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老子の思想の根底にあるのは、冷徹な自然哲学である。彼は、神の意志等を信じない無神論者であった。自然は、絶えず現れては消えて行き、その運動には他の力、例えば神の力等は必要としない物理的な自然の自己運動であると考えた。これは、ギリシャの「自然学」と同じである。彼は、自然を変化するものとして捉えようとし、宇宙間の変化を通して、そこに一定の法則を見いだす。それは万物の根源、つまり、あらゆる現象の裏に隠れている時間と空間を超越した本質の運動法則である。この本体、即ち本質を彼は「道」と命名した。西洋哲学では「弁証法」という。「道」は、知覚を超越した「無」としか言いようのないものであると考えた。「道」は原理であるから「無」としか言えないが、時間的空間的に制約された現象、つまり万物として現れているので「有」と見ることもできる。また、無は極小を示し、有は極大を示すから、「道」「原理」は小であると同時に大であるといえる。さらに、万物は無より生じて無に帰るから「道」は初めであるとともに終わりであるとも言える。これは、現代の天文学でも、宇宙の最後はブラックホールに吸い込まれて無くなってしまうが、またそこから新しい宇宙が出来て行く事が分かっている。このように、出来たり消えたりする自己運動をしているのである。丁度それは、夏の夜空に飛ぶ蛍のように見えたり消えたりするが、蛍自体は、その間、厳然として存在するのと似ている。このように「道」は、全ての対立物を統一するものと考えられた。宇宙間の諸現象は、もろもろの対立関係の一面の形を取って現れるが、それは決して固定したものではない。例えば無は常に有に転じようとし、有は常に無に転じようとする。このように、対立するものが相互に転化しようとする動きが、道の運動法則であると考えられた。対立するものの相互転化の過程が無限に反復されることによって、絶えざる生々変化を示すもの、これが老子の自然観であり、これは現代でもそう考えられている。このことは、自然科学の発達により真理であることが確証されつつある。しかし老子の自然観が、弁証法と決定的に異なる所は「発展」という概念がないことである。万物は発展をしているが、老子の思想は仏教の「輪廻」の思想と同じなのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.30
老子はソクラテスと同じ頃、即ち紀元前5世紀頃の人である。この時代は、春秋戦国と言われた時代で、初めの500年というのは、衰えたりとはいえ、まだ60余りの諸侯は、周王朝の名において事をなしていたのであるが、中原の覇を競った結果、トーナメント戦に勝ち抜いてきた7ヶ国が、周王朝にはもはや遠慮はしないで、各自勝手に王を名乗り、300年間相争った結果、秦の始皇帝が最後の勝利者となる。合計800年間の争乱の時代であった。この間を春秋戦国時代と呼んでいる。この時代の特徴は「百家争鳴」の言葉通り、生き残るためにあらゆる学問が盛んになり、思想の規制などは何もなく、自由に真理と思われる考えを各自述べる必要に迫られた時代である。中国の歴史上、思想、言論の自由が完全にあったのはこの時代だけである。しかしギリシャと根本的に違う所は、ギリシャが真理のために真理を研究したのに対し、中国では生き残りのために自由な研究をしたということである。従って話の落ちは「こうすれば個人も国も良くなる」という結びがあった。ソクラテスのように個人のあげあしを取って他人の話の矛盾は指摘するけれど、自分の意見は言わないというのでは、春秋戦国の時代には受け入れられなかった。そういう時代に老子はいたので、当然、「救国済民」のための哲学でなければならなかった。春秋戦国時代以前の中国には、すでに陰陽二気の説というものがあったが、老子はこれをさらに進めて対立物の相互転化の法則を発見したのである。老子の学説は、自然哲学から認識論倫理説、さらには政治論かつ軍事学に至る非常に幅の広いものである。何故それが出来たか?老子は言う。「およそいかなる意見にせよ、行為にせよ、それぞれに基本的原理が一貫してあるからだ」と。事実、私が「これから」や「経営学の基礎」「哲学の奨め」「落穂拾い」が書けるのも、それらに一貫した基礎原理、即ち、唯物弁証法があり、それを政治経済、経営哲学という形で述べているにすぎないからである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.29
東洋に哲学が発生しなかった理由は二つある。一つは、気候的に自然の猛威が激しく、嫌でも人間社会を支配する神の存在を無視することが出来なかった。日本においては、年々襲来する台風は嫌でも風の神、雨の神の怒りを感じさせ、時たまではあるが干魃、大地震、火山の噴火等、人間の存在を根本から否定する自然の力が厳然とあり、これは「悪い神」の仕業としか考えられなかった。また、中国においては大水害に年々見舞われ、治水をする者は王者になった。そして、その原因は天帝の怒りとしか考えられず、それを祭り鎮める事は、王たる者の重要な仕事であり、「祭政一致」の思想が生まれた。中近東においては、チグリス・ユーフラテスの氾濫は、ノアの箱舟のように、やはり神の仕業としてしか考えられなかった。このように、自然災害には人間の意志とは別に神の大きな意志がある事を認めない訳にはいかなかった。その点ギリシャにおいては、あるものは人間の意志だけであり、その人間は自然を観察し、その成り立ちをいろいろに考える事が出来た。その余裕が紀元前6世紀には、既に「自然学」という自然全般を研究する学問を発生させた。そして、自然現象を研究してゆくと、自然は固定したものではなく、対立物の統一という弁証法論理によって動いていることがおぼろげながら分かってきた。だから、ソクラテスの弁証法は彼が突然考えついたものではなく、長い間の自然の研究の結果、ギリシャに生まれたものである。以上、温暖な気侯と人口の約8割が奴隷という最高度に発達した奴隷制社会がギリシャ市民にもたらしたものは、無限と言ってよい程の暇であった。ソクラテスが毎日市場や体育場で議論していたということは、同じ立場の人間が大勢いたということである。全ての文化は、暇がなければ生まれない。貧乏な人は食うに追われて文化どころではない。だから、文化は一部の階層のものになってしまうのである。その点ギリシャ市民は、全員が暇であり、風水害対策などというマイナスの仕事もなく、市民生活を豊かにする文化施設は、奴隷労働で出来た。だから、全市民をあげて文化活動を行っていた。そこに物の本質の探究が始まったのである。その点東洋においては、商業は発達せず、奴隷は2割から3割程しかいなかった。殆どの人が、奴隷に近い状態であり、とても文化どころではなく、宗教の教えを受ける人が最高であり、それも日本の場合には、鎌倉時代になってからである。従って、物事の本質は神や仏であり、それ以外は考えられなかった。仏教では、実在の世界は仏の世界であり、現世は「うつし世」といって幻のようなものであった。生産力は、殆ど発展せず自給自足の自然経済が中心であった。そこへゆくと、ギリシャ程ではないにしても、自然の猛威が少なかったヨーロッパでは自然の研究が一千年のブランクはあったが進んできた。自然科学には、神の立ち入る余地はない。そして、自然科学の発達は哲学の発生を促し、それが資本主義の成立につながるのである。人間の手の届かない天に神がいて、あれこれ指図されては資本主義は出来ない。従って、ルネッサンス以降の哲学者は、観念論であろうと唯物論であろうと「神の独裁」に対して、共同戦線を張って戦ったのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.28
ギリシャに哲学が発生したのは、中国の黄河流域や中近東のチグリス・ユーフラテス河流域のように農業に恩恵はほどこすが、度々、氾濫して人間を困らせたような地帯ではなかったからである。中国では、人間の意志を越えた天帝の意志を感ぜざるを得ず、中近東も自然の風水害には神を感じた。ところがギリシャにはそれがなく、しかも気侯はオリーブの花咲く地中海の一角で、自然の恩恵を受けこそすれ、脅威など感じなかった。従って、他民族のように自然との戦いが無く、ギリシャ人は農業に、商業に、国防にと打ち込むことが出来た。それは丁度、金のかかる軍事力を持たせられず安保によって国は守られ、経済の復興だけに一意専心し、高度成長を遂げた我が国と一寸似ている。そこで、ギリシャ経済は高度成長を遂げただけでなく、軍事力も他民族とは比較にならないくらいに強くなった。農耕時代が始まると富に余りが生じ、それを巡っての争いが起きた。そこでギリシャとマケドニア連合軍のアレキサンダー大王は連戦連勝し、その戦利品として各氏族より奴隷を徴収し、その数は市民一人当たり約8人になった。しかもこの奴隷は、牛や馬のように自家繁殖をする必要がなく全くの消耗品であり、足りなくなれば「奴隷狩り」をして植民地から連れてくればいいだけの話であった。その確保のためには、強い軍事力を保っていなければならない。今日、ギリシャから始まった「平和の祭典」といわれるオリンピックは、実は「武力の祭典」であったのである。そこで行われた競技のマラソンは、伝令兵の速さを競うものであり、槍投げ、砲丸投げは戦闘のための力を比べたものである。要するに、その当時の戦争は人間の腕力の勝負であった。ギリシャのオリンピックとは、軍事演習に外ならなかったのである。これに習熟することはギリシャ全市民にとって当然の義務であった。ソクラテスもアテネの遠征軍(奴隷狩り)には3度も従軍している。そして、捕らえた奴隷が農業を初め、共同体の土木事業および市民の家事一切をやった。市民の仕事というのはなく、従って身体は体育場で「ボディビル」をやるとか、大きな野外劇場で演劇を見るとか(ギリシャ悲劇)、あらゆる学問を趣味としてやるなどであった。とにかく、この世の中で怖いものは無く、生活は安定しているのであるから人の力の及ばない神の世界など夢にも思わず、ただ自由を謳歌していれば良いというのであるから、人間の思想ものびのびとしたものになり、事物の本質は何だろうと疑問の赴くままに研究するようになった。そこにタレスを初め、いろいろな哲学者、科学者を輩出した社会的根拠がある。ソクラテスの父は石工、母は産婆で、彼自身は何を職業としていたのか分からないが、とにかく、家のことは奴隷任せで、自分は外に毎日出て歩き、弁証法という討論術で皆を「煙にまいて」いたのだから、世間は、勿論、家の中でも鼻つまみになっていた。彼が家に帰ると、細君がガミガミ言うのも無理はなかった。そうするとソクラテスはよくしたもので、口に一杯の水を含み反論したくも出来ないように自分を縛り「嵐」の過ぎるのを待った。このように、奴隷労働の上に絢爛たるギリシャ文化が花開いたのである。今、もし人間の労働を全て代行するようなロボットが出来て、人間は好きな事をやっていれば良いという事になったらどうなるであろうか?まず、所得格差がなくなるので、それぞれの人が中心となる。即ち、完全な民主主義になる。政治家になりたい者は選挙資金などは心配しないで、政治する能力があるかないかだけを問題にすればよくなる。芸術家もその通り、科学者など全てが持って生まれた能力だけが問題になり、しかもその経済的効果など考えても無駄だ。というのは、人間に必要な富は無限にロボットが生産しているからだ。この夢のような話が、初期の奴隷社会を作ったギリシャにはあった。政治形態は主として大奴隷所有者が集まって元老院を作り、議会政治を行った。ギリシャ市民には、貧富の差が余り無いので誰でもなりたいものになれた。また、司法も一般市民から選ばれた。要するにギリシャの市民には、奴隷の上に完全な民主主義が行われていたのである。だから、ギリシャ神話もデウスという議長格の神を中心として専門別にいろいろの神がいて「議会」を開く。有名なミロのビーナスもその一人で美の神である。このように、人間社会と同じように個性のある神々がいて、いろいろ行動するが、この神々は中国の天帝のように、人間社会の王を決め、その王が悪い時には革命を起こさせたりはしない。こういう夢のようなギリシャ社会にも貧富の差、即ち、奴隷所有の数に差が出て来た。そうすると民主的な議会政治が君主制に変わって来た。そして、その人達の堕落が始まったのである。初期のような健全な生活ではなく、淫蕩にふけるようになり、生産は卑しむべき仕事で、ただただ自堕落な生活を良しとするようになり、政治の当事者能力を失っていった。そこで、新興ローマが起こりギリシャの学者等、文化人はローマに移り、ローマ文化を作るのである。従って、その文化はギリシャの延長であり、ギリシャとの違いはなかった。それと同時に、ローマにおいても奴隷制社会より封建制社会へと発展して来た。この間の事情は「唯物史観」の所で詳論したが、思想的に大きく変わった所は市民社会には自由が無くなり、封建社会の発展のためには身分制度の確立等、あらゆる規制が必要になったことである。文化活動というのは、一人一人に自由があってこそ出来る。それなのに、体制維持こそが封建社会や身分制社会の維持だから、ギリシャの自由は邪魔になり、形だけをローマは引き継いだのである。かくして、ギリシャの弁証法哲学、変化の哲学は眠りにつかざるを得なくなり、アリストテレスの「静止」面を言った形而上学が世に出始め、ついにキリスト教がローマの国教となるに及んで、哲学は完全に休眠し、中世の暗黒時代という進歩の停滞期、封建領主にとっては黄金期が一千年と続くのである。初期の哲学は奴隷制社会が生み出したものであり、封建制社会になるに及んで休眠し、また、資本制社会が来て目覚めるのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.27
今まで述べた古代の世界観は「宇宙はどのように出来たか、人間はどのように出来たか」と説明するものであった。それに対し自然教、または多神教は自然の恩恵に感謝したり、自然の脅威をおそれたりする人間の素直な感情を示すもので、天地草木全て神であった。それはそうだと思う。ありとしあらゆる物は、ある法則で動いているらしいが、それは何だか分からない。ただ、ある者の意志によって動いている。人間は、それらを総称して神と呼んで敬った。そして、農耕時代、即ち歴史時代に入ると、この世界は一人の神が創り、動かしているのだという事になり、神に対する絶対服従を誓うようになった。それが、仏教・キリスト教・イスラム教の一神教である。そしてこれらに共通している事は、人間以外に絶対なものを前提としていることであった。二千数百年前よりギリシャに自然を物質の組成によって説明する思想が起きた。現象を神話や超自然的なもの(神)によって説明するのではなく、ロゴス(論理)に基づいた合理的論理で説明した。「自然学」は、物事に内在する論理を探求し、存在する物事をその原因から説明するものである。対象とする自然は、運動、変化の原理を、神にではなく自らのうちに持っているものであり、うちに秘めた可能性としての形相を現実性にすべく、目的に向かって進むものである。こうした「自然学」は、生物学・医学のみならず無生物にも当てはめられ、天体論・運動論にも適用された。紀元前6世紀頃、哲学の創始者と呼ばれたタレスという哲学者がいた。彼は「万物の元のものは、水である」と主張した。水の流動性や氷及び水蒸気への変化、あるいは生命維持に不可欠なことに注目し、それが世界全体の成り立ちに大きな役割を果たしていることを観察した。彼によって開かれた科学者的態度こそが、知的認識による世界解釈としての哲学の成立を促した。その弟子(前570年頃)の哲学者アナクシマンドロスは、明確に合理的な世界像を構想し、いかにして世界が形成され、それは現にどのようにあるかについて、体系的な著作を残した。その内容は、宇宙形成過程に始まり、生物の発生と進化から地誌や民族誌にまで渡っていた。以後の初期ギリシア哲学の問題枠とスタイルは、これによって確定された。彼はタレスの言う水の重要性を認めた上で、水が単一の原動力というのではなく、むしろ「相反する力を持つ諸事物の対立抗争関係によって成立している」と考えねばならないとした。従って元のものは、あらゆる反対関係を越えたもの、そこから全ての反対的なものが「分かれて出て来る」ところの根源として認定されねばならないとし、彼はそれを「無限なもの」と呼んだ。彼の字宙論には「大地は何物にも支えられず、万物から等距離にあるが故に静止している」といった鋭い思索や生物進化論などの奇抜な着想が含まれている。その他、四要素説を唱える学者もあった。それは、火・空気・水・土ないし、太陽・大気・海・大地を基礎的実在とするものや、また、ある学者は「万物の種子説」を唱えたり、様々であった。ここで私達が注目をしなければならないのは、一千五百年前の世界の人で、神を持ち出さないで、純然たる論理(ロゴス)を持って、この世界を解釈しようとした国民は、ギリシャ以外には無かった事である。しかし、その説明は今から見ると本当の事もあるし、間違いの物もあった。それを鋭く追求したのは、紀元前五世紀に現れたソクラテスであった。それでいてソクラテスは、この世界はどういう具合に出来ているとも一切の結論は言わなかった。事実、現代の科学を持ってしても、まだ分からない事は山程ある。ソクラテスは言った。「人は皆、自分は何でも知っていると思っているが、それは不完全な知識にすぎない。自分は知らないのだということを知っている人こそ本当に知恵のある者なのだ」と。無知を自ら認め、自覚する事こそ「知恵」の名に値し、しかもそれこそが唯一の「人間の知恵」であるという「無知の知」というこの恐るべき逆説は、裏をかえせばソクラテスの自己が、そして人間の自己がいわば「無知の自己」として無に他ならないことを告げているのである。実際、ソクラテスの言う通り21世紀の今でも、殆どの人は間違った意見で身を処しており、しかも自分は十分に必要なことは知っていると思っている人が余りにも多い。そして、その意見たるや自分で考えたものではなく、マスコミの大量宣伝によるものや、体制のいうことを無批判に信じている人が多い。若い女の子が流行に従っていると、それが作られたものであろうとなかろうと、とにかく、大勢の人がやっていることに仲間入りすれば安心だという心理がある。それと同じように、大人にも大勢の意見に従っていれば安心だと思っている人が多い。それが真理であろうと無かろうと関係はない。だから、本など読む必要はない。何故なら、自分の知識が不完全であるなど夢にも考えていないからである。ソクラテスは、市場や体育場など人の集まる所へ行き「人はいかに物を知らないか」ということを、優しい問答形式で教えて歩いた。ソクラテスは本は書かなかったけれど、その弟子のプラトンがソクラテスの言行録である「対話編」26編や、思想を書き残した。ソクラテスは「この世界は、火と空気・水・土の四要素が結合したり分離したりすると、生成したり消滅したりする」という学者があると、素知らぬ顔をして問答をしかけ、最後にはその説が矛盾していることを学者自身にも認めさせてしまった。これを弁証法というが、こうしたやり方で次々と権威あるとされる意見を論破していった。それでいてソクラテス自身の意見は言わないというより無いのであるから、当然評判は余り良くはなかった。出目で獅子鼻の容貌と、特異を言論との結びつきはアテネ中の評判になり、終には一青年の「国家の認める神々を認めず、他の新奇な神霊を持ち込む事」と「青年達を堕落させる事」の二つの罪状で告発され、裁判にかけられて死刑の宣告をうけて、毒杯を飲まされて死んだ。その言行をプラトンは記録してソクラテスのあとを継いだのであるが、その次に出たアリストテレスになると物事をソクラテスのように流動的だけに捉えないで「形而上学」という本を書いた。というのは、それまでの弁証法というのは漠然と物事を動きの中で捉えていた。しかし「動いているもの」も瞬間は「止まっている」のである。全ての物は「動と静」という矛盾したものの統一として存在する。それが弁証法的理解である。それが、それまでのギリシャの哲学者は「動」だけしか理解していなかった。それで、その考え方を「素朴な弁証法」といった。そこでアリストテレスは静止した状態を明らかにした。その二つが合わさって正しく理解できる。しかし、後世の人はこれを分けてしまった。そこで「世界は、変わらないのだ」という形而上学が確立した。これは正しくは間違いであるが、物事の理解には役立った。特に、17世紀以降の自然科学に貢献した。丁度、写真が静止しているので見ても分かる。ビデオは全体は分かるけれど、静止状態が分からない。だから、二つあれば本当の理解が出来る。最近では「ビデオカメラ」があるが、弁証法的理解というのは、このようなものである。このようにアリストテレスは、ソクラテス、プラトンの哲学を一段と発展させたのであるが、世の中はそのように理解せずに、ただアリストテレスの「静止」の面だけを取り上げて理解した。それというのも静止した封建時代がその後始まったからである。この弁証法と形而上学というのは、その後の人類の哲学の二大潮流となる。真理は、二つは無く一つであるが、形而上(精神)学というのは殆どの人が「そうだと思える俗説」であるのに対し、弁証法はその論理で万物は動いているのにも拘わらず、一寸分かり難い点があるので、形而上学はなかなか無くならず、従って二大潮流となった。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.26
多神教にしろ一神教にしろ、どちらの考え方が真理であるからこの宗教を選ぶというのではなく、どっちの宗教がその時代に生きるのに都合が良いかで決まるのである。だから、深刻な民族対立や社会対立がなかった日本においては、多神教である神道と一神教である仏教とが併存し、しかも一人の人間の心の中で併存しても矛盾を起こさない。これに引き換え、キリスト教はそういう具合にはいかなかった。16世紀にある教会の建設資金を集めるために免罪符を売り出したローマ法皇に、マルチン・ルーテルが「そんな資格は法皇にはない」と抗議したのを契機に堕落したカソリックに対し、宗教改革運動が起き、200年後の18世紀にドイツのシュバイエル国会において改革推進派の諸侯が、改革阻止を決議した絶対多数のカソリックからなる議会に「信仰の事柄については、神の前に立つ各個人の良心の決断が重要で、多数決によって決定すべきものではない」と抗議した。それ以来、この人達を「抗議する人」ドイツ語で「プロテスタント」と呼ぶようになった。その後、キリスト教はカソリックとプロテスタントの二派に分裂した。この動きの底流には、封建社会の中で徐々に増えて来た商工業者の要望があった。というのは封建社会においては、農奴は領主・地主に絶対服従しなければならないものであったが、商工業者は自分の意志によって行動しなければならなかった。それが「個人の良心」であった。それが「絶対服従」では商工業は成り立たない。即ち、この両者の対立は「封建主義か、資本主義か」という決定的対立であった。そこに、農業以外の一般産業が大きくなるにつれてプロテスタントの勢力も強くなった理由がある。かくして、プロテスタントは資本主義の精神的バックボーンになったのである。確かに、宗教としてのプロテスタントと資本主義は何の関係もない。しかし、民主主義自由主義でなければならない資本主義は、封建主義とは真っ向から対立する。その点「個人の良心」を言うプロテスタントは、「神への絶対服従」を言うカソリックより資本主義にとって都合の良いものである。この点において両者は同じ立場に立っている。そこで、精神的バックボーンと言えるのである。このように、宗教改革の運動は折から勃興しつつあった商工業者の要望がその形をとったのであって、単なるマルチン・ルーテルの正義感だけによるものではない。このことに限らず時代的要望というものは、具体的にはその要望を代表する個人を生み出すものである。日本においては、荘園でただ牛馬のように働かされていた農民(奴隷)が、所有こそ出来なかったものの、一定の土地を耕作し、一定の年貢を地主に納めさえすれば、残りの収穫物は自分のものとなる農民(農奴、封建農民)になった時、即ち封建時代になった時、それまで持たなかった自我の意識が出て来て、喜びと同時に辛い・悲しいと思うようにもなった。来世はどうなるだろうとの不安を持つようになった。そこで、心というものを持った封建農民のために出来たのが、所謂、鎌倉仏教である。それまでの天台宗にしろ、真言宗にしろ、貴族のためのものであった。禅宗・浄土宗・一向宗・時宗・日蓮宗というような新興宗教が、それこそ雨後の竹の子のように出来た。これらに共通していることは、衆生済度であった。これらは封建時代という新しい時代が生み出したものである。プロテスタントは資本主義経済を生み出す力となったが、鎌倉時代に出来た封建農民は奴隷経済より進んだ封建経済を作り出した。いずれにせよ、宗教というものと経済の時代による変化とは密接な関係にあり、宗教が経済とは別に一人歩きするものでは絶対にない。それは、特定の社会層の利益のためのものであるからである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.25
日本においては、対外関係から一神教である仏教が必要とされたが、中国の場合は全土を統一するのに役立った。キリスト教やイスラム教の一神教は、氏族社会から国家へと発達するにつれて、その精神的バックボーンとして必要であった。紀元前6世紀頃、小国が乱立していたのをインドに現れた仏教によってまとまった。それまでは、土着信仰がばらばらにあったのを、例えば、麻利支天・鬼子母神・歓喜天というような仏教より一千年も前のヒンズー教の神々を仏教に取り人れ、インドにおける仏教体系を確立した。総ては、大日如来の化身となったのである。しかし、約一千年経つと国家間の争いは益々激しくなり、6世紀頃、インドの中東地区より起きたイスラム教によって仏教は滅ぼされた。仏教には小乗と大乗とあり、一般民衆は小乗仏教を信じていたが、それは単に個人生活を規定するにすぎなく、大乗仏教は難しすぎた。そこへいくと、仏教で「南無阿弥陀仏」という意味は、「仏の功徳を信じて疑いません」という事で、それに対し「イスラム」というのは、「帰依して、絶対服従します」という言葉であり、唯一絶対の神アラーのコーランの教えに従って、キリスト教やユダヤ教と戦う宗教として出来たものであった。そのため教義は易しく、戦いの中に出来た宗教であったので、忽ち仏教を絶滅してしまった。現在完全な形で残っているのは、インドの一部とタイと日本だけのようである。また、変形したものとしてはラマ教がある。今、イスラム圏の国々がアメリカと激しく対立しているが、これはアメリカを代表とするキリスト教国と対立しているのである。イスラム教の発生においてそうであったばかりでなく、西欧の帝国主義的資本主義にも反対しているからである。キリスト教という一神教が世界史の中で果たした役割は余りにも大きい。キリストの死後200年間もローマ帝国に弾圧され続けていたのに、ローマの国教となった。何故か?それは、ローマ帝国が大きくなるにつれ、その思想的バックボーンを必要としたからである。それまでは多神教であったが、領土が拡大するにつれ、それを精神的に統一する必要に迫られてきた。それには、多神教であっては不都合が起こる。何故なら、多神教であると折角征服した植民地民族の独自性も認めなければならない。そこで一転して一神教になり、ローマのバチカンに本部を置いて、植民地を武力だけでなく、精神的にも統一したのである。それは、ローマ帝国だけでなく、ヨーロッパの世界征服への「黒子」の役割も果たした。そのため徳川幕府は、キリスト教を禁止したのである。その教えが悪いというのではなく、その付随的結果を恐れたからである。だから、オランダのように純粋に商取引をする国は許した。今、世界を見ると植民地だった国は、イスラム教国を除いて圧倒的にキリスト教に改宗している。そしてその布教活動の基本は、植民地にしようとする遅れた国民にものを与えて懐柔し、それにキリスト教を布教するという方法であった。例えば、現在の韓国国民の3割はキリスト教であるが、それは朝鮮戦争後、膨大な援助物資がアメリカのキリスト教団より持ち込まれた結果であると言われる。その他、南方の島々も同じである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.24
「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という和歌は、日本神道の元祖と言われる古事記を翻訳した本居宣長が日本精神を説明した歌である。極めて情緒的で、理論というものではない。事実、神道には理論は無い。あるのは敬神崇祖の気持ちだけである。しかし、これは日本神道に限ったことではなく、アイヌの宗教を初め、世界の原始宗教に共通している思想である。人間は初めのうちは自然の恵みにただ感謝し、自然の驚異を恐れていたが、やがてそれはある力によって引き起されていると気が付くようになった。その力は何であろうか、どのようにして起きているのかは全然分からないけれど、とにかく力が働いていることは分かるようになった。しかも、一つの力だけでなく風の力、雨の力というように膨大な数の力によってこの世界は動かされていることが分かり、その力を神と呼び、しかも無数の神、すなわち八百万の神々がいることが分かった。ところが、それらの神々を統率している神の存在には気が付かなかった。アイヌを初め世界の原始宗教には中心となる神はない。日本も初めは、八百万神の神々が一年に一度、11月に出雲の国に集まって何かのことを相談し、方針を決めたのである。しかし、そこに鉄の文化を持った氏族が北九州の筑後川上流に現れ、さらに出雲の砂鉄産地も併呑(へいどん)した。そして、折から稲作文化の普及により、各地に現れた氏族の抗争を平定した。それを天孫民族という。そうすると原始宗教にも変化が生じてきた。中心のない神々の集団に天御主神という中心が現れ、その方を中心として天地万物人間社会が出来たという古事記の思想となるのである。でも、キリスト教や仏教の一神教と全く違うところは、エホバの神や大日如来が単独で宇宙をはじめ万物を作ったというのではなく、八百万神も協力、即ち、多神教と一神教とが妥協している。これには日本の歴史が大きく影響している。諸外国のように激しい民族間の抗争が無く、従って、変化がゆっくりと行われたから、近代宗教のように唯一神を必要としなかった。村落共同体が長く残り、その運営は「部落寄り合い」によってなされ、一人の支配者を必要としなかったからである。ギリシャ神話に出てくるデウスの神も天御中主神と同じように唯一絶対神ではない。やはり、アイデンティティーを持った沢山の神がいて、その議長のような存在である。しかし、ギリシアのデウスの存在は、日本のように島国という地理的条件に恵まれたからではなく、周辺諸国を打ち平らげての結果であった。その点、成立に根本的な違いがある。やがて、日本も外国との交換を持つようになり、従って国論を統一する必要が出てきた。一年に一度、出雲の国で神々が集まって相談するという組合の運営方式「部落寄生方式」では、国際間の交渉は出来ない。そこで、組合長であった天皇を社長に組織変えしなければならなくなった。そのためには、八百万神の合議制を廃して統一国家にしなければならなかった。そのための精神的バックボーンになったのが仏教である。仏教は、大日如来という唯一絶対神がいて、あとの仏様は大日如来の化身であり、丁度、今日の株式会社のように専務をはじめ、平社員に至るまで社長の分身でなければ統一された行動がとれず、そうしなければ破産してしまうのと同じである。その仏を必要としたのは、まず中国であり、次いで百済の国で、それが日本にもたらされた。日本は斉明天皇の時で、最もこれを支持したのは、大豪族の蘇我氏であり、それに対して従来の政治体制でいようとしたのが物部氏である。そこに改革派と守旧派の争いが起こり、最後、聖徳太子が改革派に参加したことによって改革派が勝利した。そこで「日出国の天子、日没する国の天子に書を致す」という有名な手紙を隋の揚帝に出せるようになったのである。それから、聖武天皇の時には大仏殿をつくり、地方には国分寺をおいて統一国家の体裁をととのえることが出来た。また「国家の出現」の所でも述べたように、その頃迄中国は、日本のことを「倭」という名前を使って呼んでいたが、これは「海辺に住む人達」という意味であったため、国家となった我が国は日出国、即ち日本と名乗り始めた。これも国際間の体裁上必要だったのである。このように中国に対して日本を名乗り、また、仏教を国教として統一国家であることを名実共に示さざるを得なかった。全て国際関係の必要から出たものである。この成立の事情の相違は、仏教、キリスト教、イスラム教などとの根本的な違いであった。それらの国々には村落共同体が無くなり、既に奴隷制の時代に入っていたにも拘わらず、日本には圧倒的に村落共同体が底流として残っていた。そのため、八百万神の協議という思想が村落の運営のためには必要であった。そこに、世界史にも珍しい「神仏混交」思想が明治のはじめまで続き、政府の廃仏棄釈令が出て漸く両者は引き離された。それまでの日本の宗教思想は神仏の二重構造であった。天台宗が国家鎮護を主眼としたのに、真言宗は日本の土着信仰と一体になって中国の密教とも違う思想体系を作った。以上のことは、日本が極東の島国であったという特殊条件から起きたものであって、日本的精神文化というものは、その条件の中に育まれたものである。従って、その思想が21世紀の今でもあり、殆どの日本人は神仏に区別をつけない。人が生まれた時は神式で祝い、結婚式は神式・仏式・キリスト教式、いずれにするかはその時の自由であり、死んだ時も同様である。神社で拍手を打つその手で仏様に手を合わせる。事実、宗教に関しては対立抗争などは無く、差別はしない。誠に大らかな国民が出来上がった。そして、外来文化に対して拒否感は無く、好奇心の旺盛なことは世界でも珍しい。これは、一つにかかって日本という極東の島国が、異民族の脅威にさらされず、ただ外国文化の思想を受けてきたという歴史が作り出したものであり、抜群の好奇心は21世紀を輝かしいものにするに大きな力となるだろう。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.23
天地は、はっきりと別れていず、ただガス状であった。それが自然に別れ行き、そのうちに天地創造の神が現れた。この神は、独りであらゆる物を作った。そして、最後に自分に似せて人間を作ったが、そのアダムという男の肋骨を一本取って、それからイブという女を作り天国の楽園に住まわせていた。ところが、蛇が現れてリンゴを見せ、「これを食べれば神と同じになれる」と誘惑した。イブはそれに負け、アダムにねだって食べてしまった。それを知った神は、二人を楽園から追放してしまった。有名な「失楽園」の話である。そして、二人は神になり損ねた人間の原罪となり、そこからいろいろな教義が生まれた。■まとめ以上が代表的な古代人の自然および人間に対する考え方であり、それを自然教と呼び、自然に対する恐れ、感謝の気持ちを表したものであった。だから、当然教義などというものはない。そうこうしているうちに、農地など人間生活に必要なものが増えてきた。そうすると、それを作り上げてきた先祖に対する感謝の気持ちと農耕の便宜を図るあらゆる条件に対する畏敬の気持ちが出て来た。そこに自然教の根幹に「敬神崇祖」の思想が確立したのである。初めは漠然とした世界観であったものが、農耕の発達と共に「宗教的なもの」に発展してきた。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.22
「十八史略」という18種類の古い時代の歴史書を抜粋して書いた本があり、その中で中国の古代人の世界観を知ることが出来る。伝説によれば天地開闢(かいびゃく)の神は盤古(ばんこ)という。天地がまだ分かれていなかった時、宇宙はどろどろとしていて鶏の卵のような状態であった。その幽暗の中から何物かが芽生え、やがて雛がかえるように盤古が生まれた。天と地は、盤古の成長とともに分かれはじめた。澄んで明るいものが天となり、濁って暗い物が地となった。盤古は背丈が一日に一丈のび、それにつれて天の高さは一丈、地の厚さも一丈増えた。かくして、1万8千年の後、天地は現在の姿になった。また、盤古は万物の祖であるので、彼が喜べば晴れ、怒れば曇りとなり、涙は江河になり、息は風になり、声は雷になり、目の光りは稲妻になる。彼が死んだ後、その頭は四岳となり、目は月日となり、脂は紅梅となり、毛髪は草木となった。(三五暦記述異記)人間が出来る以前の神代に天皇(てんこう)氏が現れて天地の王者となった。暦を作り無為のままで天下を治めた。兄弟が12人いて、それぞれ1万8千年の長寿を保った。次に地皇(ちこう)は、火徳によって王者となった。兄弟は12人、やはりそれぞれ1万8千年の長寿を保った。人皇(じんこう)氏は、兄弟が9人いてそれぞれ天下9つの州に赴いてその長官となった。人皇氏は150代、前後4万5600年の間天下を治めた。人皇氏の後、有巣氏という者が出たが、彼らは樹上に枝を組合わせて巣を作り、木の実を採って食っていた。遂人(すいじん)氏の時代になって初めて木を擦り合わせて火を起こし、人々に煮炊きを教えた。しかし以上のことは、全て文字が無かった時代のことであり、年代も国都も確かめようがない。伝統的な五行思想によれば、万物は天地の間に流れている五つの気、即ち、木・火・土・金・水の動きによって生成消滅する。この五行は、木から火が(燃焼)、火から土が(灰)、土から金が(鉱産)、金から水が(溶解)生まれるという関係にある。(五行相正説)天下の王者になる者は、必ず五行の内の一つの徳を身につけており、最初の王者は木徳、火徳、土徳という順で交替することになっている。このような五行思想を王朝交替に結びつけたのは、秦漢以後に生まれたものである。太皇伏義(たいこうふくぎ)氏は、姓を風といい、遂人(すいじん)に代わって王者となった。身体は蛇、首は人間であったという。易の八卦(はっけ)を創造し、また文字を作って、それまで記録や契約をするのに紐の結び目をいろいろに作っていた不便さを無くした。さらに婚姻の制度を作って一対の毛皮を結納とすることを定めた。網を編んでで狩猟することを教え、犠牲(いけにえ)を飼い、料理を作って天地・祖霊を祭ったのも伏義氏である。このころ黄河の水中から竜馬が現れるという端兆があった。そこで、官名には全て竜の字をつけ、長官を竜帥と呼んだ。伏義氏も木徳の王であり、陳に都を置いた。伏義氏が崩御した後、妹が立った。同じく風姓で木徳の王である。十三の管を持つ笛の一種を作ったが、これが楽器の初めである。また、伏義氏兄妹は夫婦になって人間を作った。天地が出来た時は、まだ人間はいなかった。伏義氏の妹は、黄土を丸めて人間を作ったが、一つ一つ作ったのでは大変な労働だし時間がかかって仕方がない。面倒臭くなった彼女は、紐を泥の中につけて、それを引っ張り上げ、泥のはねを飛ばして人間を作る事とした。こうして人間は生まれたのだが、初め黄土を丸めて作った人間は富貴になり、泥のはねで、出来たのは貧賎な人になった。炎(えん)帝神農氏は、姓を姜(きょう)といい、身体は人間、首は牛であった。木徳の王、風氏の後を受けた火徳の王である。木を削って鋤の刃を、木をたわめて鋤の柄を作り、初めて人々に耕作を教え、年の終わりには収穫感謝の祭りを行った。神農はまた赤い鞭で様々な草木を叩きその汁をなめて、初めて医薬を発見した。さらに交易の方法を教え、正午を期して市を開き、品物を互いに交換して持ち帰るようにした。そして、子孫は8代、540年におよんだ。かくして神の時代から尭(ぎょう)という人間の王が出るのである。この間、乱婚の時代、樹上生活、火の発見、婚姻制度の変化、文字の出現、漁猟、先祖の祭祀、音楽、耕作、医薬というように人間生活に必要なものが全て神の時代に出来上がっている。以上が中国人の古代の世界観で、古事記とは全く違う。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.21
世界観とは、宇宙を含む世界をどのようなものとして見るか、また人間がどのように発生したかに対する考え方を言う。この世界観は、民族によって様々であるが、これは民族の歴史にそれぞれの違いがあるからである。■古代日本の世界観私の知り得る限り、世界観として良くまとまって体系的なのは、日本の古事記だと思う。先に「日本の歴史書」の所でもふれたように、古事記は、今から約1300年前の奈良時代、元明天皇の時、稗田阿礼という語り部が語り伝えた事を太安万侶という学者が万葉仮名という文字に書いたものである。その古事記には、まず宇宙の初めとして次のように述べている。「宇宙の初め、天も地も未だ混沌としていた時、高天が原と呼ばれる天のいと高い所に、三柱の神が次々と現れた。初めに、天の中央にあって宇宙を統一する天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に、宇宙の生成を司る高御産巣日神(たかみめすすびのかみ)。及び、同じく神産巣日神(かみむすびのかみ)。これらの神々はみな配偶者を持たぬ単独の神で、姿を見せることはなかった。(これは原理であるので)その後に、天と地のけじめのつかぬ形らしい形もないこの地上は、水に油を浮かべたように漂うばかりで、あたかも海月(くらげ)が水中を流れて行くように頼りないものであったが、そこに水辺の葦(あし)が春先にいっせいに芽吹いてくるように萌えあがって行くものがあった。この葦の芽のように天に萌え上がったものから、二柱の神が生まれた。初めは、可美葦牙彦舅神(うましあしかびひこじのかみ)麗しい葦の芽の天に指し登る勢いを示す男性神。次は、天常立神(あめのとこたちのかみ)で、永遠無窮の天そのものを神格化した神である。この二柱の神も配偶のない神で、姿を見せることはなかった(原理)。以上にあげた五柱の神は、地上に成った神とは別であって、これらは天津神である」これは、宇宙創成の原理を述べたものであって、中国や西洋のように善悪を言ってはいない。次に、神世七代(かみよななよ)として天地創成を述べている。「以上の、天に現れた神々に対し、地においても次々と神々が現れた。脂のように漂っていたものの内から、まず、国常立尊(くにのとこたちのみこと)これは生まれるべき地を神格化した神である。次に、豊雲野神(とよくむぬのかみ)、脂のようなものが次第に凝り固まり、広々とした沼のようになっていくことを示している。この二柱の神も単独神で姿を見せることがなかった(原理)。次に現れたのは、男神の宇比地迩神(うひちにのかみ)と女神の須比智迩神(すひちにのかみ)、脂のように漂うものの内から潮と土とは次第に分かたれて、ようやく砂や泥を混じえた沼となったことを示している。次に、男神の角代神(つのぐひのかみ)と女神の活代神(いくぐひのかみ)、沼地の泥が次第に固まり、角のように春芽が芽吹いて育っていくことを示している。次に男神の意富斗能地神(おほとのぢのかみ)と女神の大斗乃弁神(おほとのべのかみ)、即ち広やかな大地がここに固まったことを示している。次に男神の於母陀琉神(おもだるのかみ)、大地の表が不足なく整ったことを示し、女神の阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)、この時に「あやにかしこし」とあげた喜びの声を神格化したものである。次に現れたのは男神のイザナギノミコトと女神のイザナミノミコト即ち後に述べるように、互いに誘いあった神の意味である。以上に述べたところの国常立尊(くにのとこたちのみこと)からイザナミノミコトに至るまでを神代七代(かみよななよ)という。これは、最初の二柱の神をそれぞれ一代、男神と女神が一緒に現れた10柱は、二神を合わせて一代とする計算である。さて初めに、宇宙に現れた三柱の天神(あまつかみ)は、この時、相談の上、イザナギノミコトとイザナミノミコトと二柱の神に次のようを言葉を与えた。『地上の有り様を見るに、まだ脂のように漂っているばかりである。お前達は、彼の国を人の住めるように作り上げよ』と。」このようにして日本列島を生んでいくのであるが、どうも意味が分からないのは、何故、女の神が男の神より先に声をかけたら上手くいかなかったかということである。これについて考えた人はいないが、私が想像するに古代人が食物を採取していた時は、男女は同じ働きをしていたが、農耕が始まるにつれて男が女をリードするようになったことを意味しているのではないかと思う。かくして、日本列島及び自然現象を全部生んだ。最後に火を生んだ時、女の神は焼け死んでしまった。そこで男の神は、あの世へ行って帰って来るように頼んだが、その時約束違反をしたため男の神は、女の神に追われて生命からがら逃げ帰った。そして、九州に来て身体を洗ったらまたまた膨大な数の神が生まれ、最後に左目を洗ったら天照大神、右目からは月読神(つきよみのかみ)、鼻の時は須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれ、このようにようやく人間の先祖の出現となるのである。これはまた、天皇家の先祖となり、その一族は日本国民となったというのである。日本の創世は、20柱の神の合作であり、外国の神は一柱であるのとは全然違う。これに対して津田左右吉博士が、「古事記は、奈良時代に天皇家が自分の都合のいいようにでっち上げたものだ」と古事記一切を無視した。しかし、もしもでっち上げだとしたら、古事記全体に出て来る天つ神・神・命・人名等、それこそ膨大なものである。これだけの創作をする人が奈良時代にいたとすれば、まさに世界史的偉業である。それは「考古学だけが古代を知る唯一の方法である」と考えている現代の考古学者の間違いである。文献学、生きた化石と言われる地名学、また自然科学の方法等、あらゆる学問を駆使して分析しなければならない。これを弁証法的方法といい、考古学だけで古代を判断する方法を形而上学的という。これは、本論の最大要点である。今はその名前だけを覚えておいて戴きたい。さて津田博士のように今の基準で古代を推測するのは、まさに歴史とは何かも知らない子供のような議論である。古代には、古代の論理、現代には現代の論理があるのだ。今は民主主義だからといって、指導者に権限を与えていないのは日本だけで、アメリカ大統領は4年間の期限つきの「王」である。昔は、それが世襲であったから弊害が出たのだ。その指導者を否定する今の日本は、個人が全ての中心、即ち全体主義の裏返しの「固体主義」である。こういった風潮の中から津田博士のような人が出てきた。古事記の世界観は、体系的に出来過ぎているくらいであるが、これは日本が島国で異民族との争いがなかった事がその原因だと思う。そこにこのような世界観が生まれたのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.20
そこで、まず思想と哲学の共通性と相違性を説明しておきたい。まず哲学とは、物事の根本原理を考える学問であるのに対し、思想とはある物事に対して持つまとまった考えで、生活や行動の仕方を決めるものである。だから、思想は人間である以上誰でも持っている。それが客観的に言って、正しかろうと間違っていようと「私はこう思う」という以上、議論の余地はない。その人の生きるための方法であるから。しかし、哲学には「果たしてそうだろうか?」と、反省する余地がある。従って哲学は、思想であるばかりでなく、それを高めたものであるのに対し、思想は哲学ではない。即ち、哲学は思想であるが、思想は哲学ではない。宗教は、思想であるが哲学ではない。しかし、よく「宗教哲学」という言葉が使われるが、正確にいうとこれはおかしい。何故なら宗教というものは、全て「信ずる」所から出発するのに、哲学は「疑う」事が、大前提である。しかし、この場合の哲学という言葉は、辞典の第二の意味の経験上得た考えである。第一の意味は「理性」であるのに、第二は「経験」で、まさに正反対である。普通、世間ではこの矛盾に気がついていない。だから、宗教と哲学を混同する人も出る訳である。人間の考える事は全て思想であり、その思想の一分野として哲学も宗教もあるということである。従って、人類が初めて持ったものは思想全般であって、まだ宗教や哲学は生まれていなかった。石斧やこん棒を持って、やっと生活が出来た原始時代の人間にあったものは、どうしたら食料が手に入るか、そして得た知識を子孫に伝えることであった。そこに民族毎に「言い伝え」、即ち「伝承」というものが生まれた。だから、初めその「口伝」は生きる方法、即ち思想だけであった。今、地球上に何百何千という言葉があると言われる。何故、そんなに出来たのか。それは、言葉とはその地域の人に分かりさえすれば十分だったからである。今は標準語に殆どなってしまったが、徳川時代以前は、全国に通用したのは武士の使った武家言葉の公用語だけで、あとは全部方言であった。だから、日本全国に無数の言葉があり、地域が一寸違うと話が通じなかった。それは、地域の違う人が話合う必要がなかったのだから当然である。日本国内でさえそうだから、世界全体では見当もつかない。それは、人間の生活範囲が私の幼児の時のように極めて狭かったからである。それが人間生活が向上するにつれて、広い地域の人が話し合う必要が出て来たので方言も少なくなっていったのである。今では、英語が世界語になっている。今、世界の経済は急速に一つになっているので、言葉も一つになる必要が生じてきた。テレビやラジオがあるからではなく、経済の必要がそれを要求しているからである。次に農耕時代が始まると、その時収穫物がいくら採れたかを記録する必要が出て来た。というのは、社会が発展し税を取る必要が出て来たからである。税の起源は共同体の運営費であったが、その名目の下に私利私欲の権力者が出たことも事実である。ともあれ何の穀物がいくら採れたかを記録する必要が出て来た。5500年前の人類最古の文字といわれる楔形(くさびがた)文字が中近東にあるが、その初めは数を表す記号であった。それが今では、日本でも常用漢字が2千もあり、漢字の総数は4万字あるという。言葉は次々と発明された。というのは、人間の思想が複雑高度になってきたからである。それは生産力、即ち人間社会の全てのことが高度になったからである。まず人間は「この世界は、どのようにして出来たか」という世界観を持っに至った。そして、その世界観は民族によって様々であるが、とにかく世界観を持った。次に宗教、初めは多神教であったが、一神教に進歩した。次いでヨーロッパにおいて哲学というものが2500年前に出現し、300年前に近代哲学が出来た。そして、それは観念論と唯物論、形而上学と弁証法の二大潮流が有り、現代に至っている。以上の順に従って、哲学の出来るまでを説明しよう。しかしここで言っておかなければならない事は、これらの思想の発生の順序はあるが、今現在の地球には、ここに述べる思想は全て現存し、それを信じている人は「自分が絶対に正しい」と、言っていることである。それは、誰が間違っているというのではなく、生産力の差が現実にあるからである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.19
哲学の歴史は、人類500万年のうち2500年にすぎず、まして近代哲学という事になると約300年である。その長い間の人類の経験を、一人の人間は生まれた途端に経験し始め、優れた人は最高の水準にまで到達してしまう。人間の一番初めの認識は、何でも口に入れることから始めて、高度な推論をするまでの各種の段階がある。これと全く同じように人類の認識は、幼児期のような時代から、推論という大人の認識の時代にまで発展してきた。例えば、私の2歳の頃の世界観は2キロ離れた所の里親の家が一番遠い所で、あとの世界は知らなかった。3歳の頃になるともっと遠い6キロ離れた競馬場だけであり、4歳の頃には「唐(中国)、天竺(インド)より遠いんだぞ」と、遠い所の代名詞として使ったが、唐・天竺は何処にあるのか知らなかった。それは、町内のことだけを知っていれば遊びに不自由はなかったからである。また、数は10以上は知らなかった。というのも、私の1日の小遣いは2銭であったし、買う煎餅は1銭で2枚、飴玉は4ヶであり10以上の数は必要なかった。もし、それ以上の数があっても「たんと」で済んだのは、それ以上は私の生活には関係なかったからである。そしてそれ以上の数は、小学校へ上がってから覚えたが、それは私の生活に必要だったからではなく、先生が教えてくれたからである。また、自分の名前も書けなかったが、小学校に上がる時に「せめて自分の名前だけは覚えて行け」と母に言われ、それに従っただけである。それと同じように、日本だって1500年前までは文字は知らなくても済んだ。それが、中国と交際するようになってから「万葉仮名」を考案し、言い伝えであった伝承を古事記という名で記録したにすぎない。私は今、70余歳、今の歳のわずか20倍前の事である。しかし、今の子供の認識は私の頃と比べものにならないくらい進んでいる。4歳の孫が保育所の先生に、「地球は太陽系の第三惑星だ」なんて説明している。それは、頭が良くなったからではなく、生活の必要上覚えたもので、それを知らないとウルトラマンのルーツも分からないからである。このように、昔は5年で到達した認識も、今では1年とか1ヶ月というように速くなったが、それは生活の必要から起きている現象であって、子供の頭脳が良くなったからではない。人類の思想の発達もその通りで、生活の必要上の事である。だから、どんな未開人でも文明社会に入れば、即座にそれに順応する。そうしなければ生きて行けないからである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.18
哲学という言葉を国語辞典で見てみると、(1)理性の力で物事の根本原理を考える学問。(2)経験を積んだ末に掴んだ物事の基本的な考えと、二つに使われている。この場合(2)の経験であるが、これはその人の限られた人生の経験であるので、何にでも通用するという訳にはいかない。せいぜい他人の参考になる程度である。(1)の物事の根本原理を極めるという事であるが、私はこれを極めた哲学者を知らない。前に述べたように、マルクスの弁証法的唯物論がそれに一番近いけれど「社会主義革命」の妥当性をこじつけたため、弁証法的唯物論の真理性も疑われてしまった。社会主義さえ取り除けば、今現在考えられる最高の哲学である。それにつけても思い出されるのは、私がまだ小学校に上がる前のことである。ある日突然、見も知らない香具師(やし)が町内にやって来て、ノートや鉛筆、日常使う商品を口上宜しく売り始めた。その売り方が変わっていた。初めは複数のお客を前にして、そのお客が全員よく知っている品物に割安感のする値をつけて、お客に現金を支払わせ、その後面白おかしい口上で益々値を下げて行き、お客に得をしたと思わせる。それを繰り返しやっているうちに、村中の大評判となり、村民は有り金持って黒山の人垣になってしまった。頃合いを見た香具師(やし)達は、今度は、通常の値段がよく分からない10本の反物に妥当と思われる値段をつけた。感覚がマヒしている村民は、それも最後は値引きするだろうと思って、限定販売のその商品に争ってお金を払った。ところが、今度は一転して一回しか値下げをせず、店仕舞いを始めた。びっくりした村民は「何故、もっと値下げをしないのか」と、詰め寄ったが「これ以上は、負けられない」と、香具師達は突っぱねた。とうとう村の駐在まで連れて来たが、土台、まけるまけないは香具師の権限である。従って、詐欺ではない。初めから公正販売なのである。村の駐在も何も言えなくなってしまったが、最終的には少しだけ涙金を払い戻してどこかへ消えてしまった。私はこれ以後、生涯を通じてこうした、今でいう悪徳商法は見たことも聞いたこともない。今でも詐欺罪は成立しないのではないだろうか。それと全く同じように資本主義の批判をする前の、弁証法的唯物論や唯物史観のいう所は全く正しいが、それを使ったと称して資本主義の次の段階に「社会主義の必然性」を説いた所に落とし穴があった。しかしそれでも、日用品雑貨を安く売ったという事実は認めなければならない。それと同じように資本主義が遅れていたロシア・中国・キューバ・ベトナムの民衆を社会主義の名において救ったことは事実である。ただそれ以上の発展のためには、むしろ社会主義は社会発展の足かせになってしまったという、所謂「思想の便宜性」を地でいったような話である。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.17
さて、あれ程正しかった唯物史観による分析も、一転して資本主義の評価になると、こじつけになってしまった。ここからは、私の唯物史観を説明することにしたい。弁証法的唯物論の大前提は、現実の直視ということではなかったか。そして、その変化を正しく見るという事ではなかったか。にもかかわらず社会主義者は、初期資本主義が帝国主義段階に、量的に発展しただけと判断した。そして、人民の生活はますます窮乏化して、終には社会主義革命となるというストーリーを書いた。しかしこれは、宗教で言う末世思想であって、事実はそうはならなかった。第一に、資本主義が成立して、そこで働く労働者は農奴より生活が良くなったのである。第二に、マルクス主義では一度資本家になった者は、永久に資本家で在り続け、とめどもなく富を一人占めして行くというような有りもしない空想に立っている。事実は、資本家としてどんなに成功してもイノベーションをしない限り最後は破産して、次に新しい資本家が現れたのである。フィリップスしかり、カーネギーしかり、モルガン財閥しかりである。封建主義経済と資本主義経済の決定的な相違は、前者がただ自分の権威と経済外強制だけで経済を動かしたので改革をせず、むしろ新しいことを危険視したのに対し、後者は改革する事、イノベーションが命であった事である。例えば、イギリスの資本主義の経過を見ると、初期のうちは蒸気機関を動かして労働の価値を高めて利潤を得ていたが、次の段階になると植民地から資源を奪い取るようになった。反面、自国の労働者は植民地労働者の犠牲の上に労働貴族と呼ばれるようになった。従って、植民地の労働者から当然の事として民族の独立運動が起きた。しかし第二次世界大戦後、イギリスは率先して植民地を解放して独立国にした。これは、イノベーションが更に進んで知的労働が主になったからである。マルクスとエンゲルスは、「共産党宣言」の中で「共産主義は、労働者解放のための科学である」と宣言した。しかし、労働者を解放しつつあるのは絶えざるイノベーシヨン(技術革新)であった。経営者が、自分の存続のために命をかけてやったイノベーションだったのである。マルクスが言ったような資本家がいたことも事実である。しかしそういう人は、時代の革新の波に流されてしまった。今までは潰れる事など考えられなかった大銀行や大証券会社も、イノベーションをしない所は消えた。植民地の解放も大企業の倒産も、これをやったのは資本主義経済のイノベーションの原理である。理屈に合わない存在を許す程、資本主義は甘くない。第一、資本主義自体が、今では市場創造型の新資本主義に質的発展をしている。一口に資本主義と言っても、原始資本主義から帝国主義的資本主義、新資本主義へと自らを革新して発展しているのである。この現実を見ないで、ただただ労働者の絶対的窮乏を期待しているのは、「末世の民衆を済度するのを使命とする坊主主義」である。あれ程非難攻撃した観念論である。ましてや「私有財産の否定」を言うに至っては、人類の生産力を原始時代に戻そうという事で不可能な事である。それは、確かに食うや食わずの時はその必要があった。しかし、それが過ぎてもそれを変えないのは、一度握った権力の座の強さの証明である。しかし、ソ連も70年も経ったら、いくら秘密警察の力をもってしても変えなければ生きて行けなくなった。これは、生産力と生産関係の働きで、間違った生産関係が生産力を落としたからである。誰がそうした訳でもない。経済の法則の結果である。共産主義は、確かに露骨な資本家の搾取の防波堤となったし、植民地の独立運動の支えにもなった。しかし、労働者や植民地を本当に解放したのは、より高まった生産力であり、そして今日見られるように国連といった生産関係である。従って、従来の唯物史観から観念論的な社会主義革命論を取り去って、本当の唯物史観、即ち「新唯物史観」を確立しなければならない。今の日本を見ると、守旧派と革新派との二大勢力が争っている。中道路線を言う者があるが、それは守旧派の別動隊であって、本質的には守旧派である。彼等は、改革派と守旧派の中に立って、いかにも中間の真理があるかのように振る舞っている。しかし、そのような人達は昔から居たのであって、日本だけの特殊な現象ではない。そして、その人達は最後は尻尾を出してしまって歴史の舞台から守旧派と共に消えた。やはり歴史を進める真理は一つしかないのだ。二つも三つもあるように見えるのは幻想にすぎない。そして、今では国際的な改革派の勢力が、日本の改革派と一緒になって改革を進めるようになってきている。それは、丁度、鮫が何時も泳いでいなければ死んでしまうのと同じように、世界は絶え間ない発展をしなければ不況になってしまう。各国の経済の連帯が強くなっているからである。だから、東南アジアや日本の不況も、即アメリカ経済の不況になってしまうという関係があるので、アメリカとしては現在好況であっても、東南アジアや日本の不況を我が事のように心配せざるを得ないのである。そこに、世界各国がIMFやOECDによって、変調をきたした国や遅れた国を援助するようになっており、一昔前なら「内政干渉だ」と言われるようなアドバイスもせざるを得なくなってきている。そうしなければ世界経済が、鮫のように死んでしまうからだ。そこには、世界は好況で有り続けなければならないという大前提が出来上がってしまったのである。即ち、急速に無限の生産力の向上をしなければならなくなったのだ。それは、日一日と加速度を増している。そこで、国連という「世界政府」という生産関係も出来たし、その任務は益々重要なものとなって来ている。今、あらゆる自然科学も急速に発展している。殊にコンピューターの発達は、人間の出来ない仕事までやるようになっている。このまま行くと、コンピューターによって、より高度になったロボットが、人間の労働の全てを代行するようになることは間違いない。また、人間はロボットにはまだ出来ないような事を補佐するだけでよくなる。そして、人間の労働の生産性は急速に無限に向上する。そうしたらどうなるか。これは丁度、古代ギリシャのアテネ市民9万人が60万人の奴隷の上にギリシャ文化を作ったように、今度は膨大な数のコンピューターという「奴隷」の上に人間の文化を築くようになる。そして、ギリシャやローマ文化と決定的に違う所は、その繁栄は、奴隷という名の人間の反抗・叛乱にあって潰れたが、ロボットは人間が作る機械だから叛乱はない。そうしたら社会という生産関係はどうなるのだか、見当もつかないくらい良くなるだろう。従って人間の争いは、改革の成功に安住した無限の改革を忘れてしまった人に、即ち守旧派になってしまった人達に改革を迫る人、即ち新改革派が出来て、最後は勝利するが、もしその人達がその成長に甘んじて無限の改革を忘れてしまえば、また、新しい改革派が出来る。これは「永久革命」である。このようにして、生産力と生産関係は無限に発展する。これが、人間の歴史の発展法則である。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.16
以上が、エンゲルスの論文「家族私有財産および国家の起源」を哲学者古在由重氏が敷衍(ふえん)して書き、それに新しい研究と私見を入れた唯物史観というものである。人類の歴史の発展原理は、人間の生産力の向上に伴って生産関係というものが出来、それが出来たことによって、さらに生産力が向上する。そうすると向上した生産力はその生産関係では合わなくなり、また新しい生産関係が出来、それによって生産カが向上する。つまり、生産力と生産関係のからみ合いで発展したものであると説明した。これをあえて唯物史観という訳は、先に説明したへーゲルが「人間の歴史の発展は、人間の自由と理性の展開である」という人間の視点を中心とした歴史観と区別し、へーゲルを観念史観、エンゲルスは唯物史観というように分けるためである。へーゲルのいた18世紀は、観念論が全盛の時であったので、そういう分け方が必要であったが、観念史観など誰も問題にしなくなった現在では、名称も「哲学的史観」とか何とか変える必要があると思う。とにかく、この整理の仕方以外に方法はないのだから。この二つの歴史観は、人類の歴史観を観念史観から唯物史観へと進めたものであり、唯物史観において歴史の発展法則は解明された。私は、旧制中学三年の時から歴史書を漁り始め、終戦までの5年間に約百冊を読破した。特に面白かった本は、箕作元八博士の「西洋史」全五巻であり、カルタゴの興亡などは「血沸き肉踊る」思いがしたものである。しかし、百冊の歴史の本は私の目的には何の役にも立たなかった。というのは、当時の私は軍国主義・皇道主義に深刻な疑問を持ち「真理というものが他にある筈だ」と考え、その探究のために百冊の歴史書、百冊の哲学書、百冊の東西の古典文学書、二百冊の一般教養書を読破したが、そこからは何の真理らしいものは発見出来なかった。それが、マッカーサー司令部によって思想の自由が持ち込まれて、22歳の時、前記のエンゲルスの本を読み、古在由重氏の「弁証法的唯物論」と「唯物史観」を読んだ時、本当に心から感激した。やはり私が求めていた真理はあったのだと思うと、わくわくし日本共産党に入党し「革命運動」に身を投じた。しかし、その後の経緯は拙著「これから」と「経営学の基礎」に書いた通り、その理論の功罪が分かり、今では共産主義という政治運動はしていない。しかし、「社会主義革命論」を除いた「弁証法的唯物論」や「唯物史観」こそ最高のものであると思っている。従って、これからの唯物史観の説明は私独自のものである。資本主義経済の生産力を更に高めるために、社会主義という生産関係にするというのなら分かる。しかし、生産力の低い途上国がいきなり、より高度な生産関係に人為的にしようとしたのは、弁証法的唯物論ではなくて観念論であった。それでは「社会主義思想」というものが全然無価値であったのかと言うとそうではなく、帝政ロシアの民衆や帝国主義列強の植民地的搾取に喘いでいた中国民衆、アメリカ独占資本主義に苦しめられていたキューバの民衆、フランスの植民地下にいたベトナム民衆の解放には絶大の力を発揮した。そして今現在、ロシアは社会主義をやめて資本主義の道に変わってしまったし、中国は現実的に資本主義化しつつある。しかしその時期においては、それらの国は社会主義思想が必要だった。即ち、社会主義思想には経済の合理性はなかったけれど、政治の合理性が有ったのである。先に「思想の便宜性」の所で述ベたように、思想は絶対的にどこの国でも通用するものである必要はなく、今まではその国だけに通用するもので良かったのである。ところが、今の世界は一つの正しいことに向かわねばならない程、地球全体の生産力が向上してきた。もはや、自国だけの思想を持つことは、世界全体を破壊するようになって来た。そこから国連軍の構想も生まれるようになった。今、世界をリードしている国はアメリカである。アメリカは世界の国におかしな事があれば事々に干渉している。これを、内政干渉だと言う人もいるが、おかしな事をされると世界が困るのである。そのアメリカの建国以来の哲学は、プラグマチズムであり、昔は実用主義とか実際主義とかに訳されたが、今では十数人の歴代の哲学者の研究の結果、プラグマチズムと呼ばれるようになった。この思想は「人間の認識作用は、我々が直面する問題や必要を解決するためのものであり、それらの認識は、言わば我々自身が行為を通じて「真理化」するものである。それゆえ認識の真理性とは、人がそれによって実践上の有意義な帰結を得ることが可能である、即ち「有用」であり「現金化」が可能であることに在る」という説である。この思想は、全くアメリカで発生したものであり、それと同じようなものはなかった。ところが、中国のトウショウヘイは「黒い猫だろうと白い猫だろうと鼠を一番良く捕る猫が良い猫だ」と言った。意味は「政治は国民生活を守るために在る。国民が食うや食わずの時は、社会主義が最も良かったが、生活が向上すると、資本主義でなければいけない」ということであり、これはまさにプラグマチズムの思想である。政治の本質は、国民生活の確保発展であって、社会主義はそのための方法であるにも拘わらず、方法が目的になってしまったソ連の悲劇、かつて復興のためには規制という方法が必要であったが、経済大国になった今でもその方法が一人歩きしている日本の悲劇、即ち、内容が形式を生み出して効果があったのだが、内容が良くなったにも拘わらず、今では古い形式が足を引っ張っている。このままではソ連のように日本は崩壊してしまう。新しい形式にしなければならないのだ。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.15
日本の封建制社会は、鎌倉時代(13世紀)から室町幕府の時代になって出来上がり(15世紀)、徳川時代(17世紀)に完成された。日本の場合にも、先に「封建的な生産様式」のところで述べたように、この社会の生産様式の特徴、即ち(1)自然経済(2)農奴が地主の土地を小作したが、生産用具は農奴が持っていた。(3)農奴は土地に縛られていて行動の自由がなく、経済外の強制を受け、法律上、無権利であったことである。しかし、これをヨーロッパの封建制に比べると、農奴制の時代にも極めて長い間、古い奴隷制があったことや、外敵の侵入によらないため日本の農奴制の成立には長期間を要した。平安時代の末から荘園の大地主である武士は、その土地の一部を奴隷に耕作させ、他の一部を農奴に耕作させて年貢をとり、また自分の直営地で働かせた。鎌倉幕府は、このように奴隷制を保存していて、農奴制を十分には展開していなかったが、それが南北朝時代を経て室町幕府に至ると、奴隷制の解放が根本的に行われ農奴制が確立された。鎌倉幕府が倒れたのは、この農奴制の前に奴隷制が破れたことであり、いわゆる「建武中興」は鎌倉幕府の弱点に乗じて古い時代に直そうとしたので、全く簡単に破れ去ったのである。室町時代になってからは、賦役地代は全く影をひそめ現物地代になった。またこの時代には手工業と商業が発展し、都市も出来るようになった。そして、京都や奈良には大きな酒屋も出来て、質屋・高利貸を兼業するものも出来た。手工業者や商人たちの同業組合が発展したのもその頃である。こういう商工業の発展は、武士の財政に影響を与え、その費用を賄うため一層農奴を搾取した。当時の農奴の闘争として有名な「土一揆」は、こういう所から起きたのであるが、農村における階級分化は、一揆中の地主的要素を支配者側に走らせ、これらの新興勢力が集まった連合政権が大名を盟主として、到る所で出来た。即ち、戦国時代はこういう新旧の領主による領地の奪い合いだったのである。これらのうち、ついに徳川氏が覇権を握って、徳川幕府のもとに全国の封建的統一を樹立するに至った。徳川時代は日本の封建制の最盛期であったが、まもなくその没落を準備していった。この解体的傾向は18世紀の間に既に現れている。まず、農業生産の発展と都市の商工業の発達により、農村の階級分化が進められた。そして、強い封建権力と商業高利貸的寄生のもとでの借金で奴隷的な小作人をつくり出した。さらに商業高利貸資本は、直接に農民を収奪するだけでなく、領主たちに寄生して、その手を通じても農民を搾取した。これは、封建制そのものを打ち壊す作用を成すものである。農民は、その苦境を切り抜けるために、農業だけでなく、加工原料を生産し、副業的に家内工業をやるようになった。そこから小商品生産者になった者もいるが、多くは土地を離れて半プロレタリアート化し、出現しつつあった小商品生産工場に労働力を提供するものになった。即ち、封建制の対立物を作り出していった。これらの事情のもとで農民の暴動が激化していった。そして、大きな問題として、商品経済が発達し、貨幣が主役を占めるようになったにも拘わらず、幕藩体制は現物の米によって維持していたことである。だから、札差商人の富は莫大に増えたのに、各大名の財政は窮乏化した。こういう状態に加えて、徳川末期には外国資本主義の圧力が現れてきた。解体に向かっていた徳川封建制に対する外国資本主義の圧力は、日本の資本主義化を促すものであった。こうして徳川幕府に代わって、その反徳川勢力が明治維新として、その本質上、封建的な絶対主義権力を新しく作り出した。そして、日本の資本主義は絶対主義=天皇制の下で、上から育成されて行ったのである。それで半封建時代という。日本の資本主義は、欧米のように発達する余裕がなく、外国資本主義に対抗するために半封建的権力によってやったということで、欧米型の発展が出来なかった。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.14
奴隷制に対して一つの進歩として現れた封建制は、やがて新しい生産力発展の障害物となって崩壊せざるを得なくなった。それを促したものは、次のような力であった。第一に、資本主義が生まれ出たことである。封建時代に発達した生産力は、手工業を農業から分離させ、都市と農村を分立させ、交換が進み、商業資本を発展させた。商業資本自体は一つの生産様式を代表するものではないが、農村の自然経済関係に、また都市の封建的な同業組合制度に分解作用を及ぼし、農村・都市の小商品生産の中から資本主義的な生産を呼び起こしたのである。農村について見ると、はじめ封建地主の搾取は、(注・搾取とは、相手を暴力的に押さえ付けて利益を取ることを言い、資本主義経済における対等な商取引によって出る利益とは違う。農協や飼料メーカーが養豚農民を金縛りにして利益をあげるのは搾取である。)主として、その家族と家臣を養うためのものであって、その搾取には限度があった。ところが、種々の商品を輸入させ、貿易と貨幣経済が発展しだすと、地主・国王・宮廷の消費は莫大になり、封建国家間の戦乱も手伝って、巨額な金銭を使った。そのため、商業高利貸資本との関係が深まって行き、金銭の必要がますます高まった。そこで領主たちは、農奴にいよいよ重い搾取を加え、物納地代を貨幣地代に変え、その他重税を増やしていった。農民は、自分の生産物を市場に出して金に変えて、これに応じなければならなくなった。こうして商品経済の発展と封建的搾取の重圧とは一部の農民を破産させ、半プロレタリアート化し、他方わずかな農民はこの機会に富を積み、金銭で封建的義務を買い取り、かくして農村の富農となっていった。このようにして、農村の商品貨幣経済は封建経済を成り立たなくしたのである。(徳川幕府での財政の窮乏は、これとは別に参勤交代制度があった事である。土台この制度は、諸大名の離反を恐れた幕府が、その力を無くすべく財政窮乏化政策を取り続けたため、諸大名だけでなく農民も疲弊した。そのため国全体が空洞化し、幕府も国を守る力が無くなり、明治維新となったのである。自分の力を強くしておこうとする政策が自分を倒したという皮肉な結果となった。)他方、都市について見ると、市場の拡大につれて手工業者と直接消費者の間に商人が立って、その製品を転売した。商人はさらに手工業者を従え、彼らの余剰労働の一部を取るようになったが、尚進んでは、自ら商工業者となって、多くの手工業者を破滅させた。また、手工業も商業資本の圧迫を受けて、親方は徒弟の搾取を強め、労働時間の延長・工賃引き下げ・徒弟年期の延長・徒弟の親方への昇進排除などをやったが、同業組合のやかましい規定も次第に効果が薄くなり、親方の中からは、この時期に巧みに立ち回って、財を成す者も出て来た。こうして商業資本家及び一部の親方の中から近代ブルジョアジーの前身が生まれ、零落した親方や徒弟の中から近代的プロレタリアートの前身が生まれて来た。封建制が崩れて行くに連れて、商業資本家や新興企業家は、小生産者から搾取し、海外の植民地から掠奪して、莫大な資本を蓄積した。つまり「原始的な資本の蓄積」である。そして、破産した手工業者や農民を利用して大規模な工場企業が開始された。第二に封建制を崩壊させた力は、農奴を中心とする革命闘争であった。封建制社会の全歴史は、農奴暴動(百姓一揆)に満たされ、それが大きな戦争(一向一揆・長島一揆)になった事もある。イギリス・フランスでの14世紀、ドイツの16世紀、ロシアの17世紀・18世紀における農奴の反乱は、その著しいものである。この際、都市の市民も農奴の反乱に組して、自らの利益に利用しようとしたが、それが優勢のうちは良かったが、敗北が明らかになると裏切った。農奴の反乱は、自然発生的なものであったため失敗したのであるが、それでも封建的支配に大打撃を与え、資本主義の発展に有利な条件を作ったのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.13
封建制社会での主要な階級は、封建的地主と農奴で封建的地主、即ち領主は土地の領有者であり、そのうち国王(徳川幕府)は最大の地主で国内の土地の最高所有者であった。(徳川家の禄高は800万石で、大名のうち一番大きかった加賀百万石の8倍であった。)国王は土地を大封建領主(大名)に下賜し(封土)、大封建領主はその家臣に分け与えた。こうして、彼らは大小各種の地主となった。地主は、自己所有の土地においては完全な統治者で、農奴に対しては絶大な権力を持っていた。農奴の方は全く無権利で、極度に抑圧され、しかも、これを甘受しなければならず、徳川時代においては「切り捨て御免」であった。国王・諸侯その家臣らの全ては、農奴によって養われているので、階級間に激しい争いが起きるのも当然といえる。(百姓一揆)農民の内には、なお自由な農民も残っていたが、封建制度が確立されてゆくに従って、自分の土地に対しても、大地主の最高土地所有権を認めざるを得なくなり、一定の税や労役を収めるようになった。農奴ほどではないが、やはり封建的隷属状態に縛られていった。このように封建社会には、地主と農奴との二つの基本的階級の他に、自由な農民があったが、その他さらに手工業と商業と都市との発展につれて手工業者(これは、親方と徒弟に分かれていった)・商人・高利貸などが生まれた。これら都市的要素のうち第一位は、豪商や高利貸の特権的有産者で、封建領主と密接に関係し、第二位は、親方・中小商人達一般市民、第三位は、徒弟や召し使いたちである。日本では、徳川時代に身分制度をはっきりと定め、順位は士農工商とし、流民・えた非人は無宿者として社会制度の外に置いた。封建制社会の末期には、市民の方からは近代ブルジョアの前身が、徒弟の方からはプロレタリアートの前身が生まれ出て来た。さらに農村からの逃亡民がプロレタリアートを補給した。ところで、封建制社会では階級闘争を押さえ付けて、封建領主の支配を維持するために、封建国家が現れる。封建領主は土地の所有者であるとともに政治上の統治者でもあった訳である。封建領主は大小色々で、小領主は大領主に仕え、大領主はさらに大きな領主に従い、各級の領主は一定の数の家臣・武士や侍従を持っていた。多くの領主は、ともに一つの大領主を国王にいただき、国王が各領主を分封し統治した。封建国家は、基本的には同じ政治体制を持っていたが、例えば、西ヨーロッパではイギリスは国王の下で中央集権化が比較的強く行われていた。フランスでは各々の大領主の力は国のそれより強大で、いわゆる封建的な分散性という事をよく示していた。日本の徳川幕府では、中央集権的であった。生産力の程度によってヨーロッパでも東洋でも同じような国家組織や社会組織、即ち生産関係が出来るのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.12
封建制の下では、土地のその多くは封建地主、即ち領主の所有であり、またその家臣が領主から拝領して所有していたものであった。この封建的な所有制度が、封建的搾取の基礎である。直接に生産に携わる農民は、半ば解放された奴隷の状態にあった。即ち、彼らは領主の土地で自らの生産用具で土地を耕作し、その経営は各農民によって行われていたもので、従って奴隷とは違って労働に対し、また生産力の向上に対しても多少とも意を用いた。しかし、農民は地主に地代を納めるだけでなく、一生涯地主の土地に縛られていて、地主にその身体自体が半ば隷属していた。地主は、生殺与奪の権は形式上はもっていなかったが、彼らを殺しても罰せられることはなかった。地主や封建領主達が農民や農奴を搾取するやり方は、労力による地代(賦役)により、農奴は毎年の大半を地主の土地で働かねばならなかった。さらに納品による地代(現物地代)によって搾取が行われた。それは、農奴が自分の土地で働き、そこに出来た糧食・肉類・鶏などを地主に納めるのである。やがて、封建制の終わりに近づいて商業の発展が著しくなると、地主は地代を全部現物で納めさせるか、またはその一部を貨幣にかえて納めるように要求した(貨幣地代)。農奴は、自分の生産物を安く売って貨幣を手に入れて納めねばならなかった。これら三つの地代は、封建関係の歴史的発展の三つの段階を表しているものである。もっと特殊な段階には、これらが互いに入り交じっていることも見られる。農奴は、地代の他になお10分の1税とか、戦時税とか、その他、地方的なまた全国的な税を負担しなければならなかった。こうして、国王・領主、その家臣たちが養われていたのである。農奴の小規模な経営のもとで、外からの刺激に乏しく、散在して生活していた封建時代の停滞的な状況では、生産技術は親から子へと伝えられるだけで、その進歩発展は極めて遅いものであった。要するに、封建経済の特徴をなすものは、次の三つである。(1)自然経済であること。 即ち、自給自足で自家消費を目的として生産が行われたこと。(2)土地は地主が独占し、農奴はこれを借りて自己所有の生産用具で これを耕作したこと。(3)農奴は地主の附属物で、土地に縛られ行動の自由がなく、 政治権力による強制、即ち経済外強制を受け、法律上なんの権利も また得られなかったことである。しかし、封建制は奴隷制に比べると、やはり一つの進歩であった。まずそれは、生産力の発展のために農奴の自家経営によって多くの可能性を開いたからであり、またそれは奴隷制の場合より、農奴の地主に対する抵抗にとって広い可能性を開いたからである。ところで、封建制下の生産様式も時の経つのにつれて、その根本的特徴を保持しながらも次第に変化していった。ここで注意すべきは、都市と商業との発生・発展である。奴隷制の末期には、この社会の行き詰まり状態を反映して、土地は荒れ、手工業は衰え、商業はすたれて、都市はさびれ、また破壊された。ここに、自給自足の自然経済の下に手工業と農業との結合した封建制社会が現れ、商業は大きな発展はしなかった。しかし、ヨーロッパでは、10世紀から11世紀にかけて、労働の分業が発展し、手工業と農業が分離するようになった。はじめ手工業は注文によって品物を作り、その報酬によって農産物を得ていたのだが、交換が次第に発展してくると、手工業者は注文品の他に品物を市場に出して売るようになった。即ち、商品が段々と出回るようになったのである。この市場は、多くは大封建領主の城下や大教会の付近に出来、手工業者は次第にこういう市場に集まり、ここに市場を中心として都市が出来上がった。こういう都市は、最初の内は領主に隷属していたが、その発展につれてその状態から抜け出て、色々な特権を持つようになった。これは領主から金で買うか、戦いによって得たものである。都市には多くの手工業者や農村から逃亡してきた農奴が集まった。これは、徳川幕府の江戸も同じである。こういう状態のうちで、手工業者たちは自分の生産上の特権を守るため、色々な制限を作り、競争者を排除し、ついに同業組合(ギルド)を組織した。同業組合は、物価を調節し、その徒弟の身分を定め、製品の数量やその質を決めたりしたが、さらに仕事場の親方と徒弟の間の関係も処理した。親方の下で働く徒弟は、一定の見習い期間を終えると、親方となって別に仕事場を持つことが出来た。しかし、同業組合は親方の組織であって、その利益を守り、徒弟の要求などは受け入れなかった。こうして、手工業の内部に同業組合の厳格で面倒な規定と経済外の強制力(法律・暴力など)で、生産を管理し、自由競争を禁じ、親方と徒弟の間に厳重な位階制が行われた。これは、現在の規制経済の日本と全く同じであって、ただ違う所はヨーロッパのギルド(同業組合)より規模が大きく、日本全体を規制国家(ギルド)にしてしまった事である。自由競争を国家の力で禁じたため、長期不況が続いているだけでなく、国民の財産を「公的資金」の名において食いつぶしている。ヨーロッパの同業組合の場合は、封建制社会の組織を手工業の中に持ち込んだものであるが、同時に封建制を壊し、資本主義生産を生み出す重要な要素の一つとなったものである。ともあれヨーロッパのギルドは、封建制社会内で生産力を発展させ手工業と農業との分業を際立たせ、商業を著しく発展させ、この社会の終わり頃になると、商業は非常に発展し、高利貸資本も発達し、都市には豪商や高利貸や中・小商人が集中していった。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.11
ヨーロッパでは、紀元6世紀から10世紀にいたる生成の時期を経て、10世紀から15世紀には、この社会の完全に発展した時期に入り、以後、18世紀におけるヨーロッパ諸国の資本主義の勝利によって終わる。その間1200年も続いた。日本においては、紀元12世紀末の鎌倉時代に始まり、19世紀半ばの明治時代になって資本主義が成立するまでの700年間であるが、日本の資本主義社会は、第二次世界大戦以前は半封建的な性格をもったものである。既に、奴隷制社会の内部に来るべき封建制の生産様式が作り出されていた。大規模な奴隷経済が没落して行き、そこに小農が分け借りして小作した。この小農は、大地主に種々様々の程度に依存し、農奴化して行ったのであり、この小農経済は封建性社会の一特質をなすものである。西ヨーロッパについてその発展を見れば、ゲルマン人が奴隷制のローマを征服したのであるが、このゲルマン人は当時、氏族制度のもとにあったが、それが既に分解過程にあって、私的所有が発生し、階級と国家との発生の過程も進んでいた。ローマの奴隷の反乱と呼応したゲルマン人のこの征服により、ローマの奴隷制が崩壊して、その後にゲルマンの軍事長官は王と称して君臨し、民衆の財産を我が物とし、土地を自分の臣下に分けて領地とさせた。こういう土地、つまり封土を得た者は兵役に服する義務があった。そしてこの土地は、やはり小作人が耕したのであって、小農にとっては新しい主人に従属することになった訳である。土地を所有して地代をとり、統治する者が、即ち、封建領主なのである。封建領主は、自分の領地内では最高の主人として振る舞った。農民は領主に対して色々な義務を負い重い搾取をうけた。このような搾取制度が封建制度である。これは、日本においても全く同じである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.10
日本の奴隷制社会は、ギリシャやローマの古典的なものよりも、古代東洋諸国のそれに似たものであった。それは、原始共同体が壊されていっても、なお広くこれが残り、その上に奴隷制の国家が出来るという過程を取ったからであるし、また共同体を解体して奴隷制を作り出すのに役立った商業貿易もあまり発展せず、奴隷を獲得する条件に乏しかったからである。この奴隷制社会は、紀元3・4世紀の頃から7世紀の中頃に成立し、以後、12世紀の終わり頃出来た鎌倉時代まで続いた。紀元3・4世紀頃からその氏族制度が解体して、農業共同体的な関係が拡がり国家権力の組織が作られ、大規模な奴隷獲得のための戦乱が長く続き、やがてその結果、大和国家が最後の勝利者となった。多数小国家の首長は、この専制君主のもとに、特定の専門の業務を引き受け、ある種の手工業生産物を貢納した。その過程にあっても、これらの首長は氏族制度や農業共同体の強い残存によって族長的な性格を持ち、また征服された農業共同体も十分に破壊されずに、族長の半奴隷的財産と見なされていた。7世紀半ばの「大化の改新」により、日本の奴隷制国家は最盛期に達した。族長らは、次第に奴隷所有者としての資格を備えていき、広く残っている農業共同体を、彼らは天皇の組織する官僚機構に属する官吏として、位田・職田などの名目で自己の手中に納めて、それらを自己の奴隷によって経営した。他方、自由農民からは、租・庸・調と呼ばれる地代を徴収したが、これらの農民の急激な没落をゆるめ、その反抗を除くために、共同体的土地支配の方法を「班田収授」として国家の手で統一的に行うことにした。しかし、こうした奴隷制も上述したいくつかの理由で典型的なものに発展せず、大体、奴隷の人口は全体に対し15%ないし20%程度であり、従って、奴隷の暴動もヨーロッパのように激烈ではなかった。むしろ、平安朝の時代には、自由農民が重税と官僚貴族の土地兼併によって没落し(平将門の乱)、流亡の無産者が続出して、貴族はその土地をこれらの農民によって経営させる荘園を作り、奴隷所有者らも、この荘園経営を有利として奴隷を解放し、土地に定着させ奴隷的な小生産農民にした。こうして外敵から侵略のなかった日本は、奴隷社会の胎内から封建的関係とそれを代表する勢力によって、革命が行われた。これは、平安時代の中期から奴隷農民の間に階級分化が行われ、一部は地主たる武士、他の多くの部分は奴隷や農奴となり、この武士が彼らを指導して平安末期の内乱を起こし、奴隷制国家を打ち倒したのである。しかし、この時に古代国家の形態は直ちに消滅せず、二重政権の性格の下に鎌倉幕府が出来た。要するに、日本の場合は異民族による圧迫が無かったので、社会の変化が少なかったからである。その点、ヨーロッパは狭い土地に異民族がひしめいていたので、時代の変化に、即ち、生産力の向上のために積極的に変わっていかないと、即、民族の滅亡につながったからである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.09
こういう暴虐の社会でも原始社会に比べれば、やはり社会的進歩の一段階であった。第一に従来は殺す外はなかった捕虜を奴隷として使い、その労働は苦しいものであったが、生産を発展向上させるのには役立った。第二に、奴隷制は農業と手工業とに広く行き渡った分業が行えるということが分かった。そして、その上に大生産を作り出した。成る程、当時のものは甚だ粗末なものであったが、大量の人間労働は、個人でやるよりはずっと多くの生産が出来ることを示した。第三に、こうした生産力の向上のおかげで科学や芸術が、奴隷の犠牲の上にではあったが、発展することが出来た。しかしながら、奴隷制は極めて早くその発展の限界に達し、人類の発展向上の障害となって崩壊したのである。それは、次のような理由からである。第一に、先の「奴隷制社会の特徴」の所でも述べたように、奴隷もその所有者も生産の向上発展に対して興味を持たない。奴隷はひどい強制労働のために、労働の生産性を高めようとはせず、むしろ労働用具の破壊さえし、一方、奴隷所有者は労働を下等なものとし、生産の改良に注意を払わない。そこで、この制度の生産関係は生産力のためには、邪魔物になった。奴隷労働によるこうした生産力の低下は、大規模な奴隷労働をやって行けなくさせ、ローマの奴隷所有者は広大なその領地を細分して、小農民に小作させた。こうして自由な小農民が、隷属農民に変わって行き、これが次の封建的農奴に変わって行くのであって、こういう農民の増加が奴隷制の胎内で掘り崩していった。これは、新たな生産力である。第二に、その激しい階級闘争である。とくに奴隷社会が没落に近づくと、それは一層激烈になった。こういう闘争は無数にあったが、ローマで紀元前72年のスパルタクスの指導した一万にものぼる奴隷の大集団の暴動は有名である。これは、奴隷所有者の政府の精鋭一個軍団によって、ようやく鎮圧されたのだった。第三に、自由民の中の小農、後の隷属農民・手工業者までが、やはり奴隷制と奴隷所有者の統治に対して暴動を起こしたのである。彼らは戦争と重税と高利貸の圧迫によって、生活を破壊されていたので奴隷の暴動に加担した。こういう農民や手工業者の革命的な暴動は、奴隷暴動に比べて奴隷社会を崩壊させたものではなかったが、確かに一種の補助的な役割を果たした。第四に、奴隷所有者階級の腐敗と外族の侵入である。ゲルマン人の侵入は、腐敗堕落した当時の統治者のもとの衰えた武力では防衛出来ず、さらにローマ社会の大部分の人民、即ち奴隷・手工業者・農民特に隷属農民の同情を勝ち得た。かくしてローマ帝国の奴隷制社会は、ゲルマン人の侵入の前に崩れ去った。ここに、奴隷制の内に育っていた封建的な要素を発展させていた奴隷革命と、ゲルマン人のローマ征服との結集、ヨーロッパ人の封建的生産様式が生まれ発展してきた。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.08
奴隷制度の隆盛期だったギリシャのアテネでは、自由民の9万人に対し奴隷は36万5千人、外国人や解放された奴隷が4万5千人という比率であった。このような奴隷の圧倒的多数に対し、わずかな奴隷所有者(約20%)が奴隷を強制的に働かせ、その反対を押し止めるためには抑圧のための権力組織を必ず持たなければならない。この絶対的な対立の上に、奴隷所有者の国家が出来上がった。それは、奴隷階級を抑圧する機関として、階級社会の最初の社会たる奴隷社会において実現したものである。この奴隷国家の形態には、君主制も共和制もあった。共和制には、貴族主義と民主主義とがあったが、前者は少数の特権者だけが政治に参加した。しかし、民主主義といってもそれは奴隷所有者だけが参加した民主政治に他ならず、奴隷は全く無権利であった。日本においては、神武天皇が全国統一事業を始めてからであるが、名実ともに国家となったのは聖徳太子の頃で、それまでは倭国であったが、初めて「日の本」即ち日本となった。ついでに言うと、朝鮮というのは「朝日の綺麗な国」ということで、共に中国を意識して作られた名前である。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.07
まず奴隷制生産についてみると、第一に奴隷は奴隷所有者の所有物で、奴隷所有者はあらゆる生産手段を握っていて、奴隷の身体も彼の所有である。奴隷は、強制的に労働させられ、その生産物は全て所有者の物となった。ローマには、三種の道具があると言われた。その一つは、唖(おし)の道具つまり器具類、その二つは、半分唖(おし)の道具つまり家畜類、その三つは、話す道具つまり奴隷であり、彼等はこんなふうに単なる道具でしかなかったのである。そして第二に、奴隷の所有者は奴隷の生死に関係なく、最も短時間に最も多くの生産物を奴隷から絞り取ろうとして実に激しい労働をさせた。第三に、そのため奴隷は極端に労働を嫌い、その労働用具を壊したりして生産技術の向上などには何の興味も示さず、また奴隷所有者の方は、奴隷の労働力は安く、労働用具は奴隷によって壊されるので、技術上の改良に興味を持たなかった。それで、奴隷生産の技術は低く進歩も少なかった。第四に、こういう低い技術ではあったが、奴隷の多数の集団的労働は、協業の長所を発揮することが出来た。従って、独立の小生産者よりもその生産力は大きく、また、小農や小生産者が高利貸しに圧迫され破産していったのに、大規模な奴隷生産者は高利貸資本に頼ることが少なかったので、小規模な生産者を打ち負かしていった。以上が、奴隷生産の特徴である。次に、その社会の階級について見ると、基本的階級はもちろん奴隷所有者と奴隷であるが、そこにはなお独立生産者である農民と手工業者がいた。奴隷は鎖に繋がれたり鞭打たれたりして働かされ・奴隷所有者は、生産労働をしないばかりか奴隷労働を蔑視し、贅沢な生活をし、この社会の初めの頃は暇な時間を科学や芸術にささげ、例えば、ギリシャやローマに見るような科学・芸術などの発展があったが、後には全くの寄生虫となって奢侈(しゃし)淫蕩にふけった。農民は、初めは自由な土地所有者であったが、後には奴隷生産に負けたり、戦争の負担(徴兵や税金)に押し潰され無産者におちこむ者が多く、他の者はこの社会制度の崩壊期には一定の条件の下に奴隷所有者の土地を小作するようになり、こうして自由な生産者が隷属的な農民、即ち、農奴になっていった。小手工業者も同じ運命をたどり、失業した自由民となり、奴隷所有者の国家に寄生して生活したが、こういう無産者は資本主義のもとでのプロレタリアートとは違い、労働過程で搾取される者ではなくて、労働から離れて社会に寄生していたのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.06
原始社会のうちに私有財産制度が成立し、これが増えて来ると、それをますます増大させようとして、各部落の間に闘争が起こり、争いが始まる。日本でいえば、弥生時代の末期に百余ヶ国が相争った時期である。(魏志倭人伝)負けた部落の財産は勝った部落に奪われ、また、人は捕虜とされる。原始社会では、捕虜は殺されるか食べられてしまったものであるが、それは生産力が低く、捕虜を養う余裕が無かったためで、私有財産を蓄えることができる程の生産力を持つようになると、今度は、捕虜は労働に使って一層多くの余剰生産物を生み出させるように仕向ける。こうして捕虜は奴隷に変わる。例えば、中国の夏(殷)王朝はたびたび異民族を捕らえて奴隷にしたし、ギリシャのアテネでも奴隷狩りをして、ギリシャ文化を作った。これが、奴隷発生の第一の理由である。さらに、奴隷は部落内でちょっとした不幸があって物を借りた時、返せなくなってそのカタとして子女を売ってしまい、最後は自分も奴隷になってしまうというケースが奴隷発生の第二の起こりである。こうして、有力な家族が奴隷所有者として成長する。こういう経過をたどってゆく間にも、石器の他に青銅器、さらに鉄器が作られるに至り、刀剣類だけでなく鋤やその他の道具が作られ、農業や工業が向上発展して行った。鉄は、広大な面積の田畑の耕作と広い森林の開墾を可能にした。鉄はどんな石も、また当時知られていたどんな金属もかなわない程の堅さと鋭利さを持った道具を手工業に与えた。最も一時にそうなったのではなく、最初の鉄は青銅よりも柔らかいことがしばしばあった。だから、石の武器はすぐには無くならなかった。しかし、進歩はとめどがなく、また間断なくより急速に行われた。富は急速に、しかも個人の富として増大した。こういう所から、商品交換も発展した。そこで、貿易に携わっていた家族を大いに富ませたし、また度々の戦争で功績をあげた者はそれで大きな儲けをした。従って、従来の有力な家族だった者の他に、新しい有力な家族が現れて来た。ここに、旧来の氏族組織を利用した有力者や氏族組織の残党と、新たに貿易や戦争で富を積んだ奴隷所有者との間に争いが起こり、この争いはさらに旧来の氏族組織による有力者に圧追され、零落させられた小生産者も加わって氏族制度を打ち壊す運動になった。つまり、この事は氏族制度が奴隷経済と鋭く対立し衝突して、新興奴隷所有者とそれに力を合わせた小生産者とによって、氏族制度が打倒された事を意味している。氏族制度が倒れ奴隷生産が急速に発展すると、多くの生産者は今度はこの新しい生産様式に負かされてどんどん破産して行った。かくして、大規模な奴隷経済が生まれ、富裕な奴隷所有者は、数百ないし数千の奴隷を田畑で働かせ、大規模な荘園を作り上げた。農業生産以外に手工業・貿易・交換・取引などにも多数の奴隷が使われていた。こういう奴隷社会は、エジプトでは紀元前4千年の終わりから3千年代の初めの頃、バビロニア、その他の最古の国々では紀元前2千年代に現れている。しかし、その古典的な発展形態を取ったものとしては、古代ギリシャとローマが上げられる。それは、紀元前10世紀から紀元3~4世紀に渡っていた。古代の東洋諸国では、奴隷制の存在はその古典的形態をとることを制限している要素があった。それは、これらの諸国の歴史を通して、共同体的秩序が保持されたことで、一般に東洋諸国の住民は国土の全表面に分散し、一方では彼らの農業と商業との基礎を、即ち、包括的公共事業の配慮を中央政府にまかせ、他方、彼等自身は農業労働と家内的労働を一緒にやり、わずかに小中心地にまとめられていたのであって、こういう制度が商業や手工業労働と富の蓄積の発展を妨げ、奴隷制の十分な発展に必要な程度の私有財産そのものの発展をさせなかったのである。だから、奴隷制が東洋に広く普及した時でも、奴隷労働は大土地所有者・大商人・廷臣・国王の家庭的必要に応ずるもの、つまり、家内奴隷に止まっていた。そして、こういう共同的秩序を持った上に、専制主義という東洋独特の国家権力の形態が出来た。この東洋的社会の特性、即ち共同体が強く残り、土地に対する権利や公共事業の指導がされていることが、しばしば「アジア的生産様式」と呼ばれるのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.05
宮城県にある旧石器時代の遺跡で見ると、今から約37万年前に人がいたことが分かった。そして、いろいろな人種がいたが、現在の日本人の祖先は、ユーラシア大陸・シベリア・バイカル湖付近にいたツングース系の人々が、大陸から押し出されて現在の南朝鮮の南部と北九州に海をまたいで住んでいた。それを原倭人という。その時代は、前氏族制社会の末期にあたり、粗末な石器・弓矢・縄文土器で性別や年齢による分業をしており、乱婚から群婚に移っていた。4坪位の竪穴住居に住み50人から80人位の集団を作っていたと考えられる。その後、ビルマや中国雲南地方の人が稲作文化を持って中国江南地方から海流に乗ってやって来て、原倭人と混交して倭人となった。倭人という名は中国人がつけたもので、「海辺に住む人」という意味である。言葉の構造は、原倭人のものであるが、単語や風俗・習慣は江南から来た人のものを使うことの方が多い。住居はそれまでの竪穴式から今のような高床式に変わり、ネズミ返し・千木・鰹木・鳥居・羽子板・下駄・歌垣・妻問婚などがあり、古事記の中に出てくる。このように、古代の日本文化のルーツは北方ではなく、むしろ南方系である。最古の水田稲作遺跡は、3千年前の北九州の福岡空港の所で発見された。このようにして、原始共同体は紀元1世紀頃には急速に崩壊した。それは、中国の漢代から発達した青銅器や鉄器の文化が入って来たので、日本の原始社会は急速に崩壊し、紀元2世紀頃には、農業共同体に変わったのである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.04
牧畜業・水産業・農業の発達、それに伴って手工業の発達というように、それらは社会的分業の第一の分化、さらに農業と手工業の分離という第二の大きな社会的分業の発生は、生産力の進展を示すものであって、それと同時に交換関係も発展した。こうなってくると、個々人の生産と私有財産の発展も生じてきて、氏族社会は分解するようになった。共同体の全成員が共同して、彼らのために必要な全ての生産物を生産していた間は、私的所有も有り得なかった。共同体の中で分業が始まり、その成員が各々単独で何か一つの生産物の生産に従事し、それを市場に販売するようになった時、商品生産者の個々の独立性を表すものとして、私的所有の制度が現れたのである。初め私有物とみなされていたものは、例えば、曲玉とか貝の腕輪などの装飾品とか衣服など、個々の私用のものであったが、生産力がさらに増大してくると、農産物や家畜が最も蓄財の対象となり、交換が発展し始めると、交換される品物は個人の私有財産とみなされるようになり、家畜が私有財産にかわり、さらに農耕も共同労働でなく、家畜を使って個人的に行われると、農産物も私有財産となった。その間に、氏族はしだいに大家族に分かれてゆき、この分離により、各家族が独立して生産を行い、こういう家族が集合して、今度は血縁関係によらない農業共同体、村落共同体をつくる。これは、一方では土地の共有、定期的な割り換え、森林・牧場の共同使用など、原始共産制の名残りを持つとともに、他方では、私有の生産用具で私的な経済を行い、家屋・農具・宅地・家畜・農産物など全て一家の私有財産を認める社会である。私有財産制の拡大は、貧富の差を生み出し、原始共同体は崩れ、私有財産制の社会に移って行く。しかしこれもまた、原始共同体のうちに発展した生産力が、この共同体の生産関係を打ち破って、自らの発展を続けるためには必要なことであった。こういう変化は、人類社会におけるまず第一の革命であったのであるが、当時の発展した生産力の進歩の速度からいって、この革命も非常に長い長い歳月を要して遂げられたのである。よく貧富の差が出来る事を資本主義経済の弱肉強食だと言う人があるが、これは資本主義に限らず人間の生産力が上がってくると必然的に出てくる問題である。それを無くすため社会主義をやったが見事に失敗した。弱者救済は、制度によって出来るものではなく、政治的な社会政策として行うべきものである。日本のように法人や個人の税金を世界に例のない程高くすると、日本の経済が全体として沈滞してしまう。やはり、世界と同じようにして、弱者は社会政策によって救うべきである。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.03
原始共同体の第二の時代で、生産力から言うと牧畜の芽ばえが生じ、初めは犬・羊・豚などの小動物から、後には比較的大きな動物も飼い馴らすようになった。日本に羊や豚はいなかったが、犬は縄文時代の遺跡から見ると食べられていた。農業の芽生えも出て来て、植物の根や茎を植えたり、さらに進んで種子を撒くようになった。縄文時代の青森の三内丸山遺跡で見ると、主食であった栗林を作ったり、稗の栽培をしていた。この間テレビで、「縄文時代にも農業はあった。 決してあちこちと放浪していたのではない」と、さも新説であるかのように言っていた考古学者がいたが、移動していたのは氏族制社会が出来る前の話で、縄文時代には放浪していなかった。ただ、栃の実のような自然に生えているものを定住して採取していたということである。(なお、最近のニュースで6千年前の稲作の跡地が見つかったと 報じていたが、それは陸稲である。 水稲と違い収穫量が水田の3分の1以下で、とても余剰生産物を 作ることは出来なかった。 農耕時代と言われるものは、余剰生産物が出来て初めて そう言われるのである。 何故なら、生産関係が一気に変わるからである。 縄文時代と弥生時代の区別は、余剰生産物の有無によって決まり、 作っていた種類によって決まるのではない。)このようにして、農作物の栽培が行われたり、これと平行して道具の製作も進歩し、土器を作り始めるようになり、手工業の芽生えが見られた。しかし、それでもまだ一般的には生産力は引き続き低いものであったから、共産制的な生産関係、即ち、集団的な労働・生産手段の共有、生産物の共有が続き、家屋も共同で住んだ。今でもボルネオあたりには、高床式の共同の長屋があって、それは皆で作ったので共有である。氏族社会は、原始人の集団と異なって、血族によって同じ祖先を持つと考える人々の集団である。これは、血縁家族が、性的関係を制限したから生じたもので、まず世代の違う集団間の性的関係の禁止から始まり、同じ母を持つ兄弟姉妹などの性的関係の禁止をするように拡大してゆき、各個人をその血縁関係でその属する系統を決めた。こうして、何世代か経つと血縁関係につながる人によって氏族が形づくられた。氏族は、人口の増加に伴い、いくつかの附属氏族が分かれて新しく出来ていった。このようにして、氏族集団による部落が出来てきた。その氏族社会では、群婚にあたっては母親が血統を同じくするうえの標準であったこと、さらに基本的には生産の面で女が採取する植物性の食料が極めて大きな比重を占めていた事によって、母権制が発生した。私は、母権制家族というのは大昔の制度だと思っていたが、最近中国のテレビでそれが今もあるとドキュメンタリー報道していたので驚いた。しかし、現在の地球上にはあらゆる時代の生活様式が現存している。生産力が極端に低い地域では、奴隷制度も封建制度も有り、戦争中、南方作戦では戦死した戦友の肉を食べたともいわれる。これは、最古の人間の生産様式で、他の部族の人間を捕まえて食べてしまう「人食い人種」と言われる時代が有り、中国においては紀元前5世紀頃まであったと文献には出ている。戦後は、原始共産制的集団生活をしていた何家族かを私は実際に神奈川県平塚市の焼跡で見た。要するに、何時の時代においても生産力に見合った生産関係(人間関係)でなければ人間は生きていけないのである。だから、原始共産制にも逆行してしまう。そして、それは悪いことでなくて、そのような条件においては合理的なのである。さて、そのように合理的であった母権制も漁猟の発達や、男も農業に従事するようになったため生産力がさらに増大すると、生産過程において男の占める役割や家族内での地位も向上して父権制時代となり、それがさらに進んで家父長制に変わり、さらに進んで一夫一婦制に発展して行く。当時の分業は既に述べたように性別や年齢によって行われていたが、さらに牧畜や漁業・農業、または手工業の発展にしたがって、それぞれを主とする部落が出来、その結果として交換ということも生じてきた。例えば、海辺の人は貝を採り、それを乾物にして農業生産物と交換したりするようになった。ここからまた交換物のあるものが、一種の貨幣の役割をするようになった。中国の殷(商)の時代には、貝殻が貨幣であった。交換はまた部落内でも行われるようになった。また、伊豆七島の神津島という島があり、そこでは黒曜石が大量に採れ、箱根産出の黒曜石とともに東日本で唯一の産地であった。それは獣の皮を剥いだり、肉を切ったりする刃物代わりに使った。それが東日本一円の遺跡から出る。ということは、何かのものと交換していたということである。黒曜石は、小さな石であるので貨幣のように使われたのかもしれない。ついでに言うと、当時は氷河時代で海面は今より80メートルも低く、日本海は湖であり大陸とつながっていた。神津島もわずかの距離であったため、そこの黒曜石を採りに行ったのである。箱根産のものと違うのは、科学的に分かっている。私が小学生の頃、友達が黒曜石を沢山くれた。聞いたら、昔の人が住んでいた横穴の中に有ったのだと言う。今で考えると、そんなに沢山の黒曜石は要らない筈であるから、きっと貨幣のように交換用に持っていたにちがいない。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.02
初めて人間が出現したのは、アフリカのエチオピア周辺である。この経過については、「人間の誕生」の所で述べたが、このようにして発生した人間は500万年もの長い間、原始共同体社会を形作っていた。これは今テレビなどで見るゴリラの群れが、何時も立って歩いていると想像してもおかしくない程の低い段階から始まった。前氏族制時代第一は、前氏族制時代である。生産力は極めて低く、道具(生産用具)は削った石片やこん棒程度で、食物を採取する道具か、身を猛獣などから守る道具でしかなかった。その食物と言えば果物類や小さな鳥獣を自分一人で取って食べていた。人間は森林に住んで、多くは樹上に居を構え、またあちこち移動して、生活は極めて不安定であった。古代の中国の記録に「鳥巣氏」などがおり、また、日本の古事記にも木の上に住む人の話が出ている。これは、猛獣などに襲われないためであった。(これは、今でもニューギニアの一部にはある。)労働にしても分業などはまだ無く、極めて簡単な共同労働が行われていた。このように、生産力が貧弱であったので、人間は一人一人独立して自然や猛獣と戦い、共同で働いて自らを防衛し、また、食物を得るしかなかった。従って道具も共同で使い労働し、共同で食べたのであって私有財産というものは無かった。男女関係で言うと、当時は乱婚の時期で30人ないし50人程度の集団生活をしていた。この前氏族制時代に生産力を推し進めた重要な発見として、私達は火の発見と弓矢、骨製の道具の出現とを数えなければならない。火は、鳥類・動植物を煮たり焼いたりすることが出来るようにして、人類に新たな食物を付け加えたし、弓矢・骨製の道具(例えば釣り針)は、漁猟の発展を助けた。こうして、生産物の種類も増え、さらに人類の住む範囲も比較的寒冷な土地にも拡がり、家屋を作ることも覚えた。また、生産力の発展は、ある種の分業的生産(生産関係)をもたらした。つまり、性別や年齢による分業で、男は主として漁猟に、女は主として食物の採取に、年齢的に言うと未成熟の両性児童からなる幼年集団、次に成年男女の集団、さらに老年集団に別れ、これら生産に必要な分業上の区分をなした。これは、今でもインドネシアやニューギニアの奥地にはある。そして、これらの集団相互の間の性的関係が禁ぜられ、そこから血縁家族が生まれてきて、乱婚から群婚に変わって行った。そうでないと近親相姦になり、遺伝上弱い子供が生まれてしまうからである。とにかく、乱婚だと誰が父親であるか分からないから年齢別に分けてしまえば、その害は無くなるのである。このようにして、前氏族制時代は、生産力の発展に伴い氏族社会という新しい生産関係へと移った。(「哲学の奨め」曽我達夫著より)
2004.11.01
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