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そもそも、こんな藤原摂関期の政治社会形態などという、退屈が前提のような調べものをやり出したのには、もちろん懸案の「源氏読み」が前提としてあったわけですが、紫式部が想定した当時の読者が「すでに知っている(共有されている)」知識というのは、今では注釈を見ないとほぼ理解不可能。しかし物語中の注記は、あくまでその中でのみ有効なので、実際はどうであったのかということは、やはり体系だった歴史書を読んでみるしかない。 で、さまざま手軽に読めそうな入門書に手を出してみたのですが、結論から言うと摂関期といわず平安時代全般の歴史というのは、江戸期より長いにもかかわらず、先に言ったような理由で、必ずしも明確な歴史像がいまだに提示されていないのです。というより、先にあげた日記類の詳細な読み込みが、本格的に始まったの、ここ二十年ほどで、平安期の現代的な歴史像は今まさしく描かれ始めた、という意味で日本歴史のフロンティアなのです(同じような事例は、一時期盛んに行われた壬申期の天武天皇の再評価がありました。戦前は天皇家の継承争いをまともに取り扱うのは、何となく憚られるところがあったのです)。 「そんなことはないだろう。要は平安期は奈良期の大陸的律令制が次第に崩れて、荘園のような私領が跋扈した政治的には無秩序な時代だったんじゃないか」というのが中学高校で習った日本史の漠然としたイメージですが、これでは何度も言うように摂関期を盛期とした(そしてその後二度と起こらなかった)、文化文運の隆盛は説明が付かないのです。 文化の興隆というのが政治経済社会全般の安定的な隆盛が前提なのは、江戸時代を見ればわかる。そう言えば江戸期だって、私が子供だったころのイメージでは、士農工商の封建的階層社会が固定化した、前近代的な時代という前提で話されるのが、常識とされていたものですが、今どきそのようにこの時代を捉えている歴史好きの人はまずいないでしょう。明治維新が江戸期の否定という形で、「近代化」という物語を演出したように、敗戦後日本はマルクス的な発達史観に基づいて、江戸期を否定して来たのです。 今どきこのように楽天的な歴史観を持った人は、よもやいまいと思いますが、それでもややもすると漠然とした発達史観で過去を見てしまうのは、新たな歴史像がまだ明晰なイメージで世の中に提示されていないからです。江戸期に関しては歴史学者文書史家文学者こきまぜて、その膨大な史料をすこぶる魅力的に読み込んできた結果、ようやく世界歴史的にも極めて独自(好いも悪いも含めて)な「秩序社会」を形成してきた時代だったという認識が、ようやくここ最近になって一般に定着したという感じでしょう(しかし、ここには何やら「クールジャパン」に代表されるような、和ものブームの底意が見え隠れしますね)。 平安時代もまたそうした意味で、江戸期とはもちろん異なった、しかしこれまた極めて独自的な「秩序社会」を形成していたのだろう、というのが私の観測です。平成の現代から判定すれば、もちろん貧しく非合理的でとても納得出来ない(一緒には住めない)としても、それが当時の普通の今だったとするならば、道長の陰陽道や仏事好きというのは、間違いなくそれが当時最新の思想文化の体現者としての示威であったからです。その前提に立たないと摂関期の文化の隆盛は説明できない。道長自身、四男坊であるにも拘らず、三人の兄が流行病(麻疹か?)でバタバタと死亡した結果、ほとんど偶然のようにして摂関家の頂点に立ったのです。当時は皇族貴族と言えども、病、災害その他自然の力は、人間社会を圧倒していたのです。 そんな今から考えれば、とてもじゃないが落ち着いて沈思に耽ったり、嬉々として遊び(女遊び含む)に興じるどころじゃないだろうという雰囲気の中にあっても、道長を中心にした摂関期の研究本をみればみるほど、彼も含めた当時の貴族たちの教養というのが、おそろしく高かっただろうというのが、だんだん分かってくるのです。それは何も有職故実や漢文の教養に、現代人に比べてはるかに詳しかったということではなしに、それ以前の「知的枠組み」とでも言うべきもの、知識の用い方のようなところ(「知恵」と言っても好い)で、おそらく現代に限らず日本史上でも最も高い水準に達していた時代だったのではないか、という気がするのです。 紫式部のような才能が出てくるのには、それなりの理解者(あるいは知的枠組みを共有する人々)が周囲に数多くいただろうというのは、「源氏」を読み始めたころからの私の印象で、そういう知的な読者を前提にしないと、たぶんああした物語は生まれないだろうというのが、最初からの私の読みでした。少なくとも道長、実質、行成、公任(きんとう)には、それが彼らの日記や書、詩歌に現れているし、だからこそそれに拮抗し、ついには凌駕し得る女流文学者歌人も現れたわけでしょう。
2013.07.26
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ここのお休みが長くなっていますが、別に自身の心境にこれといった変化があったわけではなく、何となく書く気がしないというか、以前のように書くこと自体の楽しみを、感じられなくなっていることに気付くのです。それは何も父が亡くなったからといった、個人的な身辺事情に由るのではなくて(もちろんそれによる雑事は様々ありましたが)、要は何処に話が拡がっていくのか、さしあたって書いている自分でも分らないまま、それでも新たな地平が次々現れて来そうな予感だけを楽しみにして、弾むように前へ進んで行くような高揚した感じが湧いて来ないのです。 そうかといって、私の「言葉フェチ」的本好きが消えうせたわけではなく、じつはこの間本読みの楽しみに専念していた感があるのです。以前と同じような「話す面白味」だけで、ブログをUPするのが何となく憚られる間、では今まで読もうと思っていて、なかなか手を出せなかった本類を浴びるようにして読んでいます。で、その中身はというと、これまた皆さんウンザリされるかもしれませんが、道長を中心とした「摂関時代」の関係本なのでした。まあ一つには、以前からの懸案である「源氏読み」をどう再開するか、ということとも関連していたのですが、中断した理由が当の平安中期の日本を、私が知らなさ過ぎるということがあったからです。 文学に歴史をあまり持ち込むのは良くないとは言うものの、とおりいっぺんの詩歌管弦、有職故実を知ったとして、真の意味で「摂関時代」を理解したと言えるのかどうか、と思ってさまざまな最近の歴史本を読んでいたら、どうも専門家世界でも意外と平安時代というのは、ブラックホールであるらしい。で、その主たる理由が、奈良時代と違って平安時代は「正史」というものが存在しないということらしいのです。古代史の研究というのは、「日本書紀」をはじめとする「六国史」という官製の歴史書があって、言わばそれを中心にして傍系の文書史料や考古学的知見で史実を固めるということが出来るのですが、平安時代にはそうした柱になるような基本史料がない。そういった意味で奈良時代以前と、平安時代はまったく違った研究態度を迫られるということなのです。 正史がないから政治社会的には空白の時代とまでは言わないにしても、無味乾燥な不毛の時代とするわけにはいかない。げんに摂関期は「源氏物語」という奇跡を生んだ時代であるし、この時代の貴族や平民が、奈良時代に比べて知識教養に乏しく、経済的にも貧窮していたなどとは誰も思はないでしょう。 となれば、そうとなる説得的な分析が、歴史学のほうからなされるべきなのですが、これまでわりとこの時代の政治経済社会情勢の研究は、文化の研究の度合いに比べて軽んじてこられたのではないか?時代とは総体的なもので優れた文学が現れて来るには、しかるべき政治経済社会的背景があったはずです。 面白いのは「六国史」のような正史は存在しない(裏を返せば、必要がない時代だった)のに、道長をはじめとした摂関家の「日記」類というのは、驚くほど豊富に残されているのです。この場合の「日記」とは、例の女房たちの書いた平仮名の日記ではなく、貴族の日録あるいは備忘録といった類のもので、今で言うと「手帳」のような感触に近いのでしょうか。 しかもそれが道長に到っては「御堂関白記」という直筆の史料として今に残っているのです。それ以外にも、藤原実質(さねすけ)の「小右記(しょうゆうき)」、藤原行成(ゆきなり)の「権記(ごんき)」などなど、同時代の権門たちはさながら「日記フェチ」かと思われるくらい熱心に書き記している。これは当時の世の中が正史を編纂するよりは、日記を書き記しておくことのほうが、政治に実体的に機能するということを知っていたからでしょう。 とくに実質は摂関の最盛期をかなり批判的に見詰め続けながらも、ただ傍観しているのではなく、常に中枢に関わっていたらしくて、その人品骨相は面白い。しかもこの人物は中宮彰子との連絡役として、紫式部と関係していたらしいのです。「小右記」の記載にそれがあるのです(道長は自身の日記で彼女に触れたことは一度もありません)。 となると道長と娘彰子との関係は、彼女の入内後どんなふうだったのか。はたまた常に一家言を道長に呈していた堅物実質は、彰子とどういう関係にあったのか。そしてそれに紫式部はどれほど関わっていたのか。ずいぶんロマンティックな妄想が開けてくるじゃないですか。 まあこんな話は、まとまってはとてもまだ出来そうにないですが。
2013.07.17
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