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今日は安倍晋三が第90代首相に指名されました。社会的弱者にとっては、極寒の冬時代に突入です。参院選で自民党が大敗しなければ、社会的に不安と鬱憤が高まって、酷い時代になると思います。国境のボーダーレス化とアメリカ覇権主義の綻びが誰の目にも明らかになる時期と重なっているので、政権運営者には、相当の知恵者が必要でしたが、自民党という古臭い政党は、小官吏の論理、長いものには巻かれろ主義で、もっとも知恵無き者を選びました。すべては自己保身の論理の結果です。自民党議員たちは現代のアイヒマンです。次の選挙に勝つこと、なるべくいいポストにつくこと。皮肉なことに、派閥否定派による派閥の論理です。(9月26日)安倍内閣閣僚が発表されました。なにやら、「妥協と希望」の「妥協の産物」です。かつて私は知能の低さや論戦の弱さから、むしろ安倍晋三が首相になった方が、早くおかしな政権が倒れるんじゃないかと期待したのですが、今はその逆です。というのは、奴は何もする気がない可能性があります。そういう人事です。思い出してください。この国の「民」たちは、何もしない政権に対しては支持率を高める人たちです。安倍政権は、もしかすると、やる振りだけ見せて嫌なことはやらない、「何もしない内閣」を目指している可能性があります。今の方向性で何もしないということは、この社会の酷さは小泉悪政そのままの惰性で増すでしょう。恐らく、参院選、衆院選の後、場合によっては谷垣一派が割れる可能性も考慮しているのでしょう。だから、早くに動かない。安倍晋三の力量と内閣の総合力を勘案して、安易に構える論調もあります。しかし、彼は何もしないという選択肢を持っていることには注意しなければなりません。何もしないまま、参院選まで持って行き、悪いイメージを持たれないまま、やり過ごすつもりかもしれません。世襲政治家というは、本当に国民のことを考えない人たちなのです。(9月27日)
2006.09.28
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東京都教育委員会が出していた「通達」が、違憲であることが21日東京地裁(難波孝一裁判長)で確認された(読売・日経・毎日・朝日等参照)。すこしでも近代社会に生きている自覚を持っている者にとっては当然の判決といえるが、もちろんそれがわからない人たちがいるわけで、久しぶりだけども、少し書く。■通達、その卑劣さについてこの通達自体が大変興味深い。あるひとつの政治的立場からの主張を強制しようとしているわけだが、それがわからない方がいるとすると、理由はふたつしかない。一、たまたま政治的に同じ立場にいる。二、お上が言うことには「ははぁ」となってしまうメンタリティを持っている。もちろん、「あるひとつの政治的立場」であることを隠そうと、「学習指導要領に基づき」という文言を使っているのであるが、このおかしさについては下で触れる。それ以外に、「校長は自らの権限と責任において」「教職員に徹底するよう通達する」とくる。これは、現場の校長に責任を押し付け、あとで「査定」するからね、といういやらしいやり方だ。卑劣と言ってもいい。語の正しい意味でパワーハラスメントでもある。組織運営がリーダーシップ無きトップダウンになっていると、こういうことが起こる(まあ、リーダーシップの意味を勘違いしてる可能性が大なんだけど…笑)。■憲法99条を知らない公務員ある職員は「敗訴なんて1%も予想してなかった。そうでなければ、こんなに混乱しません」。(朝日)この判決を予想できないということは、権利に相当疎い職員なんだろうと推測できるが、都民にとって不幸なのは、そういう人が公務員をやっちゃってるという事実である。彼は憲法99条なんて読んだこともないんだろうな。ところで、もっと重要なのは中村正彦教育長の話だ。「我々の主張が何も参酌されず残念だ。通達は、学習指導要領に沿った式典にするために必要かつ合理的なもので、教育基本法が禁じた不当な支配には当たらない。こんな判決が判例とならぬようにしたい」(同上)脳みそ溶けてるんじゃないかと思える発言だ。憲法19条に違反しているという判決に対して、金科玉条に「学習指導要領」とくる。学習指導要領第一主義の根拠を述べてもらいたいものだ。言うまでもなく、学習指導要領に法的拘束力を(百歩譲って)認めたとしても、それが国家の基本法を超える根拠にはならない。当たり前ながら。■小泉「法律以前の問題」の二解釈「法律以前の問題じゃないですかね、人間として国旗や国歌に敬意を表するのは。人格、人柄、礼儀の問題とか」(朝日)「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」(毎日)おそらく、同じインタビューだったんだと思うが、この両者、記事の書き方は真っ二つに別れる。朝日は「強要によらず、礼儀作法として国旗・国歌に敬意を表するべきだとの考えを示した。」と纏めたのに対し、毎日は「(判決に)疑問を投げかけた。」と纏める。全く逆で笑える。(毎日の方が正しい解釈の気もするが。)しかし、この首相、わかってはいたが、相当に頭が悪い。というか、何も考えてないんじゃないかと思える。近代国家という組織が「法」を前提に成立していることは高校生でも知っている。Constitutionが国家の基本法であり国家機構であることくらいは首相なんだから知っていてほしいものだ。立憲主義によってたつ国家機構にありながら、国家への敬愛を「礼儀作法」なんていう権力に絡み取られた言葉で片付けられちゃ誠に困った事態に陥ることくらい、ちょっと考えればわかりそうなもんだけどな。■他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。ちょっと書くのが面倒なので(大部分においてはあんまり同じ考えじゃないんだけど)、内田樹の言葉でも引くことにする。「国益」とか「公益」を規定することが困難なのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーであるかぎり、その人たちの利益も代表しなければならないという義務を私たちが負っているからである。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。(『子どもは判ってくれない』)まあ、わかるよね。ってか、内田氏が引いたオルテガ=イ=ガセーの「市民の責務」の方がわかりやすいかもな。(略)文明はなによりもまず、共同生活への意志である。他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは、分解への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびいこる時代である。(中略)自由主義は(略)最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。(略)(略)敵と共に生きる! 反対者とともに統治する!(同上で紹介のガセー『大衆の反逆』)まあ、もはや言うまでもないけど、憲法19条(思想・良心の自由)ってのは、そういう観点からも保障されてるわけだな。■国旗国歌を尊重するのは当然というおかしな主張もし本当に国家=Constitutionを尊重するってなら、ひとつの政治的立場から思想信条を強要することなんかできるはずがない。そもそも、国家というものが、憲法によってdesigningされるものであるという当然の理解をもってさえいれば、国家の尊重は個人の尊重をその根本に据えているものだということくらいわかる。そして、どんなに改憲を頑張っても、その「憲法」の根拠が立憲主義にある以上、そこを外した解釈はできるはずがないのである。「国旗国歌を尊重するのは当然」というのは、「ひとつの」政治的主張であって、それを自分が持っているからと言って、自ずと他者に及ぶと考えている人がいるとしたら、想像力の欠如という、相当な人格的欠陥を持っていると言うほかないだろう。そうして考えると、先にみた、一、たまたま政治的に同じ立場にいる。二、お上が言うことには「ははぁ」となってしまうメンタリティを持っている。の両タイプの人は、ともに、近代国家を生きるに相応しいだけの考えを身に着けていないともいえてしまう。そういう人たちは、「戦後民主主義が悪い」と言う人たちと重なっているように思うが、そもそも民主主義を生きるだけのエートスをお持ちでない方々(つまり、野蛮)なんだと考える方が正しいようだ。残念ながら。■控訴前近代的な都の教育委員会の方々は控訴すると息巻いているが、公の機関なのだから、裁判の場だけでなく、都民にも、主張の根拠を示して欲しいものだ。まあ、次はおかしな「東京高裁」だから、原告は「最高裁」まで持っていくべきだろう。これは、なかなか楽しい戦いになるはずだ。憲法学者たちが見守っているし、さらには、世界の法学者たちが見ているわけだからね。都というところのお偉方が世界に恥をさらすにはもってこいのシチュエーションが揃った。
2006.09.21
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アリジャン・ブログをご確認ください。アリ・ジャンの高裁判決言渡が本日午後1時20分、東京高裁(第11民事部・富越裁判長)でありました。昨年11月11日の地裁38部判決の勝訴判決を維持し、国の控訴を全て棄却するという勝訴判決でした!これまで、難民認定関連で、高裁で難民が勝訴したケースによると、国は最高裁には上告する可能性は殆どないとのことです。その場合、判決が確定し、アリジャンは法務省に対して難民申請中の状態に戻ります。これまで応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。 以前、ここでも署名をお願いしましたが、難民認定をしなかった行政判断に対して、地裁に続き高裁でも勝訴したようです。(「■アリジャンを知っていますか■」「■フジモリとアリジャン■」「■村上春樹・宮沢賢治・アリジャン■」「■アリジャン次回裁判4月12日です■」はご興味あれば。)しかし、これでことが終わったわけではないようです。9月13日 東京高裁でアリジャンは勝訴しました。これまで、同様の難民裁判結果(高等裁判所での難民側の勝利)によると、国側が上告したケースは1件もなく、今回も法務省側が上告する可能性はないと見込まれています。よって、今回は署名活動など、皆さんにご協力をお願いするのはもう少し待とうということとなっています。今回の判決は、アリジャンが2001年に難民申請をし不認定を受けた「当時の」行政判断に対する裁判所の判決で、アリジャンは法務省から難民として認められたわけではありません。法務省が上告しない場合、今回の判決が確定しますが、法務省は改めて現在のアフガニスタンの状況などを踏まえて、「現時点で」アリジャンを難民と認定するか判断することになります。皆さんもご存知のとおり2001年からタリバン政権は崩壊し、アフガニスタンの状況は大きく様変わりしたかのように見えます。よって、法務省は改めてアリジャンを難民として認めない結論を出す可能性があります。しかし、アフガニスタンでは依然として少数民族ハザラ人への圧力は強く、オーストラリアに逃げて難民申請をしたが不認定の後に帰国したハザラ人が、アフガニスタンで殺されるという報道がなされています。アリジャン本人の意向にもよりますが、現時点でのアリジャンの難民認定を求める段階で、再度皆さんにご協力をお願いすることとなるかもしれません。皆さんその時はどうかよろしくお願いいたします。 お気に入りにも「アリジャン・ブログ」を入れてありますが、ここでも、動向を追っていきます(コピペによって笑)。
2006.09.14
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俺は偶然が俺らの世の中に果たす役割の大きさをかなり大きく見積もって認めていると思う。ウッディ・アレンの映画じゃないけど、努力とかよりも偶然の方がずっと大きく人生に影響を与えることくらい、自分の恋愛経験を振り返ったってわかることだよな。だけど、じゃこれが「歴史観」とどう連関するのかってことになると、もはや俺の手には負えない問題になる。「歴史」は確かに多くの偶然に支配されているということはいくらでも証拠立てられるが、問題は、その「偶然」を動かした人たちの「確信ある行動」は、彼らにとってはもはや「偶然」ではなかったと言っていいレベルのものに思えるからだ(彼らは「現在」において「未来」を先取りしてるからこそ、確信を持った行動ができる)。これこそが人生の二面性を流暢に語る真実だと言ってもいいかもしれない。ところで、今日書こうと思ってるのは、最近読んだテクストのことだ。無名の人間が書いたふたつのテクスト。奇しくもそのふたつは「偶然」を主題にしていた。ふたつの「偶然」の語る焦点はずれるのだが、俺にはどちらも真理に感じられ、人生というものの真理を得た気がした(つまり、確信を持った行動の動力源を得た気がした)わけだ。これを書くにあたり、一つのことに言及しておきたい。それは「偶然」と「機会」の間のことだ。英語で「偶然」は「chance」。しかし、俺ら(日本語という言語を母国語としてるやつら)は「chance」を「偶然」というよりも「機会」と認識してるんじゃないだろか。このことをもう少し突っ込んで考えると、俺らは英語を母国語とするやつらと比べて、「偶然」と「機会」をはっきり違うものと認めてるんじゃないかってことを言いたいわけだ。今回俺が仮説として提示したいのは、「chance」のこの二面性が俺らに力を与えてくれるということだ。この観点から見れば、「歴史」に対する俺なりの立ち位置もはっきりするんじゃないかという期待もある。■「意志」としての「偶然/機会」ひとつのテクストには「別れは偶然だが、出会いは意志だ」と書かれていた。そして、そのテクストはこう結ぶ。「別れという偶然に抗いながら出会いを意志し続けることこそ、われわれ人間の生なのだ」ここでの「偶然」はどちらかとういうと「accident」の意味ではないかと思われるが、いずれにせよ、「chance」を積極的に活用する「生」の意義が語られている。また、それが「別れ/出会い」という「人<間>」の問題に発しているところに、このテクストの思想が垣間見られる。意志。絶対精神の勝利。俺は、どんなに現代において旗色が悪くても、この考え方を捨てきれない。それは、このテクストのように「偶然に抗う」という思想の萌芽が、「神」とも呼ぶべき「絶対精神」によってしか担保されないもののような気がしているからだ。もちろん、だからといって、それを「誰にとっても<絶対>」などと主張するつもりはない。しかし、われわれが何かの行動において「確信を持つ」ことが可能になる条件とは、変化したあとの「未来」を、「現在」において先取りする精神的態度でしかないはずだ。そして、そうした「確信」なしには、「偶然に流される」ことくらいしか残されていないのではなかろうかと思う。■「希望」としての「偶然/機会」もうひとつのテクストには、やはり「出会い」を題材としつつ、「この世には偶然が溢れている」旨書かれていた。そして、そのテクストはこう結ぶ。「偶然があるから、私たちは希望を持って生きていける」ここでの「偶然」はまさに二面性を持ったものだと思われるが、何よりも俺の心を引いたのは、この言が「必然への抵抗」を内に宿していることだ。「偶然が生じる」というそのことが、ときに「希望」であるということに俺はハッとした。少なくとも「出会い」という事象においては、「偶然」がまさに<他者>によってもたらされるということを再確認しておきたい。一つの円環ともいえる「退屈な生」において、<他者>が現れるというのは、ひとつの「希望」である。「白馬の王子」ってなんだろうか。「希望」の象徴的表現なのであろうか。これが「受身的過ぎる」という批判はともかくも、やはり「偶然の音楽が鳴る」という契機は、俺たちの人生に活力を与えてくれるのは間違いないだろう。■希望と意志偶然のこの二面性(アンビバレンス)。しかし、「希望」と「意志」が相反するということは、つまり、支えあっていることも意味する。この緊張関係を積極的に捉え、その<間>、はっきりしない<間>という立ち位置に、しっかりと踏ん張ることこそ、ひとつの生き方の哲学なのかもしれない。緊張関係の<間>におけるダイナミズム。人は、ときに「希望」を求め、ときに「意志」するだろうが、「偶然」はそうしたダイナミズムを抱え続けるだろう。俺は、まさにその事実に、すこしだけ生きる活力を新たにすることができる。歴史とは、こうしたアンビバレンスに支配された人間のただの軌跡でしかない。だが、その軌跡は、ひとつの活力のもととなって、英雄待望論でもなく、ニヒリズムでもない、なんとも曖昧な立ち位置を可能にさせてくれるものとなる。希望と意志。これは、マキャベリが「ヴィルトゥ」と「フォルトゥナ」を言ったことの、俺なりの繰り返しでしかないのかもしれないけどな。
2006.09.05
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振り返ると一本の道その道を選んできたことを俺は誇りに思う。ひとが生まれるというのはやはりすごいことで可能性の無限の萌芽を蓄えた存在は後を振り返ってよろこぶ。願わくは、君その一歩一歩をしっかり歩まんとせその道が君選ばなかった道を心に留めつつ歩んだ君走るな、君たまに振り返れ
2006.09.03
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