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副題は「死とその過程について」。 著者が、死に瀕している患者二百人以上にインタビューを重ね、 死に至る人間の心の動きを研究し、まとめた一冊。 扱っているテーマが重いだけに、読み手の心も自然と重くなる……。 インタビューに答えているのは、ほとんどが悪性腫瘍、 即ちガンと診断された、末期の患者である。 そして、米国で精神科医を務める著者が、患者にインタビューする時、 その側には、必ずと言っていいほど、病院牧師という存在がある。さらに、インタビューを受ける患者たちの口からは、必ずと言っていいほど「神」という言葉が出てくる。キリスト教圏における、キリスト教の存在の大きさを、強く感じずにはおれない。日本で、このような研究を行えば、全く趣の違うものが出来上がるだろう。 ***第一段階/否認と孤立第二段階/怒り第三段階/取り引き第四段階/抑鬱第五段階/受容死に瀕した患者は、このような段階を経て、死に至るという。中には、ある段階を経ずして、次の段階に至ったり、あるいは、ある段階と別の段階が、逆転してしまったり、もちろん、最後の段階に至る前に、死を迎えることもある。人が、自分にとって最も受け入れがたい現実が、自分の「死」である。それ故、この五段階は、その他の自分にとって受け入れがたい現実についても、かなり当てはまるのではないかと感じた。もちろん、患者の家族が、患者の死を受け入れるときにも当てはまる。 患者が怒りの段階を経るように、家族も同様の情緒的な反応を経験する。 彼らの怒りは、最初に診断して本当のことを言わなかった医師と、 悲しい現実を突きつけた医師に交互に向けられる。 また病院のスタッフにも怒りをぶつけ、 実際は行き届いた看護が行われていても、けっして十分ではないという。(中略) また、この反応には、 過去に患者のためにしようと思っていて機会を逃したことに対する罪悪感や、 それを埋め合わせたいという願望も含まれている。(p.278) ***死に瀕した人間に共通する、次のような感情は、受け入れがたい現実と向き合い、それをじっと耐え忍んでいる人間の、色々な場面に当てはまると感じた。 末期患者の話を聞いていて、私たちがいつも心を動かされるのは、 どんなに現実を認め、受け入れることのできる人でも、 新しい治療法や新薬の発見、あるいはJ氏の言葉を借りれば、 「ぎりぎりで間に合う研究プロジェクトの成功」などの可能性をあきらめていないことである。 こうした一筋の希望が、何日も、何週間も、 ときには何か月も続く苦痛の中で患者たちを支えている。 この苦しみには何らかの意味があるに違いない、 もうあと少し耐えることができれば最後にはきっと報われる、 彼らはそうした思いを支えにしているのだ。(p.233)こうして、「死」に関する本を読んでみても、私は、依然として、死ぬことがとても怖いし、実際に、それと向き合う状況になったら、自分がどうなってしまうか予想がつかない。もちろん、家族が、そういう状況に置かれたときにも。 私はこんな体になってここにいます。 社会に背を向けて生きることもできるし、また、泣いて暮らすこともできますが、 病状の許す限り、生活の中で面白いことや、 楽しいことを見出そうとしながら生きることだってできます。(中略) 飛び上がって叫び、わめきたてて壁に頭をぶつけたって、 それでかゆみが取れるわけでなし、惨めさも変わらないんです。(p.252)このような境地に至ることが、私に果たしてできるのだろうか。先日読んだ『甲子園への遺言』の高畠導宏さんのように、振る舞えるだろうか。 一般に、教育や教養、社会的束縛、職業的責任のあまりない人は、 物質的な豊かさ、楽しみ、対人関係などの面でより多くを失うことになる裕福な人に比べると、 この最終的な危機を直視するのがいくぶん楽なようだ。 苦労の多い人生やつらい仕事、重労働に耐えてきた人、 子どもを育て上げ、自分の仕事に満足している人は、 野心的にまわりの人々を支配し、物質的財産をため、 多くの社会的関係はあっても 人生の最後に必要となる有意義な対人関係はほとんどない人にくらべ、 尊厳のうちに穏やかな死を迎えるのが容易である。(中略) 信仰をもっている患者でも、もっていない患者でも、ほとんど違いがないようだ。(中略) 信念によって自らを支えきれるほどの人は、真の無神論者と同様、ほとんどいないのである。 患者の大部分はその中間で、何らかの信仰をもってはいるが、 心の葛藤や恐怖を軽減できるほどではないのだ。(p.432)私は、上記部分については、「本当かな?」と感じてしまった。それでも、キリスト教信者の信仰の力というものが、一般的には、その程度のものであったと知り、なぜだかよく分からないが、幾分ホッとした気分になった。 死は死にいたる過程が終わる瞬間いすぎない、と言ったのはモンテーニュではなかったか。 患者にとって死そのものは問題ではなく、 死を恐れるのは、 それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためであるということがわかった。(p.435)この部分についても、「本当にそうなのか?」と思った。私は、この世に存在しなくなってしまうということが、この世と繋がっていられなくなってしまうということが、今のところ、一番怖く、嫌なことなので。
2009.03.28
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「働く貧困層」とも言われる「ワーキングプア」。 働いているにもかかわらず、所得が生活保護受給水準以下となっている人たち。 このような生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1、 400万世帯とも、それ以上とも言われているから、かなりの数である。 1990年代以降、労働法制の自由化や規制緩和が進んだ上、長期不況が重なり、 終身雇用制等、従来の雇用システムは、大きく変容した。 結果、リストラで退職した者、大学や高校を卒業しても定職に就けなかった者が、 契約社員、派遣社員、アルバイト、パート等の非正規雇用で、多数働いている。 働いても働いても豊かになれない…、どんなに頑張っても報われない…。そんな人たちを、生活保護で救うべきか否か。10兆円を超える新たな支出をしていくのか、それとも、自己責任を徹底して、自助努力に任せるのか……。そして、次のような実態もある。 「生活保護でいくらもらってんのと聞かれて、『八万三○○○円』と言うと、 『うっそー、冗談じゃないよね。死んじゃうじゃん』と言われます。 でもね、家賃は別なんです。 自分は今六万九○○○円のところに住んでますから、額面で十五万、十六万近くになります。 それに医療費が無料だし、年金も免除になっていますから、 額面二○万のサラリーマンと同じくらいの経済効果なんですよね。 自分が何の保障もセーフネットもなく放り出されて、 それだけの仕事ができるかと言われれば、絶対にできないわけです。 贅沢は言えません」(p.160) ***本著を、読めば読むほど、考えれば考えるほど、どんどん問題が難しくなっていき、正直、自分としての結論が、なかなか出せなくなってしまった。特に、その判断の結論が、当事者本人の問題だけには決して留まらず、その子どもたちの生活・成長にまで、直接大きな影響を及ぼしてしまうところが難しい。 生活保護は最後の砦であり、安易に利用するものではない。 できる努力をせずに、すぐに生活保護に頼ろうとする人には、厳しい対応をせざるをえない。 市民の血税を扱い、全体の奉仕者であろうとする公務員という立場上、 多くのケースワーカーはこのように考えています。(p.104)すごく、もっともな考え方である。にもかかわらず、生活保護を担当するケースワーカーの立場は、たいへん苦しい。先の文は、次のように続いていく。 しかし、このような運用の姿勢を「法的に正しいかどうか」という視点で検討すれば、 新たな意味合いが出てきます。 先ほど事例としてあげた相談者が、「それでも私は生活保護を申請します」と言い、 調査が行われたらどのような結果になるでしょうか。 おそらく、ほとんどの方が、生活保護の利用を認められることになるでしょう。 ここに、生活保護に関わる支援者や法律家から「二重基準である」と言われる 生活保護行政の矛盾があります。 このような矛盾に悩まされるケースワーカーは多い。そんなケースワーカーの担当世帯数は、被保護世帯数が急増したために増加した。さらに、新規申請者数も増加したから、調査等の事務負担も増加。 その上、ケースワーカーを取り巻く、次のような現実。仕事とは言え、これでは、正直辛い……。 加えて、報道によって市民の生活保護行政に向けられる視線は厳しさを増しています。 近隣住民や親族からの苦情や陳情、 それらにまつわる職員への暴言や威嚇行為は日常茶飯事であり、 暴力行為を受けることもまれではありません。(中略) 本来であれば、ベテラン職員を多数配置しなければならない危機的状況といえるでしょう。 しかし、実体はそれを大きく裏切っています。 ケースワーカーの経験年数を見ると、初めて福祉事務所に配属になった 「経験年数一年未満の者」が約四分の一を占めています。 ケースワーカーを指導する立場にある査察指導員でも、 「ケースワーカーの経験がない者」が約四割となっています。 現場で前線に立つケースワーカーは、時に、専門的な助言や支援も得られず、 ほとんど経験もないまま孤立無援の状態で生活保護の現場に放り出されるのです。(中略) このような状況をよく知る市町村や都道府県の職員は、 「絶対に生活保護の仕事だけはしたくない」と思い、 仮に異動したとしても「一年でも早く異動したい」と希望を出すことになります。(中略) 支援者の空洞化が進み、生活保護に熱意を持って取り組む職員が去っていく一方で、 社会が求める生活保護への期待だけが膨らんでいるのです。(p.104)このような状況は、生活保護に携わる人たちだけのことではない。医療の現場、特に産婦人科や小児科においても顕著であるし、教育の現場をはじめとする、様々な場で、同様のことが起こっている。「自己中心的依存社会」の歪みが、いたる所で負の連鎖を生み出しているのだ。
2009.03.28
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「ゲーム脳」等、ゲームの負の面ばかりが強調されてきた社会に対し、 自身と息子との「ゲームを通じての触れ合い・成長」を示すことで、 「ゲームの持つ良さ」に光を当て、社会に知らしめようとする一冊。 著者は、ファミ通グループ代表の浜村さん。 森教授の「ゲーム脳」理論も、一時ほど、脚光を浴びることがなくなった。 逆に、DSやWiiが、この世に登場してからは、ゲーム機の使われ方が多様化し、 ゲームの持つ「功」の部分が、さかんに宣伝されるようになってきている。 DS等は、今や教育現場にまで持ちこまれ、広く世間に認められる存在となった。 ***ゲームを通じての、父と子の会話が、ほのぼのと心地よい。ゲームを通じて、こどもが経済観念を獲得していったり、ゲームをきっかけに、こどもが野球に興味を持つようになったりと、色んなものへの動機付けに、ゲームが一役買っている状況が、とてもいい。「ドラクエ」の中で、こどもの着実な成長ぶりに感動する父、「ファイファン」の中で、留まることを知らない親バカぶりを示す父、「モンハン」の中で、遂に訪れた父子の立場の逆転を、実は喜んでいる父。本著の中には、そんな父と子の心温まるドラマで、満ち溢れている。そんな中、私が最も記憶に残ったのが『打倒、お父さん!』(p.101~)。「スーパーマリオスタジアム ミラクルベースボール」で、父と子が対戦するのだが、ゲームの腕前を上げてきた息子に対し、何が何でも勝とうとする父・著者は、息子が知らない「スクイズ」や「ホームスチール」等を駆使し、得点を重ねていく。そんな中、息子が発した「心が折れそうだよ」という言葉に、先日のWBC中、イチローが発した言葉が重なってしまった。さらに、圧巻は「ノムライズムって勝ち方が汚いね」という息子の一言。これには、もう、何も言葉が出ませんでした。
2009.03.28
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老親介護の現実を、嫌と言うほど突きつけられる一冊。 著者自身は、二人姉弟の姉、そして、夫は男三人女一人兄妹の三男。 言葉はとっても悪いが、上手くいけば、 直接、老親介護に関わらなくても済むかもしれないという、ポジションである。 しかし、著者の場合、結婚話がもつれた弟が家を出て、絶縁状態となった後は、 9年の通い介護を経て、実の両親と同居、その面倒を一手に引き受けることに。 その後、母は脳内出血で倒れ、要介護4の寝たきり状態、 父はアルツハイマー病を患って、暴力等様々な問題を起こした後に、入院。一方、夫の実家でも、長男夫婦が、表面上は老親に対し上手く立ち振る舞いながらも、実際には、介護に関わる姿勢を全く見せず、末娘の妹が同居して面倒を見ている状況だった。しかし、姑が脳梗塞で倒れると、舅は愛人を家に連れ込み、実娘を家から追い出してしまう。両家揃って、同居や介護、遺産相続をめぐって、骨肉の争いが繰り広げられる。人は生きていれば、必ず老い、最後は、この世を旅立つ。ただし、その旅立ちへの助走は、人それぞれに違いがある。本著に示されたような想像を絶する状況は、そう多くあるものではなかろうが、こうなる可能性は、誰にも等しくあり、決して他人事ではない。 ***本著はもちろん、著者から見た現実を描いたものである。きっと、著者が知らない現実・事実・真実も、多々あるはずだ。この状況を、他の兄弟姉妹や配偶者からの視点で描けば、きっと、かなり趣の違うドラマが出来上がるのではなかろうか。私としては、著者の弟の妻が描いたドラマを、ぜひ読んでみたいと思った。
2009.03.27
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本著を読みながら、改めて、 自分は、この分野のお話しが好きなんだなぁと思った。 と言うのも、大学時代にお世話になった恩師の専門分野が、 まさに、本著のテーマである「大脳生理学」だったからだ。 当時、先生のもとに集ったメンバーで、自主的に行っていたゼミでは、 ルリアの原著を輪読するなど、結構、最先端のことがらを学んでいたはずだが、 それ以後の、この分野の発展は本当にめざましく、 今となっては、私たちが学んだことは、骨董品のレベルである。それでも、かつて慣れ親しんだ分野のお話しであるだけに、読んでいて、全く飽きることなく、その面白さに、どんどんのめり込んでいった。「ラジコン・ネズミ」のお話しや、「脳の解釈」についてのお話し、「アルツハイマー」や「脳科学と心」の問題等、興味が尽きることがなかった。お世話になった恩師は、十数年前に御逝去された。そして、葬儀の後、先生が住んでいた家の片付けを、お手伝いに行った際、かつて、先生が自主ゼミで使われていたルリアの原著を、書棚に見つけ、それを、私が、遺族の方から譲り受けることになった。もちろん、その一冊は、今でも、私の書棚に並んでいる。そして、それを見る度に、先生のことを思い出すのだ。
2009.03.22
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「あなたが『えらい』と思った人、 それがあなたの先生である」 これが本著における定義。 だから、先生は皆『えらい』ということになる。 そして、人間が誰かを『えらい』と思うのは、どういう場合か? これを明らかにしていこうというのが、本著のねらい。 「いい先生」が少ない上に、「先生運」がない、と思っている中高生たちに、 内田先生が、独自の理論を展開していきます。 *** まず、はじめにいちばん大切なことから。 「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。 昔からいませんでした。 「絶滅寸前種」どころか、はじめから存在しなかったのです。(中略) 同じように、「先生運」などというものも存在しません。 先生というのは、あちらからみなさんのところにやってくるものではありません。(中略) 先生はあなたが探し出すのです。自分で足を棒にして。目を皿にして。 先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。(p.13)内田先生が、本著で言っているところの「先生」とは、単なる職業としての、学校の「先生」ではないことが、これで分かります。もちろん、学校の「先生」が、自分にとっての「先生」になる場合もあるけれど、それは、偶然、誰かによって与えられた存在ではなく、自ら求め、獲得した存在なのです。 「学びの主体性」ということで私が言っているのは、 人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、 学ぶことを欲望するものしか学ぶことができないという自明の事実です。 当たり前ですよね。 どんなにえらい先生が教壇に立って、どれほど高尚な学説を説き聞かせても、 生徒が居眠りをしていては「学ぶ」という行為は成就しません。 日本の高校生の前でソクラテスがギリシャ語で哲学を語っても、 それこそ It's Greek to me(ちんぷんかんぷん)です。 学びには二人の参加者が必要です。送信するものと受信するものです。 そして、このドラマの主人公は、あくまでも「受信者」です。 先生の発信するメッセージを弟子が、 「教え」であると思い込んで受信してしまうというときに学びは成立します。(p.37)学ぶ側が「受け身」では、何事も始まらないということが、明確に示されています。このことからすれば、送信する側の「先生」という立場は、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ますことは出来ない」ということになるでしょう。もちろん、職業としての学校の「先生」ならば、「生徒」をその気させるのも仕事の内でしょうが。この後の、「沈黙交易」「話し合い」から「謎の先生」に至る展開は秀逸。そして、結論。 師弟関係というものを商取引の関係から類推してはなりません。 もし、先生というのは、なんらかの知識や技術を具体的なかたちで「所有」しており、 しかるべき対価の代償として、それを「クライアント」に伝授する職業人であると定義するとしたら、 そのような関係を「師弟関係」と呼ぶことはできません。 つまり、そこでは本当の意味で「学ぶ」ということは成立しないということです。 なぜなら、そのような関係において、習う側は、自分がどのような知識、 どのような技術を欠いているのかをあらかじめ知っているということが前提になるからです。(中略) ものを学ぶというのは定額の対価を投じれば 相当額の商品が出てくる自動販売機を利用することとは違います。 なぜなら、真の師弟関係において、 学ぶものは自分がその師から何を学ぶかを、 師事する以前には言うことができないからです。(p.167)消費社会に毒された人々に、会心の一撃を食らわす「教育論」でした。
2009.03.22
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作家・城山三郎さんが、妻の容子さんについて、 その出会いから、別れの日までの思い出を綴った作品。 出会いから結婚に至るまでのエピソードは、時代を考えると、かなり劇的。 そして、作家生活というものが、どのようなものかも、よく伝わってくる。 作品全体に、ほんわかとした空気が漂う。 それは、容子さんの闘病シーンにおいてですら。 いつ何時も、容子さんを心の拠り所としている城山さん。 そんな城山さんを、容子さんが、優しく、温かく包み込んでいる。優しさ・暖かさで満ちあふれた作品を、巻末の次女・紀子さんの文章が、一段と素晴らしいものへと高めてくれた。彼女が示した「両親・城山夫妻」の姿を知ることで、城山さんの文章が、さらに私たちの心に沁み入ってくる。
2009.03.22
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将来を大いに期待され、南海ホークスに入団したものの、 ケガのために、実力を十分発揮できず、若くして引退。 しかし、わずか28歳で打撃コーチになると、目を見張るような活躍を始め、 7つもの球団を渡り歩きながら、数々の名選手を育てあげた。 そんな伝説の打撃コーチ、高畠導宏さんが、 還暦を前にして、高校野球の世界へ。 プロ野球のコーチという激務をこなしながら、教員免許を取得し、 筑紫台高校・社会科教員として、甲子園を目指す。規定により、プロ野球の世界を離れても、2年間は、高校野球の指導は出来ないことになっている。高畠さんは、自ら、球児たちを直接指導する日を心待ちにしながら、教員生活を過ごす中、突然、癌で亡くなってしまう。自分の夢が叶うはずの時を迎える、まさに、その目前での死。その無念さは、どれほどのものであっただろう。それが、常人には、思いも及ばないほどのものであったろうことは、誰にでも、容易に想像できる。 ***「プロ野球」と「高校野球」。自分の人生において、どちらをより高位の目標として掲げ、目指すのかと問われたとき、野球というスポーツに携わり、かつ、自身の実力に自信がある者ならば、その答えは、自明のことだと、世間の人は考えるに違いない。もし、私自身が、高畠さんと同様の実力を天から与えられ、同様な状況に置かれたならば、間違いなく、「プロ野球」の世界で、人生を全うすることを選択するだろう。それだけの、確固たる地位を、高畠さんは、「プロ野球」の世界で、既に築き上げ、まだまだ、彼の存在を欲する人がおり、活躍の場や機会が、数多く残っていたのだから。にもかかわらず、高畠さんは「高校野球」の世界を選択した。彼にとっては、そちらを選択する方が、より困難さを伴うものであったのにも関わらずだ。そこまでして、彼は、「高校野球」の世界に、何を求めたのだろうか?それは、「プロ野球」の世界で、大事を成し遂げた者だけが辿り着ける境地なのか……。それ以上に、私たちの想像を超えるのが、その一念発起した時の、彼の年齢だ。一つの世界で大事を成し遂げた者が、50歳を超えて、全く異なる世界に飛び込もうとする。そして、高畠さんは、見事にそれに成功してしまう。プロ野球のコーチを務めながら、高校教師になる準備を進め、本当に教壇に立ったのだ。 ***何時、どんな状況でも、自分自身の夢を、追い求めることが出来る。そして、それは、何歳になっても、遅すぎるということはない。もし、高畠さんが、今も存命なら、教え子たちが、甲子園で優勝旗を手にする瞬間を、きっと目にすることが出来ただろう。
2009.03.22
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「名選手、名監督にあらず」 よく使われる言葉であり、定説(?)ですらあります。 しかしながら、もちろん、これを覆すような人物も存在するわけで、 NPBであれば、川上哲治氏や落合博満氏が、それに当たるんだとか。 それに比べ、「名選手、名コーチにあらず」なんて言葉は、聞きません。 コーチという仕事自体、監督に比べ、さほどスポットが当たらないためか、 「名コーチ」と呼ばれる人物すら、あまり思い浮かんできません。 この辺り、実際には、どんなものなんでしょうか?それでも、自分にとって「深く考えずとも、サクッと出来てしまうこと」を他の人が「随分苦労しながら、擦った揉んだしている」のを目の当たりにしたとき、そのことを、簡単に出来てしまう人であれば、簡単に出来てしまう人ほど、その現実に、大いに戸惑ってしまうだろうことは、大体予想がつきます。つまり、「何で、そんな簡単なことが出来ないの?」っていう感じ。だから、「できる人」であれば「できる人」であるほど、「なぜ、そんな簡単なことを、そんなに難しそうにしているのか?」と首を捻り、行き詰まっている人に対する支援を、上手にしてあげられないのではないかということです。まぁ、これくらいのことなら、誰にでも想像できるレベルのことですから、わざわざ、改めて本を一冊出すほどの問題では無かろうとも思ったのですが、本著を読んでみて、「なるほど!」と、目から鱗の部分がありました。それは、次の箇所です(ちなみに、「コンピテンシー」というのは、「発揮されている能力、その行動性」という意味です)。 こうしたコンピテンシーを「できない人」の育成につなげる場合、 「できる人」はどこが自分と違うかを認識させて、 「できる人」の行動を学び、真似ながら実践させようとします。 そして必要とあらば、熱心な企業は、 足りない知識や技能を補う教育プログラムを提供します。 しかし「できる人」のコンピテンシーは、 そう簡単に「できない人」には浸透していきません。 行動に焦点を当てたコンピテンシーの根底にある、 「行動に至る固有の動機」を考慮していないからです。 「できる人」が、なぜ生き生きとそれをするかという理由が無視されているのです。(p.35)この文に続く、次の節のタイトルが、私の胸にドッカ~ンと響きました。それは、「心の中の動機を伝授することはできない」というもの。これを見たとき、「なるほど……確かに、そうかもしれない」と、心底納得してしまったのです。つまり、行動の「型」や「ノウハウ」なら、伝授することが出来るけれども、その行動の根幹となる「動機」というような心情的な部分については、伝授しようにも、決して伝授しきれるようなものではないということ。それは、個々の人間の、それまでの人生経験や価値観をベースとしたものであり、その人の「人となり」に、完全に依存しきっている部分であるが故に、他人が、簡単に伝授するというような質のものではないと考えられるからです。本著を読んで、「できる人」を育てられる人になるためには、「型」や「ノウハウ」を、十分に伝える能力を身に付けると共に、相手の内面に深く踏み込んで、その心情を揺さぶり、行動の「動機づけ」までもが出来る人にならねばならないのだと知りました。
2009.03.07
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私は、これまでに、「裁判員制度」に関するDVDを2つ見ています。 一つは『裁判員制度 ~もしもあなたが選ばれたなら~』で、 もう一つは『裁判員~選ばれ,そして見えてきたもの~』。 いずれも60~70分程度の作品です。 前者の主演は、サラリーマン役の西村雅彦さん。らしさを存分に漂わせていました。 そして、裁判長役は中村 雅俊さん。期待通りのしぶさとカッコよさ。 裁判員制度についても、もちろんよく分かったけれど、 それ以上に、進路に絡む親子の葛藤シーンが強く印象に残る、良作でした。一方、後者の主演は、営業マン役の村上弘明さん。西村さんとはキャラが全く違います。そして、こちらのお話での裁判長は女性。演じているのは山口果林さん。被告人(松澤一之さん)とその妻(北原佐和子さん)、そして、営業マン(村上さん)とその妻(床島佳子さん)の、二組の夫婦愛が心に残りました。これらのDVDを観た上で、今回、本著を読んだため、分かりにくいところ・難しいところは、ほとんど無く、スラスラと読むことが出来ました。しかしながら、予備知識無しで、本著を読んだとしても、そんなに難しいところは無いのではないかと思います。もちろん、選任手続が行われた午後には、事件の審理が始まることや、補充裁判員となった人も、審理に立ち会ったり、評議に参加すること等、本著を読んで、改めて知ったことも多いです(DVDをしっかり観ていなかっただけ?)それに加え、具体的な日当や交通費についても、本著で知りました。さらに「有罪・無罪で意見が分かれた場合」や、「量刑で意見が分かれた場合」についての説明もたいへん丁寧で、新たな知識が増えました。ササッと「裁判員制度」を知るには、絶好の一冊だと思います。
2009.03.07
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やっぱり本物のくまさん、とっても強い! 麦わらの一味が、完全崩壊。 全員どこかへ、飛ばされちゃった……。 でも、くまさん、どうも訳ありの様子です。 そんでもって、ルフィーが飛ばされたのは、女人国。 その支配者が、王家七武海“海賊女帝”ボア・ハンコック。 長女の彼女は、絶世の美女。 しかし、鼻持ちならないイヤ~な性格。次女と三女も、姉と同様に、悪魔の実を口にした能力者(ただし、美女とは言えません)。この三人は、他人には、決して背中を見せない蛇姉妹。そんな長女の背中を、ルフィーは偶然に見てしまい、命を狙われることに。二女・三女を相手に戦って、最初は苦戦するものの、最後には実力を見せつけて圧倒。形勢逆転の切っ掛けは、ルフィーの放った「覇王色」の覇気。数百万人に一人しか身に付けられない、選ばれた者の覇気。そして、戦いの中で見せた、敵味方の区別無く、誰に対しても示される思いやりの心、さらに、戦いの後に見せた、敵味方の区別無く、誰のことも同じように大切にする心。そんなルフィーの姿に心を動かされた長女・蛇姫は、自分たち三姉妹の過去を語る。それは、天竜人への積年の恨み……。そして、ルフィーは、蛇姫と共に海軍の船に乗って、兄・火拳のエースの救出に向かう!!今巻は、描かれている場面が急転換、予想だにしない方向に飛んで行ったけれど、わずかなページの中で、スピーディーに展開したお話しでもあったにも関わらず、ギュッと凝縮された、中身の濃い内容に仕上がっており、とっても面白かった。それにしても、最終ページの蛇姫は、何とも言えず色っぽいですねぇ……。
2009.03.03
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『健全な肉体に狂気は宿る』を読んで、興味を持った春日さん。 今回は、内田教授との対談ではなく、お一人の手による一冊。 精神科医の方らしく、実例がたいへん豊富。 「こんな人もいるんだなぁ。」と、驚かされることの連続でした。 でも、思った以上に、読み進めるのには力を要しました。 これは、なぜでしょう? 文章が、特段カチカチに堅いわけでもなく、 用いられている言葉も、専門用語のオンパレードでは決してないのに……。これは、やはり、本著の中で語られている内容そのものに、理解がスムーズに進んでいかない、何か原因があるのでしょう。「自虐志向」でもなく、「破滅願望」でもない、何か……。理解しようとしても、理解しきれない部分があることに対する割り切れ無さでしょうか? *** 待つということは、自分の力だけでは律しきれない状況を甘んじて受け入れることである。 したがって、待ち続けることによって、 遅かれ早かれ人は不安や焦燥あるいは怒りに駆られていく。 不吉な創造や妄想が、次第に頭の中へと渦巻いていく。 精神的なタフさ(あるいは脳天気さ)が、待つことには要求される。(p.42)この部分は、説得力十分で、私の胸にドーンと響いてきました。これに続く文章もスゴイです。 漠然とながら運勢曲線みたいなことをイメージとして持っていたり、 あるいは人間万事塞翁が馬であるとか、 運命のバランス・シートはプラス・マイナスゼロを指向するといった発想を抱いていたりすると、 それがマイナス思考と結びついたとき、 我々は不幸や悲劇の到来を待ちつつ暮らしているといった考えに取り憑かれることがある。 (中略) 我々は死を待ちつつ日々を生きていると考えることも可能だし、 癌や卒中や痴呆や交通事故へ向けての順番待ちの列に立っているともいえるし、 破局や失敗や絶望を迎え入れるべく ロシアン・ルーレットを毎日試み続けていると見ることだって出来るのである。 「死を待ちつつ日々を生きている」というのは、昔から、私自身の中に強くある感覚です。これって、心気症(ヒポコンデリー)っていうこと?ひょっとして、他の人って、こんな風に感じることはあまり無いのですか?まぁ、昔から、ちょっと心配性の方かな、とは思ってましたが……。 わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、 それは人間にとって精神のアキレス腱は 所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である。(p.67)これも、納得。「こだわり」や「プライド」が全くなければ、困ったもんですが、過剰にあると、もっと困ったことになるのは、とってもよく分かります。特に「被害者意識」は。 放火に限らず、世間に迷惑をかけようとかけまいと、 とにかく彼らは自身の言動にはすべて責任を持たねばならないのである。 たとえトラウマがあっただとか劣悪な家庭環境で育っただとか言っても、 世間を大手を振って渡っていく以上は自分に責任を負わねばならない。 多少の変わり者であろうと変人であろうと、それがその人物そのものなのだから。 したがって、もし彼らが犯罪を犯して精神鑑定にかけられても、基本的には有罪である。 エキセントリックであることは自由だとしても、 だから何をしようと許されるわけではないのである。(p.171)これも全く同感。最近、本来責任を負わねばならない立場側からの主張が、過度に大事にされ、その流れに乗って、「こちらこそが被害者だ!」と、叫ぶ人たちが多すぎる。人権問題を扱うときのバランス感覚というものが、少しおかしくなっている気がします。
2009.03.01
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ショパン・コンクール第9日目。 会場には、ジャンに佐賀先生、そして、パン・ウェイの姿も。 レフは見事な演奏を披露。 ポーランドの新星誕生! そして、カイの演奏が始まる。 演奏を終えたばかりのレフも、客席に飛び込む。 ステージに掲げられたショパンを見つめるカイ。 そして、阿字野との出会い、本物のピアノとの出会いを振り返る。 よっ!ショパン。 やっとここまで来たぜ! ありがとなショパン。 俺にこの舞台を与えてくれて… はは… まるで月みたいだ演奏のスタートは、エチュード ハ長調 op10-1最初からすごいスピードと力感のあるタッチ。腕の疲労など全く感じさせず、そのままのペースで骨太の音楽を弾ききる。そして、間髪入れずに エチュードイ短調 op10-2。修平は、そこに森のピアノを感じる。続いて、ノクターン第3番ロ長調 op9-3。会場中の人々が、五感のすべてで、カイのピアノを感じようと集中している。曲間で、一瞬だけ会場の緊張を解くと、ワルツ第8番変イ長調 op64-3に。またしても、全神経をカイに向け、集中する会場。そして、ワルツ第7番嬰ハ短調 op64-2から、op64-1、思い出の『小犬のワルツ』へと突き進む。さらに、バラード第4番ヘ短調 op52では、聴衆を森へと誘う。そして、森のピアノ炎上……審査員の求めるショパンとは、全く違う解釈……、しかし……快演!!ラストのプレリュード12曲に突入するところで、今巻は終了。カイの実力を、嫌と言うほど見せつけてもらい、とても満足。そして遂に、一気読みで、既出刊をすべて読破!これからは、新刊が出るまで待つしかない……ところで、いつになったら出るんだ、第16巻!?
2009.03.01
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カイは、ジャンが紹介したヤンの店でバイトをしている。 1か月前、ヤンは飲み助で、生活も荒れ放題だった。 そんなヤンとヤンの店を、カイが変えていった。 そして、ジャンは、コンクール後も、カイを日本に戻さないと決めていた。 パン・ウェイの演奏が、頭から離れないカイ。 そこへ、冴ちゃんからのメール。 阿字野が、カイの手の故障を疑っているとの内容。 顔を見合わすカイとジャン。平田光生が、カイがバイトをしているヤンの店にやってくる。そこへ、阿字野がジャン=ジャック・セローと共に登場。カイとジャン・阿字野の関係を知った光生は、事実を隠していたと言って、カイに絶交を突きつける。その後、カイの手の故障疑惑が解消。何と、逆立ちで突き指していただけだった。光生も、アッサリと絶交を解消。カイと二人でコンクール第1次予選5日目の演奏を聴きに行く。最初は、ポーランドの人気ピアニスト、カロル・アダムスキ、続いて、雨宮修平の演奏。その演奏は素晴らしく、満場のスタンディング・オベーション。しかし、修平は、曲間に鍵盤を気にして、執拗に拭っていた。そのことを母親から指摘され、戸惑う修平。自分の中では、その事実に気付いていなかったのだった。さらに、トイレで執拗に手を洗っていることをアダムスキに指摘され、倒れる修平。アダムスキの機転で、修平は出場者控え室に運んでもらい、そこで、彼の打ち明け話を聞かされるが、その意味を素直に汲み取ることが出来ない。部屋を後にする修平を見つめるアダムスキ。 でも、深いのかもしれない 実力は確かにあるのに…… 心の闇は、ずっと深いのかもしれない
2009.03.01
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東京山手医大の整形外科に姿を現したカイ。 それを司馬先生に見られたことから、 周囲は、「カイの手に故障!?」と、心配を始める。 阿字野は冴ちゃんを尋ね、真相を探ろうとするが……。 続いて阿字野は、森の端で、レイちゃんに会う。 レイちゃんは、「コレを、カイがピンチのときにでも渡してあげて……」と、 阿字野に、クロスで包んだ、ある物を手渡す。 クロスを開けると、落雷で燃えてしまった森のピアノのカケラ・鍵盤があった。 そして、予備選が始まった。出場者は、さすがに実力者揃い。トップバッターとして、アクシデントを見事に乗り切ったソフィ・オルメッソン。阿字野のピアノを弾くパン・ウェイ。パン・ウェイは、今のところ、謎の多い存在。誰もが、その演奏に阿字野の音を聞き、衝撃を受けるが、雨宮洋一郎は、その違いを修平に指摘する。「阿字野のピアノは…もっと温かい」と。 あれは阿字野のピアノの音だけど… でもきっと、パン・ウェイのオリジナルだ。 阿字野のピアノは、泣くときはちゃんと泣くけど… パン・ウェイのピアノは決して泣かないワルシャワの森の中で、パン・ウェイの演奏を振り返るカイ。カイは、そのピアノに衝撃を受けながらも、違いにも気付いていた。そんな、カイのもとに現れたのがレフ・シマノフスキ。彼も、ショパン・コンクール予備選に出場するピアニストの一人だった。
2009.03.01
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JAPANソリストコンクールでソリスト賞に選ばれ、 M響とコンチェルトすることになったカイ。 最初の音合わせでは、オケと上手くかみ合わなかったが、 2度目には、何とか曲としてまとまる。 しかし、それを聴いたジャン=ジャック・セローは、 2度目の弾き直しは、カイがオケに合わせたことを指摘、 最初に弾いたピアノで弾いてみるように要求する。 「僕らを信じて、思い切りぶつかって来なさい」と。セローが指揮するM響を従え、ピアノを奏でるカイ。曲は、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」。演奏は、感動の大成功!!ちなみに、シュトレーゼマンの指揮で、千秋くんが弾いたのは2番の方。演奏会終了後、セロー来日の理由が、実は、阿字野がセローに、カイの演奏を聴かせるためだったことが分かる。セローの前で、ショパン『華麗なる大ポロネーズ』を弾くカイ。セローと阿字野は、カイを連れてショパン・コンクールへ行くことを決意する。ショパン・コンクールに出場するためには、二人の音楽家の推薦状が必要。カイは、その推薦状を阿字野に書いてもらうことに拘る。しかし、阿字野は、過去の経緯から、セローと自分の二人の推薦状では、ショパン・コンクールにケンカを売ってるように取られかねないと心配するが……。1年の時を経て、ショパン・コンクール10日前。予備選では、雨宮修平が見事な演奏。カイと会場で知り合った平田光生は、プレッシャーで沈没。その直後、これまでに一度も見たことのない状態のカイは、ミスタッチの連続……。1曲目終了後も、集中できないカイ。そのインターバルの最中、会場から「ゴホン、ゴホッ、ゴホッ」。その主は、雨宮修平。落ち着きを取り戻したカイは、立て直しに成功。 ボクはカイくんを打ち負かすためだけにここまで来たんだ 勝負の舞台に立つ前に消えるなんて、僕が許さない だから、さっきも、カイくんを助けようとしたわけじゃないんだ 無性に腹が立って… ふざけるな! 僕は、ここにいるぞ! …って示したくて、思わず咳をしたり、声を出したりしてしまったカイをライバル視し、自分を奮い立たせる修平。そんな修平に困惑顔のカイ。微妙なバランスの上に立つ二人。そんな二人は、予備選を通過し、いよいよ一次予選へ。
2009.03.01
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