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マルクス著「ユダヤ人問題によせて」を紹介しますマルクス著「ユダヤ人問題によせて」(1844年)は、全集の第一巻に収録されています。マルクスが26歳の時に書いた論文ですが、あまり取り上げられることが無いように思います。私などがなぜ取り上げるかというと、今の日本の問題、国家と宗教の関係を、日本国憲法を理解するのに、この論文が大変参考になると思うからです。一、どうしてこの論文に注目したかというと、私などは、この3月からヘーゲルの『法の哲学』(第三章「国家」)を学習してきたんですが、1843年にマルクスがその批判的検討をしていて、その結果として発表したのが、この「ユダヤ人問題によせて」であり「ヘーゲル法哲学批判序論」なんですね。そうした経過があるんですが。同時に、昨今の政治の問題があります。国家と宗教との関係の問題です。マルクスがここの「ユダヤ人問題によせて」でさぐり、説いている問題というのは、日本の今で問われている問題とも重なっていると思ったからなんですが。ちょっとこの論文の前提を紹介しますと。1843年にブルーノ・バウアーという人が『ユダヤ人問題』という本を出しました。プロイセンの国家において抑圧されているユダヤ人の解放はどのようにはたせるかと、国家と宗教の問題について見解が提起されたんです。「ユダヤ人が宗教を放棄することが解決への道だ」-これがバウアーの主張だったんですが。マルクスにとってバウアーは、同じヘーゲル左派であり、8歳年上の先輩格の人でもあったんですが。しかし、この見解に対して、やむにやまれぬ批判を、ただちにこの論文で展開したんですね。マルクスの批判ですが、バウアーの主張は国家による宗教の政治的解決の問題と、人間にとって宗教がおっている問題解決とを、二つの段階・次元の異なる問題をバウアーは混同させているとの点です。私などは、二人の議論ですが、長年にわたって、いったいこの人たちは何を論じあっているのか、何が問題なのか、なかなかつかめなかったんですが。ところが、今回の安倍元首相の銃撃事件にはじまる国会とメディアでの議論を聞いていて、国家と宗教との関係の問題が、この論文との重なりが見えてきたんですね。二、「日本国憲法の源流には、アメリカやフランスの近代の民主主義の思想が流れている」-これは憲法論の基本として、よく聞かされる言葉です。いったいどうしてか、71年間、現行憲法の下で生きてきた私ですが、あまり突き詰めて考えてみることは無かったんです。日本国憲法は空気の様な存在でしたから。ところが、今回の統一協会問題をきっかけにして、あらためて『日本国憲法』を開いて見たんです。 憲法第二十条「信仰の自由」 第一項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」 第二項「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」 第三項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」まさにズバリ。簡潔にして明確に、国家と宗教との関係を規定しているじゃないですか。マルクス(1844年)と私たちの現在(2022年)ですが、同じようなことを言ってるんですよ。しかし違いはどこにあるのか。私たちは、憲法の正確な明文の規定をもっている。他方マルクスたちは、日本でいう「自由民権運動の時代」以前なんです。憲法がまだないんです。プロイセンの専制君主制の社会にあって、治安維持法の様な言論・思想弾圧によりマルクスはフランスへの亡命を余儀なくさせられる。そこでえた自由により「国家と宗教との関係」の民主的制度の下でのあるべき姿を論じることがはじめて出来た。その結果が論文「ユダヤ人問題によせて」だったんですね。マルクスたちの、苦労してその思想を獲得しようとして、必死に学びつかもうとしているものと、私たちの社会のように、明確な規定をもっていても、何かもうその規定が自然で当たり前のようにな扱いになっていて、それとはまったく反する政治家がいたとしても、それに対するきっぱりとした指示をすることが出来ていないでいる国民。ともに実質と実体のある民主的制度をつくろうとの点では、マルクスも私たちも同じ目標なんですね。おかれている歴史的・社会的条件こそ違っていても、目標とすることは同じなんですね。三、では、どの様な努力により、マルクスたちは未来を開こうとしたのか。二つ紹介しましょう。一つ、マルクスがヘーゲルの『法の哲学』の批判的検討をしていたことは紹介しましたが。この論文の中で、こんなコメントと引用をしています。「ヘーゲルが次のようにいうとき、彼は政治的国家の、宗教に対する関係を正しく規定しているのである。『国家が精神の自覚的道義的現実性として現存するにいたるためには、権威と信仰との形式から国家が区別されることがどうしても必須である。しかしこの区別は、教会側がそれ自身のうちで分裂するにいたるかぎりにおいてのみ、出てくる。ただそのように特殊な諸教会に対してのみ、国家はその形式の原理たる思想の普遍性を獲得しているのであり、そしてそれを現存するものたらしめるのである。』(ヘーゲル『法の哲学』第270節)」ヘーゲルも『日本国憲法』第二十条第三項と、内容的にかさなる展開を『法の哲学』の中でしてるんですね。その核心部分をマルクスは紹介しているわけです。二つ、これは国家が特定の宗教にたつんじゃなくて、宗教を私事として国家の仕事とを完全に区別するということですが。ヘーゲルも第270節で、それを言っているわけですが。マルクスの場合ですが、これをヘーゲルに見つけるだけでなくて、歴史的な世界の市民革命から調べています。アメリカの諸州から、フランス革命の歴史から、国家が宗教からどの様に独立(区別)したか。ほんの短期間の間に、これらの歴史的事実を調べるということは、並大抵の努力ではありませんよ。必死に正確な歴史を、思想を調べたことがうかがえます。そしてその結果、近代の市民革命がもつ位地と意義、封建制の身分社会からは政治的に解放されて、人間の平等、人権の自由が開かれた。国家が宗教を私事として解放されるのはこの段階のこと。アメリカやフランスの革命が果たした成果です。しかし、その市民革命、政治的開放というのは半歩の前進でしかなくて、人間の自由と平等というのは、他人に迷惑をかけない限り、何をしても自由だとのことで、市民社会は新たな格差をつくり出す社会でもあることが明らかになる。今度はこの矛盾からの人間解放が問題になってくる。こうして政治的解放と人間解放とは、異なる性格の(段階の)問題なんだ、と。これって、人と社会の歴史に対する唯物論の見方ですね。マルクスは基本的(一般的)な見方を引き出した(確立した)んですね。しかしそれは一般的な仮説でしかなく、個々の分野での研究・論証していく人の努力にかかっているわけですが。方法を提起しただけなんです。そこからが、マルクスにとっては努力の始まりだったんですね。今回、私などは、ようやくにして、この『ユダヤ人問題によせて』が、何を問題にしているのかが、見えたわけですが。四、私自身の「あいまいな日本」「ぬるま湯の中の日本」「はっきりしない日本」の一員であること、その中で生きてきたんですから。日本社会はそれをこえていくことが求められています。そのためには、そうした事態というのは、日本の置かれてきた歴史事情にも原因があるし、そこを直視する必要があると思うんです。敗戦直後、「日本国憲法」は一部の知識人、憲法学者は提案していましたよ。しかし圧倒的な多数、社会の空気というのは治安維持法の下での、民主主義弾圧の長い時代をくぐってきたわけじゃないですか。戦争で負けて抑圧機構はなくなったからと言って、ガラリと社会意識がかわるわけじゃないですね。民主主義を犠牲の上に新たな獲得したものとする人もいれば、やたらと昔を懐かしむ人もいる。揺れ動くのはそうした歴史過程に原因があるわけで。私も含めて多くの国民は、戦後70年余、深く考えるといった機会ともなく、その民主的憲法、社会制度のなかで過ごしてきたんです。しかし旧来の社会意識も無意識に続いているんですね。それとして意識せずにいるうちは。それが政治の世界にも出ています。政治家の中には、まったく憲法の常識を知らないで当選して来ている輩がいます。そうした連中が多数だからと、「みんなで通れば怖くない」と、あれこれ喋り散らし突っ走ろうとしていますが。ここに学術と政治家の乖離がおきているんですね。そうした政治家たちが牛耳ってきた政治ですから、その政治が、満足な知識を、しっかりした教育を国民に提供するなんでことは、さらさら考えてないことは明らかじゃないですか。そうしたつけを私たちは受けているわけです。ですから、これを正しく解決していくためには、国民自身がしっかりと事態を認識して、正確な学術を身につけることが求められてるんです。そして、地獄への道を突き進もうと、それに国民を巻き込もうとするする政治にたいしては、きっぱりと「ノー」をしめすことが求められているわけです。マルクスの論文「ユダヤ人問題のために(よせて)」ですが、以上の通り、今から180年前の若者の努力ですが、洋の東西を越えて参考になると思いませんか。日本の真に民主主義的な社会を開いていくために、一つの知的なプレゼントとなっていると思います。今回よんでみて、つくづくそれを感じさせられました。
2022年10月30日
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みかんの少ない今朝の朝市10月29日(土)、多摩の永山団地で朝市をしてきました。まだ、みかんの色づいたのはごく一部分でして、淋しいみかん市でした。今回、搬送してきたのは真鶴のみかんを中心にした、3袋でした。まだ、早生みかんでも色づきがすすんでいるのは、ごく一部分なんですね。真鶴・小田原は、みかんの産地として北限ですから、暖かい南の産地に比べて、早生みかんも色づきが遅いんです。みかんは何といっても、暖かな黄色の姿が大事ですから。今は早く帰って、これから忙しくなる11月-12月に向けて、今のうちに休んでおけ、ということなんですね。次の写真は、早生みかんだと思うんですが、今の、一般的なみかんの姿です。いまは、ごく一部分が収穫できるだけなんですね。しかし、まもなく猫の手も借りたくなるような、収穫作業が待っています。農家は、昔であれば出稼ぎの人の力も借りたでしょうが、今は手間賃などはとても払えませんから、短期間の収穫ですが、高齢化した夫婦の労働で頑張るということです。しかし、北限のみかんの産地は、独特な酸味の中に甘さが引き立つとの特性がありますから、「これぞ、昔ながらのみかんだ」と、それなりの愛好者がいるんですよ。さぁあと少しで、待ちに待っていた本格的なみかんの収穫が始まります。
2022年10月29日
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「ミヤケンさんの思い出」へ寄せられた感想「ミヤケンさん」とは、宮本顕治さんのことです。この冊子『ミヤケンさんの思い出』(太田晴夫著)ですが、宮本さんの活動の一端を具体的に紹介されてるんですね。 太田晴夫さんは、今、東京多摩市の団地で仕事をされてます。その主宰する朝市で、私などは小田原・真鶴で収穫したみかんを販売させてもらっているんですが。そうした縁でこの冊子を知ったんです。この冊子を、私はブログで紹介したりしてるんですが、何人かの方から感想をいただきました。この感想がまた素晴らしいんです。それで、紹介させていただきます。1、「備忘録、自分史メモ、60年~90年の部分は、私も非常に参考になり、当時の活動が目に浮かんできました。4.17ストの時は、職場だったし渦中でたいへんだった。70年の第11回大会は、立川の社会教育会館が会場だったけど、あの時の報告を聞いた時の息吹が思い出される。80年の社公合意の時は、こりゃぁ大変だと思ったんだけど、その時に宮本さんの政党の組み合わせだけが統一戦線ではないとの記者会見をおぼえている。実際にそれが、その後の革新懇となり、今の野党共闘の現在につながっている。ここで問われている問題というのは、本質的に今現在の問題だと思う。」2、「字ばっかりで読むのは大変かなぁと思いましたが、読み始めると一気に読んでしまった。偉大な政治家の偉大さぶりはもちろん、それだけでなく、宮本顕治さんの人間性に触れることができてよかった。また、百合子との関係や百合子の生き方を知ることができて大変勉強になりました。」3、「『知を力に』をモットーにしていたミヤケンさん、それはフィデル・カストロとの共通点だったという指摘は興味深かった。17ページの『ここぞという勝負所をつかんだときの、大胆で迅速な対応は、さすがミヤケンさんとの感慨が浮かんでくる』との指摘、全く同感。ミヤケンさんは優れた理論家であっただけでなく、勝負師としても優れていたと思う。先の参院選、日本共産党は残念な結果だったが、ミヤケンさんならもっと大胆な作戦で『切り込んでいった』だろうと私は勝手に想像している。」4、「『自分史メモ』は、著者=太田晴夫氏の歩まれた道程に咲く花々の話です。それぞれの花には、私も、『歴史的』に知っていたことも多いのですが、その生の色合いまでは了解していなかったものです。一本一本の草花の息吹きが、資料を引用し、客観的姿を伝えながら、同時に、その花が咲き誇るまでの、いわば内観的な一面を伝えてくれています。この意味で、結論を理論的に追及する-これは、当然重要なことですが-ことだけでは追いきれない、当時の情勢や、『空気感』を教えてくれ、一層、地に足の着いた理解に大いに助けになると思います。パッション(passion)的理解。田舎暮らしの中、ともすれば『日常性に埋没』している私ですが、もう一度、『展望』や「メモ」にある文献にあたらなければ、と思わされます。」5、「一番印象的だったのは、ソ連の崩壊に対して、即座にスパッと『巨悪の崩壊で、歓迎する』との態度をだしたこと。宮本議長の判断の確信、声明の素早さの点で、すごいと感じた。当時は、帝国主義陣営と反帝国主義陣営が対立していて、軍事バランスがおかしくなるといった認識があった。広く知識人のなかにも戸惑いや混迷がおきているのを感じた。日本でも世界の諸党でもはっきり態度を出せない時に、即座に『歓迎』の態度表明したというのはすごいと思う。なかなかできることじゃないと思う。それとコルバチョフのペレストロイカにたいして、当初期待もあったけど、徐々に社会主義に対する自信も確信もなくしていき、変質していった様子が分かった。」6、「ミヤケンさんの思い出を一気に読みました。世界の共産主義がスターリンなどの覇権主義・中世に帰って行くかのような誤りの中、自主独立路線の確立、議会を中心に徹底的な民主化、二段階革命論、統一戦線などなどの確立に身近に見た人の思い出は興味の尽きないものでした。」7、「太田さんが、1987年に刊行された宮本顕治『戦後初期論集第一巻』での、過去のスターリン評価に対する「自己検討」を感動をもって読まれたことが記されています。これを拝見してすぐ不破哲三『スターリンと大国主義』2007年、同『スターリン秘史-統一戦線と大テロル』2014年のことを思い出しました。不破さんの仕事の客観的な意味での出発点の一つが20年前にあったのかという思いです。ペレストロイカもソ連の崩壊も、スターリンがいなければなかったわけですし、あのようなソ連邦も、そのように呼ばれる資格のない「社会主義」もなかったはずです。志位和夫さんは「日本共産党の100年の歴史と綱領を語る」のなかで、社会主義・共産主義論の重要な発展について述べています。社会主義・共産主義論の再生が、資本主義のもとでの社会変革にとって避けられない重要な分野になっている、ということだと思います。社会主義・共産主義論の再生のためには、その一つのあり方として、スターリン批判を徹底していくことが必要なのではないか、太田さんの文章を拝見してそう思いました。宮本(中條)百合子について紙幅をとって述べられていることも、このエッセイ集の特徴です。しかも場合によると、顕治のところよりも面白く読ませてくれ、太田さんの百合子に対する強い思いが伝わってくるようです。百合子についても、私もいろいろ思ったことがあるのですが、時間が無くなりました。そこでひと言だけ、現在一般の書店で手に入る百合子の著作はほとんどありません。ぜひ各出版社には、文庫版の復刊をお願いしたいと思います。」人、それぞれが自分の人生の歩んできたこと、その角度から見えてくる感想ですね。個別に伝えるだけではもったいないので、紹介させていただきました。追伸 太田晴夫さんの冊子『日本共産党創立100年に当たって-太田晴夫の「備忘録」』は、数は限られてますが、まだ少しあります。送料の実費200円で提供しますので、このブログのコメント欄等で申し出てください。品切れになったら、『ごめんなさい』ですが。
2022年10月29日
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ヘーゲル『法の哲学』30 最終回の資料が届く福田静夫先生(日本福祉大学名誉教授)のヘーゲル『法の哲学』講座もいよいよ最終回です。10月28日に、その準備資料を送っていただきました。講座は11月13日なんですが、翻訳テキスト(第354-360節)と、対応する『世界史の哲学講義』資料です。『法の哲学』最終章の第三章「国家」、その最後のしめくくりは「C.世界史」です。その前半は、10月に学習しましたから、11月は後半(第354-360節)で最終節です。ヘーゲルは1831年にコレラで突然死しましたが、その時に『法の哲学』を講義していた。それと並行して、『歴史哲学の講義』や『世界史の講義』をすすめていたというんですね。『法の哲学』は1821年に刊行したものですから、その後の10年間に、どの様な努力や成果をつくっていたか、そのことが問題になるわけです。マルクスは、『経済学批判』(1859年)の序言で、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる」との世界史観を提起しているでしょう、いわゆる唯物論的歴史観ですが。ヘーゲルは『法の哲学』(1821年)のこの「世界史」において、1.東洋的治世、2.ギリシア的治世、3.ローマ的治世、4.ゲルマン的治世、を説いているんです。ともに、大きな世界史について、それぞれに歴史観(仮説)を述べているでしょう。「どちらが正しいか」との二者択一的な見方ではなく、単純に割り切ることではなくて、両者がそうした時代区分をしている、それぞれの根拠について、しっかりと見ておく必要があると思っているんです。それぞれには、それぞれが各時代を対比することによって、今の時代をつくっている以前の時代の特徴について言いたい問題があると思うんですね。だいたい、中国にしても、ミャンマーにしても、北朝鮮にしても、問題となるアジアの国は「民主主義」を蹴飛ばしているじゃないですか。「自国には独特の民主主義あるんだ」なんて理屈を言って。日本もアジアの中の国です。明治維新の変革で、民主主義的制度を導入しようとしたけれど、戦前は天皇制の神権国家をつくったでしょう。自由民権運動の結果、戦前の憲法と帝国議会はつくられましたが。それはどうだったんですか。治安維持法と、ロシアや香港、チベット、北朝鮮は類似してませんか。それはプーチンのロシアとだって、どこか似ていると思いませんか。さいわいにして、先人の犠牲により、敗戦後に現在の憲法をもった日本ですが。貴重な人類史的な宝を手にしたわけですが、しかし、肝腎なひとびと魂ですが、それに対応するものになっていますか、なっていないじゃないですか。今回の問題になっている国家と宗教の問題ですが、憲法では明確に規定しているんですよ。それなのに、政権政治家はそれをまもる責任があるのに、真逆な対応です。けじめをつけようとしません。カルトの統一協会にもちつもたれつのズブズブじゃないですか。さらに、かつての社会主義国では、民族自決権を守り、平和を目指すとして世界をりーどしていたはずなのに、今のロシアはどうしたことか。隣国は武力侵略し、併合し、核兵器も使って世界を脅かすような事態です。シベリヤ抑留や千島の占領を、いまに繰り返しているわけです。そんな事態であるからこそ、私たちはどのように生きるべきか。そもそも近代民主主義の原点はどの様な発展だったのか。レーニンなどの社会主義国がめざしていた目標はどの様なものであったのか。先人の大事な努力をひきつぐべきじゃないですか。その理想にむけて、現代を生きる我々は、どの様な努力をするべきなのか、それが問われているわけです。このヘーゲルの『法の哲学』講座ですが、90歳の福田静夫先生のポリシーも、そこを説いているわけです。問題は、そうした基本として、われわれ一人ひとりがどの様に受けとめて、努力するのか、そのことが問われていると思うんです。まぁ、11月13日(日)に最終回のヘーゲル『法の哲学』学習会があり、それにむけて準備をしなければならない、ということです。
2022年10月28日
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富士山の雪化粧と早めの帰京この二週間の間に、富士山の姿は大きく変化をしました。これは、直近の10月25日の富士山です。二週間前に見えた時には、まだ青の富士山だったんですよ。10月11日の富士山です。今季の冬の寒さが、この二週間の間に急速に降りてきているということです。みなさんは、この急速な変化に、寒さ支度の方は大丈夫でしょうか。みかん農夫の方は、どうなっているかというと。みかん栽培にとって、朝晩の寒さと日中の秋晴れは大切なんです。この条件が、みかんを黄色く成熟させてくれるからです。みかんは、この気候の寒暖の差により、色付きが始まりだしてくるんですね。都会人が「おぉー寒!」なんてな時に、みかんは黄色く色づきだしてくるんです。みかんの木は、むしろその寒さと秋日和の時を待っているわけです。農家にとって、寒さは同じように嫌なんだけれど、そうした時期が成熟をもたらしてくれることからすれば、それも大切なんですね。世界と世間は、やれコロナだ、やれロシアのウクライナ侵略だ、円安経済だカルトの悪行だ・・等々。次々にたいへんな新たな問題がおきています。人道にあるまじきことが多いいんですが。農家にとっては、日々、種をまき、芽が発芽し、生育し、草刈りをして、実を実らす、この自然のいとなみは、努力に対して確かさをもって形になるように、日々営まれています。問題は、政治がそれをしっかり認識しているか、励ましているか。農業を国民生活を整えるように、手配するようにしていいるかということです。昨今の事態は、国民が目先の安さばかりを追いかけるようにさせられているようにおもわれます。自国の経済の基盤に目を配り、国民経済の確かさにしっかりと目を向けるようになっているか、賢い主権者として、政治をコントロールできているか、です。国民が、「ただ、やすければいい」、「企業家かただもうかりさえすればよい」なんて根性でいると、とんでもないことになる、そうした結果が、いまの日本の政治経済の姿じゃないでしょうか。だいたいNHKの日曜討論ですが、もっともらしく「今の問題に対する対策をどうするか」と、司会者はさかんに議論を競わせますが、「何が、今の事態をもたらした要因か」については、ふれるようにはしていません。何が今の事態をもたらしているかは、ちっとも問題にしていないんですね。そうなると、もっともらしそうな顔つきの役者たちですから、その原因をつくってきた責任を全くほうかむりして、いかにも自分が何とかするかのようなことをいい、まったく反省していないのをみると、そこに対する、議論が避けられるのを見せつけられると、全く腹が立ってきます。まぁ、農家はそんな事態にあれこれ言っている暇はないんですが。日本経済を回すための日々の作業に追われて、あれこれグズグズと文句をたれている評論家じゃありませんから、それだけでは、日々の作業はちっとも進みませんから。みかん農家はみかんを、お米農家はお米を、乳牛・畜産農家は畜産を、日々の苦労の営みをすすめないことには、みずからと国民の生活が成り立たなくなるわけですから。ヘーゲルじゃないけど、市民生活と政治の間には違いがあるんですね。さて、みかん農家の当方としては、今回の作業はなにをしてきたか。みかんを収穫する前の時期として、木のまわりの下草の草刈りをして、枯れていまった枝を切除して、それらを合わせて野焼きすることでした。都会人は、安くて美味しいみかんを所望ですが、それを提供するためには、みかんの収穫作業をするためには、その前提としてどの様な楽屋裏の努力が必要かについては、ほとんど知らないんですね。政治家の方は、知ってか知らずか、(知りうる立場にはありますが、知ってるようなポーズだけで)、農家の要望のは、ほとんど答えようとはしていません。歴史的には、終戦直後の時は真剣に答えていたんですが。「農家のために」なんて言ってますが、実際は徐々に農家切り捨て策に変化しているんですね。その基本政策に、太鼓もちのように(といっては太鼓持ちに失礼ですが)迎合するのが、政権の農林族政治家です。いま現実は、自国の農業を切りすてて、外国から安い農産物を輸入するとの政策が主流になっているわけです。この実際を国民が見抜けないというのも、農家の声も政治には届かない。結局、国民が自らの首を絞めているというのが、今の日本の政治の実際の姿なんですね。結局、農家が自然を相手にして、国民生活の食糧生産に汗水たらしている。それを、しっかりと評価できない国民は、そのつけが自分に回ってくると、自暴自棄に陥いらざるをえなくなるじゃないですか。昨今はこうした事態にあわけです。メディアの情報・ニュース番組も一役買ってますね。NHKなどをみていると、「大変だ、大変だ」「ああします、こうします」しか、政府の発表しかニュースとして流しませんから、「最新の動きを、詳しくおしらせします」なんて決まり文句の口上ですが、それを誰が書いているか知りませんが、事柄を明らかにしません。これは愚民をつくる為の仕掛けですね。もちろん、そこで働いている人たちは、一生懸命に努力をしているんでしょうが。そうした大枠がつくられているわけです。えっ、今回は何の話でしたっけ。寒くなり、みかんの成熟が始まりだした、ということでした。
2022年10月27日
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ヘーゲル『法の哲学』29 徒然なるままにヘーゲルの「法の哲学」講座も、いよいよ最終段階に入りました。福田静夫先生の10月9日に開催された第31回 c.世界史の前半講座ですが、その録音CDが到着しました。ヘーゲルの学習は、ライブでの視聴覚の耳からだけでは、理解しにくい面があるんですね。いま、CDによって、その講座の中身をフォローしているんですが。そうした中ですから、今回は徒然なるままに、といった感想です。一、今回のズームによる学習で、私は2点質問したんです。1.事前に送ってきていただいている福田先生の翻訳テキストにですが、それには簡潔な小見出しがついているんです。その節の中身の中心点を紹介したものですが。しかし、中公クラシックス版にしても、世界の名著にしても『法の哲学』などにはそれはなく、通しでの叙述になっているんですね。そこで、質問したんです。この小見出しには、世界で出されているヘーゲル著作での、どこか誰かの作品によるものか?と。福田先生の答えは、『私が、その節の要点を紹介したものです』とのこと。ようするに、福田先生は、たんに原文にそった翻訳をするだけでなく、その要点を理解しやすいようにと、小見出しをたてることでその節のエッセンスを紹介してくれてたんですね。2、もう一つの質問、ヘーゲルの『法の哲学』は1821年刊行ですが、その他に『ヘーゲル法哲学講義』(2000年)が出されています。31年にヘーゲルが急逝するまでの間にベルリン大学で講義していたものを聴講生の記録をまとめたものですが。これを福田先生はどの様に評価されているか?福田先生の「講義」にたいする評価ですが。ア、話というのは文章とは違って正確さに欠ける面もあるけれど、一面文章では書けなかったこと、言うことが出来なかったことが、そこにはあるんじゃないかと。イ、ただ、あくまで聴講していた人の記録であり、その文章表現は聞き手の理解力にもよってるので、はたしてヘーゲルの真意が出ているかどうかについては、注意が必要だと。ただ、「講義」にはヘーゲルのリズムがあるので、参考にはしている、と。ウ、ヘーゲルの著作と研究にはイタリア語版があって、イタリアでの歴史的な研究がある。これなども参考にしている。-とのことでした。二、「c.世界史」前半の講義でしたが、私がそこで得た印象的な問題ですが。1、実際に講義の場に参加された方から、「普遍的と世界史とはどう違うのか?」との質問がありました。質問の具体的な主旨が、私にはよく分からないんですが。そこでの議論の中で、「個別-特殊-普遍の弁証法」ということの説明がありました。私なりにその論議から理解すると、ものごとは、まず個別的なものがあるが、それを検討するとその特徴、特殊性というものが見えてくる。次にさまざまな特殊的なものを検討していくと、その先には普遍的なものが見えてくる、と。これが、個-特-普の弁証法だ、と。そうしたことを福田先生は説明されてました。私なども謎であり、課題とする問題なので、今後の検討課題なんですが。2、自分というものを、対象化することで、その対象との検討が行われるようになる、といったことが問題提起されてました。私などは、福田先生の講義からははずれますが、思うんです。学習をブログにして発信しても、それに対する他者からの反応はなにもないものですから、達磨大師の様なもので。仕方なく、その自分でその自分のブログ自己対象化したものを検討していくとの、覚悟をしていたんですが。ルソーだって『告白』の作品は、自己対象化じゃないですか。ヘーゲルも世界史の中で創造的な努力は同時代には報われることはないなんてことを言っている(第348節)。マルクスも『資本論』の序文で同じような感想を述べている。しかし、そうじゃないと思うんですよ。レーニンがロシア革命を実現したように、日本が暴虐な軍国主義路線が結果として敗戦したように、しっかりとした努力をするなら、新たな道は開ける可能性をもっていると思うんですね。ものごと等価交換であって、問題は目的に応じたそれなりの努力が、自分自身において実際に出来ているかどうか、ということじゃないかと思うんです。3、さらに、ヘーゲルの思想を、ちゃんとつかもうとしているか、の問題です。はなから「ヘーゲルは難しい」として、私などのブログを避ける人がいました。旧友の一人なんですが。福田先生は、ヘーゲルの世界精神は、国連などの政治的な形で、また人権の思想の発展として、具体的な例をあげて現代に光っていることを、熱く語っておられるんですね。おしいことに、私の勝手な印象ですが、見たところ、それが限られた人にしか伝わってないんです。一方では、科学的社会主義という人たちでも「客観的観念論者」だとしてヘーゲルを実際上、否定的に扱ってまともな検討をしようとしない、怠け者がいるし。片や難しい表現を逆手にして、自分勝手な中身のない解釈をとうとうと展開して、ますます混乱させている人がいるわけでして。もっと、ヘーゲルの実際が知られる必要があるとおもうんです。福田静夫先生の努力が求められていると思うんです。ヘーゲルの内容と魅力を、多くの人が接することが出来るように、長年蓄積されてきている事柄を、著作・活字にして紹介してほしいですね。三、私などは、課題としていることですが。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判によせて』ですが、これもまたまともな検討が少ないですね。これが宿題になっているんです。さらに『ユダヤ新問題のために』もあります。これも、あまり一般には検討が見かけないじゃないですか。唯物弁証法と唯物史観の方法論の開拓の問題でもあります。近代社会の民主主義的発展、変革を開こうとする問題です。まさに今の日本が課題としている問題じゃないですか。そうしたことで、この11月・12月は、みかんの収穫が忙しいんですが、それでも、どんなにつたなくても、さらに私などの学習発信は続くということです。今回は、番外編で「徒然なるままに」です。
2022年10月23日
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山添拓議員の参院予算委での追及について国会で国葬問題や統一協会、暮らしの問題が議論されていますが。10月20日の参議院予算委員会で、共産党・山添拓議員がすばらしい追及をしましたよ。とかく国会中継は、仕事をしている国民にとって、もらりくらりとした無縁の問答が続いたりして、付き合いきれない面があるんですが。この山添議員の質問は素晴らしかったですよ。最初はテレビニュースでチラッと見たと思うんですが。10月21日付の「しんぶん赤旗」が、かなり詳しく紹介してくれました。しかし、問題はそれをヒントにして、国会の政治をつかむ、ということです。国会の質疑というのは、質問に対して首相や閣僚の答弁と思うのは、まともに答えないじゃないですか。いかにももっともそうな、耳にやさしい形式論で、口上で知らぬ川の半兵衛を決め込みますから。まともに付き合っていると、時間の無駄だといった感覚にさせられてしまいます。ところが、今回は違いました。最初、一般の新聞で見たんです。この日の予算委員会は12名の人が質問していました。山添議員だって1時間余の質疑ですが、一般の新聞では四問四答で紹介されてました。一般の新聞では、誰が質問して、どんなことを質問したか、せいぜいその位しか分からないんですね。それでもそれは貴重なんですが、しかしこれじゃぁ実際の論戦は分かりませんよね。一、私の場合ですが、まず、注目される質疑を選びます。共産党の場合には、翌日の「しんぶん赤旗」で詳細を知ることが出来ます。今回の場合も、10月21日付で、2ページを使って「論戦ハイライト」として紹介されてました。これは、「しんぶん赤旗」ならではのもので、質疑の要点を理解する上で、たいへん大事なんですよ。今回も、それに目をとおしたんです。私の場合は、ここからが努力なんです。新聞からは重要な点は活字にして読めるようにしくれてますが、それはあくまで大事な点であり、要点だと思います。生きたやりとりがどうであったかということは、また別にあると思うんです。二、今はインターネットの時代ですが、国会の参議院の質疑もインターネットで見ることが出来ます。参議院インターネット審議中継 (sangiin.go.jp)これで、10月20日の参議院予算委員会での山添拓議員の質疑も視聴できるんですね。この生のやりとりですが、素直さとか、誠実さとは、大よそかけ離れた問答なんですね。ただ漫然と画面を見ていただけじゃぁ、のらりくらりの答弁で、ちっともわからないんです。三、私の場合、この二つを結びつけるんです。山添議員の質問・追及の要点や、それに対する首相答弁の、議事録の要点が「しんぶん赤旗」の「論戦ハイライト」です。これを横において、実際の質疑の録画をみる、との方法です。そうすると、実際の質疑のもっている問題が見えてくるんです。いつもこうした条件が整うわけではないんですが、ここは大事だと思った場合には、この方法を取るようにしています。四、今回の場合に、それで見えてくることですが。統一教会問題で、岸田首相は世論に押されて、当初のおごった逃げから軌道修正しています。しかし不正をただす措置を、やっているとのかっこをつけるだけで問題を先送りにしています。二言目には「事実把握を積み重ねてから」の口上で、「調査」するで逃げてます。しかし「調査」といっても、自民党議員からの自主申告されたものを集めるだけで、能動的に調査するものじゃないんです。だから山際大臣のように、あとからあとから問題が出てくるんですね。安倍元首相と協会とのかかわりについても、「こころの中の問題だから」亡くなった人の心の中はわからないからとの口上で逃げてるんです。しかし、追及された中で、次のような言葉も出るんです「(被害者の存在が)さまざまな形で政府に情報として入っていた。放置したことは、深刻に受け止めなければならない」と反省らしきこともいうんですが、しかし質問権などのちょうさをしてからと。もう加害者としての尻尾はとかまれてるんですよ。新たな事実が分かれば追加すればいいんです。それを「調査の結果を待ってから、それから判断する」なんて、太平天国の様なでかわそうとしているんです。これじゃぁ、いつまでたっても、襟を正そうとしない、正そうとする気がない、ということですね。この政治の問題が、国民に見えてきたら、政治は変わるんですが、この国会論戦の真相ですが、はやく明らかにしたいものですね。
2022年10月22日
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さんま祭りの永山商店会10月22日(土)、東京多摩市の永山商店会では、さんま祭りが開かれました。この1,2年は、コロナのために中止になっていたんですが、今年は復活しました。いつもの土曜日の朝の静けさとは違って、今朝は朝から、商店会の役員さんたちが総出で、秋刀魚を焼く準備にあたってました。今年のサンマも、店先で値段を見ると買うのを躊躇するんですが、なんたって商店会の恒例行事ですから、直接に水揚げした市場から取り寄せてるんですね。午前9時半ころには、秋刀魚を焼く匂いがあたりに広がりだしました。しかし、当方の朝市は、その頃には販売は終了です。まだみかんの収穫の量が少ないものですから、せいぜい味見程度の朝市なんですね。まだ、さんま祭りの準備は、始まったばかりでしたが、みかんや野菜を在宅者に届けなければならない人もいるもので、かぐわしい匂いをかいだだけで、商店会をあとにしました。
2022年10月22日
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「音楽好きな仲間たち」コンサート10月20日(木)、「音楽好きな仲間たち」のコンサートに行ってきました。日野美子さんのボーカル教室発表会です。芸術の秋とはいえ、日ごろのみかん農夫には、ライブコンサートなどは無縁なんですが。学生時代の旧友が、ありがたくも声をかけてくれるので、楽しみにしてるんです。しかしこの2年は、コロナの関係で開催することが出来なかったんです。したがって、久しぶりなんですが、いそいそと、電車にゆられて居眠りしながら行ってきました。出演者の皆さんです。生演奏会だから、本来は写真撮影はダメなんですが、フィナーレだけは、撮らさせていただきました。「ソレアード」という曲だそうですが、みんなで合唱しました。一番右側のご婦人は、91歳だそうなんですよ。愛の歌を、こころをこめて歌っていただきました。生きがいを持っている人は、歳をとらないんですね。コンサートのプログラムです。最後に合唱した「ソレアード」の歌詞です。「この広い世界の片隅で めぐり合い愛し合い そして別れていく二人 でもさよならの代わりにひと言だけいわせてください。 あなたに会えて幸せでした 淋しい人生に 光をくれた人 今はただ言いましょう この愛をありがとう」フランス、アメリカ、もちろん日本の曲が、唄う人をとおして、熱いかけがえのないメッセージが、伝わってくるんですね。コンサートの最初は、別れ行く人たちの、こころ寂しさの様なものを感じてたんですが、それは人の宿命として致し方ないこと。問題は、大事なものを見つけるようにして、それを最後の最後まで大切につらぬけ、と。徐々に基調が変わってきたんです。愛もそうだし、仕事もそう、そして歌もそう。この人生を、生きがいを持って生き抜け、歌い続けるのも、またその一つ、ということでしょうか。最後は、なんとなく、強力な元気をもらって帰ってきました。
2022年10月21日
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太田晴夫著『宮本顕治さんの思い出』を読んで『宮本顕治さんの思い出』、待望の冊子がこの10月4日に刊行されました。さっそく私などは、その26ページに目を通させていただいて、10月14日には、当方のブログで紹介させていただいたんです。「私は10冊あずかったから、無料でプレゼント(送料等の200円はいただきますが)しますよ」「10月の末までだったら発送しますよ。その後はみかんの収穫で忙しくなるのでダメなんですが」と、ブログにて発信したんですが。私なりには、クループスカヤの『レーニンの思い出』じゃないけれど、これを知れば、少しは見てみたいとする人が、それなりに出てくると思ってたんですが。宮本顕治さんの、今だからこそ語れるといったことです。近くに活動した人の、日常の努力する姿であり、その息遣いですから。私など思うに、以前であれば、「トップ・シークレット」のことがらであり、貴重な歴史証言じゃないかと読んだんです。ところが、そうした予測ははずれたんです。今日までのところ、これを希望する人というのは、まったくの無しでした。私としては、冊子の中身について、少しは紹介したんですよ。「私などが注目した点を、2つだけ紹介します」と。〈一つは、自主独立の立場の確立ですが。あとからすると当たり前のようにおもえても、その時の現実にあって慣習のようになっている習慣を、変えるということはたいへんな問題です。世界の社会主義、共産主義の運動は、はじめに社会主義革命を成功させたソ連にたいする信頼や期待は大きかったんです。被抑圧者の解放への願いであり、あこがれです。それがいつのころからでしょうか、おかしくなっていた。現実の展開のなかに、千島の占領が行われたりシベリアへの抑留者の問題あり。ついには他国の共産党への政治路線の押し付けまででてきた。それに対して、当初の信頼から、どの様に自主的立場を、日本共産党は「自主独立の立場」と言ってますが、自主的・主体的な立場を堅持するようになったか。自国の綱領路線をソ連や中国の権威にあわせることなく、自分自身の頭でつくるという自覚にたつようになったか。そんな自覚をつくる過程では、たった『りう』の2字ですが、それをくわえたことで、正確な事態認識をつくったことが紹介されてます。宮本氏の死去に際して、自民党の要職にあり、対極の位置にあった中曽根康弘氏ですが、そうした努力の全体について述べた評価・感想が紹介されてます。「敵ながらあっぱれだと感じていた」と語っていたと、この発言もたいしたものですが。そんなエピソードも紹介してくれています。二つ、1980年1月に「社公合意」によって、理由なく共産党とは一緒にやらないとの社会的政治シフトがしかれた。これは日本の政治世界の中で、話し合いの相手から共産党を除くということで、政治革新をこころざす動きを締め出すということでした。この国民要求にこたえようとする政党が他にはいなくなったとき、政党として共に政治革新する努力をしようという勢力がいなくなったとき。まぁこれは、戦前の大政翼賛会が、1980年の時点でつくられたということですが。そうした困難な事態を、国民本位の政治革新をめざす政治家として、どの様に事態を打開したのか。その様子を『全国革新懇35年のあゆみ』(2016年3月刊行)で、小中陽太郎氏が紹介してくれていたんですね。諸外国の党からも驚きの感想があったと。そうした努力をエピソードとして語ってくれているのを紹介してくれています。〉そんなに点を紹介しておきました。これは、志位委員長の9月17日「日本共産党の100年の歴史と綱領を語る」講演を、よりリアルに理解する面をもっている、とも感じたんですが。しかし、私のブログ自体も社会性がありませんし、タイトルの「ミヤケンさんの思い出」では、チョット遠慮しすぎてるんじゃないでしょうか。『宮本顕治氏の思い出-綱領路線はどの様な努力でつくられたのか』-このくらいの意気込みのタイトルがあっても良かったんじゃないでしょうか。そして、それは、今の共産党をつくるために努力した人たちが、太田さんだけでなく、もっともっと、胸を張って語られてしかるべきことじゃないでしょうか。これから明らかにすべき共同事業じゃないかとも思ってるんですが。まぁ、それはまったく余計なことですが。とにかく、10月いっぱいですが、この冊子の希望される方には、送料200円で発送するように、私などとしても努力したいと思っています。コメント欄で申し込んでくれれば、送らせていただきます。(もっとも、冊子が品切れで無くなっちゃったら「ごめんなさい」ですが、まだ今のところは、あるようです)
2022年10月17日
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みかん初登場の朝市10月15日(土)は、東京・多摩市永山団地に、今年のみかんが初登場しました。全部でわずか9袋だったんで、ドタバタしているうちに、はじめに店開きして並べた時の写真を取り損ねました。小田原の早生みかんが、ついに今年の永山団地に初登場しました。次の写真は、10月11日(火)に小田原へ向かう途中の富士山です。今年は、富士山をなかなか見ることが出来なかったんですが、午前10時29分に平塚からみえた富士山です。さらに走って、午前10時46分に小田原から見えた富士山です。今回の小田原みかん園行きですが、一番のハイライトは、早生みかんの初収穫でした。次の写真は、前回の10月4日に撮った早生みかんの様子です。沢山あるみかんの木のうちで、このみかんの木と日当りなどの土地柄の条件でしょうか、早生みかんの木のうち、2本だけが、いち早く色づきだしたんです。他の木はまだ、ここまで色づいてはいません。その色付きのすすんだ木から、もっとも全体的に色づいたみかんを、今回収穫したんです。700グラム入り(約8個)の袋にして、全部で10袋の収穫でした。その内の3袋については、みかん好きの、首を長くして待っている知人に、まず味見してもらいました。とにかく、今年も、みかんのシーズンが始まりだしたということです。みかんを待っているのは、イノシシも同じなんです。みかん園は鉄柵で囲わないと、イノシシに良いところを見な食べられちゃうんです。鉄柵で囲っても、これをこじ開けて侵入してくるんです。今回は、みかん園に行った3日間が、3日間とも、毎朝イノシシとの攻防戦が展開されました。朝の第一の仕事は、鉄柵の囲いが破られていないかの見回りです。一年間、丹精込めたみかんが、ここで油断するとイノシシの餌食になっちゃうからです。猪の執念も相当なものですから、毎朝の攻防戦が繰り広げられています。そうして確保したみかんを、東京・多摩市に運んで、消費者に提供しているわけです。いつもは静かな朝の永山団地のひろばなんですが、今日は何やらにぎやかになりだしました。団地自治会等の主催による運動会があるというんです。午前8時半ころから、みんなで老若男女の世話役の人たちによる準備がはじまりだしました。今日の運動会だけじゃないんです。来週の、10月22日(土)には「さんま祭り」が予定されているそうで、その看板が出ていました。この数年はコロナ問題で諸々の行事が中止されてたんですが。しかも、サンマも今年は1匹400円(小田原の魚市場で)と、庶民の口には遠くなっちゃってるんですが。聞くところによると、このさんま祭りでは、焼いたさんま一匹が150円で、1000匹が提供されると。団地自治会も太っ腹ですね、みんなが楽しみにしていて、大行列が出来るのも、無理はなしです。その「サンマ祭り」が来週の土曜日に開催されるんだそうです。ということは、当方も、来週においては、小田原・真鶴からのみかんについても、美味しく熟したところを(それは自然によりますが)、なるべく多くのみかんを収穫して、この祭りにむけて、搬送してこなければならないということです。小田原みかんをアピールする勝負の時が、団地住人に知ってもらう時が来ているということです。これは、今年のみかん商戦の大事な時ですね。
2022年10月15日
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太田晴夫さんの「ミヤケンさんの思い出」日本共産党は創立100年を迎えました。志位和夫委員長が9月17日におこなった記念講演は、「日本共産党の100年の歴史と綱領を語る」(290円+送料100円)としてパンフレットとなってますから、日本共産党中央委員会出版局に申し込めば手に入ります。私が今回紹介するのは、太田晴夫さんの「ミヤケンさん思い出」です。2022年10月4日に刊行されたパンフレット(54ページ)です。「ミヤケンさん」とは、日本共産党の宮本顕治氏(1908-2007年)です。太田さんは、東京多摩市の永山団地の朝市を主宰されてます。私などは、小田原のみかん畑で栽培・収穫したみかんを、この朝市で販売させてもらってるんですが。ようするに、小田原・真鶴のみかん販売でお世話になっているんです。一、ひとはさりげない日々においては、いろいろ自分の都合をかかえてますから、なかなか目の前にいる人について、その人が実際にはたしてきた役割や価値を知ることが出来ないんですが。今回の「日本共産党の歴史の背景を知るいち助になれば」の冊子を読むと、太田晴夫さんは、1973年ころから長年にわたって、宮本顕治氏の近くで働いてきたようです。このパンフレットは二部だてになっていて、第一部は「自分史的メモ『ミヤケンさんの思い出』」(2017年5月25日) 26ページ。第二部は、エッセー風私論『中條百合子はなぜ宮本顕治を選んだか』(2016年9月25日) 28ページ。です。これにより、宮本顕治氏の日常の人となり、綱領路線の探究・努力となりが、独特に身近かにあった人ならでわの存在として、具体的なエピソードと息遣いで、紹介されているんですね。硬く言えば、綱領路線がどの様な努力によっておこなわれてきたか、ということですが。その理論が、どの様な努力により現実にもたらされたのかという、生活を共にした人による紹介ですね。こんな歴史がつくられた具体的な生の話というのは、なかなか聞けるものじゃありませんよ。私などは、「人間としての宮本顕治」氏がつたわってきて、なかなか貴重な側面とみるんですが。そんな作品というのはなかなかないんですが、それは、私などは、かえって理論を具体的につかめる力をもってるように感じるんですよ。まぁ、似たようなものとしては、レーニンに対するクループスカヤの『レーニンの思い出』のようなものでしょうか。二、私が今回対象にしているのは、第一部の『ミヤケンさんの思い出』です。日本共産党の宮本顕治氏が亡くなってから、すでに15年が経過しているんですが、2012年には『宮本顕治著作集 全10巻』(新日本出版社)が刊行されたんですが。その諸論文の背後にあった努力・人柄というのは、関係する人ぞ知ることといったところで、直接経験として語れる人というのは、まれにしかいないんです。今回の志位和夫委員長の記念講演は、宮本氏の努力を少しですが埋めてくれたんですが。私は、人は時を逃がしてきたと思ってるんです。もっともっと、身近かにその努力を知っている人たちが、宮本顕治氏の個人ということだけでなく、それは日本共産党の綱領路線を開拓してきた生きた努力というものですから。それを、近くにいた人は、もっと語ってくれてしかるべきだと思っていたんです。その人たちには、その責任があると思っているんですが。実際には、それがなかなか無かったんです。もちろん、それぞれの人には、気持ちのどこかには、そうした認識はあったと思うんですが。どんどん、直接の関係者はあの世に消えていってしまい、その生の証言は出来なくなり、消えていっているんです。そこには大事な事柄がたくさんあったと思うんですが。もったいないことです。三、そうした中での、太田晴夫さんの今回の「日本共産党創立100年にあたって」冊子です。私などが注目した点を、2つだけ紹介します。一つは、あとから当たり前とおもっても、その現実にあっては慣習となっている習慣を変えるという問題です。だいたい世界の社会主義、共産主義の運動は、はじめはソ連への信頼や現実な期待があったでしょう。それがいつのころからかおかしくなっていた。その現実の中に起きた異常に気付かずに、是も非をふくめて信頼が権威となり、それに対する信頼という追従があった。そうした中にあって、日本の共産党が「自主独立の立場」と言われてますが、自主的・主体的なユニークな立場なんですが、自国の綱領路線を他国の権威によることなく、自分自身の頭でつくるという自覚にたった。そんな自覚がどの様な努力によってつくり出されたか、なんですが。その努力の側面が紹介されてます。たった『りう』の2字ですよ、それをくわえたことに、正確な事態をつくろうとする表現となったことが紹介されてます。そうした努力の全体について、自民党の要職、対極の位置にあった中曽根康弘氏ですが、宮本氏の死去に際して述べた評価・感想が紹介されてますが、これもたいしたものですね。「敵ながらあっぱれだと感じていた」と語っていたとの、そんなエピソードも紹介してくれています。二つ、1980年1月の「社公合意」によって、理由なく共産党とは一緒にやらないとの政治シフトがしかれた時。日本の政治世界の中で、政治革新をめざそうとする野党が、他にまったくいなくなった時に、国民要求にこたえようとする政党が自分たち以外にはなくなったときに。政党として共に政治革新をしようと努力する者がいなくなったとき。まぁ、戦前の大政翼賛会がつくられたような事態じゃないですか。そうした困難な事態のなかで、国民本位の政治革新をめざす政治家として、どうしたか。どの様に事態を打開してきたか。そんな時の様子を、『全国革新懇35年のあゆみ』(2016年3月刊行)で、小中陽太郎氏が紹介してくれていた。そうした努力をエピソードとして語ってくれているのを紹介してくれています。この二つからだけでも素晴らしいんですが、なによりも私などはそこにある人間性というものが紹介されていること。この点がすばらしく貴重なものだし、ほほえましいんですね。四、第二部の宮本百合子論は、また別に紹介させていただくとして。この太田晴夫さんの冊子ですが、私は10冊だけあずかりました。それをプレゼントしたいと思います。冊子自体は無料なんですが、実費送料はかかります。10冊ですから、すぐになくなっちゃうかもしれませんが、希望される方は、メールなりコメント欄で申し込んでください。みかんの収穫も忙しくなりますから、期限を2022年10月末までに申し込みの方、とさせていただきます。それまでに現物が無くなってしまったら、ごめんなさいですが。
2022年10月14日
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『仏教抹殺』(鵜飼秀徳著)を読んで現在、国会で問題となっている統一教会問題ですが。そもそもの「国家と宗教との関係について」「信仰の自由ということについて」考えてみました。明治維新の新政府が行った「廃仏毀釈」ですが、それとの関連なんで、調べた本で考えてみました。「廃仏毀釈」という言葉は、学校の日本史でならっては来ていたんですが。一、手元にある「日本史」をみてみましょう。「(大教宣布と廃仏毀釈)五か条の御誓文が出される前日の3月13日、政府は神武創業への復古と祭政一致を実現するために神仏分離令を出し、神祇官を再興して、神道の国教化をめざした。ついで、1869年(明治2年)7月、大宝令にのっとって神祇官を太政官のうえにおき、翌70年、大教宣布の詔を発した。この宣布にもとづき、神道による国民教化の政策がはかられたが、成功しなかった。 神仏分離令が出されたのをきっかけに、国学者・神官などを中心に、各地で廃仏毀釈の運動が展開して、寺院・仏像・仏具・経典などの破壊、焼却、売却などが行われた。」(『日本史』旺文社)わたしなどは、この限りの、あえて言えば言葉としての「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」しか知らなかった。それで済ませてきたきらいがあるんですね。そこで、あらためて、この『仏教抹殺』(鵜飼秀徳著 文春新書 2018年12月刊行)を読んでみたんです。著者は、1974年生れで、京都のお寺の住職です。だから、ことを見る目が、身近かで具体的なんですね。全国各地をまわって、「廃仏毀釈」とはどういったことだったのかを、取材して紹介してくれてます。同時に著者は、こうした歴史の事実を『多くの人は知らないのだ』と、「はじめに」で書いています。明治以来の近代の日本国の、国家としての宗教との関係は、どのようであったか。そこには、どの様な問題があったのか、との問題です。私などは思うんですが、明治政府は、新たな国家づくりを模索しつつも、「近代国家と宗教の関係」について、明確な見地に立てなかったんですね。現実をつくるべく、理論はその装いだった。そのために、一方では「四民平等」を目指すとしながら、実際には、「天皇=神権国家」といった、大きな新たな問題をつくり出しちゃった。自由民権運動もあって、憲法がつくられた。しかしその大日本帝国憲法は、条件付きで「信教の自由」(第28条)をうたいながらも、神道を特別扱いして、国家神道とすることで、「天皇=神権」の軍事国家となってしまった。法の建前とその内実は、まったく逆な体制をつくることになった。その結果が、侵略戦争の敗戦です。現行の日本国憲法は、その経験にたって成立しているわけですが、イギリス・アメリカ、フランスの近代憲法の原則の上に、明確に立っています。しかし、今度欠けているのは、それを使う主体としての人ですね。その憲法に責任を持つべきはずの政治家ですが、必要な認識に欠ける人が横行している。そのために、今の様な、おかしな事態が繰り広げられているわけです。そうだとすれば、あらためて今日に、「国家と宗教の関係はどうあるべきか」、私たち自身が明確にすること。異常を正せる理論と力をもつこと、そのことが問われているわけです。この問題が、この本を取りあげたことの基本にあるわけです。二、私などが驚かされることですが、「統一協(教)会」の問題での、今回の国会での各党の代表質問に対してですが。日本国の総理大臣たるものが、口先であれこれと言葉を述べたにとても、一向に責任ある行動をとらないことですね。さけるというか逃げるというか、一向に明確な見地に立てなかったんですね。明確な言明が出て来ないという問題です。これは、日本の日本国としての立場であり、近代の歴史に対する基本的な認識と態度が問われていることですから。私などは、あらためて現行の「日本国憲法」の立脚点を確かめてみました。1、『憲法講話』(宮沢俊義著 岩波新書 1967年刊行)のⅡ「国家と宗教」これは、明治憲法でも「信仰の自由」はうたわれていた。しかし、神道を特別扱いしたことで、仏教もキリスト教も、その精神的支配下に置かれることとなった。近代国家の民主主義的制度において、「政教分離」の本質とは何なのか。戦前の明治の大日本帝国憲法の苦悩に満ちた国民体験からして、今日の立脚点というものを明らかにしています。2、ぐだぐたと例をいくつも上げるのでもないのですが。『日本国憲法概説』(佐藤功著 学陽書房 昭和34年刊行)の第二章の第四節「精神の自由」、第二項「信仰の自由」は、更に具体的に「国家と宗教との分離」を説いています。なぜ戦前の日本が、国民の精神が神道によってしばられて、戦争に動員されるようになったのか。その具体的な反省の上に、今日の憲法の「信仰の自由」ということが規定されていると。3、もっと言えば、これはイギリスやアメリカ、フランス革命で確立された民主主義の原則なんですね。国民に対する義務教育として、子どもたちにそれをイロハとして教えてきているわけです。それをその国の政治家たちが、あれこれの理屈をつけてごまかして、あらぬ方向へもっていこうとしつつあるわけです。三、今、アジアを見れば、中国にしても、北朝鮮にしても、おかしな事態にあるじゃないですか。かつて社会主義といわれた国は、レーニンなどが実行していた、民族自決権の尊重、民主主義こそが社会主義の発展した姿だと、新しい世界を目指していたはずですが。それらの国々が、今はどのような主張と行動をとっているのか。ロシアによる隣国への侵略戦争と武力での併合の事態です。そうした時にですよ、日本という国は、今どうなっているのか。力対力の軍事増強の道に走ろうとしていませんか。軍備増強の道は、国民の暮らしと民主主義をこわす道でもあります。そこに「安倍政治」があったんじゃないですか。そしてまた今です。こんなにまで民主主義の基本を曖昧にして、ヌエのような政治がまかり通るのを許していたら、私たち自身の内心との関係で、また先人が苦労して探っていた努力とのかんけいで、どうなるんでしょうか。だれも、明治の政治家たちが鉄道を引こうとしたときに、「もうかる」からやるんだ、なんてけちな、今の政権の様なことは思ってもいなかったでしょう。医療費がかかるから、コロナ調査は全員調査はやめて重傷者だけの集計にするなんてことは、そんなことは国民皆保険の先人にはありえないと思うんですね。原発事故の収拾も満足についてないのに、また原発を増やせなんてことは、いったいどこからそんな考えが出てくるんでしょうか。それが、「国民の代表だ」「国民の信をうけてる」なんて言ってるんですから。四、あげれば、おかしな今の事態に、きりがないんですけど。私たち自身が問われているということです。それらの事態を見すえて、どうしたらこの流れを変えれるのか。本来の当り前な政治をつくれるのか、それが問われているということです。読んだ本を紹介しようとしたんですが、どうも話が思わぬ方向に発展してしまったようです。
2022年10月10日
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誤りが正されるまで問い続ける10月9日付「東京新聞」に一つの紹介が載ってました。宇野重規教授が、第三十三代の日本政治学会の理事長に就任されたと。この記事では、「日本政治学会は1948年、政治学者の全国組織として設立。約1800人が会員として活動している」とのこと。「宇野教授は、1967年、東京都生まれの55歳。専門は政治哲学、政治思想史」とのことです。私などが宇野重規氏の名前を知ったきっかけは、2020年10月1日の菅義偉内閣による日本学術会議の任命外しででした。「なぜ、6名の方は会員に推薦されながら、任命から外されたの?」「どうして?」当然、だれしもが感じる疑問ですが。そのことを機会に、宇野重規氏の著作を一冊読んでみました。任命をはずされている宇野重規著『民主主義とはなにか』を読んで | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ますます、その疑問を感ずるようになりました。これは民主主義の制度から見て、誤った政治決定だと判断するのですが。日本の学術各界も、そのほとんどが「任命拒否の政治決定を訂正すべし」と意思表示しています。それから時間がたちました。しかし、首相は岸田氏に代りましたが、引き続きこの決定は訂正されていません。その気がありさえすれば、「誤り」を訂正するのに十二分の時間がたちましたが、されません。このねじれは、いったい何をしめしているのか。政治が学術の声を聞こうとしないということです。当り前ですが、国民は学術の成果にたって、今の暮らしを営んでいるわけですから、その暮らしのもとを、聞かないということです。この誤った政治決定ですが、一刻も早く正されなければなりません。この異常が、あちこちの事態に蔓延していくということですから。国民の立場からして、民主主義の制度からして、早期に根本的に正すことが求められています。晴れやかさを、国民に宣言しなければなりません。これを、ぐずぐずと、あれこれの理屈をつけて、正そうとしない政治家とは、その頭のなかは、どの様な構造になっているのか。このことが問題になってます。もしも、そうした政治がまかり通るような事態がだらだらと続くとなれば、それをゆるしている国民や学術は、主権者としての資格があるのか?ようするに、国民の主権者としての能力・力が、問われているということです。したがって、「任命拒否」の誤った決定を撤回させるまで、私などは問い続けます。
2022年10月10日
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ヘーゲル『法の哲学』28 C.世界史、講義を前に今日・10月9日は、福田静夫先生のヘーゲル『法の哲学』講座があります。『法の哲学』講座は、いよいよ最終部分の「C.世界史」に入ります。予定では、「世界史」(第341節-第360節)を、今回の10月・前半と11月・後半の2回の講座で終わる予定だそうです。福田先生は、ヘーゲルを長年研究してこられてきた大御所ですが、広く内外で行われているヘーゲル研究を視野にして、ヘーゲルの思想の今日的な意義について、人権の発展の問題とか、自由と民主主義、社会主義の問題とか、さまざまな問題を紹介してくれています。私などは、これまで手探りで当たってきたわけですから、広い世界ではどのような努力がおこなわれてきているのか、カントじゃないですが『啓蒙とはなにか』、目を開かされる思いをしています。しかし、その講義がどんなに素晴らしい講義であったとしても、基本的に学習というのは、学ぶ側がとわれていて、それが単に受動的な姿勢だと、その人の力には、必ずしもならないんですね。やはり、その中身をしっかり学ぶことと、同時に、それを自分なりにどの様につかむのか、そのことが大きく問われている問題だと思います。そうしたことで、3時間後には講座が始まるんですが、それを前に、自分なりに課題を整理してみたいと思います。一、私などの問題意識なんですが、ここでは何が問題となっているか。ヘーゲルの歴史観の問題です。私などが福田静夫先生の講座を知ったのは、新聞での『法の哲学』講座の案内でしたが、2022年3月からで、国家論の途中の「c.立法権」からでした。以前にマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』を学習したことがあったのですが、独学でしたから、マルクスにしても、ヘーゲルにしても、その論旨をつかむのは容易ではなかったんですね。今回の福田講座に参加できたおかげで、ヘーゲルが『法の哲学』で、どの様なことを言っているのか、以前より正確につかめるようになったようにと思います。なかなか、この基礎的な作業は、当たり前のようでいて、多くの場合、その努力があまり出来ていないというのが、ヘーゲルに関する論文を読むにつけて感じる印象です。勝手な解釈が、ヘーゲルを誤解させて難しくし、近づきがたくしている。一因でもあるように思います。二、歴史観の問題では、2020年にヘーゲル『歴史哲学』序論を学習発信したことがあるんです。今回の「世界史」講座を前に、読み直しているんですが。2020年10月13日に発信した「ランダムな感想」を紹介させていただきます。哲学学習17 ヘーゲル『歴史哲学講義』序論12 ランダムな感想 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)2年前のものですが、ほぼこれが私などの出発点ですね。1、ここには、理念の着想は着想としつつも、経験的な事柄から、市民社会からそれを導き出すこと。2、仮説としては、ヘーゲルは4つの歴史的な発展段階を提起してますが、唯物史観を着想する材料になってますよね。3、なかなかその努力は、ヘーゲルが感じているように、それを遂行する個人というのは、同時代からはそれとして評価されることはないんですね。「汝自身の道を行け」との点ですね。4、安易に「誤りだ」と人は簡単に評価しがちですが、「批判」というのはそんな安易なものではないと。レーニンがイネッサ・アルマンドにあてた手紙で指摘しているのは、(ア歴史的に、イ他の命題との関連で、ウ具体的な関連で、検討するのが、マルクス主義の全精神だ)、それは、この『論理学』『歴史哲学』のこの精神に学んで引き出していることですね。そうしたことをふりかえりつつ、今回のヘーゲル歴史観がもっている問題・課題についての学習です。さて、今回、福田先生は、どのような提起をしてくれるでしょうか。
2022年10月09日
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今朝の朝市10月にはいって、最初の朝市です。スダチと、梅酒とかりん酒です。10月に入って最初の朝市ですが、4日-6日と雨が続きましたから、表での作業は出来なかったんです。しかし、季節の変わり目です。香酸柑橘のスダチが初登場したのが、それを示しています。次回は、早生みかんが、ほんのすこしですが、味見用に並ぶと思います。実りの秋が、いよいよ、やってきたということです。
2022年10月08日
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信州で、50年前の同窓会すでに9月29日・30日にねこのブログで紹介したんですが、50年前の法政の同窓会で、信州・上田の「無言館」に行ってきました。1969年入学組の法政・経済学部の同窓会だったんですが。帰って来てから、まわりの人たちに「無言館」を、戦没学生の美術館の様子を紹介したんですが、私などは、まったくの初めての見学だったものですから。ところが、幾人もの人から「そこなら、行ったことあるよ」との返事がありました。むしろまったく知らなかったのは、私くらいだと言うことでした。中には、「水上勉さんの息子さんがつくった美術館でしょう」とか、「以前に2回行っている」とか、「入口にあった絵が印象的だった」とか、けっこう、みなさん「無言館」をご存じなんですね。知らないのは私ばかりと、認識を新たにしている次第です。それでも、この度の様子は、同窓生の中には、いろいろ地域社会の用事などで、参加できなかった人も何人かいたので、「ブログで旅の様子を発信しておいたから、みておいてほしい」と便りしておきました。信州はコメどころですから、ゴールデン色の稲穂が目立っていました。行った時は、上田方面の山側の高い地域では、すでに稲刈りもすすみだしていでましたが、おそらく、今は、平地の方の稲刈りも進んでいることでしょう。その後もさらに朝晩の冷え込みがすすみだし、一段と秋が深まってますから、いよいよ、りんごのシーズンですね。現地の農家に注文しておいたこともあって、りんごの収穫を楽しみにしているところです。当方は、小田原のみかんです。今週は、雨がちな陽気で、足止めとなりましたが、こちらでは、そろそろ早生みかんの試し収穫が始まろうとしています。11月、12月が、温州ミカンの収穫期ですから、いよいよ一年の苦労が、ここにかかっています。楽しみな収穫の時期が、目前に迫ってきています。
2022年10月07日
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みかんの季節が、近づきましたついに、みかんの季節が近づいてきました。みかん園に着いての仕事ですが、その第一は、みかんの成熟ぐあいの見回りです。これは早生の温州みかんですが、まずまずの色付が始まりだしていました。ただし、これは最先端の早生みかんの様子でして、平均的にはまだまだもうすこしです。しかし、なによりも第一級の調査はイノシシです。これからのイノシシのお目当ては、他の何よりもみかんを目的にするようになりますから。イノシシがみかん園に侵入してくる入口を、ゆるすかどうかということでのみまわりにあります。さいわいにして、今回はイノシシの防止柵は守られていて、無事に防いでいました。ヤレヤレというところです。次の写真は、10月4日(火)、小田原厚木道路からみた富士山です。今年の夏は、何度も小田原に通っているんですが、富士山を見れる機会が少なかったんです。これは、珍しい富士山の姿です。季節は早くも秋です。今回、久方ぶりの青の富士山を見ることが出来ました。初冠雪の便りが、北から始まりだしていますが。この景色、全体としては雲が近づいていますね。案の定、この日10月4日は、夕方から雨が降り出してきました。今年の秋は、秋晴れが少なかったんです。なにしろ、一週間の間に14号、15号と2回も台風が来るような具合で、全体としては、雨がちな秋だったんです。みかんの成熟にとって、秋晴れが大事で、欠かせないんです。みかんのおいしさ、甘さは、太陽の恵みですから。今年は、それがまだ少ないんですね。だいたい自然というのは、人間が期待している通りにはいかないというのが一般的です。それが、昨今の自然ですから。なにはともあれ、小田原のみかん園も、来週からはみかんの試し収穫が始まりそうです。一年の苦労のみかえりです。みかんシーズンが、いよいよすぐそこまで来ているということです。みかん農家の一年間の努力は、これからの2か月半にかかっているということですが、みかんの収穫を楽しみにしている人たちが、その楽しみにしている時が、いよいよ秒読み段階に入ったということです。
2022年10月06日
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大腸の内視鏡検査9月の八王子市・市民検診で、大腸がん検診の検便で、2回のうちの1つに出血が見られる、との結果が出ました。こんなことは初めてだったんですが。団地の内科医の主治医の先生から、『そのまま放置しておくと、癌になる可能性もあるので、早めに見てもらうように』とのアドバイスがありました。それで本日、近くにある大腸肛門外科の病院で、大腸の内視鏡検査をしてもらってきました。何度も市民検診はうけてきましたが、こんなことは初めてだったんです。大腸の内視鏡検査というのは、1つ、検査する前に大腸の中を綺麗にしておく必要がありますから、検査の二日前から、食事規制が始まります。検査の前日には、写真にあるような、消化に良い医療食が、朝・昼・晩の三食が提供されました。まぁ、これは、前回紹介したように、大した問題ではなかったんですが。2つ、問題は、午前9時半からの検査予定でしたが、午前5時半から2リットルの腸内洗浄剤を飲まなければならないことでした。美味しいジュースの様なものならよいのですが、それはあまりおいしい飲物ではないんですね。10分ごとのコップ一杯を飲む、それを2リットル飲む。これは、なかなかきついですよ。これがまずもっての難関でした。何かジュースを混ぜて飲みやすくしようとしたんですが、注意書きをみたら、「それはダメ」ということだったんです。3つ、はじめてから1時間半くらい経過すると、トイレが近くなりました。そりゃあそうです、腸の中のものをすべて出して、中を掃除するんですから。人間の生理は大したものです、数分ごとに排便するように体の中が動いてくれるんですね。2時間半で、透き通った液体の排出にかわりました。腸の洗浄がおわって、検査の準備ができたということです。4、病院の検査の予約時間に行って、内視鏡検査の開始です。これが第二の難関ですね。大腸にそって内視鏡を入れていくわけですから、まな板の鯉です。内視鏡が腸の中を入れていくために、右だ左だと、あっちむけこっちむけと指示されて。こうなると、実際に癌が見つかって手術することに比べたら、それよりはましかと、我慢するしかなし、です。たいへん長く感じましたが、検査は30分くらいかかったでしょうか。5、検査は終わりました。『どうですか?問題はありましたか?』、先生に聞いたんですが。4枚の写真を渡してくれて、『これが中の写真です。まったく問題なしです』と。やれやれ、でした。今日は、これが一日の中心になる仕事でした。それにしても現代医学というのはたいしたものですね。こんな検査は、昔なら考えられないでしょう。これで、私もしばらくは、今の日常を続けれるということです。しかし、70歳を過ぎると、体のどこで、どのような異常をきたすかわかりませんから、実際、目だ、耳だ、腰だ、歯だと、いろいろあちこち問題をきたしてるんですから。せっかく、天や両親から授かった大事な人間としての体ですから、なるべく検診は受けるようにして、問題については出来るかぎり手当てをしていく。そうして絶対に体を粗末にしては、ならないということです。これが高齢化社会の一員として、一人の人間としての生き方だということです。
2022年10月03日
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大腸検査のための医療食先日、市民検診をうけたところ、出血があったというので、大腸を内視鏡で調べてもらうことになりました。前日に、腸の中をきれいにするために医療食を提供してくれました。これがそれですが。なんと、いつもの食事よりもはるかに手の込んでいて、バラエティーじゃないですか。日ごろ縄文人のような生活をしている身としては、すばらしそうな献立です。早速、味わってみます。
2022年10月02日
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ヘーゲル『法の哲学』27 第311節マルクス論評の終わり今回は、ヘーゲル『法の哲学』の第311節です。c.立法権も、あと一歩のところまで来ました。『法の哲学』は、このあとも、 c.立法権 第289節-320節 Ⅱ 対外主権 第321節-329節 B 国際公法 第330節-340節 C 世界史 第341節-360節。と、まだまだこの先が続いていきますが。この第311節あたりが、私などの学習にとっては、一つの節目となっています。というのは、私などの目標は、マルクスの『ヘーゲル法哲学の批判』学習にあるからなんですが。マルクスのヘーゲル『法の哲学』に対する論評をとおして、両者の意見をつきあわせするようにしています。その討論を見てきたんですが、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』というのは、『法の哲学』の第313節の引用までなんですね。そこで終わっているんです。そして、第312節については「いやはや!」とのコメントだけですし、第313節は本論を引用しているだけなんです。具体的な論評をしているのは第311節までです。したがって、マルクスによる『法の哲学』批判は、内容としては今回で終わりなんですね。今回の学習は、今年、2022年の3月から、日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生のヘーゲル『法の哲学』学習会に、zoomで参加させていただいたことにあります。私は以前に、10年前の2011年に、マルクス『ヘーゲル法哲学の批判』の学習を、15回の学習発信したんです。この時は、まったくの手探りでしたから、理解には限度がありました。マルクスの『法の哲学』批判を理解するには、その元となるヘーゲルの『法の哲学』を理解しなければならないじゃないですか。ところがヘーゲルに挑戦しようとした方は分かっていただけるかと思いますが、その著作を理解するのはなかなか容易なことではないんですね。今回、福田先生の講座に参加させていただいたおかげで、「学んで、時にこれを習う」じゃないですが、以前には曖昧だった『法の哲学』の理解が、かなり明確になってきたんですね。そのおかげで、マルクスが何を言いたいのか、どこに論点があるのか、かなりはっきりと、つかめるようになってきたと思うんです。そのマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』ですが、今回の第311節で、事実上終っているんですね。したがって、私の両者を比較する作業は、今回で一つの区切りとなります。もちろん『法の哲学』の学習は今後も続いていきますが。一、ヘーゲルの『法の哲学』第311節ですが。「本論」と「注釈」からなってます。中公クラシックス版では、「本論」は8行、「注釈」は19行です。P381-383。「本論」を福田先生訳でみてみます。「1、代議士の選出は、市民社会を基盤にして行われるのであるが、さらにその選出の主旨には、代議士たちが市民社会のもろもろの特別な要求、障害、特殊な利害を熟知していて、みずからがこれらの事柄に属している者でなければならないということがある。2、この選出が、市民社会の本性に則って、市民社会のさまざまな団体を基盤にして行われるのであって、この選出の手続きや単純なやり方が、諸々の抽象的な手続きや原子論的に分立した表象によって妨害されることがないならば、これによって選出は、とりもなおさず右の主旨を充たすのである。3、したがって選挙するという手続きは、総じて、何か余計ごとであるか、それとも私見と恣意との取るに足りない遊びに帰着する。」以上が「本論」です。これに「注釈」が添えられています。二、これに対するマルクスの論評ですが。1、なによりも問題なのは、市民社会からの代表の選挙について、ヘーゲルは「選挙するという手続きは、総じて、何か余計ごとであるか、それとも私見と恣意との取るに足りない遊びに帰着する」などということを述べていることです。マルクスが「無思慮に口にしている」と指摘してるのはこの点ですね。選挙を「余計ごと」とか、「取るに足りない遊びごと」というんですから。2、ヘーゲルの見解のもつ矛盾ですが、ア、選挙人は、第309節では、一般的な利益に対抗して、団体の特殊的利益を主張すべきでないとの矛盾をいい。かつまた、第311節では、代議士は諸々の団体から出て、その特殊な利益と必要を代表しているのだから、その団体の特殊利益の一般化した形に対しても、それを特殊要求にとっての対立的なものとみなすかのような矛盾を言っていること。イ、代議士に必要な感覚についても、第310節では「現実に仕事をすることでお上的センスと国家的センスを身に」つけて実際に証明することが求められてるが、第311節では団体のセンスと市民的センスが求められていると。ここでも、どっちなのか、両面なのか、といった矛盾がある。ウ、代表は信頼にもとづくと第309節注釈では言い、ところが第311節では信頼の現実化であり実行であるところの選挙は、「何か余計ごとであるか、それとも私見と恣意との取るに足りない遊び」だとの矛盾したことを言っている。ヘーゲルは絶対に相いれないことを一気に持ち出してきている、とマルクスは批判しているわけです。エ、一方では、代表にとって特殊な利益は対象でなく、彼の人としての公民性、普遍的な利益が対象だと言ったり、他方では、特殊な利益が代表のテーマであり、この利益の精神が代表者の精神である、とも言っている。オ、マルクスは、これらの矛盾ですが、代表というのは、人間としての公民を代表する立場と、特殊な利益やテーマを代表する立場との、この矛盾としてとらえています。(私などが思うのに、それは対立的な矛盾なのか、ありうる矛盾であって、具体的な中で解決してゆくべき矛盾なのか。どちら何でしょうかね)マルクスは、この矛盾がこの注釈の中で「もっともどぎつく貫かれる」と指摘しています。そして、最後に第311節の注釈全文を紹介することでこの部分に対する論評を終えています。私などは、この注釈について、要旨ですが探ってみます。三、第311節の注釈ですが「1、代議士の中には、商店や工場などの社会の大きな特殊部門に精通し、そこに所属している人がいる。だが何も拘束されない無規定な選挙というのは、この重要な事情は、もっぱら偶然の成り行きの犠牲になってしまう。2、諸部門は代表を出す点では、平等な権利で対立しあっている。代議士が代表者としての一つの有機的意味を持つのは、代議士が個々人の、多数の衆の代表者ではなく、社会の本質的な諸領域の一つの代表者、社会の大きな利害の代表者として存在する限りにおいてである。したがって代表するとは、誰か或るものが他のもの代わりをするという意味をもはや持たなくなるのであり、利害そのものがその利害の代表者のうちに現実的に現前しているのであり、同じく代表者も、彼自身の客観的な存在圏域のために定在しているのである。3、多数の個々人の選挙について一言。とくに大きな国家では、自分の一票などは多数の衆のなかではさしたる効果をあげないという理由から、自分の投票に対して必然的な無関心な態度が生じ、投票権がどれだけ高い価値があると諭されたとしても、有権者たちは投票所に行かないということがおこるということ。こうして自由な投票せいどからはむしろ、それが建て前とする投票は自由な権利とは逆なことが、結果として生ずるのであって、選挙は少数者や一党一派の権力の手中におちいり、したがって本当はまさに解消されなければならないはずの特殊的な偶然的な利益に支配されることになるのである」マルクスもこの注釈の全文を紹介していますが。私は思うんですが、この注釈はあえて紹介するだけの意義があると思うんです。一つは、第三点目の指摘ですが、日本社会の問題にも通じる指摘をしていると思います。今日の日本の選挙について、国民のあきらめが、無関心が、投票率の低下につながっていて、それが特殊な一部の人の利害による政治を許すことになっている、とのヘーゲルの指摘です。ヘーゲルは200年前の人ですが、政治社会の現実に対して、鋭い批判的視点を展開していると思います。たとえばですよ、戦前の日本でこんな主張を帝国大学の教授が、その著書で述べたとしてら、いったいどういう事態が生じたでしょうか。しかし、ヘーゲルは堂々と信念を述べているんですね。すばらしいことだと思います。もう一つは、二番目に関してですが、マルクスが指摘している矛盾です。ヘーゲルにとっては、「概念が現象する」との観点であり、「代表するとは、誰か或るものが他のもの代わりをするという意味をもはや持たなくなる」「利害そのものがその利害の代表者のうちに現実的に現前している」「代表者も、彼自身の客観的な存在圏域のために定在している」との社会観なんですね。こうした考え方だと、現状が代議士に反映している限り、そうした客観的な関係にあるとすれば、選挙なんて「なにか余計なことになる」「取るに足りぬ戯れになる」といった結論が出てくるんじゃないでしょうか。これが、冒頭でマルクスが指摘している点ですね。国民の声の政治とは、ヘーゲルのように静観による洞察で「それはすでに客観的な事態の照応した関係としてある」わけじゃないんですね。また「現実的なものは、理性的だ」んだけれど、直接の現実はあるべき理念が自然な形で現れているものではない。実際はマルクスが現実のもつ矛盾をみきわめることで洞察したように、それがもつ可能性としてのあるべき姿というのは、真の現実性というのは、これから活動努力によって反映させていくべき、つくり出していくべき、実践的な目標ということなんですね。ここは大きな、決定的な違いがありますね。これは『フォイエルバッハ・テーゼ』につながる問題ですね。四、再度、マルクスの一文を紹介したいと思います。『ヘーゲル法哲学批判序論』からですが。すでに何度も紹介してますが。「ヘーゲルによってもっとも筋道だった、もっとも豊かな、そして究極的な形にまとめられたドイツの国家および法の哲学にたいする批判は、一面、現代国家とそれにつながる現実との批判的分析であるとともに、他面またドイツの政治的および法的意識の従来の在り方全体の決定的否定でもある。そしてこのドイツの政治的および法的意識のもっとも高邁な、もっとも普遍的な、学にまで高められた表現こそは、まさに思弁的法哲学にほかならない。」(国民文庫 P340)今回は、ここまでです。
2022年10月01日
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