母さんが王と王后になり、夫と妻と息子や娘が王族となるのです。そのような王宮の中心存在になりたいという欲望を皆さんはもっているでしょう? このような原則的な家庭は、誰もがその立場に至ることができるのです。 さて、離婚は必要でしょうか? 男性は浮気することができますか? 絶対的に為に生きる永遠の夫婦にならなければなりません。今、それからどれぐらいかけ離れていますか? どれほど汚れていますか? どれほど神様から遠いですか? 神様と接することができないので、接することができるように、レバレンド・ムーンがこの道をすべて整えてきたのです。 真の父母になることは容易なことでしょうか? 蕩減しなければならないのです。家庭の壁、民族の壁、国家の壁、世界の壁……八段階の壁でふさがっていたものを、すべて崩してしまいました。 失われた出発、アルファで失ってしまったので、その失ったものを今回、オメガで取り戻して合わせなければなりません。ですから「世界平和家庭連合定着」です。地上に定着するのです。様々な壁があったのを一気に崩して、八段階が平面になったのです。誰がその道を築いたのですか? 真の父母であるレバレンド・ムーンが、今まで一生をかけて築いてきたのです。 ですから、レバレンド・ムーンと一つになりなさいというのです。神様は創造するとき、絶対信仰で創造しました。絶対愛ゆえに、絶対服従で創造したのです。絶対信仰・絶対愛・絶対服従です。自分というものはありません。ですから、それが門の入口です、天国と地獄に行く門の入口なのです。 人間はかつて戒めを破りましたが、これからは絶対生殖器をもち、絶対愛をもって、絶対的に為に生き、絶対服従しなければなりません。神様は為に生きる愛の基盤を願っておられましたが、人間が自己中心的に勝手に行動してしまったのです。ですから、宇宙が「ペッ!」と唾を吐きかけたのです。これを再び回復しなければなりません。回復するためには、偽りの父母によってそれを失ってしまったので、真の父母が来て……。 レバレンド・ムーンの公式名、神様が制定した名前が「真の父母」です。このように、八段階で上がっていくべきすべてを、蕩減法によって平面にしたのです。それで、世界的家庭を編成するのです。三百六十万双が祝福を受けるのです。 自分を中心として愛し合って結婚し、過ちを犯したゆえに、公的な天と天地の大道のために新たに祝福を受けることによって、サタンが悲鳴をあげて死ぬのです。一八〇度違います。絶対愛・絶対性・絶対相対を中心として、絶対家庭のために定着する皆さん一人一人にならなければなりません。ですから、真の父母の前で再び祝福を受けなければなりません。その祝福を受けずに霊界に行けば、「強制的にでも、なんとか祝福を受けさせてくれればよかったのに、どうして言ってくれなかったんだ!」と讒訴されるのです。強く命令しなさい。 「蕩減解消」は何によってなされるのでしょうか? 自分の親以上に真の父母に侍って、新たに真の父母によって祝福を受けることによって、はじめて真の父母の勝利圏を子女が相続できるようになるのです。真の父母であるがゆえに、その父母の勝利した内容を息子と娘に相続できる権限は、サタンも神様も否定することができないのです。それが「蕩減解消」です。 「世界平和家庭連合」が定着し、真の父母が完全に勝利したことを……、真の父母に侍り、絶対家庭における孝子となり、忠臣となり、聖人となり、聖子となることができる、そのような愛で一体となった息子、娘となるとき、神様の全権を相続することができるのです。 皆さんはこれを知らなければなりません。旧約時代があり、新約時代があって、成約時代があるのです。旧約時代には完成することはできませんでした。すべてを知りませんでした。どうしてアダムとエバが堕落し、どうしてアダムとエバが追い出され、どうしてノアの洪水審判が行われ、どうしてアブラハムがイサクを殺そうとし、どうしてイサクの妻リベカが夫と長男のエサウをだまして、次男のヤコブに恵みが与えられるように祈り、どうして神様はその妖女のようなりベカを愛したのか……すべてが未知だったのです。 すべて失敗しました。モーセとイスラエル民族のカナン復帰路程は、四十年の失敗の記録です。ユダヤの歴史が失敗したその理由は、イエス様が十字架で亡くなったからです。しかし、なぜそうなったのかという事実を知らずにいるのです。旧約時代の失敗を解消できず、新約時代の失敗を解消することができなかったのです。 旧約を立てたのも家庭を探し求めるためであり、新約を立てたのも家庭を探し求めるためです。イエス様が送られたのは、国家的代表の王となって、その国の家庭を探し出すためでした。再臨主も世界の王権をもって、世界の家庭を探し出すために来られるのです。家庭です、家庭なのです。 旧約時代には、万物をすべて半分に裂かなければなりませんでした。血を流さなければならなかったのです。神様の前に、そのままでは行けません。サタン世界の血が半分混ざっているからです。その血を抜かなければならないのです。三つの祭物のうち、鳩(旧約)と羊(新約)はオスとメスの対でしたが、雌牛〔成約)は対ではありませんでした。それゆえに独身生活が強調されたのです。すべて裂かなければなりません。サタンの血を受け継いだのです。断食をしてでも抜けというのです。 また、犠牲となって奉仕しろというのです。祭物になれというのです。血を流さなければなりません。それが「蕩減解消」されるためのすべてなのです。旧約時代には万物を犠牲にしました。万物を犠牲にして、息子と娘が行くことのできる道を立てようとしたのです。その息子がメシヤなのです。新郎新婦なのです。そのメシヤをこの地に降臨させる準備として、祭物を捧げさせたのです。万物を捧げさせたのです。逆の経路で上がっていくのです。 その次には、息子がこの地に来て血を流しました。神様の息子が十字架で死んだのです。そのとき、イスラエル民族がメシヤと一つになっていたならば、その息子が死ぬことはありませんでした。不信したために息子が血を流すことになったのです。その息子は何をしたかというと、この地上に真の父母が来ることのできる道を築いたのです。 次に、母親が来なければなりません、母親。エバです。雌牛です。雌牛は裂いてはなりません。これは新婦になります。新婦の立場で世界を収拾し、来られる新郎を迎えなければならないのです。そのためには、息子と娘、カインの息子と娘をすべて収拾し、国においてもカインとアベルをすべて収拾し、失われたエデンの園のカインとアベルから、国家的なイエス時代のカイン・アベル(イスラエル民族とユダヤ教)、終わりの日に至っては、共産主義と民主主義というカイン・アベルが闘っているのを、すべて世界的王権を中心として収拾しなければならないのです。 旧約も新約も完成しなければなりません。それから、成約時代が来なければなりません。成約時代は世界的時代であるだけに、世界的圏内でアダム家庭で失った長子圏を復帰しなければなりません。アダムは長子としての役割を果たせませんでした。それから、真の父としての役割も果たせませんでした。真の王にもなれなかったのです。 これを代身して、世界的な版図圏内で世界中の家庭を対象に、アダム家庭と同じ長子権、天国に入れる真の父母権、天国の王権を失ったので、その資格者を再び合わせなければなりません。そうして、そこに合格することによって、真の父母の勝利的全権を受け継いで、子女としての道理に従って入っていくことができるのです。 ですから、男性にしろ女性にしろ、レバレンド・ムーンの後ろにくっついて、死んでも放してはならないのです。このような脅迫がどこにありますか? 脅迫ではありません! 本当の事実というものは、机を叩きながら命令するのです! 嘘でないならば、レバレンド・ムーンがそのように命令できるというのは、妥当な結論です。このような膨大な内容は、偽者には分かりません。本物だから分かるのです。 「世界平和家庭連合定着」を歓迎する人、それから「蕩減解消」して、自由自在に天下のどこにでも行ける解放された人になりたい人は、両手を上げて歓迎しましょう!(拍手) それで、今日は宣布式を行うのです。レバレンド・ムーンが祈祷す暁には、天地にそれが実現するのです。そのような途方もない宣布なのです。皆さんの生涯において、我知らず田舎道を狂ったように歩いていて、王子に出会って王后になる、ということもあり得るのです。ちようどそのようなものです。 ですから、感謝、感謝の心で「先生が祈祷したことは、そのようになる! 我が一族と我が国と南米全体が、世界人類がそのようになる!」という心をもたねばなりません。 祈祷 愛するお父様……、恨多き復帰時代を役事してきた天の無念さをよく知っているこの息子が、ここ南米ウルグアイに来てこのような役事をするようになりました。 あなたがいなければこのようなことは歴史上にあり得ませんでしたが、あなたがおられたがゆえに自分の国と家庭を捨てこの地に参り、このような役事をするようになったことが、あなたの恵みであったということを考えますとき……、最終着点において勝利の標的を定めたあなたのみ旨を知ったがゆえに、今までこの闘いを続けておりますから、お父様……、祝福してくださいませ。 世界平和家庭連合定着ということが、歴史時代の宿願であったということを思うとき、真の家庭の王的夫婦、真の国の王的夫婦、真の世界、真の天宙の王的夫婦の権威をすべて備え、神様の息子と娘としての全権をこの地上に受け継ぐことのできる、このような事実を宣布いたしました。 ここにいるすべての人々の心を鑑定してくださり、この道がいかなる道であるかを心深く考えながら、残されたみ旨の前に時間を競って天の前に祝福を受けて解放者となり、ご父母様の後に従う家庭となること、個人になることを願って恨を抱いてきたエデンのその壁を崩し、イエス時代のすべての壁を崩し、第二次大戦以降の壁を崩し、再びこれを回復して、万民の解放圏を祝福の恩賜として与えることのできる、驚くべきこの日を迎えさせてくださいましたことを感謝申し上げます。 一九九六年、十一月一日午後一時を中心とし、すべてを代身して、このような「世界平和家庭連合定着と蕩減解消」を中心とした、宣布式を挙行いたしますので、お父様……、受け入れてくださいませ。 アダムとエバの失敗をイエス様の家庭を通じて、イエス様の国、イエス様の民族、イエス様の国家を通じて解怨成就できなかったことを、今、真の父母を中心とした統一教会を中心として、アダム家庭の失敗、イエス家庭の失敗、ユダヤ民族の失敗、キリスト教の失敗、すべてを総蕩減して勝利の覇権・権限をもって、万民が共に一つの家族、一つの兄弟の血筋を受け継ぐことのできる直系の子女の因縁をもって、天の眷属となり得る特権を天地に附与することを願いますので、お父様……、祝福してくださいませ。 天で成されたように、地でも成されますように。地上で成された真の父母の願いが、天国のお父様の願いであるということを知っておりますから、この場に万民解怨成就、蕩減解消の日と定めまして、これを宣布いたしますから、受け入れてくださいますようお願い申し上げます。真のご父母様のみ名を通して祝願いたします。 アーメン、アーメン、アーメン!一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.22
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宇宙の根本を求めて日付:一九九六年九月十五日場所:韓国、ソウル、オリンピック・フェンシング競技場行事:「世界平和家庭連合」百八十五カ国結成韓国大会 尊敬する内外の貴賓、世界平和連合の会員、紳士淑女の皆様。冷戦の終息とともに平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に全地球星に拡大しています。新しい世界の現実を無視し、直視できない指導者たちは、津波のように押し寄せる変化に流されてしまいます。今、私たちは新しい世紀の分岐点に立って、私たちの伝統的な考え方を再検討し、新しい機会と価値観を迎えることに、果敢に進んでいくべき時だと信じます。私はきょう皆様に、世界平和の実現と真の家庭の価値についてお伝えできることを光栄なことと存じます。 神様は宇宙と愛の根源 この世の中には、男性と女性の二種類の人が暮らしています。彼らは互いに立場を変えることはできません。皆様も自分が願ってそのように生まれたのですか。あるいは、私たちは願わないのに、そのように生まれたのですか、それとも、願いもしなかったのに、そのように生まれたのですか。私が思いもせず、願いもしなかったのに、そして、原因はもちろん、結果も過程も分からないのに、そのように生まれたのです。 人がいくら偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定できません。したがって、第一原因である存在がいなければなりません。そのお方は誰でしょうか。男性でしょうか、女性でしょうか。その第一原因的な存在を神様と呼んでも、どのような名で呼んでもいいですが、その原因的な存在がいなければならないのです。きょう、ここには、我こそはという著名な方々がお集まりになっていますが、「神様がどこにいるのか。見せてくれれば私は信じよう!」とおっしゃるかもしれません。しかし、少なくとも、その原因的な存在を否定してはならないことを、まず警告しておきたいと思います。 きょう、私は「宇宙の根本を求めて」というテーマでお話しいたします。私たちが宇宙の根本を求めていけば神様に帰着しますが、そのお方は男性格と女性格の二つの性稟を所有しておられることを知らなければなりません。それでは、宇宙の出発の原因はどのようになっているのでしょうか。神様に対してはまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、そして主体と対象から成り立っています。鉱物界の分子を見れば、陽イオンと陰イオンから構成されており、植物界は雄しべと雌しべ、動物界は雄と雌、そして人間は男性と女性から成り立っていることを見ることができます。 存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界を問わず、次元のより高い陽性と陰性が、より低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展していることを知ることができます。なぜこのような現象が生じるのでしょうか。このすべての存在世界は、万物の霊長である人間を完成させる責任があるからです。鉱物界を見ても陽性と陰性、すなわち主体と対象が愛という概念のもとに、互いに一体となって存在しており、植物界も同様に、すべて雄しべと雌しべ、すなわち主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続するのです。最近、医学界では病原菌にまでも陽性と陰性があると言っています。 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるとき、何を中心として一つになるのでしょうか。キスすることによってでしょうか。愛は概念であって、実在ではありません。愛が定着できる実在は何でしょうか。男性が男性に、女性が女性になるようにするものが何であるかを知りませんでした。それが正に生殖器です。それを嫌う人がいますか。好きであれば、どのくらい好きですか。今まではそれが善くないものと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。 変わらない宇宙の鉄則 未来の世界は、どのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に貴く思う世界になるとすれば、その世界は善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談ではありません。神様が人間を創造されるとき、最も重要視して、精魂を込めてお造りになった箇所とはどこでしょうか。目ですか、鼻ですか。心臓でしょうか。でなければ頭脳でしょうか。 それでは、世界平和統一のための家庭連合の目的は何ですか。道徳と宗教など、すべての分野を完全に超越し、夫婦が完全に一つとなって、神様までも拍手で歓迎できる人が暮らす世界なのですが、そのような世界では、夫と妻の生殖器の主人は誰でしょうか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。簡単な真理です。これを否定できないというのです。 千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。あらゆる男性たちはそれを自分のものだと考え、またあらゆる女性たちもそれを自分の所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いに主人を間違えているという話です。すべての人たちは、愛は絶対的であり、永遠のものだと考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っていることをはっきりと知るなら、世の中がこのようになっていなかったはずです。 博士や学者は数多くいますが、このこと一つ考え抜いた人はいません。皆様はこれを否定できますか。皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖とさらには宇宙の根本であられる神様に尋ねても、すべて同意するようになっているのです。これが鉄則です。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るので鉄則です。そして、神様のみ前に出ていけば、この鉄則によって正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然のことです。アダムとエバの堕落も、正にこの鉄則に背いたことに由来しているのです。 アダムやエバは、自分たちの生殖器を自分たちの所有だと錯覚したのです。考えてみてください。善悪を知る木の実を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出しますか。根本的な問題を誤って、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったために、追放されてしまったのです。鉱物界や植物界や、動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管していることを、アダムとエバが知らなかったというのです。それでは、生殖器は何のために存在するのでしょうか。愛のためです。愛を探すために男性と女性として生まれたというのです。 神様と人間は父子の関係 神様の属性は何でしょうか。神様は絶対的であり、唯一の方であり、永遠不変のお方です。そうだとすれば、愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく、女性でもありません。そのお方が正に神様であられます。愛を中心として、愛を通してのみ神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。 神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的な愛を願われます。皆様はどうでしょうか。私たちも同じです。神様が絶対的な愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とするように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とするのです。すべて神様に似なければならないのです。 神様御自身が男性格と女性格、陽性と陰性をもっていらっしゃるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。このように、結婚を通して縦的な神様の愛が横的に完全統一されるのが神様のみ旨だったのです。 人間の体はこの地を代表した横的なものです。すなわち肉身です。それと反対に良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを求めるのです。したがって、人間は神様の縦的な基準と一つになる点を求めていかなければなりません。その点は中心点でなければならず、正にこの点で男性と女性が共に出会わなければなりません。そうして、この中心点から出生した人間は、愛と共に幼児の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。この時、肉身は地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟し、ついに心と体が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのようなところであってこそ、絶対的な愛を中心として絶対的存在である神様も喜び、その愛の対象体である夫婦も幸福になるのです。 このように、上下関係である父子の関係、左右関係である夫婦の関係、前後関係である兄弟姉妹の関係が一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形をつくるようになります。このような理由から、父子の関係を東洋では一つの体と表現します。さらには夫婦の関係も一つの体であり、兄弟姉妹も一つの体として考えています。何を中心として、このように言うことができるのでしょうか。真の愛を中心として四方に球形をつくるとき、このすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形をつくらなければならないのです。その点は一つです。一つなので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係なので、一つにならなければなりません。それは真の愛を中心として一つになるのです。 人間と完全一体であられる神様 人間の欲望はどれほど強いでしょうか。皆様の心の欲望は、神様よりも上に行くことを願うこともあります。いくら劣った人でも、神様より優れた世界の代表者になろうという欲望はもつことができるのです。 もし、皆様が神様の愛する息子なら、「お父様、いらしてください!」という時、神様は来られないでしょうか。皆様の妻がいくら劣っているとしても、本当に愛するなら、妻が呼ぶ時、夫は従うのです。このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄が呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄がついていき、皆が絶対に離れたくないと思うのです。神様も独りでいれば寂しいのです。どうすればそれが分かるでしょうか。 皆様。愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆様の血統をつなぐことができる精子と卵子をすべてもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。触ってみたことがあるかというのです。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてのみ知ることができるのです。同じ論理として、神様がいるか、いないかというとき、神様を見たことがないからといって、神様はいないとは言えないのです。 何が重要なのでしょうか。見えるものが貴いですか、見えないものが貴いですか。見えないものがもっと貴いことを知らなければなりません。お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。みなもっているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。一つになっているからです。心と体が絶対的にバランスを維持していれば感じないのです。 皆様。目がまばたきするのを感じながら暮らしていますか。三時問だけ数え続けてみてください。また、呼吸を数えながら暮らしていますか。数えてみれば、途中で忘れてしまいます。右手を挙げて、左側の胸の上に当ててみてください。どういう音がしますか。鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。その鼓動の音を一日に何度くらい聞いていますか。聴診器で聞いてみれば、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは一週間、一カ月ではなく、忙しい時は何カ月間もそれを感じないで暮らしています。考えてみてください。小さいはえが一匹だけ頭の上にとまっても、すぐに感じる私たちが、何百倍も大きな鼓動の音がしても、なぜ感じられないのかというのです。一つになっているからです。 壇上からこのような話をすれば、失礼だと思われるかもしれませんが、実感の出る話なので、いくつか例を挙げてみましょう。皆様。毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。大便をするとき、マスクを使って大便をしますか。もし、ほかの人がそばで大便をして、そのような臭いを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分の大便の臭いはそのまま嗅いで座っていて平気なのでしょうか。自分の体と一つになっているので、自分の大便を汚く感じないのです。 皆様。幼い時、鼻をほじくってなめてみたことがありますか。その味が甘かったでしょうか、塩辛かったでしょうか。なぜそれが汚く感じられなかったのでしょうか。それが正に私たちの体の一部分だったからです。皆様。咳をして、痰が出れば、飲み込んでしまったりもするでしょう。ここに参席された皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。なぜ、汚く感じないのでしょうか。みな一つになっているからです。私たちはみな、朝、昼、晩、毎日三食ずつ食べていますが、口から三十センチだけ下りれば、肥料工場があります。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。それを知っても、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられませんか。一つになっているからです。 神様の創造目的 愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスを取れば、感じられないのです。私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、みなもっていますが、独りではそれを感じられません。完全にバランスを取っているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここから見つけることができるのです。男性でも女性でも、独りの時は愛を感じられませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れる時は、相対的に刺激的な愛と血統が雷鳴と稲妻のように衝撃を受けて問題を起こすことを知らなければなりません。ですから、しっかりと目を覚ましていなければならないのです。このような真理を知らずに生きてきました。神様も絶対的に愛の相対が必要だという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。 それでは、神様の愛の相対は誰でしょうか。猿でしょうか。人間が結果的存在であるならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるでしょうか。夢のような話は最初からしてはいけないというのです。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでには、数千の段階の愛の門を通過しなければならないのです。ただ無条件に上がっていきますか。とんでもないことです。あらゆる動物もみな、同じです。種の区別は厳格です。誰も占領できません。唯物論を信奉する共産主義者たちが猿を先祖と信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が出てくると思いますか。百年、千年やってみても徒労に終わります。これは、生命秩序の尊厳性を考えてみるべき問題です。 そうだとすれば、神様も何を必要とするのでしょうか。どの部分をより必要とするのでしょうか。目でしょうか、手でしょうか。私たちが考える五官ではありません。神様は男性格と女性格の二つの性稟をすべて所有していらっしゃいますが、父としていらっしゃるためには男性格主体として存在されるお方です。 このような基準で見るとき、神様も愛のパートナーが必要なのではないでしょうか。被造世界の誰が、果たして神様の愛のパートナーになるでしょうか。男性独りでなるのでしょうか。女性独りだけでパートナーになれますか。神様はどんなパートナーを願われるでしょうか。お金のパートナーですか。知識のパートナーですか。権力のパートナーですか。違います。神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになるその場を中心として顕現なさり、人間と出会うのです。 なぜその場が神様を中心として一つになる場なのでしょうか。愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所が正にその場だからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性稟である陽性と女性の性稟である陰性が合わさり、大きな陽性の立場で大きな陰性と合わさって一つになるのです。いつそのようになるかということが問題です。 結婚とは何でしょうか。なぜ結婚が重要なのですか。結婚は愛を求めていく道だからです。愛する道、生命を創造する道です。男性と女性の生命が一体になる道です。男性と女性の血統が混ざる所です。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ個人の存在も意味がなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっています。男性と女性は絶対的に一つにならなければならず、父母と子女たちは絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様と共に生きてから、死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国です。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような理想的な人がいないので、神様が理想とする天国は空いているのです。今まで死んでいった人類はすべて地獄に落ちています。天国に入れませんでした。 このような観点から、イエス様も人類を救うための救世主として来られましたが、昇天したのち、天国には行けず、楽園に行っておられることを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨することを願われるのです。イエス様も結婚して家庭を築き、その家庭と共に神様に侍って暮らしてから、共に天国に入れるのであって、独りでは天国に入れないので、聖書でも「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければなりません。 堕落世界を収拾できる思想 今日、人類は堕落した子孫となって、堕落圏の下に落ちているので、この圏を突破して上がらない限りは、天国に入れないのです。堕落圏内にいる人間は、いかなる困難があっても、その圏を突破しなければならないのです。ですから、イエス様も「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言いました。この道を行くためには、全生命を懸けて、突破して上がらなければならないのです。 皆様の家庭は、堕落圏内の家庭です。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されました。アダムとエバが赤ん坊を生んだのちに追い出されましたか、追い出されたのちに赤ん坊を生みましたか。彼らは追い出されたのち、神様と無関係の立場で子女を生んだのです。このようなことも知らずに天国に行くというのですか。とんでもないことです。無知からは理想も生まれず、完成もありません。目を覚ますことを勧告します。 レバレンド・ムーンの話が正しいか、正しくないか祈ってみてください。私がこの道を探し出すためにどれほどの受難の道を歩んできたか、誰も知りません。罪もなく監獄に六回も入るほどの苦難に遭い、探し出してきた道です。ところが、他人の大切な息子、娘たちを連れてきて、このような真理を教え、短時間に方向転換させるので、多くの人が洗脳したと言うのです。無神論者は、神様がいないことを科学的に、理論的体系を立てて証明しようとして、自ら崩壊していきました。同様に、キリスト教徒たちは自分たちが信じている教理と違うといって、異端だと責め立てながら、私たちを取り除こうと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端こそが正統です。反対になるのです。サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌うものはサタン側だということを知らなければなりません。 思想的空白期に置かれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高校、大学の教材を通して、さらには、刑務所の罪人までもその教材を通して、思想武装をしています。旧ソ連の三千六百余の学校でレバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。彼らは、「私たちがアメリカに勝らなければならない。レバレンド・ムーンに反対するアメリカに勝らなければならない」と叫んでいます。西洋の腐敗した退廃風潮である同性愛やフリーセックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけだと彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカより先にレバレンド・ムーンに従っていこうと叫んでいます。 罪悪の根は不倫な性関係 皆様。神様がお好きですか。レバレンド・ムーンがこのようなことを展開しているのを御覧になる神様は喜ぶでしょうか。教皇庁の教えと今度の大会に参席したロバート・シューラー牧師の教えが同じでしょうか。もちろん、統一教会の教えも大きく違います。そうだとすれば、誰の教えが正しいか神様に尋ねてみてください。 イエス様と聖母マリヤに対する皆様の理解が間違ったものだといくら教えてあげても、それ自体が統一教会の利益になることがあるでしょうか。しかし、皆様が間違いなく知らなければならない一つの事実は、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯を捧げてこの道を歩んできたのです。 皆様。イエス様は結婚しなければなりませんでした。イエス様は女性ですか、男性ですか。聖女がいたなら、イエス様も彼女と結婚したくなかったでしょうか。神様はエデンの園にアダムとエバを創造され、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそのようにされたのでしょうか。彼らが成長すれば、神様が彼らを結婚させてくれるでしょうか、させてくれないでしょうか。問題は彼らの堕落にありました。堕落ゆえに血統が変わったのです。 ですから、神様は彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となるべきアダムと神様の夫人格として立つべきエバが堕落することによって、神様御自身の体と理想が本然の状態を失って、怨讐になったのですから、それを御覧になった神様の心情がどれほどつらかったでしょうか。堕落は自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になりました。 今日のアメリカはどのような国ですか。極度の個人主義、過分な私生活の追求、フリーセックスのようなものを神様が好まれるでしょうか。行き過ぎた個人主義が追求するものは何でしょうか。彼らの言うとおりなら、天と地、世界、国家、社会、家庭、甚だしきに至っては祖父、祖母までもすべて、放り投げてしまい、父母と兄弟も失ったまま、ジプシーやヒッピーになってさまよい、雨が降り、雪が降れば、行くところがないので、自殺して、一生を終えようという話ではないでしょうか。 しかし、人間の本心は極度の個人主義や、過分な私生活の保障を願ってはいません。宇宙と国家、町や村、そして父母の愛を受けて暮らしたいと思うのが、私たちの本心が願うところです。それができない反対の道を行くうちに、良心が燃え尽き、本心との相反を感じるようになって、むしろ薬でも飲んで自殺するのが良いと判断し、自ら命を絶つ現象がだんだんと増えていくのです。「自分のまいたものを、刈り取る」(ガラテヤ六・七)という聖句が的中するのを目撃するわけです。 アダムとエバがエデンの園にどんな種を蒔きましたか。節制のない性関係の種を蒔きました。それを否定できますか。ですから、彼らが下半身を覆ったのです。子供たちも、父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば隠すのが本性の作用ではないですか。もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきなのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたことを否定できません。堕落して落ちたアダムとエバを救ってあげるためには、堕落した方向と一八〇度逆の経路を通してこそ、救ってあげられるということは、この上なく理論的です。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来なければならないのです。 再臨のメシヤの使命と真の父母、真の家庭 メシヤは、堕落前、神様が創造したエデンの園の場で、家庭を築くことのできる主人として来られるお方です。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければなりません。このように、家庭が問題です。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければなりません。この死亡の世界で、誰が自分を救ってくれるかが問題です。 旧約時代を見てください。その時は、「目には目、歯には歯」(出エジプト記二一・二四)という原則のもとに蕩減してきました。イサクの妻だったリベカは、長子のエサウと夫までもだまし、次子のヤコブに奪い取った祝福を与えた女性ではないですか。そのような女性を神様はなぜ愛したのでしょうか。そのような神様をどうして信じることができるというのですか。今まで、このような疑問を誰も解明できませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてあげたのです。レバレンド・ムーンだけが神様の秘密をすべて知っているからです。 それでは、天国と地獄はどこで分かれるか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆様の生殖器です。深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。誰が否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に説明されています。疑問に思えば神様に尋ねてみてください。皆様には、夢にも想像できない内容と理論をもって体系化しておいたレバレンド・ムーンの原理の本に反対することはできないのです。 レバレンド・ムーンが天国に行くか、行かないか気になるなら、死んでみてください。死んで霊界に行ってみれば分かります。レバレンド・ムーンがこの道を探すために、死の道を何百回も超えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人がレバレンド・ムーンです。歴史始まって以来、誰もレバレンド・ムーンほど神様を愛した人がいません。ですから、いくら世の中がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共に保護してくださいます。 生殖器を、目の見えない盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば天国の高い所に行くのです。明白な結論です。今、青少年の問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰で淫乱によって堕落し、フリーセックスを蒔いたので、収穫の時期である終わりの日には、必ず世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。 終わりの日には、再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引っ張り上げて救うという戦略を、サタンは知っています。サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させるときに天使長がそうしたように、全人類をフリーセックスに追いやって全世界を裸にし、すべて死んでいく方向に引っ張っていくのです。人類がすべて天使長の後裔としての末路に直面するようになるのです。 エデンの園からサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの子孫が、今日の人類なので、サタンは堂々と神様のみ前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたいとおりにできる権限を主張するのです。神様はサタンが何を願うかを御存じです。サタンはフリー・セックスを通して、ただの一人も神様のみ前に帰れないように、言い換えれば、全人類を完全に堕落させて地上地獄をつくろうとするのです。今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか。したがって、このように地上地獄になったこの世界と一八〇度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来て、この世の中を救ってくれるのも、正にこのような一八〇度反対の道を教えて、天国に導くことなのです。 それでは、フリーセックスの道と一八〇度異なった正反対の道とはどのような道でしょうか。偽りの父母が現れて作った道がフリーセックスの道なので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は干渉することができません。この地のいかなる主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道はないのです。罪を犯した者がその罪を蕩減しなければなりません。家庭で結婚を誤って、血統が一八〇度ねじれてしまったので、真の父母が来て結婚させ、一八〇度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてあげるようになるのです。 純潔と真の家庭運動を通じた平和世界の実現 神様がアダムとエバに期待したことは何だったでしょうか。絶対愛を期待したのです。絶対「性」が存在するところには絶対純潔の夫婦が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。このような絶対純潔の愛を求める運動を世界的に広げるために、レバレンド・ムーンは一生を捧げて受難の道を克服してきたのであり、今は、勝利の祝歌を響かせながら、世界に号令をかけるときになったので、天に感謝しているのです。 世界平和に向かっていく礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊するのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊されたところがアダム家庭でした。したがって、きょう、このように「世界平和家庭連合」を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と一八〇度異なる方向に行くことができる道が開かれたことを、天に感謝せざるを得ません。この道でなければ自由も幸福も理想もありません。 皆様は今、絶対的な純潔の生殖器、唯一の生殖器、不変の生殖器、永遠の生殖器を中心として、これを基盤として神様を求めるようお願いします。この基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、良心の基盤にならなければならず、ここから正に地上天国と天上天国が生じることを理解されなければなりません。 すべての男女が、自分たちの生殖器が実は自分のものではなく、自分の相対が主人だということを認めるようになれば、頭を下げて謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになるでしょう。愛は相対なしには訪れません。愛は相対から訪れるので、ために生きないところには、愛があり得ないのです。絶対的にために生きるところで絶対愛を見いだすことができることを肝に銘じてください。 どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅びません。地獄になったこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるでしょうか。神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立てて生きていかなければ不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は神様であられます。 今、私たち全員が共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛隊になりましょう。今から家にお帰りになられたら、夫婦で自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠の器官であることを互いに確認し、それが正に自分のものではなく、あなたのものであり、あなたが今までよく保管してきたものが自分のものだと宣言し、互いのために生き、永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと誓ってください。そのような家庭であってこそ、永遠に神様がとどまるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成が行われるのです。そうして、皆様全員が共に次回の三百六十万双の祝福結婚式に参席され、地上天国に入籍する真の家庭になるようお願いいたします。ありがとうございました。【関連記事】文鮮明先生御言選集 19960801 - 宇宙の根本を探して Ⅰ(1996年8月1日、米国・ワシントンDC)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.22
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▲1996年世界平和家庭連合創設世界大会、真のお母様講演文(鮮鶴歴史編纂苑・博物館)世界指導者会議での御言1996年8月2日ワシントンDC 七月三十日から八月一日まで、「世界平和家庭連合」の創設世界会議がワシントンDCで開催され、翌二日、全世界のNLに、七時間にわたり日本語で語られた。 蕩減原則によって処理しなければならない 昨日の大会は何の大会でしたか。(「世界平和家庭連合創設大会です」)。世界平和? (「家庭連合」)。家庭連合。何が中心になりますか。世界が中心になりますか、平和が中心になりますか、家庭が中心になりますか。(「家庭です」)。家庭! なぜでしょうか。摂理の観点から、それがなぜなのかをはっきり知らなければなりません。家庭完成は、世界を代表して完成する基準になっているのです。歴史、堕落世界の総決算をして、新しい基盤に戻ってくるのです。 アダムの家庭から出発して、逆になった家庭が、氏族、民族、国家、世界というふうに、人類が何千万年、六千年ではなく何千万年の歴史を拡大、繁殖してきたのです。サタン圏に包容された人類全体を、いかに蕩減するか。帰ってくるには、ただで帰ってくることはできません。蕩減復帰路程を費やして、元に戻すのです。 完全にサタン世界になってしまったのです。個人から家庭から世界全体に拡大しました。そこには、霊界までも入っています。神の理想圏の出発期に、完全にゼロになってしまったのだから、地上天国もできなければ、天上天国も帰着することができません。サタン全権世界になってしまったというのです。 これを摂理路程を通していかに蕩減復帰するか。いかに元返すか。そうするには、百八十度、反対の力を投入しなければなりません。投入するとはどういうことかというと、血を流さなければならないということであり、生命を消耗しなければならないということです。 なぜかというと、堕落の血統によって家庭が出発して、血統基盤を中心として、家族から氏族、民族、国家、世界、天宙、そして地獄まで延長してしまったからです。血統でつながった歴史だから、それを元返すには物とか金とかは必要ありません。血を流すような、体を消耗させるようなこと、血の代わりに肉と骨を消耗させて埋めていかなければならないのです。 サタンがずっと主人になっているのですから、その主人であるサタンに対して弁償しなければ、それを認めることができないのです。 血液転倒をなしたものを蕩減するには、血液に相当するもの、その基準に合うような、逆の方向の何ものかを消耗させなければ、取り戻すことはできないのです。罪をつくった場合には、そこに罪をつくったのと反対の、善の基台を生み出さなければなりません。それができなかった場合には、体自身を消耗させて、そこに比例する価値を立たせなければならないのです。刑務所に入って、服役を通して解放しなければならないということです。分かりましたか。これが蕩減復帰です。 だから、旧約時代における蕩減復帰は、目には目、歯には? (「歯」)。人の目を傷つけた場合には、自分の目を取らずには、元に返す道、許される道がありませんでした。人の歯を折ってしまった場合には、逆に自分の歯を折ってしまうようなことをしないと、許される道がないというのです。 では、人を殺したとするならば、どうしますか。蕩減復帰できますか。人を殺したならば、自分も死ぬのです。人を殺した場合には自分の命は死んでしまうのですが、死なない以上は生きた基準において、生きた基準を逆の方向にもっていく方法を考えないと、蕩減復帰、元に返ることはできません。分かりましたか。 これが歴史の蕩減原則になっているのです。因果関係の法則を違反することはできません。その法に従って処理していかなければならないのです。罪をつくった場合には、その罪に合った罰を受けなければならないし、善を行った場合には善の祝福を受けなければならないのです。 サタン世界を完全に否定する それでは、善というものは何でしょうか。神のほうに尽くすこと、神の願われるところにプラスさせるのが善だというわけです。では、悪というのは何でしょうか。サタンの願うところにプラスさせる、そういう行動をした場合には、それは悪です。 いくらサタンがいたとしても、創造原則、絶対なる神の創造理想の原則があるから、その原則を中心として、その基準にプラスさせるような基準に立つ者は、その原則を守った以上の祝福をもらうことができるのです。その原則を破った場合には、破ったそれに比例する被害を弁償しなければなりません。善なる道はそうなっているのです。 これを一般の人間に適用すれば、善なる人の基準とは一体何でしょうか。原理原則と同じように、その国の憲法とか法律を中心として、法律のほうにその目的をプラスするのであれば、その国においては善なる人と言われるし、逆にマイナスにした場合には悪なる人という結論になって、罰せられるのです。それと同じことです。 だからこの善悪の基準は、絶対的神の創造理想と関係ない主権、すなわち人によって法をつくった場合には、創造理想とは関係ありません。だからこう考えた場合には、憲法とか法的規則とかは、それは天の経綸とか神の摂理の権限の法則とは、何のかかわりもないのです。 だから家庭を中心として、神の家庭理想を転覆された、破壊された、その基準を反対に元返すというのは、大変なことなのです。その家庭は、一つではないのです。その元の家庭がそうなったら、それが二個として繁殖されるのです。 木だったら木が、幹と枝を、穂先を中心としてたくさんの枝を抱えた場合には、それを元に戻すのは大変なことです。松の木がポプラの木になることはできません。しかしながら、松の木がポプラの木になるよりも、血統転換した人類を正すほうが、もっと難しいのです。 そうしたらきみたちは、いくら日本人であるとか、選民であるとか、威張っていても、それは創造原則から見ると何の価値もありません。それはみんなサタン圏に属するのです。神の善なる方面にプラスさせる何の価値もありません。分かりましたか。あなたたちの毎日生きている生活は、神の生活、神の願う理想の生活圏とは、何の関係もないのです。日本人を中心に、日本人に必要な条件はあるかもしれませんが、全世界を興し、歴史的なこととか、あるいは神の摂理的観点においては、何一つかかわることもできません。何の価値もないのです。 こう見た場合には、いやあ、大変なことです。そうなったら、歴史を全体的にまとめて責任をもって、それを生かしていくような歴史をもった国はないかというと、ないのです。絶対ないのです。方向が東に行くように決まったのに、回り道して西に行っていくら探しても、永遠にありません。分かりましたか。(「はい! )。 神はここにいるのに、ここに向けて神と一体となるべき理想の世界を残して、反対のほう、サタンを中心とした別個の世界もあるのです。これを完全に否定しなければなりません。だから、家庭からつながる氏族、民族、国家、世界、天宙、地獄に至るまで、サタンを除去しなければなりません。サタンが主人となっている以上は、幸福な神のもとの理想圏に帰る道は永遠にないのです。 神は失われた場所に立つことはできません。なぜかというと、絶対なる神は、なし得た実績も創造も、絶対的な勝利でなければならないし、目的も完成しなければならないというのです。 サタンもそれを知っています。原理圏にあった自分が、こういう横道にそれて、こういうふうに乱したということをよく知っているから、神の前に弁明する一点の条件もありません。だから、神の前に完全に服従しなければならないのです。服従しなければならないのに、今までどういうふうにして引っ張ってきたのでしょうか。服従しないで、どのようにして反対してきたのでしょうか。 サタンの血統を生みつけたが、世界の果てまで行って、歴史上に全体の過ちを正せるような人間が生まれてこなければならないのです。そうなのです。人間先祖がこういうふうに汚してしまったのだから、人間の中で誰かがそれを戻すという内容を知って、戻す権威をもって立って、これを実際に整備するような実績をもたなければ、帰る道はありません。 宗教圏を通してサタンを分別する摂理 それを神はよく知っているから、善悪の紛争の中から神の摂理と宗教というものを立たせて、人間はこうなるべきだということを宗教圏を通して教え、宗教の法律によって生活する基準を立たせているのです。善悪の分割条件として今、活用しているのです。その宗教上の法的位置に立ってプラスさせるものは、誰のものになるのでしょうか。そこから、サタン世界と分別する、分別工作をなさるのです。分かりましたか。 宗教も、東西南北たくさんあります。たくさんの宗教圏を中心として、上層宗教から物欲しさの宗教まで、邪教から正教までつなぐのです。邪教とは何でしょうか。それはサタンも宗教をつくるということです。神が昼の宗教をつくれば、サタンは夜の宗教をつくるのです。神の宗教に似たものをつくります。このように、宗教圏も二重性になっています。 神の宗教圏は人類に善なる影響を及ぼしますから、その影響を妨害するためにサタンは反対の宗教圏を立たせて、宗教同士がぶつかるのです。戦争をしてきたのです。人間の歴史において戦争が終わった場合には、宗教戦争につながっていく恐ろしさがあります。宗教戦争が起こった場合には、超国家的な人種戦争にまで発展するので、人間は滅亡します。今は科学の発展によって核の時代に入ったから、これを使った場合には人類は滅亡します。 こういうような歴史観に立っているから、宗教圏の神の願われる真理をいかにつなぐかということのために宗教があるのです。仏教が一つの体制を整えて自立するようになるには数千年かかりました。ユダヤ教も考えてみなさい。アダムからずっと四千年の歴史を通してメシヤを迎えるような、そういうことをなしてきたのです。数千年の歴史です。仏教も儒教も、みんなそういう背景になっているのです。 そうなると神のほうが、ただ一つの宗教圏を中心としてつながるようになります。そうなると宗教の内容が問題になってきます。どういう内容でもって、神は未来を収拾しようとなさるのでしょうか。もちろん、それは教理です。教理はたくさんあります。仏教は仏教教理、儒教は儒教教理、回教は回教教理、キリスト教はキリスト教教理をもってやるのです。 では、それは何を主流とするのでしょうか。これらをずっと集めて、初段階から高等段階にまでつなげるに当たって、いろいろな内的宗教を連合させる核心要素は何だろうかと、こうなるのです。それは、歴史を通してつながった伝統を続ける以外に道はありません。宗教が失敗した場合には、失敗の基準がいくら低いとしても、もとの主流につないで、宗教全体、歴史を代表した内的な流れの主流に立つような要素でなければなりません。それは政治でも、経済でも、文化でもありません。 万民に通ずるものとは何でしょうか。それは良心です。良心というものがあるのです。いくら堕落したとしても、良心は正しいこと、悪いことを、教えなくてもよく知っているのです。あなたたちの良心もよく知っています。何も法的には知らなくても、人が嫌がることをやった場合には呵責を受けます。 良心というものは平面的になっています。万民平等です。バランスが取れています。東西南北、四方、バランスが取れていて、それを回した場合には、こういうふうに振れないで、九〇度を中心として、四方八方、三八〇度、それは九〇度、平均上で回るような、何かがなければなりません。バランス、平準の基台がなければ、何かを永遠に立たせることはできないのです。 良心基準は万民に平等 だから、平準基準が必要なのです。歴史を代表して、歴史の上では変化があります。高い山があり、谷があり、平原があるのと同じように、それが当たっても、サインカーブは必ず平準を中心として、上下関係の比例を判断するという平準基準が必要です。それが良心なのです。だから、良心は高いことをよく知るし、低いことを知るのです。 二人が会った場合、話しかけただけで、「ああ、この人は自分より高い主人になるなあ。私は低い人だ」というふうに、すぐ分かるのです。説明しなくても分かるようになっているのです。はかりの目盛りみたいにです。それが重いか軽いかを分かるのと同じように、重さに比例したその基準に立つように、平準基準になって、上か下か平均か、それが分かるようになっています。それが良心なのです。 もともと、神もその基準の上に立っておられるし、人間もその基準に立っているし、天使長もその基準に立っているのです。同じです。万民平等です。だから、良心世界には教育の必要はありません。 その国に入った場合に、人間の良心は国家の法律が分かると、「ああ、これはまずいことだ」とか、あるいは「国家の法に基づいて、いいことだ」とすぐ分かるのです。教育は必要ありません。どの国に行っても、良心はすぐ分かります。それは生活環境から、三日くらい過ぎてみれば、はっきり分かるようになるのです。 そういう基準があるから、霊界に行っても、あなたたちの教育とか、解読が早いのです。これは何度かということ、悪いところは強圧して押さえて、上げたり引き上げたり、そういうふうにして合わせることができるのです。 だから霊界では、良心を中心として教育されたらすぐ分かるのです。話も良心がするのです。会った場合には、あいさつも何もしなくてもいいのです。自分の上か下か、すぐ分かるのです。平等の基準を人間はみなもっているのです。西洋人も、東洋人も、良心基準は平等です。水はどこに行っても水平になるのと同じように、人間世界の良心の基準も水平になっています。だから、その上に建物を建てることができるのです。だから、水平にまっすぐ立つ者ほど安全なのです。分かりましたね。 なぜ必要かというと、土台が完全であれば、まっすぐ立ったものは完全です。まっすぐになっているから、いくら重いものでも横にならないのです。支持する、支える力があれば、永遠に存続します。しかし、横になったら大変です。存続どころではありません。押さえる重さに比例して、みんな風化されて偏ってくるのです。倒れてしまうのです。一方、まっすぐになった場合には、風化されていったとしても、中心の骨は一番最後に風化されるので、まっすぐに残って倒れないのです。 だから、人間は平面世界を獲得したいし、立体世界を獲得したいのです。それは自分の人格の基準において、野望とか欲望、善なる欲望の肯定によってなされるのです。だから、肉心というものは、「世界を私のものにしよう」と思うし、良心というものは、「わあ、霊界、天があった場合には、両方を私のものにしよう」と思うのです。両方を統一しようという作用をするのです。 絶対的精神基準を立て肉身の力を抑える 一つの起点を中心として縮小したり拡張したり、そういう運動をなした場合には、一つの起点で大きく広がることもできるし、高く伸びることもできます。比例的になるのです。だから、人間は心身一体になっているのです。精神的基準を強調するものは、肉身基準を縮小しなければならないのです。分かりましたか。精神の力を強烈にさせるには、肉身の力を縮小させなければならないということです。 プラス・マイナスの原則です。だから肉体生活、外的生活をなす者は、これを広げるのだから、中心が下がっていきます。分かりましたか。(「はい! )。 口が好み、肉身が好むことをやった場合には、精神がぺちゃんこになってしまいます。酒とか、踊りとか、たばことか、クラブとかを好きな者は、精神世界はもうめちゃくちゃです。平準以下になってしまいます。それは、比例的にそうなっているのです。分かりましたか。 そうしたら、精神的生活に従うべきや、肉身的生活に従うべきや? どっちですか。(「精神的」)。肉身的! (「精神的! )。本当ですか。(笑い)それを今からやろうとするのですか、それともやってきたのですか。絶対的精神基準を中心として生涯を懸けていく者は、絶対に肉身の虜になりません。そういう絶対的精神基準を中心として生涯を経ていく者は、絶対的に肉身に屈服しません。 どこがサタンの基地になっているのでしょうか。垂直、平面において、自分の人格が二重になったのです。 肉身は良心まで引っ張っていくのです。良心は、固着したその基準を永遠に保つべきであるにもかかわらず、肉身の強烈に引っ張る力によって、中心基準がぺっちゃんこになって崩壊してしまうのです。そうなった場合は、いくらほかのところに行って中心を立てたとしても、戻ってきません。一度紙に書き間違ったその字は、いくら消しても、元の通りにはなりません。 酒を飲んで、酔っぱらって喜ぶ者がいますか。周辺にそれが邪魔になるということを知っていながら、たばこを吸い喜ぶ者は、それはサタンのものです。環境破壊の分子です。それは平面基準と立体基準をめちゃくちゃにさせる悪魔の王者、そう思います。 固定的定着場があるということを知らないのです。そういうことを分かった場合には、絶対的に人間は良心を中心として生涯を懸けて、直行する目的、自分の人格完成の目的、方向に進んでいかなければなりません。進んでいって、また帰ってきたりすることはできません。往復行程ではありません。目的基準まで前進していかなければならないのです。上がったり下がったり、こうなった場合は傷になるのです。 だから良心は毎日、前進を願うのです。毎日、高く垂直の世界に向けて、「前進せよ」と命じるのです。それが習慣性になった場合には、これがしわになって、それ以上に上がることができません。その基準を中心として、顔も性格もみんな違うのです。分かりましたか。 平面基準と垂直基準が九〇度に合うようなその固着、垂直基準はたった一つです。分かりましたか。垂直基準を中心として三六〇度回るようになります。 肉身基準の場合にはどうなるでしょうか。無限分割、無限に定着、精神基準は遠ざかってしまいます。行動すればするほど、そういうものは永遠に自分の本性の精神的人格完成の道を満たすことはできません。それは間違いなく地獄に行く者です。地獄に落とされる者、落ちてつかまる者になります。そうなっているのです。分かりましたか。 完全否定の過程を通過し本然の世界に帰る 宇宙は何のためにつくられたかというと、愛のためにつくられました。「神様は相対が必要だ」と言いましたね。愛をもっていても、それは見ることもできないし、触ることもできません。また、生命をもっていたとしても、血統をもっていたとしても、良心をもっていたとしても、見ることも触ることもできないのです。できないのですが、愛というものは、ピーッといっぺんに相対できます。愛も被害者です。堕落した愛も、堕落した人格も、生命も、血統も、良心も、ピーッと相対できるのです。 何の愛が、そんな作用をさせるのでしょうか。真の愛は、神に直行した、直通した愛です。神と一つになった愛です。神が愛を中心として全創造世界の理想の核心とし、その核心は相対をいつでも総包容し保護していくのと同じように、愛があればすべての被造物は包容され、総合して保護育成されていくというのです。 真の愛がそんな作用をするということを、今までの歴史において分かった者はいません。そんな作用が一体あるのかないのか、考えさえすることができなかったのです。 いくらそういうことを願っても、堕落した人間には作用ができません。真っ暗な夜に光がどこにあるか分からないし、光を願ってもいないのです。同じです。堕落したら、そういう基準になっていないのです。自分の一身を引きちぎるような真の愛がないから、闇は闇につなぐという話です。それで、真の愛が絶対に必要なのです。堕落とは何でしょうか。それは真の愛とは反対の、真っ暗な愛を結束させたということです。真の愛ではなく、サタンの愛です。堕落の愛なのです。 先生が昨日言ったように、地獄も天国も正義も悪義も、善悪すべての最高の基準は何かというと、真の愛なのです。真の愛の決着先端は、男、女のどこですか。先生は昨日、何と言いましたか。(「生殖器です」)。生殖器。生殖器は、悪いものですか。どの宗教においても、悪いものと制定されています。 それで、そういう悪いものから生まれた関係のものは、みんな捨ててしまえというのです。国もそこから関係をもつし、社会もそこから関係、氏族もそこから関係、自分のおじいさんもそこから関係、お父さんもそこから関係をもつのです。そして、自分自身もそこから関係をもつので、自分まで捨ててしまえというのです。 そういう目的があって、神は人間に「出家せよ! と命令しておられるのです。生まれた所を飛び出せ、離れよというのです。そうでしょう。有名な高等宗教は、出家ということを命令するのです。統一教会も出家した者がいますね。 出家。それはなぜかというと、宗教と正しい主張を願う神様がいたとするならば、全体を拒否するような対策を立てなければならないからです。血統が違っているのですから、完全否定しない以上は元の血統に戻ることはできません。落ちていったのだから、そうしなければ逆に上がっていく道は永遠にないのです。 完全否定。絶対否定。否定にも段階があるのです。否定する基準によって、堕落したその基準を凌駕することができるのです。だから、宗教、ことに高等宗教では、本然の世界に帰るためには否定過程を通過しなければならないのです。 だから、国を否定せよ、社会を否定せよというのです。家族、祖父、父母、夫妻、子女が問題ではないのです。問題は一身なり。死ぬ境地に落としてしまえというのです。だからこじき生活です。サタンはそれを願いません。サタンは傲慢です。サタンの性格は十以上傲慢で、下にされたくないのです。だから、サタンから最も反対の位置にあるのが、こじきの生活なのです。だから、断食せよ、謙遜になれというのです。 断食ばかりではありません。犠牲になりなさい。犠牲ではなく、祭物になれ! 血を流せ! 堕落は血統を誤り、それで生命を、血を受け継いだのだから、血を流さなければなりません。そして、血を流しても感謝するような立場に立たないと、サタンの境界線を越えて、堕落前の人格を再創造する機会を得ることは永遠にできないのです。 だから、宗教は犠牲と祭物です。祭物は二つに分けるのです。一つはサタンのものです。サタンをなくして、心が完全に主体になるようにして、上がって安全地帯になって神のほうに帰ることができるのです。 平面的否定、縦的否定、二重否定をなさなければならないということです。こんなに難しい道が、宗教の道を通した復帰の道、救援の道なのです。分かりましたか! (「はい! )。 日本を再創造しなければならない 男はお父さんになるのですか、お母さんになるのですか。旦那さんたち、いい生活をするのですか、悪い生活をするのですか。(「いい生活です」)。みんな奥さんにやってもらってするのが、いい生活なのですか。それとも、奥さんを休ませながら喜ぶのが、立派な旦那さんのいい生活なのですか。どっちですか。日本の男に率直に聞いているのです。正直に正面を向いて答えなさい。 日本の女がいくら先生を誘っても、誘惑されないと決意しました。先生を誘惑しようとする日本の奥さんたち、お嬢さんたちがたくさんいたのです。 そういう日本の国をエバ国家に選抜しなければならないというのです。責任を誰がもつのでしょうか。アダムがもたなければならないのです。立派な日本の男をつくって、立派な奥さんをつくって、立派な旦那さんをつくって、立派な先祖、アダム復帰以上の価値のものをつくらなければならないのです。 そういう立場に立ったら、戦後、英・米・仏の使命を果たせなくて、地獄に落ちてしまったそのエバの代わりに、サタンの足場になったそのものをそのままもっていって、それが相対のエバみたいに扱うような立場に立てなければならないのです。死んでもできない立場であったのですよ。しかし、神を知っているから、日本のために先生はやっているのです。日本の国を再創造しなければなりません。 先生は一人で、いつでも国をつくることができます。家庭も、氏族も、民族編成も、もう問題ありません。エバ国家の家庭、母を中心とした家庭もです。アダム家庭を地上全般にわたって拡大したのが、人類の家族です。そのお父さんである真のお父さんを、エデンの家庭の門前で追放してしまったのがサタンであり、そのサタンが代わりに、女と男を中心として、偽の父の行動をやっているということは大変なことです。それは本当のことなのです。 アダム家庭は人類の長子です。間違いありません。長子であるばかりではなく、長父母です。先祖であり、父母の始まりです。それは「長」をつければ、長子、長男、そして長父母、長王様となります。アダム家庭はアダムが父母です。理想の地上天国の真の王様はアダムです。天上天国の王様も、そこから始まるのです。すべての理想の根底、拡大した出発の基地になる、それを王というのです。基地になるその主人の家が、アダム家庭なのです。 一家を代表するのはもちろん、一族を代表するのももちろん、一国を代表するのももちろん、一世界、天宙すべてはそこから始まったのだから、元の理想の始まった家は宮殿になるのです。それは理想の本郷の家族です。 その家族が転覆され、長子権、長父母権、長王権を完全にサタンに奪われてしまいました。そうなったのだから、これを元返すには下からやるのです。ですから、兄さんの親権、兄さんの王権をおいて、下の弟王権を中心として、弟が兄さんを転覆しなければならないのです。 それは国家基準において蕩減することができるのです。たくさんの家庭になっているから、国家基準の勝利を得ないというと、元に返す道はありません。命令一下、一つになった場合には、家庭なんか国家基準でいっぺんに転覆するのです。 宗教は真の愛を通してのみ本質に通ずる 宗教圏には旦那さんがいないのです。ユダヤ教は新婦教会です。失われたアダムの家庭を中心としたのだから、それは新婦です。カイン・アベルとお母さんを中心として準備されたのです。だから、宗教において篤実な信仰をもつのは、男ではありません。女です。宗教団体でもそうです。マホメット教(イスラム教)も仏教もみんな、宗教は七五パーセントは女性信者です。男は付き添いみたいなものです。仕方なしに女のしっぽにくっついて、放したくないからついていく、泥棒みたいな男です。みなそうです。 暇があった場合には切ってしまって、妻が家庭に子供に忠実にするように、自分に忠実にするようになることを願う夫は、宗教圏の邪魔者です。だから、男は天使長圏なのです。分かりましたか。(「はい! )。 あなたたちはみんな若くして祝福を受けたから、そんなことはなかったでしょう。既成祝福の若い女たちは大変です。心は先生についていきたいのですが、旦那さんはやっかいなものです。本当にそういう心も出ます。そこまでいくのです。世の中で考える女たちが悲惨な境地に立つ、そういう同情して余りあるような女になってしまうのです。分かりましたか。 男を嫌がる、旦那さんを嫌がる女はみんな、貴族に近い女です。この社会で知的水準が高いとか、活動したいとか、金持ちとか、そういう者から、男嫌いの運動が始まるのです。自分の家系を平均に見て、それより劣った場合には無視したり、金から見て無視したり、知識から無視したり、比較鋭敏な女たちです。男たち、問題です。 そうではないですか。誰が先に嫌がるのですか。男が女を先に嫌がるのですか、女が男を先に嫌がるのですか。なぜでしょうか。堕落がそうなったから仕方ないのです。反対に復帰していくには、自分の旦那さんを好きであったら、絶対に復帰できません。自分の家庭を好きであったら、絶対に復帰できないのです。 それで、聖書では「自分の家族が、家が怨讐になる」という話をしました。それは究極の転換点が残っているから、それを切るには、親が反対するし、父母が反対するし、それから兄弟、旦那さん、夫婦共に、一家全体が反対するのです。なぜかというと、真の愛の世界を展開していこうとするならば、真でないサタン的な愛の組織において歓迎するものは一人もいないのです。そういう観点から見ると、世界的にそういう標準に一致した男が、ここに立って話している文先生なのです。 さあ、「宗教は真の愛に通ずる以外に、本質に通ずる道はない」ということは分かりましたね。そうしたら、真の愛が好きですか、嫌いですか。 授ければ授けるほど増えていく真の愛 さあ、真の愛は必要ですね。いったい真の愛とはどんなものでしょうか。 受ける立場が幸福ですか、授ける立場が幸福ですか。(「授ける立場です」)。え? (「授ける立場です」)。百ドルしかないのに百ドル授けて、一ドルもなくなったらどうなるのですか。無くなったら泥棒するのですか。(笑い)それは問題ですよ。 神様が授けて忘れる、投入して忘れる、そういう論法を言ったのですが、授ければなくなります。いっぱい授けて、永遠に授けて忘れる、その補給路は一体どこにあるのか、とこうなるのです。真の愛は、授ければ授けるほど増えていきます。だから、そういう逆説的な論理が生まれてくるのです。 宇宙の力を考えても、構造の世界を保持する力というものは、運動すれば下がっていくのです。運動すれば減っていくようになっているのに、地球は何億年も継続しています。今から何億年続いてもなくなりそうにはないのです。その運動をするのに、どこから補充するのでしょうか。それを支給してくれるところは何でしょうか。それが問題です。 何でも、ものには格というものがあって、副体、そういうものがあります。もとなる格式は、生命の権威をもってやった場合には、千万年たっても、その種の主体格は変化しません。無限の支持の力、宇宙力が、連結されている橋をつなぎ出すことができます。 それはいったい何でしょうか。愛のもとの世界です。だから、真の愛は使えば使うほど大きくなるのです。例を挙げましょう。あなたたち、本当に愛する友達から真心を尽くして、精誠を尽くして土産をもらったとします。そして、それが千ドルの土産だったとします。その友達からそれをもらったときに、身心共に感激した場合、その人に九百ドルの土産を買ってあげたいですか、それとも千ドル以上、千百ドル、二千ドル、数千ドルの土産を買ってあげたいですか。どういうふうにしますか。 千ドル以上を加えて返してやりたいという思いをもつのです。真心という基準は、膨張する作用をなすのです。分かりましたか。真の生活、真の聖人の生活は、膨張する力をもちます。それは立体的に膨張するような、それが真の愛です。 世界と代えることのできない祝福家庭 サタンは堕落のために、こういうふうになすべきその家を、転覆させたのです。それが世界を越えて、天宙を越えて、歴史を越えて、全宇宙は、すべて引っ繰り返ったその家庭につながっています。だから、全体がサタンのものにならざるを得ないというのです。 これをどういうふうに転覆するかというのです。世界から転覆したといっても、家庭が残ったとすれば、サタンの基地はまだ拡大するのです。いくら世界を消化した自信をもったとしても、家庭が完全になったその基準に統一化されないというと、世界にサタンの所有権の道はどこでも残るというわけです。 全世界を否認して、引っ繰り返ったのを元返した場合には、それは世界に通じ、いかにしても変わらないような価値の家庭を探すことによって、その価値の延長圏はサタンの権限とは永遠に関係がないのです。 だから、血統転換というのは恐ろしいことであるけれど、実にうれしいことでもあるのです。血統を植え込んだ上に、他の血統を植え込むことはできません。 サタンの血統と神様の血統に、永遠に分割されます。混血することはできない限界をもっているというのです。絶対的な家庭を、世界を代表してもったとしたら、その価値は全世界をやっても返すことはできません。 だから、そんなことをなした場合には、祝福家庭という尊厳な価値は、全宇宙をやっても、堕落世界のそれと代えることはできないのです。そういう価値の基台の上に立った、神が理想としたその基準の家庭からつながる氏族、民族、国家、世界は、永遠にサタンと関係がないのです。血統というものがあるから、それがはっきりしています。きっちりと結論をつくる、それに疑問を抱く者は一人もいないということになります。分かりましたか。(「はい」)。 それを転覆させたのは、サタンの偽りの父母です。偽りの父母から、偽りの家庭からそうなったのです。ですから、サタンと交わった偽りの父母から始まったものは、神と交わった真の父母から出発した場合には、別個の存在になります。別個の血統になるということは、絶対的に公認することができません。だから、真の父母という名前でもって出てくるのです。真の父母を中心として転覆するのです。通過点を元に返すのです。これを返すことは、全世界が反対します。サタンの世界では、個人から全世界、霊界へ行った霊人、悪魔すべてが反対します。 先生以下、三人の家庭、三十六家庭、それから七十二家庭、百二十四家庭、四百三十家庭、それから七七七家庭、それから一八〇〇家庭、六〇〇〇から三万から三十六万、三百六十万まで拡大していくのです。 三万双からは世界的な展開になるのです。六〇〇〇双までは闘い続けなければならない内容がありました。世界のどこへ行っても、世界のどこの部落でも、反対する境涯を逃れることができず、いろいろな悲惨な行動をしながら、そういうことを越えてきたのです。それが三万双からは公開、世界に公開です。だから、一週間原理を聞いて、血統転換と所有権転換と心情転換を信じて、新しく血統転換するような者は誰でも祝福してあげるのです。 その日が世界的になるなら、潮水でいえば、これはもう満水です。六時間前に入った水も、それから六時間後に入ったものも平等になるのです。かえって六時間後に入った者は、先に並ぶことできます。平等権があるからです。祝福の平等権があるのです。その平等権は国家的、日本海平等、大西洋平等、太平洋平等、六大州、五大洋平等と、こういうふうに発展していきます。三百六十万(双祝福)は五大洋平等となります。 それから、血統の本源に真の父母の名前がついているのです。それは決意して、どんなことがあっても、真の父母の教えを中心として方向転換し、世界に向けていくのです。 サタンの世界は大変です。サタンの一等国として、個人主義、プライバシーを誇ったアメリカ。それから、フリーセックス、ホモ、レズビアンと神の理想すべてを破壊して、かけらも残らないような悲惨な状況をなし得て、その基準から、神の創造理想である完全なる愛の絶対圏をつくるとは謎みたいだと、神を呪いながら、サタンは大笑いするのです。 「再臨の主が言ったって、そんなことはできっこない。数千万年の歴史を通して、こんなに砕いてめちゃくちゃにしたところを、元の理想の愛の本郷に返していくという馬鹿みたいなことをするなどと、神様は何と愚かで、惨めなものか」と。 サタンの全権をもって行動しているのです。エデンの園において、アダム・エバを自分の両手で抱えることによって全人類、男・女、五十億でも、自分の懐に抱いて、みんなセックスを乱してしまうのです。だから、フリーセックスだというのです。セックスの分別、血統圏を分割できないような、混血、混乱をもたらし、父母が分からなくなるのです。 祝福家庭は一族の代表 世界平和家庭連合で働きかけるのです。いくら家族、親が競って攻撃してきても、倒れません。氏族連合体、国家連合体、思想連合体、共産党、民主主義、みな反対したとしても倒れません。もう共産党もなくなり、みんななくなってしまいました。国も、家族も反対したものはみな、比べてみれば、自分たちは悲惨な立場にあって、文先生は天下で、王者の権限を振るうような頂上まで立っているのを、どうにもできないのです。地下でやってみても及びません。いくら引っ張ったとしても、根っこは取れないのです。 打たれても、これは減らないのです。増えていくわけです。打たれることは悪いことではありません。 打ち砕かれて、釘の頭みたいに平たくなって、頭が見えなくなって、木の中に入って、小さいハンマー、細くなったハンマーで逆に打っても、いくら打っても、その板が取れません。分かりましたか。真の愛の釘は、頭を打てば打つほど、だんだん大きくなっていきます。それはそこまで、先祖の根元を通して、根元の真ん中を通して、根っこになってしまおうとするのです。戦えば戦うほど、打てば打つほど、深い所に、それは生えてくるのです。 祝福家庭は、価値は知らないけれど、何千万年の神の苦労、復帰途上にあった先祖たちの犠牲の血を流したそのものは、計り知ることはできません。そういう犠牲の道を積み重ねて、勝利の壇上に立った者はたった一人です。それが祝福家庭なのです。自分の一族を代表してたった一人なのです。先祖からの代表の、勝利の出発です。 堕落の血統から、勝利の血統として先祖の結実体になるのですが、祝福というのは、堕落先祖を代表して、逆の立場で占領し、正々堂々と天の血統圏に入ったということであり、それは何にも比べることができません。一族の誇りです。一族全体を犠牲にしても、それは得られないものです。だから、その価値を自分ながらに貴く思っていかなければならないのが、祝福家庭の生活の基盤なのです。分かりましたか。(「はい! )。 イエス様だにそれを果たせなくて、霊界に行きました。一九六〇年、聖婚式を行いました。四十四年間を費やしました。韓国はもう国を挙げて、先生に勝とうとしてきました。文先生はそういう闘いのまっただ中に、聖婚式を行ったのです。そういう苦労の道をたどって、祝福の道を行ったのです。 国家的メシヤは家庭を中心としてその国を消化する使命をもつ 日本は、神の国と何の関係もありません。日本人は何の関係もありません。日本の国が反対するのです。だから、あなたたちがそれを喜んだ場合は、あなたたちは反対する者になるのです。統一教会のメンバーとして、そこから脱出しなければなりません。そういう事態を嫌がったら、その瞬間から祝福家庭を中心として分解してしまいます。脱出する条件としてそれは国家基準以上の、メシヤの使命を果たすために、祝福家庭を宣教師として、国家メシヤ担当として送るのです。 先生は一九六五年に百二十か所の聖地を、イエス様の百二十国家の国家選別条件として、決めました。土と岩と石をもってつくりました。それは骨と肉です。土をずうっと植え込むのです。 それで、家庭をよく植え込む、家庭を植え込むから、家庭とその家庭の土を、絶対をもって植え込まなければなりません。植え込んで、その国をアベルのほうに、家庭を中心として消化して、カイン的国家を引きつけるのです。それが国家的メシヤの使命です。 メシヤとは、親をいうのです。子女関係は運命的ではなく、宿命的です。運命というのは、代わりを埋めることができるのですが、宿命というものは代えることができません。死んでも果たさなければならないものなのです。 だから、イエス様の使命は宿命です。親の使命をもってきたのですから、楽園で二千年間待ちに待って、また帰ってきて、生きて果たせなかったことを再び生きた基準で、死んでもなさなければならないのです。再び来てなすのが再臨主なのです。 国家的メシヤ観というものは、そういう宿命的な使命があるのです。どんな難しいことがあっても、自分の子供と奥さんと、それから財産を前にして、帰る道はありません。国家的メシヤは、その国のお父さんです。そうでしょう。お父さんの家です。 イエスは家を得られずに死んだのですが、七か国の中心として家が立つのだから、その七か国の大使が評価したとするならば、その大使が、その国の大統領、閣僚に呼びかけた場合には、それはついてこざるを得ません。そういう力があるという希望をもって、今、派遣しているのです。 それにつれて、日本の女性がみんな援助団としてその国に行った場合には、これは国家的メシヤ団となります。日本の奥さん、女たちが百二十名です。イエスの百二十門徒と同じです。イエス様の実体的基準でもって、百二十国家の大使を全部消化していくのです。 そうした場合、日本から見た場合には、日本の大使の代わりに行ったものが誰かというと、統一教会の日本の代表です。それはアベル的大使です。すでに行っている大使が、カイン的大使です。そのアベルとカインが一つになった場合には、アベル圏として、その国をカインとして消化するのです。 百八十四国家からそういうような影響をその国に及ぼしていくというと、一つの国でもそれは影響する力があるのに、百八十四回消化されるのです。いっぺんに回ってしまうのです。何年かかると思いますか。 今度百八十四国家に選抜されない者は、十二支派の列の代表と、列の圏内に立つことができません。だから、日本からこういうふうに、入籍ができなかった場合には、その自分の入籍圏、アフリカの南端だったら南端の所に大移動しなければならない事態がくるのです。 手をつけないで、世界が統一されていくのです。入籍という問題は、超血統的です。人種差別はしません。文化差別もしません。宗教差別もしません。たった一つ、差別するものがあります。それが偽りの愛です。偽りの愛につながったすべてのものは、前に立つことができないのです。偽りの愛の前に属する者は、偽りの愛の行くところに連れられていかざるを得ないのです。 無蕩減時代に入る 新しい世界のために、自由の世界建設のために、こういう家庭連合をつくったのです。きょうからは新しい無蕩減時代に入るのです。 それから、逆に蕩減させるのです。打たれることがあったら打てというのです。打たれて、何十倍の蕩減をさせていくことができるのです。だから、打たれることは、サタンにとっては無慈悲に撲滅されていくことになるのです。恐れるなというのです。 ヨシュアとカレブが、第二イスラエルに対して何と言いましたか。(「強く、雄々しくあれ」)。強く雄々しく、強い腹をもて、強固な精神で、屈しない精神で、と言ったのです。 今からは蕩減条件を越える時代に入ります。王権が復帰された場合には、直結時代、直接干渉する時代に入ります。気に入らないからといって国を中心としての権限を押しつけることはできません。サタン主管圏は長成完成圏です。神の主権圏は完成出発、完成蘇生圏です。完成蘇生圏に入るのだから、サタンを主管します。堕落前のサタンに命令する神のほうの圏内に入るのだから、サタンに命令する圏内に入るということです。そうなったとき、天的法を適用することができるのです。だから蕩減法において、反対蕩減をなせる時代に入るのです。反対蕩減現象をなすことができるのです。神の方からサタンの方に、蕩減の条件をサタン圏に提唱して、それを果たさせるようにする方向転換された時代に入るのです。 だから家庭連合をつくった場合には、首相とか大統領、その国の最高の家庭を招待しても、こちらのほうが高いのです。国家的メシヤの立場は、国家的真の父母です。メシヤとは完成されたアダムです。真の父母の名をつけているのです。家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤというふうに。天宙的メシヤといえば、神様を中心としていうのです。父母をいうのです。だから、時代が変わってきます。王権時代です。 神の主権を地上に定着させる 「世界平和家庭連合」を創設しました。今からは蕩減の峠を越えます。その主権が建設された場合には、神全権の実力を果たすような世界に変わっていくのです。神の国はまだ成立されていません。いくら家庭をもって、氏族をもって、民族をもったとしても、主権が現出されなければ、主権復帰をしなければならないというのです。主権というものが、天とつなぐ中心的な実体圏に通ずる、その基台です。国というのは、神と関係をもつような内容を結ばなければ成立しません。 だから、いくら家庭があったとしても、いくら民族編成がなったとしても、神が働く定着した中心点をもたなければ、国になりません。国が栄えるには、天の援助を受けないというと、繁栄しないのです。人間がいくら努力しても、天をつながらせないというと発展しません。発展させる神の主権が地上に定着するのが、摂理する最高の希望であるのです。アダムの家庭で長子権を失ったものが、世界家庭圏です。 アダム家庭を中心として堕落したものが、こういうふうに拡大して世界アダム家庭圏を編成したのです。その世界家庭圏を編成したところは、サタンは関係をもつことができません。個人から、家庭から、氏族から、民族、国家から世界、永遠まで平面的に発展するようになるのです。それは天上ではできません。地上で結ばれれば天上に結ばれるし、地上で解かれれば天上でも解かれるのです。 だから、地上でもって、平面的に人間の生活を拡張した世界圏でもって、解放圏をもたなければ、地上の理想の天国は展開されません。 アダム家庭圏の基準から世界家庭圏まで、こういうふうに上がっていくのです。縦的関係を横的に、同じように連ねさせれば、そのところを戻ってこないというと、神の国の編成、神の国の摂理はできません。それをはっきり知らなければなりません。 だから、アダム家庭圏へ行って長子権、それから父母権、それから王権、そして家庭的な基準が、氏族、民族、国家、八段階を通して、世界加盟権です。世界加盟権でもって、長子権の使命を、世界を長子の立場に立たせなければならないのです。だから、万民がカイン圏であって、来られるメシヤがアベル圏です。それが、今までの世界から見た場合には、カインが先に生まれて、メシヤが一番最後に生まれた立場でもって、回れ右するのです。分かりましたか。 家庭圏で使ったのが、長子圏でなくて、世界圏でもって、長子復帰、父母復帰、王権復帰をしないと、神の国に帰りません。だから、天国に入るものは、地上の神の国の主権で生きていた者が入るようになっているのです。だからその後、地上の神の国と、天上の神の国が垂直になっています。地上完成をなさなければ、霊界も完成圏に入ることができません。 神様がなぜ、そのような人間をおつくりになったのでしょうか。神様は霊界に行っても見えません。見えないのです。創造の前も見えなかったのです。だから、神様は人間をつくって、人間のお父さんになり、王様になるのだったら、家庭を率いなければならないし、国を率いなければならないから、子供たちはみんな形をもっているのです。 だから、創造の第一の目的は形をもたなければならないということです。人間の父母として形をもつということが、第一の創造目的だったのです。 第二番目は何でしょうか。二番目は繁殖しなければなりません。神の国をなすには、繁殖しなければなりません。たくさんの子供を生まなければなりません。 神の創造目的は生殖器を通過しなければ無効になる だから、女としては、男がいなければ大変です。女は男のために生まれたということをはっきり知りましたね。その器官を自分のものとして行動したから堕落したのです。堕落はどこからかというと、生殖器の主人が自分だと思って行動したのが堕落です。復帰は、生殖器を自分のものでなく、公的なものとして行動することによって帰っていくことができるのです。その生殖器は自分のためでなく、公式の基準を中心として、神の願う公的な絶対生殖器です。唯一不変、永遠の生殖器です。そういうような女をつくるなら、家庭は永遠に問題はありません。 そういうような絶対男、女が一つになって、絶対愛が連結された場合は、その中で子供が生まれれば、それは絶対的子供です。絶対的愛の結実体です。それは分割することはできません。そういうふうにして生まれた子供は、宗教とか、あるいは誰かの指導を受けて、天国に入るようにはなっていないのです。お父さん、お母さんについて入れば、どこでも行くことができるのです。 そういう理想的な神様の家庭をつくって、神様の国をつくるのです。神の家庭を拡大し、氏族、民族、国家、地上天国を通じて、それをそのまま霊界に移動して天上、永遠の天国をつくるのです。膨大な天国をつくるのです。生み出して無限の世界です。 絶対的愛が必要ですか、不必要ですか。(「必要です」)。どのくらい必要ですか。絶対的に必要です。始めから永遠に必要です。旦那さんになった場合には、始めから永遠に一人の奥さんの旦那さんにならなければなりません。そういう思いをもってきましたか。奥さんになったら、始めから永遠に一人の旦那さんの奥さんにならなければなりません。そういう観念がないのです。 永遠の国に入るのですから、永遠の路程、永遠の家庭路程を通過しなければなりません。永遠の家庭の出発は、ジグザグにしてはいけません。垂直にずっと行かなければなりません。だから、家庭理想圏が国家理想圏を通して、国家理想圏は世界理想圏、世界理想圏は天宙理想圏と直行、一方きりしかないのです。直線です。分かりましたか。 だから、第一の創造の目的は何ですか。フォームが必要であるということです。二番目は、繁殖面積が必要であるということです。神様は縦的な一点を中心として、永遠に存在するのだから、面積がないのです。面積が必要だから仕方なしに、実体圏を中心に三六〇度を中心に回るようになっているのです。 三番目は、一人では寂しいから、愛の相対者としてパートナーとしてつくったのが、アダム・エバです。第一はフォーム、第二は繁殖、第三は愛です。だから、女・男、父母は絶対的に子供を生まなければこの原則に違反するから、天国入国の落第生になります。 女が生まれなかったらどうするのですか。いくら戦争があって人が死んでも、ある一方でたくさんの人が亡くなった場合には、反対のところで、この面積圏では、それを補充するのです。そうして男が死んだ場合には、男が生まれてきます。 いくら金持ちの貴族の娘として養育したとしても、竹の内から男を見た場合、「わーっ」とお母さんの所に行き、「三人のうちであの人がいいな。また、あした通過するから見たい」、そう思い始めるのです。そんなことありますか、ないですか。なければ女ではないです。 何によってそういう作用が、何の動機でそういう作用が始まるのでしょうか。心ではありません。心情でもありません。生殖器です。「統一教会の教祖様が生殖器の専門家になっているんだね」、そう言われても仕方がないのです。これは真理の真理です。それを嫌がる者が落第生です。生殖(器)が実るようになったから、体全体がそれに歩調を合わせるようになっているのです。それがプラスです。それが主体であって、体は客体です。 じっと手を胸に当てて、考えてみなさい。そんな話はあまり聞かない。恐ろしい話で、「本当かな」と考えても、それは本当であるということを否定するならば、永遠に満たされません。 何を通さなければなりませんか。三大目標の神の創造目的を、生殖器を通過しない以上は、永遠に形を続けることができません。生殖器を活動させないというと、創造目的の第一番も第二番も第三番も無効になります。第一も第二も第三も、神の創造目的は生殖器を通過しなければ、完全に無効になります。恐ろしいことです。 だから生殖器は、どのくらい貴いですか。全体より貴いですか、全体より貴くないですか。愛のために人間は死ななければいけないのです。命を越えて、愛を求めていくのです。だから、愛は生殖器によってつながるのです。生殖器はこの全体よりも貴いのです。 生殖器は、神と代えることはできません。生殖器が神だったら、神を再び生み出すことができるというのです。一人ぼっちの神より、兄弟の神様をもつのがもっと理想的だというのです。 生殖器は、それはフォームをつくった神様より貴いというのです。お父さん、お母さんよりも貴い、祖父母すべてを合わせたよりも貴いというのです。絶対的価値をもつところが、そこです。絶対的価値をもたないと、絶対的愛、唯一の愛、不変、永遠の愛をもち出すことができません。これは理論的です。 こんなにはっきり教えた以上は、堕落したら駄目です。堕落したら、ぺちゃんこにしなければなりません。永遠の無価値のどん底に、埋め込まなくてはなりません。 より投入する者は主体になる 女として、一番、それが金の冠よりも貴いのです。世界で何よりも貴いものは、男の生殖器です。男の最高は何かいうと、女のそれを占領する以上の宝物はないのです。 夫婦が寝るときも離さないようになった場合、どのくらい一体になるか、どのくらい仲が良いか、どのくらい理想の夫婦となるでしょうか。 なぜ、男も女も汚いものが出る道と、愛するときの一番幸福な所が同じ所なのでしょうか。それが分からなかったのです。高いものは低いものを相対にするのです。それは理想です。高い者になるには、汚い所を好きにならなければならないのです。 種は、高いところでは成長しません。汚い所で成長するのです。生殖器が近くにあるのは、子供が成長するための薬をまくためにそうなっているのかもしれません。上下の道。平等です。上下を連結して一つにまとまるのが、絶対的愛の環境です。 その近くに肛門があるのです。なぜ、そんなに貴いもののある所に、そういう汚い器官、処理器が集まったのでしょうか。「汚い環境を自分と一体とさせるものが、理想的な真の主体となる」という話を教えてあげます。 これは真理です。立派になるには、その国民の一番の貧民窟を自分の王宮以上に愛さなければなりません。そうする者は、永遠の王様の権威を保つことができるというのです。 もっと為に生きる者は、中心者になるのです。これは真理です。中心者はどこに投入するのですか。国だったら、国の一番悪い所に投入して、また投入して、国まで巻き込んで、投入しようとする人には、宮中がそこに移っていくのです。より投入する者は主体になるのです。分かりましたか。大きい声で一度言ってみなさい。(「より投入する者は主体になる! )。より投入する者は中心者になるというのです。それは歴史の鉄則です。学校で中心者になる者は、学校という教わる所でもって、より勉強に投入した者です。熱心に勉強する者は中心者になるのです。歴史の鉄則です。 不平を言うなというのです。きょう不平を言うことがあった場合には、一年、五年、不平を言うのですか。それをみんなさておいて、投入の専門家になった場合、一年のちには不平を言う環境が、侍る環境に変わっていくのです。主体になるからです。主体、中心者は責任をもたなければならないのです。環境をつくって、相対の責任をもたなければならないのです。中心者で責任を嫌がる者は、滅んでいくのです。国の中心者が国の全体に責任をもたないと、その国は滅んでいきます。独裁者はなくなってしまうのです。王権の歴史上に消えていきます。 若い青少年たちはそれを知らないのです。「なぜ、自分が奉仕するのか。なぜ、為にするのか」ということが分からないのです。簡単な真理です。しかし、この真理は、永遠の歴史を動かすというのです。中心者は責任をもつ。中心者は全体の相対圏を保護する。防備する。中心者は全体を養育して、発展させる。 統一教会の文先生は迫害があった場合、逃げていきません。難しい立場であっても、相対圏を保護します。保護ばかりでなく、養育します。より新しい所に引っ張って成長させて、その相対を保つようなことをするのです。これは、宇宙存在の主体、客体の関係の存在の公式的位置を決定し、維持させる基台です。 生殖器の誤用によって失われた長子権、父母権、王権 家庭でもって堕落し、長子権を失ったのは、何によってですか。生殖器です。父母圏を失ったのも、何によってですか。生殖器です。それから王権を失ったのも、何によってですか。生殖器です。それをはっきり知らなければなりません。本当のことです。その器官がなければ、相対理想不完成です。それがなければ、それは繁殖基台未発見です。その器官がなければ、永遠のフォームが、子孫にはないということになるのです。はっきりしました。 今からそれを保管するのは、どういうふうにするのですか。紙の袋と、絹の袋と、鉄の袋、蘇生、長成、完成の三大袋でカバーして、保っていかなければならないのです。 男が近づいてきたら逃げていくように、女が近づいてきたら逃げていくようにしなさい。防備しなければならないのです。統一教会の女は、体を汚すようなことがあってはなりません。命を捨てることがあっても、それを汚してはいけないのです。 これを守った場合に、天国直行です。そんな決意のもとで守っていく夫婦が一つになった場合には、誰がそれを分解させることができるでしょうか。神様だにできません。もし分解させたとしたら、絶対基台、本体を分解することになるから、神自体が落第する、滅亡するようなことになってしまいます。 宣教師が海外に派遣された場合に、その問題に引っかかった場合にはめちゃくちゃです。自信、ありますか。 完全なる愛の一体圏に、完全なる子女が生まれるのです。それは真理です。先生のつくり言葉ではないのです。天国を願わなくても、そこに直行する子供ができます。そういう子供をもった場合、永遠に同宿、同位、同居、同参しながら生きたいのです。その格好の主体、客体が相対関係です。分かりましたか。 先生が霊界に行くまでに教えてあげないと、誰かに啓示でもって教えて拡大しなければならなくなります。生きた啓示体として、伝授してあげるのです。分かりましたか。 こんなに貴いものをめちゃくちゃに覆してしまったのです。神様は、こういう群れでもって、その器官を誤用する姿を見たくないのです。だから、全部出家しなさい、独身でいいというのです。家族で出家するのではありません。一人きりです。高等の宗教が教えるのは、未来の世界、復帰の世界、理想の世界を求める道です。それは、出家と独身生活をしなければならないということです。宗教は犠牲の道を行くというのです。否定の道、そして、性生活を断絶する道を行くのです。辛抱、辛抱、その辛抱が堆肥となるのです。それを肥料として、新しい生命の種を迎えるというのです。 先祖はできません。女、男はできません。神から続いた真の愛と真の種をもった主人が来られて、そこに初めて肥料の墓場に種をつくった場合には、これは理想的な収穫の実となるのです。再創造の理想郷をたどって、それを神が植え、神が育て、完成して、相対圏をつくった家庭、氏族、民族、地上天国をつくった家庭にするのが神様の救援摂理なのです。それは復帰摂理、再創造の摂理です。取られて、泥棒されてしまったのですから、その場所で再び設置しなければ、元に戻すことはできないのです。復帰は再創造です。フリーセックスで器官をめちゃくちゃにしてきたからです。 神は、何千年までも待って、その器官をめちゃくちゃに使ったことはないのです。アダムと一体となってそれを使って、理想的な家庭出発を考えた神は、今までに歴史上使ったこともないのに、親である神様から生まれる後孫の立場であるにもかかわらず、それを使うというようなことは、無礼なのです。独身生活をしないといけません。たくさんの種を繁殖しなかったのは、復帰の年限が短縮されるためです。 真の父母がまだ結婚していないのに、結婚することはできません。生めないのに、真の父母がいないのに、偽りの者たち、子供たちが、結婚をするということは、神の原理世界において公認されることは永遠にないのです。 血統は種をもった男性を中心としてつながる 女が中心ですか、男が中心ですか。誰が中心だと思いますか。(「男です」)。なぜ、男が中心ですか。垂直だって、女も垂直に立つことができるではないですか。中点に立つというのは、男は子供の種をもっているからです。それを女たちは、はっきりしなければなりません。 数千万年の歴史を通過して、お父様を中心として、男を中心として、血統の子女をつなぐのです。女ではないのです。垂直の、子供たちの血統をつなぐものは、女ではありません。男に限ります。なぜかというと、神様に似ているからです。神様は性相、形状の中和みたいになっていますが、格好としては男の格好なのです。男が神の姿をもって、子供の種をもっているのです。 創造前の神とそっくりです。神の代わりの立場であって、平面世界でその中心性を無視した場合には、平面圏全体が倒れてしまいます。そういうような伝統的基準に立たない国だったら、家庭、氏族、全部が流れていきます。 女の胸は自分のものではないのです。旦那さんが握った場合には、喜んでお母さんみたいにならなければなりません。奥さんは、お母さんの代わりです。本当ですか。それを知らない男、女たちの愛の生活は欠けてしまいます。先生もそうであるかもしれません。神様はどうでしょうか。先生もそうだから、神様も見えなくて、そういうような思いをせざるを得ないという神様になっているのです。同じことです。 尻も子供のものです。第二の自分の後孫のものなのです。胸もそうです。その器官も、子供が生まれる家です。愛さざるを得ないものです。だから、この顔もお母さんとして、子供が好きがる顔です。大きい子供がお父さんです。子供が好きがる顔を好きなのです。 だから、すべて自分のものがないのです。生殖器は誰のものですか。子供のものであり、その子供が生まれる愛を継続させる器官であり、旦那さんの愛を受け入れる器官なのです。 不平を言って、「そんなこと嫌だ」と言った女がいた場合、今晩、悔い改めなければなりません。 そういうことをやることによって、女として、天来、何千年の歴史の伝統を続けてきたのです。死なずして貴い宝物を、自分の抱えた子供を受けもつ女が、旦那さんを無視することができるや! できません。何千代の血をもらうことによって、何千代の先祖の価値を、自分の後孫のものとしてはらみ、伝授してあげるのです。愛の表示、愛の行動なくして伝授してもらう道はありません。真剣な場です。 お父さんが、旦那さんの顔が赤くなった場合には、すぐ準備しなければなりません。その瞬間に、愛したい男から、どんな子供の種が自分に伝授されるか分らないのです。いつ、どこで、それを伝授してもらうのですか。それを見抜く日は、ひらめくのです。歴史全体、先祖の細胞が蘇生してくる場です。そんな希望の生命体が、自分の前に立って、伝授する行動の表現を無視する女は、それは避妊した女になるということです。それは恐ろしいことです。 それ本当ですか、本当ではないですか。死なないで、ここまで生き続けて、奥さんの願いのすべてを満たす、この胸を、顔を、生殖器を通して、満たしてやる、聖なる瞬間を、女としては、それ以上の精誠を尽くして受け入れなければならないのです。 考えてみなさい。先生の考えが合っているか、合わないか。合ったとすれば、それを尊重し、貴重な人間の価値の母体として、天国の展示会の一番の王座に持ち帰って展示する女、男になればいいのです。愛の王様、愛の真の女として、世界第一の王、女王様の愛をなしてきたと。 男がいなかったら、子供をはらむことができますか。子宮をもって、何をするのですか。ヒップが大きくて何をするのですか。胸が大きくて何をするのですか。美人の顔して何をするのですか。理想的な子供を伝授されるのです。 結婚の相対は過去、現在、未来を通して発見した歴史的代表者 こういう観点から見ると統一教会の家庭理想は、いかばかり価値あるものでしょうか。そういうような立場で子供をはらんで、子供を生んだときの顔を見た場合には、どちらか強い愛をもったほうに似ていくのです。二人でやってみなさい。 公式的理想天国工場の基地は何かというと、完成生殖器です。男の生殖器と女の生殖器の凹凸が合う基地です。結婚の場だというのです。結婚は、男の半分、女の半分が完成することです。これは神様がするのだから、立体的、横的、縦的完成をするのです。 こういう観点から見た場合、神様がいくら偉いとしても、男女の生殖器が愛の基台にならなければ、そこに種をまくことができないのです。種をまきに来る神様が臨在して、永遠の生命と人間の地上の生命、つまり、アダムは外的肉身の生命、神様は霊的生命、この二つが授受するのです。同じ愛でもって、同じ血でもって、同じ血統として子女が生まれるのだから、永遠の神の後孫として、天国に直行する者になっていくのです。理論的です。 宇宙の万物、その雄、雌は凹凸になっています。分割されるものでなく、一体化するものです。愛し合うためにそうなっているのです。愛を得るには一つにならないといけません。一つにならなければ、愛を永遠に迎えることはできません。愛によって、生殖器は合うようになっているのです。 愛の主人は神様であり、人間も絶対愛を求めていくのです。その一点を中心として、絶対の神様、愛の縦的一体化、男の生殖器以外にはないのです。これは否定できないのです。愛の公的実体は、神も人間も凹凸、平面的です。だから縦的父母、横的父母、アダムは横的父母、神様は縦的父母です。 結婚するときは、五十億の人類があったとすれば、男はその半分の二十五億の代表であり、女は二十五億の代表として、最高の立場に立つのです。そういう観念で結婚する、そういう教育をしなければなりません。結婚の相対は、過去、現在、未来を通して、たった一度発見した歴史的代表の者なのです。生涯待っても、こういうものは得られないのです。 子供が成長し、愛の完成定着地は結婚の場です。夫婦として完成、定着するのは結婚の場です。父母として完成出発基準が、その中心圏です。結婚する場なのです。その場が全存在の愛の願いの、四つのもとになっているのです。 それが及ばなかった場合は大変です。だから、子供を立派に生んで、立派に兄弟圏を超えて養育して、そういうふうにして夫婦をつくって、立派な子女の願う完成定着基地、兄弟完成、夫婦完成、父母完成定着基地を中心にして、神に伝授して、神に献納した、そういう結婚の場をつくってやらなければ、四大心情圏を探すことはできません。父母ばかりでは駄目です。精誠を平面的に尽くすより以上の精誠を、立体的に神に奉仕するような基準をつくらなければ、つながらないのです。 信仰生活は、奉仕を主張し、自分の犠牲を主張するのです。最後には、祭司とか、祭物を願います。祭物は血を流さなければなりません。手の先が減って血を流し、肌がむけて血を流しても、神の前には孝行の心情で、奉仕の心が万民に届くようになって余りある心をもたなければならないのです。 世界大移動期が来る 世界大移動期が来ます。スターリンが民族大移動を強制的に行いました。それと反対のことが地上に起こってきます。願って行かなければなりません。今、統一教会の国家メシヤに、嫌々ながら行っては駄目です。 何千万年の国家が、メシヤが来られるのを待っていたのに、その願いに対して、その時になって行かないのでは、民族を捨てた王権の悪い王様の立場に立つのです。だから全部行かなければなりません。メシヤは、願って地上に行かなければならないのです。送り出して、強制されて来るものではないのです。 今から言うことは、王権の理想世界に行く内容です。それを教えるのです。 真の家庭は純潔によってつくられます。純潔の基台がなければ、真の愛は永遠に離別するのです。原理がそうなっているのです。それを否定できますか。純潔運動、真の家庭、原理観です。分かりましたか。自分で良心に聞いてみなさい。良心は父母に優り、良心は先生に優り、良心は王様に優るというのです。良心は世界同等になっているのです。垂直になったら、それは何度よじれたか、すぐ分かるのです。 公式的理想天国は、公式的な理想的な生殖器をもたないと、天国そのものが吹っ飛んでしまうのです。子供をはらむとき、その器官を通してはらむのです。そのとき、喜びながらはらませたのですか。子供をはらむのに、泣きながらはらんだのですか。喜びながらです。全身の細胞がみんな爆発するような、細胞が全部運動するような喜びです。 これは先祖の細胞、四百億の細胞をもっているのです。四百億の先祖、血統圏の何千代の先祖、みんな細胞に入っているのです。遺伝性によって、何百代、何千代の細胞がこの体の中に生き残っているのです。それが愛によって総動員されるのです。死んでいないというのです。生きているのです。愛によって再び連携して、後孫の細胞とつないでいるのです。 汚れた愛の血統だった場合には、清められた血統を後孫に残すのがどんな難しいことであっても、親としては努力しなければならないのです。先祖が悪いといえば、権勢によって崩壊させて、自分が植えていかなければならないというのです。 真剣に先生は言っているのです。訓練する女として、徹底した女をつくり出して、世界の女を教育するのです。その女たちを世界に派遣するのです。世界の母になれば、世界がみんなぞろぞろついてきます。それで韓国、大陸を回って、跳躍ではなく飛躍して、天国昇天してしまうのです。 エバは、旦那さんの何を握らなければなりませんか。半島を、韓半島を握らなければならないのです。そうでないと日本は滅びるのです。見てみなさい。先生の話は流れていきません。日本人としては、気持ち悪くても仕方がないのです。春が過ぎて、秋になって、結果を見れば分かります。日本人と韓国人との世界において結果を見れば分かります。 韓民族は、こういうような列強の真ん中に立って、よくも七千年の歴史を民族として残して、唯一の民族になったものです。先祖の伝統を、万民の誇りとして称える民族です。 自分の肉と骨を削って世界に乳を飲ませるのがエバ国の使命 日本人の家庭は韓日人教会と共に僑胞を伝道していくのです。そうすれば、僑胞を中心として、カイン・アベルになるのです。だから、日本は双子をはらまなければならないのです。それを日本が消化しなければ、完成する、解放される日本になれません。それを拡大して、二大主義である共産主義と民主主義を消化しなければ、それは世界的な範囲になりません。 半島を、国を、世界全体を抱擁するお母さんにならなければ、日本国家として母になりません。世界に送らなければならないのです。荷造りして、お嫁に行かせなければならないのです。自分の準備したすべてを売って持っていかなければならないのです。そうでしょう。母は子供にすべてを投入しながら、未来を考えて、未来の国を考えて、親は子供のために犠牲になっていかなければならないのです。 それは伝統的公式になっているから、日本のきみたちを派遣しながら、使命を果たしてこない以上は、同情することはできません。後孫と共に、名目ある、家族が誇れるような基台をつくらなければ、お嫁に行った女としては価値がないのです。 今まででたらめに生きてきた日本の奥さん像と、先生の理想的奥さん像を比べてみたら、天地の差です。日本の奥さん像は地獄に送らなければなりません。先生の奥さん像は、地獄に行っても天国に引っ張り上げなければならない、そういう立場です。 天下の価値を分かった以上、その道を直行していくのが、女として生まれた使命の生涯の道であり、母として、妻として、生涯を懸けていく使命の道であることを分かりました! (「はい! )。 日本の千六百人の女は失敗です。日本自体が使命を果たさないから、四か国から島嶼国家を拡大したのです。十倍以上でもって帰っていくのです。十倍から十二倍。十倍以上しないといけません。だから、一万六千人以上になります。国連に加入している国は百八十五か国、そこまで拡大しながら日本の女を送った場合には、全体が日本の女の肉と骨を削り取って、飲まない者がないように乳を飲ませるのです。日本はそういうような宝をもつように、神は祝福しました。 男は別個のものです。現地において活動して、女を苦労させる。その子供をずっと、血と汗と骨を売ってでも食わせていくのです。三代、四位基台、全体です。親ができなければ、子供たちも血を流しながら、その国の同情の峠を越えていって、万民がその前にひざまずいて痛哭するような民族となることによって、神の国に、国として帰ることができるのです。それはメシヤの使命です。皆さん、先生のために祈祷したりして涙をたくさん流すでしょう。 十字架の上でも楽しんで越える 子供をはらむときには、生殖器を結晶させるには、凹凸を一つにさせなければならないのです。間違いありますか、ないですか。(「ないです」)。真剣に答えてください。でたらめではないのです。神もそれを待っていたのです。歴史の恨みを抱えながら、その一日の瞬間を待っておられた神様を、痛哭しながら迎えなければならないのです。徹底的に腰に刻んで帰って、伝統的な先祖の母とならしめたいのが先生の思い、先生の望みです。分かりましたか。 さあ、そうしてはらんだその子供は、今から天国の直系の道をたどっていくのです。家庭王権、国家王権、世界王権を相続しなければならないのです。天宙王権を相続して、宇宙祝福を相続するには、家庭で相続しても、国家と世界、天宙が残っています。家庭で相続したい思いがしたら、それでおしまいです。家庭第一主義を唱える者は、天国の最後の相続です。宇宙相続は不可能です。不可能になった場合は、それで霊界に行ってとどまってしまうのです。永遠の望みとして、それに向かって前進、前進をしなければなりません。 それは、圧力をかけても強制的にでもなしていかなければならないのです。何万年、引っかかるというのです。それを知った以上には、地上で圧縮して、千年の歴史を、十か月、一か月でもまとめてなしていかなければなりません。そういう道を行くには、十字架の上でも楽しんで越えていきたいという思いをしなければならないのです。それが、蕩減復帰の道です。先生はそういう思いで、四千年の歴史を四十年に縮小してやってきたのです。ただでなされません。 そういう場合には、その子供はどういうふうにして発展していくのでしょうか。その王権の公式行動路程を通過するのですか。数千年の自分というのは、数千年の先祖の血統をつないでもらったと感謝しなければなりません。死なないで、こういう男として生まれているのですから、ここに根をもたなければなりません。 初愛のときにはらんだときの子供は、何をして大きくなるのですか。母の体、母の骨肉を完全に吸い取って成長するのです。精子は分子です。顕微鏡でしか見えないのです。だから、完全にお母さんの体の延長です。自分というものがないのです。 そこから出発して、どこにいって、天宙の神様の、真の親の相続を受けるのでしょうか。家庭で受けたらぺちゃんこです。家庭を越えて、国を越えて、世界を越えて、霊界まで行って創造した主人たる、アルファの親父と同じように、オメガの親父に立って、相対理想の国を治めるような権限をなしてあまりあるような者になって初めて、神の子供らしいと、神が認めるのです。抱擁するのです。 そういうことによって抱擁され、任命されて、認められて、そして相続するのです。相続は地上ではありません。先生もそれに向かって今、精誠を尽くしているのです。そこまでいかなければならないのです。どんなことをしても、そこまでいかなければならないのです。 だから、天から出発して、天に帰って、アルファ、オメガです。勝利の理想的相続というのは、神の前に来て相続するのです。国家、王様、親の前ではないのです。分かりましたか。国の王様ではないのです。世界の王様ではないのです。それを越えて、天宙の王様の前に立って、神の愛の相対実体者として、神が認めて愛された後に、すべての権限を相続するのです。それで、無限解放、全権、絶対解放圏に立つというのです。 死んででもそこを通過しなければならない。何億年かかるか分かりません。だから、地上で結んだものは地上で解かなければならないのです。地上でなせば、天国でなせるのです。地上でもって堕落しているのだから、地上でもって堕落圏を天宙の根底まで通じるようにして、完成圏を通過しなければならないのです。堕落しなかったならば、霊界までそのまま上がって公式的に発展していくのです。分かりましたか。 御旨に乗った場合には、エレベーターのように自動的に上がるようになっているのです。堕落したのだから、みんな故障して、階段もみんな、目もみんな取れてしまっているのです。カインはジャンピングしなければなりません。冒険者にならなければ、それをつなぐ道はないのです。 子供は母の体の分身延長体 子供というのはどういうふうに大きくなるのですか。お母さんの体を一〇〇パーセント吸い込んで伝授してもらって、子供は大きくなるのです。だから、その子供はお母様の体の延長、分身です。腹の中で、お母さんの肉と血と骨と骨髄を吸い込んで大きくなるのです。だから、子供は、お母さんを自分の主体として永遠に一つにならなければならないという考えを、越えることはできないのです。 だから、お母さん、難しくてもお母さん。そうでしょう。それによって大きくなったのですから、夜も昼もお母さんを思うし、故郷のことを思うのです。故郷はお母さんと共に、お母さんの環境そのものです。もとの主体圏を忘れれば、それは三大圏の根拠を無視するものだから、相対圏の三代としても、それは主体がないようなもので、悲しくなるのです。 これはお母さんの体の延長です。お母さんに、孝行娘にならなければならないという公式のレッテルが、全身に張ってあるのを忘れてはならないのです。お母さんが手を切っても、お母さんの体を切るのだから、感謝しなければなりません。そういう思いをもって孝行娘になるという考えをしたことがありますか。お母さんを利用する女、お父さんを利用する女、そうでしょう。生まれてそんなことをやってきたのですね。原理公式に違反するのです。自分を主張するものは何一つありません。 自分はあるのですか。お母さんのもの、お父さんのものの延長です。お母さん、お父さんが公認する以上は、自分を主張する者は三大権限を放棄しなければならないという原則になっているのです。こういう教育をされた場合には、父母の前に従順なる羊のようにならなければなりません。祭物です。間違っても反発はしないのです。従順な姿です。イサクは祭物として、そういうふうにして親が包丁で命をとそうとしても反論しなかったのです。 天来の祝福を相続する、それは烈女の勝利の中核になったというのです。そうでしょう。自分のものはないのです。母の前で、母よりきれいな立派な服を着たら恥ずかしいと感じることを知らない娘、男は罪人です。それは放蕩息子です。自分のもの、何がありますか。一つもありません! 子供のときには母の骨肉、血と骨髄を吸い込んで、パイプでそのまま相続してもらったのですから、自分というものがないのです。誇るものは何一つないのです。誇るのだったら、お母さんと共に誇らなければなりません。 男も同じです。自分のものは何もないのです。見せてください。先生が認めるような、納得させるようなものがありますか。一つもありません。 だから、父母は、国につながらせてやらなければならないのです。国をつながらせるのに、放蕩息子を国に誇るような男、女につくらなければ大変です。その国は破壊されます、滅亡していくのです。神の国まで上がっていかなければ天地理想の相続は不可能なのだから、どんなに難しいことでも先祖、母の血統のはしごを逆に上がっていかなければならないのです。それは、上がる者が自分を誇ったりしたら落ちてしまうのです。母の指示によって、一歩一歩前進していかない者は、みんな落第生になります。分かりましたか。 絶対的に、子供は母の体をみんな吸い込んで、母の分身延長体であるということを確認し、分からなければなりません。自分がないのです。 そういうふうにして生まれた場合には、三年間は母の乳を飲まなければなりません。六か月の三倍、一年半はそういうふうにして、三年間は食べさせながら、養育しなければならないのです。養育するには、どこでするのですか。母の膝の上で、胸に抱擁されるのです。膝の上で育てなければなりません。 そのときは、母は働けません。大きくなった子供を喜んで、一体となって、二つが一つになって、誰の骨肉を吸い取るかというと、父の骨肉を吸い取るのです。同じ法則です。父の生命体が入っているから、父の責任分担が残っているのです。母の分担をなした上には、母と子供が大きくなるには、その平等圏に立つには、父は種とともに、これを大きくしてやらなければなりません。だから、母と子供を養育するためには、自分の汗、血、肉、骨、骨髄を投入しなければならないのです。 子供とお母さんは一列になって、父の血肉を吸い込んで大きくならなければなりません。それで一つになって、平等に立つのです。お母さんとお祖母さんが平等に立った場合には、これが三つが一つになったら、どこに行かなければなりませんか。国の母の懐に帰っていくのです。国の王様の王権は、国の父母の立場に立つのです。分かりましたか。 自分という存在を主張したら落ちる 日本には自分の土地もあるのです。家庭というものは国を中心として、国の土地と国の宮殿の王様と王族の家庭、母と子供と一体となるのです。全体の王族、全体の王様、平面的に立つ家庭は、全体の家庭を養育するように、母の立場で、すべてを自分の骨肉を投入するような王族、家庭にならなければならないのです。そういうふうに一体になった場合には、自分のお父さんと母と子供たちが一つになります。一つになって、王様によって、これは王様の骨肉を吸い取って大きくならなければならないのです。それは第二段階の国家家庭圏です。 国家家庭圏、それが世界家庭圏としてつながるのです。本当は堕落しなかったならば、国家家庭圏で世界を越えて、世界家庭圏になるべきなのに、長成完成基準において堕落したのだから、サタン世界の長成完成基準の国家基準がある、そういう国家が世界的に拡大したから、それをまとめたら、世界基準を中心としてメシヤが来るのです。世界の父母として来られるのです。 そうなったら、国家、王様と一つになった家庭の統一された全部が、国家で吸い取って養育されたのと同じように、国家メシヤの家庭の直系の母と子供たちは、世界すべての家庭をつなげなければなりません。それが一つになって、世界王様の体を吸い取ってくるのです。 外的な土地とかみんなその王様の所有ですね。そうでしょう。金も王様のものです。全体を、王様の骨肉を吸い取って、国家的メシヤ圏が一つになるのです。一つになって、天宙的国家の父さんのところに帰っていって、天宙的な王権を中心として、王様と家族を中心として、同じ公式で一体になるのです。 一体になって、王権の母のところでみんな吸い取るのです。国家の土地とか、そういうような土地自体が第二の母です。吸い取って、それが一つになった場合には、王様の骨肉です。天の神様、実体の骨肉を吸い取って完成体になるのです。公式は同じです。 だから、そこへ行くまでには、自分の家庭もなければ、自分の国もない、そうなるのです。自分の国でとどまろうとした場合には、天に天宙国家王権をつなぐことはできません。 自分に、何も主張するものはありません。国民として全体の国の恵沢を受けて、それが保たれていくのです。だから、国が主張するものは何もありません。自分のものは、何も関係したものはないのです。家庭の上で国、国の上に世界、世界より天宙という関係で拡大をする基準、はしごがあって、そこで最後に、永遠の父母である神様の血肉を完全に吸い取って、それを実体化するのです。だから、それは一つにならなければならないのです。そういう一体化が、神の実体の愛の相対にふさわしい、愛せる子女に間違いないというのです。 神は自分の全体を相続することによって、そこで初めて神の権限を送って、神のものになるのです。だから、家庭を率いて、国の母を治めて、国の王様は国を引っ張って、世界の王様のものになるのです。世界の王権を引っ張って、天宙の王様の家庭と一体となるような道を立てていくまでは、自分という存在を主張したら落ちてしまうのです。自分はないのです。 だから、お父様を中心として血統を受け継いで、こういう落ちたものが、お父様の血統を何代か訪ねてきました。天宙から世界、世界から国家、国家から家庭まで来たのが、そのはしごを中心として、お父様を中心としての王権です。お父さんの橋を逆に戻っていかなければ、帰る道はありません。お母さんの橋はないのです。 天から種として来たものが、種を中心として、お父さんのはしごを戻っていくのです。王権です。お父さんの骨肉を受けないというと、直系の神の王権へ帰る道はありません。王様もお父さんです。世界の王様は、世界のお父さんです。天宙の神もお父様です。それは、お父さん、血統のはしごを降りてきたのだから、帰っていかなければならないのです。 帰る道は女を通して、女と共に子供を抱えて、お父さんによって上がるのです。だから、女は天に向かって、横転しながら呪うこともできなければ、地に向かって呪うこともできないのです。自分の使命を果たせない以上は、子供と一体となって、お父さんと一体となる、そういうことに感謝しながら奉仕することによって、父から喜びの伝授がされるのです。 そういうような立場に立ったのが母だから、母と子供は、お父さんの王権の柱を四段階越えなければ、神の王権に帰ることはできません。男を無視するものは、永遠の堕落に至るのです。 やっと真の父母権を相続する真の子女として子供をはらむような、本然の地に立った女としては、男を絶対としてつないでいかなければ、再び悲惨な歴史に残るのです。こういう公式的理想天国をつくる内容の道を知らなければ帰ることができないから、今先生が教えてあげるのです。 為に生きる公式基準はどこでも公式となる そこまで行くには、女として着飾ることは恥ずかしいことです。親は汚い着物を着て、自分は豊富な着物を喜んでいるなんて、こういう原則を知らないからそんなことが起こるのです。徹底してこのような公式理想の内容を通過しなければなりません。宿命を懸けた使命です。人生の功労を保つような生涯を残していかなければなりません。今から行かなければならない家庭構想の基盤です。 これを行った場合には、独裁者がいないのです。王様が自分自身を考えることはないのです。一千万の家庭で貧乏な家庭があった場合、自分が家があり財産があった場合は、親子と同じように使っていかなければ、国家の基準を治めることができません。国家、王はあらゆる家庭基準の家庭を治めることができなければ、世界中すべての国を治めることはできないのです。神様から世界を超えて、すべての世界権を治める道は永遠にありません。為に生きる公式基準は、どこでも公式になっているのです。 子供は親のために生まれてきます。母と子供は父のために生まれてきます。父と一つとなるために生まれてくるのです。だから、一つになるためには、父が主体だから、補給して、無限に投入して忘れるような立場に立たないと、真の母になり、父になりません。子供に投入して、それをはらんだ場合には、お母さんは喜びながら待つのです。父母と共に腹を捧げながら喜ぶでしょう。生まれた場合には、子と共に二重の愛を抱えて自分の骨肉を投入しながら喜ぶような、母、父にならなければなりません。 だから、独裁者、酒飲みの親父は、あるべきものがないのです。子供をだましておいて、自分は安楽の道を行くような、そういう親は天国にはいないのです。親に反発するような子供はいないのです。だから、従順に永遠に公式に従って、永遠の相続の目標に直行するような家庭は、神がどこでも守られ、受け入れられるのです。 生殖器を合わせる理想の家庭が横的に拡大していくのです。それがもっと大きくなったら王権の基準になるし、もっと大きくなったら世界基準につながるといった、道はどこでもつながるのです。どこでとどまりたいですか。日本の国でとどまりたい? 世界でとどまりたい? 天宙でとどまりたい? (「天宙です」)。 四代、四列の母の血統を受け、四列の父の血統を母と共に受けていかなければ、それ以上の世界に上がるはしごがなくなってしまいます。永遠解放の理想圏に到達するのは、永遠に難しくなります。千万人の列を重ねても、その道を開拓するために霊界へ行って、苦労、苦労することを思えば、地上は瞬間、瞬間です。 先生も華々しい青春時代から壮年、老年になっていくまで、修行してこういうことをやるのです。自分のためにプラスするような思いはしません。だから、日本のすべてを捨てても先生に引かれていきたいのです。先生を慕うような本心が、行く道をふさがないで開くのです。明日を待つなというのです。きょうで結末をつけなさい。きょう新しいものを加えていくところに、神様は離れないで守ってくれるのです。 先生も同じです。きみたちはプラスさせて生涯を終えて、もしも何の功労もなくして死んでいったとしても、その功績はなくなりません。自分の財産として、霊界で保管しておくのです。世の中で、涙を流しながら実際に功労をなして、その後孫によって、立派なものがなった場合には、立派なものを中心として、昔の親子関係、心情圏に比べ、素晴らしい恵沢を後孫に譲ってもらうことができます。親が後孫に残していくのが、親の行くべき道です。国に残していくのが、親の道であるのです。先生はそれを考えているのです。 金があった場合には、自分のために使うことはしません。だから、いつもお母さんに言うのです。「この献金というものは、毒薬よりも恐ろしい。手をつけるな! 祈祷をしながら精誠を込めて、悲惨な血を流すような苦しみの峠を越えて、献金をまとめた場合は、その心情を育んだ涙を汲みながら、母として引っ張り上げる同情の心をもって使うならばかなうのだが、それ以下だったら引っかかる。何十倍の蕩減をしなければならない」と。だから、霊的指導者の子供の血はよくないのです。 霊界の永遠の期間において、そこには食べ物とか自分の着る物とかをつくる工場がないのです。本工場、自動車工場、自転車工場、何工場もありません。自分の愛の感覚でもって、すべてが完成可能な世界です。愛する心情が平面的に一致した場合は、願うものがすぐ現れてくるのです。その相対から願われたら、相対の願いが、即時に発給する世界です。 こういうことを知った場合には、地上に生きていたくないのです。しかし、地上に蕩減復帰の公式があるから、先生もこういうことを続けてやるのです。 統一教会は、日本のメンバーも世界的に派遣して訓練させなければなりません。訓練させた舞台において、子供を生んだそのものを母として慕って、父として慕っていくような、それから、メシヤを慕っていくような、立派なものを生み出させる、こういうことをせざるを得ません。日本ばかりの考えは駄目です。 天国の家庭から、世界の家庭から、国家の家庭から、母の腹中まで入るのです。同じ公式です。胎中で母と一体になって、お父様のはしごをこういうふうにして上がっていくのです。母は横的な畑、種を受ける畑であって、伝統的な子供の伝統の内容を包容する何ものももっていません。女はこの時代によって、これを中心として回るだけ、引き継ぐだけであって、それ以外何もありません。お父様の骨肉を中心として、生命の種をつなぐのです。 だから、子供の主人は女ではありません。離婚しても女は、子供を管理する権限がないのです。だから、お父さんと絶対に一体にならなければ、共に上がる道は永遠にありません。共に一体になってすべての環境を通過することによって、垂直な強いはしごがつくられるのです。 だから、お父さんを尊重する家庭は、愛国家庭、愛国家庭は聖人の家庭、聖人の家庭は聖子の家庭、聖子の家庭は神の家庭につながるのです。同じ原則です。女性たちはこの鉄則を胸に秘めて、今から日本発展の伝統的原料と資料を残さなければなりません。これを教えておきます。今までこんなことを教えていません。 絶対信仰でお父様と一つになる 統一教会は神のめんつを立てなければいけないのです。十六万人の教育、献金を中心としていっぺんにやった場合、みんな救うのです。救ってあまりあるのです。責任を果たすのでなければ、結果を出すことはできません。放棄しなければなりません。 そうなった場合には、日本の国が引っかかってくるのです。摂理の目的に収まらないその国は消えていくのです。日本と共に国を治めなかったら、世界に行って国家メシヤとして、世界に押し出して復帰してこなければならないのです。蕩減復帰だからです。国家をまとめて、一国でやった場合は簡単なのに、世界に散らばって世界を治めてくるのは大変です。解放するのは大変です。 だから、十六万の一万六千人を先頭中心として、血と汗を流すことです。それは先進国家、第二次大戦の六か国につながったものを、韓国を中心として一つになった場合には、エバ、新婦世界が帰ってくることができるのです。新婦世界を延長させて流してしまったエバの国だから、それを世界によって新婦圏を復帰してこなければならないのです。新婦たちをみんな蕩減の祭物として、犠牲の立場でもって、その国から今の大統領と前大統領、カイン・アベル二つを治めて、これを一つにして、母を通して帰ってくるのです。原理の反対の法則を適用して、それを国家で、世界国家を拡大して蕩減していかなければならないのです。 再臨の主は、家庭の王様、国の王様、世界の王様、天宙の王様です。そういう条件を完成させたのですから、再臨主のしっぽを通じて家庭のお父さんのはしごも越えることができれば、国のはしごも越えることができるし、世界のはしごも越えることもできるし、天宙のはしごも越えることができるのです。 だから、神様の命令した絶対信仰の上で、創造した理想のすべてが完成されるのです。真のお父様が絶対信仰で、絶対愛、絶対服従の家庭を完成されて、アダム家庭の崩壊を越えた勝利圏をなし得たというのです。絶対信仰です。先生のしっぽを一度見た場合に、絶対的信仰でもって放しては駄目です。絶対愛の相対、いかなる命令をしたとしても、お父さんの立場で、娘に、子供に命令するのですから、殺すような命令はしません。各自の資格を満たすために命令するのであって、お父さんが求めるものがあるのではないのです。お父さんが投入しないといけないというのです。 その原則から見た場合は、原則に一致しないと真の親になりません。こういう伝統的な教育を、絶対的真の父母を、なぜ必要とするのでしょうか。このはしごを一代で越えることができるためです。これはアダム、一代で権限を相続する基盤をなくしたのだから、総合的な勝利の公式的基盤を完成させた真の父母によって、真の父母と絶対に一体になった場合には、その公式を凌駕するのは問題ありません。 その真の父母と同じように、自分の先祖に対して、同じ伝統的精神を後孫に残した場合には、はしごを上がっていった真の父母によって、自分も後孫も、間違いなく絶対一つになってついて上がることができるのです。高速道路はもうすでにつくられています。ここには独裁者がいません。搾取者がいません。そういう思いをする者はみんな脱落することになるということを知って、そういう立場に立たないように各自が注意すべきです。 そういうふうに間違いなく決意したという者は、手を挙げてみなさい。本当ですか。みんな決意した場合には、先生の教育はみんな終わりました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.18
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5.メシヤと真の父母日付:二〇〇四年一月二十七日場所:韓国、ソウル、新羅ホテル行事:「超宗教超国家平和協議会」創設記念および真の父母様御聖誕祝賀晩餐会世界各国からお越しの高名な指導者、尊敬する国内外の貴賓、そして紳士淑女の皆様。この場は、きょうで八十四回目を迎えた私と、韓鶴子総裁の誕生日を祝賀するために設けられた晩餐会場です。しかし、私たち夫婦は、今晩自分たちがお祝いを受けるよりも、ここに席を共にしてくださった霊界の聖賢たちと霊界の祝福家庭、そして「世界平和のための頂上会議」に参加された皆様にこの晩餐をもてなしたいと思います。 偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ人類皆様は、ここ数日間、「世界的危機に対する地球村次元の統治」というテーマのもとで、多くの討論と会議をされたことと思います。皆様の汗と情熱が結集され、日増しに危機へと向かう今日の世界に、新しい希望と夢を植えつける契機になると思います。もう一度、このように私たち夫婦の故郷韓国に来られ、大望の天一国四年を共に開いてくださったことに対して、深甚なる感謝をお捧げします。今晩私は、八十有余年の生涯をかけて、天のみ旨のみを伝えて生きてきた伝統に従い、「メシヤと真の父母」という題目の天のメッセージを伝えることによって、挨拶の言葉に代えさせていただこうと思います。人間は本来、神様の子女として創造され、神様の子女として成長し、神様から祝福結婚を受けた家庭となり、子孫万代、罪のない善の血統の子孫たちを繁殖させなければならない運命をもって生まれました。人類の始祖アダムとエバは、神様を縦的真の父母として侍り、真の父母であられる神様を軸として横的実体の真の父母にならなければなりませんでした。その世界は、メシヤという言葉が存在する必要のない世界になっていたでしょう。その家庭は、創造本然の理想家庭になっていたのであり、その世界は、神様の創造理想が完成した地上天国になっていたでしょう。そのような世界で暮らして肉身の生を終えれば、人間は誰もが自動的に天上天国に入籍し、永遠無窮に自由と平和と幸福の世界で暮らすようになっていたのです。しかし、不幸にも、人間始祖の堕落によって、人類は、抜け出すことのできない絶望の奈落に落ちてしまったのです。霊的五官を通して神様と直接通じながら暮らし、肉的五官を通して万物を自由自在に主管し、それと同時に霊界と肉界を代表した真の主人、真の父母、真の王にならなければならなかったのです。しかし、彼らは、堕落によって霊的五官が完全に麻痺してしまい、目は開いていても見えない、そのような立場に転落してしまいました。肉的五官にのみ頼って生きなければならない片側だけの人間になってしまったのです。父母である神様を見ることも、その声を聞くことも、感じることもできなくなったので、どうして父母の愛を知ることができ、その事情を知ることができるでしょうか。 メシヤは真の愛、真の生命、真の血統の実体本来、神様が占有する真の父母の位置に、サタンが押し入ってきて、偽りの父母の振る舞いをしながら人類を徹底的に拘束し、奴隷にしてしまったのです。したがって、今日私たちがもっている愛、生命、血統はすべて、サタンがアダムとエバに蒔いた偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだものにならざるを得ないのです。このように直系の子女として生まれた人類が、サタンの偽りの血統を受け、僕の僕の位置に転落してしまったという事実を御覧になった神様の苦痛は、どれほど大きかったでしょうか。しかし、原理原則の神様は、御自身の立てられた創造原理と創造理想を自ら破ることはできないので、数千、数万年の復帰摂理を通して、救世主メシヤを待ち続けてこられたのです。宗教によって、それぞれ異なる名前で呼ばれていますが、その名前が弥勒仏であろうと真人であろうと救世主であろうと、人類が必要とし、神様が求めてきた方は、真の父母であられるメシヤお一人だったのです。そうだとすれば、メシヤは誰であり、どのような人でしょうか。個人はもちろん、家庭、氏族、民族、国家、世界と天宙まで歩み、信仰と希望と愛の実体として立つことができる主人です。そのような方をメシヤとして侍ることができる時に、はじめて人類歴史上に残っている信仰が結実されるのであり、希望が結実されるのであり、愛も結実されるのです。その結実体には、人類歴史が息づいており、私たちの過去、現在、未来が連結されています。人間はもちろん、天とも連結されています。メシヤは、堕落によって父母を失い、天涯の孤児になってしまった人類のために来られた、実体の真の父母、真の主人、真の師、真の王になる方です。偽りの父母のもとで苦痛を受け、呻吟していた偽りの子女たちを、真の子女として取り戻して立てるために来られた真の愛、真の生命、真の血統の実体であられるのです。 ユダヤ人の不信によって真の父母になれなかったイエス様皆様。二千年前、天はイエス様をメシヤとしてこの地に送られました。父母を失った子女たちを再び抱き、天のみ前に復帰させるために来られた方が、正に真の父母であられるイエス様でした。アダムとエバは、堕落によって真の父母の位置を失ってしまい、真の夫婦にもなることができず、真の子女をもつことができなかったので、神様に三代圏の血統、すなわち孫と孫娘を抱かせてさしあげることができなかったのです。したがって、神様は、再び数千年間準備し、選民として立てたイスラエル民族を通して、救世主でありメシヤであるイエス様を送られたのです。歴史上、初めて一つの国の主権と国土と民を立て、その基盤の上に、全世界をサタンの偽りの血統から復帰させ、真の善の血統へと復帰するための闘いの総司令官として来られた方がイエス様だったのです。しかし、立てられたユダヤ教とイスラエル民族の不信によって、イエス様は、無念にも十字架によってその一生を終えてしまったのです。真の父母となって真の子女をもち、王の王として即位されなければならなかったメシヤが、神様の祝福を通じた真の夫婦の位置まで行けなかったことによって、真の父母になることができなかったことはもちろん、真の子女を繁殖することもできずに、十字架で亡くなってしまったのです。ヨハネの黙示録にある「小羊の婚宴」は、正にメシヤが新婦を迎えて真の夫婦になる儀式を意味するのです。その当時、もしイスラエルとユダヤ教がイエス様を敬い侍っていたならば、神様が望まれた創造本然の世界、すなわち平和の天国は、その時に既にイエス様の血族を通してこの地上に成し遂げられていたのです。このように、二番目のアダムとして来られたイエス様の真の父母の摂理は、選ばれた人たちの不信によって途中で挫折し、人類は、再び再臨のメシヤを待たなければならなくなってしまったのです。 真の父母の使命を受けたレバレンドムーン皆様。しかし、天は、真の父母の愛によって、かわいそうな人類に再び恩寵を施してくださいました。二千年間のキリスト教の歴史を通して、イエス様を中心とする霊的復帰摂理を展開してきた基台の上に、再臨のメシヤの顕現を祝福されたのです。再臨されるメシヤは、真の父母の使命を完成しなければならないという途方もない重荷を背負って来られます。その方は、何よりも先にサタン圏に勝利し、その次には、霊界圏までも勝利しなければならない使命をもってこられました。肉身の五官では感知できないサタン界と霊界圏を相手に、生死をかけた闘いに勝利し、最後には、悪魔サタンを屈服させることはもちろん、霊界の数多くの道主と教主までも屈服させなければならないのです。かといって、強制してできるものではありません。神様の人格と真の愛を中心として、宗教と宇宙の根本を明らかにし、彼らを納得させ、自然屈伏させるのです。このような途方もない真の父母の使命を受けてこの世界に現れた人が、正にこの場に立っているレバレンド・ムーンです。「真の父母」という単語は、世の中のいかなる百科事典にもありません。レバレンド・ムーンが作り上げた言葉でもなく、世の中の誰かがつけてくれる名前でもありません。神様が私たち夫婦に下さった天命であり、祝福なのです。真の父母の位置は、救世主、メシヤ、再臨主の総体的な使命を負わなければならない、歴史上空前絶後の責任をもつ位置です。したがって、いまだに堕落圏に属している人類には、真の父母に侍り、天のみ旨を成就するにおいて必要ないくつかの条件があります。第一に、蕩減革命を完成しなければなりません。すべてのものを捨てて真の父母に侍り、従っていかなければならないという意味です。友を捨て、師を捨て、さらに自分の父母までも捨てて、真の父母に従わなければなりません。総生畜献納の基準を立てた時にこそ、天は再び私たちに祝福と恩寵を許してくださるのです。サタン世界とのすベての因縁と関係を、少しの人情ももたずに無慈悲に除去し、完全に零点に戻って天地開闢の新しい出発をしなさいという意味です。第二に、良心革命を完成しなければなりません。すなわち、この世の中のいかなる主権や理念を前にしても、一点一画も加減することなく、神様が賦与してくださった本心の指向性に従い、真の愛、真の生命、真の血統の伝統を守りなさいという意味です。天のみ前でも、万物の前でも、一点の恥ずかしさもない「正午定着」的な生を生きなければならないということです。私たちの生が、一心、一体、一念、一核の境地に到達し、純潔、純血、純愛の「性」を永遠不変の伝統として安着させ、一和統一時代を花咲かせるとき、初めて良心革命は完成するのです。第三に、心情革命を完成しなければなりません。神様が訪ねてこられて、すべてのことを共に相談し、共に暮らしたいと思われる真の愛の世界を完成しなければならないのです。言い換えれば、心情革命は真の愛革命です。「ために存在する」という万古不変の真の愛の実践を意味するのです。私たちが他のために生きることを考えてみてください。真の愛の根源であられる神様が、正に私たちの中にお住まいになり、私たちのために生きられるようになるのです。私たちにとって、これ以上の喜びと栄光がどこにあるでしょうか。心情革命が完成したところでは、家庭破綻、人種間の紛糾、国境紛争、そして宗教的摩擦のようなサタン世界の残滓は、見いだすことができなくなるのです。永遠の平和王国が建てられるというのです。 蕩減、良心、心情革命によって天のみ旨を成就しよう尊敬する貴賓の皆様。私たち夫婦は、平和世界をこの地上に創建しなければならないという天命を完遂するために、去る一九九六年、統一教会の看板を下ろし、「世界平和統一家庭連合」として新しい出発をしました。天のみ旨は、真の家庭を根本とする人類平和にあるのであって、ある特定の教会や宗教の定着にあるのではないからです。私たちは、過去数十年間、超宗教超国家的次元で多くの活動をしてきました。そのような土台の上に、二〇〇三年十月三日には、アメリカのニューヨークにおいて「平和国連」を創設し、世界平和の具現に向かって力強く飛躍し始めました。世界の至る所で、レバレンド・ムーンの宣布に従い、教会の十字架を外す運動が燎原の火のように広がっています。数千人の聖職者たちが、中東紛争の震源地エルサレムに雲霞のごとく集まり、超宗教超国家的次元の平和大行進を行っています。二〇〇三年十二月二十二日には、大勢のユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの聖職者が、手に手を取って平和を謳歌し、イエス様を王の王として推戴する戴冠式を執り行いました。二万人以上が結集するエルサレムの独立公園において起きた奇跡です。イエス様の恨が解かれる日であり、真の父母様の勝利が天上天下に宣布される日でした。皆様。私たち夫婦に賦与された真の父母の使命が天命だとすれば、今から私たちと手をつなぎ、この地球村に平和の天国を創建しなければならない皆様の使命もまた天命なのです。今や、天の時が訪れました。燃える希望を心の中に抱いてお帰りになり、皆様各自がメシヤとして、また真の父母として世界平和を具現する働き手となられることをお祈りいたします。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.08
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宇宙の根本を探して1996年8月1日米国・ワシントンDC ワシントン・シェラトンホテルにおいて開催された「世界平和家庭連合」創設会議の閉会晩餐会において、講演された講演文の全文です。 尊敬するご来賓の皆様、そして紳士淑女の皆様! 冷戦の終息とともに、平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に地球全体に拡大しています。新しい世界的な現実を無視したり、直視することのできない指導者たちは、津波のように押し寄せる変化に押し流されてしまうことでしょう。 今、私たちは新しい世紀への入り口に立ち、伝統的な思考方式を再検討し、新しい機会と価値観を受け入れるために、果敢に進んでいくべき時であると信じます。そのような意味で、私はきょう、生涯をかけて主唱してきた「世界平和の実現と真の家庭の価値」についてお話をすることができますことを大変な光栄に存じます。 この世界には、男性と女性という二性が暮らしています。ところでこの両性は、互いにその立場を変えることはできません。皆様は、自らが願って男性、あるいは女性として生まれたのですか。それとも、願わないのにそのように生まれたのですか。私たちは、自分では考えもせず、願いもせず、そして原因はもちろん、結果や過程も知らないまま、そのように生まれたのです。 人間がいくら偉大な存在であるといっても、それが原因的な存在ではなく、結果的な存在であるということを否定することができません。したがって、第一原因である存在がなければならないのです。すると、その第一原因とはだれでしょうか。男性でしょうか、女性でしょうか。その第一原因的な存在を神様と呼んでも、あるいはどのような名前で呼んでも構いませんが、その原因的な存在がなければならないのです。 今宵、ここには世界的に著名なかたがたが集まっておられます。皆様は「神様はどこにいるのか。見せてくれれば、私は信じよう!」とおっしゃるかもしれませんが、少なくとも、その原因的な存在がなければならないことを否定すべきではないということに、前もって注意を喚起するものです。 きょう、私は「宇宙の根本を探して」というテーマでお話ししいたします。私たちが、宇宙の根本を探し求めていけば神様に帰着しますが、そのおかたが、男性格と女性格の二つの性稟を所有しておられるということを理解しなければなりません。宇宙の出発の原因は、どのようになっているのでしょうか。神様に対しては、いまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、そして主体と対象からなっています。鉱物界の分子を見れば、陽イオンと陰イオンから構成されており、植物界は雄しべと雌しべから、動物界は雄と雌から、そして人間は男性と女性から成っているということが分かります。 存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界であっても、より次元が高い陽性と陰性が、より次元の低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展しているということを知ることができます。なぜ、このような現象が生じるのでしょうか。このすべての存在世界には、万物の霊長である人間を完成させるべき責任があるからです。鉱物界を見ても陽性と陰性、すなわち主体と対象が、愛という概念のもとに互いに一体となって存在しています。同様に、植物界もすべて雄しべと雌しべとがあり、主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続しているのです。最近、医学会では病原菌にまでも陽性と陰性があると言っています。 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるためには、何を中心として一つになるのでしょうか、キスすることによってでしょうか。愛は、概念であると同時に実在です。それでは、その愛が定着することのできる実在とは何でしょうか。ここには、各界の指導者のかたがた、フォード元大統領、ブッシュ前大統領等、名士のかたがたが集っていらっしゃいますが、自信があれば答えてみてください。皆様がご存じでないことがあると言うことです。男性が男性になり、女性が女性になるようにしているものが何であるかということを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器なのです。それが嫌いな人はいますか。好きであるとすれば、どれくらい好きですか。今までは、それが善くないものであると考えていたとしても、これからは好ましく思わなければなりません。 未来の世界は、どのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に好ましく思う世界になるなら、その世界は善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談で言っているのではありません。神様が人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めてつくられた所はどこでしょうか。目ですか、鼻ですか。心臓でしょうか。それとも頭脳でしょうか。これらのものはすべて、死んでなくなってしまうのです。事実、そうなのではないでしょうか。 世界平和のための家庭連合の目的は何でしょうか。道徳と宗教等、すべての分野を完全に超越し、夫婦が完全に一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるとするなら、それはどのような世界になるでしょうか。男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人はだれなのでしょうか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻の生殖器の主人は夫なのです。今日まで、人類は生殖器の主人が互いに取り替えられているということを知りませんでした。簡潔な真理です。これを否定することはできないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れたとしても、この真理は変わりません。 すべての男性は、それが自分のものであると考え、またすべての女性も、それが自分たちの所有であると考えているために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いに主人を間違って考えているということです。人はすべて、愛は絶対的であり、永遠なるものであると言いながら、それを夢のようにかなわないものであるとばかり考えています。しかし、その永遠の愛の主人が取り替えられているということをはっきりと知るなら、世の中はこのような状態にはならなかったはずです。博士や学者は数多くいますが、このたった一つのことを考えついた人がいないというのです。 皆様は、このことを否定することができますか。皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるおかた、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねたとしても、すべて同意するようになっているのです。これは鉄則です。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎたとしても原理原則として残るがゆえに鉄則なのです。そしてこの鉄則ゆえに、神様のみ前に立ったときに正しい人と間違った人の判定を受けるようになるということは当然なことなのです。 そのように考えれば、旧約聖書に出てくるアダムとエバの堕落も、正にこの鉄則に背いたところに由来していることが分かるのです。アダムやエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有であると錯覚したのです。考えてみてください。神様が善悪を知る木の果を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出すでしょうか。神様は、そのようないいかげんな神様ではありません。アダムとエバは、根本的な問題において過ちを犯して、宇宙のどこからも公認を受けることができなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や、植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバは分からなかったというのです。 それでは、生殖器は何のために存在するのでしょうか。それは、愛のためです。愛を探し求めていくために、そのように雌雄として生まれたということです。神様の属性は何でしょうか。神様は絶対的であり、唯一、永遠不変であられるおかたです。そうであるならば、愛の主人はだれでしょうか。男性でもなく、女性でもありません。そのおかたが、正に神様であられます。愛と中心として、愛を通してのみ神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。神様が必要とする愛とは、果たしてどのような愛でしょうか。それは、絶対的愛を願われるのです。皆様はどうですか。私たちも同じです。神様が絶対的愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠なる愛を必要とするのです。皆、神様に似るべきなのです。 神様ご自身が、男性格と女性格、陽性と陰性を持っておられるかたなので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。このように結婚を通して、縦的な神様の愛が横的に完全統一されるように追求したものが、神様のみ旨であったのです。 人間の体は、この地を代表した横的なものです。それがすなわち、肉身です。それとは反対に、良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを探し求めるのです。したがって人間は、神様の縦的な基準と一つになることのできる点を探し求めていくべきです。その点は中心点でなければならず、正にこの点で男性と女性が共に出会うべきなのです。そうして、この中心点から生まれた人間は、愛とともに幼児期の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。このとき、肉身を地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟して、最後に体と心が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのような場所であるからこそ、絶対的な愛を中心として絶対的存在である神様も喜ばれ、その愛の対象対である夫婦も幸福になるのです。 このように、上下の関係である父子の関係、東西の関係である夫婦関係、前後の関係である兄弟姉妹関係が一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造るようになります。このようなことから、東洋では父子の関係のことを「一つの体」と言います。さらには夫婦関係も一体であり、兄弟姉妹も一体であると考えています。何を中心として、これらすべての関係が四方に球形を造るとき、これらすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形を造るべきなのです。その点は一つです!一つであるので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係にあるので、一つにならなければならないのです。それは真の愛を中心としてです。 尊敬する指導者の皆様! 人間の欲望とは、どれほど高いものを願うことでしょうか。皆様の心の欲望は、神様よりも高くなることさえ願うのです。いくらだめな人間であったとしても、神様よりも優れた世界の代表者になろうという欲望は持つことができるのです。もし、皆様が神様の愛する息子であるのなら、「お父様、お越しください!」と言うとき、神様は来られないでしょうか。皆様の妻がいくらだめな妻であるとしても、本当に愛しているなら、妻が呼ぶとき、夫はついていくのです。このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄が呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄がついていき、皆が絶対に離れたがらなくなるのです。 神様も独りでおられた場合、寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか。どうして分かりますか。紳士淑女の皆様、愛を持っていますか。生命を持っていますか。皆様の血統をつなぐことのできる精子と卵子、皆持っていますね? 良心も持っていますか。それならば、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見たことがありますか。触ってみたことがありますか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないということを知らなければなりません。ただ、心で感じることによってのみ知ることができるのです。同じ論理で、神様がいるのか、いないのかというとき、または神様を見たのか、見なかったのかと問うとき、見なかったとは言うことはできないのです。 何が重要なのでしょうか。見えるものですか、見えないものですか。見えないものが、より貴いということを知らなければなりません。お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。皆、持っているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。それは、一つになっているからです。心と体が絶対的にバランスを保っていれば、感じることができないのです。 皆様は、自分の目が瞬きするのを感じながら暮らしていますか。三時間も数え続けてみてください。また、息をするのを数えながら暮らしていますか。右手を左側の胸の上に当ててみてください。どのような音がしますか。鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。皆様は、その鼓動の音を一日に何度くらい聞いていますか。聴診器で聞いてみると、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは1週間、一か月……。忙しいときは、何か月間もそれを感じないで暮らしているのです。考えてみてください! 小さな蠅が一匹頭の上にとまっただけでもすぐに感じる私たちが、何百倍も大きな鼓動の音を聞いても、なぜ感じることができないのかというのです。それは、一つになっているからなのです。 格式あるこの檀上から、このような話をすれば失礼だと思われるかもしれませんが、実感のわく話なので、一つの例を挙げてみましょう。皆様も毎日、朝起きてトイレに行かれることでしょう。大便をするとき、マスクをして用を足されますか。笑いごとではなく、まじめな話です! もし、ほかの人がそばで用を足して、そのようなにおいを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずですが、なぜ自分の大便のにおいは、そのまま嗅いで、平気で座っていられるのでしょうか。それは、自分の体と一つになっているので、自分の大便は汚く感じないのです。 皆様、幼いとき、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか。その味は甘かったですか、しょっぱかったですか。しょっぱいですって? その味を知っているところを見ると、皆、経験者ですね! なぜ、その鼻くそを汚く感じなかったのでしょうか。それは、それが正に私たちの体の一部分だったからなのです。世の中のだれも分からなかったことをレバレンド・ムーンが初めて発見したのです。皆様、咳をして痰が出れば、ごくっと飲み込んだりもするでしょう? ここに列席なさった大統領の皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。取り澄ましていないで率直に答えてみてください。なぜ、汚く感じないのでしょうか。それは、皆、一つになっているからなのです。 私たちは皆、朝、昼、晩と、毎日三食ずつ食べていますが、実は、私たちの口から三〇センチほど下りれば、そこには肥料工場があるのです。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。ワァー! そのことを知ったあとでも、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、そのことを感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられないのでしょうか。それは、一つになっているからです。愛、生命、血統、良心があっても、一つになっていて完全にバランスがとれていれば、感じることはできないのです。 私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、すべて持っておられるのですが、独りではそれを感じることはできないのです。完全にバランスがとれているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここに見いだすことができるのです。男性でも女性でも、独りのときは愛を感じることはできませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときには、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃をもたらして問題を引き起こすということを知らなければなりません。ですから、しっかりと気をつけなければなりません。このような真理を知らずに生きてきたのです。神様も絶対的に愛の相対が必要であるという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。 それならば、神様の愛の相対とはだれなのでしょうか。猿でしょうか。人間が結果的存在であるとするならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるのでしょうか。そんな夢のような話は、到底聞くに堪えません。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでには、数千段階の愛の門を通過しなければならないのです。ただ無条件に上がっていきますか。とんでもないことです。すべての動物においても皆、同様です。種の区別は厳格です。だれも占領することはできないのです。 唯物論を信奉する共産主義者たちが、猿が先祖であると信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が生まれてくると思いますか。百年、千年続けたとしても徒労に終わります。なぜ、できないのでしょうか。これは、考えてみるべき問題です。 それならば、神様も何を必要とされるのでしょうか。何かの器官をさらに必要とされるのでしょうか。それは、目でしょうか、手でしょうか。必要とされるのは、私たちが考える五官ではありません。神様は、男性格と女性格という二つの性稟を共に所有しておられますが、父として存在されるためには、男性各主体として存在されるかたなのです。 このような基準から見るとき、神様も愛のパートナーが必要なのではないでしょうか。被造世界のだれが、果たして神様の愛のパートナーになるのでしょうか。男性独りででしょうか。女性独りだけでパートナーになれますか。神様はどんなパートナーを願われるでしょうか。お金のパートナーですか。知識のパートナーですか。権力のパートナーですか。違います! 神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになる、その位置を中心として顕現され、人間と出会われるのです。 その位置が、どうして神様を中心として一つになる位置なのでしょうか。愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所が、正にその位置であるからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性格である陽性と女性の性格である陰性が合わさって、大きく陽性的立場で、大きな陰性と合わさって一つになるのです。それが、いつそのようになるかということが問題なのです。 結婚とは何でしょうか。なぜ結婚が重要なのでしょうか。それは、結婚は、愛を探し求めていく道であるからです。愛する道、生命を創造する道であり、男性と女性の生命が一体となる道であり、男性と女性の血統が混ざる所なのです。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ個人もなく、国もなく、理想世界もありません。このことが公式になっているのです。男性と女性は、絶対的に一つにならなければならず、父母と子供たちは、絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様と共に生きた後に死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国なのです。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような人類が理想とする人がいないので、神様が理想とされる天国は、空いているのです。今まで亡くなった人類はすべて、地獄に落ちているのです。天国に入れなかったということです。 このような観点から見るとき、イエス様も人類を救うための救世主として来られたのですが、昇天された後、天国には行けず、楽園に行っておられるということを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨されることを願われたのです。イエス様も、結婚して家庭を築き、その家庭とともに神様に侍って暮らしてから、共に天国に入ることができるのであって、独りでは天国に入ることができないのです。ですから、聖書にも「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなた方が地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八:18)と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければならないのです。 今日、人類は堕落した後孫となって、堕落圏下に陥っているので、この圏を突破して上がらない限りは、天国に入ることはできないのです。堕落圏内にいる人間は、いかなる困難があっても、その圏を打ち破らなければならないのです。それゆえに、イエス様も「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」(参照マタイ一〇:39)ということを言われたのです。この死の道を行くためには、全生命をかけて、突破して上がらなければならないのです。 皆様の家庭は、堕落圏内の家庭なのです。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されたのです。アダムとエバは、赤ん坊を生んだ後に追い出されたのでしょうか、追い出された後に赤ん坊を生んだのでしょうか。彼らは、追い出された後に、神様とは関係のない立場で子供を生んだのです。このようなことも知らずに、天国に行くことができるのでしょうか。とんでもないことです! 無知には理想はなく、完成もありません。目を覚ましてください! 私はこのように警告いたします。 レバレンド・ムーンの話が正しいのか、間違っているのか祈祷してみてください。私がこの道を探し求めるために、どれほどの受難の道を歩んできたか、だれも知りません。罪なく監獄に六度も入るほどの苦難に遭い、探し求めてきた道です。ところが、他人の大切な子供たちを連れていって、このような真理を教え、短時間で方向転換させるので、皆、洗脳したというのです。無神論者には、神の存在を詳しく、科学的に理論的な基盤をもって証明してあげるので、無神論は崩れていくのです。それとは反対に、キリスト教徒たちは、自分たちが信じている教理と違うといって、異端だと責め立てながら、私たちを打ち据えようと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端が正当なのです!反対になるということを知らなければなりません。 サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌われるものはサタン側であるということを知らなければなりません。全世界的にレバレンド・ムーンのことを好きな人が一人でもいましたか。皆様も、レバレンド・ムーンがどのようなことをしているか調べてみたのでここにいらっしゃったのであって、知らないまま、ただ来られたのですか。ワシントン・ポストもレバレンド・ムーンのことが分からないから反対するのであって、皆様のように知れば、それでも反対するでしょうか。反対することはできないのです。ワシントン・ポストが本当のことを知れば、ワシントン・タイムズよりもさらによく待遇することでしょう。 思想的空白期におかれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高等学校、大学校の教材を通して、そして、ひいては刑務所の囚人までも、その教材を通して思想武装をしているのです。ロシアの三千六百か所の学校で、レバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。彼らは叫んでいます。「私たちはアメリカに先立たなければならない! レバレンド・ムーンに反対するアメリカに先立たなければならない!」と。西洋の腐敗した退廃風潮であるホモセクシャル、フリーセックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけであると彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカよりも先にレバレンド・ムーンに従っていこうと叫んでいるのです。 皆様! 神様のことが好きですか。レバレンド・ムーンがこのようなことがらを展開しているのを見つめられる神様は喜ばれるでしょうか。教皇庁の教えと今回の大会に参席されたロバート・シューラート牧師の教えが同じであることがありえますか。もちろん、大きく違います。そうであるとすれば、だれの教えが正しいのか神様に尋ねてください。イエス様と聖母マリヤに対する皆様の理解が間違ったもとであると、いくら教えてさしあげたところで、それ自体が統一教会にとって利益になるということが何かあるのでしょうか。しかし、皆様が必ずや知るべき一つの事実は、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯をかけてこの道を歩んできたのです。 皆様、イエス様は結婚をしなければならないのでしょうか。結婚しなければならなかったのです。イエス様は女性ですか、男性ですか。聖女がいるとするなら、イエス様も彼女と結婚をしたくないでしょうか。神様はエデンの園にアダムとエバを創造されながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されたのですが、何のためにそうされたのでしょうか。彼らが成長すれば、神様は彼らを結婚させてくれるでしょうか、させてくれないのでしょうか。問題は、彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が代わったのです。それゆえに神様は、彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となって、神様にとっての婦人格にあるべきアダムとエバが堕落することによって、神様ご自身の体と理想を病に至らせ、恩讐になってしまったのですから、それをごらんになっていた神様の心情は、いかばかりのものであったでしょうか。堕落とは、自らを埋葬する墓です。他人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になったのです。 今日のアメリカは、どのような国ですか。極度の個人主義、過分なる私生活の追求、フリーセックス……このようなものを神様が好まれるでしょうか。過度の個人主義が追求するものは何でしょうか。彼らの話のとおりであるならば、天も地も、世界、国家、社会、家庭、ひいてはおじいさん、おばあさんまでも皆、放り出してしまい、父母と兄弟も失ったまま、ジプシーやヒッピーになって気の向くままにさまようというのです。そして、雨や雪が降れば、行くところがないので、自殺して一生を終えようという話ではないですか。 しかし、人間の本心は極度の個人主義や、過分なる私生活の保証を願ってはいません。宇宙と国家、町や村、そして父母の愛を受けて暮らしたいというのが、私たちの本心が願うところです。しかし、そうではあり得ない反対の道を行くうちに、良心に火がつき、本心との相克を感じるようになって、むしろ薬でも飲んで自殺するほうがましであると判断し、自ら命を絶つという現象がだんだん増えていくのです。こうして、「自分のまいたものを刈り取る」(ガラテヤ六:7)という真理が的中するのを目撃するわけです。 アダムとエバがエデンの園にどんな種をまいたのでしょうか。フリーセックスの種をまいたのです。それを否定することができますか。そうであったので、彼らは下半身を覆ったのです。小さな子供たちも、親が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして見つかれば、それを包み隠そうとするのが本性の作用ではないでしょうか。もし、善悪の果を取って食べたならば、その取って食べた手や口を覆うべきはずであるのに、どうして下半身を覆ったのかということです。 レバレンド・ムーンは賢明な人間です。皆様に及ばない人間であるからこのようなことを言っているのではありません。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することはできません。アダムとエバが堕落して落ちたものを救ってあげるためには、堕落した方向と百八十度反対方向の経路を通さなければ、救ってあげることはできないということは、至極、理論的なことです。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来られなければならないのです。 メシヤは、堕落前の神様が創造されたエデンの園という場所で家庭を築くことのできる主人としてこられるかたです。そのことをはっきりと知らなければなりません! 理論的に合わなければならないのです。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければなりません。このように、家庭が問題なのです。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければならなかったのです。この死亡の世界で、だれが自分を救ってくれるのかということが問題です。それゆえに反対を受けたのです。 旧約時代は、「目には目、歯には歯」(出エ二一:24)という原則の下に蕩減してきました。イサクの妻であったリベカを見てください。長子であるエサウと夫までもだまし、次子であるヤコブに祝福を奪って与えた女性ではありませんか。そのような女性を、神様はなぜ愛されたのでしょうか。そのような神様のことを、どうして信じることができるというのでしょうか。今まで、これらの諸問題についてだれも理解することができませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてさしあげているのです。レバレンド・ムーンだけが、神様の秘密を皆、知っているからです。 それでは、どこから天国と地獄が分かれるのか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。それは、まさしく皆様の生殖器なのです! 深刻なことです。これが天地をひっくり返したのです。このことをだれが否定することができますか。レバレンド・ムーンが発表した原理の本、「堕落論」に説明がなされています。疑問に思うのであれば、神様に尋ねてみてください。皆様としては、夢にも想像することのできない内容と理論をもって体系だてられた、レバレンド・ムーンの原理の本に、だれも反対することはできません。 レバレンド・ムーンが天国に行くのか、そうでないのか気になるのであれば、死んでみればいいのです。死んで霊界に行ってみれば、分かることです。今晩、私の話を聞いて気分を悪くされたのならば、割腹をしてでも霊界に行ってみてください。そうすれば分かることではないでしょうか。レバレンド・ムーンがこの道を探し出すために、死の道を何度も越えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人が、レバレンド・ムーンです。有史以来、ほかのだれも、レバレンド・ムーンほど神様を愛した人はいません。ですから、いくらこの世界がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共にあられて保護してくださいます。 生殖器を、目の不自由な盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国に高い所に行くのです。これは明白な結論です。 現在、青少年の問題が深刻です。エデンの園において、アダムとエバが青少年期に物陰で、淫乱によって堕落してフリーセックスの種をまいたので、刈り入れの時期である終わりの日には必ず、世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。終わりの日には、再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引き上げ、救われるという戦略を、サタンは知っています。ですから、サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させるときにそうしたように、全人類をフリーセックスに押しやって、裸になって皆、死んでいく方向に全世界を引っ張っていくのです。人類がすべて、天使長の後裔としての末路をたどるようになるのです。 エデンの園においてサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの後孫が今日の人類なので、サタンは堂々と神様の前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたい放題になし得る権限を主張するというのです。神様は、サタンが何を願うかをご存じなのです。サタンは、フリーセックスを通して、ただの一人も神様の前に帰ることができないように、言い換えれば、全人類を完全にめちゃくちゃにして、地上地獄をつくろうとするのです。 今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄になりつつある世界でなくて何でしょうか。したがって、このように地上地獄となったこの世界と百八十度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来られて、この世界を救ってくださることにおいても、正にこのような百八十度反対の道を教えてくださって、天国に導いてくださるのです。 それでは、フリーセックスの道と百八十度異なった正反対の道とは、どのような道なのでしょうか。偽りの父母が現れてつくった道がフリーセックスの道であるので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は、干渉なさることができません。この地上にいかなる主権や軍事力、経済力、政治力をもってしても、手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことであるので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。 罪を犯した者が、その罪を蕩減しなければならないのです。家庭において結婚を間違ってしまって、血統が百八十度曲がってしまったために、真の父母が来られて結婚させ、百八十度反対の原状に戻してくださることによって、天国に行く道を開いてくださるようになるのです。 神様がアダムとエバに期待されたことは、何であったのでしょうか。それは、絶対純潔の愛を期待されたのです。この場にお集まりの世界の指導者の皆様が、このような内容を知って帰られて、皆様がたの国で絶対純潔の愛を取り戻す運動を展開されれば、皆様の家庭と国は、そのまま天国に直行することができるということを、理解してくださるようお願いいたします。絶対純潔の愛が存在する所には、絶対相対が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レスビアンという言葉は消えるようになるのです。 このような運動を世界的に広げるために、レバレンド・ムーンは一生をささげて受難の道を克服してきました。しかし今や、勝利のファンファーレを鳴り響かせ、世界に号令することのできる時が来たので、天のみ前に感謝するものです。 世界平和に向かい得る礎石を築くのも家庭であり、世界平和への道を破壊し得るのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所が、アダム家庭でした。したがって、きょう、このように世界平和家庭連合を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と百八十度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるを得ません。この道でなくしては、自由も幸福も理想もありません! 皆様は今、絶対、唯一、不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして神様を求めていかれるようお願いいたします。この基盤が愛の基盤、生命の基盤、血統の基盤、良心の基盤にならなければならず、正にここから地上天国と天上天国が生じるということを理解されるべきです。 すべての男女が、自分に所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、その主人は自分の相対であるということを認定するようになれば、私たちは皆、頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。愛は、相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。ですから、ために生きない所には、愛があり得ないのです。絶対的にために生きる所において、絶対愛を見いだすことができるということを肝に銘じられ、皆様も今からお帰りになれば、サタン世界との一戦を覚悟してくださるようにお願いいたします。 どこに行かれても、テレビやその他の言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅ぶことはありません。地獄と化したこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるというのでしょうか。神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立てて生きていかなければ、そのことは不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は、神様であられます。 今、私たちは皆、共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛舞台になりましょう。今から家に帰られたら、夫と妻で共に、自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠なる器官であることを互いに確認し、それが正に自分のものではなく、相手のものであり、相手が今までしっかりと保管してきたものが自分のものであると宣言し、お互いのために永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと、誓ってください。そのような家庭であってこそ、永遠に神様が住まわれるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成が成されるのです。 そうして、皆様すべてが、共に次回の三百六十万双の祝福結婚式に参席され、地上天国に入籍する真の家庭となられますようにお願いいたします。 ありがとうございました。アーメン!一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.06
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第六回「七・一節」敬礼式後の御言1996年7月1日アルゼンチン・コリエンテス敬礼式の後、お父様は韓国語で御言を語られました。 血統を救う《一九九一年七月一日のお父様の祈祷を朗読する》(前の部分三十秒ほど聞こえず) そのような蕩減条件を立てて越えていかなければならないのです。九二年に入って、四月十日、女性連合を中心として女性時代を宣布することにより、父と母がエデンにおいて神様を中心として一つになった立場に立つのです。 お母様を立てて蕩減復帰し、再臨のメシヤが来て、お母さんと息子・娘が吸収され、回って天に侍り、世界的にサタン世界を越えていかなければならないのです。そうすることによって、一九九二年を中心として祝福を世界的になすのです。 それで、三万双を中心として世界史的蘇生時代、三十六万双は世界史的長成時代、三百六十万双は世界史的完成時代へと移行するのです。家庭世界化時代へと移行するのです。このすべてのことをこのようにすることによって、血統が転換されるのです。サタン世界の血統を清算し、サタンが血統ゆえに行使したものを取り消すことができるのです。 神の国をこの地上に成して、サタンと神様の前に宣布して、サタンが後退せざるを得ない時代が来ることによって、このようなことが可能だというのです。 ですから、ここで世界化祝福世代を迎え、血統を続けていくのです。伝統を立てるのです。真の愛を中心として、真なる家庭を中心として、真の父母と真の愛と神の血統と連結させなければなりません。これは永遠のものです。血統を、どのように永遠に救うのかというのです。 それで、きょう「神様祝福永遠宣布式」を執り行う内容が何かといえば、血統を救うということなのです。血統をどのようにして分けるかというのです。 世界家庭時代へと移行するので、三万双を祝福したのです。三万双は一つの兄弟です。アダム家庭の息子・娘と同じです。世界環境ですが、アダム家庭で堕落したものを家庭基準ですべて集約させて、天へと移行するのです。アダム家庭が平面的に、一から氏族、民族、国家、世界まで繁殖して五十三億になったのと同じ立場に立った家庭として扱うのです。それゆえ、このすべての人類は神様を中心として、真の父母を中心として、血統が連結されるのです。 それゆえ、三万双は蘇生基準、三十六万双は長成基準、三百六十万双は完成基準です。それをすれば、サタン世界は復帰されてくるのです。それゆえ、皆さんを中心として見れば、自分の家庭を中心とした家庭は一つではなく、アダム家庭から五十三億人類家庭の代表なのです。分かりますか。 皆さんが祝福を受けたということは、血統を転換したということなのです。その血統転換は、自分の家庭の血統だけではないのです。五十三億人類を代表して血統転換をしたのです。それゆえ、この家庭を主体として、三万双、三十六万双、今から三百六十万双をするのです。 それゆえ、全世界が祝福家庭を中心としてすべて行くようになるのです。家庭を中心として三百六十万双をもてば、三百六十万世界家庭がぶら下がっているということなのです。このような中心的家庭、代表的家庭になるのです。 それゆえ、盟誓文二番を中心として、「神様と真の父母様に侍り、天宙の代表的家庭になり、中心的家庭になり……」、天宙の代表的家庭なのです。過去の時代、霊界に行っている人、現在いる人、未来にいる人の代表的家庭なのです。それは何でしょうか。アダム家庭になるのです。天宙の代表的家庭になり、そのアダム家庭が、また、中心家庭なのです。 皆さんの一つの家庭が、皆さんの家庭だけではないというのです。それ自体が、アダム家庭の中心位置を占めなければならない家庭として、天宙の代表的家庭であり、中心的家庭なのです。ここからすべての長子権、父母権、王権が連結されるのです。家庭的長子権、家庭的父母権、家庭的王権。また、国家的長子権、国家的父母権、国家的王権。世界的長子権、世界的父母権、世界的王権。 今は、世界的長子権時代を越える時です。逆さまになったこのすべての世界を、引っ繰り返しておけばいいのです。 それゆえ、世界的代表長子権なのです。ここには、カイン・アベルがないというのです。世界的基準になる時までは、カイン・アベルが争うのです。分かりますか、何の話か。(「はい」)。世界基準まではカイン・アベルがあって、争うのです。このカイン・アベルの争いが世界版図になったのが、神様がいないという共産圏、神様がいるという民主圏なのです。 これを逆に上がれば、イエス時代の右側の強盗と左側の強盗が出てくるのです。左翼という言葉は、一つは神様に反対する側であり、右翼という言葉は神様の側です。左側の強盗は神様を否定し、右側の強盗は神様を認めたのです。 これは、父母が誤ったために生まれたのです。アダム家庭の父母が堕落することによって生まれました。アベルは右側であり、カインは左側です。 左翼、右翼は、父母がいないので生まれたのです。ですから、これを引っ繰り返して打ち込んでしまわなければなりません。長子権、カインがアベルに仕えなければならず、アベルがお兄さんの立場に行かなければならないのです。これは原理にないのです。 サタンがお兄さんとして先に帰るのではなく、次子を通して帰るのです。個人的にとか、家庭的にとか、世界において、共産世界まで同じです。民主主義は兄弟主義です。これが一つになることにより、天の真の愛を中心として、父子の関係が始まることによって、偽りのサタン世界の父子関係は清算されるのです。サタンはこれを知っているのです。 そのようになることによって、世界が帰っていくのです。このようになり得る環境をつくって、「七・一節」を宣布するのです。 国家的責任を果たせなかった 皆さん、統一教会の祝福家庭は、この「七・一節」を中心として、国家がすべて回るようにしなければなりません。 統班撃破というものを宣布しました。知っているでしょう。統班撃破を完全にしたならば、南北と連結させるのです。そうしたならば、与党、野党を糾合し、先生を中心として完全に天の側へと引っ繰り返して打ち込むのです。それができなかったので、それを再び収拾するために……。今が六年目です。五年目を中心として、五年、六年、七年、この三年路程を中心としてするのです。先輩家庭が国家的責任を果たせなかったので、蕩減するのです。 先生は世界的統一のために動くのですが、統一家の祝福家庭を息子として生んでおいたにもかかわらず、それをなせなかったのです。 神様を中心として見るとき、父母の前に子女であるアダム・エバを失ってしまったのと同じように、真の父母の前に祝福を受けた家庭が子女の立場なのですが、彼らが国の中心にならなければならないのにそれをなせなかったので、世界版図で再度、世界の家庭をすべて先生にもってきてくっ付けなければならないのです。 氏族的メシヤを中心として国家的メシヤの責任を果たしていなければならないはずなのに、それをなせなかったので、世界舞台に出ていき家庭を中心として逆さまに、先生に再びもってきて接ぎ木しなければならないのです。 それゆえ、百八十四か国、国連に加盟したその国家に、アダム国家、エバ国家、カイン・アベル国家、天使長国家が一つになって、七か国が家庭別に出ていき、世界のカイン的家庭を消化しなければならないのです。 では、国家的メシヤの立場に行くことによって、その国に何があるのでしょうか。カイン・アベルがあるのです。前職大統領、今の大統領が、カイン・アベルです。これを結ばなければなりません。サタン的国家代表の前にアベルを中心として、一つにならなければならないのです。 このカイン・アベルを結ぶことによって長子権を復帰して、祝福家庭が出ていき、長子家庭圏を中心として世界全体でサタンを整備して、まっすぐ回るにせよ、反対に回るにせよ、そこに反対がない自由解放圏を整えることのできる時代を経なければならないのです。 これを北側(北米)でなせなかったので、南側(南米)でこれを整備して、すでにウルグアイにおいて新救国連合を創設したのです。 この時代に純潔なアダム家庭を取り戻す 今年の標語は「真のご父母様を誇り愛そう」です。先生が今までしたこと、父母様が今までしたことを、世の中の誰も知りませんでした。そしてまた、知ったとしても駄目です。それで、自分の思うとおりにすべて反対したのです。赤ん坊も、おなかの中にいる赤ん坊たちまでも反対したのです。全体がご父母様を打ちました。罪がなく、打つことのできる内容のないものを打ったので、蕩減条件においてサタンが離れていくのです。それをしっかりとつかむのです。今年に入り、一つの峠を越える転換の期間です。 結論は何かといえば、血統を保護しようというのです。血統を保護することによって、先祖を保護するのです。血統を保護することによって父母を保護し、血統を保護することによって夫婦を保護するのです。 血統を保護することによって、先祖、おじいさん、おばあさんの前に、父母の前に、自分たち夫婦の前に、恥ずかしくない解放された息子・娘、天国に直行することのできる息子・娘になるというのです。 天国に行こうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。天国に行こうとすれば、夫婦の関門を経て、自分の父母のおばあさん・おじいさんまでの四大圏、その圏まで反対に上がっていくことができなければならないのです。それゆえ、純血を守らなければならないのです。血統を相続し、天の前に帰るのです。 それゆえ、宗教を信じずとも、天国へ直行できる息子・娘を生まなければならないのが、祝福家庭だということを知らなければなりません。家庭が重要なのです。分かりますか。そのような意義があるのです。大変なことなのです。 皆さんの家庭で世界が回るのです。天地が皆さんの家庭で一つになり、世界の東西文化の格差、南北の貧富の格差が皆さんの家庭で一つになって、天地を連結し、歴史を連結し、解放を連結し、統一を連結し、その中に自由と幸福と平和と理想があるのです。 地上の天国が、その家庭から始まるのです。それゆえ、血統、純潔を守らなければなりません。それで、私たちは純潔運動をしなければならないのです。真の家庭運動です。 これが、アダム家庭で失われてしまったものを、世界的に拡大したすべてのものを整備するのです。サタン世界は、まさにフリーセックスです。血統がどれほど汚れているでしょうか。この中で純潔を守らなければなりません。そこで真なる家庭、数多くの偽りの家庭の中で、真なる家庭、中心家庭にならなければなりません。数多くの愛の中で、真の愛を守らなくてはならないのです。 これが、アダム・エバ家庭で失われてしまったものを取り戻すことになるのです。この時代に、純潔なアダム家庭を取り戻すのです。 この峠を越えなければなりません。絶対信仰です。絶対信仰がなければなりません。異議はあり得ないのです。そこには、自分自体のコンセプトは存在することができないのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。それゆえ、天国は、絶対信仰、絶対愛、絶対服従したこの塀を越えていくのです。それを越えなくては、天に入ることはできないのです。 神様への服従とはどういうものかといえば、自分のコンセプトがないのです。自分の愛も、生命も、この身体も、自分のもっている物も、全体所有物も、自分のものがないのです。絶対無の立場に入るのです。絶対服従です。従順ではありません。従順とは相対的概念をもって従うということなのですが、これは相対的概念がないのです。一つ(服従)は完全無、一つ(従順)は完全有です。 自分の心・体をきれいにして、家庭の基台をつくるのです。それはすべて、一つの愛の根にぶら下がっているのです。夫婦の愛にぶら下がっているので、彼らが行くところには自分の物もぶら下がり、神様の愛の本然のもののような立場に立つので、地上天国が出発できるというのです。 それゆえ、その家庭の血統を守りなさいというのです。そうしてこそ、神様の祝福が、永遠に共にあり得るのです。 血統を汚してはいけない 皆さんが今から、真のご父母様から祝福を受けて、清めた血統を再び汚せば、これは第二 の堕落です。ご父母様の体を犯すことなのです。完成したご父母様の体を犯す人は、天国に行くことはできません。今、統一教会で祝福を受け、堕落した人はすべて同じです。 この祝福は、教会祝福、国家祝福、世界祝福があるのです。家庭祝福時代、国家的祝福時代は、ご父母様が責任をもって赦すことができますが、歴史時代に蕩減しなければならない条件が残っているというのです。それは、国家時代を越えて、世界時代を越えていく時までです。民族的に見れば、荒野に出て、再び入ってこなければなりません。罪を犯せば、必ずサタン世界を抜け出て、探して入ってくるのです。 そのような問題がぶら下がっているので、それを皆さんが果たすことができなければ、皆さんの息子・娘にかかるようになるのです。 今後、再び堕落して血統を汚した者は、神様も見るのを嫌がり、真の父母と一族が見たくなくなるようになっているのです。罪の中に、それほどの罪がないというのです。それゆえ、神様祝福、何ですか? (「永遠宣布式」)。永遠宣布という言葉は歴史的なものです。 それで、純潔、真の家庭、これが一つになればすべて終わるというのです。そしてきょう、これが大転換の時期なのですが、統一教会で最も重要な日です。それが再び延長されて復帰されるのが、二〇〇〇年代までです。(録音状態不良により一部整理できず) この純潔な血統を中心として、「神様祝福永遠宣布式」をするのです。それゆえ、皆さんは祝福を受けた純潔な血統を続けていかなければなりません。再堕落してはいけません。再堕落すれば、ご父母様の体を犯すことになるのです。 それゆえ、過去には、堕落したとしても、長成期完成級だったのです。しかし、完成時代に堕落すれば、今後、子孫たちがきれいに清算するのです。堕落はとんでもないことです。分かりますか。(「はい」)。 神様祝福? (「永遠宣布式」)。それが何だといいましたか。(「血統です。」)。血統。 血統を汚してはなりません。真の父母の真の愛を中心として、天国が連結されるのです。それを宣言して、間違いなく私から、私たちの家庭を中心として、私たちの国と世界に拡大しようというのが、きょう「七・一節」の記念の日なのです。分かりますか。(「はい」)。これを知らなければなりません。 国家的メシヤとして派遣 きょう読んだ祈祷は、先生の御言でしょう。(「はい」)。皆さんはすべて忘れてしまいましたが、六年前から収拾するためにそのことをしてきたのです。それが南米摂理です。もはや、条件的にすべて成しました。 それゆえ、きょうを中心として世界の先輩祝福家庭を、世界国家的メシヤとして派遣するのです。イエス様の時代は、一人のメシヤをイスラエルの国に配置しましたが、先生が位置を確立したので、神様の代身として地上に来て、百八十四か国に国家的メシヤを派遣するというのです。百八十国家が国家的メシヤを受け継いで、家庭を収拾するのです。そこに行って、カイン・アベルを通して再創造しなければならないのです。 その国の有名な人の名前をもって、百八十か国の首相に「これこれこのようなことをするため、このような家庭を中心として世界家庭を再編成するので、滅びていくその国の家庭、破綻するその国、滅びるしかない国に、家庭を収拾するモデルとして送るので、首相から、閣僚から、あるいは、国家全体が、州全体が一つになって、その家庭を世話してください」と言うのです。命令的です。 サタン世界はカインが天側を打ち殺したのですが、統一教会はそうでないというのです。長子権を復帰して、長子の立場で家庭的長子としてその国の大統領と閣僚たちを中心として、一つになり得るのです。それが始まることによって、完全にサタン世界は復帰されるのです。そうすることによって、地上天国、平和の世界は来ざるを得ないのです。 ですから、四年だけ休まず投入すれば、世界の家庭はすべて一つになるのです。来年まで祝福をしてあげれば、その三年後が二〇〇〇年です。 その時は、三回目を越えていくのです。その時は、三千六百万が問題ではありません。三億六千万の祝福が可能なのです。その次に、世界の家庭をいっぺんに祝福するのです。それゆえ、今日、血統を清めることのできる世界版図、終末的時期なので、家庭がご父母様と一つになることにより、それが地上天国世界となるのです。分かりますか。 天上天国が今まで空いていたのが、ここで整えて入るのです。それで、天上天国完成です。天上天国完成です。どこからですか。地上天国から天上天国が完成することによって、その上に神様が座を構えることができるので、神様がこの宇宙の主人として、行けない所がなくなるのです。 神様祝福? (「永遠宣布式」)。今まで世界で、数多くの個人と国家が血を流してきたのです。汚い血を流したのではなく、きれいな血を流しながらこの世界をすべて犠牲にしても、神様はきれいな血を願うのです。殉教です。息子・娘を犠牲にして、清めるみ業をしてきたということを知らなければなりません。分かりますか。(「はい」)。神様祝福永遠宣布式。 エバの前にはアダムだけであり、アダムの前にはエバなのです。世界代表家庭、中心的立場で人類を代表した二十五億対一だというのです。世界で一番に選ばれたのです。過去、現在、未来の中で一番に選んだのが、自分の結婚相手だというのです。 だから、その愛というものは、世界代表的愛だというのです。それが一つになる時、思いどおりに血統を通って、上がったり下がったりできるというのです。これが、千代万代を中心として、誰にも頼らず、神様の前に上がったり下がったりすることができるのです。 そのような立場で息子・娘を生むことによって、天国に直行することができるのです。そのような息子・娘を生んでこそ、あの国、堕落しない本然の本宮に連結された天の国の民になるのです。アーメン。 (「アーメン。」)。きれいですか。(「はい。」)。(血統を汚すのが)どれほど恐ろしいですか。 生殖器を蘇生防御線、長成防御線、完成防御線で守らなければならないのです。昔は何があったかといえば、貞操帯がありました。貞操帯は女性だけではありません。男性がするのです、男性が。男性が天使長圏をもって出発しました。男性貞操帯があります。分かりますか。 (「はい。」)。 「神様祝福永遠宣布」とは何でしょうか。(「血統。」)。血統がきれいならば、神様の愛と直結されるのです。(「アーメン」)。神様の愛に接ぎ木されて、永遠の血統を清めるのです。 サタン世界は反対にフリーセックスをするのです。ありとあらゆる血があります。盗賊の血、白丁(畜殺に従事した人)の血、乞食の血、殺人者の血、ありとあらゆるものをすべてもっています。それをはっきりとしなければなりません。 「七・一節」に強調するものはそれ以外にありません。一年の間、自分が純潔な血を、どれほど汚したでしょうか。 韓国語を知らない人は祝祭に参加できない そして、今から通訳が必要ありません。昔は通訳が必要でした。今後、このような祝祭には韓国語を知らない人は参席できません。また、韓国人と結婚するのが最高の希望です。分かりますか。祖国です、祖国。 そうであるならば、祝福家庭には同じ価値を与えるのに、何によって違うのかといえば、言葉によって違うというのです。韓国語が上手でなければならないのであって、堕落した世界の自分の国の言葉のほうがもっとうまければ、引っかかるというのです。純潔な血と、これにかかっているのです。 それゆえ、絶対的に韓国語を学ばなければなりません。そして、皆さん、韓国語を知らなければ今後、韓国の地、ご父母様の地を踏むことができないのです。これはビザが問題ではありません。永遠にその地に入ることができません。日本がその次であり、中国がその次です。そのようになれば、韓国語でそれぞれ異なった文化背景がすべて、瞬く間に清算されるのです。分かりますか、この若者たち。 何を語学に自信がないなどと、そのように言う必要がありません。生死の問題です。あの世に行って先祖が、「おまえ、統一教会に何年通った。 ご父母様に侍って統一教会にいたのに、今まで言葉ができないとは、それはどういうことだ。」と讒訴するのです。分かりますか、何の話か。 血統は心にかかっており、体にかかっているのです。体と心が一つになれなければ、言葉が一つになることができず、考えが一つになることができず、文化が一つになることができないのです。ご父母様の言葉を話すことのできない人たちは、その国の血族になることができないのです。そうでしょう。 天国にどのように行くのでしょうか。アルゼンチンから直接行くことはできません。韓国を通して行くのです。本郷の地を通して行くのです。韓国を中心として、主権、人民、国民の公認を受けなければなりません。ご父母様の後ろに天国があるので、ご父母様を通して入らなければならないのです。ですから、ご父母様の民としてご父母様の地を踏んで、ご父母様の王宮を経て、サインをもらってこそ、天国に入るのです。 日本からも天国に入ることはできません。それゆえ、韓国の風習を学ばなければなりません。その風習を韓国の風習と考えてはいけません。文化を通さなければならないのです。 心情を統一するというのですが、言葉を知らなくて、どのように心情を統一するのですか。世界言語によって消耗されたものが、どれほど多いでしょうか。一つの国の言葉だけ話せばいいのですが、百八十国家、数多くの氏族、数千の氏族に分かれているので、そこで消耗される本がどれほど多く、それを翻訳することがどれほど大変でしょうか。サタンが統一できないようにしておいたのです。 さあ、先生が父母で皆さんが息子・娘なのに、息子・娘として生まれて言葉を分からないのです。自分たちがひそひそ話す言葉は、父母が生む前に学んだものは、すべてサタン側のものです。今からは父母から学んだ言葉を使わなければならないのであって、自分たちが学んだ言葉は父母の前で使ってはなりません。 今後、皆さんの息子・娘たちの願いが何かといえば、韓国のご父母様を中心として、直系の血統とどのようにして結婚するかということです。これがアベルです。その次に、韓国人とどのように結婚するかということです。これはカインです。 ですから、どのように韓国人と結婚し、アベル的な立場に立って、長子権の立場に立った先生の直系の息子・娘と、どのように結婚するかという問題です。それゆえ、カイン的息子やアベル的な直系の息子・娘と結婚するためには、韓国語を知らずには駄目なのです。 良心の呵責をなくすことが生活の基本 あなた、どこの人ですか。どの国の人ですか。アルゼンチンの人ですか。世の中に真の父母がいないのに、世界がどこにあり、英国がどこにありますか。すべて盗賊たちです。父母様がすべて戦い勝ったのであって、和合して勝ちましたか。侵略して思うがまましたのです。侵略をしてはならないのです。それゆえ、皆さんがどの国の人かといえば、英国型統一国人なのです。あとで天の前に行って、「どこから来たのか?」と聞かれれば、「英国人です」と言ってはならないのです。 そして、「ユダヤ教から来ました」、こう言わなければならず、「キリスト教から来ました」、「統一教会から来ました」、こうでなければならないのです。ユダヤ教は蘇生であり、キリスト教は長成であり、統一教会は完成級なのです。「統一教会人として来ました」と言えば、「統一教会の人の中でどこに属していますか?」、「天の国の民として来ました」という概念がなければなりません。 皆さんは、どこから来ましたか。(「統一教会から来ました」)。統一教会? 本当に統一教会の教会員ですか、偽の統一教会員ですか。(「本物の統一教会員です」)。ええ? (「本物の統一教会員です。」)。それは良心が知っています。すべて知っています。良心はだますことができません。 考えてみなさい。神様もアダムが堕落した後、「アダムよ、おまえはどこにいるのか?」とそう言ったでしょう。「アダム、おまえ、罪を犯して逃げたな」、こうではなかったのです。尋ねるのです。悪いか良いかを、神様が先に分かりますか、自分が先に分かりますか。(「自分が先に分かります」)。 なぜ、どうしてでしょうか。息子だからです。息子と父は違います。父がこのようにおれば、息子はこのように立っているのです。父の右側は息子の左側であり、父の左側は息子の右側になるのです。それゆえ、同じですか、違いますか。(「違います」)。 ですから、息子に尋ねなければなりません。「左側に立っているのか、右側に立っているのか?」、あるいは「何をしているのか?」と尋ねなければならないのです。「おまえ、このようにするだろう?」というのは息子ではなく、神様の所有物だというのです。 皆さん、良心は自分のすることを分かりますか、分かりませんか。(「分かります」)。むやみに、罪を犯してはならないというのです。良心が先に分かります。良心は父母より先立っています。良心は神様の創造本然と通じるのです。良心は自分を生んでくれた父母よりも、もっとよく分かります。父母よりもさらによく分かるのです。 先に分かるということでは、良心は父母よりも先立っています。良心は先生よりも先に分かります。それゆえ、良心は師よりも先立っています。良心は神様よりも先に分かります。良心は神様より先立っています。なぜでしょうか。分かっているからなのです。 良心に教えてあげることのできる刺激は、父母よりも師よりも自分が先に分かるのです。そのような偉大な良心です。父母の中の父母であり、先生の中の先生であり、王の中の王の代身の主人として派遣してくれたのが、私にとっての良心なのです。 ですから、良心に絶対服従する者は、父母の命令を完成した立場に入り、良心の命令に絶対服従する者は、師の命令、あるいは、王の命令の立場を越えていくことができるのです。それゆえ、自分を知る代わりに、良心が何かということを知らなければなりません。 自分の良心は、この地上の真なる父母を先に知るのです。知ることにおいては、自分が二番目なのです。 それゆえ、皆さんが祈祷するとき、空想的な祈祷をするなというのです。心に尋ねるのです。「おい。 心。 私が間違ったのか?」と祈祷しなさいというのです。 先生に尋ねる必要はありません。神様に尋ねてはいけません。神様よりも先に分かるのです。祈祷が、何の必要がありますか。顔を見て毎朝、良心の呵責を感じる影が映ったならば、それを自分の一身からなくさなければならないのが生活の基本だということを知らなければなりません。 良心が太陽のようでなければならないのですが、曇っていて呵責を感じることができず、自分勝手にしているのです。 王千人万人、世界の師千人万人、神様千人万人より先に、自分についてよく知り、自分が行く道を知っている主人が誰かといえば、良心だというのです。 私たち統一教会の祝福を受けた家庭が、女性たちでいえば、美男子がいて手を差し出せば、良心は「早く触れ。」というのではなく「駄目だ。」というのです。良心が分かりませんか、分かりますか。(「分かります」)。「駄目だ。」というのです。男性も同じです。 世の中で良心のとおりにしようとすれば、逆にサタン世界に引っ張られていくことが多いのです。そのようなときは条件を立て、「作戦上します」と宣布して、始めるのです。作戦上です。作戦が終われば本然へと帰るのです。作戦上です。分かりますか。作戦上という条件でしたならば、作戦がなくなる時には、これをいくらでも越えていくことができるのです。 良心はすべてを知っている ここに美男、美女が裸になって一つの所にいても、良心の呵責を感じるか、どうなるのかを試験してみなければなりません。アダム・エバの時に、女性が男性を犯してそのことが起こったのです。分かりますか。 それゆえ、復帰するためには反対にしなければならないのです。アダム・エバは裸で生活していました。ですから、そのような立場にいるとき、女性は男性の愛を受けたいという心をもってはならないのです。 あなたたちが忘れてはならないことは、アダム家庭において、お姉さんとか、妹のように感じなければならなかったのです。アダムの妹がエバです。将来は妻になるのです。エバを妹のように考え、妻のように考え、お母さんのように考えるべきなのです。女性は、お姉さんとか妹にならなければなりません。その次は妻のようになり、その次にお母さんのようにならなければならないのです。これが目的です。 兄弟同士、一つになれない人はお嫁にも行けず、お嫁をもらうこともできません。アダム・エバが喧嘩したでしょうか、喧嘩しなかったでしょうか。アダム家庭においてはお兄さんと妹です。妹・弟、お姉さん・お兄さんです。それが一つにならなければなりません。 将来、アダム・エバは夫婦にならなければならないでしょう。振り向いて一つになるならば、一八〇度で一つにならなくてはならないのであって、一五〇度や一〇〇度で一つになってはならないのです。 アダム・エバの体と心が、共に一点で一つにならなければならないのです。皆さんがこのような形態で結婚して、新郎を迎え、妻を迎えて、お互いに抱き、抱擁するようになるとき、自分の良心で「自分が相対に対して情熱的か?」と思うとき、そうでなければ自分で分かるのです。そうでなければ、本物の夫、本物の妻にはなれないのです。 本物の夫、本物の妻になれなければ、本物の母、父になれないというのです。本物の息子・娘になった兄弟が本当に一つになれば本物の夫婦が一つになり、本物の夫婦が一つになれば本物の父母が一つになるというのは理論的なのです。 そして、弟ならば、弟の 某はなぜ生まれたのかというのです。弟は、その兄とかお姉さんの前に被害を負わすために生まれた、利益を与えるために生まれた、どちらでしょうか。何ですか? 利益になるために生まれたのです。 お兄さんとかお姉さんがいたならば、弟や妹は福を受けるのです。利益になるのです。弟、お兄さん、お姉さん、妹、みんなお互いのために生き合うところでのみ、共に利益になるというのです。 では、兄弟が多いのがいいですか、少ないのがいいですか。(「多いほうがいいです」)。なぜでしょうか。兄弟同士、お母さん・お父さんの代わりにお父さんの愛を分けてあげるために、お兄さんや弟が互いに与え合い、ために生きようという環境になることによって、お母さん・お父さんは喜ぶのです。 ここで多くの人たちが兄弟として出会ったのですが、お互いために生きるようになるとき、真の父母と神様が喜ぶのが公式であるということを知らなければならないのです。 兄弟姉妹と、ために生きる夫婦が暮らすところで、「その女房の 某 、夫の某を私が奪う」とこのようにできますか。それは殺すことです。家庭で兄弟を殺すことであり、その国と世界を破綻させることです。どんなに人が多く、どんなに少なくても、良心は正しく、そのようなものを完全により分けることができるというのです。 一人が百人のために犠牲になるといえば、百倍の福が自分にやって来るのです。先生が人類のためにこのように苦労をして、全体代表的になるときには、人類がその苦労した代価を支払うのです。分かりますか。 良心は、神様よりももっと貴いということを知らなければなりません。先生よりももっと貴く、父母よりももっと貴いというのです。第一のオリジナル、一番正しいものを私に派遣したのです。そのような主人だということを知らなければなりません。それが分かれば堕落することができません。 皆さんが霊界に行けば、良心の方向を中心として、行ったり来たりしながら行くのです。このようにしてどこに行くのかといえば、良心的に行けばずっと行きますが、反対に行けばどこへ行くのでしょうか。地獄に行くのです。 皆さんが飛行機に乗っていくとき、航路ならば航路が記録されているので、その航路を中心としてコンピューターに合わせておけば、そのまま行くのです。それと同じです。そのようなコンパスのようなものがあるのです。それが良心です。 コンパスがなければ、すべて地獄に行くのです。すでに、「左に行く」ということを知っているのです。「右に行く」ということをみな知っているのです。それをはっきりと知らなければなりません。 先生に尋ね、ご父母様に尋ねてみる必要はありません。良心が知っています。良心にはすべてのことを観察できるアンテナがあるので、これを合わせるようになれば、いつの間にか体が分かるようになっているのです。 良心をだませば地獄に行くのです。二重人格は、天の国にも行けず、地獄にも行けません。それは神様も滅ぼすことができ、サタンも滅ぼすことができるのです。一番恐ろしいのが人間です。二つの心の存在は、一番難しいです。 ですから、心よりも愛が先なのです。愛も二つの愛をもつ人は、処置が難しいのです。これはすべて、底なし地獄に入れておくのです。神様の世界に現れることさえできません。 一代が誤れば千代が滅びる このように見るとき、きょう、「七・一節」の記念日を中心として血統を保護しなければなりません。血統につながっているのが良心です。これを中心として一代が誤れば、千代が滅びるのです。それを保護すれば、すべてが喜ぶのです。あの霊界に行ったすべての先祖たちも喜び、分かるのです。このようになるとき、天国にも、思いどおり行ったり来たりできるのです。 さあ、女性の皆さん、皆さんの先祖は、よその男性が何かをくれるのを好みますか、好みませんか。ですから、キスし、自分の体を触ることを、自分が愛する人以外には願わないのが原則なのです。 アダム・エバの手をアダムやエバ以外に、誰が触りながら大きくなったでしょうか。皆さんは? アダム・エバ以外には触れることができないのです。だから、皆さんはどれほど汚いですか。抱き締めてキスして、ここもキスして、また、ここもしましたね。ある人はここもして。(笑い)そのようなことをして滅びるのです。フリーセックスへと流れていき、滅びるのです。 服を着れば厚く着るのではなく、一つ一つ脱いでしまい乳房を出しておいて、これだけ覆い、裸になって踊りを踊るのです。それはサタンの戦略です。 私たち統一教会の女性たちは、踊りを踊れといいますか、いいませんか。踊りを踊るならば、妻と夫と裸になって、大声で叫ぶなら叫んで、何をしてもいいのです。 考えてみなさい。女性が踊りを踊るのは、男性を誘惑しようとして踊るので、それがサタンだというのです。舞踏会に行くとき、その人を助けるために行ってキスする人が多いですか、奪い取って踊りを踊る人が多いですか。 踊りにツイストという踊りがあるでしょう。ツイストは蛇踊りです。そのようなことをすれば淫乱に陥るのです。酒を飲んで阿片を吸い、その遊びをするのです。 そのようにして、好きだと思えばフリーセックスをし、薬を飲んで酔って、裸になりセックスをし、騒いで、そのようになるのです。初めて会ってそのようになるのです。阿片であれ、酒であれ、踊りであれ、ツイストであれ、すべてそのようなものです。 ここのスパニッシュは踊りを踊ることが好きですか、好きではありませんか。(「好きです」)。(笑い)三回だけそのようにすれば、「ああ、分からない」というのです。(南米、スパニッシュ系)女性たちは、なぜよく脱ぐのですか。それはサタンだという証拠です。 さあ、ツイスト踊りを踊らなければなりませんか、踊ってはなりませんか。(「踊ってはなりません」)。ツイスト踊りを踊ってもいいです。する時には、自分の夫、自分の妻と踊りなさいというのです。自分の妻、自分の夫とならば、ありとあらゆることをし、踊りを踊っても罪ではありません。自分の夫をほっておいて他の人と踊るので、淫乱行楽だというのです。脱線行為だということを知らなければなりません。 私たち祝福家庭は、踊りを踊るなら踊りなさい。裸になって踊るのが、愛の踊りではないですか。夫婦同士、愛の踊りを踊るのも反対しますか。愛しながら踊りも踊り、歌も歌い、ありとあらゆることをすべてしなさいというのです。 愛を研究する 万物の霊長なので、「うさぎ愛(うさぎたちが愛し合う愛)もし、へび愛をもし、いのしし愛もし、とら愛もする」と言いながら、夫婦同士いくらそのような行動をしても、神様が「この野郎。 何をする。」と言うのではなく、「おや。 愛する版図が世界を占領するのだな。アーメン。」と言うようになっているのです。 更年期というのがあるでしょう。男性でも、女性でも、愛が嫌になる時が来るというのです。それをどのようにしますか。どのようにその更年期を越えることができますか。 地上に動物たちがどれほど多いでしょうか。うさぎもおり、ありとあらゆるものがすべているのです。万物の霊長なので愛することにおいても、大王にならなければならないのです。 更年期というならば、一週間に一回ずつ、「この一週間はうさぎ愛の週だ」と言って愛するのです。(笑い)そのようにして、うさぎが雄・雌愛するのを見て、「彼らのような愛を今週にする。それでこそ、愛する方法を教えてあげることができる王だ」という考えをしなさいというのです。(笑い)それが、どれほど驚くべき素晴らしいことでしょうか。 その次には、とら愛をしよう。 (笑い)そのようにして、「とらが愛する以上の感情を感じながらしよう」と言って、雄・雌になってウォーと言いながら愛するのです。(笑い) 「へび愛をしよう。」と言って、頭をこのようにしながら愛するのです。(笑い)笑うことではありません。いくらでも、愛することができる材料が多いのです。(笑い) この世界で愛するつがいでいるものを、三分の一ほど話したのですが、残りの三分の二の愛まで、はえ、はち、あり愛までもするのです。(笑い)してみなさいというのです。 そのようにすれば、離婚する暇がありますか。夫を見れば、どれほどおもしろいですか。(笑い)そのようなことを体験して、皆さんが一生の間なせるもの(愛する計画)を立てても余り得る、愛のモデルがたくさんあるので、それを学んで教えてあげなさいというのです。ちょうちょ愛もするのです。分かりますか? (「はい」)。 夫婦同士、裸になって踊りを踊るのなら踊り、どのようにでもしなさいというのです。そのように自由天地であるにもかかわらず、新しい人に出会って心を読みながら「どうだろうか?」と言って会う、それ以上の地獄はありません。それ以上の地獄はないというのです。 さあ、皆さんスパニッシュは、何をおいしく食べますか。(スペイン語でさまざまな答えをする)分かりました。それをきのう食べて、「一月ほど食べない」と言いますか、毎日食べればいいと思いますか。好きなものは、毎日食べてもいいのです。「一年間食べたので、もう嫌だ。永遠に食べない」、そう言いますか。おいしいもの、習慣になったものがあれば、手がそちらに行くようになっているのです。 夫と愛し合うことにおいて、ある時はよく、ある時はよくないと言って一緒に暮らさないで、食べ物と同じように捨てることはできません。そのようなものは人ではありません。 争い、離婚を考える余地がありますか。「どういう愛し方をする」と、次のプログラムを研究し、互いが報告し電話をすれば、どれほど楽しいでしょうか。分かりましたか。(「はい」)。 へびのようなものは、七十一時間愛し合うのです。(笑い)「三日間、そのようにくっついていよう」と言い、「土曜日、日曜日、月曜日まで愛し合おう」と言うのです。(笑い)なぜ笑いますか。 そうだといって、それが罪ですか。(「いいえ」)。神様はそれを見て喜ぶというのです。犬のようなものは四十五分です。 だからといって、先生はセックス教主ではありません。(人間は)万物の霊長なので、それが変わらないのです。鳥たちは、一年に一度ずつ変わりますが、(人間は)変化しないのでそれが貴いというのです。 血統を守りなさい。 さあ、きょう「七・一節」に、おかしな話をすべてしましたね。血統を汚す器官が生殖器なので、生殖器を防御することのできる方法を教えてあげました。「血統を守りなさい。」というのがその方法なので、このような話をしたのです。アーメン。 (「アーメン。」)。 そうなれば、夫が妻に対して、妻が夫に対して心配がありません。いつも自由です。夜でも昼でもうれしいのです。 西洋の女性たちは歯も磨かずに、においがするのにキスをすれば、「ぺっぺっぺっ」とする女性たちが多いのです。「においのする夫が、早くそのようにしてくれればうれしい」と言える女性が多いですか、「ああ、嫌だ」と言う女性たちが多いですか。 老いればキスをしない、老いれば老いるほどキスすればうれしい、どちらを願いますか。自分もにおいが出るのです。それを忘れてしまいキスをするのが、幸福な夫婦です。それを嫌だと言いながら、こうしてキスするのは不幸な夫婦です。 女性の中で夫を一番愛する人は、どのような人でしょうか。夫のすべてのものを愛する女性です。「汚い」と思えば、完全な理想的な夫婦にはなれません。(笑い)笑いごとではありません。 そうしてこそ、天上世界に行く時、神様の前に近い所に行くというのです。すべて神様がつくったものではないですか。「これは汚い」「これは好きだ」と言ってはいけないのです。この汚いものを好むということは、だんだん好むものが豊かになるのです。死ぬ前に、「その峠を越えていこう」と言わなければなりません。 昔、先生の弟がいました。とても美男子の弟でしたが、その弟が患った時にお母さんが「うんちの味が甘ければ死に、苦ければ生きる」と言ったのです。そうして、うんちの味を見るのを見ました。それがなぜそうなのかということを、物心がつくときまで気掛かりでした。甘ければいいとか、苦ければいいとか、それは分かりません。そのような習慣(俗信)があるのです。 息子に対してお母さんがそうしたならば、夫婦の愛が母子の愛よりも劣っていいでしょうか、より大きくなければならないでしょうか。私は原理を知ったのち、それを理解しました。お母さんがそのように愛する弟を、私はお母さんが愛するように愛せるだろうか。さあ、愛する妻に対して、そうすることができるでしょうか。 夫が働いていて、足から臭いにおいがするとき、こう(ジェスチャーなさる)することができるかという話です。長靴をはいて行き来し、ここにほこりがたまり、垢がたまり、真っ黒なのを取って、蜜のように食べることができるかという話です。 皆さん、夫とキスをしますか、しませんか。つばはおいしいですか、苦いですか。夫のつばの中にたんの混じったつばがあって、吸って移動してくるとき、それが移動するのが分かれば、「あ。 ぺっ。」……。(笑い) 夫が妻のおっぱいを吸ってあげるのを、女性は喜びますか、嫌がりますか。(「喜びます」)。(笑い)笑ってはいけません。 笑う者たちは、血統の中に何かがあるということです。自然なことなのです。 牧師で、女性たちにそのように尋ねる牧師がどこにいますか。私は牧師ではなく、お父さんなのです。 お母様もそうだし、先生もそうです。どこを行き来しても、心配しないのです。季節が変わっても、愛の法度は変わらないのです。そのような妻とそのような夫は、不幸ですか、幸福ですか。(「幸福です」)。それを知らなければなりません。 ですから、天の国に行く貴族と皇族は、そのような伝統を守り、天の皇族圏となるのです。そして、サタン世界はとても破壊的で、許すことのできないものは一時にすべて除去してしまうのです。 愛は永遠です。分かりましたか。血統を守りましょう。 堕落した一日の失敗が、このように歴史的な被害を被らせたのです。私たちは真の父母に侍る血統を受け継いだのに、それを汚せば、その被害は何代たったとしても、霊界に行っても、永遠に解放されないというのです。そのことを知るようになるとき、それを問題なく越えていく方法を知らなければならないというのです。 祝福を受けた人、手を挙げてみなさい。皆、受けましたね。 さあ、私たち夫婦は、先生がきょうの伝統の記念日に語られた御言を中心として、その峠を越えて、また越えることのできる夫婦になることを、きょうを期して誓うべし。 (「アーメン。」)。永遠祝福。アーメン。 (「アーメン。」)。(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2023.01.05
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二十一世紀における島嶼国家の役割日付:一九九六年六月十六日場所:日本、東京、京王プラザインターコンチネンタルホテル行事:「世界平和島嶼国家連合」創設大会(代読)きょう、この意義深い会議に、世界からお集まりくださった尊敬する貴賓の皆様。私は世界平和の実現のために尽くされた皆様の努力を高く評価し、心から感謝の意を表します。そして、今回の会議が世界平和のための、より一層の知恵と努力を結集し、近づく二十一世紀を輝かしい平和の時代として迎えることができるよう、友誼(ゆうぎ)と理解を深める良い機会となることを祈ります。また、この会議によって、世界平和の実現に対する私たちの責任と使命を互いに分かち合い、揺らぎのない決意を互いに強固なものにできるならば、それ以上の喜びはありません。それでは、私が「島嶼国家連合」という組織を皆様に提唱し創設するに至った経緯と背景を、先に説明することから始めようと思います。人類歴史において文明発展の流れを見ると河川流域から発生した古代文明は、ギリシャ、ローマ、そしてイベリア半島を含む地中海文明に移動しました。そしてこの文明は、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ大陸を通って、島嶼国家であるイギリスを中心とした大西洋文明として結実しました。さらに文明は、アメリカ大陸を通って西の方に移動し、現在は、イギリスと同じ島嶼国家である日本を含めた太平洋時代を迎えています。このような文明史の推移を、神様の摂理として理解すれば、今日、天運の中心的な立場に置かれている島嶼国家は、正に日本であると考えざるを得ません。日本は神様の摂理を通して、人類歴史の舞台に立ったのです。日本の繁栄は、神様の摂理との関係において説明できるのであり、それ以外の理由だけでは説得力がありません。日本が神様の摂理の中心に立っているとすれば、私たちの関心は、日本のもつ摂理的使命に傾かざるを得ません。なぜならば、神様の摂理の目的は、世界平和の実現にあるからです。世界平和は万民共通の希望なのです。全世界の島嶼国家が、ここに連合して、平和世界に対する日本の使命を自国の使命のように考えることによって、島嶼国家の世界的連合による平和創建のための国家連合を完成すれば、人類社会にとってこれ以上の希望はないでしょう。このような希望に立脚して、私は「世界平和島嶼国家連合」の創設を提唱しました。私がこのように語るのは、今まで日本が受けてきた天運を、全世界の島嶼国家が相続し、世界平和創建のための国家群となることによって、一日も早く世界平和の実現が可能になるように祈らなければならないからです。それでは、島嶼国家の特徴とは何でしょうか。地球は、陸地と海でできています。今日の科学は「海を舞台として最も単純な最初の生命が誕生して広がった」と説明しています。これは、海が生命を身ごもる母の役割を果たしてきたことを物語っています。このような理由から、海を女性の象徴として考えるならば、陸地は当然、男性を象徴するものと考えることができます。したがって、海洋に位置した島嶼国家は女性を表す国家であり、大陸国家および大陸に連なっている半島国家は男性を表す国家であると言えます。島嶼国家が女性型の国家であるとすれば、女性の特徴である対象性、依存性などの特徴をもっていると見ることができます。他方で、男性的な大陸国家は、男性の特徴である主体性、創造性などの特徴をもっていると見ることができます。島嶼国家が遂行すべき役割は、人類社会において女性が遂行してきた役割とある程度同じであると言うことができます。女性は、結婚して心から夫を愛し、夫に侍り、また夫の愛を受けることによって美しく輝く存在です。そして子女を生み、子女に愛を注ぎ、素晴らしい家庭を築いていくことによって、喜びを感じるのです。女性の中心的な使命は、このように夫と子女に注がれる限りない愛にその特徴があると言うことができます。特に母は、子女にお乳を与えて養育し、教育する重要な責任を負っています。島嶼国家の役割もまた、このような母の役割と同じ内容をもっていると言えます。神様の人類救援摂理歴史を見ると、そこには必ず神様の摂理を担当する中心民族と中心宗教があります。歴史を導いてきたユダヤ教とキリスト教の核心は、第一に、唯一絶対の神様がおられること、第二に、人間始祖の堕落と罪、そしてその罪からの救いのためにメシヤが必要であると主張すること、第三に、人類の罪悪史には必ず終末があり、その時に「神の国」が到来することを主張することです。そのような救援摂理観によって、旧約時代にはメシヤの降臨を中心として歴史が形成されてきたように、新約のキリスト教時代には、再臨のメシヤを待望し、彼を真の父として迎え、罪を清算し、「神の国」を完成するという希望と信仰を中心として形成されてきました。このような救援摂理の歴史的な背景は、神様の心情と事情に立脚しているのです。したがって、神様の摂理を読み取るためには、時代の兆候を見抜く目が必要です。第二次世界大戦が終わったとき、世界のキリスト教は、神様の救援摂理史において非常に重要な時点を迎えていました。その中心にいたのが、イギリス、アメリカ、フランスでした。第一次、第二次世界大戦において、イギリス、アメリカ、フランスの三大キリスト教国家は、連合国の中枢として民主主義の勝利のために戦い、二回とも勝利を収めました。これは正しく神様の摂理だったのです。したがって一九四五年、第二次世界大戦が終わった時を契機として、イギリス、アメリカ、フランスの三大キリスト教国家が、自国中心主義に陥らず、世界平和の実現のために力を合わせて神様の真の愛を実践し、そして犠牲と奉仕の精神で人類の平和のために全身全霊を傾けたとすれば、国際連合を中心として、人類の恒久平和が達成されたはずでした。しかし、実際の歴史的事実は、世界平和の実現ではなく、共産主義の拡散とそれに伴う数多くの紛争、キリスト教国家の霊的衰退および道徳的堕落でした。戦後四十年以上もの間、米ソ対立の冷戦時代を経てきた人類は、霊的な荒野をさまよってきたのです。最近、私は、神様の啓示に基づいた世界平和のビジョンを実現するために、世界の人々に神様の理想と摂理を明らかにしてきました。それとともに、世界平和の実現に必要であると考えられる多くの組織と機関を設立し続けてきました。このような平和運動は現在、完成段階に達していると言ってもよいでしょう。それでは、神様の摂理とは何でしょうか。神様の創造摂理はもちろん、平和な世界であることは言うまでもありません。平和な世界は、そこに分裂や争いがあってはいけません。統一と調和と喜びに満ちた社会でなければなりません。それを可能にせしめ、最大最高のものをつくるのは、正に真の愛なのです。真の愛は、統一の要因であり、喜びと幸福の源泉です。ですから、平和の前提は、真の愛であると言えるのです。神様の真の愛は、どこに根を下ろすのでしょうか。真の愛の定着地は家庭です。アダムとエバが完成し、神様を中心とした夫婦として理想家庭を築いたならば、そこに真の愛が定着するのです。真の愛の家庭こそが、真の平和を生み出す基地となるのです。人類がいまだに真の平和を成し遂げられないのは、真の家庭を知らずにいるからです。その答えは聖書に記録されているように、人類が神様とは関係のない立場に落ちてしまったからです。人類の始祖アダムとエバが堕落して以来、この世界には平和が消え失せてしまいました。代わりに分裂と闘争が人類を支配するようになりました。個人においては心身の葛藤、家庭では夫婦の対立、そして社会では人間同士の闘争が絶え間なく起きています。結論的に言うならば、真の愛の喪失という根本的な原因によって、すべての問題が起きていると言うことができます。人間の堕落は、真の愛の喪失を意味します。したがって、アダムとエバが失ってしまった愛を復帰するために、イエス様は真の愛の王として降臨されたのであり、また再臨のメシヤも、真の愛を立てるために来られたというのが、救援摂理から見た論理の帰着です。世界平和のための今までの私の歩みは、いかにすれば人類が真の愛を回復できるか、という一点に集約されます。今日、道徳的に退廃した世界を見るとき、神様の悲しみがどれほど大きいかということを、私はいつも痛哭する心情で見つめてきました。ソドムとゴモラのような姦淫の弊害が世界を襲い、未来を背負うべき若者たちがフリーセックスに陥っていく姿は、神様の最大の悲しみであり、それは正に人類を滅亡へと導く道なのです。しかし、今日、世界で一つの希望と喜びを発見できるとすれば、それは、世界が偽りの愛によって破滅しつつあるこの状況を防ぐための女性たちの活動が、世界的に拡散していることです。これは大きな希望です。既にこの日本から女性たちが世界百六十ヵ国に派遣され、ために生きる精神を実践していることは、限りなく喜ばしいことと言わざるを得ません。危機を救うのは女性です。今、私たちは、女性たちの力を尊重しなければならない時が来ました。国家で言うならば、島嶼国家が正に女性の立場に立っているのです。各国の代表、貴賓の皆様。皆様の国は島嶼国家です。島嶼国家は女性、あるいは母としての特徴を共通して持ち合わせているので、共に連合し、力を結集して、人類に対して母としての使命を成功裏に遂行していくよう互いに協力しなければなりません。私が「島嶼国家連合」を提唱し、創設したのも、このような理由に基づいているのです。人類歴史を見ると女性は、良い意味であれ悪い意味であれ、重要な役割を果たしてきました。聖書によれば、人類の歴史は、アダムとエバの堕落による悲劇的な事件から出発しました。人間堕落の結果に対して、私たちは責任をもってこれを解決していかなければならないのは当然のことです。しかし、エバが最初に堕落して罪悪の歴史を出発させたという聖書の記述を見るとき、人類歴史は、エバの堕落を女性たちが先頭に立って蕩減する時代が来ることを摂理的に要求しています。二十世紀における男女平等の思想的風潮、また女性の真の解放を求める運動などは、女性が世界平和のために立ち上がって世界的に大きく活動する環境が造成されたことを意味しているのです。このような神様の摂理をよく知っている私は、一九九二年四月に、私の妻と共に「世界平和女性連合」を創設しました。この連合の運動は、近い将来に世界万民が参加する「世界平和女性連合」の運動へと発展させ、真の愛を家庭の中で定着させることによって、理想世界、すなわち地上天国を建設するのです。今、女性の時代は、一九九〇年代の世界的な趨勢であり、女性の愛と協調、和解、調和の精神が、世界平和のために歴史的な貢献を果たす時代であると言うことができます。この世界的な女性時代は、そのまま女性の特徴をもつ「島嶼国家連合」にも該当するのです。そのように女性時代と島嶼国家の時代は深く結び付いています。女性が世界平和のために立ち上がる時は、島嶼国家もまた世界平和のために立ち上がる時なのです。すべての島嶼国家が、世界平和の実現という光明な歴史的使命を果たす時は、正しく今なのです。これ以上に誇り得る使命がどこにあるというのでしょうか。それでは、ここでしばらく、女性たちが歩んできた人類の歴史を振り返ってみましょう。神様に向かう強い信仰心によって偉大な証の書を残した立派な女性たちがいます。アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケルの三人の女性がいなければ、イスラエルの歴史はなかったと言っても過言ではありません。また、神様の祝福を受けた血統を命懸けで残そうとしたタマルの絶対的な信仰がなければ、旧約聖書に記録されているメシヤの血統は確立しなかったでしょう。タマルと同様に、イエス様の母マリヤもまた、神様の聖なる血統を継ぐ子孫を生むために、絶対的な信仰を天のみ前に示してくれた女性でした。エバの堕落は人類に霊的な死をもたらしたのであり、その結果、人類は偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の中で呻吟するようになったのです。マリヤとタマルの歩んだ道は、エバの堕落を蕩減するための道でした。また、か弱い十六歳のジャンヌダルクが立ち上がったとき、存亡の危機に立たされていたフランスが救われたのです。十六歳の彼女が一国を救えるほどの力を発揮したのです。このような女性たちの歴史的足跡をたどってみると、覚醒した女性たちがどれほど立派な活動をしてきたかを知ることができます。女性のもつ奉仕と献身の美徳によって人類愛に燃える「島嶼国家連合」が誕生するとき、人類の前途には、希望の光が明るく照らされるでしょう。島嶼国家は最終的には大陸を求めなければなりません。それは女性が男性を求めなければならないのと同じ原理です。島嶼国家存立の条件と言ってもよいでしょう。したがって、島嶼国家から始まった世界平和のための諸活動は、大陸国家に良い影響を与えるでしょう。このようにして世界平和実現のための善の影響力が島嶼国家から大陸国家に及ぶとき、世界平和の実現の可能性は、より一層高まるでしょう。目前に近づきつつある二十一世紀は、人類が長い間願ってきた地上天国の輝かしい幕が上がる新世紀となることを私は確信しています。私が世界平和のために創設した「世界平和連合」、「世界平和女性連合」、「世界平和青年連合」、「世界平和学生連合」と共に、今回創設される「世界平和島嶼国家連合」は、世界平和のために重要な役割を果たすことを確信しています。そして最終的に、これらすベての組織は、「世界平和家庭連合」として結実しなければなりません。なぜならば、平和の最後の砦は家庭であり、家庭の再建以外に世界平和に至る道はないからです。「世界平和家庭連合」の目的は、超民族的、超国家的、超宗教的理念に基づき、青少年たちを立派に教育することによって、理想国家を完成し、五色人種が永生を謳歌する人類一家族世界の歴史的聖業を成就することです。皆様の「島嶼国家連合」と「世界平和家庭連合」の偉大な目的に対して大きな賛辞を送り、立派に世界平和の大業を完遂することを信じて疑いません。神様の真の愛による人類一家族世界の夢が「島嶼国家連合」の創設によって、より一層実現可能なものとなったことに対して、皆様に感謝を申し上げながら、私のメッセジを終わりにしようと思います。皆様と皆様の御家庭に神様の導きと祝福が共にあることを祈ります。御静聴いただきありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2023.01.04
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文鮮明先生御言選集 19560606 - 統一しようとする神様の愛の御旨をなそう(2021.01.04)からのペーストです。統一しようとする神様の愛の御旨をなそう1956年6月6日(水) 本部教会 預言者たちを立て摂理される神様の希望 アダムの堕落によって神様の御旨が成せなかったため、今日まで歴史路程を経ながら復帰摂理は反復されています。 神様と人間が一つの御旨を中心として、一つの愛に和合して住み、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、全部が一つになって生きることが神様の創造本然の御旨でありました。ところがアダムとエバが堕落することによって神様の愛は神様の愛だけに止どまるようになってしまいました。即ち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結べず、人間から去るようになり、全被造世界から去るようになりました。 それで神様は御自身が立たせようとするその愛を中心にして全万物を糾合して、神様と万物が共に喜ぶことのできるその一日を求めながら、今まで6千年歴史を経て来られました。しかし未だ神様の愛を中心にして全被造万象が一つに統一できないまま、その神様の理念は理念のまま残っており、求めなければならない希望の愛もそのまま残っているのであります。それで神様のその御旨を必ず成し遂げるために今まで摂理して来られているのです。 このように神様は人間堕落以後、今までどの時代をおいても神様の希望を成して、人間に対して信じることができる心と、愛することができる一つの心を訪ねるために、長い間摂理して来られたのですが、未だそれらを成せないで、探せないで来られたのであります。 私たち天の摂理歴史を回顧して見るならば、神様はアブラハム一人を立てて、人間に対する希望と、人間に対する理想と、人間に対する愛の変わらない基準を立てようとされたのを知ることができます。このような神様の御旨が成し遂げられる日が来てこそ、そういう愛の中心が立つ日が来てこそ、神様と人間と関係が結ばれるようになるし、その結ばれた関係の土台によって神様は新しい理想の喜びを享受できるので、アブラハムを選び立てたのであります。ところがアブラハムが愛の中心を立てられないことによって、神様はそれ以後イエス様の時代に至るまで、天の愛の御旨を立てるための足場を築いて来られたのです。 そのためにイエス様までの4千年歴史は、全体摂理の御旨の前にあって、神様の希望と信仰と愛を成した一つの実証的な存在を立てなければならない期間でありました。そういう存在を立てられないならば、神様の希望と信仰と愛は、各自各々分離してどの一時期にも統一を見ることができない歴史として綴られたので、神様はまず希望の基盤を築かれました。そうしてその希望の上に信仰の希望を築き、その信仰の基盤の上に愛の基盤を築かれようとしたのです。そうして後にはこのすべてのものを結実した一つの化身体、即ち全体の希望の実証的自体、全体の信仰の実証的自体、全体の愛の実証的自体を天地の前に押し立てることができる日を迎えようとされたのです。ところが万一そういう日を迎えられないとしたら、神様の愛を中心に統一の理念はこの地上に成就できなくなるのです。 その日を立てるために神様は、アブラハムから始めてモーゼを経て、洗礼ヨハネに至るまで4千年摂理歴史を三段階に分けて、希望の基盤を築きながら苦労して来られたのです。そういう希望の基盤の上に一つの実体として現れた方が誰だったかと言えば、即ちイエス・キリストでありました。イエス・キリストは神様が4千年の間希望された一つの実体として現れた存在だったために、神様が4千年間希望を目指して摂理して来られた総合実体でした。 それならばイエス様がそのような結実体としてこの地上に来られて蒔かれたものが何かと言えば、それは信義の時代で立てられた新約の福音、即ち信仰の福音でありました。その後この信仰の福音を中心にして今日まで2千年の歴史が経過しました。 それならばその信仰の福音が結実した基盤の上に天地を代身して、全体の愛の実体として現れる一つの存在が誰かと言えば、それが即ち来たるべき再臨主ということを皆さんは知らなければいけないのです。それでは神様は再臨時代に何をしようとされるのか? 来られる再臨主を中心に今まで築かれて来た信仰の基盤の上に、一つの生命の種を蒔いて結実するようにすることが神様の6千年摂理歴史の目的であることを、皆さんは知られなければならないのです。 成約時代の中心要素 今日私たちは神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公であられた神様は、人間をして歴史の過程で希望を代身する旧約時代、信仰を代身する新約時代を経るようにされたので、これからは愛を中心とする成約時代を経なければならないのです。 それでは今そういう成約時代即ち再臨時代にあって、永遠不変の一つの中心要素として残れるものは何なのか? それは神様の愛であります。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなる のです。 そのために今まで人間たちはこの愛のため、希望の摂理路程と信仰の摂理路程を経て来ました。しかし今愛の摂理路程を皆さん一人一人が歩かないならば、神様がこの地上に愛を中心として成さなければならない統一の基盤は崩壊してしまう事実を皆さんが知らなければならないのです。 希望の基盤の上に信仰の中心として現れたイエス・キリストは、この地上に信仰を立てるための御言を語られました。万一こういうイエス・キリストをその当時の人間たちが信仰の実体として受け入れたならば、即ちイエス様を神様の4千年摂理歴史の希望の結実体、永遠無窮なる信仰路程にあっての信仰の中心存在、また永遠なる神様の愛を証しして統合させることのできる一つの実体として侍るならば、その当時の人間たちはイエス様一人によって永遠無窮なる神様の希望を持つことができたであろうし、永遠無窮なる神様の信仰を持つことができたであろうし、永遠無窮なる本然の愛を体恤することができたのであります。 ところがユダヤ民族の不信でイエス・キリストが亡くなられることによって、今日私たちは信仰路程で霊的な希望の実体だけを完成するようになり、霊的な信仰の実体を完成するようになり、霊的な愛の実体だけを完成するようになったのであります。 それでは神様の愛の勝利の基準は何であるか? 天上天下のどんな存在物でも神様の愛を中心として動いています。ところがその神様の愛の化身として来られたイエス・キリストが亡くなられることによって、そのすべての願いが崩れてしまったのです。 イエス様は神様が4千年間苦労を伴う希望の存在であり、万物の主人公として来られ、神様と一体となるのを願ったものがアダムとエバの堕落によって壊れました。それでイエス・キリストを中心にして神様の理念と一つとなり、霊肉合わせた信仰の実体として現れなければならなかったのに、霊的な面だけ完結してしまいました。 そのために今日私たちは、今イエス様が残して行かれた遺業を 継承して成就しなければならないのです。イエス様の一身の霊肉を備えた一つの希望の実体となることと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないし、またイエス様が信仰の実体だったのと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないのです。また愛を中心とした一つの実体であったのと同様に、私がそういう人とならなければならないのです。そうして神様の御前に立ってイエス様の希望と信仰と愛を代身して出て、聖霊の希望の実体として、聖霊の信仰の実体として、聖霊の愛の実体としてその使命を代身しなければならないのです。 これがイエス様が来られ行かれた以後、今日この地上の人間たちがお父様の御前に成さなければならない使命だというのです。したがって私たちがその使命を完遂しようとする時、イエス様の希望の終結を、聖霊の希望の終結を見ることができます。更にイエス様の信仰と聖霊の信仰、イエス様の愛と聖霊の愛の終結を見ることができます。そうして皆さんがそのすべてのことを終結することのできるその日を成し遂げてこそ、この地上に再臨主(真の父母)が現れることができるというのです。 神様の信仰・希望・愛の実体とならなければならない人間 神様の希望は神様自体のものではなく、人間のための希望でありました。神様の信仰も神様のものではなく、人間のための信仰でした。また神様の愛も神様自身のための愛ではなく、人間のための愛だったのであります。そのために人間がそういう神様の希望を代身して、信仰を代身して、愛を代身できなければならないのです。その時にそういう人間自身を全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代身する存在として神様が万物万象の前に誇ることができるのです。言いかえれば、彼自身をこのすべての万物が願う希望の中心体だと誇ることができるのです。また全被造万物即ち、天地にあるどんな存在物でも信じて生きることができる主人公として誇ることができるのです。のみならずすべての存在が愛することのできる一つの敬慕の中心体として誇ることができるのです。イエス・キリストが神様の愛を代身する仲保的な化身として現れたのと同様に、今日私たちはイエス・キリストの希望と信仰と愛を受け、この地上にどんな悪い人の前にも一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければならないのです。 そういう存在とならないならば、そのどこへ行ってもイエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立させることができないのです。そのために今日私たちは、このサタン世界の前に神様の希望、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに応えなければならないのです。 ところでイエス・キリストの部分的な希望に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な信仰に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な愛に対して応えるのではなくして、全体に対して応えなければならないのです。人間たちは今までその一つの基準をこの地上に探し出してそれに応えようとしましたが、全体に対して応えて差し上げることができませんでした。しかしイエス様は3弟子を通じてそういう家庭形を現そうとされたことを皆さんは知らなければならないのです。 それでは信仰の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヤコブでした。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヨハネでした。 この3人がキリストの福音の一部分一部分を責任持って一つになって進むことによって、今日私が希望の結実を譲り受けることができ、信仰の結実を譲り受けることができ、愛の結実を譲り受けることができるようになって、また摂理歴史はそのようになるのを願いながら流れて来たのです。そのために3人が一つになって一つの完成体として完結し終えることが最後の道であります。これが、キリストがこの地上に残された最後の教えだったのです。 だから今日皆さんが最後の完成者として現れるためには、キリストの代身体とならなければならないのです。ところが万一皆さんがキリストの3弟子を根とした一つの不変の実体として立てないならば、三弟子を立てて行かれた新郎になられるイエス様の御前に、出ることができないようになります。これを考える時、今日私たちはペテロを立てようとされたその信仰の希望を私自身で成し遂げて差し上げなくてはならないのです。ヤコブを立てようとされた希望の実りを私自身で成し遂げなければならないのです。ヨハネを立てようとされた愛の実りを私自身で刈り取らなければならないのです。 このような皆さん自身となるならば、即ち皆さんが終りの日のイエス様の御前に立つことのできる一人の新婦となるならば、皆さんは神様が6千年間悲しまれた希望の願いが自分自身で結実された喜びを感じるようになって、お父様の御前に感謝をお返しできるようになるでしょう。 更に皆さんは神様が今まで6千年間願って来られたその信仰の希望が、イエス様の愛を中心として成し遂げられたという、すべての万象を代身して成し遂げられたというその喜びの事実を現さなければなりません。そして神様が喜び愛する中でその愛の喜びを感じて、お父様の御前に感謝することのできる皆さんとならなければならないのです。このことが今日皆さんに歴史的な責任として残っていることを知らなければなりません。 摂理が要求するもの それでは皆さん自身が「アバ父よ」と呼びながら、希望の結実を持たなければならない、信仰の結実を持たなければならない時、愛の結実を持たなければならない時となったのですが、今皆さんに要求することは何か? 神様が6千年間希望を抱いて切なく思われたその切なさを感じとれなければなりません。または6千年間信仰を立てるために苦労されたその苦労を感じとれなければならないし、6千年の間神様が愛を成すために犠牲の路程を繰り返して来られたその事実を感じとれなければならないのです。 イエス様一身において、神様の4千年の希望の結実を代身する実践的な路程を立てたものが信仰の摂理であって、その信仰を代身する実践的な路程に立てられたものが何かと言えば、神霊の歴史でした。またその次には愛を代身する実践的な路程が見せてくれたものが何かと言えば、統一の歴史でありました。このようにイエス様は希望を持って摂理の道を立てたし、神霊を持ってここに種を蒔いて繁殖させたし、その繁殖したことなどを一つにまとめようとされた のです。 したがって今皆さんは神様の愛、イエス様の愛、聖霊の愛を実現しなければならないのです。そしてイエス様の希望が神様の希望として変化する時が再臨時代であり、イエス様の信仰が神様の信仰として変化する時代が再臨時代であり、イエス様の愛が神様の愛として蒔かれる時が再臨時代であることを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様の希望の結実、イエス様の信仰の結実、イエス様の愛の結実が皆さん自身の中で結ばれていなかったということであれば、皆さんはまた再び神様の新しい希望の中心を探し立てなければならないし、神様の新しい信仰の中心を探さなければならないし、神様の新しい愛の中心を探さなければならないのです。これが皆さんに与えられた課題であります。 それではそれらを探すために皆さんはどのようにしなければならないのか? 皆さん自身がイエス様の希望を成して、聖霊の希望を引き継いで、イエス様と聖霊の信仰を引き継いで、イエス様と聖霊の愛を引き継がなければならないのです。そうして、「お父様、聖霊の苦労がわかりました。聖霊の希望がわかりました。聖霊の信じて来られた歴史(役事)がわかりました。イエス・キリストの希望がわかりました。イエス・キリストの信仰がわかりました。イエス・キリストの愛がわかりました」と言えるようにならなければなりません。このように言いながら、お父様の御前に出て行くことができるその一つの存在が、今日この地上に現れなければならないということを皆さんは知らなければならないのです。 それならばその一つの存在はどういう存在なのか? その一つの存在が持っている希望はキリストの希望であり、信仰はキリストの信仰であり、愛はキリストの愛であります。ところでその一つの存在がこれらを神様的な希望と神様的な信仰と神様的な愛で終結される時に、初めて神様はイエス・キリストの希望として残されたその目的を終結し終えて御旨を立てることができます。したがってその一つの存在は神様のイエス・キリストが祈られた歴史、イエス・キリストが今まで私たちのために神様の右側で立って祈られたそういう歴史を越えなければならないし、更に霊肉を持つ完成体として天の御前に立て得るようにならなくてはならないのです。またそういう存在が私と天の喜びをキリストを通して体恤するようになる時、初めて神様と人間が 一つになれるのです。そんな位置まで上がって行かなければならないことを私たちは知らなければならないのです。 そのために今日私たちは、神様が4千年間苦労して立てられたキリストの心情、またキリスト以後2千年間苦労して立てようとされた再臨主の心情まで体恤しなければならないのです。そして今日私たちにはイエス・キリストが霊的な完成の立場を越えて、肉的に完結しなければならない希望の実体を完結できず、信仰の実体を完結できず、また愛の実体を完結できないために、その実体を完結しなければならない責任があるというのです。 再臨主は信仰・希望・愛の代表者 イエス・キリストの愛を中心として来られるところの再臨主を立てて、神様と繋がることのできる関係を結ばなければならないのです。 それでは、今日私たちはこのためにどのようにしなければならないのか? 実証的な希望の実体として現れなければならないし、信仰の実体として現れなければならないし、愛の実体として現れなければならないのです。そんな皆さんの基盤の上に再臨主が来られたならば、神様がイエス・キリストを立てられて願われたその希望が皆さん自身を通して決定するのです。そのためにその再臨主は私全体の希望として現れて、私全体の信仰として現れて、私全体の愛として現れるというのです。 ところで再臨主がそのような愛として、希望として、信仰として現れるようになる時、皆さんは皆さん一人で喜ぶだけではいけないのです。その喜び、希望の喜びがその方によってなのですから、その方に感謝しなければならないのです。私が信仰の実体に立ったその事実に対して感謝しなければならないのです。そうする時、全天地が皆さんに和合して、皆さんを愛の実体として対することのできるようになるのです。このように全天地が動く感じを皆さんは持たなければならないのです。 そういう感じの中で皆さんは、神様がイエス・キリストに対して希望されたことを、希望を代身する実践の路程を通して開拓しなければならないのです。 また信仰を代身する心霊的な歴史(役事)を開拓しなければならないのです。更に愛を代身した侍る生活を実践して、統一の歴史(役事)を成して、すべての万民が栄光に侍って差し上げることができる人々とならなくてはならないのです。 そのために最後の神様の愛を成し遂げるには実践的な希望、心霊的な信仰、心霊的な愛をすべて備えなければならないのです。その時私たちは主に侍り、永遠に生きることができ、神様に侍って永遠に生きることができるのです。 そして今日の私自身は天の喜びに満ち溢れて、地上の万物の前に喜びに満ち溢れ、地上の人間の前に喜びに満ち溢れていなければならないのです。そうしてその一つの喜びを全世界が統一するように感じながら、永遠に生きることができる時代を皆さんが建設しなければならないのです。 そうして皆さんがいる所隅々まで、そこは神様の希望の実践的な場となって、信仰的な場となって、愛の化身的な場とならなければならないでしょう。そうして神様が希望した御旨を地上で成し遂げて、神様がイエス様を通じて成し遂げようとした希望が、私たちから成し遂げられるようになって地上の万物に結ばれなければならないのです。また神様の喜びが人間を通して万物にまで結ばれる時、初めて神様が願った統一の歴史が成立されるのです。 そのために今日皆さんは、自分が神様の御前に希望の存在として立つためには、まず天上天下のすべての万物を代身して希望の結実体として喜んでいたかを自問自答してみなければなりません。また皆さんは、今まで地上の多くの人間が天を信じてきたその信仰の全体を代身して喜ぶことができる存在となったか? 更に神様から愛を受け、愛するその愛の感じを感じることができる存在となったか反問してみなければならないのです。 ところがそのすべての完結体として来られる一人の存在が誰かと言えば、即ち再臨主なのです。即ち、その再臨主は全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代表して現れる方だというのです。ところでその方が現れるようになる時、皆さんは彼を迎える準備ができていてこそ、彼の希望と彼の心霊的な信仰と彼の愛を所有することができるのです。またその時皆さんは、 神様の御旨を成すために行くまいとしても行かずにはおられないし、行わないでおこうとしても行わざるを得ないのです。そのために皆さんは今日この地の堕落圏内で生きている人間たちの感情を超越した希望の化身として、信仰の実体として、愛の実体として現れなければならないのです。万一このような存在がこの地にいるならば、再臨主はそのような存在を訪ねて来られるのです。 それならばそういう存在を求めて来られる目的は何であるか? イエス・キリストが残した使命、肉的に完結しなければならない使命のために尋ねて来られるのであります。6千年前から神様が希望される霊肉を中心としたその御旨を成し遂げようと尋ねて来られるのです。 したがってそういう御旨を条件として手本となれる隠れた存在がこの地上に現れるようになる時、どんな存在であっても彼を希望の存在として、信仰の存在として、愛の存在として侍ることができなければなりません。愛を中心としてこそ統一の理念が成された一つの世界は希望を越え、信仰も越えた世界なのです。だから今皆様には、愛を中心とした自分の生活に天上天下が和合できる日を成し遂げなければならない重大な責任があるのです。 再臨主の実践的な基盤 たとえ再臨主がこの地上に来られると言っても、人間の実践的な基盤がなければなりません。たとえ永遠なる神様の愛を代身した存在だと言っても、人間即ち皆さんの基盤がなくてはならないのです。このような重大な責任が皆さんにあるのです。したがって今日皆さん一人は24億人類に代わって、今まで天上にいる億兆の先祖たちを代身していることを知らなければなりません。更に私一自身は天地のすべての存在物が希望する存在であり、全天地は私一自身が信仰の個体、愛の実証的な個体となることを願っているのです。 だから今皆さんはそんな心を感じ取って、食べても飢えても生きても死んでも、その日常生活にあって全体の中心を証して保護して差し上げなければならないのです。そうして自然万物を通して神様の御前に栄光を帰し得る、このような歴史(役事)まで皆さんがやらなければならないのです。このような重大な責任を 今日皆さんは背負っているのです。 それでは皆さんたちの過去の信仰生活を振り返って見る時、希望を成したと言って証しできる自分となっているか? 信仰を成したと言って証しできる自分となっているか? 愛を成したと言って証しできる自分となっているかということが問題です。 そんな皆さんになる時、イエス・キリストの希望が、イエス・キリストの信仰が、イエス・キリストの愛が皆さんに神様の希望として、信仰として、愛として体恤されるようになるのです。したがって今皆さんはイエス・キリストを通じて残された神様の希望を、残された信仰を、残された愛を感じることができなければならないのです。 そのような感じを感じる人がいるとすれば、彼は神様の直接的な恵みを受けている人です。またその様な人は、神様の希望を現すまいと思っても現さないではおられない、神様の信仰を現わすまいと思っても現さないではおられない、神様の愛を現すまいと思っても現さないではいられないのです。万一皆さんがそういう存在となるならば、皆さんがどこへ行っても神様の希望を分け与えることができ、どこへ行っても神様の信仰を分け与えることができて、どこへ行っても神様の愛を分け与えることができるのです。 また皆さんがそのようにしてこそ、来られる再臨主を地上で神様の代身としてお迎えできることを、皆さんは肝に銘じなければならないでしょう。 祈祷 愛するお父様、天倫の隠された御旨の世界が成らなかったことがすべて神様に責任あると思ってましたが、人間の堕落によって私たちにもあることを知りました。 神様の永遠なる希望が残っている限り、今日私たちにも永遠なる希望が残っており、神様の永遠なる信仰の願いが残っている限り、今日私たちにも永遠なる信仰の願いが残っており、神様の永遠なる愛の実践が成し遂げられない限り、今日私にも永遠なる愛の実体を成さなければならない責任が残っていることを知りました。 この一日に蕩減的な歴史を継承するために、私たちは4千年希望を継承して6千年の希望として、4千年の信仰を継承して6千年の信仰として、 4千年の愛を継承して6千年の愛として現さなければならないのです。神様の御前に立って6千年の希望を永遠なる希望として、6千年の信仰を永遠なる信仰として、6千年の愛を永遠なる愛として立てるべき責任が私たちに残されていますから、この日の私たちの至らなさと不足さをお許し下さい。この日の私たちの不忠さと不孝さを許し、私自身を高く立てていたことをお許し下さい。 今万民の希望を結実しなければならない時になりましたし、万民の信仰を結実しなければならない時になりましたし、万民の愛を一つの実体として現さなければならない時になりましたが、その一つの実体がいずこに結実されておりますか? 取るに足りない私たちでありますが、新しい新婦として正装しなければならない自分たちであることがわかるように悟らしめて下さい。 その時内的な面で完結を成し遂げられたイエス・キリストの苦労の歴史が、外的な私たちを通して結実されることができるのであり、再臨理想が実践されることができるのであり、外的な歴史を展開できることを知っております。 今日天地の中心的な役割を担当すべき人が誰かといえば、終末の再臨歴史を前においている聖徒たちだということを知っています。お父様はそのような人々に永遠なるお父様の希望を任せようと願っておられますが、彼らがその希望を受け持つ者となっているか、永遠なるお父様の信仰を任せようとされていますが、その信仰を受け持てる者となったか、永遠なる神様の愛を任せようとしましたが、その愛を受け持つ者となったのか、それが心配なのです。 そのすべてのものを主の代わりに受け持って、お父様の御前に永遠に変わらない姿でお父様の愛に属した人になる事を通じて、今は永遠なる希望の種族となった者として立たなければならないのです。永遠なる信仰の種族となった者として立たなければならないし、永遠なる愛の種族となった者として立たなければならないのです。このような責任が私たちに分担されている事をわかるようになさしめて下さい。 選ばれたイスラエルの一つの勝利的な中心実体としておられるイエス・キリストの目的を、今日私たち一人一人で成して、即ち全体を代身する希望の実体を備えて、信仰の実体を備えて、愛の実体を備えなければならないのです。今再臨歴史以後には、キリストがこの地上に来られて行なわれたそのすべてのものを代身する、即ちイエス・キリストの希望の実体として立たなければ ならないのであり、信仰の後継者たちとならなければならないのですから、これをはっきりわかるようになさしめて下さい。 今堕落の峠を越えなければならない復帰過程にある私たちが、「お父様の希望に責任持ちます。お父様の信仰に責任持ちます。お父様の愛に責任持ちます」ということができなければならないし、その希望、信仰、愛を、お父様の御前にお返しできなければならないし、更に万民の前に不変の愛を中心として立たなければならないのです。そうしてお父様の御前に愛される事のできる勝利的な存在となってこそ、終末に最後の栄光を代身する事のできる資格者であることを知っておりますので、今日ここに集まった子女たち、どうぞお父様が、「お前は私の希望の存在であり、私の信じる事のできる者であり、私が愛するできる者」という事のできる姿となるように導いて下さい。 更に天上天下すべての万物の前に宣布して、判定の恵みを受けて和動の一つの条件を立てる事ができる勝利の子女たちとなるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 そのためにお父様の喜びがこの地の喜びとして置きかえられ、お父様の愛がこの地の愛として置き換えられて、お父様の希望と信仰がこの地の希望と信仰として置き換えられなければならないのです。再臨理想を迎え受けながら、平面的な喜びをお父様の御前に置き換える事ができるように導いて下さり、お父様の願いが地を中心とする私たちによって成就されることのできる栄光を、全被造世界に現すことのできるように導いて下さい。 私たちの生活を通して生涯を通して、モーゼの栄光を称えることができなければならないし、モーゼの愛によって私たちすべてが一つとなれるよう導いて下さい。そうして24億人類を全部すべて合わせて霊界にいる千々万聖徒たちまで合わせてこそ、一つ誇りを誇ることは神様の御旨を成就することであることを知っていますので、その成し遂げたすべての希望、成し遂げたすべての信仰、成し遂げたすべての愛を永遠に誇ることのできる条件として、天地の中心の中で立てる事のできるようお導き下さることを切にお願いしながら、すべての御言を主の御名によってお捧げ致します。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.31
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「文鮮明先生御言選集 19560527 - イエスのように復活の栄光を神様に帰そう」(2021.01.02)からのペーストです。イエスのように復活の栄光を神様に帰そう1956年5月27日(日) 本部教会…… イエス様は神様の代身実体 そうしてイエス様は神様の内的な性品を代身してすべての苦難と悲しみを堪えながら、愛された神様の心情を継承できたのでした。それでイエス様は自分がどの立場、どの所にいたとしても、ただ神様の御旨、神様の愛を代身する実体としてサタンと戦ったのでした。 イエス様はサタンと戦う過程に、サタンが自分のための目的を中心に攻撃する時に、その影響はイエス様御自身のみならず、神様にまで及んだことを知りました。そのためにイエス様はどのような受 難に会われたとしても、神様が自分(イエス)のために忍ばれたように、また万民のために耐え忍ばれたように、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦われたのと同様に、30余年生涯をただ一人耐え忍びながらサタンに対して戦われたのでした。このように十字架上で亡くなるその絶頂の瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体としてずっと神様の愛を自ら実践して現す生涯でした。ところが彼の生涯路程、即ち神様の愛を実践した路程は、サタンと戦いながら歩んだ試練過程だったのです。 それではどうして神様はイエス様をサタンの前に渡して十字架で殺したのか? それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様はイエス様を愛したけれども、どの程度まで愛されたのか皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は、事実上死を越える立場で受けるということを皆さんは知らなければなりません。それ故に皆さんは神様に代わりに来られたイエス様の愛を受けるためには、死の峠をも越えることができるという切々たる心情を持たなければなりません。そういう時にサタンが屈伏するようになるからです。4千年間、神様お一人全体の世界を眺めながら悲しまれ、心配され、苦労されましたが、イエス様お一人が地上に立てられることによって、彼を中心にするサタンとの新しい戦いが展開したのです。そうしてイエス様は自分のすべてのことを忘れて神様のために戦ったのみならず、死の場にあっても自分のための欲望を持たなかったために、復活の能力を現すことができたのでした。今日私たちもイエス様のようなそういう勝利の過程を歩まなければならないのです。イエス様は神様の永遠の生命を所有して、神様の栄光を現すために自分のすべてのものを捧げ尽くしました。そして罪悪に満ちた人間たちのために自分一人を祭物に捧げました。私たちは、サタンが反対しているということまでも忘れる程に、人類のために手を上げて祈祷されたイエス様の愛を知らなければなりません。 サタン世界では現すことのできない愛をイエス様は現したために、サタンは彼の愛の前に屈伏するまいと思っても屈伏せずにはおられませんでした。サタンは自分個人として求めることが(別に)ありましたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じるようになったのでした。そうして十字架によって4千年間摂理して来られた神様が悲しみ始めたのみならず、人間も悲しみ始めて、またサタンも悲しみ始めたのであります。これを皆さんは知らなくてはなりません。 イエス様が亡くなったことに対して、神様と人間だけが悲しんだのではありませんでした。イエス様の愛と死についてサタンも悲しむようになったのです。それでサタンの悲しみが大きくなればなる程、イエス様の愛の結実はより多く結ばれたのでした。 イエス様は自分の愛を実証する十字架の勝利によって、4千年の間摂理して来られた神様と不変の因縁を結んだし、不変の勝利、不変の愛の実体となりました。イエス様は天と地、人間を代身して神様と一つとなったために、神様が変わらない以上イエス・キリストもまた変わることができなかったのであります。 神様は4千年の間栄光を現そうとされましたが、その願いを成し遂げられなかったので、イエス様お一人を立てて初めてその願いを成し遂げようとしたのでした。それでイエス様は人間を通じてその願いをこの地上に現そうとしたのでした。そういう神様の4千年摂理の証拠的な実体として現さなければならないのに、十字架によってその願いがサタンに蹂躙されることになったのです。しかし、イエス様は神様の栄光の実体として4千年間摂理してこられた神様の栄光を見せてくれましたが、それが何かと言うならば、復活の栄光だったということです。これを皆さんは知らなければなりません。 復活の栄光を現されたイエス様 その復活は4千年歴史において初めて天の栄光を代身したものであり、4千年間サタンとの戦いを勝利した栄光を代身したのでありました。イエス様がこのように勝利的な基準を霊的にとか実体的に見せて下さったために、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開されるようになったのでした。イエス様が十字架に掛かることによって4千年摂理歴史の責任を引き受けて、祖先たちの責任を引き受け持って、天の栄光を代身して あの世に行かれたことが復活・昇天だったのです。 このようにイエス様は内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるために、即ち神様の完全な栄光を現すために来られた御方です。なぜかと言えば、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が合わされてこそ成し遂げられるからです。イエス様は間違いなくこの使命を成すために来られたのです。 神様の栄光が完全に成し遂げられるには、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子・イエス様とユダヤ民族が、離れずに一つになることによって、イエス様の手にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければならなかったのです。しかし神様の4千年摂理歴史を受け持って神様の栄光を実現しなければならないイエス様が、ユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。そのためにイエス様は未完の栄光を成して昇天されたのでした。 イエス様が昇天した後に霊界で、神様が4千年間サタンに対して行った天の戦いと、人間を復帰するために行った真の戦いと、御旨を成し遂げるための摂理の戦いと、聖霊を代身とする愛の戦いをしておられるのです。即ち、イエス様は霊界に行かれて、神様がして来られた戦いを継承して神様の代わりとして戦っておられるのです。 それでは4千年の間摂理して来られた神様の前に、人間を代身して、万物を代身して、天の愛を代身したイエス・キリストが真実に勝利しなければならない場所はどこにあるのか? 他でもないこの地だと言うことです。 地上の戦いを責任持つ聖霊 それでは地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任持たなければならないのか、これが問題です。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを継承して戦っておられるのですが、聖霊と私たちは地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いに勝利するために、全部が協助しなければなりません。この戦いは霊的にのみ戦う戦いではありません。霊肉共に戦わなければならないのです。そしてその戦いで勝たなければならない運命が、私たち人間に残されているのを皆さんは知るべきです。即ちイエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継いで今まで戦って来られたことと、この地で30余生涯を犠牲にして人類救援のために戦って来られたことを、私たちが引き継いで勝たなければならないのが私たちの運命だと言うのです。 そのために今皆さんたちは、「お父様! イエス様! 聖霊よ、私に力を下さい」と祈祷して叫びながら、地上で天の歴史的な希望を成し遂げるために全力を尽くさなければならないのです。 イエス様はこの地上に神様の4千年苦労の結実体として来られたし、最初の完成体として来られた御方です。しかしイエス・キリストは30余生涯に成し遂げられない路程が残ってました。そして3年公生涯期間の戦いの路程にも神様の栄光を完全にすべて成し遂げられないという恨みが残っており、また十字架の血にじむ愛の心情が地上に残っているのです。 それ故に、今日私たちはイエス様が地上で成せない使命を引き継ぎ、霊肉同時に成し遂げなければならないのであります。そして私たちは私たちの生涯路程をみな捧げて、イエス・キリストの行かれた道を継承して行かなければならないのです。 それならば今日私一個人をお父様の御前に立てて批判しようとする時、どのようにしなければならないのか? イエス様は神様の御旨を成し遂げるためにサタンと戦い、イエス様が行かれて以後2千年の間も聖霊と共に苦労して来られました。そういうイエス様に皆さんは似なければならないのです。そしてイエス様はお父様の御前に自分一人を立てて勝利の戦いを展開したことが、どの一日だけではなくて、30余生涯の期間であったことを知らなければならないのです。6千年間摂理されたお父様の心、御旨を成し遂げるために心配し、苦労されたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。 そうして今日皆さんが耐えなければならない路程にあって心を尽くして耐えることができないならば、皆さん一人によって6千年の間心配され苦労された神様の御旨、イエス様が生涯苦労された御旨、イエス様が亡くなられた後聖霊が2千年の間苦労した御旨がすべて挫折してしまうというのです。これを皆さんは確実に知らなければならないの です。 それ故、今皆さんはこの御旨のための戦いを展開しなければならないのです。 私たちの使命 イエス様は怨讐の反対を沢山受けました。この城から追われればあの城へ行かれ、こちらで迫害されればあちらへと逃れて行かれたのです。そのような中でもイエス様は自分の一身を弁明することを知りませんでした。天の全体生命を持って来られたのに、そういう価値を現すことができませんでした。そうして無言の戦いの路程を経て来たイエス様、更に十字架の山上でも自分を忘れて神様の御旨と愛を中心として証しするためにサタンと戦われたイエス様でした。 それ故、今皆さんがイエス様自体を尋ね立てようとするある愛の心がある訳ですが、それがイエス様を悲しくさせるのではなく、喜びを差し上げることなのです。皆さんはこういう事実を考えて、今日皆さんがイエス様の苦労多い30余生涯を代身しなければならず、今日まで耐えて来られた神様の心情を代身しなければならないのです。 4千年の間、神様の御旨を成し遂げるために祭壇を立て、民族を通して摂理された預言者たちの心を代身しなければならず、イエス様が人間を愛されたその心を模範にしなければならないのです。そうして今日皆さんは、イエス様が自分を立てないで、自分を愛さない心で勝利の基準を立ててサタンを嘆かせたのと同じ、そのような事をしなければならないのです。6千年間のすべての戦いを終結させなければならないのです。 皆さんは忍耐のすべての闘争路程に勝利しなければなりません。また天の御旨を証しする戦いで勝利しなければなりません。皆さん一人一人がイエス・キリストを代身しなければなりません。4千年の間神様が忍んでこられた御旨、忍んでこられた栄光、忍んでこられた愛の勝利の心情を抱かなければなりません。イエス様が自分自身を忘れて、ただ天の御旨を成し遂げるためだけに苦労されたように、皆さんも自分自身を忘れて、神様が願われる全体の栄光を結実して差し上げなければならないのです。心で、体で勝利の実を結ばなければならないのです。 そのために心ではイエス様の栄光を歌うことができ、体では聖霊の栄光を歌うことができるのです。そして私たちが、心ではイエス様の復活の栄光を代身して、体では聖霊を通じて復活の栄光を代身できないならば、聖霊は復活の栄光の立場に出られないという事です。イエス様は復活昇天できる栄光を整えましたが、聖霊は未だ復活昇天できる栄光を持っておりません。 今日まで6千年間摂理して来られた神様の栄光に代わって霊肉を持った一つの実体が出て来なかったのです。今日はイエス様の愛によって勝利の栄光を代身する人が出なければならないし、聖霊によって復活の栄光の立場に立つことのできる人が出なければならないのです。皆さんが、イエス様が神様の4千年摂理の御旨を成し遂げるため心と体で戦うことができたように、そういう一つの実体として現れないならば、6千年の間摂理して来られた神様の御旨は栄光として現れないということを知らなければならないのです。それならばこれ以後に私たちはどのようにしなければならないのか? すべてを尽くす意思とすべてを尽くす心とすべてを尽くす性品を備えた聖霊がこの地に来られたという事を知らなければならないのです。そのために天の御旨を代身したイエス・キリストの代身実体、聖霊の代身実体がこの地に現れないならば、神様の御旨が成し遂げられないのです。皆さんはこれを知らなければならないのです。今日皆さんは生命を下さったお父様の御前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放して差し上げなければならない責任を担っていることを知らなければならないのです。 それで終末である今日このことが成し遂げられないなら、神様の6千年摂理の目的が成し遂げられないのです。そのために今日皆さんは、神様とイエス様、聖霊が願う御旨を成し遂げるためにすべての戦いの路程に勝利しなければならないのです。三位神の復活の栄光を現すために、その戦いの路程、忍耐の路程を越えなければならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560523 - 天地のため往来されるイエス(2020.12.30掲載)天地のため往来されるイエス1956年5月23日(水)前本部教会 祈 祷(I) 幼なき子女たち、再び生きる道を尋ねてお父様の膝元に出て来ましたので、お父様、受け入れて下さい。私たちが宇宙より尊いとして話して下さったのを知っております。多くの群れが生命が渇き、この聖壇の前に集まりましたので、お父様、集まったこの群れがお父様の栄光に代わることのできるように許諾して下さり、喜びの祭壇を代身して、お父様の心慮と心配を知ることができ、お父様の心情を体恤できるこのひとときの時間として許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様には、とるに足りない者たちに対して、信じなければいけない立場におられるということを知っておりますし、とるに足りない者たちを頼って役事を行なわざるを得ない立場におられることを知っております。今日まで天が私たちを信じなければならない、信じて立たせなければいけない立場におられることを知っていながらも、お父様が私たちを信じて下さることのできるようにして差し上げられなかった過去の過ちを容納して下さい。 私たちが支えとならなければならない責任も充分に担当できない私たち人間でありましたが、お父様、この時間を容納して下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。お父様を信じて、お父様にたよって私の生命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に差し出すことのできる、お父様が取られるに相応しい供え物としてこの時間お受け下さることを、愛する私のお父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様、多くの人々の中でとるに足らない私たちを呼んで下さったのですから、受け持ってお父様の矜恤の愛で抱いて下さい。 お父様に、この時間身も心もすべて捧げ奉り、お父様の念慮(心配)する心を体恤できるよう許諾して下さり、お父様が私たちに要求されるその一つの願いを受けるに相応しい子女となれるように許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 6千年の間、解かれなかったあなたの切ない事情が今日まで継続しており、あなたの嘆息が今日までも継続している歴史を見てみる時、今日も私たち自体がお父様の嘆息の原因となっていることを容納して下さい。 お父様の生命と願いの理念の実体として下さいまして、お父様が喜ぶことのできる生命の根として下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 今日ここに集まった子女たちを哀れみ、この時間ありったけの精誠を捧げ、お父様の愛を讚美して、千々万聖徒たちの前に立てた子女として恥ずかしくない、生きた喜びの供え物となれるこの時間となれるよう許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべてのことをお任せしましたので主管して下さい。主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅱ) お父様! 孤独な環境の中にあっても各自の十字架を背負って天に向かう険し???を歩んで来た子女たちが、この時間もお父様の膝元に集まり、お父様の大きくて高い愛の恩賜を願ってひれ伏しておりますので、お父様、自ら尋ねて下さり、愛で抱いて下さり、疲れた心を慰労して下さり、乾いた心霊を呼び起こし立てて下さい。 お父様自ら私たちを掴んで下さらなければ、私たちが行く所がどこにあるでしょうか? 哀れな子女たちですから、お父様自ら共にいて下さり、私たちの行く道をお父様自ら導いて下さって、お父様が目指す御旨に向かって一路邁進することのできる子女とならしめて下さい。 この時間集まった子女たちの心と体をお父様自ら主管して下さいまして、各自の心をお父様の御前にうち出しておきますので、お父様、新しい役事を起こして下さり、矜恤の心を持って対して下さい。 各自自分の過去に行なったすべてのことをお父様の前に出して悔い改めることによって、この時間お父様の大きな愛の役事が起こるよう大きな恩賜を施して下さることを懇切にお願い致します。 お父様! 私たちの前には未だ険しこが残されておりますので、お父様自ら手を取って下さり、すべての死の道を歩んでも生き残ることのできる力を許して下さることを、懇切にお願い致します。 今眺めているだけの愚かな子女たちを抱いて下さり、ひたすら天の御旨を立てるために一路邁進できる勇気を与えて下さり、召命された天の子女たちとして天の勇士として進んで行けるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 眠っているすべての子女たちを起こし、お父様の前に導かなければならない責任を持った聖徒たちが集まっておりますので、この者たちが担った使命を果たすのに不足のないように助けて下さい。過去のどんな聖徒たちよりも尚一層高くなれるようにして下さり、サタンまでも愛することのできる子女になれるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 お父様の掴まえに応じて、相応しい歩みをする子女として下さり、サタンの嘲弄を受ける子女とならぬよう助けて下さいますことをお願い致します。自分を中心として天倫を思いはかる愚かな者になることのないようにして下さい。ひとえにお父様の栄光だけを現し、この地上にお父様の恩賜を高めることのできる子女たちとなれるようにして下さいますようお願い致します。 この時間お父様の御名によって集まったすべての子女たちの上に特別の恩賜を施して下さいまして、礼拝を捧げ津々浦々まで生命の炎を呼び起こして下さい。最後の新しい摂理を悟れるようにして下さいまして、この地上にお父様の栄光を高めることのできる子女を一日も早く呼んで下さることを懇切にお願い致します。 この時間にも、お父様を呼んで密かな祭壇を築きながら御旨の道を探し求め渇望する子女たちがどれだけいるでしょうか? この者たちを探す使命もこの席に集まった子女たちが背負っておりますので、お父様! そのような使命を全うするために不足なきようにして下さい。すべての子女たちをお父様が呼び集めて下さり、私たちがお父様の大いなる栄光の御旨を高めることのできる日が一日も早く臨むようにして下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 眠れる24億人類をお父様の御前に尋ね立てなければならない使命が私たちにありますので、お父様、私たちに下さった御言を持って自信を持ち進んで行く所すべてに生命の炎を呼び起こして下さり、復活の役事を起こして下さり、お父様の喜びと栄光をこの地上に高らかに立てることのできる子女となれるようにして下さることを、懇切にお願い致します。 今日まで数千年の間、この地の人類のため苦労して下さったキリストの懇切な心情と、私たちのためにお父様の前に訴えられたキリストの嘆きを解怨しなければならない責任が私たちにあることを、確実に信じられるようにして下さい。 人間が成すべき責任を果たす前に天の基準を捨てないようにして下さり、ただひたすら天のみに対することのできる子女たちとなれるように許諾して下さい。お父様、この時間この席に臨んで下さいまして、責任を果たして天の恵みを受けることができる子女になれるよう助けて下さることを、切にお願い致します。 既に担った使命をまた地に捨てる子女とならぬよう助けて下さい。お父様の栄光を最後まで現せるお父様の愛する子女、能力の子女として立てて下さり、余恨のないよう助けて下さいますことを懇切にお願い致します。 難しい環境にあって孤独な祭壇を築き、お父様の御前に叫び訴える子女たちを、お父様自ら抱いて下さり、役事して下さい。そうして立派に御旨を支えられる天の子女となれるよう許諾して下さることを、懇切にお願い致します。 お父様、この時間自ら役事して下さり、永生の路程を歩むことのできる生命の御言を受け持って帰ることのできる恵みを許諾して下さい。 この時間最後まで共にして下さって、この席に集まった子女たちが帰るときには、清らかな心霊をもって天の大いなる恩賜を受けて、お父様の御前に讚美をしながら帰る子女として分別して下さいますことを懇切に願ってお願いする時に、このすべての御言を愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅲ) お父様! 愛する弟子たちを残して十字架の峠を越えて永遠の世界へ行かなければならないイエス様の心情を知るようにして下さい。3年間喜怒哀楽を共にして従っていった愛する弟子たちをあなたの膝元に集めておいて、念慮(心配)しながら懇切にお願いしたイエス・キリストの心情を体恤することのできるこの時間となるよう許諾して下さい。 心で推しはかり体で体恤して、神様に応じれる心が天に徹し、地上の人間を動かし、神様の心が動ずるなら共に動じ、神様の御旨に謙遜な祭物として捧げられる愛する子女となれるよう許諾して下さることを懇切にお願い致します。 苦海の如き立場において従ってきた数多くの群れは皆落ちてしまい、12使徒だけ残ったけれど、その中でも遠からず自分を裏切るユダがいるのを感じたイエス・キリストの心情を、私たちが体恤することのできるよう許諾して下さい。人を信じて役事された3年公生涯路程が、このように寂しい環境として残された時のイエス・キリストの心情を、今日私たちが心と体で体恤することができるように許諾して下さることを、懇切にお願いします。 お父様! 十字架の死の道を前にして天と一問一答したイエス・キリストの切ない心情を、今日私たちが体恤するようにして下さり、お父様の御前にひれ伏した、生きた喜びの祭物としてその心に慰労の相対者となれる子女として立って下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 今私たちだけを残さないでお父様自ら共にいて下さって、集まったこの時間、探してきた足どりが嘆息の歩みとならないよう許諾して下さい。そのようにして私の生命のすべてを、お父様、受け入れて主管して下さることを懇切にお願い致します。 サタンが周囲に広がっていることを、愛する子女たちがどうぞ知ることができるように許諾して下さいまして、サタンに譲歩する心の余裕を持つ子女とならないように許諾して下さい。お父様に向かう正しい心と体を持てるようにして下さり、使命感を持って知性と誠心を尽くして勝利の祭壇を築くことのできるこの時間となるよう許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 人間的な認識と人間的な観念を私たちの周囲の環境の中から取り除いて下さり、伝える者の心と受ける者の心が一つに和して、お父様の喜びと栄光となれるように許諾して下さることを懇切にお願いしながら、愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 天宙にあってのアダム・エバの位置 神様が天地万物を創造されたのは神様が栄光を受けるためであったことは間違いない事実です。そのためにまず無形の天使世界を創造されて、次に無形実体世界の表象として有形実体世界を創造されました。そして霊界と実体世界の中心であり、代表としてアダムとエバを創造されました。 このアダムとエバは、天地が変わらない限り理想天地と運命を共にしなければならなかったのです。即ち、天地が動ずる如く動じなければならない運命を持っていたアダムとエバだったのです。それでアダムとエバが変われば天地も変わるのであり、アダム・エバの中心が散らばるならば、天地の中心も散らばるのです。そして全天宙の中心が散らばるなら創造主の中心も散らばるという、必然的な条件を持って創られたアダム・エバでありました。 こういうアダム・エバが堕落することによって天宙の中心からずれて、天宙の中心がずれることによって創造主の中心もずれてしまったのです。そのために神様は天地の中心を再び立てて被造世界をして、その正しい中心に和するようにして、創造主の中心と創造された被造物の中心が二つではなく、一つになるようにしなければならない立場におられるのです。そのようになれば再び、天が喜ぶなら地も喜び、地が喜ぶなら天も喜ぶようになるのであり、天が永遠である故に地も永遠であり、天が無限の喜びに浸るなら地も無限の喜びに浸るようになるのです。 創造主の運命が誤らない以上、被造世界の運命は変わることができないのです。このような被造世界の中心であるアダム・エバが堕落することによってすべてが散らばってしまい、すべては方向と中心がずれてしまうようになってしまいました。これを再び回復するための役事が復帰摂理歴史であり、復帰摂理歴史を繰り返し、長い6千年の歳月を経過して今日に至っているのです。 この時間まで神様の愛の摂理は数多くの先知先烈(預言者・聖者たち)を通して現し、先知先烈たちを通して象徴的に愛を現したと同時に、その全体的な愛の結晶体として現れたイエス・キリストを通して実証的な摂理の愛を内的、外的に見せて下さったのです。 そのために彼の心は無形世界の中心を代身して、彼の体は有形実体世界の中心を代表したのです。こういうイエス様であることを知らなければならないイスラエル民族が知らなかったために、イエス・キリストを十字架に渡してしまったのです。それで全天地が闇につかった事実を皆さんは知らねばなりません。 イエス様の御言と実践生活の目的 イエス・キリストが来られるただ一つの目的が何であるかと言えば、天地を創造されたお父様の心情を整えて天地に変わらない永遠の中心を立てるということだったのです。こういう中心を立てるためにイエス・キリストがこの地に来られたのです。 そのために彼が話す事は自分のある中心を立てるためのものではなかったのです。エルサレムのある村やイスラエル一村の部分的な中心を立てようとしたのではなく、全体霊界の中心、創造主の中心に至るまで連なることのできる一つの中心を立てるためでありました。 彼の行動もまた一個人の行動でなく、彼の願いも一個人の願いではなく、彼が争うことも一個人で止どまる争いではありませんでした。彼が願う目標は全天地万物全体を抱くことのできる不変の中心に立ち、万物をはるかに越えて無形世界を経て、創造主であられる神様の心情に代わるところまで進んで行くことだったことを皆さんは知らなければなりません。 そういう願いを持ったイエス・キリストの御言、イエス・キリストの生涯、イエス・キリストの実践的な行動を皆さんは知らなければいけません。彼の行動は天地を新しく建設する出発としての行動であり、彼が語った御言はその一つの御旨を成就せしめるために、再創造の役事を成し遂げる御言だった事を皆さんは知らなければならないのです。 30年の準備期間を経て3年の実践生涯路程でアダムとエバの時に失なわれた天地不変の中心を再び立てさせるために語ったのに、語られた御言をイスラエル民族が信じなかったために、霊界と肉界の中心として立たされなければならなかったイエス・キリストは、霊界の中心としてのみ立たれ、実体的な肉身世界の中心としては立たれなかったということを皆さんは知らなければならないのです。 イエス・キリストは、十字架の峠を越える時まで、何のために生きられたのか? この地に来られて30余年の生涯……何のために苦労したかというならば、一次的には地のために苦労されたのであります。 ところが地のために苦労した彼の功績によって、地上で収穫しようとしていた目的が成し遂げられて霊肉を合わせて地上で成さなければならない一つの中心が、一つの実体に完結されなければならなかったのに、霊と肉が分かれるようになることによって、地上で成さなければならない実体の中心たるイエス・キリストの体は害を受けたというのです。そうして霊的な世界を代表してイエス様の霊だけが完成することによって、復活以後今日まで2千年の歴史は霊界中心に復帰摂理をした期間であったことを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様は十字架に掛かった後復活され、復活されてから40日の間地上で活動された後に、また再び霊界へ行かれました。このようにイエス様が亡くなって復活され、復活されたが再び昇天されたこの事実は神様の創造の役事を象徴的に見せて下さったものです。 創世記を見れば、「夕となり朝となった。第一日である(創世記一章5節)」という御言があります。それは夜の時間があるのです。イエス様の墓中3日期間はまさに夜の時間と同じ期間なのです。30余年生涯は昼の時間であるが、イエス様は弟子たちを立てるために30余年間苦労されました。この苦労の過程を経た後、復活されたということは、夜を過ごして新しい朝を迎える事と同じなのです。 復活されたイエス様は地上に明かりをともすために苦労されたのですが、地上に明かりを立てることはできませんでした。それで地上に明かりを新しくするために、復活されたようであるが、実は霊界の中心として復活されたために、イエス・キリストは地上にそのままおられずに再び霊界へ行かれたというのです。これは何を意味するのかと言えば、夜の期間を過ごし昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕を迎え、永遠の世界へ行かれたことを意味しているのであります。 「知らない」という人間を「知ってる」と言わなければならなかったイエス それでは今残ったのは何なのか? 残ったものが何かと言うならば夜の期間です。キリストの到来によって永遠の朝となるべきものが、イエス・キリストが亡くなられることによって再び夕と同じ期間が残るようになったので、この夜の期間を責任持つべき責任が残っているというのです。私たちがイエス・キリストを渡したという理由で、私たちがその責任を取らなければならないというのです。 この夜の期間の責任を全うしてイエス・キリストが十字架上でサタンを打ち負かし、勝利の基準を立てられたように今日この地に残された多くのクリスチャンは夜の期間の戦いの峠を越えなければならない運命に置かれているのです。 この夜の期間の峠を越えて行き、皆さん自身がイエス様を手本として復活して、彼と共に新しい朝の栄光を受ける時代が何かと言うと、所望の再臨時代なのです。 イエス・キリストはこの地に来られて30余年生涯をこの地のために生きられました。イエス様は(この)地のために地上の人類のために来られたため、地上にいる人間たちは反対したとしても、地上の人間たちは「知らない」と言おうとも、イエス様は「知ってる」という立場に立たなければならないのです。 イエス様がゲッセマネの園を経てカルバリ山上に出て行く時、従って来た弟子たちまでイエス様を見捨てました。イエス様が十字架に掛かる時に、イエス様を「知ってる」と言う人がいなかったのです。どの弟子も、イエス様を「知ってる」と言えなかったのです。このように、「知ってる」という人が一人もいなかったが、この地のためにイエス様は来られたので、「知らない」という地上の人間たちに対して、「知ってる」という立場をとられたのであり、復活されガリラヤの海辺に弟子たちを尋ねて行かれたのがそれなのです。このようにイエス様は、地上の人間たちが知ることのできる一つの道を残しておいて、40日の後に再び昇天されたのです。 今私たちは、私たちが「知らない」という立場にいる時にも、イエス・キリストが私たちを「知ってる」という立場におられるので、イエス様をわからないで(地に)生きているとしても、イエス様を「知ってる」という立場に立たなければいけないのです。 そのためにイエス様が来て行かれた後2千年の間、人間は心からイエス様を探していくという旅をしているのです。ガリラヤの海辺でイエス様が使徒たちを尋ねて下さった事と同じように尋ねて下さったイエス様の恩賜に応えるために、信仰者たちも2千年の間イエス様が行かれた天に向かって尋ねていかなければならなかったのです。こういう生活が今日まで2千年の間継続して来たのであります。 それではイエス様は何のために天国へ行かれたのか? 地のために来られたイエス様が成さなければならない事は天の御旨であるため、霊界に行かれたとしても尚天の御旨のため今日まで働いているのです。 地のために来られたイエス様が、地上に「知ってる」という基準を立てておいたとしても、霊界に行って、即ち無形世界へ行って「知ってる」という基準を立てられないとしたら、人間たちが、「知ってる」という世界へとどまれないようになるので、今日まで2千年間霊界から皆さんが、「知らない」という立場から、「知ってる」という基準を立てるために神様の前に祈祷しておられるのです。 それではイエス様が人間たちのため神様の右側で祈祷されていたが、どんな祈祷をしておられるのか? 血・汗にじむ祈祷をされるのであります。人間たちが地上でイエス様を「知ってる」と言ったなら、イエス様が霊界に行って彼らを「知ってる」と言われるのです。 このようにイエス様が神様の前に、「知ってる」という立場をつくっておかなければ、人間たちが行ける霊界がお父様の前に認定されないために、イエス様は今日まで霊界へ行って、神様の前に私たちを「知ってる」という苦労の祈祷をしておられるのです。これを皆さんはよく知らなければなりません。 この仕事を経た後、イエス様が再び来られる時にはどのようにして来られるのか? 来られるときには地の仕事と天の仕事を合わせ持って来られるのであります。地の仕事と天の仕事に代わって責任持って来られるのであります。それ故、今日私たちも十字架の死から復活され昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られる時まで、そのイエス様が越えられた峠について行き、越えて行かなければならないのです。 また2千年の夜の期間を経て復活の朝に該当するこの時にあって、行かれたイエス様が天で歓迎する一つの中心を立て再び来られる時に、皆さんはこのイエス様が地に向かって来られるのを心で感じ知らなければなりません。 今まで私たち信じる者たちの信仰形態は、天を眺めイエス様を思慕してまいりました。これが今日までの私たちの信仰のモットーであり標準でありました。 聖霊を思慕しなければならない今日 今私たちが慕わなければならない一つの事が残っていますが、それは何ですか? 私たちは地のために代身して働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知らなければなりません。今まで多くの人たちがイエス様を2千年間霊的に思慕してきましたが、今日は聖霊も思慕しなければならないのであります。そうしなければならない聖徒たちであり、私たち人類であるということを、皆さんは考えなければなりません。このように聖霊を思慕すべき時代が来て、新婦の体を完成しなければならない時が来ました。 聖霊は新婦の神であられるので、新婦の形を整え、新婦の形態を成し、私たちは慕わなければなりません。このようになるならイエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて再び私たちがこの地を中心にして尋ねていくのであります。 心で霊界を慕った私たちは、今私自身に役事される聖霊を慕わなければいけないのです。そうして私たちは霊的な象徴であるイエス様を思慕し、肉的な象徴である聖霊を思慕して、私たち一個体で霊的イエス様を思慕する心と肉的聖霊を思慕する体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が私一人の心と体で一体となることができるのであります。そうなることによってイエス様も私の身代わりに立つ事ができ、聖霊も私の身代わりに立つことができるのであり、私はその中にあってイエス様と聖霊の御旨を代身して万民を代表して現れる事ができるのであります。これを皆さんは知らなければなりません。 それでは今この地上に来たるべき主はどんな御旨を持って来られるのか? 皆さんはイエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体に立てなければならないのです。生きた肉体を持った皆さんが、霊界を象徴し、肉体を象徴したイエス様と聖霊を手本として霊肉合わせた一つの実体の中心体として完成しなければならないのです。そうでなければ神様の全体創造の理念が皆さん一人において完結しえないのであります。このように一つの中心の使命がイエス様と聖霊の使命というのであります。この一中心を立てるためにイエス・キリストは再臨されるのであります. 再臨時代の聖徒たちが果たさなければならない事 では、今日私たちが今この一つの御旨を支えようとすれば、どのようにしなければならないか? イエス・キリストがガリラヤ海岸で愛する弟子たちを探して行かれたことだけを思っていてはいけません。イエス・キリストは皆さんたちをいつも尋ねて下さるのではありません。皆さん自身が一人の新婦となり、イエス・キリストを迎えなければなりません。 イエス様と聖霊は天の中心であるので、皆さんは心と体が一つになることができる中心を具備することによって地の中心となって、一つとなって対することのできるこの一基準を立てなければならないのです。今この時はいつもイエス様だけを思慕するという時ではないのです。今は聖霊の体を具備して、私たち一個体がイエス様を地上で代わりに尋ね迎え入れることができなければなりません。こういう一つの中心を皆さんが尋ねて立てることができなければなりません。 この一つの中心を所願されるイエス・キリストは、皆さんのために聖霊を立てて今日まで2千年間苦労して来られました。今皆さんはこの苦労に報いなければなりません。天が霊と肉を代表した中心としてイエス・キリストをこの地に送って霊的にのみ完成したという基準を立てたのですが、皆さんがイエス・キリストを尋ねて迎え、この残された肉の未完成の部分を完結しなければならないのです。皆さん一人でそれを完結すれば、今日まで苦労してこられたイエス・キリストを皆さんの心に迎えることができるのです。 今日人類はイエス様の御前に尋ね出て、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似て全天地万物の前に自信を持って現れなければならないし、神様の御前に自分の一個体を立てて誇りうる人とならなければなりません。 そしてイエス様と聖霊の前に誇りうることのできる私とならなければなりません。またその次には使徒たちの前に誇りうる自分とならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、「今日まで6千年間苦労されたお父様! 6千年間怨讐だったサタンを私一人で屈伏させますので、お父様、今日この時間から私によってサタンに対する思い煩いを捨てて下さい」という自信をもって叫ぶことができなければなりません。 またそして、「この全被造の園に染み込んでいる罪悪の嘆息が、私によってすべて去って行きますので、お父様! 天地に染み込んだ嘆息を、これによって解怨して下さい」ということのできる心を持たなければなりません。 またその次には、神様が6千年間愛する息子・娘を立たせて一度も愛することができませんでした。今日も神様は私たち自体を愛したい心があっても、真心から私たちを尋ね立てて、愛することができないのであります。イエス様と聖霊は私たちを尋ねて来て愛することができますが、神様は私たちがその御言を信じる以前には愛することができないのであります。 信ずる者の責任 そのために今日私たちが、イエス・キリストの代わりとして一つの中心を持って、「アバ父よ! 今日この地の人間たちのすべての罪と嘆息を私が責任持ちますので、6千年の間人間を愛したかった父よ! 今こそ創造本然の愛で愛して下さい」と言うことのできる存在とならなければなりません。皆さん自身がお父様の御前に出て、「お父様! 私を愛して下さい。お父様! 私を愛して下さい」と堂々と言える人とならなければいけません。それでこそ天地を創造された神様の御旨が、イエス・キリストを経て皆さん自体で成就されるのであります。 そのために今日私たち信ずる者の責任というのは…。 イエス様は、この地のために来られ、天のために苦労されました。このように天のために苦労されたイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前に、全被造世界の代わりとして、無限な霊界に代わった中心存在として堂々と立つことのできる存在となってこそ、イエス・キリストが天地の喜びをもって現れる栄光の世界に参席して、神様とイエス様と聖霊と皆さんが一つになって喜びの世界で生きることができるのであります。これを皆さんは肝に命じなければなりません。 祈祷 愛のお父様! 6千年歴史を見てみる時、大きく見れば今までは夜の期間であり、今現れるべき夜明けを待ち望む時に私たちは来ております。 大きく見れば夜の期間を越え、今、朝に達する時点に立っており、全体的な朝の期間を迎えるべき今日、私たちにあっては暗い夜の期間を過ぎて復活の恩賜を持たなければならず、天に行かれたイエス様の御前に心を置き、再び来られるところの心に従って、地を思うイエス様に対して私たちが身代わりとなる体を備えることによって、尋ねて来られる聖霊と一体となって、肉的な中心をなし、そうしてその中心にイエス・キリストを奉り、霊的中心を成してこそ天地を創造されたお父様の本然の心情を備えた一つの中心存在として立てられるということを、この時間少しだけ語りました. 今迄私たちは地のためにだけ生きて来たのでしょうか。これは半分だけにしかならない人生であることを知っています。そうでなければ霊のためにだけ私たちが生きているのでしょうか。これも半分だけにしかならないことになります。 今日までは私たちがイエス様に従って上がる生活をしてきましたが、今からは従って下りて聖霊を慕って一体的な新婦として完成することを願うイエス様の希望を成し遂げることができるようにして下さい。この地で聖霊の新婦の品性を慕って、彼の心情が彼の徳性が体と心に一つとなるよう、ならしめて下さり、イエス・キリストが地上で肉的に完成できなかったことを、聖霊の役事と協助によって私たちが完成する存在として立ち、創造の理念全体に代わることのできる一つの中心存在として立たしめて下さい。 そうして天の本然の中心として、天地に通じた創造主の中心に通じた心の中心として、全被造万物の前に誇ることのできるようにして下さいまして、全被造世界の中心に立たしめて下さい。そうしてお父様の御前に堂々と立ち、「隠して来られた6千年の愛の心情を、私一人でお返しする自信がありますので、お父様! 愛して下さい」と言える息子の立場まで導いて下さい。 今日までこれを成し遂げるために苦労の歴史を歩んで来ましたが、苦労の歴史を経てきたお父様の苦労の前に召命を信じて、立てて下さることを信じて、求めて下さることを信じて、愛することのできる存在として立ち、今お父様が眺めてこられた席に立って、万物を眺めることのできる子女の立場に立たせて下さり、万物に対してお父様が真に誇ることのできる自分として立たしめて下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 この時間参席したあなたの愛する子女たち、しばしの間、聞いた御言が心に和して生命の中心として立てるようにして下さり、私一人が真理を代身して被造世界の創造主の中心を代身して、どこに行っても不足がなく、どこへ行こうとも中心を見失うことのないように導いて下さい。夜になったとしても心だけは昼に住むことができるようにして下さり、何時、如何なる時に主が来られ、聖霊が尋ねてきて、お父様が現れたとしても、迎えるのに不足のない姿になれるように導いて下さい。何時来られたとしても準備を完結した子女として立て下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべての御言を語り終えましたが、息子たちの生涯路程において永遠に共にいて下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560520 - このようにイエス様は私たちを尋ねておられる(2020.12.29掲載)このようにイエス様は私たちを尋ねておられる1956年5月20日(日)前本部教会 離れた一匹の羊と同じ堕落人間 堕落した以後、私たち人類は神様の御前にあってどのような位置に立っているかといえば、99匹の中におられず離れた一匹の羊と同じ立場に立っています。 天にいる千々万天軍天使たちも一匹の羊のようなアダム・エバを失ってしまうことによって、神様の御前に喜びの讃歌を捧げられないでいます。このように千軍天使たちをして喜びの讃歌を捧げられないようにした人間を再び探すために、神様は今まで苦労を繰返していらっしゃいました。 イエス・キリストは神様が4千年間探して来られた一存在として地上に送られました。そういうイエス様は万民の前に善の祖先として、死亡の中に入っていった私たち人間を再び生かすために、真の父母の立場に立って苦労の歴史を重ねておられます。 今日私たちがイエス・キリストを4千年摂理歴史過程にあって神様の唯一な独り子として立てられた方であり、罪悪に落ちた人類を救うために、十字架を背負うことをもってサタンに対して勝利した中心存在として立てられた方であると簡単に知っております。 それならばイエス・キリストを一中心に立てるために、神様はどのようにされたのでしょうか? 世界人類に対して摂理したそのすべてのものをイエス様に任せました。そうしてイエス・キリストは新しい一中心として立てられて、すべての万民を責任持って救援しなければならない立場に立つようになりました。そのような立場に立つようになる時、彼の心と体は言うに言えない悲しみの中におられたでしょう。 私たちを捜して来られたイエス・キリスト それではイエス・キリストが今日私たちを尋ねて下さるのには、どのような過程を経て尋ねて下さるのか。神様は4千年歴史を通して人間を救援するための御言を立てたし、多くの先知聖賢たちを通してメシヤが降臨されることを、数多くの群衆の前に予告して来られました。 この為にユダヤ教信者たちは、先知者たちが訴えた証拠の御言を通してメシヤを迎える為の準備をしてきました。それが旧約の歴史です。このように準備された所に来られたイエス・キリストは、神様の御前に旧約4千年の歴史を善の歴史として終結しなければなりませんでした。そのために彼が語った新しい御言は、神様の4千年復帰摂理路程に入り交じった悲しい御言であると同時に、すべての人々が信仰路程を行くのに持っていかなければならない天倫の法度を明らかにした御言でした。 ところがイエス様が発表されるこの新しい御言を、多くのユダヤ教信者たちが、こころして聞いて信じなければならないにもかかわらず、信じることのできない群衆を見つめられるイエス様の心情はどのようなものであったのでしょうか? イエス様は悲痛な心で訴えられたということを皆さんは知らなければなりません。 今日まで天は私一人を探して、罪の中に溺れている私たち人類を再び尋ね立てるために長い間苦労してこられました。旧約時代には、先知者たちを通してイスラエル民族に旧約の律法の御言を下さいました。そして、4千年の悲しい歴史を解怨するために、イエス・キリストを送られて新しい真理の御言を発表されたのです。しかし、その御言をユダヤ民族が信じ受け入れなかったことを通じて、神様の辛く悲しい心情を慰労して差し上げられなくて、天の悲しい心情を御自身自ら励まし勇気づける結果となったことを、皆さんは知らなければなりません。 そのためにイエス様は行くべき方向を知ることができなくて、サタンの手中にある群衆の前に現れて、行くべき方向を提示して生きることのできる道を教えて下さいました。しかし、イスラエル民族たちはその御言を聞きませんでした。そのようにして私たち人類は生きる方向も失うようになってしまって、神様が立てて下さった4千年苦労の祭壇も崩壊するようになってしまったのです。万一神様の御言のもとにイスラエル民族が一つになっていたなら、彼らは神様が下さった御言によって結実されたであろうし、神様は彼らを再び子女として抱かれたでしょう。 イエス様が下さった御言を信じないユダヤ民族 最初から手本となるべきイスラエル民族が、イエス様が下さった新しい御言を不信して一つとなれないことで、イエス・キリストは悲しみの御言を残していかれました。そのために百匹の羊のような立場に立たなければならないイスラエル民族たちがどのような立場に立ったかと言えば、離れた一匹の羊のような立場に立たされたのであり、私たちもまた同様の立場に置かれています。 私たちは一匹の失なわれた羊と同じ立場にいるイスラエル民族に対していたイエス様の心情を知らなければなりません。失なったイスラエル民族を探し立てるためにイエス様は悲しい心情をもって叫ばれました。 今日私たちが知らなければならないことは、天が私一人を探すために4千年間辛く悲しい心情を抱いて摂理して来られ、その後にはイエス・キリストが神様の悲しい心情を継承して、私たちの後ろに着いて来ながら叫んでおられるという事実です。 それではイエス様は30余生涯の間どのような過程を経られたのでしょうか? イエス様は神様の願いが現れることを願いながら、30年間の私生涯期間の間準備して来られました。その期間が過ぎた後に新しい御言を持って現れて伝えるようになる時、イエス様は喜びを感じながら御言を伝えたのではなく、天の辛い悲しみをもって御言を伝えたのです。 「私に付いてきなさい」と言う言葉、「私を信じなさい」という言葉など多くの御言を語ったが、その悲しい心から訴える声に耳を傾け、聞いて従って行く群れは本当に少なかったのです。 そんな環境でイエス様は悲痛な心情を抱いて30生涯を過ごされて、イエス様が生きておられた時に叫ばれた切実な声が、今も聖書の御言を通して皆さんに訴えているし、今日この時間にもイエス様は霊界から皆さんに向って懇求しているという事実を知らなければなりません。 そのために今皆さんはイエス様が訴えられた御言の内容が何であるかということを知って、自分が行くべき方向を探して行かなければなりません。 皆さん自身が天の御前に失ってしまった一匹の羊と同じ立場にいるにもかかわらず、自分が行くべき方向もわからずに自分がどんな立場にいるかもわからないまま、この世がそのままずっと続いていくだろうと思うなら、皆さんは大きな誤解をしているのであります。 皆さんはよく知らなかったでしょうが、イエス様はお生まれになってから以後、今までの2千年歴史過程を経てきながら悲しい声で叫ばれておられるし、その叫び声は皆さんの願いとなっているのです。 神様の心情とイエス様の御声 懇切に叫ぶこの御声を皆さんは無視しますか? 聞こえないという人がいるならば、同じ恨みの心でも持って行かなければなりません。皆さんの中で呼んでおられる御声を聞きたがらない耳がありますか? この御声を聞きわけるために奮い立つようにならなければなりません。あるいは呼んでおられる御声を皆さんが聞いたとしても、体が丈夫でなく動けない時には、そこへ向かう心でも集めることができる私自体とならなければなりません。 神様は失われた羊と同じ立場にある今日の私一個体を探すために喘ぎ苦しみながら探して来られた歩みが、1日でもなく、1年でもなく、100年でもなく、6千年をかけて探して来られました。 天地の上に失われた羊の群れを探すために苦労して来られた6千年歴史は、天の贖罪歴史でした。 私たち人間が神様の呼ばれる御声を聞けないために、実体の神になられたイエス・キリストを通して見せて下さり、実体であられるイエス様をして神様の無形の心情を現し、宣布された御言がすなわち福音の御言だったのです。 人間が無形にしておられる神様の心がわからず、神様の御声を聞けないために、これを解消するために神様の実体として現されたイエス様だったのです。また彼が伝えた御言と声を聞いて、イスラエル民族がイエス様のところに来て4千年間知らないでいた神様の真正な御旨を知って、神様の心情を感じて悔い改めるべき立場であったにもかかわらず、イスラエル民族は悔い改めず、遂にはイエス様を遠ざけてしまったのです。 そのために今皆さんは聞こえて来るイエス様の悲しい御声を聞きとるために準備をしなければならないのです。そのためにどのようにしなければならないのか? 皆さんが世俗的なすべての言葉をよく聞くように、真に神様の心に代身して、神様の御旨に代身して万民の前に現れたイエス様を、「信じます」と言うことのできる心を持たなければならないのです。 イエス様は無形の神様の代身として来られて、4千年の間天の御前に悲しみだけを与えた無知なる人間たちを代身して贖罪の路程を歩まれたのでした。このようにイエス・キリストを悲しみの位置に立てて再決心するようにされた神様の心情を、皆さんは推し量ることができなければなりません。 イスラエル民族が心を広げて、やるせない神様の内的心情を代身して叫んでおられた御声を聞き分けることができたならば、実体に現れたイエス・キリストの悲しみに満ちて叫んだ御言を、問題なく聞きとることができたのです。ところがイスラエル民族はどうでしたでしょうか? 旧約聖書に現れている御言で満足しようとしました。神様の最後の御言が旧約にすべて記録されていると思ったのです。 神様の悲しみはこれだけではありません。イエス・キリストを立てて神様の内的心情の実体として見せ証しされる時、これを受け入れることができなければ、神様の悲しみが地上の悲しみに結ばれていくということを、イスラエル民族は悟れませんでした。 無形の神様が4千年間苦労して来られたその悲しみを、地上で喜びとして解怨して差し上げなければならないイエス・キリストでしたが、こういうイエス様の悲しみを理解できないイスラエル民族だったので、神様の悲しみはイエス・キリストを通じて解怨できず、また再び悲しみとして残れるようになったことを皆さんは知らなければならないのです。 神様の御旨を代身して、4千年の歴史を代身して地上に来られたイエス・キリストは、喜びの御言を発表できずに行かれました。そのためにイエス様以後2千年歴史が経過しましたが、今日6千年の歴史を通して見てみる時、未だ神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみは地上に深く浸みこんでいるのであります。 今日私たちはこのような神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみを知って、今神様の喜びの御言とイエス・キリストの御言を推察することができなければなりません。 イエス様が私たちを探した目的が、いつも悲しみの御言だけを伝えようとすることではありませんでした。失われた羊の群れと同じ私たちを探すために苦労される過程には、いつも悲哀の御言だけをおっしゃってはいけないのです。6千年の間、悲哀の御言を語ってきたのですから、失われた羊が探されるその瞬間には6千年の悲しみを根こそぎ忘れることができる喜びの御言が現れるべきなのです。 皆さんはその喜びの御言が天から現れるだろうと思っていますが、それは大きな誤解です。 今私たちは2千年の間苦労して来られたイエス・キリストの心情の御前に、私たちを探しておられる主の御前に競争しあって出ていくことのできる羊とならなければなりません。 悲しみのイエス・キリスト、傷ついたイエス・キリストが叫ぶ声を聞いてもためらい、方向を掴んで競争しあうことのできない者になってはいけないのです。イエス・キリストは突然尋ねて来て悲哀の御声で皆さんを呼ぶ時、皆さんがその場で動きを押えてはいけないのです。それならば、どうしなければならないのか? イエス・キリストの悲哀の声が御声が聞こえる前に、皆さんはまず悲哀の声で叫ばなければなりません。 私がまず、「私の牧者よ! 主よ!」という音声が天地に浸み通るように叫ばなければならないのです。 しからば皆さんを探して来られたイエス様が、皆さんが叫ぶ声に耳を傾け聞かれて再び訴える時、それは悲しい声ではなく喜びの声で訴えられるでしょう。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。 イエス様の悲哀の心情を証かさなければならない私たち 今日私たちはイエス・キリストの悲哀の心情を証かさなければいけません。牧者を失ったことを悲しむだけではなく、失った牧者を探すために叫ぶことを知らなければなりません。 このように訴えられたイエス様が残された苦労の歩みまでも責任持てる存在となることが、このイエス様の前に満足を捧げることができるというのです。今日イエス様は悲哀の声で私たちを尋ねており、また私たちを尋ねるために苦痛の生活を繰り返している事実を皆さんは知らなければなりません。 人類を救うために4千年歴史を代身したイエス様は、人類全体の救援摂理によって平安な生活をすることはできませんでした。苦労の生涯を経て今日私たちを尋ねて来ているのです。 皆さんが知っているようにイエス様の30余生涯は苦痛の生活でした。大工のヨセフの子供としての30年準備期間にあって、その生活は外的にしても内的にしても苦痛の生活だったのです。 皆さんのように平安な立場で思い通りの生活ができませんでした。万民の救世主らしく生きられたと思うことは大きな誤解です。義父のヨセフとマリア、そして兄弟たちからも非難を受ける立場で、イエス様は言いたいことがたくさんあってもみな言うことができない苦痛の生活を送ったのです。 イエス様の苦痛はイエス様一人のための苦痛ではありませんでした。4千年の間苦労された神様の心情に代わって、私でなければ失った家庭を再び探す者がいないことを知って、長い間ひたすら天に対する切なる思いだけだったのです。そしてその周囲の環境と自分を中心とした悲惨な環境で戦っている多くの群れを見て、イエス様は苦労と悲痛の生活過程に入って、4千年間神様の生きた御言に代わって理想世界を成し遂げるために生命を捧げて戦ってこられたのです。 生まれた時からまともな待遇を受けず、イエスは死ぬ時まで荒野の生活と同じような孤独で苦労の生活をしたのです。こういうイエス様の外的な苦痛も苦痛であったけれども、外的に現れない内的心情の中に隠れた苦痛というものは、ただ神様だけが知っておられました。 イエス様を信じて従って行くべきイスラエル民族は、わからなくてはいけない人はわからなくなって、わからなくてもよい人はわかってあげたのです。こういうイスラエル民族の中で、イエス様は本郷の生活を慕わしく思ったのです。 彼が食べて着て飲んだ生活は自分のための生活ではなく、自分の安らぎのための生活ではありませんでした。彼の居食住すべてのことは、イエス様自身を越えて神様のため、世界人類のため、民族のためであったのであり、一歩一歩歩んだ足跡も、そのような足跡だったのです。 それなのにそういうメシヤの事情を知ってくれた人は一人もいなかったのです。孤独なイエス・キリストの心情を抱いて、「あなたの心を私が知っていますから、あなたの心情を私が知っていますから、行かれる所ごとに付いていってあなたの心を慰労する友達となりたいのです」という人がいなかったのです。慰労してしかるべき弟子たちまでもイエス様の隠れた悲しい内的心情を慰めてあげることができなかったのです。 そのためにイエス・キリストの30余年の生涯は、苦痛の生活で綴られたのです。福音を伝えた3年公生涯路程が始まった日から、彼が伝える御言は私的な御言ではありませんでした。自分の利益のための御言ではなく、自分のどんな能力を立てるための御言でもありませんでした。神様の御旨を成し遂げようとする御言だったのです。 ところが、こういう御言と御旨を持っていたイエス様を、民族全体に代わって理解してくれて友だちになりたがった人が一人もいなかったのです。そのためにイエス様は村からはさげすまれたし、民族全体からもさげすまれました。 今日皆さんは平安な立場で神様の御言を聞くことができる環境にいます。皆さんはこのように自由な環境で神様に対することのできるこの時を失ってはいけません。 苦痛のイエス様 イエス様の当時には、御言を伝えるにも人に隠れてこっそり伝えなければならず、御言を聞くのに隠れて聞かなければなりませんでした。そのためにこれらが行くところが荒野だったのです。そんな中でもイエス様は、多くの群衆を荒野へ導き出して神様の御言を伝えようとしました。そうしてまでも神様の御言を伝えようとして、神様の御旨を成し遂げようとしたイエス・キリストの心情を皆さんは知らなければなりません。 このようにしてイエス様が生活過程で多くの群衆に福音を伝えたが、それを歓迎する人は一人もいなかったのです。福音を伝える心がどれほど切実でも、理解できない人が多かったのです。イエス様が受けた使命と責任を果たすために、苦労すればするほどそれに対して破壊的な行動をする者が多かったのです。 こういうことを眺めながら一日中多くの群衆に対して荒野で叫ばれたかわいそうなイエス・キリストは、また再び天の御前に訴えるためにオリブ山の険しこを訪ねて行きました。付いてきた弟子たちが散らばって、一人きりで神様の前に出て自分の傷ついた心を癒し受けて、再び第二次としてサタンと戦うことのできる力を補うためのイエス様の苦労を皆さんは考えなければいけないのです。 イエス・キリストは30余年の生涯を燃して、苦痛の中の苦痛なる生活をしたことを知らなければなりません。それのみではありません。イエス様の苦痛が30余年の生涯の苦痛で終わったと思うのは大きな誤解です。今日あの世、霊界へ行っても、イエス・キリストは苦痛の中にあるのです。 2千年歴史が延長され、神様の御旨を成し遂げなければならない一つの目的において摂理を代行するイエス・キリストは、今日この時間までも苦痛の生活をしています。その苦痛の生活が連結されて今日に継続しています。 それではこの苦痛をどこへ行って解決すべきなのか? 今日この地の万象ではありません。この地の万象では絶対ありません。今日責任持つことのできる皆さんを通して、その苦痛と苦労の中で結ばれた恨みを解かなければならないのです。 そのためにイエス様は、永生摂理路程での苦痛を、皆さんの前に歴史的な距離を考えずに現されたのです。皆さんがこういう事実を知っているのですから、皆さん自体イエス様の苦痛なる手を握って慰労することのできる者とならなければなりません。そうして中傷罵倒を受けたイエス・キリストの徹した怨恨に代わって背負って慰労しなければならない責任が今日皆さんにあるのです。 それでは皆さんがそういう立場に立つことができなければ、どのようにしなければならないか? 皆さんの環境でイエス様の苦難を感じ取れなければなりません。皆さんの生活の中でイエス・キリストの苦難の生活を分析できる人とならなければならないのです。 それではイエス様はどんな罪があって30余生涯の苦難の生活、苦痛の生活をするしかなかったのでしょうか? 罪があったとしたら、神様の前に万民を救援しなければならない救世主として立てられたことを受けたという罪のほかにはないのです。こういうイエス様が万民のために苦しみ、万民のために切なく訴えられた理由を知らなければならないのです。そういうイエス様に対して、今日私たちは悔い改めの心でも持たなければならないのです。 皆さんの生活の中でもイエス・キリストの30余年生涯の苦難の足跡が残っています。皆さんがこれを刈り取らなければならないのですが、馬屋で生まれる時の苦難からゴルゴダ山上までの苦難、そして復活以後2千年の苦難の足跡までもすっかり刈り取らなければならないのです。このような全体的な御旨を知らなければなりません。 イエス様の悲しみは心痛く訴えるところで終わらなかったのです。苦難と苦痛の生涯を送っても終わらなかったのです。今日人々は、イエス様が苦難の生涯を経て十字架に亡くなることによって彼の悲しみが終ったものと思っていますが、それによってかえって御旨が延長されて、イエス様の悲しみは解こうとしても解くことのできない思いとして残るようになったのです。こういう事実を知って、皆さんは死ぬ覚悟をしてイエス様を悲しみから救わなければならないのです。 このようにイエス・キリストは、私たちを尋ねるために6千年歴史を過ごして、今日まで苦労して怨恨に徹した道を行かれたのですから、生命をかけて十字架の道を行かれたのですから、皆さんはこのようなイエス様をしっかりと掴んでいかなければなりません。 イエス様は30余年の生涯を終結するようにする(至らしめる)十字架の死の道に出て、死ぬようになる時、死にながらも「アバ父よ………」と切実なる思いで訴えたのでした。4千年の間苦労した多くの先知先烈たちが訴えた血の訴えが、イスラエル民族によって解怨されなければならなかったのですが、イスラエル民族が解怨できなかったので、その祖先たちの血の訴えを何でもって報いるべきでしょうか? 報いる道がなかったのです。 それで民族に代わって歴史的な血の訴えの代価を支払って蕩減された方が、イエス・キリストだったのです。アベルの血が訴える時に、尊い血を流された多くの先知先烈たちが、切られ血を流した地に対して、イスラエル民族に対して、訴えた条件がイエス様によって解怨されたのであります。4千年間訴えた泣き声が、4千年間多くの先知先烈たちの血の訴えの目的が、イエス様一人の死によって、また死んだ後の復活によって成就したのです。 イエス・キリストの復活を通してこの地上に血を流していった祖先たちの恨みが刈り取られたゆえに、彼らが地に対して恨めしく解怨を要求した思いが成し遂げられるようになったのです。それによってその時になってこそ初めて、イエス様を先頭に立てて天の御前に敬拝することができるのです。 イエス様を解怨して差し上げるべき私たち イスラエル民族が天を信じ仕えられず、犠牲になった先知先烈たちの血の訴えを完結したイエス様は、同時に後世に何を残したのでしょうか? イエス様は後世に十字架の死の血を残しました。それで今日皆さんの心にイエス・キリストの死の血が残っているのです。そのために皆さんがイエス様の前に立とうとする時、また皆さんの一生を見てみるならば、皆さんの一生にも血の峠があったことを感じるのです。これは先知先烈たちの血の訴えに対する報答であると同時に、イエス・キリストの血の訴えに対する報答であるという事を皆さんは知らなければなりません。それで十字架の歩みを通して尋ねて来られたイエス様が、私たちに、「来い」と言われる時にも、私たちは十字架の歩みを通じて尋ねて行かなければならないのです。 今皆さんは、イエス・キリストがゴルゴダ山上の十字架上で血の訴えをされた情熱が、皆さんの脈搏に脈打っていることを体恤しなければなりません。 イエス・キリストが十字架をもって皆さんを尋ねて下さっても、皆さんは今までそのように尋ねて下さるイエス・キリストの苦労を知らなかったし、十字架をかけてイエス様を呼びもしませんでした。死の道を歩まれたイエス・キリストは、十字架を背負われて私を尋ねて下さるイエス・キリストは、今も私のために叫んでおられ、私のために限りなく訴えておられ、苦痛を受けながら死の道を歩まれ、私のために苦労しておられます。 今私たちは十字架をまん中に置いてイエス様に対していますが、誰がこの十字架の恨みを解いてくれるのだろうか? 今日私たちが解怨しなければならないのです。これを解怨する前には、イエス・キリストを掴んで私の新郎と言うことができないのです。 そのために復活直後にマグダラのマリアが、「おお、主よ…!」と言った時、イエス様がさえぎった理由がここにあったのです。またそのためにマグダラのマリアが復活した主に会ったその日から天国生活をしたかったのですが、(その理由から)天国生活が2千年の間邪魔されて(遮断されて)いたのであります。この様に残された十字架の恨みを知って、今この残された十字架の恨みを、私たち信仰をする者たちが解怨しなければならないのです。 こうして十字架の峠を越えてから私たちを尋ねて下さったイエス・キリストが残されたものは何であるのか? イエス様はこの地に新郎・新婦という名詞を残して行かれました。それで今皆さんの祈祷の中で、主様は新郎として現れるのでしょう。皆さんは新婦で、主様は新郎として、そのような姿で皆さんに現れるということです。新郎として現れる主様にお会いする時、皆さんはいつも十字架の血の代価を考えなければならないのです。 今残されたものが何であるかと言えば、私たちに主様がもう一度尋ねて下さらねばならないのが何であるか言えば、十字架を廃して、万代に福を請い願うことのできる道、十字架を越えることのできる道を探して下さることです。十字架の峠を越えてイエス様が心ゆくままに私たちを掴まえることができなければ、十字架を切ってしまうことができるこの一つの恨みを解かなければいけないのです。私一人を通して、祭壇を通して、天地を通して、十字架を廃することのできる一つの不変の基準を立てる前には、再臨役事は完成できないのです。 イエス様が残して下さった光と水と油 このように尋ねて下さったイエス様は、今日私たちに何を残しましたか? 悲しい生活を通じて、苦難の生活を通じて、十字架の死を通じて私を尋ねて下さった後に、私たちに残して下さったものは何だろうか? イエス様は私たちに生命の光を残して下さいました。イエス様が生命を掛けて私たちを尋ねて下さったけれども、何のお土産を持って来られたのかというと、暗い世の中を明るくできる光を持って来たのです。それで私たちがイエス・キリストの死に対して感謝の涙を流す時、私たちはイエス・キリストの心情を知るようになり、イエス・キリストの事情を知るようになります。 またその次に、イエス・キリストは私たちに何を残して下さったのでしょうか? 水と油を残して下さいました。疲れに疲れ果て、傷を受けるままに傷付いた私たちを、治して下さるためイエス様は私たちに何を残して下さったかというと、水と油を残して下さったのです。 それで私たちはイエス様が残して下さった光を照らして自分の傷を知って、水と油でそれを洗わなければならず、罪人であることと裸の体であることを知って、礼服を揃えて身に着けなければならないのです。この時になったというのです。このように皆さんが自分の心情に、心にともし火を照らして、自分の罪を洗い清めて、傷を治療して、礼服を着た後にこそ2千年前に亡くなられたイエス様の願いを今日皆さんが成し遂げて差し上げる事ができるのです。 今私たちは心のともし火を照らして、水で体を洗い清め、傷に油を塗った後、許されて礼服を着て、イエス様が十字架を越えて来る必要がなく、私たち自身が十字架を越えていって、イエス様に敬拝を捧げなければなりません。これが地上で人間がしなければならない事であるのです。 イエス様が十字架を越えて来られることを願わないで、皆さんが越えようとしなければなりません。イエス様が越えて来られるのではなく、皆さんが生命の光を発する存在となって、その次に全力を備えて永遠に変わらない価値の光に代わることのできる礼服を着て、十字架を越えていってイエス様を掴んで、「主様は永遠に安息して下さい」と言って敬拝することのできる愛する新婦とならなければなりません。神様はこのような新婦が現れるのを願っておられるのです。 皆さんは今イエス様が残された荷物を解かなければいけないのです。イエス様から心の光を相続して、イエス様から水と油の恩賜を受けてその次に礼服を着て………。この礼服は皆さん一個人にとどまる礼服ではありません。皆さんに固着するものではなく、皆さんによって生命の光を受けて水と油の恩賜を受けて礼服を着ることをもって、主の御前に新婦となれる人が多くいなければいけないというのです。 祈祷 愛するお父様! 6千年歴史がこのようにして険しいということを感じながらも、徹した(言うに言えない)その心情、徹したその心の前に恐れを感じる者たちとして下さい。罪の中にあって何の罪が一番大きいかということも知らなかったのですが、知ってみると主様が下さった光を私の物だけとしたことが大きな罪であり、水と油を持っているのにそれらを私だけが持っていることが大きな罪であり、私は礼服を来ているのに、多くの人たちをして礼服を着るようにできないことが大きな罪であり、信じなければならない責任があるにも拘らず、信じられないことが6千年に代身する大きな罪だとわかりました。 今日この席に集まったあなたの子女たち、自分が直接罪を犯すことよりも一つの生命に犯罪するようにすること、イエス・キリストの苦労によって残された光と水と油と礼服を残せない、この事がもっと大きな罪だということを悟れるように許諾して下さい。 お父様、今伝えたところの御言を通して散らばっていた子女たちがイエス・キリストの形状を受けるようにして下さり、呼ばれる声を聞けるようにして下さい。歴史的な苦労と苦難、十字架の苦難まで責任とらなければならないのですが、この者たちが不足な場にあって天の御旨を知らず、お父様が願いをかけられた御旨がわからない立場におりますので、お父様、激励して下さいまして、まずこの者たちに御旨を明らかにして下さいますよう、お父様の直接的な御声を聞くことができるように許諾して下さい。善の生活をしようとしておりますから、この者たちが胸に抱く思いのまま生きていくことができるように導いて下さいますよう、愛するお父様、心よりお願いし、お祈り致します。 主様の新婦として美しく装い、すべてのものを越えて、天の栄光を現すことのできる子女として導いて下さり、新しい歴史的な仕事を担当できるようにして下さることを、愛するお父様、心より懇切にお願いし、お祈り致します。 すべての事をお任せしますので、御意のままに主管して下さり、集まったこの者たちの心の上に現れて下さり、永遠の勝利の栄光を代身することのできる子女として立たせて下さることを懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560516 - 神様の誇りとなったイエス・キリスト(2020.12.28掲載)神様の誇りとなったイエス・キリスト1956年5月16日韓国・前本部教会 神様の誇りとなるべきであったアダム・エバ 天地万物を造られた神様は、アダム・エバを天地万物に対して、神様が誇ることのできる実体として造られました。またアダム・エバを天使世界に対しても、神様が誇ることのできる実体として造られたのです。アダム・エバが万物の前に立てば、万物はアダム・エバに敬拝をしなければなりませんでした。 このように造られた被造世界が、人間の堕落によって潰されてしまったのです。すなわち、人間の堕落によって人間の前に誇りとなるべき万物の価値が、そのまま現れることができなかったのです。無形世界の価値の中心として現れることができた人間が、その資格を喪失するようになり、神様の誇りとして、神様の代わりに万物の前に現れ、和動の中心として栄光を受けるべき人間の位置が、根本的に潰れるようになってしまいました。 人間始祖の堕落以後、六千年が経過した今日まで、神様が求めてこられた標準は何だったのでしょうか。神様の心に代わり、形状に代わり、神様の性稟に代わって、天倫の行事に代わる全体の代表者、神様が誇る一人の代表者を求めてこられたのです。 また、今までこの一つの願いのために、イエス・キリストも苦労してこられました。それでは、アダム・エバの堕落以後、四千年目にこの地に来られたイエス・キリストはどのようなおかただったのでしょうか。イエス・キリストは神様の内的心情を代身し、外的形状を代身したおかたでした。それで、神様はご自身の創造の理念として立てた“誇りの基準”を、イエス・キリストを通して現そうとされたのです。これが、イエス・キリストが遂行しなければならなかった本来の使命でした。 ですから、イエス・キリストはその一代で、彼の生活を通じてある部分だけでも、神様の心情と形状に代わる子女として現れなければならない、重要な責任者の立場に立っていたということを知らなければなりません。 このようにイエス様は、神様が誇る実体として現れなければなりませんでした。まず、万物の前に誇ることができなければならなかったし、その次にはサタンの前に、そして、聖徒たちの前に誇ることができなければなりませんでした。そして、神様がアダムとエバを中心として喜び、栄光を享受しようとされたことを復帰する一日を、迎えなければならなかったのです。これが中心存在であるイエス様を立てて、役事し摂理された神様のみ旨でした。 神様はイスラエル民族をして、イスラエルの国を建設しようとされ、その中に自らイエス・キリストを送られたのです。それで、イスラエル民族が一つになってイエス・キリストをほめたたえ、神様が誇ろうとされたその基準で、感謝の心情を持ってイエス・キリストに対していたならば、このような歴史的悲しみが六千年まで延長されることはなかったでしょう。 神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス 神様の誇りとして現れたイエス・キリストの目に映ったものと、イスラエル民族が誇っていたものとは全く違っていました。すなわち、神様の復帰摂理のみ旨に対してきたイスラエル民族が、自ら神様の選民であることを誇っていたのと、神様の復帰摂理のみ旨を奉じながら闘われたイエス・キリストが、神様のみ旨のために誇られたのとは違ったのです。それでイスラエル民族は、神様の代わりに誇ることができたイエス様のみ言の前に、自分たちがその時まで立ててきた民族的な誇りを、放棄する立場に身を置かなければなりませんでした。 自分たちの誇りを放棄して、神様のみ旨を代身して誇るための新しい誇りを持って現れたイエス・キリストの前に、柔和謙遜にひれ伏していたならば、十字架の困難な関門がイエス・キリストの前に残されることはなかったし、キリスト教の歴史に十字架の道というものはなかったでしょう。 そして、「イエス様のみ言に耳を傾けることによって救われた」ということはあっても、「十字架を信じることによって救われた」という、このような話はなかったことでしょう。 今日、私たちがイエス・キリストの死を祝福して、十字架に贖罪の権限があると信じていますが、それがすべてではありません。イエス・キリストが生前に語られたみ言に贖罪の権限があったということを、今日キリスト教の人々は忘れています。私たちが知らなければならないことは、もちろん、キリストの十字架を信じることによって霊的な贖罪を受けることは可能ですが、イエス様が生前に語られたみ言を信じて、み言のとおりに実践していたならば、霊肉合わせての贖罪が成されていたことでしょう。 では、イエス・キリストは、この地に来られてまず何を誇るべきだったのでしょうか。アダム・エバは堕落することによって、神様のみ言を成就することができませんでした。み言を信じられませんでした。人間が神様のみ言を信じることができずに堕落して、四千年間摂理歴史が延長されたのです。イエス・キリストが、この延長された四千年歴史を断ち切るために、サタンの前に立てた一つの中心が何かといえば、信仰でした。すなわち、イエス様は「信仰の王」としてこの地に現れたのです。 イエス様はどのようなかたでしょうか。またイエス様は、神様の誇りとして立つことのできる一つの価値の基準を、どこにおいて立てられたのでしょうか。四千年の歴史が流れる過程で、だれも信じることができず、神様のみ旨に相対することのできなかった万民の前に、イエス様は信仰の王として現れたのです。それで神様は、イエス・キリストの信仰を誇ることができたのです。 多くの人々が「神様を信じる」と言いましたが、そのような信仰では、神様の天倫の心情に通じた上下の内的な関係を結ぶことはできません。また、多くの予言者・烈士たちが現れては逝(ゆ)きましたが、彼らが信じ、彼らが従っていったものを通じては、神様の中に込められている愛の原則を知ることはできないのです。 さらにイエス・キリストは、多くの聖徒たちが歩んできたその歴史的な信仰の過程全体を引き継ぎ、たったお一人ですべてのサタンの歴史を断ち切ろうとされました。四千年の信仰を総結実する立場のイエス・キリストは、宇宙の中心形として、信仰の主人公として来られたのでした。 この一つの基準のために、神様はイエス・キリストを信仰の王として立てられました。イエス・キリストは、神様のみ旨を代身したのであり、神様のみ言を代わりに伝えたのですが、宣布されたみ言は、旧約のみ言そのままではありませんでした。旧約の信仰によって信じたのではありません。預言者・烈士たちが語り、預言された、その限界の中で信じたのではありません。言い換えれば、イエス様は、イスラエル民族が信じてきた旧約聖書のみ言の圏内でメシヤ思想を持っていたのではなかったのです。 イエス・キリストは、どのような信仰を持たれたのかといえば、旧約聖書にも歴史上にもかつてなかった信仰、その時まで現れることのなかった一つの新しい信仰、世界のどのような環境の、どこにも現れなかった信仰を持った代表でした。そのために、旧約歴史がイエス・キリストの前につながらなければならなかったのです。 では、神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス・キリストを信じている私たちは、何を知らなければならないのでしょうか。私たちが、ある限界内でイエス・キリストを見たとするならば、イエス・キリストが降臨される前の四千年歴史と、イエス様の三十余年の生涯と、永遠なる未来にまで及ぶ彼の価値を知ることはできない、ということを知らなければなりません。 また、私たちは、万民が神様のみ旨が分からずに反対する立場に立っているとしても、「私は、そのみ旨一つだけを掴(つか)んで行きます。だれも信じることのできないことを、私は信じます」と言える信仰の基準が立てられてこそ、イエス様が万民の救世主、信仰の王として立つことができたという事実を知らなければなりません。 では、今日私たちが信じているイエス・キリストは、生きているうちに、み言をすべて語って逝かれたのでしょうか。もし、み言をすべて語ってから逝かれたのではないとしたら、私たちには、再び来られる主が語ってくださるみ言が必要なのです。イエス様は、アダム・エバの堕落以後四千年ぶりに、サタンの前にもすべての被造世界の前にも誇ることのできた信仰の王であり、神様が求められた信仰の王でした。しかし、ユダヤ民族が不信することによって、神様は彼を怨讐の手に渡すしかありませんでした。それでイエス・キリストが、全被造物の前に誇ることのできる基準を持ってこの地に再びこられて、皆さんに新しいみ言を語ってくださるようになっているのです。 イエス様は信仰の代表者、信仰の王として、旧約聖書になかった新しいみ言を発表されました。そのみ言は、新約のみ言として、今日私たちに伝えられています。 今、私たちが備えなければならないことがあります。今日この時代は新しい時代であり、これから栄光の時代が来るので、その栄光の時代に残ることのできる信仰を持つことができなければなりません。 イエス・キリストの希望と信仰は、人間が四千年間、信じてきた次元の信仰ではありませんでした。彼の一代を経て遠き後世、すなわち永遠にまで及ぶ信仰、神様がイスラエル民族をして成せなかった、その当時に表されることのなかった愛と善を表すことのできる信仰でした。 ですから、イエス・キリストは歴史上になかった信仰の王であり、神様が誇るかたでした。イエス様と同様に皆さんも、このような信仰を持たなければなりません。 サタンを打ち負かす王・イエス 二番目に、神様がイエス・キリストを誇ることができたのは、多くの人が数千年間、サタンと闘ってきましたが、イエス・キリストが初めて勝利の王として立つことができたためでした。それで神様が、イエス・キリストを誇られたのです。 四千年間、多くの先祖たちがこの地上に生まれてサタンと闘いました。メシヤを送ろうとされる神様のみ旨のために、数多くの預言者たちが現れてサタンと闘いました。しかし、彼らはサタンを屈伏させることができませんでした。四千年間、サタンと闘いましたが、サタンを占領し、屈伏させることができなかったのです。ところが、イエス・キリストがこの地に来られることによって、初めてサタンを占領して屈伏させたのでした。 イエス様は、何をもってサタンを屈伏させたのでしょうか。天の愛の原則をもって屈伏させたのです。皆さんはそれを知らなければなりません。今日、私たちキリスト教徒たちが知らなければならないことは、サタンを屈伏させるには愛の原則でなければならないという事実です。 愛の原則は、どのような原則でしょうか。イエス・キリストは万民の前で亡くなられました。この地上に、数多くの人々が来ては逝きましたが、イエス・キリストは神様が最も愛された独り子であるというのです。そのため、イエス・キリストの三十余年の生涯の生活を見れば、どの一部分を取っても、親孝行の生活をしなかったという部分はありません。神様のみ前における一日の生活は、昼も夜もどの時間も切り離すことのできない、神様のみこころにふさわしい生活でした。神様が見られるとき、“この地上におまえ一人しかいない”と言われるくらいに親孝行の生活をされたのです。 イエス様は、自分の一生のすべてが消え失せたとしても、ひたすら神様に尽くす心だけでした。自分の肉身は無視されるとしても、万民の救世主としての使命を果たそうという心しかなかったのです。ただひたすら、「お父様! 私一人が死んで、あなたが四千年間求めてこられた愛の代身存在、あなたの愛を受ける息子として、その愛の代価をお返しできる孝子となります」という心以外には、何もありませんでした。 ですから、億千万の民が、「イエス・キリストは神様の息子でない」と言っても、神様はそれを認めることができなかったのです。天地の中心に結ばれた、神様の愛による父子関係の天倫の力は、だれも阻むことができません。イエス様は、どのような困難な中でも環境に屈しませんでした。ゴルゴタ山上の孤独な場でも、十字架を背負いました。イエス様は、そこに神様のみ旨があることを知っておられ、四千年間、待ち続けられた父の愛の心情をよく知っておられたのです。 それゆえ、父のみ旨が変わらない以上、父の愛を受けることのできる息子としての誇りは永遠なのです。神様はイエス・キリストを独り子として、神様の変わらない愛の化身体として、全被造万物の前に誇られました。サタン世界の前に誇られたのです。 歴史上、自分を生んでくれた父母に孝誠を尽くした人は多くいます。サタンの懐の中にいる孝子・孝女は多いというのです。しかし、神様がイエス・キリストを誇ることができる基準、イエス様のように神様の愛を受けることができる者になろうとすれば、歴史上のすべてのサタン圏内の孝子・孝女たちを合わせた以上の価値と実績がなければなりません。 そうしてこそ、神様が、「これは私の愛する息子である」と言うことができ、天上天下において、天倫を代身した唯一の孝子となることができるのです。 このような基準をもって、イエス様が多くの群衆を眺めるとき、あまりにも呆然としたのです。そのようなイエス様の心情であったために、自分の価値と彼らの価値との間には、天地の違いがあることを感じたのです。そのためにイエス様は、天の前に自ら堂々と彼らのために祈祷できたのです。 また、神様と愛によって結ばれた父子の関係から出てくる力によって、サタンまで滅ぼすことができたのです。なぜならば、サタン圏内の多くの人々がサタンに同調するのと、イエス・キリストが神様に仕えて愛する基準とは、比較にならないからです。イエス・キリストが、神様の愛をもって現れたので、怨讐の前にあって堅固な盾となったのです。それで、イエス様を中心として集うすべての所で、サタンを屈伏させることができたのです。 イエス様は、四千年間先祖たちが勝利したものと負けたものすべてを合わせて、自分の基盤にすることができる一つの基準を勝ち取ったので、神様が誇ることができたのでした。 今日、私たちが考えてみなければならないことは何でしょうか。今まで人類は、六千年間サタンと闘争してきましたが、なぜイエス・キリストが、四千年間多くの預言者たちが勝利した価値以上の勝利の実績を収めることができたのかということを、考えてみなければなりません。また、私たちの先祖が、どのようにサタンに対して勝利することができたのかということを、考えてみなければならず、皆さん自身が彼らの立場にも立って、考えてみなければなりません。 天が今、この地上の聖徒たちに願うことは何でしょうか。イエス・キリストだけがサタンを屈伏させるのではなく、今日、終末のすべての聖徒たちがサタンを屈伏させて、イエス・キリストの愛を通じて神様の愛を感じることです。 イエス・キリストは、三十余年の生涯で勝利の生活をしました。イエス様は、勝利できないことを言うのは避けたのです。イエス様が負けたり、サタンが接近してくるような言葉は避けたのです。他人から見れば、村の一人の青年であったのですが、いったん全体に責任を持てば、彼の言葉や行動や願いは、全体を勝利の基台の上に上げることのできる言葉と行動と願いでした。 今日、皆さんは、イエス様がこのように苦労されて、整えられた勝利の基盤の上に立っています。皆さんは、イエス様からこのような恩恵を受けているのです。今は皆さんが、イエス・キリストがこの地上で勝利して成し遂げられた勝利の基盤の上に立って、どのようにすれば、より高く上がって行けるかということが問題です。皆さんは、天が皆さんのためにこの地上に降りてこられたことを知って、天に上がって行く時まで勝利の汗を流さなければなりません。 私たちは、私たちの心に神様の愛を満たさなければなりません。イエス様と聖霊の愛を感じて、天の愛を体験しなければならないのです。 イエス様は個人的に勝利されましたが、十字架で亡くなられたがゆえに、霊的にだけ勝利の基台を立てられました。それで、二千年の歴史を終結しなければならない私たちは、イエス様の霊的な基台の上に立って、イエス様の体に代わって勝利の基台を築かなければならないのです。 霊的な救いを完成してくれる新約聖書の次元を超えて、天が実体的な救いを完成させてくれる新しいみ言をこの地に宣布するようになる時、サタンがこれに反対してきます。しかし私たちには、このことにまで責任を持って戦って勝つべき責任があるのです。 イエス・キリストは、どのような条件によって、神様の愛を受けることができたのでしょうか。イエス様は、「責任を持つ王者」となったので、神様の愛を受けることができたのでした。イエス・キリストは、生まれた時からヨセフの家で大工の仕事をしましたが、責任を完遂するために努力したのです。 ヨセフの家で大工の仕事を手伝いながら、父母が抱えている生計を助けてあげる生活をしましたが、イエス様にとっては、それだけが生活のすべてではありませんでした。また大志を抱くと同時に、小さいことにまでも責任を果たされたイエス様でした。このようなイエス様であられたことを皆さんは忘れてはいけません。 イエス様は全体のみ旨に責任を持たれた王者 イエス様の生活はすべて、自分の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残る責任を地上に完遂してのけたのです。イエス様の三十余年の生涯は、責任を果たしたという永遠不変の実績をこの地上に成したという生涯でした。それゆえ、イエス・キリストのみ言、キリストの信仰の福音が残っている以上、彼の生涯も残っていくことでしょう。 イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面からも責任を持たれたのです。そして、神様が四千年間、役事してこられたみ旨に対しても、たった一人責任を持たれたのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を代わって背負える人は、この地上には一人もいなかったのです。イエス様は、独り孤独な身で責任を果たされたということを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は、自分一人ですべてのみ旨に責任を持つことに対して寂しかった反面、より大きな責任を感じたのです。ですから、イエス様の一日一日の生活は、全体的な責任を完遂するための基盤をつくる生活でした。 そして、三十年準備時代と三年実践時代、三日間の完成時代まで、イエス様の目には、サタンを屈伏させることと、その基盤の上に神様のみ旨を成就することしか見えませんでした。この責任を痛切に感じて生きた生涯でした。イエス様は、一瞬もこの責任を忘れることはなかったのです。 また、十字架を背負ってゴルゴタの山頂に向かって行く時にも、万民が誹謗し、サタンが嘲弄するそのような最後の瞬間にも、イエス様が担ったところの天倫の責任を、一人でやり遂げようとする心は変わりませんでした。 イエス様が、責任完遂の理念を持って、十字架の峠を越えたために、復活の役事を起こすことができたのです。そして、地上に残っている弟子たちを再び収拾しなければならない責任があったために、イエス様は天国に行かれた後、再び降りて来られました。神様の力によって、復活の役事を起こすことができたのです。 イエス様は、亡くなられた後も、散らばった弟子たちを心配されていました。墓中三日間も、この弟子たちを永遠に守るという心を持っておられたので、復活の後にガリラヤの海辺で弟子たちを捜し回られたのです。 今日、私たちが人間的に考えてみれば、責任感がなかった彼らに対して、イエス様がどうしてそのようにできたのだろうかと考えやすいのです。難しい立場の時、背を向けた弟子たちでしたが、イエス様は復活後に、まずガリラヤを訪ねられて、自分の責任を完遂し始めました。このように死の峠を越える時、変わらない弟子たちとして立たせてくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私たちが見習わなければならない人格なのです。 それだけではありません。その当時の弟子たちとそれ以後の数多くの聖徒たち、二千年が経過した今日の私たちにまでも責任を持たれたということを知らなければなりません。救いの歴史は全体の歴史でした。天のみ旨はすべてを救援することなので、イエス様は全人類にまで責任を持たれているのです。 ではイエス様は、どのような責任を持っておられるのでしょうか。イエス様は、この世的なことに対する責任を持たれたのではなく、裕福に暮らすということに対して責任を持たれたのでもありません。私たちの生命に責任を持っておられるのです。皆さん、この世に難しいことは多くありますが、これ以上に難しいことはないのです。生死の問題に責任持ったために……。 今日、信仰者たちは、まかり間違えば、生死が左右されるような岐路に立っています。はらはらさせる刃のような線上に立っている人たちを、全部右側に引っ張る責任をイエス様は持っておられるのです。このように、イエス・キリストは昔、三十余年の生涯を過ごした時もそうであり、死の道に向かわれた時もそうであり、いついかなる時も同じ心でした。人間が、このような責任と使命を感じることができなくても、イエス・キリストはこの責任と使命、この一つのみ旨を成すために、今も役事しておられるのです。 全体の責任を完遂すべき私たち では、今日私たちが信じているイエス様に侍ろうとすれば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。いつもイエス様に責任を負わせるような者となってはいけません。 イエス様は、四千年の歴史に責任を持たれ、当時の人類に責任を持たれ、亡くなられた後、二千年間人類に責任を持ってこられたので、私たち自身も責任を持つ者とならなければいけないのです。私たちは今、イエス様に責任を負わせる生活をしてはなりません。 そして、私たちは自ら、「アバ父よ、二千年間責任を持ってこられたイエス・キリストの困難が分かります」と言いながら、今日も私たちのために、世界のために責任を持っておられるイエス様に対して、無念に思わなければなりません。 このことは、だれのためだったのでしょうか。取るに足りない私たちのためです。ですから、私たちはこのことを考えて、イエス様のみ前に頭を下げる人とならなければなりません。「主よ!」と叫びながらも、骨が溶けていくような心情、肉が溶けていくような心情を感じてみなければなりません。 神様はやっと、四千年のみ旨に責任を持とうとするイエス・キリストを掴んで、「おまえ一人だけが、私が成すべき責任を背負っている」とおっしゃることができたのです。それで、すべてのことを信じ、すべてのことを任せることができました。すべての責任の包みを背負わせることのできる立場で、神様はイエス様に対することができたのです。 それと同様に、神様のみ前に立てられたイエス様と同じく、私たちも全体の責任を果たそうとしなければなりません。責任を果たす、そのことが難しいとしても、「困難なそのことを私に背負わせてください」と言える心情で、神様とイエス様の前に、「願われるその心情を私を通して現してください」、「私を通して見せてください」と言えなければなりません。 このような人々が、終わりの日に残ることのできる群れなのです。このような群れが出てこなければ、神様の独り子イエス・キリストが、二千年間人類のために責任を持ってこられたその目的を、どこで成し遂げるのでしょうか。神様の独り子として、命を懸けて責任を持って路程を歩まれたイエス様が、責任を持てる人を捜せないとすれば……。 ですから私たちは、「イエス・キリストが十字架上で、歴史に対する責任と、現実に対する責任と、未来に対する責任を持とうと神様の前に宣誓された、その責任を私たちに持たせてください」と祈るべき時が来たのです。 私たちは、きょうまで生きながら、天のみ前に責任を転嫁する時がたくさんありました。しかし今は、「四千年間、切なく思われた神様の心情を代身して、地上で王として、歴史的なすべての責任を果たしてこられたイエス・キリストを代身して、その責任を負って戦います。怨讐サタンと数千万の人間たちが歓迎しなかったとしても、私が代わって責任を持って戦います」と祈祷しようとする人々が出てこなければならないのです。このような人々が出てきてこそ、イエス様が安息の圏で休まれることができるのです。 今日、終わりの日を迎えたこの時に聞こえてくるのは、「私の生命の叫びを聞く者はだれか? 神様の生命を引き継いだイエス・キリストの生命の訴えを聞き入れる者はだれか」という声です。天はこのような人を捜しておられるのです。 今までイエス様は、万民のために神様の右側で祈ってこられました。ところが、イエス様が休まず、今まで祈っておられたのは、イエス様に何か過ちがあったからではないのです。またイエス様が、父のみ前に出られない立場に立っておられたからでもないのです。そのすべては、私たちのためです。それゆえ、二千年間苦労してこられたイエス様のために、皆さんは生命を断ってでも、生命の責任を完遂しようとしなければなりません。 イエス様が十字架上で亡くなることによって、生命の責任がこの地上に残っているのです。この残された生命の責任を完遂すべき時が再臨時代です。この生命の責任を完遂できる人が現れることによって、再臨時代は始まるのです。イエス様は歴史的な生命の責任と、未来的な生命の責任を成し遂げる人であられるために、皆さんは、最後の戦いで彼とともに戦わなければならないのです。 再臨時代の始まり 神様は、愛するイエス様を立てられて、信仰のイエス様を通して、あるいは真理のイエス様を通して人間を愛することを願っておられます。皆さんを愛することを願っておられるのです。 今日私たちは、信仰のイエス様を手本としなさいというとき、心だけでも、「はい、そうします」と言えなければなりません。勝利されたイエス様を手本にするようにというとき、「そうします」。責任を持っておられるイエス様を手本としなさいと言われたとき、「はい、そうします」と言えなければなりません。皆さんが、このような人となれなければ、今までいついかなる時にも休むことのできなかったイエス・キリストは、どうして休まれることができるでしょうか。 ですから、神様が誇りとして立てられたこのような条件を、皆さんが代わって担当しなければなりません。そして、霊界に行かれたイエス様の誇りとなった条件を、この地上で成し遂げる皆さんとならなければなりません。神様が誇ることのできる皆さんとならなければならないのです。 まず、信じることのできないこの世で、信じることを誇らなければなりません。そして、サタンとの闘いで勝利したことを誇らなければならないのです。責任を持てないこのような世の中で、責任を持つことを誇らなければなりません。 このことによって、神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私たちに及び、地上の私たちを通して、万物にもその誇りが及ばなければなりません。そのようにしてこそ、神様の創造理念である、人間を万物の主人公として立て、万物の前に誇ろうとされたみ旨が成就するのです。そうして初めて、人間と万物が誇られる神様に、感謝の敬拝をささげることができるのです。このような全体的な責任が、私たちにはあるのです。 今日、私たちはあまりにも取るに足りません。私たちが持っている信仰も取るに足りません。ですから、私たちはこれからサタンと闘わなければならないとき、「アバ父よ、この世界のすべての人間がサタンと闘って勝てるように力を与えてください。全人類が責任を全うできるようにしてください」と祈らなければなりません。そして、全体の敵に向かって一人で戦い勝利して、「お父様、お喜びください」と言うことができなければなりません。 世界のすべての責任を負って行く姿を神様にお見せし、億千万人、あるいは無数の聖徒たちと被造世界の前に責任を負って行く中心、すなわち誇ることのできる人を通して、地に対する神様の怨恨を解放することができ、そのような人を通じて神様のみ旨を広げることができるというのです。これを皆さんははっきり知らなければなりません。祈祷しましょう。 祈祷 お父様! こちらを見ても私の責任であり、あちらを見ても私の責任であり、この世の悪しきものを見る時、涙が止まらなかったのがイエス・キリストの生涯であったことを知っております。 今日、私たちは悪しきものを見ても感覚がなく、不義であり、足らなくて天倫のみ旨に対する苦痛なる心情を抱いて、責任を感じることができないでいます。 怨讐を打ち破ろうとする心と、恨みに徹する切なさがなかった私、また戦いの実績を持てなかった私、全能の神様を信じることのできない私だったのです。天に対するイエス・キリストの忠誠を知らなかったのです。 お父様、この夕べにわずかな者を前にして勧告しました。イエス・キリストを立てて誇ろうとされたあなたのみ旨が、使徒たちを通じて、歴史を経て今日の私たちに結ばれ、そのみ旨が私たちに結実されることを願っておられることを知りました。生命を頂いたという歓喜に加えて、幾千万の聖徒たちが歓迎することのできる中心的な責任が、今日の私たちに任されていることを知りました。 今私たちを、天地と万物、イエス・キリストの怨恨を解くための供え物となるように許してくださり、誠心誠意を尽くす孝心ある子女たちとなるようにしてくださることを、お父様、切にお願い申し上げます。 十字架の道を通じて新郎・新婦の理念を立ててくださいましたが、今私たちがキリストの愛をどの程度まで実践でき、キリストの愛を中心とした責任をどの程度まで果たし、キリストの愛を通じた信仰の価値をどの程度まで求めることができるかということが、問題であることを知っています。 お父様がこの時間、勧告してくださいましたので、今日の我一身と私たちに、天の解怨のための責任が任せられており、天の怨恨を解いてさしあげるための闘いが、私たちによって終結されなければならない事情があるということを分かるようにしてください。このようなことを知りましたので、だれよりも実践しようという心、お父様に感謝できる心だけを持つようにしてください。 十字架を背負っても感謝できるようにしてくださり、億千万のサタンと闘ったとしても、お父様のみ前に卑屈な者とならないようにしてください。 十字架を背負い、困難な立場に立ったとしても、「お父様! 私がおりますので心配なさらないでください」と言うことのできる子女となれるように導いてください。困難な立場に置かれている子女たちを見て悲しまれるお父様を、慰めてさしあげられる子女となれるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。 み言が、この者たちの生命と道になれるよう役事してくださり、この者たちの生活の中心に訴え、生きていく上での中心と標準を探すことができるようにしてくださり、不変の信仰と生命の中心を持って、お父様のみ前に進みいくことができるように導いてください。そのようになることができるように、み言の創造の役事をしてくださることを切にお願いいたします。 すべてのみ言を主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.25
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文鮮明先生御言選集 19630515 - 行かなければならない私 | 統一教会が越えなければならないゴルゴダ 神は歴史的をどんな人間に造られたのでしょうか? この被造世界の僕として造られたのではないのです。この天宙を手に取って、万物世界のまえに号令して、彼らを料理することのできる人間として造られたのです。それで神はこれまで、人類をゴルゴダへと押しやられてきたのです。人類歴史を造ってこられるに、個人的なゴルゴダはアブラハムが責任を負い、家庭的なゴルゴダはヤコブが責任を負い、民族的なゴルゴダはイスラエル民族が責任を負わねばなりませんでした。世界的なゴルゴダはこれまで、キリスト教徒たちが責任を負ってきたのです。これからな天宙的なゴルゴダを越えなければなりませんが、これをキリスト教歴史を根本として、新しい時代を開かなければならない我々統一教会が越えねばなりません。そうですか、そうではありませんか? 先生はいつも考えるのです。私が統一教会の先生の立場に立っていますが、私は先生の立場にあることを好んでいる人間ではありません。先生の立場にいますから、全てのことに神経を使わないといけません。一時でも神経を使わないわけにはいかないのです。 これから世界的なゴルゴダを越える時に起こる闘いにおいても、元来は我々統一教会員が責任を負わねばならないのですが、私はこの作戦に統一教会員を先頭に立てようとはしません。 これからは霊界を代身して動く人間を、先頭に立てるのです。いままでは皆さんを先頭に立てました。それで多くの犠牲者が出ました。しかし何百人が犠牲になることが問題ではありません。でも全ての人々を率いて行かなければなりません。 今まで時代的な使命を背負ってきた人々、統一教会を証ししてきた人々は全部、統一教会を証してから落ちてしまいました。10人のうち9人は落ちてしまいました。これは何を意味しているのでしょう? 彼らは先頭に立って、霊界を開拓する使命をなしたのですが、その人たちは祭物になったのですよ。ご覧なさい。今まで数多くの人々が証ししたのですが、みな落ちてしまいました。そんな度ごとに、先生は良かったと考えたのです。その人たちの包みは全て奪い取ったのです。 神は彼らの苦労した功績以上の基準で対されたのです。神は責任を果たされました。彼らは神のまえに責任を取らねばなりません。そんな時、責任を取っていなかったらへし折られてしまうのです。 今まで先生は恩恵を受けた人たちを、多く審判しました。なぜ? 霊界に通じる人たちは僕だからです。僕! そうでしょう? 今までは僕たちが子女を利用してきましたが、今は子女たちが僕を利用しなければなりません。これが蕩減復帰路程です。このような道理が通りますので利用するのですが、彼らが責任を取らなければ切ってしまうのです。 皆さんは良く知らないでしょうが、証しをすれば良き相対となるのです。ところが責任を果たさないで落ちてしまったのです。落ちていってしまったのですよ。とすれば彼が積んだ功績は我々のものになるでしょう。このようにして我々はこれまでの道を築いてきたのです。今は時が来ましたので、先生がこのような話をするのです。ですから皆さんは今強い信念を持たねばなりません。分かりますか? 今だいたい流れが分かったのです。どのようになっているか、分かったでしょう? 皆さんにこのようなことを認識させて今日の話をしますので、良く聞いて下さい。分かりますか? 今皆さん各自が全天地のまえに独りアボジの召命を受けて、世界的な責任を背負って行けという命令を受けなければなりません。このようにして歴史を収拾して、勝利の基盤を立てて、サタンを屈伏させなくてはなりません。サタンを屈伏させる時は世界的なゴルゴダ山頂において、屈伏させなくてはなりません。そんな後で、天宙的な主管者にならなければなりません。 こんな責任を負って来られる方が主様ですから、皆さんが主様の子女となるには、その主様の行かれた道に従って行かねばなりません。復帰歴史をなされるにおいて、数多くの人々を苦痛の道に追いやられた原因がここにあるのです。 苦痛の道には家庭的なゴルゴダがあり、氏族的なゴルゴダがあり、民族的なゴルゴダがあるのです。3年間にかけてこの路程を行きますが、まず初めに個人的な迫害を受け、その次には家庭的な迫害を受け、氏族的な迫害、民族的な迫害を受けるのです。今、世界的な迫害時代が来て、いっぺんに入って来るのです。今年はいっぺんに入って来る世界的ゴルゴダを越える年です。分かりますか? 我々が立てなければならない信仰の基準 皆さん! 人間は堕落した? 堕落したという事実が分かりますか? 堕落は何でしょうか? 堕落とは、僕を失ったことです。これが分からなければなりません。天使長は僕でしょう? 答えてみなさい? なぜこのように問うのかというと、皆さんが眠そうだからです。眠てはいけません。眠たらこんな話を聞けないでしょう。 堕落はどうなったのでしょうか? 僕を失ったのでした。僕の中の僕、忠僕を失ったということです。そして子女を失いました。子女の中でも最も孝子、孝女を失ったのです。ここで万物までも失ったのです。これらは神が失ったものです。その次に、人間は何を失ったかといえば、神を失い、真の父母を失い、万物まで失ったのです。そうでしょう? ですから復帰するには、これらを全て復帰しなければなりません。 近頃、信仰者たちはイエスを信じて天国に往こうとしています。天国往きがこのように簡単ならば、私も統一教会の先生はやっていません。このように簡単なら、どんなに良いでしょうか?「あ! 神様、信じました。主様も信じました」という心だけで救われるなら、どんなに良いかというのです。 信仰の内容が何であるかということが、問題なのです。この信仰の内容は、被造世界を捜し求めるためであり、天宙を求めるためでなければならないのです。また真なる人間を捜し求めるための信仰であり、真の家庭を成すための信仰であり、真の国家を立てるための信仰でなければならないのです。そして真の天国を求めるための信仰でなければならないのです。信仰の内容が漠然としていてはいけません。イエスを信じれば天国に行けるのですか? イエスを信じたという時、その信仰の標的は何ですか? 信仰の内容が何であるかということが重要だというのです。分かりますか? 「この天地はわがものだ。全世界人類はわがものだ。霊界にいる天使長たちもわがものだ。天におられる神様もわがものだ。イエスもわがものだ」とするのでなければなりません。信じれば世の中の大王や、サタンよりも大きな腹をもって信じなければなりません。これが信じて天国に往くことですか? 往ってみなさい。往けるなら。このように信じて天国に往けますか? 信じる時においては、誰よりも欲心をもって信じなければなりません。誰よりもより大きく信じなければなりません。サタンよりも強い心で信じなければなりません。このようにしてサタンも、わがものとしなければならないのです。自分が夜でも連れてきて使いたければ使い、掴まえたければ掴まえてくる、そんなわがものとしなければならぬのです。信ずるならこれくらいの腹をもって信じろというのです。今どのように信じるかということが分かったでしょう? そこのお爺さん、なぜ笑うの? 信仰の内容がこうだというのです。信じるということ、信じて救援を受けるということは、このような内容を標榜して言うことなのです。 天国往きがそのように簡単ならば、今日統一教会文先生が、このように苦労しません。私が至らなくて今、このことをしているのでしょうか? よくよく知らねばなりません。今、信仰の内容が分かったでしょう? 信仰の標準とは、すでに先生が話したことです。 堕落することによって人間は、万物と天下を失ったのです。霊界も肉界も、全部失ったのです。その次には神の僕、神の息子娘、また神の立てられた真の父母を失ったのです。 ですからサタンまでもわがものとすることができる境地、神までもわがもの、世の全てのものがわがもの、という境地に入らなければなりません。神もわがもの、神の愛も勿論わがもの、としなければならぬという話です。 神は人間を、天下の大王者とするために信仰という名詞を立てられました。ところで今日、この信仰という名詞はどれほど天の徳になっているでしょうか? 罪を負っても「信じなさいというので信じましたから、私の罪を許して下さり、天国に送って下さい」というのです。このようにして天国に送られたなら、どんなに良いでしょうか? しかし信仰の標準はどえらいことなのです。分かりますか? これが分からなければなりません。 正しい信仰観を持たねばならぬ時 イエスが主張した信仰観には、天下が入ってくるのです。神までも入ってくるのです。こんな信仰の中においてのみ、聖殿のみ旨が成るのです。神様までも入らなければならないというイエスの信仰理念が完結すればイエスのみ旨が成り、イエスのみ旨が成れば、神のみ旨がなるので、結局神がイエスの体中に入らなければならぬのです。体が神の聖殿でありますから、この聖殿のみ旨が完成する日、神のみ旨が成るのです。それで我々の体が天下を代表する基準に立つ時、聖殿のみ旨が完結するのです。そうじゃありませんか? それで信仰生活をすることが、どれほど素晴らしいことでしょうか? 先生は今日まで、このような見地で信仰観を広げてきたのです。本来、出発もこのようであったのです。イエスを信じるにおいても、このような信仰観を持って信じなければならないのです。いいかげんに信じてはダメです。 そんなにやすやすと信じて天国に往けるなら、どうして世の中がこのようになってしまったのでしょう? そんなにたやすく天国には往けないのです。我々が言うところの信仰圏内で、信仰の勝利者といえば宇宙史的であり、天宙史的な存在であるのです。 メシヤ、イエスもこのような信仰観を基盤にして、勝利的な個体になれなかったので、あの世(霊界)に往っても祈祷しているのです。イエスがなぜに祈祷しているのですか? 所願を成就できなかったので、祈祷しているのです。所願を成就したら、なぜ祈祷をするでしょうか? 聖霊が今まで産みの苦しみをしていることも、みなこの理由によるものです。皆さんが祈祷し、伝道することも、みなこのためなのです。分かりますか? 堕落しましたので、我々人間は天と地を失い、我々のお使いとして使う天使を失ったのです。これは誰の失敗ですか? みな人間の失敗によってこのようになったのです。ですから今、我々が再び全て捜し求めねばなりません。天下を求めねばならず、天使すなわち僕を求め、子女を求めねばなりません。そして真の父母を捜し求め、神もわがものとしなければなりません。ぶっ倒れても求めて行くのが、今日の信仰の道なのです。 すでに先生が話したことも、こんな宇宙的な使命を言っているのです。この暗黒の世界を独り責任を持つという信仰観と、このサタン世界、この暗黒世界の中においても、わが信仰は絶対に壊れないという信仰観を持たなければなりません。 棒にならなければなりません。棒になって、世界を叩けば世界が壊れることがあっても自分は壊れぬという基準があってこそ、この闘いが解決されるのです。歴史路程は闘いの路程でした。闘いによって全てのことを解決づけてきた歴史だったのです。それで歴史的な終末時代にも、必ず闘いが起こるのですが、この闘いは信仰的な闘いなのです。 宇宙史的な、天宙史的な信仰を持ってぶち当たれば、世界はみな壊れ倒れるのです。こんな信仰理念を持った人間を中心とする時、この世界はこの人間によって一つの世界になるのであり、この世の中は新しい天地となるのです。 今まで皆さんはどれほど多くのものを失って生きてきたでしょうか? このようなことを考えれば、皆さんが何千万ウオンをいっぺんに失っても、これを捜し求めることが問題にはなりません。これを捜すことが問題になりますか? 「私はこんな人間にならなければならない。これが人生の目的だから、ここにわが命一つが問題になろうか?」イエス様もこのような信仰圏内で生きてゆかれたのです。世の中には下らない奴が多いのです。しかし先生はこんな人々を助けはしません。彼らが責任を果たさなければ、彼らは滅んで、私は滅びないのです。 メシヤが来てやるべきこと 過去に「統一教会の文先生はこうでああで・・・」という話がとても多かったのです。しかし先生は「私は滅んでも、祝福を受けた教員何名かは滅んだとしても、尊い神のみ旨だけは滅びることがない」という基準で闘ってきたのです。このようなことを考えてみなかった先祖たちは、みな滅んで落ちていったのです。「私はこういう事情なので、私はある大学に行くので、私はこうで、ああで・・・」という人々はこんな内容を知らないのです。こんな連中は滅びなければなりません。滅びるか滅びないか見てていなさい。彼らが滅びなかったなら、私が滅ぼすのです。そんな時が来るのです。 皆さんは堕落した後孫でしょう? 堕落した後孫ですか、違いますか? 堕落した後孫でしょう? 恨めしく思わないで下さい。堕落した後孫なのです。堕落は何を失ったのですか? 天地を失い、僕を失い、真の息子娘を失い、真の父母を失い、神を失ったのでした。堕落によって失ったのです。 皆さんはこれまで何を、どれほど失いましたか? 言うこともできないほど、大きなものを失ったのです。もしもこの失ったものが得られるなら、何かできないことがあるでしょうか? 自分の息子より大きなものを得られるなら、息子も犠牲にするでしょう。自分の肉体よりも大きなものを得られるなら、自分の肉体をそのために捨てなければならないのです。これが無限なる価値を知った者の、持たねばならない信仰なのです。それでこの失ったものを捜し求める歴史が、復帰歴史ですよ、復帰歴史。言い換えれば、失ったものを再び求めて、失う前の姿に立てる路程が、復活の歴史なのです。今日までのこの地上の歴史は、失ったものを求めるための復帰歴史なのです。堕落したこの地を復帰するための全体的な責任を背負って来られるお方が、メシヤなのです。 それではこのメシヤは、この地上に来る時、どんな使命を背負って来るのか? 失った天と地を求め、失った万物を求め、失った僕を求め、失った神を求めるのです。この全てのことを捜し求めていって、これを人間の先祖から後孫にそのまま相続させるために来るお方が、メシヤなのです。そうでしょう? ところでイエス様は2千年前にこの地上に来られたが、追われるメシヤになってしまいました。人類の父母としての使命を成さねばならなかったのにです。使命を成す時には、どのように成さねばなりませんか? 復帰の路程を経て行かなければなりません。復帰路程を行く時においては、必ず再創造の歴史を経なければなりません。神が天地を創造される時、天使をまず造り、万物を造り、その次に人間を造られました。そうでしょう? それで復帰歴史は、この路程を反対に行かなければなりません。逆に遡って行かねばならないのです。 ですからイエスがこの地上で歴史の全体に責任を負うためには、ご自身の一個体が歴史的な実体、天宙史的な復帰の実体ですから、このご自身の実体を中心に、歴史的な因縁と内容を全部完結させなければならないのです。過去の因縁を経て、現実的な因縁を経ていって、未来的な因縁まで立てなければならないのです。こんな使命がありますので、イエスはこの地上に来て人生をかけ、与えられた使命を果たすために、僕の立場から経て来られたのです。こうして僕を求め、万物を求め、同時に世界を求め、子女を求めなければならなかったのです。その次には真の父母の立場で、神と一つになって、初めて神の所願である創造目的を完成するのです。 神と真の父母の三位的な基盤の上に、心情的に一体を成さなかったことが、その昔アダムとエバが、サタンと愛の因縁を結んで侵犯されることになったのです。これが億千万年が過ぎても、処置することができないことなのです。神も愛する子女が、このような愛によって一度結ばれてしまったならば、どうしようもないのです。皆さん、堕落した世の中でも、自分の息子がこのような愛の因縁を結んだなら、この関係を父母がどんなに切ろうにも切れないのです。神様もやはり同じだというのです。メシヤたるイエス様が飼葉桶に生まれて・・・ 神とイエスと聖霊が本然の三位基台を中心として一つになり、一つの基盤を完結しなければならなかったのに、堕落によって全部壊されてしまったので、逆に上がって来なければならないのです。分かりますか? 逆に上がる時には、平安な立場で行くことはできません。極めて高く尊い立場で、土くれに落ちなければダメなのです。最初に神が造られた土くれに、再び落ちるのです。また僕に落ちるのです。メシヤが来ても、こんな位置に来られるのです。高くにおられる神の心情的な因縁を経て、低い地上に来る時は、高い立場で来れば低い立場にいる人間と因縁を結ぶことができないのです。それで低い立場に来るのです。低い立場の中でも、最も低い立場にと、来るのです。 イエスが飼葉桶に生まれたでしょう? そうでしょう? 私が以前に汽車に乗ったのですが、ある婦人が赤子を産んだのです。この時に人々はお金を集めてあげました。なぜそうするのですか? イエスがこのように生まれたからです。私はこのように思います。バスの中でも道端でも赤子を産んだなら、みな同情するのは人間の心理です。このような風習はなぜ生まれたのでしょう? イエスがこのように生まれたからです。私はそのように思っているのです。ですから道を歩いていて、もしも赤子を産むお母さんがいたら、洋服でも脱いであげようという思いがするのです。その赤子にあげたいのです。我々統一教会食口の皆さん、先生が通る時、その時間に合わせて道端で赤子を産んでみなさい。 イエスはどのようなお方かといえば、神の皇太子です。素晴らしい言葉でしょう。イエスはどんなお方です? 天地を創造された神の皇太子だという話です。それでは神はどんなお方ですか? 天地全ての万物の大主体、すなわち主人です。天地を造られた方であり永遠無窮なる王の中の王としておられるお方です。ですからどれほど大きいでしょう? 皆さんが形容できないほどに高く大きいのです。イエスはこのように大きなお方の息子として生まれた、このように言えば実感がわくでしょう? メシヤ、救い主といえば実感がわきませんが、神の皇太子と言えば実感がわくのですよ。神の独り子。一人しかいない独り息子として生まれた方が、イエス様なのです。ところがそんなイエスを、人間どもが捕らえて殺したので、神はどんなに胸が痛むでしょうか? 神の皇太子、神の独り息子イエスが天の宝座をおいて地上に生まれた時、どのように生まれたのですか? 口にも言えない惨めな場所に生まれたのです。馬小屋の飼葉桶がメシヤの寝る場所ですか? 皆さんが生まれる時はおむつや、沐浴する所を準備するのに大騒ぎだったのです。イエス様は皆さんより、はるかに惨めに生まれたのです。部屋が何でしたか? 飼葉桶に寝かされたのです。そうじゃありませんか? 我々統一教会の祝福家庭、私は言いませんが、我々祝福家庭の中に、こんな家庭が一つは出なければと考えているのです。あの山のてっぺんに赤子を産んでおいて降りてみるのです。禿鷲がその周囲をぐるぐる回っても、神が守って下さるのです。先生はこんな考えをする時があるのです。素晴らしいことでしょう。 飼葉桶の中のイエスを、誰が守ったのですか? 誰が守ったでしょう? 神の息子ですから神が守り、天使が守ったのです。また神に従う牧者たちが、その場を守ったのです。イエスは生まれはこのように生まれましたが、持ったその内容は、正に全てを持って生まれたのです。 霊界で祈祷するイエスの痛わしい事情 それではイエスは、なぜこのように生まれたのでしょう? 最もどん底に落ちた世界を救うのですから、最も下から出発しなければならないのです。神が最もてっぺんなら、イエス様は最も底であったのです。そうしてこそこの世界を救うことができるのです。この世界、すなわち理念世界という丸い世界です。円の世界です。ですから回らなければなりません。このように回る世界を造ったので、神はイエスを立て、役事されるのです。 回らない世界、滅んでしまう世界、堕落したこの世界を回わすので、神は最もてっぺんで、イエスはどん底から、役事しなければならなかったのです。このようにして回りまわって神が地上に降りて来られ、イエスが神の場に上れば成るのです。分かりますか? ところで、イエスはどこにおられる? 神の場に上らないで、楽園に留まっているのです。楽園で祈祷されているのです。「神様、この天地にいる人間を救援して下さいませ」と祈祷されているのです。 回る世の中ですから、神は右側から下り、イエスは左側から上がるのです。ですから、イエス様の路程は全てが逆路なのです。天上的な路程ではありません。反対の路程であり世の中と反対に行くのです。世の中がよければイエス様は悲しむのです。このようにして回ってゆくのです。 こうして今、どこまで来たのか? 天国の門の内ではなく、楽園に立っているのです。神の法座の右に往ったのでしょうか? これは神の髷に昇ったという話ではありません。神を代身したという話です。統一教会を異端というなら、天国に往くという牧師、長老、博士たち、見ててみなさい。世に中で信頼を受けている者たちは、最後になれば敗者になるのです。皆さん、堂々とみ旨を成してゆくという信念を持って「反対するならせよ」としなければなりません。イエス様は今、心では神を望み、体では地上を望み見る立場なのです。ですから、哀れなイエス様なのです。 心と体が一つになり、一つの方向に動くべきなのに、天上的人間の道なのにイエスは、霊界に往かれたイエス様は、心では神を仰ぎ見、体では地上を望み見る哀れなイエス様なのです。初めて来た人たちは、こんな話は分からないでしょう。哀れなイエス様を説明するには、何日やっても足りないのです。 この地上の最も惨めな場所に来られましたが、万王の王として即位されるのが、イエス様の本来の使命なのです。ところがこの事を成さぬまま残して逝った後、夢でのみ望み見たのです。再臨という所望の一日を望み見て、新郎・新婦の名を求めてこられたのです。ですからイエス様の事情が、どんなに哀れでしょう! 我々統一教会員たちは、こんな内容をよく知っているでしょう? このように哀れな方を新郎として侍るという者たちが、今日のキリスト教徒なのです。欲張りな者が多くて「良いことは全て私に与えて下さり、悪いことはイエス様にお任せ下さい。私の苦痛はイエス様に全て負わせて、私を平安にさせて下さい」というのです。祈祷をしても全て福を下さい、世界で一番にして下さい、という祈祷をするのです。祈祷はこのようにするものではありません。「あなたの苦労を私めに負わせて下さい。あなたの喜ばれることがあったなら、いつでも私に分けて下さい」このように祈祷しなければなりません。これが本来の天上的な祈祷なのです。 ところで今日、既成教会で捧げている祈祷を、神様が聞かれるでしょうか? 罪あるものの後孫となって、責任を果たさないで福ばかり下さいますか? ぶち壊さなければなりません、根本的にうち壊して、木っぱみじんにしなければなりません。先生はこのようなことを考えれば、今も歯ぎしりするのです。 イエス様の新婦になるには 哀れなイエス、このように哀れなイエスを、どこの誰が真に新郎として侍ることを願うのですか? この地上に来て、神の宝座まで往こうとされたイエスの所望を抱え、この地上にために闘うという信念を持たない者は、イエスの新婦となることはできません。イエス様が残された十字架の道は未だに残って、世界的なゴルゴダの山頂が残っていますからこれを取り壊して平坦な大路とする前には、自分がそのお方にお会いできないという信念を持たなかったら、イエスとは何らの関係もないというのです。 イエスを信じて、福を受けるのですか? とんでもありません。イエスは福を与えようとはされません。そのように信じるなら世界的は滅んでしまうのです。滅びるということは、人間のためでも世界のためでもなく、神のゆえに滅びるのですから、神が興れば興るのです。 今、信仰をしても、正しい信仰をしなければなりません。イエスを信じて福を受けようという人間は、全て強盗です。 修道の道を行く人々は、全て反対の道を行くのです。キリスト教のみならず、他宗教も同じことです。ですから宗教の中心の道理を立てる教会がキリスト教だとすれば、キリスト教はなおそうでなければなりません。ところでイエスを信じて、福だけ受けられるのですか? そんな者は異端です。異端とは何ですか? 彼らが異端だという話です。と言っても皆さん、既成教会の牧師たちに対して「我々の先生が言うには、あなたたちは異端です」とはしないで下さい。心のうちで知って、口では言わないで下さい。そうすれば終わりに、神が彼らを審判する条件が成立するのです。 今日この統一教会の先生は、何をしようとこの事をやっているのですか? このような問題を解決するためなのです。世界的な、歴史的な恨がこり固まっていますので、解かなければなりません。新郎が来られる道に、トゲの藪があれば切り払わねばならず、泰山峻嶺があればこれを崩して平坦な大道にしなければなりません。このようにする使徒たちが新婦なのであって、新婦たらんとする者が、新郎の肉と血を食べてなるのでしょうか? 新郎は新婦のまえに何ですか? 烈男です。烈男! 世界的な烈男ですよ。烈女という言葉は聞いても、烈男という言葉は聞いたことがないでしょう? イエス様は新婦たる万民に対して、烈男なのです。天と地が公認し、歴史が公認し、時代が公認し、現在と未来が公認する男の中の男なのです。こんなイエスのまえに、新婦たらんという人々が、烈女という名も立てられないでなれるでしょうか? 烈女にもなれないで、イエス様の新婦になろうというのは強盗と同じです。乞食の土蔵に住んでいる女が、世界的な大統領を自分の夫にするというならどうなりますか?「お! ケネデイ大統領は私の夫だ」と言うなら他人は狂ったと言うのです。 キリスト教徒は、こんな遊び事をやっているのです。乞食のような立場で、神の王者に「お! 新郎よ、どうぞおいで下さい」とやっているのです。ボロ包みを逆さにしてイエス様に「ここに来て私と一緒に暮らすのです」とやっているのです。ですから恨多きイエス様は、未だに解怨成就がなされないのです。イエス様の解怨がなされないので、イエスを送られた神の恨が解怨されますか? できません。神も解怨されず、イエスも解怨されないので、神から造られた天地万物も解怨されないのです。 ですからこの天地の恨を、解怨しなければなりませんが、どのように解怨するのでしょうか? この堕落の恨を解怨するために来られるお方が、メシヤなのです。 解怨する時は、万物の恨を解怨しなければならず、神の真の息子娘になれない人類の恨を解怨しなければならず、その次には聖霊がこの地上で苦労の歴史をたどって嘆息していますので、聖霊の恨を解怨しなければならず、その次にはメシヤ自らの恨を解怨しなければならないのです。その次に初めて、神の恨を解怨してあげるのです。そうすればメシヤの使命が終わるのです。 神がイエス様を送った目的 イエス様もこの地上に来られる時、このような歴史的な恨を解怨するという目的を持って来られたのです。神の心情を持って、神の歴史的な所望の実体として、神の代身者として来られたのです。神がイエスを送られた時、4千年の歴史の所望の結実体として送られたので、イエス様お独りが世界的な復帰の中心であったのです。ですからイエスを中心とする人類、イエスを中心とする万物、イエスを中心とする天使たち、イエスを中心とする霊界、すなわち全てのものがイエスを中心として成る日、神は初めて人間と共におられるようになるのです。これがイエスを送られた目的でした。分かりますか? イエスをこの地上に送られた神の目的は、イエス独りを抱えてゆくためではないのです。創造本然の世界全体を求めるためであり、4千年の間、勝利的な基盤を築いた後に、本然の世界を求める主体として、イエスを送られたのです。 ですから地上に来られたイエスは、万物の恨、人類の恨、歴史的な恨、時代的な恨、未来的な恨まで全て解怨して、イエス様自身の恨まで完全に解怨して世を収拾して、その次に神のまえに出ていって、神の愛と一致しなければならないのです。これがイエス様の最高の目的でした。この世を収拾する前には、神のまえに行く愛の因縁を持てないのが創造の原則なのです。ですから原則的な目標を達成するために、イエスはこの地上に来られたのです。ところで彼がこの地上で、世界を収拾しましたか? 人類を収拾しましたか? できませんでした。この地上の全ての主権者たちを収拾しましたか? できませんでした。収拾できないまま、審判という名詞を残して、逝かれたのです。 こんなイエスが万王の王としてこの地上に再び来て、全てのことを収拾して、勝利の条件を立て、歴史的な恨を精算して、アボジのまえに出ていって「この世界を全部、アボジにお返しします」という時が、終わりの日なのです。ですからこの終わりの日にはイエス様も復活しなければなりません。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない、最初はキリスト、次に主の来臨に際してキリストに属する者たち(コリント前書15:20-23)」と聖書に記されているでしょう? イエス様も復活しなければなりません。全てのことは聖書の中にあるのです。最初の熟した実であるイエス様も復活しなければなりません。復活とは、何の復活? 楽園にいる恨を脱ぎ捨て、神の心情を中心として世界を統治する王として、神の代身として天上天下を統治する王として復活しなければならないのです。 心では神を見上げ、体では地上を見下ろさなければならないのです。このように体と心が一つになって、愛によって世界を統治することのできる基準まで行かなければなりません。このような条件が残っていますから、イエスは復活しなければならないのです。その次に、キリストに属する者、すなわち聖徒たちが復活しなければなりません。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである(コリント前書15:24)」とあるでしょう? その時が終わりの日です。サタンの世の全てを滅ぼす時が、終わりの日だというのです。分かりますか? 終わりの日が、どんな時でしょうか? 皆さん、よくよく知れという話です。この世の中の全てのもの、サタンの世界、サタンの国を滅ぼし去って、創造当時の神がアダムとエバに、万物を主管せよとされたその主管を立てていって、アダムの後孫たちが唯一の神を中心として、神の心情に通じる一つの国を成して「神様、お受け下さい」という時が終わりの日なのです。 神が送られたイエスは勿論、内的な基準において万物を代身し、万人を代身し、全ての息子娘を代身することもできます。しかしその息子娘が、神の息子娘になっているでしょうか? 違います。造られた被造世界の嘆息を解怨しなければ、神の息子娘にはなれないので、万物を嘆息圏内から解放してやらなければなりません。また、万人を嘆息圏内から解放し、天上天下、霊界の嘆息圏までも、完全に解放しなければなりません。サタンを完全に屈伏させ、このようにして「この国を神のまえにお返ししますので、お受け下さい。あなたが所望された国がこの国ですから、お受け下さり、この国にあなたが立てたかった万王の王を、主権者として下さい」としなければなりません。このようにして国を捧げ、神が所望された代表的な存在が、この国の主権者として立てられる時が、天下が統一される時です。これが正しいキリスト教の信仰観なのです。 キリスト教の使命 ところでこんなイエス様が、雲に乗って来ていいのでしようか? 世を収拾しなければなければならないのに、雲に乗って来れば成るのかという話です。これは夢の中なら可能なことです。目を開けて、しっかり考えてみて下さい。 では今日、新婦たる皆さんの所望が何か? このような国を造って、このような方を新郎とて迎えることです。これが今日、新婦たる聖徒たちの責任なので、聖徒たちはこの世界を、一つの世界にすることが今日のキリスト教徒の使命なのです。 今ヨハネ23世が、汎世界的にキリスト教の大会を宣言しているでしょう? 時が来たからです。世界のキリスト教を併せ、一つにしようとしているでしょう? こんな内的な運動が起こっているこの時に、全世界的に広がっている宗教人は団合して、どんな民族や主権も勝つことができない、世界的な主権を造らなければなりません。それで眠っている国連を、目覚めさせなければなりません。今は共産主義が反対すれば、国連は身動きできないでしょう? ですから宗教の国連を造らなければなりません。そんな次に、左右側の世界を収拾しなければなりません。そのようにして主様の新婦たる我々が、世界を収拾して神のまえにお返しすることは当然のことです。そうでしょう? ところで今、キリスト教徒たちは何をしようとしているのでしょうか?「お! イエスはわがイエス、私に全て下さい」というのです。これはみな泥棒です。泥棒が他にいますか? 他人のものを自分のもののようにすれば、泥棒でしょう。他人のものを自分のもののように勝手にする人間は、泥棒ではありませんか? 強盗と違いますか? 他人の事情も考えないで盗んだ人間は、強盗じゃないですか? 神がなされようとしたことを、サタンの息子たちがやったら、泥棒ではありませんか? 間違いなく泥棒です。私が一つ聞いてみましょう。違うという人がいたら、立ってみて下さい。じっとしているところを見ると、みな泥棒ですか? 生まれるのもきっと、泥棒のように生まれて。(みな笑う) 終末の聖徒は新婦の内容を持たねば 皆さん! 事実先生は今、他のことは考えないのです。寝ても覚めてもこの事だけ考えているのです。皆さんもそうでなければいけません。先生はこのようなことを、天上的な信仰者の姿勢と見ます。先生もこんな姿勢で、一貫して来たのです。 イエスは我々の新郎たるお方として、神のまえにそのような使命を持って苦労されているのです。ですから新婦たる者たちは、一つにならねばなりません。一つにならねば。 この世においても家庭を破壊させるのは、女たちです。そうじゃないですか? 女が毒々しい二枚舌をのばして、ひらひらさせたらその家は滅びるのです。この地上で新婦たる者たちが二派に分かれたら滅びるのです。今日のキリスト教をご覧なさい。教団が分かれています。分かれれば分かれるほど、神は離れるのです。長老教も始めは二派に分かれて再び一派が分かれたでしょう? 3回分かれたら神は離れるのです。こんな時になって、恩恵が受けられますか? どんなに恩恵を受けようとしても、眠気ばかりが来るのです。 今日、世界に広がっているキリスト教徒は、考えなければなりません。主様が来れば、新婦の中の新婦を立て、この世を任せようとするのですが、その時にどうするのですか? 「我々の教会には主様の新婦となる人間がいません。あなたの教会にはいますか? 我々は共にそんな新婦を捜すのです」と声を高くして、世界史的は新婦を捜し立てなければならないのが、聖徒たちの責任です。ところが新婦となる人間を捜す考えもなく、これは異端だ、邪教だ、ひどい教会だ何だと、悪口ばかり言っているのです。 先生もこんな話は沢山聞いています。それでも肥ったという話がありますが、事実、私は仕掛けられたイバラを切り抜けて、肥ってきた人間です。本当に健康な人間ではありませんか? そうでしょう?(笑い)皆さん! こんなことを考えたことがありますか? 終わりの日が近づくほど、イエス様はどうされているかという話です。口を開けて笑っているのですか?「あ! 今や終わりの日が近づいて来たので、天下に一斉に号令して審判して、刈るものはゴシゴシ刈り取って、あれやこれやさっと引っこ抜いて捨ててしまって気分良し」というのでしょうか? こんなことを考えたことがありますか? イエス様は終わりの日になれば、大口を開けて笑っていると考えるのですか? そんなことは考えたこともなく、飛んだり跳ねたりしていますか? 終わりの日になればなるほど、イエス様は最後の十字架の場に降りて来られるのです。なぜ? 新婦が遇わなければならない世界的な艱難の峠、最高のゴルゴダの道を越えなければならないからです。新郎の立場で、新婦たちが遇わなければならない艱難まで、当たらねばならないからです。新婦たちは知らないでしょうが、そんな峠を越えてこそ成る天国の門を見つめながら、イエス様は終わりの日の準備をして、その一時に勝利する新婦を迎えるために苦待しつつ、2千年の間、苦痛を受けて来られたのです。終わりの日が来れば来るほど、苦痛を受けるイエス様を、皆さんは考えてみましたか? これを考える時、兄弟同士が互いに噛みつき、剣で争っている様子を見やり、眠ることもできないのです。こんな状態で新郎たる主様を来られるのを願ったら、雷に打たれるのです。 ところで、家庭がこのようで、教会がこのようで、国がこのようで、世界までこのようですから、この世界はどうなるのでしょう? 滅びなければなりません。滅びねばならないでしょう。終わりの日には、国と国が滅びるとされていなかったですか? 終わりの日の兆候が見えています。こんな時において我々統一教会員たちは、こんな理念圏内にあって、我々は泰平らしく眠っていてはいけないのです。 イエス様がこのように苦痛を受けておられるので、我々もこのような心情をもって世界を見やり、我々がやらなければならない使命を考え、心情的な立場で万民を代身し、新郎の心情に到達することのできる新婦の内容をもった人間にならなければなりません。そうしてこそ終わりの日に、主様の新婦として、神のまえに出ることができるのです。 イエス様がみ旨を開始する前にされた生活 もう一度、イエス様のことを考えてみます。イエス様は天の宝座をおいて、復帰の使命を負われ、この地上の惨めな場に来られました。このように来たイエス様は、何をしなければならないのか? 彼には万物を復帰しなければならない責任があり、万民を復帰しなければならない責任があり、僕(天使)を復帰しなければならない責任があり、また子女を復帰しなければならない責任がありました。 ですから彼は、父母の中でも世界的な父母の心を持たねばならず、兄弟の中でも大きな兄の心、兄の中の兄の心を持たねばならず、世界的な孝子の心を持たねばならず、世界的な忠臣の心を持たねばならず、また世界的な祭司長の心を持たねばなりませんでした。そしてこの地上で神のまえに忠誠を尽くし、善の実績を積んだ先祖たちがいたなら、彼らにおくれをとらない忠誠の心まで持たねばなりませんでした。それゆえ、イエス様はエルサレムに暮らしてもごはんを食べる時「神様、私がごはんを食べていますが、アブラハムが祭壇に捧げた3つの祭物もお受け下さい」というような生活をされたのです。 皆さん、聖書を知っていますか? 聖書を読んで知っているでしょう? 分かってみれば、イエスの心情はこのようであったのです。なぜ? 世界的な責任を負わなければならないイエスであったからです。堕落によって全てのものを失い、嘆息圏内にある万物と、人間の全ての嘆息の条件を内的に蕩減しなければならない使命が、彼にはあったからなのです。それでイエス様は他人が知らない中にあって、こんな歴史的な生活の基盤を築いていかねばなりませんでした。彼は人間の世にあって、み旨を始める前、人知れず内的な心情の世界において、歴史の背後を中心として生活せざるを得なかったのです。 彼は30年の間、世の中で笑い、どうにでも生活したようですが、彼の生活は全てが祭司でした。彼が見て聞いた全部が、アボジから受けたものであったのです。「私が泣くのは、アボジの苦痛と因縁を結んだのであり、私が動くのはこの地上、この悪なる世の中をアボジのこととして差し上げるためです」という基準で生活したのでした。このようにして地上の全万物と関係を結ぶことを、絶対的な目的としたのです。このようなことを、皆さんは知らねばなりません。 イエス様は寝ても覚めても、ご自身によって万民の罪が贖罪されることを願う心情を持っておられました。寝る時も、万民の罪が贖罪されることを願う心情を持ってやすまれたのです。人知れず寝静まった夜に目覚めても、眠る万民を代身して独り祈祷して、祭司を捧げる祭司長の使命をなされたのです。「アボジ、天宙的な恨の条件を蕩減するための、一つの実体として私をお受け下さい」という心に染みる祈祷の生活をされたのでした。 神が失ったものが何でしたか? 神は僕を失いました。また万物を失い、子女を失いました。しかしイエス様は神のまえに「万物の代身として善なるものとしてお受け下さい」という準備期間がなければならず、その次には神のまえに僕として奉仕する期間がなければならず、息子として孝道をなす期間がなければなりません。 しかしイエス様は孝子という名は残しても、忠臣という名は残さなかったのです。彼はこの世界の天使長の立場に立ってこの世を収拾し、神の息子の立場までいかなければなりませんでした。この地のまえに天使長の立場で忠誠を尽くし、神の子女の立場で孝誠を尽くさねばなりませんでした。すなわち、神のただ独りの息子にならねばならず、ただ独りの忠臣にならねばならなかったのです。 ですから今日、この地上で新婦たらんという群れがあったなら、まず地上に残るサタンを屈伏させなければなりません。これが僕の使命を果たすということなのです。このようにして、息子の使命をなすイエス様と連結され、神の宝座の前まで行かなければなりません。イエス様の生活を見れば、彼は万物の価値を無限において、万物の恨を解くために力を尽くしました。また僕の恨を解くために力を尽くしました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命を持って、息子の中の息子の使命をなしました。かくのごとく30余年の短い人生路程を行った彼は、この人生において復帰の全体を一身にかけ、蕩減の条件を立て、ゴルゴダの山頂まで行ってサタンを屈伏せしめたのです。しかし実体世界は、イエスの理念圏内も復帰されなかったのです。イエス様は霊的復帰の理念のみを立てたのでした。こうして再臨という名詞を残して逝った後、今まで2千年の間この実体世界を捜し求めておられるのです。 イエスの3年公生涯の期間 イエスは3年公生涯期間の間、どんなことをしなければならないのか? 僕の立場において個人から家庭を経て、民族、氏族、国家、世界、天宙まで復帰しなければならないのです。また子女の立場で、個人から世界まで復帰しなければなりません。さらには父母の立場をもって世界まで復帰しなければなりません。それでイエス様は生前、何をされたのか? 僕の体で息子を代身して、父母を捜し求めることをされたのです。 3年公生涯路程、3年準備期間には僕としておられました。僕として、サタンと闘わなくてはならないからです。天使長が天の法、すなわち天法を破ったので、天使を屈伏させなければならないのです。天使長が僕として神に背反したので、背いた天使長の立場を、復帰するための準備期間が、3年公生涯の路程であったのです。 この3年という準備期間を経て、天使長の立場を復帰した実体として立たれ、息子の責任を果たさなければならないのです。 そんな次に、何をしなければならないでしょうか? 勝利した天使長の立場で、天の側のエバ、すなわち新婦を立てて、復帰の準備をしなければならないのです。こうして息子の立場に立たねばならないのです。神の息子がいるなら、娘もいなければなりません。ですから男性、すなわちアダム的な新郎たるイエスは、女性であるエバ的な新婦を望み見て来られたのです。分かりますか? 一代でみな蕩減しなければならないからです。 このようにイエス様は僕的な天使長の使命を、3年準備期間の間に完結して、使命を完結しなければならなかったのです。子女の使命を完結する時には、兄弟と因縁を結ぶことのできる環境を造って、兄弟の足場を造らねばなりません。このようにしてその足場を中心として、父母の立場まで上がって来なければならないのです。イエス様が父母の立場に立つ時には、新郎と新婦がいなければなりません。こうしてその新郎・新婦は、堕落しない人間祖先として、人類の真の父母にならなければなりません。ここで真の父となられるお方が、イエス様なのです。この地上において、人類の真の父として立つには、真の母がいなければなりません。ところでイエス様は息子の使命は完結しても、真の母となる新婦を求められなかったのです。それで霊的にのみ父母の因縁を残して、逝かれたのです。 それでイエスは新郎として天を代身し、聖霊は新婦として地を代身して、霊的父母の基準を立てたのです。本来、夫婦という実体をもって、平面的に成さなければならないのです。またこれがイエスが本来、成さなければならない目的だったのです。ところが霊的にのみ成されましたので、霊界と肉界が一つになっていないのです。こうして新郎たるイエスは天にと上り、新婦たる聖霊は地に下って、再び霊界と肉界を一つにすることをされているのです。それで今日、世界の全ての人類は、霊界と肉界圏内において引っくり返っているのです。分かりますか? 世界人類はこれに対する動機も知らず、目的も知らないのです。ですから母の体内から未だ産まれていない子供と同じです。分かりますか? 皆さんは今目をパチパチさせて、いろんなことをして生きていますが、未だ真の父母の腹中から産まれていない赤子と同じ圏内に留まっているのです。ですから人間は、人生をどのように生きてゆくかを知らないのです。 重生しなければならない人間 将来、人類を再び生みかえる日が来るとして、その時が世界的な終末なのです。お産と同時に、息子娘が産まれるようになるのです。ところで息子娘が産まれるためには、天地の万物が神の圏内に入ってこなければなりません。人間を創造される前に、天地万物を創造されたように、真の子女が産まれる前に、外的な天地の形態を得て、必ず神が支配することのできる外的な世界を形成しなければならないのです。ですから目下、世界の全ての思潮は一つの世界を指向しているのです。最高の理想世界、平和と統一をうたい、幸福と愛をうたうことのできる世界を指向して行っているのです。 堕落した人間世界、その中にあってもアメリカ等の先進国においては、10代の青少年たちを中心に、多くの混乱が起こっているでしょう? これはアダムとエバが10代圏内で堕落したからなのです。 神はどのように今、真の子女を産みだされるのか? どんな人間に産みだされるのか?神の愛を知る人間にと、産みだされるのです。過去の人間は神の愛を知らずに堕落しましたが、今日復帰の歴史を経て終末、世界的な息子娘を産みだされる時には、神の愛を知る息子娘として産みだされるのです。神の愛を知る息子娘が生まれたなら、その息子娘を中心として起こる世界で、すなわちその息子娘の世界で初めて神の国、神の世界ができるのです。分かりますか。何の話か? すでに神の愛を語りましたが、皆さんは今、腹中にいますから神のお乳を味わってはいないのです。神の顔を見ることはできないのです。父母の顔を見られないので、腹中で生きているのと同じことです。今日このような事情に、人間はおかれているのです。ですから重生しなければなりません。今日、人間に必要なものが何でしょう? 霊的な救援摂理は完結しているのですが、霊的には重生して、霊的なお乳は味わっているのですが、これだけではいけません。霊肉が同時に重生されなければならないのです。 これから主様が来られますが、この主様は真の父母として来るのです。実体を持った人類のアボジとして来るのであり、実体を持った新郎としてこの地上に来て、実体を持った人間の中において新婦を捜し求め、オモニとして立てるのです。それで初めて堕落しない真の父母となるのです。堕落してはいけないアダムとエバが堕落することによって、真の父母を失ってしまったので、今日の人間は堕落した父母は持っていますが、堕落していない真の父母は持ってはいないのです。 ですから復帰摂理を経ていって、実体を持った真の父母の使命を完結するために来られるお方が、再臨主なのです。分かりますか? このように言えば分かるでしょう? 歴史的な真理を持って来られる主様は、どんな使命を成さねばならないか? イエス様が霊的な救援の基盤を築かれましたから、これを基盤として、霊肉とも完全な息子娘を産みださなければならないのです。 この地上に来たイエスは、ゴルゴダ山頂で死にゆかれました。ですから来られる主様はどのようにして来るのか? ゴルゴダから出発するのです。数億万人類が反対するゴルゴダを越え、死の道を行かれたイエス様は、復活の聖体として再び来られるのです。死によってゴルゴダを越えられましたが、永遠に勝利したのです。それで再び来るのです。そうでしょう? 復活して、再び求めて来るのでしょう? ゴルゴダ山頂を越えられたイエス様が再び来る時には、行ったように来るのです。十字架を負って行きましたから、十字架を負って来るのです。(※註「再臨主は行かれたように来られる――〝罪人の立場〟で逝かれたイエス | 真の父母様宣布文サイト (trueparents.jp)」) 終末に統一教会員が担うべき使命 このような十字架を背負って行く団体が、統一教会なのです。統一教会よりも大きな団体が出てくるかも知れません。しかしどんな団体でも、このような使命をなすという団体は、必ず排斥されるのです。皆さん、信仰の道をゆく時、家のなかの家族が反対するでしょう? 聖書に、自身の家の家族が怨讐になるとあるでしょう。愛する夫も「ぶち殺されるまえに止めろ」と反対するし、父母も「行くな」兄弟も「行くな」と言うのです。全部が反対するのです。はなはだしく反対するのです。刃物を突きつけて殺すと言うのです。このような立場から出発しなければならないのです。その次に、民族的なゴルゴダ、世界的なゴルゴダまで越えなければなりません。このようにして、道を築かなければならないのです。 イエス様が万物復帰、僕復帰、子女復帰、父母復帰のために天宙を代表した心情をもってゴルゴダを越えて行かれたように、ゴルゴダを越えて行かねばならないのです。イエス様が抱かれた所望が、ゴルゴダで砕かれましたから、ゴルゴダで勝利しなければならないのです。イエスの所望が壊される時、万物が壊され、家庭が壊され、氏族、民族、天宙が壊されたのです。 正しいということは、勝利するということです。耐えねばなりません。耐えねばならないのです。いっぺんに国家的にゆくことはできません。ゴルゴダの途上は、個人的ゴルゴダ、家庭的なゴルゴダ、民族的なゴルゴダ、国家的ゴルゴダ、世界的ゴルゴダまであるのです。来る氏族的ゴルゴダの基準まで、必ず越えなければなりません。蘇生、長成、完成の基準まで行かなければなりません。このゴルゴダを越えなければならないことが、今日我々統一教会が、担わなければならない使命なのです。このために闘ってゆく期間が、この3年期間なのです。分かりますか? 我々がこのゴルゴダ山頂で闘ってゆく時には、自分自身のために生きてはなりません。寝ても覚めても食べる時も、全てをこのことのために成さねばなりません。涙を流すことも、このことのために流さねばなりません。イエス様が十字架を背負わねばならないという時「天のお父様! できることならこの杯を去らせて下さい」とされて涙を流したでしょう? なぜ、そうなのでしょう? ご自分がこのような道を行ったなら、従ってくる聖徒たちも、みなこのような道を行くようになることを思い、涙されたのです。 イエス様は救援をおいて、祈祷されたのです。しかし来られる主様は現実をおいて、祈祷されているのです。分かりますか、何の話か? 現実をおいて、骨に染みる祈祷をされているのです。 主様の憤りと無念さに、あたってみなければなりません。自分のみならず、子女たちまでもこんな苦痛と怨恨を味わってみなければなりません。自分の家族のみならず、親戚までもが、こんな苦痛を味わってみなければならないのです。家庭のみならず、氏族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。民族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。その時までは、来られる主様が行かなければならない十字架の道が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。これは先生の言葉ではありませえん。神の言葉です。祈祷をしてみて下さい。事実か、そうでないか。 それでは、誰がより哀れでしょうか? イエス様は苦難の十字架を案じて涙を流し、できることでしたらこの杯を去らせて下さい、と祈祷されました。しかし来られる主様は、現実の十字架路程において苦痛を受け、呻吟している子女たちをおいて「できることでしたら彼らから十字架の杯を去らせて下さい」という哀絶なる祈祷をしなければならないのです。 我々が捧げなければならない祈祷 子女たちが責任を果たさなければ、祈祷をしたくてもできない悩みと苦痛を感じなければならないのです。来られる主様はこんな立場で、個人から民族、国家、世界的なゴルゴダを越えねばならない使命があるのです。個人的な十字架路程、家庭的な十字架路程、氏族的な十字架路程、国家的な十字架路程が未だに残っていることを、皆さんは知らねばなりません。 こんな苦しみにあう度に、どんな決心をしなければならないでしょうか?「私はこのように闘ってきました。イエス様が僕として行った道も行きました。イエス様が息子として行くことができなかった道も行きました。イエス様が十字架上で解くことができなかった恨を、私に解かせて下さい」とすることのできる心を持たねばなりません。 新郎たるイエスのまえに、新婦としてしなければならない責任を完結するという基準を立てなければなりません。自分一個が認定する基準ではなく、家庭、民族、国家、世界、天宙まで、神まで認定することのできる基準を立てなければならないのです。こんな内容を持って行く立場であってこそ、神の息子娘となることができるのです。 ですから統一教会においては、3年期間があるのです。先生が今まで、皆さんを苦労させてきました。しかし苦労させるということが、先生の心ではありません。 イエス様は未来の所望をおいて祈祷されましたが、今日の統一教会員たちは現実をおいて、祈祷しなければなりません。現実において涙を流す基準を立て、家庭を代表して生活する基準を立てなければなりません。神が行く道ですから、民族を中心として、世界を代表する基準をもって、世界人の罪を贖罪する使命を果たさなければなりません。ですから皆さんを、家庭的な艱難期間に同参させ、民族的な艱難期間に同参させ、世界的な艱難期間に同参させ、苦痛を受けさせるのです。 それでどうしなければならないか? 苦痛を受けなければならないのです。でなければ落ちてしまうのです。分かりますか?一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.16
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「第三十七回『真の父母の日』敬礼式における祝祷」1996年4月18日ニューヨーカーホテル 第三十七回「真の父母の日」の祝祷は涙を流されながら祈祷された。 愛するお父様。 きょう、一九九六年四月十八日、第三十七回を迎える父母の日の記念行事を行う、祝典のこの時間となりました。天と地が注目し、万民が心を集めて見つめるここ、天上世界の善なる先祖たちと、地上の善なる後孫たちと、未来の希望として生まれる子女たちまで、共に神様の真の愛を中心として連結させる、聖なる式典として受け入れてください。 創造理想実現のための、あなたの愛の対象を探し立てるために、あなたの実体をこの地上に立て、隠されていた愛を刺激的に感じようとされました。 そのために、創造したすべての世界が、すでにあなたのみ意のままになされ、この地上で万物万象はあなたの愛で一つになり、愛の懐に抱かれ、つくられた存在として、誇り高き栄光を天の前に帰し、継続的勝利と栄光と愛が、永遠なるあなたの勝利の版図として、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、天上まで一体圏を備え、あなたの歩まれる土台となり、喜びと満足の対象圏にならなければならなかったのに、そのように成してさしあげられませんでした。 そのような私たちの先祖からの、今までの間違ったすべての誤りを耐えられながら、許しの一日を心に抱き、涙のにじんだ復帰の峠、野、川、海を越えなければならない、深いお父様の心情を知る私たちの先祖がいませんでしたし、この地上に生きる人類がいませんでした。 しかし、真のご父母様をこの地上に送られて…。 かわいそうな韓民族は強大国の間で、あらゆる祭物的な歴史を悲惨な姿で歩みながら、嘆息と共に、未来の希望の一念を継続的にもつようになさったのでございます。 四百余年前から、この地上に 正 道 令 が現れると希望を与えながら、消えていくしかない民族の脈を守ってくださった天の前に、韓民族は感謝しなければならないということを私は知っております。 それはすべて、あなたが訪ね会いたい、失われた息子・娘を立てるための準備でありました。 蕩減歴史の中で、個人としても、家庭としても、国家的にもいかなる民族の前にも立つことができず、カイン的世界の前に、アベル的国家として責任遂行をお任せになった使命を果たすための韓民族の歴史の背後は、涙の谷、汗と血の谷でもつれ合ったものでした。 その基盤を築いて、韓民族が行くべき道を導き、守ってくださった恩賜を、この時間、いま一度感謝を申し上げます。 その地の上に天が祝福の恩賜を与えるためには、悲惨な民族の姿の恨と共に、嘆息と共に、永遠なる絶望の限界線に立って絶叫しなければなりませんでした。民族的解放を願って、奴隷のような国家の運命もためらわずに無視し、蕩減の路程で、韓民族は天の前に恨でもって呻吟してきたのでございます。 しかし、解放と共に、真の父母によって世界に向かって跳躍でなく、飛躍することのできる、天運を受け入れることのできなかったことをすべて私たちは知っております。 真の父母の行く道を守り、真の父母が生活することのできる環境を開拓し、真の父母が立てるべき新しい天の国家を、建国思想と共に、建国の寵児となり、このことを完成しなければなりませんでした。 その韓民族が二分され、南北で怨讐となり、互いに血を流す同族の争いの、無念で憤懣やるかたない歴史を編むようになさったのは、このすべては、天が蕩減させるための路程であったということを知っております。 そうして、来られる真の父母は、この地上で家庭の基盤を失い、国家の基盤を失いました。荒野から宗教圏の女性たちを前に立てて、それを収拾し、そうして天の家庭の環境を越え、氏族、民族、国家の環境を越え、新しいお母様を立て、新しい子女を立ててきました。 新しく父母の名を一個人の一家庭で成就させ、氏族、民族、国家、世界、天宙を越え、天が愛される父がおり、母がおり、子女がいるという、万民と共に、全宇宙と共にそのすべてのものを抱き、勝利を願った本然の第一代の祖、アダム家庭において成し遂げられなかった、恨と悲しみと無念さをすべて過ぎ去らせることのできる、喜びの家庭と喜びの氏族、民族、国家、世界を、真の父母によって天の前に抱かせることを願われたお父様の前に、四十年、五十年、半世紀の歴史を、また悲しみで天の前に釘を打ち、嘆きの祭壇を天の前に捧げた、過去の第二次大戦後の半世紀を、お父様、許諾してください。 ご父母様は荒野に追いやられ、個人の基盤を探し、恨の道を開拓しようと、家庭を越え、氏族の道、民族の道、国家、世界の道を行くうえで、数多くの人々が旗を掲げ、いなくなるべき 某 だと言いながら責め立てました。 その中で、天の御旨の心情をもち、この峠を越えなければならないということを知ったので、天と一心一体となり、恨み多い四方のすべてのものを忘れて神様の愛の伝統を残さなければならないという、身悶えする日々でありました。 その日々を、お父様、共にいてくださって、今日の勝利の覇権的な位置を握り、あなたが失った永遠なる統一世界の王権と王のみ座の位置を開拓するための、苦労の多かった御旨の完成が目前に来たことを思う時、涙と共にひれ伏し、感謝を捧げなければならない統一家の群れであるということを、私はよく知っております。お父様。 一昨日はアメリカのワシントンにおいて、あなたが四月を越える前にやらなければならないといわれた挙国的な行事をいたしました(※「ワシントン・タイムズ財団」創設記念特別講演)。 第二次大戦後に新婦圏のキリスト教を収拾して、天と一つになって、来られる再臨主と共に、真の父母と共に一体的な足場をつくり、自由な環境において、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで、平面的途上で、あの遠く遠く別れていた神様、人類の向こう側にいた神様が、サタンがもっていたこちら側の位置を奪い、出会うべき父子の心情であったことを知っております。 サタン側を代身した家庭、氏族、民族の塀の峠を越えてくるための四十年生涯を、天がかわいそうなこの息子と共に、開拓の道を歩んでこられたということを、私はよく知っております。お父様。 統一家の食口たちは、ご父母様が行った道を前にして、祭物の祭壇を置き、涙と血と汗を代身してその基盤を築かなければならない、生きた祭物的な基盤を喪失した時がたくさんありました。 そのような無知なる子女たちを率いて、一人、お父様と共にこの道を開拓するようになった、すべての事実を忘れてしまい、創世以後、メシヤがこの地上に来る時まで、何十倍の受難の、嘆きの恨を抱いてこられたお父様に侍る中、不孝極まりない時が多かったことを、私自身も知っております。 個人に対するのに天が自由に対することができず、家庭に対するのに自由に対することができず、氏族、民族に対するのに自由な環境を備えられなかった世界版図に、地上天国の解放圏を備えるということは、はるか遠い夢の日の彼岸の幻想の中での考えのようでありました。 そのように遠かったその峠を、天が先頭に立って、何も知らないかわいそうな真の父母の手を握り、導かれることによって、今、解放の頂上に立って、分水嶺の峠を越えることのできる時代的環境に立たれたのです。 そして、アダム家庭において失われた長子圏である世界家庭圏をお立てになり、蕩減復帰し、アダムがなせずに、真の父母圏を失い、偽りの父母となっているので、サタンとこのすべて否定された自己とその血族を否定する立場に立って勝利することを願ってきました。 サタンを忘れてしまい、反対するカイン的世界を忘れてしまい、ただアダムの中で勝利することのできる本然的アダムの姿を代身して、長子代身、父母代身して勝利の版図を築き、恨の多かったこのサタン世界の王権を踏んで、越えることのできる時代をもつことのできる日を願った、すべてのことが、今、名実共に、世界に対して真の長子を越え、真の父母を越えて、新しい王権時代を発表することによって、世界が今、サタン圏を越え、解放的あなたの愛に抱かれ得る時代相をもつようにしてくださった恩賜を感謝申し上げます。 この地上にあった共産主義も消えていき、民主主義も今は戦いの環境を越え、ご父母様に向かって、歴史過程のある革命的大軍が叫ぶのと同じように、「真のご父母様」と喊声高く叫びながら、「探し、探し、愛を受けたかった、その中心に出会った」と言うようになったのでございます。 今、この全天地の中で統一教会の旗を掲げ、真の父母を誇りながら、愛しながら、愛を受けることができ、称賛を受けることのできる、解放的民族、解放的人類を成さなければならないということを知っているものでございます。 残る四年間、聖婚の三十六周年の記念の日を過ごしながら、三十六の峠を越えながら、今、四十の峠に向かう、地上の平面的なこのすべてのことを連結させるべき民族解放の道を開拓する、三百六十万双の祝福の道が残っております。 家庭の道を越えて行かなければならない天国の道であるので、アダム家庭の峠を神様の愛と共に一体となり越えられなかったことを、全世界の家庭祝福を中心として、カイン的家庭基盤を越えることのできる…。(録音がしばし中断) この父母の日は三十六回の峠を越える日でありますので、天がここに勝利の覇権の基台を立てられ、万国を踏み、カイン的な国の主権を踏み、真の父母の声を、家庭から氏族、民族、国家、世界全体が高く讃揚し、天が喜ぶ歓声で、「今、すべてをなした」と言うことのできる、御旨の成就を果たし、恨み多い峠を越えて、人類解放を神様自体が宣言しなければならない、この時間であることを知っておりますので、お父様のみ意のままになしてください。 み意にかなう圏をお立てになって、あなたが自由自在に、自ら、この地上の万民、どこでも行使して余りある真のご父母様圏を越え、真の王圏の前には、相対することのできるサタン世界、その血族は何もないという立場であることを知っております。 私たちは天の前に願っておりますので、最後の残された天の全体、全般、全権、全部の行使を行ってくださって、悪の障壁を切ってしまい、平和の障壁に連結させ、平地のような解放的自由天地が、きょう、統一家を中心として因縁を結んだ、統一食口と、統一食口を知る一族が解放の喜びを中心として、「万歳 万万歳 万万歳」と讃揚することのできる地球星解放の日々が、きょうから現れるよう許諾してくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。 長い期間を越えて、私たちがこのような祝賀の日を送りながら、恋い焦がれ、願ってきた願いが何かと言えば、真の父母の顕現であり、天の父母が地上に訪問することのできる、その日を開拓するための歩みの道だったのでございます。 ふさがっていた塀を四方から壊し、すべての恨みの峠を壊し、平準化させ、真の父母と共に一つの中心となって、一つの心の一体圏をなすことによって、天の父母の自由、この地上の再臨環境を開拓なさった直接主管圏内の解放圏を慕い、私たちが長い三十六年間、このような行事を経た希望の日を喜びでお受けください。 勝利と讃揚で過ごした日として、このすべてのことを天が記憶してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 この式典に参席することが、どれほど偉大かということを知らずに参席したすべてのことは、天の法に引っかかる立場であるということを知らない、分別のない者たちであることをお許しください。 ご父母様がこの道を開拓し、先頭で闘われる道を天が協助した恵沢圏を、万民と共に統一家のこの日々を祝賀する姿を代身して受けてくれることを知っています。この日を迎えて、過去の祝福家庭が天の前に体面を立てることのできなかったことを許してくださって、ご父母様が行く道のその足跡を直接踏んで、峠を越え、また越えて、勝利の地上天国に入城することのできる、解放的天宙を許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 きょうの祈祷を中心として、四年を残した二〇〇〇年代まで、ご父母様が八十回を迎えるその時に、このすべてのものを清算しなければならない、世界的国家の方向を一か所に集めなければならない、歴史的責任があるのです。 その標準的目標が祝福家庭であり、全世界人類が、自分の胸と体と環境と歴史の門をさっと開き、祝福の尾に従い、地上から天上まで引っかかることなく直行することのできる万民解放祝福の日が、この地上に臨むようにしてください。 きょうを期して、新しい歴史の出発を宣言いたしますので、お父様、霊界と共に宣言されたものを、この地上の平和と地上天国に連結させてください。 すべてのこの日の喜びと歓喜の心を、地と天が共にお受けください。 喜びでもって、万民のすべての過去、現在、未来の足りなさを忘れ、解放を宣言してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 このすべての内容をお父様の名によって、天の名によって、この地上に宣布いたしますので、宣布の祝祷の恩賜を、万民が共に、その体の上に、その胸の上に、その環境の上に抱くよう許諾されたことを知り、宣言いたしますので、万民がその御旨の前に順応することのできる平和の群れたちとなるよう許諾してください。 このすべての祈りを真のご父母様の御名によって宣言いたします。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.07
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「救援摂理史の原理観」日付:一九九六年四月十六日場所:アメリカ、ワシントンDC、ヒルトンホテル行事:「ワシントン・タイムズ財団」創設記念特別講演尊敬する内外の貴賓、高名な紳士淑女の皆様。今日、歴史的大変革時代を迎え、レバレンド・ムーンと皆様が出会うことができ、神様に心から感謝を捧げる次第です。 宗教と救援摂理の目的神様は、絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのみ旨も同じです。もし人間始祖アダムとエバが神様の愛で一体になっていれば、万事が完全、完成です。ですから、神様の出発、目的とその程度、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。人間始祖であるアダムとエバは、堕落して、無知と混沌に陥りました。個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的な無知と混沌に陥るようになりました。この堕落圏を抜け出すためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。「終わりの日」にメシヤが来て、神側から見る絶対、唯一、不変、永遠の原因と方向と結果をはっきりと教えてあげ、無知と混沌の世界を清算し、本然の神様の懐に帰ることが神様のみ旨の完成です。そのようにならなければ、「終わりの日」に、すべての宗教、主義、思想や国家も、みな滅びるようになるのです。今や人類は、わずか数年のちには二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に差し掛かります。このような重大な時点において、私は、「救援摂理史の原理観」と題するみ言を通して、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで神様は、人間始祖に与える戒めが必要だったのです。人間が成長期間を上がっていく未完成段階にいたことを御存じの神様が、子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげるための条件として与えてくださったのが戒めでした。本来、真の愛は経験を通して、体恤を通して分かるようになっていました。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的に生活を通して経験し、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を体恤することによって完成するようになっていたのです。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。人は、自分の愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が、無限の価値ある存在になることを願われるのです。人間は、完成すると神性をもち、天の父が完全であられるように完全で、神様と同等の価値をもつのです。神様は絶対者であられますが、真の愛の理想は独りでは達成されません。愛の理想は必ず相対を求めるからです。私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、互いにいかなる関連をもっているのかを知らなければなりません。もし神様が、真の愛の絶対的な対象体として人間を立てずに、ほかの方法を通して御自身の真の愛の出発と完成を達成しようとされたとすれば、どのようになるでしょうか。神様と人間の真の愛を中心とした理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的も異ならざるを得なくなります。そのようになれば、神様の愛の理想は、人間よりも上位にほかの愛の対象を立てて達成しなければならず、一方で人間の愛の理想は、神様と直接的な関係をもてなくなってしまいます。 真の夫婦は神様の絶対的愛の理想を完成する真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高、最善の愛の対象として造られました。ですから、人間は創造物の中で唯一、神様の実体をまとった対象なのです。無形の神様のみ前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかにいつでも入ってきて暮らすことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的な理想は、人間を通して、父母と子女の縦的関係で実現し、完成します。神様は御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは神様の息子であると同時に、体をもった神様自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成する新婦でもあったのです。アダムとエバが完成し、神様の祝福のもとで結婚して初愛を結んだとすれば、その場は、神様が実体の新婦を迎える場だったのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参することによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実、完成するようになっていたのです。神様の創造は必然でした。目的のない創造は想像することができません。神様にとって創造が必要だった理由は、ただ一つ、真の愛の理想のためでした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、各々主体と対象、陽性と陰性の相対関係で展開された理由も、愛の理想のもとで相対関係を形成するためなのです。創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は、別個のものではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようにされたのが、創造原理です。太初に人間をアダムとエバ、一男一女として創造された理由もここにあります。神様の創造目的は、アダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って、真の人として完成することでした。さらには神様の真の愛で一つになった真の夫婦になることでした。また、彼らがその真の愛の中で息子、娘をもち、幸福で豊かに暮らすことのできる真の父母になることでした。アダムとエバが真の愛で完成していれば、それは実体を身にまとう神様の願いが成就することだったのです。そして、彼らが真の夫婦として完成していれば、それは神様の絶対的な愛の理想の完成を意味しました。それから、アダムとエバが善の子女をもって真の父母になっていれば、それは永存する父母の位置を実体的に確定し、人間の血統を通して子々孫々を繁栄させることによって、天上天国の市民を無限にもつことを望まれた神様の理想が成就されるようになっていたのです。ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を連れていませんでした。神様が、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていって祝福し、結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。ですから全人類は、神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫なのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.04
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「南米巡回時最後の御言」1996年3月6日アルゼンチン・コリエンテス日本の責任者たちに日本語で語られた内容の抜粋。 完全投入して忘れる者が世界の中心者になる 「こういう事情でこうだったのです」と弁明する(人がいますが)、神には通じません。原理の世界では、主体は永遠の主体です。「自分」というものが生きている以上は、絶対信仰、絶対愛の相対にはなれません。完全投入しなければならないのです。 ですから、絶対信仰、絶対服従、絶対愛は、神自体に通じていくということです。愛の理想相対をつくるために、完全投入して忘れていくのです。無限永遠まで、そういう観念をもっていけば、無限永遠の愛の中心者になることができるのです。 全世界に基盤をつくるために、投入して忘れるのです。日本の財源(国力、国土、人)を、世界にみんな投入しておいて忘れてしまえば、世界が自動的に自分の国の上に乗っかってしまうというのです。 投入して忘れる者は中心者になるのです。中心者は責任をもたなければなりません。保護しなければなりません。それから、成長させてあげなければなりません。 ですから、先生は、統一教会の中心者として全体に責任をもちます。難しいことがあったら、先生が処理するのです。国の王様に対しても説得します。難しかったら乗り出して関係をもち、そして打開していく、それが責任者だというのです。 投入して忘れ、何ももっていない、空っぽになれば、世界が自動的に中心者の核の中に入ってくるのです。先生がいなければめちゃくちゃになります。保護しなければならないのです。中心者になったら無責任ではいけないのです。 日本の責任者たち、日本の有識者をいかに御旨の前に貢献させるか、そういうことを考えなければなりません。考えない者が、関係をもつ道はないのです。自分を犠牲にする条件を満たさないところには、関係をもつことはできません。有識者に縄張りして関係をもち、共に住むような環境を提供してくれますか。有識者の相対の立場に立つのではありません。主体者です。 先生の信仰の道は、絶対信仰で命を懸けています。遊び半分で命を懸けているのではありません。お金をためておいて、命を懸けるのではありません。すべて使ってしまって、全部ないので、仕方がなく自分の命を消耗するのです。 「獄中でも、何でもいいから打て」主体なる神の前に完全に相対に立ったら、天運が救ってくれるのです。国がいくら砕こうとしても、打ちながら国のほうが倒れてしまう、砕かれてしまうのです。姿形もなくなってしまいます。(それが)先生の生涯の戦法です。 心の中で神の前にひざまずいて、悔い改めて祈りをするように育てていく、それが責任者です。気合いを掛けて痛みを与えながらも、正しく導いていくのが歴史的指導者です。なだめながらかわいがるよりは押し出して、十年の道を一年でなしていくのです。十年の道を一年でなす、これこそ立派な指導者です。分かりましたか。 先生は何ももっていなくても、南北アメリカを統一します。何をもってなすのでしょうか。神様と真の愛によってなすのです。みんな真の愛を、生命の極点として慕い求めるようになっていますから、その極点をもって東西南北相対圏の基準を知らせた場合には、みんなついてくるのです。調べてみなさい。弁明も何もありません。 もし、宣教師が一人でも悪いことをし、裏切るようなことをしたら、普通この世の中では、何回も首を飛ばすような立場に立つことになるでしょう。けれども、先生はそれを許してあげます。天に誓って、この人の生涯を永遠に守ってくれるように、神に祈った祈りが残っているのです。 その時には祈っておいて、今は祈らないで消すようなことはできません。その人のために、最善を尽くします。だから、途中でいくら、くにゃくにゃしても、始めと終わりを合わせた責任者を神は裁くことができないし、合わせた主人のほうには、神は祝福を伝授してあげなければならないのです。 御旨を果たしてから死んでいく 五代は氏族的メシヤの使命です。七代まで入るのです。五代は一家で住むことができます。四代はたくさんいますが、五代までつなぐのです。だから、三代続いて、七代が一族です。それが大きくなって何百万をいつでも超える基盤があるということです。それをまとめて、一族の先祖になることができるというのです。 最初の先祖が氏族的メシヤです。氏族的メシヤを組んで民族編成すれば、国、世界は自動的に生まれてきます。他の者に任せてはいけません。家庭の基盤の上に、何でもつないでいくのです。なぜでしょうか。家庭は、神の心情の中核の定着基地になっているのです。 神が約束して、永遠に保障するのです。そのこと(氏族メシヤを勝利した家庭)は、天国の博物館に献納品として、ちゃんと飾りたいと思います。それを放棄しません。いくら古ぼけても放棄しません。 冒険、冒険、冒険で何でもやりなさい。今、やり抜かなければならないのです。あれやこれや、どんな女になるとしても、御旨を果たして死んでいく、真剣です。御旨を果たしてから死んでいくのです。それ以上にやるような覚悟をしなければなりません。先生は、そういう道を堂々と開拓してきました。 だから、(先生は)愛の世界、愛の十字架を抱えた王様です。イエス様は肉体の十字架を背負って死んだのですが、先生はエバが汚した愛の十字架を解放するために、血みどろの道をさまよって、今までやってきたのです。何の話か分かりましたか。一番かわいそうな立場です。 歯を食いしばり、祈りながら、たくさんの峠を通り過ぎてきました。死ぬのが問題でないのです。その先生を泣かせてはなりません。先生が痛哭したら、天地が痛哭します。 今そういう立場で、日本は大変です。永遠に、姿も影も形も現すことができなくなってしまうでしょう。真剣です。 分かりましたか だから、今朝、責任を果たせずしてご飯を食べるのは、このはしに恥ずかしい、さじに恥ずかしいのです。ご飯を食べながら、涙を流しながら…。この道を相続していかなければならないので、仕方なしにはしをもつのです。 「わしは明日も、来年も、十年後も、二十年後も、行かなければならない」、そういう心情をみんな知らないのです。 初愛の因縁を忘れることができない 先生は指輪をはめたことがありません。結婚の時以外にはしていません。きみたちは指輪をはめていいのです。きみたちは先生の話を聞けばいいのですから。先生には蕩減の道が山ほど残されているので、(それが)果たされない状態で、記念物をかけることはできません。 だから、みんな忘れてしまいます。生涯に記憶することを、みんな忘れてしまいます。日にちも、みんな忘れてしまいます。「サンパウロ宣言」とか、ジャルデンで何をいつやったかも忘れます。きみたちは記憶しておきなさい。(それらは)先生のものではありません。きみたちのためにやったのだから、きみたちは記憶しなければなりません。 先生が忘れて行かないと、そういう時(霊界に入った時)に引っかかったら、すべての条件が、あなたたちの行く将来の道に障害となるのです。だから、先生は記憶しない、忘れてしまうのです。みんな忘れてしまいます。 だから、ぼけが必要なのです。ぼけ現象。「日本はだめだ」と記憶したまま霊界に行って、忘れなかったら大変です。みんな忘れて行ったのだから、(きみたちに)会えばほほえむことができるし、きみたちが「どこかに案内してほしい」と言えば、先生は「案内してあげるよ」と…。 全部忘れて、そういう軽い身になって、子供の友達、青年の友達、女として愛を中心として旦那さんの友達、お父さんの、おじいさんの、王様の、神様の友達(になるのです)。変わらない思想です。 良心は知っています。説明しなくても知っているのです。だから、夢の中で先祖たちが来て、先生に引き継ぐ運動を、世界的にだんだんと頻繁にしているのです。 自分たちがやらなければなりません。今そういう過程で、そう言っているのです。いつまで先生がそうするのですか。今まで、先生が日本に注いだ誠意と愛情を、どこで収拾するのですか。主管するところがありません。恥ずかしい日本、エバ国家。初愛の因縁を、永遠に忘れることができないのです。 星も月も土地も、万物すべてが先生の涙の友です。復帰の路程で悲惨な立場で、草ぼうぼうの所に行って、祈祷することは…(お父様の涙声で聞き取れず)。 その万物の前に、エバが使命を果たせずに、どこに顔を、姿を現すのですか。その恥ずかしい日本を引っ張ってきた、先生の責任は…。 いかに、その日本を神の前に返すか、よくもこう流れていく国を治めてきました。誰がその答えをするのですか。大変なことです。きみたちは真剣になっていません。 日本頑張れ 神が守っている 先生は土地も何も要りません。天幕を張って軽い身柄でもって、裸で大の字になって寝る一日を迎えたいのが先生です。そういうことを忘れたらだめです。分かりましたか そういう心情基盤になったら、何でも解決します。 先生を見てみなさい。一人でここまで来ました。神は生きています。神を泣かせよ 神様が仕事ができないように…。ペンをもったら、答えを書かないとペンを置くことができないような子供になりなさい そうなった場合には、必ずなるのです。 戦後、灰となった日本を見て、祈ったことがいくらでもあるのです。先生が言った通りの日本になったでしょう。今から決意してやらないと発展の日本でなくして、荒廃の日本になります。それを誰よりも憂えている先生です。それを忘れたらだめです 分かりましたか 足を忘れて歩くようなことが、いくらでもあるのです。水を飲みながら、ご飯を食べながら、それを忘れている、そういう心情圏を体恤しないと、エバの人格の格が、格位が定着できないのです。霊界に行っても恥ずかしい立場で、先生の正面に立つことができないのです。涙ぐむような永遠の道が、自分の道でなければなりません。 先生は日本を引き出すのに真剣、真剣です。 今後先生が、再びあなたたちを呼び出して忠告するようなことは、もうないかもしれません。先生は、今から長くないのです。霊界に行きます。先生は知っています。その準備をしなければならないのです。 だから、縁を切るのです。外的な日本の国、天使長の国が果たせていない使命を忘れて、霊界に入りやすい準備をしているのです。 今、大母様や興進君がする道は大変です。その未来に向けて開拓している先生の前に、地上でもって励ましてやり、教えるようなことをしているのです。それを後ろでもって、縄で縛って、引っ張りだこにするようなことがあったら大変です。 霊界に行って地上活動を振り返ってみて、「日本はどうだったか」と聞かれたとき、日本はその答えをどうするのですか。日本頑張れ 神が守っている。 最後の言葉を残している先生の生涯の道だということを忘れてはなりません。今、イギリスのために悔やんでいる先生の四十年の迫害の路程を解決するために、日本がなすのです。それは日本が果たすのです。 四千年どころか、永遠の歴史が残っているのです。決意して乗り込んでいきなさい。自分の一家族を犠牲にしていけば、それは国を救うための愛国心に変わります。親不孝な者が忠臣になった場合には、孝行の道につながるのです。できないことはありません。分かりましたね。心配をして、なし得ることをなさずして、何事においても、それ(心配)を先に立たせてはいけません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.26
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▲真の父母様、第13回「愛勝日」記念礼拝にて「世界指導者会議での御言」1996年1月2日ニューヨークにおいて世界指導者会議が開かれ、その際に語られた内容。 使命を残して死ぬことよりも恐しいことはない 一九九五年は終わり、新しく一九九六年が始まりましたが、日々の生活は変わりませんが、年は変わったという事実を私たちは知らなければなりません。 皆さんの年が五十歳になり、また、年を取って老いて死ぬとしても、一年、一年、変わっていく、その事実を記憶して死ぬ人はいないのです。年を中心として、国なら国のプロジェクトが変わり、個人なら個人のプロジェクトが変わりますが、それを知らずに、生きて死んでいくのです。 大きな木を見れば、小さな芽が出て育ち、枝が生え、年ごとに枝が伸びたりします。北側に雪の降る国は、それがはっきりしているのです。年ごとに変化し、年輪が生じますが、その年輪と枝を記憶することができないというのです。 皆さん、「死ぬ」ということを考えたことがありますか。人々は、自分が「死ぬ」と言いながら、死んでいく人はいないというのです。「死なない」と言いながら、死んでいくというのです。 わが興進君が逝った愛勝日が、満十二年になりました。昨日のことのようですが、十二年になりました。そのようなことを考えると、お母様は「今また十二年たてば、先生が何歳になりますか……」と心配しますが、今になって私は感じるようになり、きょう反省をしてみました。 ですから、摂理の御旨、今から展開される世界がどうだということを考える時、十二年間でこれをどのように収拾するかという問題は、非常に大きな事件であり、非常に大きな歴史的な問題であらざるを得ないという話なのです。 さあ、今から十年。先生の年が今、七十六歳です。ところで、百歳まで何年残っていますか。(「二十四年、残っています。」)では、月で何か月ですか。(「二百八十八か月です。」) 二百八十八か月というのは、とんでもなく短いです。子供たちが育つのを見れば、十年が昨日のことのようであり、二十年が昨日のことのようであり、「あの子たちがいつ大きくなって、結婚して息子・娘を生むだろうか」と言っていたのが、もうそのような時が来ました。 皆さんは、御旨の前で、多くの決心をしてきました。皆さんが故郷を離れて「何年間なら成功するだろう」と、決心をして発った、その歩みが結実できずに、帰らなければならない立場ならば、どれほど情けないことでしょうか。「あの人が故郷を離れる時は、成功して帰ってくると大言壮語したのに、はだしで帰ってきた」と言うなら、どうしますか。 さあ、このように見る時、皆さんは、どうせ霊界に行きます。霊界に行かない自信のある人はいますか。きょうの夕方、死ぬとしたら、どうなるでしょうか。それを考えなければなりません。自分が生きているのは、死の力を踏んで、その上にいるということを知らなければなりません。死と闘い勝ったので、生きているのです。この闘いに、いつも勝つということはできず、一度は負けます。その日が、皆さんの死ぬ日なのです。 では皆さんが、自分が愛する顔、愛する自分を見て、鏡を見て、このように美人で、整った人が死んで水になり、元素に返って、そのすべての美しかった姿が、根本的になくなると思う時、気分はどうでしょうか。 統一教会の舞台というものは、この世になかった舞台であり、歴史以来初めて、創世以後初めて現れたもので、人間として成功でき、霊界に入る時に表彰され得る歩みが可能であったにもかかわらず、家から反対を受け、環境から反対を受け、このようにして、何ら功績なく死んで霊界に行って、願っていたその基準と反対に行ってとどまった時、後日、近所の人たちや反対したすべての人が来て、「わあ! 統一教会の人は皆、あのようにいい所に行ったのに、あの人は、なぜあんな所にいるのか?」という立場になれば、どれほど悲惨かというのです。 そのような立場に到達してしまったならば、どのような考えが浮かぶでしょうか。これは、深刻な問題です。自分が悲惨だといっても、戻って処理する道はありません。 統一教会を誇りながら回り、周辺のすべての問題を起こした人々に反対を受け、押さえつけられたにもかかわらず、統一教会を信じなかった人たちよりも、悲惨な立場に立つようになる時、情けないではありませんか。死と闘って、打ち勝っていくのが信仰の道です。 昨年は過ぎましたが、九五年を越える時、自分が一年を無事に過ごせたことを感謝しなければなりません。何に対してでしょうか。生き残っていることに対してではありません。その生きる中において、天の財産となることができ、天の実績となることができるものを残したということを、喜ばなければならないのです。 ですから、自分の生涯において、天の前に残すべき実績のために、一日をどのようにより有益に使うか、一時間をどのようにより有益に使うか、明日の一時間をどのようにきょうにもってくるか……。 夕方になって、きょうは寝なければならないという時間になったとしても、自分が今、一時間動けば、明日一日を得ることができるとすれば、当然、そのことを行動しなければならないというのです。一日を得て、何をするかという話です。その一日に、その国を動かし得る一人を私が感動させれば、国が助かるというのです。一日に備わった実績というものは、国を救うのです。 そうならば、時間を惜しみ、そこに精誠を捧げる心をもち、天の実績を求める懇切なる心が私の生活を刺激し、導きを受けながら生きるべきなのが、信仰の道だということを、皆さんは知らなければなりません。それが何の話か分かりますか。 毎日のように死を考えなければなりません。きょう、私が行って、ここで死ぬとすれば、どうするつもりかというのです。「その行く道が、一時間を通じて一日を見いだす」という懇切な心をもつ人は、そこで倒れるとしても、地獄には行かないだろうというのです。 統一というものは、生涯を通してなるのではなく、瞬間になるのです。怨讐だった友、一生の間会わないことを願った友も、一言で感動する瞬間に、すべてのことが統一されるのです。それゆえ、何か、事を終える時は、「もう一つを加えよう。もう一つを残そう」、このように考えなさいというのです。 年齢が七十歳を越え、八十歳を越えるようになれば、自分がいつ逝くかということが、だいたい分かるのです。普通の人たちは知りません。大きな責任をもった人が、どれほどせわしく、どれほど忙しいかということを、皆さんは知らないのです。志を抱いた愛国者として、国を建てようとして、失敗し、追放されて生きる人たちは、年を取れば、寝ることができないのが、正常であると思うのです。 先生の生涯を見れば、監獄にもたくさん行き、拷問もたくさん受けましたが、「この場で死ねば、大変なことになる」と考えました。なぜでしょうか。傷つき、拷問の跡を残したその場、呻吟する場で死ぬならば、問題が大きいというのです。「このような蕩減復帰の道に、誰が責任をもつのか」というのです。 その場で、死を乗り越えることのできる感動と衝撃の涙を流すようになれば、天がすべてのことを収拾してくださるということをたくさん感じました。それが、何の話か分かりますか。 拷問が問題ではなく、自分の苦痛が問題ではないのです。使命を残して死ぬことよりも、恐ろしいことはないというのです。恐ろしいのです。そのようなことを考えたことがありますか。 皆さんが、今まで活動したこと、精誠を尽くして天に記憶され得る日々をもって、そのような時があった、ということを忘れてはなりません。 そのような心情的な場、そのような体恤的な場が、十年前、二十年前だったなら、「きょうの私は、なぜこのようになったのか」ということを、比較してみなければなりません。 それはほかでもない、その時の皆さんの心情基準は、公的な御旨のために考えたのですが、その考えと、きょうの自分たちが御旨のためにする考えに、差異があるからそうだというのです。それは、間違いのない事実であることを知らなければなりません。 死を越える立場で、天を慰労 皆さんは、「天宙復帰」という文字は知っています。それは、神様を完成させ、神様までも解放させなければならないという、とてつもない内容だというのです。そのような膨大な「天宙復帰」という内容を中心として、自分が主体の立場に立てる時があったか、これが問題だというのです。それが、自分と何の関係があるか、という話です。自分にある体と心をすべて投入し、死を越えるとしてもそれをなそう、という関係を結ばなくては、そのことが不可能なのです。 それはどういう話かといえば、ここから水平に行けないのです。上がっていかなければならないのです。行けば行くほど楽であることを願い、昨日よりましなことを願い、易しいことを願ってはならないというのです。祭物の橋を架けて、行く道であることを知らなければなりません。それが何でしょうか。 一つのはしごが、このように上がっていくとするならば、天をつかんで上がっていく所では、どこまでも、涙が先立たなければならないのです。今まで来たことに感謝し、残しておいた道を今から自分が行かなければならないのに、自分の力が足らないので、自分を見つめる天は、どれほど気が気でないでしょうか。 勝利することを望んでいながら、それが可能な未来に自信をもてない自らに対して、涙が先立ち、天が同情し、慰労され得る立場にあってこそ、そのような道を行くことができるということを知らなければなりません。それが、何の話か分かりますか。 だからといって、そこから落ちることもできず、下りてくることもできません。下りてくることはできないのです。公人が責任を果たせなくなれば、責任追及を受ける、そのような道だということを知らなければなりません。 上がっていけなければ、どうしなければならないか、という話です。涙を流しながらも、ありったけの力を尽くし、手を差し出し、死ぬ覚悟をして、上がっていかなければならないというのです。 そうしながら、神様は今まで、復帰路程で、再創造過程でアダムとエバを完成させることができず、このようなはしごの何百倍の困難な道を上がっていったということを考える時、自分がここで涙を流しながらも、自分よりも難しい、天の行かれた道があるということを知らなければならないというのです。 そのような位置、神様が上がっていった道よりも難しい位置で、上がることのできない立場にあるならば、「自分が神様の心情を体恤できる、よい場面である」と考え、それを感謝する心で、「私は当然、こうでなければならない」と言えば、天が協助してくれるというのです。どこから力が来るのか分からないほど、力が湧き上がるのです。 「死を越える立場で、天を慰労し、感謝できる立場を見いださなくては、神様の助けを受けることができない」というのが、先生の生涯の体験なのです。 皆さん、私は五日にアルゼンチンに行って、海からすべてを調査しなければならないのです。朝出発する時には、夕方を考えながら、「疲れるだろう」と考えて行くのです。そのように考えながらも、「行けない」と考えてはならないのです。「疲れても行かなければならない」と考えるのです。 私のような人が十人、一緒に船に乗るとしても、「私は、より大きな使命を負っているので、この人たちがすべて倒れたとしても、私は倒れてはならない」と考えるのです。天は、そのような人を好むのです。自分を考えるところでは、天が現れません。それは堕落圏内なのです。 自分の御旨! 自分の御旨7 女性たちは、化粧をして出かけた時は気分がいいでしょう。化粧した顔を見て出かけ、道を歩いていて、かわいそうな女性が化粧をしないで、垢の化粧をし、肥やしの化粧をしているのを見た時、お母さんや自分の愛する娘のように思う、そのような心をどのように形成させるかというのです。神様は、そのように見ようとするのです。 先生が監獄生活をする時、腹の減った人もたくさん見ました。今も追憶に残ることがたくさんあります。そばでご飯を食べながら死ねば、腹が減って、その口に入っているものを取り出して食べるのです。お母さんのような人、あるいは、夫のような人、妻のような人ならば、そうすることはできないというのです。 そのような心情、そのような心をもてば、語らなくとも、その監房にいる人は、自分を父母より尊敬し、兄弟より尊敬するというのです。間違いなく、そのようになるというのです。 冬、興南は、とても寒い所です。零下二十七度、三十度を、上下する所なのです。そのように寒いのに、囚人服は薄い服一枚です。そのような所で凍ってブルブル震えていれば、われ知らず自分の服を脱いで、あげることのできる心をもったものが、父母の心であり、愛する夫、妻の心だというのです。自分がそのような心で、どのように実践するかという問題なのです。 天は、そのような対象を探しています。そのような人を探しているのです。そのように脱いであげたからといって、死にはしません。アメリカ二億四千万の中に、そのような人が何名いるかという話です。 このような話をなぜするのかといえば、御旨を「自分の御旨だ」と考えたのか、「神様の御旨だ」と考えたのか、「ほかの人の御旨だ」と考えたのかというのです。 神様のものでも、主体と対象の関係、距離があるのです。真の父母の御旨だとしても、距離があるのです。関係のある世界にいないというのです。自分の御旨! 自分の御旨7 アダムとエバを創造できなかった神様が捜し求めるものが、神様の御旨というものですが、その御旨は「自分から捜し求める」ということを知らなければなりません。神様の御旨の中で捜すのではなく、「自分によって、御旨が満たされる」ということを知らなければなりません。 皆さん、先生が堕落原理を、どのようにして探したと思いますか。堕落したその時の神様の心情圏内に至れば、その痛みが胸から始まり、痛いところに行くというのです。それが胸に行くのではなく、堕落したところに行くというのです。何の話か分かりますか。痛いところが連関関係で、主体と対象の関係としてなされるというのです。ですから、愛から堕落したということが分かるのです。 それで、皆さんが御旨を中心として、どれほど胸を痛めたことがあるかというのです。そうすれば、すぐに相対できるのです。そうではないですか。原理には、「主体は対象を創造する」とあります。ですから、すぐに相対のことが分かるのです。 それで、先生がこの摂理史において決定したことは、だいたいすべて合うのです。先生が占いをして分かるのではありません。自然に分かるようになっているのです。神様の心情を中心として、つらいのはどのようなことなのか、一番解決しなければならないことは何なのか、ということがすぐに分かるのです。 この世に、神様の友がいません。先生に友がいません。私しかいないので、私が直接行動するのです。 御旨のためにまっすぐに立った人は一人もいない さあ、昨年、南米に行って一年過ぎましたが、一年間で、どれほどたくさんの仕事をしたかというのです。 多くの人たちは、何か会議をする日取りを中心として、すべて延ばそうとしますが、先生はすべて繰り上げようとするのです。この闘いです。先生が体恤したことを知り、自分たちが体恤して何かを知るようになれば、先生よりも多忙であるべきなのに、そうではありません。ですから、相対がありません。 このような摂理の道を経ながら、統一教会の皆さんを、息子のように信じ、神様のように信じていたら、すべて失敗に終わってしまいます。 皆さんが知っているとおり、ウルグアイには、銀行もあり、ホテルもあり、新聞社もありますが、十五年間、私は行きませんでした。十五年間、チェックをしませんでした。信じました。自分を信じる以上に、信じてあげたのです。信じてほうっておきましたが、全部だめにしました。 責任を負った人が、すべてのものを自分の名前を中心として、自分の親戚関係を中心として連結させれば、すぐにだめになるというのです。責任者が会社を動かせば、法的環境圏がどれくらいできるか、ということを知らなければなりません。何も知らずに、自分が出発したその時の基準で、自分の思いどおりになると思っていたのです。 皆さんに対してもそうです。皆さんの中で、御旨のためにまっすぐに立った人は、一人もいません。十年、二十年、ストレートですか! 根は多いのですが、中心の根は一つしかありません。一つの根から出てきた枝が二本あれば、それは半分の価値にしかならないのです。 根から二本の枝が出てはいけません。一つにならなければなりません。中心の根は、中心の幹に垂直にならなければならないのです。二つになれば細くなります。中心の根、中心の幹、中心の枝です。一番短くなければなりません。 では、皆さんが、御旨の世界に入ってきて、そのように生きてきましたか。御言を初めて聞いた時は、興奮して「これでなければならない」と言って、ありとあらゆることをしましたが、三年ほど過ぎれば、すべて沈むのです。 中心の根、中心の幹、中心の枝を延長したそこに、神様が座っている御座があるというのです。分かりましたか。(「はい。」) これではだめなのです。天の国の王権をつなぐ人をつくるために、再創造をするのです。天の国の王権を相続させることのできる、直系の子女をつくっているというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。 アダム・エバが、まっすぐに立てなかったでしょう。アダム・エバの息子・娘も、そのようになったでしょう。ですから、問題なのです。これは、観念ではなく事実です。ここで神様が見つめる、中心の根から中心の幹、中心の幹というもの自体は、厳然と永遠に残っているのです。そこに合う人を、立てるというのです。 キリスト教を信じる人が、十二弟子を中心として、自分勝手に教派をつくれますか。センターが一つなのに、枝をつくれば、これはすべて地獄に行くのです。 統一教会において、長子権、長父母権、長王権を語っているということは、驚くべき事実です。それは人間として、軸をまっすぐにさせるのです。まっすぐに立たなければなりません。それが、縦的に立つようになれば、横的に連結されるのです。ぴったり合うというのです。 なぜ先生が、今、このような話をするかといえば、今、一つの峠を越えていくのです。皆さんと先生が自由に会える時間が、だんだん遠くなると見るのです。長子権時代は、父母権とは異なります。長子の生活と、父母とは異なります。氏族となり、民族を編成し、国になる時は、縦的な神様と関係を結ぶのです。縦的になったので、家庭時代、父母時代とは異なるというのです。 今、南北米のキリスト教指導者たちの会議が終わりました。それがアベル圏とするならば、国のカイン圏を修練しなければなりません。 指導者たちを集めて教育するのですが、一月十四日に決めました。なぜ、十四日に決めたのでしょうか。国です。国の大統領です。七年、七年です。国を代表した基準だというのです。それで、十八日までやります。十八日に終わるのです。十八は青春時代をいうのです。 そのような基盤を築いておけば、わが(教会の)若者たちが活動できる、自由舞台が生まれるというのです。そのような原理的観点を見て、そのようなことを定めるのです。ところが、責任者たちは、「三月にしなければなりません」と言っているのです。 時間が短ければ短いほどいいのです。三か月延長すれば、それだけ怠惰になるのです。心に余裕をおくのです。目の前に入ってくれば深刻なので、短ければ短いほど、三倍短ければ三倍以上、努力しなさいというのです。 自分の力が足りなければ、兄弟を連れてきて、父母を連れてきて、友達を連れてくるのです。そのようにして、伝道ができるのです。雷のようにやってのけるのです。そのようにすれば、絶対、成功できないことがないというのです。 心情問題にかかっていることを知らなければなりません。心情問題にかかっているのです。 現在の自分を殺し、未来の復活体を探し求めるのが信仰の道 今、三六〇万双を九七年十一月にすると言いました。今年の十一月にすれば、どれほどいいかと、私は考えます。どれほど深刻ですか。深刻になるでしょうか、くたばってしまうでしょうか。死んでも行かなければならない道です。死んでもしなければならない道なのです。誰かがやってくれるのではありません。 原子砲なら原子砲、大砲なら大砲は、すでに飛んでいるのです。考えてみなさい。ターゲットに合わさなければならないというのです。そうでなくては、四千年歴史を四十年で、どのようにして蕩減復帰しますか。百倍以上しなければなりません。そうしてこそ、天が協助するのです。「いつ、座ってご飯を食べる」と考えてはいけません。いつも、かがんで座り、行きながら仕事を処理すると考えるのです。 どうですか。(「はい! )返事は上手です。返事が先ではなく、実践です。言葉の多い人は、弁明が多いのです。分かりましたか。 大会のようなものを、時間を長く延ばしてすればいいでしょうか、一週間以内にすればいいでしょうか、二週間以内にすればいいでしょうか。長くて三週間です。三週間も、天は願いません。 それゆえ、何かの大会をするようになれば、責任を負った部署は、三次戦までやることを、前もってみな組んでおけというのです。全部署が組んでおけというのです。「一週間以内にもでき、三日以内にもできます」と、こうでなければなりません。 見なさい。十五年前に、私がウルグアイに莫大な投入をした時は、狂った人だと悪口を言いました。「ああ、こじきのような所に、何をするために、あのようなことをするのか」と言いました。ウルグアイは、自分の国が自分勝手にするものと考えたのです。とんでもありません7 このウルグアイは、韓国と軸です。反対の軸(軸の反対側)です。毎日のように、中心の軸が必要だと言う人が、そのように考えないならば、ばかです。世界を収拾する道理がありません。 それで、他の国は「自分の国はもっと大きいので、レバレンド・ムーンを引っ張ってくれば、よくしてくれるだろう」と考えるのです。ただでもらうことを好むのです。 それを、どこで学んだのでしょうか。釣りの哲学に、そのような観念があることを知らなければなりません。餌を与えて待つのです。 そのような人と天は、いくらやっても損害を見ないのです。そのように考え、大きな御旨を人類の前に残そうとする人は、絶対滅びず、失敗しないというのです。 大きな魚を捕まえようとすれば、大きな餌が必要です。大きな餌を入れたといって、声を出してはいけません。人がいないかのように、ならなければなりません。そうしてこそ、魚が来て、それを食べるのです。 では、皆さん、先生に従いたいですか、統一教会の地方の責任者に従いたいですか。(「お父様です。」)地方の責任者が蹴れば、「私はそいつのせいで、統一教会に通わない」という人は、げすの魚です。そのようなものは、まき餌にもなれないのです。皆さんは針につける餌ですか、まき餌ですか。何ですか。考えなければなりません。先生は、アメリカに座っていれば、会いたく、心が引かれていく人がありません。先生は普通の人とは少し違うのです。 ソウルと野牧は、どれくらいの距離になりますか。三百里(注・韓国では「一里」が約四百メートル)になりますか。二百里になりますか。(「二百里です。」)二百里になりますが、そこにいる三人の姉妹が「先生、来てください」と、毎日のように精誠をずっと捧げているのです。その道は、歩いていける道です。自動車の道ではありません。 懇切に祈祷すれば、現れて「私が明日行く」と言えば、餅も準備し、よく整えて待っているのですが、来ないのです。だからといって、「来なかった」と、投げ出すのではありません。それを何百回でも繰り返すのを、天は見るのです。何回ぐらいするかというのです。何回も続けるのです。皆さんはどうですか。一度だけやれば、不平を言い、「嫌だ」と言うでしょう。 不平を言う人は、天の道から、いつでも落第しやすいというのです。 先生が不平を言ったなら、どのようになるでしょうか。四十年間、どれほど大変だったことでしょうか。御旨がなされることを胸に抱き、話もできず、待ちこがれながら今まで来たのに、不平を言うとするならば、どれほどたくさん不平を言うでしょうか。 この御言をもてば、世界が一つになるのはもちろん、アメリカやソ連を越えて、世界の中心になるのは間違いないのに、そうしているのが、どれほど大変か、考えてみなさいというのです。 そうして、悪口を言い、この世の悪いものをすべてつまみ投げ、四方に行って、機関銃で射撃するならば、どうなりますか。不平を言ったら、どうなるでしょうか。そうしたならば、皆さんは、真の父母という名が分かるでしょうか、分からないでしょうか。 昨日も、真の父母に対して、概略的な話をしました。蕩減の道が、どれほど難しいか、ということを話しました。細かくいえば、何千年かかります。それを知らなければなりません。 先生の性格が、どれほど火のような性格でしょうか。火のような性格が、そのように耐えるので、効果があるというのです。 皆さんは、今まで御旨の道に従いながら、不平を言いましたか、言いませんでしたか。言わなかった人、手を挙げてみなさい。 皆さん、それを知らなければなりません。宗教というものは、死の道を越えるためのものです。死んだ後に目的があります。死ぬ前には、不平を言えないのです。ですから、聖書の「死なんとする者は生きる」という話は、合う話なのです。 女性たちが、御旨の道に忙しく、髪をとかすのを忘れ、一週間でも、一か月でも活動したとすれば、狂った人のようですが、神様は「狂っている」と言うでしょうか、祝福してくれるでしょうか。(「祝福してくれます。」)「狂った人だ」と言えば、それをたたきつぶし、その福をすべて奪ってしまうというのです。 皆さん、先生が、サタンの作戦法と神様の作戦法を教えてあげました。神様は、打たれて損害賠償を求めるのであり、迫害されるというのは、迫害する人のすべての所有権を相続させてくれるためのものだ、というのです。どれほど、ありがたいことでしょうか。サタンは、打って失ってしまうのです。言葉も、受けることも、行動も、先にしてはならないのです。 先生がきょう話したことを中心として、「死の道を選び、生命の道に変えていくのが復帰の道だ」ということを知らなければなりません。自分を犠牲にして、行ってこそ、「生きる」ということが生じるのです。生きながら、死んでいかなければなりません。そうしようとすれば、ただ悲惨ですか。神様が投入して忘れるので、その神様の相対になろうとするのですから、仕方がないのです。天は、投入して忘れるのです。 ですから、「現在の自分を殺し、未来の復活体を探し求めるのが、信仰の道だ」ということを知らなければなりません。これをはっきりと知らなければなりません。 それゆえ、御旨の道で一番恐ろしいことは、責任者になることです。何の話か分かりますか。自分を投入しなければならないというのです。 自然に帰る 先生がアメリカで成功したので、上院議員や世界的に名のある人で、私に会おうとする人が、たくさんいることを知っています。それゆえ、誰も振り返らない南米の谷間、農村に行って、引きこもるのです。水がある所、草がある所、神様が創造する時のような、いちばん原始的根源を探し求めるのです。自然に帰るのです。復帰です、復帰。 その水を愛し、草を愛するのです。神様が、それを一つ一つつくるのに、どれほど苦労したでしょうか。そこの川にありとあらゆる種類の魚がいますが、神様がそれをつくって、悲しんだのではなく、すべて喜びました。 私たち統一教会は、一か月、魚を捕り、食べたならば、その代わりに穀物や食料を一包みずつもってきて、(魚に)食べさせなければなりません。循環法度です。 ですから、先生は、最初に取る魚を全部、祭物として逃がしてあげるのです。では、一日に一匹しか捕まえられなければ、どのようにするかというのです。そのようなときは、一か月なら一か月、一月一日なら一日に、条件をかけて祈祷をするのです。「これを何日かの条件として逃がしますので、その時まで、天よ、お受けください……」と祈るのです。その代わり、最初に捕まえたものを二匹、三匹、逃がしてあげるのです。そのようなことをするのです。 そのようにすれば、魚たちが私の餌のところに来て、しきりに食いつきます。ですから、一緒に釣りをすれば、「先生の餌には鬼神のように食いつくのに、私の餌には、なぜ一日中食いつかないのか」と言うのです。 動物も、魚も、心情が通じるということを知らなければなりません。じっとしていれば、大きな魚が食いつくのを、あらかじめ心に知らせてくるのです。「わあ、大きなやつが来て食いつく」と教えられるのです。それが分かるのです。ですから、おもしろいのです。人々は疲れるといって逃げますが、おもしろいのです。夜明かしして釣りをしても、おもしろいのです。好みが違います。 私が今、指示して、各国に船を四隻ずつ造って送るようになりますが、それをもつようになれば、その責任者たちは必ず、釣りの訓練をしなければならず、船の訓練をしなければならず、修理の訓練をしなければなりません。よくやる人がいれば、今後、その国に、そのような工場が生まれることでしょう。 先生がやっていることは、皆さんの先祖の中の先祖がやっていることなので、「私が一番に相続しよう」という考えをもたなければなりません。そのような考えをもたなければなりません。そのような考えは皆、嫌がるでしょう。 私は、最近、ほかの仕事をすべてやったので、水産事業もできるのです。世界のために、私でなければならないので、このような仕事をしたのです。未来に成ることを話せば、ここにいる人が全部、気が狂ってしまうので、話をしてあげません。(笑い) 今、脱落するようになれば、十年後に「このようになると、誰が知っていたか……」と言うでしょう。今、離れる連中が、皆そうなのです。「ああ、先生が、あのようにするのを知らなかった……。二十年前に、ああであったなら、離れなかったのに……」と、後悔しているのです。 そのようにして、自分が二十年間、お金もうけしたのを、「すべて捨ててしまいたい」と言いながら、「これで何をするのか! 死ぬ時にもっていけないもので、何をするのか」と言いながら、黄泉路を行くのです。先生の道に従わなければならないということを知った後には、今、情けなく思っているというのです。それがすべて、怨讐の条件です。 人生の妙味 さあ、死の道(生きていく道)をつくっていくのに、小道をつくるのですか、ハイウエーをつくるのですか。千人を横に立てて行く道をつくるのですか、一人で行く小道をつくるのですか。(「ハイウエーです。」)知っていることは知っているのですね。やってみなさい。易しいですか、難しいですか。遊びながら、人のように生きてできると思いますか7 皆さんが築き上げた道を、神様と先生が行かれると考えてみなさい。神様が行かれ、先生が行かれる時、ハイウエーで行くことができるように、いくつの国を築いていこうと考えてみましたか。 さあ、皆さんの国に、先生が一度行けばいいでしょうか。皆さんが「私が築き上げた道を、先生がお行きになり、神様がお行きになり、わが国に来ていただけるようにしよう」と考えてみましたか。どうですか。先生が行く所には、神様がついてこようとするでしょうか、ついてこようとしないでしょうか。 ところで、谷間の狭い所に、どのようにしてハイウエーをつくりますか。楽しくなければなりません。何か喜びがあり、魚が捕れるという、楽しい所をつくらなければならないのです。 そして、神様が来られて、侍り、説明する時、ご自身がつくられた創造の妙味が、この魚の世界にもあると言って、神様も一緒に釣りをする、そのように楽しく、神様も笑い喜ぶのを見たいというのです。そのためには、苦労を顧みず準備しなければならないというのです。 それゆえ、雨が激しく降る日に神様が訪ねてくる時は、私が釣りをしていた所にお連れし、楽しくするためにはどのようにし、洪水になった時にはどのようにし、夜にはどのようにするか、そのようなことを全部訓練しなさいというのです。 ゆえに、昨年、南米に行ってやったことは、なぞなぞのようなことです。先生が朝から出ていきますが、何が楽しみで、そうするのかというのです。そのようにして、何が生まれるのかというのです。 にわか雨が降りしきるのに、釣り竿をもっていることが、どれほどエキサイティングでしょうか。傘もなく、雨に打たれるのを忘れて釣っているのです。それがすてきなのです。これくらいの魚を釣って、引っ張り上げれば、「これをもって家に帰れば、妻が大騒ぎし、近所の人が大騒ぎするな」と思うのです。(笑い)そのようなことを準備し、入っていき、堂々と大きな魚を取る時、その味は比較にならないというのです。人生の妙味が、そこにあるのです。 いつも無愛想な夫が、その日だけは、雨が降るのに笑いながら現れれば、妻にとっては追憶が残り得る時間だというのです。そのような体験が多ければ、自由自在に環境をコントロールでき、大衆も支配でき、泣く人の耳をつかんで打って、笑わせることもできるというのです。(笑い) なぜ、そうでしょうか。「ちょうど、自分の兄さんのようなのです。自分が昔、兄さんにそのようにしたら笑いました。その追憶ゆえに、そうしました」と言う時、どれほどおもしろいかというのです。(笑い)そのようにして友達になるのです。どれほどいいでしょうか。(笑い)優れているという人は、押し上げられるのです。 それゆえ、先生を誰でも皆、好むのです。労働者も好み、商売人も好み、牛を飼う牧童も好み、泥棒していくやつも、私の話を聞いて、休んでいくのです。皆、好むのです。皆さんは、好まないのです。(笑い)それが、どれほどすてきな生活でしょうか。 先生が釣りにいくのに、ついていきたい人、手を挙げなさい。(「はい。」)その代わり、五十名ずつクラブをつくりなさい。五十名以上です。最小が五十名です。多くなった人は、飛行機に乗り、どこにでも来いと言えば、その時は、船や釣り竿のようなものは、もってこなくてもいいです。私がすべて、準備してあげるでしょう。 そして、釣り竿を垂らせば、考えてもみなかった魚を取ることのできる所に案内してあげます。どうですか。チケットは買ってこなければなりません。(笑い)それまでしてあげれば、行儀が悪くなります。後で泥棒になります。(笑い) 「私は間違いなく、フィッシング・クラブをつくろう」という人は、目を閉じて手を挙げてみなさい。私は目を開けています。どれくらいになりますか。もう一度、挙げなさい。 日本のメンバーは、何の話か分かりますか。ここに参席した女性も男性も同じです。「帰ったならば、必ずフィッシング・クラブを五十名以上、編成しよう」と決心した人は、目を閉じて、力強く手を挙げなさい。本当に自信のある人は、もう一つの手を挙げなさい。これは世界的です。下ろしなさい。 船が四隻ずつ行くようになれば、何人まで乗れるかといえば、三十名乗ることができます。それで訓練をするのです。そして、先生に報告しなさい。報告するようになれば、何の魚だといえば、ここの人を即座に送って調査し、そこに観光客を誘致することでしょう。 今、世界を見れば、将来、先生が語る趣味産業が、世界の大きな産業になるというのです。 趣味生活 先生がつくった一和天馬サッカーチームが三連覇し、アジアのチャンピオンになったことを、皆さんは知っていますか。(拍手)そのチームが、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイなどと試合をするために来るのです。 アメリカが、どうして世界に名の知られた国になったのか、考えたことがありますか。アメリカの人たち、手を挙げてみなさい。考えたことがありますか。それは、名前がそうなのです。U・S・Aです。U(=You)S(=Yes)A(=Number one)。名前がそうなのです。(笑いと拍手) そのような話でもすれば、どこかに行って、ご飯をもらって食べることができるのです。これゆえに、アメリカが一番好きだと言うのです。 どうですか。遠い距離を、先生と一緒に行くのがいいですか、近い距離の近所に行くのがいいですか。(「遠い距離です。」)一日、二日、三日? (「一週間の距離です。」)(「世界一周です。」)それで、「世界一周するのがいい」と言う人たち、手を挙げてみなさい。明日から実践するのです。それでも、それがいいならば手を挙げなさい。(笑い)なぜ、手を挙げません。それをつくるのです。 今年、間違いなく呼び出し、一週間に四チーム、五チームは来るでしょう。その代わり、ホテルの費用は半分しかもらいません。そして、魚を釣ったのは、買ってあげます。市場で買う値段で、買ってあげます。 ですから、皆さんが、計算が速くて、これをして、十分に食べて暮らすことができる、という自信をもつようになれば、やりなさい。世界のどこに行っても、船を一つ借りるのに、それほど出さなくていいので、一週間借りて、一か月食べて暮らすことのできるお金をもうけることができるのです。そのような考えをもちなさい。 そうして、五百名以上で移動した人には、私たちがつくることのできる、船の技術を教えてあげるでしょう。そして、百六十三か国で、私たちのボートをつくることのできる技術を教えてあげなければなりません。それを売りなさい。皆さんの国で売って、宣教費として使いなさいというのです。 そこで実績がよければ、木浦にある造船所、本格的な造船所です。オイルタンク船、科学船までもつくり、何でもつくることのできる、その技術を与えることでしょう。アフリカならアフリカ、六大州を中心として、そのような工場をつくらなければなりません。 将来は、水の中でどこでも暮らすことのできるもの、五人が入って暮らすことのできる潜水艦をつくって、暮らす時が来るというのです。そのような船までつくって、世界的に私たちが、すてきに暮らさなければならない、という話です。 乗っていったその潜水艦が、一か月たっても現れないので、死んだと思っていたのに、生きているのです。ボタンさえ一つ押せば、横から釣り竿が出て、魚を釣って、焼いて食べることができるのです。水の中で、魚以上に趣味生活をすることができるという話です。そのような時が来るのです。(笑い)いや、問題ありません。 車時代が過ぎ去り小型飛行機時代が来る おもしろいですか。その次には何でしょうか。 今、各国では、遠距離走行する国家の飛行場を使っていますが、国家の飛行場は使わないのです。 上流階級の人は、世界の有名な所には、全部行ってみたのです。もう、行くべき所がないのです。有名な海水浴場に、数十万名が海水浴に来れば、男性でも、女性でも、水の中でおしっこをするのであって、出てきて便所に行ってする人は一人もいないのです。(笑い) 私たちが、それをビンに採取して、何パーセントがおしっこであると、新聞に出さなければなりません。一度だけ新聞に出せば、観光客は一週間以内に皆、帰るというのです。(笑い)どこに行きますか。個人のビーチを訪れるのです。 ですから、小さな船を誰でももたなければならず、小さな飛行機を誰でももたなければならないというのです。小さな船が必要で、小さな飛行機が必要な時代が来るのです。これは、常識に合う話です。 ですから、世界の名のある所に、ここにいる人たち、三百名なら三百名が、「今年、飛行場を一つずつつくろう」と言えば、三百か所が、今年中に生まれます。気分が悪いですか、良いですか。(「気分が良いです。」) どのような飛行場をつくりますか。(「小さな飛行場です。」)それは問題がありません。南米のような所は、ブルドーザーで一度、行ったり来たりすれば、飛行場になるのです。自然に着陸することもできるのです。 それで、私たちがすべて飛行場をつくるのですが、飛行場を管理できる責任者になっても、食べて暮らせるのです。このように考えてみなさい。どれほど気分がいいですか。行きたい所にも、いくらでも行けるのです。それは、いつでも満員になりません。全部、知っているので、乗ってどこにでも行き、思いどおりに巡ることができるのです。それは、どれほどいいでしょうか。 百六十か国に、国の飛行場はありますが、小型飛行場がないのです。今から小型飛行機時代になり、車時代は過ぎ去るということを知らなければなりません。 百六十か国で間違いなく小型飛行場をつくって、やることでしょう。景色のいい所は、大きな都市ではありません。深い山中にあるので、そこに飛んでいって、プールをつくって沐浴もし、釣りもするのです。今からは、もうそれだけが残りました。 旅行しながら暮らせる時代が来る 皆さんの部落、皆さんの都市で、案内できる観光地が百六十か所あるならば、観光案内の本をつくり、百六十か所のいい所は全部、私たちの思い通りに行けるのです。そのように見る時、皆さんが五十名ずつになり、一年に一度ずつ行ってきて、ヨーロッパに行ってきて、アフリカに行ってきて、アジア、北極にも行ったり来たりするのです。そうなれば、五年以内に、観光しようという数を、何百名も集めることができるのです。(拍手) そこに行くと、おかずもいいし、ご飯もおいしいし、魚を釣って料理をするのもいいし、何でもできるといえば、評判になるようになっています。 さあ、それで、航空母艦を知っているでしょう。その大きなものに、潜水艦何十隻、小型ヘリコプター何十機を積んでいくのです。船はゆっくり行きますが、ここで案内して一週間前に(小型ヘリコプターなどで)行って、釣りをして、船が来れば乗り、また、船で島のような所に渡って行き乗る、そうすることのできる時代が来るということを考えなければならないのです。一隻の船でも、行く道が分かれば、一週間先に行くことができるのです。 お金がある人は、船に乗っていきません。コンピューターがあるので、事務をすることができ、旅行しながら暮らせる時代が来るということを知らなければなりません。 会社のようなところで、二十名分のチケットがあれば、ドイツに行っている人は、ドイツから乗って、どこにでも行けるのです。その会社の名前さえあれば、二十枚のチケットを買っているので、どこにでも行ったり来たりできるのです。会社で二十枚のチケットを買い、一人がすべて使わなかったならば、世界一周する路程を、会社の重役たちが、それを切り離して使えるという話です。 ですから、船が数隻あれば、どこにでも、行ったり来たりできるのです。このように行ったのが、このように帰る船に乗ることもできるし、南に行って、北にも行くことができるのです。そのために、先生が、ハンティングまで準備をするのです。ハンティングする獣たちは飼育するのです。全部、飼うのです。トラも飼うことができ、オオカミも飼うことができ、何でも飼うことができるのです。 水の多い所では、穴を深く掘って、周辺にはいい住宅もつくり、そのそばでは釣りをし、さまざまな種類の釣りをするように、釣り場をつくることができるのです。川の水が流れるように、いくらでもつくるのです。一か所に三種類がいれば、十五の魚の種類をすべて解禁にしておいて、一度に捕まえることができるのです。 そこに、飛行場があり、ボート場があり、その次に運動器具、サッカー場があり、テニス場があり、バスケットボール場があり、もう少し大きい所には、遊園地までつくるのです。 それゆえ、サッカー選手たちが訓練に行っても、そのようなボートに乗り、巡回をしながらサッカーもできるのです。旅行しながら訓練ができ、旅行しながらサッカー競技大会をすることができるのです。 そのためには、国境があってはなりません。潜水艦は、なぜつくらなければならないかといえば、国境をなくしてしまうためです。アメリカの港に入ってきて、いくらでも陸地に上がって、思い通りに行き来することができるのです。 ですから、学校がなくなります。中・高等学校もなくなり、大学まですべてなくなります。ビデオで(勉強し)行き来しながら、国家試験を受けるのです。事務室も同じ階級、同じ職種になって、世界のどこに行っても、六か月ずつ変わって働くことのできる時代が来るのです。ビデオのようなものをリュックサックに入れ、小学校卒業、大学まですべてできるのです。 それで、先生が世界的な学者たちを皆、束ねるのです。新聞組織、世界を中心として宣伝するのです。おもしろいですか。(「はい。」)男性として生まれるのがいいでしょうか、女性として生まれるのがいいでしょうか。(「男性。」)(「女性。」) アメリカの女性たちは、「女性だ」と言うので、アメリカの女性たちには、船を操縦する方法を教えてあげなければならないというのです。(笑い)女性たち、それがいいですか。(「はい。」)それを準備しなさい。これは、話だけではありません。 「真の父母」の貴さ さあ、今年の標語は何でしょうか。(「真の父母様を誇り愛そう。」) 昨日が、正月の一日ですが、先生の御言を聞いて、「真の父母」が、初めて貴いと思いましたか、思いませんでしたか。(「思いました。」)「真の父母」が現れるまで、どれほど苦心し、どれほど犠牲になり、どれほど多くの人たちが殉教し、どれほど血涙を流してきたか、ということを知らなければなりません。 「真の父母」という言葉は、神様の創造前からの標準です。それをつくるためのものが、創造理想的マスター(主流)になっているというのです。それを、堕落することによって失ってしまったので、神様の悲しい胸が、どれほど痛かったか、それを考えてみなさい。それは、言葉だけのことではなく、事実です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.25
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「第八回世界統一国開天日敬礼式後の御言」1995年10月3日イースト・ガーデン第八回世界統一国開天日の敬礼式の後、韓国語で語られた。その際、「きょう語ったことを本部にも連絡し、世界に伝えなさい」と語られた。 名節の意義を理解しなければならない 今後、私たちは、こういう名節の式典の意義を理解しなければなりません。礼服を着用してお祝いをする式典は、八種類あります。神様と真のご父母様の期待に添えるような式典を執り行うために、将来は、世界中から千二百名の代表を集めて、執り行うようにします。古い祝福家庭で、祈りをもって、名節を迎える準備をしてきた人たちから選ばれます。 名節が近づいた時、本部のほうで三百六十組の選抜をします。数については、式典が行われる場所の広さなどの状況により、多かったり、少なかったりします。場所さえ広ければ、三千六百組集めます。これからは個人ではなく、夫婦で呼びます。そして、ゆくゆくは、氏族的メシヤが中心になって、それぞれの場所で祝うようになります。 また、一度選ばれたら次に選ばれるまで、三年待たなければなりません。また、選ばれたならば、その家庭は、夫婦だけでなく子供たちも全部、式典に向けて、祈りを始めなければなりません。そして、名節には、四位基台の人数が、その家庭から式典に参加します。子供たちも、式典に参加します。一家庭から四人です。父母と息子・娘です。たとえば、八人子供がいれば、初めて選ばれた時には、八人の中から二人だけ連れていきます。そして、次の機会には、残りの六人の中から二人選んで連れていきます。 本部が人選をする際には、抽選ではなく、資格や基準を中心として選びます。お父様の教えと御言を深く理解し、実践している人、また、公的な責任分担を与えられている人を優先します。八つある名節の式典に参加する際に、どこかのパーティーに参加するような気分で来る人もいます。そういう態度であってはなりません。お父様が言うように、一年間祈って、準備しなければなりません。 韓国の本部で、各名節に参加する家庭のリストをつくります。一月二十日までに、ご父母様が執り行う、各名節の式典に参加する家庭のリストを発表します。その時、自分の家庭が、いつ、どの名節の式典に参加するかを知ることができます。選ばれるためのもう一つの条件は、祝福後に、いかなる傷も負っていない家庭であるということです。何か失敗があったならば、天から正式に赦しを受けていなければなりません。 また、二〇〇〇年以後は、童貞、処女の状態で祝福を受けた者たちだけが、資格を得るのです。祝福前に性関係をもった人や、結婚・離婚歴のある人たちは、式典に出席することはできません。そうなれば、条件を満たす祝福家庭は、アメリカにはいなくなるでしょう。ですから、今年からお父様は、純潔を保とうというキャンペーンを始めました。このキャンペーンは、世界中に広がっていきます。 世界中の至る所で、たとえ小さな村であっても、童貞や処女がいれば、彼らを集めて、純潔を祝う日を設定するということを、世界中に宣言する準備を本部でしています。もちろん、そうしたお祝いが行われるならば、村や町の長や警察も出席して、共に祝うことになります。また、家庭盟誓を唱和する際には、その意味を深く理解して行わなければなりません。なぜならば、家庭盟誓は、誰かの歌とか呪文ではなく、自分の生活信条であるからです。意味をよく理解することが大切であり、どれか一つを選んで、実践してみることも重要です。 例えば、三番目を選んだとすれば、それを生活の目標にして、三年間実践してみるのです。七項目すべてを実践するには、二十一年間かかります。一つ選んだとしても、他の項目を無視するということではありません。一つの項目を選んだならば、夫婦共に一心に実践して、証をすることができるようにならなければなりません。どこに行っても、自分が暮らす生活の土台を中心として、決意して、三年間精誠を尽くし、祈祷しなければなりません。その生活目標を中心として、家庭教育の標準にしていかなければならないのです。 アメリカでそうしたならば、外国に行った時も同じです。全部そのように暮らしているので、そうしなければならないのです。三年間、精誠を尽くした、そのすべてを話して、全体が感動を受け、全体が統一されうる内容の御言を語ることができなければなりません。宗教生活が、職業ならば本業であるべきです。今まで、これを余計なものとして扱ったというのです。このように暮らすようになれば、宗教は必要ありません。 参席できない人は、精誠を尽くし、献金し、その息子・娘のように、すべて一つになって努力し、旧約時代、新約時代、成約時代を越えなければなりません。旧約時代は、万物を天の前に捧げ、新約時代は、息子・娘を天の前に捧げました。あらゆる精誠を尽くさなければなりません。父母の立場ですべて一つになって、家庭を代表して、三年ごとに参席して入れることが願いなので、精誠を尽くさなければなりません。その時、その国で三人を引き抜けば、三人以外は全部、本部に献金を捧げなければなりません。 全世界的に大移動が起こる 私たちの時代は国境がありません。今後、全世界的に、大移動が起こります。交流が起こります。交換が起こります。そのような時が来るのです。七年ごとに一度ずつ行事をしますが、世界的に何百万名、何千万名が大移動するのです。世界大移動をするのです。混ぜてしまうというのです。 祝福を受けた家庭が、日本に暮らしていても、その時、選抜されれば、その人は自分の持っている財産でも何でも、すべて整理して、指定された国に行くのです。選抜されたそのような人は、その国に行けば、その国全体を代表する生活基準を中心として、その基準に合わせる訓練をするのです。二〇〇〇年代に国が生じれば、一気にそのことを始めます。そうするというのです。 血統復帰、所有権復帰、心情復帰があります。そこに行くようになる時、一族を送るのです。一族を率いて行く時は、献金して、そこに行って、模範的に暮らすことができるようにするのです。大移動が起こります。交換するのです。これによって、何をするのでしょうか。悪なる習慣破壊、サタン世界の悪なる伝統破壊、今までのサタンの血統からなる民族をすべて破壊させてしまうのです。 その次に、そこに行く人が、お金を百万ドルもっていたとしても、その百万ドルは自分のものではなく、その国のものにするのです。その国で生活するのに、一番どん底から復帰していくのです。それゆえ、祭物的生活をしなければなりません。模範を示さなければならない、という話です。 全世界の人が、一刻も早く、所有概念がなくならなければなりません。「自分のものだ」という概念が、なくならなければなりません。天の愛から連結されたものが、所有権であるのに、今まで、堕落することによって、神様を中心とした所有権の出発がなされませんでした。 この世で豊かに暮らす人々を、天が見る時、良心的で、天の祝福を受けられる立場で、金持ちになったのではありません。すべて搾取なのです。ですから、自分が所有物を持って行っても、その国の管理を受けて、その人たちの前に手本になることができるようにしながら、できるだけ、生活基準を高く上げていき、上げられた基準にしたがって、月給ももらう、そのような生活をしていかなければなりません。 いつでも大移動することのできる、心と体の訓練をしなければなりません。「ここに加担せよ」という時、やらなければ問題が生じるのです。そして、一緒に合同結婚式をした者は、すべて兄弟家庭です。ある国に行けば、その国の文化の中で生活できるよう、自分自ら、あらゆることを開拓して、その国の人と一緒に暮らせなければなりません。帰ってくることはできません。一国に何十万が行って、一国に五色人種が暮らすことのできる時代に入らなければなりません。そうしてこそ、一つになるのです。 行く時に、自分がお金を持って行っても、なぜ、低い所に合わせて暮らすのでしょうか。全世界に、お金のない人がいるので、低い所に行って、その基準に合わせて上がっていくのです。そのようにしながら、神様の生活を見習い、真のご父母様の生活を見習わなければならないのです。先生が、そのように暮らしているのです。神様は、天宙の大主宰であられるのに、僕の僕の道を歩まれているのです。それは、話だけではありません。そのように扱われてきたのです。きょう、話したことを整理して、本部にも連絡し、世界に伝えなさい。 氏族的メシヤの責任を完遂し、天の国民として入籍 今後は、いくら参席したくても、できないのです。一生の間、精誠を尽くしても参席できない人が、本当に多いというのです。皆さんの中に、習慣的に「統一教会を二十年、信じてきた」と、自慢する人がいますが、二十年が何だというのですか。伝道もせずに、ただ行ったり来たりするのは、食口ではありません。氏族的メシヤの責任を完遂しなければなりません。それでこそ、天の国の国民として、登録できるのです。祝福を受けたといって、すべてが入籍できるわけではありません。 皆さんは今まで、「氏族的メシヤが何だ」と言っていたのです。今後は、氏族的メシヤの使命を果たすために、自分の一族を訪ねて、結束しなければなりません。今後、祝福を受けた家庭は、盟誓文を中心として暮らしながら、手本になれない人は、ある国を訪れて、何かの集会の場に行っても、「自分はどこから来た」という話ができないのです。そのような恥ずかしいことが起こります。 自分の家庭の明細書があるのです。軍人手帳のように、家庭手帳があるのです。自分の息子は何をしており、自分の信仰の息子・娘の系列がどうなっている、ということが記されているのです。それをいつも、持って回らなければならないのです。また、自分の家庭の収入、息子・娘の収入まで、三分の一は捧げなければなりません。蘇生、長成、完成ですが、この完成級は、サタン圏内ではありません。三分の一は天の圏内です。これを蕩減するために、自分の収入の三三・三三三三パーセント、三数を標準として、十数の三分の一を献金すれば、税金でも何でも、すべてなくなるのです。何の話か分かりますか。 そのようになれば、どこの国でも、税金を出さなくてもいいのです。ですから、できるならば、三〇パーセントを公的な基金として使用するのです。今、三分の一ずつ献金すれば、「教会のために、国のために、世界のために使う」といっていますが、その時は、そうではありません。その時は、一つの世界なので、世界のために使うのです。 この基金は、すべての食口たちの、骨と肉と血なのです。血と肉と骨を集めたのと同じなので、これをだまし、脅して奪い取れば、天の前に問題が大きいというのです。公金が、自分の家庭を中心とした家庭費用の何十倍、何千倍、何億万倍、もっと貴いということを知らなければなりません。 今、世の中が滅びるのは、なぜかといえば、国も何もすべてなく、自分を中心として不正をするからなのです。その反対にすることのできる基準を立てていってこそ、天の御旨がなされます。それでこそ、地上に神様が訪ねてこられるというのです。 言語の統一が絶対に必要 三位基台を中心として、三×四=十二、十二数を合わせていくのです。一家庭で暮らすことはできません。三位基台を中心として、三家庭が協助するのです。春夏秋冬(があるように家庭)を合わせて暮らすのです。一人で、豊かに暮らすことはできません。三家庭が、一つの生活をすることのできる訓練をしていかなければなりません。ですから、十二年ごとに一度ずつ、交換するのです。三位基台を交換していくのです。そうすることによって、平準化されるのです。 このような生活をすることによって、地上で、超民族、超氏族的環境において訓練を受けることによって、霊界に行けば、あらゆるものに通じるというのです。これが訓練されていなければ、だめなのです。個人主義は、あの世に行って、個人環境を逃れることができません。この訓練をしなければなりません。これが訓練されていなければ、あの世に行くと、ふさがるのです。何の話か分かりますか。 十二年ごとに、なぜ交換するのかといえば、平準化するためなのです。世界的基準を中心として、これも世界的に、くじ引きをしなければならないのです。そこには、豊かに暮らす人がおり、優れた人がおり、出世をし、お金があり、知識があり、ありとあらゆる人がいますが、それは何でもありません。 今後、コンドミニアム式の家庭制度をつくって、訓練していかなければなりません。三家庭の中で、一家庭は過ぎゆく人がとどまれるようにして、四家庭が暮らせるコンドミニアムをつくらなければなりません。公的な人なのです。天の国に属するお客様をもてなすのが、その家庭の栄光であり、誇りです。自分の部屋に、何か国の人が来て、泊まっていった、ということが誇りなのです。 そうすれば、どうなると思いますか。アメリカ人が、アメリカ人として暮らすと思いますか、世界人として暮らすと思いますか。そうなれば、今後、言語は自然に統一されるのです。言語は、どのような言語を使うのでしょうか。英語でも通じず、ドイツ語、フランス語でも通じないというのです。韓国語です。韓国の言葉だと考えないでください。真の父母の言葉なのです。 ですから、今後は、どこに行っても、先生がこの地上で語った御言を、続けてどれくらい早く、たくさん聞かせてあげるかということが、国の競争になるのです。先生が四十年、一生の間、語った御言を、その国の歴史で、どれほどたくさん、そして早く、それを何回するかというのが、競争なのです。 私は昨日も、開天節に語った百六十ページの御言を全部聞きました。すべて、詳しく話してありました。このような日が来るようになれば、すでに一週間前から、この日に関することをすべて教育しなければならないのです。先生が昨日、御言を聞いてみると、素晴らしいです。祈祷のような内容を見ると、先生の頭は悪くないというのです。そのように、五時間、六時間語りましたが、それは普通ではありません。(笑い)そうしていたのです。 この者たちは、頭が悪くて、先生の御言を利用できないと、そう言うのです。自分が話すのが一番いい、と思っているのです。その説教集を読む人たちが、どれほど恩恵を受けているか分かりません。一人で、深い霊的世界を掘り下げて入っていくには、これしかないというのです。本当にそうです。 私が今度、すべて英語で語りながら十六か所を経てきましたが、十六回語っても、韓国語で一度読んだその世界の、三分の一もいけません。そのような差があります。ですから、絶対的に、言語を統一させなければならないというのです。通訳が、それほど大変なのです。百六十回以上、読んだはずなのです。そのように読んだのに、その基準に到達できないというのです。 強制的にでも韓国語を勉強させて、原語で先生の説教集を読ませなければなりません。何の話か分かりましたか。それほど大変なことなのです。ですから、原語を読まなければ、学者だといっても、及ばないという話です。 このようなことを考える時、皆さんの息子・娘たちは、このような世界に、必ず行かなければならないと思うのです。ですから、皆さんに早く、このことを解決してあげられる道を取るのが、父母たる立場で、なさなければならない重要な責任だと思うのです。 天的な憲法の制定 今後、アメリカも、上院議員、下院議員のように、教育制度もすべて新しくつくらなければなりません。先生の直系と、選抜された世界的なすべての人々が、一緒に勉強するのです。皇族圏内に加入しなければならないのです。そのような教育制度にならなければなりません。 直系の息子たちと一緒に、勉強するというのです。世界の祝福家庭から引き抜いて、直系の後孫たちと一緒に勉強できる立場に出ていくのです。学校が異なるのです。上院、下院と同じです。 私の子供たちがアメリカに来て、損害がたくさんあるのです。昔は、王宮には城を築き、絶対、外部と関係を結ぶことができないようにしました。私は本来、高等学校を卒業した後で、アメリカに連れてこようとしました。初めから、アメリカに連れてこようとしたのではありません。そのようなことが、どれほど必要か分かりません。 サタンは、私たちの家庭を中心として、すべて絡みつくのです。先生をどうすることもできないので、家庭に絡みつき、家庭をどうすることもできなければ、祝福家庭に絡みつき、祝福家庭をどうすることもできなければ、二世に絡みつくのです。二世が、だんだん悪くなり得る素質が多いというのです。アダムとエバが堕落したのと同じです。 子女たちが父母に従わず、自分の思いどおりすれば、すぐに精神病になるというのです。おかしくなるのです。ご父母様の家庭を(サタンが)過ぎ去れば、祝福家庭に、すっと、ついて下りていくのです。世界版図も広まりながら、果てまで、そのことが起こるのです。ですから、祝福家庭は、二世の前に手本となりなさいというのです。 今後、祝福家庭の中で堕落した家庭は、正式な集会には参席できません。二世たちが、外部で結婚したり、堕落したりすれば、問題が生じるのです。三十六家庭であろうと、何家庭であろうと、そうなれば、すべて引っかかるのです。そうして生んだ息子・娘を、どう処理するかというのが、天と先生において、一番問題なのです。 神様と真の父母の御意の中では、そのような人を見たくないのです。目を閉じようとします。地獄に、放り込まなければならないというのです。復帰時代ではありません。完成時代なのです。 今、許すことができるのは、国が設定されていないからです。国がなく、憲法が生まれていないならば、その時までは、許しを受けることができる見込みがあります。ですから、祝福も、三次の祝福です。教会祝福、国家祝福、世界祝福です。 今度、韓国でも越えていく時なので、先生が責任を負い、許してあげるために、十月十三日まで、堕落した家庭を許してあげるのです。堕落して生んだ子供たちもいます。これは本来、全部なくしてしまわなければならないのです。そうすることはできません。ですから、仕方なく、再度、聖酒式をして、その子供たちまでも、解放してあげるのです。十三日の日、その式を行います。 八月二十八日に集まれといって、再祝福をして、許してあげようとしたのです。長成級です。完成段階に越えられずに、長成級でしてあげようとしましたが、見ると、堕落して、子供を生んでいたのです。それで、四十日延長して、十月十三日に、もう一度、許してあげるのです。深刻なのです。 今後は、世界の同意を得て、いっぺんに掃き捨ててしまうかもしれません。島のような所に連れていって、ご飯だけ食べさせてあげるのです。男性と女性を、分けておいてです。御言も、みな語ってあげたし、このような話も、みなしてあげるのです。何の話か分かりますか。(「はい! )ですから、絶対堕落してはだめです。 今後、直系の子女たちも、そのような法に引っかかれば、仕方ないのです。神様が追い出したのと同様に、みな追放です。サタン世界に入って暮らすので、昔よりも、もっと危険な世界なので、許してあげるのです。それで、許すのであって、国を探し立て、世界を探し立てた後には、できないというのです。それゆえ、男性も、女性も、自分の生殖器、愛の器官を、絶対に保管しなければならないのです。 ですから、アメリカの人たちが、「イエスを信じて、天国に行く」と言いますが、みな天国に行けないようになっています。サタンが神様に対して、「あなたが志した御旨を、キリスト教を通してなせると思うのですか」と嘲笑するのです。しかし、神様が「レバレンド・ムーンがいるではないか」と言う時、サタンがひざまずくというのです。純潔、純潔な血、純粋な血筋を残さなければなりません。千年、万年、このような伝統を、どの一族が培ったかということを中心として、祝福が行ったり来たりするのです。 今後、先生の家庭と祝福することのできる人は、二度祝福を受けた人たちの後孫は、だめなのです。そのような人たちは、先生の血族と祝福できません。伝統的でなければなりません。できれば、純潔な処女、童貞を中心として、しなければならないのです。今は仕方なく、そうなのであって、純潔な処女と童貞が一つにならなければならないのです。霊界に行く時、すべて現れるというのです。もし、食い違う時は、一族がみな追放されるのです。 それくらい真剣に、天的な伝統を立て、それに従って生きなければなりません。私たちは、天的な規範に従わなければならないのです。それは、天的な憲法です。愛を中心とした天的憲法なのです。天的な憲法が制定されたならば、そこには、お父様とどうかかわらねばならないか、お母様と、またご子女様と、どうかかわらねばならないか、ということが書かれているのです。 二二〇〇年から二三〇〇年をどのように越えるか 人類は、原始的な生活様式に返らなければならないのです。ジュー氏の学問的観点に立った報告によれば、将来、人はどのような生活様式を望むようになるかといえば、原始的な生活様式だというのです。もし、山奥で生活するならば、岩のそばで寝てもよいし、どこで寝てもよいのです。個人の自由に任せられます。子供として生まれて、子供として帰るのです。 これを越えて、そうなのです。私たちの世界には、境界がなく、テントを持って回りながら暮らすのです。一家庭が歓迎するようになれば、それ以上の幸福はないのです。堕落する心配もなく、安全地帯です。それゆえ、土地と水がある所には全部行って、暮らすことができるのです。先生は、そのような訓練が、すべてなされているのです。農業を営むすべも知っているし、何でも、すべて学びました。水がある所には、魚がおり、魚がいれば、養魚ができるのです。そのようなことも、すべて学びました。 今、都市に集まって暮らすのは、教育のためです。子供たちの教育です。教育させて、何をしますか。今後は、教育が必要ないのです。テキストブックとして、みな出ているのです。人がどのように暮らし、天の国に合わせて暮らすことのできる内容が、すべて出ていれば、そのように教育を受け、そのようにすればいいのです。今後、一週間だけ教育し、実際に生活できるものを、みな教材にして売るのです。 火をたいて食べるのではなく、生で食べる時が来るのです。(火を使うと)あらゆる栄養分、ビタミンA、B、Cのようなものを、すべて殺してしまうというのです。火をたくことは、世界を早くなくしてしまうことになるのです。炭素を出して、オゾン層をすべて破壊させるのです。これが、急を要する問題です。 地下十メートル以上に入れば、腐りません。寒くもなく、暑くもないのです。それで、獣たちは全部、地面に入るのではないですか。そのように、穴を掘り、入って暮らすのです。防空壕のようなものです。そのような生活を準備しなければなりません。そうしなければ、人類が滅亡します。 二〇〇年を、どのようにして越えるかというのです。二二〇〇年から二三〇〇年を、どのようにして越えるかということが、先生の心配なことなのです。嫌でも、良くても、強制で世界を一つにしてでも、国民を全部、集めなければなりません。アメリカ人は、アメリカ人だけ集まって、暮らすようにはなっていません。すべて清算するのです。このようなものを克服してしまうのです。 そうでなければ、公害ゆえに、みな死んでしまいます。環境ゆえに、みな死ぬのです。みな滅びるのです。今から五十年後に、二〇〇〇年以後の世界が、どれほど失われるかということが分かりますか。あらゆる生物が死にます。それゆえ、先生が、南北アメリカを一つにして、全部、世界を一つの所に集めようと思います。統一教会は、それを準備しなければならないのです。(「はい! )一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.23
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上記映像は1992年におけるお母様日本講演における証です。「真の家庭と私」(真のお母様の御言)「世界平和女性連合」創立三周年記念大会の基調講演1995年9月14日東京ドームにて 尊敬するブッシュ前大統領ご夫妻、ご来賓、そして満場の皆様。再び皆様にお目にかかれましたことを、心からうれしく思います。私にとっては、今回が四度目の日本訪問となります。 私たち「世界平和女性連合」は、創設以来三年目を迎えました。昨年の十七万組の韓日姉妹結縁に続き、今年は一月以来、すでに六千組以上の日米姉妹結縁をなしてまいりました。これらのことを通して、第二次大戦後五十年を経た日米関係の新しい未来を切り開く重要な行事となり、過去の敵対関係を超えて、最良のパートナーとしての絆を再び強化するようになりました。 ブッシュ前大統領ご夫妻は、その特別ゲストスピーカーとして、何度もお話ししてくださいました。そして、このたびは、わざわざ日本までおいでくださったことに対して、心から感謝申し上げます。▲世界平和女性連合創立3周年記念大会(1995.9.14 in Tokyo) | 韓流サッカーをエンジョイ(過去記事資料) (ameblo.jp)から。 きょう、私がお話ししたいテーマは、「真の家庭と私」です。世界で今、最も深刻な問題は家庭です。果たして、真の家庭とはどのようなものでしょうか。 今日、私たちが生きている世界は、善の世界か、それとも悪の世界かと尋ねたならば、だれもがみな「悪の世界」と答えるでしょう。では、なぜ悪の世界なのでしょうか。それは、世界中のどの国の歴史を見ても、戦争の歴史を繰り返してきたからです。 もし世界が悪いと言うのなら、そこに属する日本もまた悪い国と言わざるを得ません。したがって、そこに属している私たちも悪いということになります。 自分自身をよく吟味してみますと、心と体が戦っている事実を否定することができません。そして、この戦いの起源はいったいどこから来たのか、ということが問題になります。もし私自身の中に平和の基地がなければ、どんなに家庭が平和であっても、国や世界が平和だとしても、私自身が闘争している限り決して幸福とは言えないからです。 皆様もご存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦も終わりを告げ、休戦も可能であります。しかし、私たちの内部における心と体との戦いは、昔から現在を経て、さらに未来に至るまで継続する戦いであることが分からずにいます。 このように考えた時、もし神がいるとすれば、私たち内部の心と体との戦いを、なぜこれほどまでに歴史を通して継続させてきたのかが、大きな問題になります。 人間が罪を犯したとしたら、罪を犯したその人が蕩減するのは当然です。罪そのものに神が責任を持つことも、これに干渉することもできないのです。 では、心と体が戦うようになった出発点はどこにあるのでしょうか。私たちの生命は、父母から受け継ぎました。そして父母は祖父母から、このようにさかのぼっていくと、人類の最初の先祖の立場にまでさかのぼることになります。 すなわち、人類の最初の先祖であるアダムとエバに愛の問題があったためであると考えられるのです。生命の起源は父母の愛から始まるからです。 それでは、私たちの生命が出発する以前から、このような戦いが始まっていたとしたら、父母が愛することのできる、その所が問題になったと考えられます。 アダムとエバの愛が喜びの愛となりえず、相反する愛の起源から、私の生命が根を下ろしたために、私たちの内部の紛争が始まったのです。 聖書には、アダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたと記録されています。追い出されたのち、彼らが子孫を繁殖したことは事実です。彼らは、神のもとではなく、サタンのもとで結婚式をしたのです。 堕落は、サタンによってエバが誘惑され、次にエバがアダムを誘惑することによって起こりました。堕落は淫乱によって始まりました。そのような願わざる関係によって、人類始祖はサタンと一体となり、善の先祖となれず悪の先祖となり、悪なる愛と、悪なる生命と、悪なる血統の根を持つようになったのです。 このことが事実ならば、私たちは堕落した人類の後孫として、家庭や民族を越えて、国家や世界まで発展してきた今日の人類五十億は、みな、サタンの後孫であり、悪の父母の血統を受け継いでいることを、否定することはできません。 私たちの体内には、神が最も嫌う姦夫であるサタンの血統が蠢いているという事実を、今日まで誰も考えることができませんでした。これが問題です。 では、果たして悪の根源を、どのようにして清算したらよいのでしょうか。サタンは、悪なる愛の根をどこに下ろしたかと言えば、私たちの体、すなわち私たちの肉身に下ろしたのです。 もし人間が堕落しなかったとすれば、心身が一つになることはごく自然な道理でした。ところが堕落によって、天に属する良心と、これに反する体とが互いに衝突するようになったのです。ここから闘争の歴史が始まったということを、私たちははっきり認識しなければなりません。 神は、このような善悪分立の歴史を通して、転換するしかありませんでした。神は公的な立場で、全体のために生きる道をたどりながら、愛と平和で再創造なさるのに対して、サタンは私的な立場で、歴史を通して全面的に善の側を破壊しようと、憎悪のもとで戦争を引き起こしてきました。人間が永遠に神の側に行けないように、地上と天上の両世界を滅ぼそうとしてきたのです。 神は善の立場に立っているので、サタンの側に回ってしまった人々を打つことができず、人類を取り戻すために、かえって天の側が打たれて奪ってくるという作戦をとってきました。一方、逆にサタンは打ちながらも奪われてきたのです。 終末期になれば、サタンは今まで霊的に人類を支配してきた位置を神側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示し、人本主義と物本主義、共産主義の出現をもたらし、天の側に立つ右翼とサタンの側に立つ左翼との闘争を世界的に展開してきました。そしてついに、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以降、キリスト教文化圏を中心として、人類は勝利と平和へ向かう大転換時代を迎えるようになったのです。 今日の時代は、個人主義王国時代であり、真の愛を中心とする天の家庭を完全に破壊させたフリーセックス時代、父母否定時代、夫婦否定時代、そして子女否定時代であり、またホモセクシュアルやレスビアンによって、理想家庭を求める天の側を完全に破壊する地上地獄時代となりました。これを天国に転換していくのが、メシヤの再臨の使命なのです。再臨されるメシヤは、真の父母として、心身の統一、夫婦の統一、親子の統一を願われているのです。 今、全世界的な問題は、私的なのか公的なのか、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、実在論か観念論か、進化論か創造論かということです。これをはっきりしなければなりません。 例を挙げて考えてみましょう。動物世界では、生まれる時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったと言うのです。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたということになるのです。 目自体は、空気があることも、埃が飛び散っていることも、蒸発する輻射熱があることも知らなかったとしても、すでにそれらを知っている存在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。 結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することができません。 ここで私たちは、本然の神の理想世界に戻って、神の願われる家庭と私と世界とを、はっきりと知らなければならないのです。そのようにして、堕落後に生じた私たちの周辺の複雑な関係を、解明しなければなりません。 私たちの心と体を見ると、体は地獄の基地、良心は天国の基地になって、二つの世界の分岐点に立っていることを、今まで知らなかったのです。このような立場に立っている自分自身を見た時に、体のほうが心を支配していることを発見するのです。 肉身が良心を支配しているというのは、堕落した時、サタンと関係を結んだ偽りの愛が、良心の力よりも強かったからです。神は、このことをよく知っていたので、堕落した人間を見捨てられず、良心を支配している肉身の力を弱める作戦をとってきたのです。 このように、歴史上において良心に対して天が働くことのできる救いの体制として立てたのが、宗教なのです。それで、過去にも現在にも宗教が必要なのです。 全世界の文化圏が異なる背景に従って、それぞれの宗教を立ててきました。しかし、体が心を支配していることを、どのようにして弱化させるか、除去させるかということが、宗教の目的であることを今までの信仰者たちは知らずにいるのです。 もし堕落がなかったならば、宗教は必要なかったのです。人類始祖が堕落によって誤ったので、これを修正するために必要だったのが宗教です。では、神は宗教を通して何をなさろうとするのでしょうか。心を支配している体の力を屈伏させようとしているのです。多くの人々は、宗教を信じて救われるものと考えています。例えば、キリスト教を信じれば天国に行き、仏教を信じれば極楽に行くと思ってきました。しかし天国は、神を中心とした真の愛と一体となった子女たちが、神の血族として神の愛を中心とした真の家庭となって入る所であることを、今までだれも知りませんでした。 では、宗教がなすべき内容は何でしょうか。体が嫌がることを行うのです。「断食しなさい、奉仕しなさい、犠牲になりなさい、そして祭物になりなさい」と言うのです。祭物は、血を流し、生命をささげなければならないようになっているのです。 それで、聖書では「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」という逆説的な教えをしてきたのです。これは、肉身の思いのままに生きれば地獄に行くしかないし、肉身を主管して良心の解放圏の道に生きれば、天国に行くという意味だったのです。 私たちの体を完全に屈伏させ、良心が絶対的な立場に立てば、私たちの良心は無限なる欲望と希望を持つようになります。 今日まで歴史を通して、数多くの宗教や宗教指導者たちが現れましたが、完全に体を克服して無の境地に立って、良心を主体とした本然の基準で、天と相対できる立場に立った人はいませんでした。 私たち堕落人間は、偽りの愛の根を中心として、偽りのオリーブの木になって、真のオリーブの木になれませんでした。神の真の愛を中心として根を下ろすべき人間が、悪魔の愛を中心としての根を下ろしたために、偽りのオリーブの木になってしまったのです。 この事実を、いかにして清算すべきでしょうか。これが、現代に生きている私たち人間が解決しなければならない最も重大、かつ宿命的な課題として残っているのです。 自分自身をよく吟味してみると、私たちの良心は、自分のすべてのことを知っています。良心は、私にとって父母よりももっと近い存在なのです。真の愛によって永遠に、神の懐に抱かれることを願っているのです。 世間では、子供が結婚すれば、親子が別れることもありますが、良心は生まれる前から私と共にあり、私を愛しながら、永遠に真実で傷のない神の子女として、私を解放しようとするのが、その使命です。 良心の世界は、先生が必要ありません。良心が本然の道を行く限り、自分の行くべき一生の道をはっきり知っており、間違いなく神の懐に帰れるように、教え導いてくれるのです。 良心が私の一生のすべてを知っているように、霊界に行けば、霊界のコンピューターがあって、地上で行ってきたすべてのことが記録されています。 「私は霊界には行かない」と、自信をもって言える人がいるでしょうか。いずれ、私たちはみな霊界に行くようになっています。皆様も霊界に行けば、すぐにも自分の一生ばかりではなく、数千代の先祖たちのことも、一瞬のうちに分かるようになっています。 霊界は時間と空間を超えた世界なので、地上にいる時に、良心に反する足跡を残してはならないのです。ですから良心は、どんなに著名な教授よりも、優れているということを知らなければなりません。皆様の良心は、船の羅針盤と同じ役割をしているのです。 皆様の中で、自分の結婚相手を選ぶ時に、自分よりも劣った人を願う人がいるでしょうか。決していないのです。だれしも自分の愛する相手は、自分よりも何十倍、何百倍、可能ならば何千倍、何万倍、何億万倍でも優れていることを願っているのです。 このように良心の欲望は、最高の愛を求め、絶対に中心者を占領しようとするのです。このことは、私たちの先祖、また後孫も同じです。もし、このような質問を神ご自身にしたならば、きっと同じような回答をくださるに違いありません。 皆様は、良心の欲望をすべて叶えられると思いますか。日本人の一人として、国会議員になれば、次に首相になり、できればアジアの第一人者、さらには世界一の高い地位を占めたいのが、良心の欲望なのです。 歴史以来、多くの人々は、人間の良心の欲望は達成できないものと結論を下してきました。しかし、私の夫レバレンド・ムーンは、それが「達成可能である」という結論を下しました。 皆様、良心の器がどれほど大きいものか、お分かりですか。良心は神までも占領したとしても、宇宙に最高のものがあれば、それも占領しようとするのです。 神の良心の器と人間の良心の器とは、どちらが大きいでしょうか。神の良心の器のほうが大きいとすれば、それで何をしようとするのでしょうか。神が一番占領したいのは、人間の真の愛に対する欲望であるという結論がでます。 神は絶対的なかたであっても、一人でいれば寂しいでしょうか、幸福でしょうか。いくら大統領であっても、愛する妻がいなければ、寂しいのです。 神も相対を必要とするでしょうか、どうでしょうか。いくら神でも、一人では寂しいのです。人間は、お金や知識や権力がないと寂しいのですが、神は、創造主であるから、お金や知識や権力も必要ありません。神に一番必要なのは何でしょうか、それが問題です。 私たちは、神を何と呼んでいるでしょうか。神は愛の王様で、愛の主人であります。もし神が愛の王であり、新郎であるとすれば、神の相対となる女王が必要だということは絶対的な真理です。では、絶対的な神の前に、相対となりうる存在は誰でしょうか。それが、真の人間なのです。 私たちには、お金も知識も権力も必要ですが、もし愛する妻がいなければ、それらはみな、むなしいものとなってしまいます。夫には妻や子が必要であり、妻には夫と子供が必要です。そのような愛の相対とともに暮らすところが家庭なのです。 良心の欲望を、思う存分に満たしてくれる愛の主人である神に侍り、そのもとで、神の愛の対象である夫婦が一つとなって、その愛の中で、愛する息子、娘とともに幸福に暮らす家庭こそ、神の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地となるのです。 私たち人間も、愛する対象が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在であることを願うように、神もまた、愛する相対が無限の価値ある存在であることを願っているのです。この対象になるのが、真の人間です。そのような男性と女性が、堕落しないで完成すべきアダムとエバであったということを、今までだれも分からなかったのです。 私たちに高い良心の欲望が与えられたのは、神が主体で人間は対象の立場であるから、神の分身となるのではありません。人間は神とは別個の人格なのです。そして神の対象として、神の何千万倍の期待にそえるような価値ある存在となれるように、人間に許諾してくださったのが、良心の愛に対する欲望なのです。 神が、創造当初に理想として願った真の愛を中心として、神人愛一体の家庭を築いたならば、今日の私たちは、天国とか地獄とか、何ら心配する必要もなく、そのまま天国にみな入れるようになっていたのです。 ここで問題となるのは、神の真の愛と真の人間の愛が、主体的愛と相対的愛として、一つとなった一点から出発できず、異なった愛の出発となって、二つの愛の方向と目的地になったのです。 このようになったので、神と人間が願う絶対的理想世界は見いだすことができないのです。神と人間の二つの愛が、一点から出発することを願っていた神のみ旨は、堕落によって完全に停止されたのです。 今日、サタンの愛を中心として、偽りの父母となり、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ後孫となったので、天国とは関係がない地獄に行くのです。 皆様が心の問題を解放し、良心世界に三六〇度の解放圏を連結すれば、良心は自然に、神の真の愛と連結されるようになるのです。 ところで、愛と良心の器とは、どちらが大きいかと言えば、愛のほうが大きいのです。なぜならば、良心は愛から始まったので、愛の器のほうが大きいのです。 良心を解放し、神の真の愛と一体となって暮らし、神の愛の血族のために準備し、愛を中心として暮らしたのちに入る所が天国です。このような愛を占領できなければ、永遠に天国に入れないし、その時が来るまでは、数千万年待たなければならないのです。 真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入るのです。たとえイエス様を信じたとしても、神の愛と連結しない限り、天国には入れません。肉身と良心が戦う人は、天国には入れません。サタンの血統を受けて紛争する人も、天国には入れません。このことを開拓すべき宗教同士が争うならば、終わりの日には、みな滅びてしまうのです、争う所に神はいません。すべての宗派と宗教は一つにならなければなりません。 宗教は、体を打って良心を解放する断片的運動であり、救援の門を開くのではありません。救援の門を開くには、神の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなければなりません。 宗教を信じていても、救いを得るのではありません。宗教は事実、肉身を打つのです。良心の解放圏を受けることができれば、愛に対する良心の欲望は神以上に高くなれる資格を持っているのです。 皆様、いかがですか。自分が行っていることは、良心が先に知っていますか、それとも神が先に知っていますか。良心が先に知っているのです。もし良心より、神が先に知っていれば、人間は神の分身であり、同じ体です。一人では相対的な理想を完成することができません。それで、アダムとエバが堕落したあとに、神が「アダムよ! どこにいるのか」と、先に尋ねたのです。 人間は、神の真の愛を動機として出発したので、相対的人格者として神に帰るのです。父母が百歳になり、子供が年を取って八十歳になれば、父と子は、父子の関係はもちろん、友達になれるのです。女性と男性は、力では相手にもなりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押したり引いたりして一つになれるのです。 人間が、神の前に相対的な愛の存在になれば、神は喜ばれたでしょうか、喜ばれなかったでしょうか。絶対に喜ばれたのです。神は、理想的対象である人間を未来の希望として見つめながら、愛の対象が完成される前に、この宇宙を創造されたのに、愛の対象として完成されたアダムとエバが、それ以上の大きなものを、さらに創造してほしいと願えば、神は創造する能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の欲望が無限であっても、それを創造し得る神であることを知らなければなりません。 このように無限なる神の真の愛を中心として、その対象として人間を創造したという事実を、完全に失ったために、これを再び回復しなければならないのが、私たち人間の生涯であり、人類歴史の目標なのです。 神が宗教を立てた目的は何でしょうか。神の骨肉のごとくに一体となって愛し合うような息子、娘を中心とした愛の家庭、氏族、民族、国家を形成するのが、神のみ旨であったということを、はっきり知らなければなりません。 それでは、メシヤはどのようなかたでしょうか。永遠なる神の真の愛を根として、初めて地上に降臨し、すべての宗教が願ってきた理想を完成させるかたが、再臨のメシヤなのです。再臨のメシヤが真の父母となり、真の愛と真の生命と真の血統を中心として、地上に理想家庭を立てることが、神の救いの摂理の目的です。 堕落によって、神はアダムの家庭の中で、真の母と息子、娘を失ってしまいました。神に属する一人の息子、娘もいなくなったのです。神の真の愛を中心として、血統的因縁を持つ神の家庭がなかったのです。 堕落した父母を通して、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結んだことによって、私たちの心と体との間に戦いが起こりました。アダムとエバとは、互いに怨讐関係となり、その息子、娘たちの間に醜い殺戮戦が起こりました。 それで神が、人類を復帰するための救援摂理が復帰摂理なのです。まず、心身一体となった息子、娘が絶対的な夫婦となり、さらに神の真の愛を中心として、親子が完全に一つになって、神とともに永遠に生きる真の家庭をつくるのです。そして、新婦の立場に立っているキリスト教を連結させて、神との血縁関係を結び、真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再編成することが、神の救援摂理の完成なのです。 日本の国家指導者の皆様、日本が神の祝福を受けることを願っていらっしゃることでしょう。そのためには、真の愛を中心として、心身が一つとなった国民にならなければなりません。真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければなりません。神の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになった家庭がこの国に多くなる時、神は自然に、この国に来て住まわれるようになります。そうすれば、自然とこの国は世界の中心的国家になるのです。 私は夫レバレンド・ムーンとともに、中南米十七か国の大統領をはじめとする貴賓のかたがたとお会いしてきました。また、つい最近は、世界百六十三か国からなる三十六万双の国際合同祝福結婚式を成功裏に終えてきました。 第二次世界大戦後、私の夫レバレンド・ムーンは五十年間、全世界的に迫害を受けてきました。それは、私の夫に何かの罪があったからではなく、この世を救うために、他の人の身代わりに、多くの迫害を受けたのです。しかし今日では、夫のことを「だれよりも立派な人である」と、多くのかたがたが尊敬するようになりました。 皆様、レバレンド・ムーンによって、共産主義は滅びました。ゴルバチョフ元大統領と金日成主席を教化し、転換させたのはレバレンド・ムーンです。今日、家庭崩壊と二世の倫理的退廃で滅びていくアメリカを救うためにも、レバレンド・ムーンでなければなりません。 韓半島の困難な政治的背景の解決のためにも、レバレンド・ムーンは深く関係しているのです。中近東においてもそうです。レバレンド・ムーンは、一度言ったことは必ず成就してきました。私が夫とともに、三年前に「世界平和女性連合」を設立したのは、今こそ世界中の女性たちが妻として家庭を守り、母として子女たちを正しく育てることによって、神と人類の理想とした永遠なる平和世界を実現できると確信したからです。 今や、私たちの世界平和女性連合は、世界百六十三か国に支部を持つ大きな組織となりました。特に、私が何よりも誇りに思うことは、千六百名を超える知性と教養にあふれた若い日本の女性たちがボランティアとして、世界中で活躍していることです。それは、世界史上でも例のないことです。 このような事実を見た時、日本がレバレンド・ムーンを、アメリカよりも先に受け入れるようになるならば、世界一の指導国家になることでしょう。 皆様もご存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は「真の父母」の名で、全世界に知られております。真の父母によって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木する、大きな祝福が伝授されるのです。 これを通して、超国家的な血縁関係を結成して、神を中心とした天宙的大家庭主義を形成することにより、父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して、心情文化世界を迎えることによって、地上から天上まで、天国に入れる解放された地上天国世界を完成するのです。全世界の人類が、特に日本の皆様が大きな祝福を受けて、天国の家庭として転換して、地上天国に入籍するようになることを、切にお願いします。 きょう、このように意義深い日、皆様にお会いして、互いに信じ合う立場で、最も重要な内容を紹介いたしました。どうか新しい決意のもと、この道に歩調を合わせてくださるようお願いします。 この地上に平和をもたらすのは、「真の家庭と私」からであり、そこから解放と自由と統一と平和の天国が始まるのです。 皆様の国と、皆様の家庭に、神の祝福がありますように、お祈りいたします。ご清聴ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.22
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「私の責任」1995年8月28日真の父母様、世界文化体育大典、勝利祝賀集会中央修練所三十六万双国際合同祝福結婚式三日後の八月二十八日、幹部と食口たちに韓国語で語られた御言を翻訳し整理したもの。 愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮から天国が出発 生命の根本である愛が、どこから始まったかといえば、男性と女性が出会う時に始まるのではありません。結婚することによって始まるのです。 結婚が何かといえば、男性の秘密、女性の秘密、陰がないものなのです。すべての暗い谷まで、愛でいっぱいにする立場が結婚です。ですから、結婚した夫婦は秘密があってはならないのです。今日、相当に秘密が多いでしょう。ぼろのふろしきを後ろに縫いつけておきながら、そばでは義人のふりをする者が多いというのです。そのようなものは通じません。 男性と女性が一つとなるその場が、愛が初めて出発する王宮です。その国の民が出発できる起源と土台をつくったのが、王宮です。アダムとエバの家庭が、本宮なのです。 愛することにより、凹凸を合わせることによって、愛の本宮が始まり、そこから男性の生命と女性の生命が合わさるのです。そのような愛の波の中の中央に、生命の種が植えられるのです。それが、子女だというのです。それゆえ、父母の愛に同参した者が、息子・娘なのです。何の話か分かりますか。(「はい。」) 父母の愛に同参した者が、息子・娘だというのです。では、同参したその息子・娘とは何でしょうか。お母さんとお父さん二人の生命の、すべてのものを合わせて、種になるのですから、価値から見れば、お母さんの実であり、お父さんの実なのです。 それゆえ、父母は、子供のために、未来の世界、より高く大きな世界を望みながら生きるのです。アダム家庭から、氏族、民族、国家、世界に発展する、大きな世界に発展できる出発地は、お母さんとお父さんではないというのです。 歴史時代において、家庭を越えて、氏族、民族、国家、世界、天国まで連結するためには、アダムとエバではできません。アダムとエバの息子・娘から始まるのです。ですから、その息子・娘は、アダムとエバ二人を合わせた以上の立場にいる、未来の出発基盤になるのです。 それゆえ、父母は子供のために生命を捧げなければならない、という論理が始まるのです。ですから、すべての父母がそうなのです。堕落した父母も、自分の子供のために生命を捧げるのです。息子・娘が死地に臨んだとすれば、そのお母さんとお父さんは、死の道を選びながら、息子・娘を生かそうとする立場に立つのが、本然の父母の道理なのです。 今日、堕落した世の中では、その反対の現象をいくらでも見ることができるのです。アメリカのような所で見れば、自分が生んだ息子・娘を全部埋めて逃げ回るような、ありとあらゆることが起こっています。それは、悪魔の行いであり、神様の天地の大道を破壊させる行動です。 ですから、息子を崇拝しなければなりません。息子・娘を殴ることはできないというのです。お母さんが息子に手出ししたなら、お父さんの体を犯すことになります。さらには、愛の起源である、神様を犯すことになるのです。それゆえ、どれほど厳粛な家庭であり、起源的な家庭かということを、皆さんは知らなければなりません。 愛の本宮と、生命の本宮と、血統の本宮が一つとなり、息子・娘が生まれることによって、天国が出発するのです。地上天国出発と天上天国出発が、ここから始まるのです。これが壊れれば、すべてのものが壊れます。 愛の王宮が破壊されたので、愛がどこにおいても生じることができず、生命の王宮が破壊されたので、生命がどこにおいても生じることができなかったのです。それゆえ、死亡世界に住んでいるのです。さらに、血統が壊れたのです。 歴史が壊れたので、混乱が生じて、家庭自体が定着できる所がないというのです。男性・女性、息子・娘が定着できなかったのに、どうして家庭が定着しますか。今日の世の中は、起源的なこの基準が乱れて出発したので、すべては混乱世界として今まで来て、世界的な大混乱の環境の渦中に今、入っているというのです。 言語統一は宿命的課題 これを救うために、先生がブレーキをかけるのです。ブレーキ装置は、先生がもっているのであって、他の人はもつことはできません。ある国の大統領や、ある国の力をもってもできません。それはサタン圏です。長成期完成級の基準です。分かりましたか。(「はい。」) ですから、皆さんが、その愛の原則的基準に至っていれば、神様がアダム・エバのように教えてくれるのです。堕落しなかったなら、霊肉ですべて通じ、神様が現れて、お母さんのように、お父さんのように、対することができたのです。そして、神様が教育したその言葉が、アダム・エバの言葉となり、その言葉は人類の言語の出発となり、起源となったのです。 その言葉が伝授されなかったのは、堕落のゆえです。本然の真の父母が来れば、これを代身して蕩減復帰して、伝授しなければならないのです。堕落した世界なので、救われるすべての人は、その立場に立たなければなりません。そうでなければ、今後、入籍をしたとしても、行くべき道に行くことができないのです。 このような時代が来るので、リトルエンジェルス学校(仙和芸術中高等学校)をつくって、二世だけは、外国人でも母国語を学べる道を開くようにしたのです。すでに十余年前から、ヨーロッパのすべての子女たちを連れてきて、教育させているのです。 真の愛、真の生命、真の血統をもった子女が生まれれば、その時は、言葉が二つではありません。堕落することによって、言葉の種類が生じ、破壊的な言葉となりました。神様が一つの理想的国家形態を、言語と文化を通してなそうとするのを全部破綻させるために、さまざまな言葉に分けたのです。さまざまな言葉に分けたので、さまざまな国が生じました。 それゆえ、言語を統一しなければなりません。これは、いずれ誰かがしなければなりません。これは他の人にはできません。真の父母の名をもち、原理的な内容があるのでできるのです。真の父母になるというのは、これは蕩減的課題なのです。運命的課題ではありません。運命はこうしてもいいし、ああしてもいいのですが、これは宿命的課題なのです。 宿命的課題というのは何でしょうか。お母さん、お父さん、その国の王権は宿命的です。それは、誰かが選挙でもって選択できるのではありません。それは絶対的です。誰も取り替えることはできません。お母さん、お父さんを取り替えられますか。取り替えることはできません。 それと同様に、自分の新郎を取り替えることはできません。自分の息子・娘を取り替えることはできません。お母さん、お父さんを取り替えることができないので、そこで生まれた息子・娘を取り替えることはできません。ですから、その息子・娘が育った夫婦も、取り替えることができないというのは理論的なことなのです。 それゆえ、今後、韓国語が分からなければ、この地を全世界が仰ぎ見ることのできるようになったとしても、この地に上陸できないのです。いくら祝福を受けた人だとしてもだめです。 私が国際会議に行けば、真の父母の名をもちながらも、私が英語を話します。しかし、本来は、そうすることができないという事実を、皆さんは知らなければなりません。日本人も、私が日本語を話すからいいと言いますが、それは恥ずかしいことです。一方通行で行かなければならない、ということを知らなければなりません。(日本語と英語) 「私たちの責任」ではなく「私の責任」 さあ、私が一つ聞きますが、責任において、私たちの責任が貴いですか、私の責任が貴いですか。(「私の責任が貴いです。」)(「私たちの責任が貴いです。」)それを決定しなければなりません。 責任といえば、私の責任もあり、私たちの責任もあり、私たちの国の責任もあります。私の責任時代が来て、私たちの責任時代が来るならば、私の責任を感じる人が、三分の一はいなくなります。半分以上いなくなります。私たちの責任という話をしてはいけません。 統一教会の合同結婚式、私の合同結婚式、私の家の合同結婚式、どれがより実感がわきますか。はっきりと言いなさい。今まで、のらりくらりとやってきたので、時を送り、流れてきましたが、今からはだめです。 私の責任が必要ですか、私たちの責任が必要ですか。(「私の責任です。」)「私たちの責任が必要だ」という者たち、手を挙げてみなさい。では、「私の責任が必要だ」という人、手を挙げてみなさい。 今まで三十六万双結婚式は、統一教会の責任としてやってきたし、世界の統一教会の責任としてやってきたのです。それを「自分の責任だ」と思う人がいましたか。いましたか、いませんでしたか。(「いませんでした。」)そのような人は失敗者になりました。しかし、宣教師たちは、「自分の責任だ」と思ったので、このことが可能だったのです。 宣教師という人、その国の代表たる人が、「私の責任だ」と考えたのです。「私たちの責任だ」とは考えませんでした。アフリカのある国の責任者は、国全体を代表した私なので、「私の責任だ」と考えたのです。「私たちの責任だ」と考えた人は、全部失敗しました。 これが今度、飛躍的な行動開始において、超越的な使命完遂を前におき、前進する群れとなった証となる内容なのです。それが、一番重要な証の内容であることを知らなければなりません。このようにすれば失敗するのであり、このようにすれば成功するのだという、二つのうち一つを、はっきり分かりましたか。(「分かりました。」) 遠い所に、勝利する基盤があるのではありません。問題は自分なのです。自分にあります。国家の失敗も問いただしてみれば、自分が誤ったからです。この私を拡大すれば、家庭の個人、国家の個人と、個人が、みな入っています。七千万韓国民族が、みな引っかかっていくのです。 さあ、では、「私たちの責任」ということを中心とした題目で、話してあげればいいでしょうか、「私の責任」ということを中心とした題目で、話してあげればいいでしょうか。(「私の責任です。」) その責任を完成する秘訣は何でしょうか。簡単です。私の生命を懸けるのです。きれいに懸けるのです。父母が反対しようと、誰が反対しようと、全体が反対しようと私と関係なく、一方通行で出発と共に、終わりまで走るのです。その一言で、すべてがオーケーです。私はそのように思って生きてきました。誰に責任をもてとは言わず、誰が誤ったとは話をしません。 きょう皆さんに話せば、悔い改めなければならないのです。それを転嫁したくありません。悔い改めることより、任せられた責任を私の責任として消化し、悔い改め以上の立場に立つことが、何かといえば、私の生命を差し出し、直行できる私の責任で決意したと言えることです。 ですから、寝るのも、その責任完遂のために寝るのです。寝ないのもその責任のために、ご飯を食べるのもその責任のために、息をするのもその責任のために、その責任のために暮らすのです。人には、食べ、寝て、起き、行き、来て、良い、悪いの七種類があります。そのすべてを、この責任ゆえにしようと言わなければなりません。 行くこと、来ること、良いこと、悪いことも、その責任のために私が一日を過ごせば、一日をよいこととして収めてくださるのです。一年を過ごしても、一年をよいこととして、私は勝利したというのです。天は知っています。神様は、うそなのか、どうなのか知っています。私がどれくらい幅を広げようとし、どれくらい高めようとするのか知っているのです。 一番貴いものは何でしょうか。生命です。生命を懸け、責任を果たそうという時は、サタンが逃げていきます。エデンの園のアダム・エバは、生命を懸けることができませんでした。神様の御言に絶対服従、絶対従順し、絶対に愛すべき天命、天の戒律に、生命を懸けて従わなければならないのに、適当にしたのです。 さあ、この時間に、皆さんが発見すべき重要な一つの表題は何かといえば、私の責任のために私の仕事をして、立派に死ぬ。だめなときは、生命を捧げてでも、行くことのできる橋となり、足場となる。私を踏みつけ越えていけ、というのです。息子がいるなら、息子に遺言をそのようにし、自分の兄弟がいるなら、兄弟に「私がこの御旨を果たせなかったので、兄さん、姉さん、お母さん、お父さん、このようにしてください」と、遺言を残しながら死ぬ人は、すべてのことで勝利することでしょう。 そのような決意に満ちた、新しい私の責任を前提として、決意する皆さん自身となって、確信して、出で立つようになる時は、天下が移行するのです。そのような時が来ました。皆さんがそのような立場で、霊界を動員できる時代が来たというのです。 先生も同じです。私が、天地が関係している根を引き寄せれば、すべて引っ張られてくるようになります。それを解き放てば、自分の位置に行って、押せば押すほど、それが死ぬのではなく、新芽として、どんどん伸びていくというのです。 生きている存在は前進するのです。停止はあり得ません。停止は死亡と通じ、地獄と通じます。発展するところは、繁栄と天国に通じるのです。統一教会において停止は、私の怨讐です。 エデンにおいて、アダム・エバが堕落するようになったのは、思考において停止してしまったからです。神様を中心として発展的に考えずに、停止する立場で、後ろを見たために堕落したというのです。停止は何と通じますか。(「死亡です。」)その次は? 地獄。 今日、日、月、星を見ても、一年に一日も休みません。休みますか、動きますか。新しい日のために、前進するのです。したがって、それと一緒に同じ歩調を合わせる人は、発展するのであり、それと反対に歩調を合わせれば滅びるのです。 そのようにして動くのは、何のためでしょうか。明日の希望のために、明日の理想的愛の世界のために、平和の世界のために、幸福な世界のためなのです。愛を除外した平和はなく、愛を除外した幸福はない、ということを知らなければなりません。 宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ 天国に入ろうとすれば、理想的家庭を回復しなければなりません。アダムの体と心が分かれ、エバの体と心が分かれ、この二人の夫婦は怨讐になり、その息子・娘には殺戮戦が起こりました。家庭で逆さまに打ち込んだので、今日、家庭で逆さまに打ち込まなくては、帰る道がありません。平和の基地がどこかといえば、国ではないのです。国をもって評するなというのです。 「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」。これが先生の標語です。問題は自分にあるということをみな回避して、他の所にあるといえば、すべてのものは滅びていくのです。平和の基準は私からです。私の責任です。国の責任ではありません。 前進的自我を発見して、前進的主体性を中心として、平和の基準は私から、幸福の基準は私から、真なる愛は私から、真なる祖国回復は私から、責任を完遂して死のう、と言わなければなりません。 どこに行って死にますか。部屋の中では死ぬなという話です。木のてっぺんに登って、落ちて腹が裂け、お母さんとお父さんが探しにきて、(あまりにも悲惨で)泣くこともできないように死のうと、そのようでなければなりません。そうでなければ、はげたかの餌になって死ぬか、南の方に行って、ワニの餌になって死ぬか、そうしなければなりません。責任も果たせずに生きていれば、地がつばを吐きます。 どうですか。気分が良いですか、悪いですか。今、まさに結婚した結婚式の次の日に、先生がこのように話すのを見ると、尋常ではありませんね。夢がみなどこかに消えましたね。夢が消えてもいいのです。夢が消えていけば、現実がよみがえるというのです。 夢を忘れてしまいながらも、人間の力を尽くせば、事実の舞台が展開されるということを知らなければなりません。大韓民国の学生たちは、夢ももてずにいます。夢もないので、実際もそうなります。文先生以上に、夢を見た人はいません。違いますか。 「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」。夢なら、すてきな夢でしょう。そのようなことを発見したので、今日、このようなことができるのです。 それは私の責任です。生命を越えてでも実践しなければならないという話です。神様が妨げても、押しのけて進もうという話です。悪魔を足で蹴って、塀の向こう側に追い出して行こうという話です。お母さんとお父さんがおらず、国の王がいません。世の中で、自分の責任のために一番狂った王が、真の父母という人です。 サタンの根が、何千万年前に打ち込まれたのに、それを抜いて清算しようというのですから、狂うにも、ほどがあるのではないでしょうか。狂人の王です。その狂人の王に、ついて行こうとするのですから、悪口をたくさん言われた統一教会の者たちなのです。 さあ、皆さん、今まで統一教会をよく信じてきたと思いますか、信じてこれなかったと思いますか。(「よく信じてきたと思います。」)では、先生より以上に、信じてきたと思いますか、先生より信じてこれなかったと思いますか。(「信じてこれませんでした。」) 先生自身も、よく信じてきたとは思いません。皆さんが言う、よく信じてきたという話は、正しいですか、間違いですか。先生も御旨の中を歩んできながら、足らなかったと思っているのに、よくやったと思うのだから、やあ! 神様よりも勝っていますね。違いますか。そのような歴史を知らなければなりません。 「よくやった」という話を口でする日には、ストップするのです。地獄と敗者の道、滅亡の道が訪れるということを知らなければなりません。やっておいても、恥ずかしさを感じる者には、明日が訪れるのです。 統一教会の人々は、みな偽物です。自分が本物だと思う人、手を挙げてみなさい。本物がいるなら、神様がどれほど喜ぶでしょうか。 部落ごとに、自分が偽物だという人は一人もいません。南米に行ってもそうだし、どこかに行って誰かに会って、「偽物だ! と言えば、「あなたは何だ?」と言いながら、けんかをしようとします。そうかといって、本物かといえば、そうでもありません。目を見てもそうだし、手を見てもそうだし、みんな垢がべっとりとついていました。私の目で見るとそうです。このように、二階の目で見れば、それが見えます。ですから、先生は恐ろしい人なのです。 祝福の相手を決定する時、数多くの人を、どのようにして選びますか。二階の目で見るのです。そうすると、路地裏に何があるのか、みな分かります。私は、そういうことを知っているとは話しません。 そのような何かがあるので、滅びる世の中で、文先生は滅びずに生き残りました。それを認めなければならないでしょう。みな失敗する世の中で、失敗せずに成功してきたのです。このように行っても、足が行くのです。この世の人々は、わき道を行くと言いますが、そのように行くのが正しい道を行くことなのです。 そのような何かがあるので、世界的な指導者になり、四十年の迫害の中で、カイン的世界の反対、家庭的世界の反対、氏族、民族、国家、世界全体が反対しましたが、そこで倒れることなく、生き残り、世界に対して反対に打ち込みました。今や、世界版図を造成していく中心的な存在が文総裁であり、真のお父様だというのです。 自分の責任のために生きるのであって、人の責任のために生きない、という人は、主体性を備えた人です。その人は、間違いなく主体になるのです。必ず、この地上で生きる中で、残っていくでしょう。 文総裁は、「神様も、私のために生きろ」と言うのです。そのような失礼で、無礼な言葉がどこにありますか。「天地を創造したあなたも、私のために生きなければなりません。あなたの愛の理想は、私の手を経なくてはできません」と言う時、神様が笑うでしょうか、深刻でしょうか。「こいつ、なぜだ?」と言う時、説明をしなければならないのです。説明をして、「そうですか、そうでないですか」と言う時、神様は威信があるので、目を閉じて答えるのです。そのような道を開拓した文総裁です。 みんな、御旨の前でプラス的なことをしたと思いますか、マイナス的なことをしたと思いますか。個人的に成功したとしても、家庭的に失敗すれば、個人が成功したものも、すべてなくなるのです。家庭的に成功したとしても、氏族基準で失敗すれば、すべてなくなるのです。 「氏族的メシヤの使命を果たせ」と言ったのに、果たしましたか、果たせませんでしたか。(「果たせませんでした。」)果たせなかったなら、私を見て答えればいいのに、なぜあっちを見ながら答えますか。そのようにして、許されると思いますか。先生をまっすぐに見て、そうならば許しを受けますが、後頭部にサタンを置いて、恥ずかしがりながら答えるのですか。人は率直でなければなりません。率直は、正義に通ずるのです。 私の責任のために生きる さあ、結論をすべて出しました。他のどんな言葉も必要ありません。 私の責任のために私が生まれ、私の責任を果たすために統一教会に入り、私の責任を果たして統一教会を誇るために、私は私の仕事を誇っていくのだ。そのためには、生命を懸けていく。私の前に立つ者はいない。その人を乗り越えれば、私はまた乗り越えるだろう。幾峠でも乗り越え、最高の記録を残す一番の王子になろう。(「アーメン! )そのような時は、「はい! と言わなければなりません。(「はい! )このように幼子になってこそ、天国に行くと言いました。 どうやっても、私の責任のために生きよう、その決心以上にやりなさい。「三百六十万双を私がやる」と言わなければなりません。先生は、そのように考えるのです。皆さんを信じません。皆さんが失敗しても、私が失敗しない道を、私がみな準備しておきました。皆さんを成功させるために、その準備しておいたものを、使わないようにしようと思います。すべて、つくっておきました。 今、先生が何をしているか、世の中は知りません。悪口を言われ、滅びる文先生だと思っているのであって、このようになるとは思っていたでしょうか。もし、三百六十万双の結婚式を一年もたたずにやったならば、世界がどうなると思いますか。 私自身で、すべてのことを解決しよう、という主体性をもち、投入して忘れ、投入して忘れ、努力して忘れるのです。「ああ、私がこのように努力したので、これで私が天国に行ける」と、考えるなというのです。 文総裁は、自分の仕事だと考えました。自分の仕事として考えたので、主人は誰ですか。人の仕事をすれば、絶対に主人になれません。歴史を創造する、個人の主人、家庭の主人、氏族の主人、民族の主人、国家の主人、天地の主人。神様でさえもそれができないために、私に従ってくるので、私を主人にして神様も解放し得る仕事があるということは、理論的な結論にならざるを得ないということを知らなければなりません。 さあ、このようなことを知るようになる時、私の仕事としてやりますか、あなたの仕事としてやりますか。(「私の仕事としてやります。」)問題はここにあるのです。文先生が今まで滅びなかったのは、そこにあるのです。誰より誠心誠意を尽くし、掘っても深く掘り、広さも広くし、高くはしごをかけて、すべて自分の仕事として考えたのです。 「私でなければだめだ」という考えをもち、神様のように投入し、忘れるのです。結果は、十年、二十年後であっても、来るようになっています。 早く結果を望む人、早い結実を望むならば、植えた根が浅いのです。大きな木にはなれません。神様が数千万年忍耐しながら、その根を打ち込み、数千万年かけて植えた根は、数千万年以上たっても抜くことができないというのです。 では、成功を早くするのがいいですか、ゆっくりとするのがいいですか。早くすれば、自分の目の前の平面しか分かりません。ゆっくりしたとしても、早く結果を願う、何十倍以上を投入しながらやる人は、絶対滅びる道理がないのです。 私の責任を果たすために生まれましたか、人の責任のために生まれましたか。(「私の責任です。」)そうです。学校に行くのも、私の責任です。ご飯を食べるのも、私の責任です。大きくなるのも、私の責任です。私の責任でないものは、一つもありません。話すのも、私の責任を完成するためです。努力も、私の責任のためにするのです。それを否定できません。 その中で一番貴く、一番価値あるものが何でしょうか。私の仕事ではありません。公的な仕事の中で中心となる、神様の仕事です。その神様の仕事は、私よりもっと大きなものが中心となるのです。私より家庭が中心であり、家庭より民族が中心であり、民族より国家、国家より世界、世界より天宙、天宙の上に神様がおられるのです。いっそう大きなもののために、それを私の仕事として働く人は、いっそう大きな世界を相続する、第二の主人となるのです。 神様は、人間世界の復帰路程には投入できません。ああ! 私はそれを知って、どれほど気分がいいか分かりません。神様は投入できません。アダムが分からずに堕落したので、アダムはいくらでも投入することのできる資格があるのです。今日、文総裁の名のもと、世界的版図をもち、世界が両手を挙げて、叫ぶ万歳の声が、泰山を越え、海を渡って、太陽の光を覆うことのできる日が、遠くない将来に来るだろうと思います。 このような日が目前に来たということを知る時、私の責任というものを強要する先生の話を聞き、一度走ってみますか。走るのは、目標に向かって走るのです。目標を中心としていう時に、走るといいます。よく走る人になりますか、よく飛ぶ人になりますか。(「飛ぶ人です。」) 愛が所有権を決定する 今日、家庭で見る時、サタンが神様に「神様、あなたは宇宙の創造主であるにもかかわらず、全知全能であられるお方が、失敗者になりませんでしたか?」と尋ねるのです。そうすると、神様が何と言うでしょうか。「いや、私は成功者である」と言うでしょうか。「おまえの話は正しい」と考えるでしょうか、「おまえの話は違う」と考えるでしょうか。間違いなく、「おまえの話は正しい」と考えるのです。 それは、どういうことでしょうか。ご自身が愛する息子・娘、未来の自分の妻となり、自分の夫となりうる体、自分の体としてつくったものを失ったのに、その失ったものをそのままほっておくことはできません。失ったのは事実です。では、負けた者は、勝者の前にひざまずき、降伏をしなければなりませんか、しなくてもよいですか。しなければならないのです。 悪魔は、何と言うかといえば、「あなたが先に愛さなければならないのに、私が先に愛したので、男性という体と女性という体は、私の体であり、私のものである。それが事実か、違うか」と尋ねる時、「事実だ」と答えるのです。 ある町で、いくら美人であり、いくら立派な博士だといい、世の中の名門職の立て札をみなもっていたとしても、その女性が、あるならず者に愛の体を許した時には、誰のものになりますか。ならず者の体になりますか、王子の体になりますか。ならず者の体になるというのです。 愛は所有権を決定するのです。それゆえ、「私が所有を決定したこの権限は、偽りの種をまいたとしても、人類が終わる日まで、これは私の版図であるので、私の実が世界版図に公開化される時までいかなければならない」というのです。 そのエデンの園の不倫なる愛が何かといえば、フリーセックスです。自分勝手にするのです。そこには規定もなく、主人もいません。そのようにまいたので、終わりの日には、そのような世界になるのです。ですから、「女性という体、男性という体が、神様の前に帰ることができるものが一人もないようにする特権が、私にあるのを知っていますか?」と、神様の前に忠告するのです。ですから、神様が「違う」と言えますか。 聖書でもそうでしょう。田に稲を植えるのに、毒麦を植えました。主人が、まきもしなかったのに出てきたので、その僕たちが来て、「毒麦を抜きましょうか」と言うと、「いいえ、収穫してふいごに投げる時までほっておけ」と言うのです。ですから、まいたとおりに種がおしまいまでいって収穫できる、その版図になっているので、終わりの日には、全世界に青少年混乱時代が来るのです。青少年、中年、青年、全部が堕落してしまいました。ここ韓国も、みなそうでしょう。妻を信じることができません。 離婚を、なぜこのように許すのかというのです。そうしなくては、帰る道がないというのです。そのようなことを、全部知らなければなりません。 そして、フリーセックスがまん延し、終わりになってみると、アメリカの女性、日本の女性、十余か国の女性たちが、そうしてみると、それ以上はないのです。何の面白さがありますか。それはやっても、良心がだんだん麻痺するので面白くないのです。それより、半分酔った幻想世界の愛に一度つかってみたいと、麻薬を吸い、その世界に入って、酔って暮らすのです。ですから、半分狂人になって暮らすのです。 人には情欲というものがあって、男性も女性も情欲を満たそうとするのです。それを水平にしなければなりません。それを満たすことのできる道がないので、ホモが現れ、レズビアンが現れるのです。女性と女性で結婚するという話です。女性と女性が結婚すれば、何をもって慰労してあげますか。男性同士で、慰労になりますか。どんどん方向だけそれていくのです。なぜ笑いますか。笑わずに反省をしなさい。このように露骨に話すのは、露骨な問題を露骨に話さなければ正すことができないので、露骨に話すのです。 そこは何でしょうか。本来、愛の王宮です。王が生まれる場です。アダムは誰かといえば、家主です。家主であると同時に、家庭の王です。主人と王の立場に立っているのです。これが大きくなれば、アダム・エバはたった二人ですが、アダム・エバの息子・娘は十二人の息子、三十人の息子でも生むことができるので、横的に十二の方向をみな備えることができるのです。孫まで見ることができるのです。神様は一人をつくりましたが、アダムは、十二人をつくることができるというのです。神様より偉大な、平面的な神様になるというのです。 それゆえ、神様の失敗は何でしょうか。孫を見られなかったことです。神様が一代、アダムは二代、孫は三代ですが、その三代を見ることができませんでした。孫は、多いのがいいですか、少ないのがいいですか。アダムは自分の息子・娘を、何十名も創造できるので、神様よりも偉大なのです。それで、息子・娘が多いほうがいいですか、少ないほうがいいですか。(「多いほうがいいです。」) 見てみなさい。ヤコブの息子・娘が何人ですか。十二人です。十二子女がいいですか、三子女がいいですか。(「十二子女です。」)なぜ、十二子女がいいですか。(「多いからです。」)多ければ、なぜいいかというのです。 十二人の息子がいてこそ、一人の息子から零点として、十二方向を回ってくることができるのです。正月の月から、十二月まで行って、再び正月の月が現れることができるのです。これが狂ったら、ここから反対に行くようになれば、正すことができるのです。それが、神様の救援摂理の骨子になっています。 これが一つのモデルになっているので、ヤコブは十二人の息子、モーセは十二支派がいました。十二の息子を中心として、支派も十二支派に合わせなければなりません。イエス様は十二弟子、百二十門徒。こうでなければなりません。家庭的十二数、民族的十二数、国家的十二数を一致させてこそ、蘇生、長成圏を越えていくのです。そのような数の代表が、十二数です。その数を中心として、世界民族を全部収拾するのです。 ですから、皆さんも、十二人の心を一致させることのできない人は天国に行けません! イエス様が十二弟子を一つにしようとして失敗しませんでしたか。正月から十二月まで回らなければなりません。誤って回ろうとすれば、第二回は大きくなっていくのです。一点を通じて回れば、どんどん大きくなるのです。その出発点が家庭なのです。 四大心情圏の伝統的な基準 家庭には、子女がいて、兄弟がいて、父母がいて、おじいさんがいます。これを拡大させた世界には、息子・娘がいて、世界兄弟がいて、世界夫婦がいて、世界父母がいて、世界祖父母がいます。この特殊なモデルが家庭なので、家庭において真なる息子・娘は、真なる世界の息子・娘と兄弟をもつことができるというのです。堕落しなかったなら、そのようになるのです。みな訓練になっています。 真なる息子・娘となり、真なる兄弟になり、真なる夫婦になり、真なる父母になったので、これを拡大した世界版図のどこの国でも、この四種類になっているのです。 それゆえ、私は何を必要とするのでしょうか。父母、妻子、兄弟、子女です。みなそうでしょう。これが、四大心情圏のモデルの伝統的な基準です。 これをこのまま拡大するのに、方向がみな合わなければなりません。十二数が食い違えば、だめなのです。蘇生、長成、完成で、国家基準まで越えなければならないのです。 統一教会の私たちのお母様は、十三人を二十年の間に生まなければ、お母様の責任を果たせないのです。お母様、来ていますか。拍手を一度してあげなさい。(拍手) 誰でも、あなたの願いは何かといえば、父母をもつことであり、妻をもつことであり、兄弟をもつことであり、息子・娘をもつことなのです。これが永遠に、永遠に、それでもいいという人、手を挙げてみなさい。本当にそうですか。それなら、統一教会を信じる必要がありません。そのように暮らせばいいのです。 それを知らずに暮らすので、地獄に行き、悪いほうへ進むのです。このように絶対的に暮らす人は、霊界に、お母さんとお父さんが共に行くのであり、夫婦が共に行くのであり、兄弟が共に行くのであり、子女が共に行くのです。分かれられません。分かれるようにしたなら、神様は破壊的なお方になります。完成と理想国家、理想天国を形成できないというのです。理論的に、これを否定できないということを知らなければなりません。 統一教会では、夫婦喧嘩をしろといってもできません。私も若いお母様を迎えて、いい日ばかりではありません。だからといって、そうできません。誤れば、根本がすべて乱れます。お母様がいなくなれば、相対がいなくなります。お母様は一人しかいないのであって、二人ではないのです。 そのお母さんというのは、夫婦となった後になるものです。その夫婦は、兄弟を通してなるのです。その兄弟は、子女を通してなるのです。一つも取り除くことができません。無視すれば、分かれることになり、破壊させなければならないのです。一つの定着できる中心的軸が生じません。いいかげんに扱えないのです。 お母さんは完成した子女の実体です。私の実体です。兄弟の実体です。相対の実体であり、お母さんの実体です。未来のお母さんとして、今現在より何十倍も立派なお母さんをつくるためには、為に生き、また為に生き、また為に生きて投入し、忘れるようにしなければならないというのです。堕落した世界に残された各自の責任分担が、そのようにもつれたということを知らなければなりません。 ですから、出発をうまくしなければなりませんか、下手にしなければなりませんか。(「うまくしなければなりません。」)偽りの父母から出発して、このありさまになったので、真の父母が教えてあげるのは、他のことではありません。 真なる父母はこのようなものであり、真なる夫婦はこのようなものであり、真なる兄弟はこのようなものであり、真なる子女はこのようなものだということをはっきり知り、その公式のとおりにすれば、すべてのことがオーケーとなり、私が主体なら、相対は永遠に私と共にいるようになるというのです。 このような夫婦になれば、これは縦的、横的基地に神様が降りてきて、神様が核になるのです。ですから、二重になります。皆さんの心が全部、このようになっています。二重になっています。すべての細胞から全部、二重になっているのです。 怨讐の子供を自分の息子のように愛する 男性は生殖器を千年万年、守る主人にならなければならず、女性はその生殖器を千年万年、よく守る女性になれ、と教えるのが文総裁です。これを間違いなく守るようにし、そうする責任を負わせた人が、真の父母の名をもった父母であるというのです。 真の父母とは簡単です。浮気者の女性と男性を連れてきて、浮気をしない、絶対的に貞操のある男性と女性をつくることのできる力をもった人が、真の父母なのです。 この男性は、酒を飲んで浮気をする見込みが多いですね。目が半分、力がありません。このような男性は半分寝ています。そのようなことを私はすべて知っているので、相対を結んであげることができるのです。そのような人には、目をしっかり開いて、夜寝ずに見守ろうとする人を結んであげてこそ、バランスが合うのです。 それゆえ、三年だけ一緒に暮らしてみなさいというのです。東西南北、私を中心として三数になりさえすれば、私に返ってくるので、その時になって、「あの女性は、私に絶対必要だ。あの男性は、私に絶対必要だ」ということが分かるようになるので、そうなれば、一緒に住むなといっても、一緒に住みたくなるのです。 こうして、根を張り、巣をつくって子供を生めば、堕落しない息子・娘が生まれると思います。夢と理想的な内容を中心とした解説を、文先生がしてあげるのです。これは解説ではなく、事実を話しているということを知らなければなりません。(アーメン! ) 私の妻をつくるのです。私たちの妻をつくりますか。今日、フリーセックスの世界で、私の妻がいますか。私の息子・娘がいますか。愛を中心とした、私の息子・娘がいません。私の父母がいません。全部サタンによって崩れたものを、私の手で清算するのです。伝統とすべての歴史を引っ繰り返して、百八十度回すのです。百八十度回らなければならないのです。 アダム家庭から闘いで分立された歴史なのです。体と心が闘うことによって、このような二重に対峙する人類の歴史が分かれてきたのです。闘いによって、人類歴史が編まれてきたのです。体と心が闘い、アダム・エバが闘い、息子・娘の殺戮戦が始まった起源が、家庭なのです。 そこで出発した世界が、闘いのない世界になれないというのは、理論的なことです。この根を抜いてしまわなければなりません。これを抜くためには、真の父母が現れなければなりません。真の父母がこれを抜いて、全部燃やさなければならないのです。 これを助けてあげようと、接ぎ木するのです。接ぎ木するには、野生のオリーブの木に、真のオリーブの木の芽を接ぎ木するのですが、真のオリーブの木がありません。世の中には、真のオリーブの木が一つもないのです。 それゆえ、真のオリーブの木として来られるのが、メシヤなのです。そのメシヤは一人です。ここから芽接ぎをもっていって接ぐのです。何千年の木を切り、無視し、完全否定し、実を幹を切り、燃やしてしまい、肥料にしてまいてしまうのです。そうしてこそ、堕落はしましたが、本然的な真のオリーブの木の実に従って、天の国の倉庫に入れるのです。 天の国には、真のオリーブの木の実が入るようになっているのであって、野生のオリーブの木が入るようにはなっていません。ですから、堕落したこの世の中に、メシヤが来なければならないというのです。救世主が来なければなりません。それで、大きな宗教は、みな再臨思想があるのです。 真の父母が現れたので、統一宗教が現れるのです。統一教会です。体と心を統一し、夫婦を統一し、子女を統一し、氏族を統一し、そのような種をまいて、数多くの氏族が生じるのです。十二の氏族を合わせれば、民族になるのです。十二の民族を合わせば、国家になるのです。十二の国家を合わせば、世界になるのです。 真の父母がいなければ、真のオリーブの木が現れません。真のオリーブの木が現れて接ぎ木をして、同じ実を倉庫に入れることができるのです。神様が、真のオリーブの木として収めたものと同じものを、倉庫に入れることができるのです。そこが天国なのです。天国というのは、神様の血族となり、神様の息子・娘の内容を備えずには入れないのです。堕落した後孫は、悪魔の後孫なのです。 なぜ、神様が復帰摂理において、このように長い歴史を経たのでしょうか。このように尋ねるとき、答えることが難しいのです。なぜでしょうか。 愛の怨讐が悪魔です。姦夫です。姦夫の種が打ち込まれました。これを、自分の息子・娘のように愛せというのです。自分の息子・娘のように愛さなくては、復帰路程が始まりません。堕落した人間にもできないのに、本然の本心をもった神様が、そうする道理がありません。創造主である神様が、想像もしなかったことをせずには、戻すことができないのです。 では、どうしなければならないでしょうか。自分の側にいる人の血を流させ、神様は数千万回、痛哭して、痛哭の痛みが傷となって、本然の悪魔の怨讐の血族だ、ということを忘れるようになったというのです。「あの子供は、怨讐の息子ではなく、私の息子だ」、これが神様の心情なのです。 死ぬようになれば、その息子をつかんで、実際の自分の息子以上に、痛哭し得る心の姿勢を見いださずしては、この地上に救援摂理の天国を取り戻すことはできないというのです。九八パーセントまで行っても堕落したエバ、誤った悪魔の愛を通して奪われた息子・娘、愛の怨讐の子供を、神様は自分の息子のようにすることにおいて、九八パーセントまで行くのです。何千万回するのです。 今から四千年前に、全知全能の神様の救援摂理が着地をしたのかと、神学者たちに尋ねてみろというのです。知らないのです。 怨讐の息子、愛の怨讐の血を受けた子供たちを、自分の息子・娘以上に愛することのできる、その本然の基準とならなければならないのです。天国は、自分の息子・娘が入るのです。天国は、自分のすべての愛で愛した人が、入るようになっているのです。そのように愛することのできる因縁を見いだすことができなければ、天国に入り得る人を見いだせないので、この過程を追求するために、数千万年かかったというのです。 人類歴史は、数百万年でなく、数千万年です。創世以後、数千万年、人間の救援摂理をした神様に、「なぜ、四千年前に地上に着地して、選民を立てたのですか」と言えば、答える道がないのです。 本然的息子・娘の血肉を通して生んだ子供のように愛することができるように、何千万回、上がり下がりするというのです。 怨讐を愛する道 自分の責任に帰りましょう。堕落させたのも私です。女性はエバの代身です。私を見いだせなければ復帰ができません。堕落時にアダムが誤りました。私です。それを知らなければなりません。堕落は、私たち二人の夫婦が誤ってなされたのです。祝福を受けてからは、私たちの家庭に、サタンは寄りつくこともできません。 みな知っているので、口を開けられません。一気に蹴ってしまうのです。答えられなければ退かなければなりません。 私についてくる、ありとあらゆる女性がいました。それで、鍵を二つかけて寝ました。私が悪い人なら、世界で一番悪い人になるはずですが、悪い人ではありません。落ちぶれていく女性たちを助けてあげようと、そのような難しい道を築いてきたのです。お母様を通して女性解放を宣言したのが、私です。 サタンが、偽りで家庭を出発をしたこと、すべて滅ぼしたものを、真のご父母様が現れて、再び神様の名で、反対する場において結婚を百八十度回るようにしました。それによって地獄と天国が分かれるのです。天国とは、家庭で入るということを知らなければなりません。 エバは三人の夫を殺しました。アダムを殺し、イエス様を殺し、再臨主を殺しました。ですから、罪が多いのです。これを一つにしなければなりません。 先生のお母さんは、統一教会のあらゆる父母や信者以上に先生を愛しました。そのような父母を後にし、一言も原理の御言を語りませんでした。神様がサタン世界を救援し、新しく完成した世界の内容を教えてあげる前には、神様は自分の息子・娘を愛することができないのです。これは結果主管圏です。結果主管圏には、神様が降りてくることができません。 アダムに降りてくることができたならば、神様がアダム・エバを堕落させはしませんでした。結果主管圏内で、父母を愛し、それを重要に思い、一番にすれば、原理結果主管圏を無視してしまうことになるのです。そうなれば、直接主管圏の位置がずれていくのです。そうなれば、未来に、天国建設という理念があり得ません。 一番愛する人を一番端に置き、彼らを全部愛し、彼らのすべてが、そのお母さんの一族を望みながら、自分が救われることより、先にすることのできる心情運動が、地上で生じることによって、自然屈伏できる立場で、長子権が復帰されるのです。 ですから、神様は、一番近い側にいる人たちを、個人的に犠牲にさせ、氏族、民族、国家、世界的に犠牲にさせてきた、ということを知らなければなりません。 自分の父母より、兄さんより、怨讐の子供たちをより愛さなければならないという、この道理の道を行くので、あぜんとするのです。 夜を明かしながら、この偽りの者たちに、ありとあらゆる話をするのです。日ごとに私に似ろといって、この舌が八十歳になるまで、一日も休んだことがありません。怨讐の国、日本の女性まで十七万八千名を連れてきて、教育しました。 霊界の秘密を、全部教えてあげなければなりません。このようなことを教えてあげるので、反対したとしても押していくことができるのです。サタン世界の女性たちをお母様よりも愛した、という条件を立てたので、お母様を初めて立てることができるのです。 それで、お母様が勝利したので、三次のアダムの相対は、一次のアダム完成を指向して、三代が完成するようになったので、イエス相対復帰、アダム相対復帰基準に立てて、歴史は分かれましたが、今になって全部連結させるのです。絶対服従しなければなりません。 心情的な立場で、自動的に順応できる論理的、理論的体制の上で、サタンの前に解明し、神様の前に解明して、神様も公認し、サタンも公認した勝利的覇権基盤を、理論的に築かなくてはならず、実体的に成就させなければ行くことができないのです。これが復帰の道です。適当にはできません。一寸ずれてもいけません。水すら漏れても、ばらばらになっていくのです。 終わりの日に、これを残してあげるためには、淡水が流れるサタン世界の水のような所に、朝潮の水が入ってくるのです。蘇生、長成の国家まで埋めましたが、世界まで埋めることのできる、朝潮の水が入ってくるのです。朝潮の水が入ってきて、地獄の裂け目がある所を、訪ねていくようにするのです。これが、今度の祝福なのです。 そのような意味で、統一教会はサタン世界を消化できますが、今までの既成の宗教は、統一教会を消化できません。門さえ開けば、海の水に浸るのです。聞きさえすれば、溶けていきます。賢い人は、誰の話を聞きますか。お母さんとお父さんの話は聞きません。先生の話を聞くのはなぜですか。アメリカのような所では、文総裁のようなアメリカの指導者が必要なので、文総裁の写真を持って歩く若い青年男女たちが、たくさん生じているのを知っています。 よい後孫を残すために コディアックに行けば、サーモンが五千マイルを彷徨して、時になれば、いつ約束をしたのか、オスがまず来て、二週間待ちます。卵を産む期間が二週間です。オスは、卵を産むために来るメスを迎え、保護するのです。海では、模様がメスもオスも同じですが、メスを抱くようになれば、ライオンのようになるのです。口がこのようになり、背中がラクダのようになって、見ただけで身の毛がよだつようになって、誰かが来れば、生命を懸けて攻撃するのです。そのような夫が必要でしょう。 それを見る時、五千マイルを、海で自由に行動していたのが、どうして、その二週間に合わせて来るのかというのです。そしてまた、なぜ自分の父母が産んでくれた場所に来て、子供を産むのかというのです。 アラスカは寒いのです。夏に行っても水温が低いので、落ちれば死にます。血が固まって死ぬのです。ですから、そこにどんなエビがいますか。食べるものがないので、仕方なく自分が死んで、自分の体を子供に食べさせ、冬を越え、数か月過ごさせ、海に行かせるのです。愛を求めて、五千マイルを還故郷するというのです。 堕落した人間が、それを知らないということを考える時、レバレンド・ムーンがそれを考える時、これは統一教会の文教主より立派な動物だと思うのです。魚の中で、そのような魚がいます。 また、そのような鶴がいます。また、雁は後孫のために、いい子供を産むために、渡り鳥になって飛んでくるのです。ツバメもそうではないですか。南方はいつも夏なので、そこに行けば、どこに何があるということを、みな知っているにもかかわらず、春の季節の寒い時に来て、餌も探さないと食べられない環境を、なぜ訪ねてくるのかというのです。 ですから、子供のために大陸を渡り、大洋を渡るのを見る時、私たちが真なる愛の相対を得て、後代万民の前に誇りうる血族を残すために、南極、北極を入れ替えて、そのすべての気候に打ち勝つことのできる、相対的関係を中心として、その血が勝って余り得る子供を生めば、寒い地方にも行って暮らすことができ、暑い地方に行っても暮らすことができるというのです。 先生もそのような面で、北極に行っても生き残り、南方の暑い所に行ってもよく耐えるのです。刑務所生活をしながら、すべて準備したのです。 息子・娘、よい後孫を残しておきたいですか、悪い後孫を残しておきたいですか。そうするためには、よいことだけを願わず、監獄に入って、拷問に遭って血を吐き、泣いたりわめいたりしなさい。血肉と骨にまで及ぶのです。そうなれば、そのような血統をもった、息子・娘を生むことができるのです。 先生はそのような気がします。私たちの息子・娘を見ると、全員が私よりも背が高いのです。息子は、全員、私よりもこれくらい大きいのです。お母様は、胸くらいにしかなりません。息子を見ると、がけの下から白頭山を見るように見えるのです。それを見ながら、お母様はニコッと笑うのです。おや、本当に笑っています。(笑いと拍手) ですから、統一教会は、南方でも酷暑の地に行っても倒れません。北極の氷河でも倒れません。熱帯地方でも倒れないのです。そうなり得る男性と女性を残してこそ、世界のどこに行っても、体力的にも、精神的にも、主人になり得る資格があると見るので、統一教会の人々は、北極にいる人と熱帯地方にいる人を、反対の世界に往来させながら働かせるのです。 今度、二世を祝福する時、私は驚きました。そのお母さん、お父さんより劣っていますか、優れていますか。(「優れています。」)本当ですか。話は聞いたでしょう。(「はい。」) 本当に優れているのです。私は気分がよかったのです。私は悪口をたくさん言われながら、結んできましたが、その子供たちがいいので、統一教会の未来には、希望が芽生え、絶望は消え去るというのです。アーメン! (「アーメン! ) 深刻であった三十六万双の祝福 三十六万双の祝福のために、血と汗を流し、八月二十五日が来るのが、どれほど恐ろしかったか知れません。私がワシントン(大会)に対した、それ以上の心情でした。天の前に宣言した威信と体面が、ここで壊れていくか、跳躍するかという話です。深刻でした。 あなたたちは眠り、ありとあらゆるふるまいをしましたが、先生は眠ることができませんでした。神様が保護してくださり、先生を愛してくださったので、なされたのです。寂しく悲惨に生きた、文なにがしに同情する神様がいるので、超過達成をしたのです。 三万双から三十六万双は、十二倍の数です。今、三十六万双から三百六十万双の十倍は、みなできるのです。鐘が鳴る音が、地の果てまで聞こえます。 この世は今、エイズやフリーセックスによって、毒蛇の口に手を入れるような、危険な時代です。美男子を求める女性は、すべてエイズにかかり、美女を求める男性も、すべてかかるようになっているのです。これは、生きて地獄に直行するのです。これを防御する道はありません。純潔を守らなければならないのです。これを理論的には考えるのですが、実際にそれを成就しようということは夢にも考えません。 永遠なる世界、永遠なる天国があることを知り、その天国が本郷の地であり、それが主体であり、私が対象者の立場にいるということをはっきり知り、この対象的価値の実体として完成するのです。そうする時、永遠の神様と天国が、私のものになるというのです。 これは私の仕事なのです。私の責任を果たすのです。神様の仕事ではありません。神様も、文総裁も、全部あなたたちが自分の責任を果たせるように、協助をするのです。自分の責任のために苦労した、ということを知るのです。 そのご父母様の前に、神様の前に、千年万年、事情を抱き、耐えに耐えて解放の一日を待ちこがれた、そのことが成就された旗を掲げて進む群れを、神様が妨げる道理はありません。「前進! 前進! という所は、万事を保護してくださるのです。(拍手) ですから、祝福を受けた人は、氏族的メシヤとして、父母の名で派遣するのです。イエスは氏族的メシヤではありません。国家的メシヤの称号をもち、宿命的な父母の責任を果たせなかったのです。父母の責任を果たせなければ、死んででもなさなければなりません。死んだイエスは天国に行くことができませんでした。楽園に行って待ったのです。 天国は、相対理想である家庭を率いて行かなければならないのです。それが本然的な創造理想です。家庭を失ったでしょう。これを理論的に否定できません。それで、すべての宗教の指導者たちが、文総裁の御言の前では、みな決意を表すのです。 さあ、皆さん、各自決意をしなさい。数千万年の神様の恨み、真の父母の恨みを解くために、血肉をえぐった怨讐をおいて、復讐しようと、祈祷した人がどれほど多いでしょうか。私は、復讐に対する祈祷をすることはできません。救ってあげなければならないというのです。 私が真の父母になろうといって、このようなことをしたのではありません。全部、皆さんが、霊界から「真の父母だ」と教えられて、「真の父母だ」と言うのではないですか。私が教えてあげましたか、霊界から教えられましたか。(「霊界から教えられました。」)それは間違いないのです。 霊界から「統一教会を利用しろ」と教えられましたか、「死ぬほど忠誠を尽くせ」と教えられましたか。(「死ぬほど忠誠を尽くせと言います。」)生き残ったことが怨讐です。死ぬほど忠誠を尽くそうと、決心した人たちなので、死ぬふりだけでもできるように、私が追い立てなければなりません。それが、正常な教主としてなすべき義務なのです。異議がありますか、ありませんか。(「ありません。」) 愛、生命、血統、良心は結婚によって連結される 私は今とても忙しいのです。あさっては米国へ入り、五日からニューヨークなど十六州の講演ツアーが始まります。お母様は日本へ行き、私は米国へ行き、先生の息子・娘たちは、昔韓国でやったように、お母様、お父様の代わりに、米国の各州へ行って活動します。こうすることで、家庭的運動として展開させていきます。お父様の御旨を子供たちが助けて、国を生かす運動をするというのです。この統一教会の伝統は、ほめられなければなりません。 すでに、南米は終わり、今度の米国が終わると、次はアジアです。アジアでも、十六か国の講演ツアーを計画しています。 これは、韓国の宣教師たちが全部配置されていて、百六十国家を中心として先生の代わりに、先生の御言の内容を放送などを通して、すべて伝えてあげなければなりません。このようにして、真の父母は、特定の国の父母ではなく、すべての国の父母にならなければいけないので、その国に足を踏み入れ、最後の御言を通告してあげなければならないのです。 今度の講演の内容は、人間の根本問題についてです。これまで現れた聖賢たちは、外的なことを治める方法は教えましたが、自分自身を治める方法は知りませんでした。 心と体が一つになるべきであるという内容は、真の父母しか言えません。真の愛を中心として、すべてを解明してから言う内容なので、これを聞いた人たちは、みんな深刻になり、開いた口がふさがりません。これを全世界に発表しなければならないのです。 ですから、私が行く前に、このことを世界の百六十国家に、先生の声、主体の声を相対的基準にして連結します。そして、地上と天上世界にハイウェイをつくれば、すべてが通じるのです。 次回、三百六十万双以上の祝福が行われれば、統一教会で結婚式をする必要がなくなります。宗教がなくなるのです。私の今の説教は、堕落によって宗教が生まれたので、その宗教がなくなるという内容です。宗教がなくなったら、何をすればいいのでしょうか。創造理想である、神と共に生きることのできる国をつくればいいのです。堕落によって宗教が出現しました。真の父母が来て、宗教の願いをすべて成就してあげなければならないのです。 宗教の目的は、心身統一、夫婦統一、子女統一です。エデンの園で、サタンに引っ張られていったので、百八十度違う方向からやらなければなりません。ゆえに、今日の悪魔の収穫時期、悪魔の秋の季節を迎えて、終末になったこの地上から天国へ行くためには、これと正反対の道を行かなければならないのです。 フリーセックス反対、ホモ反対、レズビアン反対、退廃思想反対、麻薬反対、酒・たばこ反対、このようにしてすべて百八十度反対に行けば、サタンの地獄への方向が、天国への方向に変わるのです。 このように、方向を完全に世界的に変える役割は統一教会にありますが、何を通してかというと、その内容が祝福なのです。祝福によって全世界が絡み 百八十度変わるということは、完成級を中心として見るとき、蘇生、長成、完成を中心にして原理結果主管圏内、直接主管圏内になりますが、これが一つになることです。サタンは原理主管圏内で、長成級国家基準の世界化権をもっているのです。 世界は支配できません。ゆえに、神様は一つの国家を中心として、全世界のサタン国家を吸収することが分かっていたので、宗教圏を中心として、その国を立てようとしたのです。それが選民圏のユダヤ教なのです。それで、イエス様が来て、国家基準のサタン圏のローマ国に勝ち、万民の王の位置から、いよいよ世界舞台へ出ようとした時、十字架で亡くなったというのです。だから、再び来るのです。 再び来るのは、新婦を探すためです。新婦に会うための歴史ですが、エデンの園でアダム家庭において、完成した夫になるべきアダムを追い出して、天使長の体を受け入れて、アダムはサタンの体になってしまったので、天国には男の体がなくなったのです。これを神様が再び準備されて、この地上に送ったのがメシヤです。救世主です。 ですから、すべての宗教思想には再臨思想があるのです。キリスト教ではイエスの再臨を、仏教では弥勒、儒教は新孔子、回教は新マホメットが来るといいます。 すべて再臨思想がありますが、これは、それぞれの宗教の父が来る、ということを意味しているのです。宗教の息子の中から父が出現するのですが、その父は人類の最初の父なのです。 真の父母は一人です。二人ではありません。ゆえに、真の父母は、個人にも、家庭にも、国にも、世界にも、天宙にも、神様にも、絶対的に必要なのです。真の父母の目的が成就されることによって、真の父母の愛の基台が地上で成就されることによって、天上世界の神様の天国基準に相対できる地上天国がつくられ、初めて愛を中心として、神様とアダム・エバが一つになるのです。それで、天国と地上が統一されるのです。天国はこの地上の心で、地上の体はアダムの体のようになります。皆さんの心と体が一つになるのと同じです。 創造主は、心的な天国を代表した王で、アダム・エバは長子です。アダム・エバは、地上の王になり、天上の王と地上の王が、縦的に一つになります。それで、神様が良心の基準に立ち、私たちは体のような立場から、心身統一が愛によって行われるのです。ゆえに、神様はアダムの父であると同時に、人類の父なのです。 では、アダム・エバの結婚式は、どういう結婚式ですか。愛の主人も神様であり、愛の根も神様であり、生命の根も神様であり、血統の根も神様であり、良心の根も神様なのです。 では、このような愛、生命、血統、良心が何によって伝授されるかといえば、夫婦となることによって伝授されるのです。 結婚によって連結されるので、アダム・エバを中心として見るとき、アダムが成熟すると、神様の二性性相の霊的な面での性相は、アダムの心に入り、形状はエバの心に入るのです。正分合なのです。正から分かれ始めたのが何ですか。神様の創造の動機は、愛のためなのです。ゆえに、神様による創造物は、いかなるものでも相対的二性を持っているのです。 鉱物世界も、電気ならばプラス・マイナスなど、それなりの愛を中心として、永遠に軸を中心として回っています。すべての元素は必ず、相手を中心として動くようになっているのです。 では、アダムの場合は誰でしょうか。実体の神様です。ゆえに、アダムには分からないことがないので、聖書にもアダムが名付けるとおりになされると記されています。すなわち、神様はすべてをご存じだというのです。 堕落せずに、神様の絶対的な愛を中心として一つになったならば、愛の種が実ったことでしょう。成熟して自然に実を結び、黄金色になって実が落ちると、主人はこれを収めて倉庫に入れるのですが、アダムはそのような主人の立場の神様になれませんでした。未成熟の立場で、堕落したのです。 堕落する時に、サタンと愛の関係を結んだ力、それが問題なのです。なぜ、人間の体と心が二つに分かれ、今まで歴史を通して戦ってきているのに、神様は干渉できなかったのでしょうか。血統が違うからです。天使長の血統に、神様の血統はつなげられません。切って根本的に解決しなければなりませんが、偽りの父母が出たので、神様も自由にできません。真の父母が現れる前は、根本的な解決がないのです。 この地上には偽りのオリーブの木だけで、真のオリーブの木は一つもありません。人間世界が偽りの愛によって堕落し、人類先祖が偽りのオリーブの木になってしまい、真のオリーブの木の種は、この地上にまいたこともありません。それで、この偽りのオリーブの木を切ってしまい、真のオリーブの木にするためには、接ぎ木する真のオリーブの木が必要なので、神様はメシヤを送ったのです。このために旧約時代は、祭物を中心とした犠牲の時代だったのです。 神様に最も近いものが、逆に落ちました。一番下に落ちたものの次が息子で、万物は一番上です。この万物を犠牲にして、間違った血を蕩減しなければなりません。人類の先祖、主体になる者が血を汚したので、相手になる万物は血を流さないと、神様の前へ帰ることができません。ユダヤ教で、男性の性器の一部を切る割礼を八日目に行うのも、このためです。性器からサタンの血を引き入れたので、これを切って蕩減しなければなりません。また、ユダヤ人は、腰の骨を間違えて使ったといい、手を腰の骨に当てて誓いをするのです。 堕落した悪魔とは何でしょうか。淫乱の神です。このようにまいたので、このまかれた種が、終末に実として現れました。これが青少年の淪落問題であり、家庭破綻です。 このような宗教の観念的理論が、現実社会に、あらゆる問題として現れています。ですから、これは観念ではありません。事実なのです。 氏族的メシヤの使命 今日、統一教会の三十六万双の結婚が、観念ですか、事実ですか。(「事実です。」)宗教理論が全部正しいので、学者などみんなが先生について来るのです。共産主義は七十三年を越えられないということも、五十年前から話してきました。この文総裁の言うとおりになります。 個人を、家庭を、子女を指導し、三代を指導することができる能力をもたなければなりません。この基準から免れることのできる人間はいません。これは公式です。この公式に乗らなければ、天国へ帰る正道はありません。理論的に歯が立ちません。 堕落とは何ですか。三代をなせなかったことです。正から分かれて、合になれませんでした。神様も正分合、アダム・エバも大きくなって会うわけですが、どこで会いますか。中央で会うのです。神様も降りて来て、息子・娘を引き上げて連結させます。実体的、霊的父母が一つになり入るのです。 ですから、二重の父母の血と肉を相続し生まれなければならない人間であるがゆえに、人間の良心は神様のために縦的な高い理想を求め、体は横的な世界を制覇しようとするのです。 アダムは横的世界を管理します。縦横の九十度を中心として、同じ長さの円形を描かなければなりません。それで、月も星も丸く、細胞も丸く、女性の顔も丸い方が美人です。顔は美人でも平たい皿美人が多いですが、顔と後頭部の丸い方が美人です。 先生がマッチングをする時は、皿美人とカボチャのような丸い醜男と結びます。美人が、醜男を自分以上に愛したら、本当に素晴らしい子供が生まれます。 このような子供が生まれるだろうと思い、マッチングをしてあげて、後で呼んでみると、思ったとおりです。ですから、先生を通した男性と女性が一つになって、種を残すべきですか、自分勝手に種を残すべきですか。(「お父様を通してです。」)今はこれが伝統になっているので、先生がマッチングしてあげると、無条件に喜ぶようになります。 先生は一代で、地上統一をしました。米国のような国が四十年間反対する中で、地獄から出発して、すべて乗り越えてきたので、今は南米へ行くと、大統領と長官たちが訪ねて来ます。 十六日間巡回しながら、八か国の大統領に会いました。そうしたら「またいらしてください。文先生に会えなかったのが間違いでした」と言っていました。約束もしないで行って、先生が組んだスケジュールに合わせるのです。このようなことを、韓国の大統領ができますか。文総裁は、国も何もありません。体だけが行って、そんなことをやりました。 祝福を受けた女性の中で、三十代は来るように命令したら来ますか、来ませんか。自分の行く道を知らないまま、飛行機に乗るのではありません。私たちは船に乗って、汽車に乗って、南方であれ、どこであれ行って、恨の道を蕩減し、天国を建設して、恨の道を越えて、恨の道を連結することができる橋をつくらなければなりません。 そうしないと、神様の恨を解く道がありません。このような訓練を女性たちにさせています。この女性たちは、これからある国の大統領夫人になるでしょう。 先生が何をやっているかは、米国CIAも知りません。非常に複雑です。五十年間準備して世界に広げておいたものを、今一つにして、間違いない結論を出そうとしているので、みんな口を開けて驚いているのです。 神様はメシヤ一人を送るために、創世以降から今まで、ご苦労されてきましたが、先生がこの地上に来て、国家的メシヤ権を、サタン数を奪い返したので、氏族的、家庭的メシヤを自由自在に編成でき、反対のない歓迎する環境から、百六十家庭が寄り集まる時になったというのです。 統一教会は、三代の男性を祭物にするということを知らなければなりません。自分の夫と長男と二男です。犠牲にする祭物を守ることができなければ、女性は恨みを晴らすことができません。これを先生が解いてあげなければなりません。 旧約時代は、祭物の血を流すことによって、息子が父の前へ帰る、万物祭物時代なのです。万物を犠牲にしたのは、息子の道を開いてあげるためです。新約時代は息子を犠牲にして、この息子の行く道を開くのです。再臨主は父母として来ますが、その父母である私が犠牲になるのは、神様を地上に迎えるためです。地上で神様を追放したので、地上で神様に侍るようにするのです。 先生が祈ると、どんなことでも行うことができます。真の父母の責任は、病人を治すことではありません。神様の御言をもって、復活能力で人間を再創造することです。 家庭破綻の魁首だと、うわさされても仕方ありません。本然の理想的な夫が、創世以降に初めて女性の前に現れたので、女性たちは先生が恋しくて眠れません。 眠れず、門を開けておいて、十二時から四時までの通行禁止が終わるまで、座って待っているのです。愛の相対圏に夢中になれば、すべてが見えます。先生の行動を全部見ているのです。それをどのように否定しますか。 自分の夫の帰宅時間や、夫が浮気をするということまで先生から聞いて、夫に非難を浴びせたりしました。それで、家庭問題が起こり、二十年間聖別したのです。殴られたり、いろんな惨めなことをされながら貞操を守ったのですが、祝福を受けずに、霊界へ行った統一教会の信者もいます。 フリーセックスのアメリカ人も、七年間同じベッドで寝ながらも、関係をしないで越えなければなりません。 妹のように、兄のように、姉のように愛さないと、理想的夫婦にはなれないのです。先生が教えてあげたすべてが、うそではなく、本当のこととして現れるのに、神様がいないと言えますか。統一教会の人たちは、みんなこのような経験をしているのです。 今回、日本の女性たちを見たら、百パーセント霊的な指導を受けています。韓国は六十パーセントしか受けていません。信仰では日本に負けています。 生きた宗教は、体験した者が現実の全条件を凌駕できる実践基盤をもつ人にならない限り、天国へ一人で入ることはできません。このような峠を越えた人たちが祝福を受けるので、祝福してほっておいても、イガ栗の例えのように、完全に実った栗は、何年先の春に植えても、必ず芽が出て、栗の木になるのと同じことです。ですから、統一教会人は、みんなどこへ行っても、統一教会の代わりの教会をつくることができなければならないというのです。 このような使命を中心として、氏族的メシヤの責任を与えました。今から五十年前に英・米・仏が先生を受け入れていたら、全世界の八億くらいの人が、すべて氏族的メシヤになったのです。こうなれば、サタンは一歩も侵入できません。サタンは、長成期完成級なのです。再臨主が来て、完成期完成級で結婚したので、直接主管圏で結婚したので、サタン世界は足を入れられません。譲って、だんだんと立ち去るようになるのです。そのようにできるはずのキリスト教が反対したので、すべてが崩れてしまいました。 死んでも私の責任、生きても私の責任 きょうの御言のように、すべてはほかならぬ、「私の責任」なのです。神様と真の父母が苦労するのは、私を解放させるためなのです。アダムとエバ、男性と女性を解放し、家庭を解放するためです。他人の家庭ではありません。きょう、先生が強調したのは、「私の責任」についてです。 世の中の複雑な問題は、すべてが、男性と女性、この二人の問題です。家庭の中の二人の問題が、社会問題、国家問題、世界問題へと広がるのです。家庭さえ万全にしておけば、すべての問題は終わります。間違いない男性と間違いない女性、先生がいうところの天理法度に公認される男性と女性、そのような家庭になれば、世の中すべてが変わっていくのです。統一教会は、エイズとは関係ありません。一夫一妻の絶対主義です。 男性も女性も浮気したい人は、手を挙げて見なさい。いませんか。(笑い)浮気したらエイズにかかります。必ずかかります。神様がそうさせます。統一教会の信者でありながら浮気したら、エイズにかかるということです。 見てみなさい。統一教会ではお互いに戦っていた人たちが、姻戚になっています。一つになりなさいということです。不思議な神様です。神様は、急速な処理方法を取ります。それで、あっと言う間に、怨讐を友人にさせます。息子・娘が結婚したのに、怨讐のままでいられますか。息子・娘が結婚して一つになったのを祝ってあげて、親たちも一つにならざるを得ないのです。 指示事項は三ページもありますが、それは話さずに、これだけは強調します。私の責任だということです。分かりましたか。(「はい。」)死んでも私の責任、生きても私の責任です。食事の時も、寝る時も、歩く時も、私の責任だということを忘れてはいけません。 神様の恨を私が責任をもって、自分の国の風土では完全に解消すると言わなければなりません。それで、夜も昼も物議を醸さなければなりません。相対を失った雁は悲しく鳴きます。動物でも、愛する相対を失うと鳴くのですから、神様においては、どれほど悲しまれたかということを考えなければなりません。 先生が子供の時は、山越えの川がある所は、全部行ってみました。そこに貯水池があると、そこにいる魚も全部釣ってみました。鳥も虫も捕まえて、ザリガニはもちろん、何がどこにいるか、全部知っていました。全部調べたので、魚釣りは、どこへ行けばよく釣れるか知っていました。今、南米でも、そのような調査をしています。先生が行く所で、底が見えないものがありません。 人間の特権は愛の特権 これからは結婚していない人を伝道しなさい。 私が次回に祝福してあげるのは、純粋な未婚の男女です。親が酒を飲んで浮気した人は、だめです。選んで祝福してあげます。これが、先生がしなければならないことです。誰でも、結婚させる時代は終わりました。世界時代へと入るので、純潔を守ってきた男女でなければなりません。そして、二十四歳以上はだめです。十七歳から七年です。二十四歳までです。それは女性として、花が咲く時代です。二十四歳になると、咲いた花がしぼみ始めます。二十四歳を越えた人は先生は知りません。 そして、純潔な人が祝福されるので、農村の息子・娘でなければなりません。今は、みんな農村を離れました。これから、農村へ帰って行く時が来ます。農村へ帰って純潔を守り、各家の代表的女性として結婚する時が来るのです。エデンの園で、アダムが子女を生んだら、アダムは田舎で結婚させたでしょうか、都市で結婚させたでしょうか。(「田舎です。」)牧場です。 学者たちが、人間の欲望どおり、すべてがなされたらどうなるかを研究した結論があります。それは、科学化された文化発展の世界でもなく、高層ビルが並んだニューヨークのような都市でもありません。みんな、にぎやかで所要性の多い、公害が発生する都市は嫌がります。 みんな、原始人に戻っていくべきだというのです。つまり、神様からつくられたままの、純潔な子女の位置へ戻っていくのです。分かりましたか。草木や魚、昆虫、動物までが、汚れていないものだけが育ちます。雑物ではありません。だから、人類の希望どおりになされたら、みんなが原始時代に戻って、裸で暮らさなければならないのです。 私たちも、裸で暮らしたらどうですか。恥ずかしいですか。これから破壊されたオゾン層が、だんだん広がると、みんな裸で生きなければなりません。皆さんの裸も、先生の裸も、比べてみるとたいして変わりません。恥ずかしいことはありません。恥ずかしいと思うのは、堕落した子孫だからです。 これからは、三代が一つの部屋で愛する時代、三代が一つの部屋で花が咲く時代が来るのです。先生の言うことが分かりますか。三代の夫婦が、一つの部屋で愛しながら、おじいさんとお父さんの愛し方を、自分の息子・娘に教えてあげる時が来るのです。そうなれば、その家は一つになるでしょうか、ならないでしょうか。(「一つになります。」)私はこのように考えているのです。どうして恥ずかしいですか。 夫婦が愛する時は、声が出るのを防ごうと苦労しますが、これは違います。爆発的な声を出していいのです。何が恥ずかしいですか。世の中では、ハトもポッポッポ、猫もニャアニャア、天井のネズミもチューチューといいます。それは愛を喜ぶ音です。 愛が悪いと言う人は、手を挙げてみなさい。万物の霊長である人間の特権は何ですか。愛の特権です。動物は一年に一回、繁殖のために愛しますが、人間は季節を超越しています。これが特権です。これに命を懸けて、これに専門的な理想を描いて、花を咲かせるべき場が家庭なのです。 ですから、おじいさんは、自分の孫の妻の布団を敷いてあげながら喜んでこそ、本当のおじいさんになります。(笑い、拍手)そうしながら、昔、自分が愛していた時代を思い出すのです。そうすると、夢におばあさんが出てきてくれて、会うことができます。そのような時代が来ます。 統一教会の人は、霊界へ行った夫と生きている人がたくさんいます。変わった所です。夫と離れては生きられません。それで、霊界から来て一緒に住むのです。 アフリカで殉教した人がいて、先生が表彰してあげましたが、表彰の前は訪ねて来なかったのが、表彰されたその夜から訪ねてきて、一緒に愛し合ったというのです。ですから、安慰祝福は必要ありません。だから、統一教会が良い所ですか、悪い所ですか。(「良い所です。」) 夫の髪を切ってあげる妻、口ひげや爪を切ってあげる妻、そして、膝で昼寝ができる妻が烈女なのです。夫の膝で昼寝をする時、その夫が自分の爪を切ってくれます。これは蕩減復帰です。髪も洗ってあげなければなりません。先生は習ってないのでできませんが、今習おうとしています。 これが、どんなに素晴らしいですか。先生は、すべてお母様がやってくれます。こうするのが、三十年近くなりました。(拍手)どうしてかというと、先生は有名なので、一番怖い所が床屋なのです。共産党が世界中どこにでもいるので、命を守るためには不可避的なことなのです。 それで、「あなたはこうしなければいけません」と言い、専門的に研究しました。どうですか。切り方は上手ですね。(「はい。」)(拍手)統一教会は、お母様のようにしなさいと言うことです。 嫁がそうすると、おじいさん、おばあさん、舅、姑も切るようになり、三代をしてあげるようになれば、その家庭は嫁のことを喜びますか、喜びませんか。(「喜びます。」)みんな仲良くなります。 今回、祝福を受けた人は、手を挙げてみなさい。みんな、その町の名門家庭の息子・娘よりも、尊敬される夫婦になりますように。アーメン7 家庭を本格的に再検討する時代 きょう話したように、すべてが自分の責任です。それ以上言うことがありません。 自分のために世界がこうなったので、これを自分が責任をとって、自分の町と自分の国を、ここに協助させることが自分の行く道です。こうしないと、国、都市、町を連れて行くことができないのです。これが天理原則です。ですから、決意をして、自分の責任完遂を天の前に誓って、前進しようというのです。 霊界は、直観的に要求するすべてが、可能な世界なのです。自分が愛する人のために、このようなことをしようと思えば、それができる世界なのです。自分が手を振ったら、彼らが現れます。一千万人の晩餐会ができる場所が、すぐにつくられる世界です。 神様が、そのような世界をつくっておいて、私たちを連れて行こうとするのですが、どんな世界へ行って住むのですか。狭い所へ行って住みますか、解放圏で住みますか。解放圏で住むためには、愛する基台をたくさんもたなければなりません。愛する家庭をたくさん連れて入るのは、善なる先祖です。 今、天国には先祖がいません。全部空いています。真の愛を中心として一体になった夫婦が入っていないからです。イエスも結婚ができなかったので、楽園にいます。本当かどうか、行ってみなさい。 家庭に問題がある人たちは全員、南米に行かなければなりません。息子・娘が祝福を受けられず、横道に行かせた人たちは、この地では住めません。南米へ行ってこなければなりません。これが神様の御旨です。再整備の時代が来ました。三次までです。三次は保留です。三次は、決定的な選択が必要です。だから、絶対的な節操を中心としなければなりません。 問題があって引っかかった人たちは、みんな南米へ行ってこなければなりません。国に引っかかったので、世界で勝利の釘を打ち込まないと、帰って来る道がありません。それで、今回、四大陸を中心として配置した人たちは、その家庭から解放できるように、息子・娘のことは、先生がすべて解決してあげました。代表です。 それはどういうことかといえば、天国へ入ることのできる基本的家庭型をつくり、それを見本として、その伝統に合う人は、還故郷する時が来るというのです。ここで還故郷できる内容を備えず引っかかる人は保留です。家庭的カイン時代から免れないと、天国へ入れません。いくら祝福を受けても、天国へ入れません。絶対に堕落してはいけません。 先生が整地作業をしています。先生がそのように命令しました。そして、賢くて精誠のある人は、国境を越えて世界へと広げます。何の意味か分かりますか。 霊界と直結されて、プラス・マイナスが水平になる基盤の上に立たなければなりません。霊界を無視してはいけません。これは原則なので、いくら偉い人でも、この原則に合わせて地上の生活をし、一体理想の均衡を取って回るのですが、九十度を中心として引っかからないで水平に回るのです。その次は、三百六十度を回るのですが、ここでも引っかかってはいけません。回るのですが、回らないように見える歴史を送った人たちが入るのです。 家庭を本格的に再検討する時代が来ます。今や教会がなくなります。神様と共に生きることのできる本然の時代です。 絶対信仰、絶対愛、絶対服従 アダム・エバは何を失いましたか。絶対信仰と、絶対愛と、絶対服従を失いました。神様が創造される時は、絶対信仰のために創造されたのです。 今回、サンパウロ宣言や新しい希望農場で、先生が宣布したのは、絶対的信仰をアダム家庭で失ってしまったので、その農場からアダム村という理想をもちなさい、ということでした。 絶対愛です。神様から創造されたものは、絶対愛を中心として一つになるようにできています。このような決意の上で、すべて、愛の相対をつくったのです。そして、絶対服従しなければなりません。言い争いをしてはだめです。真の愛の道理を守ろうとするならば、妻と夫はお互いの正しい話に、絶対服従しなければなりません。 愛は一体理想をもつようになれば、善し悪しの概念がありません。一つの概念に収拾されなければなりません。ですから、それをご存じの神様も、相対的理想のアダム・エバの家庭を中心として、絶対服従する基台の上で、家庭を創造したのです。 ゆえに、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基盤の上で、愛を中心として連なっている動物世界であり、植物世界なのです。すべてがこのようになっているので、男性も女性も絶対別れられません。動物世界も愛した後には、命を捨てることがあっても、お互いを守ります。雀も巣をつくり始めると絶対的です。その巣に蛇が入ってこようとすれば、互いに殺そうと攻撃します。 これはなぜかというと、神様がつくる時は、絶対的信仰の上でつくったというのです。絶対的信仰でつくったので、どこへいっても不信がありません。神様の絶対愛の圏内にいる存在物は、世界中どこへ行っても、遮る存在がいません。自由です。毒蛇だとしても、遮ってはいけません。自分の愛の相対を探しに行く時は、道を開けてあげなければなりません。むやみに殺してはいけません。 だから、天国へ入るためには、家庭的基準において、絶対信仰の上に立った家庭、絶対愛の上に立った家庭、正しい話には絶対服従できる夫婦圏がなされなければなりません。 それで、失ってしまった神様の願いの基準と、絶対信仰の上に立てるアダム・エバ、絶対愛の上に立てるアダム・エバ、絶対服従で一つになれる、愛の基盤の上に立てる、アダム家庭を取り戻さなければならないのです。神様の御旨の前に、絶対服従しなければなりません。 先生がサンパウロ宣言で言った、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を先生の言葉だと思ったら、大きな誤解です。このことに、天国へ入れるか、入れないかという問題がかかっているのです。このとおりにした人は、天国へ入り、できなかった人は、天国の門前で待つことになります。その分水嶺を越えることのできる、関門になっているというのです。いいかげんにすると、みんな引っかかります。祝福を受けたとしても、引っかかるのです。 子女が讒訴します。アダム・エバが堕落した後、その子孫が讒訴したように、家庭理想を完成した祝福だとしても、親が先生の御言を実践しなかったことを、子供が非難するのです。問題になります。だから、他人の親になるのも、夫になるのも、妻になるのも、子女になるのも、兄弟になるのも大変なのです。完成する前は他人なのです。 それで、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基盤の上に立った、兄弟の友愛、家庭的友愛を備えることのできる家庭を願ったので、戒めを与えたのです。絶対的愛の関係を結びなさいということです。皆さんも同じです。アダム家庭が失ったものを満たさなければなりません。そうしてこそ越えられるのです。行ってみなさい。先生が話した、アダム家庭に神様が戒めとしてくださった、絶対愛を中心として、このような三大原則に一致しなければなりません。これが規範になっているので、この規範に合格できなければ天国へ入ることはできません。 そのような家庭の伝統を立てるための訓練をしなければなりません。外へ出て自分の夫を批判したら、夫婦になれません。それは、自分の体を相対的に崩してしまうことです。神様が創造した環境は、必ず主体と対象になっています。必ず雄と雌があります。これは進化論より上に立ちます。神様は進化論を中心としたのではありません。雄・雌の概念で、愛を中心としてつくったので、これは絶対的な概念なのです。これを否定するということは、存在の世界で自分のすべてを否定することなので、立つ場がないのです。 祝福家庭が、アダムに天が要求した基準を、現世界で越えられてこそ、絶対信仰できる国、絶対愛のできる国、絶対服従できる国になるのです。こうして神様の前に行くのです。自分の意思はありません。 美しい家庭を築き、芸術的な夫婦になる 絶対的な夫婦の理想を描き、芸術的な夫婦を地上でなし、地上にない愛のパノラマを描いて、天上世界、永遠な世界へと旅に出るのが、霊界に行くということです。霊界は、無限な世界を旅することです。 霊界では、お金も、ご飯も、服も必要ありません。愛する対象に与えたければ、特権的に、すべて与えるようになっています。愛する気持ちが強くて、与えたくなると、対象が現れます。愛の心を中心とすると、最高の速度で訪ねて行けます。何億万里も、瞬く間に行けるのです。このような愛を中心とすると、何でも可能な世界なのです。 その世界に合うようになるためには、皆さんが善いことも悪いことも消化して、円満に丸くなって、無限世界へ旅するのに、相反することがないよう一つにならなければなりません。 先生が今まで、お母様と何回、喧嘩したと思いますか。(「一回もありません。」)喧嘩することがあってもしません。喧嘩になることがないはずがありません。しかし、原理原則を中心とする先生の姿勢は崩れません。このようにして先生は越えるのです。 愛の世界を、どうやって深く開拓するのかということです。統一教会は、愛の理想世界という大海を開拓しなければなりません。先生の話は、夜を明かして聞いても面白いのです。面白い夫、面白くない夫、どちらがいいですか。先生は無限に自由を与えます。 皆さん、夫の前で、妻が裸になるのが恥ずかしいですか、恥ずかしくないですか。答えてみなさい。ご飯を食べる途中でも裸になって、夫におんぶしてもらえる余裕のある女性にならなければなりません。(笑い)どうして笑いますか。体面というのは、サタン世界から受け継いだものです。愛の世界には体面がありません。愛されたいのは、唇と目を見れば分かります。その信号に気がつくべきです。 家庭を芸術化しなければなりません。面白い夫、芸術的な夫になって、よい雑誌でもあったら、格好いい声で読んであげるのです。感動する妻の姿を夢に見るのです。それが再現されます。霊界と連結されるのです。 素晴らしく生きるためには、素晴らしくなることのできる、姿勢と方向を取らなければなりません。これが第一の条件です。よい夫婦になりなさい、ということです。美しい家庭、芸術的な夫婦になることを祈ります。アーメン7(「アーメン! )(拍手) 交差結婚をとおし一つの国に 先生はあさって、米国へ行き、やることが多いのです。十六州を中心として巡回して、先生の家庭が、五十都市に分かれて活動します。これが終わると、アジアから十六か国を選びます。選ばれた国は恵みです。 今回、巡回しながら少なくとも、一つの国家で三分の二が祝福を受けると決意する所は、先生が、十六か国巡回に加担させようと思います。今回の大会には、このような意義があります。米国の十六都市が終わると、アジアの十六か国を訪問します。 皆さんが間違えば、先生の子女が引っかかります。カイン・アベルが一つになれなくて、イエス様が亡くなったのと同じく、家庭的カイン・アベルが一つにならないと、先生の家庭に問題が生じるのです。興進が霊界に行ったのもそのためです。 サタンがすべて問題なのです。長成期完成級の家庭的一体圏を、世界的、平面的につくっておくことによって、先生と完成的家庭基盤を中心として一つになれば、長成圏家庭基準のサタンは、そこに侵入できないのです。世界的に、お母さん・お父さんを中心として連結して、これに線を引いておきます。今から国家的基準を中心として、地上天国の開門が始まるのです。家庭を中心としてです。 南米は希望です。北米は、米国を中心としたヨーロッパがアベルです。今の南米は、清教徒たちに国を許したのと同じように、主人がいません。 この狭い土地で、住む必要はありません。これから、世界が一つになります。国境がなくなります。大国を中心として、南北米を中心として、これは必然的なことです。ブラジルとアルゼンチンの二か国で南米の三分の二になります。このような大平原地帯が、主人を待っています。 模範的理想をもって、見本になれる人は、みんな連れていって、移植するつもりです。決定的です。未開発地を開墾するのに関心がありますか。スペイン語と英語を勉強しなさい。米国とスペイン圏を結んでおきました。彼らの言葉は、三分の二は似ています。だから、六か月でマスターできます。 それで、米国人は南米に行って訓練して、南米の人は米国へ行って活動すれば、言葉は覚えられます。こうして、交差結婚すると一つの国になります。ここはキリスト教文化圏だから、兄弟と同じです。日本と韓国は、怨讐の国でも交差結婚しているのですから、天主教と新教は問題ありません。交差結婚したら、一つの国になります。 三百六十万双を結婚させたら、大変な人数になります。全部、交差結婚させたら、完全に一つになります。世界が一つになります。神様の家庭的戦略として、蕩減復帰解怨成就、世界的版図を願うのが、神様の御旨なのですが、これは結婚という方法しかないので、先生は悪口を言われながらも、ここまで引っ張って来たのです。 先生が、どれだけたくさんの悪口を言われたり、叩かれたか知っていますか。御旨がなければ、このようなことはしません。神様の願いどおりにやってきたら、世の中は先生をさまざまな方法で滅ぼそうとしましたが、今や世の中は全部なくなり、先生だけが残ったのです。これを、自分だけが残ったと、エリヤのように嘆くのではありません。勝利の将軍になって、万国に向かって命令しています。 このような、驚くべき時代が来たので、皆さんもこの時代に合う夫婦になり、先進的な立場に立って、旗手の役目を果たしてくれることを先生は願っています。そのように生きてみますか。(「はい! ) 自分勝手に生きますか、御旨どおりに生きますか。(「御旨どおりに生きます! ) ただ祝福を受けると喜んでいた、初めて来た人たちも、御旨というものが分かりましたか。パラグアイで六組を結婚させたのですが、彼らの目が変わりました。「おー、こんなに凄いことなのか! と。通りがかりの酒場で目が合って、愛するものとは違います。永遠不変な歴史の宣言をして出会うのが祝福であることを知り、考えが変わり、顔も姿勢までも変わりました。皆さんも顔が変わりましたか。 家庭全体が神様の理想を中心としていく 愛のゆえに、妻から、絶対服従したという認定を受けなければなりません。妻が要求することは、全部やってあげなさい。分かりましたか。(「はい。」)夫婦は、目で愛し、口で愛し、耳で愛し、肩で愛してみなさい。神様は、夫婦が何をしても、ただ見物人になって「あー、あんなによいのか! と関心をもちます。 女性たちは、そのようにしなさいというのです。「きょうは、愛の巣でどのような愛の歴史が行われるか……」と考えなさい。すべてが歴史です。自分の一生で、これから残される天上世界へ行って暮らすための準備の基盤なのです。 霊界へ行ったら、男性と女性は一つです。アダム・エバが堕落しなかったならば、神様の中にいたものが実体として出てきて、また帰り、神様に似るようになり、神様と友達になるのです。お父さん・お母さんも老いたら友達になりますね。親が百歳になって、息子・娘が八十歳になると、友達になります。神様へと帰っていくのです。 霊界へ行ったら、どのくらい愛したか、すべて分かるのです。ちらっと見ただけで、自分より愛した基準が高いかどうかが分かります。自分のほうが高いと、相手が挨拶をします。だから、高い位置で歓迎されるためには、多くの人たちのために涙を流し、為に生きた人でなければなりません。自分のために生きた人は、必ず地獄に行きます。 天のために百折不屈の心情で、千年万年絶対服従した人は、必ず天国皇族圏に入ります。このような人は、皇族圏に編成してあげなければなりません。 これが主体になっているので、明誓文の五番の、真の愛を中心として、主体的天上世界と対象的地上世界の統一のために前進的発展をしなければなりません。絶対的に止めないで、いつも発展しなければなりません。東西南北へと発展しなければなりません。このような道を、先生と約束したとおりに行って、一つになるのです。 誓いの文が、ただあるのではありません。体と心が一つにならなければなりません。夫婦喧嘩をしたら、盟誓文を唱えられません。子女と一つになれなくても、唱えることができません。家庭盟誓文をもつと、天上世界へ行った、歴史始まって以来の全霊人が注視するのです。「あのようにできる、地上の人たちがうらやましい」と思うのです。 先生が複雑なことは解決したので、今は高速道路を走る時代に入りました。ゆえに、皆さんには車が必要で、運転が必要です。この車と運転が、家庭なのです。家庭を連れて運転して、高速道路を走って、天国へ行くのです。一人では行けません。お互いが責任をもって、家庭全体の命を守りながら運転して行かなければなりません。分かっていますね。その車と運転は、自分たちがつくり習うのです。家庭です。この家庭全体が、神様の理想を中心として行かなければなりません。 理想的な夫婦になることを目指して 縦的な父子関係、横的な東西関係は夫婦、前後関係は兄弟です。兄弟の始まりは子女です。この球形をなすためには、上下、左右、前後が一つにならなければなりません。これが球形になります。こうして七数です。神様は完成数の、ここに定着されます。 ボールでいうと一番真ん中、何もない真ん中です。ボールの東西四方の相対的力を支持するのは、一点を通してです。これは絶対的な所です。誰でも占領するのではありません。神様だけが占領します。一点しかありません。これを通して相手が押してくれると、その表面が完全に水平になります。したがって、ボールはいつも、九十度で立ちます。どこからでも、九十度で立ちます。どこでも、九十度で立つので平等なのです。絶対的な平等です。 皆さんもそうすべきです。皆さんも、息子を立たせても九十度、妻を立たせても九十度になる家庭をつくらなければなりません。 ですから、兄弟が争ってはいけません。世の中では、親がお金を残すと争います。未来の父母の直系子孫たちが見習うことができ、永遠に伝統として残すことのできる兄弟の義をもって守らなければなりません。それで、父母、夫婦、子女なのです。 ですから、人間の願いは、父母をもち、妻子をもつことです。子女時代は、兄弟と同じようなものです。子女は五歳前に母に抱かれて、言葉を習ったりします。そのような時です。兄弟になると分かれます。女性と男性の行く道は違います。女性は母に、男性は父になるのです。このようにして育っていくのです。 そして、どこで出会うのでしょうか。結婚して、再び出会わなければならないのです。正分合です。神様も創造で分かれましたが、これを相対にして正分合になります。神様も霊的に、霊界の上弦と下弦が一つになり、直線を中心として、良心型と肉体型に分かれました。 これが一つになるので、良心の命令を、体が受けなければならないのです。今は、そのようになっていないでしょう。堕落したので、体が良心を引っ張り回しているのです。ですから、真の愛でなければ、良心と心が一つになることができません。 サタン世界の愛の程度は、七十パーセントしかありません。これ以上になるには、サタン世界の忠臣、烈女よりも勝らなければなりません。共産党より国を愛するためには、彼ら以上のことを、私たちがしなければならないのです。それが、天国に行ける基準であることを知らなければなりません。 北韓は金日成を中心として、だまされながらも絶対信仰をもって死のうとしているのに、統一教会人は、そのようにできませんでした。 ですから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道を行かなければなりません。こうしてこそ、歴史始まって以来、人間が及ばなかった堕落圏を越えて、神様の愛と接触できる道が開かれるのです。この道が連結されれば、稲光がし、雷が落ちるように立体的に広がるのです。そのような経験が必要です。自分一人で生きることを考えてはいけません。 宇宙と共に生きる愛の圏内に入り、瞬間でもこのようなことを感じて出てくれば、すべてが解放されるのです。無限なるエネルギーの起源に連結されるのです。先生が今も、十二時間、十四時間、立っていても大丈夫なのは、疲れたらそのような世界に入り、トイレに入って十分だけいれば、疲れから解放されるのです。 先生の前に、祝福家庭が引っかかると、無惨な死に方をします。気をしっかりもち、正しい道を行かなければなりません。忠告をよく聞いて、先生の下から天国まで直行したいのならば、先生の言うとおりにすることを再度、決意して、理想的な夫婦を成就するために励むことを祈ります。アーメン。(「アーメン。」)(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.21
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「正義の旗手になろう」日付:一九九五年八月二十七日:場所:韓国、ソウル、孝昌運動場行事:第二回「世界文化体育大典」ハンマダン体育大会親愛なる内外の貴賓の皆様、そして本大会に参加するために心情の本郷である韓半島を訪ねてこられた全世界の青年、学生の皆様。最初に私はこの場で皆様の若くて純粋な情熱に惜しみない賛辞を送り、歓迎します。本大会は、「世界文化体育大典」の一環として、既存の体育行事とは性格が異なる体育大典です。なぜならば、「世界ハンマダン体育大典」は、世界の若者が力を競い、知性ある人たちが和合の知恵を集めるという人類の本然の姿を希求する心情から出発しているからです。創造本然の理想世界は、神様の真の愛、真の生命、真の血統を中心として、真の子女、真の兄弟、真の夫婦、真の父母の四大心情圏を完成することによって成し遂げられる世界です。人間始祖は、神様のみ言を不信し、天使長と不倫な血縁関係を結ぶことによって悪の種を受け継ぐようになりました。このような愛の関係によって、人類は、悪の父母と悪の子女を通して、悪の生命と悪の血統の根をもつようになったのです。このすベての堕落の起源は、正に青少年期に発生しました。青少年期は人生で最も重要な時期です。今日の若者たちは、無分別な価値観の混乱により、人類始祖がそうだったように堕落のふちの中へと落ちています。フリーセックスや利己主義が横行し、道徳と倫理を否定し、父母と子女を否定しながら、家庭を大切に考えません。今日はこのような地上地獄の時代なので、地上天国をつくるためには、このすべてを、神様の絶対的真の愛の基準を中心として、神様の側に一八〇度転換しなければならないのです。すなわち、悪魔が人類の家庭を破壊したので、神様は人間を救援するために、その反対の経路を通して、真の父母を中心とした真の家庭のモデルを立ててきたのです。神様は創造本然の立場で、愛と平和の世界を望んでいますが、悪魔は、人類が自分だけのために生きる立場で、憎悪と闘争と罪悪の歴史をつくることを願ってきました。また、天との連帯関係を破壊するために、酒、たばこ、麻薬など、自分の最大の実権を駆使してカイン文化の風潮を全世界に広めてきたのです。終わりの日とは、このようにエデンの園の堕落が全世界的に再現される時です。ですから、メシヤとして再び来られる真の父母は、このような問題の核心を根絶し、これを収拾していかなければならない重大な責任があるのです。私は、人類に入り込んだ罪の根と、堕落の動機と経路を解明したところ、この問題こそが人間社会の倫理的退廃をもたらしていたことが分かりました。このことで闘争の歴史が始まったという事実を、私たちははっきりと認識しなければなりません。二世の摂理時代である今日は、まず退廃的文化と慣習をきれいに脱ぎ捨て、淫乱と暴力を追放し、神様を中心とする新しい心情文化と真の愛の伝統を安着させなければならない時代です。このために私は生涯をかけて、神様の真の愛と絶対価値を中心に立て、世界の指導者たちを糾合し、組織を育成し、その影響力を世界的に拡大させてきたのです。神様の真の愛は、投入してはまた投入し、無限に与え、そして、その与えた事実すら忘れてしまう絶対的な愛の基準です。このような神様の真の愛の絶対的基準を、縦的に連結し、横的に拡大していくことで、人類が願う理想世界を尋ね求めていくのです。神様は、真の愛を中心とした環境圏を造成するために、真の愛の実体である真の父母を中心に、世界的な基盤を造成してきました。世界の碩学たちと共に絶対価値を探求する「科学の統一に関する国際会議」と「世界平和教授アカデミー」、言論の自由と倫理的責任を追求する「世界言論人会議」、各宗教間の和解と一致を模索する「世界平和宗教連合」、世界平和を模索する「世界平和連合」、女性の社会的参与を通した理想社会実現のための「世界平和女性連合」、真の家庭理想を実現してその理想を全世界的に拡大するための「世界平和統一家庭連合」、そして二十一世紀の新しい青年文化運動を主導する「世界平和青年連合」の結成および組織拡大などは、そのような背景から出発したのです。特に、新しい四十年路程が出発する第二回「世界文化体育大典」は、各分野の世界的な基盤が根を下ろす人類和合の大典です。皆様。きょうのこの大典は、五大洋六大州の多様な文化圏の伝統と価値が根を下ろt統一的新文化創造の地平を開いていく場です。このようなすべてのものの土台となるこの原理運動は、本然の血統と連結された心情文化運動であり、新しい真の愛の実践運動です。世界化された原理運動は、退潮した共産圏を生み変える共生共栄共義主義の「頭翼思想」により、数多くの社会主義の若者の希望の原動力となっています。特にモスクワ大学をはじめとした独立国家連合(旧ソ連)の七百以上の大学で、原理研究会の理念が、マルクスレーニン主義思想に対する代替理念として広く拡散し、北朝鮮の金日成総合大学を中心とした主要大学でも、原理研究会の「頭翼思想」が新しい理念として検討されていることは周知の事実です。二十一世紀における人類の未来を導いていく青年、学生の皆様。私は、生涯をかけて、「ために生きよ!天宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」との価値観の理念で、今まで世界の若者たちを指導してきました。皆様は、真の父母、真の師、真の主人の三大主体思想で武装し、真の父母のように、強靭な肉体と健全な精神の調和を成していかなければなりません。原理的に見るとき、完全な人間は、精神と肉身が神様の心情と絶対価値を中心に統一的な関係をもち、正しい役割を果たさなければなりません。つまり、いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉身をもつことができなければ、完全な人になることはできず、それと反対に、健康な肉身を所有したとしても、精神が正しくなければ、正しい人の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆様全員が、心と体の正しい統一を成就していくことができるよう、絶えず精進してくださることを願います。これが今回の体育大典の中心的な目標でもあります。この体育大典を通して、このような心と体の正しい統一を成就していかれることを、皆様にお願いします。そして五大洋六大州の若い青年たちが、国境、人種、宗教の壁を越えて一つになる、新しい画期的な芸術世界を創造するように適進しなければなりません。若者たちの純粋な情熱と努力によって神様の心情を体恤する万世の願いの勝利者となれるよう、不屈の挑戦と努力を惜しまないことを切にお願いする次第です。皆様は、若者の特権である熱い情熱と聡明な理性、不撓不屈の気力によって、真の家庭の理想を完成するために、最後まで前進していかなければなりません。このような観点から、きょうのこの大会は、新しい二世の摂理時代の青年文化運動創建の広場として、とても意a深い行事であることは間違いありません。皆様はこの場を通して、近づく二十一世紀の新しい主人公の立場で、復帰摂理の中で生じた、神様の胸痛む恨を解いてさしあげようという決意をしなければなりません。神様は、御自身の恨を解かれるために、若い時代の私を神様の代理使命者として召命され、人類救援摂理の主流圏を形成するように御命令されました。皆様には、このような真の父母の摂理的な責任を歴史の前で蕩減してさしあげるべき責任があります。これが正に青年の時代に真の父母と共に一時代を生きていく若き青年、学生たる皆様の進むべき方向です。どうか皆様の気概と決意で、理想世界実現のための牽引車の役割を果たしてくださるようお願いする次第です。親愛なる世界の青年、学生の皆様。皆様は真の愛の光明体として暗闇を押しのけ、悪を審判する正義の旗手とならなければなりません。さらには、神様を中心とした四大心情圏と三大王権を復帰した窝の息子、娘として、強く大胆でなければなりません。真の父母の勝利圏を相続した真の子女として、二十一世紀を導いていく新たな青年指導者となるために、健康な心と体の所有者になるよう、真心を尽くしてくださることを願います。皆様の将来に、神様の無窮な祝福と加護が共にあることを祈りながら、祝辞に代えさせていただきます。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.20
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「理想家庭と平和世界」日付:一九九五年八月二十三日場所:韓国、ソウル、ロッテワールド・ホテル行事:「世界平和女性連合」第二回世界大会(真のお母様)内外の貴賓の皆様。「世界平和女性連合」会長団、各界の女性指導者、そして会員の皆様。私はきょう、この集まりが平和世界を実現しようとする私たち全員の念願を早める重要な契機になることを信じながら、この壇に立ちました。世界各地で献身的に奉仕しながら、より平和な社会と世界を建設するために歩む皆様の労苦に感謝いたします。 ”地上に平和世界を成し遂げることが、簡単でしょうか。それは歴史を通しての人類の夢でした。この夢が達成されるためには、まず平和な国と世界が先に形成されなければなりません。平和な国と社会は、睦まじく楽しい家庭が前提とならなければなりません。このように見るとき、和やかで楽しい理想的な家庭は、すなわち平和世界を築く出発であり、基本単位になるのです。 真の愛を基盤とした理想家庭理想的な家庭は、どのようなものでなければなりませんか。神様の理想世界に対する計画は、創世記に記録された祝福のとおり、アダムとエバが善の夫婦、善の父母となり、理想的な家庭を築くことでした。その家庭を根源とし、子孫が父母に似て、理想的な家庭を永続的に築いていくことを願われたのです。私の夫である文鮮明総裁の教えによれば、神様は真の愛の本体であられます。神様の根本属性である真の愛を動機として、創造が始まったのです。神様の真の愛は、愛してために生きる対象を必ず求めるからです。神様の創造の動機は真の愛です。被造万物は、神様が愛するために造った実体対象です。その中で人間は、神様と最も近い関係にある愛の対象です。神様は人間の真の父母であり、人間は神様の真の息子と娘です。神様と人間は、真の父母と子女の関係です。 本来、人間は父母の愛を受けて子女の心情を体恤しながら育ち、その次に兄弟同士で愛し合いながら、兄弟の心情を体恤して育ちます。成長して真の人格を備え、完成した真の人になれば、夫婦生活を通して互いに愛し合うことにより、夫婦の心情を体恤するようになります。被造物はすべてそうですが、特に人間は、真の愛を感じ、真の愛の生活をするようになるとき、幸福になるのです。愛を受けるとき、生命力が躍動します。生命の香りも愛の中で漂います。愛は人間の幸福と生命と喜びの源泉になります。このように貴い真の愛は、知識や外的な要因によって得るものではありません。経験を通して感じ、生活を通して体恤するようになっているのです。このように人間は、成長期間に生活と経験を通して、神様の真の愛を段階的に体恤するようになっていました。すなわち、人間は子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情など、四大心情を段階的に体恤しながら完成するのです。人間の人格と幸福の尺度は、愛をどのように、またどれほど感じ、与え合うかによって区分されるのです。 夫婦愛における自律と責任性四大心情の関係において、縦的な愛、すなわち父母の子女に対する愛は、第一子、第二子と続きながら分けて与えられても、その完全性は減少したり、変わったりはしません。そのため、一組の夫婦が何人もの子女を生んで愛することができるのです。お一人の神様が、全人類を子女として対し、愛されるのも、この原則があるからです。しかし、代表的な横的愛である夫婦間の愛は、他の相手に向けると完全な愛になれません。夫婦間の愛は、分けるとすぐにその完全性が破壊されてしまうのです。万人の本性は、夫婦間の愛の中に第三者が介入することを許しません。神様の創造の原則は、夫婦間の愛が他の相手に向かって裂かれることを許さなかったからです。神様は人間に、他の動物とは違って、夫婦間の愛の自由を下さいました。子を産むときにだけ関係をもつ動物の愛とは、根本が違うのです。責任のない自由は、本当の自由ではありません。夫婦間の愛にも責任性が求められるのです。夫婦が愛の神聖性と永遠性を信じる基盤の上で、互いの責任性を守るとき、初めて家庭が安定するだけでなく、幸福の住み家となるのです。人間はこのような、分けることもできず、否定することもできない夫婦の愛を通して、息子、娘をもつようになっていました。本然の人は、真の人として育ち、その次に、分けることのできない愛によって真の夫婦となり、子女をもって真の父母になるようになっていたのです。 堕落と愛の秩序聖書を読まれた方は御存じかもしれませんが、人間の先祖は、神様が喜ばれ、祝福してくださる結婚をし、そこから神様の愛を受ける息子、娘である子孫を繁殖したのではありません。アダムとエバは、既に神様に対して罪を犯し、楽園から追い出されたのちに子女を生んで、後代へと繁殖してきたのです。アダムとエバは神様が願われる真の夫婦にも、真の父母にもなれませんでした。私たち人類は、真の父母と真の家庭を根源として生まれた子孫になれなかったのです。本性としては夫婦の愛が永遠不変であることを願うにもかかわらず、そのようになれないのは、人類の先祖の堕落の根源が偽りの愛の因縁、不倫によってつくられたからです。原罪が子々孫々に遺伝し、終わりの日に近づくほど性道徳が乱れ、家庭が破壊されるのも、すべてそのためです。神様が最も嫌われるのが、愛の法度に背き、倫理的に誤ることです。洋の東西を問わず、次第にひどくなっていく青少年の脱線、家庭破綻、十代の未婚の母の問題などの現象を、誰が解決するのでしょうか。このような現象は、飢餓や戦争、どのような疾病よりも、さらに恐ろしいものです。なぜならこの問題は、今日の私たちの問題だけでなく、子孫の問題として、人類が未来に対する希望を失うものだからです。今日の絡み合った愛の秩序は、子孫に直接的に影響を与えるのです。 子女の情緒教育家庭は、子女の内的成長に決定的な要素を提供します。子女の基本的な性稟と生活態度は、家庭で形成されるのです。赤ん坊は愛を感じる天賦の素質をもっています。非常に幼い頃から、母親の愛情あふれた懐を他の女性の懐と区別できるのです。父母の愛と兄弟の愛を自然に体得して育ちます。人の情緒と性格の大部分は、赤ん坊のときの家族関係を通して体得され、愛情と幸福感が基礎となって形成されるのです。子女の目に映った父母の生活、特に愛の関係は、その子女の情緒生活に決定的な影響を与えます。天道によれば、父母は、子女にとって真の父母になるとともに、真の師になるようになっています。赤ん坊にとって最も重要な教えは、知識教育や技術教育ではありません。家庭で父母がすべき心情(情緒)教育と規範教育が重要です。この人生の根本教育は、父母が家庭を土台にしてこそ、可能です。赤ん坊は最も貴い愛情と基本秩序に関して、父母が見せてくれるとおりに学び、あるがまま感じて似るのです。子女は、彼らが従い、習うことのできるモデルが必要です。父母が自ら、子女に対して最も重要な師になることを自覚するかしないかに関係なく、子女は既に父母のものを真似し、学んでいるのです。人生の正しい出発をするにおいて、父母以上に重要な師はいないのです。父母の愛の結実体である子女は、自分の父母が最も理想的な愛の夫婦であることを願います。その愛の関係の中で、幸福を感じるのです。子女にとって、父母の離婚は受け入れ難いことです。なぜなら、子女は父母の愛に同参(一緒に参加すること)した、同参者だからです。子女にとってその父母の愛は、自分自身の根源であり、根だからです。自分の存在基台が破壊されることを、本性が許さないのです。父母と子女の関係が変わらない天倫の関係であるとすれば、どうしてその動機であり、根となる夫婦関係が永続的な天倫の関係になり得ないと言えるのでしょうか。不倫と家庭破壊、そして性道徳の紊乱は、天道に背く大きな過ちです。このような現象は、神様が願われず、人間の本心も願わない、堕落の結果なのです。 子女は父母の愛に同参した存在世界の女性指導者の皆様。今日の混濁したこの秩序を、どのように収拾するのでしょうか。人類は道徳社会、人が人らしく暮らす社会、正しい価値観のもと、明るい未来を保障できる社会のために、たゆまず努力してきました。それにもかかわらず、勢いよく押し寄せてくる反倫理やフリーセックスなどの天道に背く堕落の風潮は、日がたつにつれてひどくなっています。エイズの問題も、単純な病魔ではなく、人類の子孫と未来が連結された深刻な問題です。このような問題は、学校における師の教えによっても、父母の説得によっても、国家の行政的措置によっても、根本的な治癒がなされずにいます。既に実験は終わりました。もはや、人ができる治療方法を探すときは過ぎ去りました。宗教者でなくても、救世救民の道理を天から探し求めるべき切迫した状況です。このために、神様はメシヤを送られます。メシヤは真の父母として来られなければなりません。天道に逆らった不倫の現実社会を根源から治癒しなければならないからです。人間の先祖、アダムとエバが真の父母になれず、堕落の先祖になったので、アダムとエバに代わって真の愛、真の生命、真の血統の根源者として真の父母が来てこそ、解決されるのです。真の父母はサタンを屈服させた真の愛、真の夫婦、真の父母の手本をお見せになり、全人類を教育されるのです。理想家庭のモデルをつくられ、地上に天国である平和世界、愛の世界を築くでしょう。これが神様の救援摂理の根本です。神様は、私の夫である文鮮明総裁をメシヤとして送られました。夫は、神様のみ旨、創造理想をこの地上に回復してさしあげるために、生涯を捧げて歩んでいます。世界的に理解されない中で、罪もなく罪人の扱いを受けました。 真の父母と理想家庭私は、聖人の道が何よりも困難で、口惜しこであることを最も近い立場で見つめながら、毎日のように胸が詰まるのです。夫はあらゆる苦難と迫害を受けながらも、その歩みが止まることはなく、真の愛の道理を教え、実践によって模範を見せてきました。また霊的には、サタンと血のにじむ闘いをしてきたのです。サタンは、自らが享受している非原理的な偽りの愛の主権を奪われないようにするため、夫を総攻撃するのです。霊的にも肉的にも、サタンが讒訴できない勝利の基台を築いた上で、私たち夫婦は真の父母の使命を遂行しています。愛する女性指導者の皆様。今回の第二回「文化体育大典」は、これまで私の夫が愛の統一世界を成し遂げるために献身してきた多くの運動が結集したものです。「世界平和女性連合」をはじめ、「世界平和家庭連合」、「世界平和宗教連合」、「世界平和連合」、「世界平和青年連合」などの機構は、すべて平和世界を成し遂げるためのものです。この期間において、これらすべての機関と「国際文化財団」などが主管する多くの会議と行事は、人の本性を悟らせ、歴史を先導し、人類の未来に希望を与えるでしょう。特に(一九九五年)八月二十五日に挙行される国際合同祝福結婚式は、歴史的な行事です。この地において、誰がこれを真似できるでしょうか。五大洋六大州の百六十カ国において、皮膚の色と文化を異にする三十六万双が、共に神様の祝福を受け、理想家庭を築くための新しい出発をするのです。平和世界の基盤となる愛の理想家庭を目標とした、神聖な行進が始まるのです。神様が願われる真の愛の文化、心情文化の主役が誕生し、善の子孫が約束される神聖な行事です。 理想家庭と女性の役割私は「女性連合」の創設当時から、天運と歴史が求めるのは愛と奉仕の生活であり、理想家庭を通した平和な世界であると強調してきました。今まで男性が主導してきた世界における誤った愛の秩序と堕落の実状は、果敢に清算しなければなりません。不倫と憎しみ、そして自己を中心としたあらゆる不正は、切り取らなければなりません。女性は自覚をもった心で、この世界の誤った慣行を、整理していかなければなりません。女性が既存の文化と慣習の秩序の中で男性を真似し、またその中で女性の立場を高めようとすることが、「世界平和女性連合」の目標になってはいけません。女性は天道に従って、真の父母に侍り、新しい心情文化世界を形成する主役にならなければなりません。堕落の属性を根本的に脱ぎ捨てて、新たに成し遂げる本然の文化、人類の本性が訪ねてきた愛と善と平和の文化を花咲かせなければなりません。今から女性は真の父母と接ぎ木して、真の家庭を生み出すべきであり、真の社会と真の世界をつくっていくべきです。そのためには、皆様が真の母の分身にならなければなりません。到来した女性時代とともに、すべての女性は真の愛で男性を指導する、新しい時代の先駆者にならなければなりません。家庭でも真の愛の化身として、夫を抱き、子女を真の父母の心情で養育すべき使命があるのです。神様の愛の祝福がとどまり、本然の愛の秩序が立てられた家庭を、誰が築きますか。真の父母と連結された、私たち女性の使命です。私たちが先頭に立って成し遂げなければなりません。真の愛による本当の女性解放と真の平和世界を成し遂げるために、皆様全員が主役になってくださるようにお願いします。皆様と皆様の家庭、そして皆様の活動に神様の祝福が共にあることをお祈りいたします。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.19
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「真の平和世界」日付:一九九五年八月二十三日場所:韓国、ソウル、ロッテ・ホテル行事:第三回「世界平和会議」尊敬する議長、尊敬する元、現職の国家元首ならびに紳士淑女の皆様。きょう私は、第三回「世界平和会議」の開幕の冒頭において、参加者の皆様に深い敬意を表しながら、世界平和に対する所信を披瀝できることを誠にうれしく思います。 中南米大陸に対する切なる忠告今回の第三回「世界平和会議」は、過去のどの時よりも絶大な関心を呼び起こしています。皆様が、遠路はるばる旅行しながら、真の世界平和の働き手となることを希望して、このような盛大な会議を可能にしてくださったことに対して、衷心より感謝を捧げる次第です。私は今年に入って、中南米大陸に神様のみ旨があることを知り、中南米二十三カ国を歴訪しながら、真の世界平和の模索に全力投球しました。私は行く国ごとにその国の主要人士たちと会い、私の所信を披瀝し、そのうち八カ国では、その国の大統領と単独会談をし、温かい友情の中で、世界平和について共に意気投合する貴重な機会をもちました。私はこの中南米の各国で「真の家庭と私」という題目で講演をしました。私は、このように中南米大陸を東西南北に駆け巡る間に多くの理想を描いてみました。中南米三十数カ国の国家社会が、真の平和を実現して理想国家を築くために、何をすべきか、どうあるべきかを考えてみたのです。中南米大陸は、無限の潜在力をもっています。そこには無限の資源があります。そこには尽きることのない無限の人力があります。肥沃な平和の楽園、雄大な山と大自然、創造本然の汚染されていない美しい大自然! 二十一世紀には必ず開花する、南米の全盛時代を夢に描いてみました。このような無限の可能性を秘めた中南米大陸にお願いしたい切なる忠告があります。それは「先進諸国の前轍を踏んではならない!」という忠告です。現在、開発途上にある国々は、盲目的に開発された国々が犯した誤謬を犯してはならないということです。私がなぜこのような忠告をしようと思ったのでしょうか。それは、既に開発された国々の前途が暗澹たるものであるのを見ているからであり、その先進諸国が、人類が心から願う幸福をもてずにいるからです。 二十一世紀は本然の世界へと帰っていく世紀私はその標本としてアメリカを例に挙げようと思います。私は、アメリカを心から愛している者です。またこれまでの四半世紀を主にアメリカで過ごしながら、世界平和の土台をアメリカにつくろうと心血を注いできた者です。私は、このアメリカを正しい方向へと導くために全力投球する中で、アメリカから迫害も受けてきました。しかし、アメリカを愛する心、世界平和のためにアメリカに期待する心は、今でも少しも変わりはありません。一九六〇年代に私が初めてアメリカに行った時でも、世界中の人類は、アメリカのようになることを望みました。『大草原の小さな家』のような家族愛あふれる農村の家族、日曜日になると全国津々浦々から響き渡る讃美歌の声、正義の使徒スーパーマンは、正義というアメリカ精神を象徴するものであり、高層楼閣が立ち並ぶ都市の通りには、紙くず一つ見ることのないほどに秩序整然としており、美しかったのです。その当時、全世界はアメリカを羨望の目で見つめていました。それから三十数年が過ぎた今日のアメリカはどうなったでしょうか。輝いていたアメリカは色あせてしまったのです。解決できない難問題が山積しています。その中でも、人間の道徳性の衰退と犯罪の増加は、注目に値するものになりました。殺人、麻薬、暴動、離婚、幼児虐待および誘拐、若年末婚者の妊娠など、アメリカから流れてくるニュースは、信じられないものがあまりに多くあります。これは、アメリカを愛する私の胸を痛めています。現在、このような現象は、単にアメリカでのみ起きているのではありません。暮れていく二十世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がみな物質文明の極致を謳歌する中で、今ではその物質文明の罠にはまってしまったことにあるのです。物質が精神を支配し、心を支配していった結果、人間の心霊が物質の奴隷になってしまったのです。そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かであり、都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこでは真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが生い茂るようになりました。この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。私はこの平和会議の一つの主題として、地球と人間の環境の回復に関する討議も含めましたが、私たちの自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されており、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているのですから、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を免れることができない境地にまで至るでしょう。しかし、何と言っても物質文明が与えた極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私たちの体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。 ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくことは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味するのです。今、私たちの社会は、本来神様が設計され、創造されたものとは正反対の道を走っているのです。二十一世紀は、どちらにしろ神様が意図される創造本然の世界へと帰っていく世紀です。物質文明の時代は過ぎ去り、精神と心が主人となる精神文明の時が訪れるのです。その二十一世紀が今や五年後に迫ってきています。このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、私が絶叫したい思っていた忠告の内容をお話ししました。 三十六万組の国際合同祝福は世界平和の祭典今や世界は、大変遷を避けることのできない時に至りました。これを宗教的用語で表現すれば、「人類歴史の終末」に至ったと言えるでしょう。しかし、私の言う「終末」という言葉は、暗澹と滅亡を意味するものではありません。創造主であられる神様の立場から見る「終末」とは、誤った世界、すなわち堕落世界の終息であり、これに続く正しい世界、すなわち創造本然の世界の新しい出発を意味するのです。ですから、「終末」とは、正に望みであり、希望なのです。それでは、この物質文明から精神文明への歴史的転換は、何によって実現されるのでしょうか。それは、神様の真の真理の出現によって始まるのです。真理は光であるといいます。暗い夜を解放する道は、夜が明けて朝に太陽が昇るようにすることです。その歴史の転換の太陽が中天に昇りつつあります。それがすなわち私が発表した「統一原理」であり、真の愛の大真理なのです。私は、神様の召命を受け、神様がかつて人類歴史の背後に隠しておかれた天宙の大原理を発掘するに至りました。それは人間が歴史にわたって渇望してきた大真理であり、すべての人間が真の愛に回帰し、真の世界平和を具現できる大原則でした。あたかも医者が病気を治そうとすれば、まずは病気の原因を究明しなければならないように、この原理は、今日の人類社会が塗炭の中で苦しみ、非原理的世界を築き上げるようになった人類始祖の堕落の経緯を明白に究明してくれました。原因が究明されたので、次にその処方を用いることができるのです。私はこれまでの四十年間、その処方をもって東奔西走しながら、これをこの世界に伝播することに専念してきたのです。私はきょうここにおいて、そのいくつかの大原理を明らかにしようと思います。しかし、このようなかたちでは、皆様は到底深く理解することができません。皆様は真剣に「統一原理」を研究する必要があるのです。自分の永遠の生命と本当の世界平和がここにあるとすれば、それは何よりも先行すべき優先的努力でなければならないと思います。その第一の大原則は、神様は生きておられ、その神様は人類の父母であるということです。人間と神様の関係は親子関係です。神様が私に示してくださった一番目の真理は正にこのことでした。第二に、神様の本質は真の愛ですが、真の愛を具体的に現すために、天地万物と人間を創造されたのであり、また人間は神様の対象存在だということです。神様は、無限の真の愛を条件なく人間に注がれようとされるのです。第三に、神様は、無形の父母であられる御自身の実体として地上に真の父母を立て、人間はその真の父母と一体理想を完成することによって、真の愛と真の生命と真の血統を取り戻し、永遠に救われるという大原理です。ところが驚いたことに、今私たちは、その真の父母の時代に生きているのです。人類歴史を見ると、これほどまでに恵まれた時代は以前にもなく、以後にもあり得ません。そう考えると、私たちこそ、天運に乗って生まれた幸運の世代にほかなりません。 私と私の妻は、二日後の八月二十五日にここソウルにおいて、真の父母の名で三十六万組の国際合同祝福結婚式を挙行する予定になっています。私はこの祭典を、真の世界平和の祭典と呼んでいます。今日、真の世界平和がない理由は、その原因が家庭制度の崩壊にあると言えます。神様の真の愛と一体理想を完成していない限り、私たちはその家庭を真の愛の家庭とは言うことができません。世界百六十カ国で、人工衛星を通して同時に挙行されるこの祝福結婚式は、無形の父母であられる神様のもとに実体として来られた真の父母様をお迎えし、人類が縦的に真の愛の鎖を掛ける儀式です。同時にこの儀式に参与する人たちは、国境と人種と宗教を超越しているので、これはまた、真の父母の前に一つになる真の兄弟姉妹、すなわち横的な同胞愛の鎖を掛ける儀式にもなるのです。人類始祖アダムとエバの堕落によって失った神様の真の愛、真の生命、真の血統によって復帰する人類の大転換儀式になるのです。ですから、六千年間、悪魔サタンの束縛と主管圏の中で呻吟していた人間たちが、初めて真の解放を受ける感激の瞬間でもあるのです。つながれていた足かせが断ち切られ、神様の真の愛の自由天地の中に帰ってきて、ホサナの歌を歌う歓喜の祭典、その祭典がこの時代に真の父母の顕現によって可能になったのです。 真の平和は創造本然の世界に復帰すること皆様。この儀式はまた、神様のみ前に結婚によって結ばれた男性と女性が互いに純潔を誓う儀式でもあります。真の家庭の破壊は、純潔の破壊を意味します。不倫の愛が人類始祖の堕落の原因だったので、その子孫である今日の人類は、淫乱が渦巻く中でその不倫の愛の供え物になってきました。これがすなわち今日、世界的現象として現れているフリーセックス、同性愛、背徳的な愛の関係の現象であり、今日、人間社会における愛の乱脈の様相は、動物の世界を彷彿させるのです。このように堕落した人類を、偽りの先祖の血統から完全に解放することによって、今や人類は神様本然の純潔の世界へと復帰できる時が来ました。そして、このように世界を解放する転換の軸となる方が真の父母なのです。新婦は、新郎が世界の全男性を代表する神様の息子であり、真の父母の実体分身であると考え、彼を主体として立てて純潔の愛を誓います。新郎は、自分の新婦が世界の全女性を代表する神様の娘であり、真の父母の分身であると考え、純潔の愛を誓います。このように結ばれた夫婦の間に、エイズのような恐ろしい人類破壊の疾病がどうして浸透できるでしょうか。できません。エイズは「終わりの日」に人類の純潔を試しているのです。しかし、私たちの社会はエイズに対する解決を、神様のみ旨とは関係なしに、ただ、コンドームや特殊な薬を発明して解決しようとしています。しかしエイズは、そうしたからといって解決できる問題ではありません。この問題の真の解決は、道徳性の回復にあり、真の愛の回復によってこそ可能なのです。エイズは、紀元二〇一〇年までにその感染者数が十億に達するという報告が、ハーバード大学のダナ・ファーバー研究所から発表されています。これは人類の存亡を脅かす数字です。エイズは、ただ人類が神様の願われる真の愛に回帰する時にのみ解決されるのです。これは男女の純潔な愛を意味します。私が語る純潔とは、一時期女性だけに強調されていた封建的な純潔のことではありません。神様の大原則から見た男女共通の純潔のことをいうのです。それは、男性と女性が結婚前まで共に貞操を生命視し、これを守りながら理想的相対を探し求め、祝福を受けて結婚したのちには、主体と対象が限りなく愛し合いながら永遠に暮らす一男一女の理想です。 私は今日、女性よりもかえって男性たちの純潔を強調したいと思います。今日世界の男性たちが無節制な愛に転落することによって派生する被害が、全人類の幸福を破壊する原因になっていると言っても過言ではありません。 真の父母と真の愛の革命しかし、今日の堕落した世界、不倫の愛が波打つこの世界が、神様が念願とされた本然の真の愛の秩序に戻ることは、人間の力では不可能です。これを可能にするものが神様の力であり、その神様の力の顕現がこの地上における真の父母の出現なのです。人類の真の父母は、地上に顕現し、真の愛の革命の火をつけました。その革命的過程を経ずに真の愛の秩序を立てることはできません。この真の愛の革命の烽火は、今その炎が高々と燃え上がっています。国際合同祝福結婚式こそ、この真の愛の革命の炎を燃え上がらせる祝祭であり、地軸を揺るがす新世界創造の広場なのです。今は三十六万組ですが、これが三百六十万組になり、三千六百万組になり、三億六千万組、三十六億組へと広がっていくとき、人類社会から初めてエイズが撲滅され、神人が一体化した純潔な真の愛の世界が実現されるのです。これは単なる夢ではありません。神様の地上天国建設の大きな摂理の中で、その実現は必至の事実です。人間の業ではなく、それは神様のされるみ業だからです。尊敬する指導者の皆様。今日、二十世紀の科学は、世界を一つの小さな地球村に縮小させました。人類はこの地球村で暮らす地球家族です。ここには本来、真の愛の理想世界だけがなければなりませんでした。今や世界人類の真の平和は、このような神様の創造本然の世界への復帰によって達成されることを肝に銘じなければなりません。皆様がこのような真の平和の使徒になってくださることを切に願います。私は、きょう皆様が真の平和の使徒であるだけでなく、私が生涯を捧げてきた真の世界平和の事業における貴重な同志になってくださったことに対して、感謝を捧げる次第です。皆様と皆様の御家庭に神様の祝福が満ちあふれることをお祈りします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.19
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「二十一世紀の言論の方向と役割、そして責任」日付:一九九五年八月二十二日場所:韓国、ソウル、新羅ホテル行事:第十三回「世界言論人会議」尊敬する議長、ポール・ジョンソン博士をはじめとするすべての発表者と大会の参加者、そして内外の貴賓の皆様。私はこのたび「世界文化体育大典」の一環として開催される第十三回「世界言論人会議」に参加するために、世界各国の各地域からここ大韓民国のソウルを訪問してくださった皆様に、心より感謝と歓迎の言葉を申し上げます。特に「言論の責任と役割」をテーマに開催される今回の「世界言論人会議」は、私たち人類が今、二十一世紀の新時代を目前に控えており、わずか五年後には、紀元二〇〇〇年代へと進入する歴史的な大転換期を迎えるという事実を考えてみたとき、非常に時宜にかなった、意義深い会議であると思わざるを得ません。 言論の役割と責任が強調される時代 今まで人類は、歴史を通して安楽な生活環境のための物質的開発とより合理的な社会制度の改善のために、あらゆる努力を傾けてきました。しかし、私たちがより安らかな環境を整えて自由な生活を営むほど、私たちには新しい霊的覚醒が必要だという事実をますます痛感せざるを得ません。今こそ全人類は、人間の本質的な価値問題に視線を転じて、新しい次元の生き方を模索しなければならない時を迎えているのです。私たちは次の二つの観点から、言論の役割と責任が強調される時代に暮らしていると言えます。第一に、世界の全域に広がった民主主義の成長によって、言論の自由が持続的に伸張してきたという事実です。特に民主的な手続きを踏んで指導者を選ぶ現代の政治体制においては、大衆と最も密接な関係をもっている言論の役割と影響力が、非常に大きく、重要であると言わざるを得ません。第二に、世界のニュースを伝えてくれる通信技術が極度に発達したという点です。その中でも、電波媒体と印刷媒体は、その技術が最も効果的でかつ広範に開発され、時間と空間を最大限に短縮してくれています。通信衛星や、地球村の国々を連結した世界的なインターネットといった新しい通信技術は、一個人の考えが、正しい正しくないにかかわらず、世界中の誰にでも思いのままに伝達できるようにしてくれます。このように自由な先端技術を土台とした諸般の環境は、今日の言論をして世論形成に多大な影響を与えるのです。政治的な面では、一国の政府を、高く尊敬される立場に立てたり、没落の道を歩かせたりします。また、社会が高い道徳的基準をもつように先導することもできれば、その社会を混沌の渦の中に追い込むこともあります。さらには、歴史とは、歴史的事実そのものよりは、歴史的事実に対する一つの記録としてつくり上げられるものである、という観点を考えた場合、このような転換期において、一瞬一瞬の歴史を記録していく言論媒体の責任は、他のいかなる分野よりも重大なのです。このように見るとき、言論の役割と責任は、絶対に歴史的な認識と分離して考えることができないのです。したがって言論のもつ様々な機能、すなわち事実報道から、事実に対する評価や批判のそのすべてが、歴史の正しい方向性と歴史的責任を前提として形成されなければならないのです。宗教指導者として私が見つめる人類歴史には、明らかな方向性があります。なぜなら、神様によって創造された人類歴史の背後には、必ずその目的を成し遂げようと摂理される神様のみ旨が内在しているからです。したがって、歴史を記録していく言論人の皆様は、神様のみ旨をはっきりと悟り、神様のみ旨と一致した観点で、歴史的事実を記録していかなければならないのです。尊敬する言論界の指導者の皆様。第二次世界大戦が終わったのち、人類が体験してきた過去半世紀は、言論の役割と責任を最も切実に覚醒させてくれる時期でした。この時期において言論に与えられた最初の使命は、共産主義の虚構性とその戦略を暴露し、その共産主義の脅威を自由世界に悟らせることでした。しかし、かえって大部分の言論自体が、この時期に非常にリベラルな視角をもつことによって、混沌たる状態になってしまったのです。特に世界を導いていくべきアメリカの首都ワシントンDCに、たった一つのリベラルな言論だけが陣取り、世界を誤った方向に導いているという事実が、私をして重大な決心をさせたのです。そうして私はあらゆる精誠と精魂と力を傾けて、十三年前に「ワシントン・タイムズ」を創刊しました。保守言論の旗手として共産主義と闘うために、私は莫大な財政的負担はもちろん、あらゆる謀略と誹謗を一人で耐え抜かなければなりませんでした。私には、偽宗教家というレッテルが貼られ、捏造された脱税疑惑によってアメリカで刑務所生活まで体験しました。しかし、世界の流れは、神様のみ旨に逆らうことができませんでした。今、私は、「ワシントン・タイムズ」が、共産主義に勝利し、世界の自由を守るに当たって数多くの決定的な貢献を果たしたことに対し、深い賛辞と共に、これを歴史的な名誉として大切に残そうと思います。 言論が世界統一の先頭に立つべき 過去半世紀において、言論に与えられたもう一つの使命とは、人類をして人間の本質的価値を回復させ、道徳社会を建設させることです。一九九一年、冷戦時代が幕を降ろし、東西間の緊張と葛藤が終わりを告げるとき、私たちは、これから平和時代が到来するものと期待していました。しかし、冷戦以後には、かえって社会的な葛藤と不安がより一層加重されつつあるというのが実情です。アメリカだけを見ても、フリーセックスや同性愛のような乱れた性道徳が徹底的に家庭を破壊しています。急増する離婚率は、道でさまよう青少年たちを日々増加させています。彼らは麻薬に陶酔し、暴力に没頭するようになり、挙げ句の果てには自殺の道を選択するようになります。十代の自殺率は、三十年の問に倍に増加しました。エイズをはじめとずる数多くの病気は、乱れた社会生活に起因しています。アメリカとヨーロッパの一部地域では、既に同性結婚が合法化されるまでに至りました。実際、多くの生態学者や環境論者たちが語る植物や動物の絶滅危機は、深刻な警告として受け止められながらも、人類種族の破壊現象に対しては、みな無感覚で無防備な状態です。私たちは、これが既に世界のある地域だけの問題ではないことをよく知っています。このような現象は、人類の危機であると同時に、神様の危機なのです。家庭が破壊されることによって、人類生活の最も高貴な要素である愛が、その立つ場所を失い、神様の愛を大切に保管する基盤が崩れてしまうのです。ですから、私は「ワシントン・タイムズ」創設十周年を迎える会場で「真の家庭の重要性」を力説しながら、人間の本質的な価値観の回復に関心を傾けることを強力に促しました。これは「ワシントン・タイムズ」にだけ与えられる勧告ではありませんでした。全世界の言論と指導者たちに与えられた神様の啓示でした。今、「ワシントン・タイムズ」は、誰よりも声を高めて、真の家庭の回復と道徳再建を叫びながら、アメリカと世界を生かすために先頭に立っています。アメリカの新しい精神革命の旗手になっているのです。皆様も御存じのとおり、今、アメリカだけでなく、世界の各地で、家庭の重要性は、社会問題の次元を越え、教育、宗教、文化、そして政治および経済分野にまで重要な問題になっているのです。私が一九七八年に「世界言論人協会」を創設したのも、言論人の皆様に言論媒体の倫理および責任に関連した問題を討議する場を提供することによって、このような最も根本的な問題解決に役立てようとしたのです。三番目に私が強調しようと思うことは、言論は世界統一の先頭に立たなければならないということです。今日における交通と通信の発達は、既に人間の意思疎通を遮るすべての自然的障害物を克服できるようにし、物理的な距離を短縮し、世界中の人類を近づけました。「世界は地球村である」という言葉がとても実感できる時代です。しかし、いくら科学と技術が空間的な障害物を人類から取り除いてくれたとしても、人類を一つの地球家族と呼ぶには、あまりにも多くの人為的な障壁が人類を分けています。私たちは、ヨーロッパで行われる人種戦争のニュースに、毎日のように接しています。慣れ親しんだ故郷を離れる長い避難民の行列、愛する家族を失って嗚咽する場面、苦痛と疾病で苦しむ姿は、今ではもう見慣れないことではありません。同じ国の手の平ほどの地域の中でも、人種、言語、文化、宗教、慣習または政治や経済的体制の差によって、熾烈な葛藤と戦争で血を流すのが今日の現実です。それだけでなく、一年に数百数千万の人命が飢餓と疾病で失われているにもかかわらず、何の対策もないのが実情です。人類自らがつくったこの様々な利害関係の鎖を、どうしたら克服できるのでしょうか。それは、人類が外面的に現れる人種、言語、文化、政治、経済面などでは異なるとしても、その本来の根は実は一つだったということを教える方法しかありません。人類の根はお一人の神様です。神様の真の愛と真の生命と真の血統が人類の根源です。その神様のみ前に全人類は、共に愛を分かち合える同じ子女たちです。一つの血統、一つの生命から出た兄弟姉妹なのです。 真の家庭は真の平和世界の出発地 きょうから三日後の金曜日の朝、私と私の妻は、全世界的に三十六万組の聖婚式を主宰します。この式はソウル・オリンピック競技場で開かれるのですが、その競技場がいくら韓国では最も大きい施設だとしても、そこには十万人しか収容できません。ですから、残りは世界の主要都市に集まり、衛星中継によって、聖婚式を挙行する予定です。私たち夫婦は、一九六〇年から始めて、今まで五万組以上を祝福してあげました。したがって、今回、金曜日の行事は、今まで実施した祝福行事の中で最も大きな規模になります。このように数多くの人々が人種と国籍と宗教と文化と伝統的な慣習を超越して、一カ所に集まり、一生で最も意義深い聖婚式を共に挙げるということは、様々な面で大きな意味をもっているのです。これは、このすべての人たちにとって共通で、誰もが尊敬する一つの価値観が実在するという事実を物語っているのです。さらに一歩進んで、これは神様の真の愛を中心として一つとなった真の家庭を成し遂げることを、皆が望んでいるという事実を実証するのです。互いに異なる人種と文化背景をもった夫婦だとしても、神様の真の愛で一つとなった家庭をつくったとき、そこから生まれた子女たちの間に人種や文化的な葛藤はあり得ません。 仮に皆様の父親が黒人で、母親が白人であるならば、どうなるでしょうか。また仮に父親がアラブ人で、母親がユダヤ人の家庭で育ったとすれば、果たして皆様はどちらか一方の人種や文化に対して悪い偏見をもつことができるでしょうか。皆様は父母を愛するそれ以上の心をもって、両方の文化と伝統を愛し、大切にするでしょう。世界各地で深刻な社会問題になっている人種間の葛藤を、政治的にのみ、あるいは経済的にのみ解決しようとすれば、その結果は失敗にならざるを得ません。人種差別は、赤ん坊の揺りかごから始まるものなので、真の愛を中心とした真の家庭の理想をもたなければ、この問題の根本的な解決は不可能なのです。したがって、たとえこの祝福行事が大規模なものだとしても、その中心理想はやはり、お一人の神様の真の愛を中心とした真の家庭を成し遂げることです。親愛なる言論界の指導者の皆様。人類が歴史の始まりのときから神様と一つになっていれば、人類は真の愛を中心とした真の家庭を成し遂げて、ために生き続ける真の愛を実践することによって、真の国家と真の平和の世界を既に成し遂げていたのです。しかし、人間始祖であるアダムとエバが堕落し、サタンと一つになることによって、神様とサタンが人間を真ん中に置いて闘う立場になりました。心はいつも神様に向かい、体はサタンの主管を受けるようになっているので、心と体はいつもぶつかり合い、闘わざるを得なくなりました。したがって、たとえ人類が偶発的な第一次、第二次、第三次の世界大戦は避けられたとしても、この心と体の闘いは決して避けられないものでした。結局、この心と体の闘いは歴史を通して、個人、家庭、社会、国家、世界的な次元へと拡大してくるようになったのです。この歴史的な闘いを終息させるためには、神様に帰らなければなりません。まず神様を中心として、個人の心と体が一つにならなければなりません。そして、そのような真の男性と真の女性が、神様を中心として真の家庭を成し遂げることによって、その中に神様を再び迎えるようになるのです。したがって、真の愛を中心とした真の家庭こそ、神様が住まわれる地上基地になるのであり、さらには真の国家と真の平和世界の出発地になるのです。そして、これによって真の自由と幸福の世界が開かれるというのです。 先導的役割と責任を全うしなければならない言論人昔から人類が熱望してきた地上での夢は、「いかにして自由と平等の理想を共に実現できるか」ということでした。自由の理想のもとでは、平等の実現が極めて難しい課題だったのです。その反面、平等のスローガンのもとでは、自由の理想が激しい抑圧を受けるようになったという事実を、歴史的に経験しました。そうかと言って、そのうちどちらか一つだけでは、決して人類の欲望を完全に満足させることはできませんでした。このような理念上の根本的な矛盾は、もっぱら真の愛を中心とした真の家庭の理想の中でしか克服されません。すなわち、真の愛の中でのみ、真の自由が保障されるのであり、真の愛によってのみ、真の平等が可能なのです。したがって、自由と平等が共に実現された真の平和世界の実現は、真の愛の根源である神様を見いだし、神様と一つになってこそ可能なのです。このような事実は、今日、「神はいない」とか「神は必要ない」と主張する無神論者たちにとっては、大きな警鐘であると言わざるを得ません。したがって、歴史が新しい次元へと転換されるこのときにおいて、有神論的な宗教的価値観を強調しなければならないことは、言論人であるすべての人に与えられた必然的な課題とならざるを得ません。今日、世界各地で行われた世論調査を見ると、言論媒体に対する不信が次第に高まっていることが明らかになっています。言論と大衆媒体が独善的であり、自分たちだけの利益を追求し、家庭と社会を堅持する価値観を軽視しているという批判です。様々な面で一般大衆のこのような叱責は、ある程度根拠をもっていると思われます。それは、人類全体が共通に尊重し、追求しなければならない絶対的な価値基準と言論媒体の多様な見解との間に、激しい格差があるという意味でもあります。したがって、互いが尊敬し、尊重される、神様の真の愛を中心とした真の家庭が、言論と社会に共通した絶対的な価値基準として確実に定着しなければなりません。人類が希求する真の平和の世界は、上から下へと形成されるものでもなく、下から上へとつくられるものでもありません。神様を中心にすべての個人が真の家庭をつくり、神様に侍って暮らしてこそ、自由で平和な永遠の世界が建設されるのです。尊敬する世界の言論指導者の皆様。新しい時代は既に明けつつあります。有史以来、分かれた神様と人類が、真の家庭の理想の中で共に出会うときが来たのです。言論人の皆様は、この貴重な時代において先頭に立つ人となり、その先導的役割と責任を全うしてくださることを願います。迫りくる未来は、共生、共栄、共義の時代になります。誰よりもまず神様のみ旨と一致して、歴史的勝利者として残る言論人になってくださることを期待します。この会議が成功裏に開催され、大きな成果を収めることを願います。神様の祝福が皆様と皆様の御家庭に共にあることを願います。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2022.11.17
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「真の知識、真の家庭、そして世界平和」日付:一九九五年八月二十二日場所:韓国、ソウル、シェラトン・ウォーカーヒル・ホテル行事:第二十回「科学の統一に関する国際会議」および第六回「世界平和教授アカデミー世界大会」世界百二十カ国からお越しの学者、国内外の貴賓、そして紳士淑女の皆様。韓鶴子総裁と私は、韓国のソウルで皆様を歓迎することができ、大変うれしく思います。皆様は、今日、私たちの世界が抱えている最も深刻な問題を討議するだめにここにお集まりになりました。 科学の発達と人類の危機二十世紀は、科学の驚くべき発展によって生活条件が大きく発達した世紀です。しかし、その反面、世界的な紛争と道徳的混乱の世紀でもあります。科学知識と文明の発達は、人々に豊かな生活を享受できるようにした反面、自然と環境の破壊、地球の温暖化、大気中のオゾン層の破壊など、全地球的な問題が生じるようになりました。一方では、産業化と現代化の過程において、家庭が破壊され、麻薬とエイズが蔓延し、暴力、犯罪が頻発し、人間の内面における深刻な問題が人類の危機を予告しています。人々は、様々な面で平和と幸福を継続して追求してきましたが、満足のいく成果を得ることができませんでした。第一次、第二次世界大戦が終わり、戦争を阻止するために結成された国際連盟と国際連合の両機構が展開してきた世界的な活動でも、平和の世界は訪れませんでした。宗教団体の努力によっても、幸福な世界は実現しませんでした。国際共産主義の理想とファシズムの夢でも、理想世界の実現は失敗しました。高度な技術によっても、政治的な努力によっても、人類に平和と幸福をもたらすことはできませんでした。 今も、世界の各地で悲惨な戦争が起こっています。ボスニア、チェチェン、ソマリア、そしてラオスなどの各地で紛争は続いています。平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の啓発にかかっています。平和な世界や平和な国も、その構成員個々人と家庭によって形成されるからです。科学と技術も善の人々によって活用されるとき、それは人類の生活向上のために義なるものとして使われるのです。歴史を通しても聖賢や偉大なる師が、平和で幸福な世界のために、家庭、社会、国家の指導に身を捧げてきました。私たちは二十一世紀に挑戦するため、道徳的に、霊的に完璧な指導者を育てることのできる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要としているのです。神様は真の愛の本体であられるので、この世界と人間を、御自身の愛する実体対象であり、喜びの対象として創造されたというのが、私の確固たる信念です。神様は人間の父母であり、人間は神様の子女です。父母であられる神様は、人間の喜びや苦痛を共に感じるのです。神様は、子女である人間に真の愛を相続させてあげることを願っておられます。神様の真の愛は、人間の幸福と喜びの源泉であり、人間はこの真の愛を体恤することによって完成するようになっています。愛は経験と生活を通して体恤できるのですが、人間の成長期間は、正に愛を段階的に体恤する貴重な期間です。言い換えると人間は、成長期間を通して神様の愛を体恤するのですが、最初は子女の心情、二番目は兄弟の心情、三番目は夫婦の心情、四番目は父母の心情、このように四段階で体恤するのです。神様の愛が結実する最小単位が家庭です。したがって家庭は、人間の幸福と理想と生命の基台となるのです。私が生涯を通して家庭の大切さを教育し、理想家庭のための祝福行事を世界的に主導してきた理由も、ここに由来しています。今日、世界は、人々が平和に共存し、すべての民族、文化、宗教を包括できる理想社会のモデルを必要としています。私は、今年三月と四月に「サンパウロ宣言」と「ニューホープ・ファーム(新しい希望農場)宣言」を発表し、まずブラジルをはじめとする南米数カ国でモデル社会を建設し、徐々に様々な国に拡張していくことを促しました。 真の愛の共同体と共生共栄共義主義現在、四十カ国の代表たちが集まり、このような社会を建設する作業に取り掛かっています。調和の取れた一つの社会は、その構成員間の生活水準が同等でなければなりません。このような共同繁栄は共同責任の土台の上で、愛によって自発的に進められなければなりません。理想社会では、いかなる不正や差別、さらに堕落も存在してはいけません。このすべては真の愛の実践が前提とされるときにのみ可能なのです。それは、民族や肌の色、伝統が異なる人々が、真の愛の共同体をつくる歴史的な運動なのです。私たちの世界は、深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が創造された美しく神聖な世界を冒瀆するのと同じことです。真の愛のない人は、自然世界を単に利己的に利用しようとばかり考えます。堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人々や動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。万物は、人間の真の愛を待ち望んでいます。私は南米で、模範的な理想社会の建設と共に、人間が自然と正しい愛の関係を結ぶように、一つの模範を示そうとしています。私はまた、飢餓のない世界をつくろうとしています。科学技術が発達した今日においても、いまだに飢餓によって数百万の人が犠牲になっている残忍な現象が起こっているのを傍観しているわけにはいきません。私は既に二十年以上も、数千万ドルを支援しながら、海洋産業を開発してきました。高蛋白質のフィッシュ・パウダー(魚粉)を開発し、「国際救護友好財団(IRFF)」を通してアフリカなどの地を支援しています。ブラジルとアルゼンチンなどの各地の農場で生産された食糧や農業収益を、世界の飢餓問題の解決のために投入するつもりでいます。私は、共生、共栄、共義の社会建設を教えてきました。理想世界は、経済的には共生主義であり、政治的には共栄主義であり、そして倫理的には共義主義の社会です。共生主義とは、神様の真の愛を基盤とした共同所有をその中心内容とします。共生主義社会の基本となる典型は家庭です。単純な物質的所有だけではなく、神様の愛を基盤とした共同所有です。家庭におけるすべての財産は、たとえ法的には父母の名義になっていたとしても、実質的には父母と子女、すなわち全家族の共同所有となっています。それと同時に、家族の個々人は、各々部屋と衣類、そしてお小遣いをもつようになります。このように、家庭においては、家族が共有を基盤として個人的な所有も認められ、全体目的と個体目的が調和するようになっています。このような愛が基盤となった家庭の理想的な所有形態が社会、国家、世界へと拡大されたものが、理想社会の所有形態です。 真の愛を土台とした理想世界神様と人間の本然の関係は、真の愛を中心とした関係です。神様と私の共同所有、全体と私の共同所有、また隣人と私の共同所有など、様々な場合がありますが、神様の真の愛が中心となった感謝する心をもって共同所有するようになっているのです。神様の愛を完成した人間がつくりあげる理想世界においては、全体目的と個体目的は自然に調和するようになっています。人間には欲望もあり、愛の主体性をもっているので、個人所有や個体目的が許されているのです。だからといって、無制限な個人所有、あるいは全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって、自分の分限に合った所有量を取るようになるのです。特に、真の愛による万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺とするので、欲張ることや不正はあり得ないのです。同時に全体目的に反して地域や国家の利益が強調されることはあり得ず、経済活動の目標は、利潤の追求ではなく、全体の福祉に焦点が絞られるのです。共栄主義とは、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。共同政治参加の形式は、代議員を選出することになります。しかし、政治の単位が愛中心の家族関係の拡大であることを理解するとき、代議員の候補者は互いに敵対関係にはなり得ません。一人の神様を父母として侍る兄弟関係によって周辺から推薦され、奉仕する使命感をもって候補になるのです。そして、いくつかの選出段階の過程を経るときや最後の決定には、不純な人為的条件が介入されることなく、神様のみ旨に従って決めなければなりません。すなわち、祈祷と厳粛な儀式によって抽選で当選者を確定する方式になるのです。神様のみ旨と天運によって当落が決定されるので、みな感謝し、その結果を喜ばしい心で受け入れます。理想世界の国家の重要機関と部署は、共同目的のもとで、互いに円満な授受作用をしながら調和します。ちょうど人体の様々な器官が、頭脳の指示による共同目的のもとで、合目的的、あるいは自律的に協助し合うのと同じです。共義主義とは、真の愛を中心とした普遍的な倫理、道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理と道徳を普遍的に実践する道義社会を目指す思想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提としています.真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります.また、完成した人間は、真の愛によって心身が調和統一を成し遂げた人です。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、主体的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界が正に理想世界なのです。いかなる専門的な知識があったとしても、真の愛に比べればそれは十分なものではありません。私たちは、何が人間を幸福にしてくれるのか、ということに対する知識をもたなければなりません。その知識というのは、正に全知全能であられる神様のみ旨なのです。ですから、真の知識とは、神様のみ旨を知ることです。神様が理解され御覧になるのと同じ基準で、世界と歴史と人間を理解して見ることができなければなりません。すべてを御存じであられる神様が創造された、結果の世界に対する一部の知識を習得したからといって、自慢したり、独裁者のように振る舞って他人を支配したりすることは、学者として望ましこ理ではありません。皆様の目標は物理学と化学、そして生物学などの新しい発見を論じることだけではありません。そのような発見や学問的な成就が、個人と人間の全体社会にいかなる利益となるのか、そして人間と世界と万物との調和の取れた関係をいかに成し遂げるのか、ということに関しても理解し、検討しなければなりません。科学の発見は、あまりにも頻繁に、一個人、あるいは一国家の征服や繁栄のための利己的な目的に誤用されてきました。学問的な発見や発明は、神様が人間に与えてくださった大いなる祝福です。神様は、人類全体と世界のために、このような祝福を下さるのです。もしも祝福によって得られた学問的成果が、ある部類の利己的な目的にだけ利用されるのだとしたら、それは善の可能性が悪に変わってしまうのです。 「世界平和教授アカデミー」に対する期待ゲルホルム議長、これまで第二十回「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」のために注いだ教授の努力に対して、個人的に深甚なる感謝を捧げます。教授は、「ICUS」の創設以来、ずっと共に働いてきており、また「ICUS」のビジョンの最高の位置を代表しています。今回の会議に、遺伝学と生物学、そして人間の老化問題など、最近の数々の研究に関する論議のために、全世界の碩学たちを集めました。これらの研究は、新しい可能性を切り開きましたが、その正しい使い方のための新しこ徳的、あるいは社会的挑戦が付きまとうことと思います。私は、今回の「ICUS」が甲斐ある収穫を収め、世界に大きく寄与する成果があることを祈ります。「世界平和教授アカデミー」は、一九七三年、世界平和のための学者たちの積極的な探究と実践のために創設されました。特に、大学社会において、世界平和のための能動的な研究と実践の機会を提供してきました。世界に山積した問題は、良心的な碩学たちの指導を待っています。教授たちは、理論を教えるだけでなく、学生たちに人格と価値を植えつけてあげるのです。教授たちは、学生たちの人格形成と発展に重要な影響を与えることになるので、彼らを善の道に導き、助けなければなりません。私と私の妻は、「世界平和教授アカデミー」を通して、世界の若者たちが、超国家、超宗教的に和合する未来社会の立派な指導者となるよう教育することを目標に、「世界大学連盟」を開設しました。尹世元総長とルーベンシュタイン総長の知恵深い指導のもと鮮文大学とブリッジポート大学を中心に、私の構想が実践されることを期待しています。「世界大学連盟」の活動によって、世界各地の学生たちは、世界最高の学者たちの教えに接し、また教授たちは、国境を超越して多くの学生たちを指導することができるので、より良い未来のために、より大きく寄与するようになるでしょう。教授たちは若者に多くの影響を与えます。しかし、人は父母を通してより大きな影響を受けるのです。個人の性格と人格形成に最も大きな影響を及ぼすのは家庭です。人生において、家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てられます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師となって心情教育と規範教育を正しく行うようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままの姿に似て学ぶようになるのです。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が与える真の愛と父母の愛の生活に似ていきながら、愛の人格が形成され、霊性が啓発されていくのです。今日、全世界にわたって、家庭が変わりつつあり、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化と現代化が加速するにつれて、人類の価値観は崩壊し、倫理と道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺され、フリーセックスと不倫はますます助長され、家庭が破壊されつつあるのです。 真の家庭を立てるために先頭に立つべき尊敬する学者の皆様。これはどれほど不幸な風潮でしょうか。このまま放置すれば、人類は、未来に希望をもつことができなくなります。いくら社会的条件が変わったとしても、父母と子女の関係の重要性を揺るがすことはできず、家庭の大切さもまた変わりません。重ねて申し上げますが、愛は人間の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になるのです。数日後に私が執り行う歴史的な三十六万組の祝福結婚式は、私が生涯を捧げ、理想家庭に対して教育をしてきた結実の一つです。祝福儀式に同参する人は、理想家庭を築くことを既に神様に誓約し、不変の愛を祝福によって許された人たちです。神様の真の愛を中心に真の夫婦となり、父母となって真の家庭を築く人たちです。祝福行事は、一教団の結婚儀式だけではなく、病んだ人類を生かし、愛の秩序を回復させ、家庭の危機を救う救世の儀式なのです。統一教会でこの祝福行事のモットーを「理想家庭を通じた世界平和」に定めた理由もここにあるのです。家庭の未来を診断する今回の「世界平和教授アカデミー」世界大会を開催するために御苦労されたカプラン議長の指導力に感謝申し上げます。百二十カ国から参加した碩学たちと共に真の家庭像を打ち立て、不正と不倫の現世代に挑戦しなければならないと思います。皆様は、問題の分析や理解だけではなく、責任を負って、理想家庭を創造し、指導していかなければなりません。理想家庭によって社会を先導し、明るい未来を創造すると期待しています。今回の期間に、神様の加護のもとに行われる全体会議と分科会議が、皆様の熱を帯びた討議によって立派な成果を収め、さらに皆様が韓国に滞在する間、意義のある、有益な経験をすることを願ってやみません。皆様の家庭と皆様が携わるお仕事の上に神様の御加護があることを祈りなから、これで私の話を終わりにしようと思います。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.11.17
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「宗教と理想世界」日付:一九九五年八月二十一日場所:韓国、ソウル、ヒルトン・ホテル行事:「世界平和宗教連合」第三回世界大会尊敬する全世界の各教団の最高指導者の皆様。国内外の貴賓、宗教界の学者、そして宗教指導者の皆様。韓鶴子総裁と私は、皆様を温かく歓迎するとともに、皆様が韓国にとどまる間、満ち足りた時間をもつことを願います。 世界の宗教の核心主題は理想世界「世界平和宗教連合」の第三回世界大会の主題は「理想世界の実現と世界の宗教の責任」です。「理想世界」は、今まで世界のあらゆる宗教の核心主題でした。各宗教は悪の実体を認め、悪と無知の世界に対する代案を教えています。この代案の世界が正に理想世界なのです。理想を追求するのは、単に宗教にだけ限定された現象ではありません。なぜなら、全人類は宗教性を離れても理想を追求しており、理想の実現が不可能なときでさえ理想を追求しているからです。しかし、どのような努力と立派な意図があるとしても、天の法度に背いてこれを追求するならば、何の効果もなく、かえって害になる結果をもたらすようになるでしょう。ですから、神様をはっきりと知り、創造理想とそのみ旨を明確に知らなければなりません。私たちは、誤った理想の追求がもたらした悲劇を、無神論的共産主義によって胎動された、今世紀の様々な災難を通して明確に経験しました。共産主義は、神様を否定し、神様がいない理想的な人間社会をつくろうとした空想的な社会運動でした。民主体制は、共産主義より優れてはいますが、民主体制もまた、神様の摂理を無視するとすれば、継続して腐敗し、衰退してしまうでしょう。善の道と神様の法度は一つであり、同一です。人間の善と理想は偉大な神様と直接的な関係なしには、成就することも維持されることもできません。このような理由で、どこの誰でも理想を追求するとすれば、神様のみ旨と宗教の重要性を理解しなければならないと言うことができます。私は幼い頃から、人生と宇宙の根本的な疑問に対する答えを探し出そうと必死に努力してきました。私は、神様が理想の実現が不可能で、罪と苦難、そして不和がいつも猛威を振るう世界を創造されたとは、信じることができませんでした。私は、私が経験する世界がなぜこのように悪で満ちているのか、理解できませんでした。私の青少年期の経験を詳しく皆様にお話し申し上げる時間はありません。私の青年時代は真理に向かう渇望に満ちていたと話すことで十分でしょう。私が明らかにした「統一原理」は、平凡に得られたものではありません。「統一原理」の根本は、徹底的な祈りの中で、霊界の聖人や賢人たちとの交流は言うまでもなく、神様との深い交わりから見いだしたものです。サタンとの血みどろの闘いを通して得た勝利なのです。私はこの「統一原理」を教えて実践するために、生涯の一瞬一瞬を捧げています。「統一原理」は全世界に伝播され、人をして、生きていらっしゃる神様と新しい関係を結ばせ、その人生を変化させています。 神様の理想と真の愛の家庭私たち人間は、神様によって創造されたので、理想世界に向かう熱い望みをもって生まれました。「理想世界」と言うとき、その「理想」とは、本来神様に由来したものです。神様は、権力や栄光、あるいは富のために世の中を創造したのではありません。神様は、権力や栄光、富に対する欲望はありません。しかし、神様は、いかなる欲望ももたないというのは、正しくありません。神様は真の愛の本体としていらっしゃいます。愛を体恤するためには、神様も関係を結ばなければならないからです。真の愛の体恤は、主体と対象の関係を通した経験でのみ可能です。どのような存在も、独りで孤立していては、愛を感じることができないのです。愛の関係は、自由に与え合うことができる存在だけが結べます。神様は、神様と自由に愛を与え合うことのできる存在、すなわち神様の愛の完全な対象体として人間を創造されました。人間は、真の愛の主体性をもつように創造された、神様の息子と娘です。ですから、神様は人間の真の父母でいらっしゃいます。神様は人間を神様の真の愛に同参させ、その愛を相続する存在として立て、その垣根として万物世界を創造されました。神様と人間はすべて、真の愛を通して最高の喜びと幸福を経験できるのです。神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長し、真の人になることを希望されました。神様は、彼らの生物的な成長と栄養供給のために、環境を満遍なく、あらかじめ備えておかれました。しかし、神様のより深い関心は、人間の内的性稟と人格にありました。彼らは愛の経験を通して、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的であり非物質的な力の中で、最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を、神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人間が神様に似て一体となり、完成するということです。神様の愛が、人間の幸福と生命と理想の源泉になる理由も、ここにあります。アダムとエバは、神様の愛の中で真の人になったのちに、お互いが真の愛で真の夫婦になり、それから子女をもって真の父母になるようになっています。人間が神様の利他的で無条件的な父母の愛を伝授された人格完成体となるとき、真の父母になります。人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得します。生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。このように真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。神様の真の愛の実体となった人間は、神様のみ旨に背いたり、他の人を侵害したり、または万物世界を悪用することができなくなります。 堕落と復帰今日の現実はどうですか。戦争と葛藤、暴力と麻薬など、あらゆる不正と弊害が人類を不安にさせています。より一層深刻なのは、若者たちの性道徳が急激に崩れ、離婚率が急増して、幼い未婚の母の問題と家庭破壊が、人類社会の根底を揺るがしているということです。これはすべて、堕落に起因したものです。アダムとエバが、成長期間に純粋な愛の理想を汚したためです。エバが、蛇すなわちサタンによって果実を取って食べたということは、エバが原理を外れた愛の行為で堕落したことを象徴します。アダムとエバは、愛する父母であられる神様を不信し、結果的にサタンに対して従順となり、偽りの夫婦になり、偽りの父母から人類歴史がスタートするようになったのです。彼らの子孫は暴力と殺人、罪と苦痛の中に陥る結果を招いてしまいました。このようにアダム家庭から人類が受け継いだ遺産は、罪と偽り、不浄な愛、暴力、殺人などでした。今は終末を迎えて、アダムとエバが蒔いた種の結果が、世の中に満開になって実を結んでいるのを見ることができます。神様の心情はどれほど悲しいでしょうか。神様はどのようにしてでも、本来計画された真の愛の理想を回復されなければなりません。神様の救援摂理のために宗教をお立てになり、善の版図を広めてきました。神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られなければなりません。真の父母の使命は、人類を真の愛で重生させて真の人に回復させ、真の夫婦となり真の父母になるようにすることです。 宗教の責任神様のみ旨に逆行する世界の問題は、誰が収拾しなければなりませんか。不正と罪と苦痛の現実を変える責任は、宗教指導者たちが引き受けなければなりません。私は神様の召命を受けた日から、この責任に自分自身を捧げてきました。私は、原理と摂理の道を徹底して守りながら、人類の具体的な人生に時間と空間を超越して深々と浸透してきた悪に向かって、挑戦してきました。私はいつも、私自身と自らのすべての基盤を使って、他の宗教と世界の偉大な宗教指導者たちと協力を図ることに最善を尽くしました。そのようにする間、一度も神様に対する責任を果たさなかったことはありません。「世界平和宗教連合」の創設を主唱した一九九〇年の「世界宗教議会」(サンフランシスコ)において、神様の創造目的、真の愛の根本、そして真の父母の役割を説明しました。社会倫理を正しく立て直して退廃文化を一掃し、真の愛と真の父母主義を実践しようと訴えました。真の愛による理想家庭を取り戻し、社会倫理を正しく立て直すことは、この時代の宗教指導者たちに賦与された貴重な責任です。また、宗教指導者たちは、世の中の不法と不正などをなくすために先頭に立つ責任があります。世界的に澎湃した不法と不平等、不条理を傍観したまま、宗教だけが理想郷に向かって現実の泥沼を抜け出すことはできないのです。儀式に溺れた信仰から生活信仰に変え、人間がその精神的荒廃から本性を取り戻せるよう、宗教者が模範を見せなければならないと思います。そして、宗教指導者たちは他の人々のために、無制限の犠牲的生活を送り、またそのままそれを教えなければならない責任があると思います。まだこの世界には貧困と飢餓状態にある人が大勢いて、不平等が深刻化しています。これに対する宗教者の責任は、非常に大きいといえます。私は過去二十年間、海洋資源の開発のために直接先頭に立って船に乗り、物心両面で多くを投入しながら努力しました。高蛋白質のフィッシュ・パウダー(魚粉)を開発することに成功し、人体に大切な製品を研究し、開発することを続けています。このすべての成果は、既に「国際救護親善財団」(IRFF)を通して、アフリカなどの地に効果的に支援されています。そして、今年初めから、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの四カ国に広い土地を準備し、「新しい希望農場」を始めました。地球上から飢えの惨状をなくすという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、低開発国家を支援することに、教団が互いに連合し協力すべきだと思います。教団が先導するこのような人的物的投資を通して、真の愛が実践されれば、世界に希望を与えることができると思うのです。神様の真の愛による投入と注入がなかったなら、宇宙は生じませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。ところが、堕落した世界では、主体が対象のために生きるのではなく、むしろ自己中心に利用しようとするので、滅びるのです。宗教は相手を先に喜ばせたあとに、自分が喜ぼうとする天理原則を教育し、実践しなければなりません。尊敬する宗教界の指導者の皆様。「世界平和宗教連合」は宗教間の和合と世界平和のために、建設的に一緒に仕事をしていかなければなりません。「世界平和宗教連合」が世界の良心のような機能を果たさなければならないのです。政治、経済、教育など、世界の各界の指導者たちに助言し、指導するだけでなく、模範を示すべきでしょう。偉大な宗教は迫害と殉教の土壌の上に立てられ、創始者の貴い伝統基盤の上に立ったので、私たちは、犠牲を忌避することなく宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。最後に、私は今回の「世界平和宗教連合」の議会が、理想世界の実現のための宗教の責任に対する深い議論とともに、大きな成果を上げるだろうと思います。皆様と皆様の家庭、そして皆様が行われることに、神様の祝福が常に共にあることを願います。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2022.11.16
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「真の子女になりましょう」1964年4月20日松濤本部にて一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.10.30
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「真なる家庭と私」1995年5月30日五月三十日夜、首都ブエノスアイレスのアール・パレス・ホテルでVIPの晩餐会が開かれました。この時に語られた講演文です。 きょうの夕べ、アルゼンチンに来て、貴賓の皆さんとお会いし、このような歓迎のパーティーをもてたことに、心から感謝を申し上げます。 皆さんは、たくさんのうわさを聞いてご存じでしょうが、ここに立っている者が、まさしくレバレンド・ムーンという人物です。世界で多くの問題を起こし、多くのことがらを推進して今日まで進んできたのは、天に侍ってきた歴史的事実があったからだということにほかなりません。 きょうしばらくの間、お会いして、喜ばしい環境の中でお話ししようと思う内容は「真なる家庭と私」です。世界で問題になるのは家庭ですが、真なる家庭とはどのような家庭かを中心としてお話ししようと思います。 今、私たちが生きている世界は善なる世界か、悪なる世界かと尋ねるなら、だれでもみな悪なる世界だと答えることでしょう。なぜ、悪なる世界なのでしょうか? 全世界の歴史を見ても、アルゼンチンの歴史を見ても、またどの国の歴史を見ても、戦争史で連結されているという事実を私たちは知っています。 戦争を通して戦うならば、一つの平面的な基準で同じ立場にある人々が戦うようになるなら、これらはより衰退するようになっています。世界が悪いなら、アルゼンチンの国も悪いという話であり、アルゼンチンの人も、私たち自身も悪いということです。 私たち自身をよくみれば、私たちの心と体も闘っている事実を否定することができません。それなら、この闘いの起源がいったいどこにあるのかということが問題です。私自身が闘い平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福ではあり得ないのです。 皆さんがご存じのように、第一次、第二次世界大戦も終戦となりました。戦争は終戦や休戦にいくらでもすることができますが、私たちの心と体を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、今の現世ももちろんですが、未来まで継続する闘いであることを私たちは想像だにしていません。 このような問題を中心として考えるとき、神様がおられるなら、私たちの心と体の闘いを、なぜこのように歴史性を帯びて継続させたのかということが大きな問題になるのです。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそのことを蕩減しなければならないのです。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、これに干渉することはできないのです。 では、心と体が闘う根源地はどこでしょうか? 私たちの生命は父母から受け継ぎ、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の立場までさかのぼるようになります。すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に、問題があったためにこのようになったとみるのです。生命の起源は父母の愛で始まるのです。 では、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったとみるなら、父母が愛し合った立場が問題になったという事実を私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛にならず、相いれない愛の起源によって生命を受け継いだ私たち人間自体の紛争は、そこから始まったと言わざるを得ません。 聖書はアダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたといっています。追い出されて人類の先祖が子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバに、神様が結婚式をしてくれるはずは絶対にありません。 だれの下で結婚式をしたかと考えると、堕落することによってサタンの下で結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ません。堕落はサタンによってエバが誘惑され、誘惑されたエバがアダムを誘惑したのです。 ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相いれない関係により私たち人類の始祖が始まることによって、その関係に起因する私たち人間も、心と体の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。 堕落は淫乱によって始まったのです。このような願わない愛の関係によってサタンと一つとなって、善なる先祖になれず悪なる先祖になって、悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根をもつようになったのです。このようなことが事実であれば、私たちのすべての人類の堕落した後孫たちが、家庭を超えて氏族、国家、世界まで発展した今日、五十億人類はサタンの後孫であり、悪なる父母の血統を受け継いだということを否定できないのです。 私たちの体の中に、神様が一番嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、どこのだれも考えることができませんでした。これが問題です。では、この根をどのように清算するのでしょうか? サタンが愛の根をどこに下ろしたかといえば体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。 もし堕落しなかったなら、心と体が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって天に対する良心のプラスとこれに反対する体のプラスが相いれずにいるために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を私たちははっきり認識しなければなりません。 神様は、こうして善悪を分立する歴史をとおして、転換せざるを得ないのです。神様は公的なので全体のために生きる道を取りながら、愛と平和の目的に向かいます。その反面、サタンは私的立場を取って全面的に善の側を破壊しようとする立場を取り、憎悪と戦争で永遠に人類を天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしているのです。 神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的中心に憎悪と闘争で、天を滅ぼそうと歴史を通じてなしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。 末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第二次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変換時代を迎えるようになるのです。 今は個人主義の王国時代です。真の愛を中心とした、天の家庭を完全に破壊するフリーセックス時代、父母否定時代であり、夫婦否定時代、子女否定時代です。理想家庭を取り戻す天の側を完全に破壊するホモ、レスビアンの地上地獄時代を、天国に転換するのが再臨のメシヤの使命なのです。そうして、メシヤは真の父母として、心と体の統一、夫婦の統一、子女の統一を願うのです。 全世界的に今、問題は公私にかかわらず、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということが問題です。これをはっきりさせなければなりません。 例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目がまず生じるようになります。その目自体は物質それ自体です。その目が生まれる前に太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか?その目の物質自体は知りませんでしたが、太陽を見ることができるように生まれたということは、その物質自体よりも先に、太陽があることを知った立場で生まれたということです。 その目自体が空気があるということを、その目自体の物質は知りませんでしたが、すでに空気の中にはほこりが飛ぶことを知って、目をカバーする睫が準備されているということを知ることができます。また、目自体は知りませんでしたが、すでに蒸発する輻射熱があることを知り、目に涙腺をおいて防備させたのは、生まれる前にそのようなことがあることを知って生まれたのです。 結論づければ、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論が論争する問題の解決をみるようになるのです。ですから、はっきり神によって創造されたことを否定することはできません。そうして、本然の神様の創造理想世界に帰って、神様が願う家庭と私と世界をはっきり知らなければならないのです。 私たちの心と体を見るとき、体は地獄の基地になっており、良心は天国の基地になっています。この二つの世界の分岐点をもっている人間であることを知りませんでした。このような立場に立っている私たち自身を見るときに、体が心を引っ張り回すのです。体が心を自由自在に歴史を通じて引っ張り回したのです。 もし、良心が強ければ、自然と天に帰っていくので、世界はすでに天の前に立つことができたはずです。また、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力より強かったということです。 ですから、神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦をせざるを得ないのです。 このように、歴史的に天が働くその救援的な体制を立てたのが宗教です。全世界の文化圏が異なる背景に従って、さまざまな宗教を立てて、体が心を引っ張り回すのをどのようにして弱めるのかというのが宗教の目的だということを、今まで宗教を信じる信仰者たちは知らずにいたのです。 堕落がなかったなら、宗教は必要ないのです。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか? 心を引っ張り回すこの体を弱めようとするのです。 皆さんは、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として、一つになった子女が入るようになっています。 天国に入ることのできるアダムとエバの家庭は神様の血族であり、神様の愛を中心とした家庭であらざるを得ないのです。そのような家庭が入る所が天国だということを、今までだれも知りませんでした。 ですから、良心の力を強化するためにこの体を弱めなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落しなかった本然の神様の愛の懐に帰らなければならないのです。 では、宗教がすべき内容が何かといえば、体が一番嫌うことを提示することです。体が嫌うのは断食をせよ!そして次には奉仕をせよ! そして犠牲になれ! それだけではなく、後には祭物になれ! 祭物は血を流すようになっています。生命を捧げられなければならないという話です。 ですから、聖書で、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と逆説的な論理を教えたのも、肉身の欲望のまま生きれば地獄に行くのであり、肉身の欲望を抑制して良心に従っていけば天国に行くという話です。この体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限な欲望と無限な希望をもつようになっているのです。 今までの歴史のなかで数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者たちがいましたが、彼らは体を完全に占領し、無の状態に立って、良心をもって本然的基準で天と相対できる立場の解放された人間になれませんでした。 私たち堕落した人間は、偽りの愛の根を中心として、野生のオリブ(渋柿)になってしまい、真のオリブ(甘柿)になれませんでした。神様の真の愛を中心として根を張るべき人間が、悪魔の愛を中心として根を張ったために、野生のオリブになったのです。この事実に対してどのように清算すべきでしょうか?きょう現在、生きている私たち人類の解決すべき重大な、宿命的な課題として残っているのです。 皆さん自身を中心としてみるとき、皆さんの良心は皆さんのあらゆることで知らないことがありません。良心は私において、父母よりも近い立場に存在することで、永遠なる愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。 世の中の父母たちは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私とともに存在し、私を愛しながら永遠に神様の子女として解放させようとするのがその使命だったのです。 良心の世界には先生が必要ありません。ある国の文部省の大臣が、良心教育をしようと宣布をしたという話を聞いたことがありますか? 良心が本然の道を行ったなら、私が一生の間、行く道をはっきり知って、間違いなく神様の懐に帰ることができるように、みな教え導いたのです。 皆さんが良心を中心としてみるときに、良心がすべての私の一生のことを知っているのと同様に、霊界に行けば霊界にコンピューターがあるので、地上でなされたすべての事実がはっきりと記録されるのです。私の良心というものが、永遠なる神様の真なる息子・娘になるために、そのような傷のない子女となるようにするのが良心の使命だということを、今まで知りませんでした。 霊界に行かない自信のある人がいますか? 必ずみな行くのです。皆さんが霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになって、皆さんの一生だけでなく、数千代の先祖たちも一瞬間に分かるのです。その世界は時空を超越した世界なので、良心に反する内容を残してはならないのです。それゆえ、良心は先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。 ここには著名なかたがたと、教授たちが来ていると思いますが、皆さんが良心以上のことを教えてあげる内容を持てないでいるのです。皆さんの良心は、船におけるコンパスと同様の役割をしているのです。 皆さんの中に、年を取ったかたがたと若いかたがたがおられますが、結婚するときに相手が自分より劣ることを願う人がいましたか、いませんでしたか? いません。また、愛する相手が自分より十倍、百倍、可能なら千倍、万倍、億万倍もっと優ることを願うのです。 ですから、良心の欲望は最高の愛を求め、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖たちも私たちの後孫たちも、同じです。このような質問を神様にしても、同じ答えをするのです。皆さん、欲心と欲望をみな叶えるという見込みはないでしょう? ここのアルゼンチンの上院議員が大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界の一番高い立場を占有したいのが良心の欲望なのです。歴史以来、今まですべての人々の考えは、良心の欲望は達成できない、不可能だ、という結論を下しています。しかし、ここに立っているレバレンド・ムーンは可能だという結論を下しています。 皆さんの良心はどれほど大きいですか? 良心が神様を占領したとき、それで終わると思いますか? 神様よりも大きいものがあるなら、より大きなものを占領したいのが良心の欲望です。 では、良心の欲望がいったい何をしようというのでしょうか? 宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、また、それ以上のものがあればそれをも占領しようとするのです。 では、神様の良心はどれほど大きいでしょうか? 人間の良心と神様の良心を比較すれば、どちらの良心がより大きいでしょうか?神様の良心が人間の良心より大きいなら、その良心で何をするのですか? 神様が一番占領したいのが、このうえなく大きな人間の真の愛に対する欲望だという結論が出てきました。 神様が絶対的なおかたであられるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか? 皆さんがいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすならば、かわいそうです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです! 神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか?いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識、また権力がなければ寂しいのですが、神様はお金や、知識や、権力も必要ありません。 神様に一番必要なものが何かが問題です。神様を何といいますか? 神様は愛の王である! もし神様が愛の王であり、新郎であれば、相対者たる皇后が必要だという話が絶対的原理です。では、絶対的な神様の前に愛の相対になるおかたはだれでしょうか? それは真なる人間です! 皆さんはお金や、知識や、権力を必要としますが、妻がいなければみな意味がないのです! 夫には妻や、子供が必要であり、妻にも夫と子供が必要なのです! そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。違いますか? 私はここで、良心の欲望をいっぱいに満たす愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛で息子・娘と幸福によく暮らす。その家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地にならなければならないのです。 私たち人間も愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在であることを望むのと同様に、神様も自己の愛する相対が、無限なる価値ある存在になることを願うのです。そのような人が真なる人間でした。 皆さん! そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。神様が主体なら人間が対象の立場にある存在なので、神様の分身ではありません! 神様もまた他の別個の人格者だというのです! そうなり得る対象の前に、神様の何千万倍の期待できる価値的な存在になることを願う欲望を可能にすることのできる、私たち人間に許してくれたのが良心の欲望だということを、私たちは知らなければなりません。 神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大なる愛を中心として、人間との愛の関係を結んで一つになるこのような神人愛一体の家庭を築いたなら、今日、私たちは天国だとか地獄だとかを心配することなく、ただそのまま天国にみな入るようになっていたのです。 ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛で、一つになって一点から出発しなくては、二つの愛の方向と目的地になるというのです。 このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせないのです。この二つの愛が一点から出発できることを願われた神様のみ意は、堕落によって完全に停止してしまったのです。 サタンの愛を中心として偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこのような後孫なので、これは全部地獄に行くのです。天国とは関係がないのです。 ですから、肉身の欲望を抑えて、心を思いどおりにすることのできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければならないという事実を知りませんでした。 皆さん、恋の病を知っていますか? 恋の病にかかった人がいるなら、恋の病にかかった動機を解決してあげれば万事が解決するのです。 堕落した人間ですが、堕落しなかったアダムの本性が残っていて、それが恋の病のように神様の愛を恋い焦がれ、また恋い焦がれるようになったというのです。良心は神様の真の愛を、どのように占領するのでしょうか? 何かお金があり、知識があり、権力があっても、自己の命を懸けて愛する人を失ってしまえば、役に立たないのです。 皆さんが心を解放させ、解怨成就させて、三六〇度をもって解放圏を良心世界に放てば、その良心は自然と神様の真の愛と連結されるのです。愛と良心のどちらが大きいかといえば、愛が大きいというのです。なぜなら、良心は愛から始まったので、愛がより大きいということを知ることができます。 良心を解放させ、神様の真の愛と一つとなって暮らしてから入る所、神様の愛の血族のために準備して、愛を中心として暮らしてから入る所が天国だというのです。この愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年を待たなければならないというのです。堕落によって失われた、真なる神様の思想と経綸の明かりが人間たちに、神様の真の愛を備え灯されて一体にならない限り、天国とは関係がないのです。 真の良心と、真の愛が一つになって暮らす人は、天国に自動的に入ります。イエス様を信じても、神様の愛との連結ができない者は、天国に入れません。心と体が闘う者は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争する者は天国に入れません。 このようなことを開拓すべきすべての宗教が、自ら闘うときには、終わりの日にみな滅びるようになります。闘う所には神様がおられません。それゆえ、宗教というものは体を打って良心を解放させる方便的な運動であって、これが救いの門を開く鍵ではありません。 神様の真の愛を中心として真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなくては、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではなく、宗教は体を弱めるものです! 良心の解放圏を備えるようになれば、良心の欲望は神様より高くなる資格があるというのです! 皆さん、私がすることを良心が先に知っているでしょうか? どうですか? 良心が先に知っているのです。私たち人間は相対的な存在なので、人格が異ならなければなりません。個性が異なるのです。人格が異なるのです。 もし、神様が先に知るなら、神様の分身であり、一つの体なのです。そうなれば、相対的な理想は自己自らがしなければならないということです。アダムとエバが堕落した後で神様が、「おい、アダム! おまえはどこにいるのか?」とまず聞くのです。 対象的な人格者としての人間は、神様の真の愛から出発したので神様に帰るのです。神様に帰らなければならないのです。父母が百歳になり、息子・娘たちが年を取って八十歳になるなら、父と子は父子の関係はもちろん、友にもなるのです。 男性と女性を力で比較すれば相手になりませんが、愛というものが介在するなら、夫と妻が互いに押したり引き寄せたりしながら一つになるというのです。神様の前に対象的な愛の存在になったなら、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか? 神様が理想的な対象を願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をおつくりになりましたが、愛の対象として完成した後に、アダムとエバがそれ以上に大きなものを再び創造してほしいと言えば、神様には創造なさることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか? 私たちの良心の欲望が無限なものであっても、それを創造してくれる神様だということを知らなければなりません。 このように無限なる神様の真の愛を中心として、対象の価値としてつくられたという事実を完全に失ってしまったので、これを再び回復しなければならないというのが、人間の生涯であり、人類歴史の目的だったということを知らなければなりません。神様は宗教を立て、宗教の主人たちが再び来るといいました。キリスト教はイエス様が再臨するといい、仏教は弥勒仏が来るといい、儒教は真人が、イスラム教はマホメットが再臨するといいました。 神様が宗教を立てた目的は何でしょうか? 神様が一番愛する息子・娘、神様の骨と肉が一つになるそのような愛する息子・娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成するのが神様のみ旨であるということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 それでは、メシヤはどのようなかたであるかということを皆さんは知らなければなりません。永遠なる神様の真の愛を根として、初めて地上に来られて、すべての宗教が願う理想を完成するおかたが再臨のメシヤだということを、皆さんは知らなければなりません。そうして、真の父母となって、失ってしまった真の愛を中心として、真なる生命と真なる血統を地上に理想家庭として探し立てようというのが、神様の救援摂理の目的でした。 堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子・娘たちをみな失ってしまいました。神様が持つことのできる真の息子・娘がいなかったのです! 神様の真の愛を中心として、血統的な因縁を持つ神様の家庭がなかったのです。 堕落した父母によって、偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことで、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子・娘たちの殺戮戦が起こったのです。 それゆえ、神様がこれを復帰するための救援摂理をしました。救援摂理は復帰摂理なので、失ってしまった真なる心と体が一つとなった息子・娘となり、絶対的に一つになる夫婦、息子・娘が絶対的に神様の真の愛を中心として完全に一つとなって、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を、新婦格であるキリスト教と連結させ、神様と血縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成なのです。 アルゼンチンで暮らすこの国の指導者の皆さん! アルゼンチンが神様の祝福を受けることを願うでしょう? そのためには神様の真の愛を中心として、心と体が一つとなった民にならなければならないのです。 神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになる家庭を持つその家庭が、アルゼンチンに多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるのです。そうなれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ません。 自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとしても、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に生きたいのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいのと同様に、神様も一番愛することのできる息子・娘のいる所があれば、農村や貧民窟も天国になるのであり、上流層も天国になるのであり、中流、そのあらゆる環境を超えて天国になるという話なのです。 さて、きょう統一教会の教主という人がここに現れて話をしています。 統一教会とはいったい何をする所かと尋ねるなら、神様の真の愛を紹介する所です。また、真の愛を中心として心と体が一つになるようにしようとする所であり、心と体が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つとなった理想的夫婦にしようとする所です。 その息子・娘は絶対的に分かれない統一された兄弟にしようとするそのような主義で、神様の命令によってその使命を遂行するのが統一教会だ、ということを伝達いたします。 偽りの父母から偽りの愛と偽りの生命、偽りの血統で始まったすべての汚されたものを完全に清算し、真なる神様と真なる父母の愛を中心として、私たち夫婦は真の父母となって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木するための礼式が国際合同結婚式になるのです。 堕落によって偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の種を受け、偽りの結婚式をした家庭を反対に復帰するために、新しい結婚式に国際的にすべての家庭を参与させ、天の大きな祝福を伝授してあげようとする礼式が祝福結婚なのです。アルゼンチンの全国民が大きな祝福を受け、天国家庭に転換され、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。 こうして、超国家的な血縁関係を結成して、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することによって、真なる父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を迎えることによって、地上から天上世界まで、天国に入ることのできる解放された地上天国世界を完成しようというのが、統一教会の目的なのです。 第二次大戦以後、レバレンド・ムーンは全世界的に五十年の間、迫害を受けてきました。知ってみると、罪があったからではなく、人々を救うために多くの迫害を受けたことを知る時代になったので、今は反対に、一番立派だと考えるようになりました。 レバレンド・ムーンの手によって、共産主義が滅びました! ゴルバチョフと金日成を教化させたのがレバレンド・ムーンです! 滅びていくアメリカを救おうと、レバレンド・ムーンでなければならないという、そのような希望的な体制をつくっておきました。 レバレンド・ムーンが言ったことはみな成してきました。全世界がレバレンド・ムーンを亡き者にし、殺そうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立って、きょうも叫ぶことのできる立場に立ったのは、天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するから生き残ったという事実を、きょう、皆さんは知って、統一教会について命を懸けて、これを学んでみなければならないと思うのです。 きょうこのような意義深い日、会って信じるに値する立場で、一番重要な事実について紹介しました。どうぞ忘れずにこの道に従って、皆さんが新しい覚醒のもとに決意して、皆さんの家庭と皆さんの国に、祝福を誘導する指導者になるようお願いします。これによって、理想的家庭が皆さんの国に出発し始めるのです。 皆さんもご存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は、真の父母という名をもって全世界に知られています。今日、私たち夫婦が真正なる真の父母として、真なる愛、真なる生命、真なる血統で天と連結されたのが事実なら、この地上には平和を成す真の家庭と私から、解放と、自由と、統一と幸福の天国が始まるということを記憶してくださるようにお願いします。 皆さんの家庭と国に、神様の祝福があるように祈ります。 ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.10.02
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「アメリカと神のみ旨」1976年9月18日「ゴッド・ブレス・アメリカ(ワシントン大会)」フェスティバルにおける講演より 分裂の中にある世界 尊敬すべきアメリカ市民並びに世界の代表の皆さま。 私は、皆さまがワシントン・モニュメントでの大会にお集り下さいましたことに対し、衷心から感謝申し上げます。今晩、私たちは神のみ名において、アメリカ建国二百年を祝っております。きょうは皆さまと私にとって、歴史的な瞬間であります。 今晩、私は「アメリカと神のみ旨」というテーマでお話したいと思います。 神は永遠、不変、唯一、絶対であります。もし、これらが神の属性であるとすれば、神の天地創造の目的も永遠、不変、唯一、絶対のものでなければなりません。はじめ、神の理想は統一と調和に満ちた一つの世界を創ることでありました。 しかしながら、今日われわれの世界には、統一も調和もありません。そのかわりにあるのは、分裂と不調和、混乱と混沌であります。われわれ個人においては、心と体が分裂しており、またわれわれの家庭、民族、国家、および世界そのものもバラバラに分かれております。この現実は、神の本来の意図とは完全に相反するものであります。明らかに何かが根本的に狂っているからです。 宗教はそれを明確に説明しています。それによると、この世界的な分裂はわれわれの始祖たちの神に対する反逆、つまり人間の堕落の結果であるということです。 神は堕落した人間を救うために、メシア(救世主)を送られました。メシアの目的は人間を堕落以前の正しい状態に復帰させることでありました。したがって「救い」は「復帰」と同じことであります。 人間の堕落によって、この堕落した世界が生まれました。人間は神に反逆したのです。これにより人間は、サタン(悪魔)に騙(だま)され、ほん弄される立場に陥りました。やがて人間はサタンと一体となり、神の性質と愛のかわりに、サタンの性質と情念のトリコになり果てました。 われわれが創造本然の人間に立ち返るためには、堕落の経路を逆にたどって行かなければなりません。そのために、今度はわれわれが失ったその神のみ言(ことば)に聞き従い、サタンと自己とを引き離して神に帰らなければなりません。このようにしてわれわれは、神の性質と神の愛を受け入れることができるのです。 神は最高に自己がなく、最高に公的な心を持っておられます。これに反しサタンは、絶望的なほど自己中心的で、自己自身のためだけにすべてを利用する存在です。神が人間を復帰する「公式」は、われわれが神のかたちに似ることです。つまりこれは、われわれが神のように完全に利己心をなくして公的な心を持った者になることを意味しています。 われわれは隣人のために、自分自身を犠牲にすることができるものとならねばなりません。そのようなエゴのない、公的な心を持った人は、神のかたちを宿した者となり、繁栄するでしょう。利己的で、自己中心的な人は、神と人に敵対するがゆえに衰退することは明らかです。これが神の法則です。 人類の歴史は、闘争の歴史であり、戦争の歴史でありました。それはあたかも人間存在をかけた、神とサタンの綱引きのようなものです。善なるものと悪なるものが、人間をそれぞれの側に勝ち取ろうとして戦ってきたのです。 人類歴史は人間始祖の堕落で始まったために、悪が善に先行することになりました。したがって歴史上、悪の側に立ったものは、つねに侵略的、攻撃的立場をとってきました。しかし、神は善そのものであるために、最後には善の側が絶対に勝利を得るのです。善の側はこれまでつねに“負け犬”とされてきました。しかし最終的には、勝利者であり、つねにその勝利圏は広がってゆきます。 例をあげれば第一次世界大戦や第二次世界大戦においても、悪の側が最初に、攻撃をしかけてきました。しかし、彼らは敗北の道をたどったのです。今日、第三次世界大戦についても、非常に多くのことがいわれていますが、悪の側を代表した共産主義国家群によって、自由世界への挑戦がなされ、争いが全世界の各地で頻発しています。しかし、神の「公式」からすれば、究極の勝利が善の側にあることは確実です。 中心的宗教と国家 神の復帰のみ業について、もう一つの「公式」があります。神は、堕落した人間を復帰するためにメシアを送られるのですが、その前に神はいつも、中心的宗教と選ばれた国家を準備して、メシアを迎える基盤を整えられるということです。この「公式」によれば、神は最初の中心的宗教としてユダヤ教をたて、イスラエル民族を最初に選ばれたのです。この基盤の上に、神はイエス・キリストをメシアとして送られたのです。イエスの願いは、選ばれた国家と宗教がイエスとともに地上に「神の国」を建て、世界と人類を神のもとへ復帰することでした。神はこの目的のために、四千年もの歳月をかけてユダヤ教を準備し、イスラエル民族を訓練してこられたのです。もし、彼らがイエス・キリストをメシアとして受け入れていたなら、そして彼とともに犠牲精神を発揮して働いていたならば、イエスはイスラエルで成功していたばかりでなく、アラブ、アジア全域を統一することに成功していたでしょう。さらに東洋と西洋を一つにすることにも成功していたはずです。 しかし、イスラエル民族とユダヤ民族は、彼らの使命について完全には理解できませんでした。イエスは、メシアとして受け入れられなかったばかりか、最後には、十字架にかけられて殺されてしまったのです。 このようにして「神の国」の建設は未完成のままに地上に残されました。しかし、他界したイエスは霊的救いの道を開き、キリスト教徒が第二イスラエルとして、霊的な立場で使命達成に出発したのです。初期のクリスチャンたちは迫害を受けながらも、ローマに進軍して行きました。その迫害は四百年間も続き、非常に多くの殉教の血が流されました。メシアのために神が準備した四千年間を償うために、このような犠牲が必要だったのです。しかし、クリスチャンはついに、ローマで勝利を収め、キリスト教はその国教となったのです。このようにして、ローマは第二イスラエルの立場をとるようになり、神の祝福を受けるようになるのです。 失敗したローマと英国 神は、ローマ法王とローマが完全に一つになり、統一した世界を設してイスラエルが成就しえずに残した仕事を果たしてほしい、と願ったのです。しかし韓国法王もまた、その使命の重要さを理解できず、たびたび自己の栄光のために権力を濫用したのです。悪弊と腐敗が教会の中にはびこり、神のみ意(こころ)から遠く離れてしまいました。法王の権威は地に堕ち、この反動でヒューマニズムが台頭してきたのです。 そして、一方では、プロテスタントが、腐敗した教会の改革を叫んで出現してきました。しかし、その強い叫びにもかかわらず、法王とローマの権力者たちは、改革者への弾圧を強化しました。この期間にイギリス国王のヘンリー八世は、ローマ・カトリックに反対し、英国議会を通して新しい法律を制定し、新しくイギリス国教を定めたのです。 これは英国がヨーロッパのプロテスタント運動に加わり、神のみ旨に加わる絶好の機会でした。そして「太陽が沈むことのない国」といわれたほど、大英帝国は世界で最大の国家になりました。しかしこれはただ英国のための特別な祝福ではなく、「神の国」を実現するための神の祝福だったのです。もし英国がこのような神のみ意を理解していたなら、英国はピューリタンとプロテスタントの運動を支持して、神から与えられた世界復帰の運動に取り組んでいったことでしょう。そして英国はすべての国境を越えて、神の統一国家を実際的に創っていたはずです。 しかし英国はピューリタンを迫害し冷遇したのです。迫害された人びとは、「希望の地」を見つけなければなりませんでした。彼らは迫害という共通の運命によって結ばれ、国境を越えてその迫害からのがれるために、新世界にやってきたのです。これがアメリカ大陸でした。ここで彼らは、独立したプロテスタントの国家を創ったのです。これがアメリカ誕生の摂理的背景です。 今日、アメリカとキリスト教はともに、神の世界復帰の聖なる使命を果たさなければなりません。アメリカは、西洋と東洋、そして中東の文化を統一しなければなりません。そして大統一文化を創造しなければなりません。それは最終的に、地上に「神の国」を建設することになるのです。 苦悩かかえる米国 ユダヤ教は神が最初に選んだ中心的宗教でした。キリスト教は第二番目のものです。そして神の摂理における最後の段階を完成するために、新しい啓示として出現した統一教会は、第三番目のものです。これらの中心的宗教は現在のアメリカにおいて一つにならなければなりません。そして世界の宗教を一つにしなければなりません。 旧約聖書を中心としたユダヤ教は、神の最初のみ業でした。それは長男の立場です。そして神の新しい啓示、成約のみ言を実現すべき統一教会は、三男の立場です。これらの三つの宗教は、神の摂理から見れば三人の兄弟なのです。それゆえ、これらの宗教が基盤となっている三つの国ぐに、すなわちイスラエル、アメリカ、韓国は兄弟国家にならなければなりません。なぜなら、これらの国ぐには、神の側を代表とした共通の運命をもっているからです。 サタン側を代表する共産圏は、これらの国ぐにを国連で孤立させ、その存在を破壊しようとしています。それゆえ、これらの三つの国ぐには手を取り合って、国連の本来の目的と機能が完全に果たせるよう努力し合わなければなりません。 これらの国家は、内的には世界の宗教の統一、外的には世界の国家の統一のために貢献しなければなりません。神のもとにある統一世界(ワン・ワールド・アンダー・ゴッド)こそ不変で永遠の、そして絶対的な神の願いです。しかしこの目的を実現するために、まず、宗教の統一が最も重要な課題です。もしすべての人びとが一つの神を父として礼拝し、一人のメシアを受け入れ、「神中心主義」と、絶対的に神を中心とした生活を支持するなら、神はそれらの人びとと共に住まわれるでしょう。それこそが「神の国」を実現するために最も重要なことです。 アメリカ合衆国は人種や国境を超えて、すでに統一世界のモデルになっています。神がアメリカの上にふり注いでいる無数の祝福は、アメリカだけのものではなく、世界の人びとのためだということを知らなければなりません。世界のキリスト教の中で、アメリカはキリスト教を指導する立場として神の選んだ国家としてその使命を果たさなければなりません。 ローマも英国も神の願いを果たすことができませんでした。さて、アメリカは、どうでしょうか。アメリカは同じ過ちを繰り返さないよう、世界のために犠牲になり、神のもとの「統一世界」のために働くように、神はレバレント・ムーンをこの国に呼び神の新しい啓示を発表させたのです。そしてとくに神はアメリカの青年たちを指導し、私の後につづく明日の指導者をつくるため、私をここに送られたのです。 今日アメリカは、人種問題、青少年の犯罪、道徳心の欠如など、多くの問題に苦しめられています。キリスト教は衰退しつつあり、反対に「共産主義」が興りつつあります。「共産主義」の脅威は、今ではいたるところで見られるようになりました。これらすべての問題の中で、とくに唯物論を唱える「共産主義」は悪なるものです。これはアメリカだけの問題ではありません。これはすべての人にかかわる問題です。そしてこれはすべての宗教人の問題であり、これは神ご自身の問題であるのです。 紳士、淑女の皆さん。人類歴史の交叉点に立つわれわれは、神の声に耳を傾けなければなりません。神はアメリカを二百年間にわたって準備し訓練してこられました。今こそ目覚める時がやってきたのです。アメリカは今日、宇宙的責任を果たさなければなりません。アメリカは「神中心主義」によって共産主義世界を解放しなければなりません。そして最後には、地上に「神の国」を創らなければなりません。明日ではもはや遅すぎるのです。 約束と決意の時に 私はアメリカを尊敬するだけではなく、真にこの国を愛しております。私はアメリカを偉大な国として、神の摂理の中心国家として尊敬しております。アメリカはいま第三世紀の出発点に立っているのです。アメリカはもう神を悲しませてはなりません。きょう、われわれは、全能の神に誓いましょう。「われわれは神のみ意を果たします」と。「われわれはけっして再び神を苦労させません」と。 きょう、この聖なる地で、共に集い、地上に「神の国」の礎石を築きましょう。神の共働者として、共に進んで行きましょう。 一つになることを切に願ってきた愛する皆さま!ここはそれを約束する場所です。今は決心の時です。この聖なる時に、天と地とすべての人類の前に、もし皆さまが喜んで汗と血と、そして神の声に応える真実の生活を捧げる決心をするなら、われわれはそれらを短期間で成し遂げることができるのです。われわれは地上に、今この所から「神の国」をわれわれ自身の手で創ることができるのです。 神の祝福が皆さまと皆さまの家庭にともにありますように、そして、アメリカ合衆国の上にも。 どうもありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.09.18
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真の家庭と私この講演文は中南米の17カ国巡回(1995・5・17~7・7)および世界16カ国巡回講演(1995・11・5~12・7)で宣布されたみ言です。 満場の内外貴賓の皆様! このように意義ある場でお話しすることができますことを、この上なくうれしく思うものです。今、世界平和と人類理想世界建設のために和合と統一の志を立て、平和世界を成すのに、先頭に立たなければなりません。きょう、私はこの講演を、皆さんと隔たりなく、平素、私が考えてきた「真の家庭と私」という主題でお話ししようと思います。 なぜ、心と体が闘うのか 真なる国は、男性と女性の二人が真なる家庭を完成させてできるものです。人類は二人の人、男性と女性で構成されています。世界の複雑な問題も、二人の人にかかっています。真なる二人によって成される真の家庭完成は、すべての人類と世界の問題解決のモデルになるのです。ここから真なる家庭が真なる国家と真なる世界に連結されることによって、平和世界、理想世界が形成されるのです。ですから、「真の家庭と私」は、どのような家庭と私であり、私たちが解決すべき内容は何かを考えてみようと思います。 今、私たちが生きている世界は善なる世界か、悪なる世界かと尋ねるなら、誰でもみな悪なる世界だと答えることでしょう。なぜ、悪なる世界なのでしょうか。全世界の歴史を見ても、一国の歴史を見ても、戦争史で連結されているという事実を私たちは知っています。一つの平面的な基準で同じ立場にある人々が戦うようになるなら、これらはより衰退するようになっています。世界が悪いなら、私たちの国も悪いという話であり、その国の人も、私たち自身も悪いと言わざるを得ません。 私たち自身をよく見れば、私たちの心と体も闘っている事実を否定することができません。それなら、この闘いの起源がいったいどこにあるのかということが問題です。 私自身が闘い平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福ではあり得ないのです。皆さんが御存じのように、第一次、第二次世界大戦も終戦となりました。戦争は終戦や休戦にいくらでもすることができますが、私たちの心と体を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、今の現世ももちろんですが、未来まで継続する闘いであることを私たちは想像だにしていません。 このような問題を中心として考えるとき、神様がいらっしゃるなら、私たちの心と体の闘いを、なぜこのように歴史性を帯びて継続させたのかということが大きな問題になるのです。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそのことを蕩減しなければならないのです。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、これに干渉することはできないのです。 では、心と体が闘う根源地はどこでしょうか。私たちの生命は父母から受け継ぎ、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の立場までさかのぼるようになります。すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に、問題があったためにこのようになったと見るのです。 生命の起源は父母の愛で始まるのです。では、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったと見るなら、父母が愛し合った立場が問題になったという事実を私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛にならず、相いれない愛の起源によって生命を受け継いだ私たち人間自体の紛争は、そこから始まったと言わざるを得ません。 聖書はアダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたといっています。追い出されて人類の先祖が子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバに、神様が結婚式をしてくれるはずは絶対にありません。誰のもとで結婚式をしたかと考えると、堕落することによってサタンのもとで結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ません。堕落はサタンによってエバが誘惑され、誘惑されたエバがアダムを誘惑したのです。 ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相いれない関係により私たち人類の始祖が始まることによって、その関係に起因する私たち人間も、心と体の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。 堕落は淫乱によって始まったのです。このような願わない愛の関係によってサタンと一つとなって、善なる先祖になれず悪なる先祖になって、悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根をもつようになったのです。 このようなことが事実であれば、私たちのすべての人類の堕落した後孫たちが、家庭を超えて氏族、国家、世界まで発展した今日、五十億人類はサタンの後孫であり、悪なる父母の血統を受け継いだということを否定できないのです。私たちの体の中に、神様が一番嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、どこの誰も考えることができませんでした。これが問題です。 では、この根をどのように清算するのでしょうか。サタンが愛の根をどこに下ろしたかといえば体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。もし堕落しなかったなら、心と体が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって天に対する良心のプラスとこれに反対する体のプラスが相いれずにいるために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を私たちははっきり認識しなければなりません。 神様は、こうして善悪を分立する歴史をとおして、転換せざるを得ないのです。神様は公的なので全体のために生きる道を取りながら、愛と平和の目的に向かいます。その反面、サタンは私的立場を取って全面的に善の側を破壊しようとする立場を取り、憎悪と戦争で永遠に人類を天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしているのです。 神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。 サタンは、私的に憎悪と闘争で、天を滅ぼそうと歴史を通じてなしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。 末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第二次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変換時代を迎えるようになるのです。 今は個人主義の王国時代です。真の愛を中心とした、天の家庭を完全に破壊するフリーセックス時代、父母否定時代であり、夫婦否定時代、子女否定時代です。理想家庭を取り戻す天の側を完全に破壊するホモ、レズビアンの地上地獄時代を、天国に転換するのが再臨のメシヤの使命なのです。 そうして、メシヤは真の父母として、心と体の統一、夫婦の統一、子女の統一を願うのです。 精神と物質の関係 全世界的に今、公私にかかわらず、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということが問題になっています。これをはっきりさせなければなりません。 例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目がまず生じるようになります。その目自体は物質それ自体です。その目が生まれる前に太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。その目の物質自体は知りませんでしたが、太陽を見ることができるように生まれたということは、その物質自体よりも先に、太陽があることを知った立場で生まれたということです。 その目自体が空気があるということを、その目自体の物質は知りませんでしたが、既に空気の中にはほこりが飛ぶことを知って、目をカバーする睫が準備されているということを知ることができます。また、目自体は知りませんでしたが、既に蒸発させる輻射熱があることを知り、目に涙腺をおいて防備させたのは、生まれる前にそのようなことがあることを知って生まれたのです。 結論づければ、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論が論争する問題の解決をみるようになるのです。 ですから、はっきり神様によって創造されたことを否定することはできません。そうして、本然の神様の創造理想世界に帰って、神様が願う家庭と私と世界をはっきり知らなければならないのです。 宗教の目的 私たちの心と体を見るとき、体は地獄の基地になっており、良心は天国の基地になっています。この二つの世界の分岐点をもっている人間であることを知りませんでした。 このような立場に立っている私たち自身を見るときに、体が心を引っ張り回すのです。体が心を自由自在に歴史を通じて引っ張り回したのです。もし、良心が強ければ、自然と天に帰っていくので、世界は既に天の前に立つことができたはずです。また、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力より強かったということです。 ですから、神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類をほっておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦をせざるを得ないのです。このように、歴史的に天が働くその救援的な体制を立てたのが宗教です。 全世界の文化圏が異なる背景に従って、様々な宗教を立てて、体が心を引っ張り回すのをどのようにして弱めるのかというのが宗教の目的だということを、今まで宗教を信じる信仰者たちは知らずにいたのです。堕落がなかったなら、宗教は必要ないのです。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか。心を引っ張り回すこの体を弱めようとするのです。 皆さんは、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として、一つになった子女が入るようになっています。天国に入ることのできるアダムとエバの家庭は神様の血族であり、神様の愛を中心とした家庭であらざるを得ないのです。そのような家庭が入る所が天国だということを、今まで誰も知りませんでした。 ですから、良心の力を強化するためにこの体を弱めなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落しなかった本然の神様の愛の懐に帰らなければならないのです。 では、宗教がすべき内容が何かといえば、体が一番嫌うことを提示することです。体が嫌うのは断食をせよ! そして次には奉仕をせよ! そして犠牲になれ! それだけではなく、のちには祭物になれ! 祭物は血を流すようになっています。生命を捧げられなければならないという話です。 ですから、聖書で、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と逆説的な論理を教えたのも、肉身の欲望のまま生きれば地獄に行くのであり、肉身の欲望を抑制して良心に従っていけば天国に行くという話です。この体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限な欲望と無限な希望をもつようになっているのです。 今までの歴史の中で数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者たちがいましたが、彼らは体を完全に占領し、無の状態に立って、良心をもって本然的基準で天と相対できる立場の解放された人間になれませんでした。 私たち堕落した人間は、偽りの愛の根を中心として、野生のオリーブ(渋柿)になってしまい、真のオリーブ(甘柿)になれませんでした。神様の真の愛を中心として根を張るべき人間が、悪魔の愛を中心として根を張ったために、野生のオリーブになったのです。この事実に対してどのように清算すべきでしょうか。きょう現在、生きている私たち人類の解決すべき重大な、宿命的な課題として残っているのです。 良心の本質 皆さん自身を中心としてみるとき、皆さんの良心は皆さんのあらゆることで知らないことがありません。良心は私において、父母よりも近い立場に存在することで、永遠なる愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母たちは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら永遠に神様の子女として解放させようとするのがその使命だったのです。 良心の世界には先生が必要ありません。ある国の文部省の大臣が、良心教育をしようと宣布をしたという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行ったなら、私が一生の間、行く道をはっきり知って、間違いなく神様の懐に帰ることができるように、みな教え導いたのです。皆さんが良心を中心として見るときに、良心がすべての私の一生のことを知っているのと同様に、霊界に行けば霊界にコンピューターがあるので、地上でなされたすべての事実がはっきりと記録されるのです。 私の良心というものが、永遠なる神様の真なる息子、娘になるために、そのような傷のない子女となるようにするのが良心の使命だということを、今まで知りませんでした。霊界に行かない自信のある人がいますか。必ずみな行くのです。皆さんが霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになって、皆さんの一生だけでなく、数千代の先祖たちも一瞬間に分かるのです。その世界は時空を超越した世界なので、良心に反する内容を残してはならないのです。 それゆえ、良心は先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。ここには著名な方々と、教授たちが来ていらっしゃると思いますが、皆さんが良心以上のことを教えてあげる内容をもてないでいるのです。皆さんの良心は、船におけるコンパスと同様の役割をしているのです。 神様は良心の根である 皆さんの中に、年を取った方々と若い方々がいらっしゃいますが、結婚するときに相手が自分より劣ることを願う人がいましたか、いませんでしたか。いません。また、愛する相手が自分より十倍、百倍、可能なら千倍、万倍、億万倍もっと優ることを願うのです。ですから、良心の欲望は最高の愛を求め、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖たちも私たちの後孫たちも、同じです。このような質問を神様にしても、同じ答えをするのです。 皆さん、欲心と欲望をみなかなえるという見込みはないでしょう。韓国の一国会議員が大統領になりたいと思い、アジア全体、ひいては世界の一番高い立場を占有したいのが良心の欲望なのです。歴史始まって以来、今まですべての人々の考えは、良心の欲望は達成できない、不可能だ、という結論を下しています。しかし、私は可能だという結論を下しています。 皆さんの良心はどれほど大きいですか。良心が神様を占領したとき、それで終わると思いますか。神様よりも大きいものがあるなら、より大きなものを占領したいのが良心の欲望です。では、良心の欲望がいったい何をしようというのでしょうか。宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、また、それ以上のものがあればそれをも占領しようとするのです。 では、神様の良心はどれほど大きいでしょうか。人間の良心と神様の良心を比較すれば、どちらの良心がより大きいでしょうか。神様の良心が人間の良心より大きいなら、その良心で何をするのですか。神様が一番占領したいのが、この上なく大きな人間の真の愛に対する欲望だという結論が出てきました。 良心は真の愛を願う 神様が絶対的なお方であられるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか。皆さんがいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすならば、かわいそうです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです! 神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか。いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識、また権力がなければ寂しいのですが、神様はお金や、知識や、権力は必要ありません。 神様に一番必要なものが何かが問題です。神様を何といいますか。神様は愛の王である! もし神様が愛の王であり、新郎であれば、相対者たる皇后が必要だという話が絶対的原理です。では、絶対的な神様の前に愛の相対になるお方は誰でしょうか。それは真なる人間です! 皆さんはお金や、知識や、権力を必要としますが、妻がいなければみな意味がないのです! 夫には妻や、子供が必要であり、妻にも夫と子供が必要なのです! そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。違いますか。私はここで、良心の欲望をいっぱいに満たす愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛で息子、娘と幸福によく暮らす。その家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地にならなければならないのです。 私たち人間も愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在であることを望むのと同様に、神様も自己の愛する相対が、無限なる価値ある存在になることを願うのです。そのような人が真なる人間でした。皆さん! そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。 神様が主体なら人間が対象の立場にある存在なので、神様の分身ではありません! 神様もまた他の別個の人格者だというのです! そうなり得る対象の前に、神様の何千万倍の期待できる価値的な存在になることを願う欲望を可能にすることのできる、私たち人間に許してくれたのが良心の欲望だということを、私たちは知らなければなりません。 神様と人間の真の愛 神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大なる愛を中心として、人間との愛の関係を結んで一つになるこのような神人愛一体の家庭を築いたなら、今日、私たちは天国だとか地獄だとかを心配することなく、ただそのまま天国にみな入るようになっていたのです。 ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛で、一つになって一点から出発しなくては、二つの愛の方向と目的地になるというのです。このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせないのです。この二つの愛が一点から出発できることを願われた神様のみ意は、堕落によって完全に停止してしまったのです。 サタンの愛を中心として偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこのような後孫なので、これは全部地獄に行くのです。天国とは関係がないのです。ですから、肉身の欲望を抑えて、心を思いどおりにすることのできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければならないという事実を知りませんでした。 良心作用 良心は神様の真の愛を、どのように占領するのでしょうか。何かお金があり、知識があり、権力があっても、自己の命を懸けて愛する人を失ってしまえば、役に立たないのです。皆さんが心を解放させ、解怨成就させて、三六〇度をもって解放圏を良心世界に放てば、その良心は自然と神様の真の愛と連結されるのです。愛と良心のどちらが大きいかといえば、愛が大きいというのです。なぜなら、良心は愛から始まったので、愛がより大きいということを知ることができます。 良心を解放させ、神様の真の愛と一つとなって暮らしてから入る所、神様の愛の血族のために準備して、愛を中心として暮らしてから入る所が天国だというのです。この愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年を待たなければならないというのです。 堕落によって失われた、真なる神様の思想と経綸の明かりが人間たちに、神様の真の愛を備えともされて一体にならない限り、天国とは関係がないのです。真の良心と、真の愛が一つになって暮らす人は、天国に自動的に入ります。イエス様を信じても、神様の愛との連結ができない者は、天国に入れません。心と体が闘う者は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争する者は天国に入れません。 このようなことを開拓すべきすべての宗教が、自ら闘うときには、終わりの日にみな滅びるようになります。闘う所には神様がいらっしゃいません。それゆえ、宗教というものは体を打って良心を解放させる方便的な運動であって、これが救いの門を開く鍵ではありません。神様の真の愛を中心として真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなくては、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。 宗教を信じることによって救われるのではなく、宗教は体を弱めるものです! 良心の解放圏を備えるようになれば、良心の欲望は神様より高くなる資格があるというのです! 皆さん、私がすることを良心が先に知っているでしょうか。どうですか。良心が先に知っているのです。私たち人間は相対的な存在なので、人格が異ならなければなりません。個性が異なるのです。人格が異なるのです。もし、神様が先に知るなら、神様の分身であり、一つの体なのです。そうなれば、相対的な理想は自己自らがしなければならないということです。アダムとエバが堕落したあとで神様が、「おい、アダム! お前はどこにいるのか」とまず聞くのです。 対象的な人格者としての人間は、神様の真の愛から出発したので神様に帰るのです。神様に帰らなければならないのです。父母が百歳になり、息子、娘たちが年を取って八十歳になるなら、父と子は父子の関係はもちろん、友にもなるのです。男性と女性を力で比較すれば相手になりませんが、愛というものが介在するなら、夫と妻が互いに押したり引き寄せたりしながら一つになるというのです。神様の前に対象的な愛の存在になったなら、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか。 神様が理想的な対象を願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をおつくりになりましたが、愛の対象として完成したのちに、アダムとエバがそれ以上に大きなものを再び創造してほしいと言えば、神様には創造なさることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の欲望が無限なものであっても、それを創造してくださる神様だということを知らなければなりません。 このように無限なる神様の真の愛を中心として、対象の価値としてつくられたという事実を完全に失ってしまったので、これを再び回復しなければならないというのが、人間の生涯であり、人類歴史の目的だったということを知らなければなりません。 再臨のメシヤはどのようなお方か 神様は宗教を立て、宗教の主人たちが再び来るといいました。キリスト教はイエス様が再臨するといい、仏教は弥勒仏が来るといい、儒教は真人が、イスラム教はマホメットが再臨するといいました。神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。 神様が一番愛する息子、娘、神様の骨と肉が一つになるそのような愛する息子、娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成するのが神様のみ旨であるということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 それでは、メシヤはどのようなお方かということを皆さんは知らなければなりません。永遠なる神様の真の愛を根として、初めて地上に来られて、すべての宗教が願う理想を完成するお方が再臨のメシヤだということを、皆さんは知らなければなりません。そうして、真の父母となって、失ってしまった真の愛を中心として、真なる生命と真なる血統を地上に理想家庭として探し立てようというのが、神様の救援摂理の目的でした。 堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子、娘たちをみな失ってしまいました。神様がもつことのできる真の息子、娘がいなかったのです! 神様の真の愛を中心として、血統的な因縁をもつ神様の家庭がなかったのです。堕落した父母によって、偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことで、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子、娘たちの殺戮戦が起こったのです。 それゆえ、神様がこれを復帰するための救援摂理をしました。救援摂理は復帰摂理なので、失ってしまった真なる心と体が一つとなった息子、娘となり、絶対的に一つになる夫婦、息子、娘が絶対的に神様の真の愛を中心として完全に一つとなって、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を、新婦格であるキリスト教と連結させ、神様と血縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成なのです。 真の御父母様の必要性 皆さん! 皆さんは自分たちの国が神様の祝福を受けることを願うでしょう。そのためには神様の真の愛を中心として、心と体が一つとなった民にならなければならないのです。神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになる家庭をもつその家庭が、この国に多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるのです。そうなれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ません。 自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとしても、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に生きたいのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいのと同様に、神様も一番愛することのできる息子、娘のいる所があれば、農村や貧民窟も天国になるのであり、上流層も天国になるのであり、中流、そのあらゆる環境を超えて天国になるという話なのです。 さて、きょう統一教会の教主という人がここに現れて話をしています。統一教会とはいったい何をする所かと尋ねるなら、神様の真の愛を紹介する所です。また、真の愛を中心として心と体が一つになるようにしようとする所であり、心と体が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つとなった理想的夫婦にしようとする所です。その息子、娘は絶対的に分かれない統一された兄弟にしようとするそのような主義で、神様の命令によってその使命を遂行するのが統一教会だ、ということを伝達いたします。 堕落によって、偽りの父母から偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け、偽りの結婚式をした家庭として始まった、汚されたものを完全に清算し、真なる神様と真なる父母の愛を中心として、私たち夫婦は外的には頭翼思想を立て、左・右翼を克服し、内的には神主義、すなわち真の愛を通して良心世界と霊的世界を克服し、真の父母となったのです。真の父母となって、神人愛が一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木してあげ、大きな祝福を伝授してあげる復活の礼式が、正に国際合同結婚式なのです。これが、すなわち真なる新しい家庭として進む道を開いてあげる礼式なのです。世界の全人類が大きな祝福を受け、天国家庭に転換され、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。 こうして、超国家的な血縁関係を結成して、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することによって、真なる父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を迎えることによって、地上から天上世界まで、天国に入ることのできる解放された地上天国世界を完成しようというのが、統一教会の目的なのです。 第二次大戦以後、レバレンド・ムーンは全世界的に五十年の間、迫害を受けてきました。知ってみると、罪があったからではなく、人々を救うために多くの迫害を受けたことを知る時代になったので、今は反対に、一番立派だと考えるようになりました。レバレンド・ムーンの手によって、共産主義が滅びました! ゴルバチョフと金日成を教化させたのがレバレンド・ムーンです! 滅びていくアメリカを救おうと、レバレンド・ムーンでなければならないという、そのような希望的な体制をつくっておきました。 南・北韓の統一のためにもレバレンド・ムーンはあらゆる努力を傾けています。中東に対してもそうなのです。アメリカの共和党が四十年ぶりに民主党を押さえて勝利したのも、レバレンド・ムーンによる背後からの影響が非常に大きかったからだという事実をお分かりください。 レバレンド・ムーンが言ったことはみな成してきました。全世界がレバレンド・ムーンを亡き者にし、殺そうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立って、きょうも叫ぶことのできる立場に立ったのは、天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するから生き残ったという事実を、きょう、皆さんは知って、統一教会について命を懸けて、これを学んでみなければならないと思うのです。 きょうこのような意義深い日、会って信じるに値する立場で、一番重要な事実について紹介しました。どうぞ忘れずにこの道に従って、皆さんが新しい覚醒のもとに決意して、皆さんの家庭と皆さんの国に、祝福を誘導する指導者になるようお願いします。これによって、理想的家庭が皆さんの国に出発し始めるのです。 皆さんも御存じのとおり、レバレンド・ムーン夫婦は、真の父母という名をもって全世界に知られています。今日、私たち夫婦が真正なる真の父母として、真なる愛、真なる生命、真なる血統で天と連結されたのが事実なら、この地上には平和を成す真の家庭と私から、解放と、自由と、統一と幸福の天国が始まるということを記憶してくださるようにお願いします。 最後にこの講演に御参加くださった皆さんが私のメッセージを心に刻み、神様を中心とした真なる個人と家庭として生まれ変わり、人類に希望と幸福の二十一世紀を開いてくださるようにお願いし、また皆さんの家庭と国に、神様の祝福があるように祈ります。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.09.12
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「真なる家庭と私」1995年5月30日 五月三十日夜、首都ブエノスアイレスのアール・パレス・ホテルでVIPの晩餐会が開かれました。この時に語られた講演文です。 きょうの夕べ、アルゼンチンに来て、貴賓の皆さんとお会いし、このような歓迎のパーティーをもてたことに、心から感謝を申し上げます。 皆さんは、たくさんのうわさを聞いてご存じでしょうが、ここに立っている者が、まさしくレバレンド・ムーンという人物です。世界で多くの問題を起こし、多くのことがらを推進して今日まで進んできたのは、天に侍ってきた歴史的事実があったからだということにほかなりません。 きょうしばらくの間、お会いして、喜ばしい環境の中でお話ししようと思う内容は「真なる家庭と私」です。世界で問題になるのは家庭ですが、真なる家庭とはどのような家庭かを中心としてお話ししようと思います。 今、私たちが生きている世界は善なる世界か、悪なる世界かと尋ねるなら、だれでもみな悪なる世界だと答えることでしょう。なぜ、悪なる世界なのでしょうか? 全世界の歴史を見ても、アルゼンチンの歴史を見ても、またどの国の歴史を見ても、戦争史で連結されているという事実を私たちは知っています。 戦争を通して戦うならば、一つの平面的な基準で同じ立場にある人々が戦うようになるなら、これらはより衰退するようになっています。 世界が悪いなら、アルゼンチンの国も悪いという話であり、アルゼンチンの人も、私たち自身も悪いということです。 私たち自身をよくみれば、私たちの心と体も闘っている事実を否定することができません。それなら、この闘いの起源がいったいどこにあるのかということが問題です。 私自身が闘い平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福ではあり得ないのです。 皆さんがご存じのように、第一次、第二次世界大戦も終戦となりました。戦争は終戦や休戦にいくらでもすることができますが、私たちの心と体を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、今の現世ももちろんですが、未来まで継続する闘いであることを私たちは想像だにしていません。 このような問題を中心として考えるとき、神様がおられるなら、私たちの心と体の闘いを、なぜこのように歴史性を帯びて継続させたのかということが大きな問題になるのです。 人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそのことを蕩減しなければならないのです。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、これに干渉することはできないのです。 では、心と体が闘う根源地はどこでしょうか? 私たちの生命は父母から受け継ぎ、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の立場までさかのぼるようになります。 すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に、問題があったためにこのようになったとみるのです。生命の起源は父母の愛で始まるのです。 では、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったとみるなら、父母が愛し合った立場が問題になったという事実を私たちは考えざるを得ません。 アダムとエバの愛が喜びの愛にならず、相いれない愛の起源によって生命を受け継いだ私たち人間自体の紛争は、そこから始まったと言わざるを得ません。 聖書はアダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたといっています。追い出されて人類の先祖が子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバに、神様が結婚式をしてくれるはずは絶対にありません。 だれの下で結婚式をしたかと考えると、堕落することによってサタンの下で結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ません。堕落はサタンによってエバが誘惑され、誘惑されたエバがアダムを誘惑したのです。 ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相いれない関係により私たち人類の始祖が始まることによって、その関係に起因する私たち人間も、心と体の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。 堕落は淫乱によって始まったのです。このような願わない愛の関係によってサタンと一つとなって、善なる先祖になれず悪なる先祖になって、悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根をもつようになったのです。 このようなことが事実であれば、私たちのすべての人類の堕落した後孫たちが、家庭を超えて氏族、国家、世界まで発展した今日、五十億人類はサタンの後孫であり、悪なる父母の血統を受け継いだということを否定できないのです。 私たちの体の中に、神様が一番嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、どこのだれも考えることができませんでした。これが問題です。 では、この根をどのように清算するのでしょうか? サタンが愛の根をどこに下ろしたかといえば体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。 もし堕落しなかったなら、心と体が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって天に対する良心のプラスとこれに反対する体のプラスが相いれずにいるために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を私たちははっきり認識しなければなりません。 神様は、こうして善悪を分立する歴史をとおして、転換せざるを得ないのです。神様は公的なので全体のために生きる道を取りながら、愛と平和の目的に向かいます。その反面、サタンは私的立場を取って全面的に善の側を破壊しようとする立場を取り、憎悪と戦争で永遠に人類を天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしているのです。 神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。 サタンは、私的中心に憎悪と闘争で、天を滅ぼそうと歴史を通じてなしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。 末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第二次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変換時代を迎えるようになるのです。 今は個人主義の王国時代です。真の愛を中心とした、天の家庭を完全に破壊するフリーセックス時代、父母否定時代であり、夫婦否定時代、子女否定時代です。理想家庭を取り戻す天の側を完全に破壊するホモ、レスビアンの地上地獄時代を、天国に転換するのが再臨のメシヤの使命なのです。そうして、メシヤは真の父母として、心と体の統一、夫婦の統一、子女の統一を願うのです。 全世界的に今、問題は公私にかかわらず、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということが問題です。これをはっきりさせなければなりません。 例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目がまず生じるようになります。その目自体は物質それ自体です。その目が生まれる前に太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか? その目の物質自体は知りませんでしたが、太陽を見ることができるように生まれたということは、その物質自体よりも先に、太陽があることを知った立場で生まれたということです。 その目自体が空気があるということを、その目自体の物質は知りませんでしたが、すでに空気の中にはほこりが飛ぶことを知って、目をカバーする睫が準備されているということを知ることができます。 また、目自体は知りませんでしたが、すでに蒸発する輻射熱があることを知り、目に涙腺をおいて防備させたのは、生まれる前にそのようなことがあることを知って生まれたのです。 結論づければ、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論が論争する問題の解決をみるようになるのです。 ですから、はっきり神によって創造されたことを否定することはできません。そうして、本然の神様の創造理想世界に帰って、神様が願う家庭と私と世界をはっきり知らなければならないのです。 私たちの心と体を見るとき、体は地獄の基地になっており、良心は天国の基地になっています。この二つの世界の分岐点をもっている人間であることを知りませんでした。 このような立場に立っている私たち自身を見るときに、体が心を引っ張り回すのです。体が心を自由自在に歴史を通じて引っ張り回したのです。 もし、良心が強ければ、自然と天に帰っていくので、世界はすでに天の前に立つことができたはずです。 また、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力より強かったということです。 ですから、神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦をせざるを得ないのです。 このように、歴史的に天が働くその救援的な体制を立てたのが宗教です。全世界の文化圏が異なる背景に従って、さまざまな宗教を立てて、体が心を引っ張り回すのをどのようにして弱めるのかというのが宗教の目的だということを、今まで宗教を信じる信仰者たちは知らずにいたのです。 堕落がなかったなら、宗教は必要ないのです。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか? 心を引っ張り回すこの体を弱めようとするのです。 皆さんは、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として、一つになった子女が入るようになっています。 天国に入ることのできるアダムとエバの家庭は神様の血族であり、神様の愛を中心とした家庭であらざるを得ないのです。そのような家庭が入る所が天国だということを、今までだれも知りませんでした。 ですから、良心の力を強化するためにこの体を弱めなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落しなかった本然の神様の愛の懐に帰らなければならないのです。 では、宗教がすべき内容が何かといえば、体が一番嫌うことを提示することです。体が嫌うのは断食をせよ! そして次には奉仕をせよ! そして犠牲になれ! それだけではなく、後には祭物になれ! 祭物は血を流すようになっています。生命を捧げられなければならないという話です。 ですから、聖書で、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と逆説的な論理を教えたのも、肉身の欲望のまま生きれば地獄に行くのであり、肉身の欲望を抑制して良心に従っていけば天国に行くという話です。 この体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限な欲望と無限な希望をもつようになっているのです。 今までの歴史のなかで数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者たちがいましたが、彼らは体を完全に占領し、無の状態に立って、良心をもって本然的基準で天と相対できる立場の解放された人間になれませんでした。 私たち堕落した人間は、偽りの愛の根を中心として、野生のオリブ(渋柿)になってしまい、真のオリブ(甘柿)になれませんでした。神様の真の愛を中心として根を張るべき人間が、悪魔の愛を中心として根を張ったために、野生のオリブになったのです。この事実に対してどのように清算すべきでしょうか? きょう現在、生きている私たち人類の解決すべき重大な、宿命的な課題として残っているのです。 皆さん自身を中心としてみるとき、皆さんの良心は皆さんのあらゆることで知らないことがありません。良心は私において、父母よりも近い立場に存在することで、永遠なる愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。 世の中の父母たちは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私とともに存在し、私を愛しながら永遠に神様の子女として解放させようとするのがその使命だったのです。 良心の世界には先生が必要ありません。ある国の文部省の大臣が、良心教育をしようと宣布をしたという話を聞いたことがありますか? 良心が本然の道を行ったなら、私が一生の間、行く道をはっきり知って、間違いなく神様の懐に帰ることができるように、みな教え導いたのです。 皆さんが良心を中心としてみるときに、良心がすべての私の一生のことを知っているのと同様に、霊界に行けば霊界にコンピューターがあるので、地上でなされたすべての事実がはっきりと記録されるのです。 私の良心というものが、永遠なる神様の真なる息子・娘になるために、そのような傷のない子女となるようにするのが良心の使命だということを、今まで知りませんでした。 霊界に行かない自信のある人がいますか? 必ずみな行くのです。皆さんが霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになって、皆さんの一生だけでなく、数千代の先祖たちも一瞬間に分かるのです。その世界は時空を超越した世界なので、良心に反する内容を残してはならないのです。それゆえ、良心は先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。 ここには著名なかたがたと、教授たちが来ていると思いますが、皆さんが良心以上のことを教えてあげる内容を持てないでいるのです。皆さんの良心は、船におけるコンパスと同様の役割をしているのです。 皆さんの中に、年を取ったかたがたと若いかたがたがおられますが、結婚するときに相手が自分より劣ることを願う人がいましたか、いませんでしたか? いません。また、愛する相手が自分より十倍、百倍、可能なら千倍、万倍、億万倍もっと優ることを願うのです。 ですから、良心の欲望は最高の愛を求め、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖たちも私たちの後孫たちも、同じです。このような質問を神様にしても、同じ答えをするのです。皆さん、欲心と欲望をみな叶えるという見込みはないでしょう? ここのアルゼンチンの上院議員が大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界の一番高い立場を占有したいのが良心の欲望なのです。歴史以来、今まですべての人々の考えは、良心の欲望は達成できない、不可能だ、という結論を下しています。 しかし、ここに立っているレバレンド・ムーンは可能だという結論を下しています。 皆さんの良心はどれほど大きいですか? 良心が神様を占領したとき、それで終わると思いますか? 神様よりも大きいものがあるなら、より大きなものを占領したいのが良心の欲望です。 では、良心の欲望がいったい何をしようというのでしょうか? 宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、また、それ以上のものがあればそれをも占領しようとするのです。 では、神様の良心はどれほど大きいでしょうか? 人間の良心と神様の良心を比較すれば、どちらの良心がより大きいでしょうか? 神様の良心が人間の良心より大きいなら、その良心で何をするのですか? 神様が一番占領したいのが、このうえなく大きな人間の真の愛に対する欲望だという結論が出てきました。 神様が絶対的なおかたであられるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか? 皆さんがいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすならば、かわいそうです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです! 神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか? いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識、また権力がなければ寂しいのですが、神様はお金や、知識や、権力も必要ありません。 神様に一番必要なものが何かが問題です。神様を何といいますか? 神様は愛の王である! もし神様が愛の王であり、新郎であれば、相対者たる皇后が必要だという話が絶対的原理です。 では、絶対的な神様の前に愛の相対になるおかたはだれでしょうか? それは真なる人間です! 皆さんはお金や、知識や、権力を必要としますが、妻がいなければみな意味がないのです! 夫には妻や、子供が必要であり、妻にも夫と子供が必要なのです! そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。違いますか? 私はここで、良心の欲望をいっぱいに満たす愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛で息子・娘と幸福によく暮らす。その家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地にならなければならないのです。 私たち人間も愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在であることを望むのと同様に、神様も自己の愛する相対が、無限なる価値ある存在になることを願うのです。そのような人が真なる人間でした。 皆さん! そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。 神様が主体なら人間が対象の立場にある存在なので、神様の分身ではありません! 神様もまた他の別個の人格者だというのです! そうなり得る対象の前に、神様の何千万倍の期待できる価値的な存在になることを願う欲望を可能にすることのできる、私たち人間に許してくれたのが良心の欲望だということを、私たちは知らなければなりません。 神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大なる愛を中心として、人間との愛の関係を結んで一つになるこのような神人愛一体の家庭を築いたなら、今日、私たちは天国だとか地獄だとかを心配することなく、ただそのまま天国にみな入るようになっていたのです。 ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛で、一つになって一点から出発しなくては、二つの愛の方向と目的地になるというのです。 このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせないのです。この二つの愛が一点から出発できることを願われた神様のみ意は、堕落によって完全に停止してしまったのです。 サタンの愛を中心として偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこのような後孫なので、これは全部地獄に行くのです。天国とは関係がないのです。 ですから、肉身の欲望を抑えて、心を思いどおりにすることのできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければならないという事実を知りませんでした。 皆さん、恋の病を知っていますか? 恋の病にかかった人がいるなら、恋の病にかかった動機を解決してあげれば万事が解決するのです。 堕落した人間ですが、堕落しなかったアダムの本性が残っていて、それが恋の病のように神様の愛を恋い焦がれ、また恋い焦がれるようになったというのです。 良心は神様の真の愛を、どのように占領するのでしょうか? 何かお金があり、知識があり、権力があっても、自己の命を懸けて愛する人を失ってしまえば、役に立たないのです。 皆さんが心を解放させ、解怨成就させて、三六〇度をもって解放圏を良心世界に放てば、その良心は自然と神様の真の愛と連結されるのです。 愛と良心のどちらが大きいかといえば、愛が大きいというのです。なぜなら、良心は愛から始まったので、愛がより大きいということを知ることができます。 良心を解放させ、神様の真の愛と一つとなって暮らしてから入る所、神様の愛の血族のために準備して、愛を中心として暮らしてから入る所が天国だというのです。この愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年を待たなければならないというのです。 堕落によって失われた、真なる神様の思想と経綸の明かりが人間たちに、神様の真の愛を備え灯されて一体にならない限り、天国とは関係がないのです。 真の良心と、真の愛が一つになって暮らす人は、天国に自動的に入ります。イエス様を信じても、神様の愛との連結ができない者は、天国に入れません。心と体が闘う者は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争する者は天国に入れません。 このようなことを開拓すべきすべての宗教が、自ら闘うときには、終わりの日にみな滅びるようになります。闘う所には神様がおられません。 それゆえ、宗教というものは体を打って良心を解放させる方便的な運動であって、これが救いの門を開く鍵ではありません。 神様の真の愛を中心として真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなくては、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではなく、宗教は体を弱めるものです! 良心の解放圏を備えるようになれば、良心の欲望は神様より高くなる資格があるというのです! 皆さん、私がすることを良心が先に知っているでしょうか? どうですか? 良心が先に知っているのです。 私たち人間は相対的な存在なので、人格が異ならなければなりません。個性が異なるのです。人格が異なるのです。 もし、神様が先に知るなら、神様の分身であり、一つの体なのです。そうなれば、相対的な理想は自己自らがしなければならないということです。 アダムとエバが堕落した後で神様が、「おい、アダム! おまえはどこにいるのか?」とまず聞くのです。 対象的な人格者としての人間は、神様の真の愛から出発したので神様に帰るのです。神様に帰らなければならないのです。 父母が百歳になり、息子・娘たちが年を取って八十歳になるなら、父と子は父子の関係はもちろん、友にもなるのです。 男性と女性を力で比較すれば相手になりませんが、愛というものが介在するなら、夫と妻が互いに押したり引き寄せたりしながら一つになるというのです。 神様の前に対象的な愛の存在になったなら、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか? 神様が理想的な対象を願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をおつくりになりましたが、愛の対象として完成した後に、アダムとエバがそれ以上に大きなものを再び創造してほしいと言えば、神様には創造なさることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか? 私たちの良心の欲望が無限なものであっても、それを創造してくれる神様だということを知らなければなりません。 このように無限なる神様の真の愛を中心として、対象の価値としてつくられたという事実を完全に失ってしまったので、これを再び回復しなければならないというのが、人間の生涯であり、人類歴史の目的だったということを知らなければなりません。 神様は宗教を立て、宗教の主人たちが再び来るといいました。キリスト教はイエス様が再臨するといい、仏教は弥勒仏が来るといい、儒教は真人が、イスラム教はマホメットが再臨するといいました。 神様が宗教を立てた目的は何でしょうか? 神様が一番愛する息子・娘、神様の骨と肉が一つになるそのような愛する息子・娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成するのが神様のみ旨であるということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 それでは、メシヤはどのようなかたであるかということを皆さんは知らなければなりません。永遠なる神様の真の愛を根として、初めて地上に来られて、すべての宗教が願う理想を完成するおかたが再臨のメシヤだということを、皆さんは知らなければなりません。 そうして、真の父母となって、失ってしまった真の愛を中心として、真なる生命と真なる血統を地上に理想家庭として探し立てようというのが、神様の救援摂理の目的でした。 堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子・娘たちをみな失ってしまいました。神様が持つことのできる真の息子・娘がいなかったのです! 神様の真の愛を中心として、血統的な因縁を持つ神様の家庭がなかったのです。 堕落した父母によって、偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことで、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子・娘たちの殺戮戦が起こったのです。 それゆえ、神様がこれを復帰するための救援摂理をしました。救援摂理は復帰摂理なので、失ってしまった真なる心と体が一つとなった息子・娘となり、絶対的に一つになる夫婦、息子・娘が絶対的に神様の真の愛を中心として完全に一つとなって、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を、新婦格であるキリスト教と連結させ、神様と血縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成なのです。 アルゼンチンで暮らすこの国の指導者の皆さん! アルゼンチンが神様の祝福を受けることを願うでしょう? そのためには神様の真の愛を中心として、心と体が一つとなった民にならなければならないのです。 神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになる家庭を持つその家庭が、アルゼンチンに多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるのです。そうなれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ません。 自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとしても、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に生きたいのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいのと同様に、神様も一番愛することのできる息子・娘のいる所があれば、農村や貧民窟も天国になるのであり、上流層も天国になるのであり、中流、そのあらゆる環境を超えて天国になるという話なのです。 さて、きょう統一教会の教主という人がここに現れて話をしています。 統一教会とはいったい何をする所かと尋ねるなら、神様の真の愛を紹介する所です。また、真の愛を中心として心と体が一つになるようにしようとする所であり、心と体が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つとなった理想的夫婦にしようとする所です。 その息子・娘は絶対的に分かれない統一された兄弟にしようとするそのような主義で、神様の命令によってその使命を遂行するのが統一教会だ、ということを伝達いたします。 偽りの父母から偽りの愛と偽りの生命、偽りの血統で始まったすべての汚されたものを完全に清算し、真なる神様と真なる父母の愛を中心として、私たち夫婦は真の父母となって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木するための礼式が国際合同結婚式になるのです。 堕落によって偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の種を受け、偽りの結婚式をした家庭を反対に復帰するために、新しい結婚式に国際的にすべての家庭を参与させ、天の大きな祝福を伝授してあげようとする礼式が祝福結婚なのです。 アルゼンチンの全国民が大きな祝福を受け、天国家庭に転換され、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。 こうして、超国家的な血縁関係を結成して、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することによって、真なる父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を迎えることによって、地上から天上世界まで、天国に入ることのできる解放された地上天国世界を完成しようというのが、統一教会の目的なのです。 第二次大戦以後、レバレンド・ムーンは全世界的に五十年の間、迫害を受けてきました。知ってみると、罪があったからではなく、人々を救うために多くの迫害を受けたことを知る時代になったので、今は反対に、一番立派だと考えるようになりました。 レバレンド・ムーンの手によって、共産主義が滅びました! ゴルバチョフと金日成を教化させたのがレバレンド・ムーンです! 滅びていくアメリカを救おうと、レバレンド・ムーンでなければならないという、そのような希望的な体制をつくっておきました。 レバレンド・ムーンが言ったことはみな成してきました。全世界がレバレンド・ムーンを亡き者にし、殺そうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立って、きょうも叫ぶことのできる立場に立ったのは、天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するから生き残ったという事実を、きょう、皆さんは知って、統一教会について命を懸けて、これを学んでみなければならないと思うのです。 きょうこのような意義深い日、会って信じるに値する立場で、一番重要な事実について紹介しました。どうぞ忘れずにこの道に従って、皆さんが新しい覚醒のもとに決意して、皆さんの家庭と皆さんの国に、祝福を誘導する指導者になるようお願いします。これによって、理想的家庭が皆さんの国に出発し始めるのです。 皆さんもご存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は、真の父母という名をもって全世界に知られています。 今日、私たち夫婦が真正なる真の父母として、真なる愛、真なる生命、真なる血統で天と連結されたのが事実なら、この地上には平和を成す真の家庭と私から、解放と、自由と、統一と幸福の天国が始まるということを記憶してくださるようにお願いします。 皆さんの家庭と国に、神様の祝福があるように祈ります。 ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.08.09
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「第三十六回御聖婚記念日のお父様の祈祷」1995年4月15日イースト・ガーデン 真のご父母様の第三十六回御聖婚記念日の祝賀会がもたれました。この祈祷は二十五分間に及び、悲惨な世界の現状と新しい第二次四十年路程に思いをはせられ、慟哭されながら祈られた内容です。 愛するお父様。 きょうは一九九五年四月十五日、陰暦三月十六日、この日は、今から三十五年前に、この地上に真のご父母様が現れて、万民の一つの中心の体制を立てた日でございます。天と地上に縦的な中心がありませんでしたが、神様を中心とした真の愛と真の生命と真の血統の因縁を、この地上に定着させ、横的には万民、すべての家庭的解放のために、国際祝福家庭を選択して、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏に向かって、解放の土台を連結させたのでございます。 今、南北の統一と、東西洋の統一と、天と地の統一を連結させることを決定して、真のご父母様の愛を中心とした成約時代を宣布すると同時に、真の父母の地上定着を迎えました。今年になっては、真の父母の勝利圏を相続し得る、最後のあなたの祝福の恩賜に、万民共に対することができ、万民共に中心に従って、個人的中心、家庭的中心、氏族、民族、国家、世界、天宙的中心、天地のあらゆる存在が、真の愛を中心として、絶対的な縦横の理想圏を家庭の土台を中心として、礎石を置くことのできる時代を迎えることができました。 父母様がこの地上に定着することによって、この主体的な家庭を中心として、多くの家庭が初めて、絶対信仰、絶対愛の一体圏、絶対服従の因縁を結ぶことができるようになりました。アダム家庭で失ったものを再び、すべての宗教圏、キリスト教文化圏を通して、個人、家庭、民族、国家、世界圏まで探し立てる過程において、多くの殉教者と多くの犠牲者を出しながら、一つの絶頂を越えるために、数千年、数万年ずつ、天が消化してきた歴史的事実を考えるものでございます。 この地上に第二次大戦を中心としたキリスト教文化圏、新婦文化圏を中心として、新郎を迎えました。真の愛を中心とした神様の血族によって、真の愛を中心とした体と心の一体圏をなした、そのような男性、そのような女性が成熟して、思春期を過ぎて完成圏内に立つことによって、外的な父母、神様に内的な父母として侍り、外的な父母の立場に定着できるようになりました。エデンのアダム家庭理想を失ってしまったその日から、これを外的に再創造するために、天に絶対承服できる基準を求めてきました。 体を中心として分かれたサタンの舞台をなくすために、多くの宗教を立ててきました。最後にメシヤが来るようになる時は、体と心が一つとなった新婦を中心として、その母を中心とした、聖霊を中心とした右翼と左翼が、初めて天の霊的父母を中心とし、勝利の覇権を中心とした基盤を整えるのです。その基盤の上に、実体的なサタン圏を復帰するために、第二次大戦後に、日・独・伊に対峙して英・米・仏を中心として、第二次大戦の勝利圏を備えて、歴史以来初めて、キリスト教文化圏を中心として、地上に統一圏を備えました。 それは、第二次大戦直後であり、その時に文化圏勝利の覇権の立場に立ったということは、キリスト教文化圏を中心として、左右に、内外に、縦横に、上下に連結させることのできる、本然の理想的なすべての家庭理想、父子一身、夫婦一身、兄弟一身をなすためであったのです。 そうして、真の愛を中心として、神様が内的な核となって、この家庭全体を対象として定め、全宇宙に一つの絶対的な核心的家庭を中心として、相対理想圏としてつくられました。そのすべてが、一つの対象として、神様の愛で満ちた被造世界、人間世界、心の世界が、統一的基盤の上に立つことによって、地上天国の根源であり、天上天国の神様の愛を中心とした根源になって、二つの世界が永遠に天の父母に侍り、愛で同化され、愛で平和の基盤を備えるのです。 そして、万民、全宇宙がお父様を、栄華の実体であり、栄光の存在として、主体・対象圏を持ち、あなたが臨在できる象徴的なすべての対象として立て、人類の心身一体の理想圏の解放時代を備えるのです。そのためのあなたの御旨を、再び、数万年、数十万年、数千万年を経て、真の父母の因縁を通して、この地上にこのことを設定なさり、万民と全家庭が平面最高の世界的頂上にあって、天の家庭を中心とした相対圏を、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の家庭を立てなければなりませんでした。それを失ってしまったのです。 その失ってしまったものを、今まで宗教圏を通して、氏族、民族、国家、世界に立て、絶対一体であられる神様の理想的家庭理想をなされようとしました。メシヤを中心としたイエス時代の失敗、これを延長して、世界的舞台にこれを再蕩減復帰するためには、家庭的絶対圏、氏族、民族、国家、世界的絶対圏を、再び立てるための、天の四十年蕩減路程があったことを知るよう許諾してください。 真の父母の来た道は絶対信仰を主としてきたし、絶対愛の一念をもって、絶対服従の道を通してきました。主体的、完成の理念を失ったお父様の前に、この対象的地上の恨み多い峠の道を越えながらも、その頂上で、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の勝利者として、天に立てられた真の父母の実体を、この地上に顕現させて、真の父母の家庭が定着時代を迎えました。 そうして、勝利的すべての全体を、万民の前に共に分けることのできる相続時代を迎えました。この驚くべき事実を思うとき、これは天地が涙と共に感謝し、神様と共に真の父母と一つとなった立場で、全世界の祝福の恩賜をもって、全宇宙解放を宣布し、前進的過程を経て、これを確信的過程に展開させ、解放のラッパの音を、今、全世界に満たし、真の父母の名を高く掲げなければなりません。 個人においてもそうであり、家庭においてもそうであり、氏族、民族、国家、世界、どのような所、どのような地方、人間が住む所にはどこでも、これを高く讃揚し、天の勝利圏をその一族の誇りとして迎え、感謝しなければなりません。地上天国の実体的な生活を果たすべき万民解放的実体家庭基盤を備えて相続しようとなさる、偉大なお父様の御旨の前に感謝をお捧げ申し上げます。 三十六回を迎え、今度、南米を中心とした第二次四十年の峠を宣布しました。今まで、真のご父母様が四十年の峠を越えるために、頂上に向かって上りながら、恨み多い歴史を残したその痕跡を、二世たちが再び、一回り回って四十年を埋めることによって、ご父母様の解放と神様の解放を促すことのできる時代の様相を迎えました。それゆえ、北半球の韓国の対になる南米という南半球を中心とした、主体的一つの中心を立て、上下を連結させることのできる南米四か国を中心として、この歴史の着地を宣布し、万民解放のラッパの音を響かせるのです。 今まで、悲惨な涙と悲しみの事実を越えてきましたが、最高の頂上の立場から、下に初めて下りていくことのできる基盤を築くことによって、天が上下、前後、左右に自由に往来できる解放圏が設定されるのです。この目的のために今、統一家が行くべき所は、新しい定着地を中心とした家庭編成でございます。 それはサタン世界のぶつかる圏を残していくのではなく、全世界が奉じて崇めながら、尊敬する立場でお父様に侍り、神様に侍ることができるのでございます。あなたの愛する聖なる息子・娘の涙と血と汗を流して、郷土を建設し、国を建設しなければならない宿命的な使命と願いの時を解怨することのできる、その日のために前進することができるよう、三十六回になる前にすべてのことを選択し、そのような時を迎えて、「家庭盟誓」を中心として、真の愛を中心とした七大宣言をしたすべての事実が、この日のために準備なされたというお父様の驚くべき歴史を、真実に感謝申し上げます。 三十六回「真の父母の日」を迎え、三十六回のご父母様を中心とした祝福の日を記念することのできるこの日、この峠を越えることによって、統一家が新しい黎明を開き、鮮明な新しい朝を迎えることができ、万民解放と万民すべてのものを現し、正と否が現れ、善と悪が現れ、神様とサタンが現れて、各自が天に従うことのできる自由と平等と幸福の世界に、前進することができるよう祝福してくださいますように、お父様、懇切にお願い申し上げます。 これまで父母として、家庭の直系の子女たちを率いることのできなかった、すべての過去の事柄をいま一度思うとき、涙に染まった心をもち、万民を代表した家庭として、お父様の前に悔い改めることのできる条件を残したという事実をお許しくださいますよう、懇切にお願い申し上げます。 恨みの多かった時代、国を捨て、一族を捨て、一家を捨て、子女を捨て、荒野に追われた身の上が、神様を迎え、神様を慰労するのに力が足らなかった、恨みの恨みの峠を越え、涙の跡、血の跡、悲しい歴史的事実によって、あなたの心の中に釘を打ったことを、この日を選んで解いてくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。 手を挙げて万国に向かって祝福したその瞬間、万民の歓迎を受け、天を解放し、地上に平和の天国をほめたたえることのできる力強い声が、この地を満たして余りあるよう許諾してください。サタンは、歴史的なすべての罪悪を中心として、無間地獄に向かわなければなりません。自らの時代を迎えることを中心として、それを中心としたすべてのサタン世界の人たちは、今、すべて解体されなければならない時代を迎えたので、個人的中心がない外的時代、家庭の中心がない、氏族、民族、国家、世界的中心がない時代、公的理念に背く人間たちが、サタンの自覚的個人を中心として出発し、編成した個人主義澎湃の時代を迎えました。 キリスト教文化の中心である新婦国家を代表した、このアメリカと自由世界が、個人主義王国をつくり、個人主義退廃思想の絶頂に立ち、絶壁の中に立ち、明日に希望のない嘆息圏内で、天が許すことのできないフリーセックス、ホモ、レズビアンというものによって、天罰が顕現するエイズを前においています。人類の明日の希望のない暗澹とした、その過程を経る混乱の中にありますが、これを統一家が救済しなければならない、とてつもない課題を前においているのでございます。 今からは、世界的な頂上の立場で、天の父母の中心の思想と御旨がどのようなものかを知り、真の愛の因縁を中心として、統一と平和、ひいては家庭を通して、天地まで連結させるべき各自の責任を果たすことによって、宿命的な恨みの峠を解怨しなければなりません。そのために、真の父母の名と共に、神様と共に、地上天国、平和の世界、愛の理想の世界に前進することのできる、天の世界に向かう、そのすべての所が、勝利的に願いどおりに完結され得るよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 あまりにも長かった復帰歴史! 神様、ご苦労様でございました。 地上の歴史時代を代身して死んでいった数多くの哀魂たちを、神様の解放と共に、天上世界の解放圏を許諾してください。ご父母様の四十年路程に、父母も知らず、一族も知らず、子供たちも知らず、妻子も知ることのできない、そのような恨めしい峠を、追われる立場で過ごしてまいりました。 朝日を迎えた露のような立場、朝日が出れば露は落ちざるを得ない立場、サタンはそのような立場です。サタンの権限を中心として暗い光の圏内で、宿った露の圏は日の光も見れないようにし、これを除去しようというサタンの計略と、天が許すことのできない歴史的な悖逆無道なすべての行動を、お耐えになるのにどれほど苦労し、無念でございましたでしょうか。それを救援し、天に侍り、慰労できない足らないものを再び受け入れてください。しかし、統一家をそうすることのできる立場にまで、引き上げてくださったお父様の前に感謝をお捧げ申し上げます。 今、祝福家庭が万国に散らばっております。「父母の日」を通して血の汗を流し、民族と国家、世界を代表して、天の一族たちが氏族的メシヤを中心として、エデンにおいて家庭的メシヤ圏を失ってしまったものを、再び回復することのできる時代を迎えるようにしてくださいました。 真の父母の使命と共に、真の父母のすべての勝利圏を相続することのできる立場に立って、ご父母様が栄光を受けるべき立場で、その栄光をよしとして受けることのできない立場に立っております。 人類の中では、貧困と飢餓の線上で死んでいく二千万という数を抱き、救わなければならない真の父母という名が刻み込まれていることによって、海洋事業を通して、そこと橋を架けるために誰も知らない道を歩んでこられました。お父様、成されたこの基盤が偉大なるものとして、万民の心情の前に、率直に神様の本心の気持ち、心身統一圏内で真の愛を崇める絶対心情、絶対服従、絶対信仰の道でつながるべき時代を迎えました。 今、アダム家庭を迎えるべき、真の父母を中心とした相対的世界のすべての祝福家庭が、氏族的メシヤの使命を果たす立場においては、宗教が必要のない時代に来ました。宗教を信じ、求道の道を訪ねてきたことによって、今まで宗教を信じたすべての人は、天国に入れず、全部楽園で待っているという事実を知っております。 真の父母を中心とした神様の愛を中心として、生命と血統が連結され、神様に侍り、永遠に感謝の生活をした群れが、地上天国の生活を引き継ぎ、天上に入るようになっています。それが、天国に入る資格者であることを、どのような宗教も知らずにいるのでございます。 真の愛を中心とした家庭理想を、アダム家庭で失い、イエス家庭で失いました。再臨時代において、全世界の統一的恩賜圏を七年路程で終結できなかったことを四十年を中心として蕩減してきました。 一九九二年から三年路程を中心として今まで蕩減し、一九九四年を中心として、一九九五年を越えるこの日から七年期間を中心として二〇〇〇年まで、ご父母様が八十歳まで、この地を解放してきた地球星に暮らしている万民が、選民圏を備え、天国と本郷の地を訪ねて、神様が願う地上天国理想を完成すべき偉大な使命、宿命の前に、心を集め、精誠を込めて両手を合掌して、敬礼を捧げながら万世の恨みを晴らしなさいと、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理を果たすべき使命が、私たち祝福家庭にあるということを盟誓文第二において宣布しました。 この宿命的な門を経て、天国に行けるのか、行けないのかという問題は、盟誓文第三にある四大心情圏と三大王権と皇族圏でございます。アベル圏においてカイン圏を弟として愛し、サタンを許すことのできる心をもたなければ、天国に入れないという事実を、厳然たる事実として受け入れ、生活舞台にどのような困難があっても、これを実践し得る夫婦でなければなりません。 再び責任を負わせるべき歴史的失敗、統一家の祝福家庭の失敗を、第二世を通して埋めるために第二次四十年路程を宣布し、四十年路程を立て、天がお立てになったすべての標準を、自分の生活圏の中心として受け継ぎ、真の父母に代わって、反対のない事情圏内において、氏族的メシヤとして百六十家庭、あるいは百八十家庭を、お父様の前に入籍させることによって、国連に加入した百八十三か国を代身して受け継ぐことのできる、勝利覇権的な権限の時代を迎えました。 このような栄えある勝利をほめたたえることのできる、万事願いどおりになる時代を迎えた万民の感謝の心情を、天地に染みわたらせ、力強く天に侍り、津々浦々、どのような所でも、真の父母の名と真の父母の姿が、全天宙被造世界全体に現れるようにしてください。 天国基準になり、万事願いどおりになる基準が、真の父母を愛することにおいてなされるという事実を、地も知り、万物も知り、人間全体が知り、神様も知り、愛だけがすべてのことを指導し、すべてのことをカバーできる世界、ご父母様が願い、真のご父母様が願った統一的愛の世界をなすように許諾してください。 今、三十六回を迎えることによって、三十六回を中心とした新しい歴史の出発を前にし、また再び、忙しい歩みを行かなければならない宿命的路程を出発する、この記念の日を一つの分岐点にし、分水嶺にして、天が喜び得る出発を計画することのできる、この三十六回を迎える、満三十五回を迎える父母の聖婚祝賀の日として、立ててくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 明日は、二人の息子・娘の新しい祝福を中心として、新しい時代の平和、新しい時代の喜びを受け継ぐことのできる祝福と、万民が共に愛で一つになり得る相対的二世たちの祝福時代を許諾してくださいますことを、懇切にお願い申し上げながら、この朝、この日を記念する式典を、お父様、快くお受けくださり、この朝のひと時、共にあってくださることをお願い申し上げながら、真の父母の御名によって祝願いたしました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.08.04
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「祝福家庭に関する宣言」一九九五年四月七日 真のご父母様は一九九五年四月七日(陰三月八日)、世界の指導者たちが集まったブラジルのニューホープファーム(ジャルジン)の早朝集会で、「サンパウロ宣言」と「ニューホープファーム宣言」に次いで、第三の宣言となる「祝福家庭に関する宣言」をなされた。 私たちの原理では、絶対的な主体は、絶対的な対象を迎えることができると教えています。また絶対的な対象は、絶対的な主体を完成させることができます。先生の絶対的な縦的基盤を中心として、皆さんは世界に横的な絶対的基盤を築かなければならないということを知らなければなりません。 絶対的な縦的基盤の心情圏が通じないので、これまで神様が解放されなかったのです。皆さんの家庭、皆さんの国を中心として、絶対的な個人、絶対的な家庭、絶対的な氏族、絶対的な国家が生まれさえすれば、神様は全世界の国家を無視し、その絶対的な国家を中心として、解放圏において世界を治めることができるのです。今、そのような時代に突人したのです。ですから、国を立てることがどれほど重要であるか知らなければなりません。 絶対的な対象です。一つの国が、世界を代表できるこのような絶対的な立場に立てば、全世界を平準化できるのです。相対が主体を解放してあげられます。私たち人間が神様を解放できるのです。完全なマイナスは、完全なプラスを完成させることができるのです。 今、百八十三か国が国連に加入していますが、全世界の国が、一つの国を建てるのは簡単です。国を奪ってくるのはたやすいのです。なぜならば、サタン側の家庭・氏族・民族・国家・世界には中心がないからです。 皆さんはいかに決意すべきでしょうか。先生は真の父母の立場で世界的な主体の立場に立たなければならないのです。その過程に四十年間の蕩減を費やしたのです。神様から見れば、創世以降、数千万年にわたってそのために闘ってきたのです。全世界が第二次大戦以降に、宗教圏を中心として勝利圏を立て、真の父母に侍ることによって世界的な平和の基盤、統一の基盤を形成すべきであったのに、キリスト教が先生を受け入れなかったので、それを繰り返すということになってしまったのです。 キリスト教文化圏が無神論の共産党と一つになって、統一教会に反対し、政府と宗教圏が一つになって統一教会と先生に反対しました。誰に反対したかというと、真の父母に反対したのです。全世界的な、内外に加重された迫害と試練の中で、真の父母はこの勝利的基盤を築いたのです。そのように築かれたすべてを皆さんにすべて相続してあげるのです。皆さんが先生と一つになって、絶対信仰・絶対心情・絶対愛・絶対服従できる心にさえなっていれば、先生の勝利的基盤をもって、そのまま一方的に世界を相続できるのです。 全世界が今や、レバレンド・ムーン、統一教会、統一的家庭理想を受け入れざるを得ない時代になりました。先生が政界、学界、言論界、財界に至るまで、あらゆる世界的な指導層をたくさんつなげました。そのような人たちが先生を尊敬できる段階に入りました。そればかりか、五十億の人類が、レバレンド・ムーンの思想がどのようなものか関心を抱くようになったのです。 ですから、皆さんが統一教会のレバレンド・ムーンの思想を完全に代身した立場で、そのような信念をもって国の前に立ったときには、国全体が歓迎できるという時代圏内に入ったのです。 このようにみるとき、なぜ三十六万双という数を定めたのでしょうか? 私たち祝福家庭のうちで一番中心となる家庭は三六家庭です。それはアダム家庭・ノア家庭・ヤコブ家庭を意味しますが、それは縦的な基準です。その三つの家庭が一つにならなければならないのです。一つになって、十二数を満たすのです。そこに三段階を合わせれば三十六数になります。これは歴史的な全先祖、全人類を代表した先祖となるのです。人間で言えば背骨、骨と同じです。背骨のような縦的な基準を意味するのです。骨を中心として肉が一つになって、細胞が生きているのです。 アダム家庭・ノア家庭・ヤコブ家庭がありますが、アダム家庭は自分勝手に結婚して生きました。ノア家庭は、ノアのおじいさんを中心としてみれば、み旨を成就できる立場には立ったのですが、約束だけを果たしてみ旨を果たせなかったのです。これは約婚の段階と同じです。 アダム家庭・ノア家庭を代表して、ヤコブ家庭において十二人の息子を中心として、初めて地に定着したのです。イスラエル民族の選民圏が定着したのです。十二支派、十二数です。天運を中心として、神様を中心として、この全宇宙が運行しますが……。選民圏とは何かというと、青年男女が貞操を守るということです。この地には未婚者がいて、結婚式を挙げない約婚段階のカップルがいて、堕落した家庭がありますが、アダムとエバが自分勝手に行動したことによって、フリーセックスとなり、完全悪の現象をもたらしたのです。 全世界が、アダム家庭型・ノア家庭型・ヤコブ家庭型に分類されます。全世界を見ると、堕落したアダムとエバの姿になっており、イエス様も約婚段階で結婚できませんでした。これが定着しなければなりません。このすべての歴史的な内外において、三段階の基準が完全に一致するのです。再臨主はヤコブと同じです。全世界において、天の一族に属する地上天国を中心として、神様の選民圏、神様の血統を中心として、平和と統一圏を実現していくのが、ヤコブ定着時代です。地上天国を完成する時代に進んでいくのです。 結局、結婚を誤ったことでこのような問題が起こりました。アダム家庭ではこのような結婚を考えることすらできませんでしたし、イエス様は結婚するために来られましたが結婚できませんでした。再臨主が来てはじめて、ヤコブのような立場で定着したのです。アダム時代、イエス時代……、過去の失敗をすべて整理し、家庭を編成することによって、神様の血族圏が誕生するのです。そうして入籍が始まるのです。真の父母を中心として生まれた一族になるのです。 家庭的基盤でなければ入籍できません。真の父母というのは、家庭を中心として祝福の基盤を代表した世界的な家庭なので、それと相対圏を造成して入籍しなければならないのです。家庭的な出生を申告しなければならないのです。 真の父母のみ名を中心として、神様のみ旨である平和境が形成され、統一圏が形成されたここにおいて家庭的に入籍するという事実は、国家が瞬時に転じることを意味します。入籍した氏族的メシヤが十二家庭になったとしましょう。その国はどのようになりますか? 瞬時に回るのです。どのような国であろうと問題ありません。完全に一挙に回り出すのです。アダム家庭以降に堕落したすべてを、神様を中心として愛をもって赦し、抱くのです。 堕落して神様の前から追い出されたのは、結婚を誤ったのです。ですから、真の父母のみ名を中心として、全体、全般、全権、全能の権限をもって、万民解放圏を宣布するのが三十六万双の祝福なのです。この三十六万双は、アダム圏・ノア圏・ヤコブ圏を完成したものです。アダム圏を完成して、イエス圏の完成、再臨主の完成を平面的に代表できる数なので、三十六万双が結婚しなければならないという事実を、皆さんは知らなければなりません。 三十六万双が問題ではありません。三百六十万双、三千六百万双をできる時代になったのです。その次は、三億六千万双でしょう? それをすべて成せば、地上天国が目前に迫るのです。 天が皆さんにハンマーをあげましたが、皆さんは鉄のハンマーがほしいですか、木のハンマーがほしいですか、紙のハンマーがほしいですか、ダイヤモンドのハンマーがほしいですか? どれですか? 鉄よりもダイヤモンドのハンマーの方がいいでしょう。ダイヤモンドのハンマーを与えるのです。真の父母はダイヤモンドの塊も砕くことができるでしょう? そのようなハンマーをすべての家庭に与えるのです。 今回、帰ったら、自分の一族を集めて「統一教会のどこがいけないのですか? 私が何か誤ったことでもしましたか?」と問い詰めてみなさい。「昔は乱暴者で、ヒッピーとかイッピーとかになって、お酒を飲み、タバコを吸い、ありとあらゆることをやってきたのに、今はそのようなことから足を洗って、お酒も飲まずに、家庭で孝子となり、国では着実な愛国者となり、世界では聖人となり、天地の聖子となる道理を果たそうとしているのに、どこがいけないのでしょうか?」と問いただすのです。 悪魔がこの世界の家庭を完全に破綻させました。そのような悪魔には負けられないのです。フリーセックス圏内に家庭があり得るでしょうか? ホモの世界に男性と女性があり得るでしょうか? すべて崩れました。すべて崩れてしまったのです。レズビアンの世界に男女があり得るでしょうか? 相対がありますか? 相対理想がないのです。 全世界の家庭を破綻させました。男性と女性、主体と対象圏を完全に破壊してしまったのです。主体は対象を必要とし、女性は男性を必要とするのですが、その世界では、すべて嫌がるのです。全人類がそのようになれば、人類は一代で終わります。サタンがそこまでやろうとしているのです。悪魔によって破壊された結果を、私たちは知らなければなりません。悪魔の破壊性について知らなければなりません。 これまで悪魔は個人から家庭、氏族、国家を滅ぼしてきましたが、今や完全に世界を滅ぼそうとしているのです。このような悪魔の行動を知っている限り、神様は悪魔に負けることができないのです。神様の息子は悪魔に負けることができません。神様が悪魔を追放してしまわなければなりません。 これまで誰が犠牲になったでしょうか? もちろん神様が犠牲になってこられましたが、犠牲の祭物はみな人間だったのです。人類が犠牲の供え物になってきたのです。ですから、人間が団結してすべてを撃破してしまわなければなりません。男性と女性が団結しなければならないのです。 それでは家庭とは何でしょうか? 神様が世界の代表として探してくださった男性と女性が結束した、夫婦を中心とした足場です。堕落した夫婦ではありません。天側に帰って来た天国の夫婦なのです。この夫婦を中心として、すべてのサタンの権勢をそのまま放置せず、すべてを整理していくべき時代となったのです。万民もまた心の扉を開けて、そのようにできる所を探しているのです。 堕落したサタンが発悪する最後の終着点は家庭の破綻です。男性と女性の破綻です。麻薬のようなものを用いて、精神状態の混沌とした半狂人にしてしまったのです。その世界に押し流されていくような統一教会ではありません。これを逆に打ち破っていくのです。このように破綻した形態となったものを、完全に追放するのが統一教会の責任です。 それで統一教会では、全体・全般・全権・全能……。「全体」というのは、すべての縦横を中心としたものであり、「全般」というのは、老若男女を問わないということであり、「全権」というのは、全体に関して神様を代行できる権限を与えるということであり、「全能」というのは、すべてにおいて能わざるものなしということです。自由にできる時代になったのです。家庭を中心として、社会形態がそのようになっています。世界がそのようになっています。 そのような権限を私たちの家庭に与えるのです。個人自体に与えるのではありません。家庭がそのような権限をもっているのです。そうなれば、どこに行っても勝利するようになっています。 三十六万双とは、神様が全人類を抱くということです。アダム家庭型・ノア家庭型・ヤコブ家庭型をみな復帰するのです。堕落したアダム家庭型、イエス様のような結婚していない約婚状態にある型、ヤコブのように地上において天地に定着した型、歴史的な縦横のすべての数を蕩減復帰するために、三十六数が必要なのです。この三十六数を世界的な版図に拡大したのが三万双です。三万双は一番目です、三十六万双は二番目です。全体を神様の懐に包括させるための、祝福家庭を代表したものであるということを知らなければなりません。 ですから、三十六数を中心として一段階さえ越えれば、その次はすべての峠を越えていくのです。蘇生・長成が一番問題です。国家的次元なのです。氏族的メシヤを中心として国家次元で峠を越えるのです。これは長成級です。 氏族的メシヤ! 氏族を通じて国が形成されるので、これは絶対的なものです。最後です。それは難しいことではありません。 郭錠煥と協会長、世界宣教本部長を中心として、ここに六大州の代表者がいます。これから私たちが通過すべきことは、トップから祝福してあげることです。王や大統領、閣僚をはじめとして、肉体労働者や軍人まで祝福してあげるのです。 全世界の政府代表者、大学の総長、こうした人々に通告しましたが、祝福結婚は、その国の主権者と大学総長、高等学校の校長を連結しなければなりません。私たちが必要なのは、高等学校の校長と大学総長、その国の主権者です。この三つの部類の者たちに公文を送るのです。誰でもこの祝福を受けるようにと命令的な文献を作って、全世界に発送するのです。これが第三宣言です。 サタンは主権をもって権勢を振るいました。サタン圏の基盤は知識人です。大学を中心として中学高校まで……。中高生はアダムとエバが堕落した年齢です。それ以降の青年たちを中心として、政権と一つになって世界をみな……。サタンは軍隊を活用して天の世界を破綻させ、人類を支配してきました。強者が弱者を支配してきたのです。 政府、専門家、キャンパス、中高生、青年さえ収拾すれば、世界はすべて収拾され好転していくのです。そのためには、大学総長と中学、高校の先生を中心として一つにならなければなりません。ですから、我々の世界的なサミットクラブ(頂上会議)のような組織で、先生を支持するすべての代表たち、前大統領、現職大統領、総長を中心として大学生、中高生を教育するのです。創造原理を教え、堕落論を教えるのです。 二世の時代が到来したので、今年の初めに先生が発表したのが何かと言うと、今や一世時代は過ぎ去ったということです。荒野で四十年間反対された期間を過ごし、二世時代に入ったので、キャンパスや学校を中心として全世界に問題が起こり、混乱に陥っているのです。ですから、それを収拾して世界を正すのです。青少年の淪落、完全に性解放を叫ぶこの時代において、完全に神様の創造理想、一対一という性の絶対圏を打ち立てていくべき時代に転換しなければならないのです。 このように摂理史から見ても、歴史的な伝続から見ても、家庭的なすべての勝利基盤から見ても、三大家庭を中心とした祝福が成就するときには、サタンが住める基地が、地上・天上世界、共産世界にはあり得ません。そのみ旨を成すことによって、私たちの先祖がサタンの前に犠牲となりながらも天の前に合掌して祈った解放の日々、所願の日が成就するということを知らなければなりません。 神様は再臨主一人を縦的に送られましたが、氏族的メシヤは真の父母が平面的に派遣しました。家庭を編成した再臨の主体として、横的に一挙に七十万の氏族的メシヤを派遣したのです。恐ろしいことです。サタンにとって恐ろしい時代になったのです。 皆さんの氏族のうち、祝福家庭として三大家庭や信仰歴の長い家庭がいたとしても、それができないならば、一番後に祝福された三万双が一六〇家庭を入籍させて、三万双が中心になるのです。一番後の尻尾についている三万双が先祖になるのです。その先祖が氏族的メシヤです。それ以外はメシヤになれません。逆さになるのです。 今、三十六万双の突破が問題ですか、問題ではありませんか? どん尻になる国もあります。どんなにこのブラジルが大きく、どんなに日本が素晴らしく、どんなにドイツが素晴らしくても、どん尻になれば、今後その地を処分して、アフリカのような地方に大移動すべき時が来るのです。五十億人類が大移動するのです。 真の父母を中心として家庭を編成しておいたのに、五十億人類の中で家庭を編成できない人は、どんどん後に引き下がっていくのです。中心を中心として大移動が始まるのです。大避難民のように大移動が始まるのです。統一教会に反対した人はアフリカの末端、一番悲惨な国に行くのです。 ですから、アフリカの人たちがたくさん祝福を受ければ、白人たちがどん尻になって、反対になるのです。家庭を中心として氏族・民族・国家・世界を編成するようになれば、サタンは一番後に立つようになります。反対していた者はサタンの前に立つのです。そうなります。再臨主の世になるというのに、そのような大民族国家の政権を認定しなければ、大移動しなければなりません。これは強制ではありません。自然にそうならざるを得ないのです。不平を言って行かないとは言えないのです。自動的に従わざるを得ないのです。 「サンパウロ宣言」、「ニューホープファーム宣言」、この「家庭宣言」に参席した人たちも同じです。み言のとおりにできなければ、全世界の尻尾に行くしかないのです。そのような者が出るかもしれません。 氏族がなければ家庭を保護する道がなく、家庭がなければ個人を保護することができません。地上において、個人は家庭、家庭は氏族が保護するのです。蘇生・長成・完成の三段階が一つのチームです。個人完成・家庭完成・氏族完成、これが一つのカテゴリー(範疇)です。蘇生・長成・完成の三段階となって、神様が意のままに連結するのです。 それで今年、家庭連合を特別に急いで創設したのは、この祝福家庭と氏族的メシヤの家庭を保護するためです。全体・全般・全権・全能です。決然たる信念をもってやれば、すべてが成就するのです。 統一教会の皆さんが、こうした内容を国家的に宣布できなければなりません。すべての氏族・民族・国家が連結される道を宣布し、橋渡しをする条件だけでも造成しなければなりません。はっきり知っていながらも、それができなければ、皆さんは自分の民族から怒鳴られ殴られるでしょう。 統一教会に入籍するのは、世界のために生きるためです。世界のために生きられなければ、国家のために生き、国家のために生きられなければ、氏族のために生きるためです。そのような足場を備えなければ、生き残れる所がありません。皆さんが召命を受けた責任が重要だというのです。 氏族的メシヤになりますか、国家的メシヤになりますか? 国家的メシヤにならなければなりません。国家的メシヤを中心として統一世界が展開されるのです。今や国家の代表さえ形成されれば、世界は問題ないのです。 今朝、家庭盟誓について語りましたが、三十六万双の祝福が私たちにとって問題ですか、問題ではないですか? 問題ではありません。 ここで各国の責任煮各大陸の責任者が三十六万双の祝福を勝利するために、ノルマが割り当てられていますが、その数字を何パーセント達成するか、責任を追究するつもりです。祝福家庭も三十六万双に責任をもって、できない時は、責任が追究されるのです。 真の父母の勝利圏を皆さんに相続してあげるのは無条件なのですが、まったく条件がないというわけではありません。真の父母の息子、娘としての責任を果たさなければならないのです。真の父母は「世界的な父」の責任を果たしたので、皆さんは「氏族の父」、「国の父」の責任を果たさなければなりません。それでこそ橋が架かるのです。個人的な父から氏族的な父、国家的な父へと橋を架け、家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、国家的メシヤが連結されてこそ、世界的メシヤに連結されるのです。 自分たちで氏族的メシヤの責任を果たし、国家的メシヤの責任を果たさなければなりません。統一教会の伝統をすべて相続したにもかかわらず、責任を果たせず、今後入ってくる氏族的メシヤ、国家的メシヤ圏を妨げる立場に立てば、責任を追究されざるを得ません。 氏族的メシヤとして入籍した者は、統一教会の祝福をすべて行うことができます。今後は入籍したその数によって、地上天国・天上天国の皇族圏が連結されるのです。 氏族的メシヤの入籍時代が始まったら、その次は何ですか? 国家的メシヤの入籍時代です。国家的メシヤが世界で一つになって、天宙的メシヤ、真の父母を中心として神様の前に献納することによって、はじめて神様を中心として、天宙的な家庭形態、理想家庭の版図が形成されるのです。 今は国が無いので、教会の中で祝福しますが、今後は国に入籍しなければならないのです。氏族的メシヤの責任を果たしてこそ、国に入籍するのです。国に入籍して、世界に入籍して、真の父母と一つにならなければなりません。真の父母が主体ならば、全世界の家庭が客体として一つになって、神様に侍れる家庭を献納してこそ、天宙的な祝福家庭理想が形成されるのです。それが地上天国・天上天国なのです! アーメン! ですから、これまでは蘇生祝福を受けてきたのですが、国家祝福を受け、世界祝福を受けてこそ、解放圏を迎えることができるのです。新しく入ってきた者たちが、氏族的メシヤの責任を果たせば、統一教会の伝統的な歴史を受け継いだ三六家庭からこれまでの祝福家庭が、すべて逆になるのです。 三十六万双の祝福が問題ですか、問題でないですか? 問題ありません。ダイヤモンドのハンマーを与えたのです。ダイヤモンドのハンマーで、壊れないものがないというのです。三十六万双に責任をもったすべての責任者は、帰ったら明日から、まちがいなくマラソン選手になって走らなければなりません。自分の国や一族の誰一人として残してはなりません。出エジプト時代において、イスラエル民族が自分の親戚にすべてを通告したように、くまなく探して、天の国に大移動しようと通告しなければなりません。 家庭を築いて大移動するのです。出エジプトをするとき、モーセを中心として家庭が大移動したのと同じです。「皆さん! 祝福家庭の大移動する世界解放圏に向かいましょう!」と宣布しなければなりません。カナンを復帰しなければなりません。家庭的カナン復帰に前進するのです。三十六万双の祝福は問題ありません。キリスト教だけやっても、三億六千万双の祝福は問題ないのです。 第二次大戦後にキリスト教が一つになっていたら、八億ですから、四億という数を一挙に祝福できたのです。それを考えると悲惨なのです。悲惨きわまりないのです。それを考えるとき、数倍、数十倍……、四十年にわたって蕩減すべき受難のすべてを克服するには「家庭解放に向けて先生以上、神様以上に苦労する!」と鉄石のように誓わなければならないのです。 今日、先生のみ言を中心として、この「家庭宣言」に対する責任を完成することに不可能はないという新たな決意をなし、新しく出動しなければなりません。 郭錠煥! 責任者が宣言しなさい!(「真のご父母様の伝統を相続し、我々指導者と責任者は皆、自信をもって三十六万双の責任を完遂いたします!……やります!」)。(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.08.02
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「統一の本義」歴史的父母の日 1977年4月18日 ニューヨーク マンハッタンセンター 文鮮明では、統一教会とは何でしょうか。「統一」という言葉は大きな言葉です。この言葉のもとに私たちはすべての宗教を一つにすることを願っています。すべての人々を神のもとに帰するために、私たちはすべてを許し合って一つにならなければなりません。それが「統一」という言葉の意味するところです。だから統一教会は、メシヤ的な道を歩まなければなりません。それは安易な道ではなく、苦労の道であり、惨めな道です。始めから終わりまで、人類の最も惨めな最低の状態を通過していく道です。言い換えれば、統一教会は真に「世界の宗教」としての責任を負って行かなければならないのです。私たちが、今こうしてここにいるのは何のためでしょうか。それは統一教会のためではなく、世界、天宙のためです。統一教会は正に神と人類のためにのみ存在しているのです。私たちは神の直接の擁護者として、何よりもまず神のため、そして人類のためにある存在です。神がそのように考えておられる以上、私たちもそのように考えなければなりません。私たちは、今苦労と迫害の道を通過していますが、それは私たち自身と私たちの教会のためではなく、神と神のみ旨のために苦労しているのです。私たちがそのように考えない限り、決してサタン世界を乗り越えることはできません。この世は、すべてが自己中心的にできています。だから、私たちがこのサタン世界から自らを解放するためには、百パーセント、絶対的に、この世とは異なった生活様式、すなわち、自己中心的な生活ではなく、神中心の生活をしなければなりません。そうすることによってのみ私たちは、このサタン世界から自らを解放することができるのです。あなた方が伝道に出かける時、もし、「ああ疲れた。自分はどうもこの仕事には向いていないから、どこかで休んでいよう」などと考えたとしたら、それはとても神を中心とした考え方であるとはいえません。多くの人々が、「統一教会のメンバーはよく働く」と言うかもしれませんが、神の立場からすれば、まだまだ決して十分とはいえません。たとえあなた方がこれまで忍耐して一生懸命頑張ってきたものとしても、ここで音をあげてしまって、″ああ、もう疲れた、もう自分の道を歩もう″と考えたり、さらには、神や統一教会のことを悪く考えるようになったりしたら、サタンはここぞとばかりにあなた方の中に鉤を見いだして、引っ掛け引きずり込もうとするでしょう。だからもし、疲れ果てて、もう駄目だと思ったら、″神様、あなたは私よりも、もっと苦しんでおられます。主は私よりももっと苦しんでおられます。私が今このようにして、いるだけでも感謝であります。命ある限り、体の中の血が最後の一滴になるまで、私はあなたのために行きます″というように考えるのです。あなた方がこのように考えて感謝するならば、背後にいるサタンは、あなた方を捕らえる鉤を見つけることができず、あなた方も、イエス様と同じようにサタン圏を乗り越えて、神と完全に一つになることができるのです。これが神の基本的な原理なのです。だから、苦労が多くなればなるほど、困難が多くなればなるほど、私たちがサタン圏から解放されて、神の主管圏に近づきつつあるしるしである、ということをはっきり知らなければなりません。【中古】 父の祈り 文鮮明師の祈祷 7(忠孝編) / 文鮮明 / 世界基督教統一神霊協会 [単行本]【ネコポス発送】【中古】 天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会 文鮮明先生のみ言 韓日対訳・読み仮名付き 第2版 【中古】 文鮮明(ムンソンミョン)師と金日成(キムイルソン)主席 開かれた南北統一の道 / 福田 信之 / 世界日報社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.07.31
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「ニューホープファーム宣言」 (ジャルジン第一宣言)一九九五年四月三日 一九九八年八月七日、真のご父母様はアメリカに向かう直前、ニューホープファーム(ブラジル・ジャルジン)にある真のご父母様の公館の前で、ジャルジン第二宣言を発表し、かつて同じ場所で発表したニューホープファーム宣言(一九九五年四月三日)を、ジャルジン第一宣言とするように命じられた。 第一宣言の主要内容 神様が人間と万物を創造するとき、絶対信仰・絶対愛・絶対服従でつくられたように、神様の対象体である私たちも、神様に対して絶対信仰・絶対愛・絶対服従しなければならない。 今日は四月三日です。四月三日を中心として、これがニューホープファーム宣言(第一次宣言)です。世界百六十か国の代表と真の父母を中心として宣言するのです。「新しい希望農場宣言」です。 アダムが堕落することによって、絶対信仰・絶対心情を失ってしまったので、ノアの時に絶対信仰の基盤を築かなければなりませんでした。しかし、それを築くことができなかったために、再びアブラハムを信仰の祖として立てようとしたのです。ところが、アブラハムは祭物を捧げるとき、深刻ではありませんでした。よく考えもせずに、いいかげんに行ったのです。神様はアブラハムに「あなたの子孫は、海の砂のように、天の星のように栄えるであろう!」と祝福され、それを感謝する意味で祭物を捧げるように命じられました。牛と羊と鳩、蘇生・長成・完成の三段階の祭物を捧げるようにされたのです。 信仰の祖となるためには、不信の先祖であるサタンを粉砕しなければなりません。それゆえ、サタンはサタンのまま対せということで、祭物を二つに裂いて、一つにしなければならなかったのです。誰が一つにしなければなりませんか? アブラハムが一つにしなければならないのです。愛をもって、絶対信仰・絶対愛・絶対服従で一つにしなければなりません。 今日の教会の指導者は、大祭司長の立場にあるため、絶対信仰・絶対愛・絶対服従する模範を示さなければ、先祖になれません。責任者だからといって、いいかげんにはできません。祭物として捧げる牛を裂き、羊も裂いたならば、鳩も裂くべきであったのに、蘇生出発である鳩を裂かなかったために、完全にサタンにはまってしまったのです。 これが父母復帰の伝統です。カインとアベルを一つにできなければ、父母が祭司長として立つことができません。祭司長は父母復帰の使命を果たさなければなりません。カインとアベルが一つになってこそ母親が生まれるのです。ですから、祭司長の妻は、祭司長と一つにならなければならないのです。 それがどれほど深刻であるか知りませんでした。天下がそこにかかっていたということを知らなかったのです。一人の祭司長に天下がかかっていたのです。信仰の祖です。信仰の祖が出発するのです。アブラハムの代に、アダムが失敗し、ノアが失敗したことを復帰するための信仰の祖を立てるのです。 サタン世界の偶像商テラの息子に、「ジプシーの先祖になれ!」と命じたのです。ジプシーの群れにならなければ、生き残る道はありません。祭物を裂かなかったということは、神側から見れば、サタンの物をそのまま置いたということになるので、そこに鷲が臨むことによって、天下の分別的な先祖の立場が汚されてしまったのです。そのため神様は、象徴的な祭物における失敗を取り戻そうとして、イサクを祭物として捧げるように命じられたのです。 アブラハムは百歳のときに生んだ息子、イサクを捧げはしましたが、すでに象徴献祭において失敗していたため「四百年間、異邦の奴隷になる」という呪いが残ったのです。それで、イスラエル民族に裏切り者の群れが生じたのです。十二支派の中で、裏切り者の一族が出てくるのです。 イスラエル民族は、エジプトに行って四百二十年間、僕の暮らしをしたのです。このように恐ろしいのです。いいかげんに行うことはできません。刃の上に立っているようなものです。腹を切るか切らないかという深刻な立場です。それを全うすれば天につながり、それに失敗すればサタンに完全に切られて、すべて食べられてしまうのです。神様には生かせる能力がありますが、サタンには殺せる能力があるのです。それで、祭物を切るように命じたのです。それは死ぬ立場です。死ぬような立場に立てば、サタンは分別されるのです。 ですからアベル……、天側の者がカインを愛するようになれば、サタンは逃げ出すしかありません。それが人類歴史です。アブラハムは信仰の祖ですが、絶対信仰の伝統はノアが立てました。ノアは百二十年間失敗をすることはありませんでした。絶対信仰をもって、息子と娘たちを中心として血統を清めてきたのです。アブラハムも自分の息子を祭物として捧げるときには、絶対信仰によって捧げました。未練がないのです。それゆえに信仰の祖と定められたのです 信仰の祖の基台の上に、愛の祖として来られる方がメシヤです。信仰の祖の基台の上に、長い歴史を通じて神様が愛の祖を送ったのです。堕落してから四千年の歴史を経て、メシヤを送ったのです。その方は愛の祖です。絶対愛と一体となるように神様が命じたのです。 イエス様の失敗とは何でしょうか? 十字架を前にして、オリーブ山に行って祈祷するとき、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください……」と祈りました。「私の思い」とは何たることでしょうか? これによってサタンに引っかかったのです。イエス様の意と神様の意が一つにならなかったのです。 先生はそれを知っていたので、拷問を受け、血を吐くような立場にあっても、その血を見ながら「私はイエス様とは違います。私の血は神様のみ意のためにあります!」。そう言ったのです。神様のために、血を洗いざらい捧げると言ったのです。私は難しいことがあっても祈祷はしません。天がご存じであるにもかかわらず、「神様、私を助けてください!」と祈りを捧げるようなまねは、私にはできません。身をもって、全体が生きることができる方向を教示するのです。ですから、祈祷はできません。 そのような目標を中心として、絶対信仰・絶対愛をもって今まで歩んできたのです。一生涯、血の涙を流すような狭間を越え、神様を愛して心を一つにしていくのです。故郷を離れるとき、故国のキリスト教に反対されたら、故郷に帰れなくなるかもしれないということを知りつつも、故郷を離れながら涙することはありませんでした。 祭物は自分に一番近いものを捧げなければなりません。私の一族、私の父母、私の兄弟が祭物にならなければなりません。神様のように、自らに近いものを犠牲にするのです。アベル世界、アベル圏を犠牲にして、カイン圏を求めなければならないのです。それにもかかわらず、エバ国の人たちが自分の土地を持ち、自分の家を持って、世界を生かそうという神のみ旨を妨げるのは、首が飛ぶようなことです。呪われる条件になるのです。(二六八-二九六、九五年四月三日) 伝統的精神、絶対信仰、絶対愛が問題です。信仰の闘いの場を滅ぼすような者になってはなりません。 絶対的な信仰が伝統になるのです。私たちの先祖の過ちを復帰するためには、絶対信仰・絶対愛・絶対服従しかありません。これを否定することができますか? どうして否定できるというのでしょうか? 今、このような状態では、永遠に神様とつながることができません。何人といえども、先生が話した、このような概念を否定できません。歴史が証しをしているのです。それをどうやって否定するというのでしょうか? 皆さんはこれを相続しなければなりません。 今年の年頭標語は「真のご父母様の勝利圏を相続しよう」です。このような所有権を相続することが、絶対信仰・絶対愛・絶対服従です。この点をはっきりと知らなければなりません。何者も否定することのできない概念です。神様も否定することはできません。 完全な主体は、完全な対象をつくることができます。これは原理が教えることなのです。神様のような主体の立場に立って、世界を再創造しなければなりません。これが私たちの使命です。私たちが堕落した世の中を越えていかなければ、神様に連結されません。 これからは、猫も杓子も絶対信仰・絶対愛・絶対服従をしなければなりません。一方通行です。戻る必要はありません。神様のものとして、天国のものとして勝利するのです。 今まで苦労し、価値的基準を備えながらも、すべてを蕩減の涙で洗い流してきましたが、今後皆さんがこの場で築いたすべてのことは蕩減ではありません。祝福の基台として、皆さんの子孫の前に連結されるということを知らなければなりません。それを三年前から、「真の父母と成約時代」、「真の父母と成約時代安着」を中心として、準備してきたのです。真の父母が絶対的な定着をしたので、全世界の五十億人類に同じ祝福をしてあげるのです。 今後は、絶対信仰・絶対愛・絶対服従できる人にさえなれば、統一教会の原理を知らなくてもいいのです。その上に、絶対的な血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰、この三つさえ果たせば、地上世界におけるそれをもって、霊界においてすべてを踏み越えていくのです。その人は天国の民であり、天国の息子なのです。 三時間だけこのような教育をして、「はい、そうします。一生、絶対服従、絶対愛、絶対信仰で生活します」と答えればいいのです。そのようにすればいいのです。 潮は六時間おきに満ちたり引いたりするのですが、先に入ってきた水は、やがて遠くまで引いていきます。そして六時間か過ぎると、再び満潮になり、どんどん幅が狭くなっていきます。十メートル、一メートル、一尺、一ミリメートル圏内になれば、サタンが立つところはありません。そこから統一がなされるのです。 前回、三万双を祝福して、今回、三十六万双をするのですが、四十万双以上立てばいいのです。四千万でもいいでしょう。三十六万は、数字を合わせれば九です。九はサタン数です。それで以前、第三十六回の「真の父母の日」を中心として宣布したのです。今日は四月三日ですが、四数は地の数であり、三数は天の数です。ちょうど合うのです。それで「ニューホープファーム宣言」をするのです。統一的な精神、根本的な統一の核を備えて、サタンの息の根を止めるのです。そのように宣言するのです。 信仰の祖は、ノアからアブラハムに延長され、イエス様から再臨時代へと延長されました。愛の祖がいませんでした。それから、絶対服従の群れがいませんでした。それが先生の時代になって、未完成な信仰の祖を完結し、未完成な愛の祖を完結したのです。また、未完成な絶対服従を完結したのです。すべてを成したのです。 (未完成なことが)永遠に続くわけではありません。永遠にそうではありません。皆さんの国を解放し、この世界を解放すれば、絶対服従から絶対自由です。夫婦で裸になって踊りを踊ってもかまいません。 そのようになれば、全世界の国家や民族や伝統を超えて、どこに行っても兄弟、どこに行っても主体、どこに行っても相対となり、歓迎されない所がなくなって、すべての伝統がないがしろにされ、国境がないがしろにされ、習慣がないがしろにされ、文化などすべてがないがしろにされるのです。(二六八-三〇一、九五年四月三日) 「私は信仰の祖、愛の王として来た。万事に絶対服従して勝利した、祭壇を守る祭司長として来た!」と言えなければなりません。 絶対服従してこそ、絶対勝利した祭司長の立場で行動するのです。先生の歴史的なすべての段階を引き継ぐには、絶対信仰的な祭司長、絶対愛的な祭司長、絶対服従的な祭司長のこの伝統を、そのまま継承しなければなりません。それを継承すれば、先生のすべての価値が何もかも皆さんに、もたらされるのです。神様が創造したものまで、皆さんのものとなるのです。 そのようなことを決意した人は、両手をあげなさい。「私は今朝、お父様のみ言を絶対的に認める!」と決意しますか? それを神様の前に祈祷しなければなりません。そのような意味で、万歳をするのです。蘇生・長成・完成、このように三回するのです。万歳をした後には、皆さんが実践し、皆さんの一族が実践し、皆さんの国と教会全体が一つになって実践しなければならないのです。 「ニューホープファーム宣言」を記録して、ただそのまま教えてやるのではなく、実践しなければなりません。今は、教えたり習ったりするよりも、実践することが重要なのです。今までは言葉だけで補ってきたのであって、実践で補ってきませんでした。今回は実践をしつつ言葉で補うのです。言葉は一言で充分です。(二六八-三〇五、九五年四月三日) 神様の心が私たちの心となり、神様の体が私たちの体となるのです。これが愛で一つになったここが九〇度になることによって(板書をされながら)、見えない神様、「正」から「分」になった神様がここにきて「合」になるのです。「合」が展開するのです。ですから、見えない神様の心と、目に見える実体を一つにするのが愛です。真の愛です。 相対がいなければ愛は成り立ちません。ですから、プラスはマイナスのために生まれたのであり、マイナスはプラスのために生まれたのです。自分を中心とした基準では、愛は一つになりません。 神様も同じです。神様も愛を求めるには、自らを中心とした心をもつことはできないのです。相対のために生きる心……。絶対信仰という言葉、絶対信仰という概念は、どこから始まったのでしょうか? 復帰時代の出発から始まったのではありません。本来、天地創造をするとき、絶対信仰の上でつくったのです。 すべての存在は、神様が絶対信仰の中で創造されたものです。絶対信仰です。言葉を語れば、語ったとおりになるのです。異議はありません。絶対に語ったとおりにならなければならないのです。それゆえ、絶対信仰をもつ人々は、自らの考えや話すことが実体とならなければなりません。そのようにならないのは、絶対信仰でないからです。 その実体自体に神様が主体なるプラスを投人して、ご自身をなくしながら、相対に伝授してくださるのが創造です。このようにして、第二対象を創造するのです。第二対象を形成するにあたっては、第二対象の実体がご自身よりも立派になることを願うのです。 人は愛する相対が、自分よりも何千万倍も立派になることを願います。それが妻であり、子供なのです。父親や母親は、我が子が自分よりも立派になることを願います。夫や妻も、互いに相手が自分よりも立派であることを願うのです。 このような伝統的な起源によって、私たち人間の歴史は堕落したものの、本性の欲求によって、永遠の素性をもっているのです。歴史時代において、それが自分の思いどおりになる活動舞台にはならなかったけれども、本心はそのように変わらずに伝わってきたのです。 アダム家庭は何かというと、世界の家庭を代表し、天地の家庭を代表し、国家の家庭、民族の家庭、氏族の家庭を代表した家庭です。そのアダム家庭が勝利したので、絶対信仰・絶対愛・絶対服従で創造した神様の本然の基準によって、その上で創造した神様のような行動を行うことができ、また心情の一致圏を備えることによって、初めてすべてが……。(二九五-一二九、九八年八月十九日) ジャルジン第一宣言とは何かというと、絶対信仰・絶対愛です。その次に、絶対服従です。皆さん、二世がしなくてはなりません。絶対信仰・絶対愛・絶対服従の心で創造した出発の基準、神様がおられるところに帰って、神様と共にこれを提示しなければなりません。絶対信仰・絶対愛・絶対服従の宣言というのは、皆さんの宣言ではありません。神様が創造前にした宣言なのです。 絶対信仰は、絶対愛を扶植することができます。皆さん、結婚すればそうではないですか? 「自分をどれだけ信じるか、絶対的に信じるのか」と尋ねるでしょう? 絶対信仰の中には、絶対愛がついていくのです。絶対信仰は、愛を求めるためのものです。 また、その愛の種が植えられたそこから、芽が出るようになっています。絶対信仰は何もかも扶植させることができるのです。扶植というのは、接ぎ木することができるということです。愛に接ぎ木をすれば、そこから芽が出るのです。愛が芽生えるのです。それをどのように育てますか? 絶対的な存在を望んで、そのように育てるには、投人して忘れてしまわなければなりません。神様はご自身よりも大きくなることを望むゆえに、投入しても忘れてしまうのです。神様の霊の霊、高段階の霊、存在意識まで忘れることのできる所においても、投入して忘れようという思いが先立つのです。そのようになってこそ、すべてが回るのです。それが原則です。公式なのです。 皆さんは、そのような過程を考えてみなさい。自分を絶対的に忘れ、愛ゆえに自分が絶対的に否定されなければならないのです。愛ゆえに、何千万回の犠牲を払ったとしても、その道は残していくという決心が固まらなければならないのです。なぜそれを残すのでしょう? 愛の相対を完成させるためです。何千万回犠牲になっても完成させることができなければ、愛の定着地を見いだせないというのが、エデンの園のアダムとエバに与えられた鉄則なのです。 根本的な話はすべて話しました。二世は一世の責任です。三世まで伝統が行き渡らなければなりません。それで、第四次アダム圏に立った皆さんは、三世圏を宣布し、自分の息子や娘が誰も堕落せず、神様が本郷の父母の座に帰ってこられたと言うことができなければなりません。そうして、自分が神様に代わって祝福してあげなければなりません。そのような立場が、第四次アダム圏の時代です。父母が自分の息子や娘を祝福できるのです。今は、真の父母がしてあげるのです。 それで、三億六千万双とサタン血統断絶……。三億六千万双を行えば、この家庭を中心として見るとき、皆さんの家庭と新婦側の家庭がありますね? そこに天地がかかっているのです。男性はプラスになり、女性はマイナスになるのです。右弦、左弦になるのです。右弦がプラスであり、左弦がマイナスになって、これが一つになるのです。一つになって戻らなければなりません。真の愛を中心として戻らなければならないのです。三六〇度の統一的基準をもたなければなりません。 ですから、命令の前に順応できなければ、引っかかってしまうのです。皆さんは自分勝手にはできません。ほかの学校に通っている者たちは、すべて鮮文大学に転学するように指示を出しました。今後、大学を認めない時代がきます。ソウル大学がどこにあり、ハーバード大学がどこにありますか? 私は認めません。それで、顕進君にもUTS(統一神学大学院)に行くように命じたのです。皆さんもそうです。今後、どんなに世の中でうまくやっていたとしても、UTSを出ていない人は誰も統一教会の指導者になれないのです。【関連記事】黒・天聖経に見る「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」(その2) | 奇 知 外 記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)天一国摂理史--ジャルジン第一宣言--絶対信仰・絶対愛・絶対服従(1995.04.03) | 奇 知 外 記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.07.25
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