サリエリの独り言日記
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先日、大学時代の友人たちと会う機会があって、その時私がした話の一つが「火星旅行でのいちばんの危険は『退屈』」という新聞の話題でした。宇宙探検などというと、つい「スターウォーズ」ばりの華やかなパフォーマンスを思い描いてしまいますが、真空の宇宙というのは文字通り空っぽ、つまり「何も無い世界」ということを意味しているのです。というわけで、彼の映画に先立つ五年ほど前に作られた「2001年宇宙の旅」において、退屈極まりない宇宙及び宇宙旅行という正体を、手間隙かけて仮借なく描いてみせたA.C.クラークやS・キューブリック監督の先見性にあらためて舌を巻くのです。 そうした退屈極まりない空間を、狭い船室の中で半年ほど飛び続ける場合、人間が陥る一番の危険(ヒューマン・エラー)というのは、「あえて危険を冒してしまいたい」という衝動なんだそうで、これは何も宇宙旅行に限らず、コンピューターが人間のやることの相当部分を、(人間以上に労を惜しまず、手際良く)代行してしまっている現代では、社会のあちこちでしばしば起こっている現象でもあるのでしょう。 さて、そうしたマンマシン・インターフェイスの現場で、日々生じている軋轢のさまざまについて(操縦士がオートパイロットを点けたまま、手動で飛行しようとしたとか)、よく指摘される人間が陥る思い込みとか、思い上がりの類については、テレビや新聞その他で専門家諸氏が、すっかり古びた慨嘆的なコメントを山ほどしているので、ここではしません。今考えていることは、「退屈」という現象の中味あるいは定義のようなことです。 そもそも「退屈」とか「無聊(ぶりょう)」といった形容は、人間の振るまい方にだけに使われる用語で、動物その他生き物には適用されません。一見いかにも無聊そうに見えるネコやナマケモノの振るまいだって、それは人間がそう見做しているのであって、本人たちにとっては余計なお世話といったところでしょう。 ところで「退屈」の語義を逆から見立てるとするなら、人間は常に「刺激」を求めて止まない生き物であるらしい。で、「刺激」という用語なら、これは生き物一般にまで拡張することが出来るかもしれません。「刺激」というのは、言い換えれば、止せば好いのに「危険」に常に近接せずにおれないという、摩訶不思議な生き物通有の衝動なのではないか? こんなバカな妄想を思いついたというのは、よくやっている動物番組で(私の情報源は本とテレビだけです、まったく)、セレンゲティ国立公園のトムソンガゼルとライオンの関係を観たことがあるからです。いわば喰われるために存在しているように見えるガゼルですが、驚いたことに仲間が喰われて飽食したライオンの群には、彼らはむしろ「近接しよう」としているように見える。ライオンの方も良くしたもので、うるさがって時に威嚇することはあっても、襲うようなことはしない(無駄な労力は消費しない)。 詳しいナレーションは忘れてしまいましたが、要はガゼルたちはライオンとの「危険距離」を測っておきたい。で、飽食したライオンたちの群なら、かなり接近しても大丈夫ということを確認せずにおれないらしいのです(もちろん飢えたライオンの前では、こんなバカな真似はしないでしょう)。この振るまいの根幹にあるものは簡単で、要は安全に草を食べられる範囲を測っておきたいということなのでしょう(厄介なのは、この範囲や距離は常に揺れ動いているということです)。 それでも常に「危険と近接する」ことを止められないというのは、平たく言えば、そうしないと草が食べられないからでしょう。で、おそらく豊富な草場には、必ず肉食獣が隠れている。つまり生きていくためには、常に「危険と近接する」しかないのです(危険を回避したら、飢えて死ぬしかない)。 と考えて来ると、なぜ火星旅行での一番のリスクが「退屈」なのか、見えて来るような気がする。人間も生き物である以上、本態的に「危険と近接せずにはおれない」因子を刻印されているだろう。生き物が常に「刺激」を求めて止まないというのは、結局「危険との近接感」こそが、生きている実感と捉えられるように、DNAが仕組まれているからではないか? となれば、端から見ていて、どう考えても止せば好いのに止められない、人間どもの愚かでも摩訶不思議な振るまい(「不倫は文化」だの「千年の怨みは、永遠に消えない」だの)には、結局のところ非常に単純な生物因子が作用しているのではないかしらん?私が情けないと思うのは、自身がそうした様態を基本的に持っているということに、まったく気付かず(あるいは、あえてネグレクトして)、周囲に放言して憚らないという知的在りようの話であって、ハッキリ言ってこうした振るまい方は、ネコやキンギョよりもレベルが低い。知り得るキャパを保持していながら、「あえてそれを放擲している」という意味においてです。 以上、先日の友人とのヨタ話に絡んだ話でした。他にももっとあったような気がしますが、全部忘れました!?
2013.08.29
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