全13件 (13件中 1-13件目)
1
▽3戦後の「この国のかたち」 敗戦が、それまでの国家の機軸であった「国体」に決定的な影響を与えたことは言うまでもありません。(p.104) 「国体」にまつわる様々な「国民的使命感」(「皇道宣布」「八紘一宇」など)はトータルであっただけに、ひと度それが解体すると、その精神的空白は余りに大きく、それを満たす新たな「国のかたち」を見いだすことはきわめて困難でした。(p.105) 最も有力な「この国のかたち」が、新憲法を機軸とする「平和日本」と「民主日本」の理想でした。国民の厭戦気分に支えられた平和主義と国際主義、民主主義の実現は、「新日本国家の基本的性格」を形作るに違いないと思われたのです。 とはいえ、この理想は、それだけでは国民にとって漠然とした抽象的なものにとどまらざるをえませんでした。それを可視化する「象徴」が必要とされたのです。 ここに「国体」の中心的機軸であった天皇が再び登場することになりました。(同上) 民主主義の普遍的な根拠の上に日本に「固有の」天皇を「表象」とする独自の民主主義が確立されたという南原(*繁)の考えは、その後、国民の大多数に受け入れられていく「大衆天皇制」(松下圭一)の理念的な基盤をなしていたと言えます。この意味で、南原の「共同体民主主義」という考えは、戦後の「この国のかたち」の肯綮に中っていたと言えます。(p.107) ただ、このような戦後の「この国のかたち」の「始まり」には、ハッキリと占領者の痕跡が刻み込まれていました。それは、明らかに戦後六〇年余り一貫して変わらないアメリカと日本の、保護者(パトロン)と顧客(クライアント)の関係を忠実に反映していたのです。(p.108) それらは、アメリカの「日本派」主導による対日宥和的な「ソフトピース」という虚構のタペストリーを織り上げていったのです。 もちろん言うまでもなく、その「ソフトピース」は、上位の国際的権力との従属的な「談合」を意味していました。しかも、その「談合」的な合作(コラボレーション)が作り上げた体制は、部分的な微調整がありながらも、基本的にはほとんど変わらなかったと言えます。それは、ブルース・カミングスが指摘しているように、「国際的な観点あるいは戦後処理の観点からみる」とき、「日本はまだ戦後期を脱し」ていないことを意味しています。(p.109)対米従属関係における「城内平和」。昭和という時代が、何か去勢された時代だと感じる保守派の直感の理由を示している。われわれが考えなければならないのは、そうした原因・理由が以上のようなところにありながら、アメリカとの関係を問わずに「愛国」をいうことのおかしさだろう。まるでファッションとしての「愛国」でもあるかのようだ。次の節は、「愛国」の「重さ」を扱っている。▽4「不満足の愛国心」 もちろん、言葉の重さや軽さを云々しても余り意味がないのかもしれません。ただそれでも、前首相(*小泉純一郎)や若者たちには決定的な何かが欠けています。少なくとも「愛国」という立場からみても、決定的な何かが欠けているのです。 そこに欠けているのは、「負けたとき、死者になんと言えばいいのか」という「敗残の悲痛」な「体験」の奥深くに刻み込まれていた煩悶と懊悩の痕跡です。それは、「祖国の祭壇」で自らの「不満足の愛国心」(unsatisfied patriotism)に生身を引き裂かれることを意味していました。(p.113) 祖国に対する強い愛情が一方にあり、政府が現に用いている政策に対する軽蔑と 呪詛とが他方にある。二つのものは噛み合いながら結ばれ合って、彼の心のうちに 充ちている。彼の心は分裂の状態に置かれる。(清水幾太郎『愛国心』) こう述べる清水は、この分裂から逃れるのに三つの道があると言います。 その一つは、非国民あるいは国賊と罵られることを厭わない消極的な「非協力」の道です。二つめは、生命の危機をも覚悟した積極的な非協力の態度です。そして最後に「反対であるが協力するという道」です。 清水が最も強調したいのは、この第三の道です。(p.114) その「不満足の愛国心」は、敗戦の秋に際して「祖国の祭壇」にどんな言葉を捧げるのか、その色調に決定的な影響を与えることになりました。この点を身を以て示したのは、南原繁です。(p.115) 南原の深い「不満足の愛国心」は、敗戦国民の道徳的・心理的ジレンマと共鳴し合っていました。 戦争を「日本国民の過誤または罪過として受け取り、敗戦をもってその過を償う国民的贖罪として、健気にも自らその犠牲となって死んだ」若き「戦没学徒」たち。彼らの死を受けとめる「苦悩」こそが、「祖国の祭壇」にふさわしい、南原はこう語りかけているのです。 そしてその「苦悩」の中から「平和と道義の真正日本の建設と新日本文化の創造」が成し遂げられなければならないというわけです。これは、南原だけでなく、多くの日本国民が進もうとした「不満足の愛国心」の道だったのではないでしょうか。(p.117) だが、それは、早くも挫折を余儀なくされました。敗戦直後の「戦没学徒を弔う」から二〇年(一九六三年)、映画やテレビ、マスコミや文学、学問の世界の中にも「戦争謳歌と好戦的宣伝」が見られるようになり、「こんどの戦争を日本の過誤や不法と見ないで、かえってその歴史的意義を強調しようとする試み」(林房雄『大東亜戦争肯定論』など)が注目されるようになったからです。(p.118) 南原は、明らかに「真正日本の建設と新日本文化の創造」が立ち枯れつつあることをはっきりと自覚していたはずです。(p.119) ただ客観的に見れば、そのような憂慮すべき傾向は、戦後の「この国のかたち」の「始まり」によって予め定められていたと言えなくもありません。なぜなら、先にも触れたように、「この国のかたち」は、日米の「談合体制」によってその強固な基盤を築くことができたからです。(p.119-120) それは同時にその後長く尾を引く論争(「東京裁判史観」)を残し、国民自らの力で歴史を総括する道を塞いでしまうことにもなりました。(p.120) 戦後六〇年を経て、戦後の「この国のかたち」は、南原が「戦没学徒を弔う」にこめたような痛切な悔恨と罪責の念をほとんど洗い落としつつあるようです。戦争は遠い過去となり、それとともに、深い陰翳を孕んだはずの戦後民主主義と平和人権教育こそが、「愛国心」を萎えさせてきた元凶のように批判の俎上にのせられつつあります。次のような南原のメッセージは、すでに南原がこうした事態の到来をどこかで予測していたことを思わせないでしょうか。 近ごろ、青年、ことに学徒の間に「愛国心」がないことを、とかく非難する声がある。 果たしてそうであろうか。……人誰かその生れた祖国、われわれの愛する者の住む この国土、その美しい自然と、善きにも悪しきにも父祖の築き来たった長い歴史と文 化を持っている日本を愛しない者があろうか。けれども、それはむしろ血と地につな がる自然的祖国愛である。われわれは、さらに、この祖国をして、内は同胞とともに 自由を享受する住みよい国土とすると同時に、外は世界の平和と文化に寄与する 偉大な国民たらしめたいのである。それこそ真の祖国愛でなければならぬ。いまの 日本に欠けているのは、青年の心に訴える、そうした民族の理想とヴィジョンと情熱 であろう。(『南原繁著作集』第9巻)the good old days that never were「古き良き~」を言う者たちが、実はその時代についてよく知らず、他人事主義的であることをわれわれは知っている。そして、何よりも、彼らが今を良くしようと努力しているのではなく、今をただ否定するためだけに昔を持ち出そうとするのに一生懸命なのを知っている。われわれは時に知らないことについても語る。しかし、語る以上は、その事柄への責任を持たなくてはならないと、俺は思う。ところで、軽さをもった前首相がまさにアメリカの年次改革要望書を丸呑みした張本人だったということは、著者の「戦後の「この国のかたち」の「始まり」によって予め定められていた」という言を見事に裏付けているように思える。アメリカとの関係をしっかりと考えない戦後論は、無意味であるだけでなく害悪だろう。
2006.10.29
コメント(3)
「自由競争」という言葉で人々が思い浮かべたのは、一定のルールの承認のもとに、参加者がフェア・プレイの精神で競うといったゲームの観念からおよそ遠いものであった。この言葉が連想させたのはむしろあのラッシュ・アワーの光景であり、ジャングルの法則しか知らない「優勝劣敗」の世界であった。こうした固定観念は、とりわけ社会的・国家的危機の際に猛烈な反動を呼ばずにはいなかったのである。(丸山眞男『丸山眞男集』第9巻)しっかりした理解がなければ、反対も賛成も紙一重で、その時の「気分」で大きく針が振れるように「反動」がおこる。今回は『愛国の作法』第三章。愛国心を取り扱った書という点からみればこの本の圧巻は第四章に違いないが、第三章はその最少の分量にもかかわらず、この本に無くてはならない章になっていると思う。ここでごちゃごちゃ言うよりも、さっそくそこを紹介していこう。■日本という「国格」▽1「自然」と「作為」 すでに述べたように、近代国家としての国民国家を考えるとき、国民を「エトノス」という感性的な存在とみなすのか、それとも「デーモス」という「作為」(社会契約)によって成立する意志的結合体とみなすのか、そのどちらかによって国家のあり方、つまり「国格」も変わってこざるをえません。(p.90) このふたつの系列は、ある意味で、「パトス(感情)」=「審美(文化)」と「ロゴス(論理)」=「政治」の対比として捉え返すことができます。(p.91) もし、後者の「デーモス」の系列につながる「作為的な」国民やその政治と歴史を、前者の「エトノス」の系列に連なる「感性的な」民族やその情緒的な共同性に還元してしまうとしたら、どうなるでしょうか。 その場合、「愛国」はひたすら審美的、情緒的な言語によって語られるに違いありません。つまり、「日本人の美意識こそが道徳の基準にならなければならない」「日本の情緒的な文化と伝統を取り戻せ」など、感性的な「愛国心」の鼓舞になるはずです。「日本人なら国を愛する気持ち、感情がわかるはずだ」、こうした「思いこみ」が、結果として、「愛国(心)」の有無を言わせない強引さにつながっていかざるをえないのです。(p.92)愛を強要しようとする「自家撞着」。を内面化した彼らは、おかしな「日本像」をもって、他者の存在を忘れる。しかし、明治という時代が「審美」よりも「作為」を用いられた時代であったことを、次の節は指摘してくれる。長いけども、おもしろいので。▽2「国体」の近代 戦前の「国格」について考えるとき、どうしても「国体」を避けて通ることはできません。 「…日本の近代史、現代史の相当部分が、『国体』の一語のもつ暴力性にふりまわされてきた時代」(立花隆『天皇と東大』)であったことを忘れてはならないと思います。 それでは、「国体」とは何だったのでしょうか。(p.95) 「国体」は、何かを意味するというよりは、むしろその意味されるところのものが不変であり、「不可侵」であることを示すことにその最大の機能があるような「記号」だったとも言えます。(p.96) やがて「国体明徴」運動の猖獗(しょうけつ)とともに「天皇機関説」は排撃され、神がかり的な「国体」論の跋扈とともに「統帥権」という「魔物」が封印を解かれるようになりました。 以後、昭和史は滅亡に向かって転げ落ち、統帥権は「無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめ」、三権に超越して、「日本国の胎内にべつの国家――統帥権日本」(司馬遼太郎『この国のかたち』四)を作り出すことになります。(p.97) 「国体」が止めようのない分裂に悩まされ、虚ろな記号となればなるほど、逆にファナティックな「愛国」的心情の大言壮語が勢いを増す、そうしたうねりに天皇ですらも土壇場まで主体的に「聖断」を下すことができなかったのです。結局、戦争という破局的な事態においても、「政治力の多元的並存」は克服されず、統一的な国家意志が内外に明らかにされることはなかったわけです。 丸山は、この「政治力の多元的並存」を「近代日本の『原罪』」(丸山眞男『丸山眞男集』第4巻)とまで言い切っています。そして破綻の素因は、「絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシアに倣って作り上げた時に既に」胚胎していたと言うのです。(p.97) ただ、ここで確認しておきたいのは、「国体」を定めた明治憲法が、宮沢俊義が指摘したように、「国際的な圧力」に基づいて「少なからぬ程度」の「舶来性」と「西洋性」(宮沢俊義『日本憲政史の研究』)を身につけていたということです。 言うまでもないことですが、明治国家は、そうした「国際的圧力」のもとで統一的な国民意識を作り出し、国単位のまとまりを創造しようとするナショナリズムのもとに誕生しました。ただ、残念ながら、当初は、福沢諭吉が『学問のすゝめ』で慨嘆したように、「日本にはただ政府ありて未だ国民あらずと言うも可なり」の状態でした。(p.98) この困難な課題を、明治国家は、まず「一君万民」という擬制を通じて達成しようとしたわけです。つまり、天皇という、当時では無か空に近かった一点を、虚構ながら論理と価値の頂点に置くことによって、この世はみな平等になり、将軍も大名も上士も絵空事になるというわけです。 ここに国民をすべて天皇の「臣民」としてひとつにまとめる国家の機軸が必要となりました。そこで注目されたのが「国体」です。悠久の歴史(天壌無窮)に正統性の根拠を置く「国体」を古色蒼然の「復古」としてではなく、近代的な「舶来」の憲法や国家論のタームで縁取る作業の最大の功労者は、言うまでもなく、伊藤博文でした。 国家の機軸を創造し、それを求心力にして臣民としての国民を創出するという課題は、明らかに「エトノス」―「作為」―「国民国家」の系列に属しています。 言い換えれば、伊藤たちは、臣民としての国民の創出が郷土愛や伝統的な習俗、宗教心の同心円的な拡大によってかなえられるとは全く考えていませんでした。なぜなら、国民的秩序は、「自然」に成長するものではなく、「政治的作為」によって創出されると考えていたからです。(pp.99-100) したがって、国家の機軸となるのは、「伝統的天皇」ではなく、「超越的統治権者」としての天皇の創出でした。(p.100) しかしそれは同時に、「国体の憲法」に曖昧さを作り出すことになりました。新しい「国体の憲法」のもとで、天皇は憲法の外に屹立する絶対的統治者の顔と、その権限が憲法によって制約される立憲君主の顔という二つの顔を持つ、ヤーヌスのような姿を取ることになったのです。(同上) こうして「国体の憲法」には国家の機軸に沿って「皇道」などの字句が喚起する神話性と立憲君主主義を規定した近代性が重なり合っていたわけです。(p.100) 「国体の憲法」は、「作為的な」近代性を削ぎ落とされて、「自然」の姿態をまとうことになったのです。それは、明らかに、「エトノス」―「感性的自然」―「文化民族」の世界に通じています。(同上) 「政治」を審美的な意識に還元することで「政治」を伝統に解消してしまうことを意味しています。この場合、どんな苛酷な政治的現実も、それが形成され終わった瞬間に、そのまま過去として歴史として美化されていくことを意味しています。 いずれにしても、日本という「国格」が示す「国体」はその後、異常な戦時的適応を取りつつ、破局へと転落していくことになりました。(p.104)なんとなくではあるが、姜氏は、丸山よりも<明治>に好意的のように感じる。どちらかといえば美濃部や宮沢に近く(あるいは司馬遼太郎に近く)、<明治>は救えたはずだという、可能性に掛けているように感じる。つまりは、<明治>をも現在の「政治」として捉える気概があるのだろう。それはまあともかく、ここで大切だったのは、「明治憲法」が「エトノス」と「デーモス」を曖昧にも両方抱えてしまっていた事実と、この国が、それを「政治」として解決せず、安易に「審美的」に「流されてしまった」事実の記述だっただろう。著者も触れていたが、これがいかにもアクチュアリティをもった問題提言であるように感じられるのは、俺だけではあるまい。「エトノス」の問題を聞いて、自民党の改憲案や教育基本法改正案が思い浮かんだなら、それは全く俺と同じ問題認識だといえる。第三章は、長くなったので、二回に分ける。もっと粗くする予定だったのだが、すまん。
2006.10.29
コメント(2)
権力のいかなる減退も暴力への公然の誘いであることは、われわれは知っているし、知っているべきである――それがたとえ、政府であれ、被治者であれ、権力を持っていてその権力が自分の手から滑り落ちていくのを感じる者は、権力の代わりに暴力を用いたくなる誘惑に負けないのは困難であるのは昔からわかっているという理由だけからだとしても。(『暴力について』)国家も人がつくったものであるから、悪いことを行う可能性があるのは当然だろう。大切なのは、国家(あるいはその機構の一部でも)が悪事を働き出したときに、それが悪事だと気づくことではなかろうか。今回は『愛国の作法』の国家についての章から紹介する。こういう引用紹介の宿命上、大切な部分が省かれている場合はもちろん大いにありうる。それでも、だいたいの流れくらいは紹介したい。そもそも買ってる人はこんなもん読まんでもいいわけでね。■国家とは何か▽1国家と権力 「国家」とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだ が――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」 枝葉を削ぎ落としたような、いかにもウェーパーらしい定義です。国家をその活動の内容や目的ではなく、政治団体に固有の手段(物理的暴力の行使)から定義しようとすれば、おそらくこれほど要領を得た国家の定義は見当たらないと思います。(p.60) 先のウェーバーの定義から導き出されることですが、統治機構としての国家は、対外的にも国内的にも、外的や国内の犯罪者といった、権力構造の挑戦者から守る最後の手段として仮借ない暴力行使をいとわない場合があります。そうすると、暴力は権力の必須の条件であり、権力はうわべの装いにすぎず、鉄拳を隠蔽するか、あるいは張り子の虎であることが後にわかるようなビロードの手袋であるようにみえます。 しかし、暴力と権力はたいてい一緒に現れてくるにしても、本来、はっきりと異なった現象とみなすべきです。なぜなら、暴力はその本性からいって「道具的なもの」であり、あらゆる手段がそうであるように、追求する目的による導きと正当化を必要としているからです。これに対して、権力は、一見すると国家の追及する特定の目的のための手段のうように見えますが、権力構造そのものはあらゆる目的に先立って存在していますし、たとえ目的追及の後に変化することがあるにしても、権力構造は残っているはずです。この意味で権力は、より広い意味では国家を含めて、人々の集団が手段―目的のカテゴリーで考え活動する条件に他ならないのです。 言い換えれば、権力は、「ただ単に行為するだけでなく、〔他者と〕一致して行為する人間の能力」に対応しており、「権力は決して個人の性質ではない」のです。それは、「集団に属するものであり、集団が集団として維持されているかぎりにおいてのみ存在しつづける」とみなされるべきです。(pp.63-64) このように権力を理解すれば、暴力が絶対的に支配するところでは、権力は不在にならざるをえません。つまり、「暴力は、権力が危うくなると現れてくる」のですが、「暴力をなすがままにしておくと最後には権力を消し去ってしまう」ことになるのです。(p.64)冒頭に引用したアーレントの危惧のように、国家が、物理的暴力行使から「正当」性を忘れさるのは、権力が減退していくときだろう。アーレントによれば、権力は「政治=自由」に関わるものである。自由が減退した結果の悲劇をわれわれは思い起こさないといけない。アーレント的な「権力=自由」が減退するところに、暴力が頭を擡げてくるのかもしれない。▽2国家と国民 ところで、先の国家に関するウェーバーの定義にあるように、国家だけが暴力行使への権利の唯一の源泉になるということは、社会に分散している実力のすべてが悉く国家の一点に向けて集中していることを意味しています。 このようなことが可能になるには、社会のどこかに国家の精髄である権力、つまり「最高の権力」があるという想定が成り立っていなければなりません。ここに国家の主権の観念が誕生しているわけです。(pp.66-67) このような主権概念は、歴史的にたどれば、ローマ法王に地上における最高の権威を認めようとした神権論にまで遡るのですが、領土的・民族的独立と最高の法的権力とを結合する主権という新しい観念をうち立てたのは一六世紀後半のフランスの著述家にして政論家兼法律家であったジャン・ボダンでした。ボダンによってはじめて国家の独特の属性としての主権が発見されたわけです。 ただ、まだボダンの時代には国家と国民を結びつけて、国民の原理を近代国家における正当性の究極の根拠にするまでには至っていませんでした。それが実現されるのはフランス革命においてであり、その思想的な基礎づけはルソーによって成し遂げられました。(pp.67-68) フランス革命の意義は、教会やギルド、都市といった「中間団体を担い手とする多元主義を原理的に克服し、諸個人と集権的国家とがむかいあう二極構造の社会を基礎づけた」(樋口陽一『自由と国家』)ことにあることです。つまり、フランス革命ではじめて主権的な国民国家と「人一般=個人」を担い手とする「人権」との連関と緊張がはじめて成立することになったのです。 この意味でルソー的な愛国心は確かに国民の矜持であるのですが、同時にそれは「自由への愛」であり、自己主張であるとともに、「法の尊重」でもありました。(p.69) ここで確認しておきたいのは、国民に関してふたつの道が存在していることです。この点をダントレーヴは、「な諸要素」に基づく国民と「な諸要素」に基づく国民に分けて説明していますが、自然の存在としての「エトノス」(民族)と人為の産物としての「デーモス」(市民)の違いとして分類することができるでしょう。 前者は、血縁とか人種とか、あるいは美的感性とかを重大なものに祭り上げることにならざるをえません。その結果どうなるのかと言えば、国とは「悠久の歴史をもった日本という土地柄」ということになり、郷土と国家とは自然に連続し、後者が前者を内包する(『美しい国へ』)ということになってしまいます。しかし、このような国家観が、幻影のプリズムを通して現実を見ていることは明らかです。なぜなら、国民国家と近代的な経済システムとは、郷土的な共同体やその価値観、伝統の延長上にあるのではなく、それを解消することによってはじめて自立性を獲得することになるからです。(中略) 他方、デーモスとしての国民という場合、それを最も端的に表しているのは、「国民とは日々の人民投票に他ならない」というE・ルナンの言葉です。いささか主意主義的に解釈されがちな言葉ですが、それは、人為の所産としてのデーモス、すなわち、「人権主体として解放された個人」の高度な自発性と主体性の契機を通じて絶えず作為的に形成されてゆく共同体としての国民を指し示しています。この意味で「愛国心」は、自由への愛を含んでいるわけです。したがって、「愛国心」を、与えられた環境への情緒的(感性的)な依存とみなすことは国民の原理そのものを蔑ろにすることですし、ましてや「愛国心」を強制することなど自家撞着と言わざるをえません。(pp.70-71)次の章にも出てくるのだが、日本人ということを近代国家的枠組みとして捉えない人々が多いのは俺も何度も書いてきたことだ。だが、もちろん、近代国家的枠組みとして捉えないからといって、彼らが純粋感性的な日本像を持っているのかというと全くデタラメで、知らず知らずにを内面化しているだけだということも何度か指摘してきた。全く「没政治的=政治音痴」な奴らなのだ。恐いのは、実はを語っているのに、まるで「悠久の日本」を語っているかのように錯覚することだろう。自分も近代的な自由や権利を享受していながら、「自由や平等への愛」に否定的な態度を取れる人々がいるのにいつも驚く。立憲主義に否定的にいられる奴は、もっとも夢想家だということは、つぎにみるところでわかる。▽3国家と憲法 政治団体に共通した暴力あるいは実力という手段が、国家の属性を考える上で決定的な要素になるとはいえ、それはあくまでも限定された実力であることは言うまでもありません。つまり、国家の実力は、法によって法の名のもとに行使されるわけです。ここに法による支配という考えが浮上してきます。つまり、いわゆる立憲主義という思想と仕組みがそれです。(p.74) 憲法が、こうした近代的な立憲主義の原理の上に成り立っていることは言うまでもありません。この立憲的な憲法という基本的な原理から見て、戦前の日本の「この国のかたち」の中軸であった「国体」の最大の問題点は、国家があらゆる価値の実体を独占し、諸個人は遍く天皇という存在に対峙させられ、いっさいの価値がその天皇との距離によってはかられる、そのような私的領域と公的領域の区別が消滅した国家だったということです。(p.76)近代主権国家であれば、立憲主義を原理としていなければならないのは当然のことだ。もし、立憲主義を否定する論理を述べる人間がいるとすれば、それはひとつの世界構想でしかありえない(世界革命を伴うやつね)。「この国には、あわないかも」なんて語れる性質のものではないわけだ。しかし、そういう理解をできないお頭の足りない人間たちが、勢いよく主張しているのをみると、片腹痛くてしょうがない。そいつこそ、国際政治のリアリズムを知らないと言わなければならない。▽4国家と国家省略。というわけで、まあ、教科書的な理解をさせてくれる章だった。特に目新しいことは無いが、議論の共通の前提をつくりたいという、著者の思いは汲める。国と言って、なにやらホンワカしたものを浮かべるとすれば、それは実はなんらかの権力的意図に足元を掬われている可能性がでかい。近代人たるわれわれの国ってのは、「日々の人民投票」であって、良くも悪くも自分たちでつくっていくものなんだな。そういうことをちゃんと考えるかどうか。なんだかおっきなことではなくて、自分の生活のことをちゃんと考えられるかどうかが大切なんだろうね。
2006.10.24
コメント(2)
何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。……ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。このパラケルススの言葉にあるように、愛するということは、生きることが技術であるのと同じように、ひとつの技術なのです。愛することが技術である以上、技術は習得されなければなりません。そしてその習得の過程は、理論と習練のふたつの部分から成り立っています。当たり前のことですが、理論的な知識と理解力を深め、実践的な試みを繰り返していくことで自分なりの直感が得られるようになるのです。国を愛することや愛国心もこのプロセスを踏んでいく必要があるはずです。(『愛国の作法』p.38)姜尚中(カンサンジュン)氏の『愛国の作法』は、朝日新書の最初のナンバーを飾っている。他の新書同様、朝日新書もスタートのラインナップからすでに玉石混交だが、この書は「ミドルマン」を自任する姜氏の面目躍如の作だと思う。まあ、とはいえ、一般人すべてに読みやすいかと言えば、全肯定まではできない。マンガしか読めない層もいるわけで。氏がやや専門家寄りにいることはその肩書きからしても間違いない。しかし、多少読みにくいところがあったとしても、多くの良識的な人々には参考になるだろうし、真剣に考える若者(高校生くらい)が考えるきっかけとしても良い本だと思う。最近若干忙しいこともあって、今までと趣を変え、ちょっとずつ紹介を試みる。小見出しは目次に対応している。■はじめに大切なことは、国を愛することや愛国心を、夜郎自大的な一部の「右翼」的な人々の専売特許のままにしておかないことです。もっとしなやかに、そしてしたたかに国を愛することや愛国心について語り、議論することが必要なのです。(p.12)■なぜいま「愛国」なのか▽1なぜいま「愛国」なのか 強力な「改革」の政治が、グローバル化を進めれば進めるほど、国民国家の政治の「墓堀人」になっていくという皮肉な構図が浮かび上がってきます。 逆に言えば、グローバルな市場経済の拡大は、国家の「退場」だけを意味しているのではなく、公的な介入の主体である国家(政府)の「過剰」と表裏一体をなしているのです。 したがって、世上の経済中心の説明とは違って、グローバル化は、政治化を意味していると考えた方がよさそうです。つまり、国家(政府)が、それまで民主主義的な福祉国家であれば当然、制御されていた拘束を解き放ち、剥き出しの形で国民をグローバル化の圧力のもとにさらそうとしているわけです。(p.16)「市場を、市場を、もっと市場を」というスローガンのもと、こうした若者たちにとっては、あたかも国家や社会などというものが消滅したような、冷淡な環境が作られつつあります。そして社会の矛盾は、当の個人の生き方によって私的に解決することが強要されているわけです。つまり、社会はリスクと矛盾を生み出し続け、それらへの対処は、「自己責任」に基づいて個人によって解決されなければならないのです。お上に期待するな、自分の内側だけを見ろ、必要な資源は個人的な才能と意志、能力の如何にかかっている。これがリスク社会が押しつけるルールです。(p.24)そうしたことから引き起こされる不安によって、若者が「体制化」した戦後民主主義を呪詛の対象とし、それをぶっ壊すという一言男を支持し、その結果うえのような自身の生活基盤を掘り崩すような「墓堀人」を呼び込むという診断。そうした拡大再生産的不安と「セキュリティ」が、「「国民」=「公民」としての心構え、つまり「愛国心」」(p.31)の「内圧」を高めているということなのだろう。▽2「愛する」とはどんなことかというのも、しきりに愛国心を鼓舞する人々が、そもそも「愛する」とはどんなことなのか、掘り下げて考えているようには思えないからです。早い話が、「日本人なら日本を愛するのは当たり前だ」「自分の国を愛せないヤツは信用できない」。こうした、反省的な思考そのものを突っぱねるような議論が横行しています。国を「愛する」ということは、理屈や論理の問題ではなく、感情の問題であり、つべこべ詮索する筋合いのものではないと言いたいのかもしれません。(p.32)愛国心の栄光と病理を知り尽くしていた橋川(*文三)は、愛国心が、政治という権力をめぐる抗争に「幻想的な完結性」を与える伝統的な技術ではないかと疑っていました。愛国心という言葉が醸し出す「優美で繊細な心の作用」(例えば「もののあわれ」)が、しばしばその反対の「不気味で醜悪な政治行動」と結びついているという「宿命的な共存関係」。この逆説的な結びつきに対して先に紹介した「『美醜の感覚』を失うべからず」や『国家の品格』の著者たちは余りにもナイーブではないでしょうか。(pp.33-34)丸山(*眞男)は、「八紘一宇」「天業恢弘」「皇道宣布」といった仰々しい大言壮語と軍の中枢にいたパワーエリートたちの「弱い精神」の滑稽なほどのコントラストを鮮やかに浮かび上がらせています。そこにみられるのは、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」という矮小な凡庸さです。(p.42)「これは昔々ある国に起ったお伽話ではない」という丸山の警句を重く受け止めたいと思います。なぜなら、自己喪失に悩む無力なアトム(原子)化した個人のマゾヒズム的な欲求はますます拡大し、強まっていくのではないかと予想されるからです。それは、先にも見たように、日本型の階級社会(総中流社会)の崩壊とともに社会が底割れし、「見捨てられた」人々が増大しつつあることと関連しています。(p.44)ハンナ・アーレントは人々を全体主義運動に奔らせ、その支配に慣らせてしまうものは、「いたるところで増大しているVerlassenheit(見捨てられている状態)」であると喝破しました。(p.44)国を愛することや愛国心が、そうした「見捨てられている状態」を組織化する安易な接着剤になるならば、それは社会をより荒廃した状況に引きずり込むことにならないとも限りません。そうならないためにも、今一度ここで「愛するということ」について考え直してみる必要があります。(p.45)つぎはぎを勝手にする権限が俺にあるのかわからないが、「間」に想像力を働かせて読んでもらいたいところだ。結構な量になるが、これでも削った方なのよね。 相手国は堕落しきった極悪非道な国のように見え、いっぽう自分の国はあらゆる 善と高貴さを代表しているように思われる。敵の行動を評価するときと、自分たちの 行動を評価するときとでは、それぞれちがう物差しを使う。敵がどんなに良いことを しても、世界を欺こうとする特別の邪悪さのあらわれにちがいないと思ってしまう。 いっぽう、自分たちが悪いことをしても、それは必要であり、立派な目的のためだか ら仕方ないということになる。(フロム『愛するということ』) 文明と野蛮、高貴さと低俗さ、美しさと醜さ、民主と独裁、善と悪など、二極化した言説は、「こちら側」と「あちら側」、「われわれ」と「かれら」の境界をますます固定化させ、国民の内部的な構成を教条化する効果を生み出します。要するに、相手のイメージがナルシシズムによって歪められることで、他者への想像力が停止してしまうのです。 それは、同時に「わたし」という一人称単数を自らが帰属する共同体の名称(「日本人」や「日本国民」)に解消してしまうのですから、全知全能のような感覚に浸っていられるのです。「日本人は怒っているぞ」「日本人は悲しんでいるぞ」「日本人は喜んでいるぞ」といった、個々の実感の希薄な情動が暴走することになりかねないのです。(p.50-51)だとすれば、客観的に考える能力が「愛するということ」の技術の習練に必要になってきます。それをフロムは理性と呼んでいます。(p.51)理性や知性は、それ以外の人間の美点を致命的に犠牲にするものであると理解すべきではありません。むしろ、そうした美点を完成させる働きをするものなのです。この点をフロムははっきりと認識していました。だからこそ、理性にはその基盤となる感情面の姿勢、つまり「謙虚さ」が必要だと力説しているのです。(p.53)それ(*「愛するということ」)はさらに進んで、「信じる」ことの習練を必要とするのです。つまり、徹底してギリギリのところまであるがままの国の姿を知り尽くし、その上で国を「信じる」ということです。それは、良くても悪くてもわが祖国といった「妄信」や「盲従」を意味しているわけではありません。(同上)「信じる」と言っても、それはあくまでも「理にかなった信念」であり、「自分自身の思考や感情の経験に基づいた確信」です。ですから、それは、一人称単数の主語が欠落して、ただ述語だけが異様に肥大化したような感情の暴走とは正反対に位置しています。「理にかなった信念」は、合理的思考の構成要素ですが、しかし同時にそれは自らの愛―愛国心―に対する信念を通じて他人の可能性を「信じる」ことでもあります。その行為は、ある意味で自我の内面における「決断」の要素を必要とするはずです。ここに国への愛着や「愛国」をめぐる「心情的な」決断の契機が宿っていると同時に、国への忠誠と反逆(抵抗)のダイナミズムも胚胎しているのです。(p.54)愛するというのは、技術であり作法である。「心があれば伝わる」なんていう奴がいるが、それはちがう。「心があるからこそ」伝わるように準備するものだろう。愛する心があるならば、愛し方を学ばないといけない。そうでないやつは、「愛する」という言葉に凭れ掛かっているだけだ。自分は本当に愛国者らしいか、と問うたことがないだけだ。考えることから逃げているだけだ。考えろ。既存の言葉に凭れ掛かるな。それは子どものすることだ。君が振られたのは愛する「作法」が足りないからかもしれない。紹介のつづきはまた。全4回を予定。
2006.10.23
コメント(0)
掲題の小話を教えてもらった。以下、紹介。その土曜日の朝、アクラに本部がある「西アフリカ試験機構」を会場に、TOEFLを受けに来たのは、ガーナ人の中高大学生と数名の外国人、合わせて100人程だ。しかし会場には席が50人分だけ。がやがやしながら待っていると、試験官3人が15分遅刻して入ってくる。「ああ、やっぱり狭かったか」それから、隣の建物の大部屋までぞろぞろ移動して、全員が着席したときは、すでに試験開始時刻を30分も過ぎている。やっとテープによる受験指示が始まったが、5分も経たないうちに、停電だ。試験官たちはしばらくヒソヒソと相談していたが、「皆さん、停電です・・・。いつ電気が来るか、知ってる人いる?」「知るわけないだろ!」という声が上がる。「当機構には、電池で動くカセットプレーヤーがある。あるにはあるが、問題は、電池がないことだ!」受験生のほぼ全員が、握った右手こぶしを口元に持ってきて、「エイ!」とか「エベイ!」と叫ぶ。ガーナ人が驚いたときの典型的な動作とセリフである。「そこで提案だ。みんなでお金を出し合って、電池を買おう! 一人1円か2円で 済む。これぞ民主主義ではないか」「エイ!」「エべイ!」。場内は騒然となる。「何いってんだ。客に金を払わすな!」そのひと言で、3人の試験官はがっくりと肩を落とし、一人あたま30円くらいの金を財布から出し合っている。「わかった。金は我々が出す。でも車で来た人がいるだろう、市場まで乗せてくれ。そのくらいいいだろう?」。20歳くらいの学生が名乗りを上げ、一行は市場に向かう。電池を買うのになぜこんなに時間がかかるのか。待つことおよそ1時間半。2人はやっと戻ったが、それから出てきたのは、何とスピーカーが5センチくらいしかない小型プレーヤー!大講堂にこれでは無理ではないか!?「聞こえませ~ん」「何だ。せっかく電池買ったのに・・・。当機構にはこれ1台しかないんだぞ。 聞く努力をしてくれ!」「エイ!」「エべイ!」。大騒ぎの中、受験生の一人が手を上げる。「提案です。今日はもうやめて、明日にしましょう。明日は電気も来るのではないでしょうか」「それはいいアイデアだ。さすがガーナの学生! そうだ! ここは民主的に投票で決めよう。まず、いつ戻るわからない電気を待って、今日やりたい人、手を挙げて!次に、明日に延期したい人! 但し、これには条件があるぞ。今日の問題を明日使ったということが、TOEFL本部にバレるとスコアが無効になる。アメリカ人には内緒だよ~」受験生の「多数決」で翌日開催が決まり、そして、その試験も無事終わって、およそ1ヵ月後・・・。TOEFL本部から届いた封筒の中身は、しかし、スコアではなくレターだった。「今般の試験は極めて不適切な方法で行われたという通報がありました。よって、結果はすべて無効です」エベイ!■多数者支配説「民主主義」というものは、それをわからない人間に語られるとき、なぜか、上の「民主的多数決」のような「意思決定方法」と絡んで語られる。あるいは、「責任はみんなにあるよね」みたいな何らかの「態度」として。この国の「戦後民主主義批判者」たちのなかにも、こういうお粗末な民主主義理解をしているやつが多いなぁ、と以前から思っていた。だが、民主主義はあくまでも、「民主」ということであり、意思決定法は多様にありうる。そうじゃなかったら、代議制に正統性を持たすことなんてできっこない。「民主主義=多数者支配」だという考えは、かなり悪意を含んだ誤解であって、それをどう是正するかが、国制のグランドデザイン=政治機構=コンスティテューションの役割であることは、当然の理解であってほしいと思う。■ほのぼのが無い社会から見てるさて、今日は面倒臭い話はともかく、この話を紹介してくれた人は「なんかほのぼのしない?」と伝えてくれた。いや、まったく、ほのぼのする。俺にとって大切なのはそこだ。なぜに俺はほのぼのするのかといえば、たぶん、かの国、何かに支配されているという感じが薄いからじゃなかろうか。日本という国(たぶんアメリカも)は、「自由」を名乗りながら、ちっとも<自由>な感じがしない。それをもっともよく表象してくれているのが、この国の政治家だ。そう、その存在意義からして、「政治=自由」のことを最も表象してしかるべき存在だといえる。次の選挙に追われ、金集めに追われ、盛者必衰の流れにおける権力追求に追われ、「ここまで一生懸命走ってきました」みたいなことを、まるで美徳であるかのように選挙民に言っちゃう政治家。政治をやりたいならいろんなスタイルがあるが、政治「家」をやりたいならこの「強迫神経症」と付き合わないといけない。なんだか、日本という国の政治の貧困を思わざるを得ない。「政治学を学んだ人間は政治家にはならない」とは、まことしやかに、大学時代俺の周りで言われていたことだが、その理由は、政治にいろんなスタイルがあることを知って、さらに政治家というオプションは、その中でもあまり徳のある選択肢ではないと知るからじゃないかと思う。まあ、もちろん、例外もいることは時の首相をみればあきらかだ。成蹊というところの政治学科が政治学を教えてないのか、当人がしっかり学ばなかったのかは定かではないが(笑)。この国は名目上「先進国」だが、どこかの国の「従属国」だし、「資本」と呼ばれるものに「隷属」した国だ。何かに追われ、自殺者は年間3万人を越し、生活格差は広がり、弱者は痛めつけられ、自分の生活は安定している職業政治屋は「国民の生命財産を守ろうとするのがタカ派なら、僕はタカ派で結構です」と嘯く。そして、本当のところ自分の「政治生命・財産」に気が向いている。なんというか、現政権が「再チャレンジ」の名の下推し進めようとしている「勝ち組・負け組」という区別もそうだが、何か安心というものが無い社会だ。そして、社会不安を内面化してしまった層は、その不安を解消するべく「愛国心」を説く。愛も知らないのに。自分の生活が決して良いものだと思ってないからこそ、「日本は良い国だ」と言いたがる。扇動政治家は、そうしたやつらの不安を煽って、さらに票を稼ぐ。やってることは、ヒトラーと同じ。政治家も成長していなければ、国民も成長していない。まあもちろん、うえにみた国が、同じ道を辿ってくる可能性は否定できないけど。しかし、アメリカのネオコンは、世界を「民主」的にしたいと本気で信じているらしいが(つまり原理主義的)、その結果は、ちっとも「民主」の本来の意味に近くない結果になっていることは知らないといけない。それはアフリカの貧しい国々で証明されてきたし、イラクでまた証明されようとしている。
2006.10.21
コメント(0)
若干、軽いノリなんだけれども、これはちゃんと煽っとく必要はあるんじゃないかと、周知の情報ながら書いとく。■まずこれ「官邸前騒然 イーホームズ社長、首相に面会求め問答」耐震強度偽装を見逃した確認検査機関、イーホームズ(東京、廃業)の藤田東吾社長(45)が20日、東京・永田町の首相官邸を訪れて安倍晋三首相に面会を求めて拒否され、官邸前が一時騒然となる一幕があった。 藤田社長は午後1時ごろ、川崎市内のマンションが新たな「偽装物件」であるなどと告発する書面を手に官邸を訪れた。「腐り切った国土交通省に渡してもどうしようもない。直接首相にお渡しし、対応してもらいたい。首相とは知らない仲ではない」と首相に面会を求めた。 官邸側の対応を待つ間、取り囲んだ報道陣に、これまでの国の対応やマスコミ報道を批判。周辺には警備の警察官も多数集まり、物々しい雰囲気となった。結局、官邸側は受け取りを拒否。代わりに内閣府の職員が書面を受け取った。 藤田社長は同社の架空増資事件で、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の罪に問われ、東京地裁で18日、懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役2年)の判決を言い渡されている。(産経新聞) - 10月21日8時0分更新■つぎにこれ「藤田社長爆弾告発、安晋会関連物件も偽装」耐震強度偽装を見逃した確認検査機関イーホームズ(廃業)の架空増資事件で、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の罪に問われた社長の藤田東吾被告(45)に対し、東京地裁は18日、懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。検察側が主張した架空増資と耐震強度偽装との関係は退けられた。藤田被告は判決後に会見し「でっち上げ」「公権力の乱用」と激しく反発。安倍晋三首相(52)とも関連が深い「アパの物件でも偽装が行われた」と爆弾告発した。 “見せ金”で増資したという罪は有罪となったが、裁判長は起訴事実と耐震偽装事件との因果関係は「明らかでない」と否定した。そのため、司法記者クラブで会見した藤田被告は「なんでイーホームズが悪いのか」と激高。「耐震強度偽装と関係なく逮捕された」と、国や捜査、報道への批判を繰り返した。 判決に対しては「裁判官が耐震偽装と見せ金増資の因果関係がないと言ってくれた。検察の主張を認めなかったことが一番うれしい。これで十分」と短くコメント。その後は「建設業法や宅建業法の問題。いずれ官僚たちは自分たちのミスに気付く」「他の会社の耐震偽装を告発したわたしを黙らせるための逮捕だ」と批判を繰り返した。 その上で、イーホームズが確認検査をしたホテル・マンション大手「アパ」の3つの物件でも「耐震偽装があった」と明かした。藤田被告が指摘したのは(1)埼玉・鶴ケ島市のマンション「アップルガーデン若葉駅前」(2)千葉・成田市のマンション「アパガーデンパレス成田」(3)川崎市内の物件。偽装に気付いたのは今年2月で、藤田被告は「国交省に通報してアパ物件の調査を要請したが、担当者に取り合ってもらえなかった」と述べた。 関係者によると、埼玉と千葉の物件は今年6月、構造計算書に疑問点があることが表面化。現在も工事は中断したままで、アパ側はキャンセルに応じているという。 アパは安倍首相の後援会「安晋会」の有力後援者で、同社の広報誌には、自らCMにも登場するアパホテルの元谷芙美子社長らと安倍首相がワインをたしなむ写真が掲載されている。そのため、藤田被告は、安倍首相と親しいアパを守るために、自身がスケープゴートされたと思ったようだ。暴露本の出版も明らかにし「耐震偽装事件に結び付けることは真実の歪曲(わいきょく)だ。あなたたちが真実のジャーナリストなら真実を知らしめるべきだ」と訴えた。[2006年10月19日8時3分 日刊スポーツ紙面から]■まあ各紙の論旨はともかくなるほど、藤田東吾、気合が入ってる。そりゃ、正しいことを言った結果、あいつは危ないってことで訴えられればキレるわな。国会でのやりとりを覚えている人も少なくないと思うが、たとえば、この人を庇おうと、おかしな遣り取りを自民党議員とヒューザー小嶋社長がしたことなんかがあったね。自民党ってのは、多少まともなやつもいるかとは思うんだが、大抵は金で腐ってる。今回の自民党総裁選で安倍を支持したやつらなんか、金で腐ってるのは間違いない。身内には優しい。なるほど。身内ってのも、お金のつながり。現在の気持ち悪い顔の首相が、「国民の生命財産を守ろうとするのがタカ派なら、僕はタカ派で結構です」と言いながら、どれだけの社会的弱者の生活基盤を奪っているのか考えればわかる。やつは、国民の生命財産なんて守る気なんか全く無い。自分の政治生命と財産を気にしているだけじゃないか。まあ、そういう構造が見えてる人間からすれば、藤田東吾のキレ具合は十分わかる。お金にまみれた汚い顔の政治家を支持する奴ってのは、結局、自分もそういう「汚い」恩恵に与りたいと考えているだけなんだろう。教育にとやかくいうよりも、誇りを持てる国にしたいと口先だけでいうよりも、まずお近くの国土交通省あたりからはじめたらどうだろう。隗より始めよ。
2006.10.21
コメント(0)
私は共謀罪に反対します。遅ればせながら、声だけでもあげておきます。もう、いろんなところで紹介されていますが。■■■>転載歓迎<重大情報!共謀罪は10月24日法務委員会法案審議冒頭に強行採決か!?共謀罪の行方に関心を寄せるすべての方へ海渡 雄一(弁護士) 本日18日、日弁連主催の共謀罪反対集会が開催されました。私はパネルディスカッションのコーディネーターをつとめたのですが、次のような情報を総合すると、共謀罪は10月24日法務委員会の法案審議冒頭に強行採決される可能性が高いと結論づけるに至りました。みなさん、直ちに、強行採決を許さないという声をあらゆるところから上げて下さい。まだ、時間は残されています。根拠1民主党の平岡議員(法務委員会理事)が、今国会では自民党が法務委員会でどの法案を審議するか、順番を決めようとしない。順当に行けば、信託法から審議にはいるというのが普通だが、そのような話が一切ない。平岡議員は、与党は、共謀罪から審議すると通告するのは間違いないだろうと言われている。根拠2与党理事が平岡議員の来週月曜の行動予定をしつこく聞いていたと言うことである。これは、月曜日23日に法務委員会理事会を開催して、24日の開催日程から強行してくるためである可能性があることを示している。根拠3採決予定を明らかにしないのは、22日の補選までは、強行採決の意図を隠し、市民の反発を避けて、補選での与党勝利の障害要因をなくしたいためだというのが、平岡議員の分析だ。根拠4政府与党がこれまで、強行採決に失敗してきたのは、事前のノーティスがあり、市民側がこれに反対する準備をすることができたためである。この経過に学んで、政府与党は事前の計画を徹底して隠し、逆に今国会の成立は困難という情報を流して、市民の油断を誘い、一気に準備不足のところを襲おうとしているのではないか。根拠5法務省と外務省のホームページでのこの間のなりふり構わない日弁連攻撃は、日弁連の疑問にはホームページで既に応えたとして、国会審議を省略して強行採決を正当化する口実づくりとも考えられる。日弁連は既にこのホームページにも反撃しているが、http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/complicity.html 政府側は、論理的な説明は不可能であろうから、問答無用の正面突破を図る可能性がある。 根拠6政治力学的にも、もし、補選で与党が勝利した場合には、この瞬間をおいて、共謀罪の一気成立をはかるタイミングは考えられない。このときを外せば、次の参院選が焦点化し、また、条約起草過程の解明や世界各国の条約実施状況の問題など、与党側は追いつめられていく一方だ。確かに、このシナリオには、弱点もある。このような乱暴なことをすれば、野党の反発を招き、国会が中断されてしまい、他の重要法案の審議に差し支える可能性があるという点である。また、補選で与党が一敗でも喫するようなことがあれば、状況は変わるだろう。しかし、今日の集会で、ジャーナリストの大谷さんが、今週末には予備選だけでなく、核実験もありうることを指摘し、二度目の核実験を背景に、安部政権による国内には北朝鮮の工作員が3万人もいるのだから、共謀罪は当然必要だ、不要だなんて言う奴は非国民だというムードが作られ、一気に共謀罪を成立させようとしてくる可能性があるという予言をされていた。大谷さんは10月15日に予定されていたサンデープロジェクトの共謀罪特集が北朝鮮特集に飛ばされ、放映が11月に延期されたという事実も報告された。北朝鮮情勢は、補選にも共謀罪の行方にも大きな影を投げかけている。とにかく、来週火曜日は最大の警戒警報で迎えなければならない。後で泣いても手遅れなのだから。***************〒160-0022東京都新宿区新宿1-15-9 さわだビル5階 東京共同法律事務所 TEL 03-3341-3133 FAX 03-3355-0445 弁護士 海渡 雄一 ***************■■■根拠があたっているかどうかはともかく(というか、時期なんかともかく)、このおかしな法律を通していいわけがありません。国民の目をくらませて「そっと」通そうとしてるならなおのことです。多くのところで、論陣が張られることを期待します。
2006.10.20
コメント(0)
いや、本当に下品な題ですみません。自分が愛してるからって、お前も愛せって言うやつがいる。しかしね、お前の汚い女房、俺には愛せないのよ。
2006.10.16
コメント(0)
95年、96年にフランスと中国が地下核実験を行ったことを覚えている方も、もちろん、いらっしゃるだろう。いまや、批判を受けた国が、批判する側に回っている。いや、それ以上に、核爆弾を唯一使用したことがある国さえもが批判している。そして何よりも、こうした「過去」を持った国への批判を我々が忘却しつづけるがゆえに、次なる核保有国が出てくるのも当然といえる。日本の核武装も視野に入れるなどとのたまう政治家に、今回の件を非難することなど、どのような論理を辿ったって不可能だろう。まず、このことを頭に入れておきたい。核保有を非難するのは、いったいどのような論理においてか、非難する者はしっかりと明確にしなければならない。そして、俺は当然だと思うのだが、ある種の論理において核保有を非難するのであれば、現状の核保有国家を非難し続けなければならないし、「日本も核武装」などと言う政治家をそのままにすることができるはずがないように思う。もちろん、日本が持ってもいいと思うなら、相手を批判することはできまい。■いつも茶番いつもいつも思うのだが、外交なんて「裏」では物凄い質量のやり取りがなされていて、だいたい「表」に出るときは、各国の首脳は、ほとんどの事実をすでに掴んでいるのに、お茶の間の皆さんを喜ばすために、各国の政治家たちは猿芝居をうつ。今回の件、中国は知ってただろうし、アメリカだって知ってただろう。恐らく、日本だって韓国だって知ってたはずだ。ってか、いろいろと識者から指摘があるように、そもそも北朝鮮は核保有していたはずだし、そのことさえ、各国は知っていたはずだ。知らぬは国民ばかりなりってね。北朝鮮が外交カードをなくしていけば、核保有宣言をするのもわかっていただろう。今回はご祝儀でもある。安倍と金正日は、お互いに国内を纏めるために協力している。■アホウ新聞北朝鮮が核実験しました!みたいな号外ってどうなんだろうと思う。あれは何を伝えたいのか。だから、日本も核保有しましょう!なんだろうか。また、もう消されてしまったが、あるWebnewsが「韓国の太陽政策が破綻」と見出しをつけていた。太陽政策を批判するバカが多いが、彼らは韓国政府が自分と同じようなバカさでその政策を採っていると信じているようだ。だが、外交における意思決定は、常にリアリズムに立ったものであって、そのときどきに変化するのは当然のはずだ。それを「破綻」と書く不見識が、その新聞にはある(消したところをみると、社内にまだまともな奴もいるのだろう)。太陽政策に転換を訪れさせたのは、韓国ではなく、日本とアメリカであることは言うまでもない。この両国の外交失策が核を唯一の外交カードにさせただけだ。まあ、それで、得したのは誰か考えれば、その理由もわかろうが。いずれにしても最悪のシナリオは避けたい。でもね、たぶん、東京と山口にはミサイル飛んできませんよ。
2006.10.10
コメント(0)
「そぞろ日記」miyauさんからトラックバックをいただいて、「アリジャン・プロジェクト」がまた動き出していることを知りました(私が報告していくと言ったのに、恥ずかしい)。署名はこちら。締切2006年10月13日アリジャンさんは、アフガニスタンから戦禍を逃れて、「希望と平和の国」である「日本」にやってきたのですが、この国の入国管理局は(国連からもその【非】人権・【非】人道主義を批判されています)、この祖国復興のために勉強したいと求めて来た青年を自殺にまで追い込むような扱いをしました。当時の法務省が下した「難民不認定」に対してアリジャンさん側が起こした裁判は、先日東京高裁で原告が勝訴し、さらに法務省も上告せず、当時の法務省の判断が誤っていたことが確認されました。当時の判断が誤っていたということは確認されましたが、今新たに、入国管理局は、現状において彼を難民として認定するかどうかを調査すると言っています。当時の誤った判断がなければ、アリジャンさんは自殺まで考えるような酷い苦しみを味わわずに済んだはずです。当時の誤った判断がなければ、今彼は「難民」として、この国で祖国のために有意義なことができていたはずです。そして、当時の誤った判断がなければ、現状における調査などする必要はなかったはずです。誤った判断の当事者として、入国管理局が再度調査をするということが、私にはおかしく思えまてなりません。そこで、再度、この国の良心ある方々に署名をお願いしたいわけです。署名はこちら。以下、児玉弁護士からのお願いを引用します。■■■2006/10/01 弁護士 児玉晃一 今年の9月13日、アフガン難民のアリ・ジャンが東京高等裁判所でも勝訴判決を受け、法務大臣は上告をしなかったことから、この判決は確定しました。つまり、アリ・ジャンの完全勝利です! 今までご支援下さった皆様、本当にありがとうございました。 ところが、9月28日、判決確定の翌日にアリ・ジャンは東京入国管理局に呼び出されました。入国管理局は、アリ・ジャンを難民と認定するか、在留特別許可を認めるか改めて調査するというのです。 今回の判決は、アリ・ジャンを難民と認めなかった2001年9月の判断が誤りだというものなので、入国管理局としてはその点は争わないが、現在のアフガニスタン情勢に照らして、今でも難民と言えるのか、在留特別許可を出すべきなのかを再調査するということなのです。 しかしながら、本来であれば、入国管理局がきちんと調査さえしてくれていれば、アリ・ジャンは5年前に難民として認定され、安定した生活を送れたはずだということが今回の高裁判決で判断され、国側はそれを受け入れているのです。今更、調査をし直すことで、不安定な状態を続けさせるというのは、一体何なのでしょう。いつまで苦しめれば気が済むのでしょうか。 2001年当時にアフガニスタンを実効支配していたタリバンは政権の座を明け渡しましたが、その後今日までその座を奪回するべく、アフガニスタン国内で戦闘が繰り広げられています。まだまだ、アフガニスタンは安全ではありません。 そこで、私たちは法務省に対して、次のとおり要望します。 東京高等裁判所の判決を尊重し、アリ・ジャンを直ちに難民と認め、在留特別許可をすること この活動に賛同していただける方は、下記空欄に必要事項を入力し、「署名」をクリックしてください。是非御協力をよろしくお願いいたします。お寄せいただいた個人情報は、署名提出と経過・結果報告のみに使わせていただきます。2006年10月13日締め切りとさせていただきます。■■■署名はこちら。
2006.10.06
コメント(0)
高校生だった頃の俺は、そこらの高校生と同じように、カッコイイ見栄えを気にしていて、髪を切る場所なんかは、結構いろいろと試した。三度同じ場所で切りはしなかった。気づいたことと言えば、当然ながら、美容院だからおしゃれで床屋だからおしゃれじゃない、というイメージは間違っているってことだった。そういうわけで、ある床屋へは二度足を運んだ。その床屋はラジオを流していて、高校の卒業式だかなんだかで国歌斉唱のときに生徒が一人として起立しなかったことに腹を立てた市長だかなんだかが怒って帰ったというニュースが、俺の髪が切り始められたあたりで聞こえた。床屋のおやじは切りながら、「おかしいよなぁ。変な生徒たちだよなぁ。アメリカなんかみんな国に誇りを持ってるのにねぇ」と言った。最後の「ねぇ」は明らかに俺に語りかけられた言い方を表していた。もちろん、おやじは思い込んで喋っているだけだった。まず、国に誇りを持つことと国歌・国旗を尊重することが同一だという思い込みをしている。そしてつぎに、アメリカ人たちが本当に「みんな国に誇りを持ってる」と思い込みをしている。もちろん、俺はそのおかしさに気づいたが、大切な髪の毛を「人質」にとられている身として、寝たふりをするだけにした。俺の合衆国パスポートを持つ友人は、「君らアメリカ人」と呼ぶと、「アメリカ人と呼ぶな。俺はブッシュと違う。カリフォルニアンと呼んでくれ」という。まあ、どうでもいいんだけどね。以下、好きな小説から引用。「これから我々はアメリカ合衆国の国旗に忠誠を誓う!」 何てことだ、とわたしは思った。場違いなところに来てしまった! わたしたちは起立して、誓いを立てる。しかしわたしは何に忠誠を誓うのか、そこのところは声に出さなかった。 全員が着席する。机の向こうからラリーが喋り始める。これが初めての集まりなので、自分が議長を務めると説明する。会合を二、三度持って、お互いのことがよくわかり始めた頃、みんなが望むなら議長を選出してもいい、しかしそれまでの間は……。「ここアメリカで、我々は我々の自由に対する二つの脅威と立ち向かっている。我々が立ち向かっているのは、共産主義者たちが引き起こそうとしている災厄と黒人たちの我々に取って代わろうとする野望だ。両者はしばしば共に手を組む。我々真のアメリカ人は、この災厄や脅威を撃破するためにここに集う。この目的は何としても成し遂げなければならない。さもなければ黒人の男に卑猥な声をかけられることなく、たしなみのある白人の女性がこの街を歩くことなど、一切できなくなってしまう!」 イーゴーが急に立ち上がる。「我々はやつらを殺す!」「共産主義者たちは、我々が長年働いて得た富を、我々の父親たちが血の滲む思いをして稼いだ富を、そして彼らの父親たちが労働して築き上げた富を分配したがっている。共産主義者たちは、我々の金を黒人やホモ、浮浪者や殺人者、あるいは我々の街を我が物顔にうろつき回って子供に性的暴行を働く変態どもに分け与えようとしている!」「我々はやつらを殺す!」「やつらを阻止しなければならない」「我々は武装しよう!」「そうだ、我々は武装しよう! そしてここに集まってアメリカを救うための全体計画を明文化するのだ!」 全員が拍手喝采する。その中の二、三人が「ハイル、ヒットラー!」と大声でわめく。差別と切り離せない愛国心。この場面は、おかしな場面として読まれるべきなんだが、この国の政府を見ていると、笑えないでしょ。
2006.10.03
コメント(0)
安倍晋三は「自民党は国民政党」だという。その考えの危険がどれくらいのものかもわからずに。石原慎太郎は国旗・国歌を「国民」的統合の道具にしようとする。場当たり的直観によって。「個」と「個」が接近しすぎて、「一つ」に統合されてしまった時、人々は「世界」を客観的に認識する能力を失う。アーレントは、我々の全ての感性的知覚を最終的に統御する統覚的な作用として伝統的に「共通感覚=常識common sense」と呼ばれてきたものの本質は、人が「一人one」ではなく、「複数plural」として「ポリス=政治体」の中に存在していることにあるという基本的見解を示している。たった「一人の人」が感性的データとして知覚したものは主観的で、移ろいやすく、不安定であるが、他者との「関係」の中で「間主観的」に認識されたものは、確固とした客観性を得て、「存在」するようになる。人・間が「複数」として存在することが、「共通感覚」に基づいた客観的認識の成立する条件であるはずだが、一九世紀後半以降の西欧市民社会で、この条件が次第に掘り崩されていった。「我々」が活動できる「共通世界」を支えていた「共通感覚」の崩壊過程が、現実「政治」の領域では、[大衆社会化→政党政治の衰退→全体主義]という流れとして現象したのである。「共通感覚」を失った人々は、自己を取り巻く環境にリアリティーを感じられないまま、擬似宗教的な世界観政党によって「一つ」の「全体」的な方向へと誘導されるようになる。――仲正昌樹『法の共同体』(お茶の水書房)ここに述べられる「常識」とは、<他者>の存在を前提としたエートスである。自分とは違った意見の者が、構成員として、同じ共同体に存在するということを、積極的に受け入れる考えである。自身の考えを「日本人」という「全体」の名の下に、<他者>にも押し付けられると考えている者たちは、全体主義の尖兵と言っても過言ではない。
2006.10.03
コメント(0)
むかしむかし、とはじめたい。本物と偽物という概念があった。あれは本物じゃない、とわれわれはよくいった。あるいは、あの恋は前の悲恋の代替物だ、とも。本物の政治家がいなくなったといい、美しい国でなくなったという。でも、いまはいま、といまいいたい。すべて偽物なんだと。偽物にまぎれて人はありもしない本物を探す。知りもしないから、ありもしないものを信じられる。すべては記憶の宇宙。思考という光がその際に到達することはできない。永遠に。でもでも、それが宇宙に意味をつける。偽物であることをしって、俺は偽物に本物を見出す。偽物はいまを生きている証。偽物に騙されるなと昔の人はいうが、安易な本物に騙されることを俺は恐れる。
2006.10.02
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1