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以前、「本に溺れたい」のrenqing氏が「communicability(伝わりうること)とvulnerablity(傷つきうること)」という記事を書かれていた。実は、俺も似たような問題意識を持っていたので、これを見たときは正直驚いた。(まあしかし、以前俺がヴァルネラビリティに絡めて「むらかみはるき」を書いたときも、氏はすぐに、それ以前に書れていたH・L・A・ハートに関する記事をTBされたし、そもそもの問題関心が近いのだろう。)「communicability」という語で検索をかけると、結構なサイトにヒットするが、これを(俺が考えるところの)語の正しい意味で使っているものは数少ない。その数少ない正しい意味のうち、しかも、それを「vulnerablity」とセットで語っているのは、renqing氏だけである。氏は以前記事で、人権は単なるお題目ではなく、人間の ‘vulnerability(傷つきやすさ) ’について、深く静かに考えることに尽きる、ということを如実に示しています。と語られていたが、今日の俺の試みは、俺なりにこの「vulnerability」を考えることである。言うまでもなく、もし氏が示唆するように、「communicability」と「vulnerablity」が「人権」というものを根源的に規定しているのだとすれば、この試みは、いつもの俺の毒の吐き出し(俺のdetox)以上の何かになる可能性がある。■「communication」、この訳し難い語「communication」という用語ほど難しいものはない。renqing氏は「伝わりうること」という訳語で軽やかにこの問いを回避されるのだが、俺としては、ここを高飛びするわけにはいかない。「ものが伝わる」とはどういうことであろうか。以前から何度か書いてきたが、それは<世界>を共有することを前提としていたはずだ。共有する<世界>があるから、言葉という記号で、自分の思っていることが相手にも伝わる。デューイに言わせればそれは「環境」であるし、カントに言わせればそれは「ア・ポステリオリに基く直観」ということになろう。それをひとまず、「community」と呼ぶのは、トートロジーでも何でもなく、いたって正当なことに思われるのだが、いかがだろうか。つまりは、コミュニティはコミュニケーションに先立つということである。ひとまず「communication」の訳語は措くとして、以上のような考えに則れば、「communicability」とは、同一の「community」に存在するという<状態>を表した語だと言うことはできるだろう。■コミュニティとサブコミュニティところで、コミュニティは言語共同体として捉えられるが、それは<国家>と等しい範囲であろうか。以前、デューイからも引いたが、コミュニティを単一の事物とするのは誤っている。社会は、多数の社会であり、コミュニティは多数のサブコミュニティなのである。これは経験からも納得がいく結論ではなかろうか。われわれは、何らかの集団へ初めて参加するとき、その場での<言語>作法をまずは学ばないだろうか。あるいは、同じ日本国内であっても、一つの場所での「常識」が、他の場所での「常識」と異なり、コミュニケーションにおいて摩擦を形成するといった経験を持っていないだろうか。また、別の例を言えば、他国籍の人間を交えたコミュニティを想像できないだろうか?こうした思考実験から結論付けられるのは、コミュニティとは、自身を取り巻く「環境」であり、その他の構成員たちと共有する<世界>であるということだ。それは、決して国家という枠組みではないし、また、お互いが「日本語」というものを話すからといって、そのまま「communicability」があるということを意味しないのは言うまでもない。■「communication」さて、以上の観測は重要である。コミュニティが物理的実体としては存在していない以上、コミュニケーションとは動態的概念である可能性がある。あるいは、接尾語「-ation」が「行為, 状態, 結果など」を表すことを思い出してもいい。こうした観点から「communication」を無理やり訳せば、同一のコミュニティ内の<他者>と経験を共有すること、またその活動によって新たなる共同<言語>を形成し、共同<対話作法>を形成し、コミュニティを刷新していく過程のことくらいになろうか。はっきり言って、全く実用性の無い訳語だ(笑)。あるいは、(訳語は諦めて)こう言ってしまった方が良いかもしれない。コミュニケーションとはコミュニティ化のことであるそして、そのうえで「コミュニティ化」に含まれる概念を取り出した方が有益だろうか。コミュニティ化(1)共通の<言語>をつくる過程(2)共通の<作法>をつくる過程(2)に言うところの<作法>がある種の「法」であることは言うまでもない。さて、長い回り道を経て、やっと下準備が終った。ここから「communicability」と「vulnerablity」に入って行きたいのだが、見返すと紙幅も多くなってしまった。続きは、次回にしよう。
2006.03.30
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「オレンジ革命」というマンガが「りぼん」に掲載されていたらしいが、俺が書きたいこととは全く関係ない。俺が書きたいのは「未完の革命」論だ。「みかんの革命」ってことで「オレンジ革命」。「未完の近代革命」。丸山眞男だな。この人のことをちゃんと読まにゃいかんと思いながら、よくわからんまま過ぎちゃってる。昨今のうんこナショナリストの原点にもなってたり、かといえば、ちゃんとした雰囲気も漂っていたりで、よくわからん。なんとなく、丸山の一部分を受け継ぐヤツが多いんだと思う。村上春樹が次のようなことを書いてたっけ。レーニンはマルクスの理論のうち理解できる一部だけを利用し、スターリンはレーニンの理論の理解できる一部(それも本当にわずかな)だけを利用した。まあ、丸山にもそういうところあるだろうな。おお怖。俺は近付きたくないねぇ。■八月革命説明治憲法から日本国憲法への移行を法的に矛盾なく説明する手段として、宮沢俊義が提唱した「八月革命説」というのがある。天皇主権から国民主権に移るわけだから、通常の改憲手続きでは移行できるはずがない、ってのが、まあ当然の感覚で、それをどうやって法的に説明するかって問題に対して、ポツダム宣言の受諾に、その(主権移行を認める)意思があったとするものだ。もちろん、形式的には明治憲法の改正手続きを経ていたり、革命というわりには、8月以降も旧体制がいろんなところ(知識人の認識含めて)で残っていたりと、いろんな綻びがある。で、そういうところをとって批判する向きも多い。■丸山→宮沢?この宮沢の「八月革命説」は、そもそも丸山眞男が考えていたことを、宮沢が法的なものとして再構成したという説がある。なるほど、宮沢は法理的整合性を求めたわけだが、この「八月革命説」は法的なものとしてよりも、政治的なものとして考えた方がいいんじゃないかと思える。というわけで、「八月革命説」を宮沢から丸山に返すべきじゃないだろうか。■「革命」って語感その前にちょっと考えときたいのは、「八月革命説」を批判する言い方の重要なものとして、実際は違ったという実証主義的反証がある。だが、俺がみるに、これは「革命」という語の一義的意味にこだわり過ぎなように感じる。確かに「革命」は、そこでドッといろんなことが変わるイメージがあるが、変化があるのは、どんな「革命」においても象徴的部分だけであって、多くは後からついてくるんじゃないのかね。まあ、「革命」なんて無かったんだって批判もみたんだけど、俺には、つまんないこと言うなぁ、という感想しか出てこない。■市民革命市民革命っていうと、名誉革命とかフランス革命とかアメリカ独立戦争とかがよく言われるところ。これを思い切って図式化すれば、絶対王政 → 市民革命 → 民主政ってことになろうか。つまりは、主権の移行が見てとれる。そういう動態的なところに目をつければ、明治憲法 → ○○革命 → 日本国憲法っていうんで、いいんじゃないかと思えてしまう。○○革命は何でもよくて、まあ「八月革命」くらいでいいかって感じで読んだらどうかね。■「未完の近代革命」さて、丸山って言ったら、なんか教科書に『「である」ことと「する」こと』だかなんだか言う文章載ってたな。民主主義ってのはプロセスなんだ、みたいなことのたまってたよな。丸山は、名目的な変化としての「革命」よりも、プロセスとしての「未完の革命」を唱えたわけで、丸山にしてみれば「八月革命説」は法的な説明としてよりも、「戦後」をどう作っていくかっていう意志として考えられたんじゃないかね。■主権の移行よりもさっきの図式なんだが、市民革命において最も重要なのは、私見では「主権の移行」ではない。俺は思うに、「立憲主義」の成立だと思う。すなわち、「人の支配」から「法の支配」への移行だ。人の支配 → 市民革命 → 法の支配(=立憲主義)恣意的な人の支配ではなく、法の支配。法の支配を端的に述べれば、「誰もが法の下に等しく扱われる」ということに尽きるだろうと思う。■「法の支配」もうちょっともうちょっと説明する。変な例だが。俺の親は酷かった。5,6歳のとき、俺は誤って皿を割ってしまったことがある。手伝いをしているときだった。そのときの俺の母親たるや、俺の不注意を攻撃し、泣いて謝ってもしばらく赦さなかった。俺は大罪を犯したと思い込まされるに十分だった。その3日後である。今度は母親が皿を割った。全く似たような状況であった。そのとき、母親にとっては不幸なことに、俺は現場に居合わせた。だが、母親はそれを笑って済ませた。さすがにあれだけ人を責めた記憶は新しく、少しばつが悪そうではあったが、笑って済ませた。俺には鮮明なる記憶として残っている。これが人の支配である。国家への忠誠とか、天皇への忠誠とか言うやつらが、なんか自分の都合で国家や天皇を利用しているように思えるのは、決して偶然じゃない。こういう自分への甘さがすべての元なのである。法の支配は「誰もが法の下に等しく扱われる」ということを要求する。俺にあれだけの辱めを与えたのだから、俺の母親は同様の辱めを受けなければならなかったはずだ。もし、それが違うのなら、俺の罪を遡って赦し、行き過ぎた刑罰に謝罪をするべきであったはずだ。これが法の支配だろう。■オレンジ革命いささか脱線してしまったが、法の支配ってのはそういうことだ。丸山は戦前を「無責任の体系」と呼んだが、「法の支配」は言うまでもなく「責任の体系」である。他者への責任は自己への責任である。丸山は「戦後」を「未完の近代革命」として捉え、「民主主義」の定着をはかったが、それと同時に、俺には、「法の支配」を方向付ける「未完の立憲革命」が必要のように思える。憲法を押し付けられたとか、条文のここがどうだとか、つまんないこと言ってないで、いま「革命」に参加し続ける姿勢が必要ではなかろうか。オレンジ革命。革命は、画期じゃない。ダイナミズムなんじゃないか。
2006.03.30
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この駄文ブログで俺が唯一誇れるところは、「お気に入りリンク」だ。並んでいるブログたちは素晴らしいと思う。実は、俺が定期確認するブログは「お気に入りリンク」に入っているものだけでは無いのだが、ちょっと絞って載せている。絞って外される基準は、更新頻度が低いものと超有名なものである。というのは、一応、「紹介」なわけで、俺のリンクから入って更新されていないというのは、初見の人に申し訳ないし(俺は待つのが好きだけど)、有名なのは俺が紹介するまでもない。というか、それって結構恥ずかしいことだ(まあ、とは言っても、結構有名なのも入ってたりしてるかもしれんが)。で、いろいろと記事紹介をしようかと思ったんだけれども、人の記事を咀嚼してそこにコメントを加えるには結構なタンパク質消費が必要で、正直、今の俺には耐えられそうも無い。恐らく、倒れる可能性がある。ってなわけで、俺が直感的に感じている印象論を語る。すごく勝手な試みで失礼なことだが、まあ、気付かれないようにこそっとやる。「Fixing A Hole」何人かで書いているのはわかるのだが、何人かがわからない。時事の纏めやラディカルな地平からの考察など、軽いタッチなのだが、いろいろと目を開かされる。明らかに、日頃の問題意識が深く大きいからなのだろう。何人かわからないと書いたが、ちょっと大胆に予想すれば、政治学系の方がひとり、文学系の方がひとり、医学系の方がひとり、映像芸術系の方がひとり、うーん、わからないけどマスコミ系の方がひとり、くらいだろうか。実際がこれより少ないとなると、膨大な知識量と興味幅の深さを持った人たちで構成されたメンバーということになるだろう。イージーリーディングの気持ちで訪ねているが、刺激の強さは「イージー」ではない。「代替案」批判だけでなく代替案を心がける、という考えがそのまま題名になっていて、題名の適当さからして本当に内容勝負のブログだ(笑)。鋭い問題意識から捉えられた深い認識と幅広い知識は、勝手に勉強させてもらうにはもってこいだといえる。一番おもしろいなぁと思うのは、俺とのスタンスの違いだ。やはり、そういうところが一番勉強になる。勝手に断じれば、書き手の関さんはこと現状政治においては「制御の学」を志向しているように思われる。関さんは<新自由主義>への対抗において力を結集させる方法を常に探っているようだ。俺はといえば、もっとラディカルな地平に問題を求めるところがあるわけで、そこは今後も緊張関係を維持したいと勝手に思っている。「反戦老年委員会」委員会なのだが、ひとりだという噂もある(笑)。ただ、このブログに集ってくる人たちはすでに委員会の委員なんじゃないかという解釈も成り立つわけで、確かに俺はちょっと認めてもらいたくもある。しかし、どうしても「老年」というところに、この若輩者は阻まれてしまうわけだ。「日本」の歴史への造詣の深さは言うに及ばず、他の分野においても鋭い考察を加えられていて、何よりもその「若さ」に学ばされる。知的に誠実であり、興味関心も広い。最近は防衛問題に考察を重ねられていて、大変勉強になる。もちろん俺とは違う考えの部分もあるわけで、俺が自分の位置づけを反省するときにも参照させて頂いている。「本に溺れたい」ミッドナイト定期配信というのをしているらしい。どうも深夜1時くらいには更新されているから、それくらいに書いているのだろうか。ともかく、その興味関心は幅広く、飽きない。たまに書かれるじっくりと腰を据えた書評や、時事問題への発言、少し年齢を想像させる小話も豊富で、その知識量には驚かされる。だが、バーリンの思想に惹かれるあたり、実は結構な情熱家ではないかと疑っている。ちなみに、俺は、書き手のrenqingさんにkantianではないかというあらぬ疑いを掛けられ、仕方なくちょっと最近カントの概説書を読んでいる(爆)。「とりあえず」語り口の柔らかなブログだ。書いてあることは深く鋭いのだが、語り口が柔らかいので、誰もが接することのできる状況をつくっている。物事を論理的に解きほぐす手腕が素晴らしく、現実を一定の問題関心から見据えているため、ぶれない。書き手のluxemburgさんは、名前の通り、ローザ・ルクセンブルクを尊敬しているようで、そこのところが、俺との重要な違いを生むところでもある。民主的なものをエンパワーしようとするエネルギーは素晴らしく、その民主概念は、確実に俺と同じ方向を向いている(と思う)。違いは、方法論だろう。そこが勉強になるところだ。「そぞろ日記」俺の知らない問題を、俺が非常に共感できる語り口で語るブログ。「何かがおかしい」を見逃さない<視力>があり、非常に当然に思える論理でそれを語っている。書き手のmiyauさんは、社会的弱者への想像力が大変優れているのだろうと思う。アニメとか映画とかにも造詣が深いようで、よくわからないなりに、なるほどと思って読んでる。miyauさんも民主的なものをエンパワーしようとするエネルギーが素晴らしく、そして、表現の自由を尊重する姿勢は、言葉でこれを唱えるだけの人たちとは違った凄みを持っている。読んでいて「闘い」を感じる。「激高老人のブログ」有名な社会学者作田啓一先生のブログ。なんというか、更新頻度が低くて、しかも超有名ってことになってしまっていることに気付いた。しかしまあ、リンクから入れる「激高老人のページ」での「旧コラム」も読み応えがあるので、一応、そのことをいい訳に。「タカマサのきまぐれ時評」まず何よりも、その更新頻度の高さに圧倒される。というか、読みが追いつかないくらいのスピードで記事を書いている。書き手のハラナ・タカマサさんは、面白思想の塊であり、思想が実践をしっかりと規定しているという意味で、信頼のできる方なのだろうと思う。ものごとへの批判思考ぶりは徹底していて、それがとても読んでいておもしろく、またじっくりとひとつのことを追う記事も多くて、大変勉強になる。プロフィールから察するに、どこかの大学で教鞭をとられているようだ。それを「サービス労働+情報生産」と表現するところが、「らしい」ところである。「ガラパゴス通信リターンズ」昔から風刺や皮肉は最高の権力批判だったと思うが、現代において多数(世の風潮)に対してこれを最も成功裡に行っているブログだと思う。書き手の加齢御飯さんは女子大で教える社会学者で、学者としての分析眼に加えて、現在の女子大生という社会を知る上では格好の標本を抱えた羨ましい方である。記事から読み取るに、どうも大学学部が俺の先輩のようで、ちょっとコメント欄のやりとりにも気を遣わないといけないなぁと思う今日この頃。ところで、どうも加齢御飯さんとrenqingさんは「時代塾改憲フォーラム」という、世の阿呆な改憲論とは全く違った、改憲の立場に立たれているようだ。ここも、俺としては非常に勉強になるところである。というわけで、なんでこんなものになったのかわからないのだが、紹介になってしまった。ははは。で、題名は、あまり人の目につかないように、適当につけた。明日が晴れだというところから、俺の住んでいる地域を予想しても何の意味も無いことを断っておく。
2006.03.29
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A: いま、憲法の概説書を読んでるんだけどもA: やはり、法というのは、人の血の通ったものだB: なんか、学校で習うところではそういう感じをもてなかったA: 教える方に相当の力量が求められるからねA: 普通の学校の先生では無理じゃないかなB: そうかもねA: でも、民主国家であるならば、A: ここの部分の教育力は、絶対に必要だと思うB: うんうんA: だけども、残念ながらねぇA: 俺も学校の先生から、権利は公共の福祉で制約されるって教わったB: うんA: で、公共の福祉ってのを、国家だみたいな誤解を与えてくれるA: 最悪だB: 公共の福祉で制約されるって明記してあるんだったっけ条文でA: うんA: 13条とかA: 12条とかA: まあ、いろいろB: うんB: 公共の福祉って何A: そうA: そこが大切A: それをちゃんと教えれば、問題ないんだけどA: 学校の先生にはその力が無いA: 公共=共同体の他の構成員A: 福祉=幸福A: 通説では、公共の福祉を、他者の権利だと捉えるA: というか、少なくともそう捉えないと、憲法が首尾一貫して読めないB: ふむB: その通説では不十分なの?A: いや、まあいいんじゃないA: 問題は、その通説すら、一般的に理解されてないってことB: そうかA: 公共の福祉を、「全体の利益」とか教えるバカがいるB: ああ、そうA: そうしたら、そもそも憲法が自己矛盾だらけになるB: どういうふうにA: 憲法は個人主義の宣言だからねA: 多数派の決定に対して、最終的なところで個の尊厳を守るっていう表明なわけA: たとえば、多数派が同性愛を禁じる法律を作るA: それに対して、個の権利として、個人を保護するのが個人主義A: それは常に脅かされるでしょA: 少数派は常に脅かされるA: でもそれを守る思想が、歴史的に涵養されてきたわけだA: それが憲法=立憲主義B: うんA: なのに、それが「全体の利益」で「個人の権利」を制約できるA: って読んだりしたらA: 本末転倒でしょB: うんB: 先生たちが、そもそも、憲法は個人主義の宣言であるとか、B: 常に脅かされる少数派を守る思想としてできてきたとか、B: を分かっていないと思うA: そうなのA: ひどいよB: そういう風に習ったこともないしA: 民主国家に生きる資格が無いB: うんと、B: なんでかねえA: 個人主義がわからんからでしょB: なんでわかんないのかねえA: そういう価値観が無かったA: バートランド・ラッセルがねB: うんA: 17世紀の「家父長論」をさしてA: こんな荒唐無稽な考えは17世紀のものである。A: しかし、20世紀になっても、これを信奉する国民が一つある。A: それは日本人だ。ってA: 書いてるA: 笑える。A: つまりねA: ちょっとずつ、個人主義をつくってきたわけねB: うんA: 日本はちょっと前まで家父長制だったからねA: まあ、あとは国家の政策によるねA: エリートがその重要性をわかっていないといけないA: でも、日本にエリートなしA: 公務員がレベル低すぎるからねぇB: うんA: たぶんね、A: 戦後に、人を一新できなかったのがいけないんだと思うA: 結局巣鴨プリズンに入ってた人たちが政財界に戻ったでしょB: うん それと公務員のレベルとどう関係するの?A: 結局、イニシアティブとった層が、旧い価値観だったってことA: それを一気に変えられなかった今A: ちょっとずつ漸進的にでも進まないといけないんだけどA: そういう大きな構想力を持った人間が官僚にはいないってことB: うんA: 早稲田大学の歴史みたいの読んだんだけどA: 小野梓ってのが建学の功労者なのねA: 大隈の参謀B: ふんふんA: その人、33歳で亡くなってるA: つまりね、20代で大活躍してるわけB: ふうむA: 年齢なんて関係ないわけだB: うんA: そして、構想力をもった人間は、若くてもいろんなことができるB: うんA: そういう、構想力を持つべきときに、日本は不幸にもねA: 今も、そういう構想力が感じられないB: ふむA: あと、なんというか、A: 明治時代がダメだったひとつの原因A: というか、A: もしかしたら、ダメなのが見える事象のひとつかもしれないけどA: 国の構想に関する公的議論ってのが、この国にはなかったB: うんA: 全部、「先進」国の真似A: だから、立憲主義の精神の入っていない「憲法」なんてものが作れるA: それはそもそも憲法でもなんでもないB: 形だけの国もあると思うA: 形が重要A: 明治憲法は形からがおかしかったA: 形は結局建前上の議論の根拠になるA: 矛盾が誰の目にも明らかになるようなことは、A: どんな為政者もできないからねB: うむA: そこが大切だよA: あとは、それを利用することを覚えるかどうかでしょA: 利用できない道具が置かれてるのと、利用できるのが置かれてるのでは大きな違いだよB: うんA: 明治憲法は、すごくおかしいからねB: ふむA: そういう社会学的知識の無い司馬遼太郎みたいな阿呆がA: 明治は良かった、みたいなこと言うからA: ますます混乱するんだけどねA: 明らかに昭和を導いたのは明治だよB: そういう反省は、無いねA: そういう反省がいま必要A: 実はここはね、カンサンジュンが指摘してるB: へえA: あのA: 戦後にねA: 日本国憲法は、個人主義の理念を宣言したわけだB: うんA: だから、日本も世界史の潮流にのるチャンスがあったA: ドイツのように、新たな国制としてスタートする気運もあったわけB: うんA: もし、それがうまくいっていれば、A: 愛国心ってのが、へんてこりんなものを対象としないですんだわけだA: たとえばハーバーマスはA: 憲法愛国主義っていってA: 制度としての国(ドイツ)を愛する=パトリオッティズムを提唱するA: 日本の愛国心の主張が、日本国憲法の理念を愛せっていうならA: 俺は大賛成だよA: でも、愛国心を言う奴らは、野蛮な国を目指してるA: そこに、藤原正彦みたいなナイーヴなバカの言が加わってくる状況だからA: 今は、非常に危険だよA: ちょっとわき道それたけどA: カンサンジュンの指摘はねA: 日本の政府は、戦後A: 日本国憲法発布と同時にA: 明治に戻るんだっていう宣言もなんかでしてるA: つまり、新たなちゃんとした国としてのスタートをA: またもや、反故にしちゃってるわけA: それが脈々とねA: 今の阿呆な明治志向に繋がってるんだと俺はみてるB: ふむ 明治にもどるって宣言もしてたのかA: そうらしいのだよB: ふうむうA: まあ、現状をつぶさに見れば、明治的な系譜と昭和の新しい憲法が戦ってるってのがわかるよねB: なるほどA: だから、もっと明治を問題にするって研究がないと困るよねB: 明治研究って、明治への憧憬が勝っちゃってる印象あるしねA: そういうのは本当は研究って言わないよねA: 笑B: そうだねA: まあ、非常に屈折してるんだよ
2006.03.26
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前回、前々回は、ちょっと「こども」絡みを取り上げた。一方はポジティヴな「こども」であり、もう一方はネガティヴな「こども」である。俺としては、どのような場合に「こども」という語が使われているのか、その状況をよく吟味すれば、「こども」とは何かを知る手がかりになるだろうと思っている。若干の予測を示しておけば、「こども」とは、まさに「人民」のことなのかもしれない。これはまたにしよう。さて、前回の「モビルスーツ文化論」において、「戦後」におけるこの国の「モビルスーツの系譜」に対して否定的に観た。そこでの批判のポイントは、順番であった。普通われわれは、≪子宮≫→出る→≪父≫と会うという順番を経るはずだったが、「モビルスーツ」においては、≪父≫の命令→入る→≪子宮≫という順番に転倒されている。ここに何らかの問題が潜んでいる可能性に言及しておいた。それがどのような問題であるのか、いろいろと検討してみたいと思う。今回は、「幸福追求権」の観点を検討する。これが「モビルスーツ」と関係しているのかは、正直よくわからないんだけど。■幸福追求権われわれの憲法は13条において次のように宣明している。すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。これが、アメリカ独立宣言を思想的淵源としていることは言うまでもない。すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。いずてにしても、まあ、われわれには「幸福を追求する権利」があるらしい。しかし、これってどういうこと?■ひとまず消極的自由として幸福を追求することが「権利」になる契機は何かといえば、例えばこういうことだろう。「お父さんはお前の幸せを考えて、こう言っているんだ!」に対して、「親父、俺は俺の幸せを求めたいんだよ!」というやり取りにおいて出ているように思える。幸福を追求する権利というのは、ひとまずこうした消極的自由(個を尊重するもの)であるだろう。この例がわかりやすいのかわかりにくいのかわからないが、例えば、社会的な差別と絡んだ問題のときにもっと先鋭化する。例えば、同性愛者たちの「幸福追求」に関して言える。彼ら彼女らにとっては同性と愛し合うことが「幸福」だと言ってしまっても理解してもらえることと思う。それに対して、多数派である異性愛者たちが「お前等はおかしい」「お前等の求めているのは本当の幸福ではない」といった発言をするような場合は想定できないだろうか。こうした多数派であるがゆえにナイーヴに少数派に向けられる攻撃に対して「幸福追求」権は力を持つと言える。■積極的自由としてもさてしかし、われわれは生まれながらにして「自分の生の目的」など知らないし、ときにステレオタイプに幸福を考えてしまいがちだ。周りには羨ましがられながらの結婚でも、その心の内たるや、「真の」幸福を得ていない、なんてメロドラマ的なことは容易に想像できる。つまり、各人の幸福追求を保障されても、その「幸福」が何たるかを知らない存在だともいえる。そうして考えると、「幸福追求」権は、「幸福追求」権であると同時に「幸福追求」権でもあるとも捉える地平が開ける。すなわち、われわれは<他者>との関わりのなかで「幸福とは何か」を「追求」もできるはずなのである。俺としては、「幸福追求」権をこうした積極的自由としても捉えたいわけだ。■よーく考えよう「幸福追求」を、消極的自由と積極的自由の二つの観点から見たわけだが、しかしここには、どんなに注意してもし足りないような教訓がある。それは、順番だ。どちらの自由も大切であるにしても、絶対に消極的自由をスタートにしなくてはならないということだ。まず、消極的自由としての「幸福追求」を認め、つぎに積極的自由としての「幸福追求」を認めないといけない。もしこの順番が逆になるならば、実質的には消極的自由は認められない形になってしまうからだ(頭の中で思考実験して欲しい)。そして、消極的自由が保障されなければ、積極的自由としての「幸福の追求」もただのステレオタイプに堕してしまうだろう。■モビルスーツ再モビルスーツに戻る。≪子宮≫はわれわれの最も安心できる場所。言わば、幸福の場所の表象ではなかろうか。そして、≪父≫とは「他者」ではなかろうか。初めて自分を外側との関係性において規定する表象ではなかろうか。そうした前提に立てば、前回の「モビルスーツ」における「順番の転倒」の問題があきらかになろう。つまり、≪子宮≫で<個>を立ち上げ、外に出て≪父≫=「他者」と会い幸福を「追求」するであるはずが、個ができないまま≪父≫と会いステレオタイプの幸福=≪子宮≫に回帰するになっていることと読めないだろうか。これが、ある種の全体主義であることは言うまでもない。われわれの憲法の理念は、全体主義とは逆の方向を指し示していたのだが、なぜか「戦後」には全体主義を志向する考えが入り込んでいた、と読めはしないだろうか。■蛇足ところで、≪子宮≫は安心できる場所であるとすれば、某数学者のような考え方が「モビルスーツ」と親和性を持つことは見出せることでもある。≪子宮≫に回帰して戦いたい。そして、その≪子宮≫=モビルスーツは特別だ。相手は量産型であるのに対して、自分のモビルスーツは特別仕様だ。なんか、「日本NIPPONは特別だ」という言説に似ていないだろうか。「特別」なモビルスーツに逃げ込む人たち。彼らこそ「戦後の転倒」を代表している。
2006.03.26
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<ガンダム>が今ちょっとした市場を形成しているという。30代になった当時の子供たちが、可処分所得を、車でもなく異性でもなく家族でもなく(あるいは、それらに加えて)、ガンダムグッズに投下しているからに他ならない。逆に言えば、それだけ<ガンダム>が与えた影響は大きかったということだ。はっきり言って他人事的に、そのサブカル系譜学でも語ってみようかというのが今回の試みだ。間違ってても文句は無しってことで許してね。(宗教について語るのはそれなりに緊張する。ガンダム教。信者多し。)■ロボット「戦後」という時空に議論を限定したとき、この国におけるロボットというものへの感覚は、例えば欧米と比べたときに、はっきりとする。欧米におけるロボットの概念は、人間とは明らかに違うことを前提にしている。それは合理性を追求した、冷たく暗いイメージである。最近の映画が示唆するように、最終的には人間に敵対する可能性を持ったものである。それが日本では鉄腕アトムやドラえもんに代表されるような、恐らく「体温」を持った物体として描かれる(あと、メーテルなんかも?)。■ガンダムガンダムを見るとき、誰もが不思議に思うのは、何であんな危険な物体に「乗る」のか、ということだ。遠隔操作にすれば、人命を落とすこともないのに。小説版ガンダムでは、この辺りの疑問を予想して、なんだか面倒臭い設定をつけている。しかし、問題はそれを合理的に説明したからといって解決しない。本当の問題は、その設定がなぜ必要なのかというところにあるのだから。ここには「合理性」は無い。では、何がそうしたモビルスーツイメージを<表象させた>のか問題になるだろう。さて、サブカル論の始まりである。■輸入期恐らく、この国に「ロボット」が「輸入」されたとき、それは先に観た西欧型の冷たく暗いイメージであったように思う。言うまでも無く、その時期を代表するロボットがいる。鉄人28号だ。この鉄人28号の外形イメージは、先の西欧型と言って良いのではないだろうか。もし、この鉄人へのわれわれの<視線>が、「合理性」を持ったものであったら、われわれのモビルスーツは違う系譜をたどっただろう。しかし、われわれの<視線>は違った。鉄人に違ったイメージを映し出したわけだ。■正太郎の<操縦>鉄人28号を語るとき、正太郎君を措いて語ることはできまい。私見では、この正太郎と鉄人の関係こそ、モビルスーツの系譜のスタートである。周知の通り、正太郎君が鉄人を「操縦」している。しかし、よく思い出してみれば、彼の操縦機には、レバーが二つしかないことに気付くだろう。レバー2本って。。。前か後。それが2本。2×2=4通り。4通りの命令が出せる。もし、ニュートラルを加えたとしても、前か後かニュートラル。それが2本。3×3=9通り。9通りの命令が出せる。9通りって。。。しかし、さらによく観察してみると、正太郎がレバーだけで鉄人を「操縦」しているわけではないことは容易にわかる。やつ、「鉄人、パンチだー!」とか言ってなかったかね。鉄人、パンチだー!って。。。そして、挙句の果てには、「鉄人、頑張れー!」って。鉄人、頑張れー!って。。。■心言うまでの無いことだが、正太郎と鉄人は「心」が通じている。もちろん、まだ「輸入」初期であり、鉄人との「心の結びつき」は、ある種の「合理性」に支えられている。すなわち、鉄人は、操縦機を持っている人間の誰の言うことも聞く。そういう部分があるにしても、「鉄人28号」がロボットに「心」を与えるきっかけとなったということは否定できないだろう。■モビルスーツとは心の話は、その系譜をたどるうえで大きなチャートとなる。例えば、ガンダムの先にあるエヴァンゲリオンなどは、まさに「シンクロ」によって動くわけで、この系譜をたどっていくときの行き先を示しているといえるのではないだろうか。さて、ここで江藤淳なんか出したら笑える?江藤は、この国の文化(なるもの)を「母性の文化」と呼んだ。以上、江藤の引用終わり。もう、お気づきのことかと思うが、モビルスーツは端的に子宮を表しているように思われる。われわれが「危険なモビルスーツ」に入るのは、子宮に入りたいからに他ならない。われわれのモビルスーツイメージは、子宮への憧憬と切り離しては考えられないように思われる。■誰がなかにいる?さて、鉄人28号、ガンダム、エヴァンゲリオンにストーリー上共通する要素がある(実を言うと、マジンガーZにも共通している)。それは、父親がその「ロボット」の製造、あるいは、主人公達の搭乗のきっかけに関わっているということだ。つまり、中に登場するのは「こども」なわけだ。■子宮子宮というのは何であろうか?本来、われわれは子宮から出て父と会うのが普通ではなかったか?一体感?あいまい?総無責任?われわれは「母性の文化」ではなく、「こどもの文化」なのではないか?■特攻ここからは蛇足である。モビルスーツは特攻思想に通じないだろうか?危険な「乗り物」に乗る「合理性」は何だろうか?父=国家が命令し、母=一体感へと回帰する思想?俺の思考が現時点で届くのはここまでだ。なんとなく、モビルスーツの系譜は違う道をたどるべきだった気がする。そうならなかった理由をもう少し考えなくてはなるまい。
2006.03.23
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宮崎駿は随分駄作も作るようになったと思うのだが、それでもずっと輝ける名作として残るであろう作品もある。『となりのトトロ』だ。この作品が公開されたとき、「トトロとは何か」といった問題が一部で議論されていたように思う。トロールが子供の言として訛ったものだとか、まことしやかに言われていたように記憶する。さて、もちろん、いまや確実なる「答え」が出たと俺は見ており、さらに、その「答え」は、公開時から俺が主張してきたものだったのだが、折角なのでここにも書いてみようかと思う。■文明と自然他の多くの作品を観ても、宮崎作品が「文明=自然」の二項対立を扱っていることは容易に看取できることだ。そして、多くが「自然」への憧憬に満ちている。逆に言えば、そこへ暴力的に対峙してくる「文明」とは何か、それとどのように対するべきかという問いも含まれている。■文明の象徴一般的に「文明の象徴」とされるのは「鉄」である。これは製鉄技術を持ったヒッタイトの侵略が、各地に発展をもたらしたという歴史学的認識にもよるのであるが、私見ではもっと重要な点において、「鉄」が「文明」を「象徴」している。■「文明」の作用「文明」を考えるとき、それは<分離>によってもっとも表象されるように思われる(後述するが、<分離>が象徴的に現れるのが「鉄」である)。ルネサンスの三大発明の一つ「羅針盤」は、地理的位置関係をX軸とY軸という二項に<分離>することで、位置確認を可能にし、大航海時代を牽引した。あるいは、一個の総合体の労働者というものを、労働力という抽象概念において捉える(<分離>する)ことによって、計算可能な数量に変換し、産業革命を誘導した。「文明」は、「自然」から「有意な何か」を「抽象」する作業を通して、「発展」させられたものだといえるかもしれない。■有意なものいま、「有意な何か」といった。「有意な何か」を「抽象」することは、その裏で「捨象」するものがあることを含意する。そしてもちろん、そこで「捨象」され、見えなくなるものは「無意味な何か」である。■鉄さて、「鉄」に戻ろう。いうまでもなく、「鉄」は「自然に」存在しない。「鉄」は人工的な作用による。そう、<分離>による。我々は、「鉄」が「鉄鉱石」から成分Feを<分離>することによって生じることを知っている。そしてまた、「鉄」が我々にとって「有意な何か」であることも知っている。では、鉄鉱石から成分Feを<分離>されたあとの「残りかす」の方はどうであろうか?「鉄」は「有意」であるから「鉄」という名前があるのだが、「無意味」な「残りかす」の方の名前は、多くがしらないのではなかろうか。■トトロとは何を隠そう、「鉄鉱石」から「鉄」を<分離>した後の「残りかす」の方を「たたら」というのである。TATARAそう。TOTORO母音を軽く交換しただけ。■こどもこの発見には、重要な含意がある。『となりのトトロ』において重要なことの一つは、トトロが大人には見えないということである。「文明」を<内面化>された「大人」には、「有意」でない(つまり「無意味」な)トトロ=たたらは見えないのである。あなたが、「たたら」という存在をしらなかった(あるいは、知っていても普段意識していない)ように。しかし、こどもには、トトロ=たたらが見えるのである。■蛇足ナウシカには「森=腐海」という「自然」があり、ラピュタとは「大地を離れた文明」であり、魔女の宅急便のキキは恋をしたその日に魔法が使えなくなる。もののけ姫はもっとも直截的にこれを語ってしまって、芸術作品としての質よりも商業主義に走ったものに見えたが、舞台は「自然と文明の接点」の「たたら場」である。挙げればきりがない。作品を観ていて思うのだが、宮崎はロリコンかのように子供が好きなようだ。子供をどのように位置づけているかで、その論者の思想は垣間見れるかもしれない。
2006.03.21
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ええと、私がkantianであるという大変失礼な指摘を受けたので、ちょっと弁明したいと考えます(ちなみに「失礼」というのはカントに対してです)。まず根源的な反論として、私はあまりカントをよく知りません。カントの膨大な研究枠組み全部を観もせずに、自身を「kantian」などと呼べる自信は全くありません。確かに、私の思考はいつまにか、カントの方法論に負ってしまってるところもあると思いますが、私はそれを意識して受容=否定していないわけで、私には「kantian」を名乗ることも、カントを批判することもできません。私がいまカントを批判したら、揚げ足取りにしかなりません(まあ、批判なんて、ある程度の誤解をしなければできないわけですが)。そうした言い訳をしたうえで(少し真面目に)、カント的なるものを考えるとき、例えば『実践理性批判』だけを考えれば、理性の理論的使用と実践的使用の分離に「カント主義」という言葉をあてることもできるのかもしれません。それに対して(も)、私はなんともアンビバレントです。というのは、だいたいの人は、ある程度「カント主義」なんじゃないかと思えもするからです。現代(というか近代)には、確実にカント的なる枠組みがあるように思えます。私にそれを超えられるわけもないからです。そういうわけで、私はある程度「俗流kantian」であることは認めます。そして、恐らく、以上のことはご理解のうえで、「俗流kantian」として指摘されたのかもしれません。だとすると非常に正しい指摘だ。しかし、でも、と言いたいわけです。私は、カントとは関係ないところにおいて、「俗流kantian」であることは認めますが、俗流カント主義が足元を掬われがちな問題群があることには注意しているつもりです。俗流カント的道徳律が自身の中に生じたとき、それを理由に他者を「切り捨てない」よう、よくよく注意しています。そこは強調しておきたい。というわけで、私は「三不主義」を宣言します。不健全不健康不純私は、健全を求めません。マイノリティに目を閉ざすことになるから。私は、健康を求めません。弱者に目を閉ざすことになるから。私は、純粋を求めません。現実に目を閉ざすことになるから。まあ、こう宣言しちゃうところが、「俗流kantian」っぽいですね(笑)
2006.03.18
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ご無沙汰してしまいました。その間も、リンクを頂いたりして、見に来ていただいた方が大勢いらっしゃいましたが、無断欠勤で大変失礼しました。・・・というわけで、今後はなんとか頑張って更新したいのですが、と、こう書いていて自分で難点をいくつか発見したりもするわけです。一つめは、いまおそろしく忙しいことに気付きました。単純に物理的に時間が足りてません。二つめは、他のところでも文章を吐き出しまくっていて、書く欲求が確実に減じていることに気付きました。三つめは、頑張るってことが嫌いだということに気付きました。頑張るって書くと、絶対頑張らなくなっちゃうんです。というわけで、こう言い換えます。頑張って更新しない。「ない」がどこを否定しているのかわからないところがミソです。まあ、結局、ここは「日記はこれから書かれるところです。」なわけです。■んで、もうさすがに寝ないと、死ぬるので、予告のみで(守られないけど笑)。三木清『哲学ノート』の「伝統論」のところから、なんか書いてみたい。カール・シュミットの取り上げ方と解釈が現在の状況認識に通じるものを感じる。姜尚中(カンサンジュン)『政治学入門』について書いてみようかね。これは姜(カン)先生の「政治学のすすめ」だな。アマルティア・セン『人間の安全保障』もおもろい。「人権を定義づける理論」で、大変真っ当にも、<人権>の宣言を「倫理的な要求」の表明だと位置づけている。これもどっかで紹介しましょうかね。てなわけで、寝ます。コメント、リンク頂いた方へのお礼は、また後日いたします。失礼お許し下さい。しかし、また書けるのはいつだろうね・・・
2006.03.15
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俺はいわゆる「低俗」雑誌も読む。なんかの映画で、「愛読書はプレイボーイです。いやいや、僕は文字のところも読みますよ」みたいなジョークがあったが、おいおい、「プレイボーイ」、なかなかいい記事載ってるぞ。俺は、「プレイボーイ」で、アンドレア・ドゥウォーキンとかキャサリン・マッキノンを初めて知ったんだから(笑)。※両者とも有名なフェミニストです。ううぅ、そういえば、俺の英語が鍛えられたのは、ポルノ雑誌のおかげだったなぁ。アメリカからの輸入雑誌を読みました、はい。不思議なもので、英文の読解スピードがかなりあがりました。高校生の夏。そういえば、ちょっと前に、そういう雑誌を中学生くらいで読まなかったら、大人になってから、ああいうことそういうことする上で、へたくそになるんじゃないかみたいなことを書いた。そうしたら、ある女性が、男性向けはちょっと身勝手なのが多いから、女性向けので勉強させた方がいい、と忠告をくれた。うむ。なるほど。メモメモ。まあしかし、俺の言いたかったのは、あくまでも中学生くらいにおける<他者>たる異性への興味の「入り口」としてであったわけです。この興味を持たないと、ホスピタリティを持って<他者>に接することができないんではないかと思います。そう、ポルノが、<他者>理解=<異文化>理解=世界平和の第一歩なのです(熱)!まあ、そんなわけで、排他的ナショナリストは「もてない」やつが多いんじゃないかという、俺の考えに繋がるわけですな。さらに付け足せば、この「ホスピタリティ」がある人は、ああいうことそういうことが巧いはずです。だって、相手への想像力があり、相手のことをちゃんと<観てる>わけだからね。以上、前置き。■たからじましゃ宝島社ってのがある。俺のビジネスパートナーは、ノーパン喫茶に行ったときに、ちょうど宝島社の取材を受け、「復活ノーパン喫茶」だかなんだかの記事に名誉ある「目隠し顔」を載せている。まあ、宝島社の雑誌ってそういうイメージだわな。んで、まあ、コンビニで別冊宝島1259『日本「軍人」列伝』なるを見つけて、立ち読みして気に入って、購入したわけだ。■水木しげる水木しげるさんへのインタヴュー記事が載っている。これが素晴らしい出来なわけだ。全体が面白いから、近くのコンビニ・書店で立ち読みして欲しいんだけど(ああ、買ってもいいですね 笑)、ちょっと引用してみようか。それでは陸軍士官学校や海軍兵学校に進むのはどういう少年だったのだろうか。「職業として選ぶわけですよ。その点は当時でもなかなか理性的でした。めしを食うために職業として軍人を選んだということです。そういう意味で陸軍士官学校、海軍兵学校に行ったわけです。優秀なやつがいくんです。頭の悪いのは試験に落ちますからね。今の頭のいいのが大企業へ就職するのとちょうど同じことです」軍人という人間、軍隊という組織を、あえて今の社会にたとえれば、なにになるのだろうか。「サラリーマンですよ。軍隊は会社です。おんなじです。人間が作るものですからそう変わったものはできない、人間が作る組織だからで同じです。ただ軍隊という組織は会社をギュウッと窮屈にしたものじゃないですか」いちばん困るのは士官学校を出て間もない若い将校だと言う。「大隊長でしたけどね。27歳の少佐です。兵隊にとっては危なくてしょうがないからみんな敬遠してましたけど。ああいう士官学校を出たばかりのが上に来るとたまらない。ただやたら死ね死ねばかりだから。ほかの隊にもそういう上官がいましたけどね。そういう隊はかわいそうです。勇敢だったけど全滅です。その士官学校出の将校は自分の部隊が全滅しても嬉しそうな顔をしてるんですよ。怖いですよ。兵隊が死ぬってのが平気なんです。まだ若くて子供が戦争ごっこをしているような気持ちなんです」なるほどなぁ。なんか、変なロマンを持ったところで、あるいは、そういう映画を作ったところで、実際はそんなもんなんですな。水木さんも戦闘に遭遇するときがとうとうやってきた。早朝、前線でひとりだけ歩哨に立っていたときである。水木さんは双眼鏡でオウムを見ていた。その時。「前じゃなく後ろで突然バラバラバラッ、という音がしましてね。振り向くとみんな死んでいました」敵の姿を肉眼で見たのだろうか。「敵ってのはね、見るのは一回なんです。バラバラバラッ、と撃たれて殺されるのも一回、殺すのも一回。それが一瞬で決まるんです。敵が見えた時は終わりなんです」機関銃による敵の襲撃だった。分隊10人のうち、ひとりだけ離れていた水木さんを除いて全員が一瞬のうちに全滅した。・・・・・・水木さんは爆撃で左腕を失った。爆撃のときは、敵機は見えない。中隊200名のうち生き残ったのは水木さんを含めてわずか7人か8人である。治療中の野戦病院で終戦を迎えた。半年後に日本に帰り水木しげるの軍人生活は終った。「日本に帰れると思っていたというより、帰ると思っていたということです。馬鹿馬鹿しくて死ぬなんて考えられない」馬鹿馬鹿しくて死ぬなんて考えられない。そういうもんなんでしょうな。最後に聞いてみた。日本の若い人間を鍛えるために徴兵制を復活させるべきだという議論がある。築地の聖路加国際病院の日野原重明院長もそのひとりである。この意見をどう思うか。「そういう人がいるんですか。徴兵制を復活させる必要はないですよ。徴兵制は大変ですよ。2年間行ってバチバチ殴られるんですから。理由があれば納得できるけど、理由なんかない。それが軍隊です。相手の気分で掃除の棒で半殺しにされるんです。軍隊に行ったことが無い人が言ってるんでしょ」イラクにおけるイギリス兵のやったことなんかを考えても、軍隊の基本的性質がわかる気がする。前にも紹介したが、もう一度。「激高老人のぶろぐ」の「軍隊体験と靖国参拝」も参照されたし。しかし、まあ、こういう記事があると、低俗雑誌、捨てたもんじゃないでしょ?
2006.03.07
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以前、何度か取り上げたアフガニスタン難民アリジャンさんの高等裁判所裁判が4月12日10:30~東京高裁で行われます。結審となるかもしれないとのことです。(アリジャンHP参照)今一度、関心を向けて頂きたくお願い致します。■この国が「普通の国」になるように民主主義国において一番危険なのは、自分に関係の無いと思えるところで行われている不正義への不作為だと私は考えています。もちろん、自分に関係のあることだからタンパク質を消費するんだ、という考えはとても正しいし、私はそれを全面的に肯定します。しかし、不正義が行われているときに、それを見過ごしたら、それがいつか自分にかえってくる可能性を温存したのと等しいはずです。日本という国は、難民条約を批准しているのです。その約束を果たさない国であるとすれば、我々の信託もいつ反故にされるかわからないと言えるのではないでしょうか。この国の難民支援への取り組みは先進国としてお粗末なものです(参照)。そして、この国の入国管理局における人権無視は、規約人権委員会の最終見解をはじめ、多くの報告・研究があります(参照)。条約は国会で批准を決めます。国民の代表の決議です。しかし、その条約という国際「法」を、法務省という民主的代表でない機関が無視すると決めているとしたら、大した「エリート支配」の国だと言えるでしょう。藤原正彦氏が心配するまでもなく、日本は十分にエリート支配の国なわけです。素敵なことです。とにかく高裁の判決に注目したいと思います。この国が「普通の国」になるように。
2006.03.07
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ロックの『市民政府論』が二編から成り立っているのは周知の通りだ。そして、その一編目が、ロックの積極的な主張というよりも、フィルマーの理論への批判を展開しているということも、場合によってはご存知のことと思う。さて、その批判というのはどんなもんだったかというと、フィルマーの「父権論」批判なのである。家父長主義的に政治権力を認めようとするフィルマーをたたいたわけだ。■なんか、ロック的(=西洋的?)理論に対し、それを読みもせずに、日本NIPPONには合わない、みたいなことを言う輩がいるんだが、それは文化論としてもお粗末なのは言うまでもない。だって、そんなの日本NIPPON独自のものではなく、フィルマーがテューダー朝期に考えてた理論なんだから。■ロックの叩き方はある程度納得のいくものだ。親=子の関係という力の関係と、政治権力の正統性は別物だ、という主張でフィルマーの論をたたくわけである。俺はこれを当然だと思うんだけどね。■バートランド・ラッセルは、次のようなことを言っている。(フィルマーの「父権論」をさして)このような考えは17世紀のものである。ただし、20世紀になってもこれを信奉する国民が一つある。それは日本だ。俺としては、21世紀は違うよ、と言いたいんだが、自信が無い。
2006.03.06
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『国家の品格』が売れているとのことで、そして盟友renqing氏が書評を載せられたとのことで、アマゾンやbk1を覗いてみた。■■まずもって公正のために言っておけば、俺は件の書を立ち読みでナナメ読みしただけだ。だから、世の熟読者たちとは違う。(しかしながら、論の展開や用いる事例で結構な情報はわかったと思ってるけどね。フォト・リーディング。)そうした実感や信頼しているrenqing氏の書評から来る先入見とは別に、読んでない俺がこの書のことを(正確には、書の周辺のことを)論じる方法もある。読んだ人間の感想を読むことだ。実は俺はこの作業が好きだ。ダメな本にはダメな読書がつくもので、というか、人は人の論理を「読む」とき、自分に都合がいい部分だけを<読む>ものであって、書評の文を読めば、それがどんなものか<わかる>わけだ。ここは俺が伝えたいという意味において結構重要な部分なので、後にリフレインする。■■以前も紹介したがrenqing氏の読み<方>は深く精密である。恐らく時間を掛けて丹念に読んでいるのだろうと推測する。彼(もしかすると彼女かもしれないが)の書評は、しっかりと論理展開を押さえた引用をしており、引用部分においての批評は、未読者にも理解できるものだ。へんな印象論に終わることはまずない。紹介しておく。(難を言えば、この書評をカテゴリとして纏めてくれていないことだ。シリーズとして読み難い。書評カテゴリで探しながら読むってことは可能だが。)氏が最初に言及した「論理と因果」『国家の品格』書評(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(番外)(番外2)(番外3)少し関連して、勝手に共闘宣言をしているハラナ・タカマサ氏の「「国家の品格」論より羞恥心」も紹介しておく。■さて、他者の書評も眺めたわけだが、「論理よりも情緒」という部分に(ここはrenqing氏が書かれているようにかなり怪しい用語法なのだが)、なんだか「直感」的に「共感」してしまっている書評が多くてびっくりした。しかも、「日本の伝統」とか「武士道」ってことまでもが好意的に言及されているものが多く、まるでそんなものがあったかように、あるいはあったのを知っているかのように語るのだが、そういう「信仰心」にも驚いた。そうだったことを今知ったって、あなたはあなたのままでしょ、って言いたくもなる。時代の閉塞感に対し、「真の」エリートを求めたり、安定した「伝統」を求めたくなる気持ちもわからんでもないが、それは安易にすぎませんか? と言いたくなる。彼らは「打出の小槌」や「ドラえもんのポケット」を信じている類いの人たちなのだろうと思う。そして、もっとも不幸だなぁと思うのは、藤原氏が言外に想定するところの「エリートじゃない人たち」として自分たちが数えられていることに気付いていないのではないかと、ちょっと本気で心配になった。なんとなく最近、大正文学(「白樺」「新思潮」など)の時代から昭和軍国主義(特に満州事変)への歴史経緯における思想史に興味があるんだけれど、もしかすると近いものがあるんじゃないかと疑っている。まあ、これはまた。■とにかく、最近書いた「正気なのは売春婦ぐらいでした」「論理よりも感情?」「隠された十字架」は、ひとつの精神的態度のあり方を問題にしたものだ。最後にそれに言及しておきたい。(冒頭部からの「リフレイン」だ)「偶然を廃棄せよ!」というブログがある。このブログの名称はマラルメの詩からとったという。そして、その意味をこう解釈している。私たちは目に留まった事象に関して、何らかの意味づけをおこなおうとする習性がある。多くの場合、それは自分自身の何らかの信念を補強する働きをもっている。だけど、私たちは断固それを拒否しなければならない。なぜならば、そのような態度は精神を偏狭なものにして、やがては感受性を萎えさせてしまうから。門外漢にこの解釈の当否を判断することはできないが、これは何度か言及してきた<自己へのケア>としての自由、「不断の自己反省」の態度と親和性を持つ。今の自分の「信念を補強する働きをも」つ「意味づけ」に対して、「私たちは断固それを拒否しなければならない」のは、「精神を偏狭なものにして、やがては感受性を萎えさせてしまう」からだという警句は心に刻むに値する。蛇足だけど、精神の偏狭性は「差別」において最も見て取れるのではなかろうか。
2006.03.05
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すごく歌いたい。歌の語源は、「訴える」だと聞いた。それが本当は嘘だとしても、俺はその意味で歌いたい。■■■ある人のブログで、必ず最後に歌詞を紹介しているのがあった。■■■この時期にがんばっている君に。この時期にかなしんだ君に。俺は本当は大人ぶった態度なんかとりたくないんだよ。■■■THE BLUE HEARTS「人にやさしく」気が狂いそうやさしい歌が好きでああ あなたにも聞かせたいこのまま僕は汗をかいて生きようああ いつまでもこのままさ僕はいつでも歌を歌うときはマイクロフォンの中からガンバレって言っている聞こえてほしいあなたにもガンバレ!!人は誰でもくじけそうになるもの ああ 僕だって 今だって叫ばなければやり切れない思いをああ 大切に捨てないで人にやさしくしてもらえないんだね僕が言ってやるでっかい声で言ってやるガンバレって言ってやる聞こえるかいガンバレ!!やさしさだけじゃ人は愛せないからああ なぐさめてあげられない期待はずれの言葉を言う時に心のなかではガンバレって言っている聞こえてほしいあなたにもガンバレ!!■■■THE BLUE HEARTS「TRAIN-TRAIN」栄光に向かって走るあの列車に乗っていこうはだしのままでとびだしてあの列車に乗っていこう弱いもの達が夕暮れさらに弱いものをたたくその音が響き渡ればブルースは加速していく見えない自由がほしくて見えない銃をうちまくる本当の声を聞かせておくれよここは天国じゃなんだかといって地獄でもないいいやつばかりじゃないけど悪いやつばかりでもないロマンチックな星空にあなたを抱きしめていたい南風に吹かれながらシュールな夢をみていたい見えない自由がほしくて見えない銃をうちまくる本当の声を聞かせておくれよTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでもTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでも世界中に定められたどんな記念日なんかよりあなたが生きている今日はどんなにすばらしいだろう世界中に建てられてるどんな記念碑なんかよりあなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう見えない自由がほしくて見えない銃をうちまくる本当の声を聞かせておくれよTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでもTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでも栄光に向かって走るあの列車に乗っていこうはだしのままでとびだしてあの列車に乗っていこう土砂降りの痛みの中を傘もささず走っていくやらしさも汚らしさもむきだしにして走ってく聖者になんてなれないよだけど生きてるほうがいいだから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で見えない自由がほしくて見えない銃をうちまくる本当の声を聞かせておくれよTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでもTRAIN-TRAIN 走っていくTRAIN-TRAIN どこまでも
2006.03.05
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別にファンタジーノベルを書きたいわけじゃないし、『ほにゃららコード』みたいなミステリーを書きたいわけでもない。「伝統の再創造」について書きたい。っていうか、また表題パクりました。もちろん、着想もパクりました。初出→「ガラパゴス通信リターンズ」の加齢御飯さんの言(ちなみに、カレーライスさんと読むようです)。以下、コメント欄でのやり取り。きみぃがぁよぉう (足踏堂) はじめまして。いつも勝手に楽しませて頂いております。足踏堂と申します。君が代。賛美歌を元にして作曲されたと聞いたことがありますが、この辺り、加齢御飯さまご存知ありませんか。明治においては、すべて西洋的キリスト教的なるものの移し変えだったという意見もあながち否定しきれない気がします(靖国は一神教の移植等)。 換骨奪胎 (加齢御飯) 足踏堂さま。はじめまして。ブログはいつも楽しく読んでおります。 君が代が賛美歌。きいたことがありますね。神式の結婚式も、キリスト教の結婚式の模倣で大正年間にはじまったものだという話を学生の卒論で知った時も驚きました。 明治の指導者たちは欧化を急いでいた。そして西欧文明の根底にはキリスト教があることを痛いほど感じていた。しかし本物のキリスト教を受容してしまうと、神の目のみを恐れる個人が生まれる。そうした個人が増えれば、薩長の下級士族がクーデターででっちあげた明治政府は簡単に崩れてしまうだろう。そこで薩長藩閥政府がキリスト教の等価物としてでっちあげたのが国歌神道だったのではないか。キリスト教抜きで学校制度を成り立たせるために、教育勅語が必要だったのではないか。私はそう考えています。キリスト教を換骨奪胎した果てに生まれたのが、近代日本の天皇制イデオロギーだったのではないでしょうか・ Unknown (足踏堂) 加齢御飯さま、まめぞおさま結婚式もそうでしたか!いや、本当に面白いですね。曖昧な記憶ですが、以前NHKかどこかのドキュメンタリーで、賛美歌ルーツを検証していて、従来の雅楽説は後付け(のしかも俗説)ではないかと疑問が付されていたように思います(かなり曖昧です・・・)。私としては、かつて忌野清志郎がやったように、ロックの節をつけて「君が代」を歌うとかする試みが好きです。それこそ、「自分たちの国歌」になると思いますけどね。換骨奪胎返しみたいな(笑) 隠された十字架 (加齢御飯) 足踏堂さま。タイトルのことばが浮かんできました。「右」の人たちが「日本の伝統!」と声高に叫んでいるものの多くが、明治になってから、キリスト教文明の模倣ででっち上げられたものがいっぱいあるのではないでしょうか。ホブズボームのいう「伝統の創造」を検証してみる必要がありそうです。 「伝統の(再)創造」というのは、「伝統」ってのは「創造」されているってことだ。そもそも古式ゆかしい伝統行事は必ずしも「古式ゆかしい」わけではない。その多くは近代になって新たに再創造されたものである。このことを「伝統の再創造」(ホブズボーム)という。(参照)■気になっていることが一つさて、気になっていることが一つある。「つくる会」人事だ。八木前会長の「解任」(後に辞任に変更)と種子島新会長の就任。これは「▼CLick for Anti War 最新メモ」さんの記事で知った。「つくる会」の説明は読み返してみても、やはりよくわからない。そういうわけで、本日の掲題らしく、推理と行きましょうか。■八木と種子島八木前会長と種子島新会長の思想スタンスの違いを言えば、それは前者が日本の「伝統」なるものを「反立憲主義」として措定するのに対して、後者は「ユダヤに学べ」主義という、もっとオカルト的な「選民思想」アプローチを採ることである。そもそも「伝統」がおかしいのは上に見たとおりで、それを学問的に押そうとする八木のスタンスに無理があったのは言うまでもない。そこで、もっと「信仰」を前面に出したアプローチを行う種子島が選ばれたと見るのが正しいのではないだろうか。「つくる会」がいよいよ、オウム化していこうとしているわけだ。■隠された十字架そう、結局、明治を大切にしようとする彼らは、明治の近代性ではなく、明治の近代性に擬した非近代性を復活させようと、舵をきったように見える。隠された十字架。選民思想。オカルト。「つくる会」は、ある程度、世相の反映かもしれないと思っている。この国が変な方向にいかないためにも、少しだけ、考える力を残しておきたい。
2006.03.04
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なかなか多忙だったのと、200件目ってことで、ちょっと気張ろうかって思ったせいで、更新遅れた。しかし、思い返して、そういうのに気張るのも意味が無いので、軽く繋ぎにしとこうかと思う。本当は、初めて書く「恋愛論」にしようかとも思ったが、次回以降に。あるいは、「ヴィルトゥとフォルトゥナ」って題で、人生の節目にはいつも思い返していたことを書こうと思ったけど、これも次回以降に。『民主主義と教育』第三章も、もう書けるんだけども、次回以降に。「回り道雑談」もあるんだけど、次回以降に。ってなわけで、いろんなことを次回以降に。200件目のエントリはこれくらいで。
2006.03.02
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