全8件 (8件中 1-8件目)
1
10月の声を聞くと冬期休業の温泉が出てくる。ニセコ黄金温泉もそのひとつ。10月31日が最終日と聞いて、蘭越米などの買い出しも兼ね、あわてて行ってきた。札幌から約100キロ、小樽回りの高速を使って2時間弱の道のり。ちなみに蘭越米はこのところ評価の高い北海道米の中でも特に高品質で味がよいことで知られている。農協を通じて流通している米を買わないことにして以来、いろいろな産地の米を試しているが、江刺ひとめぼれ、新篠津ななつぼしと共に気に入っているのがこの蘭越米。炊きたてを食べるなら新品種のゆめぴりか、そうでない場合はななつぼしやほしのゆめといった具合に使いわけている。ただ、同じ蘭越米でも農家によって、またその年によって違いがある。そのあたりのことはJR昆布駅すぐのところにあるNPO法人「昆布元気村」などで教えてもらえる。ここには珍しい食用ホオズキも売っている。黄金温泉は昆布駅から3.5キロ。このあたりで農業と除雪業を営む林さんという人が手作りで作った私営温泉で宿泊施設はない。受付を兼ねた小屋では林さんの打つ10割ソバ(ざる)を食べることができ、運がよければ天ぷらをサービスしてもらえる。この日はカボチャの天ぷらをおまけしてくれた。林さんの作った米も売っている。温泉の建物は個人で作ったにしては立派。男女別の内風呂があり、内風呂の温泉がオーバーフローしたものが混浴の露天風呂に注ぎ込まれている。内湯は温かいが、露天風呂はぬる湯。この時期、これ以上温度が低いと入っていられないぎりぎりの温度。つまり、何時間でも入っていられる。露天風呂の横には小さな五右衛門風呂と寝湯がある。これほど眺望のよい露天風呂というのも珍しい。ニセコアンヌプリや羊蹄山を、何もさえぎるもののない状態で見られる温泉をほかに知らない。入浴料(清掃協力費と呼んでいる)は400円で、ソバとのセットだと1000円。バーベキューのできるスペースもあるので、夏はバーベキューのあと星を見ながら入浴といったこともできそうだ。途中で烏骨鶏の卵を売っている牧場を見つけて寄ってみたが売り切れていた。朝早くに買いに来る必要がありそうだ。多数のネコが鶏小屋の番をしていた。
October 31, 2010
コメント(0)
たしか年4回開かれている札響名曲シリーズの2回目。このシリーズは毎回、ラテンとかスラブとか、テーマを決めたプログラムで行われているが、今回はハンガリー。コダーイ、リスト、バルトークの4作品を集め、うちリスト作品以外は札響にとっての初演奏という。指揮は高関健。そのリスト「ピアノ協奏曲第2番」のソリスト、デジュー・ラーンキが聞きものだった。大量に生産される「天才ピアニスト」も、10年、20年たってみると消えてしまったり、成長をやめてしまう人は多い。しかし、ラーンキはデビューまもない頃から大成の予感があった。その予感と期待を完全に満たしてくれるすばらしい演奏だった。最弱音から最強音まで音色の美しさを保つ。何より、音楽に深くて広がりのある非常に豊かなイメージを持っているのがわかる。ラーンキにとって演奏はそのイメージに近づく行為であって、完成も到達もない。永遠の高みを目指す芸術家の姿がそこにある。だから多少のミスタッチもキズにならず、音楽の豊かさを損なうことがない。まるでラーンキ自身の体に音楽が宿っているかのような錯覚さえおぼえる。これが超一流というものであり、一流とは比較にならない。直前に、数少ない「超一流ピアニスト」ラドゥ・ルプーの公演が中止になり残念に思っていただけに干天の慈雨のようなひとときになった。一曲目はコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」。この曲は大編成で珍しい楽器も使うため、確かに演奏される機会は多くない。しかし、実演では、録音で決してわからない幻想的な響きの美しさ、声部の展開の妙などに浸る喜びを満喫できた。演奏は管楽器が充実していて、客演奏者中村均一の多彩で歌心のあふれたサキソフォーン・ソロが特筆される見事さ。そのソロに触発されたのか、札響の管楽器陣がいつになく自発的な演奏を繰り広げていた。日本のオーケストラ・プレイヤー(特に管楽器)は中村均一に学ぶべきだ。このように充実した前半に比べると、後半のバルトーク2作品「ハンガリーの風景」と「中国の不思議な役人」はいまひとつ。そういえば、高関=札響のコンビではバルトーク「管弦楽のための協奏曲」がさえない演奏だったことがあるが、この指揮者はバルトークがあまり向かないし、札響も向かないのかもしれない。それでもまだ「ハンガリーの風景」は抒情的でよかったが、「中国の不思議な役人」はゴツゴツした音楽が妙におとなしく、円満に演奏されてしまい不満だった。特にバイオリンセクションが自発性に乏しく、線も細くて「これがバルトークだろうか」と思わざるをえなかった。ラーンキの演奏は、付点音符の短い音を強調するもので、アクセントも強かった。これはハンガリー語の語感からくるものであり、このハンガリー語のイントネーションやアクセントをつかむことがバルトークをはじめとするハンガリー音楽の演奏のばあい重要であることを、高関はタングルウッドで学ばなかったのだろうか。暗く激しい音楽にしてはたおやかにすぎたのは、指揮者とオーケストラの両方に原因がありあそうだ。
October 30, 2010
コメント(0)
24日は唐牛健太郎展2010のオープニングイベント「唐牛健太郎を語る」に行くことにしていた。そのイベントは14時からなので、その前に温泉二ヵ所をはしごすることにした。一ヵ所は、朝6時からやっている湯の川の山内温泉。湯の川温泉は中学の修学旅行以来なので38年ぶり。迷ったが、早くから入ることができるのと、唐牛健太郎ゆかりの町の雰囲気を味わいたかったので、ここにした。電車通りに面してはいるものの、わかりやすい場所とは言えないので、メモ代わりに向かいの郵便局も撮っておいた。そうしたら、驚いたことに、この「山内温泉」は唐牛健太郎がいつも通っていた温泉であり、郵便局は彼の母キヨさんが保険外交員としてずっと勤めていた場所だったということが写真展でわかった。もしそれを知っていたら、山内温泉の番台の人や、年配の常連と思われる人たちに唐牛健太郎のことを尋ねていたのに。函館から60キロほどのところにある北海道最古の温泉、知内温泉に向かう。海沿いの国道を走ると、曇天にもかかわらず独特の明るさを感じる。同じ津軽海峡に面していても、海が北側に広がる青森と南側の函館ではまったく雰囲気がちがう。この明るさが、唐牛の明るさの1%くらいの背景になっていたのかもしれない、などと考えながら海からそれて山道を20分ほど走ると知内温泉に着いた。開湯して800年というが建物などにはそれほど古さを感じない。飲泉もできる熱いお湯が惜しみなくこんこんと注がれている。水で埋めないと入ることができないほどだが、熱い湯が好きな人にはいいかもしれない。1973年に作られたという露天風呂は混浴。唐突だが、わたしはブントである。日本に数千人から数万人いると思われる「ひとりブント」のひとりであり、ブント唐牛派を自認している。歳をとったので、たいていのことはゆるすことができるようになったが、唐牛健太郎についてデマを述べたり、知ったかぶりで解説したりする連中だけは容赦しない。唐牛は形のあるものを何も残さなかった。著作もない。行動だけで、33万人が参加した60年安保闘争を切り開いた。その人物について多くの人が書いているが、青木昌彦が追想集に書いた次の言葉がその人柄を最もよく表していると思う。「君は1959年初夏、彗星のごとくにわれわれの前に現れ…君の登場に新しい時代の到来を予感せずにいられなかった。君の全存在は官僚主義に対する自由闊達、権威への盲従にかえるに明朗な自立への志向、優柔を圧倒する決断と意志の力を発揮してやまなかった」一度でいいから実物と会ってみたかった。そう思う人はたくさんいるが、たいていの人は何か残している。著作や作品を通じて想像できる。しかし唐牛は何も残さなかった。放浪といえる人生を送った、それだけが残った。唐牛健太郎とはもしかすると会うチャンスがあった。彼は1980年代の初め、札幌徳州会病院の設立のために札幌に来ていたのだ。元北大全共闘の行動隊長だった知人が、興奮してカロケンに会った話をしていたことがあった。そのときは何とも思わなかったが、惜しいことをしたものだ。函館に戻り、「唐牛健太郎を語る」に。中学や高校の同級生、北大の元学生自治会委員長、湯の川町内の人などが個人的な関わりの範囲で故人について語った。母キヨさんは、想像通り立派な人だったようだ。水産会社の経営者だった父親がメチルアルコールで死んだため、母ひとり子ひとりで、友だちが帰っても、母親が帰ってくるまで外で遊んでいたという。キヨさんのインタビュー記事「信ずる道をあゆませる」は、東大闘争のときの「キャラメルママ」とはあまりに対称的だ。イベントではまもなく公開される函館出身の作家、故・佐藤泰史原作の映画「海炭市叙景」についても語られていた。唐牛家に土地を貸していた地主の孫娘にあたる人もこの映画に協力したらしいが、この人が語ったエピソードから感じた「正義感の強さ」が印象的だった。話しているのは唐牛健太郎が委員長になった全学連第14回大会で、目前でその就任あいさつを聞いたという東京在住の「元闘士」。70はとうに越えていると思われるのに、若く見えて驚いた。その左隣に座っているのは毎年7月に行われているという墓参の世話人役をしている人。なんでも、最近は唐牛を直接知らない、若い女性の参加が増えているという。たしかに、残っているわずかな映像などを見ても、カッコイイ。石原裕次郎よりずっとイケメンだったという証言もあるが、若い女性のアンテナ感度はさすがだ。墓参には参加させてもらうことにした。
October 24, 2010
コメント(0)
火山活動の沈静化で12年ぶりに入山規制が緩和された駒ヶ岳に登ることにした。緩和されたといっても入山可能なのは10月までで、しかも土日祝のみ朝9時~15時という厳しさ。3日前までに入山届けを出さなければならないし、火口原に入ることはできない。馬の背と呼ばれる地点まで標高差420メートル、約1時間の軽登山である。400組以上が入山届けを出しているときいたが、朝8時に登山口ゲートに着くとすでに2台の車が待機していた。ゲートは8時20分ごろ開けてくれ、6合目登山口駐車場に8時30分着。8時40分には登り始めた。国道から登山口までの、林の中を行く道が楽しい。明るい森で、快適なドライブコース。ゲートを過ぎるとダートになり、道も細くなるが普通乗用車でも上がれる。ブナや松など、道央や道東とは異なる、さりとて本州とも違う植生が興味深い。植生だけでなく、大沼国定公園の景色自体、北海道らしいスケールと本州の繊細さが共存しているようで、独特の魅力がある。今年の紅葉は今ひとつだったが、至近距離の紅葉の向こうに駒ヶ岳や大沼湖や小沼湖などを上手に入れることができたらすばらしい写真になるにちがいない。駒ヶ岳は柔らかくのびやかな山容が美しい。剣が峰と呼ばれる山頂部分の鋭峰が凛とした清潔さを添えている。母は、死んだらこの山の見えるところに散骨してほしいと言ったことがあった。あれはたしか森町(駒ヶ岳の北側)の展望台から駒ヶ岳を見たときだったと思う。この山のように神々しさと優しさの両方が感じられるというのは珍しい。登り始めるとどんどん剣が峰の迫力が増す。方角によっては逆こう配に見えるので自然の造型力には感嘆するばかりだ。登山道は軽石が多く、雨裂も見られるが、好天続きのあとだったためか歩きやすい。登山としては歩きやすさや迷いにくさ、必要な体力などの点で初級に分類できると思う。むしろ注意が必要なのは下りで、ストックを使い、登りと同じくらいの時間をかけるつもりでゆっくり降りるようにした方がよいと思われる。一汗かくころ、馬の背部分に到着。稜線部分に出ると突然風景が変わるが、このドラマティックな展開こそ登山の醍醐味である。火口原の反対側には砂原岳と呼ばれるピークもあるが、今回は行くことができない。砂原岳まで行くと噴火湾がよく見えるだろうし、標高差も少ないので、一日の登山としてはちょうどいいと思う。馬の背だけの往復では、いささか食い足りないと感じる人は多いだろう。登山口にいちばん近い、というだけで決めた大沼プリンスホテルは、池と森の向こうに剣が峰が見えるロケーション、ホテル周辺の散歩コース、静けさ、露天風呂からの眺めなど、どれをとってもすばらしかった。温泉はどうせ循環濾過で塩素殺菌の「エセ温泉」だろうと期待していなかったが、たしかに循環濾過されているものの、塩素の投入量はわずかで、温泉成分は強く生きていると感じた。独特のぬるぬる感のあるお湯。この日は近くにある源泉そのままの流山温泉という温泉にも入湯してみたが、西大沼温泉のお湯の方が力があると感じた。どんなことでも決めつけず、体験してみることが大事だ。大沼プリンスホテルは避暑などの長期滞在にもよさそうだ。
October 23, 2010
コメント(0)
デリック・イノウエが定期に初登場。メトロポリタン歌劇場で指揮するなど、オペラとオーケストラの両方で活躍している人らしい。この指揮者はちょうど一年前、新日本フィルを指揮したチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いた。演歌的にならず、スタイリッシュすぎず、なかなかいい演奏だったと思ったのをおぼえている。最も成功していたのはメーンのフランク(交響曲)。この人は桐朋学園で斎藤メソッドを習った人らしいが、細かく振ることはせず、煽らず、オーケストラの自発性にまかせているようでしっかりとした自分の音楽になっている。低弦セクションがいつになく充実した響きで、しかも積極的な演奏だったのに驚いたが、低弦、特にチェロ・セクションに支持される人には優れた指揮者が多いものである。楽譜の読み込みも深く、フィナーレでトロンボーンの上行音型をくっきりと強調するといった他の指揮者にはない表現が、奇をてらったものではなくフランクのこの曲の隠れた魅力を引き出す結果を生んでいた。前半、最初に演奏されたベルリオーズ「ローマの謝肉祭」は、決して悪くはなかった。しかし、1974年9月第141回定期での小澤征爾の演奏が耳に残っている者としては、不満だらけだった。鮮烈に始まった開始はいいのだが、そのあとのフレーズ感がすべて短いのだ。小澤征爾の指揮は、しなやかな歌が途切れず、息長く高揚していくものだった。中間部の打楽器の刻みもニュアンスがもっと多彩だった。ラストの爆発は文字通り爆発で、ベルリオーズの音楽の異常さに会場全体を巻き込むような迫力があった。あの演奏に比べると、この日の札響は倍以上の音量が出ている。にも関わらず、音楽的迫力は36年前の演奏の足元にも及ばない。指揮者もオーケストラも、どこか優しく、優等生的になっている。かといって、フランス風のノンシャランな演奏でもない。個性のない、まるでベルリン・フィルのような演奏だった。コンサートミストレスの大平まゆみをソリストに迎えたラロの「スペイン交響曲」は退屈な演奏。退屈な曲、というのもあるが、技術的には立派でも、指揮者やオーケストラとの丁々発止のかけ合いのない、協奏曲らしいおもしろみのないソロの演奏がその原因。イ長調で始まり、ニ長調で終わる曲が二つ続いたコンサート。弦楽器の開放弦がよく鳴る調性だったせいだけでも、トロンボーンセクションでメンバーの交代があったせいだけでもないだろうが、スケール感ある指揮者の下でひとまわり大きなオーケストラになったかのような印象を受けた。
October 16, 2010
コメント(0)
地下鉄を降りて外に出るとそこは外国だった。パリの地下鉄に乗っていたのだから、外に出たらそこは外国に決まっている。しかし、ついさっきまでは日本人の男と一緒だった。生まれて初めて、日本人が自分ひとりしかいない環境、日本語が通じない環境におかれたのだ。しかも夜になっている。このときの心細さは忘れられない。心細い一方で、その状況は快感でもあった。パリからミュンヘンへ行くという目的はあったにせよ、ここでは自分を知る者は誰もいないし、行動を制約するものは何もない。アジアなら、観光客と見ればいろいろな人間が寄ってきて勝手に物事が進んでいくが、ここはパリだ。誰もが自分の殻に閉じこもり、他人には無関心を装っている。何という自由か。3週間後にはパリに戻ってこなければならないにせよ、それまではどう行動しようと自由であり、すべては自分自身の判断と決定にゆだねられている。この、不安に満ちた自由、不安に彩られた自由こそ旅の最高の醍醐味である。これがパリでなく、ニューヨークやローマだったら、同じ大都会でもそうした「不安に満ちた自由」は感じなかっただろう。ニューヨークでは、東京と同じで、すべてがシステマティックに動いていく。ローマなら、南国の浮き浮きした気分があるし人は親切だ。イスラム圏ならカルチャーショックに右往左往している間に旅はどんどん進んでしまうし、アジアなら日本人はさほど違和感を感じることなく溶けこんでしまう。同じパリでも、春や夏に訪れたなら、印象は違っていただろう。北海道より緯度の高いこの街は夜遅くまで明るいし、花の都はもう少しフレンドリーにちがいない。そしてまた「不安に満ちた自由、不安に彩られた自由」は、ひとり旅だからこそ感じることができるものだ。他人と一緒だと、人間は奇妙に楽観的になる。三人集まれば文殊の知恵という諺があるが、たしかにその通りで、あまり思い悩むことはなくなってしまう。チケットが安いというだけで選んだ季節と都市であり、パリにはほとんど何の関心もなかったが、初めての海外が晩秋のパリで、ひとり旅だったことは何とも幸運だった。ケルン男とも旅の経路が異なっていてよかった。旅は道連れとばかり一緒に行動していたら、この「不安に満ちた自由」の快感を味わうことはなかっただろう。初めての海外旅行は、晩秋のパリを訪れるひとり旅でなければならない。前に書いたことと矛盾するが、できれば暗くなってからの到着が望ましい。まあ、ロンドンやアムステルダムでもいいかもしれないが、世界で最も観光客が多く訪れる都市、あの小澤征爾さえホームシックになった都市ならではの孤独や不安こそが人をきたえ、大いなる自由へのバネになるのだ。逆に言えば、晩秋のパリのひとり旅以外で初めての海外旅行を始めてしまった人はもう二度とこの自由へのバネを得ることはできない。やり直しのきくことというのはたくさんあるが、こればかりはやり直しがきかない。残念であり残酷な言い方だが、晩秋のパリを訪れるひとり旅以外で海外旅行を始めてしまったあなたに旅の女神が微笑むことは決してない、どころか旅の女神は永遠にあなたを見放すだろう。せいぜい楽しいだけの海外旅行を続けるがいい。地下鉄の出口付近には映画でしか見たことのないようなカフェやレストランが建ち並び、ヨーロッパ人の男女が談笑している。何とも非現実的な感じがした。映画のような風景というより、自分が映画の中にいるような気がした。場末なのだろう。パリらしい華やかさはない。鉄道駅らしき建物は見当たらない。地図には地下鉄駅と重なるように鉄道駅が書いてある。それなのに表示もなければ案内板もない。パリの街は、パリの人のように不親切だ。わからなければ、人に聞くしかない。フランス人に聞くのはまっぴらだ。英語で話しかけるとそっぽを向かれる。ナニナニはドコデスカ、というフランス語くらい覚えておくべきだったと後悔したが、英語の通じそうな人はいないかと探した。ちょうどそのとき黒人が通りかかった。大柄で、何だかこわそうだったが、度胸試しだと思い、それに黒人なら英語が通じるかもと思って駅の場所を尋ねた。この黒人は旧フランス領出身らしく英語はできなかったが、通じた。すると、すぐそこの建物だという。その建物ならさっきから何度も見ていた。日本的常識からは、およそ鉄道駅には見えない建物だった。歴史的建築物というわけではなかったが、古く、小さく、さびれた感じで、およそ旅立ちへの不安はかきたてても期待をかきたてるものではない。ひとつしかない切符売り場には行列ができている。並んで観察して気がついたのだが、フランス人はおよそ「急ぐ」ということがない。かなり長い列ができているのに、順番のまわってきた人も延々と交渉している。さらに驚いたのは、並んでいる人たちが誰もイライラしていないことだった。日本では、スーパーのレジでさえ、打ち子がもたついているとイライラした視線を感じる。もしかすると、こちらもそうした視線を発していたかもしれない。しかし、ここでは薄暗い切符売り場の行列の誰もいらつかず、しかも順番の来た人は後続の人たちのことを全く考えず延々と交渉している。良くも悪くも、これがヨーロッパ人の「エゴ」なのだろう。ルネ・デカルトのコギト命題、我思う故に我ありと、こんなところで遭遇するとは思いもよらなかった。我交渉す故に我ありというわけか。最近は日本人もフランス人に似てきた。1970年以降に生まれたと思われる日本人は、温泉場などで、数カ所しかない洗い場を延々と独占して恥じない。我洗う故に我ありというところか。乗る予定の列車の発車時刻が近づいてくる。行列は遅々として進まない。ユーレイルパスはあるのだから、自分の番が来れば寝台券を買うだけだ。ユーレイルパスを見せ、乗りたい列車を時刻表で指さし、寝る仕草をすれば、一言も言葉を発しなくても理解してもらえるだろう。そう思って待った。やっと僕の番になった。時刻表を指さしたとたん、あっちへ行けと手ぶりで指示された。そうか寝台券の売り場は別なのかと、指示された方へ行ってみた。しかし、そっちには何もない。はたと困ってしまった。あの手ぶりは、満席だということだったのか。それとも、見えないようなところに別の切符売り場があるのか。アタマは混乱の上にも混乱を重ねた。どんどん出発時間が近づいてくる。とりあえず列車の中で食べるものを調達することにして、フランスパンのサンドイッチのようなものを買った。このサンドイッチが、翌朝到着するフランクフルトまでの食糧となる。もう一度列に並びながら駅の中をじっくりと観察した。ヨーロッパの鉄道駅には改札というものがない。切符は列車の中で車掌にチェックされる。だから誰でもホームまで入れる。見送りは、日本だと改札の外だが、ヨーロッパではホームまで入って動き出す列車を見送ることになる。もう一度僕の番が来たそのとき、突然悟った。もしかすると発車時間が間近になった列車の切符は、車掌から直接買うのではないかと。日本のようにコンピュータ化されているとは見えない古ぼけた切符売り場を眺めているうちに、乗車券は持っているのだから列車に乗ってしまおう、あとは何とかなる、さっきのあっちへ行けという手ぶりは、列車に行けということだったのではないかと直観したのだった。僕の乗る列車の行き先はプラハだった。プラハ行きの列車を見つけ、車掌がいたので話しかけるととにかく乗れという仕草をする。乗ってみると、寝台車で、4人一室の二段ベッドになっていて、上段に寝ろと言われた。下段には人がいず、向かいには2人いて、中年の男と若い男がバゲットをかじりながら談笑している。聞いたことのない言葉だった。フランス語やドイツ語やポーランド語は聞いたことがあるから、チェコ語だろうか。話し方が穏やかで、態度や身ぶりに押しつけがましさがなく卑屈さがない。こんな中年男というのは初めて見た。こんな夜行列車に乗るところを見ると、裕福ではなさそうだ。僕でさえサンドイッチなのに、この人たちは具のないバゲットで、それをまるでごちそうのように食べている。さっき買ったサンドイッチは、バゲットなので固い。そのままでは食べられない。そこで、サンドイッチを包んである紙ごと水をかけ、ヒーターの上においた。そうしておくと室内の乾燥を防ぐことができ、さらにパンが柔らかくなる。旅にはこうした細かいノウハウの蓄積が必要だ。寝台料金は驚くほど安かった気がする。パリの空港でもそうだったが、パスポートを見せて日本人とわかるとそれ以上チェックしない。中を開きさえしない。それほど日本人は信用されているということなのだろう。空港に着いてからここまで長いようで短い。3時間もたっていない。それでも、この3時間の印象は強烈だった。よくわからないことばかりだが、それでも明日の朝フランクフルトまで行けることは確実のようだ。ほっとしたというより、ここまでのことをやり遂げた自分に感心し感動していた。映画「蘇る金狼」で、まんまと会社の株をせしめた松田優作扮する主人公が不遜に笑い続けるシーンがあるが、そんな気分だった。チェコ製なのだろうか。日本ではとっくに見られなくなったようなぼろい列車がきしみながら動き出す。その末尾に近い車両の寝台の上段で、気分はほとんど松田優作だった。
October 15, 2010
コメント(0)
長島剛子さま。いつもインビテーションをいただきながら都合が合わず、初めて聴かせていただきました。1998年からほぼ毎年開かれ、11回目となる今回のリサイタルも、通好みと言って悪ければ通俗名曲が一曲もない渋いプログラム。いつもそのプログラムを拝見して、そこらの「メジャー歌手」よりはるかに実力があるのではと勝手に想像していましたが、想像通り、いやそれ以上でした。前半のW.グロース「愛の歌第2集」より、V.ウルマン「ヘルダリーン歌曲集」より、K.ヴァイルの歌曲3曲を集めた前半では、正しいドイツ語の発声による正しいドイツ・リートの歌唱を久しぶりに聴いた気がします。このジャンルでは札幌には全く歌い手がいませんので、個人的には1990年代までよく来札していたアグネス・ギーベル以来です。個人的には、テレジン収容所で処刑されたウルマンの作品、特に透明な美しさが人を魅了せずにおかない第3曲「夕べの幻想」が印象に残りました。同時に、美というものについて深く考えさせられました。メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」も収容所で書かれた作品ですが、あの作品にも通じる永遠への志向が、いずれ死す生き物であるわれわれに、そんな日常でいいのかという問いを、静かに投げかけているような気がしたのです。ヴァイルの、タンゴやジャズのイディオムを適用した「ソング」では、クラシックの歌手にありがちな固さが全くなく、さりとてポピュラー歌手のように歌い崩すこともなく、気品と洒落た味わいが共存していて見事だったと思います。後半のマーラーは、こういう音楽でこそ音楽家のトータルな力量が問われるものだと思いますが、一点の弛緩も表現の甘さもない純度の高い演奏が繰り広げられていたと思います。特に印象的だったのは繰り返しの前の最後のシラブルで、マリア・カラスが歌ったらこうだったかもしれないと思うほど真に迫り、正直言って鳥肌が立ちました。マーラーの「わたしはこの世に忘れられて」を聴きたいものだ、と思っていたらアンコールにこの曲が演奏されたのには驚きましたし、その演出だけでなく格調高い演奏に、久しぶりに時間が止まるような感動を味わいました。アンコールも含めて、コンサート全体をそのままCD化してもいいくらいの完成度の高い演奏(ピアノの梅本実氏共々)だったと思います(13日、キタラ小ホール)。
October 14, 2010
コメント(0)
今年はショパンとシューマンのアニバーサリー・イヤーである。だから、注意深くこの二人の作品の演奏会を避けてきた。依頼公演ならともかく、自主公演でアニバーサリー作曲家を取り上げる音楽家など信用ならない。そこには何の価値創造性もないからだ。札幌出身でビュルツブルグ音楽大学講師のピアニスト、新堀聡子(しんぼりさとこ)の札幌における初リサイタルはオール・ブラームス・プログラム。別にアニバーサリーをあえて避けたというわけではなく、彼女が最も共感する作曲家がたまたまブラームスだということだろうが、ブラームスの、それも比較的コンサートでは演奏される機会の少ない作品を集めたプログラムに惹かれて行ってみた(10月1日、ザ・ルーテルホール)。滞独8年というから30歳を過ぎたくらいだろうか。違和感を感じずにはいられない関係者だらけの会場に、真紅の演奏会用ドレスを来た美人ピアニストが現れた瞬間、またお嬢さん芸を聞かせられるのかと来場を後悔した。しかし、鳴り響いたのは、お嬢さん芸どころか、これほどのブラームスはいまやドイツでもめったに聴くことはできないと思えるほど芸術的な純度の高いものだった。一曲目、自作の主題による変奏曲(1857)から共感に満ちた演奏が繰り広げられる。ブラームス自身が演奏してもこれほど音楽の中に深く入り込んだ演奏ができるだろうかと思うほど。なぜこんなに共感豊かな演奏ができるのか考えてみたが、それはこのピアニストがブラームスの音楽の特徴のひとつであるハーモニーの進行を常に意識し完全に把握しているからのように思う。2曲目は8つの小品(1871、1878)。各曲のキャラクターを明確に描き分け、しかもそれが全体の統一感を損なわない演奏。5曲目(カプリッチオ)はとりわけ見事で、激しくても乱暴にならず、気品を保ったまま情熱的に高揚していく演奏に引き込まれた。休憩後はピアノ・ソナタ第3番(1853)。前半の演奏から、この曲の演奏がすばらしいものになることは予想できたが、予想をはるかに上回る名演で、やはり「8つの小品」のときと同じように、各楽章の性格の描き分けと全体の統一感が奇跡的に共存していた。フィナーレで見せた息の長いフレーズの白熱した高揚は、日頃コンサートやこの曲になじみのない聴衆をも説得したようで、この手のコンサートとしては異例なほど客席も盛り上がった。感心するのは、テクニックと表現の間に全く乖離がないことで、このピアニストの音楽に向き合う誠実さを示していたと思う。ショパンを紹介するシューマンのように、このピアニストを紹介したい。諸君、脱帽したまえ。大ピアニストの登場だ。
October 4, 2010
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1