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美人な従妹のアドリーヌに嫉妬してきたぶさいくな独身年増のリズベット(従妹ベット)が愛人の男を親戚に略奪されてしまったので復讐するためにユロ男爵の愛人ヴァレリーと結託してユロ男爵から金を巻き上げてユロ家を貧乏にする話。●あらすじ好色な参議院議員かつ陸軍局局長ユロ・デルヴィー男爵(エクトール)に愛人ジョゼファを横取りされた元香水商人の金持ちでぶセレスタン・クルヴェル(50)が復讐のために美人のアドリーヌ・ユロ夫人(アドーリヌ・フィシェル、48)に求愛して、娘のオルタンス・ユロ嬢(21)を結婚させたければ自分の援助を受け入れろと迫るもののユロ夫人は断る。そのときユロ夫人の従妹のリズベット・フィシェル(略して従妹ベット、43)はぶさいくでわがままで頑固でださくて酸っぱい臭いがする独身で、ユロ家から援助をうけつつも縁談を断って細々と飾り紐細工の女工で自活していて、密かに亡命ポーランド人の恋人ヴェンセスラス・スタインボック伯爵(29)と数年間同棲して母親のような愛情で貯金を全部使って彫刻家になるための援助していたのに、いよいよ彫刻家として頭角を現したときに彼に惚れたオルタンスに略奪されてしまう。ユロ男爵の部下の役人のジャン=ポール=スタニラフ・マルネフの妻ヴァレリー・マルネフ夫人(ヴァレリー・フォルタン、23)はユロ男爵の愛人で、リズベットがユロ男爵の親戚と知って友人になって情報を交換するようになり、リズペットはオルタンスの裏切りを知る。オルタンスが結婚して、リズベットは生活の保障をしてもらう。数年後にヴァレリーはサロンの中心人物になってユロ男爵とクルヴェルの援助で金持ちになっていて、リズペットはユロ元帥と結婚することで自分を庇護していたユロ家の庇護者になって立場を逆転して復讐する計画をたて、ヴァレリーを利用してユロ男爵に金を使わせてアドリーヌを貧乏にして、名声を得て怠け者になったヴェンセスラスをヴァレリーに恋するように仕向けてオルタンスを苦しめる。ヴァレリーは元恋人のブラジル人富豪青年アンリ・モンテス・デ・モンテジャノス男爵と再会して結婚するためにユロ男爵とクルヴェルを利用して、ヴァレリーは夫マルネフと共謀してユロ男爵を脅して夫を課長に昇進させる。国費を使い込んだユロ男爵は急遽20万フランが必要になり、アドリーヌはクルヴェルに助けを求めて身を売ろうとするものの貞淑に目覚める。リズベットと結婚したユロ元帥はアドリーヌの窮状を救うべく20万フランを都合して死んでしまい、家族に見捨てられたユロ男爵は元愛人ジョゼファを頼り、偽名で暮らして行方不明になる。ヴァレリーはクルヴェルと結婚することになり、ユロ男爵の息子ヴィクトランは怪しげな老婆にヴァレリーへの復讐を依頼すると、老婆はモンテス男爵をけしかけてヴァレリーとクルヴェルを伝染病にかからせて、ヴァレリーは死の間際に後悔してユロ家に財産を返して死ぬ。金持ちになったアドリーヌは慈善事業をしているうちに少女を囲っていたユロ男爵を見つけて家に連れ戻すものの、ユロ男爵はでぶな料理女をたらしこんで、アドリーヌの死後に結婚式をあげて終わり。三人称で語り手が読者に向かって説明する形式。主に登場人物の会話で場面が展開して、合間に作者目線の長い説明(静的な描写)が入り、心理描写はほとんどしないという極端なやり方。語り手が全面に出ていて、読者への呼びかけもあり、作者が自分が生きた同時代を書くというスタンスをとることで一定のリアリティを確保しつつ自由な語りができているのはよいものの、語りの自由さが逆に物語をわかりにくくしてしまっている欠点となっている。『従妹ベット』というタイトルの割にはリズベットが出てくる場面は全体の1~2割ほどしかなく、ユロ男爵を中心に物語が進んでいてリズベットは復讐計画の立案者ながら主役というより脇役のような扱いで、タイトルや構成がよくない。リズペットはせっかく個性的なキャラ付けがされているのにあまり物語に登場しないで裏でこそこそしているだけで、リズベットの復讐の物語として始まったのにヴァレリーの死でユロ家が幸福になる大団円の終わりになっていて、リズベットの復讐計画が忘れ去られたまま物語が終わっていてプロットの着地点がおかしい。物語にほとんど登場しないリズベットがなぜタイトルになっているのかも意味不明。心理描写がないのでリズベットの復讐心がどれほどのものだったのかわからないのもよくない。作者はリズベットの復讐をテーマに書き始めたのかもしれないものの、途中で主人公をヴァレリーに変えたかのようにリズベットが忘れ去られてしまっている。悪女は不幸な死に方をして貞淑な女が幸福になるという宗教道徳に沿った紋切り型の終わり方になるのもつまらない。それから説明が長い割に、登場人物が誰が誰やらどういう関係なのやらわかりにくいのがよくない。最初にユロ・デルヴィー男爵として説明されたのに、後になってエクトールと名前を呼ばれていて、ユロ男爵のフルネームがはっきりしないのがもやもやする。登場人物もリズベット、従妹ベット、フィシェル嬢と様々な呼び方で書かれていて、呼称が統一されていないのもわかりにくい。ユロ男爵、ユロ伯爵(ユロ男爵の兄=ユロ中将、ユロ老将軍、ユロ元帥、フォルゼム伯爵)、息子のユロ(ユロ男爵の息子=ヴィクトラン・ユロ、弁護士ユロ・デルヴィー)、ユロ三世(ユロ男爵の孫)といったユロ家の親戚をみんなユロ○○で呼ぶのも人間関係がわかりにくい。そのほかにも脇役が大勢いて一読しただけでは人間関係の把握が難しくなっている。本来なら作者の方で情報を整理して読者に提示するべきなのに、読者が人間関係の情報を整理しないといけなくて面倒くさくて読者への配慮が足りない。ストーリーそのものはぶさいく女の復讐というシンプルなものなのに、人間関係のわかりにくさが物語をわかりにくくして面白さを損ねている。長編小説で人間関係を取り違えるとストーリーを誤解してしまうので、この不必要な人間関係のわかりにくさが欠点となる。好色なユロ男爵と男を手玉に取る強欲な娼婦ヴァレリーの破滅の話として読めばそこそこ面白いものの、リズベットの復讐の話として読むと推敲不十分な失敗作のような完成度。訳者のあとがきを読むと、バルザックは多額の負債があってプロットを練る十分な時間がないまま無理やり小説を完成させたらしく、完成度が高くないのにはそういう事情があったらしい。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】従妹ベット(上) [ オノレ・ド・バルザック ]価格:702円(税込、送料込)
2014.12.25
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孤児院で堕胎手術を教わった孤児ホーマーが堕胎手術をやりたがらず農園で働くものの、結局はルールをやぶって孤児院の跡継ぎになって堕胎手術をする話。●あらすじメイン州の田舎町セント・クラウズの孤児ホーマー・ウェルズは四度養父母の元から戻ってきて孤児院に居ついてウィルバー・ラーチ医師の手伝いをするようになり、あらくれ者メロニィと一緒に孤児院に残る約束をして情事をしながら成長していき、ホーマーは優秀な助手となって15歳のときに一人で急患に対処してラーチと父と息子のような信頼ができあがるものの、堕胎手術は殺人だと考えて自分が堕胎手術をやることは拒む。第二次世界大戦前の194X年、ホーマーが20歳になるころにリンゴ農園の跡取り息子ウォリー・ワージントンと恋人のキャンディ・ケンドルが堕胎しに来ると、ホーマーは彼らの友人になってリンゴ農園で働きはじめ、はじめてドライブイン式映画をみながらデートしたりして楽しく過ごし、そのころ25歳のメロニィは孤児院を脱走してホーマーを探して果樹園を渡り歩き、70歳を過ぎたラーチは違法な堕胎手術で職を罷免されないために亡くなった孤児ファズィ・ストーンの架空の成長記をでっちあげたりホーマーの心臓病をでっちあげたりしていずれ孤児院の後任にホーマーを据えようと画策していた。やがてリンゴの収穫期になると黒人の季節労働者がやってきてサイダー・ハウスでリンゴの汁を絞り始める。映画を見に行ったホーマーがキャンディに告白したとき、メロニィがニアミスして仕事仲間ローナや孤児院仲間カーニィを使ってホーマー捜索を強化する。やがてパールハーバーが爆撃されて戦争になると、ウォリーは戦争に行き、ホーマーとキャンディは看護助手となり、キャンディがウォリーとホーマーのどっちを選ぶか決めかねて三角関係の恋はなりゆきまかせなるものの、ウォリーの飛行機がビルマで撃墜されてしまって生存が絶望的だったので、ホーマーとキャンディがセックスしたら避妊に失敗して子供ができてしまい、孤児院にいって息子のエインジェルを産んだときにウォーリーの生存が明らかになり、ウォーリーは種無し障害者になるもののキャンディと結婚して、ホーマーはエインジェルを養子と偽ってウォーリーたちと同居してときどきキャンディと隠れてセックスしながらエインジェルを育てた。15年後にローナとレズ生活をしていたメロニィがホーマーのところにやってきて、ホーマーがラーチ医師のようにならなかったことを罵倒して去っていくと、ホーマーはウォーリーとエインジェルに真実を話す決意をする。その後エインジェルが好きになったローズ・ローズが堕胎したがるものの、ラーチが死んだのでホーマーが堕胎手術をして、堕胎賛成派に考え方を変えてファズィ医師としてセント・クラウズの孤児院の後任になると、感電死したメロニィの死体が送られてきたので埋める。三人称。冒頭で主要登場人物であるホーマーとラーチの生い立ちを一章づつ書いて、主要人物の人物像を固めてから物語をじっくり展開させていて、長編としてしっかりした構成になっていて内容がわかりやすくてよい。一行空きがあまりなく、ある話題から関連する別の話題への場面転換がうまく、複数の人物が入り乱れる場面も整理されてわかりやすく書かれていてよい。農園の労働者や駅長などの脇役の生い立ちもある程度説明することで、セント・クラウズ周辺の空間的なリアリティが出ていているのはよい。個性的な脇役の描写を増やすことが全体の面白さの肉付けに寄与しているものの、そのぶん物語の展開は遅くなって、脇役たちのサイドストーリーが複線になるわけでもなく脱線気味になっていて、登場人物が死ぬことでプロットのけりをつけようとする点はご都合主義的で不満が残る。医学の知識については細部にリアリティがあり、物語内でラーチの日記が引用されることで語りの重層性が出ることでリアリティが確保され、誇張気味のエピソードでもリアリティを保ちつつ展開していて、実際あるかもしれないと思わせるような現実離れしたエピソードを展開するリアリティとユーモアのバランス感覚がよい。しかし堕胎が善か悪かという点についてのホーマーの思想の根拠や議論が掘り下げられておらず、そのうえプロット上の都合で15年を一気にすっとばしてしまって大人になったホーマーの思考の変遷を十分に描けてなく、堕胎は殺人だと思っていたホーマーがローズ・ローズの子供をあっさり堕胎する気になるのも唐突。ホーマーが堕胎や孤児院について真剣に考えていたらもっと早く堕胎賛成者側に回ってもよさそうなものだろうに、15年たってメロニィに罵倒されてラーチの死に直面しないと決断しないというのでは遅すぎて不自然で、リアリティよりも息子を絡めたプロットを優先したように見える。描写にむらがなく全編をとおして場面を濃密に描写しているのは良し悪しがあって、描写ペースが安定していて読みやすく、平坦な日常の場面にさらっとユーモアや言葉遊びを混ぜ込むのには成功しているものの、全体が均質でのっぺりしていて描写にリズム感や躍動感がなくて、悲劇や感動の演出には向いていない。よくいえば長編小説のお手本のような完成されて安定した文体で、悪く言えば物語の演出手法が地味。それからタイトルが原題「The Cider House Rules」のカタカナ化でしかないというのが残念。こういうカタカナのタイトルの小説は内容が想像しにくいし、面白くなさそうだし、個人的な体験としてはずれが多いのでなかなか読む気がおきない。それに本文では「サイダー・ハウス規則表(ルールズ)」複数形のルールズになっているのに、タイトルは単数形のルールになっているのはなぜなのかよくわからない。サイダーハウスといわれてもリンゴ絞りの作業場兼季節労働者の寮になっている建物だと知ってる人はまずいないだろうし、中盤まで読み進めないと意味を理解できないようなわかりにくいタイトルで損をしている。それから些細な瑕疵としては、上巻415ページに「ホーマーはそれまで酔っ払いを見たことがなかったので」シニアの認識力の低下がアツルハイマーによるものでなくアルコール中毒だと思ったという記述があるものの、ホーマーは10歳頃に3度目に養父母に引き取られた際の感謝祭で酔っ払った大人たちを見たことがあるので、この点で描写が矛盾している。全体としては描写の技術水準が高くて長編小説としては完成度が高いけれど、この場面が面白くて没頭したとか、この描写や比喩が好きだからもう一度読み返したいとかの印象に残る突出した魅力のようなものがない。第二次世界大戦前のアメリカで生きていた老人読者ならドライブイン式映画館とかはじめてテレビが家に来た出来事とかのノスタルジーが面白さを補ってもっと感傷的に読めたのかもしれないものの、現代日本人読者が読んでもノスタルジーがあるわけでもなく、はじめて体験する世界としてこの小説を見た際の決定的な面白さが不足している。あるいは完成度が高いがゆえにフィクション的すぎるのが不満というか、普通なキャラ立ちして魅力的になるはずの登場人物たちが個人主義の自己中心的アメリカ人すぎて鼻について、堕胎したウォリーが種無しになってホーマーとキャンディに子供が出来るという小説的なプロットがあざとく見えてしまう。作者はプロットとしての面白さをリアリティよりも優先したのだろうけれど、私にとってはリアリティのない物語はプロットがよく出来ていようがあまり面白くない。フィクションの世界の孤児院運営がうまくいってハッピーエンドになろうがそれは結局プロットをうまく書いたというだけに過ぎなくて、プロットをうまくまとめたことに対する感心はあってもプロットの都合に合わせて行動するリアリティのない人物の生死に対する感動はなく、作者がプロットを優先せずにリアリティを優先してホーマーの苦悩を書くなりして堕胎問題を真摯に追及していたら私にとってはもっと面白い小説になっていたかもしれない。いろいろ不満があるけれども私が個人的に気に入らないというだけで、エンタメとしては十分な出来栄え。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】サイダ-ハウス・ル-ル(上) [ ジョン・ア-ヴィング ]価格:786円(税込、送料込)
2014.12.25
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1959年にカンザス州ホルカム村の金持ち農家クラッター家の4人を殺害したヒコック・リチャード・ユージーン(ディック)とペリー・エドワード・スミスの犯行から絞首刑までを書いたノンフィクション。三人称で時系列順に展開する構成で、生前の被害者の様子、犯人の犯行と逃亡、捜査、逮捕、取調べ、裁判、絞首刑までが語られる。冒頭でいきなり犯人がわかるのでミステリー要素はなく、村の人が疑心暗鬼になる様子を書いても読者は犯人がわかっているのでサスペンスにならず、刑事が捜査に難航する様子は省かれてさくさく逮捕と取調べが展開するので刑事ドラマにもならず、ちゃっちゃと判決が出るので司法ドラマにもならない。展開にタメがないままあっさり場面が進行して読み応えがない。読者にとって謎はディックとペリーのどっちが一家を殺したかという点くらいしかないものの、これもすぐに自白で明らかになるので推理する余地もない。事件をまとめたレポートのような感じで、小説として面白いかというと面白くない。犯人や裁判や死刑制度について作者の意見や問題提起があるわけでもなく、作者がこのノンフィクションで何をしたかったのかがよくわからないし、他に大勢凶悪犯罪者がいる中でなぜこの二人の事件を題材として選んだのかもよくわからない。単に凶悪犯罪者の伝記を書いて常人とは異なる人間像を提示したかっただけなのだろうか。この小説の焦点がどこにあるのかよくわからないのが読み応えのなさに繋がっている。訳者あとがきによると、「徹底した取材によって膨大なデータを蓄積し、それを再構成して現実の再現に迫るというその手法」が画期的で、70年代にニュージャーナリズムとして流行ったらしい。しかしいくら手法が画期的だろうが、ノンフィクションとしての取材に時間と労力をかけようが、場面再現のための情報を提示するだけなら映画でもできるわけで、小説だからこそできること、この作者にしかできない創意工夫をやらないと物語としては面白くない。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】冷血 [ トルーマン・カポーティ ]価格:1,015円(税込、送料込)
2014.12.25
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三銃士のアラミスがルイ14世と双子の弟フィリップをすりかえようとするものの失敗して追われる話。●あらすじ秘密結社ジェズイット教団の管長アラミスが没落しつつある浪費家の大蔵大臣フーケを救うためにルイ14世と双子の弟フィリップをすりかえることを計画して、首尾よくルイ14世をバスチーユ牢獄に入れることに成功するものの、フーケが怖気づいてルイ14世を救出してしまって計画が台無しになり、謀反人となったアラミスとポルトスは逃亡し、アラミスの窮状を知ったアトスがダルタニャンを追っていくとフィリップが鉄仮面をつけて孤島に幽閉されたところだった。ダルタニャンは逃亡したフーケを捕まえたあと、孤島の要塞に逃げたアラミス討伐を命令されて王への忠誠と三銃士への友情の板ばさみになって辞職する。アラミスとポルトスは洞窟に篭って防戦し、ポルトスは岩に潰されて死亡してアラミスだけがスペインに逃げる。アトスは息子のラウールがアフリカで戦死したことを知って病死する。それから四年後、ダルタニャンは伯爵に出世して、アラミスはスペインの大使としてフランスとオランダの戦争で英仏同盟を結ぶためにスペインを中立にたたせる交渉役となって再会する。その後ダルタニャンはオランダ相手に戦果をあげて元帥になったという知らせを受けたところで戦死する。三人称。短い会話の応酬と短い描写による文体で、時代背景の説明はなく、平凡な文章の量産型エンタメ時代劇という感じ。銃士長ダルタニャンと三銃士アラミス、ポルトス、アトスが活躍するシリーズのうちの一つらしく、シリーズもののせいか人物像や人間関係の説明が省かれていて、この小説だけ読んでわかるように書かれていないので、他のシリーズを読んでいないと面白さは減る。前半はコメディ時代劇といった感じの軽い演出でリアリティや緊迫感がないし、フィリップもあっさり捕まってその後の出番がなくてプロットもそんなに面白くないし、逃げたの捕まえたの忠誠だの友情だのでうだうだして終盤になるまで三銃士の活躍の場面がなくて話が盛り上がらない。作品自体の知名度はあるものの、古典の名作というよりはふつうのエンタメという感じで、三銃士が好きというのでなければ現代にわざわざ読むほどのものでもない。作品とは関係のない話だけれど、ブックオフでこの本を中古で買ったらしおりにウチダアイコくみちょーと子分のサングラスをかけたうさぎのサブがちっ#と舌打ちしている落書きがしてあった。私もブックオフに本を売るときにはしおりに暗号とかクイズとか宝の地図とか面白そうな落書きを書いて、本の次の所有者を楽しませようと思う。大量のしおりがあまっているのだ。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】仮面の男改訂版 [ アレクサンドル・デュマ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.12.25
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アメリカの作家のショート・ショート集。2~12ページのショート・ショートで一つの場面が展開して突然終わるというものばかりで、プロットを追ったり登場人物名を覚えたりする必要もなくて読書に集中力がいらないので、気軽に読めて読書疲れしない点がよい。リアリティ重視のものと奇抜なアイデア重視のものが混ざっていて、趣味に合わない短編でもすぐ読み終わって次の作品を読めるので退屈しない。うんこ中とか移動中とか待ち合わせ中とかの数分の空き時間に暇つぶしに読むのにちょうどよい。現代だとスマホでラインとかパズドラとかして暇を潰すからこういう暇つぶし系小説はあまり流行らないだろうと思うけど、私はラインをやらないので暇を潰すのに役立った。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】Sudden fiction [ ロバ-ト・シャパ-ド ]価格:843円(税込、送料込)
2014.12.25
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ヘーゲル哲学に学びながらヘーゲル批判に転向し、キリスト教を批判してマルクスへの橋渡し的な「人間の自己疎外」思想に至ったドイツの哲学者フォイエルバッハの生涯と哲学を書いた本。私のようなヘーゲルもライプニッツも知らない阿呆な哲学初心者にはわかりづらく、かといって哲学者にとっては物足りないような紹介程度の内容しか書かれていない。フォイエルバッハの哲学の面白そうなところを抜粋・人間の自己疎外もともと人間のものであり人間の本質の現れであるものが人間から切り離されて人間の外部で人間と対立して活動をはじめて逆に人間を支配する。神は人間の自己疎外の産物。・ヨーロッパ人の不死信仰ギリシア・ローマ時代は共同生活の中に没入していたので個人の不死は考えられず、ただ国家の永続性が考えられた。中世カトリック教時代にはじめて不死が一般的な信仰となったが、カトリック教徒は教会という共同体社会にのみ本質を置いて、信者の永生を感じ取っていたので個人の不死は考えられなかった。近代は自立して孤立した個人、自己自身のみが自己の対象で、自己のみがすべてであり、本質的なもので無限的なものである個人が不死を信仰する。個人が自己の内面性において神につながるとするプロテスタンティズムにおいて、はじめて個人の不死が信仰されるようになった。・死の考察死とは現実において制限されて閉じ込められて圧迫されている自己を彼岸において純粋な絶対的なものとして回復するためのものであり、仮の死にすぎない。個人はあらゆる意味で有限的であるわけではなく、人が「精神」「理性」としてあるときはその個別性、有限性は超えられる。死はもともと生理的・物質的なものであり、感覚的な固体、個別的な存在に現れるものだが、人間は精神や理性としては普遍的存在であり、個人であることをやめて類としての人間、人類となる。したがって人間は、個人としては死すべき有限な存在であるが、類としての共同性において精神としてあるときは、不死であり永遠に生きるものとなる。個人はそれのみで充足したものでありえない。私と君の共同存在において、はじめて個人は現実的に存在する。私と君との共同を根底において支えているものが精神であり、その深く高い結合の感性化・現象化が愛にほかならず、愛は個人性と本質性の統一である。個人がただ個人としてあるところには愛はない。同様に類的本質がただ統一としてあるところにも愛はない。本質が区別を通じて個人においてあるところに愛はある。愛において私は君と共にあり、類的共同を実現する。もっぱら自己のみを対象とし自己の内面性に閉じこもり、自己の絶対性を確保しようとする個人は、個人の有限性を忘れ、自己の本質を見失った空虚な存在である。・自己保存について自然と自由、自己保存欲と自殺とは対立しない。無高速の無制限な自己保存欲などというものはない。自己保存欲はたんなる生命のみに向かうのではなく、人間が彼自身の一部分とみなすもの、自己とは切り離すことのできないものに向かうのである。愛する者にとって愛のない生は無意味である。名誉欲にもえている者にとって名誉のない生は何に値するか? ところで自己という存在がなければ、生もない。それゆえ、仮に人間が、本質的な自己・生のなかに自分が数えるものを失ったために、または失うことを怖れるために、自分の生命を断ち切るとしよう。そのとき人間は自分の自己保存欲と矛盾して行動しているのではなく一致して行動しているのである。したがって自殺はもっぱら「自愛」から起こる現象なのである。フォイエルバッハは啓蒙主義的に理性的に物事を考えて、理性と自然の法則に基づく真理と宗教の信仰を区別して、「宗教が理性によって解明されずにとどまるならば、宗教そのものは人間を無知の暗闇に陥れる」「まさに不信人者、自由思想家、一言でいって抑圧されている理性の力を再興しようと試みる者こそ、人類に正と不正、真実と虚偽、善と悪の間の区別をふたたび開示する者なのだということを認識しようではないか! 人類にとって理性の外に救いはないということを認識しようではないか!」等とキリスト教を批判して教職を追われて貧乏暮らしをしたそうな。私は無宗教の不信人な自由思想家としてこの意見に同意する。間違った宗教の上に社会が築かれてしまうと批判するほうも大変で、欧米は20世紀にようやくキリスト教の影響が薄れて理性的に物事を考えられる社会になりつつあるものの、イスラム教は相変わらず宗教の影響が強いし、イスラム教をどうやって批判して理性的な社会に変えていくかが今後数世紀にわたる人類の課題になるのだろう。そういう点ではこうした宗教批判の哲学を現代に再考する価値があるかもしれない。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】フォイエルバッハ [ 城塚登 ]価格:1,836円(税込、送料込)
2014.12.25
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表題作「堕落論」のほか、文学、天皇、戦争、日本の歴史などを論じたエッセイ集。「堕落論」は日本人の美徳とされている耐乏の精神や武士道といった精神論のごまかしや、権威だけを都合よく利用する天皇制度を批判するあたりは空襲を生き抜いた戦争当事者としての実感がこもった切実な批判となっている。武士道とかのいわゆる「健全なる道義」から堕落して生きろ、という主張には戦争批判としてだけでなく、今後の社会を示唆する先見性があり、戦後の高度成長と欧米化によって、ようやく日本人は堕落して生きられるようになったわけだ。坂口安吾の文学観に関しては、薬物中毒になった本人の人生とは違って、堕落というよりもむしろストイックな道徳観、芸術観が強調されている。以下面白そうなところを抜粋。「畢竟するに、言葉の純粋さというものは、全く一に、言葉を駆使する精神の高低に由るものであろう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言うべきものであろう(文章の練達ということは、この高い精神に付随して一生の修業を賭ける問題であるから、この際、ここでは問題とならない)。(FARCEに就て)」「美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書き尽くされなければならぬ。(日本文化私観)」「文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくてもよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとっていく苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締め出した文学などがあるものではない。(教祖の文学)」作家の高い精神から小説が生み出されるという考えは和辻哲郎と似ていて、文学に人生をかけていた昭和初期の文学者の矜持が見えてよい。しかし皮肉なことに、堕落して豊かさと快楽を求めて自由気ままに生きられるようになった現代人にはもはや坂口安吾が言うような高い精神性から生まれた文学が必要なくなってしまった。坂口安吾は日本が高度成長をする以前の1955年に亡くなり、堕落した人生の先にどういう社会になるのか、どういう文学が書かれるのかというところまでは予期していなかったのかもしれないけれども、堕落の先にある文学像について言及がないのは物足りない。坂口安吾が文学の高い精神性を主張する一方で、平成時代の文学者はというと、書く必要性があるようには思えない、歌手や演劇くずれの目立ちたがり屋が世間の注意を引こうと叫びまわるような幼稚な自己主張や、若いお嬢さんの幼稚な感性がもてはやされて、高い精神性のある作家も、一生をかけて文章の修養をしようという作家も見当たらない。先人が命がけで築いた純文学の権威を利用して、ハク付けに賞を取って社会的成功を目指すエセ作家連中もいる。あるいは高い精神性がないということを自覚している作家の自己防衛からか、意図的にくだらない小説を書いてくだらなさを現代文学としてアピールする連中もいる始末。こうした似非芸術家連中や、純文学の権威を金儲けに利用する出版社が純文学の評判を落としている。なんという醜悪、なんという堕落。坂口安吾ならこういう現代作家連中をどう批判するだろうか。あるいは逆に現代の作家から、坂口安吾が言うところの「高い精神性」から堕落するべきだという坂口安吾批判の「堕落論」が書かれるのだろうか。坂口安吾の文学論を読むにつれて現代の日本の純文学はその理想から程遠いただの金儲けのための商業出版に堕していることを考えざるをえず、純文学はもう終わっていたのだなということを再確認できた。書く必要性もなく書かれた小説を、読者が読む必要性もなくなったわけだ。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】堕落論 [ 坂口安吾 ]価格:561円(税込、送料込)
2014.12.14
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富豪刑事こと神戸大介が金持ち流の捜査方法で事件を解決する短編集。三人称。ミステリーというよりは刑事コメディっぽくて、トリックは特に面白いものではないものの、富豪刑事が捜査のために会社を作ったりするという捜査手法の奇抜さとか、秘書との恋愛要素だとか、登場人物が読者に話しかけたり事件が解決するとどこからか署長が躍り出てきたりするというプロットとは関係のない作者の遊び要素もあって、エンタメとしては楽しく読める。リアリティのなさに開き直っているような筒井らしいゆるい感じがよい。一つ気になるのが場面転換に一行空きを使わない点。何かこだわりがあるのかもしれないものの、一行空きがないままいきなり場面が変わるのは状況がわかりづらくて若干読みにくい。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】富豪刑事 [ 筒井康隆 ]価格:529円(税込、送料込)
2014.12.14
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DES、PCB、ダイオキシン、DDTなど、ホルモンを撹乱する合成化学物質の汚染による生殖異常の研究を紹介した本。「シングルヒット」「ここにも、そこにも、いたるところに」といった各章の気取ったタイトルが意味不明で、その章で何を言いたいのかわかりづらく、全体の構成が読者にわかりやすい形として整理されないまま、環境ホルモンと動物の生殖異常に関する様々な研究事例をごちゃごちゃ寄せ集めただけのように見える。普通に「PCBの影響」「環境ホルモンについて」とかの地味でわかりやすいタイトルにしたほうがましだっただろう。その研究にしても1970年代に環境ホルモンの害を発見したという研究が紹介されているものの、刊行当時の最先端の研究では新発見はあったのかどうか、DESやPCBの製造を中止した後に異常は回復したのかという点にはほとんど言及しておらず、研究書として読むにしても情報の鮮度がない。行政が問題なのか、科学企業の倫理が問題なのかという問題点を掘り下げていくジャーナリスト的視点も欠けている。科学者目線で動物に異常が起きたということを強調するものの、肝心の人間への影響への言及は少なくて、出生前にPCBにさらされると学習障害や多動症になる、出生前にエストロゲンにさらされた男性は精子が減って女性は同性愛になる、エストロゲン暴露で乳がんや前立腺がんになるというものの、その異常が一代限りなのか、回復できるのか、どの程度の汚染が問題になるのかといった読者の関心事の掘り下げが足りない。そもそも環境ホルモンの問題に限らず、人間の経済活動は自然環境に悪影響を与えているわけで、メリットとデメリットを両方考慮する必要がある。農薬を使わない大規模農業は可能なのかとか、どうすれば自然環境を保護できるのかとか、安全な代替物質はあるのかとか、テーマの多様性が乏しくて建設的な意見がほとんどないまま危険を煽って、鳥に異変が起きた、魚に異変が起きた、カエルに異変が起きた、マウスでの実験で有害だと証明された、人間についてはよくわかってないけど危ない可能性がある、人類の未来が危ないというワンパターンな主張で飽きる。ワンパターンならワンパターンでいいけれども、PCBがどうだDDTがどうだとあちこちに話題を飛ばさないで情報を整理してほしい。自己防衛の対策にしても、汚染された可能性がある魚は食うな、動物性脂肪肉はダイオキシンに汚染されてるから肉とチーズは食うな、残留農薬に気をつけて有機野菜を食え、プラスチック容器は避けろというものの、北極圏で伝統を守って暮らしてるイヌイットも汚染されてるし、結局は汚染されてない土地はなくて汚染されてない人はいないよということなので防衛策の意味があまりない。巻末に索引があるのはよいものの、読者目線が欠けていて全体の構成や章立てに気を配っておらず、一般人が興味を持って読むには不満が残る出来栄え。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】奪われし未来増補改訂版 [ シーア・コルボーン ]価格:1,512円(税込、送料込)
2014.12.07
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神経毒を出して魚の大量死を引き起こした渦鞭毛藻のフィエステリアを発見したジョアン・バークホルダー博士の研究を書いた伝記のような本。駆け出しの研究者であるバークホルダー博士が金策に奔走したり、研究を横取りしようとする共同研究者のエドワード・ノガ博士との確執があったりして、藻が魚を襲うという草が牛を襲うような常識を覆す渦鞭毛藻を発見してネイチャーに発表して有名になってそれで終わりではなく、フィエステリアが引き起こす記憶障害等の健康被害に苦しみつつ他の研究者に認めてもらうために奔走したり、研究者に健康被害がでたことで資金提供を一時停止されたり、怠慢な役人に中傷キャンペーンをされたりする苦難の連続で、未知の生物を研究する研究者の苦難の物語としてそこそこ面白く読める。他人の手柄を横取りしたがるクズ博士がぞろぞろ出てくるので、理系の人は研究者間のごたごたに共感しながら読めるんじゃなかろうか。しかし周囲の関係者がクズばかりで、バークホルダー博士が不遇すぎて読んでるほうまでうんざりしてしまって読後感はあまりよくない。冒頭でいきなり被害者のエピソードをもってきてから本題のバークホルダー博士の話に移るというB級パニック映画みたいな構成も掴みとしてはよい。かといって危険をあおるような俗っぽい展開になるわけでもなく、バークホルダー博士や助手のハワード・グラスゴーの生い立ちまで掘り下げて、細部まで取材して書いていてよい。ノガ博士のような実在の人物を名指しでクズ扱いして非難しているのもノンフィクションならではの醍醐味。バークホルダー博士の環境保護への取り組みを正当に評価して紹介するだけでなく、行政の怠慢を非難していて、アメリカの読者にとって有意義なノンフィクションとなっている。研究者向けの本ではないものの、生物学の素人には専門用語がいまいちわかりにくく、脚注もないのでその点は不親切。渦鞭毛藻類(ダイノフラゲラータ)は通称ダイノと呼ばれているという説明は一応あるものの、その一文を読み流してしまってダイノってなんだっけ?となって、説明が書いてある場所を探す羽目になって面倒くさい。この手の翻訳本で不満なのが、カタカナの名詞に対して英語のつづりをまったく表示しない点。追加の情報を探そうと思っても、カタカナの名前で検索してもほとんど情報が出てこないので英語で探す必要があるのだけれど、つづりを調べるのに手間がかかって面倒くさい。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】川が死で満ちるとき [ ロドニ-・バ-カ- ]価格:2,700円(税込、送料込)
2014.12.01
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イタリアの詩人ウンベルト・サバの故郷のトリエステを訪ねた話とその他のエッセイ。作者は自分の自身についてはあまり語らず、夫や親戚について語ることで婉曲的に自分を語っていて、一人称ながら語り手がでしゃばりすぎない按配がちょうどよく、落ち着いた語り口で読みやすい。エッセイに出てくるイタリア人たちの個性が強いので作者が控えめなくらいでバランスが取れているのだろう。人物や風景の観察眼も優れていて、作者が見たイタリアの情景や人物像がよく浮かび上がってくる。故人の思い出をしんみり語りつつ、へんてこなイタリア人の存在感もほんのりと面白い。短編小説のような、エピソードがきれいにまとまったエッセイでよい。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】トリエステの坂道 [ 須賀敦子 ]価格:529円(税込、送料込)
2014.12.01
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