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今年の夏、幸運にも藤田先生のお話を聞く機会に恵まれたので、 その前にちょっと読んでおこうと購入した一冊。 本著を含め、これまで読んだ著作から、頑固爺さんのイメージがあったのですが、 実際の藤田先生は、シューッとスマートで、いかにも学者さんといった方でした。 当日のお話しを一緒に聞いていた同僚は、 「これまで言い尽くされた当然のことばかりで、目新しさがなかった」 などと、好き勝手なことを言っておりましたが、此奴わかってないです。 その当然のことを、きちんと世間に発信してくれていること自体が超重要なのを。さて、本著でも藤田先生とその同士の方たちは、現在行われている「教育改革」に対し、疑問を投げかけるとともに、その再考を迫っています。それは、「全国一斉学力テスト」であり、「教員免許更新制」であったりします。ただし、政権交代が実現した現在、この二つは既に本著で提言された方向に向かっています。その他にも、教師の階層性や生徒への厳罰主義、さらには、国による学校教育の統制の廃止等を本著では求めていますが、私自身が最も危惧しているのは、学校選択制です。この部分については、藤田先生自身が執筆されていますが、全く同感です。 我が子に豊かな教育を受けさせたいという保護者の願いはもっともなものでしょう。 しかし、その願いとエネルギーを、地元の学校の改善・充実に向けるのでなく、 学校選択制を通じて地元の学校(の良さやその充実可能性)を否定し、 選んだ学校とそのネットワークのメンバーとなることをよしとする傾向が強まるということです。 そのようにして地元の学校と地域を見捨て、 そこに象徴される身近な公共性・公共的営みへの関与を低下させていくことになります。 そして、そうした傾向が拡大すれば、学校と地域社会との関係が寸断され、 教職員と地域の人たちの協力・協働による地域に根ざした「学校づくり」も 種々の困難を抱え込むことにもなります。(p.141)それでは最後に、本著で私が印象に残った部分もう一つだけ紹介します。 かつて日本の地域にはどこにでも「はらっぱ」がありました。 そこには無数の「ギャング・エイジ」が“生息”しており、 いろいろないたずらを重ねてきました。 その結果、「カミナリおやじ」や「おにばばあ」から「こらー」の恫喝。 しかし串間さんが述べているように、当時のおとなは、 子どもに対して上手な逃げ道を見つけてくれていて、 家や学校に即通報し、罰を求めるようなおとなは少なかったように思います。(p.114)それぞれの年代によって、この文章の受け止め方は随分違うかも知れません。私の少年時代は、確かにこの文章に描かれているような日々があったのですが。
2009.12.31
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正真正銘、タイトル通りの内容を扱った一冊。 本当の「死」というものから、遠く隔絶された場所で生活する現代人。 かつて、「死」は身近な場所で起こり、対処すべき出来事だったはずだが、 現在は、普段の生活の場と全く違う場所で起こり、処理されていくことがほとんど。 それ故、子どもたちは、本当の「死」というものに直面する機会を失った。 本物の「命」が失われる場面に立ち会うことが激減し、 それを失うことが、どういうことなのかを経験できないまま成長していく。 そのことが、「命の軽視」に繋がっている可能性は、十分に考えられる。本著は、公立中学校で、天野幸輔先生が取り組んだ「デス・エデュケーション」について、その内容や変遷、そして、その授業を受けた生徒たちの変化等々を紹介している。天野先生は、大学卒業後に「死の哲学」や「キリスト教神学」を一年間学び、さらに、ホスピス病棟でボランティアスタッフを務めるなどした後、25歳で教職に就いた。ホスピスでの三年間で看取った患者は300人強。そんな経験があるからこそ、生徒たちの心に大きく響く授業が出来たのだろう。しかし、その授業に臨むまでの準備や周囲への配慮も並大抵ではない。知識や人的コネクションの豊富さに加え、教師としてのセンスが素晴らしい。授業は、まず性教育から始まる。通常、中学校で「命の教育」と言えば、性教育がその内容の大半を占める。しかし、天野先生にとっては、それはあくまでも序章に過ぎない。メインは「死」そのものを扱った授業である。ただし、いきなり「ホスピスでの人の死」を扱うことは、中学生にはインパクトが強すぎた。そこで、次の授業は「ペットの死」を取り上げての内容に切り替える。最初は戸惑いを見せた生徒たちも、次第に引きこまれていく。そして、その経験は、生徒たちの成長にとって大きな役割を果たしたはずだ。以降、この個人的な取り組みを、いかにして他に広めていくかという話題になる。しかし、それは一筋縄ではいかない。何しろ、生徒たち同様、現代社会に生きている教師たち自身も、本物の死に関わったことは、そんなに多くはない。天野先生とは違う。それ故、誰もが天野先生のような授業が出来るはずはない。たとえ、指導案等を作成し、授業をマニュアル化したとしても、そこから生徒たちに伝わるものは、それぞれの教師で随分違うものになってしまうだろう。きちんと教えるからには、教える側の教師のレベルアップが必要不可欠である。さらに、教えられる側の生徒についても、その内容を学ぶことができる状態にあるのかどうか、教師は正確に把握する必要がある。死を扱うことが今までタブー視されてきたのは、それを扱うことの刺激の強さと、それが一人ひとりの生徒の精神に与えるダメージが、どれほどのものか図りかねたからだ。それでも、「デス・エデュケーション」は、価値あるものに違いない。なぜなら、誰にとっても、実は本当に身近で、避けては通れないことなのだから。そのことについて知り、考えることは、何物にも代え難い価値ある学習である。ただし、それを学ぶ場が学校しかないというところが、日本社会の辛いところでもある。
2009.12.31
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スタートは面白い。 『西部警察』に登場する自動車を見れば、 それに乗ってる人が、イイ人かワルイ人かが、判断できるなんて。 もちろん、番組スポンサーの車に乗ってるのがイイ人。 最近、録画&スキップで、CMを見てもらえなくなったので、 番組そのものの中に、さり気なく商品宣伝をすることが、より増えてきた。 こんな広告手法を「プロダクト・プレイスメント」と呼ぶらしい。 そして、この効果はなかなかにスゴイようだ。そして、著者は、視覚情報を最強の洗脳媒体だとする。第1章では、日本のテレビ放送の裏側を、どんどん暴き立てていく。テレビ世界の不透明なお金の流れや、たった数十人の構成作家が、極めて狭い範囲で作った番組により、日本の世論が形成されている現状。 今でも新聞記者や民法キー局の報道記者たちは、 大臣の首を獲るのが勲章だと思っているフシがあります。 国民に不利益をもたらしているシステムの欠陥や問題点を知らしめるのが ジャーナリストの役割だと私は思うのですが、 なぜか、記者たちは、問題の原因をシステムのせいではなく、 個人の問題に還元しようとしがちです。 日本のジャーナリズムには昔から、 そのように個人を追求するカルチャーがあるように思えてなりません。(p.56)善悪を二分し、悪となったら徹底的に叩きのめす。現実は、そんなに単純明快なものであるはずがないにも拘わらず、誰にでも、簡単に分かりやすい構図を造りあげ、民衆を煽るマスコミ。そして、日本社会そのものが、この手法に完全に毒されてしまっている。ところが第2章に入ると、その論調の趣きや方向性が変わってくる。その始まりは「現状に満足している人は洗脳されている」という言葉。 自分の会社や自分の現状に満足している人は、 上司や先輩から植え付けられた考え方を、 あたかも自分で考えたことのように受け容れてしまっている場合がほとんど。 それは自分の考えたことではないのです。(中略) 突き詰めてみると、その裏側には 「それを失ったときの恐怖の感情」がぶら下がっているはずです。 その情動を埋め込んだのが「ドリームキラー」なのです。(中略) 自分たちの価値観を強制して、 子ども自身がもっている可能性の芽を摘んでしまっていることに気付かない大人たち。 そういう人たちを「ドリームキラー」と呼びます。(p.126)確かに、これまでの人生で構築されてきた、自分の中に現存する価値観というものは、どこかで誰かが言った言葉を聞いたり、行動を見たことなどから、多分に影響を受けている。というか、そういうもの無しに、そもそも価値判断基準なんてつくりようがない。それ故、価値観を伝えることや、一旦受け容れること自体を否定する主張は、どうかと思う。そういうものが全てダメだとすれば、教育というものは成立しない。伝統や文化の継承も、全てが否定されることになってしまう。「マナー教育は正義の名を借りた奴隷化」とまで言われてしまうと、「この人、本当に大丈夫か?」と心配になってしまう。 国会議員や上場企業の社長に面会するときでも、 私はいつも革のパンツと革ジャンを着ていきます。 先方はネクタイを締めていますが、気にしません。 名刺入れさえもっていませんので、ポケットやカバンから名刺を直接取りだして渡します。 ときにはカバンの中で名刺がヨレヨレになっていることもあります。 マナーという点では最悪といわれても仕方がない。(中略) しかし初対面の人と会うときに気をつけるべきは、人と人どうしの心地よい関係をつくることです。 マナーはそのための方法論として生まれたにすぎません。 つまりマナーは処世術なのです。 極論すれば、人間関係が良好になるのであれば、 マナーなんて実際はどうでもいいのです。(p.158)
2009.12.31
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野村監督のチームづくりへの執念が感じられる一冊。 今年、楽天イーグルスを2位にまで引き上げた野村監督が、 その集大成として、来年もチームの指揮を執ることに、 どれほど強い意欲、希望を持っていたかが、ひしひしと伝わってくる。 もうあと一歩で、完成の姿を見届けることが出来るという段階にまで来て、 自らがやるべきはずの仕事を、強引に奪われてしまったことに対しては、 怒り、無念、後悔等々、とても一言では言い表せない複雑な心境であろう。 私も、もう一年あれば、きっと野村野球が楽天に根付き、結果が出たと思う。それでも、最初拒んでいた名誉監督を引き受けたのは、渋々ながらも、自分の中で踏ん切りを付けたということか。まぁ、踏ん切りを付けるしか、この状況で、選択肢は他になかったわけだが……そんな踏ん切りを付ける努力をしようとしていることが、本著からは痛いほど伝わってくる。来年度のペナントレースが終わったとき、野村監督には、もう一度、楽天イーグルスというチームについて、そして、楽天という球団について、さらに、今回の騒動について、冷静に振り返って、語って欲しい。
2009.12.30
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なかなかに、深ぁ~いお話しでした。 男性と女性とでは、感じるところがおそらく相当違うでしょう。 また、男性でも10代や20代の読者と、40代、50代の読者とでは、 感じるところ、思うところが全く別物になってしまうのでは? 30代の読者については、その人の現在のポジションと感性によるかな。 さらには、60代以上の読者なら、また違った世界が見えるのかもしれない。 そう、このお話に登場する「隊長さん」のように (隊長さん、このお話の中ではピカイチにカッコ良かった)。 それにしても、40代・50代の男性にとっては、ホント身につまされるお話し。そう、主人公・牧村に我が身、我が人生を思わず重ねてしまいそう。自尊心ばかりが高くて、周囲の人々や現実が全く見えていない姿や、過ぎ去った若き日々や女性との思い出に浸り、そこからの未来を妄想する情けなさに。それでも牧村さん、悪戦苦闘の悶々とした時間を過ごすうちに、それまで気付くことのできなかった大切なものを、自分のすぐ身近に見出すことに成功。さらには、新しい世界での仄かな希望も見えてきて、最後の最後には、ちょっとした復讐劇まで見事に果たしてしまう。そう、これは大人の男による『青い鳥』のお話し。現実を直視し、自分自身や身近な人々を見つめ直して、大切なものを見つけ出すお話し。まぁ私自身は、これまでに人生をやり直したいと思ったことは多分ないです。これまで築き上げてきたものや、人と人との関係を失うなんて、絶対に願い下げです。
2009.12.29
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アームストロング姉弟に師匠夫妻が加わって、遂にスロウスを撃破。 ホーエンハイムの方は、フラスコの中の小人と対峙。 53万6329人分の意志を持つエネルギー体が協力して、容れ物を壊したとき、 新たな姿をした敵が、ホーエンハイムの目の前に立ちはだかる。 そして、キング・ブラッドレイ復活。 立ち向かうバッカニア大尉、グリード、爺様。 爺様とバッカニア大尉の命懸けの攻撃を、返り討ちにしたブラッドレイに リンが怒りの一撃、この決着はどうなる?そしてそして、キング・ブラッドレイを作った男とキング・ブラッドレイになれなかった男達がウヨウヨと登場。その難敵が、エド、マスタング、ホークアイ、スカー達に襲いかかる。そして最後は……一体どうなったんだ!?それにしても、何だかなぁ……もっともっと、盛り上がっていいはずのところだと思うんだけど、どうして、こうゴチャゴチャして、読む者に不親切になってしまうかなぁ……まぁ、鋼練にあまり期待しすぎちゃダメということなんだろう。
2009.12.24
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先日テレ朝で放映されたドラマは、とってもよく出来ていた。 多少アレンジを加えながらも、原作をほぼ忠実に再現しきっていた。 『ハッピーバースデー』が物語の半分をカットしてしまったのとは大違い。 石原さん、北大路さん、永依ちゃんに津川さん、それぞれ良い味出してた。 それでもやっぱり、何といっても田中さんの演技が一際光ってた。 そして原作でも、私は佐伯知子の生き様に最も心打たれた。 その思いに気付けなかった椿山課長は、やっぱりダメ男・邪淫の罪。 それよりさらにダメダメダメなのは由紀と嶋田。ドラマでは由紀の行動についてフォローすべく、原作にないエピソードを付加している。しかし、フォローされてもなお、私としてはやっぱり無理、受け入れがたい。椿山課長の父のように、とてもじゃないが寛容になれない。嶋田の行動なんて絶対ありえないし、その事実を陽介に受け入れさせようなんてどうかしてる。エンディングは、原作とドラマでかなり違う。ドラマの方が、誰にでも受け入れられやすい形で締めくくられていると思う。いわゆる、ハッピーエンドで終わっているから。その点、原作は厳しい現実を受け入れることで、ちゃんとケリをつけている。それでも、キャッチボールをしながら、父が子に対して「俺を忘れろ」と心の中で叫ぶ場面は同じ。それって、やっぱり違うと思うけど、椿山はそれ位の覚悟しか持たぬ父親だったということか。そんな父親だったら、やっぱり忘れてしまったほうが、子どもにとっていいかもしれない。ただし、それは陽介が決めることで、椿山が善人ぶって言う筋合いのものではないと思う。
2009.12.23
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小説を解説から読み始めるという人も、本著は必ず本編を先に読んでほしい。 なぜなら、本著の解説はあまりにもこのお話しの全てを語り過ぎており、 本編を読みながら、読者が感じたり考えたりする楽しみを奪い去ってしまうから。 それぐらい森絵都さんの解説は素晴らしく、これ以上の解説は望めない。 さて、現在のお話しと過去のお話しが、交互に繰り返されるこのお話し。 村上さんの作品に慣れ親しんでいる私にとっては、目新しいものではないが、 それでも、読む者に全く混乱を感じさせないのは、さすがに角田さん。 そして、そこに共通して登場する葵の過去と現在の姿の書き分けが素晴らしい。裏表紙の紹介文に「友情と亀裂を描く」云々と、結構ネガティブな記述がなされているので、本当のところ、どんな鬱陶しい、読後感の悪さを残す結末になるのかと心配していたが、このお話を実際に読み終えたとき心に残るのは、全く逆方向のちょっと大人の爽快感。決して救いようのない結末にはなっていないので、安心して読み進めてほしい。ちなみに、このお話の登場人物は、ほとんど女性である。そこで綴られるお話しやそこに漂う空気・世界は、全くもって女性のものである。もちろん男性も登場はするが、その存在感は薄く、また男性目線の記述など存在しない。女性の女性による女性のためのお話しである。
2009.12.23
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「奇譚」とは、珍しい話、不思議な物語のこと。 村上さんのこの短編集には、東京を舞台とする5つのお話しが収められている。 村上さんの長編に慣れ親しんでいる私にとっては、短編はやはり軽めの印象。 しかし、その中にちょこっと加えられた不思議感が、絶妙なテイストを醸し出す。 「偶然の旅人」の冒頭部には、いきなり驚かされる。 なにしろ、著者である村上さんが、直々に読者に語りかけるているのだ。 そして、村上さんは自身のジャズクラブでの不思議な体験を少し紹介した後、 知人のピアノ調律師から聞いたエピソードを語り始める。続く「ハナレイ・ベイ」は、東京よりホノルルが舞台の中心になっている。ハナレイ湾で鮫に襲われて死んだサーファーを息子に持つ母親のお話。「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、ある女性からの依頼で、失踪した証券会社のトレーダーである夫を探す事になった男の話。「ハナレイ・ベイ」のサチや、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」の「私」は、まさに村上ワールドの住人であり、私には馴染み深く、親しみを感じる存在だ。それは、「日々移動する腎臓のかたちをした石」の淳平とキリエも同様。そして、この短編集の中で、私の一番のお気に入りは「品川猿」。「名前」をめぐるこのお話は、「喪失」という村上さん定番のテーマを扱いながら、『神の子どもたちはみな踊る』の「かえるくん、東京を救う」と似たファンタジックな世界を描いており、『不思議の国のアリス』好きな人にはお勧めだ。
2009.12.20
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今シーズンを振り返っての真弓采配には、江夏さんも岡田さんも手厳しい。 CS進出に向けての希望を、最後の最後まで繋いだとはいうものの、 結果的には勝率5割を切っての4位で、久しぶりのBクラス。 就任一年目の監督に、突っ込み所が満載なのはやむを得ないところである。 江夏さんの豪腕伝説は、今さらながらにその偉大さを思い知らされる。 そして、その江夏さんの投球論だけでなく、岡田さんの打撃論も興味深い。 さらに、この二人が仕えた監督たちとの日々を思い返しながらの、 理想の監督像についての対談部には、ちょっと危険な雰囲気が漂っている。 さて、岡田彰布という人が、これまでどのような人生を歩み、そこで何を考え、何を行い、今日に至ったかということが、本著では明かされている。中でも、大学進学までの経緯や、そこでどんな立場・役割を担っていたかについて、私はこれまで、こんなに詳細には知らなかった。しかし、改めて振り返ると、岡田さんは選手としても素晴らしい成績を残している。当時は、掛布さんやバースさんが一際目立っていたため、クリーンアップの一角を担いながらも、やや地味目な存在だったのだが、それでも、村山監督と中村監督のときに、開幕4番を2度経験している。そして、本著の中で一番の衝撃は、江夏さんが語るこの事実である。 昭和48年、残り2試合で1勝すれば優勝という時の話よ。 あの時、パリーグはプレーオフを導入していて、 報知新聞から私は観戦記の依頼をされていてね。 だから昼間は大阪球場でプレーオフを見て、それから名古屋に入ろうと思っていた。 すると、その前の晩に球団から電話があって、 プレーオフの試合前に西梅田の阪神電鉄本社に呼び出されたんだよ。 あと1勝したら優勝よ。 「ボーナスの話でもあるんかな。」と、喜び勇んで報知新聞の車に記者を乗せたまま、 本社に向かったのよ。 通された部屋のドアを開けたら 当時の長田睦夫球団代表と鈴木一男常務が難しい顔をして座っていてね。 「なんの話なんやろう」と思ったら、「勝ってくれるな」と言うのよ。 勝てば選手の年俸はアップするし、金がかかるからな。 優勝争いの2位が一番理想やったんやろうな。 長田代表は「これは金田正泰監督も了解しているから」と言うのよ。(p.90)この言葉を聞いた江夏さんは頭に血が上り、テーブルをひっくり返して、その場を立ち去ってしまう。そして、優勝のかかった残り2試合の阪神の戦いぶりはと言うと、最初の中日戦で、その年中日から8勝と抜群に相性の良かった上田次朗投手をはずし、中日戦・名古屋球場にあまり相性が良くなかった江夏さんを先発させて2対4で敗れる。さらに最終戦となった巨人戦では、上田投手が先発して打ち込まれ、0対9で完敗巨人がV9を達成したこの試合は、阪神ファンにとって忘れられない屈辱のゲームであり、人気野球マンガにも登場したシーンである。「なぜ、中日戦で上田投手が先発しなかったのか?」その疑問の答えは、実はこんなファンや選手をバカにした球団の陰謀だったのだ。あれからたくさんの月日が流れ、その間、阪神は3度だけ優勝した。6チームで均等に優勝できるとすれば、この倍は優勝しなくてはならないはず……。それでも、フロントは確実に変わり、お金をかけてでも選手を集め、勝とうとしている。もし、現在あのようなニュースが流れたら、阪神は球団を手放さざるを得なくなるだろう。
2009.12.20
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『オリの中の虎』に比べると、裏話的なものは少ない。 というか、ほぼ皆無である。 冒頭に記された古田さん自身のドラフト会議当日の様子が 一番生々しいノンフィクション・裏話で、これを超えるレベルのものは他にない。 それ以外は、一貫して古田さんの考え方、 すなわち「優柔決断」という思考法について述べられている。 最後は、脳科学者・茂木さんとの対談で締めくくられており、 全体として、静かで落ち着いたトーンの書物になっている。述べられている内容は、古田さんの「らしさ」が感じられるもの。「いかにも」「だろうな」と思えるものばかり。 古い情報などアテにならないのです。(中略) 古い成功体験はもはや要らない情報。 どんどん捨てて、代わりに新しい情報を入れる。 そうした更新作業をつねにやってきたのが、ほんとうのところなのです。(p.41)まぁ、野球だけでなく、相手のあることは何でもそうだろう。こちらの成功を見て、相手が対策を立てて変わっていくのは当たり前のことなのだから、こちらも相手をさらに上回るように変わっていくしかない。過去にばかり捕らわれていては、新しい成功を勝ち取ることなど決して出来ない。 迷うこと自体は悪くはないのですが、 大勢に影響がない決断を後回しにして時間をかけてしまうのだとしたら、 それはそもそも決断できないクセだと思うのです。(中略) たとえ正解にたどりついたとしても、 時間をかけたという事実自体が正解ではなかったということが 世の中多いような気がします。(p.52)これぞ「優柔不断」の最大の難点、問題点。「巧遅よりも拙速」と言われる所以である。 しかし、スポーツのような勝負ごともビジネスでもそうだと思いますが、 失敗しても必ず次がある。 それが明日なのか一週間後なのか、はたまた一年後なのかはわかりませんが、 必ず取り返せるチャンスがあるのです。 だから、決断を恐れないでほしい。(p.56)ここが「決断」の重要性を最も雄弁に語り、読者を勇気づけてくれる部分。古田さんのポリシー。 長所を磨くほうがいいと言う人もいますが、 長所はそもそも自分の好きなことですから、 意識せずとも取り組んでいることが多いのです。 苦手を克服しないと、やはり伸びしろはありません。(p.123)これは、野村監督と同じ方向性の言葉。岡田監督は『オリの中の虎』の中で、実例を挙げながら逆の主張をしている。 ぼくがもっとも大切にしているのは、あくまでも現有戦力で何ができるかということ。 「無い袖は振れない」ではないのですが、ないものねだりをしてもしょうがないのです。 現有戦力を客観的に把握し、分析して、その与えられた環境の中で勝つための もっとも有効な方法を考える。 この考え方が正しいとぼくは思っています。(p.133)これには、岡田監督も同じ考え方を示している。私も全く同感。
2009.12.06
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“ケリをつける”ことの難しさを、改めて思い知らされた。 もちろん、始まりがあれば、必ず終わりがある。 しかし、その幕の引き方は、実に様々。 今回の幕引きはどうだったか…… きっと色んな事情で、このお話しは幕を閉じることになったのだろう。 22巻が出版されるまでに、1年の時間を要した理由を私は知らない。 しかし、きっとそこに23巻で幕引きとなった原因があると私は感じている。 さらに、23巻の冒頭2話分の絵には「何かが違う」と感じずにはおれなかった。もちろん、お話しとしては、一応これで完結という体裁は保っている。しかしこの結末を、誰もが納得できるものとして受け入れることが出来ただろうか。長編最後のクライマックスを、十分堪能しながら最後のページを閉じることが出来ただろうか。あまりにもせっかちで唐突なエンディングと感じたのは、私だけではあるまい。23巻のお話しだけでも、もう少しじっくりと何巻かの紙幅を費やし、描き込んで欲しかった。そうすれば、読後の印象はかなり変わったものになったのではなかろうか。なぜなら、それだけの物語の内容が、23巻のお話しの中には確かに存在するからだ。だからこそ、このあっけないエンディングを、本当に勿体なく感じてしまう。
2009.12.03
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何かとんでもない状況になってきて、 いっぱいいっぱい、色んな人たちが後から後から登場して、 それがあんまりにも多すぎて、頭の中がグッチャグチャ……。 そして揃いも揃って、みんなとってもとってもスッゴ~イ人たちばっかり。 エース処刑の舞台・海軍本部には、久々の鷹の目・ミホークが登場。 もちろん、その他の王下七武会、ハンコックやくまさん、モリアらも勢揃い。 そして海軍の中には、青雉、黄猿、赤犬の大将たちに混じって、 懐かしのスモーカー&タシギの姿も。そこに至るまでには、真の友・ボンちゃんが一世一代の大芝居で大活躍。イワンコフやジンベエ&ジンベエザメたちも、能力全開で大奮戦。そして予想外にイイ働きを見せてくれたのがMr.3。一方、バギーはいつもながらの役回り、クロコダイルはまだまだ実力見せてない。そして、辿り着いた海軍本部では、エース出生の秘密が全世界に向けて告げられる。ウ~ン、これは色んな意味で予想外だった。そして、最後に真打ち・白ひげ登場!いよいよ一大決戦の幕開け!!ルフィー以外の麦わら海賊団は、何時ここに合流するのか?
2009.12.03
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