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もちろん沢庵禅師が、当時の日本人が世界的にみて特異的な「痛みかた」をするらしいなどと考えていたとは思いませんが、少なくとも我が身を見詰めていく過程で、自身の心が外部にあまりに「囚われ過ぎている」ことに気付くと同時に、心と外部をテクニカルに切り離すにはどうしたらいいか、についてずいぶん心を砕いただろうというような想像は、かなり許されるのではないか知らん。 刀先を突っつき合った時、「恐怖」を感じない剣士はいない。強い剣士は「恐怖」を打ち負かすのではなく、「恐怖」は「恐怖」として心の在りようとして認めつつ、そうした心の揺らぎを身体に反映させない術技を身につけた者ということが出来るのかもしれません。身体に心の揺らぎが反映したとたん、相手に動きを読まれ(先を取られ)確実にそこを突かれるからです。沢庵禅師はそこで「案山子(かかし)のように振るまえ」と言ったとか。案山子が相手では確かに何を考えているのか分らない。 しかしここまでしゃべって来ると、やはり日本人というのがおそろしく外部に敏感というか、日本以外の世界を知る今の世となっては、ほとんど「外部過敏症」とも言うべき民族誌的疾病を抱えているのではないか、という気がやはりして来ますね。プロ野球選手の「痛みかた」を見ていても、それは事実的なフィジカルな痛みというよりは、そのほとんどが来るべき「予感」に心が占領された類の「痛み」なのでしょう。 同じような事柄で、日本が長期デフレからなかなか抜け出せないのは、何事もネガの「予感」で満たしてしまうほうに心の安寧を見出す、という不思議な「囚われ」から来ているようなところが日本人にはあるような気がするのですが、まあこれは別の話。こうした固有の「囚われ」の原因を、例によって日本の気候風土性だの地政的歴史や、シャーマニズム的宗教観などで考えてみるのも一興ですが、さほど煮詰まっていないこの手の話題をどんどん持ち出すのでは、物事の上っ面をかするだけでたぶん終わってしまうので、これ以上触れません。 ここで言いたいのは、要は極度の「外部過敏症」ともいうべき民族誌的疾病があることで、心と外部をテクニカルに切り離す(脳中枢を通さずに、Hand-Eye Coordinateする)固有の術技が、逆に日本人には強く意識化されたのではないかということなのです。西欧人(と言わず、たぶん日本人以外)は、これまた様々な地政的歴史要因他によって、そうした疾病を抱えずとも生存し得て来たので、いちいち意識化せずとも心と外部は「切り離せる」。 したがって一部の西欧人が「禅」や「武道」に強く惹かれるというのは、それが彼らにとって「隔絶した文化」だったからではなく、彼ら自身ももともと保持していながら、充分意識化出来ていなかった心と身体の関係を、「武道論」の一部がうまく「言い当てていた」からかもしれないのです。まったくの隔絶文化であれば、それはたんにエキゾチシズム(異国趣味)に過ぎない。しかし「禅」や「武道」にいそしむ西欧人は、我が身の「生き方、在りよう」についてもっと深く知り得ると思ったから、それにはげんでいるのだと思う。 逆に言えば「禅」とか「武道」にかぎらず、「日本的」と称せられる文化について「外国人には絶対理解されないだろう」という、日本人一般の奇妙な信憑は、それじたい日本人固有の「囚われ」というか、「絶対理解されまい」というネガな心象のうちに心の安寧を見出す、というこれまた特異的な民族誌的疾病の現われなのです。 というわけで、世界がネットで繋がり現実に外国人との接触も普通になった今どきより、世界を知らなかったはずの沢庵禅師のほうが「世界語(英語じゃないですよ)を話せた」という、不思議なパラドックスがここにはありますね。― つづく ―
2013.02.04
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「そんなことないだろう。脳中枢を通さずに身体だけで反応する訓練を、かぎりなく合理的な手法で編み出したのは日本の『武道』じゃないの?」という反論が返ってきそうです。安易にしゃべると沢庵禅師の「囚われない」思想的ユニーク性を汚すことになりかねないうえに、これを話す私は武道に関してはまったくの素人。はたしてそれでも何らかの意味のある話が出来るのかどうか?というかなり厄介なわだかまりを抱きつつ、それでも話を続けます。 これも前に話したことがあるのですが、一般に西欧人というのは身体的な痛みに、わりと鈍感なところがあるのではないか?もう少し敷衍するなら、彼らは対象を認識することと、それに対する自身の身体反応を、ごく自然に切り離して振るまえるところがあるのではないか?ということなのです。 いちばんベタな例をあげるとすると、野球のデッドボールを受けた時の反応の違いに典型的に見られます。メジャーリーグを見ていると相当えげつないデッドボールでもバッターはまず痛がらない、というか明らかに虚勢を張ってでも「平然」としてみせる。それに比べて日本のプロ野球選手の痛がりようは、以前ほどではなくなったにせよ、世界の終わりじゃあるまいし「やり過ぎじゃないの」という印象があったのですが、もちろんそんなことは本人に向って言えるわけがない。 これは多少の芝居気が双方ともあることを差し引いてもたとしても、やはりメジャーでは事実「痛くなく」、日本では現に「痛い」のではないか?こんなことを言うのは、これまた内田さんの受け売りですが、M・フーコーによると人間はそれぞれの民族誌的在りようによって、「身体の痛みようが異なる」らしいのです。中世の殉教者たちは残酷な火あぶりの刑に「宗教的な法悦」を見出していたらしい。 となると今どきの日本の野球選手の「痛がりよう」は、その民族誌的な刻印の現れということになるのかどうか? もう一つの例を思い起こすのです。ある決定的瞬間におけるカメラマンの構えのようなことなのですが、日本人の場合プロの報道カメラマンであっても、カタストロフのいちばん肝心な場面でカメラがブレる、あるいは決定的場面を撮り損なうということが、一般的に多いのじゃないか知らん。対象を見詰める眼よりも、対象から受ける我が身の影響を「しどけなく」曝してしまうことが多いように思うのです。 西欧(あるいは日本人以外)のカメラマンたちの画像を見ていると、明らかに我が身を危険に曝しているにも拘わらず、彼らが撮り続ける画像は対象に向けられたまま微動だにしない。第二次大戦中なら例えばノルマンディー上陸作戦の映像は、どう考えたって上陸兵より先にビーチを走り敵に背を向ける形で、突撃する味方兵を正面から撮影しているわけでしょう。「そんなの今どきのパパラッチと同じ功名心のなせる業さ」と言われるかもしれませんが、私はそうは思わない。功名心なら日本人の戦争カメラマンだって大いに持っている、大事なことは「なぜ彼らのカメラは、ブレないのか?」ということなのです。 同じような話で、爾来日本兵は射撃が一般的にヘタだったという話もよく聞きますね。心の「恐怖」が身体に繋がって、一連の射撃動作を阻害する。これまた一見鈍重そうな米兵のほうが、弾雨のなかでも無用な感情の高ぶりを起さずに、射撃するということが多かったのではないか? で、もし日本の軍事教練に「精神性」が強調されていたのであれば、それは日本兵の強さの証明であるよりも、民族誌的な弱さの矯正という側面があったのではないかと疑っているのです。 「武道」が「囚われの心を去る」ことを強調したのは、世界中の人間一般が同じような「囚われ」に陥るのではなく、そこに日本人に固有の「囚われかた」を見止めていたからかもしれないのです。― つづく ―
2013.02.02
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