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あらゆる制度には、歴史的理由があり、それを変革するにあたっては、歴史的解釈が絶対的に必要なのは言うまでもない。それを忘れた行動は、歴史の過ちを繰り返させる動力源になる。■政教分離の不可能性への態度/言説ある愚か者が「政教分離なんて不可能だ」という。アメリカだって政教分離されていないと。だが、アメリカという国の良心的な憲法学者たちはそのことを常に問題として抱えている。大切なのはそこだ。また、何よりも、「不可能に思えるからこそ必要である」のは言うまでもない。政教分離原則は歴史的教訓から現れてきた理念であり、むしろ、人類が真剣に取り組まなければ過ちを繰り返しやすいものだからこそ存在している。現実が理念と違うときに、われわれは二つの態度を採ることが可能だ。(1)不可能だと諦める。(「現実」を「証拠」として挙げながら、無理だ無理だと考える。)(2)是正の努力をする。(「現実」を良い方へ向かわせる方法を考え、実践し続ける。)なんだか一時期流行った成功哲学みたいになっちゃったが、「不可能だ」という言説は、怠慢な「思考停止」(=頭の悪いやつの態度)の言い訳にしかなっていないことは、やはり共通する真理のようだ。■歴史的制度の意義と無知的態度そもそも歴史的制度というものは、「決め事をつくっときゃなきゃ、流されちゃうから」こそ存在する。「民主主義が軍国化の歯止めになるんです。だから再軍備したって大丈夫」みたいなおバカなことを言うやつがいたが、そのおバカな政治家は、民主主義が危ういからこそ、現在の世界の政治体制が立憲民主主義に収斂しているという歴史的事実を単に知らないわけだ。また、自民党の「憲法改正プロジェクト」なんて、歴史から学ばない頭の悪いやつらの集まりであることは今さら繰り返すまでもない。■宗教の<政治性>/<抑圧性>、と近代さて、宗教。政教分離規定の根拠を、制度的保障説に求めようと、人権説に求めようと、つまり、直接的であれ間接的であれ、政教分離原則の目的が、信教の自由(ひいては、良心の自由)の保護を求めたものであることは再確認しておく必要がある。宗教というものがそれ自体政治的であり、抑圧的であるという歴史的教訓がここには含まれている。宗教というものが個に対して抑圧的に働いてきた歴史事実は、宗教の<政治性>を裏付ける。また、宗教というものは、基本的に証明できないことがらを信じることを要請することも再確認する必要がある。そのことは(それ自体が善いか悪いかではなく)、複数の宗教が存在すれば、原理的に「解り合えない」事態が創出されることを意味する。あるいは、一つの宗教が覇権をとれば、自ずと、少数派を抑圧する性質を持っていることを意味する。それゆえ、複数の宗教(良心)の勢力が拮抗しているならば、そこには「寛容」という近代の美徳が求められ、一方の宗教(良心)が少数派であるならば、そこには「良心の自由」という近代の美徳が求められる。そういうわけで、「信教の自由」が近代立憲国家においては憲法的に保障され、「政教分離原則」が近代立憲国家における主要な条件になっているのは歴史的に当然といえる。近代において最も権力を駆り集める主体である「国家」と、絶対的な性質として他者抑圧性を保持している「宗教」が結びつくというのは、最も警戒してしかるべき事柄である。■宗教と、等価ではなく原因としての、「human nature」ところで、宗教心、あるいは宗教の<政治性>の根源。以前も書いたが、われわれは他者の絶対的善意に依存して生まれる。先行的生存者たちの善意を信じなければ生きていけない。つまりは、生存のプログラムとして、まずは「他者の言うことを信じ、受け入れる」という行動指針を所与としている。だから、それが正しいか否かを判断するよりも、まず信じる。宗教という(見方によっては滑稽な)ものも、そういう人間の本性(nature)ゆえに成立し、その人間の自然(nature)ゆえに、大きな力を持つ。■宗教とpureness?、あるいは「ガキ的マインド」「素朴に信じる」というのは、「素直さ」として、美徳の一つに数えられることがある。これ自体は問題ない。問題となるのは、「素直さ」に「思考停止」が組み込まれて語られることがあることだろう。「信じる」ことを善しとするに、俺はやぶさかでないが、自己矛盾をきたす「信仰」は、あってはならない、というのは無宗教側からの批判であっても、正当な批判ではなかろうか。あまりよく考えずに「信じることにする」というのは、ガキ的マインドでしかない。これが、場合によって、「pureness」と等値されるのは、狂信と呼ばれてもしかたあるまい。■保守政治家と新興宗教宗教は、もちろん、その共同体における蓄積された歴史的叡智の伝達として働く場合もあった。たとえばユダヤ教やイスラム教は多分に共同体の自己保存のための戒律を持っている。これは、権力が多元的でない(ある意味ではホンワカとした)時代における「法」だったといえる。保守と呼ばれる者たちが、この「歴史的叡智」に過分な信頼を寄せることを求めるのは言うまでもない。保守政治家が、新興宗教を含めた、(どちらかというと、小共同体的な)宗教と結びつきやすいのもこの理由による。■「善意」とその隠された危険彼らが「善意」をいい、権力の危険に無頓着とも思える言動を採るのも、それゆえ当然ともいえるが、彼らが、それゆえにこそ、金銭や権力という俗物(あるいは偶像)に実は足元を掬われているという事実はさらに留意に値する。「善意」や「道徳」を言う者ほど、(無自覚に)権力を求め、金銭を求めている事実を、われわれは、たとえば「アベシンゾウ」などに見ることができるだろう。「愛国心」が「悪者の最後の砦である」ように、「信仰心」はときに自らのエゴを隠蔽し正当化する道具になる。この(おぞましい)融合が「天皇制靖国システム」であったことは言うまでもない。「国のため」といって自分の利益のために振る舞い者が歴史上枚挙に暇が無いように、「神のため」が信者の自己利益に働いていることは、ちょっと世を知った者なら共感できるのではなかろうか。(ところで、多くの新興宗教は、この信者の「性質」をうまく利用している。信者はその宗教的共同体内で「名誉ある地位」を得たいという「私欲」が働くため、それを「神のため/世界のため」等の言説で駆り集め、新信者の獲得等の原動力とするのが、多くの新興宗教的「マニュアル」である。新興宗教が「階層組織」となりやすいのはこの理由による。)「善意」は主観的産物である。本人はそれで良いだろうが、その「善意」に巻き込まれる<他者>はたまったものじゃない。宗教の世界はともかく、<政治>の世界は<権力>を本質として持つがゆえに絶対的に客観的な判断が必要なのである。■純粋に信じること/疑問に思うこと俺は「human nature」たる「純粋に信じる」ことを肯定する。だが、「疑問に思うこと」も必要であるのは言うまでもない。残念ながら、われわれの世は「ユートピア」ではなく、<善意>だけで成り立っていない。そうした世界では、弱き者が不正と不平等にさらされないように「疑問に思うこと」が要請される。「こども的善意」は「大人的私欲」にうまく利用されやすいことを忘れてはいけないと思う。俺は何度も繰り返しているが、「お国のため」と戦争に煽った政治家たちが、自分の子弟は徴兵逃れさせていた事実は、しっかり心に刻む必要があるだろう。最も利己的である人間は、絶対に「全体の利益」を言う。それが最も効果的に自身の目的に達することを知っているからだ。だが、われわれが本当に「全体の利益=すべての者一人一人の利益」を願うなら、「純粋に信じる」ことを求めるがゆえに「疑問に思う」ことも知らないといけない。■政教分離「純粋に信じる」は主観的世界であり、主観的世界は<他者>の主観的世界と折り合わないことがありうる。それを客観的世界とするのが<法>の領域であり、その<法>に服するのが近代の国家機構である。それは国家という<権力装置>が、「half-truth」たる者の主観的世界と融合することを防ぐためであることは言うまでもない。すべての者が「純粋に信じる」ことができる世であるためにも、政治は宗教と離れようとしなければならない。自分とは違う<他者>がいるということ。その<他者>を尊重すれば、自分の<主観>とは別に、<客観>を尊重しなければならないこと。もしかすると、長谷部恭男の言うように、これは人間の本質とは違うことなのかもしれない。だが、この世がユートピアでない以上、(これも長谷部が言うように)絶対的に<他者>尊重を基底とした立憲主義が必要なのだろう。政教分離原則が、立憲主義の根本の一つであることは、そうした理由による。
2006.08.27
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今日犬が吠えて、俺は自分が喜んでいることを知った。おやじを知らない俺は、当人の前では感情を露わにしないというおやじ的態度に憧れていて、あるいは、当人と同じように喜ぶなんていうことは無理だと思っていて、それが相手を喜ばせることであったとしても、遠慮してしまう。しかし、今日犬が吠えて、俺は自分が喜んでいることを知った。多くの人に、自分のことのように報告し、その気持ちを言葉にできない不可能性を噛み締めていた俺は、今日犬が吠えて、自分が喜んでいることを知った。
2006.08.22
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夏だけに読書感想文でも書こうかと思う。飛行機のトランスファーでえらい待たされたので、ある異国の空港で何冊か小説を読んだ。読書家じゃない俺は、今まで読んでなかった「名作」が結構あって、毎年ちょっとずつ消化してる。恐いのは、その「ちょっとずつ」が、本当にちょっとずつなので、時代と共に「名作」じゃなくなっちゃう危険があることだ。今回のはどうだろね。以下、読書感想文を載せる。ちょっと優等生チックなのを書く。高校生くらいが、こっから勝手にコピペして提出するのに適したレベルだと自分では考えてる(それ以下だったらスマン)。読み返すと、あんまり面白くない。毒がない。■■■川というものは絶えず流れ続け、刻々と変化する。しかし、それでいて同じ川であり続ける。そうして考えると、川は、人の記憶、人間関係、そして、人生そのものと例えることもできるかもしれない。人の思いは刻々と変化するが、それは大きな記憶という川として蓄えられるし、また人間関係は時々に変化しながら安定を保つ。さらに人生は日々変わりながらそれでもその人間のものである。俺がこのふたつの物語から読み取ったのは、そうした、変化しつつも一つのものであり続けるという、俺自身だったように思う。『泥の河』と『螢川』は、どちらも川を舞台にした物語である。川という舞台における、人の生死、そして出会いと別れが描かれている。どちらの物語にも共通する要素は多々あるが、何よりも特筆すべき共通点は、両方とも、その地を離れる者たちの物語という点であろう。『泥の河』では、主人公一家は新潟に行くことを決心している。『螢川』では、主人公親子は大阪に行くであろうことがほのめかされている。そうして考えると、このふたつの物語は、通過点を描いたものだといえるのかもしれない。その通過点において、大切な出会いがあり、別れがある。『泥の河』の主人公信雄は、喜一、銀子、その母と出会い、そして別れる。『螢川』の主人公竜夫は、幼馴染英子とほのかな恋愛関係を形成しながら、やがて分かれる運命にある。結果だけから言えば、何もなかったのと変わらないと言えるだろう。別れれば、物理的には後に何も残らない。出会って、別れる。ゼロだ。しかし、何の変化もなかったとしても、主人公の心に、そして読んでいる俺の心に、確かに残ったものがあるのもまた事実である。通過点。人の生は、変化するからこそ、そこに一つの確かなしるしを求めるのかもしれない。『螢川』での友人圭太の死。その前に圭太が竜夫に向けて語った言葉がそれを表している。「友情のしるしやが。……これからずっと俺たち友だちでおるちゃ。ずっと、おとなになっても、ほんとの友だちでおるちゃ。ええか?」圭太はあっけなく死ぬ。ふたりの人間関係には何も残らなかったとも言える。しかし、そのしるしがその存在を確かに竜夫の心に留める。いや、あらゆるものがそのしるしになり得るのかもしれない。圭太は父親と喧嘩し、喧嘩したまま死に至る。その後の父の姿は痛々しい。喧嘩で圭太から投げ掛けられた言葉「教養がないがや」を、ただ繰り返す。まるでその言葉だけが、亡くなった息子の存在の確かさのしるしであるかのように。人の生というのは、そうした変化にありながら、しるしをつくる活動なのかもしれない。出会いと別れ。「川」は、そうした変化しつつも同じものであり続けることを願う、「俺=人間」というものを表したものなのではなかったか。『泥の河』と『螢川』は、そうした俺自身の存在を教えてくれる作品であったように思う。
2006.08.21
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「約束を守るのは良いことだ」というのはステレオタイプでしかない。そんなことはちょっと考えればわかる。阿呆な奴が、「2ちゃんねる」なるところに、「○○を殺害する」みたいな阿呆な書き込みをしたときに、それが守られるよりも守られない方を良いと思うのは当然の感覚だ(これは約束じゃないって?公約だって似たようなもんでしょ)。小泉は、国債を(30兆円以内に押さえると言っていたのに)36兆円発行したことについては、「大したことない」と嘯いた。8月15日に「靖国」に参拝するというのは、彼にとっては国債漬け国家にするよりも大したことだったらしい。約束を守るのがいいとか悪いとかじゃなくて、そんな価値判断をしてしまう奴が首相だってのが驚きだし、それを支持する阿呆が多いことに驚愕する。「心の問題」。結構なことだ。だが、心の問題なら、心の問題らしく片付けるべきじゃないかね。予め、プレスにリリースし、報道カメラの前でやる必要はない。心の問題らしく、朝5時くらいにひっそり行けばよかったじゃない。小泉はしらばっくれながら、政治の問題にしているわけだ。こういうのを嘘つきという。「心の問題」を「政治の問題」と混合した時点で、これは政教分離規定に抵触している。当然のことだ。これは簡単に言うところの「憲法の問題」じゃない。「憲法」が警鐘を鳴らしてくれている「歴史の問題」である。頭の悪い小泉は(意図的に?)これを混同して語っている。うんこな奴だ。何度も書いたが、戦時中「靖国システム」は、「国家カルト」として連合国から捉えられていた。お国のために死ぬ人間をつくる「洗脳装置」として理解されていたわけだ。この装置においては、人命はまさに「鴻毛より軽し」なわけだ。ちゃんとした国家として、「靖国」を清算するときなはずだ。今「参拝」を支持するというのは、「靖国システム」を肯定しているのに等しい。戦前回帰か。加藤紘一議員の自宅への放火は「テロ」だ。これは「血盟団事件」のパロディか?こうして歴史は繰り返される。パロディとして。しかし、どうやったらこの円環から脱却できるんだろ?
2006.08.21
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「10月の衆院補選、来年の統一地方選、参院選。一連の選挙に勝たないと、政策をいくら掲げても実行に移せない」これは麻生「けつの穴」外相のお言葉である。なるほど、消費税について言いたくないのだろう。それを脳みそカラポの安倍のように、ノラリクラリと態度を曖昧にするよりかは、頭が悪いことを示した「けつの穴」殿の方がマシともいえるが、それでも酷い認識であることは言うまでもない。「けつの穴」殿にとっては、「選挙で勝つこと」と「政策を実行すること」がまったく別次元のものなのである。簡単に言い換えれば、「勝てば、後は勝手にやれる」と言っているに等しい。まあ、そういうのを正直に言うところが、ひた隠しにする脳みそカラポの安倍よりも微笑ましいといえるが、「けつの穴」殿と「脳みそカラポ」殿のおふたりの認識は、やはり、世襲議員らしく、空恐ろしい。ご存知だと思うが、この国の主権者は国民である。しかし、「けつの穴」殿の発言と「脳みそカラポ」殿の本心とは、このことを意図的に無視している。主権者には、政策に関することは内緒にしておいて、とにかくまずは、俺を選んでください、という。御前会議での天皇のお気持ちがいかようであったかがわかりますなぁ(笑)。おい、「けつの穴」! お前がどんなことするのか、まずはっきり示せ。おい、「脳みそカラポ」! お前がどんなことするのか、まずはっきり示せ。おい、「アホ主権者」! 政治家にバカにされていることに、いい加減気付け!久しぶりの、暴力的なこの国の湿気が、俺をイライラさせている。
2006.08.21
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