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まず、驚いたのは、本の薄さ。 ネットで発注した際、内容については、一通りチェックしたのだが、 そのボリューム(頁数)は、あまりよく見ていなかった。 1200円+税の書籍なのに、何と95ページしかない……。 もちろん、本の価値は、頁数の多少では計れないが (ちなみに、本著の表紙は、かなりしっかりとした立派なもの)、 それにしても、ちょっと、ビックリしてしまった。 まぁ、自己啓発書の類は、こういうものが多いのは確かだが……。さて、内容はというと、「元祖・自己啓発書」として知られ、帯に「聖書に次いで一世紀以上ものあいだ 多くの人々に読まれつづけている」とあるように、「きっと、驚異的な超ロング・ベストセラーなのだろうな」と言うことが、伝わってくるもの。つまり、かなり時代が感じられ、多少古さを感じずにはおれない。それ故、自己啓発書を読んでいるというよりは、哲学書とか宗教書を読んでいるような感覚に陥ってしまった。ただし、そこに書かれている事柄が、古めかしいからといって、現代に通じるところが、少ないわけでは決してない。だからこそ、「なるほど」と、唸らされる部分があちこちにあり、今でも、多くの人たちに読まれ続けているのだ。ただし、言い回しが、現代の日常生活のものと、乖離しているのは確かであり、それは、書かれた時代の古さ故なのか、それとも、ひょっとすると、日本語に翻訳すること自体に原因があるのか……。だとすると、原文で読んでみると、結構面白いかも。それでも、日本語訳の本著にしても、繰り返し読んでこそ、味が出てきそうな予感はする。薄い本だからこそ、時を改めて、もう一度、読んでみようという気にもなる。やっぱり、哲学書や宗教書っぽいなぁ……。
2009.05.31
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セブン&アイ・ホールディングスの鈴木会長のお言葉集。 タイトルの『朝令暮改の発想』よりも、 サブタイトルの『仕事の壁を突破する95の直言』の方が、 本著に書かれている内容を、的確に表現している。 私も、鈴木さんの著作や記事、 あるいは、セブンイレブンについての記述は、結構読んできたので、 本著に記載されている内容も、見覚えのあるものが結構あるが、 こうやって、新たに読み返してみると、新たな発見も実に多かった。それでは、私の心に響いた「お言葉」の数々。 日本人は特に横並びの意識が強いためか、 同じ挑戦でも、相対的な比較のなかで他社より少し進んだ程度で挑戦したつもりになりがちです。 しかし、本当に必要な挑戦は、自分たちの目指す「あるべき姿」に向けて絶対を追求し、 絶え間なく踏み込んでいく挑戦であることを忘れてはなりません。 結果として、顧客の支持が得られれば、 他社に対して競争上の優位に立つことができる、という考え方こそが必要なのです。(p.45)「相対的」なものでなく、「絶対的」なものを追求する姿勢が大事。子どもの頃から「平均点」を気にし過ぎる、日本人のウィークポイントを、ズバリ突いています。 今の時代にわれわれが追求しなければならないのは、「顧客のために」ではなく、 常に「顧客の立場で」考えることです。 「顧客のために」と考えるのと、「顧客の立場」で考えるのとでは、 一見同じようでいて、大きな違いがあります。(p.58)これは、鈴木会長が、常々述べておられる言葉だが、何度接しても、この言葉には、常に気持ちを新たにさせられる。 まず、やらなければならないのは、 自分たちの本来の目的は何なのか、もう一度確認することです。 そして、その目的を実現するために何を目標として仕事をするのか、 数値目標を設定するならその数値はどんな意味を持つのかを明確にすることです。 意味の不明確な数値目標は、目標そのものが独り歩きを始めるおそれがあるからです。(p.79)得てして忘れてしまいがちな、「目的」と「目標」の違い。そして、「数値目標」の危うさを指摘したこの言葉も、深く重い。 一度や二度の説得で簡単に納得するくらいなら、相手も最初からさほど反対しないでしょう。 逆にいえば、相手が反対するということは、簡単に納得できない理由があるということです。 一、二度、説得してもうまくいかず、「無理だ」とあきらめる人は、 それを言い訳にして挑戦を避けているのではないでしょうか。(p.92)言われてみれば、ご尤もだが、なかなか実行は難しい……。数々の困難に挑戦し、突破してきた鈴木会長だからこそ、言い切ってしまえるお言葉。 そこで、すぐに売り場を変えて、衣料品売り場の前面に出したところ、 今度はまたたく間に数十枚が売れました。 価値のある商品でも、置き場が違うと価値の伝わり方がまったく異なり、 買われ方に差が出てしまうのです。(p.104)これは、「商品の売り方」ということだけでなく、ありとあらゆるものの「提示の仕方」について、同様のことが言えると思う。価値あるものこそ、その提示の仕方を、しっかりと考え、皆の目にとまるよう、皆に気付いてもらえるようにする必要がある。 一人ひとりの消費者の行動に目を向けると、矛盾した二つの顔が浮かび上がってきます。 一つは「自分を差別化したい心理」です。 横並びから脱して自分を際立たせようとする欲求です。 そして、もう一つは対照的に「人と同じでありたい心理」です。(中略) いまの消費は経済学ではなく、心理学で考えなければならない。(p.135)蓋し名言。しかし、これも「消費」という場面においてだけでなく、様々な場面において共通する、人間行動の「真理」であろう。 時間をかけると、人間は必要以上の仕事を始め、 ややもすると本末転倒した仕事が増えていきます。 そして、本末転倒であることに誰も気づかないまま、そのやり方が固定化してしまう。 仕事がどんどん増え、やがて仕事量が多くて大変だから 人を増やしてほしいと言い始めるのです。(p.177)この部分は、私にとって、本著から得た新しい見識であり、普段の仕事について、大いに考えさせられるものとなった。「何でも、時間をかければいいってもんじゃない」ということに気付かされた。まさに、目から鱗が落ちる思いである。 マニュアルは基本的には過去の事例に基づいているので、 マニュアルの方が変化に追いついていない可能性があるという点です。 そのマニュアルによって現場での仕事が固定化し、画一化してしまうと、 とても変化への対応などできません。 変化に対応するには、全員が自分の仕事の意味合いを理解し、 新しい事態に出合っても自分で判断して行動できるようにする必要があります。 また、自分の仕事が限定された範囲であっても、 全体の流れをしっかり把握して、 経営感覚のようなものを身に付ける必要があります。(p.202)これも新たな発見。マニュアルを常時更新し続け、その変更を全てに行き渡らせることの難しさを感じていたが、そのマニュアル自体の価値がについて、何故、今まで思い至らなかったのか……。鈴木会長の言葉は、組織を動かす際、とても大事なこと。まさに、「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」である。
2009.05.31
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プロローグに述べられているように、 本著は、第1章と、それ以後の章の趣が、かなり違う。 第1章は、医師国家試験に合格して2か月、まだ25歳だった著者が、 父の死で、急遽引き継ぐことになった大村共立病院の、一大改革記である。 この部分を読めば、著者の考えや、目指しているところはもちろん、 その人となりや、これまでの行動が概観できるようになっており、 その読後感は、ビジネス書を読んだ時に得られるものと同様である。 その印象は、精神科医と言うより、若き実業家といった感じか。第2章以降は、実例を元にした創作話によって、精神病棟で過ごしている少女たちの姿を描いている。しかし、そこでも、著者は「精神科医」としてだけでなく、「経営者」としての姿勢を、数多く示している。 少女たちは、「入院しているわたしはお客様よ!わかってるの!」と言ってはばからない。 たしかに、大切なお客様である。 しかし、客なら何をやってもいいということにはならない。 少なくとも、お客様にはお客様としての節度ある振る舞いが求められる。 目に余る振る舞いがあれば、当然、厳しく注意する 最近の若者たちは権利の主張を振りかざし、自由を口にするいっぽうで、 権利は常に義務を伴い、自由は責任を伴うことを十分に認識していない。(p.58)一方、次の記述などは、「精神科医」としての著者なればこその、ひじょうに分かりやすい表現である。 記憶の言語化とはすなわち、顕在化と同義であり、 肺炎をレントゲン写真に映し出すのと同じ意味を持つ。 精神疾患であれ、肺炎であれ、はっきりとわかるかたちになれば、 患者に病気を認識させることができるようになるし、立ち向かうべき敵も明示できる。 精神科医が患者に果たす役割のひとつは、 “こころのレントゲン撮影術”と言えるのかもしれない。(p.78)また、次の記述には、著者の並々ならぬプロ意識が感じられる。 彼女たちは、精神科医に絶対ぶれない不動の姿勢を求める。 仮に声を荒げて泣き喚こうとも、鼻を鳴らすように甘えても、 いつも変わらぬ不動の態度で接してくれることを望む。 彼女たちにとっては、そうした相手こそ信頼に値するのだろう。 いくら国家試験にパスした医師だとは言え、 彼女たちの個別試験に合格できなければ、精神科医は務まらないのである。(p.84)これは、精神科医や、他科の医師のみならず、人と接することを求められる職業に就く者は、皆、同じであろう。このような意識の強い著者だからこそであろうが、自分の経営する病院に勤めるスタッフのみならず、警察や児童相談所、学校等に勤務する者の姿勢・行動に対する記述は、かなり手厳しい。 リストカットを行うのは、たいてい女性である。 それも思春期の少女たちに多い。 彼女たちは、生身の身体から流れ出る血液を見つめ、 やっと生きていることを実感し、安堵する。 だが、顔のない人間が鏡で化粧の仕上がりをチェックするのと同じように、 やがて自分の目で確認するだけでは済まなくなる。 その傷を誰かに見せることで 「あなたも生きているのね」といった共感がほしくなる。(p.167)5行目の「顔のない」の部分は誤植であろうが(「顔の見えない」かな?)、リストカットについて、私に、新たな認識を与えてくれる記述であった。何故、わざわざ「傷」を、写メに撮って、他人に送りつけるのかと思っていたが、これで、スッキリ解決した。 自殺の理由は人によって異なるにせよ、健康不安や金銭苦など、 何らかの障壁が行く手を阻んでいる場合がほとんどだ。 その障壁を乗り越えられると感じるか、 それとも、不可能だとあきらめるかは、こころのコンディションにかかっている。 大切なのは、障壁の高さや大きさではない。 いま差し迫った問題に立ち向かうだけの十分な心構えと勇気が持てるかどうかである。 前途を阻む障壁は、こころのコンディションと相対的な関係にあるといっても言い。(p.185)これは、自殺に至った人だけでなく、その他の精神疾患に悩む人も同じではなかろうか。いや、誰にとっても、「生きていく」ということ自体が、そういうことの繰り返しだと、私は思った。
2009.05.31
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タイトルの通り、「認知症の基本」について、 分かりやすく、しかも丁寧に書いてある。 事例を豊富に挙げながら、認知症における中核症状と周辺症状について、 そして、アルツハイマー病と脳血管性認知症について、説明が為される。 さらに、認知症の治療について、薬物療法へとお話しは進んでいき、 最後は、認知症における「よくある質問」への答えが述べられる。 これらの記述の全てが、決して、専門的な深みに陥ることなく、 あくまでも、誰もが理解できるように、配慮されているのが嬉しい。そして、このような配慮が、全編に渡って行き届いているのは、「おわりに」に示された、著者の考えによるものであろう。 認知症であると医学的に診断されるだけでは、何も解決しません。 認知症で最も大切なことは、 診断後の上手な介護、適切な対応に代表される介護であり、福祉なのです。(中略) よりよい介護をめざすためには、まず、認知症という病態、 認知症を引き起こす各疾患の特徴を十分理解することが重要です。 すでに述べたように、認知症が脳の病気から生じているものであること、 認知症を引き起こす疾患のなかでアルツハイマー病と呼ばれる疾患が最も多いこと、 そしてアルツハイマー病の臨床的な特徴はどんなものなのか、 など認知症の基礎的な知識を、介護するご家族ならびに周囲の人々、 介護のスタッフが正しく理解することが求められています。(p.197)誰もが(特に老親をもつ者なら、なおさら)、何時、そのような状況になっても不思議はないからこそ、誰もが、その知識を持ち、正しく理解できるように、そして、上手な介護・適切な対応が行われるようにと、本著は書かれた。高齢化社会が進行する現在、誰もが、手にするべき一冊である。
2009.05.31
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思った以上に手強かった一冊。 新書レベルのものとは、完全に一線を画する内容の濃さに、 読み終えるには、予想を遙かに上回る時間が、かかってしまった。 しかし、本著からは、他書ではなかった、充実した読後感を得ることが出来た。 本著は、私が、これまで読んだ「うつ病」関連の本には見られなかった、 たいへん斬新なアプローチに、チャレンジしている。 それは、歴史を遡り、「うつ病」の起源を探ろうというもの。 それ故、序盤は、「進化生物学」や「ギリシャ悲劇」のお話しとなっている。その後、お話しは、「旧約聖書」「ローマ時代」「ルネサンス」へと進んでいく。中でも、「魔女狩り」の辺りのお話しは、とても興味深い。そして、あの有名なクレペリンが登場する頃になると、「あぁ、今風……らしくなってきたなぁ。」と、ある意味感動。ところが、それ以降のお話しは、とっても理系な、バリバリの「医学的」内容。前半部の、どちらかというと、社会科学的なアプローチから一転して、薬学や生化学の方向に、かなり専門的に、ドンドンと踏み込んでいくので、文系目線のまま、読み進めていると、恐らく、急ブレーキを踏むしかない。しかし、このギャップこそが、本著の特徴であり、筆者の懐の深さを、万人に知らしめるものである。「うつ病」というものに、興味・関心を持っている者なら、是非とも、一読しておくべき好著である。
2009.05.31
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『若者はなぜ3年で辞めるのか?』の 続編という位置づけのように思える本著のタイトルだが、 読んでみると、かなり趣の違う一冊に仕上がっている。 レールを降り、アウトサイダーとして生きている人たちの言葉集。 昭和的価値観に従わず、己の信じる道を生きていくことを選んだ22人。 そんな人たちに、著者が、仕事観や人生観についてインタビューしながら、 平成的価値観とは何かを、明らかにしていこうというが、本著のねらい。 そして、それは、ある程度、成功していると思われる。例えば、目次のページを眺めているだけでも、そのタイトルのつけ方の斬新さに、俄然興味がわいてくる。そこに並べられた「昭和的価値観」とされている事柄の数々は、確かに、少し前まで、当然のこととして、世間に受け入れられてきたことばかりだ。しかし、時代が変わり、社会の枠組みが変わり、そして、そこで働く人々の意識も変わりつつある。そんな変化の一端が、本著に登場する人たちの言葉の中に垣間見える。確かに、変わってきているのだと、実感せずにはいられない。レールの行き着くところは、昔に比べると、不明瞭そのもので、その道中は、まさにミステリー・ツアーを味わうがごとく、スリルに溢れるものになった。途中、どこかで、列車がトラブったり、レール自体が途切れてしまうかも知れない。そんな危なっかしいレールの上を走るぐらいなら、自力で、道無き道を突き進む方が、ずっとイイという考え方も、間違いではないだろう。本著でインタビューを受けている人たちは、フロンティア精神が、とっても旺盛な人たちばかりで、持っている力も、並外れたものがあったが故に、レールにとらわれず、わが道を行き、成功を収め、そして、現在の自分があるという人たちである。しかし、実際には、そんなふうに、道無き道を歩んでいくことは容易なことではない。レールから下りた途端に、木っ端微塵に砕け散り、再起不能なんてこともあるのである。そこら辺のことは、若者と言えども、よく考えてから行動すべきだろう。現時点では、やっぱり、まだ基本的には、『転職は1億円損をする 』ではなかろうか。
2009.05.25
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何も知らずに、偶然本著を手にし、読み進めることになったなら、 そこに書かれた内容の鮮烈さに、卒倒する人さえ出そうである。 しかし、何も知らずに、偶然本著を手にする人など、まず居るまい。 著者がどんな人物か、よくわかった人だけが手にし、読む本だと思う。 もちろん、私も、著者の名前は、よく知っていた。 報道によって、どんな考えの持ち主であるかも知っていた。 それ故、そこに書かれた内容が、どんなに超タカ派の主張であろうとも、 しっかりと構え、受け止めながら、読み進めることが出来た。ハッキリ言えることは、本著で書かれていることが真実なのか、それとも、日本の教科書に書かれていることが真実なのか、或いは、中国や韓国・北朝鮮等が主張していることが真実なのか、本当のところ、私には、絶対に分からないということである。もちろん、これは、戦後に生まれた私だけではなく、戦前・戦中に生まれた人でさえ、戦場や外交と、全く無縁の場所・環境で生きてきたのならば、その現場を目の当たりにすることなど、絶対に出来るはずもなく、それ故、本著に書かれている内容が、真実かどうかなど、分かるはずがないのである。要するに、真実だと思っていることは、誰かが言ってたとか、何かに書かれていたとか、こんな写真を見たとか、どこかで報道されていたとか、そういった数々の情報を寄せ集め、それらの情報をトータルして、自分なりに判断すると、これが真実なのではないかと思っている、というだけのものである。これは、本著に記述されているような事柄についてだけではなく、この世で起こっていることのうち、自分の目で確かめようのないことは、全てが、そういう程度のものなのである。だから、本著の記述が、真実で溢れているという可能性を、否定することはできないし、また、様々な外国の主張や、教科書にに書かれている内容、世間の多くの人が、真実だと思っていることが、実は、ほとんど嘘っぱちだという可能性だってあるのである。そうは言っても、真実は、必ずある。もちろん、その事実を、見る立場・状況が違えば、その見え方は変わり、真実の有り様も変わってくる。また、その事実を、見る視点・角度が違えば、その見え方は変わり、真実の有り様も変わってくる。自分の目で確かめることが出来ないから、真実など、分かるはずがないと言いながらも、それでもなお、「真実に近づきたい」「真実を知りたい」という気持ちを、人は、失うわけには、絶対にいかないのである。
2009.05.24
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本著を手にした多くの人が、 本著と『わたし、男子校出身です。』とを比べ、 また、その著者である、はるな愛さんと椿姫彩菜さんとを比べながら、 読み進めていったのではなかろうか。 そして、この二冊、それぞれに描かれた出来事を比べ、 それぞれの著者である二人の、これまでの人生の歩みを比べてみた時、 それぞれの家庭環境が、あまりにも違い、歩みにも隔たりがあることに気付き、 その違いの大きさ・隔たりに、ある意味、大いに驚かされたのではなかろうか。しかし、よく考えれば、本当は、それは、驚くべきことではないのかも知れない。人は生まれてくる時、どんな状況の家庭や、両親の元に生まれていくかを選べない。経済的に恵まれ、両親は夫婦円満、そんな親から待ち望まれて、誕生する子もいれば、経済的に不安定で、夫婦関係も今一つ、そんな予定はなかったのに生まれてくる子もいる。どちらが良くて、どちらが悪いとは、一概には言えないけれど、椿姫さんの生まれ育った家庭環境と、はるなさんの生まれ育った家庭環境とでは、大きな違いがあったことだけは、はっきりしている。その辺の違いは、現在の二人の、人としての有り様に、少なからず影響しているだろう。また、生まれ育った時代の、わずかなズレが、二人の成長に、結構大きな影響を及ぼしているのではなかろうか。生まれてくる時期、時代も、子どもは選ぶことが出来ないのである。そして、どんな心に、どんな体を持って生まれてくるかも、選ぶことは出来ない。二人には、女性の心を持ちながらも、男性の身体で生まれてきたという、大きな共通点がある。そして、その共通点から発する悩みや、周囲の無理解、生活における困難さについては、二人とも、これまでの人生の中で、同じように、辛い体験を積み重ねてきている。異なる環境の中で育ちながらも、共通する困難に立ち向かい、これまで生きてきた二人。その歩みや人となりには、かなりの違いがあるものの、二人が共通して味わった困難さの解消は、これからの社会の大きな課題の一つである。
2009.05.24
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ジェネラル・ルージュの凱旋(上)では、際立つ存在感を示した藤原看護師も、 白鳥さんが登場するやいなや、一瞬にして、その影が薄くなってしまった。 これまでのお話しにも増して、圧倒的なパワーを見せつける白鳥さんは、 エシックスもリスクマネジメントも、あっと言う間に、悉く粉砕! もちろん、田口先生も、よ~く頑張ったし、 速見先生も、なかなか切れ味鋭く、相手を圧倒。 大学病院の中のドロドロとした人間模様を背景とする神経戦は、 これまでのお話しとは、一味違う、面白さに満ち溢れていた。それでも、このお話の最大の見せ場は、桜宮バイパスでの多重事故による被害者が、大量に搬送されてくるシーン。主役は、もちろん、ジェネラル・ルージュ、速見先生。それは、まさに、伝説の再現。猫田師長も、ここでは、さすがの存在感を示し、大物の片鱗を見せつける。そして、ジェネラル・ルージュは、ハヤブサとのラストシーンでも、カッコ良すぎる!映画のキャストは、ジェネラルが堺雅人さんで、ハヤブサは羽田美智子さん。どちらも、結構、いい感じかな(羽田さんは、私の原作イメージからするとややソフト)。それにしても、猫田師長は、映画では、登場しないのか?そして、そして、姫宮さんは、誰が演じているのか?ストーリーは、原作とチョット違うらしいけれど、まさか、姫宮さんが登場しないなんてことは、ないんでしょ?しかしながら、田口先生が女性であり、演じてるのが竹内結子さんということからしても、やっぱり、原作と映画は、全くの別物。だとすれば、猫田師長が登場しなくても、姫宮さんが、たとえ端役だとしても、別に、驚くほどのことではないのかも知れません。
2009.05.24
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さすがに映画化されるだけのことはある。 と言うより、さすがに海堂さん、スゴイ!! 何がスゴイかというと、この『ジェネラル・ルージュの凱旋』のお話しが 『ナイチンゲールの沈黙』のお話しと、同時並行で進んでいたという設定。 もちろん、『ナイチンゲールの沈黙』を、全く読んでいなくても、 『ジェネラル・ルージュの凱旋』単品で、十分に楽しめるけれど、 『ナイチンゲールの沈黙』を読んでいれば、お馴染みのキャストが勢揃いなので、 それぞれのキャラもよく分かっており、面白さが倍増!そんな中、上巻での活躍が際立ったのが、ミス・ドミノ姫宮さん。処置室に搬送された少女の死体に、不審なものを感じたジェネラル・速見先生は、その死因解明のため、解剖を両親に要求するが、弁護士である父親は、それを強く拒絶。この閉塞状況を、姫宮さんが「エーアイ」を提案することで打開し、見事に虐待を見破る。そして、もう一人、活躍が際立ったのが、藤原看護師。速見先生の疑惑に対する、エシックス・コミティの沼田委員長との攻防で、苦戦を強いられるリスクマネジメント委員長・田口先生を的確な判断と行動で、協力にバックアップする姿は、大物ぶりを存分に感じさせてくれる。そして、いつも感じることだけど、やっぱり田口先生は、ややくたびれた風体のおじさんじゃないと、お話しが成立しない。特に今回は、速見先生との「男と男の友情」が、結構、お話しの肝になっているんだから。私は、まだ映画を観てないけれど、その辺は、どんな風に描いてるんだろう?とりあえず、今回も、上巻では、白鳥さんは、まだ登場していません。それでは、下巻の読書へと取りかかります。
2009.05.22
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今が旬の、話題の本を読んでみました。 と言っても、現在、普通の書店では、店先に並んでいません。 左の画像をクリックして「楽天ブックス」に行っても、「売り切れ」です。 ですから、今となっては、ネット等で古本を購入し、読むしかないわけです。 なぜ、話題になっているかは、「パクり“確定”『最後のパレード』」に詳しいです。 この本の存在自体は、私も、新聞広告を何度も目にし、よく知っていたのですが、 内容的には、あまり興味を持てる分野ではなかったので、放置していました。 ところが、その後、事件として報道され始めると、俄然、興味が急上昇。まず、読み始めて、すぐに感じたのは、これらの文章を書いたのは、一体、誰なのかということ。ディズニーランドへ来園した人たちからの手紙等を、まとめたものなのか、何かの企画で、投稿されたものをまとめたものなのか、それとも、元スタッフである筆者の経験や、そこでの伝聞を基にして書かれたものなのか……。そのことが、本著のどこにも明示されないままに、終わってしまっているということが、今回の騒動の、大きな原因になっていると思います。書かれている内容そのものが、本当にイイお話しで溢れているだけに、とても残念。意図的に、お話しの出元を伏せていたのなら、やっぱり盗作と言われても仕方ないでしょう。お話しの多くが、ネット上の掲示板等から転用されたものであったことについては、「著作権」という観点からも、大いに考えさせられました。掲示板で為されるやりとりというものは、その全てについて、著作権が認められるものなのか?そして、それに関する話題については、その発言の送信者や、掲示板の管理者、或いはプロバイダー等の許可を得なければ、第三者が、一つのネタとして、ネットや紙面において話題にすることが、認められないのか?まさか、そこまでのことを要求されるとは思わないので、要は、どの程度の範囲において転用しているのか、そして、転用したことを、きちんと明示しているか、さらに、それに、商業上の利益が絡むならば、どう利潤配分するのか、その辺りが、きっと問題になってくるのでしょう。ネットという大海の中に散りばめられていた「イイお話し」を、丁寧にすくい上げ、それを、一つの書籍という形にまとめ、広く世間に示すということ自体は、ある意味、たいへん価値あることだとも思えます。しかも、各話題には、元スタッフとしての立場から、ちゃんと言葉を添えているのですから。要は、著作権がうるさくなってきた、このご時世に、本著を作るに当たって、自らとった手法を明示せず、ネタの出元も公開しなかったことが、筆者としては、予想外の、後悔しても、後悔しきれぬ事態へと繋がっていったのです。もちろん、このような状況では、著者が、「倫理観に欠ける」、つまり「盗作」と言われても、仕方がないでしょう。
2009.05.17
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話題の勝間さんの本を、初めて読んでみた。 そして、話題になり、売れているだけのことはあると感じた。 もちろん、一般的でないと思われるようなカタカナ語が所々に登場し、 「こんな言葉、知ってて当然でしょ!」という圧迫感も感じずにはおれないが……。 『断る力』というタイトルからは、 「どうやって上手く断るか?」という、安直な啓発本を連想しがちだが、 本著は、決してそういう「ハウ・ツー」本ではない。 これから、ビジネスに立ち向かう時の、あるべき姿勢を説いた著作である。それは、自分というものについて、しっかりとした「行動の軸」を持ち、他人による、余分な干渉の力で、その軸がぶれてしまわないよう、余分なものは、出来るだけ削ぎ落とすべく「断り」、スリム化していこう。そして、自分にとって必要なところに、大いにエネルギーを注ぎ込もう、ということ。 ***さて、本著の中で、私が、特に興味を持ったのは次の部分。 私の住んでいる地区では子どもの学校が選択制で、 自分の割りあてられている学区とその隣まで選ぶことが出来ます。 その時に親同士の合い言葉になっているのは 「1学年1クラスの小学校は避けよう」ということです。 少子化で、いくつかの学校は1クラスの学校も増えているのですが、 1クラスの中で何かトラブルがあると、そこから親が救うことは、 ずっとついていることができないのですから、不可能だからです。(p.76)「学校選択制」と「学校の統廃合」という二つの問題について、注目すべき記述です。 「ネットの掲示板は一般的に、 ◎見ているだけの人=85パーセント ◎悪意を持った人=5パーセント ◎サポーター=2パーセント ◎愉快犯=8パーセント がいるとき、 悪意による増殖が最も活発になる」という分析があることです。 すなわち、わずか5パーセントの人が悪意をもっただけで、 ものすごく活発な批判掲示板が出来てしまうということです。 そして、これはクチコミでも同じです。(p.114) この5%のいう数字は、その裏付けがどの程度のものであるかは、その前後の文面からだけでは、判明しなかったが、私自身は、結構、様々な場面において、この数字に信憑性があることを体験してきた。本当に「5%の力、恐るべし!」なのである。 大事なことは、すべての問題を解決する必要はないという割り切りです。すなわち、 ・嫌われることはあるという割り切り ・嫌った人の一定割合は批判者にまわるという割り切り ・批判者の一定割合の悪意はこちらに直接まわってくるという割り切り を行い、それでも、NPSを計測して、割り切りを思い切って行っていくのです。 断る力、とはすなわち、割り切る力でもあります。(p.122)続いて、次も「嫌われる」ことについての記述。 Q:「自分を嫌う相手」を、いついかなる場面においても、徹底的に押しやり、 退治するというリスクを負うべきでしょうか。(中略) A:むやみに反応せず、時間と距離を置いて、 相手が飽きるまで待つことを第一の戦略とする。(p.154)話題の人となり、それが故に、叩かれる場面も少なくない勝間さん。そんな人による記述だけに、なかなかの説得力! すなわち、努力については、以下の2点に集約されます。 ◎自分がそういった時間を配分してもいないのに、 他人が得意なことをうらやましがってもしようがない。 ◎どの分野が得意か不得意かというのは、 自分のこれまでの時間配分の結果である。(p.174)これは、大いに納得した部分。特に一つ目の◎部分については、自らを大いに反省せねば……。 そうすると、人間は必ず自分の客観的評価を見失います。ある意味、バカになります。 そして、自分に対する絶対的かつ盲目的な過信が始まり、 しかもそれが無意識に起こるものですから、 「自分はなんて優れているのだろう」 「優れている自分のことが分からないのは、相手がバカだからだ」 と考えてしまい、そのように行動してしまいます。(p.198)この後に、例として、若手実業家やタレントの等のことが述べられているが、いざ、そういう立場になってしまうと、どんな人でも、そんな風になってしまう確率が高いようだ。普段から、大いに自戒すべきことであろう。 「断る力」というのはある意味、 自分の限界を知り、自分の足りないところを認めた上で、 相手からよりよいところを学びあい、自分のよいところを活用いてもらい、 お互いに専門分野を築き上げ、その統合力として固めていくわけです。 心から感じるのは、自分たちの限界を知るからこそ、◎お互いに学び合っていく という考え方、謙虚さ、姿勢が生まれ、それが人間関係において、 「好循環」が生まれると確信しています。(p.173) あまりにも早々に、自分の力に見切りを付けてしまうのは問題だし、かと言って、どこまでも自信過剰であり続けるのも、大いに問題だ。現時点における「自分の力」を、しっかりと把握した上で、足らないところを、どのような方法で補っていくのを決定し、そこから先へと歩を進める。その方法は、「自分の力を伸ばす」ということもあるだろうし、「他人の力を借りる」ということもあるだろう。勝間さんは、後者の方法を推奨されているわけであり、それだからこそ、コモディティ(汎用品)でなく、「スペシャリティ」を目指せと言うわけである。この助言は、アラサーの女性OLたちにとっては、たいへん的確なものと感じる。しかし、それより若い年代の人たち、ましてや、未成年者への助言としては、伸びる力を、早まって、制限してしまう可能性もあり、考えものとなってしまう。もちろん、勝間さんは、そのような若年層に、そして、未就労のティーンエージャーに向けて、この本を書いたわけでは、決してないのだが。
2009.05.17
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何かの本の中で、この作品の存在を知り、 「いつか読まねば」と思っていたのだが、今回、やっと読むことが出来た。 巻末の「解説」最終ページが、p.531という、ズッシリくるボリューム感。 そして、中身はと言うと、その見た目をさらに上回る、とっても深淵なもの。 期待していた以上の、たいへん素晴らしい作品で、本当に感激! 今年に入って読んだ著作の中で、現時点では、文句なしのNo.1。 どの本で見かけ、本著を読もうと思ったのか、どうしても思い出せないのだが、 その本の著者には、心から感謝したい気持ちでいっぱいだ。 *** 弘世志摩 シーマ、シーマチカ 東京在住の42歳の離婚子持ち女性。少女時代の1960~64年、チェコスロバキアに在住、 プラハのソビエト大使館付属8年制普通学校へ通う。帰国後、ダンサーになる夢破れて、 今はロシア語の翻訳をしながら食いつないでいる。 ソ連邦が崩壊した翌年の92年秋、 長年胸に秘めてきたオリガとエレオノーラの謎を解くためロシアを訪れる。これが、冒頭の「主な登場人物」における、主人公の紹介。文中の「オリガ」が、本著タイトルの「オリガ・モリソヴナ」であり、志摩をダンサーの道へと歩ませる切っ掛けとなった、名物舞踏教師。「エレオノーラ」は、オリガと仲がいいフランス語教師。30数年後、志摩は、オリガがどのような人物であったのかを、調査中。その中で、ナターシャというダンサーやマリヤという劇場の衣装係等と出会い、さらには、かつて同級生であったカーチャとも再会して、協力を得る。そして、遂には、オリガやエレオノーラを「ママ」と呼んでいたジーナに会うことに成功。ここに至って、オリガの半生が、ほぼ明らかになるのだが、それまでの展開が、まさに、ミステリー小説。読み始めると、ページを捲る手を、なかなか止めることが出来ず、睡眠不足に陥りながらも、かなりの短期間で読破することが出来た。さらに、舞台として描かれるスターリン時代の景色や出来事は、現在の日本に過ごす者にとっては、隔世の感がある。もちろん、日本においても、60年代には、その影が感じられる部分も多々あったはずだが、それにしても、やはり、ソ連は「別世界」であったかと感慨深い。途中、日本に帰国してきた志摩が、日本の学校や、そこで生活する級友たちの有り様に、大いに違和感を感じる部分が出てくるが、この辺りは、現在の帰国子女が、日本に戻ってきた際に抱く印象と大差がないのかも知れない。さすがに、ブルマは根絶されたが、学校という場に求められるものは、あまり変化していないようだ。
2009.05.17
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本屋さんの書棚に並んだ、たくさんの本の中で、 ちょっと気になるタイトルの新書を見つけたので、手に取り、 目次をチラッと見て、「面白そう!」と感じて購入しました。 果たして、女性の心理というものに、どんな分析を展開してくれるのか。 しかし、読み始めてみると、何か違和感…… 何かが違う……何だろう…… そして、著者を確認すると、週刊文春編集部[編]。 なるほど、外面は「新書」だけど、中身は「週刊誌」ということですね!ですから、この本には、決して、新書を読む心持ちで、相対してはいけないのです。あくまでも週刊誌、しかも、芸能欄や社会欄で扱われる内容ですから、そのつもりで読まないと。でないと、開始早々、書くことに対する責任感の希薄さや、その内容の深みの無さに、私のように、違和感の塊となって、ガッチガチにフリーズしてしまいます。しかしながら、「これは週刊誌だ」ということを、ちゃんと理解してから読みさえすれば、そこに書かれていることは、誰もが、身に覚えがあったり、すぐ身の回りで起こっていそうな、日常茶飯事の出来事ばかりなので、当然興味深く、所々で顔を覗かす、「チョットそれは……」というような気になる部分も、軽~く受け流しながら、読み進めることが出来るのではないでしょうか。 教師1000人の声を突き詰めれば、サイテーな親の共通点は、 「自分の子供の言い分だけを信じて、教師の言い分は全く信じない」(東京・塾)につきる。 (中略) 我が子に接する態度では、「教師にタメ口、子供に敬語」(大阪・公立小) (中略) 「子供が『ママと一緒じゃないと学校に行かない』と言ったので、 お母さんにも一緒に教室で過ごしてもらうことにした。 そのお母さんは授業中に、缶コーヒーを飲みながら漫画本を読み始めた」(広島・公立小) (p.216) その他にも、「女と女」「県民と県民」「上司と部下」「客と店員」等々、色んな場所で繰り広げられる、様々な立場における対立・人間模様。それを読んで、共感する部分と、反感を感じる部分とは、人それぞれに違うことでしょう。そんな、日々展開される、様々な対立・葛藤の場面において、自分の立ち位置は、一体どの辺りにあるのかを確認するためには、本著は、絶好の一冊と言えるのかも知れません。
2009.05.17
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「速読」とは対極の「スロー・リーディング」を推奨した本。 しかも、著者は、あの平野啓一郎さん。 (と言いながら、私は、彼の作品を一遍も読んだことがない……) 最近、読書ペースが少々上がり過ぎの私に、ブレーキをかける一冊となるか? まず、速読に関する記述については、 「やっぱり、そうだよなぁ」と大いに納得させられた。 文字でなく画像として捉える ~ そんな神業的読書が本当に可能なものかと 大いに疑念を抱いていた私に、明快な回答を与えてくれた。また、国語のテストの受け方についても、大いに納得。 国語のテストをスロー・リーディングするとするなら、作者とは誰だろうか? 先の例で言えば、決して本文の作者である小林秀雄ではない。 当然のことだが、問題制作者である。 学校の国語の教師、予備校の模試制作者、大学の入試制作者などである。 そこで、あるときから私は、本文と設問とを一続きの文章として読むことにした。 本文として小林秀雄の文章があり、 それを読解することが、設問を通じて求められているというのではなく、 問題制作者が、小林秀雄を引用しながら彼の主張をしている、と発想を転換したのである。 これに気がついてから、私の国語のテストの成績は、瞬く間に上昇した。(p.30)これは、大いなる真理である。さらに続く文章も、まさにこの世の全てに通じている。 こうしてまず第一に、相手の主張を正確に理解するクセをつけておけば、 社会に出て議論しなければならない状況に置かれても、冷静に対処が出来るからである。 まずは、どんなにおかしな主張だと思っても、 じっと我慢して、相手の発言をスロー・リーディングする。 そして、自分に発言の機会がめぐってきたならば、 反論する前に、まずは -テストで培った能力を生かし(!)- 「つまり、こういうことですね」と、相手の主張を丁寧に要約し、 余裕があるならば、その不完全なところまで補ってやる。 その際に、「今のは非常に重要なご指摘です」などと、一言付け加えておけば角も立たない。 (中略) そうすれば、単なる粗野な、闇雲な反論者というのではなく、相手にも、また傍目にも、 本当の意味で聡明な人として尊敬を集めることであろう(p.32)このような姿勢は、「速読」からは、決して生まれてこない。ここまで読み進めただけで、私は、著者の世界に、すっかり引きこまれてしまった。ただし、その後に示された、スロー・リーディングのテクニックについては、国語の授業で学ぶ「基本的な文章の読み方」に過ぎないかな、とも思ったが。それに比べると、第3章の「古今のテクストを読む」は実践編であり、たいへん面白かった。漱石も鴎外も、そして三島も面白かったが、私が特に興味を持ったのはカフカである。それは、私にとって未知の分野であり、「?」の世界だったから。著者は、そんな私を、見事に「カフカの世界」へと導いてくれた。今度、カフカを読んでみよう。
2009.05.09
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読み終えて、『満足できない女たち』というタイトルが、 本著の中身を、全く過不足なく言い表していることに感嘆。 そして、副題の「アラフォーは何を求めているのか」についても、 これ以外のネーミングはあり得ぬほど適切。 最近の書籍は、とにかく売らんがために、センセーショナルなタイトルを付し、 内容の一部だけを、ことさら誇張・宣伝しているものを多く見かけるだけに、 このような「看板に偽りなし」のものに出会えた時には、 そえだけで、嬉しくなってしまう。現在、「アラフォー」の女性が、たいへん注目されている。ドラマ『Around40~注文の多いオンナたち~』を、私は全く見ていないが、このドラマで主演した天海祐希さんは、「アラフォー」が、2008年の流行語大賞を獲得したときに、受賞者となった。また、先日、オリコンが発表した「イイ男、イイ女ランキング」でも、天海さんは、女性が選ぶイイ女で、堂々の1位に選ばれ、さらに、2位には、同じく宝塚歌劇団出身の真矢みきさんが輝いた。また、真矢さんは、バレエダンサー西島さんと4月に挙式をあげる等、話題に事欠かない。そんなアラフォー世代女性が、これまでどういう時代の中で生きてきたのかを解き明かし、その時代の巡り合わせの中で、彼女たちが、何を考え、どう行動してきたかを、自身がアラフォー世代である女性ライターの筆者が、シングル、主婦、キャリア等、様々な立場の女性に取材を重ねる中で、明らかしようとする。そこには、それまでの世代の女性が持ち得なかったような、仕事や恋愛、結婚、出産、さらにはエイジングや親の介護等に対する感情が垣間見られる。仕事に自分の存在価値を求めながら、年下の男性との結婚を成し遂げるアラフォー女性。出産だって、まだまだOKだけど、それでも迫り来るミッドライフクライシス。そして、結論は、タイトル通り『満足できない女たち』。あれも、これも、どれも、それも手に入れたがる女たち。彼女たち以前の世代の女性たちが強いられた「妥協」や「諦念」「足を知る」という言葉は、過去の遺物であるとでも言わんばかりに、どこまで行っても「自分探し」が止まらない。
2009.05.09
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今、こうやってブログを書いている時にも、 リビングのTVでは、映画の宣伝CMが流れています。 本当に、もの凄い頻度で、怒濤の如くガンガンと。 今夜の「世界・不思議発見!」でも、採り上げられるとか。 さて、ハードカバー版 『天使と悪魔』(上)は、343ページ、 そして、この下巻は、「訳者あとがき」まで入れて349ページありましたが、 途中で、飽きることが全くなしに、一気に読み終えてしまいました。 中弛みする部分が皆無というのは、本当にスゴイの一語。これを、300円余の投資で、読めてしまったのは、本当に申し訳ない気分。でも、これだけ映画を宣伝しまくっているから、現在、古本屋さんでの入手は最早困難か?そう言う意味で、私はとってもラッキーだった?さて、映画の方は、何時、どういう形で見ようかな~(できれば劇場で見たい!)。ただし、これから、本屋さんで、文庫版を、ちゃんと定価で購入しようとしている方も、実は、ちょっぴり羨ましい。なぜなら、そちらの方には、舞台となった教会等の写真が、カラーで掲載されていますから。これを見ながら、お話を読む方が、やっぱりリアリティがあって良いなぁ……。さて、黒幕については、私の中での「第二候補」がビンゴでした。「第一候補」と「第二候補」が、最後の最後で、大どんでん返しとなったわけですが、まぁ、ある程度、想定内の決着で、落ち着いたというところでしょうか。ところで、この後、ラングドンさんとヴィットリアさん、どうなったのかなぁ?そして、そして、ラングドン・シリーズ第三弾『The Lost Symbol(原題)』は、今年の9月15日に、北米で出版される予定だとか。これを、日本語訳で読めるのは、いつ頃になるのでしょうか?そして、これも、また何年か後に、映画化されるのかな?
2009.05.09
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映画封切りを目前に控え、最近、TVでは盛んにCMが流れています。 私はと言えば、『ダ・ヴィンチコード』を、三年前、文庫本を夢中で読んだ後、 きっちり映画鑑賞したほどの人なので、今回も見過ごすわけにはいきません。 古本屋さんで、ハードカバー版を上下二巻300円余で購入し、読書開始! しかし、さすがにダン・ブラウンさん、スタート早々、とっても面白いです。 テンポ良く、グイグイと、読者をお話しの中に引きずり込んでいきます。 こんな作品が、『ダ・ヴィンチ・コード』より前に書かれていたとは……。 いや、ひょっとして、『ダ・ヴィンチ・コード』より面白いかも!ラングドンさんは、このお話しが、シリーズ第1弾ということで、冒頭で、その人となりが、『ダ・ヴィンチ・コード』よりも丁寧に紹介されています。なるほど、彼は、かなりの水球選手だったんですね。単なる45歳の宗教象徴学教授じゃなく、肉体派の人物でもあったわけです。そして、このお話での女性パートナーは、ヴィットリアさん。セルン(欧州原子核研究機構)という世界最大研究機関の科学者です。その父が、レオナルド・ヴェトラさんで、父娘で「反物質」の生成に成功しています。これは、たった1グラムで、20キロトンの核爆弾に相当するエネルギーをもつ物質であり、空気と接触するだけで、発火してしまうという、結構物騒な代物。そして、レオナルドさんは、お話しの開始早々、殺されてしまいます。胸に「イルミナティ」という、焼き印を付けられて。ラングドンさんは、彼の死体の写真を送りつけれられ、事件に引きずりこまれることに。この写真を送りつけたのが、セルン所長・コーラーで、どうにも怪しげな人物です。さて、ともかくも、「イルミナティ」という焼き印(これは伝説の秘密結社の紋章)で、研究心に、猛烈な炎が燃えさかってしまったラングドンさんは、「反物質」盗難事件に関わるはめになり、ヴィットリアさんと共にバチカンへ急行。そこでは、次期教皇を選出する「コンクラーベ」が、行われようとしていました。ところが、次期教皇有力候補の四人の枢機卿が、行方不明になってしまいます。この事件にも、実は、秘密結社「イルミナティ」が関与しており、四人の枢機卿を一時間に一人ずつ、公共の場で焼き印を押し、殺していくというのです。四人の枢機卿はどこで殺されようとしているのか、そして反物質は何処に?ラングトンさんは、ガリレオ・ガリレイの残した手紙から「秘密の場所」、即ち、四つの紋章に関わる犯行現場を探し当て、犯人に迫ろうとします。この辺りの展開は、『ダ・ヴィンチ・コード』と同じですが、『天使と悪魔』の場面展開は、まるで映画を見ているかのように絶妙で、スピード感・スリル感共に、優れたものです。とりあえず、ハードカバー版(上)は、「土」の焼き印を付けられた枢機卿が、亡くなってしまったところで終了。それでは、早速、下巻に突入します。
2009.05.08
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これほどまでに、タイトルに正対した新書は珍しい。 まさに『発達障害の子どもたち』について、 正面から正々堂々と、しかも、誠心誠意ぶつかっていっている。 その様は、清々しさすら覚える。 そこで述べられている理論には、これまで私が目にしたことのないものもあり、 それらが、どれほど一般的に認められているものなのか、私には分からないが、 著者が、これまで現場で直面した様々なケースを交えての記述だけに、 大いに納得させられるものであった。 *** しかしながら、今日の日本で、小学校に実際に出かけて低学年の教室を覗くと、 三〇~四〇人のクラスの中で、授業中にうろうろと立ち歩いたり、 前後の生徒にちょっかいを出したりを繰り返す「多動児」が、 四~五人ぐらいは存在するのが普通である。 いま日本の学校は地域を問わず多動児であふれている! 嘘だと思う方は、ぜひ、地元の学校の見学をお勧めする。 そうすれば学校で教師がどれだけ大変な仕事をしているのかもすぐに理解できるであろう。 (p.129)これを、家庭の教育力(しつけ)が低下してきているからと見るべきなのか、それとも、障害児の出現率が、近年上昇してきているからだと見るべきなのか。私自身は、いずれか一方のみに原因であるというわけではなさそうに思えるし、社会的環境要因の変化(核家族化、女性の社会進出等)も、大きく影響していると思う。 われわれが一歳半検診に初めて取り組んでいた一九七〇年代後半から八〇年代には、 きちんと検診が行われた場合、五~七パーセントの児童が要指導としてチェックされていた。 それが現在では、子育て支援という視点からていねいにチェックを行えば、 幼児検診において要指導児、あるいは要指導家族の割合はじつに三割(!)に達するのである。 (p.176)これは、なかなか大きな数字である。軽度発達障害を伴う者は6~7%であると記憶していた私にとって、3割という数字は、衝撃的。もちろん、要指導児・要指導家族の割合は、軽度発達障害児の割合より、多くて当然ではあるが、それにしても大きな数字である。 集団に入れることだけで、子どもたちに大きな成長が期待できるためには条件がある。 その子どもが、周囲の子どもたちの行動を参考にして、 自分の行動を修正しようという気持ちがあることが必要なのだ。 特に広汎性発達障害のように周囲の子どもの行動を無視してわが道を行く場合や、 周囲の子どもたちの真似もまだ不十分という重度の発達の遅れの状況で、 ただ子ども集団に放り込んでも、形を変えた「放置」に過ぎない。 子ども同士の相互作用はまだまだ困難で、大人との関わりこそが必要な子どもに対しては、 当然ではあるが、大人がきちんと関わることこそが必要である。(p.180)わが子がそのような状況にあると分かった時、親として、それを素直に受け入れることは、なかなか難しいことであるとは思う。しかし、「誰のための教育か」「この子の将来のために、何が一番必要なのか」ということを、もう一度冷静になって考え直し、自分の面子のためでなく、子のために行動する必要がある。 学校から、今のクラスの体制では対応が困難といわれた場合に、 その意見を無視することは、子どもの将来の幸福につながらないと思う。 ここで学校側に非常に批判的な攻撃をしたり、 教師の言葉を一つ一つ被害的に受け取る保護者もときどき見るが、 そもそも学校という組織は子どもの幸福のために存在していることや、 教師が一生懸命仕事をしていることまで、マスコミに乗って疑いをもつのはお勧めできない。 日本の学校は、とてもよくやっている。むしろやり過ぎている。 子育て支援という要素がますます重要になった今日、 学校への根拠のないバッシングほど無責任なものはないと筆者は思う。(中略) 日本の生徒は高校の中途退学のみならず、 不登校、非行、殺人どれをとっても欧米のいわゆる先進国の数分の一か十数分の一である。 これも日本の学校と教師がそのシステムの問題にもかかわらず、 子どもたちをきちんと守ってきたことの表れであろう。(p.205) もちろん、筆者は、学校における問題点にも触れている。その第一は、教員の専門性の欠如である。通常学校の特別支援学級の担当者はもちろん、特別支援学校に勤務する教員でさえ、専門的教育を受けたことのある者が少ない現実。この点に関しては、現役教員のための、校内外における研修実施はもちろん、教員養成課程在籍中の学生に対する、適切な指導・対応が必要不可欠である。そして、そこで身に付けた力こそが、軽度発達障害児への対応力としてだけでなく、通常学級における生徒指導力にも、必ずや生かされるものなのである。
2009.05.05
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『悲鳴をあげる学校』を読んで、もう2年余り。 その後「モンスターペアレント」という言葉が登場し、 同名のテレビドラマが作られるまでに、世間に定着しました。 そんな世の中の動きに、小野田先生がコメント。 そう、コメント。 『悲鳴をあげる学校』ほどに、実例が示されることもなく、 また、現時点での、小野田先生の研究の詳細が、紹介されるのでもなく、 とりあえず、「イチャモン」にまつわる事柄についての考えをコメント。第1章「悲鳴をあげる学校、その後」の(4)「医療も福祉も」では、情報が溢れかえる時代の中で、医療現場や福祉の現場でも、学校で起こっているのと同じことが起こっていると、コメント。これは、所謂「モンスター・ペイシェント」についてで、特に目新しいものではありません。第2章「商品化する教育」では、「満足基準の急上昇」や「顧客満足・商品としての教育」についてコメント。「消費者」として「教育」をとらえようとする姿勢についての議論は、もはや、百花繚乱の状況であり、特に目新しいものではありません。さらに、第3章「強い者が弱い者をたたく社会」や第5章「保護者と学校はなぜわかりあえないのか」(1)何が伝わっているのか、いないのか?では、マスコミの報道姿勢や「二分割的発想」の危うさについてコメント。これらについても、『幼児化する日本社会』等で、既に多くの方がたくさん語ってます。ほとんどの部分が、何か既視感を覚えるような、定番(?)のコメントで溢れている本著。「何かで読んだな……」とか「あぁ、あの本と同じことを書いてるなぁ」とか。まぁ、小野田先生が研究しておられる分野そのものが、私自身も興味を持ち、色々と本も読んでいるわけですから、それも当然でしょうか……。それでもなお、小野田先生のコメントは、どれもが、現場に寄り添った、暖かみがあるものなので、私の中での好感度は絶大です! 財政削減の波をモロに受けて、今の学校には、 近年の社会の変動や要求の多様化に伴う形で、 ヒト・モノ・カネが供給されてはいないために 10年前と同じ水準を維持することすら難しくなっています。(p.55)確かに、色んなことへの要求度は、日に日に高まってきているにもかかわらず、要求する側は「声は出すけど、金は出さない」という最悪パターン。でも、これって、教育の現場だけじゃないと思います……。やっぱり、不景気の波は、各方面に多大な影響を及ぼしている。 「教育の顧客は子ども・生徒である!」 この当たり前のことを肝に銘じることが、いま相当に難しくなっています。 なにしろ先に述べたように、カスタマー(顧客)を 子どもではなく保護者(親)だとスリカエる政策が前面に打ち出され、 かつそれに拍車をかけるように各種のマスコミによって……(後略)(p.60)なるほど、これは言われてみれば当然のことながら、かなり「目から鱗が落ちる」ご指摘。 20年ほど前までは、万引きしたら、親が謝りに来て、 子どもの頭を下げさせて「申し訳ありません」と言った。 10年前には「だったら、お金を払えばいいんだろう!」になり、 今は「盗られるような所に商品を置いておく方が悪い」と言われます、 と商店主は嘆きます。(p.87)まぁ、実際、こんな感じじゃないでしょうか。(もちろん、今でも、ちゃんと謝る親の方が、圧倒的に多いと思いたいですが……)万引きした子どもを、親が引き取りに行くことを拒否しために、店や警察から学校に連絡が入り、先生が迎えに行くこともあるとか。 学校や教師には「向き合うべき課題」と「聞き流すだけでいい話」 そして「適切な距離を保つ必要がある問題」があるかと思います。 それを見定めるには、特定の個人に対するラベリングに影響されずに、 まずは話を聞きながら 「怒りの源」はどこにあるのかを見て取る姿勢が必要なんだろうと思います。(p.119)これは、『クレーム対応のプロが教える心を疲れさせない技術』の指摘と同一。 私は「教師が親に注意を促す存在ではない」と断言します。 教師は子どもを叱ったり褒めたりする存在ですが、 原則的に保護者にはそのような行為をする立場にはありません。 授業参観中の行き過ぎた行為を注意し合うのは、やはり「保護者同士」なのです(p.168)これが可能なコミュニティーを、果たして再構築できるのか?誰が、どのような形で、それを造りあげていくのか?それを実現できる可能性が最も高いのは、やっぱり学校?じゃぁ、やっぱり、とりあえずは、先生が注意するしかないか……。 近所の人たちからの苦情として 「自分たちは中学生に注意をしたいと思っても、なかなか通らないから、 先生からしてくれないか」と言われることが多くなったと中学校教師は言います。 それは一方では、注意をすること自体を避けて、 適当な代理人としての学校に依頼する傾向(自分で責任をとらないこと)でもありますが、 他方では注意をされた中学生たちも 「何で、そんな人に言われなあかんねん」と言う感覚が生まれ、 対応が適切になっていないということが同時に起きていることなのでしょう。(p.171)これも、先のコミュニティー再構築に関わる部分。「個」の時代となった現在、家庭の中ですら、「個」が過度に尊重され、その構成員(家族)の結びつきが弱体化しているのに、崩壊寸前の地域社会の構成員間に、それを求めるのは、酷というものでしょうか……。何でもかんでも、人任せの他力本願。自らの権利は声高に主張し、その実現を他者に向かって、強く要求するけれど、自ら、その当事者となって、共に額に汗しながら、行動しようなんていう気持ちは皆無。自らの役割や行動責任を果たしてこその権利だということに、気付きもしない厚顔無恥。自らが行動しないなら、せめて、他者にそれを期待したり、押しつけるなよと言いたくもなる。これも、消費社会に、皆でドップリ浸かってしまった弊害か。まさに、『大人のいない国』です。
2009.05.05
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『裁判長!ここは懲役4年でどうすか 』の続編。 北尾さんの裁判傍聴も、もはやプロの域に達し、 その観察眼の鋭さには、感心するばかり。 目の前に、法廷の情景が、鮮やかに浮かんできます。 『裁判長!ここは懲役4年でどうすか 』の記事で、 私自身の唯一の傍聴経験が、不法滞在の裁判だったことを書きましたが、 本著第12幕によると、やっぱり多いようですね、外国人の裁判。 しかも、その展開も、私が傍聴した時と似たり寄ったりのよう。そして、本著の中で最も感動的だったのは、やっぱり、第9幕「世界の端っこで人情を叫ぶ」。最後に北尾さんが書いているように、まさに「何年も傍聴してきた甲斐があった」と言わせる一大ドラマ。 手に手を取って駆け落ちしてきた夫婦と子ども。 貧困にあえぎ、出来心で犯した罪。 夫のやっていることを知りながら、目先の生活に追われて目をつぶってしまう妻。 だが、悪事はバレ、夫は逮捕。 そこへ、私の出番とばかり駆けつけ、何とか助けようと一肌脱ぐおばさん。 世知辛い世の中、こんな人情噺のようなことは、とうに過去のもの、 テレビやスクリーンだけのものになったと思っていたが、現実に存在するのだ。 いや、ぼくが知らないだけで、この国のあちこちで、 こうしたシーンが見られるのかもしれない。 まだまだ、世の中捨てたもんじゃないと思う。(p.104)一方、信じられないような世界が展開するのも、法廷という場。第20幕「悪魔がささやく」は、読みながら、笑いをこらえるのが大変だった。 「あなたの体の中に盗聴器があることに気づいたのはいつ頃ですか?」 きたきたきた!傍聴暦4年目にして初の、本格的な《電波系》。 この被告人は体内に盗聴器が仕掛けられているという妄想に取り憑かれているらしい。 (中略) 「18か19のときです。予備校に入ったら、 自分が思っていることが周囲の人にわかられてしまうので気がつきました」 「あなたの家にもあるんですか」 「(逮捕された)10月の時点では、悪い盗聴器、いい盗聴器を合わせると、 うーん、1千万個ぐらいありました」(p.231)この部分、夜中に読んでいたため、声を出すわけにはいかなかったけれど、心の中では、涙を流しながらの大爆笑。さらに、 「体の中には何個あるんですか」 家の中とか拘置所という広いところで1千万個だから、体内には100万個くらいか。 「1億か2億だと思います」もう、気絶するほどに笑ってしまった(もちろん、声は出さないで)。こんなシュールな世界を、お笑いタレントではなく、裁判官という、ガチガチに固そうな職業の人たちが、真剣な眼差しで創造しているところ、それが法廷です。
2009.05.05
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巻末の「解説」によると、兼継の生涯のハイライトは、 上杉景勝に謀反の疑いありとして 「上洛して釈明せよ」という徳川家康に向かって放った 所謂「直江状」のくだりだとか。 豊臣家から徳川家へと、 天下が、大きく流れを変えようとしているその時に、 あえて、その流れに逆らう姿勢を見せた、この書状によって、 上杉は、家康率いる東征軍を、会津で迎え撃つことになる。その最中、上杉の動きに呼応して、石田三成が挙兵。すると、待ってましたとばかりに、家康は上杉征伐を取りやめて、光成との決戦に向け、徳川本隊を江戸城へと方向転換。上杉にとって、千載一遇の好機到来!兼継は、引き上げる徳川の背後を、真田と連携して襲うことを、主君景勝に提案。しかし、これまで、兼継の意向を全面的に受け入れてきた景勝が、この時ばかりは、頑として受け入れなかった。 忘れたか、山城守(兼継)。 不識庵さま(謙信)が生涯、不女犯の誓いを立て、 みずからを厳しく律してもとめつづけた上杉の義の心を。 退却する敵に、背後から追い打ちをかけること、 それは上杉の義ではない。 利しか眼中にない、卑しい野心家のすることだ。 徳川内府は、わが上杉家に無理難題を吹きかけてきた。 われらは、それをはねつけ、徳川を迎え撃つにいたった。 そこには、天に恥ずべきことは何もない。 されど、敵の背中に矢弾を撃ちかけた瞬間から、 上杉の名は薄汚い泥にまみれる。 どうしても出陣するというのなら、このわしを切り捨ててゆけ。この瞬間に、上杉家の歩むべき道が定まった。耐え難きを耐え、忍びがたきを忍びつつ、とにかく、とことん生き延びる……。その時、兼継が果たした役割は、もちろん絶大なものがあった。彼の働き無しに、上杉家が生きながらえることは、決してなかっただろう。それでも、もし、あの時、景勝が違う行動を選択をしていたらと考えてしまう。上杉軍が、徳川軍の背後を追って、それとの合戦に及んだ場合、関ヶ原の戦いの情勢は、かなり変わっていたのではないか。場合によれば、関ヶ原の戦いそのものに至らず、別の場所で、別の戦いが、違った展開で繰り広げられただけかもしれない。そして、徳川家と豊臣家の対立の決着には、さらなる時間を要したかもしれない。そうなると、江戸幕府成立の時期が遅れ、徳川家康は年をとり、豊臣秀頼は成長していき……歴史の流れは、変わっていったかもしれない……。しかし、上杉家が、徳川を追って、その背後から攻め込んだ場合、伊達政宗は、確実に行動を開始したであろう。そして、当時の政宗の力量からすると、手薄になった会津を攻め滅ぼし、その時点で、上杉家は滅亡……。たった一つの決断が、こうまで歴史を変えてしまうものか……。
2009.05.05
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第9章で、遂に大河ドラマの進度に追いつき、追い越す。 ただ、この辺りの史実には、勉強不足の私は、驚かされることが多かった。 長篠の戦いで、武田勝頼が、織田・徳川連合軍に敗れたのは有名だが、 その後、武田家が、このような形で滅んでいったとは……。 また、上杉家についても、こんな危機に直面していたとは……。 家康との関係から、北信越の強大な大名から、出羽半国の一大名へと没落し、 その後、上杉鷹山(政憲)が活躍したことを、ある程度知っていただけに、 逆に、この段階での、これほどまでの状況は、思いもよらなかった。 ***さて、今巻の中で、私が特に印象が残ったのが、次の箇所。 その家臣団は、戦って実績を上げることによって信玄から恩賞を約束され、 それがまた、武田軍の強さのみなもとともなった。 しかし、信玄の死と、それにつづく長篠の敗戦によって、武田家の成長はおわりを告げ、 そこで働いても、得られる利益はなくなった。 もともと“利”によって結びついいていた集団だけに、 うまみがなくなったと見るや、組織の崩壊は早い。 武田家の家臣たちはさらなる利益をもとめ、主家をみかぎったのである。(p.20)「利」を追求する集団の危うさを、端的に表現している。しかし、この世に存在する集団の多くは、「利」を追求するため存在している……。 世の流れは、早い。 ついきのうまで、「天下布武」をとなえる織田のもとに従っていた越中や信濃の地侍たちが、 上杉の「毘」の旗のもとになびきはじめている。 (あのときと、同じだ……) 兼継は思った。 北越の巨星謙信の死後、上杉家もまた、混乱におちいり、家中が真っ二つに割れた。 謙信の後継者をめぐって、養子の景勝と三郎景虎が争った御館の乱は、 三年にわたってつづき、そのあいだに上杉家は弱体化、 越後一国は保ったものの、国外に広げていた国土のほとんどを失った。 その同じ運命がいままた、織田家におとずれようとしている。(p.98)偉大なる人物が、その座を退いた後、後継者争いは、どうしても避けては通れないものであるらしい。その後、権力の座についた豊臣家にも、同様の事態がおとずれる。 「人の世とは、そういうものかもしれぬ。 何かを欲しいと強く執着しているときは、かえって手に入らない。 逆に、すべてを打ち捨てて無欲になったとき、天は人に味方する」(p.191)この境地に達することの、何と難しいことか……。 ***今巻のお話しの中では、真田家のしたたかさが、とりわけ目立っている。弱小集団の生きる道を示しているといえばそれまでだが、その姿勢については、好き嫌いが分かれるところだろう。でも、実際に、真田家は生き延びるのである。そして、気になるのが、千利休の娘として登場する、お涼。彼女も、また、兼継とは浅からぬ関係になるのだが、大河ドラマでは、木村佳乃さんが演じることになっている。「北条時宗」の時の、桐子役を上回る活躍を期待したい。
2009.05.04
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「篤姫」に続き、今年も、NHKで大河ドラマを見ている。 開始直前、色々あった妻夫木君だが、とっても頑張ってる。 それ以上に、私が感心しているのが、上杉景勝役の北村さん。 「バンビーノ!」で、私の中での印象が変わったが、今回はさらにレベルアップ! さて、4月から、日曜夜8時に「うたばん」が引っ越してきてしまったため、 チャンネル優先権が低い私は、衛星第2で夜10時から見ることが多くなった。 お話しとしては「御館の乱」の辺りが、期待していた以上に面白かった。 そこで、「これは、原作も読んでみなければ」と思い立ち、三冊まとめて購入。まずは、とっても読みやすい。途中で引っかかる部分が全くなく、ドンドン読み進めることが出来る。それは、変に凝った表現や、小難しい言い回しが一切見られず、テンポ良く淡々と、状況や情景、心理がスッキリと描ききられているから。ただし、大河ドラマは、原作である本著に、忠実に沿いながら展開しているわけではない。歴史的事実についての設定は、もちろん相違することはないものの、大河ドラマの方が、原作よりも、こってりと、より丁寧にドラマを描き出している。「御館の乱」の辺りのお話しも、大河の方が、内容は盛りだくさん。そして、登場人物では、初音の扱いが、原作と大河では、ずいぶん違う。原作では、お船よりも、初音の方が、より重要なポジションを担っている。兼継との関係も、ただならぬものがある。しかし、大河では、常盤さんと長澤さんとでは、露出時間も重要度も全く逆。とりあえず、上巻を読み切ったところでは、大河ドラマの進行状況には、まだ追いついていない。それでも、菊姫が、武田家から上杉家へと、既に嫁いできているので、もう一歩で、追いつくと思われる。
2009.05.04
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内田先生の本著における対談のお相手は、 大阪大学総長の鷲田先生。 内田先生の専門が、フランス現代思想、 鷲田先生の専門が、哲学・倫理学なので、お話しは少々難しめ。 年齢では、鷲田先生が一歳上と言うことだが、 これまでの対談が、内田先生を軸に展開されるものが多かったのに比し、 今回の鷲田先生は、内田先生と互角か、それ以上の存在感を示している。 それ故、頁数は多くないが、充実した深みのある一冊に仕上がっている。 *** 消費者であるということは、 裏返すと僕らの生活空間自体がサーヴィスで充満しているということです。 ものを食べるにしても、勉強するにしても、もめ事を解決するにしても、 病気やケガを治すにしても、その手段はみんな「サーヴィス」というかたちで提供される。 生きること自体が、どうサーヴィスを選んで買うか、ということになっている。 民間のサーヴィス提供者である私企業も、公共サーヴィスの提供者である行政も、 消費者や市民を「クライアント」として見る。 サーヴィスの提供者と顧客の関係が生活の中で充満してきたのがポスト産業社会です。(p.15)これは、内田先生の 「今の日本における未成年者は、労働を通じて何を作り出すかではなく、 消費活動でしか自己表現できないと思っている」という発言に対する、鷲田先生の言葉。まさに、現代社会の有り様や、そこに生きる人の価値観を、ズバリと言い当てている。 学生の就職活動の様子を見ていても、世の中には自分だけにしかできない 「唯一無二の」適正がどこかにある、という幻想を刷り込まれていますね。(中略) でも、個性というのは、まさにインターディペンデントな関係の中で、 その人が何らかの役割や業績を果たしたときに、 「あなたはこういう能力があり、こういうことに適性があった」ということを 周囲から承認されるというかたちで知るわけですよね。 個性というのは自分で名乗るものではなくて、他者から与えられるものでしょう。 そういうことがわかならいらしい。(p.19)これは、内田先生の「個性」についての御意見。まさに、その通り! 納得!!次は、鷲田先生の 「親と子が対立したら、親の言うことを聞くか、ぶつかって家を出るかしかない 親子二世代だけの核家族は、子どもにとって一番つらい家族形態ではないか」 「核家族でも、両親が連帯するのが最悪の構図」という言葉を受けての、内田先生の発言。 今、まさにそうなっていますよね。 学校に来るクレーマーのうち最悪のパターンは 両親が口を揃えて怒鳴り込んでくるタイプだそうです。(中略) 異性の親の間にさえ価値観の葛藤がない。 それでは子どもたちに成熟のチャンスがなくなるのは当たり前です。 核家族であっても、せめて母性原理と父性原理とがきちんと機能していて、 そこに価値観の「ずれ」があれば、子どもにもある程度の葛藤は担保されます。(p.32)「オール・オア・ナッシング」これが、現代社会に生きる人々の行動を決定づける「キーワード」。上手くいけば「グッド!」だけれど、逆に転べば「悲惨……」な仕組み。さらに、鷲田先生が続けます。 人が成熟するというのは、 編み目がびっしりと詰まって繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、 情報やコンテンツ(内容)が詰まっていく、ということです。 それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単次元的な語り口でしょう。 すぐに善悪を分けたがる。(p.33)そして、次の内田先生の言葉が、最後の決め。 子どもと大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかということですから。(p.36)「単純で明快なもの」は、誰にとっても分かりやすい。しかし、人間も社会も、そう「単純で明快なもの」ばかりで終わらない。そこにある「多様で複雑なもの」に対応するためには、大人としての経験や発想が、絶対に必要不可欠なものとなってくる。なのに、それらを無視して、全てを無理矢理「単純明快」にしたがる現代社会。それは、「単純で明快なもの」にしか反応できない者ばかりを、溢れかえらせ、「大人のいない国」を創造することに、大いに寄与している。 ***その他にも、印象的な言葉が、あちこちに散りばめられている。鷲田先生の言葉では、 ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、 子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することの方が大事なように。(p.100)内田先生の言葉では、 子どもは同性の二人の年長者から それぞれ別の生き方のモデルを提示されることを通じて成熟する。(p.104) 教育の目的は信じられているように、 子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。 子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存在するのである。(p.107)現在の日本は、まさに「子どもが子どもを育てている」状況。まさに、「大人のいない国」。そこから脱却するには、「子どもを大人に育てる社会」へと生まれかわる必要がある。でも、肝心の「子どもを大人に育てる役割」を、誰が担うことが出来るんだろう……。
2009.05.04
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螺鈿迷宮(上)を読んだ段階での、私の推理を検証。 まず、姫宮さんの行動については、当たり半分、はずれ半分。 意図的なミスもあれば、生まれながらの「天然」によるミスもあった。 それでも、記憶力は人間離れしており、本当にスゴ過ぎる。 「人は誰でも知らないうちに他人を傷つけている。」 「ワシらの因縁は浅からぬようだしの。」 巌雄院長が大吉に言ったこれらの言葉は、確かに大きな意味を持っていた。 でも、思いもよらぬ、桜宮家と大吉との深~い関係に、ちょっと驚き。次に、「病院の出入りを監視するモニタ」については、問題解決の糸口に、直接繋がることはなく、大ハズレ。一方、トクさんの遺体処理の素早さについては、やはり大きな意味があった。まぁ、一応は当たりだが、指環について、考えが及ばなかったので、減点。 桜宮は花盛り、青いすみれに白百合の花……。この歌に込められた「真実」が明らかになった時、桜宮一族の秘密と、『螺鈿迷宮』というタイトルが意味するところが判明する。そして、レディ・リリィの正体や、すみれが何をしようとしていたのかも。しかしながら、このお話は、最後の決着がつかぬままに終了。今回のお話しでは、白鳥さんも、かなりの苦戦を強いられ、これまでの「大胆不敵にスカッと解決!」というパターンと、ちょっと違っていた。いつかまた、桜宮家との対決の続編が、描かれる日が来るのだろうか。きっと、そうなるに違いない。
2009.05.01
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