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NHK教育でやっている「視点・論点」は「とんでも知識人」も出たりするが、まあ総じておもしろい。最近では、マイケル・プロンコ「Tシャツの季節」がおもしろく印象に残った。プロンコ氏、Tシャツにプリントされた文字に注目する。短いセンテンスや語は確かに印象的で、俺に影響してくるし、ハッと気付かせたりするし、時に俺を変えたりする。その意味で、ある種の<詩>であるとすらいえる。プロンコ氏は、そこにちょっとした分類を試みていて、着てる人間が本当にそこまで考えているかなぁというような「深読み解釈」も入れたりしていて、なかなか興味深かった。確かに、意味もわからず買う場合もあるだろうが、たいていそのセンテンスなり語を気に入って買うのだろうから、「Tシャツはメッセージを持っている」というプロンコ氏の主張は頷ける。それは着る者の自己解釈であり、自己紹介の様相を帯びているといえるかもしれない。性的意味の込められた「High Performance」や、「粗大ゴミ」なんてのもある種の自己主張(笑)、なるほど。そうした個人的なものとは他に、ある種のイデオロギーとして分類されているものの中におもしろいものがあった。つまりは、俺に<詩>的に訴えるものがあった。<詩>っていうのは、プラトン言うところの「マグネシアの石」、つまり磁力である。どっちからどっちへというよりも、互いにある性質を共有するから反響するものなのかもしれない。ともかく、おもしろかったものを(若干、うろ覚えだが)。「sentenced to life in the world」この世という終身刑に処せられている「Protest and Survive」抵抗し、生き残れこんなTシャツかー、と思った。俺はあまりTシャツを着ないのだが、ちょっと今年は買おうかとさえ思った。プロンコ氏の言葉自体が俺に詩的に響いた。俺が功利主義の最大の弱点だと思っているのは、個人が真に独立して選好を持つことなど不可能だという事実による。しかし、それでいて俺は自由主義者を自任している。個人の自由を大切な徳目だと考えている。そうした理解を総合するとき、ある側面においては、自由とは常に抵抗でしかありえないのではという考えも成立する。二項対立というのは常に力を持つ。政治的メッセージを持つ。全く逆のことが同じ意味をもったりする。これが二項対立の力だ。言葉の力と言ってもいい。デカルトが、「コギト」を語ったとき、それは、伝統的な「我在り、故に我思う」を「我思う、故に我在り」に転倒した語りであった。それが大きな力を持った。俺は今、デカルトになんか及びもつかないが(出して失敗…笑)、ガンディを転倒しよう。「服従、抵抗」俺らは絶対的に服従させられた存在だ。自分のアイデンティティ(=桎梏)からそう簡単に逃げられない。しかし、抵抗はできる。この抵抗は、全方位を向く。俺自身に対してさえも。ゲバラに真似て言えば(苦笑)、「抵抗は、女を愛することに似ている」
2006.07.27
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前回の「国防」がらみでひとつ。以下、アマルティア・セン『人間の安全保障』(集英社新書)よりですから、〈人間の安全保障〉の概念には、少なくとも次の要素がきちんと含まれる必要があると言えるでしょう。一、「個々の人間の生活」に、しっかり重点をおくこと(たとえば、「安全保障」を軍事的な意味に解釈しようとする「国家の安全保障」という、専門官僚的な概念とは対照的に)。二、人間が、より安全に暮らせるようにするうえで、「社会および社会的取り決めのはたす役割」を重視すること(一部の宗教で強調されるような、個々の人間の苦境と救済を社会とは切り離したかたちで考えようとはせずに)。三、全般的な自由の拡大よりも、人間の生活が「不利益をこうむるリスク」に焦点を絞ること(〈人間的発展human development〉〔人間としての自由を高め、潜在能力を身につけそれを活用できること〕を推進する広義の目標とは対照的に)。四、「より基本的な」人権(人権全般にではなく)を強調し、「不利益」に特に関心を向けること。(pp.23-24)「人間の安全保障」は、「国家の安全保障」ではないこと。「人間の安全保障」は、社会的レベルで克服を目指さなければならないこと。「人間の安全保障」は、現にある不利益に対して敏感でなければならず、そこにこそ焦点を絞るべきこと。こうした活動の方が、ずっと、紛争の危険を減らしてくれるだろう。
2006.07.18
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ええと、「Under the Sun」というサイトがあることはもちろん以前から知っていて、ちょくちょく見に行っている。ただ、ちょっとサイトの詳しい見方がわからないし、参加されてる人たちが、なんというか「Under the Sun」な人たちなので、日陰者の俺は、「全うだなぁ」と思って感心だけすることにしている。さて、まあ、ともかく、アンケートをとるというので(正直、これはアンケートなのかわからないのだけれど)、こういうのには加わってみようかと、ちょっと思ったわけです。はい。■アンケート質問:あなたが考える、この先、日本がとるべき国防の方向は?1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではない2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はない4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべし6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべき7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要がある8.その他■回答さて、こういうのはいきなりちゃんと俺の回答を示すべきなのだろうが、ちょっとぴったりくるのがない(というか、選択肢が並列の関係になっていない気もするわけで)。じゃ、【8】ってことになるのか。しかし、アンケート嫌いの俺が、これに回答しようと思ったのは、ひとつの数量に変換されるためではないことは言うまでもない(そして、回答者のほとんどがそうだろうし)。というか、出題者の意図は、「しっかり考えること」にあるわけで、この意図はなかなか良い線を衝いていると思う。というわけで、まずは、ひとつひとつ選択肢を吟味することにする。■1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではないこれを選びたくなる人がいるのもわかる。しかし、この選択肢には、決定的な問題点がある。それは、主体がはっきりしていないことだ。「日本国は」なのか、「私は」なのかがはっきりしていない。俺などは、全員が同じ行動をとるということの方が怖いことだと思っていて、これを選んだ方々は、レジスタンスのような活動をどのように捉えるのだろうか、という疑問がどうしても生じてしまう。非武装といっても、火炎瓶だって抵抗の道具だし、個的なレベルでの「抵抗」はありうるのじゃないかと思ってしまう。現に、現状の政治批判をする活動だって、ひとつの「抵抗」であって、言語を使った「抵抗」もあるだろう。これをガンジー的なものと関連させようというのがあり得るような気がするが、以前、「伊勢崎賢治「インド論批判の巻」(1)(2)」で書いたように、ガンジーって言ったって、政治的であって、そんなに簡単な選択肢ではないのは言うまでもない。ガンジーと、ガンジーに従った人たちを混同してはいけないと思う。そこにも権力性は生じているわけで。■2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではないこの回答の問題点は、意味が曖昧だということだ。曖昧さのレベルは、何も言ってないに等しいところにまで行ってしまっている。近代の戦争において、侵攻と防衛をどのように線引くのか、は大変難しい問題だ。この回答を選ぶ人たちは絶対に「同床異夢」的になってしまう危惧がある。そもそも、政治的なレベルにおいて、防衛をどの程度で満足するものと認めるのかは、はっきりするような性質の問いではない。また、攻撃は行うべきではない、というスローガンは、時の政府次第でいかようにも曲げられてしまう。侵攻というものが、どのような状態なのか、ミサイルが飛んでくるのか、まさか人が攻めてくるのか、なんか曖昧なイメージで考えられている感が否めない。まあ、もちろん、出題者の意図は、そういうことを考えさせることにあるのだろうけど。■3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はないこれは、以上の【1】【2】の選択肢と並存しうる選択肢だ。問題は、この「現状を変更する必要はない」という見解が、ただの「思考停止」の可能性も保持してしまうことにある。そもそも、「専守防衛は現在でも可能」というのは、アンケートをとったところで神学論争的なものにしかなりえない。防衛は可能なのは当然だ。それがどのレベルにおいて「成功」すると捉えるかが大切だろう。その点が曖昧なので、選びにくい。現状維持では、おかしなプロパガンダにかかって、狂衆が現れる可能性もありうる。選択が常に政治的行為であるということを認識する者には、絶対に選べない選択肢に思えてしょうがない。■4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし俺は、意外にこの選択肢は「あり」だと思っている。この選択肢を選べば、どれくらいの武装が必要なのか、と考えることになるだろう。現状のような、「不能犯」北朝鮮に、過大な恐怖を抱かないで済む冷静な議論ができるかもしれないと期待もしてしまう。まあただ、これも防衛と侵攻を簡単に見分けられるというナイーヴな信仰があるように思えてならないし、頭を使わないでこれを選んでるとすると、パラノイア気質があると思われてもしょうがないんじゃないかと思う(パラノイアについては【6】)。■5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべしこれは、【4】に憲法改正を付け足したものだが、はっきり言って蛇足。というか、これは選びにくい。憲法改正したい理由ってのは、攻めることのできる国になりたい以外に考えられないわけで。憲法改正と防衛論が絡むと面倒くさいので、これはパス。憲法改正に関しては、違う論議が必要で、このふたつを合わせて議論しようとする人間は、確実におかしな宗教を信じているのに近い、なんらかの信仰心を持っているにちがいない。あるいは、アメリカの言いなりを求めるのもこの選択肢だな。集団的自衛権で、アメリカ軍の前線で世界中どこでも戦いますの宣言かもしれない。俺には選べない。■6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべきこれは笑える選択肢だ。たぶんに、笑おうと思ってつくった選択肢だとういうことが理解できる。言うまでもないことだが、「危険」ってことを、誰が、いかなる基準で、判断するかが明確になっていないおかしな選択肢だといえる。パラノイアが、隣の家に住んでいる人に対して、「こいつが俺を殺そうとしている」と言って攻め込むようなものだ。こういう考えを思いついちゃう奴の頭の方が、「危険」であるのは言うまでもない。ただ、【3】【4】だって、その傾向が無しとはいえないだろう。■7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要があるこれを選ぶのは、まともな頭をもっている人間に限れば、軍事産業の役員くらい、ということができると思う。ただ、この選択肢は優れている。アメリカという国が、ペンタゴンに牛耳られて、戦争を起こさなければならない「戦争依存症」になっていることへのパロディにも読める選択肢だ。日本もこういう路を進みますか?って。で、そう考えると、【4】【5】【6】がこの路へ連なっていると気付くのも、選択肢的エスプリが効いている。出題者の勝ちかな。■総合すると一番危険なのは、何も言っていない【3】じゃないかという気がしないでもない。これは出題者の意図を逃れている気がしてならない。俺としては、こうした問いを考えるにあたっては、もっと「統治のテクノロジー」についての豊穣な議論が必要ではないかと考えている。侵略されました、それで? じゃ、その国は、どうやって統治するのだろう? という。統治するには、絶対に非侵略側にもオルガナイザーが必要であって、これはもはや政治的議論なのはずだ。攻めた、攻め込まれた、でことは終わらないことくらい、国の指導者たちはわかっている。彼らはちゃんとした利害計算をしてるわけだ。また、国際社会だって、裸のパワーポリティクスではありえないわけで、攻め込むにはそれなりの根回しが必要。じゃなきゃ、持続可能な侵略なんてできない。気が狂ってなきゃ攻めてこれない。気が狂ってる国に対して? それはもはや、パラノイア気質を疑った方がいい。軍備を増強したって、気が狂ってりゃ攻めてくるでしょ?そういうことを、もっと真剣に考えるべきじゃないかと思う。じゃないと、愚かな民たちのお茶の間議論にしかならないだろう。ちょい蛇足。拷問されたらどうするか? という個的な問いもあった。しかし、現在こういう拷問を一番多くやっているのは、確実に米軍だ。われわれはアメリカを仮想的として軍備増強する、なんて考えつくのかね?なんでアメリカは、そういう「危険」の想定に入っていないのだろう。入っているとすれば、むしろ、まともなやつは軍備増強の選択肢なんて考えないだろう。■結論てなわけで結論。俺の考える国防の方向は、何もしない。ただし、国防ではなくて、利害関係のある個人レベルにおいては、いろんなことに「抵抗」する。「闘争」する。これだ。これは、侵略国に対してだけでなく、為政者に対してだってそう。国というところにアイデンティティを置かないで済むような方向に進めることが、国対国という最も危険な選択肢を消滅させるという意味で、優れた作戦になるのじゃないかと思う。近代に入って、国民国家化し、アイデンティティを国に置くおバカな「国民」たちが現れたために、合理的な利害計算を超えた狂気の戦争まで行く可能性が出てきてしまう。そういうのを防ぐ方向こそ、本当の国防だろうと思う。■蛇足さて、蛇足だが、こういう回答行為自体が政治的な行為であるということは知っておかなければいけないと思う。そして、情報が非対称なまま、いろいろな憶測が飛び交うというのは問題だ。大切なのは、事実を共有することであって、そのような目的に資していたかが、このアンケート企画の成否の判断基準になるだろう。以前書いた関連記事「自由、あるいは権力、そして民主主義への迂回戦略」
2006.07.18
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俺が掲題のことに気付いたのは、もう一昔前、ひょんなきっかけで米軍に知り合いを持って、米軍基地内の新聞を見たときからだった。それまでは、その辺にいるナイーヴな人間とそれほど変わらなかったと思う。ウンコなテレビとウンコな新聞をメインの情報ソースとして、わかったようなことをネットで喚き立てるお子様たちと、それほど変わらなかったように思う。まあ、彼らは正しいことを求めているわけではなくて、誰かに何かを聞いて欲しいわけで、その辺の動機においては、当時の俺はもう少しマシだった気はするけれども。しかし、なんで情報がわれわれまで届かないのか、って考えれば、簡単な話で、経済至上主義に巻き込まれたうんこメディアが、金銭至上主義社会における「強者」に頭が上がらないからに他ならない。この国はまたもや財閥化と政財癒着が結構堂々と進んでいて、「5・15」の歴史的パロディがそのうち起こるんじゃないかとさえ思える。この辺の構造の話については、また今度詳しく書くとして、今日は、いくらか紹介。「トヨタの労働者の声はニュースにはならない~なら新車情報もニュースにすんな!」(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)景気回復? 誰の損の上にわれわれは得をしているんでしょうかね。「イスラエル支援企業リスト」(パレスチナ情報センター)ミサイルが怖いなら、多少はパレスチナの人たちにだって共感できるはずだよな。国際平和を脅かしているのはイスラエル(=アメリカ)じゃないかね。ちょっと急用にて、ここまで。ええと、この世界は、人の命より金儲け主義者たちに牛耳られてるのかねぇ。
2006.07.18
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われわれは現状を見るとき、「公正さ」ということの存在を疑う。それで、「そんなものは無い」なんて言ってみたりもするのだが、もちろん、否定している時点で、その人も実は存在を認めているわけだ(否定というのは存在の抹消ではなく、保存だ)。まあ、ともかく、日米の国際法学者たちが、「民衆法廷」において、トルーマンらに有罪判決を下した。画期的なことだ。確かに、現状は、力あるものが法を支配しているように見えるかもしれない。しかし、それは吟味されうるものだということが示されている。あるいは、かつてトクヴィルが述べたように、法律を決めた者たちにも、その拘束力は働くという「法のダイナミズム」が示されている。民衆法廷は、公正さへのわれわれの歩みをエンパワーしてくれるものになるかもしれない。原爆法廷:トルーマン米元大統領らに「有罪」 広島 原爆投下の犯罪性を追及し、核兵器廃絶運動を進めるため、被爆者らが広島市中区の原爆資料館で開いていた「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」は16日、判決要旨を発表した。日米の国際法学者らによる「判事団」は「原爆の破壊的な威力を知りながら市民を狙って攻撃したのは、国際法に反し人道に対する罪にあたる」などとして、米国のトルーマン大統領(当時)や原爆投下に関与した米将官ら15人全員に有罪を言い渡した。また、米政府に対して、すべての被爆者への謝罪・賠償や核兵器廃絶のため努力をするよう勧告した。(毎日新聞)
2006.07.16
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テロって言葉はもともと、恐怖政治のことで、フランス革命後の「テロル政治」が語源であって、本来のテロ主体であるべき政府側が「テロ」とプロパガンダするのはどうかと思ってるのだが、それはまあともかく、現在における「テロ」は相対的弱者による攻撃だと言ってしまって良いのではないかと思う。相対的弱者といえば、北朝鮮という国が相当の弱小国であることは前回述べた。先日、ガラパゴスさんの記事で「ショッカーの狙い」について書かれていたが、今のメディアがショッカーのような役割をしているという指摘、そして北朝鮮がショッカー的であるというコメント欄のやりとりは、たいへんに興味深かった。メディアのショッカー的役割といえば、どうしてもチョムスキーの指摘を考えてしまう。メディアが政府のプロパガンダを支援するという構造は、決して過去のものではない。権力を監視するはずのメディアが、権力を支えようとするというのは、笑い話にもならない。現状のメディアこそ、テロリストだといってなんか問題があるのだろうか?まあ、しかし、『戦争の克服』で、阿部浩己氏は、俺と同じ問題意識を持ったチューサン階級森巣博氏の「ジャーナリズムの責任無自覚がバカな時代を誘導している」という発言に対し、「良心的なジャーナリストや裁判官を応援することを提案したい」「彼らを孤立させてはいけない」と素晴らしい提案をされているので、俺も批判はここまでにしようか。先に挙げた、ガラパゴスさんの記事のコメント欄のやりとりで、北朝鮮が拉致をするというのは貧しい国の表れだという、指摘があった。金を持っているCIAなら、そんなことをする必要がないと。むべなるかな。■毒殺毒殺は歴史的に、弱者による暗殺方法だった。大きな構造的抑圧があれば、弱者は何らかの手段に頼らざるを得ない。その際に、大きな権力によって我が儘に振る舞える強者と違って、その社会構造において抑圧される者は〈卑怯な〉手段を採らざるを得ない可能性は高い。守られた生活、守られた位置から、「でも、良くないことは良くない」なんてナイーブな発言は簡単だ。だが、大切なのは、非対称性だろう。強者は、毒殺なんかしなくたって、正当な振りをして他者を葬り去ることはできる。同じような残虐な活動をしてたって、強者のやっていることはメディアには映らない。先日アフガニスタンの米兵が、捕虜収容施設で、二人を殺した罪で起訴されたが、そういう風に表立つのはごく一部だし、何よりも、そのような人を殺すほどの拷問が日常茶飯に行われているということを、この国のナイーブなお茶の間族たちは知らない。■テロ批判の水準もちろん、俺がテロや拉致や毒殺を容認されていると思われたら困る。そんなの無くなった方がいいに決まっている。ただ、相対的に言うのは正当なことだと思うのだが、それが無くなった方がいいというのは、アメリカが酷い振る舞いをすることが無くなった方がいいというのと同じレベルにおいてであることは言うまでもない。アメリカのやっていることを批判せずに、北朝鮮を嫌うというのは、思考回路にちょっと欠陥があるからこそできる行為であるはずだ。■対応しかし、それとは別に、俺が疑っているのは、テロを非難するやつらは、テロを呼び込むことを敢えてやっているように思えてならないってことだ。敢えてテロが起こるようにすれば、新しく軍備を進めることも可能な世論になりやすいし、国民保護法みたいな統治のための法律を通すことも容易になる。そういう理由から、テロが起きて欲しいと考えているやつはいるはずだ。北朝鮮を煽って、得する政治家がいるように。本来、毒殺と同じで、テロを力で防ごうとしたって、根源的に無理がある。大切なのは、なぜテロが起こるのかという分析のもと、テロが起きないようにする努力であって、起こるテロを防ぐようにと、軍備を進めることではないはずだ。テロのおかげで軍事産業が儲かるなんてのは、シャレにならない。■弱者に住みにくい社会は、強者にも住みにくい俺は、強者というのは、相対的弱者なんだと思う。強者―弱者のカテゴリで思考し、強者カテゴリに入りたいと考えているようなやつらは、その構造から逃れられない本物の〈弱者〉なんだと思う。弱者に住みにくい社会は、実は強者にも住みにくい。起こったことに対して憤り、相手にレッテルを貼り、憎悪する。という行動はよくあることだが、そこで、ちょっとだけ、なぜこれが起こったのか?と考えられるだけの余裕は欲しいものだ。じゃなきゃ、ただのアホウどもの競争社会にしかなりえない。そんな世の中、住みにくくてたまらない。
2006.07.11
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いきなりだが、ゾンビ映画というのはなかなか怖い。怖さのポイントは、人間なのに自律的判断をしなくなるという事なのではないかと思う。ゾンビは、他のホラー映画とある重要な点で一線を画する。それは、ゾンビが増殖するということ。襲われるとゾンビ化するということ。おそらく、その「集団化」が怖い。「没個性」が怖い。それ以前のホラーは、フランケンシュタインやドラキュラなど「個性」があった。考えなくなること。集団として考えなくなること。ゾンビは、そのグロテスクさの表象のように思えてならない。■ゾンビを/に煽る今回の北朝鮮によるミサイル発射実験は、メディアによってこれでもかとばかりに何の実質的役にも立たない空虚な情報が流され続けているが、これはゾンビへの餌付けにも似ている。外務省によると、北朝鮮の国民一人当たりのGNIは914ドル(2004年)。国家規模では208億ドル(それで16億ドルの軍事費を使っている)。ちなみに、韓国は、国民一人当たりGNIが14,162ドル(同年)であって、GDPはおよそ8000億ドル、国防費は184億ドル。国防費が北朝鮮の経済規模に近い。はっきりいって、北朝鮮はもはや国の体を為しているといい難い。韓国がなにゆえ北朝鮮に対して「太陽政策」を採ったかといえば、簡単なことで、国として自滅するときに、なるべくソフトな形で、体制移行をさせたいからに他ならない。潰れる前に、線香花火の最後のように、核ミサイルを打ってくる形を避けたいからに他ならない。だから、核をつくらせずにゆったりと、「病状」を進行させるような形を目指していたわけだ。しかし、この国(NIPHON国)の一部の政治家たちは、国内政治のために「北朝鮮」を利用し、まるでミサイル一発くらい飛んでくることを期待しているようにも見える。核を持たせ、国内の危機感を徒に煽りたいように見える。■北朝鮮との外交政治の表舞台とは別に、北朝鮮が、多くの点で外交努力をしていることはよく知られている。小泉の最初の訪朝にもシナリオがあり、そのシナリオにおいて「日朝平壌宣言」が合意された。これは非常に未来志向の宣言で、政治的リーダーシップが発揮された宣言だったと思う(外務省サイト参照)。拉致の問題は北朝鮮にとっても非常に難しい問題で、秘密工作機関が多くを明らかにすることができないために北朝鮮政府も把握が困難であり、これにこだわると、どうしても前に進めない。こういう事情がまずある。小泉訪朝当時は、そうした事情を汲み取った日本側が日朝合同の「合同調査委員会」を提案し、これが通りそうだったという事実が次にある。しかし、これが潰れた。それは実は、日本側の事情で、「救う会」が強く反対したからだった。日本側が拉致被害者の問題を調査するのに加わることになぜ反対したのかといえば、その調査委員会の出す結論が怖かったからに他ならない。日本政府が絡んだ調査委員会が、みんな死んでいました、と結論するのが怖かったからに他ならない。政治的決着を嫌ったということもできる。それで日朝両政府は可能なラインを模索し、北朝鮮は、拉致被害者帰国というカードを切った。北朝鮮政府としてそのときできる最大の譲歩だった。だが、それに対して、日本側からの歩み寄りがなかったことが、問題を拗れさせた。日本の方では、言うまでもなく、こうした事情を知らない世論の問題があった。■後ろ向きな志向後ろ向きな志向というのは、未来を壊す場合がある。もちろん、許せる行為でないことは間違いない。しかしながら、大切なのは、その感情をどのように合理的に解消していくかということであり、それを政治家は真剣に考えなければならない。そういう点においてリーダーシップを発揮しなければならない。こういう視点は、本当に昨今の死刑論議と似ているが、まさか、北朝鮮みたいな「窮鼠」に対して、抑止力を言えるわけもあるまい。■なぜゾンビを/に煽るのか?今回のミサイルの件で得したのはアベシンゾウであるのは間違いない。福田と阿部の違いは、外交姿勢において対照させられていたわけで。ミサイルを発射するように仕向けたのは、ここ数年のアベシンゾウが主導する国内世論だったともいえる(ここ数ヶ月のアベシンゾウが頼んだという線については後述)。北朝鮮が次なる外交カードをつくりにかかるのは、ある見方からすれば、当然ともいえる。茶番である。外交問題を国内世論の誘導に使っている。ミサイルが飛んでくる危険を冒してでも、とにかく、自分が選ばれることが大切。あんなに弱い国に経済制裁を行えば、窮鼠化させる危険があることくらい誰でもわかる。だが、いくらかの国民の生命よりも、自分が首相になることの方が大切なのである。■もっとグロテスクな可能性いや、ちょっと待て。もしかすると、アベシンゾウはミサイルが飛んでこないことを「知って」いるのかもしれない。アベシンゾウと統一協会、そして金正日の三角関係の疑惑というのがあった。アベシンゾウが金正日を利用し、金正日はアベシンゾウを利用する。お互いに、国内を纏めるために煽りあう。だが、裏では繋がっている。こういうことは、あの三角関係を知ったいまでは、十分に考えうる。もしそうであれば、アベシンゾウのメッセージは、常に国内向けであり、やつは北朝鮮に対してではなく、国民に向けて「外交」しているといえる。■ゾンビ国民はいろんな感情を爆発させるのだが、まるで誰かに計算されているようにきっちりと規律だった感情爆発をさせる。視聴率という数字が絡み、新自由主義が絡み、誰かが計算したように、そして、自分は考えていると思っていると信じながら、ある方向に感情を働かせる。構造がグロテスクだ。自分で考えていると思っているゾンビと、それを利用する政治家。次世代のこととか平和とか、人間の尊厳とか、そういう甘いことを言うなと。今、俺が良ければいいんだと。さすが、売国奴岸信介の孫。
2006.07.08
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標準時計偉大なひとたちにとっては、完成された作品よりも、生涯をつうじてそのための仕事が続く断片のほうが、いっそう重要である。じじつ、完結させることに無類の喜びを覚え、これでまた自分の生活に戻れたなどと思う者は、かれらよりも弱い、ほうけた人間にすぎない。天才にあっては、重大な運命の打撃であれ穏やかな眠りであれ、仕事の中断はことごとく、工房の熱気そのものに転換される。そしてかれの断片で輪廓が示されるのは、かれを捉えて離さぬその工房の広がりなのだ。「天才とは持続する熱気である。」またベンヤミン。これを読んで思ったのは、ピカソだった。ピカソが妻ジャクリーヌを画き続けたことを思った。そういえば、ピカソは芸術を闘牛にたとえていて、「完成は死」みたいなことを言っていた。しかし、持続する熱気とは、どのような条件で可能になるのだろうか。天才にしか可能にならないのだとしたら、この問いはその時点で死んでいる問いなのだけれど。
2006.07.04
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ガソリンスタンド生活をかたちづくる力をもつものは、目下、信念であるよりも遥かに、事実の数かずである。しかも、それらの事実は、これまでほとんど一度も、そしてどこでも、信念の根拠となったことがないようなものなのだ。こういう状況では、真の文学活動は、文学の枠内におさまりかえってはいられない。枠からはみださぬ文学などは、むしろ、みずからの無効性のありきたりの表出にすぎない。文学の有意義な作用は、行為することと書くこととの厳しい交流がなされるところにのみ、成立しうる。それは、共同生活のなかで影響力を及ぼすのに、普遍性をよそおったもったいぶった書物などよりもずっと適しているような、つつましい諸形態を、ビラやパンフレット、雑誌論文やポスターのかたちで、育成しなければならぬ。この種の応変の言葉だけが、現時点に有効に対処することができる。意見は、社会生活という巨大な機構にとって、機械にとってのオイルにあたる。ひとは、タービンの前に立って機械油を浴びせたりはしない。隠されたリベットや継ぎめに、少量のオイルをさすものである。そのリベットや継ぎめを、ひとは熟知していなくてはならない。本棚の奥で人目を憚っていたベンヤミンを読もうと思ったのは、先日紹介した『戦争の克服』がおもしろかったから。真打の「暴力批判論」はまたにして、今日は、芸術論っぽいところを。いや、これは芸術論なのか? 芸術論と政治論はどれだけ違うというのか?とにかく、思ったことを言おう。これはベンヤミンとは関係ない。定義を超え続ける活動、それこそ芸術と呼ばれうる。
2006.07.03
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ひと昔前、ザ・イエローモンキーが「JAM」という曲で、あの偉い発明家も 凶悪な犯罪者も みんな昔 こどもだってねと歌った。■■■「ひどい幼少期」というは同情を誘うもので、けっこう皆その影響をわかっている。そこには、人間はその性格でさえ自分で選んだものではないという、真理が見られている。性格の核が形成される時期に、自分に対して為しえることは皆無に等しい。「あいつには反省がない」というが、反省しない性格を自分が選んだわけじゃない。■■■だから、ある犯罪者を悪人にするためには、そのあたりの事情は捨象して報告すればいい。■■■事情を知らない人間は、簡単に他人事主義者になる。■■■性格というのは、偶然の折り重なりで、例えば、aの因子を持っている人間にはx,yというふたつの性格変革のチャンスが現前し得、bの因子をもっている人間にはs,tというふたつの性格変革のチャンスが現前し得る、といったことは容易に考えられないだろうか。つまり、生まれてから得られる因子としてわれわれはaかbかを選べない。そして、もしaを持ったら、それゆえに、s,tという選択肢が人生において見えず(つまり〈不可視〉で)、x,yから選ばねばならないということになる可能性は多々ある。そして、xを選べば、yを選んだときとは違う選択肢が現前し、という風に、われわれは常にすべての選択肢から選べていたわけではないはずだ。そしてそれぞれの選択は、そのときどきの他者との関わりに影響される。「酷い幼少期だったとしてもまともなやつはいる」なんて頭の悪い発言は、こうした性格形成の偶然の連なりというものを、全くわかっていないから出てくるわけだ。■■■面倒臭いことを言ってしまった。生まれつき悪ってあるのだろうか。■■■恐らく、われわれは、この「生まれつきの悪」ということを信じていないのじゃないかと思う。多分に偶然に、多分に他者依存的に、われわれの「悪」は育まれる。■■■そういう立場の俺たちは、いつから「悪」を請け負う主体になったのだろう。■■■われわれの社会は、自分たちで育んで、刈り取る、ということをする社会なのだろうか。■■■アーレントは、人間の力(徳)として、「赦し」を言っていた。「赦し」こそ、人間の力であるというのは、救いのあることだと思う。
2006.07.01
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原子力政策の問題は他人事ではない。われわれがどういう国に住みたいか、どういう未来を次の世代に残したいかという構想と切り離せない。われわれがほんの少しであれ、前向きで未来志向な考えをするのであれば、エネルギー政策に関しても、まず一歩を今踏み出さないといけない。すべては放っておいて失敗する。というわけで、「STOP!再処理 ネットワーキング」情報。坂本龍一氏が六ヶ所村再処理工場の操業停止を求める署名を行っている。趣旨にご賛同された方は、是非ご署名ください。
2006.07.01
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