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せっかく上京するのに、ほかに何かおもしろそうな催しはと「ぶらあぼ」で見つけたのがこのコンサート。「私的演奏協会」というところの主催で毎週金曜日の夜に開かれているシリーズの15回目。40人も入るといっぱいの小さな会場。河合拓始は40歳くらい?のピアニスト、即興演奏家、作曲家。小さな会場だと演奏者もがんばって大きな音を出さなくていいためか、演奏も静かで繊細なニュアンスを大事にしたもので、曲もそういうタイプの作品が選ばれていたような気がする。どうせ行くなら、演奏家を至近距離で眺められる小さな会場のコンサートがいいと思っていたが、座った場所がちょうど鍵盤が見渡せる場所で視覚的にも面白かった。前半はジャチント・シェルシ「組曲第9番 "Thai" 」(1953) からの抜粋と高橋悠治「メアンデル」(1973)。シェルシの曲は現時点から見るとさすがに古いというか古典的に響く。「メアンデル」は高橋悠治の作品の中でも傑作の一つだと思うが、数字譜で書かれているためか演奏する人は少なく、実演で聴くのは初めて。高橋アキの録音だと呪術的な雰囲気があり、作曲者の自演盤だと非常にアグレッシブで印象が異なるが、この日の演奏はたおやかというかビューティフル。テンポもゆっくり目で、細部までていねいに奏でられていて完成度の高い演奏だった。モートン・フェルドマン「パレ・ド・マリ」(1986)は、どうせミニマル・ミュージックの一種だろうと思ってタカをくくって聴き始めたが、その東洋的な時間感覚にすっかり魅せられてしまった。25分弱の演奏時間が半分強ほどに感じたほど。こういう音楽のよさはコンサートでなければわからない種類のもので、雨の中、わかりにくい場所にあるスタジオを苦労して探して出かけた甲斐があった。コンサートのあとはパーティがあり、コンテンポラリー・アートなどの分野で活躍している人たちと歓談。その中のひとりは松平敬という声楽家で、最近ユニークなCDを出したばかりの人。6月には無伴奏リサイタルを開くというので行くことにした。どうせ行くなら、直接知っている人が出るか、聴いたことのない曲をやるコンサートがいいと思うようになった。もうひとり、サウンドアーティストの村井啓哲という人とも知り合いになったが、なぜかこのジャンルで活躍している人のパートナーは美人ばかりなので驚いた。幸い、こうした人たちはブログやミクシイやツイッターで発信をしているので情報入手をしやすい。
April 23, 2010
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オーディオを買い替えてから、コンサートからすっかり足が遠のいた。クラシックの黄金時代を伝える録音を聴いていると、いまの演奏家でどうしても聴いておきたいという人はほとんどいないし、年齢と共にハズレをひくリスクに敏感になってきた。さらに言えば、演奏される曲そのものに食傷している。演奏家にとっては挑戦かもしれないが、同じような曲ばかり聴かせられる側としては、好奇心をなくしてあたりまえだ。そんなわけでコンサートからはすっかり足が遠のいたわたしが、しかしコンサートを聴くためにわざわざ東京へ来ている。2001年に世を去ったギリシャ出身の作曲家ヤニス・クセナキスのオーケストラ曲を聴くためだ。プログラムがすべてクセナキスのオーケストラ曲というコンサートは、現代音楽祭のような特殊な機会に限られるだろうし世界的に見ても珍しい。生きている間に同じような企画に遭遇することはまずないだろう。興行的に成り立たないので、ふつうのオーケストラがこういうコンサートを開くことはありえないからだ。このコンサート、アイスランドの火山噴火による交通混乱で指揮者のジョルト・ナジが来日できなくなり、開催が危ぶまれたが、代役が見つかったというので直前に上京を決めた。40年以上にわたるコンサート体験で、最も衝撃的だったのが、ストラスブール・パーカッション・グループによるクセナキスの打楽器曲「プレイアデス」である。1988年のこと。あのときの興奮は今でも思い出す。そのコンサートについては新聞評を書くことになっていたが、衝撃のあまり締め切りを守れなかった。そんなことはこのとき一度きりだが、それ以来、この曲が演奏されるならどこにでも行くことに決めた。ところがあいにくインターネットがなく情報入手は困難をきわめた。いまは「クセナキス協会」のHPでわかる。宇宙についてかんがえることがある。宇宙の果てはどうなっているのかとか、宇宙が生まれる前はどうなっていたのかとか、考えれば考えるほどわからなくなるようなことである。宇宙の起源や構造については、たぶん人間は永久に解き明かすことはできないだろう。というのは、ユークリッド幾何学的な前提を自明のものとして生活している人間には絶対に理解できないはずのものだからである。宇宙には始まりもなく終わりもなく、果てもない。10億光年のかなたはすぐそこにある。最小と無限大は同一のことであり、10億年前はあさってのことでもあるのだ。「プレイアデス」を聴いたとき、宇宙や時間の構造についてわかった気がした。次元の消滅、というより次元の拡張を感じた。音楽を、鳴り響く音を通じて、コンサートホールの空間にはっきりと別の次元が現れたように感じたのである。「見えた」ような気さえした。このことは、音楽が知性の限界を超えるものであることを示している。ふつうの音楽が知性を眠り込ませる麻薬のようなものであるのとちょうど反対で、知性を覚醒させる音楽であり、さらにいえば超知性に関わる音楽なのだ。そういう音楽は類例がまったくない。芸大フィルハーモニアは東京芸大に所属する2管編成のプロのオーケストラで、編成を拡大するときは大学院生などが加わるようだ。東京芸大は日本で最も技術水準の高い大学であり、そのような大学で教えたり学んだりしている人たちがどのような音楽をやるのかという興味も以前からあった。会場の奏楽堂は、明治時代の建物である旧奏楽堂とはちがい、近年になって建てられたモダンなホール。こういうホールが大学の中にあるという「豊かさ」には驚くし隔世の感がある。1100ほどのキャパで、少し残響が多すぎるくらい。演奏された5曲のうち3曲は1950年代、比較的初期の作品。2曲は1990年代の作品でいずれも日本初演。最初に演奏された「ピソプラクタ」(1955~56)はLPで聴いたことがあるが、冒頭の、弦楽器の裏側を叩く響きがやはり実演だとおもしろい。3曲目に演奏された「メタスタシス」(1953~54)も同じLPに入っていたが、録音よりもはるかに余白の多いというか、簡素な響きの音楽にきこえる。不協和音の連続にしかきこえない「ゲンダイ音楽」の多くと似ているようで似ていない。最小限の要素で作られていてムダがない。すでに大家の風格があることに驚いた。弦楽器のグリッサンドなど意外に官能的で、誤解を招く言い方だが美しいとさえ感じる瞬間さえあった。おもしろいのは、一つ一つの音が生き物のように生きて自由に動いているように感じられる点。全体の効果や構造から音が決定され、音が構造に従属しているのではなく、音それ自体が自由にふるまっているようにきこえる。これはすべての曲に共通していた。この2曲の間におかれたクセナキス最後のオーケストラ作品「イオルコス」(1996)を最も興味深くきいた。初期作品とちがって、厚い響きが続いていく。オーケストラは4つのグループに分かれるが、それぞれのグループはほぼ同じ音型を演奏するので、全体を見通して聞き取りやすい。弦楽器のぬりつぶしたような響きの中からきこえてくる金管の音型が妙になまめかしく不思議な魅力のある音楽だった。後半、ヴィオラを除く弦楽アンサンブルのための「シルモス」(1959)は、弓の木の部分で弦を叩く奏法の部分と音を滑らせるグリッサンドの部分が収束と拡散を繰り返していく。ただ、だからといってそこには伝統的な音楽のドラマはなく、極度に論理的で抽象的な音楽という印象をのこす。最後の大編成オーケストラによる「デンマーシャイン」(1993~4)は、おどろくほど多くの音が奏でられる14分。部分的にアコーディオンのような響きがしておもしろいが、初期作品とちがって分厚い音が延々と続く。ほとんど耳が飽和状態になってしまうほどで、これはもし音の大きなオーケストラで演奏したら耐え難いかもしれない。ただ演奏自体はこの曲だけは光彩がなかった気がする。他の曲でも感じた「安全運転」に徹した演奏が曲自体のダイナミズムを失っていたような気がする。というか、クセナキスの音楽はこのようなものだろうか、と感じた。とはいえ、急に指揮することになったダグラス・ボストックの手腕は賞賛されてよい。この人がたまたま来日していなければ不可能だったろう。ただ、女性の多いオーケストラのためか特にバイオリンは積極性が不足で、失敗をおそれず果敢な発音があればと思う部分もあった。音量の変化も乏しくコントラストが弱かったのも残念。「ピソプラクタ」や「イオルコス」はふつうのオーケストラのレパートリーになっていい名曲だと思う。市街戦や空爆を描いたわけではないが、そういうものを連想させる音の動きにはリアリティがあり時に恐怖さえ感じた。「音楽は人を異次元へと衝き動かす力を有している」とはクセナキスの言葉である。「プレイアデス」や1974年に聴いた「ペルセファサ」とちがい、クセナキスのオーケストラ曲では「異次元へと衝き動かす力」は感じ取りにくかったが、音の運動が知性に直接的に働きかけるようなその音楽を聴くのは特異な「快楽」でさえある。 それは絶対に手放したくない種類の、至高の快楽である。
April 22, 2010
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先月とは打って変わって客の入りはよく、ほぼ満席。たぶん村上春樹の小説で有名になったヤナーチェクの「シンフォニエッタ」人気によるものだろう。この曲では最初と最後にバンダがファンファーレを演奏するためか、吹奏楽部の金管楽器メンバーとおぼしき客も多かった。クラシック音楽をより深く理解する最善の方法が特定のオーケストラを聴き続ける「定点観測」である。それも、公演によって管楽器奏者が丸ごと交代するNHK交響楽団のようなオーケストラよりも、主要な公演はメンバーが固定しているオーケストラがいい。そう思って札響の定期演奏会に通っているが、この日のメーンプログラムであるドヴォルザークの「交響曲第5番」は、首席客演指揮者であるラドミェル・エリシュカの指揮でなければコンサートで聞きたい曲ではない。清新な楽想は散見させるものの、無駄や繰り返しが多く、終曲の盛り上がりも手の内が見えすぎる。CDで何度か聴いて駄作すれすれの佳作、という印象を持っていたが、実演で聴いてもその印象は大きくは変わらなかった。ヤナーチェクのこの曲は札響で聴くのは3度目。キタラホールで聴くのは初めてだ。この曲ではバンダがエキストラで必要。以前は、オーケストラの金管奏者と、主に東京から呼んだこのエキストラ奏者の力量の差が歴然としていた。しかし、今ではまったくその差を感じないほど札響のブラスセクションの腕前は上がった。このバンダはファサード席で演奏したが、点音源ではなくこのホールだと響きがまとまってきこえる。右に左に音が移動するおもしろさは、逆にこうした音響のいいホールではわからない。1階席の至近距離ならわかったかもしれないが、3階席ではこうしたエコーというかステレオ効果が聴き取れない。奏者を離して配置した方がよかったような気がする。結局、最も満足したのは最初に演奏されたドヴォルザークの序曲「謝肉祭」。出だしからメジャー・オーケストラのような十分な音量がしたので驚いたが、ピラミッド・バランスの身のつまった音で、メロディの表出に偏らない質実な音楽作りはこの指揮者の面目躍如といったところ。オーケストラもプログラム最初の曲とは思えない熱演。全体として不満だったのはチェコの指揮者が自国の音楽を演奏するときにありがちなテンポ設定。少し速すぎると感じることが多いし、クライマックスの形成もあっさりとしている。期待した「シンフォニエッタ」は、何だかゲネプロの演奏を聴いているようだった。オーケストラが指揮者の音楽作りに100%共感して演奏することは少ないものだが、エリシュカが指揮するときの札響にはその共感が感じられる。しかしガクタイの印象と聴衆の印象は異なるし、どちらかというと聴衆の印象の方が正しい場合が多い。これで4回、エリシュカを聴いた。よい指揮者だとは思うが、ガクタイが絶賛するほどの大指揮者だろうかというのが正直なところ。
April 18, 2010
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この連載はこの店から始める予定だった。そうしなかったのは、この2年、道路拡幅にともなうビル建て替えのため、休業を余儀なくされていたからだ。15日の再オープン当日にさっそく行ってきた。地下鉄札幌駅から南北線で2つ目に「北18条」という駅がある。北大教養部(当時)が至近の駅で、このあたりは北大生や近くの女子大生向きの店が点在している。30年以上前、この地域では珍しく夜12時をまわっても営業している店があった。ポツンとあかりがともっていてそこだけあたたかい感じがした。あんどんには「軽食・スタンド ベル」とだけある。喫茶店なのだろうか、それにしては深夜に及ぶ営業はいぶかしく、前を通り過ぎるだけだった。その店は2階にあった。通りに面して細長い店の作りで、ある時は窓際までびっしりの客がいるかと思うと、まったく人の気配を感じないこともあった。客であふれているらしいときは、店の周囲に呆れるほど多くの自転車が放置されていたから、北大生が集団でコンパをやっていたのだろうと思う。そういう時は避け、ひと気のなさそうな深夜におそるおそる行ってみた。1980年当時は、もの静かなマスターがひとりでやっていた気がする。ひとり女性がカウンターの中にいたこともあった気もするが、そうだとするとあれは先年亡くなったマスターの奥さんだろう。先客は若い女性二人だったのを覚えている。ひとりは結婚間近で、もうひとりは絶世の美女だった。はきだめに鶴と言っては失礼だが、「昭和」の小物が並べられたお世辞にも洒落たとは言えない店にこんな美人がという驚きは30年たった今も鮮烈だ。あの時代はそういうことがよくあった。それがバブル以前の日本のよさだった。あの時会った彼女ほど美しい女性をその後見たことはないが、いまは細かく棲み分けができてしまって、意外性のおもしろさはこうした日常からさえ消えた。築50年くらいたっていそうな建物の、ゆがんだような階段をあがると左側にその店はあった。その崩れそうな階段をのぼる緊張感と、中に入ったときの安心感の落差がこの店の楽しさの一つだったので、それがなくなってしまったのは非常に残念だ。当時はたしか席料が100円でお通しが出て、ポップコーンが食べ放題。食べ物は持ち込み自由、飲み物もわずかの持ち込み料を払えばOKだった。再開された新店でも同じようなシステムは踏襲されている。昭和そのものを体現したかのような店のたたずまいはリニューアルオープンで失われてしまったが、この名物マスターがいる限り「ベル文化」は健在だ。以前と違うのは、昼間も営業するようになったことだ。昼間は近くで「エル」という喫茶店を経営していた女性が店を切り盛りすることになった。この女性がまた懐かしい感じのする人で、人生の半分以上を「昭和」の時代に生きた人だけが持つオーラを放っている。北大出身者が親になり、息子や娘が北大に入る。そうすると、札幌に行ったらこの店をたずね、困ったことがあったらこのマスターに相談するといい、そんな風に子どもに言い含める親がけっこういるそうだ。2年のブランクで、そうした脈が途絶えてしまわないか心配だが、オープン当日の花やご祝儀の山を見る限り、そうした心配はなさそうだ。唯一の心配は最近、酒をやめたというマスターの健康である。妻に先立たれた男の余命は5年と言われるが、その年数を超えた。深夜の労働は過酷な年齢になってきた。だから、毎週のように行くにしても、早めに帰ることにしよう。当分は夜12時までの営業ということだが(火曜定休)、10時には切り上げたい。この店はカウンターの常連客がおもしろい。一日300キロを自転車で走る美女と知り合ったのもこの店。30年前に同席した絶世の美女の消息もマスターから教えてもらうことができたが、こういう「奇跡」は、このマスターのどこか仙人のようなキャラクターなしには起こりえない。繰り返すが、この店にとっての最大の不安はマスターの健康である。酒はやめたのにタバコをやめる気配がないのが最大のリスクだ。以前の店の印象があまりに強烈なので、あえて新しい店の写真は載せない。こじゃれた店になってしまったので、大学生が地べたに座って酒をくみかわすような光景はもう見られないだろう。というか大学生は酒を飲まなくなったから、これからは中年から初老に差しかかった「元大学生」が以前とは段違いに高級な酒を持ち込んで飲む光景が主流になるのかもしれない。軽食・コーヒースタンド BELL は北区北19条西4丁目(西向き、小泉学生マンション1階)。
April 17, 2010
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「立久」や「BBQくにむら」は検索してもほとんどヒットしないが、「ゆりや食堂」はたくさんヒットする。しかしそれでも、この店を知る人は限られる。だから、もし非札幌人がこの店を知っていて、札幌人にこの店のことを話したら「札幌通」と驚かれるにちがいない。気をつけなければいけないのは店名。ゆりやであってゆりあではない。ゆりあ食堂で検索してもたくさんヒットするくらい、まちがえる人が多い。数えてみるとこの32年で4回、この店を訪れている。変わったのは値段だけでほかは何も変わっていない。創業は1946年というから64年になるが、きっとそのころからあまり変わっていないのだろう。ただ、創業当時は食糧難の時代。米飯のメニューはあったのだろうか、などとつい考えてしまう。厨房にいる高齢とおぼしき女性もまだ80代にはなっていないと思われるので、そのころのことを知っているかどうかはわからない。かつて「うどんそば屋」という大衆食堂の一典型があったらしい。戦前の話である。その流れをいまに伝える店というのは、地方にはあるのだろうが、札幌のような大都市では珍しい。得意分野に特化するか、経営者の高齢化と共に消えてしまった。しかしこの店のような「生蕎麦」ののれんや看板を出していながら、実際はカレーやチャーハンもある大衆食堂というのがかつては一般的だった。駅前には必ずこういう店があり、早朝でものれんがかかっていたりすると、なぜかほっとしたものだった。この店の一押しはラーメン。1978年に初めて食べたときは200円台だったと記憶するが、現在は430円。観察していると、客の7~8割はこれを食べている。1970年代からのラーメンブーム、いわゆるご当地ラーメンブーム以前のラーメンであり、昭和30年代に食べたそれとほとんど変わっていないと思う。鶏ガラベースの薄いしょうゆ味で、戦後すぐの焼け跡の屋台で食べられていたトンコツ味とは似て非なる味と想像される。食糧難の時代が終わり、もはや戦後ではないと言われたころ、やっと外食ができるようになった時代に口にしたラーメンの味はこういうものだった。なるとが二枚、ノリ、チャーシュー、シナチク、ネギというシンプルな具。昭和30年代は麩を入れることも多かったしチャーシューは脂の部分の方が多かった。そういう細部の違いはあるにせよ、このラーメンほど昔と変わっていないのは全国的に見ても珍しいのではないかと思う。何せ化学調味料が普及する以前の味を今に保っているのである。店の人たちは、愛想もなく淡々としている。これも昭和30年代風、そしていかにも北海道的で心地よい。関西でよく遭遇するような愛想の裏に底意地の悪さが見えるのとはちょうど反対で、愛想のなさの奥に正直さ公正さが見てとれる。一方、地元の自民党系市会議員のポスターが貼ってあったりするアナクロさに至っては感涙ものだ。お昼時は異常に混雑する上、ひっきりなしに出前の電話が入る。平日なら二時すぎがすくし、土曜日は比較的すいているような気がする。都心から2キロ弱、観光スポットのひとつ裏参道の入り口近くにあるので、ぶらぶら歩きで行くのにちょうどいい。狸小路をつきあたりまで歩き、プリンスタワーのある石山通りを右折、電車通りに沿って歩くルートがおすすめ。今回は土曜の2時すぎに訪れてみたが、さすがにこの店の「通」とおぼしき客の姿が目立った。ある夫婦はもりそば2枚とカツ丼を頼み、カツ丼を半分ずつ食べていた。あのラーメンの誘惑を断ち切り、こうした頼み方ができるのには、よほどの年月と修行が必要にちがいない。ゆりや食堂のラーメン以外のメニューについて蘊蓄を語ることのできる人がいたら、わたしは無条件でその人を尊敬するが、ソウイウヒトニ ワタシハナリタイ。
April 2, 2010
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