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本屋さんで見かけて手に取り、 「はじめに」を斜め読みしてみると、なかなか面白い! でもその時は、手持ちの荷物を増やせない状況だったので、 帰宅してからネットで注文(本屋さん、いつも御免なさい……)。 読み進めると、頷ける部分がたくさん。 付箋の数は、軽く10枚を突破。 全245ページの新書でこの数字は、私にすればかなり多い方。 例えば、こんな所に付箋を貼りました。 とまぁ、このようにネットには 「怒りたい人」「つるし上げの対象を血眼で探す人」が多いので、 あまりネットの世界が善意にあふれているとは思わないほうがいい。 さらに、そういった人々は匿名の個人として発信し、組織を背負っていないがゆえに、 「絶対に勝てる論争」を高みから仕掛けてくる。 クレームを受ける側は組織を背負っているため、逆ギレできない。 完全なるハンディキャップマッチに巻き込まれてしまっているのだ。 これは、ときどき見かける 「人身事故で電車が止まった際に駅員をひたすら罵倒する乗客」と同じ構造を よりお手軽にやっている、とも言えよう。(p.40)最後の例えが非常に素晴らしい!まさに実感です。 また、テレビでの発言もすぐさま抗議の電話がやってきて、 さらにはネットに反映されるため、 テレビコメンテーターは以前にも増して無害なことしか言わなくなった。 「派遣切り」の話が出たら、「政府は無策だ」 「総理は苦しんでいる人の気持ちがわかっていない」 「大企業はもっとこころやさしくならなくてはダメだ」と強者を叩く発言をしておき、 全面的に弱者をフォローしておけばとりあえずクレームは減る。(中略) 政府の財源や企業の事情などを考えることなく、とにかく無難なことを言っておくべし! という思考停止状態が蔓延し、既存メディアから自由な発言は失われた。 その代わり、政治家や公務員のことは必要以上に叩くのである。 というか、そうやってテレビでコメントしている人々が高額所得者だらけというのも、 完全な矛盾ではないだろうか。(p.41)これも、最後の一文が光っています!p.48から述べられている「ネットで叩かれやすい10項目」も納得。 揚げ足取りが大好きで、怒りっぽく、自分と関係ないくせに妙に品行方正で、 クレーマー気質、思考停止状態の脊髄反射ばかりで、異論を認めたがらない……と、 実に様々な特徴があるが、決定的な特徴は「暇人である」ということだ。 書き込み内容や時刻から類推するに、 無職やニート、フリーター、学生、専業主婦が多いと類推できる。(p.58)なかなか過激ですが、これが本著の中核をなす部分の一つ。インターネット黎明期には、それを使用するためにある程度の経済力や知識能力が必要だったのに、今やその垣根が大きく取り払われ、それ故このような現象が現れたと著者は言っています。 あと、重要な情報を持っている人は、その情報をわざわざネットに書かない。(p.72)これもスゴイ。当たり前なんだけど、当たり前じゃないと思っている人が結構いますよね。本当に重要な情報は、ネット上にタダでころがっているわけなど決してなく、然るべき所で、然るべき手続きを経て、然るべき対価を支払わないと入手できません。 だが、ネットは、本来一緒の場所にいるべきではない両者を 同じ土俵の上にあげてしまうのである。 さらに、その場で意見を簡単に書くことができる。 これは、「すばらしき交流」など生み出すわけがなく、 「うんざりするドロドロの争い」を生み出すことになる。(p.79)ボーダーレスは、実は考えもの。棲み分けも、実はかなり大事。 そこで私が結論づけたのは、 ・全員を満足させられるコンテンツなどありえない ・結局、頼れるのはおのれとプロジェクトにかかわっている人だけ の2点である。(p.97)場を開けば開くほど、そして、そこに集まる人が多くなればなるほど、このことを実感できるのではないでしょうか。このことが言えるは、ウェブサイトに関してだけではありません。そして、p.104の「ネットで受けるネタ」や、p.158の「ネットでうまくいくための結論」も概ね納得。 だが、そろそろネットを4媒体の延長と考えるのはやめるべきでは? くり返すように、ネットは居酒屋のような場所なのである。 居心地の良い店に自然と人が集まり、そこで楽しんでいく場なのだ。(p.192)これこそが著者の主張であり、私としても、十分理解出来る内容です。 ここで結論を言うと、ネットでバカなこと、B級なことができないのであれば、 ネットでは最低限の情報公開を除き、何もすべきではない。 クリックされず、さらにはリスクを恐れている状況では、 ネットを使いこなせるわけがないのだ。(p.210)「ネットを使いこなす」ということを、著者はこんな風に考えているのですね。そして著者は、こんなことが出来る感覚を持ち合わせた人です。 また、亀田興毅対ランダエタ戦後、 「全国の『亀田』関係者に電話をする」という記事を書いたときも批判まみれとなった。 単に「亀田」という名前がつく地域や企業の人から お祝いコメントや試合の感想をもらうという、 今考えれば意味もなく実にくだらない企画だったのだが、 「忙しい人に迷惑です!」「いい加減にしろ!」というコメントが殺到(中略) また、「吉野家で肉・たまねぎ抜きの牛丼を注文した」という記事に対しても、 「忙しい店員さんに失礼です!」との批判が殺到したのである(p.36)TV番組で、「どっきりカメラ」的VTRが流されたあとに、このイタズラが許せるか許されないかを、回答者に問うものがありますが、あれが放送番組として成立するのは、人により、それぞれ判断が分かれるからです。私はと言うと、「許せない」とする方が圧倒的に多い方です。見ていてあまり気分が良くないので、あの手の番組は、殆ど見ませんが。
2009.07.25
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今からおよそ4年前、 2005年4月18日に、本著の初版第1刷が発行された。 日本の「ブログ元年」となった2004年の翌年、 ブログ人口が急速に伸びていこうとする時期である。 第2章は、初心者向けの「マニュアル」になっている。 「ブログ」と「ホームページ」とでは、何がどう違うのか。 ブログはどうやって開設すればよいのか。 そこにはどんな機能があって、どんなことが出来るかのかが記される。続く第3章では「ブログサービス」の徹底比較が行われる。今お読みのブログのある「楽天広場」に始まって、「livedoor Blog」「ココログ」「ヤプログ!」そして「Ameba Blog」が、一つ一つ丁寧に紹介される。私が初めてブログを開設したのは、2005年4月(このサイトとは別のもの)。本著の初版発行とほほ同じ時期(それ以前は、ホームページを複数開設)。それ故、第2章や第3章に書かれていることは、現在の私にとって、目新しいことは、ほぼ皆無。しかし、第1章と第4章の内容は、とても興味深いものとなった。そこでは、当時注目を浴びていた11人のブロガーが紹介され、その人たちのブログが成功した秘訣を、一つ一つまとめてある。ただし、私が興味をもったのは、そこに記された成功の「秘訣」ではない。それは、本著が発行された4年後の、現在のブログの姿である。どれもこれも、書籍に掲載されるほど一世を風靡した有名ブログであるが、その現在の姿には、情報化社会の移り変わりの早さを感じずにはおれない。それでは、有名ブログの現在の姿を一つずつ見ていこう。 ***1.「『小さな会社★儲けのルール』『逆転バカ社長』『ベンチャー大学』で弱者必勝! 栢野克己の『人生はアドベンチャーだ!』」 長い名前のブログだが、現在は 「【人生は逆転できる!】 小企業コンサル・講演家・栢野克己/カヤノの天職ブログ」という名称に。 更新も頻繁に行われ、大いに賑わっている。2.「発狂ニュース島」 ブログ名もブログサービスもそのまま継続中。 カウンターの数字は244万超の凄さである。 ただし、最新記事は、今年1月に書かれたもので、約半年放置状態。3.「まいまいの生存歴」 遅くとも2005年の4月某日には、閉鎖された模様。 つまり、本著が発行された時点で、ブログが存在していたかどうか微妙。 本著に掲載されているURLは「レゲエ大好き」というブログになっている。 現在は「DANCE2」が、まいまいの生存歴復刻版として公開されているが、 今年5月の記事が一つ掲載されているのみである。4.「10年後も行政書士で生きていく!」 2008年4月の記事のみが掲載されており、 そこで、現在のブログ「行政書士横須賀てるひさの天才マーケティング!」へと誘導している。 こちらの方は、頻繁に更新されている。5.「起業家のための書評ブログ」 現在のブログ名は「ビジネス書 書評ブログ (後悔しないための読書 ブログ版)」。 今年の4月に記事が書かれてから、5月・6月は更新がなされなかったものの、 7月には新たな記事が書かれている。6.「ディズニーランド好きのアフィリエイト講座」 2005年11月で記事はストップ。 コメント・掲示板・トラックバックの欄も放置状態。 「ディズニー・進化論。」も昨年4月でストップ。7.「Silent Voices」 2007年2月の記事でストップ。 この続きは、もう書かれることがないのだろうか……。8.「マダムKの西麻布通信」「マダムKサロン」 いずれも閉鎖されており、 「事例マーケティング最前線~WEBライティング達人の日記 」を経て、 現在は、「福の神BROG」に。 最新記事は、今年5月のもの。9.「貴田乃瀬」 ブログは独立して「旬肴地酒 貴田乃瀬」に。 更新は頻繁で、その内容の充実ぶりには圧倒される。10.「あとむの正直日記」 現在のブログ名は「あとむの半分正直日記」。 更新は頻繁で、カウンターの数字は179万超。11.「ワーキングマザースタイル」 複数の共同編集者が、それぞれに自分の意見をブログにアップするというスタイルを継続。 ほぼ毎日更新されている。 ***続けるということが、いかに難しいかがよく伝わってくる。人気ブログですら、こんな状況であるから、世の中に、どれほどのブログが放置され、それらが山積していっているかは、想像に難くない。継続のキーワードは、やはり「ビジネス」。人が一日の、そして人生の大半の時間を費やす「行動」。これに直結しているかどうかが、ブログの持続力に大きな影響を与えているように感じた。
2009.07.25
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二つの物語は、接合することのないまま幕が下りた。 そして、幕が下りた後、 この作品では描かれることのなかった未来でも、 二つの物語は、決して接合しなかっただろう。 「私」は「私」として、車の中で目覚める。 そして、しばらくたってから、 失ったものを取り戻せなかった、元のままの自分に気づく。 その時、ボブ・ディランはまだ唄いつづけているだろうか。たまりに呑みこまれていく「影」を見送った「僕」は、彼女と再会し、手風琴を奏でることができるだろうか。とにかく、森の中の生活は始まるだろう。でもその時、「僕」のそばには、彼女が一緒にいるのだろうか。 *** 「信じなさい」と彼女は言った。 「これはみんな過ぎていくことなのよ。 悪いことはかさなるものかもしれないけれど、 いつかは終わることなのよ。 永遠につづくことじゃないわ。」(p.39)これは、老博士を救うため、暗闇の中を突き進んでいるとき、太ったピンクの娘が「僕」に言った言葉。そう、時は流れる……はず。 「(前略)そして私は発見した。 人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、 時間を分解して不死に至るのだということをですよ。」(p.127)これは、老博士が「私」に言った言葉。しかし、これだけでは分かりにくい。この少し前に、同じく老博士による、こういう言葉がちゃんとある。 「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。 正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。 永遠の生です。」これが「世界の終わり」なのか。 「まず心の問題だ。 君は俺にこの街には戦いも憎しみも欲望もないと言った。 それはそれで立派だ。 俺だって元気があれば拍手したいくらいのもんさ。 しかし戦いや憎しみがないということは つまりその逆もないということでもある。 それは喜びであり、至福であり、愛情だ。 絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。 絶望のない至福なんてものはどこにもない。 それが俺の言う自然と言うことさ。 それからもちろん愛情のことがある。 君のいうその図書館の女の子のことにしてもそうだ。 君はたしかに彼女を愛しているかもしれない。 しかしその気持はどこにも辿りつかない。 何故ならそれは彼女に心というものがないからだ。 心のない人間はただの歩く幻にすぎない。 そんなものを手に入れることにいったいどんな意味があるっていうんだ? そんな永遠の生を君は求めているのかい? 君自身もそんな幻になりたいのか? 俺がここで死ねば君も連中の仲間入りをして 永遠にこの街を出ることはできなくなってしまうんだぜ。」(p.219)街にとどまろうとする「僕」を、街から一緒に脱出しようと説得する「影」の言葉。この物語の全てが凝縮された言葉。でも最後に、「僕」は街にとどまることを選択する。「僕」自身が作り出した「世界の終わり」に。「僕」はその世界のどこかに希望を見出したのだろうか?
2009.07.14
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二つの物語が並行して進んでいく。 そこは「?」な世界。 現実と精神世界との間に横たわる境界線が不明瞭で、 読者は、その双方を行き来することに。 『海辺のカフカ』で初めて村上作品と出会った私には、 このラインの作品こそが、まさに「村上ワールド」。 『羊をめぐる冒険』(1982年)と『ノルウェイの森』(1987年)、 この二作に挟まれた1985年発表の本作は、初の書き下ろし長編小説。「世界の終り」は、一角獣が棲む、壁に囲まれた街。主人公の「僕」は、そこの図書館で、夢読みとして働いている。図書館には司書の女の子がいて、僕の仕事を補佐してくれる。僕も女の子も「影」を持たないが、僕の影は生きており、女の子の影は死んでいる。「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、暗号を取り扱う「計算士」の「私」。「計算士」の組織は「組織(システム)」と呼ばれている。私は、計算士たちの中でも高度とされる「シャフリング」という暗号処理を駆使する。その技能を見込まれた私は、老博士から仕事を依頼される。「組織」と敵対関係にあるのが「記号士」たちの属する「工場(ファクトリー)」。そこに「大男」と「ちび」が絡んできて、私はトラブルに巻き込まれる。その原因は、老博士からプレゼントされた一角獣の頭骨?図書館窓口の大食いの女の子や、老博士の太ったピンクの孫娘が、私を援助。上巻終了時点で、「僕」にはそれほど大きな変化は、まだない。苦労して作った街の地図が、無事「影」の元に届き、役立っているのかどうかというところ。それに対し、「私」の方は大冒険の真っ最中。随分酷い目・痛い目に遭いながらも、ピンクの女の子と一緒に老博士を探索中。この二つの世界が、どう結合していくのか?そして、「僕」と「私」の関係は?さらに、二つの世界の図書館にいる二人の女の子はどうなる?それでは、下巻の読書へと移りましょう。
2009.07.12
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誰でも、ヒトから怒られるのはイヤだし、 また、ジブンも怒らずに済むなら、怒らずに済ませたい。 そう、誰だって、いつもニッコリ、 笑顔で平和に、そして仲良く暮らしたいのである。 さて、先日、久しぶりに本屋さんに立ち寄ったときに本著を購入。 家に帰って読み始めると、スイスイ読める。 テンポ良く、ページがどんどんと捲られていく。 あっと言う間の読了。本著購入の大きなポイントは、もくじの素晴らしさ。例えば、「第1章 どういうときに人は怒るのか」は次のようになっている。 相手の存在を無視してしまったとき……メールや電話にはすぐに返事をする こちらが不機嫌な態度を示したとき……負の感情はすべて飲み込め! ネガティブな本音を出したとき……思ったことをそのまま口にするな 人格攻撃をしてしまったとき……人間関係のデッドラインを越えるな 断定的に話してしまったとき……何事も曖昧にぼかせ こちらが一方的に話してしまったとき……会話の基本は“譲り合い” 命令口調で話してしまったとき……上から目線ではなく、お願い口調で! 自分の考えが拒絶されたとき……ムリっぽくても、とりあえず交渉してみる メンツが潰されてしまったとき……余計な気遣いはかえって相手を怒らせる私にとって、とても興味深い内容が並んでいる。しかも、その対処(「……」に続く部分)も、納得できるものが多い。ただ、本文の方は、読んでいてひっかかりがあった。どうも、一文一文が、自分の心にシックリ来ないのである。そして、気づいた。本著のもくじと本文には、足りないものがある。これを書き加えれば、もっと良かっのにと。それは、「独断語調で書いてしまったとき……上から目線ではなく、共感を呼ぶ語調で!」
2009.07.11
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私が初めて読む、村上さんの短編集。 これまで、長編小説だけを読んできたけど、 ちょっと一服という感じで、短時間に気楽に読めるものを。 でも、そこにはちゃんと村上ワールドが。 阪神大震災の後、その関わりの中で書かれた作品たち。 そこには、喪失感や自己の所在の無さ、精神世界の混沌が。 さらに「?」の世界も広がっている。 まさに、村上ワールド。 *** 何が夢で何が現実なのか、その境界線を見定めることができなかった。 「目に見えるものがほんとうのものとは限らない」、 片桐は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。(p.185) これは『かえるくん、東京を救う』に出てきた一節。村上ワールドのキーとなる言葉。本著に収められた6つの作品の中でも、私のお気に入りは、この『かえるくん、東京を救う』と『蜂蜜パイ』。カエルくんは、最後あんなことになっちゃうけど、「やり遂げた」感は、ちゃんと残るし、蜂蜜パイのほうは、私がこれまでに読んだ村上作品ではありえないような、正真正銘のハッピーエンドで、とっても前向きな締めくくり。きっと、震災で衝撃を受けた全ての人たちに向けての、シャイな村上さんから、精一杯のエールであろう。
2009.07.11
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最後の最後で「来たぁ~ッ!」という感じ。 これぞ、村上ワールド! 混沌とした精神世界。 そして、所在のない自分。 『ノルウェイの森(上)』を読み終えたあと、 ある事情で、しばらく(下)は読めずにいたが、 その後、何とか読書再会に漕ぎ着け、 そして、大きな感動とともに読み終えた。直子、緑、レイコさん、ハツミさん。主人公である僕を取り巻く女性たちは、それぞれ個性的で美しくあるものの、共通して、その内面の奥底には、大きな闇をたたえている。その闇の深さが、逆に主人公・僕を惹き付けていく。男性陣では、何といっても永沢さんが際立っている。この作品を読み進めるとき、この人物のことを、好意的に見つめ続けることができる人は、そう多くはないだろうが。それに比べると、キズキくんは重要人物でありながら、結構影が薄い。 ***単行本として発売された頃、「100パーセントの恋愛小説」と紹介されたこの作品。しかし、実際に村上さんが目指していたのは「100%のリアリズム小説」。それは、『羊をめぐる冒険』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは、ラインが違うという意味において。それ故、『羊をめぐる冒険』や、後の作品となる『海辺のカフカ』等における世界観、つまり、私が村上ワールドの神髄と信じ、愛してやまない「?」が、ストーリーが展開していく中で、ほぼ皆無と言っていいほど顔を覗かせない。まさに「リアリズム小説」。一人の大学生をめぐる、現実的なエピソードが、次々に展開していくだけ。しかし、そこに描き出されていく、登場人物たちの内面・精神世界の描写は、あまりにも見事。でなければ、こんな大ベストセラー作品になろうはずがない。私がこれまでに読んだ村上作品とは違って、「ハッピーエンド」と呼んでよいものかどうか、ちょっと一概には言えないものの、誰もが納得できそうな結末を迎えるのだとばかり思い込んでいたところへ……あまりにも見事なエンディングである。 ***2010年には、映画作品として公開される予定。主人公を松山ケンイチ君が演じるので、かなり話題になっている。女性陣のキャスティングは、私的にはちょっと微妙か。ところで、最近、本著の売れ行きの方も、好調のようである。
2009.07.11
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ブルーバックスなんだけど、 ブルーバックスらしくない。 と言うのも、時事新報桜宮支社・別宮記者による、 厚労省官僚・白鳥圭輔室長独占インタビューに多くの紙幅を割いているから。 もちろん、白鳥さんも別宮さんも 海堂さんの『チーム・バチスタ』シリーズに登場する架空の人物である。 であるからして、もちろんインタビューもフィクション。 ブルーバックスにフィクション……何かイメージが……。しかしながら、扱われている内容は、もちろん真っ当なもの。海堂さんが、かねてから強く推奨し、『ジェネラル・ルージュの凱旋(上)』でも、大いに威力を発揮した「エーアイ」を使って、脱「死因不明社会」を目指そうというもの。 「Ai」とは、2000年に提唱された医学検査概念で、 一言で言えば「死体に対する画像診断」である。 そして死体の画像診断料を国家予算に組み込めば 「死因不明社会」という致死的慢性疾患は改善される。 Aiは画像診断装置を用いて、死亡時の医学情報を検索する手法である。 しかしCTやMRIで死体を画像診断し、死因を確定して完結する、 という単純なものではない。 Aiは、検索、解剖という伝統的な医学検査と画像診断を融合した、 まったく新しい検査概念だ。 Aiを導入することで、臨床医学、病理学、診断学、疫学など、 様々な領域にまたがる質の高い膨大な医学情報がもたらされる。 こうした情報を活かすことで、医学の進歩が一気に加速するだろう。(p.151)以上の事柄を、白鳥さんと別宮さんの掛け合い漫才的インタビュー場面を交えることで、読者が興味を失わないよう気を配りつつ、専門的で難しいと思われる部分を、できる限り分かりやすく噛み砕いて説明していく手法は、さすがに海堂さん、いや、海堂さんにしかできない芸当である。 ***本著に登場する数字には、はっきり言って、驚くしかないものが多い。例えば、現在の日本における、死者の解剖率は、わずかに2%死者の98%は、体表観察による「検案」だけで死亡診断書が書かれている。ところが、原因不明の「異常死」は、全死亡者の15%に達しているのだ。体表から見て、死因が確定できれば、それは「異常死」ではない。つまり、死因が確定できない「異常死」でありながら、解剖されずほったらかし、そして、いいかげんな死亡診断書・死体検案書が書かれている……お金がないから……。これが死因不明社会の実体である。しかしながら、事態は多少なりとも良い方向に向かっているらしい。 2007年1月、本書の執筆依頼を受けた時は、ここで終わる予定だった。 だが予定は変わり、以下の一文を書き加えることとなった。 2007年8月、これまでは未来予想図の中にしかないと思われた「Ai」センターが、 千葉大学医学部に設立された。 これは、「死亡時医学検索」の確立に向けての歴史的第一歩であり、 同時に日本医療における革命でもある。(p.261)
2009.07.05
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さて、『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(その1)の続きです。 本著の後半は「らしく生きる」ということと、 「家族を愛するとは」ということについて、 内田先生が語り、それを文章化したもの。 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(その1)で、記事に書いた 「公人と私人」についても、 実は、この「らしく生きる」という章で出てきた部分。 ここでは、あと3箇所に付箋を貼りました。 以前、ある古武道の大会の演武者控え室で、一人の武術家が見ず知らずの武術家に、 「おたくの流派では、こんなふうに指を掴まれたときに、 どういうふうにかわすのですか?」と訊ねられたことがありました。 そこで、「うちの流儀ではね」と説明するために、 相手に向かって小指を差し出したら、いきなり小指をぽきりと折られた、というのです。 これは手を出す方が悪い、と多田先生は教えてくれました。(p.184)多田先生というのは、内田先生の合気道の師匠です。これは、日本人が国際社会に出て行くときにも、同じことが言えると思いました。閉じた空間で、同質の者同士が肩寄せ合って暮らしてきた日本では考えられないようなことが、異質の者同士が、ときに激しくぶつかり合う世界では、ごく普通に起こるのです。 でも、そういうふうに環境が変わるたびに、キャラを変えるというのは、 自分を守るためにはものすごく有効な方法だと思います。(p.191)私自身も、これまでに、結構キャラを変えてきたような気がします。それは、その場で自分に与えられた役割を、その都度演じてきたということでしょうか。じゃぁ、どれが本当の自分で、どれが本当に自分らしかったのかと言われると、「どれもが、やっぱり、自分なんだよだなぁ」と答えるしかないのです。 権力を持つ人間、決定権を持つ人間、こちらに対して強制力を発揮できる人間の前では、 絶対に自分の「素顔」を出してはいけない。 これが礼儀の基本です。(p.199)う~ん……気を付けねば……、反省。さて、ここからは「家族を愛するとは」の章の中で、付箋を貼ったところ。 とにかく家庭では「素」に戻らないということです。 親は「親らしく」ふるまい、子どもは「子どもらしく」演技的にふるまう。 お互いの内面をさらけ出し合うというような「はいたない」ことは家庭の中では自制する。 そういう節度のあるふるまい方を家族とともにあるときも保つことです。 そんな白々しいのは家庭じゃない、と怒る人がいるかも知れません。 でも、そういう人は「親しみ」ということと、 「馴れ合い」ということを混同しているのではありませんか。 本当の親しみというのは敬意のないところには成立しません。(p.228)続いては、これ。 自分に正直であるためには誰にも遠慮する必要はない。 自分に対して誠実であるためにはどれほど非礼でも構わない。 自分の気持ちを守るためには誰を傷つけても構わない。 そういうイデオロギーをTVドラマも小説も映画も垂れ流しています。 そして、そういうイデオロギーを腹一杯に詰め込んだ 「無垢な」若者たちが暴力をふるっているのです。(p.235)さらに、これ。 「人間は自由に生きる方がいい」とぼくは思います。 その方が人間のあり方が多様化する可能性があるからです。 けれども、それと同時に「人間をあまり自由にさせない方がいい」とも思います。 うっかり自由にしてしまうと、人間のあり方が全部同じになってしまうからです。さすが、内田先生!(拍手!)これだから、内田先生はやめられない!!(拍手・拍手!!)すごいです!!!(拍手・拍手・拍手!!!)そして、最後のシメは「文庫版のためのあとがき」から。 だから、前言撤回を恐れてはならない。 「ナントカである」と力強く断言したすぐあとに、 「あ、さっきのナシね」と言うことを逡巡してはならない。 「さっきのナシ」になったのは、 自分のさきほどの判断に誤りがあることがわかったからである。 他人に指摘されるより早くに自分の誤りに気づくのは、 誇るべきことではあっても、少しも非難されるべきことではない。(p.262)もう、本当に素晴らしい!
2009.07.04
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内田先生が「語り下ろし」に初めて挑んだ作品。 その経緯は、「文庫版のためのあとがき」に詳しい。 また、本著の「解説」は、あの銀色夏生さんが書いています。 何と豪華な取り合わせ! ところで、私は、読んでいて気になったページに、 どんどん付箋を貼っていくようにしているのですが、 おそらく、本著に貼ったその数は、 文庫本の中では、これまでの最高記録。例えば、こんなところに貼りました。 メディアは若者が「他者」に対して非寛容で排他的であるというふうに書きますが、 ぼくはむしろ自分の中の「自分らしからぬ部分」に対する 非寛容性と排他性の方を強く感じてしまうのです。 「私」って、ほんらいもっと宏大で、 もっと開放的なものだったのではありませんか。(p.20)最初から、さすがの鋭い指摘だと思いませんか?続いては、これ。 「告発する」ということは、「告発される」側の憎しみを引き受けることです。 「勝つ」ということは、「負けた」人間の嫉妬を受けることです。 「成功する」ということは「成功できなかった」人間の邪眼にみつめられることです。 こういうポジションを強いられているということは、 見方を変えて言えば、とても不幸なことだと思うのです。(p.58)普通、当然のように「前者」を良しと感じる者が多い中、さすがの「天の邪鬼」視点で、「それも、そうだな」と納得させられます。 ぼくがレイバーに明け暮れる人たちに言いたいことは、 リスクのないところに決定権はなく、 決定権のない人は責任の取りようがなく、 責任を取らない人間は「信義」の上に成立する社会関係には いつまで待ってもコミットすることができないだろうということです。(p.76)言うまでもなく「レイバー」とは「労働」であり、「コミットする」とは「関わり合う」ことです。 メディアでは人々が「個性的に」ということを実にお気楽に口にしていますが、 「個性的である」というのは、ある意味で、とてもきついことです。 誰からも承認されないし、誰からも尊敬されないし、誰からも愛されない。 そのことを覚悟した人間だけが「個性的であること」に賭金を置けるのですから。 ですから、ほんとうに個性的な人間というのは、 「オレは個性的な人間だ」と思い込んでいる人間の数の千分の一もいないのです。(p.108)これも蓋し名言!全くその通り!! 信号が青なので左右を確認しないで横断歩道を渡り、 信号無視の車にはねられて死んだ場合、 「信号無視をした車」に責任があるのは明らかです。 でも、責任が明らかになっても死んだ人間は生き返りません。 優先させるべきことは、後で責任は誰にあるかを明らかにすることではなく、 まず死なないことです。 事故を避けること、危険な目に遭わないこと、それがすべてに最優先する。 そういうものごとの順逆の筋目が乱れてはいないでしょうか。(p.122)本当にその通り。今、世間(マスコミって言った方がイイ?)では、何かあると、その責任者を見つけ出し、それを徹底的に糾弾することに躍起になってしまっているけれど、それって、意図してなのか、意図せずになのかは分かりませんが、本当にやるべきことを脇に置いやって、別のところに逃げている感じがします。 そして人間というのは、ほんとうに不思議なことですが、 ネガティヴな条件づけをされているときに、 それをどう突破するか創意工夫することを通じて 例外的な創造性を発揮するものなのです。(p.150)「ピンチがチャンス」ということですね。 こういう本を作るときの要諦というのも、 やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。 トピックは違っても、切り口はいつも同じ、というものを読者は求めていると思います。 (中略) ぼくは村上春樹と橋本治と矢作俊彦と村上龍と高橋源一郎のものは 新刊が出ると本屋に走っていって買いますけれど、 みんなほんとうに律儀に「いつも同じ」ことを書いているんですよね。 だから大好きです。(p.163)内田先生の著作を数多く読み、さらに、最近、村上さんの本を片っ端から読み始めた私には、とってもよく分かる! 自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、 それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、 その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが 日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。 自分の政治的見解に反対す人間の利益なんか、わしは知らんと言うような狭量な人間に 「国益」を語る資格はありません。(p.176)これも「凄いなぁ」と感心したところ。まさに、そういう境地ある人物でないと、「公人」ではなく「私人」なのでしょう。さて、付箋の数があまりに多いため、記事のボリュームが相当膨らんできたので、続きは『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(その2)に書くことにします。
2009.07.04
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エンディングは突然に訪れる。 映画がクライマックスシーンを迎え、最高潮に盛り上がっているところで、 突如として画面が暗転、それで終了という感じ。 そう、「The End」の文字すら一切出ないままに。 スクリーンは真っ暗。 そして、会場も真っ暗闇なままで、誰一人として席を立てない。 そんな暗闇の中で、観客は村上ワールドの残像に圧倒されたまま、 しばらくの間、呆然しながら時を過ごすことになる。読む者を、その意志の有無や軽重、深浅にかかわらず、容赦なく、自らの世界へと引きずり込んでしまう圧倒的な力。そこに展開する村上ワールドは、漠としながらも、確かな繋がりを持っている。本作品は、そのことを私に強く印象づけた。ストーリー展開からすると、本作品も一種のミステリー作品なのだろうが、当然のことながら、決して単なるエンターテイメント作品ではない。そこに描き出されている精神世界は、まさに「文学」。作家なら誰でもが、簡単に到達できるというような領域ではない。 でもそれは現実であるはずだった。 何故ならそれが僕の記憶している現実だからだ。 それを現実とみとめなくなったら、 僕の世界認識そのものが揺らいでしまうことになる。(p.316)「現実」と「非現実」の境界線の狭間を彷徨う僕。そして今、自分がどちら側にいるのかを決めることができるのは、自分自身だけしかいない。そう、例えば、今この瞬間の、ブログを書いている私についても、「非現実」の世界ではなく、「現実」の世界にいるのだと決められるのは、私自身だけなのだ。そして、この世界が、どんな形をしており、どんな風に見えるのかを、決めることが出来るのも私自身だけ。私が見て、感じて、生きているのは、あくまでも私自身の世界の中でのこと。他の人には、全く違ったように見え、全く違ったように感じられているのかも知れない。それどころか、全てのものは、ひょっとすると私自身のイメージにすぎず、本当は、そこには、何物も実体として存在していないのかも知れない。「夢の中」での出来事と、「現実」の出来事という風に、これまで区別していたものは、実は、どちらも、全て私自身がイメージとして作り出しているものなのかも知れない。こういう、私自身の中に、昔からあった感覚を、呼び起こし、明確にしてくれた『ダンス・ダンス・ダンス』。青春三部作を締めくくる作品である『羊をめぐる冒険』の続編ではあるものの、直接的関連はそれほど強固でなく、あくまでも後日談としての、独立した作品であった。
2009.07.04
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読んでみると、期待を遙かに上回る作品だった。 本作品は『羊をめぐる冒険』の続編に当たるもの。 そして、『羊…』は、野間文芸新人賞を獲得したほどの優れた作品なのだが、 それと比べてみても、本作品は格段にグレードアップしているのが実感できる。 また、私自身は『ノルウェイの森』は、まだ上巻しか読んでいないが、 それと比べてみても、グッと良くなっていると感じた。 もちろん、『海辺のカフカ』のレベルには、まだ到達していないものの、 それに確実に近づいていることが、はっきりと分かる出来映えである。『羊をめぐる冒険』が世に出たのが1982年8月、『ノルウェイの森』が1987年9月で、『ダンス・ダンス・ダンス』は1988年10月。そして、『海辺のカフカ』が2002年9月だから、私が、それらの作品から受けた印象や感覚というものは、とても辻褄が合う。つまり、村上さんは、年を経るごとに、着実にスケールアップ、そして、グレードアップしていっているということ。これで、ますます、今年5月に発売された『1Q84』を読むのが楽しみになってきた。でも、その前に、村上さんのこれまでに発表した長編小説は、全部読んでしまうつもり。 ***上巻を読み終えた段階で、ジェイは登場していない。鼠も登場していない。羊男は登場したけれど。そして、特別な耳を持つ女性の名前が、キキだと分かった。今、このキキを追って僕が動き、ストーリーが展開しているところ。でも、まだ実際には、キキは登場していない。しかし、キキと映画で共演していた、僕の中学時代の同級生・スター五反田君が登場。また、五反田君ともキキともつながりのあったコールガール・メイも登場するが、彼女の方は、登場後すぐに、何者かによって殺されてしまう。そして、この殺人事件の容疑者として、僕が警察で取り調べを受けるシーンは、何とも言えないほどの、とっても重たい雰囲気が、リアルによく伝わってくる。そんな僕の窮地を救ったのが、美少女・ユキの父親である作家・牧村拓。ユキの母親は、有名な写真家・アメだが、育児放棄状態で、かつ両親は離婚している。僕は、成り行き上、この哀れな(?)美少女の、しばしのお世話係に任命される。そんなユキは、特別な感性で、僕がドルフィン・ホテルで羊男に会ったことに気付いている。さらに、そのホテルの、眼鏡をかけた受付の女の子は、羊男と遭遇しかけた経験を持つ。この女の子も、今後の展開に大きく関わってきそうな感じがする。 ***さて、このお話の中にも、私の胸にグッと来るフレーズがいくつかあったので、それを、最後に書き留めておく。 世の中には誤解というものはない。 考え方の違いがあるだけだ。 それが僕の考え方だ。(p.26)スゴイの一語。そして、次は、フリーランスのライターとして、僕が自分のしている「美味しいものを食べさせる店を探してまわる仕事」について、ユキに語る部分。 そしてね、そういうところで紹介される店って、 有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。 需要と供給のバランスが崩れるからだよ。 それが僕らのやっていることだよ。 何かをみつけては、それらをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。 真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。 それを人々は情報と呼ぶ。(p.240)これも、深いなぁ。きっと、村上さん自身の思いを表現したんだろう。そして、最後は、五反田君が、彼のマンションの一室で、僕に語った言葉。これも、本当によく分かるんだなぁ……。 僕が真剣にそれを選び取ろうとすると、それは逃げていくんだ。 女にしても、役にしても。 向こうから来るものなら僕は最高に上手くこなせる。 でも自分から求めると、みんな僕の手の指の間からするっとにげていくんだ(p.303)
2009.07.03
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本来なら、今頃、『ノルウェイの森(下)』を読んでるはずだった。 なのに、違う作品を読んでいる。 何を読んでいるかというと、『ダンス・ダンス・ダンス(上)』。 青春三部作の締めくくり『羊をめぐる冒険(下)』の続編に当たる作品。 もちろん、『羊をめぐる冒険』は、とっても面白い作品だった。 その続編があるのなら、是非とも読んでみたいとも思っていた。 しかし、せっかく『ノルウェイの森(上)』を読み終えたところだ。 だったら、普通、どう考えたって、その続きを、まずは読もうとするだろう。しっかりと、その作品のイメージが残った状態で、その続きを読む。でないと、せっかく頭の中に広がっているイメージが、雲散霧消。たとえ、どんなに気になる作品があったとしても、とにかく、続きを読む。それが定石というものだ。それでも、気分転換のために、途中、違う作品を読むことがあるかも知れない。実際、私は、複数の本を同時並行で読むことが結構ある(時には4~5冊並行)。しかし、同じ作家の作品が、その中に混じることは、まずない。似たような世界観の作品を同時に読むと、頭の中で、話がこんがらがってしまうから。なのに、私は今、『ノルウェイの森(下)』ではなく、『ダンス・ダンス・ダンス(上)』を読んでいる。目の前に『ノルウェイの森(下)』があるにもかかわらずだ。もちろん、それには、深い理由がある。その理由は、目の前の『ノルウェイの森(下)』、外見は、どう見ても『ノルウェイの森(下)』なのだが、ページをめくると、その中には、違う世界が広がっているから。それは、『ノルウェイの森(上)』の世界。つまり、目の前の本、カバーは『ノルウェイの森(下)』だが、中身(本体)は『ノルウェイの森(上)』なのだ。ページをめくるまで、全く気付かなかった事実……。何かの手違いか、誰かのちょっとした悪戯心かによって、こんなことになってしまっている。しかも、これは、ネットで発注した本なので、交換するにも、新しいものを手に入れるにも、多少なりとも時間がかかる。というわけで、正真正銘の『ノルウェイの森(下)』が、私の手元に届くまで、しばらくの間待つということを強要されている最中。しかし、それまで、何も読まずに過ごすというのも何だかなぁ……。そして、我が家で待機中の『ダンス・ダンス・ダンス(上)』に手が伸びることになった。
2009.07.03
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さて、青春三部作を読み終えた私は、 いよいよ、村上さんの作品の中でも超有名な ベストセラー作品『ノルウェイの森』に取りかかった。 現在の村上春樹ブームの原点がここにあるはず。 しかし、読み進めると、ちょっと不思議な感じがした。 どんなところが不思議に感じたかというと、 とっても「フツー」なのである。 村上作品独特の「?」がない。そして、上巻を読み終えた現段階でも、いたって「フツー」。もちろん、登場人物は、それぞれに個性的なのだが、ストーリーとしては、普通によどみなく流れていく。阿美寮での夜の出来事(p.239~)も、幻想的ではあるが、決して「?」ではない。こんな風に感じてしまうのは、やはり、私が最初に出合った村上ワールドが、『海辺のカフカ』という作品だったからなのか。『羊をめぐる冒険』もなかなかの「?」な世界だったしなぁ……。まぁ、でも、後半に急展開ということもありうる。「?」を期待しながら、下巻へと突入!
2009.07.02
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