全16件 (16件中 1-16件目)
1
パターナリズム paternalism は、語源を pater(父)とし、馬鹿っぽく直訳すれば「父主義」である。お父さんはお前のことを思ってこうするんだ。ってこと。憲法学においては、パターナリズム的に未成年者や障害者への自由制限が可能だとされる見解が従来唱えられてきたが、ここ最近は、学際的研究者を中心に否定的に扱われてきている。掲題も全く同様の趣旨で、バーリン曰く、カントが言ったとのこと。正確には、「パターナリズムは考えうる限り最大の専制である」である。あ、ちなみに、パターナリズムの訳語は一定していないが、「父権的温情主義」とか「父権的干渉主義」とか、端に「温情主義」とか「父権主義」とか訳されている。■「お前のためだ」パターナリズムの根源的問題性は、「父」が「子」より判断力が優れているということが、いつのまにか前提されてしまっていることだ。わが家庭には、子どもがいないのであるが、さて、子どもが「うろんな客」(エドワード・ゴーリー)として現れたときに、俺としては、えらそーに説教垂れてやる自信がない。(皆さんお気づきの通り)とても完成品とは言えない人間である俺が、なんで「えらそーに」そんなことできますか。人は、自分は正しいと思い出したときからヤバクなると俺は信じている。その正しさが相対的であったとしてもだ。おいおい、そんなこと言ったら、全うな子どもが育たないだろって?あんたの言う「全う」なんて、大したことないでしょ(笑)。とりあえず、森巣博が育てたパトリック・モーリスよりも頭の良い子を育てた方だけ、俺に反論してくださいね。ちょっと、森巣博でも引用しようか。〔『無境界家族』p.11〕もし不登校児が、子供の心に巣食った社会規範に反する「人格障害」や「行為障害」であったとしても、息子には、わたしや世間には理解しがたい息子自身の個的な理由があったからこそ、登校を拒否していたのだ。それを「親」という、わかったようなわからないような権威のみを持ち出し、息子に対して「偉そーに」説教することなどわたしにはできない。〔中略〕子供を説教している親を見掛けると、わたしはいつも夢想してしまうことがある。頭を垂れ、昏い力を眼底に抱き、憤怒の炎をもやすあの少年が、もしわたしだったら、とつい考えてしまうのだ。正義の名において社会の陳腐な常識を並べたてる父親に向かって、反撃するんだ。ちょっと古いが、造反有理。少年(と少女)よ、大志を抱けっ。「それなら父さんは、何なのさ」この一撃である。この重い問い掛けに答えられる父親とは、いったい世界中に何人ぐらい居るものなのか。わたしはこの問いに答えられない。おそらく世界中の多くの父親たちもそうであろう。ちなみに、この育てられ方をしたパトリックは15歳で大学入学、19歳でケンブリッジの大学院のいきなり博士課程へ。言うまでもなく、数々の賞を在学中受賞。その後もすごいがこれくらいでいいでしょ。これ以上のご子息ご令嬢がいらっしゃれば、どうぞ反論ください。まあ、とにかく、「お前のためだ」なんて言うとき、結構自分勝手だよね。ってこと。■パターナリズムの問題上では、パターナリズムが言われるときの前提構造を見た。そこに絡むが、パターナリズムの一番の問題は、「お前は考えるな」が裏に含意されていることだ。パターナリズムにおいては、「父」が理由をわかっていればいいわけで、「子」は考えずに従わなければならない。しかし、「父」の勝手ってけっこうあるよな?ここには、いつも語っている「直感」とかの問題があるわけだ。■事例――猥褻雑誌きた。これです。「パターナリズム」といえばこれです。昨今のコンビニの「エロ雑誌コーナー」は、バカ丁寧にも、18歳未満には立ち読みすら禁じている。これは俺の住む土地のパターナリスティックな条例による。子どもがあんな雑誌を読んだら大変だ(直感!)、と、こうです。おいおい、読まない方が大変だよ!世のお父様方、思い出してください。エロ雑誌読みましたよね?読まない奴の方がヤバクないですか?健全に育った中学生・高校生が読まない方が問題じゃないですか?世のお母様、あなたは「ご主人(フェミコードに引っ掛かってますが)」から満足させてもらってますか。もしYesなら、それは「ご主人」がそうした本を読んでいたからです。感謝しましょう。もしNoなら、それは「ご主人」がそうしたことに疎かったからです。お子さんに、「勉強しないと、お父さんみたいになるわよ」と言う前に、「エロ本読まないと、お父さんみたいになる」ことを心配しましょう。(ところで、猥褻規制については、法理的に唯一成り立つとすれば、フェミニズムからの「女性の性の商品化批判」の主張だけだと俺は考えている。)■事例――ワイマールもうちょっと、真面目にいこう。パターナリズムを考えるとき、どうしても積極的自由と切り離して考えることはできない。なぜなら、積極的自由とは「正しさ」を求める運動であり、それに従えばよいという基準をつくる機制であるからだ。誤解を恐れず言えば、あらゆる制度はある種パターナリスティックなわけだ。パターナリズムは、権力側の一方的措置として考えるのでは不十分。そこには必ず関係性の問題が生じてくる。つまり、相互依存の関係。「お前はこうすればいいんだよ」と言われるときには、言うまでもなく裏に「考えるな」があり、弱者側には、常に「じゃ、どうすればいいんですか?」が問いとして保存され続けるわけだ。完璧な歴史記述かどうかは別に、ワイマール期にこの積極的自由が高じたことが、ナチスを誘導したという論がある。確かに、無思考とナチスへの期待が、悲劇を導いた可能性は否定できまい。最も民主的と言われたワイマール。その民主制を担保したのが生存権を主とする社会権の発展だった。それが無思考を誘導するような相互依存関係をつくった可能性は否定できないのではなかろうか。(問題は、権力=被権力の構造において、「考えるな」があったことにあるわけで、俺が一部でも社会権を否定しているなんて思わないでね。)■本題。さて、やっと本題。miyauさんにTBで教えて頂いた問題を俺も繰り返す。ってか、まず、もう取り上げられてる方々のところ見てきて(笑)。「そぞろ日記」miyauさん「PSE法に見る「新自由主義の影」-PSE法に対する署名にご協力お願いいたします」「国民の立場に立つ国会議員は誰だ-PSE法関連続報」「本に溺れたい」renqingさん「天下の悪法、「電気用品安全法」に反対する」ええと、いろいろと扱ってるブログ・サイトが多いようですが、上の二者を入り口として、リンク先へ行けば、いろいろわかりますので、紹介はこの二者だけで(笑)。■電気用品安全法の何が問題か上で概略を知って頂いたものとして、俺なりの見解を。経済産業省「電気用品安全法の概要」俺は、これがもちろん財界との癒着から来ているものと見ているわけだけど(普通、そう見えるよな)、それよりも、権力側が、俺らを「子供として扱い出している」ことに大変な危険を覚えるわけだ。「国民保護法」「人権保護法」「電気用品安全法」・・・名前は立派だ。しかし、「保護」とか「安全」ってのを、押し付ける政府ってのは、絶対に危険だ。父親面する政府。俺は専制政治が待っている気がしてならんわけだ。「パターナリズムは考えうる限り最大の専制である」こういう構造に問題を感じる方は、ご署名を。⇒電気用品安全法(PSE法)に対する署名
2006.02.26
コメント(0)
今思い浮かぶのは、これくらい。■吉野弘「日々を過ごす」日々を過ごす日々を過つ二つは一つことか生きることはそのまま過ちであるかもしれない日々「いかが、お過ごしでしょうか」とはがきの初めに書いて落ち着かない気分になる「あなたはどんな過ちをしていますか」と問合せでもするようで―■石垣りん「くらし」食わずには生きてゆけない。メシを野菜を肉を空気を光を水を親をきょうだいを師を金もこころも食わずには生きてこれなかった。ふくれた腹をかかえ口をぬぐえば台所に散らばっているにんじんのしっぽ鳥の骨父のはらわた四十の日暮れ私の目にはじめてあふれる獣の涙。■かつて聞いた話だけど、FAOかどこかの発表で、世界の穀物自給率はほぼ100%を超えていて、もし流通がうまくいくならば、餓える人はいないはずだということだった。それなのに飢餓の地域があるのは、私たちが肉を食べるからですと。なぜか。それは10kgの穀物が1kgの食肉に変わるからだと。牛を育てるには飼料が必要で、とうもろこし10kgが肉1kgに変わる。私が肉を1kg食べることで、世の中の9人が飢えると。もちろん、その話をそのまま真に受けて、断食してもしょうがないことは俺も知っている。だが、感じ入るところもある。■一時期、ビジネス書というジャンルを読み漁った。週に3冊は読んだ。恐らく、300冊くらいは読んだ。「成功哲学」とかいう、「哲学」と語義矛盾を来たしているような本もたくさん読んだ。多くは、「素直」になれと書いてあった。自分の活動が人を傷つけている可能性があることなんか忘れろ、とにかく「今の」階層社会において上に上りつめることだけ考えろと読めた。日本という名前の国において、資本主義という名前の制度の下で、どのようにすればお金が得られ、その金によって、どのように楽ができるかが書いてあった。誤解されないために言っておけば、評価できるビジネス書はたくさんある。ピーター・ドラッカーなど、大いに評価できる。しかし、評価できないゴミみたいな本も、言うまでもなく、溢れていた。上の濫読は、個人的に言えば、仕事には役立ちもしたが、自分の成長に寄与したとは思えないものばかりだった。「成功」ってなにか。「成長」ってなにか。小さな世界でのゲーム。早上がり目的のゲーム。そのゲームで得られるものは何か。失うものは何か。■「日本の教育は、殺人教育です」伊勢崎賢治『インドスラム・レポート』「藤井日達師との出会い」から引きたい。お寺とのご縁で一生忘れられない印象に残ったのは、何といっても藤井日達師に100歳で亡くなられる前にボンベイでお会いできたことです。ボンベイ道場のお坊さんが、僕の経歴、つまり早稲田大学出身で今ボンベイ大学でソーシャル・ワークを勉強している云々と師に紹介されると、師は合掌したまま、太陽のような笑顔のままで一言。「日本の教育は殺人教育です」。藤井日達師。(参照)その時は、何の事かわかりませんでしたが、今世紀最後の聖人と言われるようなかたの言葉は含蓄のあるものです。確かに日本の教育は間接的に殺人を犯していると思われます。誰もが善として疑わない自国の経済発展。労働問題もインドなどに比べれば天国のように改善され、物質的に何の不足も無い社会。労働問題が解決され資本主義形態が、自国の中で完結していれば問題は無いのですが、資本家はその代償を国外に求めました。その犠牲となったのは第三世界です。一呼吸。重工業をそういった国々の僻地に移転し、有り余る資源と低賃金で地元労働者を雇い、利益を上げる。その利権を得るためにその国の支配層と癒着し社会不正を助長し、規制がないから工場廃液を垂れ流しほうだいで、地場産業を崩壊し、地元民を貧困に陥れる。もう一呼吸。これは生き殺しの状態です。資本主義形態の持つ矛盾が、国内で現れていれば、労働闘争などで世論が批判的になるが、海外に拡張し始めるとどんな事をしようと遠くて見えないから問題意識が起こらない。特にマスコミが資本家に操作されれば、日本の労働者階級は自国でアメを与えられ、問題提議する意欲さえ起こらない。米国や西洋の情報に比べ、こういった第三世界の情報流入が極端に少ないのはその証拠です。しょうがないじゃん。しょうがない。他者が死んでもしょうがない。自分がもしかして原因だとしても目を瞑ろう。ゲームに集中しろ。■日本の教育の大きな貢献。このような情況に大きく貢献しているのが日本の教育で、一番批判的精神が旺盛なはずの学生を白痴化させ、日本経済発展の為のロボットに仕立てあげていく。その結果が、知能指数は上がったが海外に対する興味知識は他国に比べても子供並み。今の世では、ビジネス書が社会人までもを再教育してくれている。ゲームに集中しろと。伊勢崎氏が問うていることを、俺はもう一度真剣に考えたい。はっきりいって、学問とは一体何でしょうか。学問は、いつから、自分だけが良くなるための道具に変わったのだろう。その陰でどれだけの人が苦しんでいるかを考える暇も無いのでしょう。この言葉、吉野弘の詩、石垣りんの詩、藤井日達師の言葉、もう一度真剣に考えたい。
2006.02.23
コメント(2)
なんというか、「難しいことは考えずに今の感情に素直に従おう」という考えがまた最近出てきているように思えます。ちょっと怖いです。前々回挙げた、無学文盲の人間は「神」というものに弱い、といったことと通ずる気がします。特に、靖国問題については幾度か語ってきましたが、一生懸命お国のために戦って死んだんだから尊ぶべきだ、という言が、参拝を支持する人たちのすべてのスタートのように思われます。そういう「志向性」(つまり、靖国を肯定的に捉えたいという意志)があると、すべてのことが肯定的に見えてきます。そして、反面、そのことで見えなくなるものもまた生じてきます。確かに尊ぶべきかもしれない。でも、それは決して戦争肯定には至らないはずです。ちょっとしたアナロジーを想起してみます。酷い社長が経営する会社があるとします。酷い経営なんだから、もちろん業績は右肩下がりです。そのような中で、それでもここは自分の持ち場だからと、そこを離れずに、結局倒産するまで付き合う(言うまでもなく、倒産は関係者たちに迷惑を掛けます)。確かに、この人は天晴れです。認めます。しかし、その人は、それをまた繰り返すのでしょうか。というか、繰り返すべきなのでしょうか。いや、僕は嘘をつきました。そんなもんじゃない。もっと考えなければならないのは、戦争に至れば、その人は死ぬってことです(いや、もっともっとの人がです)。その失敗を経験に変えることもできない。それは後世に伝えるとでも言うんですか? そして、それなのに教訓を何も伝えられていないかのように、再度同じ過ちを繰り返そうと言うのですか?祖国のためって何でしょうか?それは社長が間違っているとわかっていながら従うことでしょうか?あるいは、社長が間違ってるんじゃないかと思えてきたときも、周りが一生懸命にやっている仲間達だからと、疑うことをやめることでしょうか?そもそも、を語りましょうか。会社に残る態度は天晴れだという考えについてです。ちょっと難しくなりますが、その考え自体がイデオロギッシュです。つまり、自分がそう考えてしまうのは、そう思わされるような権力構造があるからです。ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム論」で論証したのは、『私』が思考の主体としては存在していない、ということです。つまり、自分で思ってると思ってることは、端的に「思わされてる」ことなわけです。だから、「反戦老年委員会」のましまさんが語られていたように、「狂気、狂気、狂気。正気なのは売春婦ぐらいでした」というような「狂気の時代」が「全体的雰囲気」として生じてしまうわけです。皆が「直感的に信じて」それを導いていくわけです。「素直」とか「直感」という言葉は本当に怖いものです。繰り返しますが、それらが生じるのは、そうした感情を抱かせる「全体的雰囲気」があるからに過ぎません。それのことを、僕は「<知>の前提」と呼んできました。もうちょっと分析してみましょうか。そうした感情を抱かせる要素はたくさんあり、そのときに応じて異なりますが、この国に住む人たち多くが、先のような社員を「天晴れ」と思う「<知>の前提」を考えてみましょう。そこには、「忠臣の理想」がまずあります。多くの人が「忠」ということを評価するように教育されている。さらに、「祖国」という考えがあります。自分はこの国に生まれたという「運命性」を感じているはずです。ですが、そうした事柄は、完全なる「刷り込み」のはずです。そうした<知>の前提に導かれて、我々はそれを「天晴れ」と「素直」に「直感」するわけです。もちろん、昨今は変わってきたところがあることに気付かれているでしょう。先の会社の例で語れば、そうした会社を見切らない方がバカだ。という考えもあるでしょう。そして、言うまでも無く、それは「<知>の前提」が変わってきてるからに他なりません。多少の語弊を恐れずに、欧米化したとでも言いましょうか。僕が、変わって良かったなんて言ってるわけじゃないことは、読者諸賢にはお分かりになるでしょう。ここで述べたいのは、「それは変わる」という事実だけです。さて、僕はどうなのでしょう?僕ももちろんそうした<知>の前提に支えられて思考しています。だから、やはり先の社員を天晴れと思います。命を投げ出した方々を尊いと思います。しかし、それだからといって、「素直」に、感じたままに、行動はしません。人を不幸にする事柄に与している可能性をいつも考えて生きる・・・のは無理かもしれませんが、少なくともそうしようと努力はしています。それくらいの責任は持たねばならないと思っています。<自己へのケア>というのは、そうした「不断の自己反省」、つまり、自分が素直に思ってしまうことへの反省であるはずです。自分でない自分というものを志向する態度であるはずです。どうして、そうするのか。「直感」や「素直さ」は、事柄を「歪んで見せる」力があるからです。先日miyauさんがコメントしてくださったように、誰もが悪いと認める事実さえもが目に入らなくなり、その人を賛美するようになってしまったりするからです。前回、前々回に書いたように、そして次回また書くように、その陰で、最も弱き人たちをさらに不幸にすることを手伝っている可能性があるからです。「素直」な「自分」は<自分>ではないという可能性に、目を閉ざしたくありません。自分が安心して生活できる位置にいるからこそできるような、簡単に「ラベル」を貼って満足するという態度はとりたくありません。もう少しだけ<他者>への開かれた態度を採りたいと考えているわけです。もちろん100%がありえない営為ですが、論理は、少しだけそこに近付くのを手伝ってくれます。
2006.02.22
コメント(2)
こういう題で挙げると、あんまり読んでもらえないのかもしれないけれど、前回の記事を読んでくれた数人の知人からは「面白かった」と言ってもらった。皆、俺がアンベドカルを知らなかったということについては触れないでくれていたけど(笑)さて、前回、抑圧=被抑圧の「安易な二元論」でインド問題を語ることに対する伊勢崎氏の苛立ちまでを紹介した。言うまでもないことだが、そうした「安易な」理解は、以前の俺が持っていた「一方的なインド観」と大差が無い。これも、同様に「抑圧政治の思う壺」ということになろう。伊勢崎氏の一番の苛立ちは、山際氏のような「外部の同調者」に向けられている。インド内でも、そうした問題をどのように解決すれば良いのかわからず混乱があるのではないか(だからこそ、スケープゴートとしてガンディに怒りが向けられるのではないか)と語ったうえで、伊勢崎氏はこう続ける。混乱しているものたちに、「部外者」がやたらに同調し、一緒になって「空虚」なものに怒りをぶつける、こんな部外者ならインドに近付いてもらわないほうが良いのです。正当な「他人事主義」批判である。毎度毎度俺は書いているが、責任を持たない仕方で「関わる」このやり方は、最も醜い(公正を期して言えば、俺は山際氏の著作を立ち読み程度でしか読んだことがなく、しかもほとんど忘れているので、ここでの言いは、「一般論として」ということを断っておく)。さて、では「インド論批判の巻」の圧巻。■特別優遇制の<失敗>まず、挙げられている例からみてみたい。去年、グジャラート州アーメダバードを中心にして巻き起こった大きな虐殺事件を生んだカースト戦争は、州政府が大学入試や役所雇用に於けるこの不可触民の特別優遇制の枠を(選挙前で、不可触民票を引き付ける為に)大幅に広げようとしたことに対する上位カーストからの猛烈な反発が発端となりました。これは、上位カーストの「妬み」であると思われていますが、彼らにも言い分があって、アンベドカル博士などの努力によって差別撤廃の為に発足されたこの制度が、本来の機能を果たしていないことにあったのです。この制度でポストを得た不可触民出身者は、上位カースト達がやっているのと同じことを繰り返しているだけだという。コネ社会が強化され、特定同族内でポストが独占され、能力が無くてもコネで採用される。結果として、この制度は、不可触民全般の利益にはならない、というわけだ。僕の今のスラムの活動では、住民の側に付いて、政府関係役所との交渉が多いのですが、この役所通いは全く頭痛のタネで、同じ不可触民である貧しいスラム住人から、仕事と引き替えに賄賂を取ろうとするのは、全く能無しの、休むことと賄賂を取ることしか考えていない、この不可触民出身の役人です。彼らは、一体抑圧者なのでしょうか、被抑圧者なのでしょうか。ダリット(被抑圧者層)がダリットを抑圧する。伊勢崎氏の「外部同調者」への苛立ちはこうした認識に根ざしている。そして、俺はここに普遍的な問題構造を見る。■「損」をしないように俺が普遍的問題だと思うのは、「弱者に住みにくい社会は強者にも住みにくい」というかたちでも言い表せる問題だ。これは構造的問題になっている。同じ不可触民なのだから、一致団結したらどうなのかと、いつもいらだちをもって思うのですが、異なる州、言語、宗教、カーストの様々なコミュニティを包含するスラムは、マジョリティがマイノリティを搾取する類いの内部争いの最多発地帯なのです。〔中略〕一体、敵は誰なのでしょうか。こんな悪者探しは、問題の本質を混乱させるばかりです。インドには、既に隅々まで縦横無尽に不正の共生関係が出来上がってしまっていると思うのです。そして、上位、下位、不可触民、全カーストを通じて、それに加えて州の違い(例えば、ブラーミンでも州をまたぐ横のつながりは全くない)言葉の違い、宗教の違いを通じて、無数の小さな閉じたコミュニティが存在し、それらに更に政治色が加わり、排他的に対立している情況に問題の根本はあるのではないでしょうか。こうした構造が、どんなに良い政策をつくっても、それを機能しないものにしている。そして、その構造は、問題を再生産する構造でもあるように思う。今の情況を心良しと思うインド人は一人もいないのです。しかし、その具体的な解決策に関しては、皆、絶望状態で、不安であり、だからこそ、「損」をしないように自らの小さなコミュニティに固執するのです。問題の全責任は、誰にも無いと同時に、全国民にあるのです。南アなどと違って、単純に「白」が「黒」を差別するわけではない構造では、「抑圧者」という言葉に意味はなく、抑圧=被抑圧の二元論が有効性を持たないわけだ。伊勢崎氏の苛立ちがわかる。「損」をしないように行動するのは、当然のことのはずだ。それが問題を拗らせるにしても、弱者にはどうしようもない。■分断の拡大再生産少し脱線するが。排他的な閉じたコミュニティに固執してしまう問題は、たとえば「道徳教育」なんかで直るものではない。今日食べていけない人間が、どのように生き方の倫理を語れるというのか。だいたいにおいて「(道徳)教育」や「努力した者が報われる社会」なんてことを言う奴等は、その人生(特に初期に)において、そうした苦労をしたことが無いのだろう(ちなみに、俺は家の電気が止まるとか水道が止まるとかガスが止まるとか頻繁だった笑)。努力したって報われないということを殊更強調したいんじゃない。その前提を問題にしてるだけだ。絶対の格差がある。環境にも格差があれば、知的リソースを得るチャネルにも格差がある。百科全書が揃ってる家と、親が文盲の家には、その環境において明らかな格差があることくらい、気付いてほしいものだ。そもそも人間の性向でさえ、自分自身では決められないはずだ。自身の性格を最も決定付ける時期に、自分に対してどれほどのことができただろうか。少なくとも、俺個人に関していえば、こうして多少なりとも学問への関心を持っているのは、単純に、そして完璧に「偶然」に過ぎない。僥倖とも言うべき<出会い>がなければ、こうはなっていなかった。気を取り直して。引用しよう。僕は、インドのこの分断情況をイデオロギーの乱立ととらえています。つまり、宗教、言語、カースト、サブカースト、出身地、そして共産主義など舶来のものまで、何でも「差」を捕らえて独自のイデオロギーを形成し、武装する。以前「ナショナリズム戯考」で考えた態度と近い。そして、いつも書いているとおり、大切なのは、我々はそうした思考態度に囚われてしまうのはなぜかだ。この点も伊勢崎氏の洞察は優れている。いつでも、侵略、武装、内乱の歴史の絶えなかった不安定な社会情況では、また、何かのイデオロギーの傘の下に居て、防御の態勢を取ることが、生存の為の必須条件となってしまうのです。こうした社会では、もどかしく感じつつも、そのもどかしさから抜けられないわけだ。これこそ、集団的意思を志向する「政治」の解決するべきことのはずである。それが、自己保身の政治家たちの国では、もう、どうしようもなかろう。インドのことを語ってるのか、どこかの極東の国のことを語ってるのかわからなくなってきたが。■なにができるか自分がいつ抑圧側に属してしまうかわからず、「政治」の場が問題の解決よりも、次の自分の当選と出世という「悪の凡庸さ」を抱えてしまっている状況で、俺はなにができるのだろうか。このことを考え続けなければいけないのかもしれない。最後の部分を引用しよう。こんな情況を考察するに付け、インドを分断するあらゆるイデオロギーから自立し、自分達が自分達の手で、相異を越えて共同で築き上げたものの上に自信を付けながら連帯を築くために、住民運動ということを主眼において、僕は今、ここダラビたおいうスラムで活動しています。部外者として、どこまで出来るかわかりませんが、少なくとも、ここインドで何もしないで、ガンディー主義者にしろ、インドの一部の人間を批判するようなマネはしたくない、これはいつも肝に銘じていることです。やれることは、絶えざる自己反省のもと、考え続けることであるかもしれない。■完全なる蛇足――この国の今後?この国における「福祉国家」から「セキュリティ国家」への移行は、負のスパイラル的問題構造へと向かうものだというのは、述べてきたところ。「安心して暮らせる社会」という語に、「中上流階層が」という主語をつけて語られる状況では、少しも解決に近付かない。「分断」を促進するような「自警団」や「警察国家」よりも、「弱者が安心して暮らせる社会」を求める方が、正しい路ではなかろうか。「ライブドア」は「教育」のせいだなどと頭の悪い妄言を吐く前に、しっかりと「政治」のやるべきことをやってほしい。圧倒的多数与党の意味がないじゃないか。こうした観点に立てば、「教育」は弱者にではなく強者にこそ向けられなければならないことがわかるはずだ(その意味で俺は教育信奉者だ)。「教育」の問題を言うなら、あなたの再教育からお願いします、エリートの安倍さん。
2006.02.21
コメント(0)
「紛争屋」伊勢崎賢治氏が結構前に書いた『インドスラム・レポート』をちょこっと読んだので、その部分を皆さんにシェアってことで。「インド論批判の巻」ってところ。■ガンディとアンベドカルいや、なんというか顔から汗が出そうなんだけれども、アンベドカル博士ってしらなかったんだよね(恥恥汗)。まあ、しかし、そういう人も他にいるだろう、と勝手に気を取り直して進める(こっから先の理解は、伊勢崎氏に負ってるのは言うまでもない)。われわれ一般人(と言ってもいいよね)の理解では、なんだかインドの独立は、インド全国民がガンディに率いられて勝ち取った、って感じだったと思うが、頭を冷やして考えれば当然の事ながら、そんな単純だったはずがない。ガンディは政治家であって、もちろん政敵もいたし、すべての行動を支持されていたわけではない。彼の行動は、ある人たちにとって、ときには「わがまま」にも映ったようだ。そして、その「わがまま」を攻撃したのが、不可触民層で、その先頭がアンベドカル博士だったと。「わがまま」ってのが何かといえば、ガンディの政治的矛盾。ガンディは、(政治家によくあるように)不可触民に対する社会的、文化的差別に(口先だけは?)反対しながらも、その原因であるカースト制には目を瞑っていたわけで、まあ、都合よく不可触民「票」をあてにしてたってことらしい。まあ、「断食」という「伝家の宝刀」で世論を動かすガンディは、政治家としてなかなかの手腕なわけで、アンベドカルも、ガンディとしばしば政治的妥協をしなければならなかったよう。んでもって、まあ結局独立に際しては、アンベドカルが人口の大半を占める被抑圧者階級から支持を受け、纏めたってことだ。だから、まあ、ガンディの功績ばっかを讃えないってのが、まず、押さえるべきところだな。■タブーとしてのガンディさてさて、だけども、ガンディについてはそれだけじゃすまない。俺は、ガンディってのは、それでもインドの人たちに尊敬されてるんだと思っとった。どうも違うらしい(汗汗恥)。アンベドカルは、英国からの独立が達成された後に、ヒンドゥ上位カーストによる専制支配がさらに強化されることを恐れていたし、同様にイスラム教徒の指導者であったジンナーも恐れていた。それが、しかしまあ、案の定。ガンディの死後、彼は文字通り「神」の存在になってしまって、それを盾にその後継者たちは酷いことやったんだな。ここで、伊勢崎氏、おもしろいこと書いてる。人口の大部分が、無学文盲のインドは、何よりこの「神」に一番弱いのです。大差ないのをこの国にも見るが・・・。まあ、いい。もうちょっと引用しようか。後継者たちは、この弱点に付け込み、ガンディーさんの名前を政治的に利用するだけ利用しました。はい。どっかの国の天皇家支持者のようで。もうちょっと、いきますか。今では、ガンディー主義者とは、ガンディーが奨励した「カディ」を着て、ガンディーの像を拝み、その裏で汚職で私腹を肥やす悪徳政治家の代名詞になっております。ここまでなら、まあ笑い話なんだけれども、「汚職はインドの隅々まではびこり」、「絶望的にインドの体質とな」っていて、「少しは批判精神のある教育を受けた一般市民や大学生でも、ガンディーさんについてはもう完全に白け切ってい」るとなると、これはもう大変な問題だ。そしてそうした層は、政治に関する興味を失い、選挙投票率も極めて低いという。是正するのが難しいほどの構造上の問題にまでなってしまっているわけだ。悪徳政治家たち政治ショー(ガンディーやネルーの大きな写真の前でひざまずく)に騙されるのは、「政治家にとって真に有り難い票田である農村の無知文盲のおじちゃん、おばちゃん達」だとのこと。どこも同じだね。とか言わないけれどね。ただ、これも笑い話ですまない。もうちょっと引用しようか。都市のスラム住人は、農村に比べて、色々な価値観に接する機会が多いという事から、意識がひらけており、その中でも、住民運動の気運などのあるスラム住人の前では、ガンディーの話はタブーです。ガンディーの名の下に、いかに搾取が行われてきたかを知り、そしてその搾取された当事者である彼らにとって、ガンディーとは敵であり、ガンディーが評価されることは、身を切られるような屈辱であるのです。そして、彼らは、インドの人口の大部分を占める被抑圧者階級の代表であるのです。■抑圧政治の思う壺まあいつも書いてることだけれど、ちょっと前の俺のような勝手な思い込みは、抑圧政治に手を貸してしまってることになる。ガンディー素晴らしいってことを言ってるってことは、インドの本当の状況を想像するうえでの枷になっていたということは疑い得ない。反省。伊勢崎氏の挙げる例。インドはネルー首相時代から、平和外交の旗手として振る舞っており、例えばつい最近も南アの黒人差別政策に反対するため、英国下のコモン・ウェルスのリーダーとして、サッチャー首相に働きかけるということをラジブ・ガンディーが行ない、人間性、世界モラルをリードするインドを見せつけましたが、インドの「もう一つの顔」である、貧しい下層の人々にとって、大変白々しく受け止められております。僕もスラムの中に居てそう感じました。インドの農村部では、アパルトヘイト以上の抑圧、虐待が続いているというのに。伊勢崎氏は、その上で、われわれにこう訊ねる。この国際舞台での虚偽に、我々の一方的なインド観は一役買ってないでしょうか。それは、抑圧政治の思う壺ではないでしょうか。汗ダラダラ・・・。■ガンディは悪者かガンディのイメージによるそうした一方的インド観という「偏見」を防ぐ意味でも、アンベドカル博士が紹介されることは結構だと、伊勢崎氏は述べるのであるが、「しかし」と彼は言う。こうした差別をセンセーショナルに描く差別問題研究者がいるからだ。伊勢崎氏は、名指ししている。その中で、一番不快に思ったのは、山際素男著『不可触民』、『不可触民への道』です。伊勢崎氏は、書いてあることは疑う余地がないと認めつつも(被抑圧者層〔ダリット〕や支援者のソーシャル・ワーカーが、生きたまま焼き殺されたり、手足・首をバラバラにされて殺されるなどを伊勢崎氏は実際に目にしている)、しかしその一方的なガンディ批判の調子を批判する。彼の著作では、インドにはガンディー主義者たるヒンドゥーの抑圧者と、ダリットたる被抑圧者の二元論があたかも成立するような印象を受けます。ダリット達が、その「抑圧者」に対して戦っていると。この先の考察は、大変優れている。洞察に満ちている。というわけで、今日はここまで。(引用だらけになったなぁ)
2006.02.20
コメント(0)
今日はちょっと更新ができそうな予感(笑)まあ、書きたいことを書く前に、ちょっといろいろ書こうかと。■決定論何度かァイザイア・バーリンに言及したが、知の世界と同様、主に彼の「二つの自由概念」に関してであった。しかし、個人的に読んでて思うのは、バーリン個人が結構熱を入れて語っていたことのメインは「決定論」批判であったように思う。物事は必然的に決まっていて、それは無理だ、どうしようもない。といった言明に繋がる考え方を徹底的に叩こうとしていたように思う。俺も同意するところだ。決定論は、いいところで「質の悪いニヒリズム」にしかなりえず、酷いのは(というは、頭が悪い奴に使われると)「偏狭なナショナリズム」になってしまう(「民族」とか「血」とか言い出すんだよなぁ)。「日本NIPPON」には立憲主義が根付かないとか、まともな論理力と、引き篭もらないで外の世界を見るだけのほんのちょっとの行動力さえあれば、出てくるはずがない頭の悪い見解も、決定論に支えられているからこそ生じる。彼らは、「日本人は放っておいても日本語を話すようになる」とでも信じているんだろうか? 「純血」の「日本人」なのに「日本語」をカタコトにしか喋れない俺の友人はどうなるのか。(酷い例だけども、DNAという用語をこれくらいアホなレベルで使ってる例はたくさんあるぞ。あと、血液型 笑)「日本NIPPON」には根付かないというアホな物言いでなく、もっと大きなレベルで語られるなら傾聴に値するということは言っとく。立憲主義というもの自体が原理的に<不可能>なのだ、という言であれば、聴くに値するが(といっても反論しますが)、そこになにやら正体不明の「日本NIPPONでは」とかいう、うんこな条件節をつけられると、俺の思考回路は、頭の悪い奴だから聞かなくてもいいぞ、と経験的に結論を出してくれる。しかし、少しでもdecentな世を目指そうとする意志があれば、そういうアプローチは採らん、とまでは言わないけれども、少なくともそこに留まって満足するようなオナニストにはならないだろうという気はするわな。■お前の言う「教育」ってなによ頭の悪い安倍がまた白昼夢を見てるような物言いをしてるらしい(「とりあえず」さんの記事)。まあ、安倍にとっての「教育基本法改正」は、小泉の「郵政」と同じで、なんか政治家の赤ん坊として物心ついたときに覚えた「一つ覚え」だから、何かあるたびに言ってるんだろうけれども、本当に頭が悪いんだなぁ、と感心するのは、安倍は何でも原因を「教育」の言で済ますからだ。これは「とりあえず」さんが言われている通り、その通り、「教育」のせいでお前が政治家やっちゃってるわけだ、と言うことに全く間違いがないと俺も思う(笑)。安倍が頭の悪いことについては、ちゃんと識者も指摘してる。高橋哲哉『教育と国家』は、初っ端から取り上げてくれている(この本は面白い。前も書いたが『靖国問題』よりも好著だと思う)。論理飛躍と、データの裏づけ無し発言。安倍がやりたいのは、「教育」という誰でもひとまず受け入れる言を使って「軍国化」をしたいだけなんじゃないの。つまり、「お国」のために(本当は自分たち世襲政治家のために)死んでくれる奴を作ろうとしてるだけじゃないのかね。まあしかし、「とりあえず」さんの挙げられている記事に戻れば、俺が一番驚いたのは、自民党の(!)官房長官が「ライブドア」事件を「教育」のせいにできる無神経さだ。まあ、たぶん、安倍にかかると、ヒューザー小嶋社長が飯塚秘書に相談を持ちかけたのも「教育」のせいになるんだろうなぁ。安倍にとって「教育」は、中世における「悪魔」という語の代用を果たしているわけだな。「諸悪の根源」は常に「教育」であるわけだ。■変なエリート主義なんというか、頭が悪いという意味での「保守」なやつらはエリートの必要性を言いたがる。安倍なんかも自分をエリートと思ってるんじゃないかね。俺もエリートが必要ないとは言わない。ただ、問題は、この頭の悪い国における「自称エリート」たちは、ちっとも頭が良くないってことだ。「自称エリート」たちは、やれ「教育」が悪い、やれ「国家の品格」が云々と言いたがるが、その発話行為は、自身が槍玉にあげられない位置に居座ることを可能にするというイデオロギッシュなおまけがついているわけだ。何かの問題を論って、悪者探しをする奴は、自身がその対象にならないように振舞っているに過ぎない。「いじめられたくないからいじめる」という「戦後教育の失敗」を最も体現してくれているわけだ。そういうやつらが、「教育」を論じるのもおかしいし、そういう「自称エリート」が「エリート必要論」を論じるのもおかしい、ってことを敢えて指摘してあげないといけないのが哀しい。某(中途半端)数学者の『国家の品格』については、「本に溺れたい」さんの最近の精力的な書評記事がおもしろい。この「とんでも本」について関心があれば(ある?笑)、必読。まあ、安倍にも某数学者?にも共通するのは、論理飛躍と、適当な引用。主に自分の「感覚」に頼った議論をしていて、そこにあるイデオロギー性に気付いてない。そういう「エリート」の危うさをもった「人の支配」に代わるものとして「法の支配」が出てきたのが人類の資産であって、それをしっかりと積み重ねようという意志を持つことの方が、大切なんじゃなかろうか。人間の(なによりも「エリート」の)誤謬性をどう制御するかの思想の積み重ねが、歴史的資産であり、俺は立憲主義をその意味において捉えている。■正気なのは売春婦くらいでした「エリート」支配ということで言えば、戦前の陸大や海大卒の「エリート」たちが、どのように「日本NIPPON」を敗戦に導いてくれたかを思い出せばいい。しかし、生きていた人の言というは重い。この小見出しは、「反戦老年委員会」さんのましまさんの言から勝手に拝借した。狂気の時代。安倍はそういう時代に戻したいんだろうね。国民が狂気を持てば、自称エリートの世襲政治家は好き勝手できる。
2006.02.19
コメント(4)
これもいつもの通りで、柴田元幸氏自身を嫌いというよりは、彼を崇拝してしまう現象への反発の方が大きいかもしれない。とはいえ、ということは、柴田元幸氏自体をも俺は高く評価してるわけじゃないわけで、まあ、そんな題になりました。こんなこと書くのもなんだなぁ、と思ったんだが、どうしても次は『民主主義と教育』第三章を書きたくて、それと、『愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ』に関しても書評というか、放言できそうなので、そのあたりを書こうと思ってたのだが、これらには残念ながら多少の時間というか集中力が必要になってしまう。ところが、こちらにはその集中力を吐き出す隙間が無い訳で、それでいて、更新をしないのも気が引けるので、前回ポール・オースターが出てきてしまったのをしょうがなしとして、柴田元幸批判ってことで。■『The Red Notebook』再前回、『The Red Notebook』に所収されている「サルマン・ラシュディのための祈り」の(恐らく誤訳だらけの)拙訳を挙げた。そして、その後に、柴田元幸氏が『トゥルー・ストーリーズ』において、それを翻訳されているらしいことを知った。そう、俺はポール・オースターが好き(だった)と言っていながら、その辺の出版事情に疎いわけだ。しかし、なんで疎いかと言えば、俺としては、たまたま洋書コーナーで見つけるとかした「出会い」が無い限りは手にとらないわけで、しかも、俺にとって小説というのは、作家を過剰に追うものではなくて、自分にとって糧となる分だけあればいいわけで、現状の本棚におけるポール・オースター・シリーズで不都合していないからともいえる。しかも、洋書を通してオースターと語らうようになったのは、ポール・オースターを柴田元幸氏が翻訳するからであって、別に気取ってるからじゃない。少しの語学力(高校卒業程度)があるなら、原書でオースターと語り合うことを勧める。彼の文は音楽のようで読みやすいし、語彙も平易だ。俺でも読めるわけで、なんとかなる。そして、もし、そうしてもらえれば、俺の気持ちも多少ご理解いただけるんじゃないかと考える。柴田氏の翻訳の一部がネットに転がっていたので、ちょっと挙げてみる。「サルマン・ラシュディのための祈り」の最後尾だ。それらすべてに対して、私は彼に莫大な感謝の債を負っている。自分の生活を取り戻そうと闘っているサルマン・ラシュディを私は支持する。だが実は、彼もまた、私を支えてきてくれたのだ。そのことに関し、私は彼にありがとうと言いたい。ペンを手に取るたびに、彼にありがとうと言いたい。ちなみに、拙訳↓(笑)。それらすべてのために、私は彼に感謝の気持ちという莫大な負債を負っている。私はサルマン・ラシュディがその奮闘において彼の人生を取り戻すよう応援するが、本当のところは彼もまた私のことを応援し続けてきたのだ。私はそのことで彼に感謝したいと思う。ペンを取るときはいつでも、私は彼に感謝したいと思う。もちろん、柴田氏の方がこなれている。読みやすい。だけど、俺にはポール・オースターな感じがしない。「サルマン・ラシュディのための祈り」におけるオースターの真剣さが「ありがとう」という言葉で言い表せるのかと感じる。■翻訳かぁいやいや、ちょっと危険な方向に行きそうなのだが、翻訳論を述べたいわけじゃない。翻訳に関しては、renqingさんに教えて頂いた米原万理の言。「翻訳は女性のようなものである。美しくなければ忠実でないし、忠実であれば、きっと美しくない」別に「女性」で例えなくてもいいと、フェミニストの俺は思うのだけれど、まあ、言わんとしてることはわかるな(翻訳論はこれが結論ってことで、勝手に納得して進める)。つまり、ひとつ言えることは、「翻訳家は詐欺師」(だったっけ?)なわけで、そういう本質論が一つある。だから、まず、原書も読まずに、柴田元幸さんの訳はすばらしい、みたいな発言情況に対する批判があるわけだ。■カラヤンまあ、そういう柴田氏自身というよりも、柴田氏を取り巻く情況に対する批判とは別に、やはり、柴田氏への批判もある。だが、これはどうしようもないとも思えていて、なんともいえないのだが、彼の翻訳はカラヤンを思わせる。あの名指揮者だ。だが、音楽愛好家には(自称愛好家のおばちゃまたちは抜いているが)、カラヤンは評判が悪かったように思う。彼の指揮ぶりは綺麗だ。彼のコンダクトするオーケストラは、透明感がある。無思想とも言える。だけれども、われわれは、音楽を綺麗に聴きたかったか?■なんで読書するのかいや、もう、こうなると手に負えないところまできちゃったね。そして、俺もそろそろ仕事を再開しなければならなくなってきた(都合よく笑)。というわけで、これはまた持ち越しってことで。塩漬けにしときます。なんというか、村上春樹の翻訳は、俺個人としては、決して名訳だとは思わないのだけれど、でも、評価できる。そこにはなにがあるのか。どこかで村上は言っていた。翻訳家に必要なもの。それは作品への愛。恐らく、柴田元幸もそういうだろう。でも、その「愛」に違いがあるんじゃないかと、俺は思えてならないわけだ。う~ん・・・とりとめもなく、ここで終わり!また!
2006.02.15
コメント(0)
ポール・オースターは俺の好きな作家だった人の1人で、というのは、好きな作家のことは好きな人のことと同じく書けないもんで、とりあえず、好きな作家だったという言い方をすることにしてるんだが、というのはたぶん、好きという語に付き纏うチープさというかが、俺の気持ちを表象するには物足りないのだと俺がえらそーに思ってるからかもしれなく、それはまるで、好きなコのことを好きだったと婉曲に言い回すことによってはじめて言明できる類の心理学かもしれないし、あるいは、いまやそのときの気持ちをまさにその時の熱において語ることができないからかもしれないのでもあり、しかし、いずれにしても、時間的に事実として残るものはあるわけで、俺のポール・オースターとのかかわりは、それこそ「韻を踏む」ような偶然的で啓示的な出来事に満ちていて、今でも俺の転機においては、彼の書は語らいあうに足るものだということは自信を持って言えるわけだ。オースター作品との出会いや啓示的出来事についてはもう忘れたということでそれくらいにして、俺はあることがきっかけで、オースター作品は原書でいくつか読んでいるのだが、そのなかの一つに『The Red Notebook』という、その名にもかかわらず緑のペーパーバックの作品があったのだけれど、今アマゾンで調べてみると、それは違う表紙になっていて、なんだか不思議な気がしながら、しかし、それもまた一興と、予定通り、その中に所収されていた「サルマン・ラシュディのための祈り」を、俺の恐らく誤りだらけで半分は当時の気持ちが反映されてしまっている拙訳にて紹介することにする(この点、批判の類は受け付けない笑)。■■■私が今朝ものを書こうと腰掛けて、はじめにしたことはサルマン・ラシュディについて考えることだった。私はこのことをほぼ四年間半毎朝おこなってきたので、それはいまや欠くことのできない日課の一部になっている。私はペンを取って、ものを書き始める前に、海の向こうの友なる小説家について考える。私は彼がもうあと二十四時間生き続けるようにと祈る。私は彼を保護するイギリス人たちが彼を殺そうと現れる人たち――すでに彼の本の翻訳者の一人を殺し一人を傷つけたのと同じ人たち――から彼を隠し続けるようにと祈る。何よりも、私はこうした祈りがもはや必要なくなるとき、すなわち、サルマン・ラシュディが私と同じように世界中の表通りを自由に歩けるときがくるようにと祈る。私はこの男のために毎朝祈っているのだが、心の底では、私はまた自分自身のためにも祈っているのだと知っている。彼の人生は彼が一冊の本を書いたために危険に曝されている。本を書くということは同様に私の仕事でもあって、私はもし歴史の巡り合わせや単なる目に見えない幸運がなかったなら、彼の立場でありえるのだということを知っている。今日でないとしても、もしかすると明日。私たちは同じクラブに所属しているのだ。ひとりぼっちの者たちと、こもりっきりの病人たちと、つむじ曲がりの者たちの、つまり、時間の大半を小さな部屋に鍵をかけて一ページに言葉を書きつけようと奮闘するのに費やす男や女たちの秘密の社交クラブに。それは人生の一つの風変わりな生き方であって、ただそのことに対して選択肢を持っていなかった者だけがそれを天職として選ぶのだろう。それはあまりに骨が折れ、あまりに割に合わず、あまりに失望にあふれているので他のだれにも適さないのだ。才能が異なり、野心が異なっても、有能な作家なら誰でも同じことを言うだろう。一編の小説を書くためには、言わなければならないことを自由に言えなければならないと。私は私が書いたすべての作品にそうした自由を行使してきた――そしてサルマン・ラシュディも同様なのだ。そうしたことが私たちを兄弟にし、彼の苦境がまた私のものでもある理由となっている。私は彼の立場で私ならどのように振舞うかを知ることはできないが、それを想像することはできる――あるいはすくなくとも想像しようと努力することはできる。正直なところ、私は彼が示し続けている勇気を私だったら示せるかどうか自信がない。その男の人生は台なしになっているが、それでもなお彼は彼がそれをするように生まれついた事柄をし続けている。ある安全な住まいから次の安全な住まいへと移され、息子から遠く離され、保安警察に囲まれながら、彼は毎日机へと向かい書きつづけている。最良の状況下でさえこのことがどれほど難しいことか知っているから、私はただ彼の成し遂げてきたことを恐れ敬うだけだ。一冊の小説、他の作品内のもう一つの小説、表現の自由への基本的な人間の権利を擁護する多くの並外れた論文や講演を。すべてのことが十分注目に値するが、本当に私を驚かせることはこうした重要な仕事に加えて彼が他の人たちの本を批評する時間を取り続けていることだ――ある場合には無名の作家の本の販売を促進する帯広告の文を書くための時間さえ。彼の立場にいる者が自分以外のだれかのことを考えることは可能なのだろうか? 可能なのだ、明らかに可能なのだ。しかし私は私たちのうちどれだけ多くが彼と同じような状況に追い詰められて彼がなし続けていることをできるのか疑問に思う。サルマン・ラシュディは自らの人生のために戦っている。その奮闘はもう五年近く続いていて、私たちはファトゥワが最初に宣告されたときよりも解決に近づいているわけではない。他の多くの人たちと同様、私も何か手助けできることがあればと思う。無力感が募り、絶望感が広まり出すが、私には外国の政府の決定に影響を与える権力も影響力もないことを思えば、私のできる最大限のことは彼のために祈ることなのだ。彼は私たちすべての重荷を負っているから、もはや私は彼のことを考えることなしには私のすることについて考えることはできない。彼の苦境は私を集中させ続け、私の信条を再吟味させ続け、私が享受している自由を当然のことと思わないようにと言い続けている。それらすべてのために、私は彼に感謝の気持ちという莫大な負債を負っている。私はサルマン・ラシュディがその奮闘において彼の人生を取り戻すよう応援するが、本当のところは彼もまた私のことを応援し続けてきたのだ。私はそのことで彼に感謝したいと思う。ペンを取るときはいつでも、私は彼に感謝したいと思う。1993■■■もう10年以上も前の祈り。サルマン・ラシュディを知らない人もいるだろうか。今の世界状況において、これを書く意味はなにかあるんだろうか。偶然が韻を踏むことはあるんだろうか。もしかして、俺の念頭には「ムハンマド風刺画」問題があるのかもしれない。「ムハンマド風刺画」については、「Fixing A Hole」さんの記事。考察も示唆に富んでいる。サルマン・ラシュディについてはここがいいかな。「悪魔の詩―Wikipedia」も参照。俺の心の中の問題として、この問題が過激にならず先鋭化しなかったのは、サルマン・ラシュディが「ブリジット・ジョーンズの日記」に本人役で出演してたのを発見したからじゃないかという雑感も記しておく。
2006.02.12
コメント(0)
防衛庁の防衛省への「格上げ」が今国会においては見送られそうだという(参照記事)。例の「組織的天下り」への批判を回避してのことなのかもしれない。しかし、まあ、国民をバカにしくさっている。今は批判が出そうだからやめといて、今度出せばいいって考えてるわけか。俺らが知りたいのは、なんで「省」への「格上げ」が必要か、その理由だ。そして、当然といえば当然なのだが、防衛「省」の役割を見たところで、「格上げ」する理由は読み取れない。今は注目を集めやすいときだからやめといて、注目されなくなったら、そっと通そうなどという魂胆のある法案は、ちょっと待てよと言いたくなるわな。■常任理事国?(旧)保守党との話し合いのなかで、アーミテージのハゲが、「省」への格上げが安保理常任理事国入りを早めるみたいなことを言ったのが少し引き金になっている気もする。こうしたカタリに感化されちゃう意見のほとんどは、「俺たちすげーんだぞ」主義に行き着いてる。そしてそれらは、「俺たちすげーんだぞ。だって、アメリカと一緒なんだから」みたいな理由であって、そうしたお子様ランチ的考え方には、ちょっと微笑んでしまいもする。まあ、しかし、そうしたお子様なやつらは、多いわけでもなく、武部が今国会提出に慎重姿勢を示すのは、もうちょっともともな世論ってものを意識してるからなんだろうとも思う。まあ、ともかく、常任理事国になりたいからって、庁を省に変えるってのは、いつまでたってもアメリカ従属でいきまーす、みたいな宣言にしか聞こえないな。しかし、感化されちゃうお子様ランチ君たちはともかく、恐ろしいこと考えている心の無い頭脳派はいるわけで、そういうのって、ちと考えとかないといけない。■人殺しは儲かる。国家的人殺しの戦争は儲かる。弾を撃つ。ダダダダダダッ!その音にあわせて、チャリン!チャリン!チャリン!チャリン!とお金の音。これを最も巧くやってるのはアメリカ。なんか、イラクの選挙が思い通りにいかなくて、次はイランを狙ってるようだ(参照記事)。イランの次はシリアがあるし、もちろん北朝鮮もある。面白いのは、近くのキューバは取っといてることで、名ばかりではあっても民主主義国。自分たちが痛い思いをすると選挙に負けちゃうわけで、遠くで人を殺して儲けてるわけだ。やつらの戦略は、戦争して儲けて、傀儡政権つくって軍隊持たせて武器売って儲けて、テロとの終わりなき戦いで儲けるっていうシナリオ。それが大儀名文と共に為されるわけで、アメリカの田舎者たちは、自分たちが為す巨悪に気付かないというオマケ付きなわけだ。で、この国でも、同じような考えを持ってる奴がいるんじゃないかと疑ってる。お子様ランチなやつらを騙して、おもちゃを買い与えるように戦闘機を買い、「俺たちすげーんだぞ」と言い、そしてそいつらを戦場に送って自分たちは、国家予算という数字だけを気にする。シャレにもならない話だが、ベトナム戦争のときに、「グリーンベレーとベトコンでは、キラーコストが違う」と吐いたペンタゴンの愚か者を思い出す。グリーンベレーを育てるのには金が掛かり、民衆ゲリラのベトコンと比べると、戦争遂行コストが掛かるという意味だ。やつらにおいては、人の命は金に換算される。間違いなくそういう考えの奴がこの国にもいるわけで、てめーで戦場行ってくださいと言いたくもなるだろ。■アーミテージ(ってかアメリカ)再説まあ、そこまで考えてる本物の悪者ってのは想定しすぎかもしれない。この国のやつらはただの猿で、アメリカに巧く踊らされてると考える方が、少なくとも今の政治状況においては、自然かもしれない。アーミテージが、集団的自衛権や防衛省への「格上げ」を扇動する理由は簡単だ。アメリカは、中国と日本に仲良くして欲しくない。アーミテージが、東アジア共同体構想に否定的であるのと全く同じ文脈であるわけだ。民主党のおバカ前原のように、アメリカ一辺倒が「国益」だと考えている御目出度いやつらは、アメリカと中国が仲良くなったときにどんな泣き言を言うんだろうか。日本の常任理事国入りを、アメリカが本気で許容してると思ってるやつらは、年がら年中脳内お祭り気分というか、悲しいくらいに頭が悪すぎる。■ヤスクニ参拝?さて、アーミテージに踊らされ、「年次改革要望書」をすべて呑まされ、ヘタレ牛を輸入し、外資を誘導する現政権は、すべてアメリカの言いなりだって考えは、確かに的を射ている気がしてきてしまった。靖国参拝ですらアメリカの要望だという意見は、そういう文脈から考えれば、正しいと思える。アメリカは、日本と中国に仲良くして欲しくない。できれば、「適度な」緊張関係を保っていて欲しい。そうすれば、東アジアでの経済の結びつきを強くさせずに、自分たちの影響力を残せる。東アジアにおける中国の影響力強大化に備えるため、当初は北朝鮮を攻めてしまおうかと思ったが、日本にいる忠犬が靖国参拝をして、あっちと仲良くしませんと表明したので、中東に力を割くことにしたと。そして、それに絡んで、日本は中国への新幹線輸出を諦めてるわけで、大した忠犬ぶりだと、俺も思うよ。国益?頭悪い癖にそんなこと言う奴は死んでくれ。
2006.02.12
コメント(0)
ナイーヴな成果主義概念。ナイーヴな成果主義理解。ロウアーミドルは、ナイーヴに成果主義的思想を好む。じっくりとした思考を停止させ、「賭け」に出たい。もう、自分の人生を運に任せたい。自分でじっくり考えるのはシンドイ。ナイーヴな成果主義を好む人間は、ナイーヴに政治家を選び、ナイーヴに占いを求める。大変な社会を誘導し、大変な社会に失望し、大変な指導者を選出する。問題意識はここにある。ちょっと旧いが「成果主義」の問題構造を語る。■経営書における成果主義の概念成果主義ってのは、能力主義との対概念だ。素朴な成果主義は、能力とは関係なく、成果だけで給料を決め、役職を決める。素朴な能力主義は、成果とは関係なく、能力だけで給料を決め、役職を決める。どちらがいいか?対概念においてはいつでもそうだが、実はどちらも同じことを言っているに過ぎない。同じ土俵に乗っているということは、議論の大前提としての「破れ目」があり、そこにこそ本当の問題が隠蔽されている。というわけで、成果主義=能力主義という二項対立を脱構築していこう。■成果主義者?「信長の野望」ってゲームがあった。これをやって育ったやつらが昨今の企業家ブームを支えてるんじゃないかと疑ってる。まあ、ともかく、成果主義者と言ったって、本当にそうか考えてみりゃわかる。「信長の野望」を素朴な成果主義でやったかどうかだ。恐らく、成果(勲功)よりも、能力(パラメータ)で、重宝する武将を決めたのではないか。(もちろん、能力を基準に活躍機会を与えるわけだから、結果的に、そいつらに勲功も溜まっただろうが。)まあ、素朴な成果主義でものを考える人間なんてあまりいないわけだ。そして、もし本気で成果主義を採ろうと思えば、公平な機会が絶対条件になるわけで、それはそれで実際問題不可能に近い。■能力主義者?素朴な能力主義を採るにしても問題がある。ふつう能力ってやつは見ただけじゃわかんないわけだ。そこで、能力を測るために、成果を観るってことになる。これは成果主義と変わらない。素朴な能力主義も、成果主義が主張される前提と変わらない前提から出てきており、概念としての素朴な能力主義が実際は不可能である(パラメータついてないし)以上、これはもはや成果主義と選ぶところがない。■隠蔽されている問題能力主義=成果主義という枠組みでの問題設定は、「時間」と「環境」の要素を捨象して語られる。良い環境で働けばハイ・パフォーマーになれる人間が、その(悪い)環境ゆえに落伍者になることがあるし、また、修行期間をおけば、驚くべき成長を遂げて活躍できる人間が、早くから成果を求められ(能力を示せと言われ)て周りに助けられずに落伍者になることがあるってことである。つまり、かつてあったはずの何かが無くなって、はじめて成果主義や能力主義という用語が世に出てきたわけだ。■なんで「成果主義」が流行ったか?さて、良い環境で、皆がそれぞれ普通に働いても、ちゃんとシステム立っていて、会社として業績が出ているのであれば、そもそも「成果主義」なんて必要なかったはずだ。誰もが普通に働き、誰もが給料が上がっていたはずだ。流行った時期を見ればわかる簡単な話なのだが、会社が「仕組みとして」機能しなくなったのが、「成果主義」の「導入」のきっかけだった。そして、給料のベースアップが起こらなくなった後、(会社社会的弱者である)若者が感化されたのが「流行」のきっかけだった。これは実は、現代における国家の問題と同じ構造をもっている。■なんで最近「セキュリティ」が言われるのか?「地域自警団」とか流行ってるのをみて、俺は怖くなる。あれを見て安心する愚かな主婦たちは、もっと危険な世の中を呼び寄せているのに気付いてないのだろう。ああ、こわ。セキュリティ国家というのは、国家の役割として「セキュリティ」がクローズアップされている状態のことを言う。つまり、あなたを「危険な外国人犯罪者」や「危険な猟奇犯」から守りますよ、というメッセージと共に現れる。警察国家というやつだ。多少の人権は制約しても、「中上流階級」の安全は守りますという思想である。歴史的逆行。さて、これが、根源的に、問題への解決不能なアプローチであることは、数学が得意でなくても、ちょっと考えればわかる。このアプローチは、市民社会を「分断」し、共同体内部に「危険な他者」を想定することによってのみ可能だ。そして言うまでもなく、その「分断」は格差を生み、また新たな「危険」を生み出す「温床」を作ってくれるわけだ。さて、なんで「セキュリティ」が言われるようになったかを語ろう。簡単な話で、それまでの支持を得ていた「福祉国家」が成立しなくなってしまったからだ。「福祉」を謳うことで支持を得てきた国家権力が、財政的にその方法を維持することができなくなり、より安価な施策の「セキュリティ強化」を訴え始めただけなわけだ。そして、そのような動きは耳目を集めるから、マスコミも取り上げ、集団洗脳的自体が加速していっている。■企業の失敗と国家の失敗しかしどうだろう。企業と国家。驚くほど構造が似てないか。お前の経営のミスで、給料のベースアップができなくなった。それを成果主義っていう、社員の責任に摺りかえるのか?お前の政治のミスで、負債がたまった。それを民営化っていう、民間の責任に摺りかえるのか?自己責任なんていう言葉が流行ったのも、見事に時期を一緒にしている。■言葉の魔術しかし、この問題状況を把握もできずに、うまく騙される、かわいいやつらもいるわけだ。「成果主義」に飛びつき、「民営化」に飛びつく。まるで、その語がすべてを解決してくれるのではないかと期待する。■「信長の野望」的社会はいいのか?俺は「頑張ってる人が、報われる社会」などという妄言を断固拒否する。頑張らないでもすむような企業や、頑張らないでも安心できるような国家であるべきはずなのに、そうした妄言は、責任を弱者に一気に転嫁する。企業経営においてだって、現場に無理がいかない仕組みをつくるのが「経営」の仕事であって、それを失敗したから、お前等頑張れというのはおかしいだろ。同様に、安心して働き、安心して子どもを育てられる経済共同体であるべきなのに、政治の再分配機能がうまくいかなくなったからといって、自己責任を連呼し出すのはおかしいだろ。成果と能力が求められる「信長の野望」的社会になっているわけだ。お前の失敗なだけなのに。■権利と義務、再説頭の悪い奴ほど、権利は義務の対価だと言いたがる。以前も書いたが、非常に封建社会的理解をしているわけだ。「信長の野望」的社会だ。恐らく、そのような言を吐く人間は、世の中に、身体の不自由な人たちがいるということをわからないのだろう。知的にハンディキャップを持っている人たちがいることをわかってないのだろう。彼らが何かを権利として主張するのに、君は俺ほど義務を果たしてないからダメ、とか言うのだろう。経済は経世在民。そして、俺は政治の最も大切な機能を、所得の再配分だと考えている。経済でも政治でもいい。うまくできていれば、「自己責任」なんて問題は生じないし、権利を義務の対価にしようなんてする愚か者もいなくなるはずだ。権利の歴史というのは、そうした平等を求め続ける歴史であるはずだ。俺はこの歴史に参加する。ハンディキャップトは死んでもいいと考えられるやつらと断固戦う。
2006.02.10
コメント(2)
直感って言葉で思い出深いのは、ある学会で立岩真也氏が「直感は合理的である」ってのが持論だ、みたいなことを言ったことだろうかな。まあ、あと、(兄貴的に慕ってる)プロ棋士が、第一感はほとんどあっているみたいなこと言ってたのも思い出す。学者や棋士は、日頃から多くの論理の積み重ねとパタン認識とを繰り返しており、脳に今さら負荷を掛けなくても、自然な判断をできるようになってるってことなんだろうと思う。そう、カントを持ち出すまでも無く、直感ってのは、それを可能にする前提が<身体>に染み込んでるってことなんじゃなかろうか。そういえば、恋愛において語られる「直感」にしたって、今までの経験をもとに構成された、「この人は合いそう」っていう「感じ」以外の何物でもあるまーに。で、ある広告を見た。直感力を鍛えよう、みたいなやつだ。それは、それでいい。直感力を直接的に鍛えられるかどうかについても、俺は別に否定的じゃない(ただ、どのような「文脈」における、どのような認識のことを「直感」と呼ぶかについては、大いに問題だけど)。勝手にやってくださいって感じだ。だけれども、「直感力」に頼りすぎて論理力をそこまで無視しちゃいましたか、みたいな広告文句があったから、ちょっと笑って、今取り上げてるわけだ。ロト・ナンバーズ当選者の32%は、その数字を『直感』によって選んだ(みずほ銀行)言うまでもなく、みずほ銀行の発表を用いて、直感は大切なんだということを語りたいらしいが、上の文句で直感の大切さって読み取れるか?というか、ロト・ナンバーズで数字を選ぶとき、どのような選び方があるというんだ?ほとんどの場合、直感じゃないのかね。いや、データ分析もありにしよう。しかし、その二者以外にあるの?(あと、あえて言えば、日付とかサイコロとかかね。他あったら教えてください。)そうして考えたら、「直感」では「32%しか」当たってないって言う方が正しくねーか?<直感>の大切さって認めるのにやぶさかじゃねーよ。しかし、それが論理とか熟慮を排除するようだと大問題だ。何よりも、「直感」に頼りすぎる奴は、今の「自分」の「枠」を超えられない気がする。「直感」で小泉純一郎が良さそうとか、石原慎太郎が良さそうとか、思っちゃったりする人間がいるわけで、俺は大いに断罪したいわけだ。直感ってことをもうちょっと考えてみる必要ありそうだね。「直感力批判」って題でまた書く。
2006.02.10
コメント(0)
天皇制。秋篠宮家がプレグナンスということで、皇室典範改正に影響がありそうだという。前回、伝統や文化に対する態度をデューイの言から考えたが、そんなこと考えなくても、俺は要らない観念を削ぎ落として考えれば、「天皇制」そのものが明治政府の作り物であるってことに気付けるんじゃないかと考えている。なんで天皇を敬うのだろう?これは明治政府の<強制>の結果以外の何物でもあるまい。江戸より前の時代に庶民には天皇なんて知られてないわけで、森有礼はそこに腐心し、西洋を真似して(!)「祝声」の制定を試みた。その祝声には、帝国大学教授会で「万歳」案が承認される(牧原憲夫「万歳の誕生」や同『客分と国民のあいだ』における研究成果を紹介する森巣博の受け売り)。「伝統」なんて怪しいわけだ。受け売りついでに、森巣博の疑問をのっけとく。1.「お稲荷さんより偉い」天皇を一目見ようと、「所きらはず折重なりて」「一時に右往左往に散乱」し「国旗だも掲げず冷淡に看過し」た東京市民のそれまでの「伝統」は、いったいどうしてしまったのか?2.「天皇の前で大声を発するなど不敬きはまりない」とするそれまでの「伝統」は、どこへ行ったのか?3.なぜ、「西洋」の真似をして「祝声」などをあげなければならないのか?4.そしてまた、「西洋」の真似をするのが、どうして「日本の伝統」なのか?(以上、『無境界家族』から)そう、「天皇」は明治に<生まれ>たわけだ。それまでも「天皇家」は続いていたんだ、って?その通り。そして、俺の家も続いていた(笑)。誰かが前に書いていて爆笑とともに感心したのだが、俺も「万世一系」なんだよね。誰もが「万世一系」なわけで、「万世一系」そのこと自体に価値があるわけではないわけだ。■男系天皇を大事にしなければならないという主張を可能にする前提長い小見出しですが。男系天皇を大事にしなければならないという問題設定を可能にする<知>の前提条件はなんであろうか。それは「血」である(<知>の前提は「血」っていうダジャレです)。ちょっと考えればわかるが、「血」への信仰がなければ、この議論自体が成立しないことは言うまでもない。よって信仰は天皇家の「血」に対してのものだといえる。「血」に対する信仰はいつ生まれたのかも考えてみるべきじゃなかろうか(その信仰の「伝統」自体がすでに怪しい)。そして、「家」信奉者が「天皇制」信奉者である理由はここにあるわけだ。これについてはまた書こう。■俺の<知>的状況と、お前の<知>的状況<制度>を支えるのは時代状況である。その時代における<知>のあり方が、<制度>を支える。<知>が変わっていけば、「天皇制」だって当然になくなる。少なくとも俺個人の<知>的状況においては、「天皇制」なんて必要ない(江戸以前の庶民に必要なかったように)。しかし、一般状況として、「天皇制」を支えているのは、要らない観念たちである。そして、それらは多く明治期に作られている。それらを馬鹿どもは「常識」と呼ぶ。そして、その「常識」は、かなりテキトーなものである。あるいは、論理の正しさで説得できない親父のキレ文句である。■誰が一番不敬か?俺は思うのだが、男系天皇維持を訴えたい奴らは、(西洋の真似をしていることに気付かず「伝統」を言う)単純なイデアリストなのだが、もっと重要なのは、最も天皇に対して不敬なのは、そいつらだということだ。言うまでもなく、われわれは自分のいいように、「伝統」を解釈する。一通りにしか解釈できない「伝統」はないわけで、その解釈の仕方が、そいつの価値観なわけだ。さて、このとき、男系天皇維持を訴えるやつらの解釈は、どんな「価値観」に支えられているのだろうか。これだ。ちょっと訊きたいのだが、天皇家は、晩餐会など、必ず「洋服」を着る。「日本の伝統」の「和服」ではなく(あるいは、天照ほにゃららが着ていたようなナントカ服でもなく)、「洋服」を着る。なんでいいの?こういう「伝統」は変えてもいいのに、女系天皇はいけないと。はぁ。思うに、男系天皇維持を訴えるやつらは、自分たちの価値観を主張するために天皇を「利用」しているに過ぎない。「戦争したい」とか「男の方が偉い」と言いたい思いがあるから、歴史から男系天皇を読み取る(解釈する)わけだ。「天皇」を「利用している」やつらは不敬ではないのだろうか?俺は天皇を敬っている。まあ、それは隣の家の人を敬うのと同じ程度においてだけど。でも、利用する奴よりは随分マシだと考えるが如何。
2006.02.08
コメント(7)
第二章は全体として大変おもしろい。示唆深いことが鏤められている。この章は、熟読するに値しそうだ。もし、すべての章が、これだけ示唆深く続くのだとすると、この書物は、俺にとって一生の友となるように思われる。もしこの章だけなら一章の友だけど。■第二章社会の機能としての教育【要約】連続し発展して行く社会の生命にとって必要な態度や性向を子どもたちの内部に発達させることは、信念や情緒や知識の直接的な伝達によってなしうることではない。それは環境という媒介物を通してなされるのである。環境は、ある一個の生物に特有な活動の実行に関わりをもつ諸条件の総和から成る。また、社会的環境とは、その成員の中のある一人の活動の営みに堅く結びつけられている仲間たちの活動全体から成る。それは、ある個人が何らかの連帯的活動に関与つまり参加する程度に応じて、その共同活動を駆り立てている目的を自分のものとし、その方法や対象を熟知するようになり、必要な技術を獲得し、その情緒的気風に浸るようになるのである。子どもたちが、だんだんといろいろな集団に属して行き、それらの集団の活動を分担するようになるにつれて、意識的にそうしようとしないでも、いっそう深く根本的な教育的性向形成がなされるようになる。しかしながら、社会がいっそう複雑になるにつれて、未成熟者の能力の養成に特に気をつけるような特別の社会的環境を設置することの必要性が明らかになる。この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を作り出すことである。以前、俺も書いたが、ある観念の他者に伝達するには言葉だけでは行えず、具体的イメージが必要になる。言い方を変えれば、共有する<世界>があるから、言葉という記号で、自分の思っていることが相手に伝わる。これをデューイは「環境」と呼ぶ。デューイの主張は、俗説に毒された人間たちにとって、解毒的で素敵なものである。「訓練」と違い、「教育」は「環境」によって為されるので、「成人たちが未成熟者の受ける教育の種類を意識的に統制する唯一の方法は、未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの、環境を統制することによる」と言うわけだ。そして、そこに学校の意義と注意点を見出すわけだ。デューイは「環境からの無意識的な影響」(つまり「教育」効果)が最も顕著に現れる方面を次の3点(あるいは4点)指摘する。1.言語の習慣2.行儀作法3.よい趣味と美的鑑賞眼4.上3点を混ぜ合わせたものとしての価値基準俺にとっては2が特に注目に値する。少し、デューイの説明を引こう。周知のように、お手本は訓戒にまさる。よい行儀作法は、いわゆるよい育ちから生ずる。いやむしろ、よい育ちそのものである。そして、育ちは、知識を伝えることによってではなく、平素の刺激に対する反応としての、平素の行動によって獲得される。意識的な矯正や教授が際限なく行われているにもかかわらず、結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する主要な力なのである。そして、行儀作法は小さな道徳にすぎない。しかも、大きな道徳においても、意識的な教授は、子どもの社会的環境を構成する人々の一般的な「平素の言行」と調和する程度においてだけその有効性を期待しうるにすぎないのである。「道徳教育」の大切さを認めるに俺はやぶさかでないが、「道徳」の顔をしてない人間が「道徳」を語ることに対して腹が立っていた。デューイによれば、そもそも、そのような人間たちが意識的に「道徳」を教授しようとしても無駄だというわけで、まずはお前の行いを直してから言おうね。ってわけだ。今の政治家が「道徳」を語るおかしさよ。(「道徳教育」に関しては、高橋哲哉『教育と国家』がおもしろい。『靖国問題』よりも好著だと思われる。)さて、レベルの低い奴らのことに紙幅とタンパク質を費やしても仕方が無いから、真面目に行こう。明治における社会科学概念の翻訳において、「市民性」は「行儀良さ」と訳されたということを思えば、現代民主主義にはやはりこの「教育」が必要なのは間違いないようだ。民主主義のエートスというものに俺がこだわる理由もここにあるわけだ。そして、エートスというのは、上の4のことなのだろうと思う。エートスとは、語源的に「住み習わし」なわけで。とにかく、「教育」というものを社会的機能として捉えるというのは、至極正当なことであると俺は思うわけだ。さて、今し方、「道徳教育」を認めるにやぶさかでないと述べた。だが、この語は、伝統や文化なるものとどう関わるのであろうか。デューイはこう答える。社会は、いっそう開化して行くにつれて、現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する責任がある、ということを悟るのである。また、「道徳教育」を国家と安易に結びつけたがる奴らもいるけれども、デューイが次のように指摘することの方が、われわれの経験にあっているように思える。「社会〔ソサイエティ〕」とか「共同体〔コミュニティ〕」というような語は誤解をまねきやすい。というのは、それらの語は、その一語に対応して一つの単一の事物が存在すると思わせがちだからである。しかし実際には、一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。ここが、全うなコミュニタリアンと、おかしな自称コミュニタリアン(あるいは国家主義者)を分かつところなのかもしれない。■一章の纏め?さて、ここは蛇足だが、二章の最初に、一章の纏めが書いてあるのだが、一章の【要約】よりも要旨を捉えている。われわれがこれまでに明らかにしてきたのは、共同社会〔コミュニティ〕すなわち社会集団が、絶え間ない自己更新を通して自己を維持するということ、そして、この自己更新は、その集団の未成熟な成員が教育を通して成長することによって、行われるということであった。無意図的あるいは計画的なさまざまな作用によって、社会は、まだその仲間入りをさせられていない、外見的にはよそ者のようにみえる人間を、その社会自身の資産や理想の健全な担い手につくり変えるのである。それゆえ、教育は、はぐくみ fostering 、やしない nurturing 、つちかい cultivating の過程である。これらの語はみな、教育が成長の諸条件に対する配慮という意味を含むことを示している。教育という概念に、養育を含ませているところがすごい。今回はさらっと理解したつもりで通り過ごしたが、デューイにおける「訓練」と「教育」の違いについてもいつかしっかりと考察したいところだな。
2006.02.06
コメント(0)
久しぶりに挑発的な調子ですが。彼女はある種の信仰宗教を実質的に形成しているので、この題に対して人格を否定されたくらいに憤慨する人もいるかもしれないな。でもね、俺は別に細木数子という人間個人を批判するわけじゃないってことは断っておきます(だから、ある意味つまらんよ)。ライブドアの件で、細木に対して批判が渦巻いたという表層的情報くらいは知っていたが、あんまり興味はなかった。そして、今も別に細木に興味があるわけでもない。だけれども、世間が細木に興味を持ってしまう状況と現首相や現都知事を選んでしまうという状況は根本において繋がっている気がして、また無駄に文を書くことにした。■「政治家」細木数子「細木数子氏、ホリエモン占い当たった強調」という日刊スポーツの記事から読めるのは、細木が詐欺師だということに過ぎない(別に驚くことでもないが)。別に面白い記事でもない。これについては「政治家になりたいなら磨くべきスキル」でも言及したが、現代において政治的影響力(人の行動に影響を与える力)を持続させたいなら失敗を認めなければいい。アホな大衆はいずれ忘れ、また、受け入れてくれるだろう。潔い態度など厳禁なわけだ(そして言葉というのは、そういう性質を持ったものなのだ)。細木はその基本を忠実に守っている。政治家と呼ぶに相応しい。■ポピュリスト細木の話を聴いていて、俺はちっとも説得力があるとは思わないが、世にはあれを正しいことを言っていると感じる輩もいるようだ。言うまでもないことだが、彼らは論理を聴いているのではなく、細木の「言い方」「身振り」等の外的要素にまず影響を受け、さらに「不安」と「直感」に訴える発言内容に、不熟慮に「正しさ」を感じる。これは「政治家になりたいなら磨くべきスキル(2)」で語った態度と、「地獄への道は善意で敷き詰められている」で語ったポピュリズム原理を繰り返しているだけだ。細木に保守的発言が多いのは、彼女がそれを本当に受け入れているからではなく、多数に受けるからに他ならない(まあ、しかし、銀座時代に恐らく徹底して人間観察を行っていたのだろうことは発言からも想像がつく。ちょっと前に流行ったますいしほ・さくら以上のものではない)。こうして、小泉や石原は票を集め、細木は視聴率と印税を稼ぐ。■メディアとの共犯関係さて、俺が細木問題で一番大きな問題だと思っているのは、テレビ局との共犯関係である。ちょっと真面目にテレビを見ればわかると思うが、最近のお笑い番組などは、完全にヤラセ(と言って悪ければ、脚本ができている)であって、個人の技量というよりは、テレビの脚本勝負になっている。お笑い芸人は駒でしかない(しかも取替え可能な)。「笑点」などは、完全なリハーサルを行ったうえで「大喜利」をやっているわけで、山田君の動きまでが脚本に載っている。そして、それが最も視聴率を稼ぐ。問題は、テレビ局の仕組む「騙し」である。細木が視聴率を取れるのはわかっている(繰り返すが、ポピュリストだから)。そこで、テレビ局としては、さらに細木を金のなる木に仕立て上げたい。ここに両者の利害の一致がある。特にフジは酷い。「クイズ$ミリオネア」という番組は酷い。あれは、芸能人出演のときには「仕掛け」がかかる。特に、細木が出るときは酷い。細木と局との癒着した「脚本」が、細木の「占い(?)」の大衆への信頼度を高め、細木をさらに視聴率を稼ぐマスコットに仕立てていく。そう「劇場型」なわけだ。小泉=テレビ、石原慎太郎=テレビ、の癒着関係と同じ構造がここにある。それを有難がって見るのは、1千万円という額を夢の額だと思っている大衆なわけだ。テレビ局と細木自身は、そんなもの屁でもないくらいの額を稼ぐ。■というわけで締まりも無くなってしまったが、一応、「細木を干せ」と。これは、細木数子が嫌いなんじゃなく(会ったことも無いのになんで嫌いになれますか)、細木を仕立て上げてしまう状況を問題にしているわけだ。まあ、同じ構造は竹村健一みたいなバカにも言えるな。■余談ところで、俺の細君は、俺に向かってこういう。「足踏堂は、失業しても占い師ができるからいいね」と。はい。そこそこ、人を騙す技術は身につけています。そして、失敗も認めません(笑)。
2006.02.05
コメント(0)
戦争と戦場の一致。現代の戦争についての言だ。戦争は軍隊が行うというのは、近代戦のイメージで、アメリカの田舎者などはまだこうしたナイーヴな想念を持っている気もするが、しかし、実際、政治的決着のつけられない戦争は、もう20世紀から始まっていたはずだ。なぜ日中戦争が泥沼化したのか、なぜ当時のアメリカ政府はベトナム戦争に敗北したのか、こうしたことをよく考えてみる必要があるのではないか。もちろん、無邪気な戦争観というのは、攻める側に属し、自分や身内が戦闘に参加していないから持てるもので、アメリカの田舎者や日本の無邪気な子どもたちだから持てるわけだ。掲題のように、実際、戦争が観念でない場所があることを少しは思い起こそう。かつて北オセチアで起こった人質事件の報道で俺が想起したのは(ここで俺は自覚的に他人事として語るが)、人質はかわいそうだ・テロリストは酷いということではなく、北オセチアだからこそ報道されるという情報の圧倒的な非対称性だった。当時、同じような悲劇が日常茶飯的にイラクの一部地域では起こっていたわけだ。こうしたことを伝えるのは「Days Japan」など一部のジャーナリズムを除いては皆無だったはずだ。そうした現実を知らずに、スピルバーグやオリバー・ストーンや「男たちの大和」を見て、無邪気に自分勝手に戦争を想起し、うんこが夢想するかのようにロマンを感じる輩に危惧を感じる。もちろん、多くの指摘があるようにそれらに(とくに反論の多そうな「男たちの大和」に)一片の真実も含まれていないとは言わないし、それが戦争はしちゃいけないというメッセージを持っていることも否定しない。あるいは、今は、そうした活動が必要なのだという議論には賛成もする。しかし、だとしても、われわれは本物を知らないということを自覚しておく必要はあるように思う。そうでなければ、前回「昨今の政治状況を危惧する」で書いた危険はちっとも去らないだろう。岡真理は『記憶/物語』で、徹底的にカタルシスに流れるのを排した筆致で、このことを鋭く抉出している(説明が面倒なので転がっていたここ参照)。歴史的に、強硬論が出てくる前夜には、反戦論も、民主論も活性してはいなかったかもう一度思い起こし、どこをどう考えていかなければならないのか、考え続けたい。■焼きつく映像大学で見た映像を思い出す。本物の戦場の映像だ。スピルバーグが「作った」映像ではなく、本物だ。そこでは戦争は「即物的」だった。俺は本物を知っているなんて言いたいわけじゃないことくらいわかってもらえると思う。言いたいのは、傍目で見ても、戦争は「即物的」だということだ。「救護班ー!」なんて呼ぶようなヒューマニズムもないし、「ボビーーー!」なんて呼び合うような友情も無い。塹壕で銃を構えて敵と打ち合う兵士。隣の兵士が打たれて倒れても、まるで気付いていないように銃で撃ち続ける。戦闘の小休止中に、倒れた死体たちはトラックに積み上げられ、運ばれ、大きな穴に入れられる。そこには、人間性などという言葉が入り込むような、あるいは主観で解釈できるような余地がなかった。衝撃的な映像だった。今なお、焼きついている。■カタルシスという物語誘導装置を拒否する焼きつかないものは、イメージでしかない。主観でしかない。好きな人の顔が思い出せない(という経験は思春期に誰もが持ったでしょ?)のは、その人という個体自体を好きだからではなく、その人に表象される自分のイメージが好きだからに他ならない。恋愛なら、いずれそのメッキが剥がれ、人間関係の知として鍛えられていくけれども、戦争はそういうわけにもいかない。戦争を否定するのは大切だが、自分が実物を知らない(そして根源的にわからない)という自覚を持ったうえで戦争を知ろうとする努力と結びついていないとしたら、その戦争反対論は、安易な軍国化論と根本において変わらず、足元を掬われてしまう気がする。スピルバーグを俺が嫌う理由はここにあるのだが、戦争と戦場が一致してしまうようになった時代だからこそ、スピルバーグや「男たちの大和」をシニカルに見る視点がやはり必要だろう。涙はカタルシスでしかなく、カタルシスは大きな物語を誘導する。【追記】文中に加えようと思ってて忘れたので、ただ単に紹介する。「激高老人のぶろぐ」さんの「軍隊体験と靖国参拝」は、本稿とは違った角度からだが、世に流れる「戦争物語」を脱構築するものとしても読める。おもしろい。
2006.02.03
コメント(0)
俺の政治的立ち位置は、リベラルだと思われているかもしれないが、俺としてはそれを拒否したいと思っている。では保守か、と問われてもそれを拒否したい。つまり、リベラル―保守(あるいは、リベラル=保守)という枠組み自体でしか思考できないことの方を問題にしたいわけだ。そんなことを、昨今の政治状況を垣間見ながら考えた。俺は、堀江の逮捕や内閣の粗が出始めたことを素直に喜べない。それ自体を喜べないということではなく、やっぱり堀江はだめだったか、とか、手のひらを返したような内閣不信の世論状況が出てくることを、むしろ恐れる。もちろん、「政治」というものにはどのように権力を操作するかという技術論はつきもので(例えば、小泉という人間は、現代における権力操作をうまくやったわけだけど)、この時期に、小泉の影響力を少しでも減らすという戦術を俺は決して否定しないが、だが、それでは問題の根本は変わらないのではないかという気がしているわけだ。俺は思うのだが、今、確かに小泉を批判する論調が目立ちだしたし、皇室典範の改正の問題では内閣内からも異論が出るといった状況で、現内閣は、かつての力を失いつつある。それを、ざまぁみろ小泉、というのも、面白くないわけではないのだが、しかし、そもそも、我々は小泉個人を嫌っていたわけではない。彼のやろうとしていることや、あるいは、彼を支持してしまうようなメディア状況・世論状況を問題にしていたはずだ。さて、そうしたとき、俺は「Fixing A Hole」さんの古い記事を思い出す。正直、最初に読んだときの俺の理解は深かったとは言えない。ただの倫理規範として読んだわけでもないのだが、その要素が含まれていたことは否定できない。だが、今、その記事を読み返すと、俺は、徹底したリアリズムというか、(さっき書いたのとはまた違う意味での)「政治」というものを考えさせられる。そこには、既存の問題枠組みに対する疑問と拒否が感じられる。権力の源泉たる大衆を操作して出てきた小泉内閣に対して、同じ戦略でそれを倒そうとするというのは、大きな意味での(フーコー的な意味での)<権力>に絡み取られる契機になりはしないだろうか。つまり、政治はあくまでも議会で行われ、いつまで経ってもわれわれの生活に降りてこない(われわれの生活のための政治のはずなのに)可能性を拡大していないだろうか。かつての左翼は、大衆操作が巧かったと俺は思っていたし、たぶんそうだっただろう。そこから、今の野党は何をやっているんだ、という叱責だって可能だ。しかし、今や、そもそも、そうした問題設定自体から帰結する<敗北>を悟っておかなければならないのではないだろうか。本当に問題が起こるのは、政治的な失策よりも、それに対する不満が溜まったときだったはずだ。操作される大衆という固定化の方が怖い。「敵に似た者になるな」われわれは新しい戦略を模索していかなければならないのではなかろうか。
2006.02.03
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1